diff --git "a/synthdog/resources/corpus/jawiki.txt" "b/synthdog/resources/corpus/jawiki.txt" new file mode 100644--- /dev/null +++ "b/synthdog/resources/corpus/jawiki.txt" @@ -0,0 +1,100 @@ +アンパサンドは並立助詞を表す接続詞 "et" の合字を起源とする。現代のフォントでもTrebuchet MS など一部のフォントでは"et" の合字であることが容易にわかる字形を使用している。英語で教育を行う学校でアルファベットを復唱する場合、その文字自体が単語となる文字を用いて と訛っていき、この言葉は1837年までには英語の一般的な語法となった。アンドレ=マリアンペールがこの記号を彼の著作で使いこれが広く読まれたためこの記号が "Ampre's and" と呼ばれるようになったという誤った語源俗説がある。アンパサンドの起源は1世紀の古ローマ筆記体にまで遡ることができる。古ローマ筆記体ではE と T はしばしば合字として繋げて書かれていた。現代のイタリック体のアンパサンドはルネサンス期に発展した筆記体での et の合字に遡る。1455年のヨーロッパにおける印刷技術の発明以降印刷業者はイタリック体とローマ筆記体のアンパサンドの両方を多用するようになった。アンパサンドのルーツはローマ時代に遡るためラテンアルファベットを使用する多くの言語でアンパサンドが使用されるようになった。アンパサンドはしばしばラテンアルファベットの最後の文字とされることがあった。例えば1011年のの文字表がその例である。同様に、"&" は英語アルファベットの27番目の文字とされ、アメリカ合衆国やその他の地域でも、子供達はアンパサンドはアルファベットの最後の文字だと教えられていた。1863年の M. B. Moore の著書 "The Dixie Primer, for the Little Folks" にその一例を見ることができる。ジョージ・エリオットは、1859年に発表した小説の中で、Jacob Storey に次のセリフを語らせている。"He thought it had only been put to finish off th' alphabet like; though ampusand would ha' done as well, for what he could see." よく知られた童謡の は "X, Y, Z, and ampersand, All wished for a piece in hand" という歌詞で締めくくられる。アンパサンドはティロ式記号の et とは別のものである。ティロ式記号の et はアンパサンドと意味は同じだが数字のに似た形の記号である。両者はともに古代から使用され中世を通してラテン語の "et" を表すために使用された。しかしアンパサンドとティロ式記号の et はそれぞれ独立に発明されたものである。ラテン文字から発展した古アイルランド語の文字ではアイルランド語の "agus"を表すためにティロ式記号の et が使用されていた。今日はゲール文字の一部として主に装飾的な目的で使用されている。この文字はアイルランドにおけるキリスト教時代初期に修道院の影響によって書き文字に加わった可能性がある。日常的な手書きの場合欧米では小文字の に縦線を加えた形の単純化されたアンパサンドがしばしば使われる。またエプシロンの上下に縦線または点を付けたものもしばしば使われる。くだけた用法として、プラス記号がアンパサンドの代わりに使われることもある。また、プラス記号に輪を重ねたような、無声歯茎側面摩擦音を示す発音記号のようなものが使われることもある。ティロの速記にはがある。この文字はドイツのフラクトゥールで使われたほか、ゲール文字でも使用される。ギリシア文字ではが使われることがある。プログラミング言語ではC など多数の言語で AND 演算子として用いられる。以下は C の例。PHPでは、変数宣言記号($)の直前に記述することで、参照渡しを行うことができる。BASIC 系列の言語では文字列の連結演算子として使用される。codice_4 は codice_5 を返す。また主にマイクロソフト系では整数の十六進表記に codice_6 を用いcodice_7 のように表現する。SGML、XML、HTMLでは、アンパサンドを使ってSGML実体を参照する。 +広辞苑や大辞泉には次のように解説されている。『日本大百科事典』では、「言語」という語は多義である、と解説され、大脳のに蓄えられた《語彙と文法規則の体系》を指すこともあり、その体系を用いる能力としてとらえることもある、と解説され、一方では、抽象的に「すべての人間が共有する言語能力」を指すこともあるし、「個々の個別言語」を指すこともある、と解説されている。言語は、人間が用いる意志伝達手段であり、社会集団内で形成習得され、意志を相互に伝達することや、抽象的な思考を可能にし、結果として人間の社会的活動や文化的活動を支えている。言語には、文化の特徴が織り込まれており、共同体で用いられている言語の習得をすることによって、その共同体での社会的学習、および人格の形成をしていくことになる。ソシュールの研究が、言語学の発展の上で非常に重要な役割を果たしたわけであるが、ソシュール以降は、という用語で呼ばれるようになっている。と音韻形態素単語との間の結び付け方は社会的に作られている習慣である。2021年現在の言語学はソシュールの影響が下地にあるものの主として1950年代前後に始まり広がったチョムスキーによるものをはじめとする諸理論およびそれ以降のそれらへの修正あるいは反論に由来するものが多くを占めており普通の言語学の議論ではだけに拘ることはあまりしない。自然発生的にあるものとしての「自然」言語の他、近代以降、エスペラントなどの国際補助語など、人工言語も作られた。他にも言語にはさまざまな分類がある。口語口頭言語書記言語文語といった分類があるが重なる部分もありはっきり分類できるものでもない。また一例として「日本語対応手話」は一般の日本語の話し言葉や書き言葉と同一の言語の「視覚言語バージョン」であるが「日本手話」は一般の日本語とは異なる言語と考えられておりそちらは音声言語や文字言語とは異なる「視覚言語」ということになるなど分類は単純ではない。また屈折語膠着語孤立語といったような分類もある。詳細は言語類型論を参照。自然言語以外については人工言語形式言語コンピュータ言語などの各記事を参照。ジャック・デリダという、一般にポスト構造主義の代表的哲学者と位置づけられているフランスの哲学者は、の記事も参照。個別言語は、民族の滅亡や他言語による吸収によって使用されなくなることがある。このような言語は死語と呼ばれ、死語が再び母語として使用されたことは歴史上にただ一例、ヘブライ語の例しかない。しかし、ヘブライ語は自然に復活したわけでも完全に消滅していたわけでもなく、文章語として存続していた言語を、パレスチナに移住したユダヤ人たちが20世紀に入って日常語として人工的に復活させ、イスラエル建国とともに公用語に指定して完全に再生させたものである。このほかにも、古典アラビア語、ラテン語、古典ギリシャ語のように、日常語としては消滅しているものの文章語としては存続している言語も存在する。このほか、日常ではもはや用いられず、教典や宗教行為のみに用いられるようになった典礼言語も存在する。近年、話者数が非常に少ない言語が他言語に飲み込まれて消滅し、新たに死語と化すことが問題視されるようになり、消滅の危機にある言語を危機言語と呼ぶようになった。これは、世界の一体化が進み、交通網の整備や流通の迅速化、ラジオ・テレビといったマスメディアの発達によってそれまで孤立を保っていた小さな言語がそのコミュニティを維持できなくなるために起こると考えられている。より大きな視点では英語の国際語としての勢力伸張による他主要言語の勢力縮小、いわゆる英語帝国主義もこれに含まれるといえるが、すくなくとも21世紀初頭においては英語を母語とする民族が多数派を占める国家を除いては英語のグローバル化が言語の危機に直結しているわけではない。言語消滅は、隣接したより大きな言語集団との交流が不可欠となり、その言語圏に小言語集団が取り込まれることによって起きる。こうした動きは人的交流や文化的交流が盛んな先進国内においてより顕著であり、北アメリカやオーストラリアなどで言語消滅が急速に進み、経済成長と言語消滅との間には有意な相関があるとの研究も存在する。その他の地域においても言語消滅が進んでおり、2010年にはインド領のアンダマン諸島において言語が一つ消滅し、他にも同地域において消滅の危機にある言語が存在するとの警告が発せられた。言語がいつどのように生まれたのか生まれたのが地球上の一ヶ所か複数ヶ所かはわかっておらず複数の説が存在するが例えばデンマークの言語学者オットーイェスペルセンは以下のような説を唱えている。生物学的な観点から言語の起源を探ろうと���う試みもある。最近の分子生物学的研究によればFOXP2と名づけられている遺伝子に生じたある種の変異が言語能力の獲得につながった可能性がある。さらにその変異は現生人類とネアンデルタール人が分化する以前の30-40万年前にはすでに生じていたとの解析結果が発表されており現生人類が登場とともに既に言語を身につけていた可能性も考えられる。しかしFOXP2は言語能力を有しない他の動物の多くが持っていることFOXP2の変異が言語能力の獲得の必要条件であるとの直接的な証明はまだなされていないことなどに留意する必要がある。生物の場合には進化が止まった生物が現在も生き残っていると呼ばれるものがある。また一見似ている2種類が全然別の種類から進化していたというケースもある。言語にも同じような現象が起きておりその変化の速度は一定ではなく侵略交易移動等他民族との接触が多ければその時言語も大きく変化する。代表例として英語フランス語ルーマニア語アルバニア語アルメニア語等がある。逆に接触が少ないとほとんど変化しなくなる。代表例としてドイツ語アイスランド語ギリシャ語スラヴ語派バルト語派サンスクリット語等があり特にアイスランド語は基本文法が1000年前とほとんど変っていない。言語はもともといくつかの祖語から分化したと考えられており同一の祖語から発生したグループを語族と呼ぶ。語族はさらに語派語群そして言語と細分化されていく。世界の大多数の言語はなんらかの語族に属するがなかには現存する他の言語と系統関係が立証されておらず語族に分類できない孤立した言語も存在する。また地理文化的に近接する異なった系統の言語が相互に影響しあい顕著に類似する事例も見られこれは言語連合と呼ばれる。同一語族に属する言語群の場合、共通語彙から言語の分化した年代を割り出す方法も考案されている。一つの言語の言語史を作る場合、単語・綴り・発音・文法等から古代・中世・近代と3分割し、例えば等と呼ぶ。ある言語と他の言語が接触した場合、両言語の話者の交流が深まるにつれて様々な変化が発生する。これを言語接触という。言語接触によって、両言語には相手の言語から語彙を借用した借用語が発生するほか、交流が深まるにつれて商業や生活上の必要から混成言語が発生することがある。この混成言語は、初期にはピジン言語と呼ばれる非常に簡略化された形をとるが、やがて語彙が増え言語として成長してくると、クレオール言語という新しい言語となる。クレオール言語はピジン言語と比べ語彙も多く、何よりきちんと体系だった文法が存在しており、一個の独立した言語とみなして全く差し支えない。クレオール言語はピジン言語と違い、母語話者が存在するのも特徴である。中世の世界においてはしばしば文語と日常使用する言語との間には隔たりがみられなかには中世ヨーロッパにおけるラテン語のようにその土地の言葉と全く異なる言語を文章語として採用している世界も存在した。ラテン語は欧州において知識人の間の共通語として用いられルネサンスなどで大きな役割を果たしたがやがて印刷術の発展や宗教改革などによって各国において使用される日常言語が文語として用いられるようになった。この際それまで方言の連続体しか持たなかった各国においてその言語を筆記する標準的な表記法が定まっていき各国において国内共通語としての標準語が制定されるようになった。これは出版物などによって徐々に定まっていくものもあれば中央に公的な言語統制機関を置いて国家主導で標準語を制定するものもあったがいずれにせよこうした言語の整備と国内共通語の成立は国民国家を成立させるうえでの重要なピースとなっていった。一方で標準語の制定は方言連続体のその他の言語を方言とすることになり言語内での序列をつけることにつながった。最も新しい言語であり、また誕生する瞬間がとらえられた言語としては、ニカラグアの子供達の間で1970年代後半に発生したがある。これは、言語能力は人間に生得のものであるという考えを裏付けるものとなった。言語の数と範囲の不確定.現在世界に存在する言語の数は千数百とも数千とも言われる。1939年にアメリカのLH��レイは2796言語と唱え1979年にドイツのマイヤーが4200から5600言語と唱えており三省堂の言語学大辞典世界言語編では8000超の言語を扱っている。しかし、正確に数えることはほぼ不可能である。これは、未発見の言語や、消滅しつつある言語があるためだけではなく、原理的な困難があるためでもある。似ているが同じではないとするかの問題でもある。たとえば、旧ユーゴスラビアに属していたセルビア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロの4地域の言語は非常に似通ったものであり、学術的には方言連続体であるセルビア・クロアチア語として扱われる。また旧ユーゴスラビアの政治上においても国家統一の観点上、これらの言語は同一言語として扱われていた。しかし1991年からのユーゴスラビア紛争によってユーゴスラビアが崩壊すると、独立した各国は各地方の方言をそれぞれ独立言語として扱うようになり、セルビア語、クロアチア語、ボスニア語の三言語に政治的に分けられるようになった。さらに2006年にモンテネグロがセルビア・モンテネグロから独立すると、モンテネグロ語がセルビア語からさらに分けられるようになった。こうした、明確な標準語を持たず複数の言語中心を持つ言語のことを複数中心地言語と呼び、英語などもこれに含まれる。逆に中国においては北京語やそれを元に成立した普通話と上海語や広東語といった遠隔地の言語とは差異が大きく会話が成立しないほどであるが書き言葉は共通でありまたあくまでも中国語群には属していて対応関係が明確であるためこれら言語はすべて中国語内の方言として扱われている。同じ言語かどうかを判定する基準として相互理解性を提唱する考えがある。話者が相手の言うことを理解できる場合には同一言語理解できない場合には別言語とする。相互理解性は言語間の距離を伝える重要な情報であるがこれによって一つの言語の範囲を確定しようとすると技術的難しさにとどまらない困難に直面する。一つはAの言うことをBが聞き取れてもBの言うことをAが聞き取れないような言語差があることである。もう一つは同系列の言語が地理的な広がりの中で徐々に変化している場合にどこでいくつに分割すべきなのかあるいはまったく分割すべきでないのかを決められないことである。こうした困難に際しても、単一の基準を決めて分類していくことは、理屈の上では可能である。しかしあえて単一基準を押し通す言語学者は現実にはいない。ある集団をとするかには、政治的・文化的アイデンティティの問題が深く関係している。どのような基準を設けようと、ある地域で多くの賛成を得られる分類基準は、別の地域で強い反発を受けることになる。そうした反発は誤りだと言うための論拠を言語学はもっていないので、結局は慣習に従って、地域ごとに異なる基準を用いて分類することになる。言語と方言の区別について現在なされる説明は二つである。第一は言語と方言の区別にはなんら言語学的意味はないとする。第二のものはまずどの方言もそれぞれ言語だとする。その上である標準語に対して非標準語の関係にある同系言語を方言とする。標準語の選定は政治によるからこれもまたとする点で第一と同じである。この定義では言語を秤にかけて判定しているのではなく人々がその言語をどう思っているかを秤にかけているのである。ある言語同士が独立の言語同士なのか同じ言語の方言同士なのかの判定は非常に恣意的であるがその一方で明確に系統関係が異なる言語同士はたとえ共通の集団で話されていても方言同士とはみなされないという事実も有る。たとえば中国甘粛省に住む少数民族ユーグ族は西部に住むものはテュルク系の言語を母語とし東部に住むものはモンゴル系の言語を母語としている。両者は同じ民族だという意識があるがその言語は方言同士ではなく西部ユーグ語東部ユーグ語と別々の言語として扱われる。また海南島にすむ臨高人も民族籍上は漢民族であるがその言語は漢語の方言としては扱われず系統どおりタイカダイ語族の臨高語として扱われる。使用する文字は同言語かどうかの判断基準としてはあまり用いられない。言語は基本的にどの文字でも表記可能���ものでありある言語が使用する文字を変更することや二種以上の文字を併用することは珍しいことではなくまた文法などに文字はさほど影響を与えないためである。デーヴァナーガリー文字を用いるインドの公用語であるヒンディー語とウルドゥー文字を用いるパキスタンの公用語であるウルドゥー語はヒンドゥスターニー語として同一言語または方言連続体として扱われることがある。普段話されている言語の人口順位.上図の通り 最も話者の多い言語は中国語であるが公用語としている国家は中華人民共和国と中華民国それにシンガポールの3つの国家にすぎず世界において広く使用されている言語というわけではない。また共通語である普通話を含め 13個の方言が存在する。話者数2位の言語はスペイン語である。これはヨーロッパ大陸のスペインを発祥とする言語であるが、17世紀のスペインによる新大陸の植民地化を経て、南アメリカおよび北アメリカ南部における広大な言語圏を獲得した。2021年度においてスペイン語を公用語とする国々は21カ国にのぼる。さらにほぼ同系統の言語である5位のポルトガル語圏を合わせた新大陸の領域はラテンアメリカと呼ばれ、広大な共通言語圏を形成している。英語の話者人口は4位だが、公用語としては55か国と最も多くの国で話されている。さらに、英語はアメリカ合衆国やイギリスの公用語であるため世界で広く重要視されている。世界の一体化に伴い研究やビジネスなども英語で行われる場面が増え、非英語圏どうしの住民の交渉においても共通語として英語を使用する場合があるなど、英語の世界共通語としての影響力は増大していく傾向にある。英語に次ぐ国際語としては17世紀から19世紀まで西洋で最も有力な国際語であったフランス語が挙げられる。フランス語の話者は2億3000万人とトップ5にも入らないがフランス語を公用語とする国々はアフリカの旧フランス植民地を中心に29カ国にのぼる。話者数7位のアラビア語も広い共通言語圏を持つ言語である。アラビア語はクルアーンの言語としてイスラム圏全域に使用者がいるがとくに北アフリカから中東にかけて母語話者が多く公用語とする国々は23カ国にのぼっていてひとつのアラブ文化圏を形成している。ただしこれも文語であるフスハーと口語であるアーンミーヤに分かれておりアーンミーヤはさらに多数の方言にわかれている。国連の公用語は英語フランス語ロシア語中国語スペイン語アラビア語の6つであるがこれは安全保障理事会の常任理事国の言語に広大な共通言語圏を持つスペイン語とアラビア語を加えたものである。言語は国家を成立させるうえでの重要な要素でありカナダにおける英語とフランス語やベルギーにおけるオランダ語とフランス語のように異なる言語間の対立がしばしば言語戦争と呼ばれるほどに激化して独立問題に発展し国家に大きな影響を及ぼすことも珍しくない。東パキスタンのように西パキスタンの言語であるウルドゥー語の公用語化に反発してベンガル語を同格の国語とすることを求めたことから独立運動が起き最終的にバングラデシュとして独立したような例もある。こうした場合、言語圏別に大きな自治権を与えたり、国家の公用語を複数制定したりすることなどによって少数派言語話者の不満をなだめる政策はよく用いられる。言語圏に強い自治権を与える典型例はベルギーで、同国では1970年に言語共同体が設立され、数度の変更を経てフラマン語共同体、フランス語共同体、ドイツ語共同体の3つの言語共同体の併存する連邦国家となった。公用語を複数制定する例ではスイスが典型的であり、それまでドイツ語のみであった公用語が1848年の憲法によってドイツ語・フランス語・イタリア語の三公用語制となり、さらに1938年にはロマンシュ語が国語とされた。この傾向が特に強いのはインドであり、1956年以降それまでの地理的な区分から同系統の言語を用いる地域へと州を再編する、いわゆる政策を取っている。国家における言語の構造は公用語-共通語-民族語の三層の構造からなっている。もっとも公用語と共通語また三層すべてが同じ言語である場合はその分だけ層の数は減少する。日本を例にとれば、各地方ではその地方の方言を使っている。つまり、同じ地方のコミュニティ内で通用する言語を使用している。これが他地方から来た人を相手にする場合となると、いわゆる標準語を使用することとなる。日本では他に有力な言語集団が存在しないため、政府関係の文書にも日本標準語がそのまま使用される。つまり、共通語と公用語が同一であるため、公用語-方言の二層構造となっている。公用語と共通語は分離していない国家も多いがアフリカ大陸の諸国家においてはこの三層構造が明確にあらわれている。これらの国においては政府関係の公用語は旧宗主国の言語が使用されている。学校教育もこの言語で行われるが民族語とかけ離れた存在であることもあり国民の中で使用できる層はさほど多くない。この穴を埋めるために各地域においては共通語が話されている。首都がある地域の共通語が強大化し国の大部分を覆うようになることも珍しくない。しかし文法の整備などの遅れや国内他言語話者の反対公用語の使用能力がエリート層の権力の源泉となっているなどの事情によって共通語が公用語化はされないことがほとんどである。その下に各民族の民族語が存在する。詳細は心理言語学及び、神経言語学を参照言語機能は基本的にヒトに固有のものであるため言語の研究には少数の例外を除き動物モデルを作りにくい。そのため脳梗塞などで脳の局所が破壊された症例での研究や被験者に2つの単語を呈示しその干渉効果を研究するなどの心理学的研究が主になされてきたが1980年代後半より脳機能イメージング研究が手法に加わり被験者がさまざまな言語課題を行っているときの脳活動を視覚化できるようになった。言語に関する脳の領域.古典的なブローカ領域、ウェルニッケ領域のほか、シルヴィウス裂を囲む広い範囲にわたっている。脳梗塞などで各部が損傷されると、それぞれ違ったタイプの失語が出現する。例えば左前頭前野付近の損傷で生じるブローカ失語は運動失語であり、自発語は非流暢性となり復唱、書字も障害される。左側頭葉付近の障害で生じるウェルニッケ失語は感覚失語であり自発語は流暢であるが、言語理解や復唱が障害され、文字による言語理解も不良である。ほとんどの右利きの人では単語文法語彙などの主要な言語機能は左半球優位である。しかし声の抑揚(プロソディ)の把握比喩の理解については右半球優位であると言われている。文字の認識には左紡錘状回、中・下後頭回が関与するが、漢字(表意文字)とひらがな(表音文字)で活動する部位が異なると言われている。ヒトの発達における言語機能の獲得.これも多方面から研究されている。個人の言語能力は、読字障害、ウィリアムズ症候群、自閉症などのように全体的な知的能力とは乖離することがあり、個体発生やヒトの進化における言語の起源などにヒントを与えている。また、ヒトは環境の中で聴取する音声から自力で文法などの規則を見出し学習する機能を生得的に備えているため、特に教わらなくても言語を学習できるとする生得論という考えも存在する。最近の近赤外線分光法を用いた研究において生後2から5日の新生児が逆再生よりも順再生の声を聞いたほうがあるいは外国語より母国語を聞いたときの方が聴覚皮質の血流増加が大きかったと報告されており出産前から母体内で言語を聴いていることが示唆される。 +日本語は日本国内やかつての日本領だった国そして日本人同士の間で使用されている言語。日本は法令によって公用語を規定していないが法令その他の公用文は全て日本語で記述され各種法令において日本語を用いることが規定され学校教育においてはの教科として学習を行う等事実上日本国内において唯一の公用語となっている。使用人口について正確な統計はないが日本国内の人口及び日本国外に住む日本人や日系人日本がかつて統治した地域の一部住民など約1億3千万人以上と考えられている。統計によって前後する場合もあるがこの数は世界の母語話者数で上位10位以内に入る人数である。日本で生まれ育ったほとんどの人は日本語を母語とする。日本語の文法体系や音韻体系を反映する手話として日本語対応手話がある。2019年4月現在インターネット上の言語使��者数は英語中国語スペイン語アラビア語ポルトガル語マレー語/インドネシア語フランス語に次いで8番目に多い。2021年9月単語検索ツールWordtipsは世界各国で語学学習をするに当たりどの言語が最も人気があるかをGoogleキーワードプランナーを利用し調査。アメリカカナダオーストラリアニュージーランドといった英語圏を中心に日本語が最も学びたい言語に選ばれた。日本語の音韻は、を除いて母音で終わる開音節言語の性格が強く、また標準語を含め多くの方言がモーラを持つ。アクセントは高低アクセントである。なお元来の古い大和言葉では原則として文はの語順で構成される。修飾語は被修飾語の前に位置する。また名詞の格を示すためには語順や語尾を変化させるのでなく文法的な機能を示す機能語。語彙は古来の大和言葉。待遇表現の面では文法的語彙的に発達した敬語体系があり叙述される人物どうしの微妙な関係を表現する(「待遇表現」の節参照)。日本語は地方ごとに多様な方言がありとりわけ琉球諸島で方言差が著しい。表記体系はほかの諸言語と比べて極めて複雑かつ柔軟性の高さが特徴である。漢字。音韻はの存在無声化母音語の組み立てに伴って移動する高さアクセントなどの特徴がある。日本語は主に日本国内で使用される。話者人口についての調査は国内国外を問わずいまだないが日本の人口に基づいて考えられることが一般的である。日本国内に法令上日本語を公用語ないし国語と定める直接の規定はない。しかし法令は日本語で記されており裁判所法においてはとして教えられている。日本では、テレビやラジオ、映画などの放送、小説や漫画、新聞などの出版の分野でも、日本語が使われることがほとんどである。国外のドラマや映画が放送される場合でも、基本的には日本語に訳し、字幕を付けたり声を当てたりしてから放送されるなど、受け手が日本語のみを理解することを当然の前提として作成される。原語のまま放送・出版されるものも存在するが、それらは外国向けに発表される前提の論文、もしくは日本在住の外国人、あるいは原語の学習者など限られた人を対象としており、大多数の日本人に向けたものではない。日本国外では、主として、中南米などの地域では、日本語教育を受けた人々の中に、現在でも日本語を記憶して話す人がいる。台湾では先住民の異なる部族同士の会話に日本語が用いられることがあるだけでなく、宜蘭クレオールなど日本語とタイヤル語のクレオール言語も存在している。また、パラオのアンガウル州では歴史的経緯から日本語を公用語の一つとして採用しているが、現在州内には日本語を日常会話に用いる住民は存在せず、象徴的なものに留まっている。日本国外の日本語学習者は2015年調査で365万人にのぼり中華人民共和国の約95万人インドネシアの約75万人大韓民国の約56万人オーストラリアの約36万人台湾の約22万人が上位となっている。地域別では東アジア東南アジアで全体の学習者の約8割を占めている。日本語教育が行われている地域は137か国地域に及んでいる。また日本国内の日本語学習者はアジア地域の約16万人を中心として約19万人に上っている。の範囲を本土方言のみとした場合、琉球語が日本語と同系統の言語になり両者は日琉語族を形成する。琉球列島」とする場合もありこのような場合は日本語はという位置づけにされる。日本語の系統は明らかでなく1963年や1978年の書物ではと記述された。学問的にどの系統だとも断言できないので言語学的にはしばしばと分類されることが多い。アルタイ諸語に属するとする説は、明治時代末から特に注目されてきた。その根拠として、古代の日本語が立たないこと、一種の母音調和が見られることなどが挙げられる。古代日本語に上記の特徴が見られることは、日本語が類型としての言語である根拠とされる。また、日本語にはトルコ系言語の基礎語彙と似ている部分もあって、などがある。アルタイ諸語に属するとされるそれぞれの言語の親族関係を支持する学者のほうがまだ多いが、最近のイギリスではアルタイ諸語の親族関係を否定する学者も現れている。アイヌ語は語順において日本語と似る。ただし文法形態は類型論的に異なる抱���語に属し音韻構造も有声無声の区別がなく閉音節が多いなどの相違がある。基礎語彙の類似に関する指摘もあるが例は不充分である。一般に似ているとされる語の中には日本語からアイヌ語への借用語が多く含まれるとみられる。朝鮮語とは語順や文法構造で類似点が非常に多い。音韻の面でも固有語において語頭に流音が立たないこと一種の母音調和が見られることなど共通の類似点がある。世界の諸言語の広く比較した場合広くとされている。ただし閉音節や子音連結が存在する有声無声の区別が無いといった相違もある。基礎語彙は共通点もあるがかなり相違する面もある。なお基礎語彙に関連して朝鮮半島の死語である高句麗語とは数詞など重要な基礎語彙でも似るものがあると新村出などから指摘されている。中国語との関係に関しては日本語は中国の漢字を借用語として広範囲に取り入れており語彙のうち漢字を用いたものに関して大きな影響を受けている。だが語順も文法も音韻も大きく異なるので系統論的には別系統の言語とされる。南方系のオーストロネシア語族とは音韻体系や語彙に関する類似も指摘されている。ドラヴィダ語族との関係を主張する説もあるがこれを認める研究者は少ない。大野晋は日本語が語彙文法などの点でタミル語と共通点を持つとの説を唱えるが比較言語学の方法上の問題から批判が多いまた、レプチャ語・ヘブライ語などとの同系論も過去に存在したが、これに関してはほとんど疑似科学の範疇に収まる。日本語話者は普通、「いっぽんと称している。日本語のモーラは、大体は仮名に即して体系化することができる。は、音声学上は後続の音によって などと変化するが、日本語の話者自らは同一音と認識しているので、音韻論上は1種類のモーラとなる。日本語ではほとんどのモーラが母音で終わっている。それゆえに日本語は開音節言語の性格が強いということができる。もっとも特殊モーラのには母音が含まれない。モーラの種類は、以下に示すように111程度存在する。ただし、研究者により数え方が少しずつ異なる。「が行」の音は、語中語尾では鼻音(いわゆる鼻濁音)の「」音となる場合があるが、「が行」と「」との違いは何ら弁別の機能を提供せず、単なる異音どうしに過ぎない。そこで、「」を除外して数える場合、モーラの数は103程度となる。これ以外に、「外来語の表記」第1表にもある「シェ」「チェ」「ツァ・ツェ・ツォ」「ティ」「ファ・フィ・フェ・フォ」その他の外来音を含める場合は、さらにまた数が変わってくる。このほか、外来語の表記において用いられる「ヴァ・ヴィ・ヴ・ヴェ・ヴォ」については、バ行として発音されることが多いものの、独立した音韻として発音されることもあり、これらを含めるとさらに増えることとなる。なお、五十音図は、音韻体系の説明に使われることがしばしばあるが、上記の日本語モーラ表と比べてみると、少なからず異なる部分がある。五十音図の成立は平安時代にさかのぼるものであり、現代語の音韻体系を反映するものではないことに注意が必要である。母音はの文字で表される。音韻論上は日本語の母音はこの文字で表される5個であり音素記号では以下のように記される。一方、音声学上は、基本の5母音は、それぞれに近い発音と捉えられる。̈ は中舌寄り、̠ は後寄り、̜ は弱めの円唇、̹ は強めの円唇、˕ は下寄り、˔ は上寄りを示す補助記号である。日本語のは半狭母音 と半広母音 の中間音である。日本語の「う」は東京方言では英語などの のような円唇後舌母音より少し中舌よりでそれに伴い円唇性が弱まり中舌母音のような張唇でも円唇でもないニュートラルな唇かそれよりほんの僅かに前に突き出した唇で発音される半後舌微円唇狭母音である。これは舌と唇の動きの連関で前舌母音は張唇中舌母音は平唇ニュートラル(ただしニュートラルは現行のIPA表記では非円唇として張唇と同じカテゴリーに入れられている)後舌母音は円唇となるのが自然であるという法則に適っている。しかし「う」は母音融合などで見られるように音韻上は未だに円唇後舌狭母音として機能する。また[] という表記も行われる。円唇性の弱さを強調するため���、 を使うこともあるが、これは本来朝鮮語に見られる、iのような完全な張唇でありながら、u のように後舌の狭母音を表す記号であり、円唇性が減衰しつつも残存し、かつ後舌よりやや前よりである日本語の母音は東京方言よりも奥舌で、唇も丸めて発音し、 に近い。音韻論上、という特定の音があるわけではなく、長母音 の後半部分に相当するものである。を と発音する話者も多い。単語末や無声子音の間に挟まれた位置において、などはそれぞれ と発音されることがある。ただしアクセント核がある拍は無声化しにくい。個人差もあり、発話の環境や速さ、丁寧さによっても異なる。また方言差も大きく、たとえば近畿方言ではほとんど母音の無声化が起こらない。は前後の母音に近似の鼻母音になる。子音は、音韻論上区別されているものとしては、現在の主流学説によれば「か・さ・た・な・は・ま・や・ら・わ行」の子音、濁音「が・ざ・だ・ば行」の子音、半濁音「ぱ行」の子音である。音素記号では以下のように記される。ワ行とヤ行の語頭子音は、音素 u と音素 i の音節内の位置に応じた変音であるとする解釈もある。特殊モーラの「ん」と「っ」は、音韻上独立の音素であるという説と、「ん」はナ行語頭子音 n の音節内の位置に応じた変音、「っ」は単なる二重子音化であるとして音韻上独立の音素ではないという説の両方がある。一方音声学上は子音体系はいっそう複雑な様相を呈する。主に用いられる子音を以下に示す。基本的に「か行」は 「さ行」は ( を用いる地方話者もある)「た行」は 「な行」は 「は行」は 「ま行」は 「や行」は 「だ行」は 「ば行」は 「ぱ行」は を用いる。「ら行」の子音は語頭では 「ん」の後のら行は英語の に近い音を用いる話者もある。一方「あらっ?」というときのように語中語尾に現れる場合は舌をはじく もしくは となる。標準日本語およびそれの母体である首都圏方言。外来音と2モーラで発音する話者も多い。の子音は語頭では破裂音の を用いるが語中では鼻音の を用いることが一般的だった。現在ではこの を用いる話者は減少しつつあり代わりに語頭と同じく破裂音を用いるか摩擦音の を用いる話者が増えている。「ざ行」の子音は、語頭や「ん」の後では破擦音(破裂音と摩擦音を合わせた などの音)を用いるが、語中では摩擦音( など)を用いる場合が多い。いつでも破擦音を用いる話者もあるが、「手術(しゅじゅつ)」などの語では発音が難しいため摩擦音にするケースが多い。なお、「だ行」の「ぢ」「づ」は、一部方言を除いて「ざ行」の「じ」「ず」と同音に帰しており、発音方法は同じである。母音のように記すが、外来語などにしか使われない。の子音は ではなく硬口蓋音 である。また、に無声硬口蓋破裂音 を用いる話者もある。そのほかの後ろでのハ行の音の変化をより体系的合理的に表しうる。また、のように記すは、外来語で用いることがある。促音。文末などでは を用いる話者が多い。日本語は、一部の方言を除いて、音。となる。共通語のアクセントでは、単語の中で音の下がる場所があるか、あるならば何モーラ目の直後に下がるかを弁別する。音が下がるところを下がり目またはアクセントの滝といい、音が下がる直前のモーラをアクセント核または下げ核という。たとえばにはアクセント核がない。アクセント核は1つの単語には1箇所もないか1箇所だけあるかのいずれかであり、一度下がった場合は単語内で再び上がることはない。アクセント核を で表すと、2拍語には ○○、○、○ の3種類、3拍語には ○○○、○○、○○、○○ の4種類のアクセントがあり、拍数が増えるにつれてアクセントの型の種類も増える。アクセント核が存在しないものを平板型といい、第1拍にアクセント核があるものを頭高型、最後の拍にあるものを尾高型、第1拍と最後の拍の間にあるものを中高型という。頭高型・中高型・尾高型をまとめて起伏式または有核型と呼び、平板型を平板式または無核型と呼んで区別することもある。また共通語のアクセントでは単語や文節のみの形で発音した場合のように表記する場合があるがこれは1文節を1つの句として発音するときのもので句音調���アクセント核の両方を同時に表記したものである。日本語ではと考えるほうが、より適当である。上記の文は、いずれもと誤った作文をすることがある。また、日本語文では、主述構造とは別に、が付く。たとえば、などの文では、「象は」はいずれも題目を示している。4の「象は」は「象が」に言い換えられるもので、事実上は文の主語を兼ねる。しかし、5以下は「象が」には言い換えられない。5は「象を」のことであり、6は「象に」のことである。さらに、7の「象は」は何とも言い換えられないものである(「象の」に言い換えられるともいう)。これらの「象は」という題目は、「が」「に」「を」などの特定の格を表すものではなく、「私は象について述べる」ということだけをまず明示する役目を持つものである。これらの文では、題目である。大野晋は、はそれぞれ未知と既知を表すと主張した。たとえばにおいては前者はとは言えない。日本語と同様に題述構造の文を持つ言語は、東アジアなどに分布する。たとえば、中国語・朝鮮語・ベトナム語・マレー語・タガログ語にもこの構造の文が見られる。上述のを唱えた。三上によればという文において「甲ガ」「乙ニ」「丙ヲ」はいずれも「紹介シ」という行為を説明するために必要な要素であり優劣はない。重要なのはそれらをまとめる述語「紹介シタ」の部分である。「甲ガ」「乙ニ」「丙ヲ」はすべて述語を補足する語(補語)となる。いっぽう英語などでの文で主語は述語と人称などの点で呼応しており特別の存在である。この考え方に従えば英語式の観点からはとしかいいようがない文をうまく説明することができる。たとえばなどはいわゆる主語のない文である。しかし日本語の文では述語に中心があり補語を必要に応じて付け足すと考えれば上記のいずれも省略のない完全な文と見なして差し支えない。今日の文法学説では主語という用語概念は作業仮説として有用な面もあるためなお一般に用いられている。一般的には格助詞を伴う文法項を主語と見なす。ただし三上の説に対する形で日本語の文に主語が必須であると主張する学説は生成文法や鈴木重幸らの言語学研究会グループなど主語に統語上の重要な役割を認める学派を除いて少数派である。森重敏は日本語の文においても主述関係が骨子であるとの立場を採るがこの場合の主語述語も一般に言われるものとはかなり様相を異にしている。現在一般的に行われている学校教育における文法では主語述語を基本とした伝統的な文法用語を用いるのが普通だが教科書によっては主語を特別扱いしないものもある。文を主語述語から成り立つと捉える立場でもこの2要素だけでは文の構造を十分に説明できない。主語述語にはさらに修飾語などの要素が付け加わってより複雑な文が形成される。文を成り立たせるこれらの要素をと称する。学校文法については載せていない教科書が主流である。なおも厳密にいえばそれだけでは成分にはなり得ず常に被修飾語と連文節を構成して文の成分になる。学校図書を除く四社の教科書では単文節でできているものをと呼んでいる。以下、学校文法の区分に従いつつ、それぞれの文の成分の種類と役割とについて述べる。文を成り立たせる基本的な成分である。ことに述語は、文をまとめる重要な役割を果たす。「雨が降る。」「本が多い。」「私は学生だ。」などは、いずれも主語・述語から成り立っている。教科書によっては、述語を文のまとめ役として最も重視する一方、主語については修飾語と併せて説明するものもある(前節「主語廃止論」参照)。用言に係る修飾語である。などの成分は欠いてもそれほど事実の伝達に支障がない。ここから前者は文の根幹をなすとして補充成分と称し後者に限って修飾成分と称する説もある。国語教科書でもこの2者を区別して説明するものがある。体言に係る修飾語であると呼んでいる。「疲れたので動けない。」「買いたいが金がない。」の「疲れたので」「買いたいが」のようにあとの部分との論理関係を示すものである。また「今日は晴れた。だからピクニックに行こう。」「君は若い。なのになぜ絶望するのか。」における「だから」「なのに」のように��の文とその文とをつなぐ成分も接続語である。品詞分類では常に接続語となる品詞を接続詞とする。のように、他の部分に係ったり、他の部分を受けたりすることがないものである。係り受けの観点から定義すると、結果的に、独立語には感動・呼びかけ・応答・提示などを表す語が該当することになる。品詞分類では、独立語としてのみ用いられる品詞は感動詞とされる。名詞や形容動詞語幹なども独立語として用いられる。現行の学校文法では英語にあるようなは前置詞とともに付け加えられた修飾語と考えられる。一方日本語ではのように文型であると解釈される。鈴木重幸鈴木康之らはであるとし文の基本成分として認めている。「明日学校で運動会がある。」の「明日」「学校で」など出来事や有様の成り立つ状況を述べるために時や場所原因や目的(「雨だから」(「体力向上のために」など)を示す文の成分のことを「状況語」とも言う(鈴木重幸『日本語文法形態論』高橋太郎他『日本語の文法』他)。学校文法では「連用修飾語」に含んでいるが(連用)修飾語が述語の表す内的な属性を表すのに対して状況語は外的状況を表す「とりまき」ないしは「額縁」の役目を果たしている。状況語は出来事や有様を表す部分の前に置かれるのが普通であり主語の前に置かれることもある。なお「状況語」という用語はロシア語スペイン語中国語(中国語では「状語」と言う)などにもあるが日本語の「状況語」と必ずしも概念が一致しているわけではなく修飾語を含んだ概念である。日本語では修飾語はつねに被修飾語の前に位置する。の修飾語である。修飾語が長大になっても位置関係は同じでたとえばという短歌は冒頭からに係る長い修飾語である。法律文や翻訳文などでも長い修飾語を主語述語の間に挟み文意を取りにくくしていることがしばしばある。たとえば日本国憲法前文の一節にとあるが、主語と主語・述語が隣り合うのとは対照的である。もっとも、修飾語が後置される英語でも、修飾関係の分かりにくい文が現れることがある。次のような文は「袋小路文」() と呼ばれる。この場合日本語の文ではなのかを検討しなければならなくなる。名詞や動詞形容詞といったを付けて述語にもなる。動詞形容詞形容動詞も修飾語にもなれば述語にもなる。もっとも副詞は多く連用修飾語として用いられまた連体詞は連体修飾語に接続詞は接続語に感動詞は独立語にもっぱら用いられるが必ずしも特定の品詞が特定の文の成分に1対1で対応しているわけではない。では、それぞれの品詞の特徴を形作るものは何かということが問題になるが、これについては、さまざまな説明があり、一定しない。俗に、事物を表す単語が名詞、動きを表す単語が動詞、様子を表す単語が形容詞などといわれることがあるが、例外がいくらでも挙がり、定義としては成立しない。橋本進吉は品詞を分類するにあたり単語の表す意味には踏み込まず主として形式的特徴によって品詞分類を行っている。橋本の考え方は初学者にも分かりやすいため学校文法もその考え方に基づいている。学校文法では語のうちなどそれだけで文節を作り得るものを自立語とする。なお日本語では自立語の後に接辞や付属語を次々につけ足して文法的な役割などを示すため言語類型論上は膠着語に分類される。自立語は活用のないものと活用のあるものとに分けられる。自立語で活用のないもののうち主語になるものを名詞とする。名詞のうち代名詞数詞を独立させる考え方もある。一方主語にならず単独で連用修飾語になるものを副詞連体修飾語になるものを連体詞(副体詞)接続語になるものを接続詞独立語としてのみ用いられるものを感動詞とする。副詞連体詞についてはそれぞれ一品詞とすべきかどうかについて議論がありさらに細分化する考え方や他の品詞に吸収させる考え方などがある。自立語で活用のあるもののうち、命令形のあるものを動詞、命令形がなく終止・連体形がで終わるものを形容詞とする。形容動詞を一品詞として認めることについては、時枝誠記や鈴木重幸など、否定的な見方をする研究者もいる。付属語も、活用のないものと、活用のあるものとに分けられる。付属語で活用の��いものを助詞と称する。などの太字部分はすべて助詞である。助詞は名詞について述語との関係。付属語で活用のあるものを助動詞と称する。などの太字部分はすべて助動詞である。助動詞の最も主要な役割は動詞名詞および動詞・形容詞・形容動詞は、それが文中でどのような成分を担っているかを特別の形式によって表示する。名詞の場合「が」「を」「に」などの格助詞を後置することで動詞との関係(格)を示す。語順によって格を示す言語ではないため日本語は語順が比較的自由である。すなわちなどは強調される語は異なるがいずれも同一の内容を表す文でしかも正しい文である。主な格助詞とその典型的な機能は次の通りである。このように、格助詞は、述語を連用修飾する名詞が述語とどのような関係にあるかを示すなど、上記に収まらない機能を担う場合も多い。格助詞のうち、などの格助詞は、話し言葉においても脱落しない。題述構造の文では、特定の格助詞がの付き方は、以下のようにそれぞれの格助詞によって異なる。格助詞は、下に来る動詞が何であるかに応じて、必要とされる種類と数が変わってくる。たとえば、格が必要である。ところが格はなくとも文は不完全な印象はない。名詞が格助詞を伴ってさまざまな格を示すのに対し、用言および助動詞は、語尾を変化させることによって、文中のどの成分を担っているかを示したり、時制・相などの情報や文の切れ続きの別などを示したりする。この語尾変化をという。学校文法では、口語の活用語について、6つの活用形を認めている。以下、動詞・形容詞・形容動詞の活用形を例に挙げる。一般に終止形は述語に用いられる。「(選手が球を)打つ。」「(この子は)強い。」「(消防士は)勇敢だ。」など。連用形は文字通り連用修飾語にも用いられる。「強く(生きる。)」「勇敢に(突入する。)」など。ただし「選手が球を打ちました。」の「打ち」は連用形であるが連用修飾語ではなくこの場合は述語の一部である。このように活用形と文中での役割は1対1で対応しているわけではない。仮定形は、文語では已然形と称する。口語のは「已のごとく命令形が存在する。動詞の活用は種類が分かれている。口語の場合は、五段活用・上一段活用・下一段活用・カ行変格活用の5種類である。ある言語の語彙体系を見渡して特定の分野の語彙が豊富であるとか別の分野の語彙が貧弱であるとかを決めつけることは一概にはできない。日本語でもたとえばといわれるがこれは人々の直感から来る評判という意味以上のものではない。実際に、旧版によって分野ごとの語彙量の多寡を比べた結果によれば、名詞のうちなどを表す語彙のほうが多いことになる。ただし、これも、他の言語と比較して多いということではなく、この結果がただちに日本語の語彙の特徴を示すことにはならない。日本語の人称はあまり固定化していない。現代語・標準語の範疇としては、一人称は「わたくし・わたし・あたし・ぼく・おれ・うち・自分・我々」など、二人称は「あなた・あんた・おまえ・おめえ・てめえ・きみ」などが用いられる。方言・近代語・古語まで含めるとこの限りではなく、文献上では他にも「あたくし・あたい・わし・わい・わて・我が輩・おれ様・おいら・われ・わー・わん・朕・わっし・こちとら・てまえ・小生・それがし・拙者・おら」などの一人称、「おまえさん・てめえ・貴様・おのれ・われ・お宅・なんじ・おぬし・その方・貴君・貴兄・貴下・足下・貴公・貴女・貴殿・貴方(きほう)」などの二人称が見つかる。上の事実は、現代英語の一人称・二人称代名詞がほぼ のみであることと比較すれば、特徴的ということができる。もっとも、日本語においても、本来の人称代名詞は、一人称にのように二人称に転用することが可能であるのも、日本語の人称語彙が一般名詞的であることの現れである。なお敬意表現の観点から目上に対しては二人称代名詞の使用が避けられる傾向がある。たとえば「あなたは何時に出かけますか」とは言わず「何時にいらっしゃいますか」のように言うことが普通である。音象徴語彙(オノマトペ).また、音象徴語、いわゆるオノマトペの語彙量も���本語には豊富である(オノマトペの定義は一定しないが、ここでは、擬声語・擬音語のように耳に聞こえるものを写した語と、擬態語のように耳に聞こえない状態・様子などを写した語の総称として用いる)。擬声語は、人や動物が立てる声を写したものである。擬態語の中で、心理を表す語を特に擬情語と称することもある。オノマトペ自体は多くの言語に存在する。たとえば猫の鳴き声は、英語でなどである。しかしながら、その語彙量は言語によって異なる。日本語のオノマトペは欧米語や中国語の3倍から5倍存在するといわれ、とりわけ擬態語が多く使われるとされる。新たなオノマトペが作られることもある。「オノマトペの例である。漫画などの媒体ではとりわけ自由にオノマトペが作られる。漫画家の手塚治虫は漫画を英訳してもらったところと記している。また漫画出版社社長の堀淵清治もアメリカで日本漫画を売るに当たり独特の擬音を訳すのにスタッフが悩んだことを述べている。日本語の語彙を品詞ごとにみると、圧倒的に多いものは名詞である。その残りのうちで比較的多いものは動詞である。の収録語の場合、名詞が82.37%、動詞が9.09%、副詞が2.46%、形容動詞が2.02%、形容詞が1.24%となっている。このうち、とりわけ目を引くのは形容詞・形容動詞の少なさである。かつて柳田國男はこの点を指摘して「形容詞饑饉」と称した。英語の場合、『オックスフォード英語辞典』第2版では、半分以上が名詞、約4分の1が形容詞、約7分の1が動詞ということであり、英語との比較の上からは、日本語の形容詞が僅少であることは特徴的といえる。ただし、これは日本語で物事を形容することが難しいことを意味するものではなく、他の形式による形容表現が多く存在する。例えばを伴う形式などが形容表現に用いられる。もともと少ない形容詞を補う主要な形式は形容動詞である。漢語外来語の輸入によっての形式の形容動詞が増大した。上掲ので名詞扱いになっている漢語外来語のうちにも形容動詞の用法を含むものが多数存在する。現代の二字漢語であり二字漢語の7%程度が形容動詞として用いられていることが分かる。それぞれの語はばらばらに存在しているのではなく意味用法などの点で互いに関連をもったグループを形成している。これを語彙体系と称する。日本語の語彙自体一つの大きな語彙体系といえるがその中にはさらに無数の語彙体系が含まれている。以下体系をなす語彙の典型的な例として指示語色彩語彙親族語彙を取り上げて論じる。日本語ではものを指示するために用いる語彙は一般にと呼ばれる4系列をなしている。これらの指示語にまたがるためここでは語彙体系の問題として論じる。「こそあど」の体系は、伝統的には「近称・中称・遠称・不定(ふじょう、ふてい)称」の名で呼ばれた。明治時代に、大槻文彦は以下のような表を示している。ここで、「近称」は最も近いもの、「中称」はやや離れたもの、「遠称」は遠いものを指すとされた。ところが、「そこ」などを「やや離れたもの」を指すと考えると、遠くにいる人に向かって「そこで待っていてくれ」と言うような場合を説明しがたい。また、自分の腕のように近くにあるものを指して、人に「そこをさすってください」と言うことも説明しがたいなどの欠点がある。佐久間鼎(かなえ)は、この点を改め、「こ」は「わ(=自分)のなわばり」に属するもの、「そ」は「な(=あなた)のなわばり」に属するもの、「あ」はそれ以外の範囲に属するものを指すとした。すなわち、体系は下記のようにまとめられた。このように整理すれば、上述ので表されることになる。この説明方法は、現在の学校教育の国語でも取り入れられている。とはいえ、すべての場合を佐久間説で割り切れるわけでもない。たとえば、道でと言うときも同様である。また、目の前にあるものを直接指示する場合とも、で示すものである。このように、指示語の意味体系は、詳細に見れば、なお研究の余地が多く残されている。なお、指示の体系は言語によって異なる。不定称を除いた場合、3系列をなす言語は日本語(こ、そ、あ)や朝鮮語(、、)などがある。一方、英語(、)や中国語(、)など��2系列をなす。日本人の英語学習者が「これ、それ、あれ」に「、、」を当てはめて考えることがあるが、「」は文脈指示の代名詞で系列が異なるため、混用することはできない。日本語で色彩を表す語彙(色彩語彙)は古来「アカ」「シロ」「アヲ」「クロ」の4語が基礎となっている。「アカ」は明るい色(明しの語源か)「シロ」は顕(あき)らかな色(白しの語源か)「アヲ」は漠然とした色(淡しの語源か)「クロ」は暗い色(暗しの語源か)を総称した。今日でもこの体系は基本的に変わっていない。葉の色空の色顔色などをいずれも「アオ」と表現するのはここに理由がある。文化人類学者のバーリンとケイの研究によれば種々の言語で最も広範に用いられている基礎的な色彩語彙は「白」と「黒」であり以下「赤」「緑」が順次加わるという。日本語の色彩語彙もほぼこの法則に合っているといってよい。このことは日本語を話す人々が4色しか識別しないということではない。特別の色を表す場合にはなど植物その他の一般名称を必要に応じて転用する。ただしこれらは基礎的な色彩語彙ではない。日本語の親族語彙は、比較的単純な体系をなしている。英語の基礎語彙で、同じ親から生まれた者を「」「」の2語のみで区別するのに比べれば、日本語では、男女・長幼によって「アニ」「アネ」「オトウト」「イモウト」の4語を区別し、より詳しい体系であるといえる(古代には、年上のみ「アニ」「アネ」と区別し、年下は「オト」と一括した)。しかしながら、たとえば中国語の親族語彙と比較すれば、はるかに単純である。中国語では、父親の父母を「」「」、母親の父母を「」「」と呼び分けるが、日本語では「ジジ」「ババ」の区別しかない。中国語では父の兄弟を「」「」、父の姉妹を「」、母の兄弟を「」、母の姉妹を「」などというが、日本語では「オジ」「オバ」のみである。「オジ」「オバ」の子はいずれも「イトコ」の名で呼ばれる。日本語でも、「伯父(はくふ)」「叔父(しゅくふ)」「従兄(じゅうけい)」「従姉(じゅうし)」などの語を文章語として用いることもあるが、これらは中国語からの借用語である。親族語彙を他人に転用する虚構的用法が多くの言語に存在する。例えば朝鮮語と呼びかける。日本語にもこの用法があり赤の他人をと呼ぶのが失礼になりうるのと同じく失礼にさえなるという。一族内で一番若い世代から見た名称で自分や他者を呼ぶことがあるのも各国語に見られる用法である。例えば、父親が自分自身を指してと呼んだりする用法である。この用法は、中国語・朝鮮語・モンゴル語・英語・フランス語・イタリア語・デンマーク語・チェコ語などを含め諸言語にある。日本語の語彙を出自から分類すれば、大きく、和語・漢語・外来語、およびそれらが混ざった混種語に分けられる。このように、出自によって分けた言葉の種類をという。和語は日本古来の大和言葉、漢語は中国渡来の漢字の音を用いた言葉、外来語は中国以外の他言語から取り入れた言葉である。もっとも、和語とされる「ウメ。和語は日本語の語彙の中核部分を占める。などの助詞や、助動詞の大部分など、文を組み立てるために必要な付属語も和語である。一方抽象的な概念や社会の発展に伴って新たに発生した概念を表すためには漢語や外来語が多く用いられる。和語の名称がすでにある事物を漢語や外来語で言い換えることもある。などと称するのはその例である。このような語種の異なる同義語には微妙な意味ニュアンスの差異が生まれとりわけ和語には易しいまたは卑俗な印象漢語には公的で重々しい印象外来語には新しい印象が含まれることが多い。一般に、和語の意味は広く、漢語の意味は狭いといわれる。たとえば、「しづむ(しずめる)」という1語の和語に、「沈」「鎮」「静」など複数の漢語の造語成分が相当する。「しづむ」の含む多様な意味は、「沈む」「鎮む」「静む」などと漢字を用いて書き分けるようになり、その結果、これらの「しづむ」が別々の語と意識されるまでになった。2字以上の漢字が組み合わさった漢語の表す意味はとりわけ分析的である。たとえば、「弱」という造語成分は、「脆」「貧」「軟」「薄」などの成分と結合することにより、「脆弱」「貧弱」「軟弱」「薄弱」のように分析的・説明的な単語を作る(「語彙史」の節の「漢語の勢力拡大」および「語彙の増加と品詞」を参照)。漢語は、「学問」「世界」「博士」などのように、古く中国から入ってきた語彙が大部分を占めるのは無論であるが、日本人が作った漢語(和製漢語)も古来多い。現代語としても、「国立」「改札」「着席」「挙式」「即答」「熱演」など多くの和製漢語が用いられている。漢語は音読みで読まれることから、字音語と呼ばれる場合もある。外来語は、もとの言語の意味のままで用いられるもの以外に、日本語に入ってから独自の意味変化を遂げるものが少なくない。英語の "claim" はといえば料理の種類を指す。外来語を組み合わせて、と言う。日本語の語彙は、語構成の面からは単純語と複合語に分けることができる。単純語は、のように複数の語種が合わさった語は、語構成の面からはすべて複合語ということになる。日本語では、限りなく長い複合語を作ることが可能である。などの語例がまれにある。接辞は、複合語を作るために威力を発揮する。たとえば、「感」は、「音感」「語感」「距離感」「不安感」など漢字2字・3字からなる複合語のみならず、「透け感」「懐かし感」「しゃきっと感」「きちんと感」など動詞・形容詞・副詞との複合語を作り、さらには「『昔の名前で出ています』感」(=昔の名前で出ているという感じ)のように文であったものに下接して長い複合語を作ることもある。日本語の複合語は難しい語でも表記を見れば意味が分かる場合が多い。たとえば英語のであると推測できる。これは表記に漢字を用いる言語の特徴である。現代の日本語は漢字平仮名片仮名を用いて常用漢字現代仮名遣いに基づいて表記されることが一般的である。アラビア数字やローマ字なども必要に応じて併用される。正書法の必要性を説く主張やその反論がしばしば交わされてきた。平仮名・片仮名は、2017年9月現在では以下の46字ずつが使われる。このうち、の字が存在し、その他にも変体仮名がある。漢字は日常生活において必要とされる2136字の常用漢字と子の名づけに用いられる861字の人名用漢字が法で定められている。実際にはこれら以外にも一般に通用する漢字の数は多いとされ日本産業規格として約6300字を電算処理可能な漢字として挙げている。なお漢字の本家である中国においても同様の基準は存在し現代漢語常用字表によりとして1000字が定められている。これに加え現代漢語通用字表ではさらに3500字が追加されている。一般的な文章では、上記の漢字・平仮名・片仮名を交えて記すほか、アラビア数字・ローマ字なども必要に応じて併用する。基本的には、漢語には漢字を、和語のうち概念を表す部分(名詞や用言語幹など)には漢字を、形式的要素(助詞・助動詞など)や副詞・接続詞の一部には平仮名を、外来語(漢語以外)には片仮名を用いる場合が多い。公的な文書では特に表記法を規定している場合もあり、民間でもこれに倣うことがある。ただし、厳密な正書法はなく、表記のゆれは広く許容されている。文章の種類や目的によって、などの表記がありうる。多様な文字体系を交えて記す利点として、単語のまとまりが把握しやすく、速読性に優れるなどの点が指摘される。日本語の単純な音節構造に由来する同音異義語が漢字によって区別され、かつ字数も節約されるという利点もある。計算機科学者の村島定行は、日本語では、表意文字と表音文字の二重の文章表現ができるため、記憶したり、想起したりするのに手がかりが多く、言語としての機能が高いと指摘している。一方で中国文学者の高島俊男は、漢字の表意性に過度に依存した日本語の文章は、他の自然言語に類を見ないほどの同音異義語を用いざるを得なくなり、しばしば実用の上で支障を来たすことから、言語としてと評している。歴史上、漢字を廃止して、仮名またはローマ字を国字化しようという主張もあったが、広く実行されることはなかった。今日では漢字・平仮名・片仮名の交ぜ書きが標準的表記の地位をえている。日本語の表記体系は中央語を書き表す���めに発達したものであり、方言の音韻を表記するためには必ずしも適していない。たとえば、東北地方ではを のように発音するが、この両語を通常の仮名では書き分けられない。もっとも、方言は書き言葉として用いられることが少ないため、実際上に不便を来すことは少ない。岩手県気仙方言について山浦玄嗣により文法形式を踏まえた正書法が試みられているというような例もある。ただしこれは実用のためのものというよりは学術的な試みのひとつである。琉球語は伝統的な表記法では次のように記す。この表記法では、たとえば、がどちらも と発音されるように、かな表記と発音が一対一で対応しない場合が多々ある。表音的に記せば、 のようになるところである。漢字表記の面では、地域文字というべきものが各地に存在する。たとえば、名古屋市の地名などと読まれる国字で、中国地方ほかで定着しているという。文は目的や場面などに応じてさまざまな異なった様式を採る。この様式のことを書き言葉ではと称する。日本語では、とりわけ文末の助動詞・助詞などに文体差が顕著に現れる。このことは、などの名称に典型的に表れている。それぞれの文体・話体の差は大きいが、日本語話者は、複数の文体・話体を常に切り替えながら使用している。日本語の文体は、大きく普通体の2種類に分かれる。日本語話者は日常生活で両文体を適宜使い分ける。日本語学習者は、初めに丁寧体を、次に普通体を順次学習することが一般的である。普通体は相手を意識しないかのような文体であるため独語体と称し、丁寧体は相手を意識する文体であるため対話体と称することもある。普通体と丁寧体の違いは次のように現れる。普通体では文末に名詞形容動詞副詞などが来る場合にはと呼ぶこともある。丁寧体では、文末に名詞・形容動詞・副詞などが来る場合には、助動詞を避けることがある。談話の文体は話し手の性別年齢職業場面など位相の違いによって左右される部分が大きい。という丁寧体は話し手の属性によってたとえば次のような変容がある。このように異なる言葉遣いのそれぞれを位相語と言い、それぞれの差を位相差という。物語作品やメディアにおいて位相が極端にステレオタイプ化されて現実と乖離したりあるいは書き手などが仮想的。日本語では待遇表現が文法的語彙的な体系を形作っている。とりわけ相手に敬意を示す言葉において顕著である。と言われることがあるが、日本と同様に敬語が文法的・語彙的体系を形作っている言語としては、朝鮮語・ジャワ語・ベトナム語・チベット語・ベンガル語・タミル語などがあり、尊敬・謙譲・丁寧の区別もある。朝鮮語ではたとえば動詞「の形を持つ。敬語体系は無くとも、敬意を示す表現自体は、さまざまな言語に広く観察される。相手を敬い、物を丁寧に言うことは、発達した社会ならばどこでも必要とされる。そうした言い方を習得することは、どの言語でも容易でない。金田一京助などによれば、現代日本語の敬語に特徴的なのは次の2点である。朝鮮語など他の言語の敬語ではたとえば自分の父親はいかなる状況でも敬意表現の対象であり他人に彼のことを話す場合も「私のお父様は…」という絶対的敬語を用いるが日本語では自分の身内に対する敬意を他人に表現することは憚られ「私の父は…」のように表現しなければならない。ただし皇室では絶対敬語が存在し皇太子は自分の父親のことを「天皇陛下は…」と表現する。どんな言語も敬意を表す表現を持っているが、日本語や朝鮮語などはそれが文法体系となっているため、表現・言語行動のあらゆる部分に、高度に組織立った体系が出来上がっている。そのため、敬意の種類や度合いに応じた表現の選択肢が予め用意されており、常にそれらの中から適切な表現を選ばなくてはならない。以下日本語の敬語体系および敬意表現について述べる。日本語の敬語体系は一般に大きく尊敬語謙譲語丁寧語に分類される。文化審議会国語分科会は2007年2月に「敬語の指針」を答申しこれに丁重語および美化語を含めた5分類を示している。尊敬語は、動作の主体を高めることで、主体への敬意を表す言い方である。動詞になどが用いられる。語によ���ては、特定の尊敬語が対応するものもある。たとえば、である。謙譲語は古代から基本的に動作の客体への敬意を表す言い方であり現代ではなどが用いられる。語によっては特定の謙譲語が対応するものもある。たとえばである。なお、「夜も更けてまいりました」の「まいり」など、謙譲表現のようでありながら、誰かを低めているわけではない表現がある。これは、「夜も更けてきた」という話題を丁重に表現することによって、聞き手への敬意を表すものである。宮地裕は、この表現に使われる語を、特に「丁重語」と称している。丁重語にはほかに「いたし(マス)」「申し(マス)」「存じ(マス)」「小生」「小社」「弊社」などがある。文化審議会の「敬語の指針」でも、「明日から海外へまいります」の「まいり」のように、相手とは関りのない自分側の動作を表現する言い方を丁重語としている。丁寧語は、文末を丁寧にすることで、聞き手への敬意を表すものである。動詞・形容詞の終止形で終わる常体に対して、名詞・形容動詞語幹などにを付けた形等の丁寧語を用いた文体を敬体という。一般に目上の人には丁寧語を用い同等目下の人には丁寧語を用いないといわれる。しかし実際の言語生活に照らして考えればこれは事実ではない。母が子を叱るときと丁寧語を用いる場合もある。丁寧語が用いられる多くの場合は敬意や謝意の表現とされるが稀に一歩引いた心理的な距離をとろうとする場合もある。日本語で敬意を表現するためには、文法・語彙の敬語要素を知っているだけではなお不十分であり、時や場合など種々の要素に配慮した適切な表現が必要である。これを敬意表現(敬語表現)ということがある。婉曲表現の一部は、敬意表現としても用いられる。たとえば、相手に窓を開けてほしい場合は、命令表現によらずに、とだけ言って、窓を開けてほしい気持ちを含意することもある。日本人が商取引で「考えさせてもらいます」という場合は拒絶の意味であると言われる。英語でも (誘ってくれてありがとう)とは誘いを断る表現である。また京都では京都弁で帰りがけの客にその気がないのに「ぶぶづけ(お茶漬け)でもあがっておいきやす」と愛想を言うとされる(出典は落語「京のぶぶづけ」「京の茶漬け」よるという)。これらは相手の気分を害さないように工夫した表現という意味では広義の敬意表現と呼ぶべきものであるがその呼吸が分からない人との間に誤解を招くおそれもある。日本語には多様な方言がみられそれらはいくつかの方言圏にまとめることができる。どのような方言圏を想定するかは区画するために用いる指標によって少なからず異なる。1967年の相互理解可能性の調査より、関東地方出身者に最も理解しにくい方言はでした。この調査は、12〜20秒の長さ、135〜244の音素の老人の録音に基づいており、42名若者が聞いて翻訳した。受験者は関東地方で育った慶應大学の学生でした。東条操は、全国で話されている言葉を大きく東部方言・西部方言・九州方言および琉球方言に分けている。またそれらは、北海道・東北・関東・八丈島・東海東山・北陸・近畿・中国・雲伯とする立場と、独立言語として琉球語とする立場とがある。また金田一春彦は近畿四国を主とする内輪方言関東中部中国九州北部の一部を主とする中輪方言北海道東北九州の大部分を主とする外輪方言沖縄地方を主とする南島方言に分類した。この分類はアクセントや音韻文法の特徴が畿内を中心に輪を描くことに着目したものである。このほか幾人かの研究者により方言区画案が示されている。一つの方言区画の内部も変化に富んでいる。たとえば、奈良県は近畿方言の地域に属するが、十津川村や下北山村周辺ではその地域だけ東京式アクセントが使われ、さらに下北山村池原にはまた別体系のアクセントがあって東京式の地域に取り囲まれている。香川県観音寺市伊吹町。これらは特に顕著な特徴を示す例であるが、どのような狭い地域にも、その土地としての言葉の体系がある。したがって、ものである。一般に、方言差が話題になるときには、文法の東西の差異が取り上げられることが多い。東部方言と西部方言との間には、およそ次のよう���違いがある。否定辞に東で「ナイ」、西で「ン」を用いる。完了形には、東で「テル」を、西で「トル」を用いる。断定には、東で「ダ」を、西で「ジャ」または「ヤ」を用いる。アワ行五段活用の動詞連用形は、東では「カッタ(買)」と促音便に、西では「コータ」とウ音便になる。形容詞連用形は、東では「ハヤク(ナル)」のように非音便形を用いるが、西では「ハヨー(ナル)」のようにウ音便形を用いるなどである。方言の東西対立の境界は、画然と引けるものではなく、どの特徴を取り上げるかによって少なからず変わってくる。しかし、おおむね、日本海側は新潟県西端の糸魚川市、太平洋側は静岡県浜名湖が境界線とされることが多い。糸魚川西方には難所親不知があり、その南には日本アルプスが連なって東西の交通を妨げていたことが、東西方言を形成した一因とみられる。日本語のアクセントは、方言ごとの違いが大きい。日本語のアクセント体系はいくつかの種類に分けられるが、特に広範囲で話され話者数も多いのは東京式アクセントと京阪式アクセントの2つである。東京式アクセントは下がり目の位置のみを弁別するが、京阪式アクセントは下がり目の位置に加えて第1拍の高低を弁別する。一般にはアクセントの違いは日本語の東西の違いとして語られることが多いが、実際の分布は単純な東西対立ではなく、東京式アクセントは概ね北海道、東北地方北部、関東地方西部、甲信越地方、東海地方の大部分、中国地方、四国地方南西部、九州北東部に分布しており、京阪式アクセントは近畿地方・四国地方のそれぞれ大部分と北陸地方の一部に分布している。すなわち、近畿地方を中心とした地域に京阪式アクセント地帯が広がり、その東西を東京式アクセント地域が挟む形になっている。日本語の標準語・共通語のアクセントは、東京の山の手言葉のものを基盤にしているため東京式アクセントである。九州西南部や沖縄の一部には型の種類が2種類になっている二型アクセントが分布し、宮崎県都城市などには型の種類が1種類になっている一型アクセントが分布する。また、岩手県雫石町や山梨県早川町奈良田などのアクセントは、音の下がり目ではなく上がり目を弁別する。これら有アクセントの方言に対し、東北地方南部から関東地方北東部にかけての地域や、九州の東京式アクセント地帯と二型アクセント地帯に挟まれた地域などには、話者にアクセントの知覚がなく、どこを高くするという決まりがない無アクセントの地域がある。これらのアクセント大区分の中にも様々な変種があり、さらにそれぞれの体系の中間型や別派なども存在する。と発音される。このように、ある地方で同じアクセントの型にまとめられる語群は、他の地方でも同じ型に属することが一般的に観察される。この事実は日本の方言アクセントが過去の同一のアクセント体系から分かれ出たことを意味する。服部四郎はこれを原始日本語のアクセントと称しこれが分岐し互いに反対の方向に変化して東京式と京阪式を生じたと考えた。現在有力な説は院政期の京阪式アクセントもある。発音の特徴によって本土方言を大きく区分すると表日本方言裏日本方言薩隅ととんで島根県出雲地方を中心とした地域に分布する。その特徴はイ段とウ段の母音に中舌母音を用いることとエが狭くイに近いことである。関東のうち千葉県や埼玉県東部などと越後中部佐渡富山県石川県能登の方言は裏日本式と表日本式の中間である。また薩隅式方言は大量の母音脱落により閉音節を多く持っている点で他方言と対立している。薩隅方言以外の九州の方言は薩隅式と表日本式の中間である。音韻の面では、母音のを、東日本、北陸、出雲付近では中舌寄りで非円唇母音の または で、西日本一般では奥舌で円唇母音の で発音する。また、母音は、東日本や北陸、出雲付近、九州で無声化しやすく、東海、近畿、中国、四国では無声化しにくい。またこれとは別に、近畿・四国(・北陸)とそれ以外での対立がある。前者は京阪式アクセントの地域であるが、この地域ではアクセント以外にも、「木」を「きい」、「目」を「めえ」のように一音節語を伸ばして二拍に発音し、また「赤い��→「あけー」のような連母音の融合が起こらないという共通点がある。また、西日本(九州・山陰・北陸除く)は母音を強く子音を弱く発音し、東日本や九州は子音を強く母音を弱く発音する傾向がある。母音の数は奈良時代およびそれ以前には現在よりも多かったと考えられる。橋本進吉は江戸時代の上代特殊仮名遣いの研究を再評価し記紀や『万葉集』などの万葉仮名において「きひみけへめこそとのもよろ」の表記に2種類の仮名が存在することを指摘した(甲類乙類と称する。「も」は『古事記』のみで区別される)。橋本はこれらの仮名の区別は音韻上の区別に基づくもので特に母音の差によるものと考えた。橋本の説は後続の研究者らによって「母音の数がアイウエオ五つでなく合計八を数えるもの」という8母音説と受け取られ定説化した(異説として服部四郎の6母音説などがある)。8母音の区別は平安時代にはなくなり現在のように5母音になったとみられる。なお上代日本語の語彙では母音の出現の仕方がウラル語族やアルタイ語族の母音調和の法則に類似しているとされる。は になった。現代でも引き続きこのように発音されている。平安時代以降、語中・語尾の「は行」音が「わ行」音に変化するハ行転呼が起こった。たとえば、「かは(川)」「かひ(貝)」「かふ(買)」「かへ(替)」「かほ(顔)」は、それまで であったものが、 になった。「はは(母)」も、キリシタン資料では「faua」(ハワ)と記された例があるなど、他の語と同様にハ行転呼が起こっていたことが知られる。このように、を唇を丸めて発音するのに対し、関東では唇を丸めずに発音するが、これも唇音退化の例ととらえることができる。の発音はともに になっていた。が同一に帰した。3が同音になったのは11世紀末頃1と2が同音になったのは12世紀末頃と考えられている。藤原定家のではの仮名の書き分けが問題になっている。当時の発音は、1は現在の のようであった。3が現在のように になったのは江戸時代であったとみられる。18世紀のではと発音しないように説いている。2が現在のように 以降、の記述からすれば18世紀中葉頃とみられる。のように書くこともある。に当たる であったことも分かっている。関東では室町時代末にすでに の発音であったがこれはやがて西日本にも広がり19世紀中頃には京都でも一般化した。現在は東北や九州などの一部に が残っている。平安時代から発音を簡便にするために単語の音を変える音便現象が少しずつ見られるようになった。とするなどのイ音便の例も見出される。鎌倉時代以降になると音便は口語では盛んに用いられるようになった。鎌倉時代・室町時代には連声と前の部分とが連声を起こすと、となった。また、この時代には、 の音が になったになった。京都では、一般の話し言葉では17世紀に開合の区別は失われた。しかし方言によっては今も開合の区別が残っているものもある。漢語が日本で用いられるようになると、古来の日本に無かった合拗音が一般化した。ただし一部の方言には今も残っている。漢語は平安時代頃までは原語である中国語に近く発音され日本語の音韻体系とは別個のものと意識されていた。入声韻尾の 鼻音韻尾の なども原音にかなり忠実に発音されていたと見られる。鎌倉時代には漢字音の日本語化が進行し はウに統合され韻尾の と の混同も13世紀に一般化し撥音の に統合された。入声韻尾の は開音節化してキクと発音されるようになり も などの語形が記録されている。江戸時代に入ると開音節の形が完全に一般化した。近代以降には、外国語の音の影響で新しい音が使われ始めた。比較的一般化したのように、これまで無かった音は、書き言葉では書き分けても、実際に発音されることは少ない。動詞の活用種類は平安時代には9種類であった。すなわち四段上一段上二段下一段下二段カ変サ変ナ変ラ変に分かれていた。これが時代とともに統合され江戸時代には5種類に減った。上二段は上一段に下二段は下一段にそれぞれ統合されナ変は四段に統合された。これらの変化は古代から中世にかけて個別的に起こった例もあるが顕著になったのは江戸時代に入ってからのことである。ただしナ変は近代に入ってもなお使用されることがあった。このうち最も規模の大きな変化は二段活用の一段化である。二段→一段の統合は室町時代末期の京阪地方ではまだまれであった」のようにの1段だけで活用するようになった。しかもこの変化の過程では終止連体形の合一が起こっているため鎌倉室町時代頃には前後の時代とは異なった活用の仕方になっている。次に時代ごとの活用を対照した表を掲げる。形容詞は、平安時代にはのシク活用が存在した。この区別は、終止・連体形の合一とともに消滅し、形容詞の活用種類は一つになった。今日では文法用語の上で四段活用が五段活用(実質的には同じ)と称され已然形が仮定形と称されるようになったものの活用の種類および活用形は基本的に江戸時代と同様である。かつての日本語には、係り結びと称される文法規則があった。文中の特定の語を「ぞ」「なむ」「や」「か」「こそ」などの係助詞で受け、かつまた、文末を連体形(「ぞ」「なむ」「や」「か」の場合)または已然形(「こそ」の場合)で結ぶものである(奈良時代には、「こそ」も連体形で結んだ)。係り結びをどう用いるかによって、文全体の意味に明確な違いが出た。たとえば、「山里は、冬、寂しさ増さりけり」という文において、「冬」という語を「ぞ」で受けると、「山里は冬ぞ寂しさ増さりける」(『古今集』)という形になり、「山里で寂しさが増すのは、ほかでもない冬だ」と告知する文になる。また仮に、「山里」を「ぞ」で受けると、「山里ぞ冬は寂しさ増さりける」という形になり、「冬に寂しさが増すのは、ほかでもない山里だ」と告知する文になる。ところが、中世には、などの係助詞は次第に形式化の度合いを強め、単に上の語を強調する意味しか持たなくなった。そうなると、係助詞を使っても、文末を連体形または已然形で結ばない例も見られるようになる。また、逆に、係助詞を使わないのに、文末が連体形で結ばれる例も多くなってくる。こうして、係り結びは次第に崩壊していった。今日の口語文には、規則的な係り結びは存在しない。ただし、のような形で化石的に残っている。活用語のうち四段活用以外の動詞形容詞形容動詞および多くの助動詞は平安時代には終止形と連体形とが異なる形態を採っていた。たとえば動詞は「対面す。」(終止形)と「対面する(とき)」(連体形)のようであった。ところが係り結びの形式化とともに上に係助詞がないのに文末を連体形止め(「対面する。」)にする例が多く見られるようになった。たとえば『源氏物語』にはなどの言い方があるが、本来ならばの形で終止すべきものである。このような例は中世には一般化した。その結果動詞形容詞および助動詞は形態上連体形と終止形との区別がなくなった。形容動詞は終止形連体形活用語尾がともにとなっている。このことは用言の活用に連体形終止形の両形を区別すべき根拠の一つとなっている。文語の終止形が化石的に残っている場合もある。文語の助動詞といった形で使われている。今日、のような語形で用いられるようになった。これらの可能動詞は、江戸時代前期の上方でも用いられ、後期の江戸では普通に使われるようになった。従来の日本語にもなどの可能動詞が出来上がったものと考えられる。近代以降、とりわけ大正時代以降には、この語法を四段動詞のみならず一段動詞にも及ぼす、いわゆるという類である。この語法は、地方によっては早く一般化し、第二次世界大戦後には全国的に顕著になっている。受け身の表現において人物以外が主語になる例は近代以前には乏しい。もともと日本語の受け身表現は自分の意志ではどうにもならないにとある例などは受け身表現と解することもできるがむしろ自然の状態を観察して述べたものというべきものである。一方のような言い方は古くは存在しなかったと見られる。これらの受け身は状態を表すものではなく事物が人から働き掛けを受けたことを表すものである。式の受け身は英語などの欧文脈を取り入れる中で広く用いられるようになったと見られる。明治時代にはのような欧文風の受け身が用いられている。漢字(中国語の語彙)が日本語の中に入り始め���のはかなり古く文献の時代にさかのぼると考えられる。今日和語と扱われる「ウメ(梅)」「ウマ(馬)」なども元々は漢語からの借用語であった可能性もあるが上古漢字の場合馬と梅の発音は違う。異民族が中国をよく支配してから漢語の発音は変わっていた。中国の文物思想の流入や仏教の普及などにつれて漢語は徐々に一般の日本語に取り入れられていった。鎌倉時代最末期のの見出し語でも漢語はなお25%ほどに止まっている。漢字がよく使われるようになったのは幕末から明治時代にかけてである。その他、西洋の文物を漢語により翻訳したなどと言っていたという。漢字は今もよく使っている。雑誌調査では、延べ語数・異なり語数ともに和語を上回り、全体の半数近くに及ぶまでになっている。漢字を除き他言語の語彙を借用することは古代にはそれほど多くなかった。このうち梵語の語彙は多く漢語に取り入れられた後に仏教と共に日本に伝えられた。なども梵語由来であるとされる。西洋語が輸入され始めたのは、中世にキリシタン宣教師が来日した時期以降である。室町時代には、ポルトガル語からなどのスペイン語が用いられるようになった。また江戸時代には蘭学などの興隆とともになどのオランダ語が伝えられた。幕末から明治時代以後には、英語を中心とする外来語が急増した。などという英語が多く出てくる。このような語のうち、日本語として定着した語も多い。第二次世界大戦が激しくなるにつれて外来語を禁止または自粛する風潮も起こったが戦後はアメリカ発の外来語が爆発的に多くなった。現在では報道交通機関通信技術の発達により新しい外来語が瞬時に広まる状況が生まれている。雑誌調査では異なり語数で外来語が30%を超えるという結果が出ており現代語彙の中で欠くことのできない存在となっている。漢語が日本語に取り入れられた結果、名詞・サ変動詞・形容動詞の語彙が特に増大することになった。漢語は活用しない語であり、本質的には体言として用いることができた。漢語により厳密な概念を簡潔に表現することが可能になった。一般に和語は一語が広い意味で使われる。たとえばなどの形容動詞によって厳密に表現することができるようになった。外来語は、漢語ほど高い造語力を持たないものの、漢語と同様に、特に名詞・サ変動詞・形容動詞の部分で日本語の語彙を豊富にした。「インキ」「バケツ」「テーブル」など名詞として用いられるほか、「する」を付けて「スケッチする」「サービスする」などのサ変動詞として、また、「だ」をつけて「ロマンチックだ」「センチメンタルだ」などの形容動詞として用いられるようになった。漢語外来語の増加によって形容詞と形容動詞の勢力が逆転した。元来和語には形容詞形容動詞ともに少なかったが数の上では形容詞が形容表現の中心であり形容動詞がそれを補う形であった。でも名詞42.5%動詞44.6%形容詞5.3%形容動詞5.1%であった。ただし一方で漢語外来語に由来する名詞サ変動詞なども増えているため語彙全体から見ればなお形容詞形容動詞の割合は少ない。形容詞の造語力は今日ではほとんど失われており近代以降のみ確例のある新しい形容詞は「甘酸っぱい」「黄色い」「四角い」「粘っこい」などわずかにすぎない。一方形容動詞は今日に至るまで高い造語力を保っている。特に「科学的だ」「人間的だ」など接尾語「的」を付けた語の大多数や「エレガントだ」「クリーンだ」など外来語に由来するものは近代以降の新語である。しかも新しい形容動詞の多くは漢語外来語を語幹とするものである。現代雑誌の調査によれば形容動詞で語種のはっきりしているもののうち和語は2割ほどであり漢語は3割強外来語は4割強という状況である。元来日本に文字と呼べるものはなく言葉を表記するためには中国渡来の漢字を用いたは純漢文で記されている。このような史料から大和政権の勢力伸長とともに漢字使用域も拡大されたことが推測される。6世紀~7世紀になると儒教仏教道教などについて漢文を読む必要が出てきたため識字層が広がった。漢字で和歌などの大和言葉を記す際、「波都波流能。9世紀には万葉仮名の字体をより崩したが生まれさらに草仮名をより崩した平仮名の誕生をみるに至った。これによって初めて日本語を自由に記すことが可能になった。平仮名を自在に操った王朝文学は10世紀初頭のなどの物語作品群で頂点を迎えた。僧侶や学者らが漢文を訓読する際には、漢字の隅に点を打ち、その位置によってなどの助詞その他を表すことがあった。しかし、次第に万葉仮名を添えて助詞などを示すことが一般化した。やがて、それらは、字画の省かれた簡略な片仮名になった。平仮名も、片仮名も、発生当初から、1つの音価に対して複数の文字が使われていた。たとえば、にが出され、小学校で教える仮名は1字1音に整理された。これ以降使われなくなった仮名を、今日では変体仮名と呼んでいる。変体仮名は、現在でも料理屋の名などに使われることがある。平安時代までは、発音と仮名はほぼ一致していた。その後、発音の変化に伴って、発音と仮名とが1対1の対応をしなくなった。たとえば、のいずれにすべきか、判断の基準が不明になってしまった。ここに、仮名をどう使うかという仮名遣いの問題が発生した。その時々の知識人は仮名遣いについての規範を示すこともあったが。また従う者も歌人国学者などある種のグループに限られていた。万人に用いられる仮名遣い規範は明治に学校教育が始まるまで待たなければならなかった。漢字の字数字体および仮名遣いについては近代以降たびたび改定が議論されまた実施に移されてきた。仮名遣いについては早く小学校令施行規則はこの棒引き仮名遣いに従った。しかしこれは評判が悪く規則の改正とともに次期1910年の教科書から元の仮名遣いに戻った。第二次世界大戦後の1946年にはが内閣告示された。これに伴い一部の漢字の字体に略字体が採用されそれまでの歴史的仮名遣いによる学校教育は廃止された。1946年および1950年の米教育使節団報告書では、国字のローマ字化について勧告および示唆が行われ、国語審議会でも議論されたが、実現しなかった。1948年には、GHQの民間情報教育局 の指示による読み書き能力調査が行われた。漢字が日本人の識字率を抑えているとの考え方に基づく調査であったが、その結果は、調査者の予想に反して日本人の識字率は高水準であったことが判明した。1981年には、当用漢字表・現代かなづかいの制限色を薄めたが内閣告示され、今日に至っている。戦後の国語政策は、必ずしも定見に支えられていたとはいえず、今に至るまで議論が続いている。平安時代までは、朝廷で用いる公の書き言葉は漢文であった。これはベトナム・朝鮮半島などと同様である。当初漢文は中国語音で読まれたとみられるが、日本語と中国語の音韻体系は相違が大きいため、この方法はやがて廃れ、日本語の文法・語彙を当てはめて訓読されるようになった。いわば、漢文を日本語に直訳しながら読むものであった。漢文訓読の習慣に伴い漢文に日本語特有のと呼ばれる。漢文の読み添えには片仮名が用いられるようになり、やがてこれが本文中に進出して、漢文訓読体を元にしたのように、漢文訓読に用いられるものが多いことが特徴である。一方、平安時代の宮廷文学の文体は、基本的に和語を用いるものであって、漢語は少ない。また、漢文訓読に使う言い回しもあまりない。たとえば、漢文訓読ふうので始まるの文体は典型例の一つである。両者の文体はやがて合わさり『平家物語』に見られるような和漢混淆文が完成した。ここではといった和文の語彙言い回しも使われている。今日、最も普通に用いられる文章は、和語と漢語を適度に交えた一種の和漢混淆文である。というような和語の多い文章とを、適宜混ぜ合わせ、あるいは使い分けながら文章を綴っている。話し言葉は時代と共にきわめて大きな変化を遂げるがそれに比べて書き言葉は変化の度合いが少ない。そのため何百年という間には話し言葉と書き言葉の差が生まれる。日本語の書き言葉がひとまず成熟したのは平安時代中期であり、その頃は書き言葉・話し言葉の差は大きくなかったと考えられる。しかしながら、中世のキリシタン資料のうち、語り口調で書かれているものを見ると、書き言葉と話し言葉とにはすでに大きな開きが生まれていたことが窺える。江戸時代の洒落本・滑稽本の類では、会話部分は当時の話し言葉が強く反映され、地の部分の書き言葉では古来の文法に従おうとした文体が用いられている。両者の違いは明らかである。明治時代の書き言葉は依然として古典文法に従おうとしていたが単語には日常語を用いた文章も現れた。こうした書き言葉は一般にと称された。普通文は以下のように小学校の読本でも用いられた。普通文は、厳密には、古典文法そのままではなく、新しい言い方も多く混じっていた。たとえば、16条を告示した。一方、明治20年代頃から、二葉亭四迷・山田美妙ら文学者を中心に、書き言葉を話し言葉に近づけようとする努力が重ねられた。二葉亭は体といわれる文章をそれぞれ試みた。このような試みが広まる中で、新聞・雑誌の記事なども話し言葉に近い文体が多くなっていく。古来の伝統的文法に従った文章を文語文、話し言葉を反映した文章を口語文という。第二次世界大戦後は、法律文などの公文書ももっぱら口語文で書かれるようになり、文語文は日常生活の場から遠のいた。日本語は文献時代に入ったときにはすでに方言差があった。『万葉集』の巻14「東歌」や巻20「防人歌」には当時の東国方言による歌が記録されている。820年頃成立の『東大寺諷誦文稿』には「此当国方言毛人方言飛騨方言東国方言」という記述が見えこれが国内文献で用いられた「方言」という語の最古例とされる。平安初期の中央の人々の方言観が窺える貴重な記録である。平安時代から鎌倉時代にかけては中央の文化的影響力が圧倒的であったため方言に関する記述は断片的なものにとどまったが室町時代とりわけ戦国時代には中央の支配力が弱まり地方の力が強まった結果地方文献に方言を反映したものがしばしば現われるようになった。洞門抄物と呼ばれる東国系の文献が有名であるが古文書類にもしばしば方言が登場するようになる。安土桃山時代から江戸時代極初期にかけてはポルトガル人の宣教師が数多くのキリシタン資料を残しているがその中に各地の方言を記録したものがある。京都のことばを中心に据えながらも九州方言を多数採録したはその代表である。この時期には琉球方言が質量ともに他を圧倒している。奈良時代以来、江戸幕府が成立するまで、近畿方言が中央語の地位にあった。朝廷から徳川家へ征夷大将軍の宣下がなされて以降、江戸文化が開花するとともに、江戸語の地位が高まり、明治時代には東京語が日本語の標準語と見なされるようになった。明治政府の成立後は、政治的・社会的に全国的な統一を図るため、また、近代国家として外国に対するため、言葉の統一・標準化が求められるようになった。学校教育では「東京の中流社会」の言葉が採用され、放送でも同様の言葉が「共通用語」(共通語)とされた。こうして標準語の規範意識が確立していくにつれ、方言を矯正しようとする動きが広がった。教育家の伊沢修二は、教員向けに書物を著して東北方言の矯正法を説いた。地方の学校では方言を話した者に首から「方言札」を下げさせるなどの罰則も行われた。軍隊では命令伝達に支障を来さないよう、初等教育の段階で共通語の使用が指導された。一方、戦後になると各地の方言が失われつつあることが危惧されるようになった。NHK放送文化研究所は、各地の純粋な方言は80歳以上の老人の間でのみ使われているにすぎないとして、1953年から5年計画で全国の方言の録音を行った。この録音調査には、柳田邦夫、東条操、岩淵悦太郎、金田一春彦など言語学者らが指導にあたった。また、経済成長とともに地方から都市への人口流入が始まると、標準語と方言の軋轢が顕在化した。1950年代後半から、地方出身者が自分の言葉を笑われたことによる自殺・事件が相次いだ。このような情勢を受けて、方言の矯正教育もなお続けられた。鎌倉市立腰越小学校では、1960年代に、など関東方言特有の語尾をつけないようにしようとする運動が始められた。同趣の運動は全国に広がった。高度成長後になると、方言に対する意識に変化が見られるようになった。1980年代初めのアンケート調査では、が解消に向かい、方言を大切にしようという気運が盛り上がった。1990年代以降は、若者が言葉���びの感覚で方言を使うことに注目が集まるようになった。1995年にはラップなどの方言替え歌が話題を呼び、報道記事にも取り上げられた。首都圏出身の都内大学生を対象とした調査では、東京の若者の間にも関西方言が浸透していることが観察されるという。2005年頃には、東京の女子高生たちの間でも「でら。方言学の世界では、かつては、標準語の確立に資するための研究が盛んであったが、今日の方言研究は、必ずしもそのような視点のみによって行われてはいない。中央語の古形が方言に残ることは多く、方言研究が中央語の史的研究に資することはいうまでもない。しかし、それにとどまらず、個々の方言の研究は、それ自体、独立した学問と捉えることができる。山浦玄嗣の研究に見られるように、研究者が自らの方言に誇りを持ち、日本語とは別個の言語として研究するという立場も生まれている。日本人自身が日本語に関心を寄せてきた歴史は長く、の記述にも語源・用字法・助字などについての関心が垣間見られる。古来、さまざまな分野の人々によって日本語研究が行われてきたが、とりわけ、江戸時代に入ってからは、秘伝にこだわらない自由な学風が起こり、客観的・実証的な研究が深められた。近代に西洋の言語学が輸入される以前に、日本語の基本的な性質はほぼ明らかになっていたといっても過言ではない。以下では、江戸時代以前・以後に分けて概説し、さらに近代について付説する。江戸時代以前の日本語研究の流れは大きく分けて3分野あった。中国語(漢語)学者による研究悉曇(しったん)学者による研究歌学者による研究である。中国語との接触、すなわち漢字の音節構造について学習することにより、日本語の相対的な特徴が意識されるようになった。『古事記』には「淤能碁呂嶋自淤以下四字以音」(オノゴロ嶋〈淤より以下の四字は音を以ゐよ〉)のような音注がしばしば付けられているが、これは漢字を借字として用い、中国語で表せない日本語の固有語を1音節ずつ漢字で表記したものである。こうした表記法を通じて、日本語の音節構造が自覚されるようになったと考えられる。また漢文の訓読により、中国語にない助詞・助動詞の要素が意識されるようになり、漢文を読み下す際に必要な「て」「に」「を」「は」などの要素は、当初は点を漢字に添えることで表現していたのが(ヲコト点)、後に借字、さらに片仮名が用いられるようになった。これらの要素は「てにをは」の名で一括され、後に一つの研究分野となった。日本語の1音1音を借字で記すようになった当初は、音韻組織全体に対する意識はまだ弱かったが、後にあらゆる仮名を1回ずつ集めて誦文にしたものが成立している。平安時代初期にとして用いられ、また仮名の手本としても人々の間に一般化している。一方、悉曇学の研究により、梵語。最古の五十音図は、平安時代末期の悉曇学者明覚のにおいて、梵語の発音を説明するために日本語の例を多く引用し、日本語の音韻組織への関心を見せている。歌学は平安時代以降、大いに興隆した。和歌の実作および批評のための学問であったが、正当な語彙・語法を使用することへの要求から、日本語の古語に関する研究や、の研究、さらに仮名遣いへの研究に繋がった。このうち古語の研究では語と語の関係を音韻論的に説明することが試みられた。たとえば顕昭の『袖中抄』では「七夕つ女(たなばたつめ)」の語源は「たなばたつま」だとして(これ自体は誤り)「『ま』と『め』とは同じ五音(=五十音の同じ行)なる故也」と説明している。このように「五音相通(五十音の同じ行で音が相通ずること)」や「同韻相通(五十音の同じ段で音が相通ずること)」などの説明が多用されるようになった。の用法をより詳細に論じている。仮名遣いについては鎌倉時代の初め頃に藤原定家がこれを問題とし定家はその著作を著した頃日本語にアクセントの一大変化がありの音を含む語彙に関しても定家の時代とはアクセントの高低が異なってしまった。その結果の仮名遣いについては定家が示したものとは齟齬を生じている。なお「お」と「を」の発音上の区別が無くなっていたことで五十音図においても鎌倉��代以来「お」と「を」とは位置が逆転した誤った図が用いられていた(すなわち「あいうえを」「わゐうゑお」となっていた)。これが正されるのは江戸時代に本居宣長が登場してからのことである。外国人による日本語研究も中世末期から近世前期にかけて多く行われた。イエズス会では日本語とポルトガル語の辞書といった日本語学習書が編纂された。日本語の研究が高い客観性実証性を備えるようになったのは江戸時代の契沖の研究以来のことである。契沖は『万葉集』の注釈を通じて仮名遣いについて詳細に観察を行い『和字正濫抄』(1695年)を著した。この書により古代は語ごとに仮名遣いが決まっていたことが明らかにされた。契沖自身もその仮名遣いを実行した。すなわち後世歴史的仮名遣いと称される仮名遣いである。契沖の掲出した見出し語は後に楫取魚彦編の仮名遣い辞書『古言梯(こげんてい)』(1765年)で増補され村田春海『仮字拾要(かなしゅうよう)』で補完された。古語の研究では松永貞徳の『和句解を著しの部分は鳴き声であることを示すなど興味深い考え方を示している。本居宣長は仮名遣いの研究および文法の研究で非常な功績があった。まず仮名遣いの分野では『字音仮字用格で検証した。また、宣長は、文法の研究、とりわけ、係り結びの研究で成果を上げた。係り結びの一覧表である『ひも鏡』(1771年)をまとめ、『詞の玉緒』(1779年)で詳説した。文中に「ぞ・の・や・何」が来た場合には文末が連体形、「こそ」が来た場合は已然形で結ばれることを示したのみならず、「は・も」および「徒(ただ=主格などに助詞がつかない場合)」の場合は文末が終止形になることを示した。主格などに「は・も」などが付いた場合に文末が終止形になるのは当然のようであるが、必ずしもそうでない。主格を示す「が・の」が来た場合は、「君が思ほせりける」(万葉集)「にほひの袖にとまれる」(古今集)のように文末が連体形で結ばれるのであるから、あえて「は・も・徒」の下が終止形で結ばれることを示したことは重要である。品詞研究で成果を上げたのは富士谷成章」は動詞形容詞の活用を整理した表で後の研究に資するところが大きかった。活用の研究は、その後、鈴木朖のを著し、これで日本語の活用は、全貌がほぼ明らかになった。このほか、江戸時代で注目すべき研究としては、石塚龍麿のがある。万葉集の仮名に2種の書き分けが存在することを示したものであったが、長らく正当な扱いを受けなかった。後に橋本進吉が上代特殊仮名遣いの先駆的研究として再評価した。江戸時代後期から明治時代にかけて、西洋の言語学が紹介され、日本語研究は新たな段階を迎えた。もっとも、西洋の言語に当てはまる理論を無批判に日本語に応用することで、かえってこれまでの蓄積を損なうような研究も少なくなかった。こうした中で、古来の日本語研究と西洋言語学とを吟味して文法をまとめたのが大槻文彦であった。大槻は、日本語辞書『言海』の中で文法論「語法指南」を記し(1889年)、後にこれを独立、増補して『広日本文典』(1897年)とした。その後、高等教育の普及とともに、日本語研究者の数は増大した。東京帝国大学には国語研究室が置かれ、ドイツ帰りの上田万年が初代主任教授として指導的役割を果たした。以下、第二次世界大戦後に至るまで、日本語学者を挙げる。近代以降、台湾や朝鮮半島などを併合・統治した日本は、現地民の台湾人・朝鮮民族への皇民化政策を推進するため、学校教育で日本語を国語として採用した。満州国(現在の中国東北部)にも日本人が数多く移住した結果、日本語が広く使用され、また、日本語は中国語とともに公用語とされた。日本語を解さない主に漢民族や満州族には簡易的な日本語である協和語が用いられていたこともあった。現在の台湾(中華民国)や朝鮮半島(北朝鮮・韓国)などでは、現在でも高齢者の中に日本語を解する人もいる。一方、明治・大正から昭和戦前期にかけて、日本人がアメリカ・カナダ・メキシコ・ブラジル・ペルーなどに多数移民し、日系人社会が築かれた。これらの地域コミュニティでは日本語が使用されたが、世代が若年になるにしたがって、日本語を解さない人が増えている。1990年代以降日本国外から日本への渡航者数が増加しかつまた日本企業で勤務する外国人労働者も飛躍的に増大しているため国内外に日本語教育が広がっている。国地域によっては日本語を第2外国語など選択教科の一つとしている国もあり日本国外で日本語が学習される機会は増えつつある。とりわけ1990年代以降と感じる若者が増えその結果彼らの日本語に触れる機会が増えつつあるという。2021年9月、単語検索ツールWordtipsは、世界各国で語学学習をするに当たり、どの言語が最も人気があるかをGoogleキーワードプランナーを利用し調査。アメリカ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドといった英語圏を中心に、日本語が最も学びたい言語に選ばれた。日本人が訪問することの多い日本国外の観光地などでは、現地の広告や商業施設店舗の従業員との会話に日本語が使用されることもある。このような場で目に触れる日本語のうち、新奇で注意を引く例は、雑誌・書籍などで紹介されることも多い。日本語が時と共に変化することはしばしば批判の対象となる。この種の批判は古典文学の中にも見られる。では文末のと評している。これにとどまらず、言語変化について注意する記述は、歴史上、仮名遣い書や、『俊頼髄脳』などの歌論書、『音曲玉淵集』などの音曲指南書をはじめ、諸種の資料に見られる。なかでも、江戸時代の俳人安原貞室が、なまった言葉の批正を目的に編んだ『片言(かたこと)』(1650年)は、800にわたる項目を取り上げており、当時の言語実態を示す資料として価値が高い。近代以降も、芥川龍之介がなど肯定形になることに疑問を呈するなど、言語変化についての指摘が散見する。研究者の立場から同時代の気になる言葉を収集した例としては、浅野信などがある。第二次世界大戦後は、1951年に雑誌が創刊されるなど、日本語への関心が高まった。そのような風潮の中で、あらゆる立場の人々により、言語変化に対する批判やその擁護論が活発に交わされるようになった。典型的な議論の例としては、金田一春彦および宇野義方の反論が挙げられる。いわゆると称され、盛んに取り上げられるようになった。と考える人が1977年に7割近くになり、2002年11月から12月の調査では8割となっている。人々のこのような認識は、いわゆる日本語ブームを支える要素の一つとなっている。若者特有の用法は批判の的になってきた。近代以降の若者言葉批判の例として小説家尾崎紅葉が1888年に女性徒の間で流行していたは批判の的となった。1980年代ごろから単なる言葉の乱れとしてではなく研究者の記述の対象としても扱われるようにもなった。体系化を試みる本格的な著作としては米川明彦などがある。いわゆる「若者言葉」は種々の意味で用いられ必ずしも定義は一定していない。井上史雄の分類に即して述べると若者言葉と称されるものは以下のように分類される。上記は、いずれも批判にさらされうるという点では同様であるが、1 - 4の順で、次第に言葉の定着率は高くなるため、それだけの例として意識されやすくなる。上記の分類のうちの文化を取り上げるようになってきてから、言葉で伝えるより、察し合って心を通わせることを重んじる者が増えた。これに対し、文化庁は、空気読めない と言われることを恐れ、場の空気に合わせようとする風潮の現れではないかと指摘している。若者の日本語は、表記の面でも独自性を持つ。年代によりさまざまな日本語の表記が行われている。1970年代から1980年代にかけて、少女の間で、丸みを帯びた書き文字がなどと呼ばれた。山根一眞の調査によれば、この文字は1974年までには誕生し、1978年に急激に普及を開始したという。1990年頃から、丸文字に代わり、少女の間で、金釘流に似た縦長の書き文字が流行し始めた。平仮名のなどと紹介されたが、必ずしも大人世代の話題にはならないまま、確実に広まった。この文字を練習するための本も出版された。携帯メールやインターネットの普及に伴いギャルと呼ばれる少女たちを中心にデジタル文字の表記に独特の文字や記号を用いるようになった。としてマスコミにも取り上げられた。このギャル文字を練習��るための本も現れた。コンピュータの普及とコンピュータを使用したパソコン通信などの始まりにより日本語の約物に似た扱いとして顔文字が用いられるようになった。これはコンピュータの文字としてコミュニケーションを行うときに文章の後や単独で記号などを組み合わせたのような顔文字を入れることにより感情などを表現する手法である。1980年代後半に使用が開始された顔文字は若者へのコンピュータの普及により広く使用されるようになった。携帯電話に絵文字が実装されたことにより絵文字文化と呼ばれるさまざまな絵文字を利用したコミュニケーションが行われるようになった。漢字や仮名と同じように日本語の文字として扱われ約物のような利用方法にとどまらず単語や文章の置き換えとしても用いられるようになった。すでに普及した顔文字や絵文字に加え2006年頃にはのように特定文字を小字で表記するものでマスコミでも紹介されるようになった。人々の日本語に寄せる関心は第二次世界大戦後に特に顕著になったといえる。1947年10月からNHKラジオでが始まり1951年には雑誌が創刊された。日本語関係書籍の出版点数も増大した。敬語をテーマとした本の場合1960年代以前は解説書5点実用書2点であったものが1970年代から1994年の25年間に解説書約10点実用書約40点が出たという。戦後、最初の日本語ブームが起こったのは1957年のことで、金田一春彦が50万部出版された。その後、1999年の大野晋が140万部出版された頃から、出版界では空前の日本語ブームという状況になり、おびただしい種類と数の一般向けの日本語関係書籍が出た。2004年には北原保雄編など種々の番組があった。「複雑な表記体系」「SOV構造」「音節文字」「敬語」「男言葉と女言葉」「擬態語が豊富」「曖昧表現が多い」「母音の数が少ない」などを根拠に日本語特殊論がとなえられることがある。もっとも、日本語が印欧語との相違点を多く持つことは事実である。そのため、対照言語学の上では、印欧語とのよい比較対象となる。また、日本語成立由来という観点からの研究も存在する。日本語特殊論は、近代以降しばしば提起されている。極端な例ではあるが、戦後、志賀直哉がの必要性を説き、論議を呼んだ。動詞が最後に来ることを理由に日本語を曖昧、不合理と断ずる議論もある。例えばかつてジャーナリスト森恭三は、日本語の語順ではと記している。複雑な文字体系を理由に日本語を特殊とする議論もある。計算機科学者の村島定行は古くから日本人が文字文化に親しみ庶民階級の識字率も比較的高水準であったのは日本語は表意文字の2つの文字体系を使用していたからだと主張する。ただし表意表音文字の二重使用は他に漢字文化圏では韓文漢字や女真文字など漢字文化圏以外でもマヤ文字やヒエログリフなどの例がある。一方でカナモジカイのように数種類の文字体系を使い分けることの不便さを主張する意見も存在する。日本語における語順や音韻論もしくは表記体系などを取り上げてそれらを日本人の文化や思想的背景と関連付け日本語の特殊性を論じる例は多い。しかし大体においてそれらの説は手近な英語や中国語などの言語との差異を牧歌的に列挙するにとどまり言語学的根拠に乏しいものが多い。一方近年では日本文化の特殊性を論する文脈であっても出来るだけ多くの文化圏を俯瞰し総合的な視点に立った主張が多く見られるという。日本語を劣等もしくは難解非合理的とする考え方の背景として近代化の過程で広まった欧米中心主義があると指摘される。戦後は消極的な見方ばかりでなくと積極的に評価する見方も多くなった。その変化の時期はおよそ1980年代であるという。いずれにしても日本語は特殊であるとの前提に立っている点で両者の見方は共通する。日本語特殊論は日本国外でも論じられる。E. ライシャワーによれば、日本語の知識が乏しいまま、日本語は明晰でも論理的でもないと不満を漏らす外国人は多いという。ライシャワー自身はこれに反論し、あらゆる言語には曖昧・不明晰になる余地があり、日本語も同様だが、簡潔・明晰・論理的に述べることを阻む要素は日本語にないという。共通点の少なさゆえに印欧系言語話者には習得が難しい���され、学習に関わる様々なジョークが存在するバスク語について、フランスのバイヨンヌにあるバスク博物館では、「かつて悪魔サタンは日本にいた。それがバスクの土地にやってきたのである」と挿絵入りの歴史が描かれているものが飾られている。これは同じく印欧系言語話者からみて習得の難しいバスク語と日本語を重ね合わせているとされる。今日の言語学において日本語が特殊であるという見方自体が否定的である。例えば日本語に5母音しかないことが特殊だと言われることがあるがクラザーズの研究によれば209の言語のうち日本語のように5母音を持つ言語は55あり類型として最も多いという。また語順に関しては日本語のように SOV構造を採る言語が約45%であって最も多いのに対して英語のようにSVO構造を採る言語は30%強である。この点から日本語はごく普通の言語であるという結論が導かれるとされる。また言語学者の角田太作は語順を含め19の特徴について130の言語を比較しと結論している。村山七郎は、を主張したという。日本人自らが日本語を特殊と考える原因としては、身近な他言語が少ないことも挙げられる。日本では古く漢籍を読むための辞書が多く編纂された。国内における辞書編纂の記録としては天武11年伝本はおろか逸文すらも存在しないため書名から漢字字書の類であろうと推測される以外はいかなる内容の辞書であったかも不明である。奈良時代には『楊氏漢語抄』や『弁色立成(べんしきりゅうじょう)』という辞書が編纂された。それぞれ逸文として残るのみであるが和訓を有する漢和辞書であったらしい。現存する最古の辞書は空海編と伝えられる『篆隷万象名義』(9世紀)であるが中国の『玉篇』を模した部首配列の漢字字書であり和訓は一切ない。10世紀初頭に編纂された『新撰字鏡』は伝本が存する最古の漢和辞書であり漢字を部首配列した上で和訓を万葉仮名で記している。平安時代中期に編纂された『和名類聚抄』は意味で分類した漢語におおむね和訳を万葉仮名で付したもので漢和辞書ではあるが百科辞書的色彩が強い。院政期には過去の漢和辞書の集大成とも言える『類聚名義抄』が編纂された。同書の和訓に付された豊富な声点により院政期のアクセント体系はほぼ解明されている。鎌倉時代には百科辞書が作成された。江戸時代には室町期のなども編纂された。明治時代に入り1889年から大槻文彦編の小型辞書『言海』が刊行された。これは古典語日常語を網羅し五十音順に見出しを並べて品詞漢字表記語釈を付した初の近代的な日本語辞書であった。『言海』は後の辞書の模範的存在となり後に増補版の『大言海』も刊行された。その後、広く使われた小型の日本語辞書としては、金沢庄三郎編に引き継がれている。中型辞書としては、第二次世界大戦前はがある。 +地理学は。地域や空間場所自然環境という物理的存在を対象の中に含むことから人文科学社会科学自然科学のいずれの性格も有する。広範な領域を網羅する。またと称される。元来は農耕や戦争統治のため各地の情報を調査しまとめるための研究領域として成立した。地理学誕生の地は古代ギリシアである。学問としては博物学の部門に属した。その源流は各地の様子を記載する地誌学的なものと気候や海洋について研究する地球科学的なものとに見ることができる。中世では停滞していたもののルネサンス期における地誌の拡大や18世紀以降産業革命後の自然科学の発達と観測機器の発達は近代地理学の成立へと導いた。現在見ることのできる科学的な地理学の源流は19世紀初頭のドイツでおこりアレクサンダーフォンフンボルトとカールリッターにより成立した。彼らはとされている。彼らは地誌的な記述ばかりではなく様々な地理的な現象に内的連関を認め地理学においてその解明の重要性を説いた。19世紀後半には、地理学者らによって各種系統地理学が整備され、日本など世界各国に地理学が移入された。1950年以降、アメリカ合衆国が中心になってコンピュータや統計データなどを用いて、計量的な地理学が世界中に急速に普及したが、1970年代後半以降、この様な研究は他の分野との競争に敗れ、北米を中心に一旦は衰退したが、地理情報システム (GIS) や地球環境に関連した応用的な研究が盛んになった。地理学は大きく系統地理学と地誌学に分類され系統地理学はさらに自然地理学と人文地理学に分けられそれぞれがまた細かく分類される。ただし自然地理学の諸分野は地球科学の影響を受けその中でも時に生態学や気象学地質学などと連携されることが多い。人文地理学は歴史学社会学経済学などの近隣分野の影響を受けそれらの知識ならびに隣接分野の理論の十分な理解が要求される学問である。また自然地理学人文地理学ともに現地調査(フィールドワーク)やエクスカーション(巡検とも呼ぶ)を実施し実地調査に基づく観察を重視する傾向があるのが特徴である。自然地理学に該当するもの。ほとんどの場合これらの学問成果をあげるには現地調査が要求される。いずれの場合も学問上で厳格な線引きは存在せず例えば気候地形学のような自然地理学の中でも分野のまたがった研究も往々にされている。人文地理学に該当するもの。これらもほとんどの場合、学問成果をあげるには、現地調査が要求される。いずれの場合も、学問上で完全に独立しているわけではなく、例えば都市地理学と経済地理学の複合分野を研究対象にするということも可能である。他分野においても、生物学の生物地理学など地理学という名をもつ学問がある。地誌学との共通点もある。地理学では地域差があるものを取り扱うため地図が必須であるとともに地図を用いて事象の分析や原因の考察を行うことができる。事物の分布を考察するにあたって分布図の作成が挙げられる。分布図では事物の位置や多寡偏りの程度が表現されるため分布について深く考察するうえで有効でありこのことによって地理的事象の地域性や一般性の解明につながる。分布の性質を分析してきた研究の代表例として高橋伸夫はにてチューネンの孤立国とクリスタラーの中心地理論を提示している。地理学を学べる日本国内の大学.日本では文学部に設置されている大学が多いが、東日本の国公立大学では理学部に設置されていることも多い。この他教育学部に設置されている大学もある。ただし、文学部設置の大学でも自然地理学の研究も行われているうえ、理学部設置の大学でも研究や教育が自然地理学に限定されているわけでもない。また、この他の学部でも地理学に関するコースが存在する大学もある。現在の日本の高等学校においては1989年告示の学習指導要領以降という名称でなくても改称したり分野別に再編したりして実質的に地理学教育を行っている学科専攻は少なくない。地理学の特徴はであり大学院生や大学教員レベルになると複数の学会に所属している者が多い。近年は を用いた解析や一部モデリングが盛んに行われているほか社会的課題が複雑化する中において地域を多角的総合的に理解する学問分野として注目されている。 +国の一覧(くにのいちらん)は、世界の独立国の一覧。国際法上国家と言えるか否かについて、モンテビデオ条約第1条には以下のように定められた。この条約は米州諸国によって締結されたものであったが、その第1条に規定されたという4つの要件が必要とされる。本項目ではこれらの要件を満たしていると評価されているものを掲載対象とする。国連憲章4条1項により国連に加盟するためにはその要件の一つとして国家であることが求められており、国家のみが加盟資格を持つとされている。そのためここでは国連加盟国を193ヵ国をすべて国として扱い以下に列挙する。国連総会オブザーバー.国連総会オブザーバーの制度は国連事務局や国連総会の実践を通じて形成されてきた制度でありオブザーバーとしての資格は非加盟国だけではなく国ではないものに対しても認められてきたものである。ここではその中で国である可能性があるものを列挙する。パリ(、巴里)は、フランスの首都。イル=ド=フランス地域圏の首府。県にしてコミューンでもある。フランス最大の都市であり、同国の政治、経済、文化などの中心地。ロンドンと共に欧州を代表する世界都市。ルーヴル美術館を含む1区を中心として時計回りに20の行政区が並び、エスカルゴと形容される。市域はティエールの城壁跡に造られた環状高速道路の内側の市街地、および、その外側西部のブローニュの森と外側東部のヴァンセンヌの森を併せた形となっており、面積は105.40km2。ケスタ地形を呈するパリ盆地のほぼ中央に位置し、市内をセーヌ川が貫く。この川の中州であるシテ島を中心に発達した。市内の地形は比較的平坦であるが、標高は最低でセーヌ川沿いの35メートル、最高でモンマルトルの丘の130メートルである。北緯49度とやや高緯度に位置するが、温かい北大西洋海流と偏西風によって1年を通して比較的温暖となっており、西岸海洋性気候の代表的な都市である。EUを代表する大都市として君臨しアメリカのシンクタンクが2020年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいてロンドンニューヨークに次ぐ世界3位の都市と評価された。日本の民間シンクタンクによる2017年発表の「世界の都市総合力ランキング」ではロンドンニューヨーク東京に次ぐ世界4位の都市と評価された。世界500大企業の本社数ではニューヨークやロンドンを凌ぎ西洋の都市では最多である。2021年のイギリスのシンクタンクの調査によると世界10位の金融センターと評価されておりEU圏内では首位である。パリは世界屈指の観光都市である。歴史的な建物を観ることができルーヴル美術館ポンピドゥーセンターなどをはじめとした一流の美術館で膨大な数の一流の美術品を観賞できる。また世界最古のバレエ団や世界でもっとも古くから存在している劇団などの公演を楽しむこともできる。パリ出身者・居住者は男性がパリジャンと呼ばれる。1960年代以降、旧植民地であったアフリカ中部・北部やインドシナ半島、さらに近年は中近東や東欧、中国などからの移民も増え、パリジャン・パリジェンヌも多民族・多人種化している。市域人口は1950年代の約290万人を絶頂に減少し続けたが、ここ数年は微増傾向に転じており、2011年現在で約225万人である。2011年の近郊を含む都市的地域の人口では1,200万人を超えており、EU最大の都市部を形成している。パリ市の標語は「たゆたえども沈まず でありこれはパリの紋章の下部に書かれている。もともと水運の中心地だったパリで水上商人組合の船乗りの言葉だったがやがて戦乱革命など歴史の荒波を生き抜いてきたパリ市民の象徴となっていった。この標語は特に2015年のパリ同時多発テロ事件の直後パリの街角に多数掲げられた。語源はParisii(パリシイ、パリースィイとも。複数形。単数形はParisius「田舎者、乱暴者」)で、ローマ人が入ってくる以前からの先住民であるケルト系部族の、ローマ側からの呼称である。欧州の言語の中で古い時代の痕跡をとどめているギリシャ語では(パリーズィ)、イタリア語で Parigi(パリージ)と発音される。フィンランド語で Pariisi(パリースィ)と発音されるのはこれに由来しているという説がある。ルーテティア(・パリースィオールム)Lutetia(Parisiorum)、 「パリシイ族の、水の中の居住地」(シテ島のこと)とも呼ばれていた。パリ盆地を流れるセーヌ川の中洲シテ島は古くから同川の渡河点であり、紀元前3世紀ごろからパリシイ族の集落ルテティアがあった。紀元前1世紀、ガリア戦争の結果ルテティアはローマ支配下に入った。ローマ時代のルテティアはシテ島からセーヌ左岸にかけて広がっており、円形劇場や浴場跡が残っている。しかし、ローマが衰退すると左岸の市街地は放棄され、シテ島のみを範囲とする城塞都市になった。このころからルテティアに代わりと呼ばれるようになった。5世紀末にフランク族の王クローヴィス1世はパリを征服し、508年にはパリをメロヴィング朝フランク王国の首都とした。しかしクロヴィス1世の死後王国はいくつかに分裂したため、パリは現在のフランスよりも狭い範囲の都でしかなかった。シャルルマーニュ以降のカロリング朝フランク王国の中心はライン川流域にあり、パリは一地方都市でしかなかった。885年から886年にかけてパリはヴァイキングの襲撃を受けた。このときフランク王シャルル3世(カール3世)は金銭を支払って講和を結んだため信望を失い代わってパリ伯の権威が上昇することになった。このころからセーヌ右岸側にも市街地が拡大した。西フランク王国が断絶すると、987年にパリ伯ユーグ・カ��ーがフランス王に推挙されたことから、パリはフランス王国の首都となった。王権の強化にしたがって首都も発達し、王宮としてシテ宮が建築された。フィリップ2世の時代にはパリを囲む城壁(フィリップ・オーギュストの城壁)も築かれ、その西に要塞(のちにルーヴル宮殿に発展する)が設けられた。このころのパリは初期スコラ学の中心のひとつでもあり、11世紀ごろからパリ大司教座聖堂付の学校が発達し、1200年には王にも承認され、のちのパリ大学につながっていった。パリ大学は特に神学の研究で著名であった。右岸に中央市場「レ・アル(Les Halles)」が作られたもこのころである。こうして、左岸は大学の街、右岸は商人の街という現在まで続く町の原型が定まった。12世紀にはパリ水運商人組合が結成され、のちにパリ商人頭は事実上の市長として市政を司るようになる。13世紀になるとルイ9世によってサントシャペルが建築されたほかノートルダム大聖堂も一応の完成を見る。パリは成長を続けセーヌ左岸も再び人口を増やしていた。王たちは次第にヴァンセンヌ城を居城とするようになったが行政機構はシテ宮に残った。14世紀初頭のパリの人口は約20万人と推定され、ヨーロッパ随一の都市であった。1328年にカペー朝が断絶したことなどを契機とする百年戦争の最中パリ商人頭となったエティエンヌマルセルは王に匹敵する権力を持ち王と対立した。シャルル5世は1356年から1383年にかけて新たな城壁(シャルル5世の城壁)を築いて市域を拡大させ1370年にサン=タントワーヌ要塞(のちのバスティーユ牢獄)を築いた。またルーヴル宮殿を王宮とした。15世紀初めにおいても、パリの支配権と王および王族の確保をめぐって、オルレアン派とブルゴーニュ派との対立である百年戦争が、イングランドをも巻き込んで続いていた。ジャンヌ・ダルクの活躍などもあり、1435年のアラスの和約でブルゴーニュ派と和解して勢力を伸ばしたシャルル7世率いるフランス軍は1436年にパリを奪還し、翌1437年に改めてパリが首都と定められた。その後、1453年にフランスにおけるイングランド領の大半が陥落したことにより、百年戦争は終結した。百年戦争後のパリの人口は10万人程度にまで減少していた。この後もフランス王はパリには住まずブロワ城やアンボワーズ城などのロワール渓谷の城を好んだ。特にフランソワ1世はロワールにシャンボール城を築いたほかパリ近郊にフォンテーヌブロー宮殿を発展させた。もっともフランソワ1世は公式的には1528年にパリを居城と定めた。パリでは学術が発展しコレージュドフランスにおいて大学教育課程が近代教育課程に加えられ王が望んだ人文主義や正確な科学が研究されるようになった。16世紀後半、ユグノー戦争の時代にはパリはカトリック派の拠点であり、1572年にはサン・バルテルミの虐殺が起こってプロテスタントが殺害されるなどした。シャルル9世を継いだアンリ3世は平和的な解決を模索したが、民衆は反乱し、バリケードの日と呼ばれる1588年5月12日にアンリ3世を強制追放した。このときからパリは、16区総代会という組織によって統治されるようになった。その後カトリック派からの反発を招いたアンリ3世が暗殺されヴァロワ朝は断絶した。1594年アンリ4世の即位によりパリは名実ともにフランスの首都の座を回復した。ヴァロワ朝後期の王と異なりアンリ4世はパリをおもな居住場所とし都市での多くの公共事業を行った。ルーブル宮殿の拡張ポンヌフヴォージュ広場ドフィーヌ広場サンルイ病院の建設がなされた。フォンテーヌブロー宮殿もよく用いられ次のルイ13世はこの宮殿で生まれている。ほかにもサン=ジェルマン=アン=レーにも居城があった。ルイ13世の治世下にパリは大きく変化した。その母のマリー・ド・メディシスによるテュイルリー宮殿やリュクサンブール宮殿、リシュリューによるパレ・ロワイヤルが建設され、ソルボンヌ大学の改築も行われた。太陽王ルイ14世の即位後まもなくフロンドの乱が起こり反動的に貴族勢力が打倒された結果絶対王政の確立が促された。ルイ14世は1677年に居城をヴェルサイユに移した。財務総監のジャン=バティストコルベールはパリでの豪華な建設事業を行い太���王にふさわしいを作り上げようとした。廃兵院などはこのころの建築である。しかし王自身はパリを好まずパリ郊外の広大なヴェルサイユ宮殿にて執政を行うことを好んだ。このときまでにパリは中世の市域を大きく越えて成長し17世紀半ばには人口約50万人建物約2万5000棟に達していた。以降政治の中心地はルイ16世の治世末期までヴェルサイユに移ることとなる。ルイ15世は1715年に居城をいったんパリに戻したが、1722年にはヴェルサイユに居城を再度移してしまう。1752年にはエコール・ミリテールが創設され、1754年にはサント・ジュヌヴィエーヴの丘に教会が建設された。ルイ16世治世下の1784年から1790年にかけて、新たな城壁であるフェルミエー・ジェネローの城壁が建設される。18世紀はやはり経済的成長の世紀で人口が増大した。フランス革命直前のパリの人口は64万人を数えた。啓蒙主義啓蒙思想が発展しヴォルテールジャン=ジャックルソー『百科全書』のドゥニディドロシャルルドモンテスキューらが活躍した。宮廷がヴェルサイユに置かれたのに対抗し王族のオルレアン公がパレロワイヤルを増築改修するとこの地はパリ随一の繁華街を形成し啓蒙思想家のみならずあらゆる階層の人々を引きつけとりわけ急進的な革命家の根拠地ともなった。1789年7月14日、パリ市内で発生したバスティーユ襲撃によってフランス革命が勃発した。ヴェルサイユ行進でルイ16世が強制的にパリのテュイルリー宮殿に戻されてからは、革命の重要な事件の多くがパリで発生した。1790年にパリ県が成立し1795年にセーヌ県へと改称される。パリ市は県庁所在地とされていた。混乱を経た1800年当時の人口は、54万7,756人であった。ナポレオン1世は、パリを新しいローマとすべく、帝都と定め、カルーゼル凱旋門やエトワール凱旋門を建て、ウルク運河を開削するなどした。第一帝政後の19世紀のパリは復古王政期および1848年革命を経て第二共和政第二帝政さらに第三共和政へと王政ないし帝政と共和政が交錯し政治的には安定しなかったものの産業革命の到来により経済的文化的には繁栄した。文化面ではヴィクトルユーゴーオノレドバルザックエミールゾラスタンダールといった文豪に加え19世紀後半にはエドゥアールマネやモネドガルノワールセザンヌピサロモリゾギヨマンシスレーといった印象派の画家が活躍し始めた。スーラゴッホポールゴーギャンなどのポスト印象派新印象派へと続くものとなった。1837年にはパリ・サン=ジェルマン鉄道のサン・ラザール駅、1840年にヴェルサイユ・左岸鉄道のモンパルナス駅、1840年にパリ・オルレアン鉄道のオステルリッツ駅、1846年に北部鉄道 のパリ北駅、1846年にソー鉄道のアンフェール城門駅がそれぞれ建設された。他方、1841年から1844年にかけてティエールの城壁が築かれ、こららの放射状路線をつなぎ、城壁内の補給路を確保するために、プティト・サンチュールが1852年から建設され始めた。第二帝政下ではセーヌ県知事ジョルジュオスマンによってパリ改造が行われた。中世以来の狭い路地を壊して道路網を一新したほか上下水道の設置など都心部の再開発や社会基盤の整備が行われた。水道の水はジェネラルデゾーが供給するようになった。これらによりパリは近代都市として生まれ変わった。現在のパリ市中心部の姿はほぼこのときの状態をとどめている。1860年ティエールの城壁内のコミューンがパリに併合された。併合後である1861年当時の人口は169万6141人だった。普仏戦争でナポレオン3世の主力軍が敗北すると、パリは1870年9月からプロイセン軍に包囲された。翌1871年1月に第三共和政の政府は降伏したが、パリの労働者らはこれを認めず蜂起した。3月には史上初の労働者階級の政権パリ・コミューンが発足したが、ヴェルサイユ政府軍の攻撃によりわずか2か月で崩壊した。コミューンの最後はパリ市内での市街戦となり、大きな被害を出した。クレディリヨネのパリ支店支配人Mazeratがリヨン本店支配人Letourneurに書き送ったところによると普仏戦争以後に企てられた全事業でロスチャイルドとその庇護下のオートバンクが独占的役割を果たした。パリ市はロスチャイルドらより2億フランを借り受けドイツへ占領税を支払った。20億���ランのパリ市公債もロスチャイルドらが引き受けた。19世紀末から20世紀初めにかけて、パリでは数回の万国博覧会が開かれた。1889年の万博ではエッフェル塔が建てられ、1900年にはメトロが開業した。この時代をベル・エポックと呼ぶ。パリはと呼ばれ、ロンドンに匹敵する経済都市に成長した。20世紀にはさらに工業が進展し、このころまだまとまった敷地が残っていたパリ郊外にルノーやシトロエンの工場ができた。パリで働くための移民が集まり、赤いバンリューの起源となった。1904年6月、1,000万フランのロスチャイルド財団が一族6人 と北部鉄道 の役員3人を発起人として設立された。この財団は建築家を直接雇用して財団所有の事務所に集め、低廉住宅の建築様式を共同作成させた。優秀作の意匠権は賞金と引き換えに財団が所有した。 1912年12月23日のボンヌヴェ法は全会一致で可決され、パリ市が低廉住宅を建設するために要請していた2億フランの借款を認めた。第一次世界大戦の緒戦ではドイツ軍がパリの目前にまで迫り、政府が一時ボルドーに避難するほどであったが、マルヌ会戦の勝利により辛くも陥落を免れた。大戦後半にはパリ砲による砲撃を受けた。戦間期にはパリは芸術の都としての地位を回復し、アメリカやヨーロッパなどから多くのボヘミアンたちを惹きつけた。しかし第二次世界大戦が勃発すると、ナチス・ドイツのフランス侵攻開始から1か月で政府はパリを放棄せざるを得なくなり、1940年6月14日にはドイツ軍がパリをほぼ無血で占領した。6月23日にはアドルフ・ヒトラーがパリに入った。占領下のパリではレジスタンス運動に身を投じる者がいる一方で、積極的にドイツ軍に協力する市民もいた。後者はのちに対独協力者として糾弾されることになる。ノルマンディー上陸作戦から2か月半後の1944年8月25日、パリは連合国軍と自由フランス軍によって解放された。このときドイツ軍のパリ駐留部隊を指揮していたディートリヒ・フォン・コルティッツ将軍は、ヒトラーからパリを破壊するよう命令されていたが、これを拒んで部隊を無抵抗で退却させ、自身は降伏した。この英断によりフォン・コルティッツは戦後、フランスから名誉パリ市民号を贈られている。20世紀のパリは文化的にも成熟し、アルベール・カミュやジャン=ポール・サルトルらが実存主義を生み出し、マルセル・プルーストやアンドレ・ジッドなどの小説家が輩出された。1960年に創刊された前衛雑誌にはロラン・バルト、ジョルジュ・バタイユ、ミシェル・フーコー、ジャック・デリダ、ジュリア・クリステヴァらが名を連ね、構造主義とポスト構造主義は世界的な影響力を持ち、フランス現代思想が隆盛を極めた。映画界では、1950年代末から1960年代中盤にかけて、ジャン=リュック・ゴダールやフランソワ・トリュフォーらヌーヴェルヴァーグが台頭した。人民戦線の頃以降のフランス共産党の党勢拡大などを背景として、1968年1月1日、セーヌ県が廃止され、パリは特別市となった。このような政治的や文化的状況下で、五月革命が起こった。1950年代以降のパリでは、おもに郊外で人口が急増した。環状高速道路ペリフェリックをはじめとする高速道路網や、郊外と都心を直結する鉄道RERなどが整備され、ラ・デファンス地区がオフィス街として開発された。一方で豊かな都心と貧しい郊外という構図が生まれ失業や治安の悪化が社会問題となった。2005年にはパリ郊外暴動事件が発生した。2015年11月にはパリ同時多発テロ事件が発生した。フランス革命後の地方自治制度ではパリ市はセーヌ県の内側のみであった。当初は48の地区に細分化されていたが各地区を統合する形で12の行政区が設けられるに至った。1860年に市域が拡張されてほぼ現在の範囲となり同時に新たな20の行政区が設けられた。これらの行政区は1795年10月11日以降存在していた12の旧行政区から置き換えられたものである。1968年1月1日に完全施行された「パリ地域の再編に関する1964年7月10日法」による再編以降セーヌ県が廃止されパリは県とコミューンの地位を併せ持つこととなった。県でもあるパリは県を構成する唯一のコミューン以外に下位機構を有しない唯一の県である。コミューンとしてのパリは1860���のパリ拡張の際に創設された20の行政区と18の選挙区に分けられている。1976年にイル=ド=フランス地域圏が発足すると、パリはその首府となった。市内20の区はパリ市街地の1区から右回りの渦巻状に番号がつけられている。1 - 48 - 1216 - 20区は右岸に5 - 713 - 15区は左岸に位置する。この街の行政的地位は何度も変更されている。1871年3月26日から5月22日までパリには蜂起勢力である代表制普通選挙による議会をともなうパリコミューンによる政府が置かれた。1870年に成立した第三共和政はこの出来事への恐怖心を持つ保守主義者たちによって運営されていた。彼らはパリの行政権をセーヌ県知事(prfet de la Seine)にパリの警察権を警視総監(prfet de police)にそれぞれ与えることを内容とする1884年4月5日法を制定した。他方市町村選挙で議員が選出されるパリの議会は毎年主として代表者としての機能を有する「議長」を選出していた。すなわちパリには市長がいなかった。また街の予算は国の同意を得る必要があった。1975年12月31日法は、109人の議員で構成される市議会かつ県議会であるパリの議会を創設し、議員によってパリ市長を選出することにした。区の委員会は、諮問と推進の役割を有していた。委員会の構成員は、選挙人・パリ市長・パリの議会によって選出された。警視総監は国家により任命され、警察権を行使する。パリ・リヨン・マルセイユおよびコミューン間の協力による公共機関に関する1982年12月31日法が、パリには1983年の市町村選挙の際に施行され、163人の議員を選出することになったほか、特に予算に関する議会の権限が拡大し、委員会を廃して区議会が創設された。2002年5月2日の2002-810号デクレ以降、行政警察権がパリ市長と警視総監に共有されることとなり、その実現のために、両者は互いの活動方法を相互に承認することとなった。承認手続に関しては、パリ議会が審議したうえ、毎年その予算および決算を承認する必要がある (この予算は国家によって決められたものである)。パリ市長はこれ以降、生活安全分野に関する限り、たとえ警視総監の手中にある権限に関するものであっても関与することになった。パリの議会の活動は、パリ県/コミューンが資本を保有する会社の仲介人やパリの混合経済会社(SEM)によっても実現される。ほかのコミューンとの連携の不存在.ほかの主要都市とは異なり、パリとその郊外のコミューンとの間、« 大パリ » 内には、固有の予算をともなうコミューン間の連携が存在しない。もっとも、パリとその郊外の県との間では、下水道組合は、イル=ド=フランス地域圏の公共機関であり、パリとその郊外の総合的な交通網整備を行う組織である。ほかの国際的な大都市と異なり、おおよそ環状のペリフェリックで区切られる中心市街のみを範囲とするについては、その実際的な範囲を明確にする必要がある。上述各城壁の変遷で見るように歴史的かつ政治的な配慮が障害となって、« 大パリ » を管理する行政機関が存在しないことは、パリ都市圏の現在の主要な問題のひとつである。現在のパリの領域は、上述概要の項で指摘されているように日本の山手線内よりやや広い程度である。その市域の境界線は歴史的で時代錯誤な経緯の産物、あるいは現在はパリ都市圏に取り込まれ、消えてしまった地形に適合していたにすぎないものであるにもかかわらず、市域の内外を問わず、パリ都市圏の人々には共通の行政的需要ならびに経済的・社会的関心がある。ところが、各コミューンは行政的・税制的に独立しており、コミューンや県の枠を超えて存在する集団的需要(交通や住宅など)に関する組織については、都市圏規模のまとめ役となる機構が存在しない。イル=ド=フランス地域圏となると、地域の約80パーセントに農村部が残っており、パリ都市圏のための枠としては大き過ぎ、« 大パリ » たるパリ都市圏内の適切な連携に適っていない現状がある。初代市長はジャン=シルヴァン・バイイ。1795年 - 1848年の2月革命まで12の区に分割され各区にConseil municipalと併存だが市長が市と県を兼ねた議会の議長として県の長とされる。2011年の当初予算は約85億8200万ユーロでうち69億600万ユーロが行政活動に16億7600万ユーロ��投資に充てられている。債務残高は約26億9600万ユーロである。2008年の県債は266億ユーロにのぼる。パリ大審裁判所がシテ島のパレドジュスティス に置かれている。この裁判所はフランスの大部分の訴訟事件を取り扱う巨大司法機関である。各区には小審裁判所が置かれている。パリ商事裁判所は、やはりシテ島にそれぞれ置かれている。パリのみを管轄する裁判所以外に、複数の県を管轄するパリ控訴院もパレ・ド・ジュスティスに置かれている。その管轄は、セーヌ=エ=マルヌ県、エソンヌ県、セーヌ=サン=ドニ県、ヴァル=ド=マルヌ県、ヨンヌ県である。パリ控訴院の管轄区域には、フランス全人口の12.6パーセントが暮らしている。なお、ほかのイル=ド=フランス地域圏内の各県およびウール=エ=ロワール県は、ヴェルサイユ控訴院の管轄となる。パリは4区所在のパリ地方行政裁判所の管轄に属する。控訴はパリ行政控訴院に対して行うことになる(ほかにマタウトゥムランヌーヴェルカレドニーフランス領ポリネシアの各地方行政裁判所からの控訴を受ける)。最高裁判所及び憲法裁判所.セーヌ=サン=ドニ県オー=ド=セーヌ県ヴァル=ド=マルヌ県と同様にパリ警視庁の管轄下にある。イル=ド=フランス地域圏で犯される重罪および軽罪は、フランス全土での4分の1を占める。パリ市内、その外側のの割合は、全国平均を上回る20.73パーセントである。パリでは2008年の強姦事件数1413件で発生率が0.6‰とフランス国内で2番目の高率であった。身体的暴行に関しては2万7857件であった。暴行を行うとの脅迫に関しては2008年においてパリでは5165件認知された。2008年の財産犯に関してブーシュ=デュ=ローヌ県に次ぐ件数が認知された。パリの中央集権主義はまたこの街がテロの犠牲者であることをも物語る。よく知られるナポレオン1世に対するサンニケーズ街テロ事件や最近ではRER B線サン=ミッシェル=ノートルダム駅での爆弾テロがある。パリの歴史はこれらの象徴的価値の高い事件が刻まれたものである。これらはこの街での日常生活にとって取るに足りないというものではない。特にヴィジピラート計画 の実施により観光地や首都の戦略的要衝地の近くに武装した警察憲兵および兵士が警備しているのを目にすることになる。パリのいくつかの刑務所は今日でも有名である。右岸のグランシャトレは王の刑務所を内部に置きその別館とともに14世紀から破壊される1782年まで投獄所および拘置場所とされていた。コンシェルジュリー、バスティーユ牢獄、ヴァンセンヌ城の3つの刑務所は、歴史的なシンボルとなっている。コンシェルジュリーはパリの裁判所固有の刑務所であったが、フランス革命の間にマリー・アントワネットやほかのギロチン犠牲者を迎えたあとも、1914年まで拘置所として機能し続けた。バスティーユ牢獄は1370年から構築され、リシュリューが権力を振るっていたころに国の刑務所となった。 ヴァンセンヌ牢獄は、やはり1784年まで国会の刑務所であったが、その名の通りの投獄の場というよりもむしろ軟禁場所であり、第二帝政下までしばしばそのように使われていた。1830年から1947年まで11区にロケット刑務所があったがパリで唯一残存する刑務所にある。ほかにポワシーにある困難受刑者が収容されるメゾンサントラルがある。西岸海洋性気候に属し、暖流である北大西洋海流の影響で高緯度の割には温暖である。夏である。パリの気象観測は中心部から離れた14区にあるで行われている。パリの郊外にはヴェルサイユなど有名な観光地がいくつかあり、そのほとんどはパリから日帰りで往復できる。16区 - 17区につながるセーヌ川下流の西部方面には閑静な高級住宅地が広がっている。逆に18区 - 20区からつながる北東方面は低所得層の集まる地価の安い郊外となっており近年は犯罪増加などの問題を抱えている。フランスで単にという場合こうした地域を婉曲的に指すことが多い。その他の方面の郊外は一般的な住宅衛星都市となっている。パリより電車で各30分ほど離れた郊外にはいくつかの衛星都市があり近代建築によって町の機能が整えられている。中でもラデファンス地区には「新凱旋門グランダルシュ」をはじめ高層ビル群���集中しており多数の企業の支店を抱える新都心となっている。公園はパルクと呼ばれ区別されている。パリには東西2つの大きな森があり、パリ市民の憩いの地となっている。現在はこの森もパリ市の敷地に含まれる。パリは東西南北に4つの主要な墓地があり多くの著名人が眠っている。この他パリ中心部に位置するパンテオンにもルソーやヴォルテールヴィクトルユーゴーデカルトといった偉人たちが埋葬されている。パリは世界屈指の観光都市である。などのイメージを前面に出す戦略をとっている。おもな集客装置は、歴史的な建造物の数々、数々の美術館に収められた著名な美術品、有名料理店で提供されるフランス料理、高級銘柄を扱う店舗などである。建造物は中世以前のものも残るが第三共和政期のパリ改造やベルエポックの建造物あるいはフランス革命200周年期のグランプロジェの建造物など各時代の世界の最先端のものが多い。美術館にはフランスで活躍した著名な芸術家の美術品の他戦利品や購買によって収集された世界一級の収蔵物が並ぶ。という異名が言い表すように、パリは美術・音楽・演劇・バレエ・食文化・ファッションなど、さまざまな芸術の世界的な中心地として名を馳せている。1989年には欧州文化首都に選ばれた。ルーヴル美術館やオルセー美術館ポンピドゥーセンター(国立近代美術館)などの美術館に世界一級の美術品が多数収蔵されざっくりと時代ごとに美術館が割り振られている。古代から19世紀半ばまでの美術品はルーブル美術館で観ることができモナリザサモトラケのニケミロのヴィーナスなど世界中の誰もが知っている名作をはじめとしてナポレオンがエジプト遠征時に集めた古代エジプトの考古学品なども含めて常設展示数はおよそ2万6000点で(展示しきれない総所蔵作品数は30万点以上)ざっと観ても数日かかり全部じっくり観ると1か月ほどかかるとも言われる。ルーヴルは建物自体もかつての王宮であり入場者数は年間800万人以上である。19世紀以降の絵画つまり印象派象徴主義アールヌーボーの絵画などはオルセー美術館に展示されている。パリ市が運営する公共の美術館博物館は市内に14ありパリミュゼ()という市の組織が管轄している。これらパリ市所蔵の美術コレクションは国のコレクションに次ぐ規模を誇る。2020年月パリミュゼはパリ市立美術館博物館が所蔵する約10万点の作品の無料ダウンロードを許可すると発表した。パリミュゼはこの他に下水道博物館野外彫刻美術館パビリオンデザールも管轄している。世界で一番歴史の長い劇団、1680年創設のコメディ・フランセーズがあり、同名の劇場でその舞台を観ることができる。パリには1661年に王立舞踏アカデミーとして創設された世界最古のバレエ団があり、旧オペラ座のガルニエ宮や新しいオペラ・バスティーユでその公演を観ることができる。パリは音楽都市のひとつである。シャンソンを聞かせるライブハウスがいくつもある。パリには管弦楽団が多数ありコンサートが頻繁に行われている。毎年夏至の日6月21日にはFte de la musiqueの音楽の演奏が行われる。Conservatoire de Paris コンセルヴァトワールドゥパリがあり世界から才能のある若者が一流のバレエや音楽を学びにやってきている。パリはガストロノミーたちがそれら有名店で修行に励んでいる場所でもある。料理競技会も開催されている。16世紀前半の神聖ローマ皇帝カール5世は、フランス国王フランソワ1世の生涯の宿敵でありながら、フランス文化を、それ以上にパリの文化をこよなく愛し、18世紀の啓蒙時代には、プロイセン王国中興の祖であるフリードリヒ2世はヴォルテールと交流しパリから招き、また、ロシア帝国女帝エカチェリーナ2世はヴォルテールやドニ・ディドロと交流し、ディドロをパリから呼び寄せた。フランスにおける経済の中心地であり世界屈指の経済都市でもある。2014年のパリ都市圏の総生産は6798億ドルであり東京都市圏ニューヨーク都市圏ロサンゼルス都市圏ソウル都市圏ロンドン都市圏に次ぐ世界6位の経済規模を有する。多国籍企業の本社数や資本市場の規模などビジネス分野を総合評価した都市ランキングではロンドンとともにヨーロッパでトップクラスである。BNPパリバトタルアクサなど世界有数の大企業の本社が所在しており世界500大企業の本社数ではニューヨークやロンドンを凌ぎ西洋の都市では最多である。工芸品や贅沢品や服飾品などのビジネスの集積地でもある。アンシャン・レジームの時代では、貴族は服をたった1着手に入れるにも、まずは布地を扱う商人のところへ行って気にいる布地を苦労して見つけ、次にその布を裁断する職人のところへそれを持っていって、次にそれを縫いあげる職人、と何軒もの店・職人をかけずりまわらなければならず、おまけに訪ねる店はの空間でもある。若い女性の中には商人によって。各節とも日本語での五十音順。パリ近郊に本社を置く企業も含める。パリ市の人口は2011年現在、約225万人で、近年は微増傾向にある。特に、再開発が進む南部や移民流入の著しい東部での人口増加が目立っている。この間、郊外(市域外)の人口は増加している。20世紀以降、かつて城壁に囲まれていた市域外にも市街地が大きく拡大し続け、現在、イル=ド=フランス地域圏(パリ地域圏)全体の人口は1,198万人にのぼる。パリ市域内もおおむね商業・業務・住宅地としての活気と威信を維持しており、アメリカの大都市などで見られる都心部の荒廃や郊外への人口流出(インナーシティ問題)はさほど見られない。むしろ、移民の多い一部の郊外での治安の悪化が顕著である(バンリュー参照)。パリはほかの大都市同様、学生、若者、老人が多い一方、子供を有するカップルの割合は低い。1999年、パリ市の世帯数の22パーセント、人口数の40.7パーセントは1人以上の子供を有するカップルであったが、単身世帯数の割合は27パーセント、カップルのみの世帯数の割合は19パーセントであった。パリ市では47パーセントと高い。離婚率ももっとも高く、婚姻100件のうち55件は離婚に至っており、パリ市民の7.7パーセントを占めている。出生率は1,000人中14.8人であり、国平均の13.2パーセントより高い。一方、子どもの数は世帯あたり1.75人で、国平均の1.86人より少ない。半分の世帯において子どもは1人である。パリ市では住居が狭く高額であることが、その主因である。高所得者層はおもに西部に、低所得者層や移民はおもに北東部に居住している。パリ市の平均世帯所得はフランス全体の平均より高く、隣接する郊外のオー=ド=セーヌ県、イヴリーヌ県、エソンヌ県、ヴァル=ド=マルヌ県の4地域の平均所得も国内で最高水準であり、イル・ド・フランス地域圏に高所得者層が集中している。しかしパリ市内の社会的格差の状況はさらに複雑である。伝統的には豊かなパリ市西部と貧しいパリ市東部という構図がみられる。実際7区の平均世帯所得は3万1521ユーロにのぼり19区の1万3759ユーロの2倍以上となっている。イルドフランス地域圏においてパリ6区7区8区16区はもっとも高所得の地域10区18区19区20区はもっとも低所得の地域に分類される。さらに市内の19区の状況はそのまま所得が低い北東部郊外のセーヌ=サン=ドニ県に連なる一方16区の外縁は西部の豊かな郊外に続く。18区19区20区にはパリの貧困層の4割が集中し学校の中退失業健康問題などが集中している。EU域外からの移民はフランス国内の出身者に比べて貧困な状況に置かれていることが多い。18区はマグリブや、最近はサブサハラ地域のアフリカからの移民が多い。フランスの国勢調査では法律上、民族や宗教の属性を問うことができないが、出身地の情報は得ることができる。1999年の国勢調査によると、パリ都市圏はヨーロッパでもっとも多民族化が進んでいる地域のひとつであり、人口の19.4パーセントがフランス本国外の出身である。また、パリ都市圏の人口の4.2パーセントは1990年から1999年の間にフランスにやってきた新しい移民であり、その大半は中国またはアフリカ出身である。さらにパリ都市圏の人口の15パーセントはイスラム教徒である。パリへの大量の移民の第一波は1820年代ドイツの農民が農業危機とナポレオンボナパルトの侵攻にともなって移住してきたことによる。その後今日に至るまで何度か移民の波が続いている。19世紀はイタリア人と中央ヨーロッパのユダヤ人1917年のロシア革命後はロシア人第1次世界大戦中は植民地の国々から大戦間期はポーランド人1950年代から70年代はスペイン人イタリア人ポルトガル人北アメリカ人またアフリカアジア地域の独立後はユダヤ人が移民してきた。移民の居住区域はそれぞれ出身地ごとに異なっている。2005年から2006年の学校年度における公立学校の児童生徒数は26万3812人であった。うち13万5570人が初等教育12万8242人が中等教育を受けていた。同年度の私立学校の児童生徒数は13万8527人でうち9万1818人が契約に基づく就学であった。パリには優先的教育地域がある。2007年現在、881校の公立学校があり、うち323校が幼稚園、334校が小学校および5校が職業リセであった。中等教育については5区にそれぞれ所在するリセルイ=ル=グランやリセアンリ=キャトルが全国的かつ国際的にも有名である。2007年現在イル=ド=フランス地域圏では約58万5000人が高等教育を受けておりフランス全土の4分の1強にあたる。特に1990年代のフランス国立行政学院(ENA)のストラスブール移転や高等師範学校のリヨン校などの脱中央化の動きもみられるが大部分の名高い国立学校は常にパリ地方に設置されている。12世紀以降、パリはヨーロッパにおける知識の大集積地のひとつで、特に科学技術と哲学分野に秀でていた。フィリップ2世が大学の構成員に対して特権与えた西暦1200年はパリ大学の設立の年とされ、人々に象徴的に記憶されている。そこでは教育が行われた場所である寄宿舎が学部を構成した。ソルボンヌ寮の創設は1257年を起源とする。大学は、サント=ジュヌヴィエーヴの丘を中心として、カルチエ・ラタンに発展した。カルチエ・ラタンは、現在でも、パリ大学を含む高等教育機関の重要な中心地である。18世紀以降いくつかの専門職のために専門化された高等教育機関が創設され現在のグランゼコールの起源となった。エコールポリテクニークおよび高等師範学校はともにフランス革命期に創設された。近代のパリ大学は19世紀法医薬文神理の6学部に組織化された。20世紀五月革命後には多くの学生が強く社会問題を考えたがソルボンヌはその震源地となった。その結果パリ大学はそれぞれ専門分野を相対的に限定された13の個別の大学へと分割再編された。パリ市内は、現在も大学の中心地であり続けている。パリ第1からパリ第7までの各大学は再編されて左岸の3つの区大学、高等師範学校、コレージュ・ド・フランスといった歴史的施設が残り、重要な地位を今も保ち続けている。またほかの高等教育機関もこの地区に存在する。パリ政治学院パリ第1大学パリ第2大学ジュシューキャンパスなどである。なおパリ第9大学エコールポリテクニークエセック経済商科大学院大学などはいずれも郊外に移転している。大学街は東部に広がりかつて5区にあったパリ第7大学はフランス国立図書館が移転した13区において複数の大学施設を一般公開している。国立高等工芸学校が1912年からイタリア広場近くに迎え入れられている。1960年代以降バンリューに大学が作られ始めたがその先鞭となったのは1964年にナンテールに作られたパリ第10大学である。同時期には複数のグランゼコールが特に広大な敷地を求めて同様にパリの中心部を去っている。パリの南にあるサクレー台地は重要な研究拠点となっている。その広大な大地にはパリ第9大学やグランゼコールのほかサクレー研究所などの公的研究所や民間の研究施設が多数存する。パリ市は、7つの高等専門学校を有している。4つは応用芸術に関するもので、エコール・ブールが有名である。2つは科学技術に関するもので、パリ市立技術学校、パリ市立工業物理化学高等専門大学である。園芸に関するものは、エコール・デュ・ブルーユである。数多くの病院がパリに設置されている。そのうちいくつかは特に古く医療の伝統は中世にまでさかのぼる。651年にパリ司教だった聖ランドリーによって設立されたシテ島のオテルデューはパリでもっとも古い医療施設である。慈愛ともてなしの象徴であり12世紀まではパリで唯一の病院であった。大部分の医療施設は1849年1月10日法によって創設された公的医療施設である"AP-HP"(Assistance publique - Hpitaux de Paris公的支援-パリ病院連合)に名を連ねパリ市の後方支援をしている。地域圏およびパリの医療セ��ターの役割も果たし多くの医師や公務員を含む9万人以上が業務に従事している。5区にあるミラミオン館はかつて病院の施設として使用されていたが現在はAP-HPの博物館となっておりパリの医療の歴史を想起させている。AP-HPのパリ市内主要病院としてはネッケル小児病院コシャン病院サルペトリエール病院サンタントワーヌ病院サンルイ病院ビシャ=クロードベルナール病院ジョルジュポンピドゥー欧州病院を挙げることができる。他方、アンヴァリッド・軍病院はAP-HPに属していないが、保健大臣の監督のもと国防大臣に権限が委任されており、退役軍人などの治療を行っている。同様に、国立アンヴァリッド研究所 では、現役および退役軍人などが医療看護や外科的治療を受けられる。パリの近郊においてもAP-HPに属してはいないがいくつかのコミューン連携の総合病院が存在する。たとえばアルジャントゥイユのビクトルデュプイ病院やヴェルサイユ医療センターを挙げることができる。また、医療研究機関としては、1260年にルイ9世によってパリの視覚障害者救済を目的として設立されたキャンズ・ヴァン病院、いずれも軍の衛生部に属するヴァル=ド=グラース軍研究病院、ペルシー軍研究病院、ベガン軍研究病院を挙げることができる。さらに、ヌイイ=シュル=セーヌには、1906年に設立された社会保障非受益者のための非営利・認可私立病院であるパリ・アメリカン・ホスピタルも特筆される。パリは、フランス全土でも医師の密度がもっとも高い街のひとつである。たとえば、2005年現在、パリの一般医は5,840人を下らないが、セーヌ=サン=ドニ県とヴァル=ドワーズ県には両県を合わせても3,349人の一般医しかいない。パリでは、公衆衛生を保証・保持するため、特に貧困層向けに、16の市立入浴施設が9つの区に分散設置されている。これらの入浴施設は個室を有するが、洗面具は利用者が用意することになっている。市内にはメトロ(地下鉄)とRER(高速地下鉄)がくまなく走っている。メトロは14号線まであり、運営はRATP(パリ市営交通)が行っている。2006年にパリ市最南端でトラム(路面電車)が開通した。このほか郊外を結ぶトラムがある。パリ市内では道路混雑を避けるため自動車交通の抑制が目指されており、バス・自転車専用レーンが多く設置され、一方通行路も多くルートが複雑であるため、不慣れであると運転が難しい。また主要交差点の多くは、ラウンドアバウト方式となっている。地元民の多くは、狭い市内で駐車場所を確保するために前後間隔を密着させて道路脇に縦列駐車を行っており、路上駐車が非常に多い。パリ市域の外縁を環状高速道路ペリフェリックが取り巻いておりその内側の市域には立体交差式の自動車専用道はあるものの高速道路は存在しない。 +ヨーロッパ的な街並みに対し、と異名がつけられている。特に移民や植民地などでフランス色が強い都市に多い。上述までの既出のリンクを除く。ヨーロッパは、地球上の七つの大州の一つ。漢字表記は欧羅巴。地理的には、ユーラシア大陸北西の半島部を包括し、ウラル山脈およびコーカサス山脈の分水嶺とウラル川・カスピ海・黒海、そして黒海とエーゲ海を繋ぐボスポラス海峡-マルマラ海-ダーダネルス海峡が、アジアと区分される東の境界となる。面積から見るとヨーロッパ州は世界で2番目に小さな大州であり1018万kmは地球表面積の2%陸地に限れば6.8%を占める。アジアに跨る領土を持つロシアはヨーロッパ50か国の中で面積および人口第1位の国家である。対照的に最も小さな国家はバチカン市国である。総人口はアジアアフリカに次ぐ7億3300万。これは地球総人口の11%である。ヨーロッパ特に古代ギリシアは西洋文明発祥の地である。これは16世紀以降の植民地主義の始まりとともに世界中に拡散し支配的な役割を果たした。16世紀から20世紀の間ヨーロッパの国々はアメリカ州アフリカオセアニア中東アジアの大部分を支配下に置いた。2度の世界大戦はヨーロッパを戦火で覆い20世紀中頃の西ヨーロッパによる世界への影響力減衰に結びつきその地位をアメリカ合衆国とソビエト連邦に奪われる結果となった。用語「ヨーロッパ」は、歴史が展開する中で使われ方が様々に発展��た。地理用語としてのEurpの記録に残る最古の使用法は、エーゲ海の南海岸を指したもので、デロス島のアポローンに捧げられたホメーロス風讃歌にある。初めてヨーロッパとアジアを区分した地図はミレトスのヘカタイオスが作成した。ギリシアの歴史家ヘロドトスは著書『歴史』第4章にて、世界がヨーロッパ・アジア・リビアの3箇所に分けられ、その境界はナイル川とリオニ川であることを示唆した。彼はさらに、ヨーロッパとアジアの境界はリオニ川ではなくドン川とする考えもあると述べた。1世紀の地理学者ストラボンも東側の境をドン川と考えた。の人物の著述や『ヨベル書』では、各大陸をノアから3人の息子たちへそれぞれ与えられたものと記している。そこでは、ヨーロッパはリビアとの境となるジブラルタル海峡のヘラクレスの柱から、アジアとの境となるドン川まで広がる地域としている。ヨーロッパの文化に言及すると、まず大きく東西2つに分けられ、となる。これらはイスラム圏と対比することもできる。西ヨーロッパ地域はイベリア半島北部、ブリテン諸島、フランス、キリスト教化されたドイツ西部、アルプスそして北および中央イタリアが該当する。この考えはカロリング朝ルネサンスの影響を受け継いだもので、カール大帝の文化相となったアルクィンの手紙の中に、しばしば Europa の単語が見られる。このような文化的また地理的な区分は中世後期まで用いられたが、大航海時代にはそぐわなくなった。ヨーロッパの定義問題は最終的に、スウェーデンの地理学者兼地図製作者のが提唱した、水域ではなくウラル山脈を最も重要な東の境とする1730年の案がロシア・ツァーリ国を皮切りにヨーロッパ各国の支持を集め、解決を見た。現代ではヨーロッパとはユーラシア大陸の北西に位置する半島と認識され北西南が大きな水域で区切られた陸地と認識される。東の境界は通常ウラル山脈からウラル川を経由してカスピ海に接続しそこから南東にあるコーカサス山脈を通って黒海ボスポラス海峡そして地中海まで繋がる。社会政治学的または文化的な側面を考慮するとヨーロッパの境界は様々な言及がなされる。例えばキプロスは小アジアのアナトリア半島に近接しているがここはしばしばヨーロッパの一部とみなされ現在ではEUの一員でもある。逆にマルタは長い間アフリカに属する島と受け止められていた。日本の外務省の公式サイトはアルメニアカザフスタンなどを欧州に含めている。「ヨーロッパ」という単語は欧州共同体()のみを指す地政学的な制限を加えて用いられる事もありさらに排他的な用例や文化的な中心地と定義する場合もある。その一方で欧州評議会には47か国が参加しているのに対しEU加盟国は27か国に過ぎない。単語ヨーロッパの語源にはさまざまな説がある。古代のギリシア神話には、主神ゼウスが白い雄牛に変化して攫ったフェニキアの王女エウローペーが登場する。ゼウスは彼女をクレタ島へ連れ出し、そこでミーノースら3人の子どもを得た。このエウローペーがヨーロッパの語源という説がある。他に、という意味を持つという。初期インドヨーロッパ語族の信仰では、とは地球そのものを指す形容詞句であった。他の説ではセム語派の言語に源流を求めアッカド語の が元だとも言いフェニキア語の やアラビア語の やヘブライ語の と同根語だと言う。ただしはとセム語の単語との間には音韻論的に合致する部分がほとんど無いと主張した。ヨーロッパの大半の言語で発音こそ違えど綴りは であるが英語フランス語では末尾音が脱落し となる。英語での発音はである。漢語ではの意味で用いられている。多くの主要言語では から派生した単語が、大陸という単語が、正式名称の や よりも多用される。ヨーロッパとは歴史や伝統、文化に共通する地域を類型化してできた地域名であり、地学上はユーラシア大陸西端の半島にすぎない。そのため、領域は観念的なものである。ヨーロッパ大陸の起源は、22億5000万年前のとユーラシアに分裂した。ただしこの2大陸は長い間グリーンランドで繋がっており、動物の行き来があった。これも5000万年前頃から海面の起伏や低下活動を通じて現在に通じるヨーロッパの姿が形成さ��、アジアなどと接続した。現在のヨーロッパの形は500万年前頃の第三紀遅くに形成された。ヨーロッパに定住した初期のヒト科は、約180万年前にジョージアにいたホモ・ゲオルギクスである。他にも、スペインのアタプエルカからは、約100万年前のヒト科の化石が発見された。であり、ヨーロッパには4.3万年前から4.0万年前頃に進出した。ヨーロッパ概念の嚆矢.歴史家ヘロドトスはにてヨーロッパが単にのヨーロッパを対比させている。しかし厳密にはヨーロッパではなくギリシャを対比させている。ヨーロッパは比較的自由だがギリシャは自由だとしている後代のアリストテレスと共にヨーロッパと自己を区別したギリシャの自意識がここにある。このような対比は』にもありペルシア人の合唱隊がクセルクセス1世の母アトッサを神の妃であり母と讃えるのに対し決戦に向かうギリシア人がと叫ぶ姿を描写した。古代ギリシアではこのように隷属を特徴とするアジアとは異なる社会形態を持つ地として自らの社会を区分する概念を持っていた。 +ヨーロッパは、西の1/5を占める陸地であり、アジアとの地形的に明瞭な区分がない。ヨーロッパの主軸山系は西からがある。これらは急峻ではあるが、古代からかなり高地にまで集落がつくられ交易が行われていたように、アジアのヒマラヤ山脈のような人跡未踏の地にはならず、山脈の両側にある程度の分岐を施しながらも断絶させるようなものではなかった。河川はヨーロッパ大陸が小さいためアジアやアフリカアメリカのような大河が無い。アルプス山脈北側はを除きおしなべて少ない。人文地理的な区分をヨーロッパに施すと3つの領域に分けることができる。アフリカを含めた地中海沿岸はの平坦で単調な地形が広がり中央アジアの草原地帯へと続いている。そのため東方からの異民族侵入に弱く結果的に何度も占拠を許した。ヨーロッパの防衛線は事実上西ヨーロッパの東端となり東ヨーロッパは都市化が遅れた。以下に、場合によってはヨーロッパに分類されることがある地理的意味でのの国々を示す。以下に、事実上独立した地域を示す。ヨーロッパは概してとほぼ同じ緯度にあるが、1月の平均気温はカルガリーより約8℃ちかく高い。細かな差異では地中海沿岸は夏に亜熱帯気候的性格を現して雨量が極端に少なくなるのに対し冬は温暖で雨も多い。西ヨーロッパは海洋性気候の特徴を持ち夏は涼しく冬は暖かい。季節による雨量の変化も少なくほぼ一定している。これに対し東ヨーロッパは大陸性気候であり夏は暑く冬は寒い。黒海沿岸を除き雨量は少なく冬には多くの河川や湖沼が凍結する。かつて、おそらくヨーロッパの80-90%は森林で覆われていた。その姿は今から1000年ほど前までは維持されていたと考えられる。類も見られた。ただし乾燥した地中海沿岸では、古くから森林の発達は限定的であった。東ヨーロッパでは北部こそ針葉樹林が広がっていたが、東南部は乾燥したステップ地帯が広がり木々の生長はあまり見込めなかった。黒海沿岸は肥沃な黒土域であり、古代から豊かな穀物収穫があげられていた。これらに変化が見られたのは12世紀後半以降、盛んに広まったなどは、近年になって人間が植栽したものである。大陸という単位で見ればヨーロッパの経済規模は最も大きく2008年の資産データでは32.7兆ドルと北アメリカの27.1兆ドルを上回る。2009年においてもヨーロッパは経済危機前の水準を上回る総資産総額37.1兆ドルという世界全資産の1/3を確保し最も豊かな地域であり続けた。27か国で構成される欧州連合のうち16か国が共通』によると、ドイツが5位、イギリスが6位、ロシアが7位、フランスが8位、イタリアが10位にランクインした。ヨーロッパ内部では一人あたりの国民所得に大きなばらつきがある。最も高いモナコは172676USドル最も低いモルドバは1631USドルに過ぎない。[[ファイル:Rectified Languages of Europe map.png|right|thumb|300px|ヨーロッパの言語地図]]ヨーロッパの言語はほとんどがは孤立した言語である。ヨーロッパ人はが高頻度に見られる。 +歴史的にヨーロッパのを標榜する人々も西ヨーロッパを中心に増加傾向にあり実際にチェコエストニアスウェーデンドイツフランスなどで無宗教を表明してい���人の割合が高い。[[FileEU CIS.PNG|thumb|right|400px|[[欧州連合]]と[[独立国家共同体]]]]11世紀以降、ヨーロッパは各都市間および農村との間を繋ぐ交通網と経済交流が盛んに行われ、日用品や生活必需品までもの需要供給関係が確立していた。そして共通のラテン語を基盤とする普遍的文化に覆われていた。この統一的な状態を破壊したものが、近代的な国民国家の成立と言える。それぞれの国が個別の言語や法律などを以って政治的支配を施し、内政的には都市と農村の対立、外交的には分断された主義を原因とする争いが激化し、ヨーロッパの近代をに陥らせた。欧州統合は通貨・経済から、最終的には政治統合までを目指す活動であり、それは国民国家樹立以前の普遍的なヨーロッパを現代に復活させようという動きでもある。そして現代的視点からすれば、欧州統合は地方主義そして国民国家の緩やかな否定でもある。アメリカ合衆国と比肩する政治・経済共同体として国際的な立場を強化するという点もさる事ながら、思考的にも近代的な政治区画観念から脱却し、大陸主義に立脚したものへの転換を迫る意義を持つ。生物は生命現象を示す自然物である。動物菌類植物原生生物古細菌細菌などの総称。多くの場合ウイルスを含めないが立場によっては含めることもある。というのが一応の定義であるがこれ以外の定義も存在し統一は困難であるとされる。生物が持ち無生物が持たない能力や特徴としては一応自己増殖能力エネルギー変換能力自己と外界との明確な隔離があるとされる。これに進化する能力を加えることも多い。また生物は外界とのやりとりを絶やすことのない開放系を取りながら恒常性を維持する能力を持ち常に変化する。生物はすべて細胞を基礎としており細胞によって構成されていないウイルスなども寄生する細胞がなくては増殖できない。2021年現在の地球の大気組成は、窒素が78%、酸素が21%、アルゴン0.93%、二酸化炭素が0.041%という構成になっているが、生物が現れる前は、二酸化炭素が多くを占める構成であったと推測されている。その温室効果によって地表の温度も高かった。ここに生物が出現し、特に光合成による有機物の生成。また、酸素の多い大気になったことによって、オゾン層が形成され、生物にとって有害な宇宙線や紫外線の遮断がなされ、生物の陸上進出が可能になった。また、海水中の酸素が増えることによって、海水に溶け込んだ鉄が酸化鉄となって沈降し鉄鉱床を堆積させた。地球における酸素の出現は、24億年前の以降と推定されており、これはシアノバクテリアによる酸素発生型の光合成の進化がきっかけと見られている。一方、現在においては、人類が地球の環境に様々な大きな変化をもたらせていると言える。地球上の全ての生物の共通の祖先がありでは、このような地球は自己調節能力を持ったひとつの巨大な生命体とみなす。現在生きている生物は少なくとも300万種、おそらくは1000万種に達するが、これらをその特徴に応じて大小の分類階級に所属させ、それによって生物を整理し秩序を与えることを分類という。分類階級のうち、次に掲げるものは必ず設置される(基本分類階級)。すなわち大きいほうから順に界、門、綱、目、科、属である。歴史的に最も古くは生物は植物と動物からなるとした二界説に分類する三ドメイン説が一般的になってきている。三ドメイン説においては、動物、植物、菌類、原生生物はすべて真核生物という単一のドメインに属する。一方、モネラ界は細菌および古細菌という2つの大きなドメインに分割される。見た目の大きさという点では、細菌および古細菌はすべて微生物であるため、真核生物と違って日常で目にすることはまずないが、生態の多様さという点では細菌および古細菌ドメインは真核生物よりはるかに大きい。また近年では真核生物が細菌および古細菌が融合して誕生したとする説が有力となりつつあり(参照 真核生物#起源)この場合地球上には本来つのドメイン(細菌と古細菌)しか存在しなかったことになる。ちなみに古細菌はかつて細菌よりも起源が古い可能性が示唆されたため付けられた名前であるが実際のところは細菌と古細菌は両者とも同等に古い起源を���っている。生物を成り立たせる生体物質.水タンパク質脂質多糖核酸は生物の主要な構成成分である。生きているという状態は無数の化学反応の総和であるという見方もできる。これら化学反応がおこる場を提供しているのが水である。生物は水の特殊な物性に多くの事を依存しており極めて重要でかつ主要な構成成分である。どの生物でも体の約70%は水でありその他の物質が30%ほどを占める。タンパク質は量の上で多数を占める生体高分子である。20種類のアミノ酸が通常100 - 1000個重合してタンパク質となる。あるものは細胞を支える骨格となり、あるものは生体内化学反応の触媒となる。必要なタンパク質を必要な場所で産生するための情報を記録する生体高分子が核酸である。この情報は遺伝によって次の世代に引き継がれる。ロバート・フックがコルクを顕微鏡観察して見出した小さな区画に小部屋と名付けたように、細胞とはある区画化された空間を指す。この区画をしているのが細胞膜であり、脂質がその主要な成分である。脂質はエネルギーとして効率が良く、また貯蔵するのによい物質でもある。生物は区画された空間ではあるが完全に外界から遮断されているわけではない。外部からエネルギーを取り入れ内部で消費し化学反応で物質を作り出す。生物間でのエネルギーの流通に炭水化物(糖)は重要であり主に植物が光合成によって生産している。地球以外の天体に生物が発見された事例は記録されていない。だからと言って地球のそれと同様の生物あるいは全く異なった性質の生物が地球以外の場所に存在する可能性は否定できない。太陽系内においても火星には生命が存在する可能性が指摘されている。2018年7月にはイタリア国立宇宙物理学研究所などからなる国際天文学チームがマーズエクスプレスの観測データに基づきと述べている。系外惑星としては2007年に発見されたグリーゼ581cに生物が生存可能な環境の存在が期待されたことがある。2008年現在太陽系外における地球型惑星の観測成果も少しずつあがってきている。有機物以外を構成要素とする生物も想定される。このような仮想理論は「代わりの生化学」と呼ばれている。とくにケイ素は、炭素と同じ族に含まれ化学的性質も似ていることから、「代わりの生化学」のベースとして比較的頻繁に言及される(ケイ素生物)。サイエンスフィクションの世界ではガス電磁波から成る生物などが登場する。他に純粋知性精神あるいは物質によらない意識が登場するが現在のところ物質的な実体に依拠しない意識は確認されていない。 +コケ植物(コケしょくぶつ)とは陸上植物かつ非維管束植物であるような植物の総称もしくはそこに含まれる植物のこと。コケ類(コケるい)や蘚苔類(せんたいるい)蘚苔植物(せんたいしょくぶつ)などともいう。世界中でおよそ2万種ほどが記録されている。多くは緑色であるが赤色や褐色の種もある。大きな群として蘚類苔類ツノゴケ類の3つを含む。それをまとめて一つの分類群との扱いを受けてきたが現在では認められていない。なお日常用語にてはそのほかに地衣類なども含む。その他文化的側面については苔を参照されたい。重要な点は三つの群で大きく異なるが共通することも多い。主な共通点は栄養体が小型で単相であることである。植物体は小型で、多くは高さ数cmまで。体制から茎と葉が明瞭な茎葉体(けいようたい)と明瞭でない葉状体(ようじょうたい)とに分けられる。茎葉体の場合、双子葉植物のように軸と葉の区別がつくが、構造ははるかに簡単である。いずれにせよ、維管束はないが、その役割を代用する細胞は分化している場合がある。胞子体の頂端の胞子嚢に作られる胞子によって繁殖する(ただし、コケ植物では胞子嚢を蒴(朔、さく)と呼ぶ)。蒴の形態や構造は重要な分類上の特徴である。繁殖は、胞子によるもののほか、無性生殖として植物体の匍匐枝や脱落した葉より不定芽を出しての増殖を行なう。一部の種では、特に分化した無性芽という構造体を作るものも知られている。生活環は、シダ植物などと同様に世代交代を行う。ただしコケ植物の場合、主要な植物体は配偶体であり、核相は単相 (n) である。配偶体がある程度成長すると、その上に造卵器と造精器が形成され、それぞれ卵細胞と精子をつくる。雨などによって水に触れた時に、精子が泳ぎだし、造卵器の中で卵細胞と受精し受精卵(接合子)がつくられる。受精卵はその場で発生を始め、配偶体に栄養を依存する寄生生活の状態で発達し、胞子体を形成する。この胞子体は複相 で長く成長することがなく先端に単一の胞子嚢を形成するとそれで成長を終了する。先端の蒴が形成される。胞子は放出されて発芽しはじめは枝分かれした糸状の原糸体というものを形成する。原糸体は葉緑体をもち基質表面に伸びた後その上に植物体が発達を始め配偶体となる。なお一部に生涯にわたって原糸体を持つものがある。配偶体は雌雄同株のものが多いが、雌雄異株のものもある。雌雄異株の場合、外見上は差のない場合が多いが、はっきり見分けのつくものもあり、中には雄株が極端に小さくて雌株上に寄生的に生活する例も知られている。基本的には陸上生活をするが少ないながら淡水中に生育するものもいる。ただし海水中に生育するものは確認されていない。湿った環境を好む種が多く、温暖で湿潤な地域に多くの種を産する。乾燥した環境にも、数は少ないが、適応した種はある。森林に生活する種が多いが、岩場や渓流、滝の周辺などにも多くの種が見られる。特に霧がよくかかる雲霧林には、樹木に大量のコケが着生する例があり、蘚苔林とも呼ばれる。畑地や水田にもそれぞれに独特のものが見られるし、市街地でもいくつかの種が生育している。生育する基質としては、土や腐植土、岩上、他の植物体、昆虫等の動物などあらゆる場所に、さまざまな形で生育する。古くは陸上植物の中で、小柄で維管束を有さないことから、陸上生活への適応が不十分な原始的な群とされ、シダより下等な一群として扱われてきた。その中で蘚類と苔類が区別され、さらに苔類からツノゴケ類が区別された。しかし、。新しい分類では、それぞれの単系統群を門として扱うようになってきている。下記の綱や亜綱の分類は2009年刊の による。したがって、上掲の分類表は過去のものである。伝統的な分類では、コケ植物は植物界コケ植物門 (Bryophyta) として一群にまとめられる。内部分類は3つの綱に分類され、それぞれ、スギゴケやハイゴケなどの蘚類(蘚綱)、ゼニゴケやツボミゴケなどの苔類(苔綱)およびツノゴケ類(ツノゴケ綱)である(ツノゴケは漢字で角苔と書くが、カタカナで表記するのが一般である)。4つの亜綱に分けられるが大部分の種はマゴケ亜綱に所属する。コケ植物の3群の系統関係については2つの分岐パターンが示されている。1つは最初に苔類が次にツノゴケ類が最後に蘚類がPolysporangiatesから分岐したパターンである。もう1つは最初にツノゴケ類が次にPolysporangiatesが最後に蘚類と苔類が分岐したパターンである。形態や精子の微細構造化学組成等を用いた解析だとこのうち前者を示す説が多いがRNAを用いた解析では後者を示唆する結果が示されておりまた解析に使用した植物や遺伝子により異なった結果も示されている。コケ植物を含む陸上植物と緑藻類の共通する形質はいくつか知られている。例えば光合成色素としてクロロフィルaおよびbを持ち同化産物の貯蔵物質はデンプンである。また精子の鞭毛を2本持つことも他の緑藻類を除く藻類との差異である。ただし基本的に陸上生活をするコケ植物と水中生活をする緑藻類は多くの点で異なっており特に繁殖に関わる形質生態は明瞭である。生殖器官は緑藻類は単細胞でコケ植物は多細胞であり造卵器や胞子嚢は他の細胞に覆われている。これは配偶子や胞子などを乾燥から守る目的がある。また受精後コケ植物が植物体にとどまり胚を形成することも緑藻類との相違点である。なお緑藻類の中でも車軸藻類の属と核分裂の様式や共通の光合成酵素を持つこと分子系統の結果などより近縁であることが示唆されている。コケ植物は古生代に陸上進出したシダ植物とは、両者ともに多細胞で壷型の造卵器を形成するが、このような構造は藻類には見られない。また、両者ともに世代交代を行い、配偶体の上で胞子体が発芽する。したがって、シダ植物において、前葉体か��幼いシダが伸びる姿と、コケ植物の植物体からさくが伸びる姿とは同等のものである。ただし、シダ植物や種子植物では胞子体が発達するのに対して、コケ植物では配偶体が発達するのが大きな相違点である。また葉緑体DNAの比較結果より苔類とヒカゲノカズラ類が近縁であることが示されている。コケ植物およびシダ植物・種子植物が側系統群であることが示唆されているものの、両者の系統関係については説が分かれている。コケ植物に近い先祖からシダ植物が分化したのか、両者に共通の祖先から両者が分化したのか、近縁な祖先から平行的に進化したのかなど、さまざまな議論がある。ただし、シダ植物からコケ植物に退行進化をしたことを示す結果は示されていない。コケ植物は、その姿が小型であり、しかも多様な生活環境に生育する種がある。これがカビともなれば野外採集はできず、持ち帰って分離操作をするのだろうが、コケはそのような方法が適用できない。どうしても野外で採集しなければならない。小さなものでは、砂岩の砂粒の間に葉が隠れてしまうようなものもあるから、ルーペは必須である。したがって、コケ植物の採集家は歩みが遅い。一歩進むごとに樹の肌を見、葉の上を見、枝を見、樹の根元を見、足元を見る。沢であれば岩面の向きの違う場所をずっと見て回り、岩の隙間を探し、草の根元を見、水しぶきのかかるところも見て、その周辺の樹木も見なければならない。素人目には一塊のコケの集団であっても、複数種が交じっていることも普通である。日本の蘚苔類学会のある年に行なわれた観察会では、山間部の渓谷にコースを設定してあったのに、その入り口の駐車場周辺だけで1日を過ごしてしまったとの伝説がある。その代わりに標本作製と保存は簡単で一般には陰干しして紙に包んでおくだけである。この状態で虫がつくこともほとんど無いと言う。シダや高等植物の押し葉標本が放置すればあっと言う間にボロボロになるのとは大きな違いである。観察したいときは水に戻すとほぼ元の形に回復する。"日本文化の文脈における「コケ」については苔を参照。"コケ植物が実用的に用いられる例としては、圧倒的にミズゴケ類が重要である。日本ではその分布が多くないが、ヨーロッパではごく普通にあり、生きたものは園芸用の培養土としてほとんど他に換えがない。他に乾燥させて荷作りの詰め物とし、またかつては脱脂綿代わりにも使われた。またそれが枯死して炭化したものは泥炭と呼ばれ、燃料などとしても利用された。それ以外となるとかなり重要度が落ちる。日本では庭園や鉢植えに利用されるが、主としてバックグラウンドとしての価値を認められていると見た方が良いだろう。日本には約1800種のコケ植物が分布しておりそのうち200種以上が絶滅の危機に瀕しているといわれている。日本では古来より蘚苔類は身近なものであり多くの和歌の中で詠われている。現在ミズゴケ類やシラガゴケ類スギゴケ類ツルゴケハイゴケなど多数のコケ植物が園芸用観賞用として栽培販売されている。コケ植物の研究を行っている組織・機関.日本ではいくつかの大学や博物館研究所でコケ植物に関する研究が行われている。また、日本蘚苔類学会がコケ植物を専門に取り扱う学会としてあげられる。 +社会学」を作り出そうとする学問である。社会学の成立と実証主義の展開.社会学なる用語は、フランス革命後の混乱と動乱に満ちた初期近代フランスを生きたオーギュスト・コントによって作られた。コントは、当時の産業主義と合理主義を背景として、社会学とはであって、歴史学、心理学、経済学を統合する実証主義的な科学的研究でなければならないとした。このコントの思想はその師であるサンシモンに遡る。サンシモンは自然科学の方法を用いて社会的世界を全体的かつ統一的に説明するとして提示した。ここからコントはさらに近代社会の構成原理として実証主義を提示し産業ではなく科学をその中心に据えることになった。そしてその中心に社会学を位置づけたのである。コントらの発想はジョンスチュアートミルハーバートスペンサーなどに受け継がれ実証主義の体系化がはかられていった。たとえばスペンサーはイ��リス功利主義の考えと彼独自の進化論に基づいて有機体システムとのアナロジーによって社会を超有機的と捉え後の社会システム理論の先駆となる研究を行なった。実証主義の潮流のなかで始まった社会学であるが19世紀末から20世紀にかけてカールマルクスマックスウェーバーエミールデュルケームゲオルクジンメルヴィルフレドパレートらがさまざまな立場から相次いで研究著作を発表した。その方法論キー概念などは形を変えながらその後の社会学に引き継がれておりこの時期は社会学の古典的理論の形成期にあたる。デュルケームはコントらの社会発展論(近代化論)を「社会分業論」として受け継ぎ分業による連帯を「社会的事実の機能的なメカニズム」によるものとして説明する機能主義的な社会システム論を創始した。さらにデュルケームは実証主義の伝統を継承し自然科学の方法を社会科学へと拡大することを「社会学的方法の規準」の根底に据えた。しかし実証主義は自然科学に対抗するような人文社会科学の方法論を打ち立てるものではなく社会学の中心思想になることなくウェーバージンメルさらに後にはタルコットパーソンズらによって数々の批判を受けることになる。ウェーバーは前世代の近代化論をの理論として受け継いだ。両者は、ドイツ哲学の伝統に則り新カント派的科学方法論に依拠し、方法論的個人主義を創始した。すなわち、ウェーバーの場合には理解社会学による行為理論を打ち立て、ジンメルの場合は、後のシンボリック相互作用論につながる形式社会学と生の哲学の視点から関係論的定式化を行ない、マクロ客観主義の限界を乗り越える方向へ進んだのである。こうした実証主義の伝統を引き継いだデュルケムの方法論的集合主義(社会実在論=社会的事実)と主にウェーバーによる方法論的個人主義(社会唯名論)との対立は後に「社会システムの社会学」(マクロ社会学)と「社会的行為の社会学」(ミクロ社会学)として引き継がれることになった。また社会学の認識については価値自由のルールにのっとったものであるべきかそれとも「精神科学」の伝統に準拠した人文学的性格のものであるべきかという実証主義と反実証主義の対立が生まれたがこれも後にたとえば批判理論と構造主義的マルクス主義のアプローチとして繰り返されることになった。20世紀初頭まではヨーロッパにおいて社会学の主潮が形成されていたが第一次世界大戦後にはアメリカ合衆国において顕著な展開を見せるようになりやがてプラグマティックな社会学研究の中心として発展を遂げていくことになった。アメリカ社会学が社会学研究の中心的地位を築き上げていく背景には19世紀末から20世紀初頭にかけての急激な経済社会の変化があった。南北戦争から第一次世界大戦へ至る半世紀の間にアメリカ産業は急ピッチな発展を遂げそれに伴って都市化が進行し民衆の生活様式も大きく変わっていった。このような大きく変貌を遂げるアメリカ社会の実態を捉えることが社会学の課題として要請されるようになっていったのである。当初、アメリカの社会学は、1893年に創設されたシカゴ大学を中心に、人種・移民をめぐる問題、犯罪、非行、労働問題、地域的コミュニティの変貌などの現象的な側面を実証的に解明する社会心理学や都市社会学が興隆していった。アルビオン・スモール、ウィリアム・トマス、ジョージ・ハーバート・ミード、ロバート・E・パーク、アーネスト・バージェス、ルイス・ワースら、有能な研究者たちの活躍によって、1920~30年代にシカゴ大学は、アメリカの学会において強い影響力を及ぼすようになり、シカゴ学派と呼ばれる有力な研究者グループを形成するまでになった。ヨーロッパの社会学は観念的・方法論的側面を重視する傾向が強かったが、アメリカ社会学は現実の問題を解決する方向性を示すという実践的側面が強くみられる。この点は、実際的な有用性を重視するプラグマティズムの精神的な伝統によるところが大きく、また、前述のような社会的要請もあって、地域社会や家族などの具体的な対象を研究する個別科学としての傾向を持つようになった。機能主義社会学の台頭.さらに、第二次世界大戦後のアメリカでは、タルコット・パーソンズやロバート・キング・マートンらによる機能主義が提唱され、社会学全体に大きな影響を及ぼした。とくにパーソンズの構造機能主義社会学は、社会学における統一理論を築き上げる意図を持って提起され、多くの社会学者に影響を与え、20世紀半ばにおけると目されるに至った。これは分野の統一、体系化が実現するかに見えた社会学の稀有な時期であるとされる。しかしパーソンズの理論はその科学論的政治思想的な構想があまりに遠大かつ複雑であったことから正しく評価されていなかったともされておりまた合理的選択論のケネスアローらが指摘するところによればパーソンズ自身が掲げた要求にしたがった理論形成もなされていなかった。また1960年代以降には「観念的傾向が強い」「現状の体制を維持しようという保守的傾向がある」「個人の非合理的な行為についての視点が欠けている」などといった数多くの批判ないし断罪を受けることになった。いずれにせよパーソンズの社会システム論は結局統一理論構築にまではいたらず以下に見るような主にミクロレベルの視点に立った理論がさまざまな立場から提唱されるようになった。後期近代化と社会学の多様化.他方で第一次世界大戦第二次世界大戦の惨禍を眼前にしたヨーロッパ社会学では理性信仰の崩壊とともに西洋近代社会の構成原理そのものへの反省が生まれていた。そこで機能主義の流れとは別にドイツではテオドールアドルノやユルゲンハーバーマスに代表されるフランクフルト学派の批判理論フランスではルイアルチュセールらの構造主義的マルクス主義ミシェルフーコーの権力論が展開された。これらの動きとともに、後期近代化への動きを背景として脱産業化論、紛争理論などが唱えられ、1960年代末には機能主義からの離反が決定的なものとなる。こうして、いわゆるミニ・パラダイムの乱立と称される時代を迎える。以上の理論の他に、日常世界への着目から、シンボリック相互作用論、現象学的社会学、エスノメソドロジー、ピエール・ブルデューの社会学などが影響力を持つようになるとともに、ジェームズ・コールマンら方法論的個人主義の立場からは合理的選択理論なども唱えられるようになり、社会学が多様化し、研究対象となる領域も、たとえばジェンダーの社会学といった具合にさまざまに分化し拡大した。ただし、この多様化によって、同時に社会学というディシプリン内部での対話の共通基盤が失われることにもなった。上述のような歴史的文脈が忘却されると、機能主義に対するカウンターとしての意義をもった諸ミニパラダイムは逆に混迷を深めた。一方で、(クーンが本来意図した意味での)パラダイム、すなわち経験的統計データに基づく調査研究は疑問視されることなく確立していったが、他方でかかる研究のよって立つべき思想・視点、つまりは社会学の独自性とは何なのかという問題が問われることにもなった。政策科学への流れと新たな理論形成.そのなかで、1960年代にパーソンズのもとに留学し、ドイツに帰国後、社会学者として活動を開始したニクラス・ルーマンや、1990年代末以降の英国ブレア労働党政権のブレーンとして名を馳せたアンソニー・ギデンズらは、それぞれ異なった系譜からではあるが、政策科学としての社会学という立場を打ち出した。たとえばルーマンの場合であれば科学的にSollenを言わなければならない行政学の伝統を継承する形で社会システム論を展開しまた構造化論を展開したギデンズの場合は社会問題への関与を続けてきたイギリス社会学の伝統とリベラリズムの政治思想への関わりからそうした方向性をとりそれぞれに反響を呼び起こした。また政策科学への流れとともに20世紀末になるとグローバル化情報化リスク社会化などを背景としつつ社会構築主義の影響力が高まるなかで構造化論機能構造主義社会学も含め従来の社会学におけるに代わるキー概念とした新たな理論構築も見られるようになっている。人間は歴史社会を創造するとともに歴史社会のなかを生きる存在である。社会学もまたそうした人間の歴史的営為の二重性のなかにある。したがってその理論と方法は客観的に進展されるもの���はないが前節に見られるような現実世界の変容のなかで以下のような理論と方法論が主に展開されてきている。経験社会学は現実の社会からデータを取らなくてはならないためさまざまな方法が考えられている。主として社会調査が用いられるが調査の他に実験観察内容分析の利用などの手法がある。どれも一長一短があるがそれぞれが重要な研究手法である。なども存在する。SSM調査の成果は米国で数冊の本が出版された他韓国や中国でも翻訳が出版されており国際的にも高く評価されている。例えば原純輔盛山和夫によるは韓国中国米国で出版されている。米国の社会学においては公開されている既存の社会調査データが多いこともあり大規模なデータファイルの計量分析をもとにした計量社会学が近年では非常に盛んである。アメリカ社会学会の機関誌 "American Sociological Review" も論文の7割前後が計量分析を用いた論文である。実験や観察質的調査による研究理論研究などもあるが最近はやや沈滞気味で数は多くはない。米国では理論だけの研究はほとんどなく理論と実証の往復が重視される。質的調査は米国において1990年代以前に小規模な流行があったが社会学の主たる研究テーマの一つは、秩序問題、すなわち社会秩序や、何らかの社会への協力行動と関連した問題群である。具体的には、治安や犯罪、逸脱行動、地位/役割、権力/支配関係、利他的行動、社会的ジレンマなどが問題にされる。また、社会心理学や小集団実験と関連する研究も多い。とりわけ近年では、社会的な包摂/排除や治安・犯罪に関わるテーマが世界的に注目されている。数理社会学や合理的選択理論の手法を用いた研究も盛んになっている。こうしたミクロレベルでの秩序問題の解明とともにマクロな社会構造とその時代的変化すなわち社会変動の分析も社会学の主要なテーマである。たとえば産業社会や労働市場社会階層学校システム家族や地域社会国家社会などの構造や問題構制の変容過程などである。これらの分野では社会システム論による総合的な理論蓄積のほか大規模な調査データを元にした個別的な研究成果も多く挙がっている。社会変動研究は、もともと近代主義的、発展段階論的な視点によるものが多かったが、構築主義的な研究が広く行われている。高度経済成長期以降の日本の社会学でもやはり産業社会化都市社会化大衆社会化といった近代化に伴う社会変動が主として扱われてきたが最近では脱産業化少子高齢化情報テクノロジー化ネットワーク化グローバル化などによる社会的物質的変容に焦点を据えた研究が取り組まれるようになっている。社会学が対象とする領域は幅広いため、特定の分野を扱う連字符社会学が大量に発達することになった。その分野の歴史や他の学問への影響、方法論などはさまざまである。以下は連字符社会学の実例。日本の社会学者の質問題・アカデミズム軽視のメディア出演重視問題.京都大学大学院文学研究科教授である太郎丸博は以前から著書などで学会報告や学会誌などアカデミズムを軽視している日本の社会学の研究者教授学界そのものを批判している。「日本社会学学者らは学会誌への論文投稿学会で自身の研究を発表せず(社会)学者づらして本を出版したりさまざまなメディアで発言することができる」のが実状だと指摘している。「先生」扱いされる日本の社会学者らは他者からの意見の異なる人から批判的な批評されるのを恐れて同じ政治思想をもつ身内以外の第三者から査読を受けない上に批判や指摘がされる学会誌には必ず投稿しないと告発している。更に太郎丸は売上しか気にしない出版社やメディアも自分たちが好む主張をしている「社会学者」を採用しているだけで研究の水準や主張の真偽も確認しない問題も指摘している。太郎丸は彼らを見て育った大学院生たちも彼らのように学会報告や学会誌というアカデミズムを軽視し本に好き勝手なことを書くことメディア出演ばかりのマスメディア御用達学者であることを「社会学者」「社会学者としての理想成功例」だと誤解するため研究成果をほとんど出さない人が日本の社会学者の多数になっていてマスメディア出演の多い学者の大多数は研究成果が実質ないまたはメ��ィア出演以降は客観的に価値がある研究がないに等しい人ばかりと警告している。意見の異なる社会学者同士の議論が日本の社会学界には皆無と言えるほどと指摘している。 +古代エジプトは古代のエジプトに対する呼称。具体的にどの時期を指すかについては様々な説が存在するがこの項においては紀元前3000年頃に始まった第1王朝から紀元前30年にプトレマイオス朝が共和政ローマによって滅ぼされるまでの時代を扱う。エジプトは不毛の砂漠地帯であるが、毎年夏のナイル川の増水で水に覆われる地域には河土が運ばれて堆積し、農耕や灌漑が可能になる。この氾濫原だけが居住に適しており、主な活動はナイル河畔で行われた。ナイル川の恩恵を受ける地域はケメトと対比される概念だった。このケメトの範囲の幅は非常に狭く、ナイル川の本流・支流から数kmの範囲にとどまっていた。しかしながら川の周囲にのみ人が集住しているということは交通においては非常に便利であり、川船を使って国内のどの地域にも素早い移動が可能であった。この利便性は、ナイル河畔に住む人々の交流を盛んにし、統一国家を建国し維持する基盤となった。ナイル川本流からナイル川の上流は谷合でありナイル川1本だけが流れ下流はデルタ地帯の称号の中にと呼んでいた。毎年のナイル川の氾濫を正確に予測する必要から天文観測が行われ太陽暦が作られた。太陽とシリウス星が同時に昇る頃ナイル川は氾濫したという。また氾濫が収まった後に農地を元通り配分するため測量術幾何学天文学が発達した。ヒエログリフから派生したワディエルホル文字と原シナイ文字(原カナン文字)は世界の殆どのアルファベットの起源となったとされる。エジプト文明と並ぶ最初期における農耕文明の一つであるメソポタミア文明が、民族移動の交差点にあたり終始異民族の侵入を被り支配民族が代わったのと比べ、地理的に孤立した位置にあったエジプトは比較的安定しており、部族社会が城壁を廻らせて成立する都市国家の痕跡は今の所発見されていない。古代エジプト人は元号のように「『王の名前』の統治何年目」のように歴史を記録していた。そのため絶対的な年代表記法に置き換えた時に幾分かの誤差があるだろうと言われる。初期王朝の始まりも5年から20年ほどの誤差がある可能性が指摘されている。古代エジプトは、次の時代に区分されている。エジプト文明が誕生し、人々が定住し農耕を開始したのは、およそ紀元前5000年ごろと考えられており、紀元前4500年ごろにはモエリス湖畔にファイユーム文化が成立し、紀元前4400年ごろからは上エジプトの峡谷地帯を中心にナカダ文化が興った。この時期のエジプトはいくつもの部族国家に分裂しており、やがてこの国家群が徐々に統合されていくつかの国家にまとまりはじめた。ただし統合された部族国家は地域的なまとまりをもち続け、上エジプトに22、下エジプトに20、合計約42あるノモスと呼ばれる行政地区としてエジプト各王朝の行政単位となっていった。紀元前3500年頃にはまず上エジプト、そして下エジプト、二つの統一国家が成立したと考えられている。紀元前3300年頃にはヒエログリフの文字体系が確立し、太陽暦が普及した。紀元前3150年頃、上エジプトのナルメル王が下エジプトを軍事的に征服し、上下エジプトを統一してエジプト第1王朝を開いたとされる。従来はエジプト第1王朝の建国者とされてきたメネス王がナルメル王にあたるのか、それとも別の王に比定されるのかについては諸説ある。また、ナルメルは上下エジプトの王として確認される最古の王であるが、ナルメル王よりも古い上下エジプトの王がいた可能性もある。ヘロドトスによれば第1王朝期に、上下エジプトの境界地域に首都としてメン・ネフェルが築かれたとされ、以後第一中間期の第8王朝にいたるまでエジプトの各王朝はここに都した。エジプト第1王朝は紀元前2890年頃に王統の交代によってエジプト第2王朝となった。この初期王朝時代の2王朝については資料が少なく、不明な点も多い。紀元前2686年頃成立したエジプト第3王朝からは、エジプト古王国期と呼ばれ、エジプト最初の繁栄期に入る。首都は一貫してメンフィスに置かれた。古王国時代には中央政権が安定し、強力な王権が成立していた。このことを示すのが、紀元前2650年頃に第3王朝第2代の王であるジョセル王が建設した階段ピラミッドである。このピラミッドは当初それまでの一般的な墓の形式であったマスタバで建設されたが、宰相イムホテプによる数度の設計変更を経て、最終的にマスタバを6段積み重ねたような階段状の王墓となった。これがエジプト史上最古のピラミッドとされるジェゼル王のピラミッドである。このピラミッドは以後の王墓建設に巨大な影響を与え、以後マスタバに代わりピラミッドが王墓の中心的な形式となった。紀元前2613年にはスネフェルが即位し、エジプト第4王朝が始まる。この第4王朝期には経済が成長し、またピラミッドの建設が最盛期を迎えた。スネフェル王は紀元前2600年頃にヌビア、リビュア、シナイに遠征隊を派遣して勢力範囲を広げる一方、まず屈折ピラミッドを、さらに世界初の真正ピラミッドである赤いピラミッドを建設した。スネフェルの次の王であるクフの時代に、ピラミッド建設は頂点を迎え、世界最大のピラミッドであるギザの大ピラミッドが建設された。その後、クフの2代あとにあたるカフラー王がカフラー王のピラミッドとその門前にあるギザの大スフィンクスを建造し、さらにその次のメンカウラー王がメンカウラー王のピラミッドを建設し、ピラミッドの建設は頂点に達した。この3つのピラミッドは三大ピラミッドと呼ばれ、エジプト古王国時代を代表する建造物となっている。この後エジプト第5王朝に入ると経済は引き続き繁栄していたもののピラミッドの意味が変質してクフ王時代のような巨大な石造りのものを建てられることはなくなり材料も日干しレンガを使用したことで耐久性の低いものとなった。続くエジプト第6王朝も長い安定の時期を保ったが紀元前2383年に即位し94年間在位したペピ2世の治世中期より各地の州に拠る州侯たちの勢力が増大し中央政府の統制力は失われていった。紀元前2184年にペピ2世が崩御したころには中央政権の統治は有名無実なものとなっており紀元前2181年に第6王朝が崩壊したことにより古王国時代は終焉した。第1中間期(第7 - 10王朝).第6王朝崩壊後、首都メンフィスにはエジプト第7王朝、エジプト第8王朝という短命で無力な後継王朝が続いたが、実際には各地の州侯たちによる内乱状態が続いていた。この混乱の時代を総称し、第1中間期と呼ぶ。やがて上エジプト北部のヘラクレオポリスに興ったエジプト第9王朝がエジプト北部を制圧したものの全土を統一することはできず、上エジプト南部のテーベに勃興したエジプト第11王朝との南北対立の情勢となった。中王国時代(第11 - 12王朝).紀元前2060年頃に第11王朝にメンチュヘテプ2世が即位すると紀元前2040年頃に第9王朝の後継であるエジプト第10王朝を打倒してエジプトを再び統一しエジプト中王国時代が始まった。首都は引き続きテーベにおかれた。また中王国期に入るとピラミッドの造営も復活したが第4王朝期のような壮大なピラミッドはもはや建造されず日干しレンガを多用したものが主となった。紀元前1991年頃にはアメンエムハト1世によってエジプト第12王朝が開かれ、首都もメンフィス近郊のイチ・タウィへと遷した。第12王朝期は長い平和が続き、国内の開発も急速に進んだ。特に歴代の王が力を注いだのは、ナイル川の支流が注ぎこむ広大な沼沢地であったファイユーム盆地の開発であり、センウセルト2世の時代に着工した干拓工事は王朝後期のアメンエムハト3世時代に完成し、ファイユームは広大な穀倉地帯となった。センウセレト2世は紀元前1900年頃にアル・ラフーンにピラミッドを造営している。中王国はヌビアに対するものを除き対外遠征をあまり行わず、とくにシリア方面には軍事進出を行わなかったが、唯一の例外として紀元前1850年頃にセンウセレト3世がヌビアおよびシリアに遠征した。センウセレト3世は名君として知られており、国内においては州侯の勢力を削ぎ、行政改革を行って国王の権力を拡大している。つづくアメンエムハト3世期にも政権は安定しており紀元前1800年頃にはファイユーム盆地の開発が完成しまたハワーラのピラミッドが造営されている。しかし���の死後は短命な政権が続き紀元前1782年頃には第12王朝が崩壊して中王国期も終焉を迎えた。第12王朝からエジプト第13王朝への継承はスムーズに行われ、制度その他もそのまま引き継がれたものの、王朝の統治力は急速に弱体化していった。この時期以降、エジプト第2中間期と呼ばれる混乱期にエジプトは突入していく。まず第13王朝期にはヌビアがエジプトから独立し、ついでエジプト第14王朝などいくつかの小諸侯が各地に分立したが、やがて紀元前1663年頃にはパレスチナ方面からやってきたとされるヒクソスという異民族によってエジプト第15王朝が立てられ、各地の小諸侯を従属させて覇権を確立した。下エジプトのアヴァリスに拠点を置いていた第15王朝に対し、一時は従属していたテーベを中心とする勢力がエジプト第17王朝として独立し、南北分立の体制となった。また、第15王朝は下エジプトのみならず、隣接するパレスチナも自らの勢力圏としていた。紀元前1540年頃、上エジプトを支配していた第17王朝のイアフメス1世がヒクソスを放逐して南北エジプトを再統一し、エジプト新王国時代がはじまった。イアフメス1世は第17王朝の王であるが、エジプト統一という一大画期があるため、連続した王朝にもかかわらずこれ以後の王朝は慣例としてエジプト第18王朝と呼ばれる。イアフメス1世はさらにヒクソスを追ってパレスチナへと侵攻し、第15王朝を完全に滅ぼした。これが嚆矢となり、以後のエジプト歴代王朝はそれまでの古王国期や中王国期とことなり、パレスティナ・シリア方面へと積極的に進出するようになり、ナイル川流域を越えた大帝国を建設するようになっていった。このため、新王国時代はとも呼ばれる。首都は統一前と同じく引き続きテーベにおかれた。イアフメス1世はさらに南のヌビアにも再進出しこの地方を再びエジプトの支配下に組み入れた。次のアメンホテプ1世はカルナック神殿の拡張などの内政に力を入れた。紀元前1524年頃に即位したトトメス1世はこの国力の伸長を背景に積極的な外征を行いティグリスユーフラテス川上流部を地盤とする大国ミタンニへと侵攻しユーフラテス河畔の重要都市カルケミシュまで侵攻してその地に境界石を建立した。また彼は陵墓の地として王家の谷を開発し以後新王国時代の王のほとんどはこの地へと埋葬された。次のトトメス2世は早世し紀元前1479年頃に子のトトメス3世が即位したものの若年であったため実際には共治王として即位したトトメス2世の王妃であるハトシェプストが実権を握り統治を行っていた。ハトシェプストは遠征よりも内政や交易を重視しこの時代にプントとの交易が再開されまたクレタなどとの交易も拡大したが一方で遠征を行わなかったためミタンニとの勢力圏の境界にあるシリアパレスチナ地方の諸国が次々と離反していった。紀元前1458年頃にハトシェプストが退位すると、実権を握ったトトメス3世は打って変わってアジアへの積極的な遠征を行い、メギドの戦いなど数々の戦いで勝利を収めて国威を回復させた。続くアメンホテプ2世、トトメス4世、アメンホテプ3世の時代にも繁栄はそのまま維持され、エジプトの国力は絶頂期を迎えた。しかしこのころにはもともとテーベ市の守護神であった主神アメンを奉じる神官勢力の伸長が著しくなっており、王家と徐々に衝突するようになっていた。こうしたことから次のアメンホテプ4世は紀元前1346年ごろにアクエンアテンと名乗って伝統的なアメン神を中心にした多神崇拝を廃止アメン信仰の中心地である首都テーベからアマルナへと遷都し太陽神アテンの一神崇拝に改めるいわゆるアマルナ宗教改革を行った。このアテン信仰は世界最初の一神教といわれアマルナ美術と呼ばれる美術が花開いたが国内の統治に集中して戦闘を避けたため当時勢力を伸ばしつつあったヒッタイトにシリアパレスチナ地方の属国群を奪われ国力が一時低下する。紀元前1333年頃に即位したツタンカーメン王はアメン信仰を復活させ、アマルナを放棄してテーベへと首都を戻したが若くして死去し、アイを経てホルエムヘブが即位する。ホルエムヘブは官僚制を整備し神官勢力を統制してアマルナ時代から混乱していた国内情勢を落ち着かせたが継��がおらず、親友であるラムセス1世を後継に指名して死去した。これにより第18王朝の血筋は絶え、以後は第19王朝と呼ばれる。王朝が交代したと言ってもラムセス1世への皇位継承は既定路線であり、権力はスムーズに移譲された。ラムセス1世も老齢であったために即位後ほどなくして死去し、前1291年に即位した次のセティ1世はアマルナ時代に失われていた北シリア方面へと遠征して再び膨張主義を取るようになった。紀元前1279年ごろに即位した次のラムセス2世は古代エジプト最大の王と呼ばれ、彼の長い統治の時代に新王国は最盛期を迎えた。紀元前1274年にはシリア北部のオロンテス川でムワタリ2世率いるヒッタイトと衝突し、カデシュの戦いが起きた。この戦いは痛み分けに終わり、この時結ばれた平和条約はのちにヒッタイトの首都ハットゥシャから粘土板の形で出土している。またラムセス2世は国内においてもさまざまな大規模建築物を建設し、下エジプトのデルタ地方東部に新首都ペル・ラムセスを建設して遷都した。その次のメルエンプタハ王の時代には紀元前1208年ごろに海の民の侵入を撃退したが、彼の死後は短期間の在位の王が続き、内政は混乱していった。紀元前1185年頃には第19王朝は絶え、第20王朝が新たに開かれた。第20王朝第2代のラムセス3世は最後の偉大なファラオと呼ばれ、この時代に新王国は最後の繁栄期を迎えたが、彼の死後は国勢は下り坂に向かい、やがて紀元前1070年頃に第20王朝が滅ぶとともに新王国時代も終わりを告げた。これ以後古代エジプトが終焉するまでの約1000年は、基本的には他国に対する軍事的劣勢が続いた。第20王朝末期にはテーベを中心とするアメン神官団が勢力を増していき紀元前1080年頃にはアメン神官団の長ヘリホルがテーベに神権国家を立てたことでエジプトは再び南北に分裂することとなった。紀元前1069年に成立した第21王朝は首都をペルラムセスからタニスへと移しアメン大司祭国家に名目的な宗主権を及ぼした。紀元前945年にはリビュア人傭兵の子孫であるシェションク1世が下エジプトに第22王朝を開きアメン大司祭国家を併合して再統一を果たすがその後は再びアメン大司祭が独立したほか下エジプトに5人の王が分立するなど混乱を極めた。こうした中エジプトの強い文化的影響を受けていた南のヌビアが勢力を拡大し紀元前747年にはピアンキがヌビアから進撃してエジプト全土を制圧し第25王朝を開いた。しかしその後メソポタミアに強力な帝国を築いたアッシリアの圧迫にさらされ紀元前671年にはアッシリア王エセルハドンの侵入をうけて下エジプトが陥落。一時奪回に成功したもののアッシュールバニパル王率いるアッシリア軍に紀元前663年にはテーベを落とされて第25王朝のヌビア人はヌビアへと撤退した。アッシュールバニパルはサイスを支配していたネコ1世にエジプト統治を委任し間接統治を行った。この王朝を第26王朝と呼ぶ。第26王朝は当初はアッシリアの従属王朝であったがアッシリアの急速な衰退にともなって自立の度を深め紀元前655年にはネコ1世の子であるプサメティコス1世がアッシリアからの独立を果たす。これ以後は末期王朝時代と呼ばれまた第26王朝は首都の名からサイス朝とも呼ばれる。アッシリアはその後滅亡しその遺領はエジプト新バビロニアリディアメディアの4つの王朝によって分割された。プサメティコス1世の次のネコ2世はパレスチナシリア地方へと進出したものの紀元前605年カルケミシュの戦いで新バビロニアのネブカドネザル2世に敗れてこの進出は頓挫した。サイス朝時代のエジプトはシリアをめぐって新バビロニアとその後も小競り合いを繰り返しながらも上記のオリエント4大国のひとつとして大きな勢力を持ったが紀元前550年にメディアを滅ぼしたアケメネス朝のキュロス2世が急速に勢力を伸ばしリディアおよび新バビロニアが滅ぼされるとそれに圧倒され紀元前525年にはプサメティコス3世がアケメネス朝のカンビュセス2世に敗れエジプトはペルシアによって征服された。ペルシアのエジプト支配は121年間に及びこれを第27王朝と呼ぶが歴代のペルシア王の多くはエジプトの文化に干渉しなかった。しかしダレイオス2世の死後王位継承争いによってペルシアの��治が緩むとサイスに勢力を持っていたアミルタイオスが反乱を起こし紀元前404年にはペルシアからふたたび独立を達成した。これが第28王朝である。第28王朝はアミルタイオス一代で滅び次いで紀元前397年から紀元前378年にかけては第29王朝が紀元前378年からは第30王朝が立てられ約60年間にわたってエジプトは独立を維持したが東方を統一する大帝国であるアケメネス朝はつねにエジプトの再征服を狙っておりそれにおびえながらの不安定な政情が続いた。そして紀元前341年アケメネス朝のアルタクセルクセス3世の軍勢に最後のエジプト人ファラオであるネクタネボ2世が敗れエジプトはペルシアに再征服された。アルタクセルクセス3世はエジプトの信仰を弾圧し圧政を敷いた。ペルシアのこの圧政は10年間しか継続せず紀元前332年マケドニア王のアレクサンドロス3世がエジプトへと侵攻し占領された。アレクサンドロスがペルシアを滅ぼすとエジプトもそのままアレクサンドロス帝国の一地方となったが紀元前323年にアレクサンドロス3世が死去すると後継者たちによってディアドコイ戦争が勃発し王国は分裂した。この混乱の中でディアドコイの一人であるプトレマイオスがこの地に拠って勢力を拡大し、紀元前305年にはプトレマイオス1世として即位することで、古代エジプト最後の王朝であるプトレマイオス朝が建国された。この王朝はセレウコス朝シリア王国、アンティゴノス朝マケドニア王国と並ぶヘレニズム3王国のひとつであり、国王および王朝の中枢はギリシャ人によって占められていた。プトレマイオス1世は首都をアレクサンドロスによって建設された海港都市であるアレクサンドリアに置き、国制を整え、またムセイオンおよびアレクサンドリア図書館を建設して学術を振興するなどの善政を敷いた。続くプトレマイオス2世およびプトレマイオス3世の時代にも繁栄が続いたが、その後は暗愚な王と政局の混乱が続き、またシリアをめぐるセレウコス朝との6回にわたるシリア戦争などの打ち続く戦争によって国力は疲弊していった。紀元前80年にはプトレマイオス11世が殺されたことで王家の直系が断絶し、以後は勢力を増していく共和政ローマの影響力が増大していくこととなった。紀元前51年に即位したクレオパトラ7世はガイウス・ユリウス・カエサルやマルクス・アントニウスといったローマの有力者たちと誼を通じることでエジプトの存続を図ったが、紀元前31年にオクタウィアヌス率いるローマ軍にアクティウムの海戦で敗北し、紀元前30年にアレクサンドリアが陥落。クレオパトラ7世は自殺し、プトレマイオス朝は滅亡した。これによりエジプトの独立王朝時代は終焉し、以後はローマの皇帝属州アエギュプトゥスとなった。1日を24時間としたのは古代エジプトであるという説がある。後述するように階級社会だったが完全に固定されてはいなかったとされる。ファラオは神権により支配した皇帝である。わずかな例外を除き男性。継承権は第一皇女にありしたがって第一皇女の夫がファラオになる。名前の一部には神の名前が含まれた。人口の1%程度の少ない貴族階級が土地を所有し支配していた。残る99%であるほとんどの平民は小作だった。ファラオによって土地を与えられることにより貴族となるが、ファラオが交替したり、王朝が変わると、土地を取り上げられ貴族ではなくなる事も多く、貴族は必ずしも安定した地位にあるわけではなかった。古代エジプトの教育制度についてはどのパピルス文書にも明確なことは記されていないが数学医学建築など体系的な教育システムが必要な分野が発展しているため相応の体制が整備されていたと考えられている。また知恵文学やその他のテキストからは古代エジプト人が持っていた教育の目的や教育の内容に関する実際的な知識を僅かながら知ることができる。裕福な農民の子供たちを含む、裕福な家庭の子供は14歳になるまでの間、公的な教育が施された。裕福な農民の子は神殿付属の学校へ、中流以上の子供は政府の建てた学校へ通った。それ以外の貧しい家庭の子と下層民の子弟の子達は、教育を受けなかったようである。授業内容は学校の目的によって異なり、神殿付属の学校では、宗教儀礼に関する���物を写したり、宗教文学、葬祭の経典、経典の注解、神話物語などを勉強し、政府の学校では、算数、幾何学、測量術、簿記、官庁の書類作成などを学んだ。他には水泳やボートレスリングボール競技弓などといったスポーツも含まれていた。また体罰は怠けたり言うことを聞かない生徒を正す良い方法であると思われていた。後世、ギリシャ人もこうした制度を非常に高く評価している。大貴族の息子の中には王家の子供たちの教育にあたる教師のクラスに通う者もあったようである。他の者は将来の役人を養成する学校に通っていた。14歳になると医師や法律家そして書記を志望する子供たちはさらに勉学を進めるために神殿へ送られた。神殿には立派な図書館があり、そこにはさまざまな学問分野のパピルス文書が保管されており、また神官たちは、さまざまな教育設備を用意していた。学生の訓練には、理論的なものと、実際的なものとの双方が用意されており、授業は、神殿内部のと呼ばれる場所で行なわれていたようである。この場所では、テキストの写本が作られ、保管されていた。医学的な訓練としては、神殿の周辺地区で実際の患者の治療などが行なわれていたようである。医学教育については不明な点が多い。男子とは違い、女子に対する教育は、必要最低限のもので、王女を除いては、特に教育を受けることもなく、読み書きができる者もほとんどいなかった。彼女たちは、家庭にあり母親の手伝いを通じて、必要とする技術を習得した。古王国時代現存する最古の記録が書かれる以前にこうした法体系は原始的なものから洗練されたものへと発展していたようで最古の記録から既に法が公的な手順を踏んでいたことが明らかとなっている。多くの法的な問題としては葬送や財産に関する問題やカー神官の土地の分配などの問題を取り扱っていた。理論的には王は絶対君主でありまた唯一の立法者でもありそして臣下の人々の生と死労働および財産に対して絶対的な力を持っていたが現実には民間の法律が存在し財産の問題などは民間の法律によって処理された。一般に刑罰は厳しかったが法自体は他の古代社会に比して人間的なものであり特に婦女子は法的に保護されていた。しかしながら、第19王朝には、裁判の方法に関して問題が起こった。当時、二種類の法廷があり、そのひとつは地方の裁判所で、これは役人を裁判長とし、地域の有力者によって構成されたもので、ほとんどの事件を処理することができた。もうひとつの法廷は、いわば最高裁判所に相当するものでテーベにあり、宰相の下で、死刑に当たるほどの重罪を扱う機関であった。全ての証拠が提出され、裁判官たちによって検討され、判決は訴訟に負けた側が、その負けを認めた後で下された。しかし、第19王朝以降、判決が神託によって出される場合が生じるようになった。神の像が裁判官となり、また神の意志が像の前で行なわれる儀式によって伝えられた。原告は、像の前に立って容疑者の名のリストを読み上げ、犯人の名が呼ばれた時に、神像が何らかの兆候を見せると信じられていた。こうした方法は、明らかに裁判所の堕落と裁判の悪用を招くものであった。新王国時代の法律および、それに関する資料は、第20王朝以降のテキストに見ることができる。ラメセス世の時代に始まり、その後多年にわたり続いた裁判の詳細は、一連の非常に良く保存されたパピルスからわかる。社会状況は暗く、貧困が蔓延していたために、この時代になると、もともと普通のことであった墓泥棒があまりにも目に余るものとなってきて、王は墓泥棒たちに対して法的処置を講じ、裁判を行なうようになった。古代ギリシアの歴史家・ヘロドトスがという言葉をに記しており、古代エジプトの主要産業である農業はナイル川の氾濫に多くを負っていた。ナイル川は6月ごろ、モンスーンがエチオピア高原に降らす雨の影響で氾濫を起こす。この氾濫は水位の上下はあれど、氾濫が起きないことはほとんどなかったうえ、鉄砲水のような急激な水位上昇もほぼなく、毎年決まった時期に穏やかに増水が起こった。この氾濫はエチオピア高原から流れてきた肥沃な土壌を氾濫原に蓄積させ、10月ごろに引いて���く。これによりエジプトは肥料の必要もなく、毎年更新される農耕に適した肥沃な土壌が得られた。浅い水路を掘って洪水時の水をためていたこの方式はベイスン灌漑方式と呼ばれ、19世紀にいたるまでエジプトの耕作方法であり続けた。作物は大麦と小麦が中心であり、野菜ではタマネギ、ニンニク、ニラ、ラディッシュ、レタスなどが主に栽培された。豆類ではソラマメ、ヒヨコ豆。果実ではブドウ、ナツメヤシ、イチジク、ザクロなどがあった。外国から伝わった作物としては、新王国時代にリンゴ、プラム、オリーブ、スイカ、メロン。プトレマイオス朝時代にはモモ、ナシなどが栽培された。古王国時代から中央集権の管理下におかれており水利監督官は洪水の水位によって収穫量を予測した。耕地面積や収穫量は記録され収穫量をもとに徴税が行われて国庫に貯蔵され食料不足の際には再配分された。農民の大部分は農奴であったが新王国時代になると報酬によって雇われる農民や自立農民が増加した。造船ビールの醸造工芸など高度な技能が必要な職があったことからこれに従事する職人が存在していたと推測されている。エジプトの本国はナイル川の領域に限られており、それ以外の地域は基本的にすべて外国とみなされていた。ナイル川流域でも、エレファンティネをはじめとするエジプト文化の影響が各所にみられる。ヌビア以外の諸外国については中王国時代までは積極的な侵攻をかけることはほとんどなく、交易関係にとどまっていたものの、新王国期にはいるとヒクソスの地盤であったパレスチナ地方への侵攻を皮切りに、パレスチナやシリア地方の小国群の支配権をめぐってミタンニやヒッタイト、バビロニアなどの諸国と抗争を繰り広げるようになった。また、古王国期から新王国期末までの期間は、アフリカ東部にあったと推定されているプント国と盛んに交易を行い、乳香や没薬、象牙などを輸入していた。エジプトの主要交易品と言えば金であった。金は上エジプトのコプトスより東に延びるワディ・ハンママート周辺や、ヌビアのワワトやクシュから産出された。この豊富な金を背景にエジプトは盛んに交易を行い、国内において乏しい木材・鉱物資源を手に入れるため、銅、鉄、木材(レバノン杉)、瑠璃などをシリア、パレスチナ、エチオピア、イラク、イラン、アナトリア、アフガニスタン、トルコなどから輸入していた。とくに造船に必須である木材は国内で全く産出せず、良材であるレバノン杉を産するフェニキアのビブロスなどからに輸入に頼っていた。ビブロスは中王国期にはエジプト向けの交易の主要拠点となり、当時エジプト人は海外交易船を総称してビブロス船と呼んだ。ビブロスからはまた、キプロスから産出される豊富な銅もエジプトに向け出荷されていた。このほかクレタ島のミノア文明も、エジプトと盛んに交易を行っていた。下エジプト東端からパレスチナ方面にはホルスの道と呼ばれる交易路が地中海沿いに伸びており、陸路の交易路の中心となっていた。紅海沿いには中王国期以降エジプトの支配する港が存在し、上エジプトのナイル屈曲部から東へ砂漠の中を延びるルートによって結ばれていた。この紅海の港を通じてプントやインド洋沿海諸国との交易がおこなわれた。貨幣には貴金属が使われた。初期は秤量貨幣だったが、後期には鋳造貨幣が用いられた。興味深い例としては、穀物を倉庫に預けたによる流通の促進が止まり、貨幣による富の蓄積が行われるようになりエジプトの経済が没落したという説もある。個々の技術のみならず、実験や工程の詳細な記録を残す、非専門家向けの早見表を作成するなど、現代にも通じる科学的な思考があった。数学は社会へ応用可能なレベルに達しており課税の調査や生産物の貯蔵と配分現物支給の報酬の計算などに単位分数の計算が非常に多く用いられた。また幾何学は耕地の測量やピラミッドをはじめとする建設天文学など理工学の発展にも寄与した。十進法を用いたが古代シュメールの影響により時間のみ十二進法を利用したことから24時間制であった。古代エジプト人にとってナイル川の増水・氾濫による洪水が最大の関心事であるため、数学を利用して暦法が研究された。非侵襲性の外科手術、接骨、薬局方など、当時としては高度な実現しており、他国に医師を派遣した記録も残っている。医学的な知識はミイラの制作にも応用された。建築材料としては日干しレンガが主流であり、石材も多用された。特に石灰岩や花崗岩、砂岩などが盛んに採掘され、豊富な石材と優れた加工技術と数学を元にピラミッドやギザの大スフィンクス、カルナック神殿、ルクソール神殿、アブ・シンベル神殿といった巨大で精密な建造物が続々と建設された。支配者層は庭園を所有していた。主食はコムギから作るパンであり、エジプト人はと呼ばれるほど大量のパンを食べた。サンドイッチのように具を挟むのが一般的だったとされる。また、サワードウによる発酵パンが誕生したのもエジプトである。パンを焼くための窯は時代によって異なっている。紀元前3800年頃にオオムギから作るビールの生産が始まり、紀元前3500年頃にワインの生産が始まった。ワイン用のブドウは麦と違い外来作物であり、ワインは高貴な酒で一般市民はビールを飲んだが、後に生産量が増えて市民にも広まった。ビールはパンと並んで主要な食物とされており、大量に生産・消費された。当時のビールは嗜好品だけでなく、栄養ドリンクのような存在だったと推測されている。当時のビールはアルコール度数が3%程度、製法も自然発酵を利用した原始的な手法というのが通説であったが、2014年に麒麟麦酒が壁画に残された絵を分析し製法を再現したところ、パン生地を使った酵母の培養など高度な技法で醸造され、度数が10%で白ワインにも似た味のビールが完成した。この他にもヨーグルトのような食感のビールも存在していたとされる。黄金を使った彫金が発達しツタンカーメンの黄金のマスクなど王族の装飾品に利用されていた。建築物の内外はフレスコ画や彫刻で装飾されていた。エジプトには森林が存在しないため木材を産出せず建築材料には利用されなかったがツタンカーメン時代には国力を背景に交易で各地の木材を入手し寄せ木や曲げ木などの高度な技法を用いたチャリオットを製作している。色彩には宗教的な意味合いがあるため、ファイアンス焼きなどで望んだ発色を生み出す技法が発達した。古代エジプトの音楽についての研究は考古学者と音楽研究者の間に交流がなく、あまり進んでいない。銀製トランペットに似た楽器やヨシのフルートとされる楽器が出土している。宗教儀式の他宴会や農作業時にも演奏されていたとされ現代の西洋音楽の基礎となったという見解もある。エジプトの文字は統一王朝成立以前に表語文字であるヒエログリフが誕生し紀元前600年頃にはデモティックがもっとも一般的な文字となった。この文字を元に様々な文学が成立しエジプト文学はシュメール文学と共に世界最古の文学と考えられている。古王国時代には、讃歌や詩、自伝的追悼文などの文学的作品が存在していた。中王国時代からは物語文学も現れ、悲嘆文学、知恵文学、教訓文学などのジャンルが存在したなどの作品は、現在まで伝わっている。書写材料としてはカミガヤツリから作られるパピルスが主に用いられた。上流階級は各地から輸入した宝飾品や化粧品を利用していた。セネトやなどのボードゲームが存在していた。特にセネトは交易によりレバントキプロスクレタなどにも伝播している。上流階級が観覧するためにショーとしてのスポーツが行われていた。また軍人向けの身体訓練法も考案されていた。宗教観は時代によって変化していったとされるが死後も来世で永遠の生を得るため魂の器となる肉体をミイラとして保存していた。古代エジプトの象徴ともいえるものがピラミッドであるが、初期の王墓の形式であったマスタバに代わりピラミッドが成立したのが古王国時代の第3王朝期であり、クフ王のピラミッドを含む三大ピラミッドが建設されてピラミッドが最盛期を迎えたのが第4王朝期と、著名なピラミッドの建設された時期は古王国時代の一時期に限られ、エジプトの長い歴史においては比較的短期間のことである。以後、古王国時代を通じてピラミッドは建設され、中王国時代にも一時建設が復活するものの、技術的にも材料的にも最���期ほどのレベルに到達することはなく、徐々に衰退していった。ただしそれに代わり、付属の墓地群などが拡大し、葬祭における重点が移動していった。新王国期に入るとピラミッドは建設されなくなり、王の墓は王家の谷に埋葬されるようになった。 +エジプトアラブ共和国は中東および北アフリカに位置する共和制国家。首都はカイロ。アフリカ大陸では北東端に位置し西にリビア南にスーダン北東のシナイ半島ではイスラエルパレスチナ国ガザ地区と国境を接する。北部は地中海東部は紅海に面している。エジプトは中東と北東アフリカの接点に存在し古代文明が存在していた地域のひとつに数え上げられる。その歴史は紀元前の時代にまで遡るほど古い。民族・宗教的にはアラブ世界、イスラム世界の一国である。人口はアラブ諸国で最も多く2020年2月に1億人を超えている。同国地域には数千年前の古代都市の痕跡や幾多もの史跡がナイル川に沿う形で点在している。また水源が乏しい国の一つとしても知られており南北に流れるナイル川の河谷とデルタ地帯のほかは国土の大部分の95%以上が砂漠である。ナイル河口の東には地中海と紅海を結ぶスエズ運河がある。同国は現在、MENA地域において2番目に人口密度の高い国と見做されており、中でもカイロは世界で最も人口密度の高い都市のひとつに当たる。正式名称はアラビア語で 。アラビア語の名称ミスルは、古代からセム語でこの地を指した名称である。なお、セム語の一派であるヘブライ語では、双数形のミスライム(, ミツライム)となる。公式の英語表記は Arab Republic of Egypt。通称 Egypt 。発音はに近い。形容詞はEgyptian 。エジプトの呼称は、古代エジプト語のフート・カア・プタハから転じてこの地を指すようになったギリシャ語の単語である、ギリシャ神話のアイギュプトスにちなむ。日本語の表記はエジプト・アラブ共和国。通称エジプト。漢字では埃及と表記し、埃と略す。この漢字表記は、漢文がそのまま日本語や中国語などに輸入されたものである。という古代ギリシアの歴史家ヘロドトスの言葉で有名なようにエジプトは豊かなナイル川のデルタに支えられ古代エジプト文明を発展させてきた。エジプト人は紀元前3000年頃には早くも中央集権国家を形成しピラミッドや王家の谷ヒエログリフなどを通じて世界的によく知られている高度な文明を発達させた。アケメネス朝ペルシア.3000年にわたる諸王朝の盛衰の末紀元前525年にアケメネス朝ペルシアに支配された。紀元前332年にはアレクサンドロス大王に征服された。その後、ギリシア系のプトレマイオス朝が成立し、ヘレニズム文化の中心の一つとして栄えた。プトレマイオス朝は紀元前30年に滅ぼされエジプトはローマ帝国の属州となりアエギュプトゥスと呼ばれた。ローマ帝国の統治下ではキリスト教が広まりコプト教会が生まれた。ローマ帝国の分割後は東ローマ帝国に属し豊かな穀物生産でその繁栄を支えた。7世紀にイスラム化した。639年にイスラム帝国の将軍アムルイブンアル=アースによって征服されウマイヤ朝およびアッバース朝の一部となった。アッバース朝の支配が衰えるとそのエジプト総督から自立したトゥールーン朝イフシード朝の短い支配を経て969年に現在のチュニジアで興ったファーティマ朝によって征服された。これ以来アイユーブ朝マムルーク朝とエジプトを本拠地としてシリア地方まで版図に組み入れたイスラム王朝が500年以上にわたって続く。特に250年間続いたマムルーク朝の下で中央アジアやカフカスなどアラブ世界の外からやってきたマムルークによる支配体制が確立した。1517年に、マムルーク朝を滅ぼしてエジプトを属州としたオスマン帝国の下でもマムルーク支配は温存された。ムハンマド・アリー朝.1798年、フランスのナポレオン・ボナパルトによるエジプト遠征をきっかけに、エジプトは近代国家形成の時代を迎える。フランス軍撤退後、混乱を収拾して権力を掌握したのはオスマン帝国が派遣したアルバニア人部隊の隊長としてエジプトにやってきた軍人のムハンマド・アリーであった。彼は実力によってエジプト総督に就任すると、マムルークを打倒して総督による中央集権化を打ち立て、経済・軍事��近代化を進め、エジプトをオスマン帝国から半ば独立させることに成功した。アルバニア系ムハンマド・アリー家による世襲政権を打ち立てた(ムハンマド・アリー朝)。しかし、当時の世界に勢力を広げたヨーロッパ列強はエジプトの独立を認めず、また、ムハンマド・アリー朝の急速な近代化政策による社会矛盾は結局、エジプトを列強に経済的に従属させることになった。ムハンマド・アリーは綿花を主体とする農産物専売制をとっていたが、1838年に宗主国オスマン帝国がイギリスと自由貿易協定を結んだ。ムハンマド・アリーが1845年に三角州の堰堤を着工。死後に専売制が崩壊し、また堰堤の工期も延びて3回も支配者の交代を経た1861年、ようやく一応の完工をみた。1858年末には国庫債券を発行しなければならないほどエジプト財政は窮迫していた。スエズ運河会社に払い込む出資金の不足分は、シャルル・ラフィットに8回も外債が起債され、額面も次第に巨額となっていた。エジプトはやむなくスエズ運河会社持分を398万ポンドでイギリスに売却したが、1876年4月にデフォルトした。英仏が負債の償還をめぐって争い、エジプトの蔵相は追放された。イタリアやオーストリア帝国も交えた負債委員会が組織された。2回目のリスケジュールでイスマーイール一族の直轄地が全て移管されたが、土地税収が滞った。1882年アフマドオラービーが中心となって起きた反英運動がイギリスによって武力鎮圧された。エジプトはイギリスの保護国となる。結果として政府の教育支出が大幅カットされるなどした。1914年には第一次世界大戦によってイギリスがエジプトの名目上の宗主国であるオスマン帝国と開戦したためエジプトはオスマン帝国の宗主権から切り離された。さらにサアドザグルールの逮捕国外追放によって反英独立運動たる1919年エジプト革命が勃発し英国より主政の国として独立した。第一次世界大戦後の1922年2月28日にエジプト王国が成立し翌年イギリスはその独立を認めたがその後もイギリスの間接的な支配体制は続いた。エジプト王国は立憲君主制を布いて議会を設置し、緩やかな近代化を目指した。第二次世界大戦では、枢軸国軍がイタリア領リビアから侵攻したが、英軍が撃退した(北アフリカ戦線)。第二次世界大戦前後から、現在はイスラエルになっている地域へのユダヤ人移民に伴うパレスチナ問題の深刻化、1948年から1949年のパレスチナ戦争(第一次中東戦争)でのイスラエルへの敗北、経済状況の悪化、ムスリム同胞団など政治のイスラム化(イスラム主義)を唱える社会勢力の台頭によって次第に動揺していった。この状況を受けて1952年軍内部の秘密組織自由将校団がクーデターを起こし国王ファールーク1世を亡命に追い込みムハンマドアリー朝を打倒した。生後わずか半年のフアード2世を即位させ自由将校団団長のムハンマドナギーブが首相に就任して権力を掌握した。さらに翌年の1953年国王を廃位して共和政へと移行。ナギーブが首相を兼務したまま初代大統領となりエジプト共和国が成立した。1956年第2代大統領に就任したガマールアブドゥル=ナーセルの下でエジプトは冷戦下での中立外交と汎アラブ主義で政治的に勝利を収めた。1958年にはシリアと連合してアラブ連合共和国を成立させた。しかし1961年にはシリアが連合から脱退し国家連合としてのアラブ連合共和国はわずか3年で事実上崩壊した。さらに1967年の第三次中東戦争は惨敗に終わりこれによってナーセルの権威は求心力を失った。1970年に急死したナーセルの後任となったアンワル・アッ=サーダートは、自ら主導した第四次中東戦争後にソビエト連邦と対立してアメリカ合衆国など西側諸国に接近。社会主義的経済政策の転換、イスラエルとの融和など、ナーセル路線からの転換を進めた。1971年には、国家連合崩壊後もエジプトの国号として使用されてきたの国号を捨ててエジプト・アラブ共和国に改称した。また、サーダートは、経済の開放などに舵を切るうえで、左派に対抗させるべくイスラーム主義勢力を一部容認した。さらに1977年には物価上昇に抗議する暴動を共産主義者によるものと断定既に結党が禁止されていたエジプト共産党などの左翼組織の弾圧を強化した。しかしサーダートは、イスラエルとの和平を実現させたことの反発を買い、1981年にイスラム過激派のジハード団によって暗殺された。イラクのクウェート侵攻はエジプトの国際収支を悪化させた。サーダートに代わって副大統領から大統領に昇格したホスニームバーラクは対米協調外交を進める一方開発独裁的な政権を20年以上にわたって維持した。ムバラク政権は1990年12月にと称する経済改革案を発表した。クウェート解放を目指す湾岸戦争では多国籍軍へ2万人を派兵しこれにより約130億ドルも対外債務を減らすという外交成果を得た。累積債務は500億ドル規模であった。軍事貢献により帳消しとなった債務はクウェートサウジアラビアに対するものとさらに対米軍事債務67億ドルであった。1991年5月には国際通貨基金が供与されパリクラブにおいて200億ドルの債務削減が合意された。エジプト経済の構造調整で画期的だったのはドルペッグによる為替レート一本化であった。海外の機関投資家に有利な条件が整えられていった。イスラム主義運動は厳しく弾圧され喜捨の精神は失われていった。1997年にはイスラム集団によるルクソール事件が発生している。1999年にイスラム集団は武装闘争放棄を宣言し近年観光客を狙った事件は起こっていない。しかしムバーラクが大統領就任と同時に発令した非常事態法は彼が追放されるまで30年以上にわたって継続された。2002年6月、エジプト政府は15億ドルのユーロ債を起債したが、2002年から2003年に為替差損を被り、対外債務を増加させた。チュニジアのジャスミン革命に端を発した近隣諸国でのがエジプトにも波及し、2011年1月、30年以上にわたって独裁体制を敷いてきたムバーラク大統領の辞任を求める大規模なデモが発生した。同2月には大統領支持派によるデモも発生して騒乱となり、国内主要都市において大混乱を招いた。大統領辞任を求める声は日に日に高まり、2月11日、ムバーラクは大統領を辞任し、全権がエジプト軍最高評議会に委譲された。同年12月7日にはを暫定首相とする政権が発足した。その後、2011年12月から翌年1月にかけて人民議会選挙が、また2012年5月から6月にかけて大統領選挙が実施されムハンマド・ムルシーが当選し、同年6月30日の大統領に就任したが、人民議会は大統領選挙決選投票直前に、選挙法が違憲との理由で裁判所から解散命令を出されており、立法権は軍最高評議会が有することとなった。2012年11月以降、新憲法の制定などをめぐって反政府デモや暴動が頻発したがBNPパリバのエジプト支店を完全買収し、オイルマネーがエジプト経済を我が物にする社会現象が起こっていた。さらにが1月19日に報じたのは、エチオピアがナイルの川上に48億ドルの予算をかけてダムを造るという計画であった。混乱中のエジプトが水紛争で負ければ大きな水ストレスが生じるだろうと予測された。2013年4月エジプト中央銀行はリビアから20億ドルの預金を得た。リビア側が利害を説明したところによるとリビアはエジプト株を100億ドル近く保有しているという。リビアは世界金融危機の時から欧米のメガバンクと癒着を疑われている。も参照。ムルシー政権は発足後約1年後の2013年7月3日、軍部によるクーデターによって終焉を迎えた。8月下旬にムバラクが釈放され、国内銀行が平常運転に復帰した。8月30日のCNNでは、中国石油化工が米国ヒューストンのアパッチがエジプトに50億ドルの支援を申し出た。エジプトエリートの売国とソブリン危機は翌年4月まで深化していった。なおイブラヒームはクーデター後に成立したベブラーウィー暫定内閣でも続投している。2014年5月26日 - 28日に行われた大統領選挙では2013年のクーデターの主導者アブドルファッターフアッ=シーシーが当選して6月8日大統領に就任し8月5日からは新スエズ運河の建設など大規模なプロジェクトを推し進めた。2015年3月13日にはカイロの東側に向こう5 - 7年で450億ドルを投じて新しい行政首都の建設も計画していることを明らかにした。行政と経済の中心となる新首都はカイロと紅海の間に建設され広さは約700平方キロメートルで米ニューヨークのマンハッタンのおよそ12倍の面積の予定であり大統領府などエジプトの行政を担う地区は当初覚書を交��したUAEのエマールプロパティーズや中国の中国建築股份有限公司との破談はあったものの2016年4月に地元企業によって工事を開始し代わりにエジプト政府がピラミッドに匹敵する一大事業のランドマークと位置づけているアフリカで最も高いビルも建設予定である経済を担う中央業務地区を中国企業が請け負って2018年3月に着工した。UAEや中国と破談した背景には通貨不安が存在する。2016年11月3日エジプト中央銀行が変動相場制を採用すると発表した。エジプトポンドが売られるのを革命の影響だけで片付けるにはこの不安は長引きすぎている。同行は6日後国際金融機関から20億ドルのレポ借入を始めた。4月に国際通貨基金からも120億ドルを借りている。エジプトは経済主権を失っている。英紙が10月4日に報じたところでは国際金融機関のバークレイズがエジプト事業をワファバンクに売却した。2017年末、政府が世界銀行に対し、エチオピアのダム事業を差し止めるように要請した。世銀は5月にエジプトへ10億ドルを追加融資しており、エジプトは厳しい立場にある。翌2018年1月中旬にエチオピアとの水紛争が妥協に至った。5月末にエジプトの対外債務累積額は829億ドルであった。9月、ムバラクの息子ら2人がエジプトの株価を操作した疑いで逮捕された。同国は共和制を執っている。国家元首である大統領は、立法・行政・司法の三権において大きな権限を有する。また国軍委員長は、最高憲法裁判所長官が兼任していたが、現在は副長官がその任を負う。第2代大統領ガマールアブドゥル=ナーセル以来事実上の終身制が慣例で第4代大統領ホスニームバーラクは1981年の就任以来約30年にわたって独裁体制を築いた。ムバーラクの親米親イスラエル路線が欧米諸国によって評価されたために独裁が見逃されてきた面がある。当時は任期6年再任可。議会が候補者を指名し国民は信任投票を行っていた。ただし2005年は複数候補者による大統領選挙が実施された。2011年9月に大統領選が予定されていたが、2011年1月に騒乱状態となり、2月11日、ムバーラクは国民の突き上げを受ける形で辞任した。翌日より国防大臣で軍最高評議会議長のムハンマド・フセイン・タンターウィーが元首代行を務め、それは2012年エジプト大統領選挙の当選者ムハンマド・ムルシーが6月30日に大統領に就任するまで続いた。2011年3月19日、憲法改正に関する国民投票が行われ、承認された。しかしムルシー政権発足からわずか1年後の2013年軍事クーデターが勃発。ムルシーは解任されエジプトは再び軍事政権へと逆戻りした。2014年1月に再び憲法が修正され同年5月の大統領選挙を経て再び民政へと復帰した。議会は、両院制で上院は参議院、下院は代議院である。かつて、2014年に施行された憲法により、一院制となったが、2019年の憲法改正により、両院制に戻る。参議院は全議席の内、3分の2を公選、3分の1は大統領による指名。代議院は、選挙制度を小選挙区制か比例代表制、またはその混合型とする。全議席の内5%以下を大統領が指名。そして、全議席の少なくとも25%を女性枠とする。2011年11月21日、イサーム・シャラフ暫定内閣は、デモと中央治安部隊の衝突で多数の死者が出たことの責任を取り軍最高評議会へ辞表を提出した。軍最高評議会議長タンターウィーは11月22日にテレビで演説し、と表明した。人民議会選挙は2011年11月28日から2012年1月までに、行政区ごとに3回に分けて、また、投票日を1日で終わりにせず2日間をとり、大勢の投票での混乱を緩和し実施、諮問評議会選挙も3月11日までに実施された。また5月23日と24日に大統領選挙の投票が実施された。しかし6月14日に最高憲法裁判所が出した「現行の議会選挙法は違憲で無効(3分の1の議員について当選を無効と認定)」との判決を受け16日までにタンターウィー議長は人民議会解散を命じた。大統領選挙の決選投票は6月16日と17日に実施されイスラム主義系のムハンマドムルシーが当選した。2011年3月28日に改正政党法が公表されエジプトでは宗教を基盤とした政党が禁止された。そのためムスリム同胞団など全部で50以上の政党が参加していた。その後自由と公正党が2014年に最高裁判所により解党されている。2021年現在では2020年の選挙により国民未���党が上院は半数近く下院は過半数を占めている。しかしながら反対派の活動が徹底的に排除される中での選挙であった。ナポレオン法典とイスラム法に基づく、混合した法システム。フランスと同じく、司法訴訟と行政訴訟は別の系統の裁判所が担当する。国力文化的影響力などの面からアラブ世界のリーダーとなっている。ガマールアブドゥル=ナーセル時代には非同盟諸国の雄としてアラブに限らない影響力を持ったがナーセル死後はその影響力は衰えた。ナーセル時代は親ソ連だった外交はサーダート時代に入って親米路線となりさらにそれに伴いイスラエルとの外交関係が進展。1978年のキャンプデービッド合意とその翌年のイスラエル国交樹立によって親米路線は確立したがこれはイスラエルを仇敵とするアラブ諸国の憤激を買いほとんどのアラブ諸国から断交されることとなった。その後1981年にサーダートが暗殺された後に政権を握ったムバーラクは親米路線を堅持する一方アラブ諸国との関係回復を進め1988年にはシリアレバノンリビアを除く全てのアラブ諸国との関係が回復した。以降はアラブの大国として域内諸国と協調する一方アフリカの一国として2004年9月には国際連合安全保障理事会の常任理事国入りを目指すことを表明した。2011年パレスチナのガザの検問所を開放した。またイランとの関係を修復しようとしている。シーシー政権はムスリム同胞団政権時代のこうした外交政策とは一線を画している。欧米や日本親米アラブ諸国イスラエルのほか中国やロシアなどと広範な協力関係を築いている。2017年カタール外交危機ではサウジアラビアとともにムスリム同胞団を支援してきたカタールと国交を断絶した国の一つとなった。またサウジアラビアとはアカバ湾口に架橋して陸上往来を可能とするプロジェクトが話し合われた。中東有数の軍事大国でありイスラエルと軍事的に対抗できる数少ないアラブ国家であると目されている。2010年11月見積もりの総兵力は46万8500人。予備役47万9000人。兵員数は陸軍34万人の準軍事組織が存在する。イスラエルとは4度にわたる中東戦争に対する掃討作戦で、イスラエル空軍による爆撃を容認していることを公式に認めた。軍事的にはアメリカと協力関係にあるため北大西洋条約機構(NATO)のメンバーではないものの同機構とは親密な関係を保っている。またロシアや中国からも武器の供給を受けており中露が主導する上海協力機構にも対話パートナーとして参加している。アフリカ大陸北東隅に位置し国土面積は100万2450㎢で世界で30番目の大きさである。国土の95%は砂漠でナイル川の西側にはサハラ砂漠の一部である西部砂漠がある。シナイ半島とナイル河谷との間はスエズ湾が大きく湾入して細くくびれた地峡となっておりここがアフリカ大陸とユーラシア大陸の境目とされている。この細い部分は低地であるためスエズ運河が建設され紅海と地中海ひいてはヨーロッパとアジアを結ぶ大動脈となっている。ナイル川は南隣のスーダンで白ナイル川と青ナイル川が合流しエジプト国内を南北1545Kmにもわたって北上し河口で広大なデルタを形成して地中海に注ぐ。アスワン以北は人口稠密な河谷が続くが幅は5Kmほどとさほど広くない。上エジプト中部のキーナでの湾曲以降はやや幅が広がりアシュート近辺で分岐の支流がファイユーム近郊のカールーン湖へと流れ込む。この支流によってカールーン湖近辺は肥沃なを形成している。一方本流はカイロ近辺で典型的な扇状三角州となるナイルデルタは地中海に向かって約250Kmも広がっている。かつてはナイル川によって運ばれる土でデルタ地域は国内でもっとも肥沃な土地だったがアスワンハイダムによってナイル川の水量が減少したため地中海から逆に塩水が入りこむようになった。ナイル河谷は古くから下エジプトと上エジプトというカイロを境にした2つの地域に分けられている。前者はデルタ地域を指し後者はカイロから上流の谷を指している。ナイル河谷は世界でももっとも人口密度の高い地域の一つである。ナイル河谷以外にはほとんど人は住まずわずかな人がオアシスに集住しているのみである。乾燥が激しく地形がなだらかなため特にリビア砂漠側にはワジが全く���い。シーワファラーフラハルガバハレイヤダフラといったオアシスが点在している。ナイル以東のシャルキーヤ砂漠は地形がやや急峻でありワジがいくつか存在する。紅海沿岸も降雨はほとんどないがナイルとアラビア半島を結ぶ重要な交通路に位置しているためいくつかの小さな港が存在する。1885年に列強がドイツのベルリンで開いた会議で、それまでに植民地化していたアフリカの分割を確定した。リビア国境の大部分で東経25度に、スーダンでは北緯22度に定めたため、国境が直線的である。スーダンとの間では、エジプトが実効支配するハラーイブ・トライアングルに対してスーダンも領有権を主張している。一方、その西にあるビル・タウィールは両国とも領有権を主張していない無主地である。国土の全域が砂漠気候で人口はナイル河谷およびデルタ地帯、スエズ運河付近に集中し、国土の大半はサハラ砂漠に属する。夏には日中の気温は40℃を超え、50℃になることもある。降雨はわずかに地中海岸にあるにすぎない。冬の平均気温は下エジプトで13 - 14℃、上エジプトで16℃程度である。2013年12月にはカイロ市内でも降雪・積雪があったが、観測史上初ということで注目された。エジプトの最上級の地方行政単位は、29あるムハーファザである。知事は中央政府から派遣される官選知事で、内務省の管轄下において中央集権体制をとる。面積には極端な偏りがあり、ナイル川流域やナイル下流は非常に細分化されているにもかかわらず、南部は非常に大まかに分けられている。これは、エジプトの国土がナイル流域以外は全域が砂漠であり、居住者がほとんどいないことによるものである。2018年のエジプトの国内総生産一人当たりでは2573ドルである。アフリカでは屈指の経済規模でありBRICsの次に経済発展が期待できるとされているNEXT11の一国にも数えられている。しかし一人当たりのGDPでみると中東や北アフリカ諸国の中では最低水準でありトルコの約4分の1イランの半分に過ぎず更に同じ北アフリカ諸国であるチュニジアやモロッコに比べても水準は低い。スエズ運河収入と観光産業収入更には在外労働者からの送金の3大外貨収入の依存が大きくエジプト政府はそれらの手段に安易に頼っている。更に政情に左右されやすい。工業は石油などの資源はないが様々な工業が発展しており今後も成長が見込まれる。近年は情報技術産業が急速に成長している。しかしながらGDPの約半分が軍関連企業が占めていて主に農業 建築業などの工業を担っている。金融はイスラーム銀行も近代式銀行の両方とも発達しており投資家層も厚く、アメリカのドナルド・トランプ政権にはエジプトの敏腕女性投資家が起用されている。これまでは買い物や公共料金の支払いは現金送金は窓口での手続きが主流であった。これはチップや喜捨として現金を渡すバクシーシの習慣が根付いていることも一因としてあったが電子決済も急速に普及している。新型コロナウイルス感染症がエジプトでも流行し他人との接触を減らす必要が生じたことも背景となっている。かつては綿花の世界的生産地であり、ナイル川のもたらす肥沃な土壌とあいまって農業が重要な役割を果たしていた。しかし、通年灌漑の導入によってナイルの洪水に頼ることが減り、アスワン・ハイ・ダムの建設によって、上流からの土壌がせき止められるようになった。そのため、ダムによる水位コントロールによって農地が大幅に拡大した。農業生産高が格段に上がったにもかかわらず、肥料の集中投入などが必要になったため、コストが増大し、近年代表的な農業製品である綿製品は価格競争において後塵を拝している。1970年代に農業の機械化および各種生産業における機械への転換により、地方での労働力の過剰供給が見受けられ、労働力は都市部に流出し、治安・衛生の悪化及び社会政策費の増大を招いた。1980年代には、石油産業従事者の増大に伴い、農業において労働力不足が顕著となる。このため綿花および綿製品の価格上昇を招き、国際競争力を失った。1990年代から、IMFの支援を受け経済成長率5%を達成するが、社会福祉政策の低所得者向け補助の増大および失業率10%前後と支出の増大に加え、資源に乏しく食料も輸入に頼るため、2004年には物価上昇率10%に達するなどの構造的問題を抱えている。現状、中小企業育成による国際競争力の強化、雇用創生に取り組んでいるが、結果が出ていない。2004年のナズィーフ内閣が成立後は、国営企業の民営化および税制改革に取り組んでいる。2008年、世界的な食料高騰によるデモが発生した。また、により、2012年 ~ 2014年の間は2 ~ 3%台と一時低迷していたが、その後政情の安定化により、2015年には、4%台に回復している。またIMFの勧告を受け、2016年に為替相場の大幅切り下げや補助金削減などの改革をしたことで、経済健全化への期待感より、外国からの資本流入が拡大していき、経済の復調を遂げている。農業は農薬などを大量に使っているためコストが高くなっているがそれなりの食料自給率を保っている。果物は日本にもジャムなどに加工され輸出されている。主食のアエーシには日本に輸入され配給に用いられたこともある。エジプトの交通の柱は歴史上常にナイル川であった。アスワン・ハイ・ダムの建設後、ナイル川の流れは穏やかになり、交通路として安定性が増した。しかし貨物輸送はトラック輸送が主となり、内陸水運の貨物国内シェアは2%にすぎない。ファルーカという伝統的な帆船や、観光客用のリバークルーズなどの運航もある。鉄道は国有のエジプト鉄道が運営している。営業キロは5063キロにのぼりカイロを起点としてナイル川デルタやナイル河谷の主要都市を結んでいる。航空はフラッグキャリアであるエジプト航空を筆頭にいくつもの航空会社が運行している。カイロ国際空港はこの地域のハブ空港の一つである。エジプトの人口は近年急速に増大し続けておりエジプト中央動員統計局で若年層が非常に多くピラミッド型の人口構成をしている。しかし若年層はさらに増加傾向にあるにもかかわらず経済はそれほど拡大していないため若者の失業が深刻な問題となっており2011年エジプト騒乱の原因の一つともなった。年齢の中央値は24歳である。人口増加率は2.033%。住民はイスラム教徒とキリスト教徒していた古代エジプト人を、現代のエジプト人にもそのまま当てはめていることが多い。しかし、上述のとおり現代エジプト人の9割はイスラム教徒であり、アラビア語を母語とするアラブ人である。それもアラブ世界の中で比較的主導的な立場に立つ、代表的なアラブ人の一つである。古代エジプトの公用語であったエジプト語(4世紀以降の近代エジプト語はコプト語の名で知られる)は現在では少数のキリスト教徒が典礼言語として使用するほかはエジプトの歴史に興味を持つ知識層が学んでいるだけでありこれを話せる国民は極めて少ない。日常言語としてコプト語を使用する母語話者は数十名程度である。他には地域的にヌビア諸語教育ビジネスに英語文化においてはフランス語なども使われている。宗教はイスラム教が90%。その他の宗派では、エジプト土着のキリスト教会であるコプト教会の信徒が9%、その他のキリスト教徒が1%となる。多くの場合婚姻時に女性は改姓しないが改姓する女性もいる。一夫多妻制により4人まで婚姻できるが現在は1人と結婚する者が多い。エジプトの教育制度は1999年から小学校の課程が1年延び日本と同じく小学校6年中学校3年高校3年大学4年の6334制となっている。義務教育は小学校と中学校の9年である。1923年のエジプト独立の際初等教育は既に無料とされ以後段階的に教育の無料化が進展した。1950年には著名な作家でもあった文部大臣ターハーフセインによって中等教育が無料化され1952年のエジプト革命によって高等教育も含めた全ての公的機関による教育が無料化された。しかし公立学校の教員が給料の少なさなどから個人の家庭教師を兼任することが広く行われており社会問題化している。小学校は進級試験があるため、家庭教師をつけることもある。授業料は無償化しているが、教育費は日本以上にかかる。なお、高額な授業料の代わりに教育カリキュラムの充実した私立学校も多数存在する。また、エジプト国内に20万以上の小中学校、1,000万人以上の学生、13の主要大学、67の師範学校がある。2018年よりを開始したことに始まるもので日本の学校教育で行われている学級会や生徒による清掃などをエジプトの教育に取り入れようとする教育方針である。試験的に導入した際には文化的な違いから反発も見受けられたが校内での暴力が減った子供が家でも掃除をするようになったなど徐々に成果が見えるようになり本格的に導入されることになった。2005年の推計によれば、15歳以上の国民の識字率は71.4%である。2006年にはGDPの4.2%が教育に支出された。主な高等教育機関としてはアル=アズハル大学吉村作治や小池百合子らが出身のカイロ大学などが存在する。国立図書館として新アレクサンドリア図書館が存在する。同国は失業率が高い低中所得国である。2011年1月と2013年6月の政変に伴い社会治安状況が不安定化したものの2014年6月からアッ=シーシー大統領の就任以後政治プロセスの進展と共に治安対策が強化され国内情勢は安定を取り戻しつつある。だが政府による同国経済を促進する為の努力が現在も続けられている状態にも拘らず国民の32.5%は極度の貧困の中で生活している。一方、カイロを含む各地で発生していたデモ及びそれに伴う衝突事案が減少している事が明らかにされているが、テロ事件の発生頻度は高めとなっている侭である。テロは主に現地警察や教会・モスクを狙ったものが多いが、観光地でも死傷者の出る事件が起きており、十分な注意が必要とされている。人権団体の報告によれば2020年1月の時点で同国に約60000人の政治犯が収容されているとの調査結果がある。ハーリド・サイード事件.アレクサンドリア在住のハーリドサイードは2010年6月6日午後11時過ぎ自宅近くのインターネットカフェにいたところを突然2人の私服警官に取り押さえられ殴る蹴るの暴行を受けた。集まった群衆の中にいた医師がハーリドの死亡を確認。警官の暴行によってあごを割られ後頭部から出血したことが死因であると遺族は主張。12日エジプト内務省はとして大々的に報道したことに加え地元NGOや国際人権団体アムネスティインターナショナルも徹底調査を要請。これを受けて検察当局は遺体解剖の手続をとるなど再捜査を開始した。エジプトのメディアは同国内およびアラブ世界で非常に強い影響力を保持している。これは同国のテレビ関連業界や映画業界ならび大勢の視聴者がアラブ世界へ供給している為でありそれらが歴史的に長い事も起因している。また、同国は報道法や出版法およびエジプト刑法に基づき、報道機関を規制ならび統制している現状がある。古代エジプトにおいてはパピルスにヒエログリフで創作がなされ、古代エジプト文学にはなどの作品が現代にも残っている。7世紀にアラブ化した後もエジプトはアラビア語文学の一つの中心地となった。近代の文学者としてターハー・フセインの名が挙げられ、現代の作家であるナギーブ・マフフーズは1988年にノーベル文学賞を受賞している。エジプトの音楽は隣国に対する何千年にも渡る支配によりその周辺地域へ非常に大きな影響を及ぼしている。たとえば聖書でと主張されている楽器はすべて古代エジプトが起源となっている点が挙げられこれはエジプト考古学によって確立されたものともなっている。また古代ギリシャの音楽の発展に多大な影響を与えている面があることが確認されている。宗教音楽においてはムリッドと呼ばれるスーフィーなどの伝統を重んじるイスラム教徒とコプト派のキリスト教徒による祭典における重要な部分であり続けている面が窺える。同国における建築は古代のものが中心に周知されており現代建築に対してはあまり焦点が当てられていない現状がある。一方世界各地において古代エジプトのモチーフとイメージを多用しつつも現代風の仕様を留める建築様式が採用されている。エジプト国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が6件、自然遺産が1件登録されている。基本となる祝祭日は以下になる。この他にはイスラム暦に基づいた移動祝祭日が存在している。 +著作権の保護期間とは、著作権の発生から消滅までの期間をいう。この期間において著作権は保護され著作権者は権利の対象である著作物を原則として独占排他的に利用することができる。著作権の発生要件と消滅時期は各国の国内法令に委ねられているが世界160��国以上まで存続するものと規定する国が多数を占める。なお、実演やレコード、放送などの著作隣接権に係る保護期間は、著作権に係るそれと比較して各国の国内法や条約における取扱に差異があり法的根拠を異にする。国際条約としては、実演家、レコード製作者及び放送機関の保護に関する国際条約がある。著作権の意義と保護期間.著作者の権利の保護の目的は大きく分けて二つの立場から説明されることが多い。一つは著作物に対する著作者の自然権として捉える立場でありヨーロッパを中心とした大陸法圏の国において発展してきた考え方である。もう一つは著作者に著作物の独占的利用権を与えることによって著作者に正当な利益が分配されることを促しその結果として創作活動へのインセンティブを高めることをその存在する理由とする考え方でありイギリスやアメリカ合衆国を中心とした英米法圏に由来する考え方である。期間の設定に際しては著作物の独占利用による著作者の創作意欲の向上という社会的利益と著作物の利用促進による社会的利益の均衡を図るために著作権の保護期間は適切な期間に調整されるべきである。そしてこの「適切な期間」をめぐってさまざまな立場が存在することになる。著作権の消滅時期を定める法制には、死亡時起算主義と公表時起算主義がある。死亡時起算主義は著作者の死亡時を起算時として著作権の消滅時期を決定する主義であり、公表時起算主義は、著作物の公表日を起算日として著作権の消滅時期を決定する主義である。ベルヌ条約は死亡時起算主義を原則としている。ベルヌ条約7条によれば、加盟国は、著作権の消滅までの期間を最低でも著作者の死亡から50年としなければならない。著作者の死後50年まで著作権を保護する趣旨は、著作者本人およびその子孫2代までを保護するためであるとされている。ただしより長い保護期間を与えることも認められているため(ベルヌ条約7条(6))保護期間が50年を超える加盟国も実際に多数存在する。欧州連合諸国およびアメリカ合衆国は死後70年を適用し(いずれも1990年代に保護期間を延長する法改正を実施)メキシコ(死後100年)やコートジボワール(死後99年)のようにさらに長期間にわたって著作権を保護する国もある。日本は1971年1月1日より原則死後50年を採用していた。その後2003年の法改正により映画の著作物だけが原則公表後70年となった。さらに2018年12月30日施行のTPP11法改正により原則死後70年となった。文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約.文学的及び美術的著作物の保護に関するベルヌ条約7条は加盟国が定めるべき著作権の保護期間の要件を以下のとおり規定している。ただし加盟国はより長期間の保護期間を認めることができる。著作権に関する世界知的所有権機関条約.著作権に関する世界知的所有権機関条約。したがって、WIPO著作権条約の締約国は、写真の著作物に対して、他の一般著作物と同期間の保護期間を与えなければならない。日本国もWIPO著作権条約9条の規定に倣う形で写真の著作物の保護期間を公表後50年までとしていた著作権法55条を1996年12月の著作権法改正によって削除した。知的所有権の貿易関連の側面に関する協定.知的所有権の貿易関連の側面に関する協定は著作権を含む知的財産権の保護に関して世界貿易機関 加盟国が遵守すべき条件を定めている。まず、TRIPS協定9条(1)は、WTO加盟国がベルヌ条約1条〜21条の規定を遵守しなければならないことを規定し、その中には7条も含まれる。したがって、WTO加盟国は、ベルヌ条約が定める著作権の保護期間の要件をまず遵守しなければならない。さらに、TRIPS協定12条は、著作物の保護期間が自然人の生存期間に基づいて計算されない場合の扱いを規定している。同条によれば、WTO加盟国は、著作物の公表の年の終わりから少なくとも50年間、著作物を保護しなければならない。世界各国における著作権の保護期間、および保護期間延長に関連する法改正の動向について概説する。なお、2007年1月現在の世界最長はメキシコのであり、以下コートジボワールと続く。1993年の欧州連合域内における著作権保護期間の調和に関する指令により義務付けられていることから、著作者の死後70年としている国が多数を占める。その背景には、20世紀半ばにドイツでクラシック作曲家の子孫たち(その多くは、作曲家ではない)が延長運動を行った結果、1965年よりドイツにおいて死後70年が採用され、EU指令においてもドイツの保護期間が基準とされたことが大きいといわれる。その一方、EUでは著作隣接権を公表後50年から延長することについては2004年に断念している。1996年1月1日までは、著作者の生存期間および死後50年までを保護期間の原則としていたが、1995年のを起点に算出する。映画の著作物は1956年著作権法においては初演存続する。コンピュータを使って制作された著作物や録音の著作物は制作後50年存続する。ただし録音の著作物が前述保護期間に発売された場合は発売年が起点となる。放送もこれら著作物と同じ保護期間を採用している。イギリス法では活版の配列・工業品の意匠をも保護対象としており、その期間は商品の販売から25年である。以上に挙げた著作物の著作者人格権は著作権と同じ期間だけ存続する。著作者の生存期間および死後70年までを保護期間の原則とする。1879年に保護期間を死後80年までと規定したが、1987年に死後60年に短縮し、1993年のEU指令に基づき1995年に死後70年に再延長した。1987年における保護期間短縮は、ベルヌ条約加盟国では唯一の事例であるとされる。なお、保護期間短縮にともなう経過措置では改正法施行時に生存している著作者が既に公表している著作物には短縮された保護期間が適用される一方、既に故人である著作者については経過措置として旧法における死後80年間の規定が維持されている。そのため、パブロ・ピカソの保護期間は死後70年の2059年までである。著作者の生存期間および死後70年までを保護期間の原則とする。1948年のベルヌ条約ブラッセル改正に伴う調査では保護期間を「無期限」と定めていたことが知られているがこの規定は1971年のパリ改正までに撤回されている。1978年1月1日以降に創作された著作物については著作者の生存期間および死後70年までを保護期間の原則とする。1976年著作権法 の規定では著作権の保護期間は著作者の死後50年までとした改正法が1998年に成立したの名称はカリフォルニア州選出の共和党下院議員でこの法案の成立に中心的役割を果たした にちなむ。1999年1月11日元プログラマーであるはCTEAがアメリカ合衆国憲法1条8節8項。しかし2003年1月15日合衆国最高裁判所はCTEAが合憲であるとの最終判断を示した。日本の著作権法では、1970年の著作権法全面改正以降、著作者死後38年から50年に保護期間が延長され、それを原則としていた。無名または周知ではない変名の著作物、および団体名義の著作物の著作権の保護期間は、公表後ないし創作後50年までとなっていた。また、2004年1月1日以降、映画の著作物の著作権は、公表後ないし創作後50年から70年に保護期間が延長された。2018年12月30日にTPP11協定発効に伴い改正著作権法が施行され、著作者の死後70年までを保護期間の原則とし、映画の著作物、無名または周知ではない変名の著作物、および団体名義の著作物の著作権の保護期間は、公表後ないし創作後70年までとなった。著作隣接権の保護期間も併せて実演後またはレコード発行後70年となった。従って、例として1967年没の著作者の著作権保護期間は2017年末をもって既に満了するいっぽう、1968年没のそれは2038年末までになる。日本国における著作権の保護期間.日本国はベルヌ条約、万国著作権条約、WIPO著作権条約の締約国である。また、TRIPS協定を遵守すべきWTO加盟国でもある。したがって、これらの条約、協定で定められた保護期間の要件をすべて満たすように、国内法で著作権の保護期間を規定している。なお、本節において日本の著作権法を参照する際には、特記がない限りその条数のみを記載する。なお保護期間については前述のとおりである。著作権は著作物を創作した時に発生するを適用したものである。著作権は、著作者が死亡してから70年を経過するまでの間、存続する。ベルヌ条約7条に対応する規定であるが。2018年12月30日施行改正著作権法により条約よりも保護期間は長くなっている。共同著作物の場合は最後に死亡した著作者の死亡時から起算する���同項かっこ書)。これは最後に死亡した著作者が日本のに基づく権利の享有が認められない者(条約非加盟国の国民など)であっても同様であると解する。また、自然人と団体の共同著作物の場合、本項を適用して自然人である著作者の死亡時から起算するのか、後述する1項を適用して公表時から起算するのかが問題となる。この場合、自然人である著作者の死亡時から起算するのが妥当であると解する。保護期間の長い方による方が著作権保護の趣旨に合致するし、公表時起算は死亡時起算が適用できない場合の例外的規定だからである。一般的な著作物では著作者の死後30年までと規定されていた。その後は以下のような変遷をたどっている。改正された法律の施行前に著作権が消滅していた著作物の場合延長の対象とならず著作権の保護期間は1971年改正の場合なら著作者の死後50年2018年改正の場合なら70年とならないので注意が必要である。たとえば芥川龍之介梶井基次郎島崎藤村太宰治藤田嗣治の作品の著作権の保護期間は以下のとおりとなる。旧著作権法を考慮した著作権の保護期間を表にまとめると次のとおりである。無名または変名の著作物.無名または変名の著作物の著作権はその著作物の公表後70年を経過するまでの間存続する。無名または変名の著作物では著作者の死亡時点を客観的に把握することが困難であるからベルヌ条約7条が容認する公表時起算を適用した。ただし、公表後70年までの間に、著作者が死亡してから70年が経過していると認められる著作物は、著作者の死後70年が経過していると認められる時点において著作権は消滅したものとされる。ここでの例としては俳号芸名四股名ニックネームハンドルネームなどが挙げられる。1899年7月15日に施行された旧著作権法では公表後30年までと規定されていた。その後は以下のような変遷をたどっている。法人その他団体が著作の名義を持っている著作物の著作権は、その著作物の公表後70年。団体名義の著作物においては、著作者の死亡を認定できないため、公表時起算を例外的に適用している。団体名義の著作物とは団体が著作者となるいわゆる職務著作ただし、上記の著作物の著作者である個人が、上記の期間内に、当該個人の実名、あるいは周知な変名を著作者名として著作物を公表したときは、原則どおり著作者の死後70年の経過をもって著作権が消滅する。映画の著作物の著作権はその映画の公表後70年を経過するまでの間存続する(1項)。ただし映画の創作後70年を経過しても公表されなかった場合には創作後70年を経過するまでの間存続する(同項但書)。映画の著作物の著作者は「制作監督演出撮影美術等を担当してその映画の著作物の全体的形成に創作的に寄与した者」(16条本文抜粋)と規定されているが映画が様々なスタッフの寄与によって創作される総合芸術であり著作者が誰であるかを実際に確定するのは困難であるためベルヌ条約7条(2)に従い公表時起算主義を採用した。著作権法では、独創性のある個人名義の映画の著作物については著作者の死亡時から起算して38年間存続することになっていたため、保護期間が実質的に短くなる場合も生じた。このため、2003年の法改正により、保護期間が50年から70年に延長された。また1971年より前に製作された映画作品は旧著作権法の規定と比べ長い方の期間になるので注意が必要である。ただし例えば旧法下における会社名義や戦時中の国策団体などの名義によるの類については必ずしも長くなるとは言えない場合も出てくる可能性もある。写真の著作物の保護期間は、旧著作権法と規定されていた。その後は、以下のような変遷をたどっている。上記によれば1956年12月31日までに製作された写真についても未発行であれば1956年12月31日までに著作権は消滅するしその日までに発行されたとしても遅くとも1966年12月31日までには著作権は消滅するので1967年7月27日の暫定延長措置の適用は受けられない。したがって著作権は消滅している。いずれの場合も著作者が生存していても同様である。このように、写真の著作物は他の著作物と比べて短い保護期間しか与えられてこなかったため、保護の均衡を失するとして、日本写真著作権協会などは消滅した著作権の復活措置を政府に対して要望していた。しかし、既に消滅した著作権を復活させることは法的安定性を害し、著作物の利用者との関係で混乱を招くなどの理由から、平成11年度の著作権審議会は、復活措置を見送る答申を行っている。さらに、1996年12月の著作権法改正によって、写真の著作物の保護期間を公表後50年までとしていた著作権法55条が削除され、写真の著作物に対しても、他の一般著作物と同等の保護期間が適用されることになった。これは、1996年12月の世界知的所有権機関 外交会議によってWIPO著作権条約が採択されたことを受けたものであり、同条約9条は、写真の著作物に対して他の一般著作物と同期間の保護期間を与えることを義務づけているからである。改正以前までは公表後50年であったため、著作者が生存中に著作権が切れてしまうことが数多く発生した。この改正によって他の著作物と同等の扱いを受けるようになった。継続的刊行物、逐次刊行物等の公表時.著作物を冊号または回を追って公表する場合著作物を一部分ずつを逐次公表する場合それぞれ公表時をいつとすべきかについては以下の通り規定している。冊号または回を追って公表される著作物について公表時を起算時として著作権が消滅する場合そのとは毎冊毎号または毎回の公表時期とされる。の例としては新聞雑誌年報メールマガジンのような継続的に刊行公表される編集著作物各回でストーリーが完結するテレビの連続ドラマなどが挙げられる。たとえばテレビアニメの第1話が自由に利用可能になるのは今後保護期間を変更する著作権法改正がないものと仮定すれば公表から70年経過後の2046年1月1日午前0時からである。一部分ずつを逐次公表して完成する著作物について、公表時を起算点として著作権が消滅する場合、そのは最終部分の公表時とされる。の例としては、文学全集、新聞連載小説、ストーリーが連続して最終回に完結するテレビドラマなどが挙げられる。たとえば、NHKの連続テレビ小説の第1話が自由に利用可能になるのは、今後保護期間を変更する著作権法改正がないものと仮定すると、2055年1月1日午前0時からである。なお、直近の公表時から3年を経過しても次回の公表がない場合は、直近の公表時を最終部分の公表時とみなす。公表間隔を長くすることにより、著作権の保護期間が不当に延長されることを防ぐためである。上述したの期間の計算方法にはいわゆる暦年主義が採用されている。暦年主義を採用したのは保護期間の計算が簡便にできること著作者の死亡時や著作物の公表創作時がはっきりとしない例が多いことによる。たとえば、作家池波正太郎の作品の著作権は、TPP11整備法による保護期間延長の適用を受けるので、2060年5月3日をもって消滅するのではなく、1991年1月1日から起算して70年後である、2060年12月31日をもって消滅する。したがって、著作権による制限なく自由な利用が可能となるのは今後保護期間を変更する著作権法改正がないものと仮定すれば2061年1月1日午前0時からである。相互主義に基づく保護期間の特例.は、ベルヌ条約7条、TRIPS協定3条但書の規定が容認する相互主義を採用している。したがって、著作権法は、ベルヌ条約同盟国または世界貿易機関 の加盟国。たとえば日本国ではないベルヌ条約同盟国であるA国の国内法が映画の著作物の保護期間を公表後50年と定めているとする。は日本国著作権法が定める映画の著作物の保護期間映画の著作物の保護期間は日本国著作権法においても公表後50年までしか保護されない。ただし日本国民の著作物に対しては58条は適用しない。したがって日本国民の著作物は第一発行国によらず〜が定める保護期間が満期で与えられる。第二次世界大戦における連合国やその国民が有する著作権であって、日本国と当該連合国との間で平和条約が発効した日の前日以前に取得された著作権に対しては、上述の通り認められる通常の著作権の保護期間に加えて、日本国との平和条約第15条の規定及び連合国及び連合国民の著作権の特例に関する法律により、いわゆる戦時加算による保護期間の加算が認められる。第二次世界大戦中は、連合国や連合国民の著作権保護に、日本国は十分に取り組んでいなかったと考えられたためである。加算される期間は以下のとおりとなる。著作権が消滅すると著作権による制限なしに原則として誰でも自由に利用することができる。ただし、保護期間が著作者の死後70年となる場合を除いては、著作権の消滅後も著作者が生存し、著作者人格権が存続している場合もある。その場合、著作者人格権を侵害する態様で著作物を利用することはできない。二次的著作物の著作権との関係.著作物を翻訳編曲変形翻案して創作された二次的著作物の著作権の保護期間は原著作物の著作権の保護期間とは独立して認められる。すなわち創作(翻訳編曲変形翻案)のときに著作権が発生し著作者(翻訳編曲変形翻案した者)の死亡時期その二次的著作物の公表時期あるいは創作時期を起算時として著作権の消滅時期が決定される。したがって、原著作物の著作権が保護期間満了等の事由により消滅していても、二次的著作物の著作権が消滅しているとは限らない。たとえば、アメリカ民謡『My Grandfather's Clock』(邦題『大きな古時計』)の作詞者であるヘンリー・クレイ・ワークは1884年に死去したから、歌詞の著作権は存在しない。一方、保富康午(1984年9月19日没)による著名な日本語訳詞の著作権は今後保護期間を変更する著作権法改正がないものと仮定すれば、2054年12月31日まで存続する。したがって、2006年現在、英語による原歌詞は自由に利用可能であるが、保富康午の日本語歌詞を利用するには、著作権法で定められた例外を除いて著作権者(2006年6月現在、日本音楽著作権協会)の許諾が必要である。逆に保護期間の相違などから原著作物の著作権が存続したままの状態で二次的著作物の著作権が先に消滅する場合もある。この場合当該二次的著作物を利用するには当該原著作物の著作権者の許諾が必要であり原著作物の著作権が消滅するまでは二次的著作物を自由に利用することはできない()。ただし映画の著作物の利用については次節のような特別な規定が存在する。映画の著作物の著作権が保護期間満了によって消滅してもその映画において翻案されている著作物。したがってその映画の著作物を利用する限りにおいては脚本や原作となった小説や漫画等に係る著作権者の許諾を得る必要はない。この規定は著作権が消滅した映画の円滑な利用を促進することをねらいとする。ただし著作権が消滅したものと扱われる著作物は映画において翻案されたものに限られ録音録画されているに過ぎない著作物の著作権は消滅したものとされない。したがって映画の著作物を利用するためには字幕映画音楽美術品等に係る著作権者の許諾を得る必要がある。著作権の保護期間に関する裁判例.1953年に公表された団体名義の独創性を有する映画の著作物の保護期間.2004年1月1日に施行された改正著作権法は、映画の著作物の保護期間を公表後50年から公表後70年へ延長する規定を含んでいた。ただし、施行前に著作権が消滅した映画の著作物に対しては、遡って新法を適用して著作権を復活させることはない。この新法の解釈に関する文化庁の見解は、という理由から、1953年に公表された映画の著作物は、新法の適用を受けて2023年12月31日まで保護されるというものである。これに対し、新旧両法の文理解釈からすれば、1953年公表の映画の保護期間は2003年12月31日までであり、2004年1月1日には消滅するという反対の見解もあった。これらの見解の対立は1953年問題ともよばれている。2006年5月、についても、別の2社を相手取り、DVDの製造販売の差止めを求めて東京地方裁判所に提訴した。同年7月東京地方裁判所はに対しても同様の理由によってパラマウント社の請求を棄却する判決を言い渡した。についてのみ、知的財産高等裁判所に控訴したが、同裁判所は2007年3月29日、著作権は2003年12月31日をもって消滅したとする一審判決を支持し、パラマウント社の控訴を棄却する判決を言い渡した。パラマウント社は最高裁判所へ上告したものの2007年12月18日最高裁は一審二審の判決を支持。という結論でこの問題は決着した。自然人を著作者とする映画の著作物の保護期間.2006年7月、チャーリー・チャップリンの映画の著作権を管理するリヒテンシュタインの法人が、な���複数タイトルのチャップリン映画の格安DVDを販売する東京の2社に対し、格安DVDの販売差止めと約9400万円の損害賠償を求めて、東京地方裁判所に提訴した。原告の主張によれば、被告2社はなど原告が著作権を保持管理する9作品について、原告の許諾を得ずに格安DVDを販売したことにより、原告の著作権を侵害したとする。原告は著作権存続の法的根拠について旧著作権法22条ノ33条1項52条1項および新著作権法の昭和45年附則7条により著作権保護期間は著作者の死後38年であることなどを挙げる。すなわち原告の主張によれば9作品のうち7作品はチャップリン個人の作品であるためチャップリンが死亡した1977年から著作権保護期間が起算されそれから38年経過後の2015年まで著作権が保護されることになる。なお、文化庁はの中で、著作権が保護されるを挙げ、原告の主張に沿う見解を示している。2007年8月29日、東京地裁は原告側の主張を全面的に認め『モダン・タイムス』など7タイトルは旧法の規定に伴いチャップリンの個人著作物と認められ、著作権保護期間は経過措置により2015年まで有効であると判断。さらに『殺人狂時代』(1947年製作)及び『ライムライト』(1952年製作)については2003年改正法の附則第2条(旧法と現行法のどちらかで保護期間が異なる場合は、より長い方を適用する)に基づき、公表後70年が適用されると判断。『殺人狂時代』は2017年、『ライムライト』は2022年まで保護期間が存続するとし、被告側に対し9タイトルの販売禁止と在庫の全量及びDVD製作に使用したマスターの廃棄・約1053万円の損害賠償を命じた。発売業者は知財高裁に控訴したが、2008年2月28日に控訴棄却の判決を下した。さらに、発売業者は最高裁に上告したが、2009年10月8日、最高裁は上告を棄却し、1、2審判決が確定した。この上告審判決において最高裁は、旧著作権法における映画の著作者をとの初判断を示した。 +台東区は東京都の区部北東部に位置する特別区。面積は23区の中で最も狭い。1947年に下谷区と浅草区が合併して誕生した。江戸時代を通じて東京で最も古い市街地のひとつで江戸時代は元禄文化(町民文化)が息づいた。浅草にある浅草寺(正式名金龍山浅草寺)は建立1400年の歴史を持つ。かつては「浅草六区」を中心に劇場や映画館などの興行施設が集積する日本屈指の繁華街であったが高度成長期以降そういった興行施設は娯楽の多様化に伴い衰退していきまた新宿渋谷六本木池袋といった山手の新興繁華街の発展により相対的に浅草の繁華街の地位は失われていった。現在は国内外から多くの人が訪れる観光地としての性格が強くなっている。下谷地区においては上野公園には東京国立博物館など日本を代表する美術館や博物館が建築され東京芸術大学などが付近に位置する上野は「芸術文化の発信地」ともなっている。関東大震災(1923年)や第二次世界大戦により壊滅的な被害を受けたが焼け残った浅草橋界隈の問屋街などにはいまだ大正昭和初期の街並みや下町の風情が色濃く残っている。区の中心駅である上野駅は古くから北関東東北信越地方からの玄関口として知られ新幹線も停車する。1927年に開業した東京地下鉄道浅草駅 - 上野駅間は東洋初の本格的な地下鉄路線として知られる。区は全般的に商業地であるため純粋な住宅地は一部で供給量も少ない。戸建も一部地域を除くと少なくビルやマンションなど土地の高度利用が進んでいる。古都保存財団が選定するにおいて次世代に残す美しい日本の歴史的風土が良好に保存されている全国の事例の一つとして寛永寺上野公園周辺谷中の街並みが選ばれた。ルコルビュジエの国立西洋美術館が世界遺産に登録されている。東京国立博物館表慶館や東京国立博物館など国の重要文化財が多い区である。合併前の下谷区浅草区ともに下町文化の根付く由緒ある土地のため合併後の名称は紛糾した。様々な案が考え出され最終的に下谷区側の案はを組合わせたもので康煕字典にめでたい意味で載る瑞祥地名でもある。その他の候補には、「下町区」「太平区」「隅田区」「浅谷区」などかあった。読み方は都、区で発行する出版物のふりがな等で見られるように公式にはと読んでいる。また「だいとう」の読みは「上野台」の「東」に由来する説がある。区内の町名に台東があるが1964年の住居表示により区名を取って名付けられたものであり由来とは関係ない。東京23区の中央からやや北東寄りに位置する。東側は隅田川に接し対岸の墨田区との区境となっている。また区南端で隅田川との合流点付近の神田川に接する。台東区では全域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている。住居表示実施前の町名等欄で下線がある町名はその全部それ以外はその一部であり町名の末尾に数字がある場合には丁目を表す。2005年に夜間人口(居住者)は163528人であるが区外からの通勤者と通学生および居住者のうちの区内に昼間残留する人口の合計である昼間人口は303522人で昼は夜の1.856倍の人口になる(東京都編集『東京都の昼間人口2005』より。国勢調査では年齢不詳のものが東京都だけで16万人いる。上のグラフには年齢不詳のものを含め昼夜間人口に関しては年齢不詳の人物は数字に入っていないので数字の間に誤差は生じる)。2019年10月12日 令和元年東日本台風(台風19号)により、日本国内で甚大な被害を被ったが、台東区の区民向け避難所で区職員が路上生活者(ホームレス)の受け入れを拒否した為、国会でも15日参院予算委員会にて取り上げられる問題となった。台東区は同台風の接近に伴って11日午後5時半以降区内4カ所に避難所を開設した。その後12日に避難所の一つ区立忍岡小の避難所を訪れた路上生活者の2人に対し区職員が受付のため紙に住所と氏名などを書くよう求め路上生活者の2人は台東区内に住所がないことを申告すると区職員は区民のための避難所であることを理由に路上生活者2名を追い返した。このことが明るみに出ると、13日以降様々なメディアで取り上げられたが、台東区はメディアの取材に対しと答弁した。台東区は15日夕方区長の声明を発表 し「この度の台風19号の際に避難所での路上生活者の方に対する対応が不十分であり避難できなかった方がおられた事につきましては大変申し訳ありませんでした。またこの件につきまして区民の皆様へ大変ご心配をおかけいたしました。台東区では今回の事例を真摯に受け止め庁内において検討組織を立ち上げました。関係機関等とも連携し災害時に全ての方を援助する方策について検討し対応を図ってまいります」と謝罪した。2017年の区割変更に伴い東上野6丁目下谷2丁目入谷2丁目1-33番松が谷1-4丁目西浅草23丁目浅草2丁目13-27番浅草3-7丁目千束1丁目千束2丁目1-32番千束34丁目今戸12丁目東浅草12丁目橋場12丁目清川12丁目日本堤1丁目日本堤2丁目1-35番は2区から14区に移行した。台東区循環バスめぐりんその他にいわき市北茨城市東海村ひたちなか市常陸太田市大子町常陸大宮市那珂市などから東京駅行きバスタ新宿行きの高速バスで浅草駅上野駅で降車できる。台東区は、足立ナンバーを割り当てられており、の地域と一致する。足立ナンバー割り当て地域は台東区江戸川区足立区墨田区荒川区。台東区には、地域の特色に合わせた複数のキャラクターからなる公式キャラクター台東くんが存在する。 +明治初期から1960年代まで浅草は東京を代表する歓楽街であり田谷力三や藤原義江などの浅草オペラのスター榎本健一や古川ロッパなどの喜劇人フランス座などのストリップ劇場の幕間コント出身の渥美清東八郎萩本欽一坂上二郎ビートたけしなど特に大衆芸能の分野には浅草にゆかりが深い人物が多い。浅草公園六区を参照。という表現は古くからあり有名なところでは漢書のがある。地理学とは地球の表面と住民の状態その相互関係を研究する学問である。「地理」は、日本の学校で設置されている、「人間の生活に影響を与える地域的、社会的な構造」を学ぶための科目である。自然環境や産業環境などを含む環境を学習対象としている。小学校および中学校においては、歴史や公民と並び、社会科の一分野である。高等学校においては、最近は「地理歴史科」という教科の中の一科目となっており、「地理A」「地理B」に細分されている。生物学とは、生命現象を研究する、自然科学の一分野である。広義には医学や農学など応用科学・総合科学も含み、狭義には基礎科学の部分を指す。一般的には後者の意味で用いられることが多い。類義語として生命科学や生物科学がある(後述の#「生物学」と「生命科学」参照)。生物学とは生命現象を研究する分野である。日本のによると生物学は生物やその存在様式を研究対象としているということになっておりAquarena Wetlands Project glossary of termsの定義では生物学の研究対象には構造機能成長発生進化分布分類を含むということになっている。扱う対象の大きさは一分子生物学におけるまで幅広い。現代の生物学が成立したのは比較的最近だが、関連し含まれていた科学は古代から存在した。自然哲学はメソポタミア、古代エジプト、古代インド、古代中国で研究されていた。しかし、現在に繋がる生物学や自然研究の萌芽は古代ギリシアに見られる。一般に、諸研究に先駆しているという意味で、古代ギリシャのアリストテレスをもって生物学史の始めとする。などとされ、生物の分類法を提示するなどし、後世に至るまで多大なる影響を及ぼしたのである。アリストテレスの動物学上の著作として残っているものとしてはを扱っており、随所で優れた観察眼を発揮している。植物に関する研究も行い著作もあったとされるが、失われ現在では残っていないとされる。アリストテレスの生物に関する研究の中でも動物に関する研究は秀でており、特に動物学の始原とされる。分類、生殖、発生、その他の分野において先駆的な研究を行い、その生命論や発生論は17世紀や18世紀の学者にまで影響を与えた。ただしアリストテレスの生物学は今日の視点から見れば生気論目的論的でありその意味では哲学的といえる。は有生物と無生物を区別する原理としてという用語を用いて説明していたが、アリストテレスはこのプシュケーを、可能態において生命を持つ自然的物体の形相、と定義し、プシュケーは生命の本質をなしており、自己目的機能であり 起動因だ、と記述した。中世には、イスラム世界でジャーヒズらが植物学の著作を残した。現代生物学は、アントニ・ファン・レーウェンフックが発明した顕微鏡の普及とともに発展した。科学者らによる精子・バクテリア・滴虫類、そして生命が持つ驚くべき奇妙さと多様性が次々と明らかにされた。ヤン・スワンメルダムの調査は昆虫学に対する関心を新たにし、顕微鏡を用いた解剖や標本用染色の技術を向上させた。17世紀にロバートフックが顕微鏡を用いた観察で細胞を発見し18世紀のカールフォンリンネによる生物の系統的分類の発表を経てチャールズダーウィンの進化論やグレゴールヨハンメンデルの遺伝子法則などが認められるに及びそれまでの博物学の一領域に過ぎなかった生物についての知識がひとつの学問分野を成り立たせるに充分にまで蓄積された事で成立した。19世紀前半には細胞の中心組織が重要な役割を持つという認識が広がった。1838年と1839年マティアスヤーコプシュライデンとテオドールシュワンは有機体の基本単位は細胞であり個別の細胞がそれぞれ生きて多くの否定的意見があったが全ての細胞は分裂によって生じるという考えを促進する役割を果たした。1860年代にはロベルトレーマクとルドルフルートヴィヒカールヴィルヒョウの仕事によって細胞説として知られる上記3説は多くの支持を受けるようになった。20世紀になると生物学的知識は膨大かつ複雑になったためこれらを統一的に理解しようとする試みが重視されるようになった。さらに生物を高度に組織化された分子の集合体と捉え環境の中からどのように自己の秩序と維持を満たすかという視点から分子工学的な理解を強める傾向にある。そのため従来の記述を主体とした学問から原理的そして実体論的な学問へと変貌しつつある。1990年には一般的なヒトゲノムを図像化する計画が実行に移され2003年に完成した。英語の biology はギリシア語の 。現代の生物学者は基本的に唯物論或いは機械論の立場を取り生物は有機化合物などの物質から構成された複雑な機械であると見なす。一つ一つの要素を解明していく還元主義が有効である場面は依然存在するが還元主義だけで複雑な生命現象を理解する試みには限界があることが理解され始めたため生物を複雑系として扱う考えかたも発展してきている。生物学では一般的���ヒトを特別な生物種としては扱わない。しかし我々自身がヒトでありその研究は医療や産業などと関連しているため生物学の中でヒト研究は重要であり関心も高い。生物学研究の成果は医療や農業における基礎を提供し応用面で人類に大きな利益をもたらしている。生物学に関連する産業はバイオ産業と呼ばれIT産業と並び発展性のある大きな市場を形成し経済的にも重要な位置にあるとされる。生物学の知見や技術は生命の根幹に大きく関わるようになり倫理的社会的な影響も注目されている。生物学では他の自然科学分野と同様に記載実験理論といった科学的方法によって研究が行われる。これらは独立したものではなくそれぞれが関連し合って一連の研究を形作る。記載とは詳細な観察に基づいて基礎となる事象を明らかにすることであり研究において最も始めに行われる。生物種を同定するための形態学的観察をはじめとして実験操作を加えない状態での発生現象や細胞構造の観察生理条件下での生理活性物質の測定ひいてはゲノムの解読も記載と言える。また、個々の事例の記載を基礎とし、それらを比較することからより一般的な知見を得ることは、特に生物学では重視されてきた。これは一つにはその構造や現象が複雑で,研究史の初期において実験系を作りにくかったこと、他方で生物が多様であり、その背後に進化があることからそれを比較によってあぶり出すことに大きな意味があったからである。たとえば比較解剖学や比較発生学はそれぞれの分野の発展の中では大きな意味を持ち、それらは直接に進化論の発展に結びついた。実験は人為的に操作を加えることにより通常と異なる条件を作り出しその後の変化を観察観測することで生物に備わっている機構を解明しようとする実証主義的な試みである。突然変異の誘発や遺伝子導入移植実験などさまざまな手法を使う。現代生物学は実験生物学の性質が強くなっている。実験操作は科学的方法に基づき対照実験や再現性の確認などにより実験者の主観が除かれる必要がある。一方進化や生物圏レベルの生態学研究のように実験による証明が困難である場合は様々な観測データや古生物の化石などを用い比較や構造化など理論による説明を試みる。またバイオインフォマティクスのように膨大なデータを統合して理解しようとする場合も理論によるアプローチに重点が置かれる。実験を行う前に仮説を立て結果を予想したり実験結果を解釈して抽象化や普遍化させて法則や規則性を見いだしたりすることも理論の一部である。このような理論面に重点を置いた分野を理論生物学数理モデルを用いる分野を数理生物学とよぶ。これらの分野は高度に抽象化するため対象の生物学的階層には捕われない性質がある。新たな方法論として、蓄積したデータに基づいてコンピュータ上に仮想システムを構築することで構造を理解したり、そのパラメータを変化させるシミュレーションにより実験の代わりとするシステム生物学も登場している。20世紀半ばの分子生物学の台頭以降その周辺分野では一つの遺伝子タンパク質の機能に注目する還元主義的なアプローチが主体だった。この手法は強力でさまざまな生命現象を解き明かしてきた。しかし分子レベルで明らかにしたことを組み合わせるだけでは脳の活動や行動など複雑な現象は理解しがたく還元主義のみでは限界があることもわかってきた。このことへの反省もあり物理学的還元主義への傾倒から抜け出し21世紀に入ってからは生物を複雑な系としてそのままあつかうオーミクスやシステム生物学等のアプローチも盛んになっている。一方生物多様性をあつかう伝統的な生物学や生態学では生物の作りだす系が複雑であることは自明だったため複雑系のような全体論は目新しいものではない。生物学の両輪である生物の多様性と普遍性に関する知見はゲノム解析によって結びつけられつつある。大きなパラダイムシフト.生物学のパラダイムを大きく変えたものには細胞の発見、進化の提唱、遺伝子の示唆、DNA の構造決定、セントラルドグマの否定、ゲノムプロジェクトの実現などがある。細胞の発見やゲノムプロジェクトは主に技術の進歩によってもたらされ、進化や遺���子の発見は個人の深い洞察によるところが大きい。17世紀に発明された顕微鏡による細胞の発見は、微生物の発見をはじめとして、動物と植物がいずれも同じ構造単位から成っていることを認識させ、動物学と植物学の上位分野として生物学を誕生させることになった。また自然発生説の否定によって、いかなる細胞も既存の細胞から生じることが示され、生命の起源という現在も未解明の大きな問題の提示につながっている。進化はチャールズ・ダーウィンをはじめとする数人の博物学者によって19世紀に提唱された概念である。それまでは経験的にも宗教的にも、生物種は固定したものとされていたが、現在では、同じ種の中でも形質に多様性があり、生物の形質は変化するものとされ、種の区別が困難なものもあるという指摘がされている。単純な生物から多様化することで現在のような多様な生物が存在すると考えることが可能になり、生命の起源を研究可能なテーマとすることができるようになった。進化論は社会や思想にも大きな影響を与え、近代で最も大きなパラダイムシフトの1つであった。遺伝自体は古くから経験的に知られていた現象である。しかし19世紀後半メンデルは交雑実験から遺伝の法則を発見し世代を経た後にも分離可能な因子すなわち遺伝子が存在することを証明した。さらに染色体が発見され20世紀前半の遺伝学細胞学による研究から染色体が遺伝子の担体であることが確証づけられた。この過程において古典的な遺伝学が発展しその後の分子生物学の誕生にもつながった。1953年ジェームズワトソンフランシスクリックらがX線回折の結果から立体模型を用いた推論により遺伝物質 DNA の二重らせん構造を明らかにした。DNA構造の解明は分子生物学の構造学派にとって最大の成功である。相補的な2本の分子鎖が逆向きにらせん状構造をとっているというモデルは染色体分配による遺伝のメカニズムを見事に説明しておりその後の分子生物学を爆発的に発展させた。DNAからRNAへの転写、RNAからタンパク質への翻訳、遺伝暗号などの解明により、セントラルドグマと呼ばれるといった一方向の情報伝達がまるで教義のように思われた時期もあったが、これを裏切るかのように逆転写酵素やリボザイムといった発見も20世紀後半に相次いだ。ゲノムという概念はある生物種における遺伝情報の総和として提唱された。ゲノム の合成語である。技術発展によりゲノムプロジェクトが可能になりゲノム研究は生物学における還元論と全体論普遍性と多様性を結びつける役割をもつようになった。生物種間でのゲノムの比較により普遍性と多様性理解への糸口を与え還元的な研究に因子の有限性を与えることで個々の研究を全体論の中で語ることを可能にした。他にも様々な総体に対する研究が始まっている。Vernon L.が1995年に主張したところところによると、特に重要な題材は、以下に挙げる5つの原則で、それらはと言う:。生物学が自然史学の一部だった時代には、記載生物学が主体だった。現代生物学は、実験が主体になっている。さらに将来は、ゲノムやプロテオーム研究などで蓄積された膨大なデータをコンピュータで処理し、そこから生命の原理に迫る生物情報学が主体になるかもしれない。急激なコンピュータの高速化と並行して、実験や観察技術、新たな分析手法の発見など技術発展も進むだろう。純粋生物学に残された大きなテーマには生命の起源、ヒトの精神あるいは心理過程、地球外生命体などがある。すでに起きてしまった生命の起源や進化は、実験で再現できない。ただし、生物物理学的・生化学的に生命(細胞)の誕生を再現する試みはある。心理学はヒトやほかの動物の行動や心理過程を研究しているが生物学と心理学とは従来よりおもに神経メカニズムという観点から関係をもってきた。しかしとくにヒトの高次心理過程はいまだ現在の生物学の知見を超える部分が大きい。今後そういった高次心理過程も心理学における行動認知レベルの研究に加えて生物学における分子レベルの細胞レベルの皮質のグローバルなレベルでの研究を進めることにより両分野のあいだで統合的に説明できるようになるかもしれない。地球以外に生命は存在す���かという問題はまだ生物学のテーマではないと現在の多くの生物学者は考えている。しかし火星やその他の惑星衛星の探索が進み生命やその痕跡が発見されれば重要なテーマの一つとなり現在の生物学に大きな改変が迫られる可能性がある。また、医学や農学、薬学や化学工学などへの重要性は増し、応用は今後もますます増加していく。生物学の諸分野は各論方法論理論の視点から分類できる。各論は研究対象によって方法論は手法によって理論は普遍化された学説によって分野名がつけられる。ただしいずれの分野も程度の差はあれ3つすべての性質をあわせもっているため分類は便宜的なものになる。例えば細胞生物学微生物学生物物理学生化学。生物学を大きくふたつに分ける場合、個体の内部の生命現象を解析する方向がある。また、生物学の各論には、生物の系統分類と生物学的階層性という大きな2つの軸があるとされる。前者によって分類する場合、代表的な分野は、動物学、植物学、微生物学の3つである。それぞれは系統分類にしたがってさらに細分化できる。動物学の下位には原生動物学、昆虫学や魚類学、脊椎動物学などがある。同様に、植物学の下には顕花植物学や樹木学など、微生物学の下にはウイルス学や細菌学などがある。これらの分野では、生物の特異性・多様性を重視する流れがある。一方、対象の大きさ、つまり生物学的階層性(すなわち現象)を軸にすると、代表的な分野は、分子生物学・生化学、細胞生物学、発生生物学、動物行動学、生態学などがある(図)。生態学は生物群の大きさによって個体群生態学、群集生態学などに分けられる他、対象とする場所を重視する場合は森林生態学や海洋生態学、極地生態学などの名称も用いられる。生物学的階層性は生物の分類に対して横断的であり、生物の普遍性が注目される。この軸では個体レベルを境として大きく2つに分けることができる。この視点から諸分野を見ると、個体レベル以下を扱う分野は分子生物学の影響が強く還元主義的な傾向があり、個体レベル以上を扱う分野は全体論的な傾向がある。動物発生学や植物細胞学などの分野は、この2つの軸を考えるとその領域が把握しやすい。方法論は各論分野に必要に応じて導入され、実際の研究を発展させるために必須なものである。理論は抽象化により総合的・普遍的な視点を各論に提供する。最も古くからある方法論の一つは生物の分類を扱う分類学である。分類は生物学の基礎であり進化研究の手がかりにもなる。伝統的には形態に注目して分類されていたが近年では分子生物学の手法を取り入れた分子系統分類がさかんである。生化学は化学的手法分子生物学は DNA 操作を使う方法論でもある。分子遺伝学や逆遺伝学から発展したゲノムプロジェクトやバイオインフォマティクスは新たな方法論として脚光を浴びている。生物学の理論としては遺伝学や進化学が代表的である。遺伝学は遺伝子の機能を間接的に観察するという方法論でもある。遺伝や進化の理論は具体的なレベルでは未だ議論があるが総論としては生物学に必要不可欠な基盤となっている。生物学の分類として記載生物学比較生物学実験生物学といった類型化もある。記載比較実験は上記のように生物学の基本的な手法なのでこのような区分は成立しないことが多いがむしろ歴史的な展開の中での各部分に対してこの名が使われることがある。それも個々の分野名にこの名を被せる例が多い。記載生物学は生物の形や構造を把握し図や文で記載することを行うのを主目的とする。比較生物学はそれによって知られるようになったものを他の生物のそれと比較することから何かをえようとする。実験生物学は記載や比較では得られない知識を生物を操作することで得ようとする。従って生物学はこの順番で発展する。ただし記載はあまりにも最低限基本的な操作なのでこれを冠する例はない。記載をしなければそれは科学以前である。たとえば近世から近代の生物学発展の初期、比較解剖学は極めて重要な分野として独立していた。これは発生学に結びついて比較発生学の流れをつくり、両者融合して比較形態学と呼ばれた。しかしこの分野は内部造反的に実験的手法��頼る実験発生学を生み出す。あいまいになる諸分野の境界.20世紀に入るまで、各分野はそれぞれ独自の手法や観点で異なる対象を研究し、内容の重複はわずかだった。しかし、20世紀後半の分子生物学の爆発的な発展や顕微鏡などの技術発展により、研究分野はさらに細分化されつつも、それらの境界はあいまいになり、分野の名称は便宜的・主観的なものになってきている。例えば、イモリの足の再生を研究しに変えることも多い。生物学と関連する分野.生物学は、さまざまな形で他の学問分野と関係している。概念、理論、研究手法などの面で生物学に影響を与えた自然科学の分野としては、先に発展していた物理学と化学が挙げられる。特に分子生物学以降は物理学の影響が強い。生化学や生物物理学などはこれらの境界領域の分野と言える。応用科学では医学における生化学や生理学、解剖学は、動物学や発生学と関連し、農学における育種学は遺伝学の誕生に寄与し、その過程で近代的な推測統計学を醸成した。また、数学は自然科学の基礎として生物学に影響を与えているほか、特に数理生物学や集団遺伝学などでは高度に数学的な概念、分析手法が用いられる。近年では、ゲノムやプロテオームの解析から得られる膨大なデータを処理する必要があるため、バイオインフォマティクスと呼ばれる分野では情報学の方法論が取り入れられ、ゲノミクスやプロテオミクスで用いられている。また、生命現象をシステムとして理解することを目的とするシステム生物学が発展しつつある。生物学と相互に影響しあっている分野も数多い。生態学は理論面で経済学と強い関連があり地球科学と観測技術を共有している。これらの影響は一方通行ではなく相互的である。人文科学系の分野の中では自然哲学の一分野である生物哲学方法論としては科学哲学倫理面を研究する生命倫理学などが生物学と対象を共有している。科学史の一分野である生物学史は生物学の歴史が研究対象である。生物学から多くの影響を受けた分野に、理論社会学や社会思想がある。ダーウィンと同時代に生き、適者生存などの語の発案者でもあるハーバート・スペンサーや、エミール・デュルケームは、社会の変化、特に分業の発達と構成要素の多様化を生物進化になぞらえて考察する理論を打ちたてた。彼らの学問は社会学の中でも多く知られているが、スペンサーを除けば、生物学から影響を受ける量が多く、生物学への影響は限られている。また、生物をメタファーとして社会を説明する理論にはほかに、マーシャル・マクルーハンによるメディア論や梅棹忠夫による情報産業論など、広く知られたものが多くある。システム理論やサイバネティックスは生物学による生命体の理解を手がかりに秩序や変化についての一般理論を構築している。これは社会学にも社会システム論として影響を与えている。生物学の応用と社会的責任.生物学の知見と技術を応用に用いる分野はバイオテクノロジーまたは生物工学と呼ばれる。遺伝子操作に重点が置かれる場合は遺伝子工学発生過程に重点が置かれる場合は発生工学ともいう。生物学の成果を実業に活用する産業はバイオ産業と呼ばれITとならんで勢いのある市場でありベンチャー企業が次々と誕生している。アメリカでは大学の研究者が起業することも多い。遺伝子治療幹細胞を用いた再生医学一塩基多型 (SNPs) を用いたオーダメイド医療やゲノム創薬などが注目されている。農業や畜産関連でもバイオテクノロジーが生かされておりこれらを支える基礎研究は重要である。政府や企業は多大な資金を提供しその発展を促している。応用分野に輝かしい貢献をすると同時に、現代生物学はさまざまな倫理的問題を抱えている。それらはゲノム情報、遺伝子操作、クローン技術など、生命の根幹に関わる技術や情報によりもたらされた。これらは、臨床医療においては恩恵をもたらす一方で、差別や生命の軽視など深刻な社会問題を引き起こしつつある。このような課題は生命倫理学によって扱われる。また、遺伝子操作によって作られた遺伝子組み換え作物(GM作物)の環境への影響(遺伝子汚染)という問題提起がなされており、議論が行われている。��代から現代にかけて、人間の活動によって環境破壊が起こり、生物多様性が急速に失われている。生物学は観測を行い、科学的裏付けのあるデータに基づいた提唱をしたり、生態系や生物多様性について正しい情報を発信するなどの取り組みも必要である。現代生物学およびそれに携わる人々は、純粋な科学的研究成果のみならず、このような倫理的側面に対しても熟考し議論を深め、社会的責任を果たすことが求められている。「生物学」と「生命科学」.Biology という語は、を意味する から造られた。K. F. ブルダッハらによって独立に用いられた。生物学が様々な生物を分類記載する博物学から発展したことからもわかるように、生物学には生物の多様性を理解しようとする伝統がある。一方生命科学 や生物科学 という語は分子生物学が誕生してから新しく作られたものである。全ての生物に共通すると同じ意味に使われる。 +社会(しゃかい)はある共通項によってくくられ他から区別される人々の集まり。また仲間意識をもってみずからを他と区別する人々の集まり。社会の範囲は非常に幅広く単一の組織や結社などの部分社会から国民を包括する全体社会まで様々である。社会の複雑で多様な行為や構造を研究する社会科学では人口政治経済軍事文化技術思想などの観点から社会を観察する。社会は広範かつ複雑な現象であるが継続的な意思疎通と相互行為が行われかつそれらがある程度の度合いで秩序化組織化されたある一定の人間の集合があればそれは社会であると考えることができる。社会を構成する人口の規模に注目した場合には国際社会や国民国家を想定する全体社会や都市や組織などの部分社会に区分できる。さらに意思疎通や相互作用秩序性や限定性という社会の条件に欠落があれば全てを満たす社会と区別して準社会と呼ぶことができる。人間は誕生してから死去するまで社会の構成員の一人とされ、都市または農村において育ち、家庭や学校などでさまざまな教育を受けながら成長する。この過程で社会に存在している規範や法、宗教や芸術などの文化に触れ、そして家族外の人間関係を拡大していく。これは人間の社会化の過程でもある。社会は人口集団、都市形態、経済発展、政治体制、宗教などによって多様性を観察することが可能であり、時代や地域によってさまざまな社会の形態を見ることができる。19世紀半ばまでの日本語には「社会」という単語はなく「世間」や「浮き世」などの概念しかなかった。青地林宗が1826年(文政9年)に訳した『輿地誌略』に「社會」ということばが教団会派の意味で使用されている。古賀増の1855年(安政2年) - 1866年(慶応2年)の『度日閑言』にも「社會」ということばが使用された。明治時代になると森有礼が1874年(明治7年) - 1875年(明治8年)に編んだ『日本教育策』福地源一郎が1875年(明治8年)1月14日付『東京日日新聞』の社説に「社會」という用語が使われ「ソサイデー」のルビが振られている。「社會」とは中国の古語で農耕地の守護神中心の会合を意味して北宋時代の近思録に「郷民為社会(郷民社会を為す)」とありそれを英語のSocietyの日本語訳に当てた。社会の起源は人間の本性に求めることができる。動物にはアリやハチイヌサルのように群を作り集団行動を好む社会性を持つ動物とネコのように単独行動を好む動物がある。人間は古来より他の多くの動物と同様に群という小さな社会を形成し食料を得るため外敵から身を守るためその他生存するための必要を満たすための社会であったと推定される。現在でも基礎集団である部族や家族は存在しており村落や都市の構成要素となっている。また言語宗教文化などを共有する人口規模が小さな社会では意思疎通が密接であり自然発生的なコミュニティが成立する。ロバートモリソンマッキーバーはこれを共同関心の複合体とし一定の地域で共同生活するものと定義している。しかし原始的で素朴な社会は近代において都市化を始めることとなる。都市化とは人口の増大と流動化経済の工業化などにより異質な人口が特定の箇所に集中することによって生じるものである。この都市化は言い換えれば社会の近代化でもあった。都市に居住する住��はスラムや公害などの都市問題に直面することとなり政府は社会状況を改善するための政策に乗り出し始める。また都市では非常に大規模な人口集団が居住しているために従来の社会の性質とは異なる都市社会が成立した。偏差値競争の高まった高度経済成長期から今日まで出身や学歴の高さに応じ賃金や処遇、昇進等の優劣が決まる状況を学歴社会などと表されたり、いわゆる肩書きが極度に社会生活における成否を左右する状況を肩書き社会といわれたりする。近年では、65歳以上の人口が若年層よりも上回る高齢化社会、またそれが加速した状況を高齢社会、超高齢社会というのをはじめ、多様な危機を抱えている社会をマルチハザード社会、ITなど情報通信技術を基本に社会が動く状況を情報化社会と称することがある。社会化とは個人が他人との相互的な関与によって、所属する社会の価値や規範を内面化するようにパーソナリティを形成する過程である。社会化はどのような社会集団にその個人が所属しているかによってその内容は異なる。社会化は教育と密接な関係がある。児童が基礎教育において行うものだけでなく、大人であっても所属集団において一般的に行われている。社会の根本的な要素である人間の本性については心理学、精神分析学、社会哲学などにおいてさまざまな議論が行われている。人間の社会的な自我については深層心理学のフロイトが意識、前意識、無意識に構造化し、その中において無意識にあるイド、イドから発生する自我、自我を監視する超自我があるとした。そして自我はパーソナリティを構築し、人間に一貫性を持った価値観や態度を一定の行動パターンとして外部に示す。自我の発生についてはジョージ・ハーバート・ミードは自我が社会の相互作用において発生すると論じており、自我を手に入れるためには他者の態度を採用し、それに反作用できる役割を取得することが必要であると述べる。例えば児童はごっこ遊びでは他者の役割を模倣することによって他者の態度を知り、ゲームの中で集団で共有する目標に対して自己の役割を取得することで社会的な自我を成長させている。社会は構成員相互の協力によって営まれている。円滑に社会を営むために人間にはそれぞれ役割が与えられなければならない。各々がそれぞれの役割を果たすことによって社会がその機能を果たすことが可能となる。たとえ自給自足の生活を実践している人であっても生活の場の安全は社会の理解によって保護されていると考えることができる。そして、役割を果たし生活するために人間は社会に対し様々な形態で参加する。則ち、生活に密接した労働・生産・再生・消費・利用・処分・廃棄の行為であり、労働者・生産者・消費者・利用者等と行為に基づいて呼ばれる。社会の営みは、人間の様々な行為によって産業を興し、文化を育み、子供を教育し、交通手段を発達させ、医療を充実させて長い歴史を積み重ねてきた。時に利害の衝突等から戦争となり、戦争に備えて軍事を発達させ、戦争の深い悲しみは平和を希求させた。また、経済の発達は社会を不安定化させていた貧困や失業を解消する可能性を生み出したが、にこれに含まれない。行為の根本的な理由は欲求であるが、人間の欲求は単一の原理ではない。心理学者のアブラハム・マズローの自己実現理論によれば段階的に発展するものであり、生理的欲求、安全の欲求、親和欲求、自尊欲求、自己実現欲求と発展していくものとした。しかし欲求が直接的に社会行為を行わせるのではなく、社会化によって内面化している規範、行為のために利用できる資源などがその行為を行うべきかどうかの判断に影響する。このように社会行為は欲求、規範、資源から総合的に目的が判断されるが、この意思決定も行為の目的に付随する効果から導かれる場合と行為そのものに付随している目的から導かれる場合がある。前者は自己充足的行為、後者は手段的行為として区別され、例えば本を読むとしてもそれが自分の純粋な知的好奇心を満たすためである限りは自己充足的行為であるが、試験対策などのためであれば手段的行為である。行為の分類についてマックスヴェーバーはその性格から四つに類型化する。まず非合理的行為としてまとめられるものにそれまでの習慣に基づいて行われる伝統的行為そして感情の起伏に基づいた感情的行為が挙げられる。次に合理的行為としてまとめられる価値観に基づいた価値合理的行為と価値観に基づきながらも設定した目的を達成するために計画的に実行する目的合理的行為がある。また社会心理学では社会行動を社会の構成員が相互に他者と合力助力や分業を行う協力相互に他者と競争や攻撃を行う対立社会生活そのものから離脱する逃避と区分する。現代社会では構成員の利害を調整することにより秩序を維持して生活を円滑に行えるように様々な制度が定められている。人間の権利行為には一般に政治が生み出す法に基づいて様々な制限が加えられている。近年社会で認知された人間が生まれながらに持つとされる自由な人権に対し社会的にどこまで制限を加えることが可能か常に議論の対象となっており制度に基づく義務は大きな負担となってきている。人間の自発的な行為には常に責任が伴うとされているが、法律に罰則がなければ社会的に罰することは困難である。その一方で、我々が共存している地球の許容にも限界があり、現代社会が抱える全ての社会問題には私達自身に解決する責務があると考えられている。社会は広範かつ多様な領域を持っているために複雑な体系となっている。例えば政治や経済は社会の領域に所属するものであるが政治や経済には社会を超えた原理が存在しており社会システムの中で複雑な機能を果たしている。政治は公共的な意思決定や利害の調整などを行い社会に秩序や動員をもたらす機能の一つである。理論的な仮定として考えると、原始的社会においては秩序はなくが存在した。これを終結させるためには個々の人々が勝手に判断して行動することを規制して利害を調整することが必要であり、これを達成するための機能が政治である。政治権力の元に社会秩序が徐々に形成され、しかもその政治構造に正当性がもたらされると社会は無政府状態から安定化した状態へと移行する。近代の政治哲学の議論では、秩序の形成においては初めは王や権力が支配する形で、原始国家が作られた。その後、共和制や民主制の国家や社会が作られた。実際には、いかなる原始的な社会にも、様々な社会秩序や協力行動、規則、公式あるいは非公式な法律や制度などが存在している。経済は社会の中で希少性や効用性を持つ価値を配分する機能の一つである。人間には生産力があり労働を通じて自然に作用することができる。生産によって得られる資源を消費することで人間は生活している。かつてはこの一連の活動も社会交換によって社会の中で行われていたが物々交換貨幣を介した取引が行われるようになって市場が形成された。この市場は社会行為の相互作用でありながらも異なる経済の原理で作動するようになる。従って市場には社会全体に対して自動的に価値を配分する機能をあるていど持っていると考えられている。 +こどもの文化は子供の遊びや行事を通じて形成される子供独自の文化である。未就学あるいは義務教育段階である子供が子供ら独自であるいは保護者や教師をはじめとする大人からの示唆や指導を受けながら形成しその多くは以下に挙げるような子供の形成過程で使われるさまざまな道具により創造性想像力など脳の発達と共に文化的意味合いを持つものだと指摘できる。フランスの思想家、ロジェ・カイヨワはヨハン・ホイジンガの著書を執筆した。その中でカイヨワは遊びを次の4つ要素に分類している。テレビゲームによって様々な遊びが仮想空間で行われるようになった。RPGも見方を変えれば上りを目指す双六の様なものであり種々のシューティングゲームも射的といえる。特撮を指す略称、またはSFXが多用された映画やテレビ番組などの映像作品を指す総称。元々は特殊撮影、あるいはトリック撮影と呼ばれていたなど一部の作品群を指す通称としても使われている。撮影技術・特殊効果としての「特撮」は、映画創生期から存在し、ジョルジュ・メリエスやイギリスの制作者達によって、撮影時のカメラ操作を駆使した逆回し、高速・微速度撮影、コマ撮り、人��物が消えたように見える中抜きなどが作り出され、『大列車強盗』(1903年)では、映像の合成が試みられるなど、「実際には存在しない架空の映像」作りが行われた。また、実物を縮小したミニチュアの撮影なども長年に渡って使われ、映画の発展と共に特撮技術も発展していき、恐竜などが登場する『ロスト・ワールド』(1925年)は、当時の特撮映画の集大成ともいえ、後の『キング・コング』(1933年)ともども特撮映画を世に広めていった。1949年頃から1981年にかけて手作りのモンスターやミニチュア造形物などによる多くの特撮映画を手掛けてハリウッド映画の特撮人気を高め20世紀の特撮映画界のパイオニアとして牽引した特撮監督レイハリーハウゼンはと呼ばれなど後の特撮作品にも多大な影響を与えた。ハリーハウゼンが生み出した特殊映像特殊効果は今日の様々な特撮映像の源流ともなっている。庵野秀明は映画監督の円谷英二が事実上の元祖と評しているが円谷作品以前にも忍術などの表現でトリック撮影を用いた作品などは既に存在しており円谷の師匠である枝正義郎は合成やミニチュアを使用したトリック撮影を取り入れた作品を戦前の時期に制作している。円谷は前述の海外の特撮映画などに影響を受けて特撮を研究し怪獣映画などを通して1950年代以降に特撮映画を日本独自の映像技術として発展させ尺貫法による寸法がミニチュアで使われ映像文化や社会に多くの影響を与えた。「特撮」という言葉自体はSFXを分かりやすく説明する為に1958年頃から日本のマスコミで使われ始めており第一次怪獣ブーム時に完全に定着している。テレビドラマではが放送されている。を使った作品という意味であった。フィルム撮影時代は本格的な特殊撮影を使った映画やテレビドラマは珍しく高度な技術と多大な予算が必要なものだった。この他ドキュメンタリー番組でも特撮が使用された。特撮が多用されていても、他の既存ジャンルに近い物はその分類で呼ばれ、特撮物とは分類されない場合もある。例えばは多くの特撮が使われているが、一般的には刑事ドラマと呼ばれる。1990年代以降になるとコンピュータグラフィックスとして否定的な意味で使われる場面も増えてきている。デジタル映像技術の発達に比例して、これまで培われてきたを同等の扱いで国の文書に明記できたことを重要な点としている。 +日常生活は毎日繰り返される普段の生活のこと。日常生活とは、人が生きるために日々繰り返しやっていることである。人によって若干内容は異なるが、たとえば次のようなこと。朝目覚めていつものように顔を洗う、歯をみがく、髪をとかす、いつもの場所で朝食食べる、着替える、学生なら自宅や学校で勉強をするとか宿題をするとか、自営業の仕事をしている人ならいつもの自分の仕事場でいつもの仕事をするとか、勤め人ならいつもの仕事場に行き仕事をして帰ってくるなどということや、農業をしている人ならいつもどおりに畑で仕事をしたり収穫物の出荷をしたり農機具の整備をしたり、漁業にたずさわっている人ならいつも通りに漁に出たり網の手入れをしたり、学業も仕事もしていない人はいつもどおり自宅やいつもの場所でいつも通りのことをして過ごすということである。そしていつもの場所で昼食をとり、いつもと同じ場所で夕食をとったり、あるいはいつものようにトイレに入ったりシャワーをあびたり風呂に入ったり、くつろいだ部屋着を着たり、自宅のいつもの場所でテレビを見たり、近年ならいつものようにYoutubeを見たりSNSをチェックしたり、いつものように甘いもの食べたり人によっては少し酒を飲んだり、そうしていつもの場所で眠りにつくことなどである。一般にはこういった行為、日々ルーチンのように繰り返されている一連の行為・行動が日常生活と呼ばれている。禅ではしばしば日常生活に焦点をあて日常生活の中で禅を行うという手法もとる。日常生活に <禅的思考> を少しだけ取り入れることを生活禅(せいかつぜん)などと言う。たとえば疲れたなと思ったらちょっと背筋を伸ばしてみるとか思い立ったらすぐに始めるなどということである。なお医療とくにリハビリに携わる職種の人々は <日常生活動作>という用語を使って普段人々が共通して行っている日常生活の具体的な動作特に仕事以外の動作に特別な注意を払っている。起床就寝着替え食事歯磨き洗顔排泄入浴などといった行為行動で行われる動作を具体的に指している。大きな負傷などをして骨筋肉などを傷めたりすると人々が当たり前と思っている日常生活を送ることが困難になる。寝たり起きたり着替えたりといったことすらできなくなってしまうのである。なおニュースというのは事件や普段とは異なった出来事を扱うものであるから、人々が日常生活でしていることはニュース媒体ではほとんど扱われない。報道機関の記者は通常、普通の人々のありきたりな日常生活をわざわざ取材しようとはしない。たとえ個人的には興味を持っている記者がいたとしても、ニュース記事にはできないので仕事としては取材を行っていられない。だが民俗学者、文化人類学者などは、普通の人が普段どのようなことをしているのか、人類は日々どのように生きているのかということに興味を示しそれなりに研究対象とすることがあり、欧米の学者によって人々の日常生活を扱った学術書も、数は多くはないが、書かれてはいる。なお医療用語ではなく一般的な表現で <日常生活> と対比されているのは <非日常> であり、毎日のようには行わないこと、普段とは違う行為・行動である。日常生活というのは毎日のように繰り返されるので、人は慣れてしまい次第に感情が湧かなくなるものだが、非日常は普段とは違う行為なので印象に残り特別な感情を生むことが多い。非日常のほうは喜ばしいこともあれば喜ばしくないこともある。たとえば入学試験を受けたり入学式や卒業式に出席することとかあるいは退学させられてしまうとかまた入社試験を受けたり入社式に出席したり退社のお別れ会に参加することとかあるいは突然退社勧告を受けるつまり突然クビになるとか結婚届けを役所に出して結婚生活を始めたり離婚届けを出して新しく別々の人生を始めたりする日の特別な行為行動である。またまれに起きる事故や事件というのも日常生活には含められず非日常である。たとえば自身が突然事故にあって救急車で病院に運ばれるとか親が突然しかも初めて倒れて緊急入院したので病院にかけつけ看病したとか親の葬儀の喪主の役を果たしたなどということは日常生活には含まれず非日常である。また普段の学業や仕事をわざわざ休んで気分転換のために旅に出るなどということも日常生活ではなく <非日常> である。 +なお英語の はソフトウェア工学における一手法であり、日本語のとは対応しない。また似た言葉に情報学がある。ここではいくつかの大学の学科紹介などからに相当する。いずれにしても以上の説明は大学の学科紹介などからの抜粋である。計算機科学や情報科学・情報工学を扱う学会としては、米国では発足が早かったこともあり、ACMは直訳するとを使っている。日本技術士会にとしている。形式言語(けいしきげんご、)は、その文法(構文、統語論)が、場合によっては意味(意味論)も、形式的に与えられている(形式体系を参照)言語である。形式的でないために、しばしば曖昧さが残されたり、話者集団によって用法のうつろいゆくような自然言語に対して、プログラミング言語を含む一部の人工言語や、いわゆる機械可読な(機械可読目録を参照)ドキュメント類などの形式言語は、用法の変化に関しては厳格である。この記事では形式的な統語論すなわち構文の形式的な定義と形式文法について述べる。形式的な意味論については形式意味論の記事を参照。形式言語の理論、特にオートマトン理論と関連したそれにおいては、言語はアルファベットの列(語 word) の集合である。ただし、長さゼロの空単語も含む。チューリングマシンの言語は単なる文字列なので、数学的構造を扱うには符号化し、その数値を解釈するプログラムを埋め込む必要がある。チューリング完全機械は十分強力なのでこの手法であらゆる列挙可能な構造を扱うことができる。チューリングマシンの数値表現については表記という。あるチューリングマシンが存在して、言語に属するすべての語 に対して動作させると受理状態で停止し、属さない語には受理しないようなとき、その言語はチューリング認識可能という。また言語に属さないときは必ず拒否状態で停止する場合その言語はチューリング判別可能であるという。(この2つの違いは一部の入力に対してチューリングマシンが停止しない場合があるかどうかである)また、チューリングマシンTMの言語 "L" とは、テープに "w" をセットしたあと、TMを動作させると受理状態に入って停止するような "w" の集合からなる言語のことである。この言語には以下のような演算が定義される。ここで、formula_5 と formula_6 は共通のアルファベットから構成される言語であるとする。モデル理論においては、言語は定数記号、関数記号、述語記号の集合である。形式言語は形式文法と密接な関係がある。例として次のような文脈自由文法の構文規則があるとき以下のように規則を再帰的に適用してその言語の要素(名詞句)を列挙することができる。すなわち、このような操作の任意回の繰り返しによって、その言語が得られる。また、形式文法が階層をなすというチョムスキー階層は、生成する言語では言語の認識に必要な最小のオートマトンが階層をなすという形で現れる。形式言語は、の学としての広義の数理論理学の研究対象であり、従って形式言語は、哲学・言語学・計算機科学・数学基礎論・数理心理学等々において重要な役割を演ずる。それらの学問分野では如何なる形式言語を研究すべきかの文法論や形式言語の意味論や演繹論が研究される。形式手法という場合には、形式言語に加えて、模擬試験、検証・証明などの仕組みを込みで言う場合が有る。自然言語を比較的単純な形式言語のモデルにあてはめて分析する言語学はチョムスキーによって提唱された。音素や語幹などを素記号として考える。実際の自然言語の構文規則は文字通り自然発生的のものであり形式言語における構文規則のように明確に規定するのは難しい。ただ、素朴な文法論の主張は、形式言語の理論とみなすことができる。素朴な文法論は、例えば次のようなものである。こういう文法論はすなわち素記号とは何かを定めそれらから文を作る構文規則を定めるのだからまさに形式言語の理論である。こういう形式言語論的な文法論は実際の言語と比較することで自然言語の特徴を浮き彫りにし自然言語のより深い理解へと導くことを可能とすることもなくはない。言語そのものではなく言語行動の深層をなす人間精神を探るためにはむしろこういう文法論を数学化し更に意味論文法論を伴った論理学にまで推し進めることが有意義ともいえよう。 +文脈自由言語とは、次のような再帰的な生成規則をもつ文脈自由文法によって、与えられた言語の長さ n に対して O の時間で認識される形式言語。プッシュダウン・オートマトンで受理可能な言語と等価である。ある言語が文脈自由言語でないことを証明するために文脈自由言語の反復補題が使われることがある。基本的な文脈自由言語 formula_1 は偶数個の文字から成る文字列で構成され各文字列の前半は "a" で後半は "b" で構成される。"L" を生成する文法は formula_2 でありプッシュダウンオートマトン formula_3 に受容される。ここで formula_4 は以下のように定義される。formula_5<br>formula_6<br>formula_7<br>formula_8<br>formula_9<br>ここで z は初期スタック記号、x はポップ動作を意味する。例えば数式などの括弧の対応は formula_10 というような規則になる。数式などはだいたい文脈自由言語である。 を正規言語としたとき、以下も全て文脈自由言語である。しかし、積集合や差集合に関しては閉じていない。これらの操作の具体的な内容については形式言語の情報工学的定義を参照されたい。積集合操作で閉じていないことの証明.文脈自由言語は積集合において閉じていない。この証明は参考文献にある Sipser 97 の練習問題となっている。まず2つの文脈自由言語 formula_15 と formula_16 を用意する。これらの積集合 formula_17 に対して文脈自由言語の反復補題を用いることでそれが文脈自由言語でないことを示すことができる。文脈自由言語についての以下の問題は決定不能である。文脈自由言語についての以下の問題は決定可能であ��。正規言語を満たす形式言語である。文字セット 上の正規言語の集合は以下のように再帰的に定義される。有限の文字列から構成される言語は全て正規言語である。その他の典型的な例としては、文字セット { が続く文字列で構成される言語も正規言語である。正規言語に対して和集合積集合差集合といった演算を施した結果も正規言語である。正規言語の補集合をしたものも正規言語である。をふたつの正規言語に施した結果も正規言語である。正規言語と任意の言語の商集合も正規言語である。個々の操作の具体的意味については形式言語#定義を参照されたい。ある言語が正規言語であるかどうかの判断基準.チョムスキー階層での正規言語の位置によれば正規言語は文脈自由言語の真部分集合である。すなわち正規言語は文脈自由言語に含まれる一方その逆は真ではない。例えば、同じ個数の "a" と "b" を含む文字列から成る言語は文脈自由言語ではあるが、正規言語ではない。このような言語が正規言語ではないことを証明するには、マイヒル-ネローデの定理か反復補題 を使う。正規言語を代数学的に定義するには二つの方法がある。 を有限のアルファベットとし* を 上の自由モノイドとすると−1 は正規言語となる。任意の正規言語はこのようにして構成することができる。もう一つの方法として、"L" が 上の言語であるとき、* 上の同値関係 ~ を次のように定義する。すると を受理する最小の決定性有限オートマトンの状態の個数に一致する。 +自然言語処理(しぜんげんごしょり略称NLP)は人間が日常的に使っている自然言語をコンピュータに処理させる一連の技術であり人工知能と言語学の一分野である。「計算言語学」()との類似もあるが自然言語処理は工学的な視点からの言語処理をさすのに対して計算言語学は言語学的視点を重視する手法をさす事が多い。データベース内の情報を自然言語に変換したり自然言語の文章をより形式的な(コンピュータが理解しやすい)表現に変換するといった処理が含まれる。応用例としては予測変換IMEなどの文字変換が挙げられる。自然言語の理解をコンピュータにさせることは、自然言語理解とされている。自然言語理解と、自然言語処理の差は、意味を扱うか、扱わないかという説もあったが、最近は数理的な言語解析手法などが一段と精度や速度が上がり、その意味合いは違ってきている。もともと自然言語の意味論的側面を全く無視して達成できることは非常に限られている。このため、自然言語処理には形態素解析と構文解析、文脈解析、意味解析などをなど表層的な観点から解析をする学問であるが、自然言語理解は、意味をどのように理解するかという個々人の理解と推論部分が主な研究の課題になってきており、両者の境界は意思や意図が含まれるかどうかになってきている。自然言語処理の基礎技術にはさまざまなものがある。自然言語処理はその性格上、扱う言語によって大きく処理の異なる部分がある。現在のところ、日本語を処理する基礎技術としては以下のものが主に研究されている。現状発達している言語AI技術は多次元のベクトルから単語や文書の意味の近さをその相互関係から推定しているものでは根本的に別物である。の定義は、自然言語処理の大きな課題のひとつでもある。人間とコンピュータの間のインタラクションのインタフェースには自然言語処理にある種の過剰な期待もあった。SHRDLUなどの初期のシステムが世界を限定することで非常にうまくいったことによりすぐに行き過ぎた楽観主義に陥ったが現実を相手にする曖昧さや複雑さがわかると楽観的な見方や過剰な期待は基本的には無くなったが何が簡単で何が難しいのかといったようなことはなかなか共有されなかった。やがて、21世紀に入ってしばらく後にがいくつか実用化・実運用され多くの人が利用したことで、何が簡単で、どういう事に使うのは難しいのかが理解されるようになりつつある模様である。2019年GPT-2BERTなどディープラーニングを応用した手法で大きなブレークスルーがあった。自然言語処理における課題をいくつかの例を用いて示す。英語では特に語形変化による語彙の区別をする機能が弱いためこのような���題が大きくなる。また英語も含めて形容詞と名詞の修飾関係の曖昧さもある。例えばという文字列があるとする。他にも次のような課題がある。統計的自然言語処理は確率論的あるいは統計学的手法を使って上述の困難さに何らかの解決策を与えようとするものである。長い文になればなるほど従来型の自然言語処理では解釈の可能性の組合せが指数関数的に増大していき処理が困難となる。そのような場合に統計的自然言語処理が効果を発揮する。コーパス言語学やマルコフ連鎖といった手法が使われる。統計的自然言語処理の起源は人工知能の中でもデータからの学習を研究する分野である機械学習やデータマイニングといった分野である。自然言語処理の主な応用.自然言語処理の応用技術として、以下のような技術が研究・実用化されている。また、言語学への応用も考えられている。 +自然言語とは言語学や論理学計算機科学の専門用語でのこと。人間が意思疎通のために日常的に用いる言語であり文化的背景を持っておのずから発展してきた言語。対義語はすなわちプログラミング言語や論理式など。人間がお互いにコミュニケーションを行うための自然発生的な言語である。形式言語との対比ではその構文や意味が明確に揺るぎなく定められ利用者に厳格な規則の遵守を強いる形式言語に対し話者集団の社会的文脈に沿った曖昧な規則が存在していると考えられるものが自然言語である。自然言語には規則が曖昧であるがゆえに話者による規則の解釈の自由度が残されており話者が直面した状況に応じて規則の解釈を変化させることで状況を共有する他の話者とのコミュニケーションを継続する事が可能となっている。人間のコミュニケーションを目的として設計された形式言語といったようなものも存在するがあまり多くない。人工言語という分類は多義的であり形式言語のことを指している場合もあればエスペラントなどといったほうが良い場合もある。また文法単語の用法に曖昧さを含み使用する単語単語の順序を入れ替える等が可能であり感情で文章を制御しやすいため多様な情景表現が可能となっている。しかし文法単語の用法が曖昧であるためのように明確に固定することは難しい。各自然言語自体も他言語との統合が起きる事により変化し続けており自然言語の文法その他あらゆる面が言語学によって研究が続けられている。また統計的手法を利用するや情報処理の対象として自然言語を扱う自然言語処理はコンピュータの能力の向上にあわせまたコンピュータのより便利な利用のためにさかんに研究され実地にも応用されるようになった。プログラミング言語とはコンピュータ言語の内コンピュータプログラムを記述するための形式言語である。日本産業規格の JIS X 3000 シリーズの規格名称では、全て「プログラム言語」になっている(例: JIS X 3001 プログラム言語 Fortran、JIS X 3014 プログラム言語 C++)ため、それに合わせてプログラム言語とされることもあるが、英語では programming language であるため、それに合わせればプログラミング言語となる。個々のプログラミング言語の名称は、Javaなど単にその名前だけで呼ばれることもあるが、「C」のように1文字などの場合、たいていの文脈ではわかりにくいといった理由から、「言語」の部分だけを接尾辞として用いた「C言語」などとすることも多い。自然言語と同様、構文規則実装とは独立した文書で示される言語もあれば、実装のみの言語もある。プログラミング言語は情報を組織し処理するタスクについての理解を容易にしアルゴリズムを正確に表現することができる。特にチューリング完全である事が特徴である。またプログラミングへの応用も想定して設計されたロジバンのように人間の言語とプログラミング言語の中間に位置するものがある。プログラミング言語は人間同士の会話と比較して正確性と完全性の要求性が非常に高いという特徴がある。自然言語で人間同士が対話する場合スペルミスや文法的なエラーがあっても相手は状況から適当に補正し正確な内容を把握する。しかしコンピュータは指示が曖昧では動作せずプログラマがコードに込めた意図を理解させることはできない。言語仕��とプログラムとその入力データの組合せでそのプログラムを実行したときの結果が完全に指定できなければならない。多くの言語は、新たなニーズを満たすべく設計され、他の言語と組み合わされ、最終的に使われなくなる。あらゆる用途に使える万能言語を設計しようという試みはいくつかあったが、そういう意味で成功した言語は存在しない。多様な言語が生まれる背景には言語が使われる状況の多様性がある。プログラミング言語開発における共通の傾向として、より高いレベルの抽象化によって、より高い問題解決能力を得ようとしている。初期のプログラミング言語は、コンピュータのハードウェアのレベルと極めて近かった。新たなプログラミング言語が開発される度に機能が追加され、プログラマはハードウェアの命令からより遠い形でアイデアを表現できるようになっていった。プログラミングをハードウェアから分離することで、プログラマの生産性は向上する。プログラミングにおけるプログラミング言語の必要性を排除する方法として自然言語処理が提案されてきたという面もある。しかしその方向性は実用化には達しておらず議論が続いている。エドガーダイクストラは形式言語の使用によって意味のない命令を防ぐという立場で自然言語によるプログラミングを批判していた。アランパリスも同様の立場であった。このあたりの歴史的に錯綜した議論は結局のところということである。プログラミング言語はもともと人間がコンピュータに命令を伝えその実行方法を指示するために作られたものでありコンピュータが曖昧さなく解析できるように設計されている。多くの場合構文上の間違いは許されず人間はプログラミング言語の文法に厳密にしたがった文を入力しなければならない。これに対して、一般に自然言語の文法規則はプログラミング言語にくらべてはるかに複雑であり、例外も多い。ただしこれは規則が一般にいいかげんであったり、曖昧であるということではない。一般に自然言語の規則は奥が深く、驚くほどの非合理性に裏打ちされていることもあれば、驚くほどの合理性に裏打ちされていることもある。驚くほどの非合理性でも合理性でもないものに裏打ちされていることもあれば、驚くほどの裏打ちの無さがあることもある。また自然言語の意味はその文脈によって定まる部分も多い。これに対してプログラミング言語はコンピュータによって扱いやすいように文脈によって意味が変わることができるだけないように設計されているがその文脈によって定まる部分がある場合も無くはない。たいていの言語にいくつかはある。自然言語は誤用や流行などにより長い時間をかけたくさんの人間の利用により意図せざる形で変化していく。しかしプログラミング言語の規則は言語設計者の意図と作業によってのみ変更される。実際には言語設計者がに後から仕様が定められるといったことも必ずしも珍しくはない。人間がふだん使っている日本語などの自然言語を使ってコンピュータに指示することができるのが理想ではある、と空想する者もいる。しかし、自然言語はあまりにも複雑で曖昧で変則的なので、それを機械語にコンパイルできるようなプログラムを作成することはとても難しい。そのような研究も進められているが、未だに汎用で実用になるプログラムは作成されたことがない。そこで、自然言語よりも制限が強く、単純で厳密で規則的な人工言語を作って代用する。これがプログラミング言語である。プログラミング言語は自然言語よりもいくらか人間には扱いづらいが、機械語よりは遥かに親しみやすく、人間の指示の手間を軽減している。ちなみにコンピュータ向けの形式性と人間向けの柔軟性を兼ね備えるロジバンなど、本来の開発目的が違えど潜在的に一つのプログラミング言語として機能しうるものもある。大部分のプログラミング言語は、基本的には概ね文脈自由文法に沿っているが、プログラミング言語における文法的な制限は必ずしも全て文脈自由文法で表現できるとは限らず、文脈自由文法より制限されていることもあれば文脈自由文法より拡張されていることもあり、多くの場合は文脈自由文法には完全に���沿っていない。プログラミング言語の分類法は多数ある。ひとつの分類法としては低水準言語の例としては機械語のを用いてプログラミングを行うアセンブリ言語他の分類法としては、実行方法によってプログラミング言語を分類する方法もあり、インタープリタ方式言語と分類する方法である。インタープリタ方式言語の例としてはPHPやRubyを挙げることができる。コンパイラ方式言語の例としてはC言語、C++、Erlang、Haskell、Rust、Go、FORTRAN、COBOLなどを挙げることができる。なお言語によってはインタープリタ方式で実行でき、かつコンパイル方式で実行することができるものもある。そしてとしばしば指摘され、曖昧な位置づけである。かつては人間側の用途で分類する方法もしばしば用いられたことがある。たとえば、汎用プログラミング言語 / 事務計算用プログラミング言語/ 科学技術計算用プログラミング言語 ...などと分類する方法である。1970年代-1980年代などはに分類されるのはJava、C#、Python、Visual Basic、Rubyなどである。手続き型言語かそうでないかで、手続き型言語と分類する方法もある。手続き型言語の例としてはFORTRAN、ALGOL、C言語、COBOL、BASIC、Pascalなどを挙げることができる。オブジェクト指向プログラミングに適したしくみを備えているか否かでオブジェクト指向言語("object-oriented language(s)")/ 非オブジェクト指向言語("non-object-oriented language(s)")と分類されることもある。構造化プログラミングに適した仕様になっているか否かで判断して、適したものだけを構造化プログラミング言語() と分類する方法もある。スレッドを複数個生成管理できるか否かで並行言語 / 非並行言語 と分類する方法もある。なお1950年代計算理論をチョムスキー階層という構想や理論が発表された時代には計算表現能力に基づいてコンピュータの言語を抽象的になどに分類しようとしていたこともあった。ただし近年ではそのような分類法は滅多に持ち出されない。世の中のプログラミング言語のユーザーたちや言語開発者たちの関心はすでに別のレベルに移っているからである。プログラミング言語も分類法があまりに多数あるので、混乱しがちな分類法を整理整頓しようとという分類ができる、などと言う人も出てくる。以上のようにプログラミング言語の分類法は多数あるので各プログラミング言語は複数のカテゴリに分類可能である。たとえばアセンブリ言語はである。それ以外に、コンピュータがプリンターなどを制御するために使うプログラミング言語を分類するためのという分類法もある。ページ記述言語の代表的な例としてはPostScriptを挙げることができる。たとえばプリンターで美麗な印字をする場合画面上のボタンやメニューで「印刷」という命令を選ぶわけだがその時点でPC内のプリンター制御用プログラムがPostScript言語でプログラムを自動生成しそのプログラムをケーブルやWifi経由でプリンターに向けて送り出しそれを受け取ったプリンターの側でそれを実行するということで美麗な印字繊細な曲線に満ちたフォントの印字を実現している。その他にあまり真面目な分類ではないがわざわざ理解が難しくなるように作られたプログラミング言語を特にと分類することもある。毎年のように新たなプログラミング言語が作り出されている。2008年2月時点で、「コンピュータ言語辞典」には8152種のプログラミング言語が記載されていた。ウィキペディアに記事が掲載されているプログラミング言語を知りたい場合はプログラミング言語一覧を参照のこと。などと呼ばれることがある。20世紀初頭にはタビュレーティングマシンによってパンチカードを使ったデータの機械処理が始まっている。そういった実際面ばかりではなく計算理論としても1930年代から1940年代にかけてアルゴリズムを表現する数学的抽象表現を提供するラムダ計算が考案された。ラムダ計算はその後の言語設計にも影響を与えている。1940年代世界初の電子式デジタルコンピュータ群が製作された。1950年代初期のコンピュータであるUNIVAC IやIBM 701では機械語を使っていた。機械語によるプログラミングは間もなくアセンブリ言語によるプログラミングに取って代わられた。1950年代後半になるとアセ���ブリ言語でマクロ命令が使われるようになりその後 FORTRANLISPCOBOLという3つの高水準言語が開発された。これらは改良を加えられ現在でも使われておりその後の言語開発に重大な影響を与えた。1950年代末ALGOLが登場しその後の言語に様々な影響を与えている。初期のプログラミング言語の仕様と使い方は当時のプログラミング環境の制約にも大きく影響されている。1960年代から1970年代末ごろまでに、現在使われている主な言語パラダイムが開発されたが、その多くはごく初期の第三世代プログラミング言語のアイデアの改良である。これらの言語のアイデアは様々な言語に引き継がれており、現在の言語の多くは、これらのいずれかの系統に属する。1960年代と1970年代は構造化プログラミングに関する論争が盛んに行われた時期でもある。この論争で特に有名なものは1968年にCommunications of the ACMに掲載されたエドガーダイクストラのレターがある。1960年代と1970年代はプログラムのメモリ使用量を削減しプログラマやユーザーの生産性を向上させる技法も進展した時期である。初期の4GLは同じプログラムを第三世代プログラミング言語で書いたときよりもソースコードの量を劇的に削減した。1980年代は相対的な統合の時代であった。C++はオブジェクト指向とシステムプログラミングの統合である。アメリカでは軍需に使うことを目的としてAdaというシステムプログラミング言語が標準化された。日本などでは論理プログラミングを応用した第五世代言語の研究に資源を費やした。関数型言語コミュニティではMLとLISPの標準化の動きがあった。これらはいずれも新たなパラダイムを生み出そうというものではなくそれまでに生み出されたアイデアに改良を加える動きであった。1980年代の重要な言語設計傾向の1つとして大規模システムのためのプログラミングを目的としてモジュールの概念を採り入れた点が挙げられる。1980年代にモジュールシステムを採り入れた言語としてModula-2AdaMLがあるがそれ以前には既にPL/Iがモジュラープログラミングをサポートしていた。モジュールシステムはジェネリックプログラミングの構成要素とされることが多い。1990年代中頃には、インターネットの急激な成長によって新たな言語が生み出される機会が生じた。Perlは1987年にリリースされたUNIX上のスクリプト言語だったが、ウェブサイトの動的コンテンツ作成に使われるようになった。Javaはサーバ側のプログラミングに使われるようになった。プログラミング言語の見た目は、その構文で決定される。図形などを使うグラフィカルなプログラミング言語もあるが、たいていのプログラミング言語のソースコードは文字列である。ファイル形式ではプレーンテキストすなわちテキストファイルが用いられる。また、たいていのプログラミング言語では、まず、」があり、構文は字句の並びである、という扱いのことが多い。字句を切り出して分類する処理を字句解析、その並びを調べる処理を構文解析という。構文規則を示すのにはバッカスナウア記法が使われることが多い。下記はLISPの構文のごく小さなサブセットである。expression = atom | listatom = number | symbolsymbol ::= .*list ::= ''これは次のような規則である。これに従った例として、などがある。構文上正しいプログラムが全て意味的に整合しているとは限らないという設計の言語も多い。また意味的に整合していてもそれを書いた人が自分の意図を正しく反映できていない場合もある。以下のC言語のコード断片は構文上は正しいが、意味的には問題がある。pはヌルポインタなので、p->realとp->imを評価しようとすることはであり、この場合はおそらくセグメンテーション違反をひきおこす。complex *p = NULLcomplex abs_p = sqrt自然言語の言語学に構文論も研究されているがC言語の標準規格など自然言語で意味を与えている言語や形式的でない擬似言語のようなもので与えている言語もある。型システムはプログラミング言語において式の値となるデータ型について型理論にもとづいて分類しどう扱うかを示すものである。また、内部的には、ディジタルコンピュータでは全てのデータはバイナリで保持される。型のある言語とない言語.型のある言語は型システム���よってそれぞれの値のデータ型に応じて定義されていない操作が実行されないようチェックされる機構を持つ。例えばcodice_5 は文字列型の値である。ふつう数を文字列で割る操作には意味がない。そのためそのようなプログラムは拒絶する。言語によってはコンパイル時に検出し(型のある言語の特殊例として、単一型言語がある。REXXといったスクリプト言語やSGMLといったマークアップ言語は、単一のデータ型しか扱わない。多くの場合、そのときのデータ型は文字列型である。アセンブリ言語などの型のない言語は任意のデータに任意の操作を実行可能でありデータは単にある長さのビット列として扱われる。ある程度高い機能を持ちつつも型が無い。型システムの言語は少なく、多くの言語はそれなりの型システムを採用している。多くの実用的な言語には、型システムを迂回または打倒するような手段が用意されている。静的型付けと動的型付け.静的型付けを格納するよう定義された変数には代入できない。静的型付けでは型を明記する場合と型推論を行う場合がある。前者ではプログラマは適切な位置に型を明記しなければならない。後者ではコンパイラが式の型を文脈から推論する。C++やJavaなどの主な静的型付き言語では型を明記する。完全な型推論は主流でない言語に使われている。ただし型を明記する言語でも部分的な型推論をサポートしていることが多い。たとえばJavaやC#では限定された状況で型推論を行う。動的型付けでは、型の安全性は実行時に検査される。言い換えれば、型はソース上の式ではなく、実行時の値に対して付与される。型推論言語と同様、動的型付き言語でも式や変数の型を明記する必要はない。また、ある1つの変数がプログラム実行中に異なる型の値を格納することも可能である。しかし、コードを実際に実行してみるまで型の間違いを自動的に検出することができず、デバッグがやや難しい。動的型付き言語としては、Ruby、LISP、JavaScript、Pythonなどがある。データを入力されれば、コンピュータはそのデータに対して何らかの処理を実行する。とは、プログラミング言語の構成要素がどの時点でどのようにして、そのプログラムの振る舞いを生成するのかを定義するものである。例えば式の評価戦略は実行意味論の一部である。また制御構造における条件付実行の作法も実行意味論の一部である。は、プログラムを書いたり使用する上での、補助的なルーチン群である。多くのプログラミング言語には、言語仕様の一部、あるいは言語本体の仕様とは独立していることもあるが、標準ライブラリの仕様もほぼ必ず存在し、その言語の実装には標準ライブラリの実装もほぼ必ず付属する。標準ライブラリには、典型的なアルゴリズム、データ構造、入出力機構などが含まれることが多い。ユーザーから見れば標準ライブラリも言語の一部だが設計者から見れば別の実体である。言語仕様には必ず実装しなければならない部分が定義されており標準化された言語の場合それには標準ライブラリも含まれる。言語とその標準ライブラリの境界は言語によって様々である。実際言語によっては一部の言語機能が標準ライブラリなしでは使えないこともある。マクロもライブラリに含まれることも多い。たとえばC言語の標準には、いくつかの名前が関数ではなくマクロで提供されるかもしれない、といったような規定などがある。またLisp系の言語では、いわゆる特殊形式の多くが言語組込ではなくマクロでも実装可能であり、ifとcondのようにどちらか片方は必要だが、片方があればもう片方はマクロにできる、といったようなものもある。Schemeの標準規格は、どれを言語組込とし、どれをマクロとするか、ほとんどを処理系実装者の自由に任せている。コンピュータ・プログラミング言語の設計は「言語仕様」として示され、実装は「言語処理系」と呼ばれる。以下はそれらについての概観である。前述のようにプログラミング言語は構文と意味から成るから仕様についても構文仕様と意味仕様がある。構文仕様は一般にバッカスナウア記法などによって形式的に示される。意味論の仕様は自然言語などで記述されることが多いが形式的に与えられてい��言語もある。形式意味論で意味論を記述した例として Standard ML や Scheme がある。他に以下のようなスタイルで仕様が与えられている言語もある。プログラミング言語の実装は、プログラミング言語処理系と呼ばれる。コンパイラは、ソースコードなどの入力を中間表現などの、より解釈実行しやすい表現に変換する処理系である。また、インタプリタは、入力されたプログラムを解釈実行する処理系である(ハードウェアのプロセッサは、機械語を解釈実行するインタプリタである、と見ることができる)。コンパイラとインタプリタの関係は理論的には二村射影により定式化されている。なおなどといったように理解しているとJavaなど近年の多くの言語処理系のスタイルが全くわからないということになる。 +などという変な説明をする者もいるが前述したようにそもそも間違った2分法で考えているからそのような変な考え方になるのである。一般に、機械語に変換したものを直接ハードウェアで実行する方が、インタプリタで実行するよりもずっと高速である。インタプリタでの実行を改善する技法として、実行時コンパイラなどの動的コンパイル手法がある。どのプログラミング言語が最もよく使われているかを判断することは難しい。また、利用という意味も文脈によって異なる。プログラマの工数、コードの行数、などが尺度として考えられる。ある言語は特定分野のアプリケーションだけでよく使われているということもある。例えばCOBOLは企業のデータセンターでは今でも使われているし、FORTRANは科学技術計算でよく使われ、C言語は組み込みシステムやオペレーティングシステムで使われている。以下のように言語利用状況の尺度は様々であり、どれを選択しても一種のバイアスがかかっていると考えた方がよい。人工知能(じんこうちのう)またはアーティフィシャル・インテリジェンス(、AI〔エーアイ〕)とは、「『計算()』という概念と『コンピュータ()』という道具を用いて『知能』を研究する計算機科学()の一分野」を指す語。「言語の理解や推論、問題解決などの知的行動を人間に代わってコンピューターに行わせる技術」、または、「計算機(コンピュータ)による知的な情報処理システムの設計や実現に関する研究分野」ともされる。大学でAI教育研究は、情報工学科や情報理工学科コンピュータ科学専攻などの組織で行われている(工学〔エンジニアリング〕とは、数学・化学・物理学などの基礎科学を工業生産に応用する学問)。『日本大百科全書(ニッポニカ)』の解説で、情報工学者・通信工学者の佐藤理史は次のように述べている。人間の知的能力をコンピュータ上で実現する、様々な技術・ソフトウェア・コンピュータシステム。応用例としては、自然言語処理、専門家の推論・判断を模倣するエキスパートシステム、画像データを解析し特定のパターンを検出・抽出する画像認識等がある。1956年にダートマス会議でジョン・マッカーシーにより命名された。現在では、記号処理を用いた知能の記述を主体とする情報処理や研究でのアプローチという意味あいでも使われている。家庭用電気機械器具の制御システムやゲームソフトの思考ルーチンもこう呼ばれることもある。プログラミング言語 による「」というカウンセラーを模倣したプログラム(人工無脳)がしばしば引き合いに出されるが、計算機に人間の専門家の役割をさせようという「エキスパートシステム」と呼ばれる研究・情報処理システムの実現は、人間が暗黙に持つ常識の記述が問題となり、人工的な知能の実現へのアプローチとしては、「ファジィ理論」や「ニューラルネットワーク」などのようなアプローチも知られているが、従来の人工知能である (Good Old Fashioned AI) との差は記述の記号的明示性にある。その後「サポートベクターマシン」が注目を集めた。また、自らの経験を元に学習を行う強化学習という手法もある。「この宇宙において、知性とは最も強力な形質である(レイ・カーツワイル)」という言葉通り、知性を機械的に表現し実装するということは極めて重要な作業である。画像処理におけるディープラーニングの有用性が競技会で世界的に認知��れた2012年頃から急速に研究が活発となり第三次人工知能ブームが到来。2016年から2017年にかけてディープラーニングを導入したAIが完全情報ゲームである囲碁などのトップ棋士さらに不完全情報ゲームであるポーカーの世界トップクラスのプレイヤーも破り麻雀ではがAIとして初めて十段に到達するなど最先端技術として注目されている。深層学習を利用するには線形代数学、確率論、統計学といった大学レベル以上の数学や、データ科学の知識が必要となる。脳シミュレーションを行うには神経科学社会分析には社会学など応用する分野の知識も必要となる。さらに実装するにはプログラミングの知識も必要となる。プログラミング言語は、C++のほかPythonが広く使われている。第2次人工知能ブームでの人工知能は機械学習と呼ばれ、以下のようなものがある。一方計算知能。学習は経験に基づく手法であり非記号的AI美しくないAIソフトコンピューティングと関係している。その手法としては以下のものがある。これらを統合した知的システムを作る試みもなされている。ACT-Rでは、エキスパートの推論ルールを、統計的学習を元にニューラルネットワークや生成規則を通して生成する。1990年代、日本国内でニューロ・ファジィ家電が流行したが、これら家電は第2次人工知能ブームで研究されたニューラルネットワークやファジィ制御を応用した製品である。第2次人工知能ブームでは既存製品の微妙な改良に留まり人々が思い描くような高度な自動化を可能とする製品に繋がらなかったため人工知能に対する失望が広がっていった。第3次人工知能ブームでは、ディープラーニングが画像認識、テキスト解析、音声認識など様々な領域で第2次人工知能ブームの人工知能を遥かに上回る精度を出しており、ディープラーニングの研究が盛んに行われている。最近では、DQN、CNN、RNN、GANと様々なディープラーニングの派生がでて各分野で活躍している。特に、GAN(敵対的生成ネットワーク)は、ディープラーニングが認識や予測などの分野で成果をだしていることに加えて、画像の生成技術において大きな進化を見せている。森正弥はこれらの成果を背景に、従来の人工知能の応用分野が広がっており、Creative AIというコンテンツ生成を行っていく応用も始まっていると指摘している。かつてのニューロ・ファジィ家電と同じように、AI対応と謳う家電製品が多数発売されており、これらにもディープ・ラーニングが応用されている。AI研究開発の世界的事例.アメリカでは2013年に時の大統領バラク・オバマが脳研究プロジェクトを発表。Googleはアレン脳科学研究所と連携し脳スキャンによって生まれた大量のデータを処理するためのソフトウェアを開発している。2016年の時点で、Googleが管理しているBrainmapのデータ量はすでに1ゼタバイトに達しているという。Googleは、ドイツのマックスプランク研究所とも共同研究を始めており、脳の電子顕微鏡写真から神経回路を再構成するという研究を行っている。中国では2016年の第13次5カ年計画からAIを国家プロジェクトに位置づけ脳研究プロジェクトとしても立ち上げ官民一体でAIの研究開発を推進してる。中国の教育機関では18歳以下の天才児を集めて公然とAI兵器の開発に投じられてもいる。マサチューセッツ工科大学の教授やなどによれば中国ではプライバシー意識の強い欧米と比較してAIの研究や新技術の実験をしやすい環境にあるとされている。日本でスーパーコンピュータの研究開発を推進している齊藤元章もAIの開発において中国がリードする可能性を主張している。世界のディープラーニング用計算機の4分の3は中国が占めてるともされる。米国政府によれば2013年からディープラーニングに関する論文数では中国が米国を超えて世界一となっている。やなどAIの世界的な大会でも中国勢が上位を独占している。大手AI企業GoogleマイクロソフトAppleなどの幹部でもあった台湾系アメリカ人科学者の李開復は中国がAIで覇権を握りつつあるとするを著してアメリカの政界やメディアなどが取り上げた。フランス大統領エマニュエル・マクロンはAI分野の開発支援に向け5年で15億ドルを支出すると宣言し、AI研究所をパリに開き、フェイスブック、グ��グル、サムスン、DeepMind、富士通などを招致した。イギリスともAI研究における長期的な連携も決定されている。EU全体としても、計画を通じて、215億ユーロが投じられる方向。韓国は、20億ドルを2022年までに投資をする。6つのAI機関を設立し褒賞制度も作られた。目標は2022年までにAIの世界トップ4に入ることだという。日経新聞調べによると、国別のAI研究論文数は1位米国、2位中国、3位インド、日本は7位だった。文化的芸術的な応用事例.音楽分野においては、既存の曲を学習することで、特定の作曲家の作風を真似て作曲する自動作曲ソフトが登場している。またに使われるタッチ位置を示した譜面を楽曲から自動生成するなど分野に特化したシステムも開発されている。絵画分野においてはコンセプトアート用背景やアニメーションの中割の自動生成モノクロ漫画の自動彩色など人間の作業を補助するAIが実現している。将棋AIは人間同士AI同士の対局から学習して新しい戦法を生み出しているがプロ棋士の感覚では不可解ながら実際に指すと有用であるという。人工知能学会の松尾豊は、著書内に於いて、人間に対して反乱を起こす可能性を否定している。人工知能学会会長の野田五十樹は、と批判した。同氏はこう述べている。社会学者ロバート・M・ゲラチは、AIとロボット工学の一種と見なしている。つまりそれは宗教・エンターテインメント・フィクション等と同じような、分かりやすくて興味を刺激する説明を使い、大勢の興味を引いて研究費を獲得している。ゲラチはと述べている。一方、人工知能を危険視する思想や主張もある。マサチューセッツ工科大学の教授は、莫大な資金力と人権の弾圧を併せ持つ中華人民共和国が人工知能の開発競争で成功すれば、民主的な国家が技術革新に優位という既成概念が変わると述べ、と呼んだ。中華人民共和国では、ヘルメットや帽子に埋め込んだセンサーから、国民の脳波と感情を人工知能で監視する、中国政府支援のプロジェクトが推し進められ、ネット検閲と官僚や刑務所の囚人から横断歩道の歩行者まで監視を人工知能に行わせ、監視カメラと警察のサングラス型スマートグラスやロボットに顔認識システムを搭載するなど人工知能による監視社会・管理社会化が行われている。新疆ウイグル自治区では、監視カメラや携帯電話などから収集した個人情報を、人工知能で解析するや人種プロファイリングで選別した少数民族のウイグル族を法的手続きを経ずに、2017年6月時点で約1万5千人もテロリズムや犯罪を犯す可能性があるとして、新疆ウイグル再教育キャンプに予防拘禁しているとする、中国政府の内部文書であるが報じられており、AIを使った政府による特定の民族の選別や、コンピュータが人間を強制収容所に送る人権蹂躙は「前例がない」として、国際問題になっている。香港では、中国本土と同様の人工知能による監視社会化を恐れ、2019年-2020年香港民主化デモが起きた際は、監視カメラを搭載したスマート街灯が、市民に次々と破壊された。中華人民共和国はAI監視技術を中東アジアアフリカなど世界各国に輸出しており国際連合の専門機関である国際電気通信連合を通じて中国がAI監視技術の国際標準化も主導してることから中国のような人権侵害が世界に拡散することが人権団体から懸念されている。中国の社会信用システムに代表されるような人工知能でビッグデータを活用して人々の適性を決める制度は社会階層間の格差を固定化することに繋がるとする懸念があり欧州連合では2018年5月から人工知能のビッグデータ分析のみによる雇用や融資での差別を認めないEU一般データ保護規則が施行された。マサチューセッツ工科大学が顔認識システムの精度でMicrosoftと中国のMegviiは9割超でIBMは8割に達したのに対してAmazon.comは6割で人種差別的なバイアスがあるとする研究を発表した際はAmazon.comと論争になった。半自動の四脚ロボットとレッテルが貼られた。主要国の軍隊は、ミサイル防衛の分野での自動化を試みている。アメリカ海軍は完全自動の防空システムを所有し、ガザ地区との境界線には標的を自動検知するガーディアムやサムソン RCWSを稼働させて複数の人間を射殺している。今後AIは新しい軍事能力を生み、軍の指揮、訓練、部隊の展開を変え、戦争を一変させその変化は大国間の軍事バランスを決めることになるとの主張もある。P-1 のように戦闘指揮システムに支援用に搭載されることもある。2016年6月米シンシナティ大学の研究チームが開発したは元米軍パイロットとの模擬空戦で一方的に勝利したと発表された。AIプログラムは遺伝的アルゴリズムとファジィ制御を使用しておりアルゴリズムの動作に高い処理能力は必要とせずRaspberry Pi上で動作可能。アメリカ合衆国国防総省は人道上の観点から人間の判断を介さない自律殺傷兵器の開発禁止令を2012年に出し2017年にはこれを恒久的なものにした。一部の科学者やハイテク企業の首脳らは、AIの軍事利用により世界の不安定化は加速すると主張している。2015年にブエノスアイレスで開催された人工知能国際合同会議で、スティーブン・ホーキング、アメリカ宇宙ベンチャー企業のスペースX創業者のイーロン・マスク、Appleの共同創業者のスティーブ・ウォズニアックら、科学者と企業家らにより公開書簡が出されたが、そこには自動操縦による無人爆撃機や銃火器を操る人型ロボットなどAI搭載型兵器は、火薬、核兵器に続く第3の革命ととらえられ、うち一部は数年以内に実用可能となると予測。国家の不安定化、暗殺、抑圧、特定の民族への選別攻撃などに利用され、兵器の開発競争が人類にとって有益なものとはならないと明記された。2015年4月にはハーバード大学ロースクールと国際人権団体であるヒューマンライツウォッチが自動操縦型武器の禁止を求めている。2017年11月には国際連合でAIの軍事利用に関する初の公式専門家会議が行われ2019年8月に同会議はAI兵器の運用をめぐる事実上初の国際ルールを採択するも法的拘束力は盛り込まれなかった。新冷戦や米中冷戦の状態にあるとも評されている、アメリカ合衆国・中華人民共和国・ロシア連邦は、核開発に匹敵する開発競争を人工知能の軍事利用をめぐって行っている。中国は、2017年6月に119機のドローン群の自律飛行実験で、前年2016年に103機の飛行実験に成功したアメリカ軍の記録を更新して、翌2018年5月には北アメリカの都市を爆撃するCG映像も発表し、同年6月には56隻の自律無人艇を使った世界最大規模の試験を行うなど、AIの軍事利用の技術(特にスウォームと呼ばれる大量の徘徊型兵器などの自律兵器の統合運用)で中国が急速に進展しており、アメリカに追い付く可能性があることについて懸念し、アメリカ合衆国では将来に備える必要があるとの主張もされている。中国の軍用AI開発はアメリカ軍や政界に危機感を与え2019年3月にジョセフダンフォード統合参謀本部議長やパトリックシャナハン国防長官代行ドナルドトランプ大統領は中国でのAI研究拠点の設立などで中国人民解放軍に協力しているとGoogleを非難しGoogleのCEOサンダーピチャイはダンフォードやトランプ大統領と面談して中華人民共和国のAI研究拠点の成果は中国に限らず全ての人々に開放されていると釈明する事態になった。アメリカ合衆国ではGoogleがアメリカ軍のAIの軍事利用に協力する極秘計画とともに人工知能を用いた兵器開発や人権侵害は拒否するとGoogleが誓った2018年6月の人工知能開発6原則との整合性で追及を受けた。中国人民解放軍の戦闘機J-20の標的選択支援アルゴリズムにGoogleのAI研究者が関わったと報道された際はと否定した。またMicrosoftが中国軍の教育機関とAIの共同研究を発表した際も同様に波紋を呼んだ。2019年11月にマーク・エスパー国防長官は、中華人民共和国がAIによって新しい監視国家を構築しているだけでなく、中東で翼竜や彩虹など無人攻撃機を大量に拡散させて、AIで自律的に攻撃するドローン兵器も販売していることに警鐘を鳴らした。ロシアと中国は既に実用化してるとされるハッキングの自動化の他特定の個人を攻撃したりディープフェイクでなりすましたりボット投稿により世論を操る等の懸念が挙げられている。オックスフォード大学のマイケルオズボーン博士が2013年に発表した論文によれば人工知能やロボット等による代替可能性が高い労働人口が日本で約49%いること2030年代までにファストフード店で料理をする従業員がロボットやAIに取って代わられる可能性が81%と高いことを指摘されている。しかし、この論文に対して、実験室レベルで自動化が出来る仕事も含まれているため、過大に推計されているとの批判もある。実際に2016年10月、マイケル・オズボーンが来日した際、経済産業研究所の岩本晃一がとの回答が返ってきている。これは人間を超える将棋AIが出現しているので将棋棋士が、人工知能に代替され可能性があると示したに過ぎず、人間同士の対局を観戦したいなどの欲求にも答えていない。現代のプロ棋士はAIを対局相手や局面の検討に利用しているほか、elmo囲いのようなAIが最初に使用した戦法を利用するなど共存関係にある。そして職業を構成するタスク(業務)単位でみた場合に70%超えのタスクが自動化される職業は9%程度(日本の場合は7%程度)にとどまるとの研究結果もある。またAIや機械化によって雇用が奪われるという主張もあるがそれらの技術によってタスク量が減少するがAIや機械化を導入したり維持したりする仕事やそれらの技術により新たな仕事が生まれることにより雇用が生み出される可能性もある。しかし同時に中程度の技能を有するルーティン業務が減少し専門技能が求められない低スキルの仕事と高度な技能が求められる仕事へと2極化していき経済格差が拡大していくとの予測もある。AIの構築が長い間試みられてきているが、シンボルグラウンディング問題とフレーム問題の解決が大きな壁となってきた。17世紀初めルネデカルトは動物の身体がただの複雑な機械であると提唱した。ブレーズパスカルは1642年最初の機械式計算機を製作した。チャールズバベッジとエイダラブレスはプログラム可能な機械式計算機の開発を行った。バートランド・ラッセルとアルフレッド・ノース・ホワイトヘッドはを出版し、形式論理に革命をもたらした。ウォーレン・マカロックとウォルター・ピッツはと題する論文を1943年に発表し、ニューラルネットワークの基礎を築いた。1950年代になるとAIに関して活発な成果が出始めた。ジョン・マッカーシーはAIに関する最初の会議でを導入した。ジョセフ・ワイゼンバウムはを構築した。これは来談者中心療法を行うおしゃべりロボットである。1956年に行われた、ダートマス会議開催の提案書において、人類史上、用語として初めて使用され、新たな分野として創立された。1960年代と1970年代の間にジョエルモーゼスは プログラム中で積分問題での記号的推論のパワーを示した。マービンミンスキーとシーモアパパートはを出版して単純なニューラルネットの限界を示しアランカルメラウアーはプログラミング言語 を開発した。テッドショートリッフェは医学的診断と療法におけるルールベースシステムを構築し知識表現と推論のパワーを示した。これは最初のエキスパートシステムと呼ばれることもある。ハンスモラベックは障害物があるコースを自律的に走行する最初のコンピューター制御の乗り物を開発した。1980年代にニューラルネットワークはバックプロパゲーションアルゴリズムによって広く使われるようになった。またこの時代にロドニーブルックスが知能には身体が必須との学説(身体性)を提唱した。1990年代はAIの多くの分野で様々なアプリケーションが成果を上げた。特に、ボードゲームでは目覚ましく、1992年にIBMは世界チャンピオンに匹敵するバックギャモン専用コンピュータ・TDギャモンを開発し、IBMのチェス専用コンピュータ・ディープ・ブルーは、1997年5月にガルリ・カスパロフを打ち負かし、同年8月にはオセロで日本電気のオセロ専用コンピュータ・ロジステロに世界チャンピオンの村上健が敗れた。国防高等研究計画局は、最初の湾岸戦争においてユニットをスケジューリングするのにAIを使い、これによって省かれたコストが1950年代以来のAI研究への政府の投資全額を上回ったことを明らかにした。日本では甘利俊一(日本学士院会員)らが精力的に啓蒙し、優秀な成果も発生したが、論理のブラックボックス性が指摘された。1998年には非構造化データ形式の国際規格であるXMLが提唱されたが、ここからWeb上の非構造化データに対して、アプリケーション別に適した意味付けを適用し、処理を行わせる試みが開始された。同年に、W3Cのティム・バーナーズ=リーにより、Webに知的処理を行わせるセマンティック・ウェブが提唱された。この技術はWeb上のデータに意味を付加して、コンピュータに知的処理を行わせる方法を国際的に規格化するものである。この規格には知識工学におけるオントロジーを表現するデータ形式のOWLも含まれていることから、かつて流行したエキスパートシステムの亜種であることが分かる。2000年代前半に規格化が完了しているが、Web開発者にとっては開発工数に見合うだけのメリットが見出せなかったことから、現在も普及はしていない。日本における第二次AIブーム.日本においてはエキスパートシステムの流行の後にニューロファジィが流行した。しかし研究が進むにつれて計算リソースやデータ量の不足シンボルグラウンディング問題フレーム問題に直面し産業の在り方を激変させるようなAIに至ることは無くブームは終焉した。エキスパートシステム(知識工学の応用).1980年代に入って大企業の研究所を中心に知識工学に基づくエキスパートシステムが多数提案されるようになりエキスパートシステムを専門とするAIベンチャーも次々と立ち上がった。その流行から生まれた究極のプロジェクトとして第五世代コンピュータが挙げられる。第五世代コンピュータ.1982年から1992年まで日本は国家プロジェクトとして570億円を費やして第五世代コンピュータの研究を進めるも採用した知識工学的手法では膨大なルールの手入力が必要で専門家間で専門知識の解釈が異なる場合には統一したルール化が行えない等の問題もあり実用的なエキスパートシステムの実現には至らなかった。実現した成果物はPrologの命令を直接CPUのハードウェアの機構で解釈して高速に実行する並列型のProlog専用機であるが商業的な意味で応用先が全く見つからなかった。1980年代後半から1990年代中頃にかけて、従来から電子制御の手法として用いられてきたON/OFF制御,PID制御,現代制御の問題を克服するため、知的制御が盛んに研究され、知識工学的なルールを用いるファジィ制御,データの特徴を学習して分類するニューラルネットワーク,その2つを融合したニューロファジィという手法が日本を中心にブームを迎えた。1987年には仙台市において開業した地下鉄のATOに採用され、バブル期の高級路線に合わせて、白物家電製品でもセンサの個数と種類を大幅に増やし、多様なデータを元に運転を最適化するモデルが多数発売され始めた。ファジィについては2018年までに日本が世界の1/5の特許を取得している事から日本で特に大きなブームとなっていたことが分かっている。現在の白物家電ではこの当時より更に発展した制御技術が用いられているが既に当たり前のものになり利用者には意識されなくなっている。ニューロファジィがブームになった1990年代には未だビッグデータという概念は無くデータマイニングとしての産業応用は行われなかった。しかしニューラルネットワークが一般人も巻き込んで流行した事例としては初めての事例であり2010年代のディープラーニングブームの前史とも言える社会現象と言える。松下電器が1985年頃から人間が持つような曖昧さを制御に活かすファジィ制御についての研究を開始し1990年2月1日にファジィ洗濯機第1号であるなどの名称が付与されていた。ニューロ,ファジィ,ニューロファジィという手法は、従来の単純なオン・オフ制御や、対象を数式で客観的にモデル化する(この作業は対象が複雑な機構を持つ場合は極めて難しくなる)必要があるPID制御や現代制御等と比較して、人間の主観的な経験則や計測したデータの特徴が利用可能となるファジィ、ニューロ、ニューロファジィは開発工数を抑えながら、環境適応時の柔軟性を高くできるという利点があった。しかし、開発者らの努力にも関わらず、計算能力や収集可能なデータ量の少なさから、既存の工作機械や家電製品の制御を多少改善する程度で限界を迎えた。理論的にもファジィ集合と深層学習が不可能なニューラルネットワークの組み合わせであり、計算リソースやデータが潤沢に与えられたとしても、認識精度の向上には限界があった。以降、計算機の能力限界から理論の改善���遅々として進まず、目立った進展は無くなり、1990年代末には知的制御を搭載する白物家電が大多数になったことで、売り文句としてのブームは去った。ブーム後は一般には意識されなくなったが、現在では裏方の技術として、家電製品のみならず、雨水の排水,駐車場,ビルの管理システムなどの社会インフラにも使われ、十分に性能と安定性が実証されている。2003年頃には、人間が設計したオントロジー(ファジィルールとして表現する)を利活用するネットワーク・インテリジェンスという分野に発展した。2005年レイカーツワイルは著作でとする説を発表した。2006年に、ジェフリー・ヒントンらの研究チームによりオートエンコーダによるニューラルネットワークの深層化手法が提案された。2010年代に入り膨大なデータを扱う研究開発のための環境が整備されたことでAI関連の研究が再び大きく前進し始めた。2010年に英国エコノミスト誌での練習戦で人間に勝利し大きなニュースとなった。2012年に画像処理コンテストでジェフリーヒントン氏のチームが従来手法からの大幅な精度改善を果たした上で優勝したことで第三次AIブームが始まった。2013年には国立情報学研究所や富士通研究所の研究チームが開発しただった。2014年には、日本の人工知能学者である齊藤元章により、特異点に先立ち、オートメーション化とコンピューター技術の進歩により衣食住の生産コストがゼロに限りなく近づくというプレ・シンギュラリティという概念も提唱された。ジェフホーキンスが実現に向けて研究を続けているが著書の中で自己連想記憶理論という独自の理論を展開している。世界各国において、軍事・民間共に実用化に向け研究開発が進んでいるが、とくに無人戦闘機や無人自動車ロボットカーの開発が進行しているものの、2010年代にはまだ完全な自動化は試験的なものに留まった。ロボット向けとしてはCSAILのロドニーブルックスが提唱した包摂アーキテクチャという理論が登場している。これは従来型のを持たないにも関わらずまるで生きているかのように行動する。2015年10月にDeepMind社が作成したが人間のプロ囲碁棋士に勝利して以降はディープラーニングと呼ばれる手法が注目され、人工知能自体の研究の他にも、人工知能が雇用などに与える影響についても研究が進められている。2016年10月、DeepMindが、入力された情報の関連性を導き出し仮説に近いものを導き出す人工知能技術を可能にする深層学習システムを、翌2017年6月、関係推論のような人間並みの認識能力を持つシステムを開発。2017年8月には、記号接地問題を解決した。従来AIには不向きとされてきた不完全情報ゲームであるポーカーでもAIが人間に勝利するようになった。Googleの関係者はさらに野心的な取り組みとして、単一のソフトウェアで100万種類以上のタスクを実行可能なAIを開発していると明らかにした。人工知能の第三次ブームAGIと技術的特異点.2006年のディープラーニングの発明と、2010年以降のビッグデータ収集環境の整備、計算資源となるGPUの高性能化により、2012年にディープラーニングが画像処理コンテストで他の手法に圧倒的大差を付けて優勝したことで、技術的特異点という概念は急速に世界中の識者の注目を集め、現実味を持って受け止められるようになった。ディープラーニングの発明と急速な普及を受けて、研究開発の現場においては、デミス・ハサビス率いるDeepMindを筆頭に、Vicarious、IBM Cortical Learning Center、全脳アーキテクチャ、PEZY Computing、OpenCog、GoodAI、nnaisense、IBM SyNAPSE等、汎用人工知能を開発するプロジェクトが数多く立ち上げられている。これらの研究開発の現場では、脳をリバースエンジニアリングして構築された神経科学と機械学習を組み合わせるアプローチが有望とされている。結果として、Hierarchical Temporal Memory 理論、Complementary Learning Systems 理論の更新版等、単一のタスクのみを扱うディープラーニングから更に一歩進んだ、複数のタスクを同時に扱う理論が提唱され始めている。3Dゲームのような仮想空間でモデルを動かし現実世界のことを高速に学ばせるといったことも大きな成果を上げている。また、数は少ないがAGIだけでは知能の再現は不可能と考えて、身体知���再現するために、全人体シミュレーションが必要だとする研究者やより生物に近い振る舞いを見せるALに挑戦する研究者もいる。リーズナブルなコストで大量の計算リソースが手に入るようになったことでビッグデータが出現し企業が膨大なデータの活用に極めて強い関心を寄せており全世界的に民間企業主導で莫大な投資を行って人工知能に関する研究開発競争が展開されている。また2011年のD-Wave Systemsによる量子アニーリング方式の製品化を嚆矢として量子コンピュータという超々並列処理が可能な次世代のITインフラが急速に実用化され始めた事で人工知能の高速化にも深く関わる組み合わせ最適化問題をリアルタイムに解決できる環境が整備され始めている。この動向を受ける形で2016年頃から一般向けのニュース番組でも人工知能の研究開発や新しいサービス展開や量子コンピュータに関する報道が目立つようになった。2017年にはイーロン・マスクが、急速に進化し続ける人工知能に対して人間が遅れを取らないようにするために、ブレイン・マシン・インターフェースを研究開発するを立ち上げていたことを公表した。2017年10月にはジェフリーヒントンにより要素間の相対的な位置関係まで含めて学習できるカプセルネットワークが提唱された。2018年3月16日の国際大学GLOCOMの提言によると、課題解決型のAIを活用する事で社会変革に寄与できると分析されている。2018年8月OpenAIが好奇心を実装しノーゲームスコアノーゴール無報酬で目的なき探索を行うAIを公表。これまでのAIで最も人間らしいという。2018年9月MITリンカーン研究所は従来ブラックボックスであったニューラルネットワークの推論をどのような段階を経て識別したのかが明確に分かるアーキテクチャを開発した。2019年、BERTなどの言語モデルにより、深層学習では困難とされてきた言語処理において大きな進展があり、Wikipediaなどを使用した読解テストで人間を上回るに至った。2020年にはOpenAIにより1750億パラメータを持つ自然言語処理プログラムが開発されアメリカの掲示板サイトRedditで1週間誰にも気付かれず人間と投稿対話を続けた。プログラムと気付かれた理由は文章の不自然さではなくその投稿数が異常というものだった。DeepMindが開発したタンパク質の構造予測を行うAlphaFold2がCASPのグローバル距離テスト で90点以上を獲得し、計算生物学における重要な成果であり、数十年前からの生物学の壮大な挑戦に向けた大きな進歩と称された。OpenAIはTransformer の性能がパラメータ数N・データセットサイズD・計算予算Cの単純なべき乗になっているとの論文を発表した。最先端のAI研究では2年で1000倍サイズのモデルが出現し1000倍の演算能力を持つコンピュータが必要になって来ている。2021年4月、NVIDIAの幹部、パレシュ・カーリャはと予想した。2021年5月、マイクロソフトが32兆パラメーターのAIを試験。2021年6月中国政府の支援を受けている北京智源人工知能研究院がパラメーター数1兆7500億のAIを発表。2021年6月グーグルの研究者達が機械学習を用いてAI用チップを作成したところ消費電力性能など全ての主要な指数で人間が設計したもの以上のチップのフロアプランを生成した。そして設計にかかる時間は人間の1/1000であった。2021年8月グーグルの量子人工知能研究部門を率いるハルトムートネベンは量子コンピュータの発達の影響がもっとも大きい分野として機械学習分野などAIを挙げた。2021年現在、汎用人工知能は実現していないが、質問応答、意思決定支援、需要予測、音声認識、機械翻訳、科学技術計算、文章要約など、各分野に特化したシステムやこれらを組み合わせたフレームワークが実用化されている。Googleは2019年3月人工知能プロジェクトを倫理面で指導するために哲学者政策立案者経済学者テクノロジスト等で構成されるAI倫理委員会を設置すると発表した。しかし倫理委員会には反科学反マイノリティ地球温暖化懐疑論等を支持する人物も含まれておりGoogle社員らは解任を要請した。4月4日Googleは倫理委員会がという理由で委員会の解散を発表した。東洋哲学をAIに吸収させるという三宅陽一郎のテーマに応じて井口尊仁はを論じた三宅のにも通じている。元Googleエンジニアのアンソニー゠レバン���ウスキーは2017年AIを神とする宗教団体と発言するなど野心的な振る舞いを示している。相愛大学人文学部教授の釈徹宗はという。発明家レイカーツワイルが言うには哲学者ジョンサールが提起した強いAIと弱いAIの論争はAIの哲学議論でホットな話題である。哲学者ジョンサールおよびダニエルデネットによるとサールのといった機能主義に批判的な思考実験は真の意識が形式論理システムによって実現できないと主張している。において科学者の須藤靖は科学についての哲学的考察から始まったとアリストテレスが伝えており上記のような否定的発言も的外れではないと科学哲学者の野家啓一は言う。哲学者は科学とは違う日常的言語での概念さえ理解していない。非科学的な日常的言語をいくら使っても正確な意思疎通を行うことはできないというのがディラックの考えだとされている。生命情報科学者神経科学者の合原一幸編著という言明自体がうまく定義できていない」と記している。確かに脳をと考えられている。数学者論理学者の田中一之はについての定理ではない。によると学問の扱う問題が整理され分化したことで科学と哲学もそれぞれ異なる問題を研究するようになった。これはと返している。須藤は次のようにも述べた。須藤は哲学的に論じられていると述べている。対談で須藤はと答えている。 +オーストリア共和国、通称オーストリアは、ヨーロッパに位置する連邦共和制国家。首都はウィーン。ドイツの南方中部ヨーロッパの内陸に位置し西側はリヒテンシュタインスイスと南はイタリアとスロベニア東はハンガリーとスロバキア北はドイツとチェコと隣接する。基本的には中欧とされるが歴史的には西欧や東欧に分類されたことがある。中欧に650年間ハプスブルク家の帝国として君臨し第一次世界大戦まではイギリスドイツフランスロシアと並ぶ欧州五大国となった。この時点で多民族国家だった旧帝国のうちかつての支配民族のドイツ人が多数を占める地域におおむね版図が絞られた。1938年には同じ民族の国家であるナチスドイツに併合されたがドイツ敗戦後の1945年から1955年には連合国軍による分割占領の時代を経て1955年の独立回復と永世中立国化により現在に続く体制となった。音楽を中心に文化大国としての歴史も有する。EU加盟以降は同言語同民族の国家同士でありながら複雑な国際関係が続いてきたドイツとの距離が再び縮まりつつあり国内でも右派政党の伸張などドイツ民族主義の位置づけが問われている。通称 。 は正確には日本語ののように聴こえることもある。公式の英語表記は 。通称形容詞はライヒであり専門書や各種サイトなどで使用されている。国名のはドイツ語でという意味である。フランク王国のころにオストマルク。ドイツ語を含む各言語の呼称はそれが転訛したものである。狭義のオーストリアはかつてのオーストリア大公領であり現在のオーストリアの領土のうちザルツブルク大司教領やケルンテン地方シュタイアーマルク地方チロル地方は含まれない。オーストリア大公を名乗り同大公領を世襲してきたハプスブルク家ハプスブルク=ロートリンゲン家をが建設されるがこれは一地方の名前を国名に使用したことになる。現在のオーストリアの行政区画ではかつてのオーストリア大公領は上オーストリア州下オーストリア州に分割継承されている。ドイツ語のエスターライヒのreich界という意味が含まれている。なお隣国のチェコ語ではRakousko / Rakskoと呼ぶが、これは国境の一角の地名に由来している。オーストリア家との関係.オーストリアを統治してきたハプスブルク家およびハプスブルク=ロートリンゲン家は「オーストリア家を使用している。オーストラリアとの混同.オーストリア はしばしばオーストラリア と間違われるがオーストラリアはラテン語でに由来しオーストリアとは語源的にも無関係である。しかし綴りや発音が似ているため多くの国でオーストリアとオーストラリアが混同されることがある。日本ではオーストリア大使館とオーストラリア大使館を間違える人もおり東京都港区元麻布のオーストリア大使館には同じく港区三田のへの地図が掲げられている。2005年日本国際博覧会のオーストリア・パ���リオンで配布された冊子では、日本人にオーストラリアとしばしば混同されることを取り上げ、オーストリアをと覚えるように呼びかけている。両国名の混同は日本だけではなく英語圏の国にも広く見られ、聞き取りにくい場合は"European"」と書き加えたデザインのTシャツなどが売られている。なおフランス語圏においてはオーストラリアをAustralieと表すためこのような問題はない。2006年10月に駐日オーストリア大使館商務部はオーストラリアとの混同を防ぐため国名の日本語表記を「オーストリア」から「オーストリー」に変更すると発表した。オーストリーという表記は19世紀から1945年まで使われていた「オウストリ」という表記に基づいているとされた。発表は大使館の一部局である商務部によるものだったが、署名はペーター・モーザー大使で、大使館および商務部で現在変更中だとされ、全面的な変更を思わせるものだった。しかし2006年11月大使は国名表記を決定する裁量は日本国にあり日本国外務省への国名変更要請はしていないため公式な日本語表記はオーストリアのままであると発表した。ただしオーストリーという表記が広まることによりオーストラリアと混同されることが少なくなることを願っているとされた。その後大使館商務部以外では大使館日本の官公庁マスメディアなどに「オーストリー」を使う動きは見られない。たとえば2007年5月4日の「朝日新聞」の記事では同国を「オーストリア」と表記している。大使館商務部の公式サイトはしばらくは一貫してについてはわが国の日本語名はオーストリア共和国であると断ったうえでなどと述べるにとどまっている。日本では雑誌がオーストリーの表記を一部で用いている。ローマ帝国以前の時代現在オーストリアのある中央ヨーロッパの地域にはさまざまなケルト人が住んでいた。やがてケルト人のノリクム王国はローマ帝国に併合され属州となった。ローマ帝国の衰退後この地域はバヴァリア人スラブ人アヴァールの侵略を受けた。スラブ系カランタニア族はアルプス山脈へ移住しオーストリアの東部と中部を占めるカランタニア公国と記されバーベンベルク辺境伯領を表した。1156年、"Privilegium Minus"で知られる調停案により、オーストリアは公領に昇格した。1192年、バーベンベルク家はシュタイアーマルク公領を獲得する。1230年にフリードリヒ2世(在位:1230年 - 1246年)が即位。フリードリヒは近隣諸国にしばしば外征を行い、財政の悪化を重税でまかなった。神聖ローマ帝国フリードリヒ2世とも対立。1241年にモンゴル帝国がハンガリー王国に侵入(モヒの戦い)すると、その領土を奪い取った。1246年にライタ川の戦いでフリードリヒ2世が敗死したことによりバーベンベルク家は断絶。その結果、ボヘミア王オタカル2世がオーストリア、シュタイアーマルク、ケルンテン各公領の支配権を獲得した。彼の支配は1278年のマルヒフェルトの戦いで神聖ローマ皇帝ルドルフ1世に敗れて終わった。ハプスブルク家支配の成立.ザルツブルクは(1278年 - 1803年)となり、ザルツブルク大司教が領主となった。1290年、アルブレヒト1世がエンス渓谷の所有権と諸権利をめぐってザルツブルク大司教と争い、ルドルフ1世の調停によって自身に有利な条約が結ばれた。翌年7月にルドルフが死んで、アルブレヒト包囲網が編成された。教皇ニコラウス4世の了解を得て、ハンガリー王、ボヘミア王、ニーダーバイエルン公、サヴォイア公、ザルツブルク、アクイレイア、コンスタンツの聖界諸侯、旧ロンバルディア同盟の諸都市、およびスイス誓約同盟も加わった諸国が大同盟を結成した。選帝侯を味方につけられないアルブレヒトは大同盟から大打撃を受け、フランスを範にとり財政改革を行うことになった。裕福なウィーン市民をフープマイスターなる管財人へ任命し、人手に渡っていた所領をたちまちに回収した。しかしアルブレヒトが1308年に暗殺されてオーストリアは弱くなった。レオポルト1世はモルガルテンの戦いに敗れてフランスに接近した。フリードリヒ3世の死後一世紀あまりの間、ハプスブルク家はローマ王位から遠ざかった。しかし、この間にも政争は絶えなかった。1335年、ゲルツ伯家のハインリヒ6世が���し、唯一の女子マルガレーテ・マウルタッシュが伯位を継承したが(チロル女伯)、領土の相続をめぐってルクセンブルク家、ヴィッテルスバッハ家、ハプスブルク家が介入した。銀山のあるチロルは位置もイタリア政策の拠点となりうる垂涎の的であった。1358年にハプスブルクはオーストリア大公を称した。1363年ハプスブルク家のオーストリア公ルドルフ4世はマルガレーテを退位させて強引にチロル伯領を継承以後チロル地方はハプスブルク家の統治下に置かれた。14世紀から15世紀にかけてこのようにハプスブルクはオーストリア公領周辺領域を獲得していく。領土の一円化はコンスタンツ公会議でイタリア政策が頓挫してから急務であった。1438年にアルブレヒト2世が義父ジギスムントの後継に選ばれた。アルブレヒト2世自身の治世は1年に過ぎなかったがこれ以降一例を除いて神聖ローマ皇帝はハプスブルク家が独占することになる。ハプスブルク家は世襲領をはるかに離れた地域にも領地を獲得し始める。1477年フリードリヒ3世の唯一の子であるマクシミリアン大公は跡取りのいないブルゴーニュ公国のマリーと結婚してネーデルラントの大半を獲得した。彼の子のフィリップ美公はカスティーリャとアラゴンの王女フアナと結婚した。フアナがのちに王位継承者となったためスペインを得てさらにその領土のイタリアアフリカ新世界をハプスブルク家のものとした。1526年モハーチの戦いでハンガリー王ラヨシュ2世が戦死したあとボヘミア地域とオスマン帝国が占領していないハンガリーの残りの地域がオーストリアの支配下となった。1529年第一次ウィーン包囲。オスマン帝国のハンガリーへの拡大により両帝国はしばしば戦火を交えるようになった。1556年カール5世が退位してスペイン=ハプスブルク家が枝分かれした。1648年にヴェストファーレン条約が結ばれ神聖ローマ帝国は形骸化しフランスが勢力を伸張した。マリアテレジアと二元主義.レオポルト1世 同意を諸国から得る見返りに、領土と権威を明け渡してしまった。カール6世の死後諸国はマリアテレジアの相続に異議を唱えオーストリア継承戦争に加わった。神聖ローマ帝国の解体と二重帝国.フランス革命が起こるとオーストリアはフランスと戦争になったが幾多の会戦でナポレオンに敗退し形骸化していた神聖ローマ帝国は1806年に消滅した。この2年前の1804年オーストリア帝国が宣言されている。1814年オーストリアは他の諸国とともにフランスへ侵攻してナポレオン戦争を終わらせた。1815年にウィーン会議が開催されオーストリアはヨーロッパ大陸における4つの列強国のひとつと認められた。同年オーストリアを盟主とするドイツ連邦が作られる。未解決の社会的、政治的、そして国家的紛争のためにドイツは統一国家を目指した1848年革命に揺れ動かされた。結局のところ、ドイツ統一は大ドイツか、大オーストリアか、オーストリアを除いたドイツ連邦のいずれかに絞られる。オーストリアにはドイツ語圏の領土を手放す意思はなく、そのため1849年にフランクフルト国民議会がプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム4世へドイツ皇帝の称号を贈ったものの拒否されてしまった。1864年、オーストリアとプロイセンは連合してデンマークと戦い、シュレースヴィヒ公国とホルシュタイン公国をデンマークから分離させた。しかしオーストリアとドイツは両公国の管理問題で対立し、1866年に普墺戦争を開戦する。ケーニヒグレーツの戦いで敗れたオーストリアはドイツ連邦から脱退し、以後、ドイツ本土の政治に関与することはなくなった。1867年のオーストリアとハンガリーの妥協(アウスグライヒ)によりフランツヨーゼフ1世を君主に戴くオーストリア帝国とハンガリー王国の二重帝国が成立した。オーストリア=ハンガリーはスラヴ人ポーランド人ウクライナ人チェコ人スロバキア人セルビア人クロアチア人さらにはイタリア人ルーマニア人の大きなコミュニティまでもを支配する多民族帝国であった。この結果、民族主義運動の出現した時代においてオーストリア=ハンガリーの統治は次第に困難になりつつあった。それにもかかわらず、オーストリア政府はいくつかの部分で融通を利かすべく最善を��くそうとした。たとえばチスライタニアにおける法律と布告 は8言語で発行され、すべての民族は各自の言語の学校で学ぶことができ、役所でも各々の母語を使用していた。ハンガリー政府は反対にほかの民族のマジャール化を進めている。このため二重帝国の両方の部分に居住している諸民族の願望はほとんど解決させることができなかった。第一次世界大戦と共和制への移行.1914年にフランツフェルディナント大公がセルビア民族主義者に暗殺される事件が起こる。オーストリア=ハンガリー帝国はセルビアに宣戦布告し紛争は第一次世界大戦に発展した。4年以上の戦争を戦ったドイツオーストリア=ハンガリートルコブルガリアの中央同盟諸国の戦況は1918年後半には決定的に不利になり異民族の離反が起きて政情も不安となったオーストリア=ハンガリーは11月3日に連合国と休戦条約を結び事実上の降伏をした。第一次世界大戦の降伏直後にオーストリア革命が起こり、皇帝カール1世はを宣言して共和制に移行し、600年以上にわたったハプスブルク家の統治は終焉を迎えた。1919年に連合国とのサンジェルマン条約が結ばれ、ハンガリー、チェコスロバキアが独立し、そのほかの領土の多くも周辺国へ割譲させられてオーストリアの領土は帝国時代の4分の1程度になってしまった。300万人のドイツ系住民がチェコスロバキアのズデーテン地方やユーゴスラビア、イタリアなどに分かれて住むことになった。また、ドイツとの合邦も禁じられ、国名もドイツ=オーストリア共和国からオーストリア共和国へ改めさせられた。戦後オーストリアは激しいインフレーションに苦しめられた。1922年に経済立て直しのために国際連盟の管理の下での借款が行われ1925年から1929年には経済はやや上向いてきたがそこへ世界恐慌が起き1931年にクレディタンシュタルトが倒産した。ファシズムからアンシュルスへ.1933年、キリスト教社会党のエンゲルベルト・ドルフースによるイタリア・ファシズムに似た独裁体制が確立した(オーストロファシズム)。この時期のオーストリアにはキリスト教社会党とオーストリア社会民主党の二大政党があり各々民兵組織を有していた。対立が高まり内戦(2月内乱)となる。内戦に勝利したドルフースは社会民主党を非合法化し、翌1934年5月には憲法を改正して権力を固めたが、7月にのクーデターが起こり暗殺された。後継者のクルト・シュシュニックはナチスドイツから独立を守ろうとするが、1938年3月12日、ドイツ軍が侵入して全土を占領し、オーストリア・ナチスが政権を掌握した。3月13日にアンシュルスが宣言され、オーストリア出身のアドルフ・ヒトラーが母国をドイツと統一させた。オーストリアは第三帝国に編入されて独立は失われた。ナチスはオストマルク法を制定してオーストリアをオストマルクとし1942年にアルペン=ドナウ帝国大管区群と改称している。第三帝国崩壊直前の1945年4月13日ソ連軍によるウィーン攻勢によってウィーンは陥落した。カールレンナーがソ連軍の承認を受けて速やかにウィーンに臨時政府を樹立し4月27日に独立宣言を行い第三帝国からの分離を宣言した。1939年から1945年の死者は26万人 ホロコーストによるユダヤ人の犠牲者は6万5000人に上っている。ドイツと同様にオーストリアもイギリス、フランス、ソ連、アメリカによって分割占領され、オーストリア連合国委員会によって管理された。1943年のモスクワ宣言のときから予測されていたが、連合国の間ではオーストリアの扱いについて見解の相違があり、ドイツ同様に分断されるおそれがあった。結局、ソ連占領区のウィーンに置かれた社会民主主義者と共産主義者による政権は、レンナーがスターリンの傀儡ではないかとの疑いがあったものの、西側連合国から承認された。これによって西部に別の政権が立てられ国家が分断されることは避けられ、オーストリアはドイツに侵略され連合国によって解放された国として扱われた。冷戦の影響を受けて数年かかった交渉の末、1955年5月15日、占領4か国とのオーストリア国家条約が締結されて完全な独立を取り戻した。1955年10月26日、オーストリアは永世中立を宣言した。1995年に欧州連合へ加盟し、間接的な憲法改正は���えられている。第二共和国の政治システムは1945年に再導入された1920年および1929年の憲法に基づいている。オーストリアの政治体制はプロポルツ(比例配分主義"Proporz")に特徴づけられる。これは政治的に重要なポストは社会党と国民党の党員に平等に分配されるというものである。義務的な党員資格を持つ利益団体の「会議」(労働者事業者農民)の重要性が増し立法過程に関与するという特徴がある。1945年以降単独政権は1966年 - 1970年(国民党)と1970年 - 1983年(社会党)のみでほかの期間は大連立(国民党と社会党)もしくは小連立(二大政党のいずれかと小党)のいずれかになっている。1970年 - 1983年の社会党政権における経済政策はおおむね自由化を進める方向で動いた。このような社会党政権のときに国連事務総長をつとめてきたクルト・ヴァルトハイムが、1986年に大統領となった。同国の政体は連邦共和制となっている。国家元首の連邦大統領()は国民の直接選挙で選ばれる。任期は6年。大統領就任宣誓式は連邦会議()で行われる。連邦政府の首班は連邦首相()。連邦政府()は国民議会における内閣不信任案の可決か大統領による罷免でしか交代することはない。議会は4年毎に国民から選挙で選ばれる183議席の国民議会から成る二院制の議会制民主主義国家。国民に選挙で選ばれる国民議会の議決は連邦議会のそれに優先する。連邦議会は州に関連する法案にしか絶対拒否権を行使できない。連邦会議は非常設の連邦機関で、国民議会ならびに連邦議会の議員を構成員とし、大統領宣誓式のほかには、任期満了前の大統領の罷免の国民投票の実施、大統領への刑事訴追の承認、宣戦布告の決定、大統領を憲法裁判所へ告発する承認の権限がある。政党には中道右派のオーストリア国民党(VP)中道左派のオーストリア社会民主党(SP旧オーストリア社会党1945 - 1991)極右のオーストリア自由党(FP)同党から分かれて成立したオーストリア未来同盟(BZ自由党の主要議員はこちらに移動した)環境保護を掲げる緑の党左派のオーストリア共産党がある。2006年の国民議会選挙で社会民主党が第1党となったため2007年まで7年間続いた中道右派オーストリア国民党と極右派の3党に由来しており1世紀近くにわたって3派共立の政党スタイルが確立していた。司法権は最高裁判所に属している。オーストリア共和国は第二次世界大戦後の連合国による占領を経て、1955年に永世中立を条件に独立を認められ、以来東西冷戦中もその立場を堅持してきた。このため東側諸国からもオーストリアへの出国は比較的自由であり、長い間、亡命者の窓口の役割を果たしてきた。1978年上半期の亡命者数として1372人の記録が残されているほか、1989年の冷戦末期には汎ヨーロッパ・ピクニックを通じて一度に1000人以上の大量亡命者もやってきた。欧州経済共同体に対抗するために結成された欧州自由貿易連合には1960年の結成時からメンバー国だったが1995年の欧州連合加盟に伴い脱退した。加盟した欧州連合においては軍事面についても統合が進められており、永世中立国は形骸化したとの指摘がある。国民の間には永世中立国堅持支持も多いが、非永世中立国化への方針が2001年1月の閣議決定による国家安全保障ドクトリンにおいて公式に記述されたことにより、国内で議論が起こっている。歴史的、地理的に中欧・東欧や西バルカンの国と関係が深く、クロアチアなどの欧州連合加盟に向けた働きかけを積極的に行っている。トルコの欧州連合加盟には消極的な立場をとっている。日本とは1869年に日墺修好通商航海条約を締結して以来友好な関係で、特に音楽方面での交流が盛んである。第一次世界大戦では敵対したが、1955年の永世中立宣言に対しては日本が最初の承認を行った。2011年に隣国のリヒテンシュタインがシェンゲン協定に加盟したことにより、周囲の国家がすべて同協定の加盟国となり、国境管理を行っていない。国軍として陸軍および空軍が編制されている。徴兵制を有し、18歳に達した男子は6か月の兵役に服する。名目上の最高指揮官は連邦大統領であるが、実質上は国防大臣が指揮をとる。北大西洋条約機構には加盟していないが、欧州連合に加盟しており、それを通じた安全保障政策が行われている。国土面積は日本の北海道とほぼ同じ大きさである。オーストリアの地形は大きくアルプス山脈同山麓カルパチア盆地である。アルプスの水を集めドイツから首都ウィーンを通過して最終的に黒海に達する国際河川がドナウ川である。1992年にライン川やマイン川を結ぶ運河が完成し北海との交通が可能となった。気候は大きく3つに大別される。東部は大陸的なパンノニア低地気候、アルプス地方は降水量が多く、夏が短く冬が長いアルプス型気候、その他の地域は中部ヨーロッパの過渡的な気候である。9つの州が存在する。このように8つの州とウィーンからなるために9角形の硬貨が発行されたことがある。なお9角形とはいっても辺は直線ではなく曲線すなわち曲線多角形の硬貨である。日本貿易振興機構の推計値では2019年の一人当たりの名目GDPは50023ドルである。これは同年のEU平均値である35774ドルの1.4倍に迫る。また1990年以降の統計で一人当たりの名目GDPは世界で概ね10~15位で推移しているが20位以下に脱落したことはなく(最高順位は1995年の7位で当時30351ドル)経済的に豊かで安定した国である。主要産業としてはシュタイアーマルク州の自動車産業オーバーエスターライヒ州の鉄鋼業などがある。大企業はないもののドイツ企業の下請け的な役割の中小企業がオーストリア経済の中心を担っている。ウィーンやザルツブルクチロルを中心に観光産業も盛んである。失業率はほかの欧州諸国と比較して低い。欧州の地理的中心にあることから近年日本企業の欧州拠点工場なども増加しつつある。オーストリアにとって日本はアジア有数の貿易相手国である。ヨーロッパを代表する音響機器メーカーとして歴史を持つAKGはクラシック愛好者を中心に日本でも有名である。金融ではオーストリア銀行エルステ銀行ライフアイゼンバンクBAWAGフォルクスバンクが主要銀行である。その他の企業についてはオーストリアの企業一覧も参照のこと。観光はオーストリア経済において最も重要な産業であり、同国の国内総生産のほぼ9%を占めている。が主要幹線を網羅しており、山岳部ではをはじめとする登山列車なども運行している。ウィーンでは地下鉄やSバーン、路面電車なども運行され、インスブルックやリンツなどの主要都市にも路面電車がある。ウィーン、インスブルック、ザルツブルク、グラーツ、クラーゲンフルトの各都市に国際空港がある。ウィーン国際空港では、ドイツ語の案内放送のあと、英語で案内放送がある。「領地はたくさんある。人口もたくさんある。しかしオーストリア民族はいない。国家はない」とはオーストリアのジャーナリスト、ヘルムート・アンディクス()がオーストリア帝国を評したものであるが、実際に今のオーストリアの領土はかつての「ドイツ人の神聖ローマ帝国」を構成する「上オーストリア」「下オーストリア」「ケルンテン」「ザルツブルク司教領」「チロル」などから構成されており、その統治者であったハプスブルク家は「ドイツ人の神聖ローマ皇帝」を世襲してきた。そのためオーストリア民族という概念はなく、オーストリア人という概念はきわめて新しい。ドイツ語を母語とするオーストリア人は全人口の91.1%を占める。この割合はドイツリヒテンシュタインとほぼ同じである。血統的にはゲルマン系にスラヴ系ラテン系ハンガリー系トルコ系などが入り混じっているもののゲルマン系言語であるドイツ語を母語とするためオーストリア人は通常ゲルマン民族とみなされる。オーストリア人はドイツ人に含まれるのか、という問題は戦後意識的に避けられてきたが、近年急速にクローズアップされている。もともとオーストリアはプロイセン、バイエルンなどと同じくドイツを構成する分邦のひとつであり、2つの国民、1つの民族と呼ばれる時代が始まる。オーストリア側ではドイツ人と別個の国民であるという意識が育ち、さらにはエスニシティにおいてもドイツ民族とは異なるオーストリア民族であると自己規定する人も現れた。しかしながら、ドイツ統一・欧州連合加盟以降、ドイツ民族主義が再び急伸した。2000年から2007年にかけて、ドイツ民族主義者系の極右政党が連立与党に加わり���国際的に波紋を呼んだのもそうした風潮と関連している。だった。近年の民族主義的傾向にはこうした言語民族文化の再確認という側面が見られる反面拡大EUにおける一等市民=ドイツ人として差別主義的に結束しようとする傾向も否めない。今日ウィーン市内ではドイツ国歌を高唱する右派の学生集会なども見られる。ただし元をただせば現在のドイツ国歌はハイドンが神聖ローマ帝国最後の皇帝フランツ2世を讃えるために作曲したの歌詞を替えたものであり19世紀後半にはオーストリア帝国の国歌となっていた。ナポレオン戦争における神聖ローマ帝国の勝利と帝国の権威維持を祈願して当曲が作られた当時はオーストリア国家は存在せずアウステルリッツの戦いに敗戦してローマ帝位を辞するまでフランツ2世は形式的には直轄地オーストリア地域をふくめる全ドイツ人の皇帝だったため両国共通のルーツを持つ歌ともいえる。しかし外国人観光客が右翼学生たちを奇異な目で見るのは国歌のメロディではなく政治的には外国であるドイツをと連呼する歌詞をそのまま歌っている点である。ブルゲンラント州は1921年まではハンガリー王国側だったため今日でもハンガリー系クロアチア系が多い。ケルンテン州にはスロベニア系も居住している。両州の少数民族は1970年代の調査によれば1 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2%であるが自己申告制であるため実際にはドイツ人と申告した中にもかなりの外国系住民が含まれると思われる。そのため標識や学校授業に第2言語を取り入れている地域もある。外国人や移民は人口の9.8%を占め、ヨーロッパ有数の移民受入国である。その多くがトルコ人と旧ユーゴスラビア諸国出身者である。ドイツ語が公用語であり、ほとんどの住民が日常使っている言語でもある。ただし、日常の口語で使われているのは標準ドイツ語ではなく、ドイツ南部などと同じ上部ドイツ語を除き、バイエルンと同じ区画に属するバイエルン・オーストリア語である。オーストリアでは、テレビ、ラジオの放送などでは標準ドイツ語が使われているが、独特の発音や言い回しが残っているため、ドイツで使われている標準ドイツ語とは異なる。標準ドイツ語では有声で発音されるsの音はオーストリアにおいては無声で発音されることが多い。またオーストリア内でも多くの違いがあり、ウィーンやグラーツなどで話されている東オーストリアの方言と西オーストリアのチロル州の方言は随分異なる。東オーストリアの方言では南部のケルンテン州にはスロベニア人も居住しWindisch」として知られかつてのオーストリア=ハンガリー帝国の領土だったハンガリーチェコイタリアなどの諸国の言語の影響が残っていると言われている。また、単語レベルでみた場合、ドイツと異なる語彙も数多く存在するほか、ドイツとオーストリアで意味が異なる単語もあるため注意が必要である。婚姻の際、2013年までは、原則としてと変更された。これまで通りの選択も可能であるが、その場合婚前に手続きが必要となる。また、別姓での結婚において夫婦が子の姓について合意できない場合は母の姓となる規定がある。これには母子家庭以外でも子が母の姓を名乗るケースを認めることで、親子関係と姓で婚外子だと分からないようにするという、婚外子差別をなくす意味合いがある。2019年1月1日より同性結婚が可能になった。宗教は、553万人。さらに、ユダヤ教もいる。義務教育は9年となっている。2018年06月21日時点で外務省はとしている。18世紀後半にウィーン古典派が興って以降、ウィーンはクラシック音楽における重要な都市となり、やがてと呼ばれるようになった。オーストリア出身の重要な作曲家には、ハイドン、モーツァルト、シューベルト、ブルックナー、ヨハン・シュトラウス2世、マーラー、ベルクなどがいるが、いずれもウィーンを活動の拠点とした。このほか、ドイツ出身のベートーヴェン、ブラームスもウィーンで活動した。音楽家についてはを参照。これらの伝統を引き継ぎ演奏活動の面では現在もウィーンはクラシック音楽の重要な拠点となっている。ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が7件存在する。さらにハンガリーにまたがって1件の文化遺産が登録されている。冬季��リンピックで数多くのメダルを獲得することから分かるようにオーストリアでもその寒冷な気候と山がちな地形を利用したウィンタースポーツが盛んに行われている。中でもアルペンスキーは絶大な人気を誇り冬季オリンピックで計4個のメダルを獲得しているヘルマンマイヤーは国民的スターでもある。2006 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2007年シーズンでは男女計12種目のうち実に7種目をオーストリア人選手が制覇している。ライフル射撃競技とクロスカントリースキーを組み合わせたバイアスロンの強豪国でもあり国際スキー連盟とは独立している国際バイアスロン連合はその本部をオーストリアのザルツブルクに置いている。またノルディックスキーも人気が高く、ノルウェー、フィンランド、ドイツなどとともに強豪国として名高い。アンドレアス・ゴルトベルガー(ジャンプ1993年、1995年、1996年FIS・W杯総合優勝)、フェリックス・ゴットヴァルト(ノルディック複合2001年FIS・W杯総合優勝)、トーマス・モルゲンシュテルン(ジャンプ2008年FIS・W杯総合優勝)といった有名選手を輩出している。近年では2006年トリノオリンピックのジャンプ競技で金メダルを獲得している。モータースポーツはオーストリアで3番目に人気のあるスポーツである(スキーとサッカーに次ぐ)。数人のオーストリアのドライバーがF1で成功を収めている。3度のF1世界チャンピオンであるニキラウダはウィーン出身でありニュルブルクリンクの大事故で瀕死の重症を負いながらも3度の世界チャンピオン(1975年1977年1984年)を得25歳でF1世界チャンピオンシップを奪取した7番目のドライバーである。またヨッヘンリントはモンツァサーキットのレースで事故死後故人として1970年の世界チャンピオンになった。彼はまた1965年のルマン24時間レースでも優勝した。ゲルハルトベルガーは1988年と1994年にチャンピオンシップ3位にランクされ10回の勝利と48回の表彰台を獲得した。オーストリアグランプリは1963年1964年1970年から1987年1997年から2003年そして2014年から開催されており近年は2010年から2013年にかけてF1の製造者部門(コンストラクター)で4連覇を果たしたレッドブルレーシングのホームグランプリとして盛況を博している。モータースポーツの上位2つの会場はエステルライヒリンクとザルツブルクリンクである。前者はオーストリアグランプリオーストリアモーターサイクルグランプリそして1000kmのツェルトベク耐久スポーツカーレースを主催した。後者はまたオーストリアのオートバイグランプリスーパーバイク世界選手権ヨーロッパのフォーミュラ2選手権そしてドイツツーリングカー選手権やスーパーツーリングカー選手権などのドイツのトップシリーズを開催した。またKTMはダカールラリーの二輪部門で18連覇という金字塔を打ち立てている。ホンダはじめ日本メーカーが圧倒的な力で支配する二輪モータースポーツの世界でこの記録は驚異的といえる。KTMはサーキットレースでも存在感を示し始めており2021年時点でMoto3で4度王者を輩出している。またヤマハ発動機の耐久レースのファクトリーチームであるYARTはオーストリアのチームである。ライダーとしてはマティアスウォークナーが2018年にKTMでダカール王者となっている。伝統的にサッカーの人気が高くイギリスを除くヨーロッパ大陸ではもっとも古い歴史を誇るプロリーグであるオーストリアブンデスリーガ(1部)を筆頭にサッカーリーグは9部まである。1部のレッドブルザルツブルクには日本の奥川雅也が在籍している(2020年現在)。オーストリアの最高峰リーグであるオーストリア・ブンデスリーガをステップアップとしてサッカーのブランドネーションに移籍する選手が多く、毎年のようにドイツ・ブンデスリーガやイタリア・セリエAに移籍する選手が数多く輩出されている。2008年にはUEFA欧州選手権2008をスイスと共同で開催した。オーストリア代表チームはドイツやクロアチアを相手に善戦したもののグループリーグで敗退を喫した。自転車ロードレースでは、がツール・ド・フランスやジロ・デ・イタリアといった世界最高峰のレースで活躍した。現在はベルンハルト・アイゼルなどが知られている。オーストリア最大のステージレースはUCIプロシリーズと��う上から二番目のカテゴリーに分類されており、ツール・ド・フランスと同時期の7月に開催されるが、その年のツール・ド・フランスに出場しない大物選手が数多く出場している。積雪の多い気候ゆえ卓球やハンドボールアイスホッケー柔道などの室内スポーツの競技人口も多い。ウィーンでは、オーストリア・ハンガリー各地の出身者が活躍した。 +GNU Free Documentation License は、GNUプロジェクトの一環としてフリーソフトウェア財団から配布されているコピーレフトなライセンスの一つである。略称として GNU FDLなどと書かれることもある。GNUはグニューあるいはグヌーと発音する。日本語訳では、と言えるか否かは、異論も存在する。なお、GNUの公式サイトで使われる日本語訳はGNU自由文書ライセンスである。このライセンスは文書たる著作物につき営利非営利を問わず著作権者が著作権者以外の者に対して改変複製頒布することを一定の制約条件の下に許諾するものである。大まかに言えば、GPLと同様に著作権者が次のような許可を与えるライセンスである。甲が他人に対して自己の創作による著作物Aの自由な利用を許す方法としては甲が著作物Aに係る著作権をすべて放棄して著作物Aをパブリックドメインに帰属させる方法がまず考えられる。しかしこの方法によれば他人が著作物Aを改変翻訳することによって創作した二次的著作物A'の著作権の処分は当該他人の自由意思に委ねられるため著作物A'の自由利用は保証されずいわゆるコピーレフトの実現が不十分となる。そこで甲が著作物Aの著作権を放棄することなく他人に対して著作物Aの改変翻訳を許諾する条件として当該他人が著作物Aの改変翻訳により創作した二次的著作物A'もまた乙以外の他人に自由に利用させる義務を課すことにより問題を解決しようとするのがGFDLの骨子である。なおGPL が主にコンピュータプログラムの配布を目的としたライセンスであるのに対しGFDL は文書の配布を目的としており文書に特化した条項が定められている。自由利用の維持の骨格.文書が自由に利用できる状態が失われないようにするために以下のような条項がある。A という人物が GFDL で文書を公開したとする。B という人物がその文書を自分で書いたかのように見せて配布したとすると、A の「著作者。GFDLは以上のような文書たる著作物のコピーレフトを目的としたライセンスとして代表的なものの一つであるが以下のような未解決の法律問題も抱えている。著作者・著作権の表示.GFDLは著作権者以外の者による文書の改変を認めるとともに、改変版には、題扉に元の文書の著作者として最低5人の主要著作者を列記するとともに、文書にある全ての著作権表示を残すことを要求している。著作権法28条によれば、原著作物の著作者が有する氏名表示権は二次的著作物にもおよび、原著作物の著作権者は、二次的著作物の利用に関して二次的著作物の著作者と同じ内容の権利を有する。しかし、原著作物の創作的表現が存在しないと認められる程度に改変がされた場合は、当該改変版は原著作物の二次的著作物ではないため、原著作物の著作権者は改変版に対して著作権を行使することができない。さらに、著作者は氏名表示を要求することができなくなる。GFDLはすべての者に対して自由な改変を認めるライセンスであるがゆえに複数の者による改変を経ることにより原著作物の創作的表現が消滅してしまう機会が多いと考えられるがそのような場合でも第4条に基づき主要著作者としての表示が必要になったり著作権表示を残すべきかは問題がある。通常、著作物の利用許諾をする場合、利用許諾書が規定するライセンスの成立及び効力につき、準拠法を指定する条項が存在する。しかし、GFDLには準拠法に関する条項が存在しない。法律行為の成立及び効力につき、当事者が準拠法の定めをしなかった場合、準拠法を とするかについては、国際私法の内容が国により異なることもあり、世界的に統一された扱いができないが、いずれにしても当事者の意思とは無関係に準拠法が定まることになる。日本が法廷地になる場合、法の適用に関する通則法8条が適用され、利用許諾につき最も密接な関係がある地の法による。このため、原著作権者A がその著作物につき GFDL を適用して公開した後、別の者B がその改変版を公開する場合、AによるライセンスとBによるライセンスとでは、同じGFDLを適用していながら、それぞれ準拠法が異なるケースが生じることになる。そのため、同じ文言のライセンスの下に利用許諾をしているにもかかわらず、改変版をめぐって法的な争いが生じた場合、元の文書の著作権者ごとにライセンスの成立及び効力について異なった法を適用しなければならず、法律関係が複雑になる懸念が生じかねないという問題がある。その他の問題についてはライセンス#著作物全般の利用許諾のライセンスを参照。ライセンスの原文及び他言語訳.フリーソフトウェア財団によりGFDLとしての効力があると承認されているものは、英語の原文によるライセンスのみであり、公式の他言語訳は存在せず、FSFとしても他言語の訳文を承認しない方針を採っている。これは誤訳の可能性があるものを承認することによって生じるリスクを回避するためである。そのため、使用するときは英語のライセンス文書を使うことになっており、日本語訳はあくまで参考として示すにとどまっている。非公式ではあるものの、八田真行による"version 1.2"の日本語訳が存在する。 +社会学者の一覧では、社会学を研究する学者を一覧する。ゴーダチーズは、エダムチーズと並ぶオランダの代表的なチーズ。オランダでのチーズ生産量の60%を占める。ロッテルダム近郊の町、ゴーダで作られたことからこの名前がついた。正確な起源は不明だが12世紀頃にまで溯るとされることが多い。外見は黄色がかった茶色い円盤型で、正式なサイズが直径35cm×高さ11cm・重さ約12kgと決められており、それより小さなものを総称してと呼んでいる。中は白から黄色。熟成と共に色が変化する。熟成されたゴーダの中には表面が黒いものもある。クミンシードやニンニクなどを用いて香りをつけたものもある。主な材料は牛乳とレンネット。チーズの種類としてはセミハードに分類される。味はマイルドで日本では比較的広く親しまれている。オランダでは土産物として空港などで売られている他食料品店チーズ販売店などでもほぼ置いている。チーズ店などでは特に包装をしていないものを常温で積み上げている場合もある。これは表面をロウでコーティングしてありナイフを入れない限り熟成が急激に進む心配がないため。他にフィルムにくるんだものや真空パックのように包装したものもある。日本ではチェダーチーズと並んでプロセスチーズの主要な原料として用いられているとされる。またゴーダチーズを原料としたスライスチーズが明治から販売されている。バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza 、1632年11月24日 - 1677年2月21日)は、オランダの哲学者である。ラテン語名ベネディクトゥス・デ・スピノザ(Benedictus De Spinoza)でも知られる。デカルト、ライプニッツと並ぶ17世紀の近世合理主義哲学者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論と考えられてきた。また、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルらドイツ観念論やマルクス、そしてその後の大陸哲学系現代思想へ強大な影響を与えた。スピノザの汎神論は新プラトン主義的な一元論でもあり、後世の無神論や唯物論に強い影響を与え、または思想的準備の役割を果たした。生前のスピノザ自身も、無神論者のレッテルを貼られ異端視され、批判を浴びている。スピノザの肖像は1970年代に流通していたオランダの最高額面の1000ギルダー紙幣に描かれていた。アムステルダムの富裕なユダヤ人の貿易商の家庭に生まれる。母はハンナデボラ父はミカエルデスピノーザ。両親はポルトガルでのユダヤ人迫害から逃れオランダへ移住してきたセファルディム。幼少の頃より学問の才能を示し、ラビとなる訓練を受けたが、家業を手伝うために高等教育は受けなかった。商人として働いていたが、商人としての利益より、人生の目的に尽くす方が利益は大きいとして商人を止める。伝統から自由な宗教観を持ち、神を自然の働き・ありかた全体と同一視する立場から、当時のユダヤ教の信仰のありかたや聖典の扱いに対して批判的な態度をとった。恐らくそのため1656年7月27日にアムステルダムのユダヤ人共同体からヘーレムにされる。狂信的なユダヤ人から暗殺されそうになった。1661年の夏にライデン近郊のレインスブルフに転居。ヘンリー・オルデンバーグ来訪。レインスブルフにいる間にの執筆を開始、1670年に匿名で版元も偽って出版した。この本は、聖書の解読と解釈を目的としていた。しかし、1672年にウィットが虐殺され、この折りには、スピノザは生涯最大の動揺を示したという」とスピノザは形容した)。1673年にプファルツ選帝侯カール1世ルートヴィヒからハイデルベルク大学教授に招聘されるが、思索の自由が却って脅かされることを恐れたスピノザは、これを辞退した。こうした高い評価の一方で、1674年にはの出版を断念した。同書は執筆に15年の歳月をかけたスピノザの思想の総括である。また、その翌1676年にはライプニッツの訪問を受けたが、この二人の大哲学者は互いの思想を理解しあうには至らなかった。肺の病で44歳の短い生涯を終えた。遺骨はその後廃棄され墓は失われてしまった。ハーグ移住後、スピノザはレンズ磨きによって生計を立てたという伝承は有名である。しかしスピノザは貴族の友人らから提供された年金が十分にあった。旅行記を参照するに他の方面にも支援者はおり、当時のライデン大学の教授ゲーリンクスと同額の500ギルダーの収入を得ていた。また当時のオランダでは自然科学、とりわけ光学に大きな関心が持たれていた。スワンメルダムやホイヘンスら科学者は自らレンズを磨いて改良し、後にアムステルダム市長となるヨハン・フッデもやはりレンズを磨いていることが分かっている。当時科学に興味のある知識人は当たり前のようにレンズを磨いていたのが実態で、ましてや虹についての論文や自然科学を論じる書簡が残っているスピノザの場合、生計のためというより探究のためと考える方が道理だろう。生前に出版された著作は、1663年のスピノザの哲学史上の先駆者は懐疑の果てに「我思う故に我あり(cogito ergo sum)」と語ったデカルトである。これは推論の形をとってはいるがその示すところは思惟する私が存在するという自己意識の直覚である。懐疑において求められた確実性はこの直覚において見出される。これをスピノザは「我は思惟しつつ存在する(Ego sum cogitans.)」と解釈している(「デカルトの哲学原理」)。その思想は初期の論考から晩年の大作『エチカ』までほぼ一貫し、神即自然 (deus sive natura) の概念(この自然とは、動植物のことではなく、人や物も含めたすべてのこと)に代表される非人格的な神概念と、伝統的な自由意志の概念を退ける徹底した決定論である。この考えはキリスト教神学者からも非難され、スピノザは無神論者として攻撃された。一元的汎神論や能産的自然という思想は後の哲学者に強い影響を与えた。近代ではヘーゲルが批判的ながらもスピノザに思い入れておりスピノザの思想は無神論ではなくむしろ神のみが存在すると主張する無世界論であると評している。フランス現代思想のドゥルーズもその存在論的な観点の現代性を見抜きなどの研究書を刊行している。代表作を髣髴とさせる定義公理定理証明の一大体系である。それはまさにQ.E.Dの壮大な羅列であり哲学書としてこれ以上ないほど徹底した演繹を試みたものであった。この著作においてスピノザは、限られた公理および定義から出発し、まず一元的汎神論、次いで精神と身体の問題を取り上げ、後半は現実主義的ともいえる倫理学を議論している。ここでは、形而上学的な第1部と第2部の概要を主に記述する。デカルトは神を無限な実体として世界の根底に設定し、そのもとに精神と身体は全て、能産的自然としての神なくしては在りかつ考えられることのできないものであり、神の変状ないし神のある属性における様態であるということになる。スピノザは「人間精神を構成する観念の対象はは同じ実体の二つの側面を示すから一致するとしている。スピノザは、デカルトとは異なり、自由な意志によって感情を制御する思想を認めない。むしろ、スピノザの心身合一論の直接の帰結として、独立的な精神に宿る自由な意志が主体的に受動的な身体を支配する、という構図は棄却される。スピノザは、個々の��志は必然的であって自由でないとした上、意志というものを個々の意志発動の原因として考えるのは、人間というものを個々の人間の原因として考えると同様に不可能であるとしている。また観念は観念であるかぎりにおいて肯定ないし否定を包含するものとしており、自由意志と解される表象像・言語はじつは単なる身体の運動であるとしている。スピノザにおいては表象的な認識に依存した受動感情ことを知る」ことから人間は神への知的愛に達し神が自己自身を認識して満足する無限な愛に参与することで最高の満足を得ることができるとスピノザは想定する。上の議論は個の自己保存衝動を否定しているわけではない。各々が存在に固執する力は神の性質の永遠なる必然性に由来する。欲求の元は神の在りかつ働きをなす力に由来する個の自己保存のコナトゥスの必然性を理性によって認識することに自己の本質を認めまたこの認識を他者と分かち合うことが要請される。上述のエチカの議論によれば理性はたしかに感情を統御できる。とはいえとする立場からはスピノザは国家の権能によって人民が保護されることが必要であるとする。そしてそのためには臣民を報償の希望ないしは刑罰への恐怖によって従属させることが必要であるとしている。たしかに精神の自由は個人の徳ではあるが国家の徳は安全の中にのみあるからである。統治権の属する会議体が全民衆からなるとき民主政治若干の選民からなるとき貴族政治一人の人間の手中にあるとき君主政治と呼ばれる。この統治権あるいは共同の不幸を排除することを目的として立てられた国家の法律にみずから従うような理性に導かれる者ばかりではない現実においては理性を欠いた人々に対しては外から自由を与えることが法の目的であるとしている。また言論の自由についてはこれを認めないことは順法精神を失わしめ政体を不安定にするとしている。またスピノザの政治思想の特徴はその現実主義にある。政治への理想を保持しつつ現実の直視を忘れないその姿勢は幾人ものオランダ共和国の政治家との交流から得られたものと考えられる。スピノザの汎神論は、神の人格を徹底的に棄却し、理性の検証に耐えうる合理的な自然論として与えられている。スピノザは無神論者では決してなく、むしろ理神論者として神をより理性的に論じ、人格神については、これを民衆の理解力に適合した人間的話法の所産であるとしているキリスト教についてはスピノザとしてはキリストの復活は信者達に対してのみその把握力に応じて示された出現に他ならないとしまたキリストが自分自身を神の宮として語ったことはという語句とともに神がもっとも多くキリストの中に顕現したことを表現したものと解している。また徳の報酬は徳そのものであるとする立場からは道徳律は律法としての形式を神自身から受けているか否かにかかわらず神聖かつ有益であるとしており神の命令に対する不本意な隷属とは対置されるところの人間を自由にするものとしての神に対する愛を推奨している。また神をその正義の行使と隣人愛によって尊敬するという意味でのキリストの精神を持つかぎり何人であっても救われると主張している。カール・ポパーはスピノザの哲学を本質主義として批判している。ポパーは、スピノザの著作としている。ポパーはスピノザと異なり、カントは本当の問題と取り組んでいると評価している。 +文脈自由文法において全生成規則が以下のようである形式文法である。ここで V は非終端記号であり"w" は終端記号と非終端記号の(0個を含む)任意個の並びである。「文脈自由」という用語は前後関係に依存せずに非終端記号 V を "w" に置換できるという所から来ている(「文脈無用」という訳の提案もある)。文脈自由文法によって生成される形式言語を文脈自由言語という。文脈自由文法はノームチョムスキーによる句構造文法の研究の中から形式言語の類別のひとつとして見出されたものである。文脈自由文法の形式性は言語学が伝統的に自然言語の文法を形式的に記述してきた既存の方法。文脈自由文法は(チョムスキーらによって言語学で)提唱されてすぐに(形式言語と密接な関係にあるオートマト���理論のような理論計算機科学の分野にとどまらず)プログラミング言語 ALGOLの仕様策定において構文の仕様を示すバッカスナウア記法という形でとり入れられその後コンピュータ科学一般にあるいはもっと広く実務にも応用されている。といった言説がしばしば見られるが誤りである。本当に実際の所はyaccで定義されていても純粋に構文では定義しきれない部分をあれこれと意味規則で補っているのが普通である。文脈自由文法は効率的な構文解析アルゴリズムを適用できる程度に単純である。つまり、ある文字列が特定の文法による言語に属しているかどうかを判断することができる。初期の構文解析手法であるLR法やLL法は文脈自由文法のサブセットを扱うものであった。全ての形式言語が文脈自由であるわけではない。文脈自由でない例として formula_1 がある。この言語は Parsing Expression Grammar (PEG) では生成できる。PEG は文脈自由文法と扱える範囲の文法が異なり文脈自由文法を全て扱えるわけではないがプログラミング言語に適した新たな定式化のひとつである。文脈自由文法 "G" は次の 4-タプル で表される。formula_7 のメンバーを文法の規則と呼ぶ。任意の formula_12 について formula_13 となるような生成写像 formula_14 が存在する。順序対 formula_15 を formula_16 のプロダクションと呼び一般に formula_17 のように表記する。任意の formula_18 についてformula_19 が formula_20 を生成することを formula_21 で表す。ただしformula_22 かつ formula_23 で formula_24 が成り立たねばならない。任意の formula_18 について、formula_26であるとは、formula_28 となるような formula_29 が成り立つ場合である。文法 formula_2 の言語は次の集合で表される。言語 formula_31 は、formula_32 となるような文脈自由文法 formula_16 が存在するとき、文脈自由言語であるという。ここで | はを意味し は空の文字列を意味する。この文法によって生成される言語は以下のようになる。これは正規言語ではない例でもある。また、は文脈自由文法の表現に必ずしも必須ではない。次の2つの規則でも、上の例と同様の言語を定義している。次は三種類の変数 x, y, z を使った文法的に正しい四則演算の数式を生成する文脈自由文法である。ここで演算子は中置としている。この文法に従うと、例えば " * x - z * y / " といった式が生成可能である。この文法は、構造が異なる構文木から同じ文字列が生成されうるという意味で曖昧である。文字セット {ab} について異なる個数の a と b から構成される全ての文字列を生成する文脈自由文法は以下のようになる。ここで、T に関する生成規則は a と b が同数の文字列を生成するが、U は a の方が必ず多くなる文字列を生成し、V は b の方が必ず多くなる文字列を生成する。次の例は formula_35 である。これは正規言語ではなく文脈自由言語である。以下の生成規則で生成される。文脈自由文法は数学的な「形式的」言語だけで利用されるわけではない。例えば、タミル語の詩である Venpa は文脈自由文法で定式化できることが指摘されている。ある文法において、開始記号からある文字列が導出される過程を記述する方法は二種類存在する。単純な方法は導出過程の途中の文字列を全て書き出していく方法である。つまり開始記号から始めて、生成規則を一回適用する度に文字列を書き出して、最後に目的の文字列になるまで列挙するのである。例えばと呼ぶ。例えば、以下の文法があるとする。文字列「1 + 1 + a」を導出する過程は [ (1) (1) (2) (2) (3) ] というリストになる。同様に「右端導出」も定義できる。この例の場合右端導出での導出過程は [ (1) (3) (1) (2) (2)] というリストになる。左端導出と右端導出のリストが異なるのは重要なポイントである。構文解析では文法規則毎にそれを入力文字列に適用する小さなプログラムが存在する。したがって構文解析が左端導出を行うのか右端導出を行うのかによってそれらのプログラムを適用する順番が変わってくるのである。導出過程は導出される文字列上にある種の階層構造を描くことでも表される。例として左端導出によるに対する階層構造を見てみよう。導出過程は以下のようになる。ここで { ... }S は S から導出された部分文字列を意味している。これに対応する階層構造は以下のような木構造になる。この木構造をその文字列のと呼ぶ。この場合、上述の左端導出も右端導出も同じ構文木になるが、左端導出には以下のような別の導出過程が存在する。これによって定義される構文木は以下のようになる。 +この文法のように、ある文字列を導出する構文木が複数考えられる文法をと呼ぶ。このような文法の構文解析は、生成規則の適用順序を毎回決定しなければならないため難しい。空の文字列を生成しない文脈自由文法は等価なチョムスキー標準形かグライバッハ標準形に変換できる。ここでいうとは同じ言語を生成するという意味である。チョムスキー標準形文法は生成規則が単純なので、この標準形は理論的にも実用上も密接な関係がある。例えば、ある文脈自由文法についてチョムスキー標準形を使うことで多項式時間のアルゴリズムで入力された文字列がその文法で生成されるものか否かを判定できる。文脈自由文法は能力が制限されているため、その操作の一部は決定可能であるが、同時に決定不能な問題もある。最も単純で分かり易い決定不能問題の1つとして、CFG が言語の全文字列を受容するかどうかという問題がある。還元によって、この問題がチューリングマシンの停止問題と同じであることが示される。その還元には、チューリングマシンのあらゆる計算過程を示すと呼ばれる概念を用いる。あるチューリングマシンがある入力を与えられたとき、それを受容しない計算履歴の文字列を生成するCFGを構築でき、そうすると、そのCFGはマシンが入力を受容しないときだけ文字列を受容する。これを応用すると2つのCFGが同じ言語を記述しているかどうかも判定不能である。なぜなら言語の全文字列を受理する自明なCFGとの等価性を判定できないためである。また文脈依存文法が文脈自由言語を表しているかどうかも決定不能な問題である。文脈自由文法の形式性の拡張として非終端記号に引数を持たせ規則内で値を渡すということが考えられる。これにより自然言語の一致や参照といった機能を表現可能となりプログラミング言語での識別子の定義や正しい用法を自然な形で表現可能となる。例えば英語の文で主語と動詞が数において合致しなければならないということを容易に表現できる。計算機科学ではこのようなアプローチの例として接辞文法属性文法Van Wijngaarden の two-level grammar などがある。同様の拡張は言語学にもある。別の拡張として規則の左辺に追加の記号を書けるようにする手法がある。これは文脈依存文法に他ならない。ノームチョムスキー自身は生成文法を追加することで文脈自由文法の制限を克服したいと考えていた。そのような規則も言語学によく見られる。例えば、英語における受動態化である。しかし、それらは強力すぎるため(チューリング完全)、変換の適用は制限される必要がある。生成文法の大部分は、句構造文法と変換規則の記述機構を改善し、自然言語が表現できることを正確に表せるようにすることを目的としている。彼は自然言語が文脈自由でないと考えていたが、彼がCFGでは不十分であることを示す証拠として挙げた事例は、後に間違いであることが証明された。Gerald Gazdar と Geoffrey Pullum は、一部に文脈自由的でない構造があるものの、自然言語の大部分は文脈自由であると指摘している。文脈自由でない部分とは、例えば、スイスドイツ語の cross-serial dependencies や、バンバラ語の畳語である。 +フランス語(フランスご、 )は、インド・ヨーロッパ語族のイタリック語派に属する言語。ロマンス諸語の一つで、ラテン語の口語(俗ラテン語)から変化したフランス北部のオイル語(またはウィ語、)が母体と言われている。日本語では、仏蘭西語、略して仏語とも書く。フランス語という呼び方は、多くの言語(オック語、アルピタン語など)が存在するフランスにおいて誤解を招く可能性もあるので、単にオイル語と呼んでフランスの他の言語と区別することもある。世界で英語(約80の国・地域)に次ぐ2番目に多くの国・地域で使用されている言語で、フランス、スイス、ベルギー、カナダのほか、かつてフランスやベルギーの領域だった諸国を中心に29ヶ国で公用語になって���る(フランス語圏を参照)。全世界で1億2300万人が主要言語として使用し、総話者数は2億人以上である。国際連合、欧州連合などの公用語の一つにも選ばれている。このフランス語の話者を、フランコフォン(、)と言う。記号が二つ並んでいるものは右が有声音左が無声音。記号が二つ並んでいるものは、右が円唇、左が非円唇。鼻母音四つを含んだ句の例として « » (おいしい白ワイン)が有名である。フランス語において基本的にc,r,f,lを除く語尾の子音と母音のeは発音されない。フランス語の表記は初学者には複雑に感じられるが、規則性は比較的高い。英語や日本語のローマ字表記とはかなり異なるため、フランス語を知らなければ正しく読むことはできないが、規則を覚えれば容易に発音できる。たとえば は常に と発音する。しかし は ではなく であるなど、イタリア語やスペイン語などほかのロマンス諸語に比べると例外が多い。やなど文脈によって発音が変わる単語もある。また、 がすべて になるなど、しばしば異なる綴りが同じ発音を示すため、同音異字語が多い。たとえば (ワイン)と (20)はともに であり、また形容詞 (青、男性形単数) とその変化形の (男性形複数)、(女性形単数)、(女性形複数)はすべて である。このため、発音を聞いて書き分けるのは比較的難しい。ネイティブでさえも正しく書けない人がいるほどで、フランスでは問題視されている。そういった難しさもあり、日本で行われている実用フランス語技能検定試験(DAPF)の準2級以降の級では書き取り試験が行われ、CDで流れる文章を、文脈をしっかりと把握した上で、動詞の活用はもとより性と数の一致に気をつけながら、正しく書く能力が試される。書き取り試験ではあるが文法知識も試され、実際のところこの書き取り問題で点を落とす受験者が非常に多いことから、いかにフランス語を正しく書くのが難しいかがうかがえる。アルファベットのことを、フランス語ではアルファベと言う。セディーユトレマアクサンテギュおよび e につくアクサングラーヴとアクサンシルコンフレクスは発音を変える記号である。一方e 以外の母音につくアクサングラーヴとアクサンシルコンフレクスは発音を変化させない。※アクサンのつくところを強く読むわけではない。は o と e の合字である。この組み合わせが単母音で発音される語では、o と e は必ずこのようにつなげて書く。通常は u で を表す。は a と e の合字であり、少数のラテン語からの借用語で使う。フランス語では引用符の前にはスペースを入れ引用符の後と前にもやはりスペースを入れる。20進法と10進法の組み合わせである。かなり複雑だが、これはフランスでの例であり、ベルギーやスイスでは70を、90を、さらにスイスでは80をで表し、比較的10進法に近い。フランス南部で用いられるオック語をフランス語方言とすることもあるが、言語学的には通常別系統の言語として扱う。紀元前58年から紀元前51年にかけて共和政ローマのガイウスユリウスカエサルがガリア戦争を行い現在のフランスの領域のほぼ全域をローマ領としたことがこの地域にフランス語の祖語であるラテン語が本格的に導入されるきっかけとなった。ガリア戦争以前にはこの地域ではおもにケルト語系のゴール語が用いられていたがローマの支配が定着するにつれてラテン語が優勢となっていきガロロマンス語と呼ばれるラテン語の方言群が成立した。この言語は基本的にラテン語の影響が強くその一方言と呼べる存在であったがケルト語からいくつかの音韻的な影響を受けたものだった。その後ローマ帝国の崩壊とともにフランク王国がこの地域を支配すると彼らの言語であったゲルマン系の古フランク語が持ち込まれその影響を受けてこの地域のラテン語は大きく変容し9世紀ごろにはラテン語から完全に分離した古フランス語が成立した。その後14世紀ごろには中世フランス語へと変化し17世紀にはアカデミーフランセーズによってフランス語の純化整備が行われて現代フランス語が成立した。フランス語の統制機関としてはアカデミーフランセーズが挙げられる。これは1635年に宰相リシュリューによって創設された国家機関でフランス語の語���を整備して誰にでも理解できる言語とすることを目指しそのためにフランス語の辞書を編纂することを目的としていた。このは1694年に初版が発行されたのち現代に至るまで編纂発行が続けられている。もっとも新しい辞典は1992年に編纂されたものである。こうした言語の統制機関が国家によって創設されることは当時稀でありこれはそのままフランス語に対するフランス国家の強い影響力をもたらす根源となった。また、フランス語の現状に関する勧告を出すことも任務のひとつであり、強制力こそないものの、この勧告はフランス語に強い影響力を持つ。アカデミー・フランセーズは、フランス学士院を構成する5つのアカデミーの中で、もっとも古く地位の高いアカデミーである。アカデミー・フランセーズは終身任期を持つ40人の定員で構成され、欠員が生じた場合のみ補充が行われる。このメンバーは、フランス語話者の構成およびアカデミー自体が、フランス政府の国家機関として成立・存続してきたフランスの歴史を反映して、フランス国民が圧倒的に多いが、その他の国民であっても、ふさわしいと認められれば会員となることができる。たとえば1983年に会員となったレオポールセダールサンゴールは20年にわたってセネガル共和国の大統領を務めた人物であるがフランス語詩人としても非常に高名な存在でありまたフランス語圏の融和をはかる国際機関であるフランコフォニー国際機関の設立を主導したことなどから会員となることを認められた。フランス語を母語話者とする人々が多数派を占めるのはフランス一国のみである。ただしいくつかの国においてはフランス語の母語話者が大きな勢力を持っている。またフランス国内において本来フランス語を母語とする地域は北フランスに限られており南フランスの広い地域で話されるオック語を筆頭にブルターニュ半島で話されるケルト語系のブルトン語やアルザスで話されるドイツ語系のアルザス語コルシカ島で話されるイタリア語系のコルシカ語など系統の異なるいくつかの地方言語が存在する。ただしフランス政府はもっとも早く言語を政府の手で構築してきた国家でありフランス革命後は一貫してフランス語をフランスにおける唯一の言語であると規定してきた。こうしたことから教育をはじめとして国家による強力なフランス語普及政策がとられ上記の各言語地域においても現代ではほとんどフランス語が話されるようになってきている。ただし19世紀後半までオック語復権運動などが行われてきており現在はこの状況には地方言語の保護の観点から批判が根強い。フランス以外でもっともフランス語の母語話者の割合が大きい国家はベルギーであり、フランス語話者でありベルギー南部に居住するワロン人が人口の31%を占めている。ベルギーにおいては、北部に住みオランダ語の方言を話すフランドル人が人口の60%を占めており、ワロン人との間には言語戦争と呼ばれる深刻な言語の対立状況が存在する。この対立を背景にしてベルギーは南北の連邦国家となっており、南部のワロン地域の大部分はフランス語共同体を形成している。また、首都のブリュッセルは言語境界線の北側にあるもののフランス語話者の人口が8割を占めており、ブリュッセル首都圏地域として2言語併用の独自地域となっている。ついでフランス語話者の割合が高い国家はスイスである。スイス人のうちフランス語の母語話者は20.38%を占め、64%を占めるドイツ語話者に次ぐ勢力を持っている。スイスのフランス語話者は国土の西部に集中しており、ジュネーヴ州、ヴォー州、ヌーシャテル州、ジュラ州の4つのカントンがフランス語話者が多数を占める州としてフランス語を公用語としている。また、言語境界線の両側にまたがるフリブール州およびヴァレー州は、フランス語とドイツ語の両言語を公用語としている。スイスは多言語主義をとる国家であり、連邦の公用語はドイツ語、フランス語、イタリア語の3言語、それに国語としてロマンシュ語を加えた4つの言語を採用している。ヨーロッパ大陸においてフランス語の母語話者が大きな勢力を持つのはこの3か国である。このほかフランス語の母語話者が大勢力を持つ国としてはカ��ダがある。フランス語の母語話者はカナダ総人口の22%を占め無視できない勢力を持っている。特にフランス語話者が集中しているのは東部のケベック州であり連邦においては英語とフランス語がともに公用語とされているもののケベック州の公用語はフランス語のみとなっており積極的な保護政策がとられている。この言語対立を背景にしばしば独立運動が繰り広げられる。フランス語の母語話者が大きな勢力を持つのは上記地域に限られるが、そのほかの地域においてもかつてフランスが広大なフランス植民地帝国を持っていた関係で、旧植民地においてフランス語を公用語とする国々は数多く、29か国において公用語の地位を占めている。もっともフランス語が公用語化されている地域はアフリカであり、旧フランス領地域においては、セネガル、ギニア、マリ、コートジボワール、ブルキナファソ、トーゴ、ベナン、ニジェール、チャド、中央アフリカ、カメルーン、ガボン、コンゴ共和国、コモロ、マダガスカル、ジブチにおいてフランス語は公用語となっている。旧フランス領のほか、同じくフランス語を公用語とするベルギーの植民地であったコンゴ民主共和国およびブルンジもフランス語を公用語とする。一方、旧フランス領においても北アフリカに属するモーリタニア、モロッコ、アルジェリア、チュニジアにおいてはフランス語は公用語となっていない。これは、これらの国々の人口の大部分を占めるアラブ人の母語であるアラビア語も大言語であり公用語化に耐えうる言語であったため、独立後急速にアラビア語への公用語の切り替えが行われたためである。ただしこれらの国々においても、特にエリート層はフランス語を自由に使いこなせる者が多く、準公用語や文化言語として広く国内で通用する。特にアルジェリアでは、1,200万人前後がフランス語を常用する。また、旧ベルギー領であるルワンダは長らくフランス語を公用語としていたものの、ルワンダ虐殺の発生後フランスとの関係が急速に悪化し、2009年に英語を公用語に追加して以降、教育言語を英語に変更するなど急速に英語の公用語化を進めている。また、セーシェルやモーリシャスはナポレオン戦争以後イギリス領となっていたものの、それ以前はフランス領であり、その時代に入植した人々がその後も残留したため、社会の指導層はフランス語話者が占めており、両国とも共通語はフランス語となっている。また、国内でもっとも通用する言語も それぞれフランス語系のクレオール言語であるセーシェル・クレオール語とモーリシャス・クレオール語である。このほか、フランスの海外県であるマヨットおよびレユニオンもフランス語を公用語としており、レユニオンは日常語もフランス語系のクレオール言語であるレユニオン・クレオール語となっている。新大陸においては上記のカナダ以外にはハイチが唯一フランス語を公用語とする国家である。またハイチにおいては一般市民の日常語もフランス語系のクレオール言語であるハイチ語となっている。また公用語ではないが旧フランス領であるルイジアナ州の南西部を中心にケイジャンフランス語と呼ばれるフランス語の一派を話す人々が存在する。小アンティル諸島に点在するグアドループやマルティニークサンマルタンサンバルテルミー島および南アメリカ大陸のフランス領ギアナもフランス語を公用語とする。オセアニアにおいては、かつてイギリスとフランスの共同統治領であったバヌアツがフランス語を公用語のひとつとしている。また、フランスの海外領であるニューカレドニアおよびフランス領ポリネシア、ウォリス・フツナもフランス語を公用語としている。アジアにおいては旧フランス領であるベトナム、ラオス、カンボジアの3国において公用語が現地語化されてフランス語がほぼ通用しなくなっているが、わずかにレバノンにおいてはやや通用し、準公用語的な扱いを受けている。こうしたフランス語話者の言語共同体はフランコフォニーと呼ばれ1970年にフランコフォニー国際機関が設立され1986年には加盟国首脳の参加するフランコフォニーサミットが2年に一度開催されるようになるなどフランス語圏諸国の協調が図られている。ただしフランコフォニー国際機関にはエジプトやギリシャルーマニアなどのように国内にほとんどフランス語話者の存在しない国家も加盟しており逆にフランス語話者の多いアルジェリアが参加していないなどフランコフォニー国際機関加盟国がフランス語圏とは必ずしも言えない。国際機関などにおけるフランス語.フランス語は17世紀から19世紀までヨーロッパでもっとも有力な国際共通語であり、外交官用語として使われてきたため、国際機関において公用語となっていることが多い。具体例としては、以下の国際機関は、フランス語を公用語とする。国際連合、欧州評議会 。これらの機関において多くの場合フランス語は唯一の公用語ではなく英語などほかの言語と併用されている。しかしながら19世紀から20世紀初頭においては国際共通語としての地位を持っていたことからこの時期に創設された国際機関である万国郵便連合や国際電気通信連合国際オリンピック委員会や国際サッカー連盟においてフランス語は第一言語となっており英語よりも地位が高くなっている。国際連合においては、英語とフランス語はと定義されており、その他の国連公用語より位置づけが高い。また戦前には大日本帝国の日本国旅券においても、英語とともにフランス語が併記されていた。公式名称がフランス語である世界的に著名な国際競技団体も多い。FIFAワールドカップを開催している国際サッカー連盟、ツール・ド・フランスなどのUCIワールドツアーを開催している国際自転車競技連合などである。 +イタリア語はインドヨーロッパ語族イタリック語派に属する言語の1つでおおよそ6千万人ほどが日常的に使用しておりそのほとんどがイタリアに住んでいる。後置修飾で基本語順はSVO。イタリアは漢字でを略記し伊語と称される。イタリア語はイタリア、サンマリノ共和国で公用語として定められている。スイスではティチーノ州全域とグラウビュンデン州の一部がイタリア語圏であり、スイス全体としても公用語になっている。またスロベニアのイストリアとクロアチアには少数のイタリア語話者住民がいる。フランスのコルシカ島ではイタリア語の方言であるコルシカ語が使用されている。バチカン市国では公用語であるラテン語の他にイタリア語が一般の業務用語として使用される。またその昔はクラシック音楽の楽譜に書き込む楽語はイタリア語が公用語として長く守られてきており後の時代に作曲家がそれぞれの母語をも混合して楽譜に盛り込むようになってからも基本的な伝統的楽語はイタリア語によって書き記されている。イタリア語の方言は大きく北部方言中南部方言に大別できラスペツィア=リミニ線が等語線となっている。そこから更に北西部北中部方言北東部方言中部方言南部方言周辺島嶼の方言に分けられる。イタリアは西ローマ帝国滅亡以降政治的分裂が長らく続いたため各地域毎の方言差が大きくなったとされる。これは同じく長年にわたって領邦国家時代が続いたドイツが多数の方言と地方言語を抱えている状況と似ている。イタリア本国の国語教育および他国のイタリア語教育の場において盛んに用いられている標準イタリア語はそうした各地の方言の中で最も周辺国の言語(フランス語やスペイン語などイタリア地方と歴史的に縁深い国の言葉)の影響を受けていない中央イタリアのトスカーナ方言にナポリ方言シチリア方言の語彙を取り入れたもので統一後の標準語政策によって盛んに広められた(詳しくは"方言#イタリアの方言政策"を参照)。そのため現在イタリア国民のほとんどは標準イタリア語の話者となっている。しかし一方でローカリズム運動の高まりもあって方言の中でも独自性の強いものについては独立した地位を与え保護すべきかどうかの議論が進められている。具体的にはシチリア語ナポリ語ヴェネト語ガロイタリア語などが例に挙げられ高齢層を中心にイタリア国民の4割が標準イタリア語と共にそうした地域独自の言語を理解できるという。都市部などでは現地化した標準イタリア語に取って代わられている。各方言を言語とすべきとする論者の中でも十数個の細かい言語へ分類するのかあるいはある程度まとまりのある規模���定の共通点を持つことについての異論はなくという表現をする地域主義者も存在する。各方言の特徴は中世以降の歴史的経緯もさることながら、ラテン人によるイタリア統一前に居住していた他の古代イタリア人やギリシャ人植民者の用いた言葉の影響も存在しており、これらは俗ラテン語時代を通じて現在に残っている。アルファベート(alfabeto)と呼ばれるラテン文字アルファベットの26文字を使用する。この内母音字のAEIOUにはアクセント符号を付ける場合があるが辞書上ではアクセント符号を付けない文字と同じ文字として扱う。K J X Yは人名や地名方言外来語で使用する。Wは古来の文字ではないので英語やドイツ語からなどの外来語で使用する。このため通常使用文字は21文字ともいえる。読み方は1文字だけ強調する場合はAを「アー」の様に伸ばすことも多い。イタリア語で良く使う文字の読み方は規則的だがX以外のあまり使われない文字の読み方は長く1つに確定していない。電話などでの綴り伝達法ではイタリアの都市の名を使いのように使用するが、Hは1文字目がHの都市名が無いため外来語のhotelを使用している。K, J, Yは外来語の一般名詞、W, Xは固有名詞を使う。辞書での単語の順は26文字を表の順に並べる。母音字のアクセント符号の有無は順に影響しない。大文字は、文章において文の先頭や固有名詞の先頭の1文字に使用する。代名詞などの敬称の先頭文字も大文字とする。碑文見出し本の題名漫画のふきだし手紙落書きなどにおいては文全体が大文字で書かれることもある。最近の文字の使用方法では携帯電話のメッセージや電子メールなどで文字数を少なくする用途でとなる。15世紀のイタリア詩人のジャンジョルジョトリッシーノはイタリア語の音素をより完璧に識別するための独自の正字法を提案したことがあるがこれは普及しなかった。イタリア語の音節は、1個以上の子音と母音の組み合わせからなる。発音に対する綴りは、子音と母音が一対一の場合は日本語のローマ字綴りに近い。また以下に示すように発音が規則的であり、同じ綴りで発音が違うといったケースが非常に少ない。子音 (consonante).以下は子音+母音の代表的なものと、日本語の発音との対応表である。日本語での発音は近いものを選んでいる。e と o についてはそれぞれ広狭の違いは割愛した。イタリア語のアクセントは強弱アクセントである。イタリア語にはラテン語と同様の二重子音があるが他のロマンス語であるフランス語やスペイン語のそれとは異なっている。この違いから他のロマンス語と比べて特有のアクセントがある。ラテン語で「子音 + codice_1 + 母音」であった音は、イタリア語では codice_1 が codice_3 に変化しているものが多い。接頭辞 re- が ri- になっているものが見られる。破裂音 + s, または異なる破裂音が連続する場合は後ろの音に同化し、長子音となる(actum→atto など)。また開音節で強勢を持つ短い o の多くがuoに変化している (bonus→buono)。文法、統語法についてはイタリア語の文法を参照。<動詞は括弧内に現在一人称単数をあげる>古代のイタリア半島においては複数の古代イタリア人とも言うべき部族が存在し、それぞれが異なる言語を用いていた。その後、古代イタリア人の一派であるラテン人の国家ローマによるイタリア統一によって、彼らの言葉であるラテン語がイタリア人の公用語として普及した。ラテン語はローマの力が西欧や地中海沿岸部に広がるにつれて更に拡大したが、公式の場で用いられるラテン語と民衆の話し言葉としてのラテン語、いわゆる民衆ラテン語には若干の差異が存在したと言われている。ローマ帝国の分裂は各地の民衆ラテン語の方言化を招きイタリアにおいてもと呼べる言葉が成立した。イタリアにおける民衆ラテン語の方言は時間と共に変化の度合いを深めいつしか他地域の民衆ラテン語とは明らかに異なる言語と言えるほどの変化を得た。民衆ラテン語から古イタリア語への変化がいつごろ生じたかを正確に判断することは難しくまたどのようなものであったかについての検証も当時の欧州諸国が公用語としてラテン語を用いていたことにより文書による記録が少ないため容易ではない。しかし少なくとも10世紀頃には���に成立していたと考えられている。イタリア語は近世のイタリア・ルネサンスにおいて、イタリア人共通の言語を形成しようとする文化人の運動の中で形成された。とりわけその主導権を握ったのはトスカーナ出身の詩人ダンテ・アリギエーリで、彼は当時古典ラテン語で書くのが一般的であった文学作品を、中央イタリア語のトスカーナ方言に南部のナポリ語・シチリア語の語彙を取り入れた言葉で執筆した。この言葉が現在のイタリア語と呼ばれる言語であるが、ダンテの作品が大きな文学的賞賛を得ながら、トスカーナ方言を中核にしたこの言葉が直ちに全土の公用語となることはなく、ダンテの死後からしばらくは死語になりかけすらした。だがバルダッサーレ・カスティリオーネらを中心とする文学者グループが再び共通語・標準語作りを呼び掛ける際、ダンテの事績を大いにたたえたことで標準語を求める動きは再加熱し、同時にダンテのも脚光を浴びた。しかしここでイタリアの文学者達に大論争が巻き起こる。カスティリオーネのグループはダンテの名声を政治的に利用しつつイタリアの様々な言語のグループが独立イタリア中を巻き込む一大論争に発展した。最終的にこの論争は後者の勝利となりカスティリオーネは退けられダンテの作ったとしてのイタリア語が地位を得た。この言語は文学者や詩人たちの手でそれまで欧州全体の公用語であったラテン語に変わる形で用いられその公的地位を向上させた。こうしたルネサンス期のイタリア語文化は後のリソルジメントにおいて民衆の統一を望む動きの原動力として影響力を発揮することとなる。統一当初正式な標準イタリア語(「文学的なトスカーナ方言」という表現もある)は貴族や学者など上流階級のみで話されており民衆は中部イタリア語系の俗語方言か系統の違うナポリ語などを話していた。イタリア政府は国民意識の更なる向上のためフランスの政策を参考に方言の廃止と標準語の浸透を国家政策として進めた。現在イタリア国民のほとんどがこの標準イタリア語を理解できる。しかし言語の統一は民族主義的な思想へと繋がり第一次世界大戦においては「イタリア語の響きが聞こえる全ての土地」をイタリア民族の下に統一しようとする民族思想(イリデンティズム)が盛んになる。ラテン語から最も近いトスカーナ方言をベースにしたイタリア語(ラテン語との同一性は75%に達する)の響きを持つということは全てのラテン語圏を指すのと同義でありこれが二度の世界大戦への参加を促す結果を生み出してしまった。各地を旅して興行が行われたオペラやコンメディアデッラルテもイタリア語の普及に貢献した。イタリア語と日本語の関係は、ほとんど名詞を借用する程度の範囲にとどまっている。ただ、近年の日本語において形容詞の最上級のようなイタリア語の派生語作成法が取り入れられる現象も存在する。イタリア語から日本語.イタリア語から日本語に取り入れられた語は、階名のドレミや演奏記号などの音楽用語が多い。イタリア料理の流行に伴い、スパゲッティやティラ・ミ・スなどの語も一般的である。また自動車の名前には古くから近年には建物名やファッション等にイタリア語の単語が使用されている。イタリアでサッカーが盛んであることから、日本のサッカークラブではイタリア語の単語もしくはそれをもじった造語をクラブ名の一部として使用することが多い。イタリア語から日本語の外来語に転じた語。ただし音楽食べ物の単語は除く。日本語からイタリア語.イタリア語における外来語は徐々にイタリア語風の綴りになる傾向があり日本語からの外来語も例外ではない。括弧内は語源イタリア語の日本語表記時の表記の揺れ.イタリア語の日本語表記を参照。日本における検定試験としては、イタリア語検定協会が実施している、年に二回行われている実用イタリア語検定がある。なお、イタリアの大学、高等教育機関入学資格取得を目指す外国人は、イタリア外務省より国際的な公式資格として認定されているCLIQ のペルージャ外国人大学、シエーナ外国人大学、ローマ第三大学、ダンテ・アリギエーリ協会、これらの一つの組織による検定試験が必要となる。CLIQ とは外��語として学習するイタリア語を検定するための統一基準である。CLIQ委員会はイタリア外務省と協定を結び下記の組織から構成されている。この基準は、EUが定める言語統一基準に適するものである。ペルージャ外国人大学のCELIとシエナ外国人大学のCILSはイタリア文化会館 を通じて受験でき年に2回主催されている。またダンテアリギエーリ協会(Societ Dante Alighieri) 主催のダンテアリギエーリ協会イタリア語検定も年に2回(5月と11月)行われている。過去の問題集はダンテアリギエーリ協会本部のホームページから閲覧できる。 +スペイン語はインドヨーロッパ語族イタリック語派に属する言語。俗ラテン語から発展して形成されたロマンス諸語の一つ。略して西語とも書く。スペイン語は、アメリカ州のうちイスパノアメリカ、スペイン、その他の旧スペイン植民地などの地域における主要言語で、スペイン語を第一言語とするものが約4億8023万人さらに第二言語として日常使用しているものを含め約5億7700万人の話者がいると推定されている。スペイン語を公用語としている国と地域の数は21以上あり、世界で英語日本では一般的にスペイン語と呼ばれることが多いがイスパニア語カスティージャ語カスティーリャ語などと呼ばれることもある。日本におけるスペイン語の漢字表記はという意味で用いられる。スペイン語はポルトガル語と似ておりかなりの水準で相互意思疎通が可能である。スペイン語は、ローマ帝国の公用語であったラテン語の口語である俗ラテン語を元に、アラビア語などの影響を受けながら発達した言語である。8世紀に北アフリカからイスラム教徒がイベリア半島に侵入し、その後、キリスト教徒によるレコンキスタが起こるが、この時期に俗ラテン語がロマンス諸語に変化した。このロマンス諸語が後に、ポルトガル語、スペイン語、イタリア語、フランス語、ルーマニア語などに分かれていく。イベリア半島では、アラビア語の影響なども受けながらイベリア系ロマンス語が発達し、カスティーリャ、レオン、ポルトガル、そしてイスラム系タイファ王国などで使用されていた(タイファ王国ではアラビア語のアンダルス方言も広く使用され、その影響を強く受けたロマンス語をモサラベ語と呼ぶ)。やがてレコンキスタの過程でカスティーリャ王国はその中心的勢力となり、スペイン王国の誕生後は事実上統一スペイン国家の国家語となった。このため、現在でもスペイン語のことをカステリャーノ () と呼ぶ人は多く存在する。この歴史的経緯により、文法などはラテン語の規則を多く受け継いでいるが、単語はアラビア語から借用したものも多く使われている。スペイン語の中のアラビア語起源の単語は主に、を通じた借用がある。またイベリアのムスリムの間ではスペイン語もアラビア文字で表記されることが少なくなかった。イベリア半島のムスリムはベルベル人が多かったため、ベルベル語の影響も存在している。なお、同じイベリア半島で話されている言語であるバスク語はローマ帝国やケルト人の進出以前から半島で使われていた言語と思われ、スペイン語とは大きく異なる。しかし、スペイン語はバスク語の影響も受けている。スペイン語は国連の6つの公用語の一つであり、スペインを始め、ブラジルを除く中南米18か国、北米1か国、アフリカ2か国、計21か国における公用語である。スペイン語が公用語である国・地域は以下の通り。なおスペインではカタルーニャ州バレンシア州バレアレス諸島州ではカタルーニャ語(バレンシア州ではヴァレンシア語)がバスク州とナバーラ州の一部ではバスク語がガリシア州ではガリシア語がスペイン語同様に地方公用語として認められている。南北アメリカ大陸では、メキシコ以南の21の国・地域のうち16か国がスペイン語を公用語としており、先住民族を含め、人口の大半がスペイン語を話す。加えて、英語を唯一の公用語とするベリーズにおいても最も話されている言語はスペイン語である。カリブ海地域でスペイン語を公用語としているのはキューバ、ドミニカ共和国、プエルトリコだが、人口では過半数を占める。これら、メキシコ以南のスペイン語圏と、ポルトガル語を公用語とするブラジル、場合によってはハイチなどのフランス語圏の国・地域を総称してラテンアメリカと呼ぶ。また、米国ではかつて南西部一帯がメキシコ領であった関係でスペイン語の地名が各地に残っており、ニューメキシコ州ではスペイン語が事実上の公用語となっている。中南米のスペイン語圏諸国をルーツに持つ米国人はと呼ばれ、メキシコ領時代から存在していたものの、近年急速にヒスパニック移民が増加した。その結果、米国では事実上の公用語の英語に加え、ヒスパニックの割合の高いカリフォルニア州やフロリダ州、テキサス州などではスペイン語が第二言語となりつつある。この状況を受けて、英語が母語の米国人の中でもスペイン語を学ぶ人が急増している。フィリピンは1898年までスペイン領であった関係もあり特に上流階級の間でスペイン語が使われていたが1986年に公用語から外された。とはいえ現在でも主にカトリック文化などの関係でスペイン語の単語が多数フィリピン人の日常生活で使われているだけでなくタガログ語などでスペイン語からの借用語が多くみられるほかチャバカノ語のようにスペイン語を基にしたクレオール言語も見られる。マリアナ諸島のチャモロ語は、スペインによる征服時に言語的にもスペイン語に圧倒された。スペイン語から非常に多くの借用語を取り入れたのみならず、固有の数詞も放棄し、スペイン語由来の数詞を用いている。旧スペイン植民地の西サハラやスペインに近いモロッコでも話されている。スペイン語話者数の推定.セルバンテス文化センターの2017年の報告書 ”El espaol una lengua viva informe 2017” によると2017年のスペイン語を母語とする人口は約4億7700万人でその他に約1億人が第2言語としてスペイン語を習得しておりそれらの限られた能力のものを含めると約5億7200万人のスペイン語話者がいる。最大の話者人口を抱えているのがメキシコであり総話者の4人に1人約1億2千万人がメキシコに在住している。続くコロンビアアルゼンチン米国スペインがそれぞれ総話者人口の約1割の約4千万人の話者がいる。米国に関しては同じセルバンテス文化センターが2015年の報告で5260万人の話者という推定を出しておりこれはメキシコに次ぐ人口である。また米国のヒスパニック人口の3分の2がメキシコ系でありそれらを含めると総話者に占めるメキシコ系話者の比率は3人に1人となる。かつてはアラゴン地方(アラゴン語)カタルーニャ地方(カタルーニャ語)バレアレス諸島(カタルーニャ語)バレンシア地方(バレンシア語)アストゥリアス地方(アストゥリアス語)レオン地方(レオン語)ガリシア地方(ガリシア語)の言語がスペイン語(カスティーリャ語)の方言とされた時期もあったが現在ではカタルーニャ語バレンシア語ガリシア語はいずれも独立した言語であると考えられておりそれぞれの地方において公用語とされている。アラゴン語アストゥリアス語レオン語もカスティーリャ語から派生した言語ではなくその他のロマンス語同様俗ラテン語が変化して今日に至っている言語であり言語学的には別の言語であるがカスティーリャ語の方言の扱いを受けることが多いのが現状である。語頭にあった f の多くは h になり、その後発音上は消滅。強勢のある e, o の多くは ie, ue に二重母音化。-ct- の多くは -ch- に変化。-ll- はフランス語の -ill-, イタリア語の -gli- に対応する。cl-, pl- の多くは ll に変化。現在の音素 は古くは , z であり、別音素だった。語頭の s + 閉鎖音は前に e が付加()され、esc-/esqu-, esp-, est- となった。母音間の d は消滅していることが多い。語頭にあるあとに母音が続く i と母音にはさまれた強勢のない i は y に変化した。y は本来半母音だったが、摩擦音で発音されるのが一般的になった。二重母音における の音は英語のそれと同じように語頭や語中では -i, 語末では -y とつづる(他のロマンス系言語の多くは y は外来語以外に用いない)。v は古くは と発音したが、b と同じ に変化し、その後、借用語において原語の v のつづりを b に置き換える傾向がある。一方、w は v に置き換えられることがある。スペインで話されているスペイン語とラテンアメリカのスペイン語では、発音、アクセントが若干異な���。それ以外にも、地方により発音などに差異が出ることがある。母音は a e i o u の5つで日本語とほぼ同じである。ただしu は標準日本語のよりも口をすぼめて発音する。長音促音は無いがアクセントのある母音はやや長めに発音されることが多いので日本語話者には長音に聞こえることがある。母音のうち a, e, o を強母音、i 、また半母音はそれぞれ 、 で表記する。弱母音 + 弱母音の場合、音節主音は後の母音である。強母音 + 強母音の連続は母音接続で、二重母音とはならず、 のように同じ強母音字が連続する場合を含め、別の音節として発音する。また、弱母音字でもアセント がある場合 は強母音として扱う。後述するように gue, gui, que, qui の u は黙字であり、二重母音の一部ではない。 のようにさらに母音字が続く場合は、黙字の u を無視したうえで、上記の規則に従う。ディエレシスがある ge, gi の e, i は二重母音である。スペイン語のアクセントは強勢アクセントである。子音字 b, ch, d, f, m, n, p, r, s, y はローマ字の日本語読みとほぼ同様の感覚で単語を読むことができる。一方、c, g, h, j, l , q, v, x, z はローマ字読みとかならずしも一致しない。子音の発音には地域差があり、ここで示したのは比較的広く用いられているものである。以下の子音の連続は二重子音となる。分節上、単子音と同様に扱う。dr, tr は二重子音であるが、dl, tl は二重子音ではない。外来語はその発音やつづりの特徴から以下のパターンが挙げられる。外来語の発音については地域や世代個人によって多少差がある。は古い外来語でよく見られるほか固有名詞。例えば Spain は または と発音する。助動詞haberの活用.助動詞haberの活用形は、過去分詞とあわせて完了時制をつくる。下記の表では、が動詞serの過去分詞形。 +宗教学は経験科学の様々な手法を用いて宗教を研究する学際的な学問である。ドイツ語圏ではと言う。もともとは神学の一部であったが独立しキリスト教の神学以外の分野を対象とするかたちで民俗宗教から新宗教まで幅広く研究する学問分野である。現在では研究手法により宗教社会学比較宗教学宗教心理学宗教人類学宗教民俗学などと分類される。特定宗教の教義の研究を行う神学教学宗学あるいは宗教哲学とは区別される。広義の宗教学ではこれらを含める場合もある。宗教学は経験科学の範囲内のみとするか形而上学的範囲を含めるかは課題である。宗教学は19世紀後半にヨーロッパにおいて成立した。欧米における経験科学の発達および植民地支配等による様々な宗教との接触が発生の背景にある。宗教学研究の初期の段階では、キリスト教と他の宗教を比較検討することにより、宗教の一般的要素、普遍的要素の追求や進化・発展過程の研究が行われた。マクス・ミュラーによるインドの宗教研究に基づいた東洋と西洋の宗教の比較や、ジェームズ・フレイザーによる古代ギリシア・古代ローマの宗教、ヨーロッパ民間信仰、原始宗教の比較研究がこれにあたる。また、社会学・心理学の発展において宗教はその研究対象となった。社会学の例として、エミール・デュルケームの『宗教生活の原初形態』や、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』があげられる。また、心理学においても、スターバックの宗教心理学や、ウィリアム・ジェームズの『宗教的経験の諸相』が19世紀末から20世紀はじめにかけて発表されている。また、文化人類学や民族学、民俗学においては、成立時より、多くの研究領域が重なっているといえる。このように宗教学は、「宗教」という研究対象に対し、様々な研究方法を用いて研究が進められている。個々の研究は宗教学の研究であると同時に社会学・心理学・文化人類学等それぞれの研究であるとも言える。音楽とは、音による芸術である。といったものまで様々な定義がある。音楽の歴史は有史以前まで遡ることが出来る。近年では人々の音楽を聴く行為を統計的に見ると、再生音楽が聴かれている割合が多くなっている(#生演奏 / 再生音楽)。広辞苑では「音による芸術」とした。4世紀古代ローマの哲学者アウグスティヌスのではと語った。に既にという表現がみられる。英語の"Music"を始めヨーロッパの多くの言語においては古代ギリシャ語の を語源とする。ムーサはミューズの名でも知られる芸術や文化を司る女神である。音楽の分類にあたって、まず注意すべきことがある。諸民族が展開してきた音楽文化や各文化の中に存在する多くの種目に対して恣意的な分類を行いレッテルをはることは、便利ではあるが、誤解を招く危険がある。というレッテル・分類用語は非常に不適切なのである。中立的な分類方法としては、などと分類する方法で、これは実際広く行われている。そして一部の国ばかりに関心を向けて取り上げておいて、他の国を無視するようでは、中立性を欠いていて、見方が偏っていることになる。そして、...と分類していることも、中立的で、なおかつ現実的なのである。上で指摘した中立的分類法の基本となる、国だけ分類する方法は一部を抜粋しただけでも以下のようなものがあることになる。上記の国別の分類に加えて、コトバンクで指摘されているように、各国名とジャンル名を組み合わせて、たとえば「○○国のポピュラーミュージック。音楽のとは音楽の様式や形式のことである。古来、音楽は多くの社会で娯楽、宗教、儀式などを通じ、生活に密接したものになっており、多くの特徴ある形式や様式を生み出してきた。音楽のジャンルは、現在聞くことの出来る音楽の様式・形式であると同時に、発生した源、歴史の手がかりとなっている。現代の音楽は様々なジャンルの複雑な合成になっていることが多い。音楽は有史以前から行われていたとされるがいつどのように始まったかは定かでない。ただそれは歌から始まったのではないかと考えられている。西洋では古代ギリシアの時代にはピタゴラスやプラトンにより音楽理論や音楽に関する哲学が始まっており古代ギリシアの音楽はギリシア悲劇や詩に伴う音楽が主であった。これが後のクラシック音楽に繋がっている。東洋では江戸時代まで総検校塙保己一らによって温故堂で講談された和学や、中国神話によると、縄の発明者の氏族が歌舞や楽器、楽譜を発明したとされる。塙保己一は、撚糸である縄や結縄の発祥を日本列島から出土する土器や房総半島飯岡の網小屋に遺る有結網に捜し求めた研究成果を群書類従に編纂した。クラシック音楽の音楽史においては、6世紀頃まで遡ることができる。まず、この頃にキリスト教の聖歌であるグレゴリオ聖歌や、多声音楽が生まれ(中世西洋音楽)、これが発展し、15世紀にはブルゴーニュ公国のフランドル地方でルネサンス音楽が確立された。16世紀には本格的な器楽音楽の発達、オペラの誕生が起こり、宮廷の音楽が栄えた(バロック音楽)。これ以前の音楽を初期音楽とよぶことが多い。その後18世紀半ばになると民衆にも音楽が広まり、古典派音楽とよばれる「形式」や「和声」に重点をおいた音楽に発展した。またこの頃から一般的に音楽が芸術として見られるようになる。19世紀には「表現」に重点を置いたロマン派音楽に移行し、各国の民謡などを取り入れた国民楽派も生まれる。20世紀頃には「気分」や「雰囲気」で表現する印象主義音楽や、和声および調の規制をなくした音楽などの近代音楽が生まれ、さらに第二次世界大戦後は現代音楽とよばれる自由な音楽に発展した。ポピュラー音楽の歴史は17世紀頃アメリカへの移民まで遡る。本格的に移民が行われるようになると白人によるミュージカルのような劇場音楽が盛んになった。またアフリカからの黒人により霊歌が現れ1970年代にはヒップホップの動きが現れた。...など。基本的に各ジャンルの記事の中に歴史の節がありそこで説明。日本では、縄文時代からすでに音楽が始まっていたが、5世紀から8世紀にかけて朝鮮半島・中国から音楽を取り入れたことからさまざまなジャンルの音楽が始まった。まず、平安時代に遣唐使を廃止して国風文化が栄えていた頃、外来音楽を組み込んだ雅楽が成立し、宮廷音楽が盛んになった。その後鎌倉時代・室町時代には日本固有の猿楽が始まり、能・狂言に発展した。江戸時代でも日本固有の音楽が発達し、俗楽に発展した。明治時代以降は音楽においても西洋化、大衆化が進み、西洋音楽の歌曲やピアノ曲が作曲された。昭和時代には歌謡曲や流行歌などの昭和時代のポピュラー音楽が始まり、戦後はアメリカのポピュラー音楽や現代音楽が取り入れられ、演歌やJ-POPに発展した。...など。基本的にはの節で解説されている。上記の要素に関連していわゆる西洋音楽の世界では一般に音楽はリズムメロディーハーモニーの三要素からなると考えられている。ただし実際の楽曲ではそれぞれが密接に結びついているので一つだけを明確に取り出せるわけではない。また音楽であるために三要素が絶対必要という意味ではない。たとえば西洋音楽以外ではハーモニーは存在しないか希薄であることが多いし逆に一部の要素が西洋音楽の常識ではありえないほど高度な進化を遂げた音楽も存在する。このようにこれら三要素の考え方は決して完全とは言えないが音楽を理解したり習得しようとする時に実際に用いられ効果をあげている。音楽行為に関しては、現代では一般的にが基本として考えられている。作曲とは、作曲者の心に感じた事を音によって表現することである。演奏とは、再現芸術ともよばれ、作曲された音楽を実際に音として表現する行為であり、原曲を変え。鑑賞とは音楽を聴いてそれを味わったり、価値を見極めたりすることである。作曲とは曲を作ることあるいは音楽の次第を考案することである。具体的には楽譜を作成してゆくということもあれば即興演奏という方法で楽譜制作は抜いて作曲をすると同時に演奏をしてゆくということもある。演奏とは実際に音を出すことつまり音楽を奏でることであり楽器を奏することだけでなく広義には歌を歌うことも含まれる。演奏には即興演奏もあれば譜面に従った演奏もある。なかでもジャズでは即興演奏が多用され一方クラシック音楽では通常は譜面の音符の通りに演奏されている。真に機械だけによる演奏は自動演奏と呼ばれている。鑑賞とは演奏を視覚聴覚等で楽しむことにより音楽的芸術を示すことである。音楽評論家等は職業としてそれを行っていると考えて良いだろう。楽器の編成は演奏する音楽のジャンルによってある程度左右される。例えば以下のようなものがある。生演奏 / 再生音楽.音楽は生演奏だけでなく記録再生されたを楽しむことができる。近年では人々の音楽を聴く行為を統計的に見ると再生音楽が聴かれている時間頻度が圧倒的に多くなっている。生演奏される音楽は、 パフォーマーがパフォームするたびに、多かれ少なかれ、異なるという特徴がある。音楽の記録・伝達方法として最も古いものは口承であるが、やがていくつかの民族は音楽を記号の形にして記す、いわゆる楽譜を発明し使用するようになった。各民族では様々な記譜法が開発されたが、11世紀初頭にイタリアのグイード・ダレッツォが譜線を利用した記譜法を開発し、これが徐々に改良されて17世紀に入るとヨーロッパにおいて五線譜が発明された。五線譜はすべての楽曲や楽器の表記に使用でき、さらに譜面上で作曲もできるほど完成度が高かったため、以後これが楽譜の主流となった。楽譜はあくまでも音楽のデータを記号に変換して記すものにすぎなかったが1877年にトーマスエジソンが蝋菅録音機を発明すると音楽そのものの記録が可能となった。録音の技術はその後も発達し続け1960年代には録音機器やシンセサイザーの普及がポピュラー音楽の製作手法を根本的に変えた。1990年代にはデジタルレコーディングが普及し音楽の加工の技術的な可能性が広がった。音楽を伝達する媒体には様々なものが存在する。記録媒体に音楽を保存するものとしてはSP盤LP盤EP盤コンパクトカセットCDビデオテープLDフロッピーディスクMDUSBSDHDDSSDDVDBDHVDなどが存在する。こうした記録媒体の音楽はウォークマンなどのデジタルオーディオプレーヤーをはじめとする録音再生機器によって再生され使用される。また音楽を配信する手段としてはAM放送FM放送などのラジオ放送やテレビなどの放送メディアが存在するほか最近ではデータ圧縮技術を活用してインターネット経由の音楽配信が盛んとなってきている。古くは王侯貴族や教会などが音楽家を保護し、そのなかで数々の名曲が生み出されていたが、18世紀頃よりヨーロッパにおいては市民の経済力が向上し、不特定多��の聴衆に向けての演奏会が盛んに行われるようになった。この傾向はフランス革命以後、上記の特権階級の消滅や市民階級の経済力向上に従ってさらに加速していった。また、16世紀には活版印刷の発明によって楽譜も出版されるようになった。印刷楽譜はそれまでの書写によるものより量産性・正確性・価格のすべてにおいて優れたものであり、音楽、とくに同一の曲の普及に大きな役割を果たした。楽譜出版は、19世紀には商業モデルとして確立し、音楽産業の走りとなった。19世紀末までは自分で演奏を行う以外は音楽を楽しむには基本的に音楽家が必要であったが1877年にトーマスエジソンが蓄音機を発明し次いで1887年にエミールベルリナーがこれを円盤形に改良しここからレコードが登場すると音楽そのものの個人所有が可能となり各個人が家庭で音楽を楽しむこともこれによって可能となった。次いで1920年代にラジオ放送が開始されマスメディアが音声を伝えることも可能になるとすぐに音楽番組が開始され不特定多数の人々に一律の音楽を届けることが可能となり音楽の大衆文化化が進んだ。そしてその基盤の上に音楽の制作や流通広告を生業とするレコード会社が出現し大規模な音楽産業が成立することとなった。その後テレビなどの新しいメディアの登場と普及カセットテープや1980年代のコンパクトディスクの登場など新しい媒体の出現1979年に発売されたウォークマンのような携帯音楽プレーヤーの登場などで音楽愛好者はさらに増加し音楽産業は隆盛の一途をたどった。これが変化するのは1990年代後半にインターネットが普及し初めてからである。インターネットを介した音楽供給はそれまでのように音楽を保存した媒体をもはや必要とせず物として音楽を所有する需要は減少の一途をたどった。一方で音楽祭や演奏会はこの時期を通じて開催され続けておりライブなどはむしろ隆盛を迎えているなど音楽産業を巡る環境は変化し続けている。音楽都市と言えば一般に、音楽文化が特に豊かな都市、音楽が住民の日常生活にすっかり溶け込んでいる都市、あるいは音楽産業が非常に栄えている都市、などのことを指す。以下はその例である。その他、音楽都市を標榜する市町村は全国各地に存在する。音楽を、単なるとして認識する脳のメカニズムは、まだ詳しくわかっていない。それどころか、ヒトが周囲の雑多な音の中からどうやって声や音を分離して聞き分けているのかなど、聴覚認知の基本的なしくみすら未解明なことが多い。しかし、音楽と脳の関係について、以下のようないくつかの点はわかっている。音楽のなだめるようなやる気を起こさせる音は、心臓血管の健康へのさまざまな利点を含む、幅広い健康上の利点を提供する。適切な状況で適切な種類の音楽を使用すると、ニーズに応じて、感情的な状態と全体的な健康状態を向上させることができる。音楽を研究する学問として音楽学がある。音楽理論に関するものとしては音楽哲学音楽美学がある。ほかに音楽の歴史を研究する音楽史音楽教育学音楽心理学音楽音響学などもある。西洋音楽と各民族の民族音楽を比較研究する比較音楽学は人類学の影響を受けて各民族の音楽文化を研究する民族音楽学へと変化した。また文学研究でも音楽との関連などが研究される。研究者が音楽評論を書くこともある。その文化的発展度を問わず音楽はどの民族にも普遍的に存在しており様々に利用されてきた。軍隊の行軍や指揮に音楽はつきもので現代においても多くの国家の軍は軍楽隊を所持している。日々の労働にリズムをつけ効率を高めるための労働歌もまた多くの民族に伝わっており日本でも田植え歌や木遣などはこれにあたる。歌垣のように求愛のために音楽を用いることも世界中に広く見られる。魔術的呪術的用途さらには宗教的用途に音楽を使用することも多くの民族に共通しており例えばヨーロッパにおいては教会が18世紀頃までは音楽の重要な担い手の一つだった。一方1990年代にアフガニスタンで政権を打ち立てたターリバーンは公共の場の音楽はイスラムの基準に合致しないと解釈しており徹底的な弾圧を行った。2021年にターリバーンが復権した際には直ちに有名歌手が殺害されたほか弾圧を恐れたアフガニスタン国立音楽院の教師や生徒100人以上が国外へ脱出した。ヨーロッパの中世大学教育における自由七科のひとつに音楽が含まれていたように音楽は教養としても重視されることが多くやがて19世紀に入り近代教育がはじまると音楽も初等教育からそのカリキュラムの中に組み込まれていった。明治維新後の日本もこの考え方を踏襲したが西洋音楽を扱える人材がほとんど存在しなかったため即時導入はできず明治15年のの発行を皮切りに徐々に唱歌が導入されていくこととなった。こうした一般教養としての音楽教育のほか音楽のプロを育成する音楽学校も世界各地に存在しさまざまな音楽家を育成している。音楽はしばしば、民族のアイデンティティと結びつきナショナリズムの発露をもたらす。世界のほとんどの独立国が国歌を制定しているのもこの用途によるものである。国歌だけでなく、一般の音楽においてもこうしたつながりは珍しくない。19世紀にはナショナリズムのうねりの中で、当時の音楽の中心地であるドイツ・フランス・イタリア以外のヨーロッパ諸国において、自民族の音楽の要素を取り入れたクラシック音楽の確立を目指す国民楽派が現れ、多くの名作曲家が出現した。民族音楽においてもナショナリズムとのつながりは一般的に強いものがあり、また、ポピュラー音楽でも、民族を越えてその国家内で愛唱される場合、国民の統合をもたらす場合がある。 +インドネシア共和国通称インドネシアは東南アジア南部に位置する共和制国家。首都はジャワ島に位置するジャカルタ首都特別州。インドネシアは5110kmと東西に非常に長く連なる世界最多の島嶼を抱える島国である。同国は赤道にまたがる1万3466もの大小の島により構成されている。国の公用語はインドネシア語である。人口は2億6400万人を超える世界第4位の規模でありまた世界最大のムスリム人口を有する国家としても知られている。島嶼国家であるため、その広大な領域に対して陸上の国境線で面しているのは、ティモール島における東ティモール、カリマンタン島(ボルネオ島)におけるマレーシア、ニューギニア島におけるパプアニューギニアの3国だけである。海を隔てて近接している国家は、パラオ、インド、フィリピン、シンガポール、オーストラリアなど。南シナ海南部にあるインドネシア領ナトゥナ諸島はインドシナ半島や領有権主張が競合するスプラトリー諸島と向かい合う。東南アジア諸国連合の盟主とされASEAN本部が首都ジャカルタにある。そのため2009年以降アメリカ中国など50か国あまりのASEAN大使がジャカルタに常駐しており日本も2011年5月26日にジャカルタにASEAN日本政府代表部を開設し大使を常駐させている。東南アジアから唯一G20に参加している。公式の英語表記は略称は 。日本語表記はインドネシア共和国略称はインドネシア。漢字表記は印度尼西亜略称は印尼。国名インドネシアは諸島を意味する接尾辞。ギリシャ語で島を意味するネソス の複数形ネシオイ に由来する。オランダ領東インド時代の1920年代に定着した。インドネシアの国旗は上部に赤、下部に白の2色で構成された長方形で、縦と横の比率が1:2である。モナコ公国の国旗と類似しているが、こちらは縦横比が4:5と異なる。ポーランド国旗とも似ているが、赤と白の配置が上下逆である。国章は、と呼ばれる。ガルーダはインド神話に登場する伝説上の鳥で、ヴィシュヌ神の乗り物と言われる。鷹のような図柄である。尾の付け根の羽毛は19枚、首の羽毛は45枚で、尾の羽毛は8枚、翼の羽毛は左右それぞれに17枚ずつあり、独立宣言をした1945年8月17日の数字を表している。先史時代は様々な出土品から石器時代と金属器時代の2つに大きく分けることができる。人類が使用する色々の道具を石器で作っていた時代である。なお当時は石器のみではなく竹や木からの利器や器具道具が作られていた。この石器時代をさらに旧石器時代中石器時代新石器時代巨大石器時代の4つに分けることができる。後にインドネシアとなる地域に住んでいたマレー系の人々は紀元前1世紀頃から来航するインド商人の影響を受けてヒンドゥー教文化を取り入れ5世紀頃から王国を建国していった。諸王国はインドと中国をつなぐ中継貿易の拠点として栄えシュリーヴィジャヤ王国シャイレーンドラ朝 古マタラム王国クディリ王国シンガサリ王国マジャパヒト王国などの大国が興亡した。12世紀以降はムスリム商人がもたらしたイスラム教が広まり人々のイスラム化が進んだ。大航海時代の16世紀になると香辛料貿易の利を求めてヨーロッパのポルトガルイギリスを本拠地としたオランダ東インド会社による覇権が確立された。東インド会社により搾取され続けていたインドネシアであったが、オランダはインドネシアの民衆が結束しないよう、320種以上あった種族語をまとめた共通語を作ることを禁じた。また、一切の集会や路上で3人以上が立ち話することも禁止され、その禁止を破ると「反乱罪」で処罰された。オランダは一部の現地人をキリスト教に改宗させ優遇することで彼らに間接統治させたり、搾取をする経済の流通は華僑に担わせたりしていた。オランダ人は18世紀のマタラム王国の分割支配によりジャワ島、19世紀のアチェ戦争によりスマトラ島のほとんどを支配するようになる。この結果、1799年にオランダ東インド会社が解散され、1800年にはポルトガル領東ティモールを除く東インド諸島の全てがオランダ領東インドとなり、ほぼ現在のインドネシアの領域全体がオランダ本国政府の直接統治下に入った。ただし、オランダと政体を変遷した。インドネシアは、1811年から1815年のネーデルラント連合王国建国まで英国領であった。1819年イギリスのトーマスラッフルズがシンガポールの地政学上の重要性に着目しジョホール王国の内紛に乗じてイギリス東インド会社の勢力下に獲得したことにオランダが反発。1824年に英蘭協約が締結されオランダ領東インドの領域が確定した。日本は南進論の影響もあり1925年には田邊宗英らの発起の三ツ引商事などがスラバヤへ進出した。オランダによる過酷な植民地支配下で、20世紀初頭には東インド諸島の住民による民族意識が芽生えた。ジャワ島では、1908年5月20日にブディ・ウトモが結成され、植民地政府と協調しつつ、原住民の地位向上を図る活動に取り組んだ。設立日である5月20日はと定められている。1910年代にはイスラームを紐帯とするサレカット・イスラームが東インドで大規模な大衆動員に成功し、1920年代にはインドネシア共産党が労働運動を通じて植民地政府と鋭く対立した。この地の民族主義運動が最高潮を迎えるのは、1927年のスカルノによるインドネシア国民党の結成と、1928年のである。インドネシア国民党の運動は民族の独立を掲げでは唯一の祖国インドネシア唯一の民族インドネシア民族唯一の言語インドネシア語が高らかに宣言された。しかしインドネシア共産党は1927年末から1928年にかけて反乱を起こしたことで政府により弾圧されスカルノやハッタが主導する民族主義運動もオランダの植民地政府によって非合法化された。スカルノらの民族主義運動家はオランダにより逮捕され拷問を受けた末に長く流刑生活を送ることになり以後の民族主義運動は冬の時代を迎えることになった。1939年ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発。翌年オランダ本国はナチスドイツに占領された(オランダにおける戦い (1940年))。アジアでは日中戦争激化に伴い英米は日本に対して厳しい態度で臨むようになりオランダ植民地政府もいわゆる対日「ABCD包囲網」に加わった。1941年2月初め日本は東南アジア地域を占領地とした場合を想定して軍政を研究し始めた。陸軍参謀本部第一部の中に研究班が設けられ南方占領地行政に関する研究が行われた。3月末『南方作戦に於ける占領地統治要綱案』を始めとする一連の軍政要綱案が作成されこの研究をもとに同年11月20日付けの大本営政府連絡会議で『南方占領地行政実施要綱』が策定された。この『実施要綱』の基本は「占領地に対しては差し当たり軍政を実施し治安の恢復重要国防資源の急速獲得及び作戦軍の自活確保に資す」ことに置かれていた。そして「国防資源取得と占領軍の現地自活の為民生に及ぼさざる得ざる重圧は之を忍ばしめ宣撫上の要求は右目的に反せざる限度に止(とど)むるものとす」とされていた。したがって独立運動に対しては「皇軍に対する信倚(しんい)観念��助長せしむる如く指導し其の独立運動は過早に誘発せしむることを避くるものとす」とした。これが「東亜の解放」「英米の支配からの解放」をスローガンに「大東亜共栄圏」の実現を主張した日本の本心でもあった。続く11月26日には東南アジア占領地域についての陸軍と海軍の担当地域の取り決めである『占領地軍政実施に関する陸海軍中央協定』が定められ蘭印地域のうちスマトラジャワ地域は陸軍担当それ以外の地域については海軍担当とされた。日本時間の1941年12月8日午前2時15分と最大限の歓迎で迎えた。インドネシアにおける日本の軍政についてはジャワ島を3つに分ける省制度を廃止したほかは基本的にオランダ時代の統治機構を踏襲した。州長官に日本人を配置しオランダ時代の王侯領には自治を認めジャカルタは特別市として州なみの扱いとした。軍政の実務は日本人の行政官が担い州以下のレベルには地方行政はインドネシア人が担当した。同時に日本海軍はボルネオの油田を日本陸軍はスマトラの油田を保有した。そして日本の統治はオランダ植民地政府により軟禁され流刑地にあったスカルノを救出して日本に協力させこの国民的指導者を前面に立て実施された。スカルノは日本に対して懐疑心を抱いていなかったわけではなかったが開戦前に受けたインドネシア独立に対するオランダの強硬な態度に鑑みオランダの善意に期待できない以上日本に賭けて見ようと考えたのであった。教育制度に関して日本は、オランダが長年行ってきた愚民化政策を取りやめ、現地の人々に高等教育を施し、官吏養成学校、師範学校、農林学校、商業学校、工業学校、医科大学、商船学校などを次々開設して、短期間に10万人以上の現地人エリートを養成した。1943年中盤以降日本はアジア太平洋地域における戦局悪化の趨勢を受けてジャワスマトラバリの現地住民の武装化を決定し募集したインドネシア人青年層に高度の軍事教練を施した。それらの青年層を中心にジャワでは司令官以下の全将兵がインドネシア人からなる郷土防衛義勇軍が発足した。郷土防衛義勇軍は義勇軍と士官学校を合併したような機関で38000名の将校が養成され兵補と警察隊も編成された。このような日本軍政期に軍事教練を経験した青年層の多数は後のインドネシア独立戦争期に結成される正規非正規の軍事組織で中心的な役割を果たすことになった。インパール作戦の失敗によって、ビルマ方面の戦況が悪化すると、日本は1944年9月3日には将来の独立を認容するを発表。さらに1945年3月に東インドに独立準備調査会を発足させ、スカルノやハッタらに独立後の憲法を審議させた。同年8月7日スカルノを主席とする独立準備委員会が設立され、その第1回会議が18日に開催されるはずであったが、8月15日に日本が降伏したことによって、この軍政当局の主導による独立準備は中止されることとなった。国連の調査では日本による占領中の飢饉と強制労働(ロームシャ)の結果400万人が死亡したとしている。しかし1945年8月15日に日本がオランダを含む連合国軍に降伏し念願の独立が反故になることを恐れたスカルノら民族主義者は同17日ジャカルタのプガンサアンティムール通り56番地でインドネシア独立宣言を発表した。独立宣言文の日付は皇紀を用いている。しかしこれを認めず再植民地化に乗り出したオランダと独立戦争を戦うことを余儀なくされた。インドネシア人の側は外交交渉を通じて独立を獲得しようとする外交派とオランダとの武力闘争によって独立を勝ち取ろうとする闘争派との主導権争いにより必ずしも足並みは揃っていなかったが戦前の峻烈な搾取を排除し独立を目指す人々の戦意は高かった。独立宣言後に発足した正規軍だけでなく各地でインドネシア人の各勢力が独自の非正規の軍事組織を結成し日本の連合国軍への降伏後に多数の経験豊かな日本の有志将校がインドネシアの独立戦争に参加して武装化した。彼らは連合国軍に対する降伏を潔しとしない日本軍人の一部でインドネシア側に武器や弾薬を提供した。これらの銃器の他にも刀剣竹槍棍棒毒矢などを調達し農村まで撤退してのゲリラ戦や都市部での治安を悪化させるなど様々な抵抗戦によって反撃した。この独立戦争には��カルノやハッタら民族独立主義者の理念に共感し軍籍を離脱した一部の日本人3000人(軍人と軍属)も加わって最前列に立ってオランダと戦い(残留日本兵#蘭印(インドネシア))その結果1000人が命を落とした。しかしながらインドネシアに数百年来住む華僑(中国人)の大部分はオランダ側に加担してインドネシア軍に銃を向けた。他方で政府は第三国などに外交使節団を派遣して独立を国際的にアピールし、また、発足したばかりの国際連合にも仲介団の派遣を依頼して、外交的な勝利に向けても尽力した。結果として、1947年8月1日に国際連合安全保障理事会で停戦および平和的手段による紛争解決が提示された。独立戦争は4年間続きオランダに対する国際的な非難は高まっていった。最終的に共産化を警戒するアメリカの圧力によってオランダは独立を認めざるを得なくなった。こうした武力闘争と外交努力の結果1949年12月のでオランダから無条件で独立承認を得ることに成功しオランダ統治時代の資産を継承した。これによって国際法上正式に独立が承認された。しかしこの資産には60億ギルダーという膨大な対外債務(うちオランダ向け債務20億ギルダーについてはオランダが債務免除に同意した)も含まれており財政的な苦境に立たされることとなる。その解決のために円卓会議の取り決めを一方的に破棄外国資産の強制収容を行うなど強攻策をとりさらには国連から脱退するなどスカルノ政権崩壊まで国際的な孤立を深めていくこととなる。現在でも8月17日を独立記念日としておりジャカルタを中心に街中に国旗を掲揚して様々なイベントを開催し祝賀ムードに包まれることが恒例となっている。オランダからの独立後、憲法(1950年憲法)を制定し、議会制民主主義の導入を試みた。1955年に初の議会総選挙を実施、1956年3月20日、第2次アリ・サストロアミジョヨ内閣が成立した。国民党、マシュミ、NUの3政党連立内閣であって、インドネシア社会党(PSI)、インドネシア共産党は入閣していない。この内閣は5カ年計画を立てた。その長期計画は、西イリアン帰属闘争、地方自治体設置、地方国民議会議員選挙実施、労働者に対する労働環境改善、国家予算の収支バランスの調整、植民地経済から国民の利益に基づく国民経済への移行により、国家財政の健全化を図ることなどである。しかし民族的にも宗教的にもイデオロギー的にも多様で各派の利害を調整することは難しく議会制は機能しなかった。また1950年代後半に地方で中央政府に公然と反旗を翻す大規模な反乱が発生し国家の分裂の危機に直面した。この時期、1950年憲法の下で権限を制約されていたスカルノ大統領は、国家の危機を克服するため、1959年7月5日、大統領布告によって1950年憲法を停止し、大統領に大きな権限を与えた1945年憲法に復帰することを宣言した。ほぼ同時期に国会を解散して、以後の議員を任命制とし、政党の活動も大きく制限した。スカルノによる「指導される民主主義」体制の発足である。この構想は激しい抵抗を受け、中部・北・南スマトラ、南カリマンタン・北スラウェシのように国内は分裂した。ついに、スカルノは全土に対し、戒厳令を出した。スカルノは政治勢力として台頭しつつあった国軍を牽制するためにインドネシア共産党に接近し国軍との反目を利用しながら国政における自身の主導権を維持しようとした。この時期盛んにスカルノが喧伝したは「ナショナリズム(Nasionalisme)宗教が勃発した。1965年CONEFOに加盟した。スカルノのは、1965年の9月30日事件によって終わりを告げた。インドネシア国軍と共産党の権力闘争が引き金となって発生したこの事件は、スカルノからスハルトへの権力委譲と、インドネシア共産党の崩壊という帰結を招いた。1968年3月に正式に大統領に就任したスハルトは、スカルノの急進的なナショナリズム路線を修正し、西側諸国との関係を修復。スカルノ時代と対比させ、自身の政権をと呼んだ。スハルトはスカルノと同様に、あるいはそれ以上に独裁的な権力を行使して国家建設を進め、以後30年に及ぶ長期政権を担った。その間の強引な開発政策は開発独裁と批判されつつもインフラストラクチャーの充実や工業化などにより一定の経済発展���達成することに成功した。日本政府は国際協力事業団を通じインドネシア尿素肥料プロジェクトに参加した。その一方で東ティモール独立運動アチェ独立運動イリアンジャヤ独立運動などに対して厳しい弾圧を加えた。1997年のアジア通貨危機に端を発するインドネシア経済混乱のなか1998年5月にが勃発しスハルト政権は崩壊した。スハルト政権末期の副大統領だったユスフハビビが大統領に就任し民主化を要求する急進派の機先を制する形で民主化分権化の諸案を実行した。スハルト時代に政権を支えたゴルカルスハルト体制下で存続を許された2つの野党以外の政党の結成も自由化され1999年6月総選挙が実施され民主化の時代を迎えた。その結果、同年10月、最大のイスラーム系団体ナフダトゥル・ウラマーの元議長、アブドゥルラフマン・ワヒドに就任した。メガワティ・スカルノプトリは副大統領に選ばれた。しかし、2001年7月、ワヒド政権は議会の信任を失って解任された。メガワティ政権・ユドヨノ政権.代わって、闘争民主党のメガワティ政権が発足した。その後2004年4月に同国初の直接選挙で選ばれた第6代スシロ・バンバン・ユドヨノが2009年に60%の得票を得て再選され、2014年までの大統領の任にあった。2013年、MIKTAに加盟した。2014年7月の選挙で当選した闘争民主党のジョコウィドドが第7代大統領に就任した。2019年8月16日の議会演説で首都を現在のジャカルタからインドネシアのほぼ中央に位置するカリマンタン島の東カリマンタン州「北プナジャムパスール県」「クタイカルタネガラ県」に遷都する考えを表明した。遷都は2024年に開始される予定。多民族国家であり種族言語宗教は多様性に満ちている。そのことを端的に示すのはというスローガンである。この多民族国家に国家的統一をもたらすためのイデオロギーは20世紀初頭から始まった民族主義運動の歴史の中で様々な民族主義者たちによって鍛え上げられてきた。そうしたものの一つが、日本軍政末期にスカルノが発表したパンチャシラである。1945年6月1日の演説でスカルノが発表したパンチャシラは今日のそれと順序と語句が異なっているが、スハルト体制期以降も重要な国是となり、学校教育や職場研修などでの主要教科とされてきた。また、スハルト退陣後の国内主要政党の多くが、今もなお、このパンチャシラを党是として掲げている。現在のパンチャシラは以下の順序で数えられる。元首たる大統領は行政府の長である。その下に副大統領が置かれる。首相職はなく、各閣僚は大統領が指名する。特徴的なのがと呼ばれる組織で、大統領と各省の間で複数の省庁を管掌しており、2014年発足のジョコ・ウィドド政権では、、、が置かれている。第五代までの大統領と副大統領は、国民協議会。憲法改正によって大統領の法律制定権は廃止された。各種人事権については、議会との協議を必要とするなど、単独での権限行使は大幅に制限された。また議会議員の任命権も廃止され、議員は直接選挙によって選出されることになった。立法府たる議会は、 国民議会がある。まず、 の国民協議会は、2001年、2002年の憲法改正以前は、一院制の国民議会の所属議員と、各州議会から選出される代表議員195人によって構成されていた。国民協議会は、国民議会とは別の会議体とされ、国家意思の最高決定機関と位置づけられていた。国民協議会に与えられた権限は、5年ごとに大統領と副大統領を選出し、大統領が提示する国の施策方針を承認すること、一年に一度、憲法と重要な法律の改正を検討すること、そして場合により大統領を罷免すること、であった。このような強大な権限を国民協議会に与えていることが憲政の危機をもたらしたとして、その位置づけを見直す契機となったのは、国民協議会によるワヒド大統領罷免であった。3年余りの任期を残していた大統領を罷免した国民協議会の地位を改めるため、メガワティ政権下の2001年と2002年に行われた憲法改正により、国民協議会は国権の最高機関としての地位を失った。立法権は後述の国民議会に移されることになり、国民協議会は憲法制定権と大統領罷免決議権を保持するが、大統領選任権を国民に譲渡し、大統領と副大統領は直接選挙によって選出さ���ることになった。これらの措置により、国民協議会は国民議会と地方代表議会の合同機関としての位置づけが与えられ、また、国民議会と地方代表議会のいずれも民選議員によってのみ構成されているため、国民協議会の議員も全て、直接選挙で選ばれる民選議員となった。 の国民議会は2000年の第2次憲法改正によって立法予算審議行政府の監督の3つの機能が与えられることになった。具体的には立法権に加えて質問権国政調査権意見表明権が国民議会に与えられまた議員には法案上程権質問提出権提案権意見表明権免責特権が与えられることが明記された。比例代表制により選出される。 の地方代表議会は2001年から2002年にかけて行われた第3次第4次憲法改正によって新たに設置が決まった代議機関であり地方自治や地方財政に関する立法権が与えられている。先述の通り総選挙で各州から選出された議員によって構成されている。スハルト政権期には政府・司法省が分有していた司法権が廃止され、各級裁判所は、司法府の最上位にある最高裁判所によって統括されることになり、司法権の独立が確保された。最高裁判所は法律よりも下位の規範(政令等)が法律に違反しているか否かを審査する権限を有する。他に憲法に明記される司法機関としては司法委員会と憲法裁判所がある。司法委員会は最高裁判所判事候補者を審査し国会に提示する権限及び裁判官の非行を調査し最高裁判所に罷免を勧告する権限を有する。憲法裁判所は法律が憲法に違反しているか否かを審査する権限を有する。憲法改正以前には大統領に属していた政党に対する監督権・解散権が憲法裁判所に移された。これにより、大統領・政府による政党への介入が排除されることになった。旧宗主国オランダとの武力闘争によって独立を勝ち取り、独立当初から外交方針の基本を非同盟主義に置いた。こうした外交方針は外交の方針はほぼ一貫しているといってよい。1950年代後半のスカルノ「指導される民主主義」期には1963年のマレーシア連邦結成を「イギリスによる新植民地主義」として非難しマレーシアに軍事侵攻した。国際的な非難が高まるなかで1965年1月スカルノは国際連合脱退を宣言し国際的な孤立を深めていった。インドネシア国内ではインドネシア共産党の勢力が伸張し国内の左傾化を容認したスカルノは急速に中華人民共和国に接近した。1965年の9月30日事件を機にスカルノが失脚しスハルトが第2代大統領として就任すると悪化した西側諸国との関係の改善を進めた。またスカルノ時代に疲弊した経済を立て直すために債権国の協力を仰いだ。1966年9月日本の東京に集まった債権国代表が債務問題を協議しその後援助について協議するインドネシア援助国会議(Inter-Governmental Group on Indonesia - 略称 IGGI)が発足した。1967年8月東南アジア諸国連合発足時には原加盟国となった。総人口や国土面積は東南アジア最大でありASEAN本部は首都ジャカルタに置かれている。域内での経済文化交流の促進を所期の目標とし他のASEAN加盟国との連帯を旨としている。その一方で時折のぞく盟主意識地域大国意識は他国からの警戒を招くこともある。今日に至るまで日本をはじめとする西側諸国とは協力関係を維持しているが、スハルト体制期においても一貫して、ベトナムなど近隣の社会主義国や非同盟諸国とは良好な外交関係を保った。1999年の東ティモール独立を問う住民投票での暴動に軍が関与したと見られ、その後の関係者の処罰が不十分とされたことや、2001年のアメリカ同時多発テロによって米国との関係が悪化し、2005年まで武器禁輸などの制裁を受けた。このため、ロシアや中国との関係強化に乗り出し、多極外交を展開している。中国とは南シナ海にあるスプラトリー諸島。2020年1月にはナトゥナ諸島近海で中国漁船が操業したことに抗議、中国大使を召還した。日本とインドネシアの関係は良好であり1800社を超える日本企業がインドネシアで事業を展開している。特に近年日本文化がブームとなっており日本企業の投資や日本語を学ぶ人が増えている。大相撲やアニメなど日本文化のイベントも開催されている。MIKTAは、メキシコ 、インドネシア 、大韓民国 、トルコ 、オーストラリア の5ヶ国に��るパートナーシップである。詳細は該当ページへ。インドネシア国軍( - 略称)の兵力は2017年に39万5500人(陸軍30万400人海軍6万5000人空軍3万100人)であり志願兵制度である。その他に予備役が40万人。軍事予算は2002年に12兆7549億ルピアで国家予算に占める割合は3.71パーセントである。スハルト政権以来、米国を中心とした西側との協調により、近代的な兵器を積極的に導入してきたものの、東ティモール紛争の悪化により米国と軋轢が生じ、2005年まで米国からの武器輸出を禁じられた。この間にロシア連邦や中華人民共和国と接近し、これらの国の兵器も多数保有している。世界で最も多くの島を持つ国であり、その数は1万3466にのぼる。島の数は人工衛星の調査により算出されたもので、かつては1万8,110とも言われていたが、再調査の結果、2013年に現在の個数が明らかになった。当地を含む周辺ではユーラシアプレートやオーストラリアプレート太平洋プレートフィリピン海プレートなどがせめぎあっており環太平洋火山帯で世界で最も活動している火山の一つである。また、地震も多く、2004年のスマトラ島沖地震、及び2006年のジャワ島中部地震は甚大な被害を与えた。スマトラ島とジャワ島は、約60,000年前は陸続きであったが、11,000年前の大噴火があり、スンダ海峡ができて両島は分離した。これらの島々の全てが北回帰線と南回帰線の間に位置しており、熱帯気候である。国土をに区分している。大気中の二酸化炭素を吸収する役割を担う森林は、適切な利用・管理により地球温暖化防止に役立つ。同国における環境問題は国の人口密度の高さと急速な工業化に関連しており、深刻さを増しているために今も改善策が求められている。2層の地方政府が存在し第一レベルの地方政府が州が置かれている。第1レベル地方政府は2013年時点で以下のとおり、ジャカルタ首都特別州と4の特別州、29の州が設置されている。下記リストで名称右に*付きが、首都ジャカルタと4特別州。第2レベルの地方政府は2006年時点で349県91 市が置かれている。県と市には行政機能上の差異はなく都市部に置かれるのが市でそれ以外の田園地域等に置かれるのが県である。なお県市には行政区としての郡が置かれているがこれは区の担う行政機能に代わり地縁的慣習的なコミュニティであり行政区ではない。スハルト政権の崩壊後世界で最も地方分権化が進んだ国の一つに数えられている。しかし逆に言えば中央政府の力が弱く地方政府が環境破壊を進める政策を実施していても中央政府にはこれを止める力がない。IMFによると、2018年のGDPは1兆225億ドルであり、世界第16位である。一方、一人当たりのGDPは3,871ドルであり、世界平均の約34%である。世界銀行が公表した資料によると、2017年に1日1.9ドル未満であった。基本的に農業国である。1960年代に稲作の生産力増強に力が入れられ植民地期からの品種改良事業も強化された。改良品種IR8のような高収量品種は他にもつくられ農村に普及し栽培された。このような熱も冷めてゆき同年代の末にはコメの輸入が増加するに至った。農林業ではカカオ、キャッサバ、キャベツ、ココナッツ、米、コーヒー豆、サツマイモ、大豆、タバコ、茶、天然ゴム、トウモロコシ、パイナップル、バナナ、落花生の生産量が多い。特にココナッツの生産量は2003年時点で世界一である。オイルパーム。この2000年代以降のエステート作物面積の急激な拡大によって、森林破壊や泥炭湿地の埋立及びこれに伴う火災の発生などの環境破壊が進んでいることが指摘されている。海に囲まれた群島国家であるため水産資源も豊富だが、漁業や水産加工の技術向上、物流整備が課題となっている。プリカナン・ヌサンタラという国営水産会社が存在する。鉱業資源にも恵まれ、金、スズ、石油、石炭、天然ガス、銅、ニッケルの採掘量が多い。1982年、1984年、日本からの政府開発援助(ODA)でスマトラ島北部のトバ湖から流れ出るアサハン川の水でアサハン・ダム(最大出力51.3万キロワット)とマラッカ海峡に面したクアラタンジュンにアサハン・アルミ精錬工場が建設された。ニッケル鉱山は、南東スラウェシ州コラカ沖のパダマラン島のポマラと南スラウェシ州ソロアコ(サロアコ)にある。生産の80%が日本に輸出されている。ニッケルはカナダの多国籍企業インコ社が支配している。多国籍企業の進出はスハルト体制発足後の1967年外資法制定以降であり、採掘・伐採権を確保している。また、日本企業6社が出資している。鉱山採掘に伴い森林伐採で付近住民と土地問題で争いが起こる。国内産業を育成するため、未加工ニッケル鉱石の輸出を2014年に禁止したが、2017年に規制を緩和している。日本はLNGを2009年1月に脱退した。工業では軽工業、食品工業、織物、石油精製が盛ん。コプラパーム油のほか、化学繊維、パルプ、窒素肥料などの工業が確立している。パナソニックオムロンブリヂストンをはじめとした日系企業が現地に子会社あるいは合弁などの形態で多数進出している。独立後政府は主要産業を国有化し保護政策の下で工業を発展させてきた。1989年には戦略的対応が必要な産業として製鉄航空機製造銃器製造などを指定し戦略産業を手掛ける行政組織として戦略産業管理庁を発足させている。2019年時点、インドネシアには115の国営企業があり、クラカタウ・スチール、マンディリ銀行など17社がインドネシア証券取引所に株式を上場している。分野ごとに持ち株会社を設けるなど効率化を図っているが、一方で雇用維持など政府の意向が優先されることも多い。かつては華人系企業との癒着やスハルト大統領ら政府高官の親族によるファミリービジネス等が社会問題化し1996年には国民車「ティモール」の販売を巡って世界貿易機関(WTO)を舞台とする国際問題にまで発展した。しかし1997年のアジア通貨危機の発生により経済は混乱状態に陥りスハルト大統領は退陣に至った。その後政府はIMFとの合意によって国営企業の民営化など一連の経済改革を実施したが失業者の増大や貧富の差の拡大が社会問題となっている。小売業の最大チャネルは各地に約350万あると呼ばれる零細小売店である。インターネット通販は小売市場の3~5%程度と推測され地元企業のトコペディアやブカラパックシンガポール企業のラザダやショッピーが参入しておりワルンへの商品供給を担う企業もある。雇用・賃金と個人消費.労働者の生活水準を向上させるため月額式の最低賃金制度が施行されており2015年からはインフレ率と経済成長率に基づく計算式が導入され年8%程度上がりタイ王国を超える水準となっている。これに対して労働組合側は賃上げが不十分日系を含む企業側は人件費の上昇が国際競争力を低下させると主張し労使双方に不満がある。なおイスラム教徒が多数を占める国であるため従業員からメッカ巡礼の希望が出た場合企業はメッカ巡礼休暇として最長3カ月の休暇を出すことが法で規定されている。ただ改革と好調な個人消費によりGDP成長率は2003年から2007年まで4%〜6%前後で推移した。2008年には欧米の経済危機による輸出の伸び悩みや国際的な金融危機の影響等があったものの6.1%を維持。さらに2009年は政府の金融安定化策景気刺激策や堅調な国内消費から世界的にも比較的安定した成長を維持し4.5%の成長を達成。名目GDPは2001年の約1600億ドルから2009年には3.3倍の約5393億ドルまで急拡大した。今ではG20の一角をなすまでになっており同じASEAN諸国のベトナムとフィリピンと同様にNEXT11の一角を占め更にベトナムと共にVISTAの一角を担うなど経済の期待は非常に大きい。ただし、2011年より経常収支が赤字となる状況が続いており、従来から続く財政赤字とともに双子の赤字の状態にある。このような中日系企業の進出は拡大しているが投資環境の面で抱える問題は少なくない。世界銀行のでもビジネス環境は183国中121位に順位づけられておりこれはASEANの中でもとくに悪いランキングである。具体的には道路鉄道通信などのハードインフラの整備が遅れていることのほかソフトインフラとも言うべき法律面での問題が挙げられる。裁判所や行政機関の判断については予測可能性が低く透明性も欠如しておりこれがビジネスの大きな阻害要因になっていると繰り返し指摘されている。これに対し、日本のODAは、ハード・インフラ整備の支援に加え、近年は統治能力支援と連携して、規則制定のほか裁判官や和解・調停を担う人材の研修を支援している。2013年時点で���、東南アジア全体でも有数の好景気に沸いており、日本からの投資も2010年には7億1260万ドルへと急増している。しかしナショナリズムが色濃く、2013年2月には当地を中心に石炭採掘を行っている英投資会社の株主総会が、同社の大半の取締役や経営陣を追放するというロスチャイルドによる提案の大部分を拒否した。これと関連して、国の経常赤字と資本流入への依存、貧弱なインフラや腐敗した政治や実業界など、いくつかの問題点も指摘されている。2014年の国際協力銀行が日本企業を対象に行ったアンケート調査では、として、中国を抜いて1位となった。技能実習制度などで、日本へ渡航して働くインドネシア人も多いが、人権保護や賃金支払いなどでトラブルも起きている。2010年の総人口は2億3764万1326人で中国インドアメリカに次ぐ世界第4位。2017年は2億6199万人。今後も人口ボーナスにより人口は着実に増加してゆく傾向にあり2050年の推計人口は約3億人。全国民の半分以上がジャワ島に集中しているため比較的人口の希薄なスマトラ島カリマンタン島スラウェシ島に住民を移住させるトランスミグラシと呼ばれる人口移住政策を行ってきた。2019年4月29日にはジョコ政権がジャワ島外への首都を移転する方針を閣議決定した。 ジョコウィドド大統領は同年8月自身のTwitterで首都の移転先をボルネオ島と発表した。大多数がマレー系で、彼らが直系の祖先であり、原マレー人と新マレー人の2種類に分けられる。原マレー人は、紀元前1500年頃に渡来した。原マレー人は先住民よりも高度な文化を持っていた。原マレー人は後から来た新マレー人によって追われていくが、ダヤク人、トラジャ人、バタック人として子孫が生存している。新マレー人は、マレー人、ブギス人、ミナンカバウ人の祖先であり、紀元前500年頃に渡来した。渡来時には青銅器製作の技術を獲得しており、数百年後には鉄器を使用し始める。彼らの使用した鉄器がベトナム北部のドンソン地方で大量に発見されていることから「ドンソン文化」と呼ばれる。ほかに約300の民族がおり、住民の内、ジャワ人が45%、スンダ人が14%、マドゥラ人が7.5%、沿岸マレー人が7.5%、その他が26%、中国系が約5%となっている。父系母系を共に親族とみなすであり姓がない人もいる。なお、法務省の統計では、2014年末では30,000人超、2018年では55,000人超のインドネシア人が日本に在住している。公用語はインドネシア語であり、国語となっている。会話言語ではそれぞれの地域で語彙も文法規則も異なる583以上の言葉が日常生活で使われている。インドネシア語が国語と言っても、日常で話す人は多くて3,000万人程度である。国の人口比にすると意外と少ないが、国語になっているため第2言語として話せる人の数はかなり多い。また、首都ジャカルタへ出稼ぎに向かう人も多い為、地方の人でもインドネシア語は必須であり、話せないと出稼ぎにも影響が出てくる。インドネシア語ジャワ語バリ語などを含むオーストロネシア語族の他にパプア諸語が使用される地域もある。憲法29条で信教の自由を保障している。パンチャシラでは唯一神への信仰を第一原則としているもののこれはイスラム教を国教として保護しているという意味ではない。多民族国家であるため、言語と同様、宗教にも地理的な分布が存在する。バリ島ではヒンドゥー教が、スラウェシ島北部ではキリスト教が法律として適用されている。2010年の政府統計によると、イスラム教が87.2%、プロテスタントが7%、カトリックが2.9%、ヒンドゥー教が1.6%、仏教が0.72%、儒教が0.05%、その他が0.5%となっている。イスラム教徒の人口は1億7000万人を超え世界最大のイスラム教徒。またイスラム教はジャワ島やスマトラ島など人口集中地域に信者が多いため国全体でのイスラム教徒比率は高いが非イスラム教徒の民族や地域も実際には多い。カリマンタン島やスラウェシ島ではちょうどイスラム教徒と非イスラム教徒の割合が半々ほど。東ヌサトゥンガラから東のマルク諸島ニューギニア島などではイスラム教徒比率は一割程度である(それもジャワ島などからの移民の信者が大半である)。またイスラム教徒多数派地域であっても都市部やスンダ人アチェ人地域のように比較的厳格な信仰を持つものもあればジャワ人地域のように基層にヒンドゥー文化を強く残しているものもある。また書面上はイスラム教徒となっていても実際にはシャーマニズムを信仰している民族も有る。魔術師呪術医と精霊を含めた超自然的な力を信じる人やの存在を肯定するインドネシア人は多い。なお、信仰の自由はあるといっても完全なものではなく、特に無神論は違法であり、公言をすると逮捕される可能性もある。夫婦別姓が基本。ただし通称として夫の姓を名乗ることも多い。男性側が改姓することも可能である。教育体系は、教育文化省が管轄する一般の学校と、宗教省が管轄するイスラーム系のマドラサ の二本立てとなっている。いずれの場合も小学校・中学校・高校の6・3・3制であり、このうち小中学校の9年間については、1994年、義務教育にすると宣言された。スコラでもマドラサでも、一般科目と宗教科目を履修するが、力点の置き方は異なる。大学をはじめとする高等教育機関も一般校とイスラーム専門校に分かれており、前者については1954年に各州に国立大学を設置することが決定された。以下は代表的な大学のリストである。米国CIAによる2011年の推計によれば15歳以上の国民の識字率は92.8%(男性95.6%女性90.1%)である。2010年の教育支出はGDPの3%だった。医療施設が26,000件を超えているが、それに反して医師が不足しており、人口1,000人辺りわずか0.4人ほどしか存在しない 。民族・宗教などの多様性や、過去のオランダやポルトガル、イギリスなどの分割統治の影響でいくつかの独立運動を抱えている。その一部には紛争へ発展したアチェ独立運動などもあった。東ティモールは独立運動の末、国連の暫定統治を経て2002年に独立したが、パプア州において独立運動が展開されており、カリマンタン島では民族対立が、マルク諸島ではキリスト教徒とイスラム教徒の宗教対立が存在する。なお、アチェ独立運動は2004年のスマトラ島沖地震の後、2005年12月27日に終結している。金品を目的とした強盗、スリ、ひったくり、置き引き、車上荒らし等の被害が多発しており、インターネットを通じての商品購入・売却を装った詐欺も確認されている。また、薬物犯罪も常態化しており、観光客が集まる繁華街の路上やナイトクラブなどの場所で、覚醒剤および大麻等の薬物を売りつけてくる売人が出没する事例が後を絶たない。最近では、市内で銃器を安価に購入出来ることから銃器等を使用した凶悪犯罪も増えており、同国を訪れる際は一層の注意を払う必要が求められている。Amnesty InternationalHuman Rights Watchおよび米国国務省による報告ではインドネシアで人権問題とされているのは西ニューギニア地域への弾圧。障害者の人権問題〜パスン.はインドネシア 語で足かせを意味する。重度の精神疾患者が本人や他人に危害を加えないようにするための因習である。治療手段を持たない貧困家庭で木製のフレームに患者の脚や手首に取り付けて拘束するために使用されている。1977年に違法化されたがインドネシア保険省の推計では国内の被害者は万8000人パスン被害者支援を行っているスリアニ協会によれば万人とされる。国内でもパスンは非人道的であると見なされているが精神障害者に対する社会的ケアが未だ貧弱であるために現在も存在している。家族が貧困で治療を断念し長期拘束後に刑務所へ入れることもある。2012年、AtmaHusadaMahakam地域精神病院により東カリマタンで名がパスンから解放され病院に収容された。彼らには政府から無料で薬が提供される。。こういった試みは政府のに準じて各地で行われているが貧困にある当事者家族に取ってはパスンが唯一の対処法であり、またその存在を恥じているため隠そうとしていることが問題の解決を妨げている。2013年6月RSJDの発表によれば2011年から記録されたパスン被害者は254名で年間では2012年の151人が最大だった。解消のためには家族に対する医学的治療への啓蒙が必要で教育や知識の不足がこの人権侵害の要因であると述べている。2014年までにとする宣言に向けて精神障害のある家族への支援が計画され、無料治療や束縛禁止を規制する精神保健法の整備がすすめられた。しかし国家の対策予算は40億ルピアに過ぎず解決は遠い。2016年2月28日政府はを宣言目標とした。社会問題省の記録では現在万人の被害者がいるとする。2017年にも中央政府は引き続き宣言をし対応を行なった。社会問題省の記録では特定された被害者4786人の内人が未だ束縛状態にあるとした。一方ベンクル州西カリマンタン東カリマンタンバリ東ヌサトゥンガラバベルでは宣言を達したとする。また被害者の特定と解放に加えて今後は障害や精神保健に関する情報提供や患者が退院後に利用できる滞在施設を試行するとした。社会問題省はソーシャルワーカーによる住民への啓蒙活動によってパスンを選択することなく適切な医学的社会的サービスにつながることを目指して活動している。その後も政府は隔年ごとに宣言目標を発して地方予算を設定しているが、2021年現在でも東ジャワだけで未だ1万2000人の被害者が推定されている。宗教文化は島ごとに特色を持ち日本ではバリ島のガムランなどのインドネシアの音楽や舞踊が知られる。またワヤンクリと呼ばれる影絵芝居やバティックと呼ばれるろうけつ染めも有名である。高温多湿な気候と丹念に洗濯する国民性のため、洗濯機は全自動式ではなく洗濯板が付いた二槽式が主流とされる。多彩な香辛料や蜂蜜などを調合した「ジャムウ」と呼ばれる伝統薬が広く生産・販売されている。インドネシア文学をインドネシア語、またはその前身であるムラユ語で、インドネシア人によって書かれた文学作品のことであると限定するならば、それは民族主義運動期に生まれたと言える。1908年、オランダ領東インド政府内に設立された出版局(バライ・プスタカ)は、インドネシア人作家の作品を出版し、アブドゥル・ムイスの『西洋かぶれ』(1928年)など、インドネシアで最初の近代小説といわれる作品群を出版した。また、インドネシア人によるインドネシア語の定期刊行物としては、1907年にバンドンでティルトアディスルヨが刊行したが最初のもので、その後、インドネシア語での日刊紙、週刊誌、月刊誌の刊行は、1925年には200点、1938年には400点を超えていた。20世紀の著名な文学者としてはなどの大河小説で国際的に評価されるプラムディヤアナンタトゥールの名を挙げることができる。以下代表的な作家詩人文学者を挙げる。ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が4件自然遺産が4件存在する。サッカーは最も人気のあるスポーツである。またバドミントンが盛んでありオリンピックで獲得したメダルの半分以上がバドミントンによるものである。ボクシングではWBA世界スーパー王者クリスジョンを生んだことで知られる。 +イラク共和国(イラクきょうわこく)通称イラクは中東の連邦共和制国家である。首都はバグダードでサウジアラビアクウェートシリアトルコイランヨルダンと隣接する。古代メソポタミア文明を受け継ぐ土地にあり世界で3番目の原油埋蔵国である。チグリス川とユーフラテス川流域を中心とする世界最古の文明メソポタミア文明(シュメール文明)を擁した地である。8世紀のアッバース朝は首都をイラクのバグダートに置き貿易やイスラム教の中心地として栄えた。アッバース朝衰退後の10世紀からは異民族支配を受け16世紀からはオスマン帝国の属州となった。第一次世界大戦でイギリス軍に占領され戦後イギリス委任統治領メソポタミアとなった。1932年に独立王国となり1958年の軍部クーデターで共和制になった。その後もクーデターが相次ぎ1979年からサダムフセインの独裁体制となった。クルド人自治問題イランイラク戦争や湾岸戦争の敗北経済制裁などの難問に強権で対処したが2003年に米英軍の攻撃を受け政権は崩壊。2005年10月に国民投票によって新憲法が承認され以降民主選挙による政府が樹立された。しばらく治安対策や復興支援のために米軍駐留が続いたが2011年に米軍が撤収した。民主化以降の政治体制は議院内閣制であり、議会は一院制で、州ごとの比例代表制および少数派を優先した全国区の比例代表制で選出される。任期は4年。元首である大統領は議会で選出され、大統領の任期も連動して4年である。大統領が任命する首相が行政権を握る。経済面では北部と北東部および南部で採掘される石油が豊富で、石油輸出���財政に占める割合が9割以上である。特に近年は原油生産量が急速に上昇している。同時に政府は石油依存体質からの脱却を目指している。人口は2020年のCIAの調査によれば約3887万人で民族はアラブ人トルクメン人アッシリア人などから構成される。言語はアラビア語とクルド語が公用語である。地理としては国土の中心をなすのはチグリス川とユーフラテス川が潤すメソポタミア平原でありの東部を占めている。北はトルコ東はイラン西はシリアとヨルダン南はサウジアラビアとクウェートに接し南部の一部はペルシア湾に臨んでいる。正式名称はアラビア語で(ラテン文字転写はJumhryatu l-‘Irq。読みはジュムフーリヤトゥル=イラーク)。通称は(al-‘Irqアル=イラーク)。公式の英語表記は、(リパブリック・オブ・イラーク )。通称、(イラーク)。日本語の表記は、イラク共和国。通称、イラク。イラークという地名は伝統的にメソポタミア地方を指す「アラブ人のイラーク」(al-‘Irq l-‘Arab) とザグロス山脈周辺を指す「ペルシア人のイラーク」(al-‘Irq l-Ajam) からなるが現在イラク共和国の一部となっているのは「アラブ人のイラーク」のみで「ペルシア人のイラーク」はイランの一部である。現イラクの国土は、歴史上のメソポタミア文明が栄えた地とほとんど同一である。メソポタミア平野はティグリス川とユーフラテス川により形成された沖積平野で、両河の雪解け水による増水を利用することができるため、古くから農業を営む定住民があらわれ、西のシリア地方およびエジプトのナイル川流域とあわせてとして知られている。紀元前4000年ごろからシュメールやアッカド、アッシリア、そしてバビロニアなど、数々の王国や王朝がこのメソポタミア地方を支配してきた。メソポタミア文明は技術的にも世界の他地域に先行していた。例えばガラスである。メソポタミア以前にもガラス玉のように偶発的に生じたガラスが遺物として残っている。しかしガラス容器作成ではまずメソポタミアがついでエジプトが先行した。Qattara遺跡 (現イラクニーナワー県のテルアルリマー) からは紀元前16世紀のガラス容器それも4色のジグザグ模様をなすモザイクガラスの容器が出土している。高温に耐える粘土で型を作成し塊状の色ガラスを並べたあと熱を加えながら何らかの圧力下で互いに溶け合わせて接合したと考えられている。紀元前15世紀になるとウルの王墓とアッシュールからは西洋なし型の瓶が遺跡からはゴブレットの破片が見つかっている。西暦634年ハーリドイブン=アル=ワリードの指揮のもと約18000人のアラブ人ムスリム からなる兵士がユーフラテス川河口地帯に到達する。当時ここを支配していたペルシア帝国軍はその兵士数においても技術力においても圧倒的に優位に立っていたが東ローマ帝国との絶え間ない抗争と帝位をめぐる内紛のために疲弊していた。サーサーン朝の部隊は兵力増強のないまま無駄に戦闘をくりかえして敗れメソポタミアはムスリムによって征服された。これ以来イスラム帝国の支配下でアラビア半島からアラブ人の部族ぐるみの移住が相次ぎアラブによってイラク と呼ばれるようになっていたこの地域は急速にアラブ化イスラム化した。8世紀にはアッバース朝のカリフがバグダードに都を造営しアッバース朝が滅びるまでイスラム世界の精神的中心として栄えた。10世紀末にブワイフ朝のエミール・は、第4代カリフのアリーの墓廟をナジャフに、またシーア派の第3代イマーム・フサインの墓廟をカルバラーに作った。1258年にバグダードがモンゴルのフレグハンによって征服されるとイラクは政治的には周縁化しイラン高原を支配する諸王朝 の勢力下に入った。16世紀前半にイランに興ったサファヴィー朝は、1514年のチャルディラーンの戦いによってクルド人の帰属をオスマン朝に奪われた。さらにオスマン朝とバグダードの領有を巡って争い、1534年にオスマン朝のスレイマン1世が征服した。(1609年 - 1610年)。1616年にサファヴィー朝のアッバース1世とイギリス東インド会社の間で貿易協定が結ばれイギリス人ロバートシャーリーの指導のもとでサファヴィー朝の武器が近代化された。1622年イングランドペルシア連合軍はホルムズ占領に成功���イングランド王国はペルシャ湾の制海権をポルトガルスペインから奪取した。1624年にはサファヴィー朝のアッバース1世がバグダードを奪還した。しかし1629年にアッバース1世が亡くなると急速に弱体化した。1638年、オスマン朝はバグダードを再奪還し、この地域は最終的にオスマン帝国の統治下に入った。18世紀以降、オスマン朝は東方問題と呼ばれる外交問題を抱えていたが、1853年のクリミア戦争を経て、1878年のベルリン会議でが築かれ、一時終息を迎えたかに見えた。しかし、1890年にビスマルクが引退すると、2度のバルカン戦争が勃発し、第一次世界大戦を迎えた。19世紀の段階では、オスマン帝国は、現在のイラクとなる地域を、と、の3州として統治していた 。一方オスマン帝国のバスラ州に所属してはいたがサバーハ家のムバーラク大首長のもとで自治を行っていたペルシア湾岸のクウェートは1899年に寝返ってイギリスの保護国となった。1901年に隣国ガージャール朝イランのマスジェデ・ソレイマーンで、初の中東石油採掘が行なわれ、モザッファロッディーン・シャーととの間で60年間の石油採掘に関するが結ばれた。1908年にダーシー利権に基づいてが設立された。1912年にカルースト・グルベンキアンがアングロ・ペルシャン石油会社等の出資でトルコ石油会社 を立ち上げた。という本を執筆したハンナ・バタートゥ氏は、イラクの王政が分裂した1921年から1958年までの期間について論じた。第1章では、イラクの階級区分の不明確な構造、アラブ人、クルド人、トルコ人、アルメニア人、アラム人、スンニ派のイスラム教徒、シーア派のイスラム教徒、キリスト教徒、ユダヤ人、高官、シャイフ、ウラマー、貴族階級の役人などを取り込んだアイデンティティの集合体、土地所有の大きさ、所得や資本のレベル、階級の移動、そして最後にヨーロッパとの提携のレベルについて論じられている。著者は、に基づいて統治されていたという。都市や部族の違いに加えて、部族間の分離および都市間の分離があり、イスラム教の下では団結していても、シーア派とスンニ派の対立下では分裂し、別々のマハッラで生活しながら原始的な通信の下では疎遠になっていた。第一次世界大戦ではクートの戦い でクートエルアマラが陥落するとイギリス軍は8ヶ月間攻勢に出ることが出来なかったがこの間の1916年5月16日にイギリスとフランスは交戦するオスマン帝国領の中東地域を分割支配するというサイクスピコ協定を結んだ。1917年に入るとイギリス軍は攻勢に転じ、3月11日には。しかし戦闘は北部を中心としてその後も行われた。1918年10月30日、オスマン帝国が降伏 。パリ講和会議 。1919年4月、英仏間で石油に関するを締結。 で現在のイラクにあたる地域はイギリスの勢力圏と定められ、サンレモ原油協定によってフランスはイラクでの25 %の石油利権を獲得した。トルコ革命 が勃発。大戦が終結した時点でもモースル州は依然としてオスマン帝国の手中にあったが、1920年6月にナジャフでが勃発する中、8月10日にイギリスはセーヴル条約によりモースル を放棄させようとしたが、批准されなかった 。1921年3月21日、ガートルード・ベルの意見によってトーマス・エドワード・ロレンスが押し切られ、今日のクルド人問題が形成された 。イギリス委任統治領メソポタミア.1921年8月23日に前述の3州をあわせてイギリス委任統治領メソポタミアを成立させて、大戦中のアラブ独立運動の指導者として知られるハーシム家のファイサル・イブン=フサインを国王に据えて王政を布かせた。クウェートは新たに形作られたイラク王国から切り離されたままとなった。1922年10月10日 。1923年7月24日ローザンヌ条約でトルコ共和国との国境が確定し北クルディスタンが切り離された。1927年10月14日でキルクーク油田を発見。1928年イギリスとトルコが赤線協定を締結。1929年イギリスが を設立。1930年6月30日でイラク石油会社の石油利権を改正。 。ハーシム王家はイギリスの支援のもとで中央集権化を進め、スンナ派を中心とする国家運営を始め、1932年にはイラク王国として独立を達成した。一方とメロン財閥傘下のガルフ石油とが共同出資して1934年にクウェート石油会社を設立。1938年クウェート��油はブルガン油田を発見した。1941年4月1日、によりのクーデター政権が出来たが、5月ので崩壊した。6月、シリア・レバノン戦役。8月、イラン進駐。1943年、。1945年12月、ムッラー・がソ連占領下の北西部マハーバードでクルド人独立を求めて蜂起し、翌年クルディスタン共和国を樹立したが、イラン軍の侵攻にあい崩壊 。バルザーニーはソ連に亡命し、1946年8月16日にクルディスタン民主党結成。1948年。5月15日第一次中東戦争 が勃発。1955年中東条約機構 に加盟。1956年10月29日エジプトによるスエズ運河国有化に端を発する第二次中東戦争 が勃発。アブドルカリームカーシムらが参戦している。中東情勢の激化に伴いスーパータンカーが登場した。1958年にはエジプトとシリアによって結成されたアラブ連合共和国に対抗して、同じハーシム家が統治するヨルダンとアラブ連邦を結成した。1958年7月14日、のクーデターによって倒され 、ムハンマド・ナジーブ・アッ=ルバーイー大統領とアブドルカリーム・カーシム首相による共和制が成立。カーシムは、親エジプト派を押さえ込む為にバルザーニーに帰国を要請し、1958年10月にバルザーニーが亡命先のソ連から帰国。親エジプト派のアーリフは罷免・投獄された。1959年3月7日、アラブ連合共和国が支援する親エジプト派が蜂起したが勃発。3月24日、中東条約機構 を脱退。1960年9月カーシム首相がイラク石油会社 の国有化を発表。1960年9月14日バグダッドで石油輸出国機構結成。1961年6月19日にクウェートがイラクと別の国として独立。6月25日カーシムがクウェート併合に言及すると7月1日にイギリス軍がを発動し独立を支援した。9月11日 が勃発した。第1次バアス党政権 .1963年2月8日に親エジプト派とバアス党の将校団のクーデターが起り、カーシム政権が倒された 。大統領にはアブドゥッサラーム・アーリフ、首相にはアフマド・ハサン・アル=バクルが就任した。1963年11月18日にアブドゥッサラームアーリフ大統領ら親エジプト派の反バアス党クーデターが勃発 (1963年11月イラククーデター)。1966年4月13日アブドゥッサラームアーリフが航空機事故で死去。後継の大統領にアブドッラフマーンアーリフが就任。親エジプト派としてナーセルを支持し1967年にアメリカとの国交を断絶。第2次バアス党政権 .1968年7月17日にバアス党政権が発足 アフマドハサンアル=バクルが大統領に就任した。1970年3月11日でクルディスタン地域 を設置。石油を産出するニーナワー県とキルクーク県は含まれなかった。1972年にソビエト連邦と友好条約を締結。1973年10月第四次中東戦争に参戦。同年10月16日イスラエル援助国に対してイラクを含むOPEC加盟6カ国は協調した石油戦略を発動しオイルショックが引き起こされた。第一次クルド・イラク戦争後の和平交渉が決裂し、バルザーニーが再び蜂起して が勃発。ペシュメルガ等を含め双方合わせて1万人超が死傷。その後、この戦いでイラク国軍を率いたサッダーム・フセインが実権を掌握した。サッダームフセイン政権.1979年7月16日にサッダームが大統領に就任した。就任直後にはクーデターが計画されたが未遂に終わり、同年7月30日までに34人が処刑、約250人が逮捕された。1980年にイランイラク戦争が開戦して1988年まで続けられた。1990年8月にクウェート侵攻後1991年に湾岸戦争となり敗北した。イラク武装解除問題 。による情報。2003年3月、イラク戦争に敗れてサッダームも死亡し、バアス党政権体制は崩壊した。戦後、イラクの石油不正輸出に国連のが関与していた国連汚職問題が発覚した。連合国暫定当局(米英共同統治).旧イラク共和国の滅亡後はアメリカイギリスを中心とする連合国暫定当局(CPA)によって統治されることとなり(2003年4月21日 - 2004年6月28日)正式な併合編入こそ行われなかったものの実質的にアメリカ合衆国の海外領土に組み込まれた。イラク戦争終結後もスンニートライアングルで暫定当局に対する激しい抵抗があったが2003年12月13日のではサッダームフセインがダウルで拘束された。2004年4月ファルージャの戦闘でCPA側が圧勝する。2004年6月28日暫定政権に主権が移譲された。同時に有志連合軍は国際連合の多国籍軍となり治安維持などに従事した。8月にはシーア派政治組織が影響力を高めた。暫定政権は国連安全保障理事会が採択したイラク再建復興プロセスに基づいて2005年1月30日にイラクで初めての暫定議会選挙を実施し3月16日に初の暫定国民議会が召集された。4月7日にジャラルタラバニが初のクルド人大統領に就任。移行政府が4月28日に発足し10月25日に憲法草案は国民投票で賛成多数で可決承認された。新イラク共和国(第四共和政).2005年12月15日に正式な議会と政府を選出するための議会選挙が行われた 。2006年3月16日に議会が開会し、2006年4月22日にシーア派政党連合の がヌーリー・アル=マーリキーを首相に選出、5月20日に国連安全保障理事会が採択したイラクの再建復興プロセス最終段階となる正式政府が議会に承認されて発足し、イラク共和国として再独立を果たした。これはイラクで初めての民主選挙による政権発足である。2006年12月30日、サッダーム・フセインの死刑執行。2008年3月にはムクタダーサドルのマフディー軍と政府軍が戦闘状態となり シーア派内部の対立が顕在化した。世俗派の政党連合「」を構成するは2010年2月20日に第2回総選挙をボイコットすると表明した。これはイラク合意戦線の選挙立候補者にサッダーム旧政権の支配政党であるバアス党の元党員や旧政権の情報機関民兵組織のメンバーが含まれているとして選挙参加を禁止されたためであるが後に合意戦線はボイコットを撤回した。2010年3月7日に第2回議会選挙が行われた ()。アッラーウィーの世俗会派イラク国民運動が第1党 (91議席) となりマーリキー首相の法治国家連合は第2党となった (89議席)。しかしマーリキーは選挙に不正があったとしてこの結果を認めなかった。その後司法判断が下され「選挙結果は正当」となった。2010年8月19日までに、新生イラク軍の訓練のために残留したアメリカ軍も2011年末に撤退した。2010年11月に議会はタラバニを大統領にマーリキーを首相にヌジャイフィを国会議長に選出しマーリキー首相が提出した閣僚名簿を議会が承認して12月に第二次マーリキー政権が発足した。2011年12月26日、バグダッドにある内務省の正面玄関で自爆テロがあり、少なくとも5人が死亡、39人が負傷したと警察が発表した。バグダッドでは22日にも爆弾テロがあり、70人近い死者、200人以上の負傷者が出たばかりであった。。2017年8月31日ISILによって支配されていたイラク北部の都市タッルアファルでの戦闘に勝利し解放を宣言。2017年12月9日、アバーディ首相は、ISILからイラク全土を解放したと発表した。2005年10月15日の国民投票で承認されたイラク憲法では県と地域から構成された連邦国家と定義されているが現在でもクルディスタン地域 を除いて政府から自治権を移譲された県はないため連邦制自体が全土で浸透していないという。国家元首の役割を果たすのは共和国大統領および2人の副大統領で構成される大統領評議会である。それぞれイラク国民の3大勢力であるスンナ派 シーア派クルド人から各1名ずつが立法府によって選ばれる。大統領は国民統合の象徴として儀礼的職務を行う。大統領宮殿位置はに位置している。行政府の長である首相は、議員の中から議会によって選出される。副首相が2名。その他の閣僚は、大統領評議会に首相・副首相が加わって選任される。現政権の閣僚は37名 。一院制で国民議会がある。任期4年で定数は329(2018年現在)。第1回総選挙が2005年12月15日に行われた。第4回総選挙は2018年5月12日に行われた。2018年現在の主な政党連合と獲得議席数は以下の通り。また反政府デモ活動により早期選挙が求められている。2008年におけるイラク人の治安部隊は約60万人。駐留多国籍軍は米軍が15万人以上ほかに27カ国が派遣しているが治安部隊要員の拡充により戦闘部隊は減少傾向にある。クルド地方3県 南部5県 及び中部カルバラ県の計9県で治安権限が多国籍軍からイラク側に移譲されている。北部のクルド3県ではクルド人政府が独自の軍事組織をもって治安維持に当たっている。南部ではシーア派系武装組織が治安部隊と断続的に戦闘を行っている。スンニ派地域では米軍の支援を受けた覚醒評議会 が治安維持に貢献しているとされる。イランとは、イラク戦争でバアス党政権が崩壊して以降、電気、水道、道路などのインフラの復���支援を受けた。また、同じシーア派ということもあり、アメリカが敵視するイランとの関係を強化し、親イラン傾向が強まっている。エジプトとは、イスラエルとの国交回復の前後の1977年に国交を断絶した。イラン・イラク戦争での援助により両国の絆が深まった時期もあったが、湾岸戦争後はエジプトがアラブ合同軍などに参加し、疎遠な関係となった。湾岸戦争後は、エジプトはイラクの石油と食糧の交換計画の最大の取り引き先であり、両国の関係は改善に向かった。シリアとはアラブ諸国内での勢力争いや互いの国への内政干渉問題ユーフラテス川の水域問題石油輸送費イスラエル問題への態度などをめぐって対立。レバノン内戦においてはPLOへの支援を行ない1980年代後半には反シリアのキリスト教徒のアウン派への軍事支援も行なった。これに対してシリアはイラクのクウェート侵攻に際して国交を断絶し多国籍軍に機甲部隊と特殊部隊を派遣しレバノンからも親イラクのアウン派を放逐した。1990年代は冷めた関係が続いた。2000年になってバッシャールアル=アサドが大統領になると石油の密輸をめぐる絆が強くなったが外交面では依然として距離をおいた関係になっている。ヨルダンはイランイラク戦争および湾岸戦争でイラクを支持したため両国の関係は強まった。1999年にアブドゥッラー2世が即位して以降も依然として良好である。イスラエルは1948年1967年1973年の中東戦争に参戦し強硬な態度を取った。イランイラク戦争中はイスラエル問題についての態度を軟化させ 1982年のアメリカによる平和交渉に反対せず同年9月のアラブ首脳会談によって採択されたフェス憲章 にも支持を表明した。ただし湾岸戦争ではクウェートからの撤退の条件としてイスラエルのパレスチナからの撤退を要求しイスラエルの民間施設をスカッドミサイルで攻撃した。イラクの地理について国土の範囲地形地質構造陸水気候の順に説明する。イラクの国土は東西870 km南北920 kmに及ぶ。国土の西端はシリア砂漠にありシリアヨルダンとの国境 である。北端はトルコとの国境 でクルディスタン山脈に位置する。東端はペルシャ湾沿いの河口 。南端はネフド砂漠中にありクウェートサウジアラビアとの国境 の一部である。イラクの地形は3つに大別できる。国土を特徴付ける地形は対になって北西から南東方向に流れる2 本の大河南側のユーフラテス川と北側のティグリス川である。ユーフラテス川の南側はシリア砂漠とネフド砂漠が切れ目なく続いており不毛の土地となっている。砂漠側は高度1000 mに達するシリアアラビア台地を形成しており緩やかな傾斜をなしてユーフラテス川に至る。2 本の大河周辺はメソポタミア平原が広がる。農耕に適した土壌と豊かな河川水によって人口のほとんどが集中する。メソポタミア平原自体も地形により二つに区分される。北部の都市サマッラより下流の沖積平野と上流のアルジャジーラ平原である。2 本の大河はクルナの南で合流しシャットゥルアラブ川となる。クルナからは直線距離にして約160 km川の長さにして190 km流れ下りペルシャ湾に達する。ティグリス川の東は高度が上がりイランのザグロス山脈に至る。バグダードと同緯度では400 mから500 m程度である。イラクとイランの国境はイラク北部で北東方向に張り出している。国境線がなめらかでないのはザグロス山脈の尾根が国境線となっているからである。イラク最高峰のもザグロス山中国境線沿いにそびえている。同山の周囲30 km四方にイラクで最も高い山々が見られる。アラビアプレートがユーラシアプレートに潜り込むように移動して地形を圧縮しペルシャ湾北岸まで延びるザグロス山脈を形成した。トルコ国境に伸びるクルディスタン山脈も褶曲山脈であり2000 mに達する峰々が存在する。ティグリスユーフラテスという2大河川が形成された原因もヒマラヤ山脈の南側にインダスガンジスという2大河川が形成されたのと同様プレートテクトニクスで説明されている。ティグリスユーフラテス合流地点から上流に向かってかつては最大200 kmにも伸びるが存在した。周囲の湿地と一体となり約1万平方kmにも及ぶ大湿原地帯を形成していた。湿原地帯には (沼沢地アラブ) と呼ばれる少数民族が暮らしておりアシと水牛を特徴とした生活を送っていた。しかしながら20世紀後半から計画的な灌漑排水計画が進められたため21世紀に至るとハンマール湖は 1/10 程度まで縮小している。イラクの陸水はティグリス、ユーフラテス、及びそれに付随する湖沼が際立つが、別の水系によるものも存在する。カルバラの西に広がるである。ネフド砂漠から連なるアルガダーフ・ワジ など複数のワジと地下水によって形成されている。ミル湖に流れ込む最も長いアルウィバード・ワジは本流の長さだけでも400 kmを上回り、4 本の支流が接続する。なお、イラク国内で最長のワジはハウラーン・ワジ であり、480 kmに達する。イラクの気候はほぼ全土にわたり砂漠気候に分類される。ティグリス川の北岸から北はステップ気候さらに地中海性気候に至る。したがって夏期に乾燥し5月から10月の間は全国に渡って降雨を見ない。南西季節風の影響もあって熱赤道が国土の南側を通過するため7月と8月の2カ月は最高気温が50 度を超える。ただし地面の熱容量が小さく放射冷却を妨げる条件がないため最低気温が30 度を上回ることは珍しい。一方北部山岳地帯の冬は寒くしばしば多量の降雪があり甚大な洪水を引き起こす。1921年に53.8 度の最高気温を記録したバスラは30年平均値でちょうど熱赤道の真下に位置する。首都バグダードの平均気温は8.5 度 (1月)、34.2 度 (7月)。年降水量は僅かに140 mmである。砂漠気候を中心とする乾燥した気候5000年を超える文明の影響により野生の大型ほ乳類はほとんど分布していない。イラクで最も大きな野生動物はレイヨウ次いでガゼルである。肉食獣としてはジャッカルハイエナキツネが見られる。小型ほ乳類ではウサギコウモリトビネズミモグラヤマアラシが分布する。鳥類はティグリス・ユーフラテスを生息地とする水鳥と捕食者が中心である。ウズラ 、カモ、ガン、タカ、フクロウ、ワシ、ワタリガラスが代表。ステップに分布する植物のうち、古くから利用されてきたのが地中海岸からイランにかけて分布するマメ科の低木トラガカントゴムノキ 、大輪の花が目立つハンニチバナ科の草、ヨーロッパ原産のムシトリナデシコが見られる。ティグリス・ユーフラテスの上流から中流にかけてはカンゾウが密生しており、やはり樹液が取引されている。両河川の下流域は湿地帯が広がり、クコ、ハス、パピルス、ヨシが密生する。土手にはハンノキ、ポプラ、ヤナギも見られる。ザグロス山中に分け入るとバロニアガシ が有用。樹皮を採取しなめし革に用いる。やはり創世記に記述がある。自然の植生ではないがイラクにおいてもっとも重要な植物はナツメヤシである。戦争や塩害で激減するまではイラクの人口よりもナツメヤシの本数の方が多いとも言われた。18の県 に分かれる。IMFの統計によると2020年のGDPは1695億ドルである。一人当たりのGDPは4223ドルで隣国のヨルダンと同等の水準であるが産油国が多い中東ではやや低い数値である。通貨はイラク戦争後のイラク暫定統治機構 統治下の2003年10月15日から導入されたイラク新ディナール。紙幣は、50、250、1000、5000、10000、25000の5種類。アメリカの評論誌Foreign Policyによれば、2007年調査時点で世界で最も価値の低い通貨トップ5の一つ。為替レートは1米ドル=1260新ディナール、1新ディナール=約0.1円。イラクは長らく、ティグリス・ユーフラテス川の恵みによる農業が国の根幹をなしていた。ところが、1927年にキルクークで発見された石油がこの国の運命を変えた。19世紀末に発明された自動車のガソリンエンジンが大量生産されるようになり、燃料としての石油の重要性が高まる一方だったからだ。1921年にはイギリスの委任統治下ながらイラク王国として独立していたため名目上は石油はイラクのものではあったが1932年にイラクが独立国となったのちもイギリスは軍を駐留し採掘権はイギリスBPのもとに留まった。利益はすべてイギリスの収入となりイラク政府民間企業には配分されなかった。第二次世界大戦を経た1950年、石油の需要が大幅に伸びはじめた際、ようやく石油による収入の50 %がイラク政府の歳入に加わることが取り決められた。イラクはその後ソ連に接近、南部最大のルメイラ油田がソ連に開発され、ソ連と友好協力条約を結んだ1972年、イラク政府はBP油田の国有化を決定、補償金と引き換えに油田はイラクのものとなった。石油危機による原油高の追い風で1970年から1980年まで年率11.9%という二桁の経済成長で当時のイラクの一人当たりGDPは中東で最も高くなり、サウジアラビアに次ぐ世界第2位の石油輸出国になった。1980年に始まったイラン・イラク戦争が拡大するうちに、両国が互いに石油施設を攻撃し合ったため、原油価格の上昇以上に生産量が激減し、衰退した。1990年のイラクによるクウェート侵攻の名目は、クウェート国内で革命政権を建てたとする暫定自由政府の要請があったこととしているが、背景には石油に関する摩擦があった。OPECによる生産割当をクウェートが守らず、イラクの国益が損なわれたこと、両国の国境地帯にある油田をクウェートが違法に採掘したこと、というのが理由である。イラクの原油生産量単位 万トン (United Nations "Statistical Yearbook")イラク経済のほとんどは原油の輸出によって賄われている。8年間にわたるイラン・イラク戦争による支出で1980年代には金融危機が発生し、イランの攻撃によって原油生産施設が破壊されたことから、イラク政府は支出を抑え、多額の借金をし、後には返済を遅らせるなどの措置をとった。イラクはこの戦争で少なくとも1000億ドルの経済的損害を被ったとされる。1988年に戦闘が終結すると新しいパイプラインの建設や破壊された施設の復旧などにより原油の輸出は徐々に回復した。1990年8月イラクのクウェート侵攻により国際的な経済制裁が加えられ1991年1月に始まった多国籍軍による戦闘行為 で経済活動は大きく衰退した。イラク政府が政策により大規模な軍隊と国内の治安維持部隊に多くの資源を費したことがこの状態に拍車をかけた。1996年12月に国連の石油と食糧の交換計画実施により経済は改善される。6ヵ月周期の最初の6フェーズではイラクは食料、医薬品およびその他の人道的な物品のみのためにしか原油を輸出できないよう制限されていた。1999年12月、国連安全保障委員会はイラクに交換計画下で人道的要求に見合うだけの原油を輸出することを許可した。現在では原油の輸出はイラン・イラク戦争前の四分の三になっている。2001~2002までに「石油と食料の交換」取引の下でイラクは、1日に280万バーレルを生産し、170万バーレルを輸出するようになり、120億ドルを獲得した。。医療と健康保険が安定した改善をみせたのにともない一人あたりの食料輸入量も飛躍的に増大した。しかし一人あたりの生活支出は未だにイランイラク戦争前よりも低い。世界食糧計画 の統計 によるとイラクの農地は国土の13.8 %を占める。天水では農業を継続できないがティグリスユーフラテス川と灌漑網によって農地を維持している。13.8 %という数値はアジア平均を下回るものの世界平均ヨーロッパ平均を上回る数値である。農業従事者の割合は低く、全国民の2.2 %にあたる62 万人に過ぎない。農業従事者が少ないため、一人当たり16.2 haというイラクの耕地面積は、アジアではモンゴル、サウジアラビア、カザフスタンに次いで広い。同2005年の統計によると主要穀物では小麦 次いで大麦 の栽培に集中している。麦類は乾燥した気候に強いからである。逆に米の生産量は13 万トンと少ない。野菜・果実ではトマト 、ぶどう が顕著である。商品作物としてはナツメヤシ が際立つ。エジプト、サウジアラビア、イランに次いで世界第4位の生産数量であり、世界シェアの12.6 %を占める。畜産業では、ヤギ 、ウシ が主力である。ナツメヤシはペルシャ湾、メソポタミアの砂漠地帯の原産である。少なくとも5000 年に渡って栽培されており、イラク地方の農業・経済・食文化と強く結びついている。とくにバスラとバグダードのナツメヤシが有力。バスラには800 万本ものナツメヤシが植わっているとされ、第二次世界大戦後はアメリカ合衆国を中心に輸出されてきた。イラン・イラク戦争、湾岸戦争ではヤシの木に被害が多く、輸出額に占めるナツメヤシの比率が半減するほどであった。バグダードのナツメヤシは国内でもっとも品質がよいことで知られる。イラクで栽培されているナツメヤシは、カラセー種 、ハラウィ種 、��ドラウィ種 、ザヒディ種 である。最も生産数量が多いのはハラウィ種だ。カドラウィ種がこれに次ぐ。カラセー種は品質が最も高く、実が軟らかい。ザヒディ種はバグダードを中心に栽培されており、もっとも早く実がなる。実が乾燥して引き締まっており、デーツとして輸出にも向く。イラクの工業は自給的であり食品工業化学工業を中心とする。食品工業はデーツを原料とする植物油精製のほか製粉業精肉業皮革製造などが中心である。繊維産業も確立している。化学工業は自給に要する原油の精製及び肥料の生産である。重油の精製量は世界生産の1 %から2 %に達する 。一方建築材料として用いる日干しレンガレンガはいまだに手工業の段階にも達しておらず組織化されていない個人による生産に依存している。製鉄薬品電機などの製造拠点も存在するが国内需要を満たしていない。農機具工作機械車両などと併せ輸入に頼る。原油確認埋蔵量は1,120億バレルで、サウジアラビア・イランに次ぐ。米国エネルギー省は埋蔵量の90 %が未開発で、掘られた石油井戸はまだ2,000 本に過ぎないと推定。2009年時点の総発電量461億kWhの93 %は石油による火力発電でまかなっている。残りの7 %はティグリス・ユーフラテス川上流部に点在する水力発電所から供給された。イラクの送配電網は1861年にドイツによって建設が始まった。19世紀イギリスとドイツは現在のイラクがあるメソポタミアへの覇権を競っていた。鉄道と電力網の建設はドイツがティグリスユーフラテス川における蒸気船の運航はイギリスによって始まった。イラクの貿易構造を一言で表すと原油と石油精製物を輸出し工業製品を輸入するというものである。2003年時点の輸出額に占める石油関連の比率は91.9 %同じく輸入額に占める工業製品の割合は93.1 %であるからだ。同年における貿易収支は輸出輸入とも101億ドルであり均衡がとれている。輸出品目別では、原油83.9 %、石油 8.0 %、食品5.0 %、石油化学製品1.0 %である。食品に分類されている品目はほとんどがデーツである。輸入品目別では、機械73.1 %、基礎的な工業製品16.1 %、食品5.0 %、化学工業製品1.0 %。貿易相手国は輸出がアメリカ合衆国 18.6 %ロシアとCIS諸国トルコブラジルフランス輸入がアメリカ合衆国 13.6 %日本ドイツイギリスフランスとなっている。イラン・イラク戦争中の1986年時点における貿易構造は、2003年時点とあまり変わっていない。ただし、相違点もある。輸出においては、総輸出額に占める原油の割合が98.1 %と高かったにもかかわらず、採掘から輸送までのインフラが破壊されたことにより、原油の輸出が落ち込んでいた。結果として、12億ドルの貿易赤字を計上していた。製鉄業が未発達であったため、輸入に占める鉄鋼の割合が5.9 %と高かったことも異なる。貿易相手国の顔ぶれは大きく違う。2003年時点では輸出入ともアメリカ合衆国が第一だが、1986年の上位5カ国にアメリカ合衆国は登場しない。輸出相手国はブラジル、日本、スペイン、トルコ、ユーゴスラビアであり、輸入相手国は日本、トルコ、イギリス、西ドイツ、イタリアであった。イラクは鉄道が発達しており、国内の主要都市すべてが鉄道で結ばれている。2003年時点の総延長距離は2200 km。旅客輸送量は22億人、貨物輸送量は11億トンに及ぶ。イラクの鉄道網はシリア、トルコと連結しており、ヨーロッパ諸国とは鉄道で結ばれている。バグダードとアナトリア半島中央南部のコンヤを結ぶイラク初の鉄道路線。一方自動車は普及が進んでおらず自動車保有台数は95万台 に留まる。舗装道路の総延長距離も8400 kmに留まる。国連の統計によれば住民はアラブ人が79%クルド人16%アッシリア人3%トルコマン人2%である。ユダヤ人も存在していたがイスラエル建国に伴うアラブ民族主義の高まりと反ユダヤ主義の気運により迫害や虐殺を受けて国外に追放され大半がイスラエルに亡命した。ただしクルド人については難民が多く1ポイント程度の誤差があるとされている。各民族は互いに混住することなくある程度まとまりをもって居住しておりクルド人は国土の北部にアッシリア人はトルコ国境に近い山岳地帯にトゥルクマーンは北部のアラブ人とクルド人の境界付近に集まっている。それ以外の地域にはアラブ人が分布する。気候区と関連付けると砂漠気候にある土地はアラブ人がステップ気候や地中海性気候にある土地にはその他の民族が暮らしていることになる。かつてはスーダンからの出稼ぎ労働者やパレスチナ難民も暮らしていたがイラク戦争後のテロや宗派対立によりほとんどが国外に出国するか国内難民となっている。またイラン革命を逃れたイラン人がイラク中部のと呼ばれる町に定住している。イラク南部ティグリス・ユーフラテス川合流部は、中東で最も水の豊かな地域である。イラク人は合流部付近を沼に因んでマーシュと呼ぶ。1970年代以降水利が完備される以前は、ティグリス川の東に数kmから10 km離れ、川の流れに並行した湖沼群とユーフラテス川のアン・ナスリーヤ下流に広がるハンマール湖が一体となり、合流部のすぐ南に広がるサナフ湖とも連結していた。マーシュが途切れるのはようやくバスラに至った地点である。アシで囲った家に住み、農業と漁労を生業としたマーシュ・アラブと呼ばれる民族が1950年代には40万人を数えたと言う。マーシュ・アラブはさらに2種類に分類されている。まず、マアッダンと呼ばれるスイギュウを労役に用いる農民である。夏期には米を栽培し、冬期は麦を育てる。スイギュウ以外にヒツジも扱っていた。各部族ごとにイッサダと呼ばれるムハンマドを祖先とうたう聖者を擁することが特徴だ。マアッダンはアシに完全に依存した生活を送っていた。まず、大量のアシを使って水面に「島」を作り、その島の上にアシの家を建てる。スイギュウの餌もアシである。南部のベニイサドはアラビアから移動してきた歴史をもつ。コムギを育てマーシュ外のアラビア人に類似した生活を送っている。マアッダンを文化的に遅れた民族として扱っていたがスイギュウ飼育がマアッダンだけの仕事となる結果となり結果的にマアッダンの生活様式が安定することにつながっていた。またアフリカ大陸にルーツを持つアフリカ系住民も非常に少数ながら生活している。そのほとんどがアラブの奴隷商人によってイラクに連れてこられた黒人の子孫とみられる。アラビア語、クルド語が公用語である。2004年のイラク憲法改正以来クルド語がアラビア語と共に正式な公用語に追加された。その他アルメニア語、アゼリー語や現代アラム語 なども少数ながら使われている。書き言葉としてのアラビア語 は、アラブ世界で統一されている。これはコーランが基準となっているからである。しかし、話し言葉としてのアラビア語 は地域によって異なる。エジプト方言は映画やテレビ放送の言葉として広く流通しているが、この他にマグレブ方言、シリア方言、湾岸方言、アラビア半島方言などが認められている。イラクで話されているのはイラク方言である。ただし、イラク国内で共通語となっているバグダードの言葉と山岳部、湾岸部にもさらに方言が分かれている。イラクにおける教育制度は、伝統的なコーランを学ぶ学校に始まる。イギリス委任統治領時代から西欧型の初等教育が始まり、独立前の1929年から女性に対する中等教育も開始された。現在の教育制度は1978年に改訂され、義務教育が6年制となった。教育制度は充実しており、初等教育から高等教育に至るまで無料である。国立以外の学校は存在しない。1990年時点の統計によると、小学校は8917校である。3年制の中学校への進学は試験によって判断され、3人に1人が中学校に進む。大学へ進学を望むものは中学校卒業後、2年間の予備課程を修了する必要がある。首都バグダードを中心に大学は8校、大学終了後は、19の科学技術研究所に進むこともできる。通常は婚姻時に改姓することはない(夫婦別姓)が、西欧風に夫の姓に改姓する女性もいる。イスラム教が国民の 99 %を占め次いでキリスト教 0.8 %ヒンドゥー教 その他 である。イスラム教徒の内訳はシーア派 60 - 65 %スンナ派 32 - 37 % である。キリスト教(カトリック東方正教会アッシリア東方教会等)はアッシリア人と少数民族に限られている。1987年の時点では140万人(全体の8%)のキリスト教徒が暮らしていたが1990年代とさらに2003年のフセイン政権崩壊以降とで多くが国を離れた。2010年の時点での人口比は0.8%と報告されている。全世界のイスラム教徒に占めるシーア派の割合は高くはないがイラク国内では過半数を占める。イラク国内では被支配層にシーア派が多い。シーア派は預言者の後継者最高指導者 (イマーム) が誰であるかという論争によってスンナ派と分裂した。シーア派は預言者の従弟であるアリーを初代イマームとして選んだがアリーの次のイマームが誰なのかによってさらに主要なイスマーイール派ザイド派十二イマーム派ハワーリジュ派などに分裂している。イラクで優勢なのはイランと同じイマームの再臨を信じる十二イマーム派である。シーア派法学の中心地は4つの聖地と一致する。すなわちカルバラーナジャフおよび隣国イランのクムとマシュハドである。スンナ派ではシャーフィイー学派、ハナフィー学派、ハンバル学派、マーリク学派の4法学派が正当派とされている。イラク出身のスンナ派イスラム法学者としては、以下の3人が著名である。8世紀まで政治・文化の中心であったクーファに生まれたアブー・ハニーファ は、ハナフィー法学派を創設し、弟子のアブー・ユースフと孫弟子のシャイバーニーの3人によって確立し、今日ではムスリムの信奉する学派のうち最大のものにまで成長した。バスラの は合理主義を標榜したムウタズィラ学派に属していたが後に離れる。ムウタズィラ派がよくしていたカラーム をもちいて論争し影響力を低下させた。同時に伝統的な信条をもつアシュアリー派を創設した。ガザーリー は、ペルシア人であったがバグダードのニザーミーヤ学院で教え、イスラーム哲学を発展させた。と呼ばれる。アシュアリー学派、シャーフィイー学派の教えを学び、シーア派のイスマーイール派などを強く批判した。後に、アリストテレスの論理学を受け入れ、イスラーム哲学自体に批判を下していく。イスラム神秘主義者としてはメディナ生まれの が著名である。バスラに住み、禁欲主義を説いた。神の意志と自らの意志を一致させるための精神修行法を作り上げ、ムウタズィラ派を開く。ムウタズィラ派は合理的ではあったが、彼の精神修行法は神秘主義 につながっていった。ヤジーディー派はイラク北部のヤジーディー民族だけに信じられており、シーア派に加えキリスト教ネストリウス派、ゾロアスター教、呪術信仰が混交している。聖典はコーラン、旧約聖書、新約聖書。自らがマラク・ターウースと呼ぶ堕落天使サタンを神と和解する存在と捉え、サタンをなだめる儀式を行うことから悪魔崇拝者と誤解されることもある。1990年時点のキリスト教人口は約100万人である。最大の分派は5割を占めるローマカトリック教会。アッシリア人だけはいずれにも属さずキリストの位格について独自の解釈をもつアッシリア東方教会 に属する。19世紀まではモースルのカルデア教会もネストリウス派に属していたがローマカトリック教会の布教活動により東方帰一教会の一つとなった。サービア教はコーランに登場し、ユダヤ教やキリスト教とともに啓典の民として扱われる歴史のある宗教である。マンダ教はそのサービア教と同一視されてきた。バプテスマのヨハネに付き従い、洗礼を非常に重視するため、水辺を居住地として選ぶ。ティグリス・ユーフラテス両河川のバグダード下流から、ハンマール湖に到る大湿地帯に多い。古代において西洋・東洋に広く伝播したグノーシス主義が原型と考えられている。ユダヤ教徒はバビロニア時代から現在のイラク地方に根を下ろし10世紀に到るまでユダヤ教学者を多数擁した。イスラエル建国以前は10万人を超える信者を居住していたが移民のため1990年時点でユダヤ教徒は数百人しか残っていない。イラク国民の嗜好品としてもっとも大量に消費されているのが、茶である。国連の統計によると、1983年から1985年の3年間の平均値として国民一人当たり2.63 kgの茶を消費していた。これはカタール、アイルランド、イギリスについで世界第4位である。国が豊かになるにつれて茶の消費量は増えていき、2000年から2002年では、一人当たり2.77 kgを消費し、世界第一位となった。日本茶業中央会の統計によると、2002年から2004年では戦争の影響を被り消費量が2.25 kgと低下しているが、これでも世界第4位である。イランやト���コなど生産地が近く、イラク国内では茶を安価に入手できる。細密画、アラビア書道、モスク建築、カルバラーやナジャフなどのシーア派聖地。伝統的な楽器としてリュートに類似するウード、ヴァイオリンに類似するレバーブ、その他ツィターに似たカーヌーン、葦の笛ナーイ、酒杯型の片面太鼓ダラブッカなどが知られている。ウードは西洋なしを縦に半分に割ったような形をした弦楽器である。現在の研究では3世紀から栄えたササン朝ペルシア時代の弦楽器バルバトが起源ではないかとされるが、アル=ファーラービーによれば、ウードは旧約聖書創世記に登場するレメクによって作られたのだと言う。最古のウード状の楽器の記録は紀元前2000年ごろのメソポタミア南部 にまで遡る。ウードはフレットを使わないため、ビブラート奏法や微分音を使用するアラブの音階・旋法、マカームの演奏に向く。弦の数はかつては四弦で、これは現在においてもマグリブ地方において古形を見出す事が出来るが、伝承では9世紀にキンディー によって一本追加され、五弦になったとされる。現在では五弦ないし六弦の楽器であることが多い 。イラクのウード奏者としては、イラク音楽研究所のジャミール・バシールJamil Bachir、バグダード音楽大学のナシル・シャンマNaseer Shamma、国際的な演奏活動で知られるアハメド・ムクタールAhmed Mukhtarが著名である。スターとしてウード奏者のムニール・バシールMunir Bashirも有名。カーヌーンは台形の共鳴箱の上に平行に多数の弦を張り渡した弦楽器で手前が高音の弦となる。指で弦をつまんで演奏する撥弦楽器であり弦の本数は様々だが百本に達するもの等もある。また現在、東アラブ古典音楽における核の一つとしてイラクのバグダードはエジプトのカイロと並び重要な地である。それだけでは無くイスラームの音楽文化の歴史にとってもバグダードは大変に重要な地で、アッバース朝時代のバグダードではカリフの熱心な文芸擁護によりモウスィリー、ザルザル、ズィリヤーブ等のウードの名手、キンディー、ファーラービー、サフィー・アッ=ディーン等の精緻な理論体系を追求した音楽理論家が綺羅星のごとく活躍をした。その様子は千夜一夜物語にも一部描写されている。時代は変遷し、イスラームの音楽文化の主流はイラク国外の地域に移ったのかも知れないが、現在でもかつての栄華を偲ばせる豊かな音楽伝統を持つ。バグダードにはイラーキー・マカーム と呼ばれる小編成で都会的な匂いのする室内楽の伝統がある。民謡にはカスィーダと呼ばれるアラブの伝統詩を謡い上げるものイラク独自の詩形を持つマッワールパスタなどが知られる。伝統的な結婚式では他アラブ圏でも同様だがズルナと呼ばれるチャルメラ状の楽器とタブルと呼ばれる太鼓がしばしば登場する。またクルド人は独特の音楽を持つ。現代のイラク人は西洋のロックヒップホップおよびポップスなどをラジオ放送局などで楽しんでおりヨルダン経由でエジプトのポップスなども輸入されている。イラクはアメリカ合衆国エジプトに次ぎ1974年3月5日に世界遺産条約を受託している。1985年にバグダードの北西290 kmに位置する平原の都市遺跡ハトラ が文化遺産に2003年にはハトラの東南東50 kmにあるティグリス川に面した都市遺跡アッシュール がやはり文化遺産に認定されている。アレクサンドロス大王の東征によって生まれた大帝国が分裂後に生まれたセレウコス朝シリアは紀元前3世紀ハトラを建設した。セレウコス朝が衰弱するとパルティア帝国の通商都市宗教の中心地として栄えた。2世紀にはローマの東方への拡大によってパルティア帝国側の西方最前線の防衛拠点となる。ローマ帝国の攻撃には耐えたがパルティア帝国は衰亡しパルティア帝国に服していたペルシス王国が東から版図を拡大する中224年に破壊された。226年にはパルティア自体が滅びペルシス王国はサーサーン朝ペルシアを名乗る。アッシュールは紀元前3000年ごろメソポタミア文明最初期のシュメールの都市としてすでに成立していた。その後シュメールの南方に接していたアッカド帝国の都市となりウル第三王朝を通じて繁栄紀元前2004年の王朝崩壊後も商業の中心地として継続した。アッシリア���成立するとその版図となり古アッシリア時代のシャムシアダド1世 (前1813年-前1781年在位) は王国の首都をアッシュールに定め廃れていたエンリル神殿を再建している。1000年の繁栄の後新アッシリア王国のアッシュールナツィルパル2世はニムルドを建設し遷都したためアッシュールの性格は宗教都市へと変化した。紀元前625年に成立しアッシリアを侵略した新バビロニア王国によって同614年に征服破壊される。アッシリア自体も同612年に滅びている。その後パルティア帝国が都市を再建したが短期間の後サーサーン朝ペルシャによって再び破壊されその後再建されることはなかった。アッシュールはドイツ人のアッシリア学者フリードリヒ・デーリチによって発掘調査が進められたため、遺物の多くはベルリンのペルガモン博物館に展示・収蔵されている。フセイン政権下の祝祭日を示した。イラクではフセイン政権時代前はバスケットボールイラク代表やサッカーイラク代表などが国際試合を行っており、特にサッカーはアジア最強とも言われていたが、フセイン政権になり、特にウダイ・サッダーム・フセインがイラクオリンピック委員長に就任して以降、ウダイによる拷問により多数のスポーツ選手が殺害され、イラク国内においてスポーツ界に暗い影を落とした。また、スタジアムなどのスポーツ関連施設もフセイン政権下では公開処刑場と化していた。1990年代におけるスポーツ界でイラクが起こした著名な出来事と言えば、1994 FIFAワールドカップアジア最終予選・対日本戦において試合終了直前に引き分けに持ち込み、日本のワールドカップ初出場の夢を打ち砕いたが挙げられる。やがてアメリカによりフセイン政権が崩壊すると、徐々にスポーツ界も復興し始め、サッカーイラク代表もアジアカップ2007で初めてとなるアジアの頂点を制し、アジア列強として再び力を取り戻しつつある。 +イラン・イスラム共和国と境を接する。また、ペルシア湾を挟んでクウェート、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦に面する。首都はテヘラン。ペルシア、ペルシャともいう。前6世紀のアケメネス朝時代から繁栄しサーサーン朝時代にはゾロアスター教が国教だったが642年にアラブ人に滅ぼされイスラム教が広まった。16世紀初めに成立したサファビー朝がシーア派十二イマーム派を国教としイラン人の国民意識を形成した。18世紀のカージャール朝を経て1925年からパフラヴィー朝になったが1979年のルーホッラーホメイニー師によるイラン革命により王政は廃され宗教上の最高指導者が国の最高権力を持つイスラム共和制が樹立された。政治体制は1979年に制定されたイランイスラーム共和国憲法によって規定されており国の元首である最高指導者の地位は宗教法学者に賦与され自由はに分類されている。外交面ではパフラヴィー朝時代にはアメリカ合衆国の強い影響下にあったが革命によりアメリカとの関係が悪化特にアメリカ大使館人質事件以降公然たる敵対関係に入った。アメリカからはテロ支援国家に指定されている。他方でイラン革命指導者は反共主義者が多いためソビエト連邦とも友好的ではなく革命後の外交は排外主義的な非同盟中立路線を基本とする。近年は核兵器開発を行っている疑惑から経済制裁を受けている。2015年にオバマ政権下のアメリカと核合意を締結して制裁解除を取り付けたがトランプ政権が破棄し制裁が再開されたため段階的に核合意履行停止を進めている。経済面ではパフラヴィー朝時代にアメリカからの経済援助を元手に経済各分野の近代化を進め、高度経済成長を成し遂げた。イラン革命の混乱とイラン・イラク戦争で経済は停滞したが、その後立て直しが図られた。世界有数の石油の産出地であり、それが国の主要財源である。しかし近年は長引くアメリカの制裁と新型コロナウイルスのパンデミックにより経済状態が深刻化している。軍事面では王政時代からの伝統を持つ正規軍と別に革命後に創設された革命防衛隊という最高指導者直轄の親衛隊的軍事組織が存在するのが特徴である。革命防衛隊はイラン国外の対外工作にも深くかかわりアメリカのトランプ政権からに指定された。男性に2年の兵役を課す徴兵制を採用しており兵力は61万人ほどである。2017年の国勢調査によると人口は約8千万人で、世界で17位であった。多くの民族と言語が存在する多文化国家であり、主要な民族の構成はペルシア人 (61%)、アゼルバイジャン人 (35%)、クルド人 (10%)、ロル族 (6%) である。宗教は99%がイスラム教徒でその大部分 (89%) がシーア派である。トルクメン人・バルーチ人・クルド人など10%がスンニ派を信仰している。極めて少数派としてユダヤ教・キリスト教・ゾロアスター教・バハイ教の教徒もいるが、バハイ教は非合法にされている。言語はペルシア語が公用語で大半を占めているが、他にクルド語やアゼルバイジャン語などがある。地理としては総面積は1648195 平方キロメートル で中東で2番目に大きく世界では17位である。北部を東西にアルボルズ山脈が北西部から南東部にザーグロス山脈が走りその間にイラン高原が広がる。国土のほとんどがイラン高原上にある。同国はユーラシアの中心に位置しホルムズ海峡に面するため地政学的に重要な場所にある。首都であるテヘランは同国の最も大きな都市であり経済と文化の中心地でもある。イランには文化的な遺産が多く存在しユネスコの世界遺産には22個登録されている。これはアジアでは3番目世界では11番目に多い。イラン人自身は古くから国の名をに改められたものの混乱が見られた。1959年、研究者らの主張によりモハンマド・レザー・シャーがイランとペルシアは代替可能な名称と定めた。その後1979年のイラン・イスラーム革命によってイスラーム共和制が樹立されると、国制の名としてイスラーム共和国の名を用いる一方、国名はイランと定められた。現在の正式名称はペルシア語で 通称 。公式の英語表記はIslamic Republic of Iran通称Iran。日本語の表記は通称イランであり漢字表記では伊朗伊蘭とも当てた。イランの歴史時代は紀元前3000年頃の原エラム時代に始まる。アーリア人の到来以降王朝が建設されやがてハカーマニシュ朝が勃興。紀元前550年にキュロス大王がメディア王国を滅ぼしてペルシアを征服しさらにペルシアから諸国を征服して古代オリエント世界の広大な領域を統治するペルシア帝国を建国した。紀元前539年にバビロン捕囚にあったユダヤ人を解放するなど各地で善政を敷きまたゾロアスター教をその統治の理念とした。アケメネス朝はマケドニア王国のアレクサンドロス大王率いるギリシャ遠征軍によって紀元前330年に滅ぼされたが、まもなく大王が死去してディアドコイ戦争となり、帝国は三分割されてセレウコス朝が成立し、ローマ・シリア戦争でセレウコス朝が敗れるとパルティアは離反した。パルティア滅亡後は226年に建国されたサーサーン朝が続いた。サーサーン朝は度々ローマ帝国と軍事衝突し259年/260年にシャープール1世は親征してきたウァレリアヌス帝をエデッサの戦いで打ち破り捕虜にしている。イスラーム期に先立つアケメネス朝以降のこれらの帝国はオリエントの大帝国として独自の文明を発展させローマ帝国やイスラム帝国に文化政治体制などの面で影響を与えた。7世紀に入るとサーサーン朝は東ローマ帝国のヘラクレイオス帝との紛争やメソポタミアの大洪水による国力低下を経てアラビア半島に興ったイスラーム勢力のハーリドイブンアル=ワリードらが率いる軍勢により疲弊。636年のカーディスィーヤの戦い642年のニハーヴァンドの戦いでイスラーム勢力に敗北を重ね651年に最後の皇帝ヤズデギルド3世が死去したことを以て滅亡した。イランの中世はこのイスラームの征服に始まる幾多の重要な出来事により特色付けられた。873年に成立したイラン系のサーマーン朝下ではペルシア文学が栄え10世紀に成立したイラン系のブワイフ朝はシーア派イスラームの十二イマーム派を国教とした最初の王朝となった。11世紀から12世紀にかけて発達したガズナ朝やセルジューク朝やホラズムシャー朝などのトルコ系王朝は文官としてペルシア人官僚を雇用しペルシア語を外交や行政の公用語としたためこの時代にはペルシア文学の散文が栄えた。1220年に始まるモンゴル帝国の征服によりイランは荒廃した。モンゴル帝国がイスラーム化したフレグ・ウルスが滅亡した後、14世紀から15世紀にかけてイラン高原��ティムール朝の支配下に置かれた。1501年にの教主であったイスマーイール1世がタブリーズでサファヴィー朝を開いた。シーア派イスラームの十二イマーム派を国教に採用したイスマーイール1世は遊牧民のクズルバシュ軍団を率いて各地を征服した。また、レバノンやバーレーンから十二イマーム派のウラマーを招いてシーア派教学を体系化したことにより、サファヴィー朝治下の人々の十二イマーム派への改宗が進んだ。1514年のチャルディラーンの戦いによってクルド人の帰属をオスマン帝国に奪われた。第五代皇帝のアッバース1世はエスファハーンに遷都し各種の土木建築事業を行ってサファヴィー朝の最盛期を現出した。1616年にアッバース1世とイギリス東インド会社の間で貿易協定が結ばれるとイギリス人のロバートシャーリーの指導によりサファヴィー朝の軍備が近代化された。しかし1629年にアッバース1世が亡くなると急速にサファヴィー朝は弱体化し1638年にオスマン帝国の反撃で現在のイラク領域を失い1639年のでオスマン朝との間の国境線が確定した。サファヴィー朝は1736年に滅亡しその後は政治的混乱が続いた。1796年にテュルク系のアーガー・モハンマドが樹立したガージャール朝の時代に、ペルシアはイギリス、ロシアなど列強の勢力争奪の草刈り場の様相を呈することになったの賠償金を支払い、在イランロシア帝国臣民への治外法権を認めさせられるなどのこの不平等条約によって本格的なイランの受難が始まった。こうした情況に危機感を抱いた、アーザルバイジャーン州総督のアッバース・ミールザー皇太子は工場設立や軍制改革などの近代化改革を進めたものの、1833年にミールザーが病死したことによってこの改革は頓挫した。1834年に国王に即位したモハンマド・シャーは失地回復のために1837年にアフガニスタンのヘラートへの遠征を強行したものの失敗し、1838年から1842年までのにてイギリスがアフガニスタンに苦戦した後、イギリスは難攻不落のアフガニスタンから衰退しつつあるイランへとその矛先を変え、1841年にガージャール朝から最恵国待遇を得た。更にモハンマド・シャーの治世下には、ペルシアの国教たる十二イマーム派の権威を否定するセイイェド・アリー・モハンマドがバーブ教を開くなど内憂にも見舞われた。モハンマド・シャーの没後、1848年にナーセロッディーン・シャーが第四代国王に即位した直後にバーブ教徒の乱が発生すると、ガージャール朝政府はこれに対しバーブ教の開祖セイイェド・アリー・モハンマドを処刑して弾圧し、宰相ミールザー・タギー・ハーン・アミーレ・キャビールの下でオスマン帝国のタンジマートを範とした上からの改革が計画されたが、改革に反発する保守支配層の意を受けた国王ナーセロッディーン・シャーが改革の開始から1年を経ずにアミーレ・キャビールを解任したため、イランの近代化改革は挫折した。ナーセロッディーン・シャーは1856年にヘラートの領有を目指してアフガニスタン遠征を行ったが、この遠征はイギリスのイランへの宣戦布告を招き、敗戦とパリ条約によってガージャール朝の領土的野心は断念させられた。こうしてイギリスとロシアをはじめとする外国からの干渉と内政の改進を行い得ないガージャール朝の国王の下で19世紀後半のイランは列強に数々の利権を譲渡する挙に及んだ。1872年のロイター利権のような大規模な民族資産のイギリスへの譲渡とロシアによる金融業への進出が進む一方臣民の苦汁をよそに国王ナーセロッディーンシャーは遊蕩を続けた。を締結したが戦争の二期目に突入しイギリス軍は撤退した。このような内憂外患にイラン人は黙して手を拱いていたわけではなく、1890年に国王ナーセロッディーン・シャーがイギリス人のジェラルド・タルボトにタバコに関する利権を与えたことを契機として、翌1891年から十二イマーム派のウラマーの主導でタバコ・ボイコット運動が発生し、1892年1月4日に国王ナーセロッディーン・シャーをしてタバコ利権の譲渡を撤回させることに成功した。第四代国王ナーセロデッィーン・シャーが革命家レザー・ケルマーニーに暗殺された後、1896年にモザッファロッディーンが第五代ガージャール朝国王に即位した。だが、ナーセロデッィーン・シャーの下で大宰相を務めたが留任し、政策に変わりはなかったため、それまでの内憂外患にも変化はなかった。しかしながら1905年に日露戦争にて日本がロシアに勝利すると、この日本の勝利は議会制と大日本帝国憲法を有する立憲国家の勝利だとイラン人には受け止められ、ガージャール朝の専制に対する憲法の導入が国民的な熱望の象徴となり、同時期の農作物の不作とコレラの発生などの社会不安を背景に、1905年12月の砂糖商人への鞭打ち事件を直接の契機として、イラン立憲革命が始まった。イラン人は国王に対して議会 (majles) の開設を求め、これに気圧された国王は1906年8月5日に議会開設の勅令を発し、9月9日に選挙法が公布され、10月7日にイラン初の国民議会 (Majiles-e Shoura-ye Melli) が召集された。しかしながらその後の立憲革命は、立憲派と専制派の対立に加え、立憲派内部での穏健派と革命派の対立、更には労働者のストライキや農民の反乱、1907年にイランをそれぞれの勢力圏に分割する英露協商を結んだイギリスとロシアの介入、内戦の勃発等々が複合的に進行した末に、1911年にロシア帝国軍の直接介入によって議会は立憲政府自らによって解散させられ、ここに立憲革命は終焉したのであった。なお、この立憲革命の最中の1908年5月にマスジェド・ソレイマーンで油田が発見されている。1911年の議会強制解散後、内政が行き詰まったまま1914年の第一次世界大戦勃発を迎えると、既にイギリス軍とロシア軍の勢力範囲に分割占領されていたイランに対し、大戦中には更にオスマン帝国が侵攻してタブリーズを攻略され、イラン国内ではドイツ帝国の工作員が暗躍し、国内では戦乱に加えて凶作やチフスによる死者が続出した。1917年10月にロシア大十月革命によってレーニン率いるロシア社会民主労働党ボルシェヴィキが権力を握ると、新たに成立した労農ロシアはそれまでロシア帝国がイラン国内に保持していた権益の放棄、駐イランロシア軍の撤退、不平等条約の破棄と画期的な反植民地主義政策を打ち出した。これに危機感を抱いたイギリスは単独でのイラン支配を目指して1919年8月9日に「英国・イラン協定」を結び、イランの保護国化を図った。この協定に激怒したイランの人々はガージャール朝政府の意図を超えて急進的に革命化し、1920年6月6日にミールザー・クーチェク・ハーン・ジャンギャリーによってギーラーン共和国が、6月24日に北部のタブリーズでアーザディスターン独立共和国の樹立が反英、革命の立場から宣言されたが、不安定な両革命政権は長続きせずに崩壊し、1921年2月21日に発生したイラン・コサック軍のレザー・ハーン大佐によるクーデターの後、同1921年4月にイギリス軍が、10月にソビエト赤軍がそれぞれイランから撤退し、その後実権を握ったレザー・ハーンは1925年10月に「ガージャール朝廃絶法案」を議会に提出した。翌1926年4月にレザー・ハーン自らが皇帝レザー・パフラヴィーに即位し、パフラヴィー朝が成立した。パフラヴィー朝成立後1927年よりレザーパフラヴィーは不平等条約破棄軍備増強民法刑法商法の西欧化財政再建近代的教育制度の導入鉄道敷設公衆衛生の拡充などの事業を進めたが1931年に社会主義者共産主義者を弾圧する「反共立法」を議会に通した後1932年を境に独裁化を強めまたガージャール朝が欠いていた官僚制と軍事力を背景に1935年7月のゴーハルシャードモスク事件や1936年の女性のヴェール着用の非合法化などによって十二イマーム派のウラマーに対抗し反イスラーム的な統治を行った。なおイスラームよりもイラン民族主義を重視したパフラヴィー1世の下で1934年10月にフェルドウスィー生誕1000周年記念祭が行われ1935年に国号を正式にペルシアからイランへと変更している。1930年代後半にはナチスドイツに接近し1939年に第二次世界大戦が勃発すると当初は中立を維持しようとしたが1941年8月25日に連合国によってイラン進駐を被りイラン軍は敗北しイギリスとソ連によって領土を分割された。イラン進駐下では1941年9月16日にレザーパフラヴィーが息子のモハンマドレザーパフラヴィーに帝位を譲位した他親ソ派共産党のトゥーデ党が結成され1943年11月30日に連合国の首脳が���都テヘランでテヘラン会談を開くなど戦後イランを特徴づける舞台が整えられた。また北部のソ連軍占領地では自治運動が高揚し1945年12月12日にアゼルバイジャン国民政府が1946年1月22日にはクルド人によってマハーバード共和国が樹立されたが両政権は共にアフマドガヴァーム首相率いるテヘランの中央政府によって1946年中にイランに再統合された。1940年代に国民戦線を結成したモハンマド・モサッデク議員は、国民の圧倒的支持を集めて1951年4月に首相に就任した。モサッデグ首相はイギリス系アングロ・イラニアン石油会社から石油国有化を断行したによって失脚させられ、石油国有化は失敗に終わった。このモサッデグ首相追放事件によってパフラヴィー朝の皇帝モハンマドレザーパフラヴィーは自らへの権力集中に成功した。1957年にCIAとFBIとモサドの協力を得て国家情報治安機構 を創設しこの秘密警察SAVAKを用いて政敵や一般市民の市民的自由を抑圧したシャーは白色革命の名の下米英の強い支持を受けてイラン産業の近代化を推進し大地主の勢力を削ぐために1962年に農地改革令を発した。特に1970年代後期にシャーの支配は独裁の色合いを強めた。1978年に入るとテヘランで1万人規模の反政府デモが発生するようになり、8月31日には暴徒が銀行に放火するなどした。イラン・イスラーム共和国.シャーの独裁的統治は1979年のイランイスラーム革命に繋がりパフラヴィー朝の帝政は倒れ新たにアーヤトッラーホメイニーの下でイスラム共和制を採用するイランイスラーム共和国が樹立された。新たなイスラーム政治制度は先例のないウラマーパレスチナのハマースなどのイスラエルの打倒を目ざすイスラーム主義武装組織への支援によって非常に緊張したものとなった。クルド人はイラン革命を支持し、自治権の獲得を目指していたが、革命成立後の政府は受け入れずにイラン・クルディスタン民主党を非合法化。1979年8月、クルド人はイラン西部のケルマーンシャー州や西アーザルバーイジャーン州の都市を占拠するなど大規模な反乱を起こしたが、翌月までに大半が鎮圧された。革命による混乱が続く1980年には隣国イラクのサッダームフセイン大統領がアルジェ合意を破棄してイラン南部のフーゼスターン州に侵攻しイランイラク戦争が勃発した。この破壊的な戦争はイランコントラ事件などの国際社会の意向を巻き込みつつ1988年まで続いた。国政上の改革派と保守派の争いは、選挙を通じて今日まで続くものである。保守派候補マフムード・アフマディーネジャードが勝利した2005年の大統領選挙でもこの点が欧米メディアに注目された。2013年6月に実施されたイラン大統領選挙では保守穏健派のハサンロウハーニーが勝利し2013年8月3日に第7代イランイスラーム共和国大統領に就任した。2021年6月18日に投票が行われたイラン大統領選挙ではエブラーヒームライースィーが当選した。この選挙では政界の有力者の多くが出馬を禁じられ立候補者が保守強硬派だらけとなったこともあり投票率は著しく低迷した。イランの政体は1979年以降の憲法の規定による立憲イスラーム共和制である。政治制度的に複数の評議会的組織があって複雑な関係をなしている。これらの評議会は民主主義的に選挙によって選出される議員で構成されるもの宗教的立場によって選出されるものあるいは両者から構成されるものもある。以下で説明するのは1989年修正憲法下での体制である。イランの政治制度の特徴は、何といっても「法学者の統治」である。これは、イスラーム法学者の解釈するイスラームが絶対的なものであることを前提とし、現実にイスラーム法が実施されているかを監督・指揮する権限を、イスラーム法学者が持つことを保障する制度である。この制度は、シーア派イスラームならではの制度といってよい。イランはシーア派のなかでも「十二イマーム派」に属するが、一般にシーア派の教義では「イマーム」こそが預言者の後継者として、「イスラームの外面的・内面的要素を教徒に教え広める宗教的統率者」としての役割を担うとされている。シーア派はイジュティハードの権限を持つイスラーム法学者を一般大衆とは区別し、この解釈権を持つイスラーム法学者(モジュタ��ド)に確固とした政治的・宗教的地位を与えている。モジュタヒドの最高位にあるのが、「マルジャエ・タグリード(模倣の源泉、大アーヤトッラー)」である。マルジャエ・タグリードはシーア派世界の最高権威であるが、ローマ教皇のように必ず1人と決まっているわけではなく、複数人のマルジャエ・タグリードが並立することがある。1978年から1979年のイラン・イスラーム革命によって、マルジャエ・タグリードの1人であったホメイニーがイランの最高指導者となり、宗教的のみならず、政治的にも最高の地位に就くこととなった。イランでは立候補者の数が多い。2000年2月に行われた第6回国会選挙では、290名の定員に対し、7,000人近くが立候補し、2001年の第8回大統領選挙では、840名が立候補した。特に国会選挙では投票の際投票者が一名を選択するのではなくその選挙区の定員数まで何人でも選定することができる。従ってテヘランのように30名もの定員がある選挙区では2 3人しか選ばない者もいれば30人まで列記して投票する者もいる。つまりどのような投票結果になるか予想しにくい制度であるばかりか死票や票の偏りがおこりやすい。テヘランのような大都会では投票が有名人に集中し候補者は規定票を獲得できず第2ラウンドへ持ち込まれるケースも多い。国会選挙の場合投票総数の三分の一を獲得しなければたとえ定員数内の上位でも当選にはならない。そして第2ラウンドの選挙になる。しかしこうしたやり方では選挙費用がかさむ上第2第3ラウンドとなれば選挙結果が決まるまで時間がかかりすぎ国会の空白期間が生じる。そのため2000年1月上旬選挙法の改正が行われ第一ラウンドの当選をこれまでの投票総数の3分の1から25パーセント以上獲得すれば当選とし第2ラウンドでは従来通り投票総数の50パーセント獲得すれば当選というように改正された。護憲評議会は、選挙の際に、立候補者の資格審査を行なっている。は、その法学上の資格と社会から受ける尊敬の念の度合いによって、専門家会議が選出する。終身制で任期はない。現在の最高指導者はアリー・ハーメネイー。大統領は最高指導者の専権事項以外で、執行機関たる行政府の長として憲法に従って政策を執行する。法令により大統領選立候補者は選挙運動以前に監督者評議会による審査と承認が必要で、国民による直接普通選挙の結果、絶対多数票を集めた者が大統領に選出される。任期は4年。再選は可能だが連続3選は禁止されている。大統領は就任後閣僚を指名し、閣議を主宰し行政を監督、政策を調整して議会に法案を提出する。大統領および8人の副大統領と21人の閣僚で閣僚評議会が形成される。副大統領、大臣は就任に当たって議会の承認が必要である。首相職は1989年の憲法改正により廃止された。またイランの場合、行政府は軍を統括しない。議会はといい、一院制である。立法府としての権能を持ち、立法のほか、条約の批准、国家予算の認可を行う。議員は任期4年で290人からなり、国民の直接選挙によって選出される。議会への立候補にあたっては監督者評議会による審査が行われ、承認がなければ立候補リストに掲載されない。この審査はに特に厳しく、例えば2008年3月の選挙においては7,600人が立候補を届け出たが、事前審査で約2,200人が失格となった。その多くがハータミー元大統領に近い改革派であったことから、議会が本当に民意を反映しているのか疑問視する声もある。また、議会による立法のいずれについても監督者評議会の承認を必要とする。日本語の報道では国会とも表記される。専門家会議は国民の選挙によって選出される86人のイスラーム知識人から構成される。1年に1回招集され会期は約1週間。選挙の際は大統領選議会選と同じく立候補者は監督者評議会の審査と承認を受けなければならない。専門家会議は最高指導者を選出する権限を持つ。これまで専門家会議が最高指導者に対して疑問を呈示したことはないが憲法の規定上専門家会議は最高指導者の罷免権限も持つ。監督者評議会は12人の法学者から構成され、半数を構成するイスラーム法学者6人を最高指導者が指名し、残り半数の一般法学者6人を最高司法権長が指名する。これを議会が公式に任命する。監督者評議会は憲法解釈を行い、議会可決法案がシャリーアに適うものかを審議する権限をもつ。したがって議会に対する拒否権をもつ機関であるといえよう。議会可決法案が審議によって憲法あるいはシャリーアに反すると判断された場合、法案は議会に差し戻されて再審議される。日本の報道では護憲評議会と訳されるが、やや意味合いが異なる。公益判別会議は議会と監督者評議会のあいだで不一致があった場合の仲裁をおこなう権限を持つ。また最高指導者の諮問機関としての役割を持ち、国家において最も強力な機関の一つである。最高司法権長は最高指導者によって任じられ最高裁判所長官および検事総長を任じる。一般法廷が通常の民事刑事訴訟を扱い国家安全保障にかかわる問題については革命法廷が扱う。革命法廷の判決は確定判決で上訴できない。またイスラーム法学者特別法廷は法学者による犯罪を扱うが事件に一般人が関与した場合の裁判もこちらで取り扱われる。イスラーム法学者特別法廷は通常の司法体制からは独立し最高指導者に対して直接に責任を持つ。同法廷の判決も最終的なもので上訴できない。2009年現在のイラン政府の対外政策の基本的な思想は全ての国家国民との公正かつ相互的な関係構築をすることである。シリアは他のアラブ諸国と異なり非スンナ派政権である事に加えイランイラク戦争ではシリアバース党とイラクバース党との対立も絡みシーア派が国民の大多数を占めるイランを支持した。イランとは現在でも事実上の盟邦関係を継続中で反米反イスラエル反スンニ派イスラム主義国際的孤立化にあるなど利害が一致する点が多い。近年ではシリア内戦でイランがアサド政権を支援するなど政治面の他経済軍事面でも一体化を強めつつある。近年ではイラク戦争やアラブの春の混乱でイラクシリアエジプトなどの中東の有力国が国力を落とす中相対的に中東におけるイランとサウジアラビアの影響力が拡大した。それぞれシーア派とスンナ派の盟主としてシリアやイエメンの内戦では異なる勢力を支援し事実上の代理戦争の様相を呈している他両国の外交官の追放など対立が表面化している。米国は、第二次世界大戦の結果としてイランの統治への干渉を開始しました。そこでは、ジャン・チャールズ・ブロトンズが彼の著書が許可されました。 これはイスラム法と一致していなかったため、イランの聖職者から反発を受け、アヨットラー・ルーホッラー・ホメイニーの登場を扇動しました。これが1978年から1979年のイラン革命につながり、シャー政権の転覆を促し、。2009年のイランの反アフマディーネジャード派の大規模なデモにイギリス大使館の関係者が関与していたことが知られているがイラン情報省海外担当次官は大統領選挙後のデモの発生にアメリカとヨーロッパの財団機関が関与していた事実があったとして。日本の新聞でもアメリカ政府がイランの体制の根幹にゆさぶりをかける、という内容の記事が掲載されたことがあり、米誌2010年2月3日号でもアメリカ政府関係者がこの頃のデモに関して、イランへの内政干渉を完全に肯定し、西欧化を押し付けようとする覇権主義的な発言をしている。2010年2月の革命31周年の際には、数千万人の体制派の国民が行進に参加したとされに今年も我々は勝利し、革命を守りぬいたと最高指導者ハーメネイ師が述べている。イラン政府はイスラム革命時から1989年にホメイニー師が死去するまではアメリカに対して強硬な姿勢だったが、その後は、アリー・ハーメネイー師、ハーシェミー・ラフサンジャーニー大統領、モハンマド・ハータミー大統領、マフムード・アフマディーネジャード大統領などが、アメリカがイランに対する敵視政策を止め、アメリカもイランも互いに相手国を理解し、相手国の立場を尊重し、平等互恵の関係を追求する政策に転換するなら、イランはいつでもアメリカとの関係を修復すると表明している。ラフサンジャーニー大統領は1996年のアトランタオリンピックに選手を派遣した。ハータミー大統領は文明の対話を提唱し、2001年9月11日のアメリカに対する武力行使を非難し、被害を受けた人々に哀悼を表明した。アフマディーネジャード大統領はイラク国民が選挙��選出した議会と政府の樹立後の、イラクの治安の回復に協力すると表明している。ブッシュ 政権→オバマ政権→トランプ政権の間でイランとの関わりに向けていくつかの重要な変化が起こり、両方の変化は核兵器の交渉を通じて描かれています。ダンコムは、そのような異なる政治的ダイナミクスについて論じ、イラン政府は自国の核開発問題について、核エネルギーの生産を目指すもので、核兵器開発ではないと今までに一貫して表明してきており、アフマディネジャド大統領はと断言している。非同盟諸国は2006年9月の首脳会議でイランによる平和利用目的の核開発の権利を確認する宣言等を採択し、会議の議長国キューバやエジプトもこれを支持している。欧米での反イスラーム的行為.2010年9月のイスラーム聖典を破り、それに火をつけた。これらの行為に対して、全世界で大規模な抗議運動が巻き起こった。聖地イェルサレムでも同時期に似たような反イスラーム的行為が行われた。このような事件に対して最高指導者アリーハーメネイーはメッセージのなかでイスラーム教徒とキリスト教徒を対立させることがこの事件の真の首謀者の望みであるとしと表明した。そしてこの事件の真の計画指示者についてと強調した。この事件に対しインド領カシミールアフガニスタンでも抗議デモが行われイランでは抗議のために多くの都市のバザールが9月15日を休業とした。元ムスリムは、これを訳して出版したことが原因ではないかと考えられている。詳細は悪魔の詩を参照。国軍として、陸軍・海軍・空軍などから構成されるイラン・イスラム共和国軍を保有している。イランは核拡散防止条約 (NPT) に加盟しているが国際社会からイランの核開発問題が問題視されている。また、国軍とは別に、パースダーラーン省に所属する2つの準軍事組織保有している。1979年にイスラム革命の指導者ホメイニー師の命で設立された、志願民兵によって構成されている準軍事組織「バスィージ(人民後備軍)」が存在している。設立時には2,000万人の若者(男女別々)で編成された。この数字は国民の27%超である。イランは31の州からなっている。イランの人口上位5都市は以下の通り。イランは北西にアゼルバイジャン(国境線の長さは432 km。以下同様)、アルメニア (35 km) と国境を接する。北にはカスピ海に臨み、北東にはトルクメニスタン (992 km) がある。東にはパキスタン (909 km) とアフガニスタン (936 km)、西にはトルコ (499 km) とイラク (1,458 km) と接し、南にはペルシア湾とオマーン湾が広がる。面積は1,648,000 km2で、うち陸地面積が1,636,000 km2、水面積が12,000 km2であり、ほぼアラスカの面積に相当する。イランの景観では無骨な山々が卓越し、これらの山々が盆地や台地を互いに切り離している。イラン西半部はイランでも人口稠密であるが、この地域は特に山がちでザーグロス山脈やイランの最高峰ダマーヴァンド山 (標高: 5,604 m) を含むアルボルズ山脈がある。一方、イランの東半は塩分を含むキャビール砂漠、ルート砂漠のような無人に近い砂漠地帯が広がり、塩湖が点在する。平野部はごくわずかで大きなものはカスピ海沿岸平野とアルヴァンド川(シャットゥルアラブ川)河口部にあたるペルシア湾北端の平野だけである。その他小規模な平野部はペルシア湾ホルムズ海峡オマーン湾の沿岸部に点在する。イランはいわゆる「人類揺籃の地」を構成する15か国のうちの1つと考えられている。全般的には大陸性気候で標高が高いため寒暖の差が激しい。特に冬季はペルシャ湾沿岸部やオマーン湾沿岸部を除くとほぼ全域で寒さが厳しい。国土の大部分が砂漠気候あるいはステップ気候であるが、ラシュトに代表されるイラン北端部は温暖湿潤気候に属し、冬季の気温は0℃前後まで下がるが、年間を通じて湿潤な気候であり、夏も29℃を上回ることは稀である。年間降水量は同平野東部で680 mm、西部で1700 mm以上となる。テヘランなどの内陸高地はステップ気候から砂漠気候に属し、冬季は寒く、最低気温は氷点下10度前後まで下がることもあり降雪もある。一方、夏季は乾燥していて暑く日中の気温は40度近くになる。ハマダーン、アルダビールやタブリーズなどのあるイラン西部の高地は、��テップ気候から亜寒帯に属し、冬は非常に寒さが厳しく、山岳地帯では豪雪となり厳しい季節となる。特に標高1,850 mに位置するハマダーンでは最低気温が-30度に達することもある。イラン東部の中央盆地は乾燥しており、年間降水量は200 mmに満たず、砂漠が広がる砂漠気候となる。特にパキスタンに近い南東部砂漠地帯の夏の平均気温は38℃にも達する酷暑地帯となる。ペルシア湾、オマーン湾沿岸のイラン南部では、冬は穏やかで、夏には温度・湿度ともに非常に高くなり平均気温は35℃前後と酷暑となる。年間降水量は135 mmから355 mmほどである。イランの経済は中央統制の国営イラン石油会社や国有大企業と農村部の農業および小規模な商業ベンチャーによるサービス業などの私有企業からなる混合経済である。政府は以前から引き続いて市場化改革を行い石油に依存するイラン経済の多角化を図っており収益を自動車産業航空宇宙産業家電製造業石油化学工業核技術など他の部門に振り分け投資している。チャーバハール自由貿易地域キーシュ島自由貿易地域の設定などを通して投資環境の整備に努め数億ドル単位での外国からの投資を呼び込むことを目指している。現代イランの中産階級の層は厚く堅実で経済は成長を続けているが一方で高インフレ高失業率が問題である。インフレ率は2007年度の平均で18.4%2008年4月には24.2%にまで達している。イランイスラム革命は富の再分配も理念の一つとしていたが実際には貧富の格差は大きい。縁故主義により経済的に成功したり海外への留学を楽しんだりする高位聖職者や政府軍高官の一族はと呼ばれている。財政赤字は慢性的問題で、これは食品、ガソリンなどを中心とする年総計約72億5000万ドルにものぼる莫大な政府補助金が原因の一つとなっている。これに対してアフマディーネジャード政権は、2010年からガソリンや食料品などに対する補助金の段階的削減に踏み切り、低所得層に対しては現金給付に切り替えている。イランはOPEC第2位の石油生産国で、2016年時点の生産量は200万バレル/日である。確認されている世界石油埋蔵量の10%を占める。また天然ガス埋蔵量でもロシアに続き世界第2位である。原油の輸出は貴重な外貨獲得手段であるとともに1996年の非常に堅調な原油価格は、イランの財政赤字を補完し、債務元利未払金の償還に充てられた。農業については国家投資生産自由化による活発化が目指され外国に対する売り込みマーケティングなどで輸出市場を開発し全般的に改善された。ナツメヤシピスタチオ花卉など輸出用農業生産物の拡大大規模灌漑計画により1990年代のイラン農業は経済諸部門の中でも最も早い成長のあった分野である。一連の旱魃による踏み足局面もあるが農業はいまだにイランで最大の雇用を持つ部門である。イランはバイオテクノロジーと医薬品製造などにも力を入れている。主要貿易国はフランス、ドイツ、日本、イタリア、スペイン、ロシア、韓国、中国などである。1990年代後半からはシリア、インド、キューバ、ベネズエラ、南アフリカ共和国など発展途上国との経済協力も進めている。また域内でもトルコとパキスタンとの通商を拡大させており、西アジア・中央アジアの市場統合のビジョンを共有している。2019年現在イランを訪れる海外からの観光客は800万人から900万人。イランの観光は多様でアルボルズ山脈とザグロス山脈でのハイキングやスキーペルシャ湾やカスピ海のビーチでの保養など様々なアクティビティがある。イラン政府は国内の様々な観光地への観光客誘致に力を入れており近年観光客数は増加している。国際線の拠点空港としてテヘランにエマーム・ホメイニー国際空港が存在している。フラッグキャリアであるイラン航空が国内路線および国際路線を運行している。またアーリヤー航空 イランアーセマーン航空 サーハー航空も運行している。国有鉄道であるイラン・イスラーム共和国鉄道が全土を結んでいる。主要都市では地下鉄として以下のアジアハイウェイ 9路線が全土を通っている。また首都テヘラン近郊では高速道路も建設されている。イランの人口は20世紀後半に劇的に増加し、2006年には7000万人に達した。しかし多くの研究では21世紀への世紀転換点��は、人口増加率の抑制に成功し、ほぼ人口補充水準に到達した後、2050年頃に約1億人で安定するまで人口増加率は徐々に低下してゆくものと考えられている。人口密度は1平方キロメートルにつき約40人である。イランは2005年時点、約100万人の外国難民などに約200万から300万人程度存在すると見積もられる。イランの民族はその使用言語と密接な関係にあり、次いで宗教が重要である。すなわちエスニック・グループの分類は何語を話す何教徒か、に依存する部分が大きい。イランの公用語はインド・ヨーロッパ語族イラン語群のペルシア語で人口の約半数はこれを母語とするが、チュルク系のアゼルバイジャン語を母語とする人も非常に多く人口の四分の一にのぼり、さらにペルシア語以外のイラン語群の諸語やその他の言語を話す人びともいる。先述のように、それぞれの民族の定義や範囲、あるいはその人口や全体に占める割合に関してはさまざまな議論があるが、イランに住むエスニック・グループは主に次のようなものである。ペルシア人、クルド人 、アラブ人 、バローチ 、ロル 、トルクメン 、ガシュガーイー、アルメニア人、グルジア人、ユダヤ人、アッシリア人、タリシュ人、、その他 である。しかし以上の数字は一つの見積もりであって、公式の民族の人口・割合に関する統計は存在しない。国際連合の統計によるとイランにおける識字率は79.1%であり女性の非識字率は27.4%に達する。イラン人とは狭義にはイランイスラーム共和国の国民の呼称。歴史的には中央アジアを含むペルシア語文化圏に居住しイラン人とみなされている人々。1935年にイランが正式な国名であると宣言されるまではギリシア語に由来するペルシア人の名称でよばれていた。イラン国民を構成するのは、多様な言語的・民族的・宗教的アイデンティティを持つ人々である。イラン系言語集団には、中央高原部に住み、ペルシア語あるいはその方言を母語とし、シーア派信徒である中核的イラン人(通常イラン人という時のイラン人)、クルド人、ロル族ならびにバフティヤーリー族、バルーチ人などである。テュルク系言語集団には、大集団のアゼリー(アゼルバイジャン人、一般には自他称ともトルコ人)、トルキャマーン(トルクメン人)、遊牧民のカシュカーイー、シャーサヴァン、アフシャールなど。南部のイラク国境にはアラビア語の話者集団がいる。宗教面では、国教の十二イマーム派の他に、スンナ派にはクルド人(シーア派信徒もいる)、バルーチ人、トルクメン人など、キリスト教徒(アルメニア人、東アラム語を母語とするアッシリア人など)、ユダヤ教徒、ゾロアスター教徒が存在する。ホラズム生まれのビールーニーブハラ生まれのブハーリーその近郊生まれのイブンスィーナーまたトゥース生まれのアブーハーミドガザーリーはもっぱらアラビア語で著述しているが中央アジアを含むペルシア語文化圏生まれであるために狭義のイラン人からはイラン人であるとみなされている。その他イランイスラーム革命後増大したイラン系アメリカ人バーレーンやドバイに数世代連続して居住するペルシア語方言を母語とするファールス州南部出身者などもここに含めることができる。主要な言語はペルシア語アゼルバイジャン語ガシュガーイー語タリシュ語である。イランにおけるイラン系言語の分布状況は以下の通り。1. 北部及びカスピ海沿岸部西方にギラキ語、東方にマーザンダラーン語の二大方言がある。4)セムナーン語及びサンゲサル語トルコ国境からイラク国境一帯にかけての、コルデスターン(ペルシア語で「クルド(人)の地」)地方を中心に居住する、クルド人の母語。クルド人の居住域は、イラン・イラク・トルコ・シリアの4国に分断されている。クルド語全体の話者人口は、統計のとり方によって数百万から千百万の間を上下する。ギャブリー語」という意味でイスラーム教徒から区別する他称である。話者は自分たちの言語をダリー語と呼んでいる。13)キャヴィール方言キャヴィール方言で話される方言の総称である。フール語など。14)ファールス方言群カーゼルーン周辺やシーラーズの北西地域など、ファールス地方で使用される方言の総称。ファール��州からフーゼスターン州エスファハーンの西方の広大な地域で話されるロル系遊牧民の言語。バフティヤーリー語はこの下位方言に属している。16)スィーヴァンド語シーラーズの北方スィーヴァンドで話される言語。南西イランに位置しながら言語学的には北西言語に属し言語島を成している。17)ラーレスターン語パキスタン、アフガニスタン南西部、イランに及ぶ広範囲で使用される。音韻面では最も保守的な言語の一つである。19)バーシュキャルド語大部分のイラン人はムスリムでありその90%がシーア派十二イマーム派である(詳細はイランのイスラームを参照)。ほかに非ムスリムの宗教的マイノリティがおり主なものにバハイ教ゾロアスター教ユダヤ教キリスト教諸派などがある。このうちバハーイーを除く3宗教は建前としては公認されており、憲法第64条に従い議会に宗教少数派議席を確保され、公式に「保護」されているなどかつての「ズィンミー」に相当する。これら三宗教の信者は極端な迫害を受けることはないが、ヘイトスピーチや様々な社会的差別などを受けることもある。また、これら公認された宗教であれ、イスラム教徒として生まれた者がそれらの宗教に改宗することは出来ず、発覚した場合死刑となる。一方バハイ教。ホメイニー自身もたびたびバハイ教をと断じて禁教令を擁護していた。歴史的にはマニによるマニ教もイラン起源とも言える。またマズダク教は弾圧されて姿を消した。通常婚姻時に改姓することはないが夫の姓を後ろに加える女性もいる。2002年の推計によれば15歳以上の国民の識字率は77%であり世銀発表の2008年における15歳以上の識字率は85%となっている。2006年にはGDPの5.1%が教育に支出された。主な高等教育機関としてはテヘラン大学 アミールキャビール工科大学 アルザフラー大学 イスラーム自由大学 シャリーフ工科大学などの名が挙げられる。イランの教育制度は次の四段階に分けられる。学年暦の始めメフル月一日に満6歳になっていれば入学できる。5年間の義務教育である。昔は小学児童の数が多すぎて二部制時には三部制の授業が行われたこともある。遊牧民のいる地域では時々普通の黒テントではなく白い丸型のテントが目につく。これは季節によって移動するテント学校である。ペルシア語の名称が指すように進路指導期間である。11歳よりの3年間である。この3年間の学習の結果に基づき次への進学段階で理論教育と工学技術職業のどちらかのコースに分けられる。3. 中等教育( 高等学校)4年間。1992年より新制度が導入された。理論教育課程では第一年度は人文科学科と実験数学科とに分かれ第二年次以降は前者はさらに 文化文学専攻と 社会経済専攻にまた後者は 数学物理専攻と 実験科学専攻に分かれる。この3年を修了した後に4年目は大学進学準備過程が与えられる。4. 大学( 単科大学は)全国共通試験を受けて、進学先・専攻が決まる。年に一度しか試験がないので、ある意味で、日本以上のきつい受験戦争がある。このため予備校が繁盛している。受からなければ、男子は兵役に就く。イラン・イラク戦争の殉教者が家族にいる場合は、優先的に入学が許可されている。ちなみに、私学・イスラーム自由大学と次に述べるパヤーメ・ヌールを除き、授業料は無料である。 パヤーメヌールは通信教育大学でイラン各地に140のセンターを持っている。学生数は約20万人であり授業料は私学イスラーム自由大学より安い。センターによっては女学生が8割に達するところがある。外国在住の学生は60名前後なかには日本人もいる。(2) 私学・イスラーム自由大学( )は、革命後に各地で開設され、イランの教育程度を上げるのに貢献している。また、出講すると高額の手当がもらえるので、他大学の教官にも人気がある。国立と異なり、ここは私学であるため授業料を取る。国立に受からなかった学生が進学することが多い。 大学を除く学校の総称はアラビア語起源のマドラセという。そのほかに幼稚園、障がい児と英才のための特別教育制度、中等教育を終えた人が2年間学ぶ教員養成講座、成人のための識字教育制度などがある。イランというより、中東教育全域の教育の特徴は、大学教育も含めて暗記教育である。こ���である。教科書に書いてあることをそのまま丸暗記する。これは大学生にも当てはまる。先生の講義を筆記し、それをそのまま一字一句暗記するのである。森田は、このようなイランの学校教育を「声の文化」が現れているとし、以下の三つの場面を根拠に挙げている。1. 小学校での授業方法現在のイランの公立小学校で行われている授業方法は三つの段階に分かれている。一つの段階は「教える」( )で二つ目の段階は「読む」( )であり三つ目の段階は「問う」( )である。まず「教える」段階では教師は児童を指名し教科書を声に出して読ませる。読んでいる途中で難しい言葉の解説を行ったり分かりにくい表現について内容をわかりやすく説明したりする。とにかくこの段階では教科書に何が書かれているのかについて理解する段階である。その段階が終わると次は「読む」段階である。これは授業中にすることではなく帰宅後に児童たちがそれぞれ行わなければならないことである。家に帰った児童はそれぞれ教科書を暗記するときに家族の誰か特に母親に手伝ってもらうケースが多い。というのもイランの場合教科書の暗記というのは教科書の内容を文字で書けることを意味していない。あくまでも教科書を口頭でいえるようになることが重要なのである。日本の宿題は文字を書くことが多いため家族がそれを手伝う必要はほとんどない。しかしイランの場合宿題をする時に教科書を見ながらこどもがきちんとその内容を一字一句間違えずにいえるかどうかをチェックする人が必要になる。第三段階の「問う」段階では、教科書の内容を暗記できているのかとか、教師がチェックするための問いである。教師は児童を指名し、教科書の内容について質問する。この質問の答えは、口頭で行われる。また、答える時、一つの単語を答えさせるようなことはない。教科書の2 - 3行から成る一部分全体を口頭で一字一句そのままに答える必要がある。イランでは、このような、口頭で教科書の内容を素早く言えること、それが小学校で育成される能力となっている。2. 私立男子中学校で行われた科学発表会研究発表を行うにあたって発表内容を全て暗記し一人一人の訪問者に対して口頭で説明を行うという方法がとられていた。もしこのような発表会が日本であった場合に第一に考えられる方法は発表内容を全て大きな紙に書き壁に貼ることであっただろう。イランにおいて研究内容を紙に書いて壁に貼るという習慣がないわけではない。しかしそういった研究発表はあくまで個人的に行われるものであり学校全体やグループを形成して行われるものではない。研究発表はあくまでも口頭で行われるのが普通である。3. イランにおける小学校一年生向けのペルシア語の教科書そこでは、文字教育よりも音声教育が優先していることがわかる。一年生の教科書の最初の数ページには、文字ではなく、絵だけが描かれている。最初の授業において教師はいきなりアルファベットの学習を始めることはない。授業の最初に教師は絵を見ながらペルシア語で絵に合わせた物語を語り、正しいペルシア語の発音の仕方などを教える。イラク・アフガニスタン及びパキスタンとの国境地帯並びにシスタン・バルチスタン州の一部の地域を除き、治安状況は首都テヘランを含めて概ね平穏に推移しているが、2020年1月3日に米国によるイラン革命ガード高官の殺害を端緒とする米・イラン関係の緊張状態が続いており、不測の事態が発生するおそれを孕んでいる。また同国において犯罪件数等に関する統計は公表されていないが、各種報道に照らすと一般犯罪は慢性的に発生しているものと見られている。1979年のイラン・イスラーム革命後、シャリーアに基づく政治体制が導入されたこともあり、同性愛者・非ムスリムの人権状況は大きく低下した。憲法では公式にシーア派イスラームの十二イマーム派を国教としており他のイスラームの宗派に対しては“完全なる尊重”に処された。なお加害者は鞭打ちの刑で済んだ。女性に対してはヒジャーブが強制されており行動性行為恋愛などの自由も著しく制限されている。イラン革命前では欧米風の装束が男女ともに着用されていたが現在では見られない。同性愛者に対しては共和国憲法で正式にを設けており発覚した場合は死刑である。刑罰においても、シャリーアに基づくハッド刑の中には人体切断や石打ちなど残虐な刑罰が含まれており、また未成年者への死刑も行われている。イランにおけるこれらの状況は世界の多数の国の議会政府国際機関NGOや隣国イラク国民からも人権侵害を指摘され人権侵害の解消を求められている。イランで最初に出た新聞は、を編集長とする、紙である。これは1833年に創刊された。1851年には官報としてVagha-ye Ettafaghihehなどである。第二次世界大戦中の1941年に連合国軍隊がイランに進駐、新聞の自由が大いに強調されたが、モサッデグ首相が失脚した1953年から、再び新聞への統制が強化された。1955年に成立した新聞法によれば、新聞雑誌の発行には内務省の許可を得なければならない。発行者は30歳以上のイラン人で、少なくとも3ヶ月以上続刊できるだけの資力を持っていなければならない。官公吏は芸術、文芸に関するもののほか、新聞雑誌を刊行することはできない。許可期間は6ヶ月で、各新聞は6ヶ月ごとに許可を更新する必要がある。反乱、放火、殺人を先導したり、軍事機密をもらしたりした場合のほか、反イスラーム的な記事を載せたり、王室を侮辱する記事を掲載した場合は、それぞれ6ヶ月以上2年以下の禁固刑に処せられる。また、宗教・民族の少数者を差別した記事を載せた場合の罰則もある。さらに厚生省が医薬の広告を厳重に監視している点も、イランの特色である。通信社は1937年に外務省が設立したパールス通信があり現在も政府管轄下にある。新聞には朝刊紙と夕刊紙が存在し朝刊紙で発行部数が多いのはなどである。イランではメジャーな新聞。刊行されている新聞のなかで最も歴史が古い。1871年創刊。エッテラーアートとはニュースの意味である。このエッテラーアートの英語版としてみなされているのが1935年に創刊のである。ケイハーンは大空または世界の意で世界報ということろである。1943年に創刊された。エッテラーアートよりは野党よりの傾向がある。その他にもテヘラン市役所で出版されているハムシャフリーテヘランに本拠を置く英字新聞等がある。イランにおけるラジオの導入は1940年に設立されたテヘランラジオに遡りテレビの導入は1958年に始まった。イラン革命後現在の放送メディアは国営放送のイランイスラム共和国放送 に一元化されている。イランでは全メディアが当局による直接間接の支配を受けており文化イスラーム指導省の承認が必要である。インターネットも例外ではないが若年層のあいだで情報へのアクセス自己表現の手段として爆発的な人気を呼びイランは2005年現在世界第4位のブロガー人口を持つ。また海外メディアの国内取材も制限されており、2010年にイギリスBBCの自動車番組トップ・ギアのスペシャル企画で、出演者とスタッフが入国しようとした際は、ニュース番組ではないにもかかわらずBBCという理由で拒否されたシーンが放送されている。イランは文化、すなわち美術、音楽、建築、詩、哲学、思想、伝承などの長い歴史がある。イラン文明が数千年の歴史の波乱を乗り越えて今日まで連綿として続いてきたことは、まさしくイラン文化の賜物であった、と多くのイラン人が考えている。イランのイスラーム化以降はイスラームの信仰や戒律が文化全般に影響を及ぼしている。イスラームのシーア派を国教とするイラン革命後の現体制下では特にそれが強まり法的な規制を伴っている。例えば書籍を販売するにはイスラムの価値観に合っているかが審査される。米料理が多く食べられる。また、カスピ海やペルシャ湾から獲れる魚料理に、鳥・羊・牛などの他、ラクダ|駱駝等も用いる肉料理、野菜料理などは種類豊富。最もポピュラーなのは魚・肉などを串焼きにするキャバーブである。野菜料理は煮込むものが多い。ペルシア料理研究家のナジュミーイェ・バートマーングリージー(Najmieh Batmanglij)は、自著『』で「イラン料理はペルシア絨緞同様に、色彩豊かでかつ複雑である。他の中東料理と共通する部分は多いが、もっとも洗練され、創意に富むといわれる」と述べている。イラン革命以前は飲酒が盛んであり���在でも密かに飲まれている。ペルシア文学は高く評価される。ペルシア語は2500年にわたって用いられ文学史上に明瞭な足跡を残している。イランにおいては詩作が古代から現在まで盛んであり続け中世ののジャラールウッディーンルーミーらのようにイラン詩人らの詩美は世界的に注目を浴びた。20世紀に入ると、ペルシア新体詩をも乗り越え、ノーベル文学賞候補ともなったアフマド・シャームルーや、イラン初の女流詩人パルヴィーン・エーテサーミー、同じく女流詩人であり、口語詩の創造を追求したフォルーグ・ファッロフザードのような詩人が現れた。小説においても20世紀には生前評価を得ることはできなかったものの『生き埋め』(1930年)『盲目の梟』(1936年)などの傑作を残したサーデグヘダーヤトが現れた。イスラーム化以後、イラン世界ではイスラーム哲学が発達した。11世紀には中世哲学に強い影響を及ぼしたイブン・スィーナーや哲学者にしてスーフィーでもあったガザーリーが、17世紀には超越論的神智学を創始したモッラー・サドラーが活動した。クラシック音楽においては新ロマン主義音楽作曲家としてなどイラン文化を題材とした作品を書いたアンドレオッセンや指揮者でありペルシャ国際フィルハーモニー管弦楽団を創設したアレクサンダーラハバリらの名が特筆される。ポピュラー音楽に於いてはイランポップと総称されるジャンルが存在する。ロックは禁止されているがテヘランのロックバンド のアルバムはアメリカやヨーロッパでも発売されている。その他には などのバンドや らのミュージシャンも国内外で広く活動をしている。イランの建築は様々な伝統と歴史から構造および芸術における観点の両方で非常に深い多様性を示している。同国において伝統的なペルシャ建築は継続性を維持するもの近代的な建築は革新を追求するものとして区分けされている。イラン映画は過去25年間に国際的に300の賞を受賞し、全世界的に評価されている。イランにおいて初の映画館が創設されたのは1904年と早く、イラン人によって初めて製作されたトーキー映画はアルダシール・イーラーニーによるでヴェネツィア国際映画祭作品賞を受賞したダールユーシュ・メフルジューイーのような社会派の映画人が活動した。現代の著名な映画監督としてははベルリン国際映画祭の金熊賞とアカデミー賞の外国語作品賞を受賞した。イラン国内には数多くの史跡が存在し積極的にユネスコの世界遺産への登録が行われている。2014年6月の時点でイランのUNESCO世界遺産登録物件は17件に達しその全てが文化遺産である。括弧内は登録年。イラン暦の元日にあたる春分の日に祝われる新年(ノウルーズ)の祝祭は2009年にユネスコの無形文化遺産に登録されている。イランの国技はレスリングであり強豪国として知られる。2012年のロンドンオリンピックでは金メダル3個を含む計6個のメダルを獲得した。イランではサッカーが盛んでありイランサッカー協会は1920年に創設された。サッカーイラン代表はアジアの強豪として知られ現在までに初出場となった1978年のアルゼンチン大会と1998年のフランス大会2006年のドイツ大会2014年のブラジル大会2018年のロシア大会と5度のFIFAワールドカップに出場している。 +勝負事における、勝敗が決定しない結果。チュニジア共和国、通称チュニジアは、北アフリカのマグリブに位置する共和制をとっている国家。西にアルジェリア、南東にリビアと国境を接し、北と東は地中海に面する。地中海対岸の北東にはイタリアが存在する。首都はチュニス。アフリカ世界と地中海世界とアラブ世界の一員であり、アフリカ連合とアラブ連盟と地中海連合とアラブ・マグレブ連合に加盟している。最も早くと呼ばれ、アフリカ大陸の名前の由来になった地域である。正式名称は、( : al-Jumhrya at-Tnisya、 : アル・ジュムフーリーヤ・アッ・トゥーニスィーヤ)。通称は、(Tnis)。日本語の表記はチュニジア共和国。通称チュニジア。テュニジアと表記されることもある。漢字表記は突尼斯。は、首都チュニスのアラビア語名と同じで、正式名称はといったような意味合いである。トゥーニスやチュニスの語源は紀元前4世紀にチュニスの地に存在した古代都市トゥネス で、英語名など欧米諸言語や日本語の国名チュニジアは、トゥネスが転訛した Tunus 地名語尾の -ia を付してつくられ、オスマン帝国による呼称に倣ったものである。古代にはフェニキア人が交易拠点としてこの地に移住し紀元前814年頃にはカルタゴアフリカをイスラム世界に編入した。ウマイヤ朝イフリキーヤが成立した。ハフス朝は西はアルジェから東はトリポリにまで至る領土を統治し、を著したイブン・ハルドゥーンなどが活躍した。しかし、ハフス朝は徐々に衰退し、16世紀初頭にオスマン帝国の支配から逃れるためにスペインの属国になった1574年にオスマン帝国によって滅ぼされがチュニジアに成立した。フサイン朝はフランス支配を挟んで252年間にわたり統治を行った。1837年に即位した時代に始められた西欧よりの政策と富国強兵策によって、チュニジアは近代化=西欧化政策を採った。などの活躍により1861年には憲法が制定され、はイスラーム世界およびアフリカ世界初の立憲君主となった。しかし、保守派の抵抗によって1864年に憲法は停止され、近代化=西欧化政策は挫折した。1869年には西欧化政策の負担によって財政は破綻した。1878年のベルリン会議でフランスの宗主権が列国に認められると、フランスによるチュニジア侵攻が行われ、1881年の、1883年のでフランスの保護領フランス領チュニジアとなった。この結果、ベイは名目のみの君主となり、事実上の統治はフランス人総監が行い、さらに政府および地方自治の要職もフランス人が占めた。1907年にはチュニジア独立を目的とする結社が成立した。首相から横滑りで大統領となったブルギーバは1959年に憲法を制定し社会主義政策を採るが1970年代には自由主義に路線を変更した。しかし長期政権の中ゼネストと食糧危機など社会不安が高まり1987年には無血クーデターが起こりベン=アリー首相が大統領に就任しブルギーバ政権は終焉した。1991年の湾岸危機ではイラクのサッダームフセイン政権を支持しアラブ人の連帯を唱えた。1990年代には隣国アルジェリアでイスラーム主義組織によるテロが繰り広げられ内戦に発展したためイスラーム主義組織は厳しく弾圧された。現在では、イスラーム諸国のなかでは比較的穏健なソフトイスラムに属する国であり、中東と西洋のパイプ役を果たしている。観光地としても発達し、アフリカの国の中では良好な経済状態である。一方で若者の失業率は30%前後と未だに高い。2010年末に始まった退陣要求デモが全土に拡大する中2011年1月14日に国外に脱出したベン=アリー大統領の後任としてまずモハメッドガンヌーシ首相が暫定大統領への就任を宣言翌1月15日に憲法評議会は規定に基づき下院議長のフアドメバザを暫定大統領に任命。この一連の事件はジャスミン革命と呼ばれる(「ジャスミン革命」は2011年1月現在正式な名称ではない。詳細は該当ページを参照)。2011年10月23日、中東・北アフリカ地域で広がっている政変が行われた。穏健派のが第1党に進出した。4割の得票で89議席、CPRが29議席、エタカトルが20議席を獲得した。今回は33の選挙区ごとに政党の候補者リストに投票する比例代表選挙であった。参加政党数は80を超え、立候補者数も1万1千人と多かった。11月19日制憲議会選挙で第1党になったアンナハダと二つの世俗政党が政権協議した結果、ハマディ・ジェバリのムスタファ・ベンジャアファルが就任する。22日に選挙後初の議会が開かれ、主要人事が承認された。2013年2月野党党首暗殺事件の責任を取りジェバリ首相が辞任。マルズーキ大統領は3月内相に組閣要請した。2013年7月ラライエドは繰り返される世俗派野党党首暗殺を受け混乱収集のために12月をめどに総選挙を行うと表明。2014年1月26日制憲議会は新憲法案を賛成多数で承認し、27日にマルズーキ大統領が署名した。チュニジアの政体は共和制大統領制を採用する立憲国家である。現行憲法は1959年6月1日に公布されたもの。国家元首である大統領は国民の直接選挙により選出される。任期は5年。再選制限は無い。憲法により大統領は行政の最高責任者とされ首相閣僚各県の知事の任免権軍の最高指揮権非常事態宣言の発令権など強大な権力を与えられている。首相および閣僚評議会は��統領の補佐機関に過ぎない。立法府は両院制で2002年の憲法改正により新設された上院と従来立法府として存在してきた代議院で構成される。上院の定数は126議席でうち85議席は地方議会による間接選挙により選出され41議席は大統領による任命制である。代議院は定数189議席で全議席が国民の直接選挙により選出される。議員の任期は上院が6年代議院が5年である。チュニジアでは1988年の憲法改正で複数政党制が認められたが2011年の政権崩壊まで与党立憲民主連合になっている。過去にもイスラーム主義政党も存在したが、共産党と同様に結党が禁じられていた。司法権は最高裁判所が担っている。チュニジア軍は陸軍海軍空軍の三軍から構成され総人員は約35000人である。三軍の他にも内務省指揮下の国家警備隊と沿岸警備隊が存在する。成人男子には選抜徴兵制が敷かれている。兵器体系はかつて中国から購入した哨戒艇などを除いて殆ど西側に準じている。独立直後から暫くはフランス軍のビゼルト基地問題やアルジェリア戦争への対応を巡ってフランスと対決する姿勢で接したが1970年代以降は親フランス親西側政策が続いている。1980年代に入るとアラブ連盟の本部がカイロからチュニスになり事務局長にチュニジア人が選ばれ1990年代のエジプトの連盟復帰までアラブ諸国の盟主にもなった。初代大統領ブルギーバはセネガルの初代大統領サンゴールらと共にフランコフォニー国際組織の設立に尽力した。1974年1月にチュニジア国内の親アラブ派の意向によってリビアと合邦が宣言されアラブイスラム共和国の成立が宣言されたがこの連合はすぐに崩壊した。その後リビアはチュニジアと対立し1980年のガフサ事件ではリビアで訓練を受けたチュニジア人反政府勢力がガフサの街を襲撃し多くの被害を出した。1985年にはリビア軍がチュニジアとの国境付近に集結しチュニジアを威嚇した。パレスチナ問題を巡ってはチュニジアは僅かながら第三次中東戦争と第四次中東戦争にアラブ側で派兵した。1982年にパレスチナ解放機構の本部がチュニスに移転したがオスロ合意後の1994年にパレスチナに再移転した。チュニジアにはパレスチナ人難民はごく僅かしか流入しなかった。チュニジアはイスラエルを承認しているが関係は決して良好とは言えずガザ紛争 においてはイスラエルを非難している。在留日本人数 - 136名在日チュニジア人数 - 907名チュニジアには24のウィラーヤに分かれている。各県の県知事は大統領による任命制。国土は、北端から南端までが約850キロメートル、東の沿岸から西方の国境まで約250キロメートルと細長く、南北に伸び、南端は先の細いとがった形である。東はリビア、西はアルジェリアに隣接する。北岸、東岸は地中海に面する。国土は北部のテル地域と中部のステップ地域、南部のテル地域の3つに大きく分けられる。北部地中海沿岸にはテル山地がありその谷間を北東にメジェルダ川が流れている。メジェルダ川流域のメジェルダ平野は国内で最も肥沃な穀倉地帯になっている。東側の地中海に面した海岸線は約1300キロメートルにわたる。北からチュニス湾ハンマメット湾ガベス湾と並び良港も多い。この沿岸部に古くから定住民が集住した。。その南には、アルジェリアから続くアトラス山脈中の国内最高峰であるシャンビ山(1,544m)以東がドルサル山地となっている。ドルサル山地は地中海からの湿気を遮るため、ドルサル山地より南はガベス湾までステップ気候になっていて、西部の標高400m〜800mの地域をステップ高原、東部の標高400m以下の地をステップ平原と呼ぶ。ステップ高原の南には平方5000kmのジェリド湖(塩湖)がある。この塩湖の北にある町メトラーウィやその西のルダイフでは19世紀の末からリン鉱石の採掘が開始され、現在ではその産出量は世界第5位で、チュニジアの主要な輸出品ともなっている。。ガベス湾の沖にはジェルバ島が存在する。南半分はサハラ砂漠になっておりマトマタから南東にダール丘陵がリビアまで続く。ダール丘陵から東には標高200m以下のジェファラ平野が広がる。この砂漠は風によって絶えず景色が変化する砂砂漠ごつごつした石や砂利と乾燥に強い植物がわずかにみられる礫砂漠または植生のない岩肌が��き出しになっている岩石砂漠が広がっており砂砂漠は一部であり大部分は礫砂漠と岩石砂漠で占められている。ケッペンの気候区分によると北部の地中海沿岸部は地中海性気候となり地中海沿岸を南に行くとスファックス付近からステップ気候になる。さらに南のサハラ砂漠は砂漠気候となる。春から夏にかけてサハラ砂漠から北にシロッコと呼ばれる熱風が吹き出す。北部では冬に雪が降ることがある。チュニスの年間降水量は470mm前後だが北部のビゼルトでは1000mmを越える。2000年代からチュニジアは経済の自由化と民営化のさなか、自らが輸出指向の国であることに気づいており、1990年代初期から平均5%のGDP成長でありながらも、政治的に結びついたエリートが恩恵を受ける汚職に苦しんだ。 チュニジアには様々な経済があり、農業や工業、石油製品から、観光にまで及ぶ。2008年ではGDPは410億ドル(公式為替レート)もしくは820億ドル(購買力平価)であった。 農業分野はGDPの11.6%、工業は25.7%、サービス業は62.8%を占める。工業分野は主に衣類と履物類の製造や自動車部品と電子機器の生産からなる。チュニジアは過去10年間で平均5%の成長を成し遂げたが、特に若年層の高い失業率に苦しんでいる。チュニジアは2009年には世界経済フォーラムによってアフリカにおいてもっとも競争力のある経済と位置づけられた。全世界でも40位であった。 チュニジアはエアバスやヒューレットパッカードなどの多くの国際企業の誘致に成功した 。観光は2009年にはGDPの7%と37万人分の雇用を占めていた。変わらずヨーロッパ連合がチュニジアの最大の貿易パートナーであり、現在チュニジアの輸入の72.5%、チュニジアの輸出の75%を占めている。チュニジアは地中海沿岸でヨーロッパ連合のもっとも確固とした貿易パートナーの1つであり、EUの30番目に大きい貿易パートナーに位置づけている。チュニジアは1995年7月に、ヨーロッパ連合とを締結した最初の地中海の国である。ただし、効力が生じる日の前に、チュニジアは両地域間の貿易で関税を撤廃し始めた。チュニジアは2008年に工業製品への関税撤廃を完了し、そのためEUとの自由貿易圏に入った最初の地中海の国になった。はチュニスで建設されている完全なスポーツ都市である。集合住宅に加え多くのスポーツ施設からなるこの都市は50億ドル(約500億円)かけてUAEのBukhatirグループによって建設される。 チュニスファイナンシャルハーバーは30億ドル(約300億円)の開発利益を見込むプロジェクトにおいてチュニス湾にある北アフリカで初めてのオフショア金融センターになる。 チュニステレコムシティはチュニスにおけるITハブを作成する30億ドル(約300億円)規模のプロジェクトである。チュニジア経済には小麦とオリーブを中核とする歴史のある農業、原油とリン鉱石に基づく鉱業、農産物と鉱物の加工によって成り立つ工業という三つの柱がある。そのため他のアフリカ諸国より工業基盤は発達しており、1人当たりのGDPは約4000ドルでありモロッコやアルジェリアと共にアジアの新興国とほぼ同じレベルである。急速な成長を見せているのは欧州諸国の被服製造の下請け産業である。貿易依存度は輸出34.4%、輸入45.2%と高く、狭い国内市場ではなく、フランス、イタリアを中心としたEU諸国との貿易の占める比率が高い。2003年時点の輸出額80億ドル、輸入額109億ドルの差額を埋めるのが、24億ドルという観光収入である。国際的には中所得国であり、アフリカ開発銀行 の本部が置かれている。フランスやリビアに出稼ぎしているチュニジア人労働者からの送金も大きな外貨収入源となっている。アトラス山脈の東端となる国の北側を除けば国土の大半はサハラ砂漠が占めるものの農地の占める割合が国土の31.7%に達している。ヨーロッパに比べて早い収穫期を生かした小麦の栽培と輸出乾燥気候にあったオリーブと野菜栽培が農業の要である。食糧自給率は100%を超えている。北部は小麦栽培と畜産が盛ん。ヒツジを主要な家畜とする畜産業は北部に集中するが農業に占める比率は中部南部の方が高い。2005年時点の生産高を見ると世界第5位のオリーブも目立つ。チュニジア鉱業の中核は、世界第5位のリン鉱石、主な鉱山は国土の中央部、ガフサ近郊に���る。油田は1964年にイタリア資本によって発見され、南部のボルマ近郊の油田開発が進んでいる。一方、リビア国境に近いガベス湾の油田はあまり進んでいない。2004年時点の採掘量は、原油317万トン、天然ガス82千兆ジュールである。エネルギー自給率も100%を超えている。このほか、亜鉛、銀、鉄、鉛を採掘している。これはプレート移動によって形成された褶曲山脈であるアトラス山脈に由来する。全体的な鉱業の様相はアトラス山脈西端に位置する国モロッコとよく似ている。チュニジア工業は農業生産物の加工に基づく食品工業鉱物採取と連動した化学工業加工貿易を支える機械工業と繊維業からなる。食品工業は6000万本にも及ぶオリーブから採取したオリーブ油と加工野菜である。主な工業都市は首都チュニス。輸出に占める工業製品の比率が81%、輸入に占める工業製品の比率が77.8%であるため、加工貿易が盛んに見える。これは、繊維産業と機械産業によるものだ。輸出を品目別に見ると、衣料37.0%、電気機械11.9%、原油5.4%、化学肥料4.7%、織物3.7%である。一方、輸入は、繊維14.7%、電気機械11.9%、機械類10.7%、自動車6.9%、衣料5.3%である。食料品が輸出に占める割合は7.6%、輸入では9.0%。主な貿易相手国はEC諸国、特に旧宗主国であったフランスと支配を受けたイタリアである。輸出入ともこの2国が約5割の比率を占める。金額別では輸出相手国が、フランス、イタリア、ドイツ、隣国リビア、ベルギー、輸入相手国がフランス、イタリア、ドイツ、スペイン、ベルギーである。首都チュニスにはチュニス・カルタゴ国際空港があるほか、ヨーロッパではリゾート地として知られるにはエンフィダ=ハンマメット国際空港が、ジェルバ島にはジェルバ=ザルジス国際空港があり、いずれの空港も主として周辺国やヨーロッパの都市と結ばれている。北部を中心に、チュニジア鉄道が敷設されている。A1、A2、A3、A4の4つが主要路線となっている。また、一部区間はの一部分となっている。イスラーム国だが世俗的な国家であり独立と同年の1956年ブルギーバ初代大統領の「国家フェミニズム」の下で制定された家族法によってトルコと同様に一夫多妻制や公共の場でのスカーフやヴェールの着用は禁止されている。続くベンアリー大統領もフェミニズム政策を踏襲し1993年には婚姻後の夫婦共有財産も個別財産として選択可能となった。家族法制定から現在まで女性の社会進出が著しくアラブ世界で最も女性の地位が高い国となっている。イスラム世界では珍しくチュニジアは中絶が法律で認められている国である。1956年の独立時から2007年までの人口増加が約2.3倍である。住民はアラブ人が98%である。チュニジアの先住民はベルベル人やフェニキア人だったが7世紀のアラブによる征服以降住民の混血とアラブ化が進んだため民族的にはほとんど分けることが出来ない。残りはヨーロッパ人が1%ベルベル語を話すベルベル人ユダヤ人黒人などその他が1%である。アラビア語が公用語であるが独立前はフランスの保護下にあったことからフランス語も広く普及しており教育政府メディアビジネスなどで使われるなど準公用語的な地位となっている。教授言語はフランス語とアラビア語の両方となっており大多数の国民がフランス語を話すことが可能である。アラビア語チュニジア方言はマルタ語に近い。またごく少数ながらベルベル語の一つであるシェルハも話されている。イスラームが国教であり、国民の98%はスンナ派で、僅かながらイバード派の信徒も存在する。その他、ユダヤ教、キリスト教。イスラームも比較的戒律は緩やかで、女性もヴェールをかぶらず西洋的なファッションが多く見られる。1980年代にイスラーム主義の興隆と共にヴェールの着用も復古したが、1990年代に隣国アルジェリアでイスラーム主義者と軍部の間で内戦が勃発すると、イスラーム主義は急速に衰退し、ヴェールの着用も衰退した。チュニジア南部のジェルバ島はユダヤ人居住区の飛び地となっており、島のエル・グリーバ・シナゴーグは世界で最も古いシナゴーグの内の一つである。6歳から16歳までの初等教育と前期中等教育が無償の義務教育期間となっており、その後4年間の後期中等教育を経て高等教育���の道が開ける。チュニジアの児童は家庭でアラビア語チュニジア方言を学んだ後、学校で6歳から正則アラビア語の読み書きを、8歳からフランス語の読み書きを、12歳から英語を教わる。2004年のセンサスによれば、15歳以上の国民の識字率は74.3%である。主な高等教育機関としては、ザイトゥーナ大学も挙げられる。代表的なチュニジア料理としてはクスクス(粒状のパスタ)ブリックラブレビなどが挙げられる。チュニジアはイスラーム国であるがワインの生産国でもある。チュニジアワインにはフランスの影響によりロゼワインも多い。マツの実入りのミントティーがありオレンジゼラニウムなどの花の蒸留水フラワーウォーターはコーヒー菓子に入れる。大多数のチュニジア人の母語はアラビア語である。。現代の代表的なチュニジア出身の作家としては、アルベール・メンミ、アブデルワハブ・メデブ、ムスタファ・トゥリリなどが挙げられる。中世においてと呼ばれるチュニス出身のイブン・ハルドゥーンはにてアサビーヤを軸に文明の発達や没落を体系化し、独自の歴史法則理論を打ち立てた。ハルドゥーンは労働が富を生産するとの概念を、18世紀に労働価値説を唱えたアダム・スミスに先んじて説くなど天才的な学者であった。チュニジアは映画製作の盛んな国ではないがチュニジア出身の映像作家としてはのムフィーダトゥラートリなどの名が挙げられる。1966年から二年に一度カルタゴ映画祭が開催されている。チュニジア国内にはユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が7件自然遺産が1件存在する。国技はサッカーであり2016年現在サッカーチュニジア代表は初出場となった1978年のアルゼンチン大会以降1998年のフランス大会2002年日韓共同大会2006年のドイツ大会まで3期連続でFIFAワールドカップに出場した。主なプロクラブとしてはエスペランスチュニスクラブアフリカーンエトワールサヘルCSスファクシアンなどの名が挙げられる。バレーボールも盛んでありバレーボールチュニジア男子代表はアフリカ諸国の強豪に挙げられる。陸上競技ではモハメドガムーディがメキシコシティオリンピック男子5000mで金メダルなどメダル4個競泳でウサマメルーリが2008年の北京オリンピック男子1500m自由形でアハメドハフナウィが2021年の東京オリンピック男子400m自由形でそれぞれ金メダルを獲得している。 +トルコ共和国(トルコきょうわこく、)、通称トルコは、西アジアに位置するアナトリア半島(小アジア)と東ヨーロッパに位置するバルカン半島東南端の東トラキア地方を領有する共和制国家。首都はアナトリア中央部のアンカラ。アジアとヨーロッパの2つの大州にまたがる。北は黒海とマルマラ海西と南は地中海アルメニアアゼルバイジャンイランイラクシリアと接する。トルコ語による正式国名は、」を意味するturcoに由来する。英語など諸外国語では、トルコ共和国の前身であるオスマン帝国の時代から、Turkey、Turquie など、などの名称が国名として用いられており、自己をトルコ人の国家と認識することはなかった。はアナトリアへの移住以前中央アジアで暮らしていたトルコ人がモンゴル高原を中心とする遊牧帝国突厥を築いた6世紀頃には既に使われていた民族名だが語源には諸説ある。現在のトルコ共和国では一般に突厥の建国をもってと考えられている。アナトリアには旧石器時代(1万1000年から60万年前)からの遺跡が存在する。紀元前2000年末頃から鉄を作る技術が中近東世界に広がった。この地域が鉄器時代に入ったと考えられる。国土の大半を占めるアジア側のアナトリア半島など様々な民族文明が栄えた地である。一方北アジアではトルコ北部カスピ海東岸の隅地に逃亡して歴史の記録から消える。11世紀にトルコ系のイスラム王朝セルジューク朝の一派がアナトリアに立てたルームセルジューク朝の支配下でムスリムの戦いで敗れ一時滅亡するがアナトリア南部の険によって抵抗し命脈を保った一族がティムールの死後にオスマン朝を復興した。19世紀衰退を示し始めたオスマン帝国の各地ではナショナリズムが勃興して諸民族が次々と独立し欧州列強がこれに介入した(東方問題)。帝国はオスマン債務管理局を通して列強に財政主権を握られ第一次世界大戦で敗北した。こうしてオスマン帝国は英仏伊ギリシャなどの占領下に置かれ完全に解体された。中でもギリシャは自国民居住地の併合を目指してアナトリア内陸部深くまで進攻した(希土戦争 (1919年-1922年))。また東部ではアルメニア国家が建設されようとしていた。これらに対してトルコ人ら(旧帝国軍人や旧勢力進歩派の人)は1919年5月国土国民の安全と独立を訴えて武装抵抗運動を起こした(トルコ独立戦争)。1920年4月アンカラに抵抗政権を樹立したムスタファケマル(アタテュルク)の下に結集して戦い1922年9月現在の領土を勝ち取った。1923年アンカラ政権はローザンヌ条約を締結して共和制を宣言した。翌1924年にオスマン王家のカリフをイスタンブールから追放し西洋化による近代化を目指すイスラム世界初の世俗主義国家トルコ共和国を建国した。イスラム法(シャリーア)は国法としての地位を喪失。大陸法の影響を受けただけでなくアメリカ合衆国などからの直接投資も受け入れることになった。第二次世界大戦では中立を維持したが末期の1945年になり連合国の勝利が確定的になるとその圧力により2月23日にナチスドイツと大日本帝国に対して宣戦布告した。第二次世界大戦後はソ連に南接するため反共の防波堤として西側世界に迎えられ1952年には北大西洋条約機構。1956年頃ユーロバンクの資金調達先となったため外貨準備を著しく減らした。これを輸出で補うため単位作付面積あたりの綿花収穫量を急速に伸ばしたがソ連が既に1944年から輸出量を世界で最も急ピッチに増産していた。1952年に暴落した価格で南米諸国とも競争するも機関化する1980年代まで外貨準備を十分に確保することができなかった。国父アタテュルク以来イスラムの復活を望む人々などの国内の反体制的な勢力を強権的に政治から排除しつつ西洋化に邁進してきたへの加盟にはクルド問題やキプロス問題ヨーロッパ諸国の反トルコイスラム感情などが障害となっている。トルコ側もEU加盟よりはレジェップタイイップエルドアン政権下の2010年代から2020年代にかけて国内での反対派弾圧やイスラム回帰。優先している。特にアルメニアとはナゴルノ・カラバフ紛争以外にも、アルメニア人虐殺への存否を含む見解の相違や、アララト山の領有権問題を抱え、緊張した関係が続いている。アルメニアの民族派は東南部を西アルメニアだと主張して返還を求めている。2013年MIKTAに加盟した。1982年に定められた憲法では世俗主義が標榜されている。三権はほとんど完全に分立しており憲法の目的が務めるが首相の権限が強い議院内閣制に基づくものであった。司法府は下級審である司法裁判所刑事裁判所および控訴審である高等控訴院憲法裁判所で構成され通常司法と軍事司法に分離されている。司法は政党の解党判断党員の政治活動禁止といった政治的な事項についても判断できる。その後により大統領は国民投票により選出されることとなりまた任期も7年から5年へと短縮された。を経たのちでは大統領権限が強化され議院内閣制を廃止することが定められている。政治は多党制の政党政治を基本としているが政党の離合集散が激しく議会の選挙は小党乱立を防ぐため10%以上の得票率を獲得できなかった政党には議席がまったく配分されない独特の方式をとっている。この制度のため2002年の総選挙では選挙前に中道右派イスラム派が結集して結党された公正発展党が得票率14.3%と最低得票率10%以上の票を獲得し71議席を獲得結果的に公正発展党は340議席となり前回より12議席を減らすこととなった。独立候補は最低得票率の制限がなくクルド系候補など27議席を獲得した。ムスタファケマルアタテュルク以来強行的に西欧化を押し進めてきたがその歴史においてケマルをはじめ政治家を数多く輩出した軍が政治における重要なファクターとなることがあり政治や経済の混乱に対してしばしば圧力をかけている。1960年に軍は最初のクーデターを起こしたがその後参謀総長と陸海空の三軍および内務省ジャンダルマ。2009年3月29日自治体の首長や議員を選ぶ選挙が行われた。イスラム系与党の公正発展党が世俗派野党の共和人民党などを押さえ勝利した。2010年9月12日には、与党・公正発展��の執行機関欧州委員会は、加盟に向けての一歩だと讃えた。2014年8月28日にエルドアン首相は大統領に就任しアフメトダウトオール外相が首相となったが2016年5月22日にはビナリユルドゥルムが新たな首相に就任した。その後2017年に大統領権限の強化と首相職の廃止を盛り込んだ憲法改正案が可決され2018年7月9日に首相職は廃止された。外交面では北大西洋条約機構加盟国である。またNATO加盟国としては唯一非欧米軍事同盟である上海協力機構の対話パートナーであり中露との軍事協力も行うなどもはや西側一辺倒の外交路線ではなくなっている。政府の公式見解では自国をヨーロッパの国としており、現代では経済的・政治的にヨーロッパの一員として参加しつつあり、ヘルシンキ宣言に署名している。2002年に政権についた公正発展党は、イスラム系を中心とする政党ながら軍との距離を慎重に保って人権問題を改善する改革を進めてきた。2004年には一連の改革が一応の評価を受け、条件つきではあるものの欧州委員会によって2005年10月からの欧州連合への加盟交渉の開始が勧告された。現在、国内世論と戦いながら加盟申請中である。なお、加盟基準であるコペンハーゲン基準については現在議論が行われている。国土の96%がアジアのアナトリア半島にあり人口でもアジア側が9割弱を占める。1890年に、現在の和歌山県東牟婁郡串本町沖で発生したエルトゥールル号遭難事件で日本の対応が評価されたことなどから、両国の友好関係が築かれている。日本には多くのトルコ友好協会があり、交流が積極的に行われている。<トルコ政府連携協会>隣国のギリシャとは緊張関係が続いている。古くはギリシャ人国家であった東ローマ帝国が現在のトルコにあたる地域を支配していたがやがてオスマン帝国がそれを滅ぼし支配下に置いた。その後19世紀初頭に列強の後押しでギリシャが独立しを掲げて衰退の進むオスマン帝国からの領土奪回を目論んだ。バルカン戦争第一次世界大戦後に領土をめぐる希土戦争が起こりギリシャとトルコの住民交換で解決された。しかし当時イギリスの植民地だったキプロス島の帰属は決められなかったためキプロス独立後にキプロスとトルコのみが国家の承認をしている北キプロスに分裂した。隣国のアルメニア共和国とは緊張関係が続いている。アルメニアの民族派がヴァン県など東南部をアルメニア人の奪われた土地だと主張している。一部のアルメニア人の反トルコ主義や西アルメニアの返還の主張にはトルコの保守層の警戒感を招いている。元々アルメニア王国との国境は時代により大きく変化しており国民国家の概念が成立する前から対立が続いていた。またトルコはイスラーム信者が多くキリスト教を国教にしているアルメニアとは宗教対立の側面もある。ナゴルノカラバフ問題に対しては同じくアルメニアと対立するイスラーム国家のアゼルバイジャンの立場に立つ。MIKTAの5か国によるパートナーシップである。詳細は該当ページへ。軍事組織として陸軍海軍空軍で組織されるトルコ軍 と内務省に所属するジャンダルマ沿岸警備隊 が置かれている。兵役は男子に対してのみ課せられている。兵役期間は高卒以下の学歴の場合は15か月であり大卒以上の学歴の場合は将校として12か月か二等兵として6か月を選択できるようになっている。なお国外に連続して3年以上居住している場合3週間の軍事訓練と約5000ユーロの支払いで兵役免除になりなお兵役期間終了後は41歳まで予備役となる。2011年末には金銭を納めることで兵役を免除可能とすることで事実上良心的兵役拒否を合法化した。兵員定数はないが三軍あわせておおむね約38万人程度の兵員数である。またジャンダルマと沿岸警備隊は戦時にはそれぞれ陸軍海軍の指揮下に入ることとされている。ただしジャンダルマについては平時から陸軍と共同で治安作戦などを行っている。指揮権は平時には大統領に戦時には参謀総長()に属すると憲法に明示されており戦時においては文民統制は存在しない。また首相および国防大臣には軍に対する指揮権監督権は存在しない。ただし軍は歴史的にもまた現在においても極めて政治的な行動をとる軍隊でありまた国防予算の15%程度が議会のコントロール下にない軍基金国防産業基金などからの歳入であるなど平時においても軍に対する文民統制には疑問も多い。この結果軍はいわば「第四権」といった性格を持ち世俗主義や内政の安定を支える大きな政治的社会的影響力を発揮してきた。1960年と1980年にはクーデターで軍事政権を樹立したこともある。近年はエルドアン政権の権限強化とそれに対するクーデター失敗経済発展に伴う社会の成熟多様化により軍部の影響力は以前より低下している。軍事同盟としては1952年以降は北大西洋条約機構加盟国でもあった。2国間同盟としては1996年、イスラエルと軍事協力協定および軍事産業協力協定を締結しており、1998年からは実際にアメリカ合衆国、イスラエルとともに3国で共同軍事演習が行われた。NATO加盟国としては唯一非欧米国家グループである上海協力機構の対話パートナーにもなっており2015年にはエルドアン大統領によって正規加盟が要請された。軍事装備は西側のものだけではなく中華人民共和国の協力で弾道ミサイルのや多連装ロケットシステムのを導入しておりNATOのミサイル防衛を揺るがすHQ-9やS-400のような地対空ミサイルも中国やロシア連邦から購入する動きも見せた。2010年にはアメリカやイスラエルと行ってきた「アナトリアの鷲」演習を中国と実施し中国と初めて合同軍事演習を行ったNATO加盟国となった。2019年にはロシアの地対空ミサイルS-400を搬入。アメリカ政府はロシアへの軍事機密漏洩を警戒してF-35戦闘機国際共同開発からトルコを排除した。南東部においてはクルディスタン労働者党との戦闘状態が長年続いている。南隣にあるイラクとシリアに対しても、国境をまたいで活動するPKKやイスラム国など反トルコ勢力への攻撃と、親トルコ派勢力の支援を目的に、派兵や越境空爆をしばしば行っている。2016年にはペルシャ湾岸のカタールの基地を利用する協定を締結した。有力な軍需産業を有している。一例を挙げれば政府系企業の航空宇宙産業(TAI)や民営のバイカル防衛が軍用無人航空機を開発製造しておりシリア内戦やリビア内戦に投入されたほか複数の国が輸入している(「2020年ナゴルノカラバフ紛争#戦術」「#工業」も参照)。国土はヨーロッパ州とアジア州にまたがり北の黒海と南のエーゲ海地中海をつなぐボスポラス海峡-マルマラ海-ダーダネルス海峡によって隔てられる。面積は日本の2倍で北緯35度から43度東経25度から45度に位置し東西1600キロメートル南北800キロメートルに及ぶ。アナトリア半島は中央に広大な高原と海沿いの狭小な平地からなり高原の東部はチグリス川ユーフラテス川の源流である。東部イラン国境近くにはヴァン湖とアララト山がある。国内に多くの断層を持つ地震国であり近年では1999年のイズミット地震でマルマラ海沿岸の人口密集地が大規模な被害を受けた。なお他の地震国の多くと同様国内に数多くの温泉が存在し中にはヒエラポリス-パムッカレなど世界遺産の中に存在するものもある。中近東という位置や地中海やエーゲ海からくる印象から、一般に温暖な印象であるが、沿岸地域を除くと冬は寒冷な国である。エーゲ海や地中海の沿岸地方は温暖で、ケッペンの気候区分では地中海性気候に属し、夏は乾燥していて暑く、冬は温暖な気候で保養地となっている。イスタンブールのあるマルマラ海周辺やヨーロッパトルコ地域は地中海性気候と温暖湿潤気候の中間に属し、夏は他地域よりは涼しく、冬は比較的寒くなり雪も降る。黒海沿岸地方は温暖湿潤気候に属し、年間を通じトルコ降水量が最多である。深い緑に覆われている。国土の大半を占める内陸部は大陸性気候で寒暖の差が激しく乾燥しており、アンカラなどの中部アナトリア地方はステップ気候や高地地中海性気候に属する。夏は乾燥していて非常に暑くなるが、冬季は積雪も多く、気温が−20°C以下になることも珍しくない。東部アナトリア地方は亜寒帯に属し冬は非常に寒さが厳しく東部の標高1500mを超えるような高原地帯では1月の平均気温は−10°Cを下回る。標高1757mにあるエルズルムでは気温がしばしば−30°Cを下回り−40°Cに達することもある酷寒地である。ヴァン県のチャルディラーンで48.8°Cを記録している。地方行政制度はオスマン帝��の州県制をベースとしてフランスに範をとり全土を県()と呼ばれる地方行政区画に区分している。1999年以降の県の総数は81である。各県には中央政府の代理者として知事()が置かれ県の行政機関()を統括する。県行政の最高権限は4年任期で民選される県議会が担い県知事は県議会の決定に従って職務を遂行する。県の下には民選の首長を有する行政機関が統括する。都市人口率は2015年時点で 約73.4%であり世界平均である。このうちアナトリア高原など山岳部に位置する都市はアンカラガズィアンテプコンヤディヤルバクルである。国の東部には小規模な都市が目立ち、特に東北部、または黒海沿岸には都市への人口の集中があまり見られない。その背景には、南東部などの後進地域の若年層が雇用機会を求めて、イスタンブール、アンカラ、イズミル、ブルサ、アンタルヤといった西部大都市へ移動していることがあり、地域格差の拡大につながる社会問題となっている。IMFによると、2018年の国内総生産を占める。漁業は沿岸部では比較的盛んであるが、エーゲ海ではギリシャ領の島々が本土のすぐ近くに点在しているため、領海・排他的経済水域や公海上の漁獲量をめぐる国際問題が起きることもある。工業は軽工業が中心で、繊維・衣類分野の輸出大国である。近年では、世界の大手自動車メーカーと国内の大手財閥との合弁事業が大きな柱となっており、ヨーロッパ向け自動車輸出が有力な外貨獲得源になっている。具体的には、国内最大の財閥であるサバンジュ財閥と日本のトヨタ自動車、国内2位の財閥であるコチ財閥とイタリアのフィアット、国内4位の財閥であるオヤック財閥とフランスのルノーが挙げられる。また、コチ財閥のアルチェリッキ・ベコ、ゾルル財閥のヴェステルなど、家電・エレクトロニクス部門の成長も期待されている。工業化が進んでいるのは北西部のマルマラ海沿岸地域が中心である。ヨーロッパ、中東、アフリカの結節点という輸出における地理的優位さもあり、製造業の生産能力や技術力は向上している。上記以外にもアパレルのLC Waikiki、軍事関連のアセルサンといった有力メーカーが育っている。新型コロナウイルス感染症が世界に広がった2020年、トルコは約140カ国にマスク、人工呼吸器、防護服といった衛生・医療物資を送った。経常収支が赤字であるため、ロシア連邦を含むヨーロッパ諸国などから訪れる観光客は、貴重な外貨収入源となっている。外国人観光客数は2014年のピークで3,683万人。その後、シリア内戦に誘発された相次ぐテロ事件やロシア軍爆撃機撃墜事件、2016年トルコクーデター未遂事件が起きたため、2016年は約2,500万人に減ったものの、2017年以降は回復している。2021年5月時点、新型コロナウイルス感染症の世界的流行下でもトルコは観光客を受け入れており、国民に課せられている外出制限も観光客には適用されていない。空路のほかクルーズ客船も利用されている。エーゲ海沿岸地域やイスタンブール内陸のカッパドキアなどが観光地として人気が高い。地中海に面する西部と首都アンカラ周辺地域以外では農業の比重が大きい。特に東部では地主制がよく温存されているなど経済近代化の立ち遅れが目立ち農村部の貧困や地域間の経済格差が大きな問題となっている。国土は鉱物資源に恵まれている。有機鉱物資源では石炭の埋蔵量が多い。2002年の時点では亜炭褐炭の採掘量が6348万トンに達した。これは世界シェアの7.0%であり世界第6位に位置する。しかしながら高品位な石炭の生産量はこの20分の1過ぎない。原油も採掘されている。金属鉱物資源では、世界第2位の産出量の(200万トン、世界シェア17.9%)マグネシウムをはじめ、アンチモン、金、鉄、銅、鉛、ボーキサイトなどの鉱物を産出する。しかしながら、石炭は火力発電など燃料として国内で消費し、マグネシウムの国際価格が低迷していることから、同国の輸出に占める鉱物資源の割合は低く、4%程度(2002年時点)に過ぎない。石油天然ガスについては黒海で開発を進め2002年の段階から生産を始めていたが近年石油は100億バレルガスは1兆5千億立方メートルと莫大な埋蔵量であることが分かった。これにより2023年から40年間にわたって国内消費分���賄うことができるようになるとの見通しである。1990年代の後半から経済は低調で政府は巨額の債務を抱え国民は急速なインフレーションに悩まされていた。歴代の政権はインフレの自主的な抑制に失敗し2000年からIMFの改革プログラムを受けるに至るが同年末に金融危機を起こした。この結果トルコリラの下落から国内消費が急激に落ち込んだ。2002年以後は若干持ち直し、実質GNP成長率は5%以上に復調、さらに同年末に成立した公正発展党単独安定政権の下でインフレの拡大はおおよそ沈静化した。2005年1月1日には100万トルコリラとする新通貨を発行し、実質的なデノミネーションが行われた。なお2009年より、新トルコリラは再びという名称に変更されている。近年のGDP成長率は2010年9.2%、2011年8.5%、2012年2.2%となっている。貿易は慢性的に赤字が続いている。2003年時点では輸出466億ドルに対し輸入656億ドルであった。ただしサービス収支たとえば観光による収入(90億ドル2002年)所得収支たとえば海外の出稼ぎからの送金などが多額に上るため経常収支はほぼバランスが取れている。輸出・輸入とも過半数を工業製品が占める。世界第2位の生産量を占める毛織物のほか、毛糸、綿糸、綿織物、化学繊維などの生産量がいずれも世界の上位10位に含まれる、厚みのある繊維産業が輸出に貢献している。衣料品を輸出し、機械類を輸入するという構造である。輸出品目では工業製品が 83.2%を占め、ついで食料品9.9%、原材料・燃料5.0%である。工業製品では衣類21.1%、繊維・織物 11.1%、自動車10.5%、電気機械8.6%が主力であり、鉄鋼も輸出している。輸出相手国はヨーロッパ圏が主力であり、ドイツ 15.8%、アメリカ合衆国7.9%、イギリス7.8%、イタリア6.8%、フランス6.0%の順である。日本に対する最大の輸出品目はマグロ、ついで衣料品である。輸入品目でも工業製品が65.9%に達する。ついで原材料・燃料21.3%、食料品4.0%である。品目別では機械類13.4%、電気機械9.2%、自動車7.7%、原油6.9%、繊維・織物5.0%である。輸入相手国も欧州が中心で、ドイツ13.6%、イタリア7.9%、ロシア7.9%、フランス6.0%、イギリス5.0%の順である。日本からの最大の輸入品目は乗用車、ついで自動車用部品である。交通の中心となっているのは、旅客・貨物ともに陸上の道路交通である。鉄道は国鉄が開通した。その後も、アンカラ-コンヤ間でも完成するなど、各地で高速鉄道建設が進められ近代化が図られている。政府は道路整備を重視しており、国内の道路網は2004年時点で6万3,220キロメートルに及んでいる。また、イスタンブールとアンカラを結ぶ高速道路が存在し、非常に多くのバス会社が多数の路線を運行している。また、世俗主義国家であるとはいえイスラム教国であるため、これらのバスでは親子や夫婦などを除き男女の相席をさせることはまずない。いまだ雇用所得が低いことや高額の自動車特別消費税のために自家用車の普及はあまり進んでいない。また農村部においては現在でも人的移動や農作物の運搬のためにトラクターや馬を用いることはごく普通である。農村部や地方都市において露天バザールが開催される日にはアンカラやイスタンブールとはかけ離れたこれらの光景をよく目にすることができる。国土の位置するバルカン半島やアナトリア半島は古来より多くの民族が頻繁に往来した要衝の地であり複雑で重層的な混血と混住の歴史を繰り返してきた。現在のトルコ共和国が成立する過程にもこれらの地域事情が色濃く反映されている。前身である多言語多宗教国家のオスマン帝国ではこのような地域事情を汲み取ってと規定されそれぞれの宗教が多数派を形成する国々への出国を余儀なくされている。こうした経緯もあり長年国内の民族構成に関する正確な調査が実施されず政府は国内に居住するトルコ国民を一体として取り扱い国民はすべてトルコ語を母語とする均質なであるという建前を取っていた。これが新生トルコを国際的に認知したローザンヌ条約におけるトルコ人の定義であると同時にトルコにおける少数民族とは非イスラム教のギリシャ人アルメニア人ユダヤ人の三民族であることを定義した。しかしながら実際には共和国成立以前から東部を中心にクルド人をはじめ多くの少数民族が居住する現状を否定することができず現在では民族的にトルコ人ではないあるいはトルコ語を母語としない国民も国内に一定割合存在することを認めてはいるもののそれらが少数民族とは認知していない。少数派の民族としてはクルド人アラブ人ラズ人ギリシャ人アルメニア人ヘムシン人ザザ人ガガウズ人などが共和国成立以前から東部を中心に居住している。特にクルド人はトルコ人に次ぐ多数派を構成しておりその数は1400万から1950万人といわれている。かつて政府は国内にクルド人は存在しないとの立場からクルド語での放送出版を禁止する一方なる呼称を用いるなど差別的に扱っていた。しかしながら現在では少数民族の存在を認める政府の立場から山岳トルコ人という呼称は用いられることがない。実際問題として長年の同化政策の結果今や言語がほぼ唯一の民族性のシンボルとなっている。2004年にはクルド語での放送出版も公に解禁され旧民主党においてクルド語放送が行われた。2008年末には24時間クルド語放送を行うためTRTに第6チャンネルが開設され2009年1月から本放送を開始した。なお、クルド人はいわゆる北部南東アナトリア地域は全域で政治活動を展開し、総選挙において一定の影響力を保持している。1960年以降、全国的な農村部から都市への移住が増加したことに伴いクルド人も都市部への移住が進み、現在はクルド人の都市居住者と農村部居住者との割合が大幅に変化しているとみられる。ある推計によると、1990年以降最も多数のクルド人が存在するのは、南東アナトリア6県のいずれでもなく、イスタンブール県であるとの結果も存在する。各都市のクルド人は、その多くが所得水準の低い宗教的にも敬虔なイスラム教徒であるといわれており、昨今の都市部における大衆政党として草の根活動を行ってきたイスラム系政党躍進の一因と結びつける見方も存在する。公用語のトルコ語のほか、クルド語などが話されている。1934年にを姓とし庶民は父の名あだ名居住地名職業名や縁起のいい言葉を選んで姓をつけている。婚姻の際は以前は夫婦同姓のみが認められていたが2001年の法改正により女性の複合姓が認められさらに2014年に最高裁において婚前の姓のみを名乗ることを認めないことは憲法違反との判決が下され完全な夫婦別姓も選択可能となったことで選択的夫婦別姓制度が実現している。宗教構成は宗教の帰属が身分証明書の記載事項でもあることからかなり正確な調査結果が存在する。それによると人口の99%以上がムスリムである。一方各宗派に関しては身分証明書にその記載事項がないことから宗教のように詳細な宗派区分の把握ができておらず不明な点も多い。その結果一般的にはムスリムを信奉する国民の大半はスンナ派に属するといわれているが一方で同じイスラム教の中でマイノリティであるアレヴィー派の信奉者が国内にも相当数存在しているとの主張もあり一説には20%を超えるとも言われている。そのほかの宗教には東方正教会、アルメニア使徒教会、ユダヤ教、カトリック、プロテスタントなどが挙げられるが、オスマン帝国末期から現共和国成立までに至る少数民族排除の歴史的経緯から、いずれもごく少数にとどまる。一方で、東方正教会の精神的指導者かつ第一人者であるコンスタンディヌーポリ総主教はイスタンブールに居住しており、正教徒がごく少数しか存在しないトルコに東方正教会の中心地がある状況が生み出されている。国内にある東方正教会の神品を養成するためのは1971年から政府命令によって閉鎖されており、東方正教会への政府からの圧迫の一つとなっている。義務教育機関として8年制の初等教育学校なども存在する。初等教育学校を含めてほぼ全ての学校が国立だが私立学校も存在する。ただし私立学校の1か月間の学費は給食費施設費などを含めて一般労働者の月収とほぼ同等で極めて高価である。公立高校・公立大学への入学にはそれぞれLGS・SSの受験を必要とし、成績順で入学校を決定する。受験競争は存在し、高校入試・大学入試のために塾()に通うことも珍しくない。教員数・教室数はともに十分な数には達しておらず、初等教育学校は午前・午後の二部制である。また学校設備も不十分で、体育館・プールなどは公立学校にはまず存在しない。特に大都市の学校では運動場は狭くコンクリート張りで、バスケットボールやフットサルが精一杯である(地方においては芝生のサッカー場などを持つ学校も多い)。また、図書館も存在しないか、あっても不十分である。学校設備の問題に関しては国も認識し、世界銀行からの融資を受けるなどして改善を図っているが、厳しい財政事情もあって改善が進んでいない。2004年現在、男子児童の就学率は統計上ほぼ100%に到達したが、女子児童の非就学者は政府発表で65万人程度存在し、政府はキャンペーンを展開するなどその解消に努めている。しかし、女子非就学者の問題には経済事情に加え、男女共学のうえ、いまだ保守的なイスラムを奉ずる地域ではヘッドスカーフ着用禁止の初等教育学校に通わせることを宗教的な観点から問題視する親が存在するという事情もあり、女子非修学者の減少はやや頭打ちの状態である。イスラム教の教えに基づいた創造論が学校などで公然と教育されており、進化論への検閲行為などの問題が生じている。また、クルド語を教育することはおろか、教育機関などでので使用することさえ法律で禁止されており、これに違反した場合は国家反逆罪などで起訴される。実際に投獄された一般のクルド人も多い。トルコの治安は現在不安定さが目立ちがちとなっている。2007年以降同国警察が犯罪統計を公表していないために詳細な件数は不明であるものの日本と比べると一般犯罪性犯罪偽警察官による犯罪も散見されている。政治的な理由でネット検閲が行われている。2014年には裁判所の命令がなくてもウェブサイトを遮断したりインターネットを通じて個人の閲覧記録を収集したりすることを首相に認める法律が可決されている。そのため、YouTubeなどGoogle関連を含む約3,700の外部サイトへのアクセスは政府によってブロックされており、反政府運動の抑え込みや言論統制を理由にFacebookやTwitterなどソーシャル・ネットワーキング・サービスも度々ブロックされている。2017年4月29日、政府は国内からのウィキペディアへの通信を遮断したと発表。はウィキペディアに政府がテロ組織と連携しているような記事が書かれていることを非難し、と主張している。当局はウィキペディアに対して削除を要請したが、ウィキペディア側は拒否したという。ウィキペディア側が要請に応じた場合、遮断解除を行うとしている。国土は、ヒッタイト、古代ギリシア、ローマ帝国、イスラームなど様々な文明が栄えた地であり、諸文化の混交が文化の基層となっている。これらの人々が残した数多くの文化遺産、遺跡、歴史的建築が残っており、世界遺産に登録されたものも9件に及ぶ(詳しくは「トルコの世界遺産」を参照)。伝統的な文化はこのような基層文化にトルコ人が中央アジアからもたらした要素を加えて、東ヨーロッパから西アジアの諸国と相互に影響を受け合いながら発展してきた。近現代のオスマン帝国トルコはちょうど日本の文明開化と同じように西洋文明を積極的に取り入れてきたがそれとともにトルコ文学演劇音楽などの近代芸術は言文一致運動や言語の純化運動社会運動などと結びついて独自の歴史を歩んできた。こうした近代化の一方で歴史遺産の保全に関しては立ち遅れも見られる。無形文化財ではオスマン古典音楽の演奏者は著しく減少しまた剣術弓術などいくつかの伝統的な技芸は既に失われた。有形の遺跡もオスマン帝国時代以来のイスラム以前の建築物に対する無関心は現在も少なからず残っており多くの遺跡が長らく管理者すら置かれず事実上放置されてきた。近年はいくつかの有名な古代ギリシャやローマ帝国時代の遺跡やイスラム時代の建築が観光化されて管理が行き届くようになったが依然として多くの遺跡は風化の危機にさらされている。このような状況に対する懸念も表明されているがその保全対策は財政事情もありほとんど全く手つかずの状態である。トルコ料理は伝統的に世界三大料理の一つとされ、ギリシャ料理やシリア地方の料理とよく似通っている。またイスラム教国ではあるが飲酒は自由に行われており、ブドウから作られアニスで香りがつけられたラクが有名である。ワインやビールの国産銘柄も多数ある。コーヒー粉末と砂糖を入れた小さな容器を火にかけて煮出すトルココーヒーはユネスコの無形文化遺産に登録された。伝統的なトルコ音楽の一つオスマン古典音楽はアラブ音楽との関係が深く現代のアラブ古典音楽で演奏される楽曲の多くはオスマン帝国の帝都イスタンブールに暮らした作曲家が残したものである。オスマン帝国とトルコ共和国で行われてきた伝統的な軍楽メフテルは多くの国に脅威と衝撃を与え、音楽家は着想を得ていくつものトルコ行進曲を製作した。トルコにおける映画製作活動は、第二次世界大戦後から劇的に増加して行く形で高まった。最近ではアラブ世界、そして米国でもその存在が認知されるほどに成長を見せている。建築は、イランとギリシャ双方の影響を受け、独自の壮麗なモスクやメドレセなどの建築文化が花開いた。その最盛期を担ったのがミマール・スィナンであり、スレイマン・ジャミィなどに当時の文化を垣間見ることができる。俗になどと呼ばれている公衆浴場文化の伝統に連なる。逆に、中東やアラブの後宮として理解されているハレムとは実はトルコ語の語彙であり、多くの宮女を抱えたオスマン帝国の宮廷のイメージが、オリエンタリズム的な幻想に乗って伝えられたものであった。国内にはユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が11件複合遺産が2件存在する。国民的なスポーツとしては、まずサッカーを頂点に2部リーグ、3部リーグ、さらにその下部の地域リーグが置かれ、プロ・アマ合わせれば膨大な数のクラブが存在する。また、サッカークラブの多くは総合スポーツクラブの一部であり、バスケットボール・バレーボールなど、他種目のスポーツチームを同じクラブが抱えることも多い。UEFA加盟国であるため、スュペル・リグ上位クラブはUEFAチャンピオンズリーグやUEFAヨーロッパリーグに参加可能である。その中でもイスタンブールのフェネルバフチェは4大クラブと呼ばれ、テレビ・新聞などでの報道量もほかに比べ抜群に多い。これらのクラブは実力的にも上位にあるため、UEFA主催のリーグに参加することも多い。UEFA主催のリーグに参加するクラブは、半ばトルコ代表として扱われることもあり、これらの強豪は地域にかかわらず全国的に人気がある。また、イスタンブールのフェネルバフチェ・ガラタサライ・ベシクタシュの3クラブはイスタンブール証券取引所に上場する上場企業でもある。2004-05シーズンのUEFAチャンピオンズリーグの決勝はイスタンブールのアタテュルク・オリンピヤット・スタドゥで行われ、イスタンブールの奇跡が起こった。サッカートルコ代表は2002 FIFAワールドカップで3位に入るなど健闘した。この大会では開催国の日本と韓国に勝利しており、同一大会で2つの開催国に勝つという珍しい記録を達成した。また優勝したブラジルには2回敗北している。ほかにプロスポーツとしてはバスケットボールとバレーボールのプロリーグが存在する。特にバスケットボールはNBAでのトルコ人選手の活躍や2010年に世界選手権が開催されたこともあり、近年人気が上昇している。また2005年から2011年まではF1トルコGPが開催されており、WRCのラリー・オブ・ターキーとあわせてモータースポーツにおける発展も期待される。650年の歴史を持つ伝統格闘技としてヤールギュレシがあり、国技となっている。アマチュアスポーツとしてはレスリング、重量挙げなど人気がある。またトルコ人の気風を反映してか、柔道・空手道の道場も非常に多い。競馬や競走馬の生産も行われており、日本産馬ではディヴァインライトがトルコで種牡馬として供用されている。チュルク系民族の伝統的な騎馬により争われる競技は、おもにトルコ東部の民間に残っている。 +ロシア連邦はユーラシア大陸北部に位置する連邦共和制国家。首都はモスクワ市。領土は旧ロシア帝国およびソビエト連邦の大半を引き継いでおり、ヨーロッパからシベリア・極東に及ぶ。面積は1709万平方キロメートル以上と世界最大である。ロシアは国際連合安全保障理事会常任理事国であり、独立国家共同体の指導国であるだけでなく、G20、欧州評議会、アジア太平洋経済協力、上��協力機構、ユーラシア経済共同体、欧州安全保障協力機構、世界貿易機関(WTO)などの加盟国である。かつてG8加盟国であったが、2014年3月にクリミア併合を強行したことでG8の参加資格を停止された。核拡散防止条約により核兵器の保有を認められた5つの公式核保有国の1つであり、世界最大の大量破壊兵器保有国である。国防費は2010年以降増加の一途を辿っている。常備軍のロシア連邦軍は地上軍・海軍・航空宇宙軍の3軍の他、戦略ロケット軍と空挺軍の2つの独立兵科で構成されている。運用面では地理的に分割された軍管区に権限が委譲されており、それぞれに統合戦略コマンドが設置されて3軍と通常兵器部隊を指揮している(戦略核兵器部隊は指揮権外)。現役軍人は約90万人である。政治体制はソビエト連邦時代の共産党一党独裁制が放棄されて多党制に基づく選挙が行われるようになったが2003年以降は事実上ウラジーミルプーチン大統領率いる与党統一ロシアの一党優位政党制になっている。複数政党制や選挙は一応存在するが選挙から反体制派候補を排除するなどプーチン体制に有利な政治システムが構築されており政治的意思を表明する機会に乏しい。「法の独裁」による統治を目指す強権的体質が内外から批判されておりエコノミスト誌傘下の研究所エコノミストインテリジェンスユニットによる民主主義指数は世界134位と後順位で「独裁政治体制」に分類されている(2019年度)。また国境なき記者団による世界報道自由度ランキングも149位と後順位である(2020年度)。GDPは2014年時点でロシアの経済は名目GDPで世界第9位であった。鉱物及びエネルギー資源は世界最大の埋蔵量であり世界最大の原油生産国および世界最大の天然ガス生産国の1つである。しかし資源依存の経済体質であるため近年は原油安で経済が停滞している。加えて2014年にクリミア併合を強行したことにより欧米から経済制裁を受けて更なる打撃を受けている。人口はロシア連邦国家統計庁によれば1億4680万人人やトルコ系のウズベク人、またシベリアや極東の少数民族なども存在し、合計で100以上の民族がある。公用語はロシア語だが、少数民族の言語も存在する。宗教はキリスト教徒が人口の60%を占め、その大半がロシア正教会の信者である。イスラム教徒も人口の8%ほどおり、仏教徒も存在する。地理としてはロシアの国境は北西から南東へノルウェーフィンランドエストニアラトビアともにカリーニングラード州と隣接するリトアニアおよびポーランドベラルーシウクライナジョージアアゼルバイジャンカザフスタン中華人民共和国モンゴル国朝鮮民主主義人民共和国と接する。海上境界線としては日本とはオホーツク海宗谷海峡根室海峡珸瑤瑁水道アメリカ合衆国アラスカ州とはベーリング海峡で接する。ロシアの面積は1707万5400km2で世界最大であり地球上の居住地域の8分の1を占める。国土が北アジア全体および東ヨーロッパの大部分に広がることに伴いロシアは11の標準時を有し広範な環境および地形を包含する。ロシアの歴史は、3世紀から8世紀までの間にヨーロッパで認識され始めた東スラヴ人の歴史に始まる。9世紀、ヴァリャーグの戦士の精鋭およびその子孫により設立・統治され、キエフ大公国の中世国家が誕生した。988年、東ローマ帝国からキリスト教正教会を導入し、次の千年紀のロシア文化を特徴づける東ローマ帝国およびスラブ人の文化の統合が始まった。キエフ大公国は最終的に多くの国に分裂し13世紀には領土の大部分がモンゴルに侵略され遊牧国家ジョチウルスの属国になりロシアが西洋から隔絶される原因となった(タタールのくびき)。モスクワ大公国は次第に周辺のロシアの公国を再統合しキエフ大公国の文化的政治的な遺産を支配するようになった。クリコヴォの戦いでジョチウルスを破った後ジョチウルスは衰退しイヴァン3世がモスクワ帝国を建設。ピョートル大帝はロシア人がバルト海に行く道を確保し1703年にバルト海に面するサンクトペテルブルクを建設した。1712年にサンクトペテルブルクはロシアの首都になり1721年にロシアは帝国になった。周辺諸国の併合などを繰り返し史上第3位の領土を持つ帝国となり版図はポーランドから北米のアラスカま���広がった。1917年のロシア革命の後ロシアソビエト連邦社会主義共和国がソビエト連邦最大かつ指導的な構成国となった。世界初の憲法上の社会主義共和国及び広く認められた超大国となり第二次世界大戦において連合国の勝利に決定的な役割を果たした。ソビエト連邦時代には世界初の人工衛星及び世界初の有人宇宙飛行を含む20世紀のもっとも重要な複数の技術的偉業を経験した。東西冷戦で対峙するアメリカ合衆国に双璧となる超大国として国際社会で重要な位置を占めたがソ連共産党による一党独裁の弊害が噴出するようになり1991年にソビエト連邦の崩壊に至った。新たにロシア連邦を国名としロシアも同等の国名とされた(1992年の憲法改正により)。ロシアの国旗は革命前の白青赤の3色旗に戻り国際連合における地位などは基本的に旧ソ連を引き継いでいる。ロシア連邦(ラテン文字転写 )も使われる。英語表記は 。ロシア連邦憲法第1条第2項でロシア連邦とロシアは同じ意味としておりロシア語においてもロシア連邦の意味でロシアが使われることがある。ロシアの国名は、現代のロシア北西部とウクライナ、ベラルーシにあたるルーシという国家のギリシア語名から派生したと称したことにより対外的にも正式の国名となった。ルーシのギリシャ語風名称としてのロシアや隣国を破って旧キエフルーシの東側領土の大半を影響下に収めたこと帝政時代の極東への進出と拡張により大国となった。その権力の正統性を説明するためモスクワは東ローマ帝国からローマ帝国の威信も受け継いだという学説も考案された。こうしたことからモスクワ大公国はを国号として用いるようになった。国名の日本語表記の変遷.前はよりロシア語名に近いロシヤと書かれることが少なくなかったが1980年代頃からギリシャ語風のとした。今日のロシア人は様々な民族の混血によって成立しているためその起源を一つに絞ることはできないが国家や文化言語の変遷においての祖となる人々は北東ルーシと呼ばれる地域に古くから居住していた。その地に暮らした東スラヴ系の諸部族はフィン系の民族と隣接しており言語や文化習慣において大きな影響を受けた。やがてその多くは同化しほかの地域の東スラヴ人とは異なる文化を築いていった。ロシア人にはフィンウゴル系遺伝子もある程度見られる。古代ギリシャの作家プロコピオスは、スラブ人を民主主義に住み、彼らが犠牲にするという単一の神を信じる野蛮人と表現した。プロコピオスの説明によると、全てのスラブ人は見た目がとても美しく、似たような服を着ており、お互いにほとんど違いはなかった。スラブ人の男性はしばしば長い髪を着た。スラヴ人には独自の文化と神話があった。世界は自然の法則を支配する天の神々と人々の習慣や行動を支配する地下の(クトニオスの)神々という2つの反対の力によって支配されていると信じられていた。5世紀の初めにスラブの部族は極東ロシアの領土に移動しこの地域を支配し始めた。同時にスラブの部族は地理的に西部(ヨーロッパに残っている)と東部に分かれた。北東ルーシには、ノルマン人ではないかと推測されている、民族系統不明の人々が進出しており、交易や略奪、やがては入植を行った。862年にはヴァリャーグの長リューリクが大ノヴゴロドの公となり、町は東ローマ帝国との貿易拠点として発展した。後代に書かれた原初年代記 には、リューリクの一族が東スラヴ人の居住地域に支配を広げていったと記録される。9世紀後半にヴァリャーグはドニエプル地方に拠点を移した。そのため、それから13世紀にかけてのルーシの中心は、現在はウクライナの首都となっているキエフであり、現在のロシアの中心である北東ルーシはむしろ辺境化し、モスクワの街もまだ歴史には登場していなかった。ヴァリャーグの支配者層を含めてスラヴ化したキエフ大公国は、9世紀に東ローマ帝国から東西教会分裂以後に正教会となる東方のキリスト教とギリシャ文化を受容し、独特の文化を育んだが、13世紀初頭にモンゴル人による侵入で2世紀にわたってジョチ・ウルスの支配下に入った。その混乱の中で、それまでキエフにあった府主教座はウラジーミル・ザレースキイへ移された���数多くいるルーシ諸公の1人に過ぎなかったモスクワ公はモンゴル支配下でルーシ諸公がハンに納める貢納を取りまとめる役を請け負うことで次第に実力をつけ15世紀にジョチウルスの支配を実質的に脱してルーシの統一を押し進めた。府主教座もモスクワへ遷座した。国家は独立性の高い大公国となった。のちモスクワ大公はイヴァン3世のときツァーリ(皇帝)の称号を名乗りその支配領域はロシアツァーリ国と自称するようになった。16世紀にイヴァン4世(雷帝)が近代化と皇帝集権化シベリア進出などの領土拡大を進めたが彼の死後はその専制政治を嫌っていた大貴族の抗争で国内が大混乱(動乱時代)に陥った。モスクワ大公国の主要貴族(ボヤーレ)たちはツァーリの宮廷の権威を認めず士族民主主義の確立していたポーランドリトアニア共和国を慕った。この民主派のボヤーレたちはポーランドリトアニア共和国とモスクワ大公国との連邦構想さえ打ち立てツァーリ専制を嫌っていた農民や商人をまとめ上げさらには共和国軍をモスクワ領内に招き入れてツァーリ派と戦い共和国軍とともにモスクワを占領した。一方ツァーリ派の貴族や商人たちは政商ストロガノフ家の援助でニジニノヴゴロドにおいて義勇軍を組織した。義勇軍側はモスクワ政策を巡ってローマカトリック主義のポーランド国王兼リトアニア大公が信教自由主義のポーランドリトアニア共和国議会と激しく対立していたことを絶好の機会とし「反ローマカトリック闘争」の形で急速に数を増した。そして1612年ドミートリーポジャールスキーとクジマミーニンの指揮の下モスクワ市内のクレムリンに駐屯していた共和国軍の治安部隊を包囲攻撃11月1日して撃破モスクワを解放した。この民主派に対するツァーリ派およびローマカトリックに対するロシア正教会の勝利は21世紀現在でも国民の祝日となっている(11月4日)。ここで中世ロシアは終わりロマノフ朝の成立とともに近代ロシアが始まることになる。1613年にロマノフ朝が成立すると、大貴族と農奴制に支えられ、封建色の強い帝国の発展が始まった。17世紀末から18世紀初頭にかけて、ピョートル1世され日露関係史が実質的に始まった。彼女の時代に農奴制が固定化されていった。アレクサンドル1世の治世において1803年に勃発したナポレオン戦争に参戦し、1812年にはナポレオン・ボナパルト指揮のフランス帝国軍に侵攻されたが、大損害を負いながらもこれを撃退(1812年ロシア戦役)。戦後はポーランド立憲王国やフィンランド大公国を支配して、神聖同盟の一員としてウィーン体制を維持する欧州の大国となった。国内でのデカブリストの乱やポーランド反乱などの自由主義・分離主義運動は厳しく弾圧された。1831年に始まるエジプトトルコ戦争以降はロシアの南下政策を阻むイギリスとの対立が激化し中央アジアアフガニスタンガージャール朝ペルシアやテロリズムを横行させ無政府主義者による皇帝暗殺にまで発展した。この時期極東ではアロー戦争の仲介料として沿海州を清から獲得しウラジオストクを建設した。19世紀末期には、ロシアはそれまでのドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国との三帝同盟からフランス第三共和国との露仏同盟に外交の軸足を移し、汎スラヴ主義によるバルカン半島での南下を極東での南下政策と平行させた。フランス資本の参加によりシベリア鉄道の建設が行われている。20世紀初頭になると極東への関心を強め、満州や朝鮮に手を伸ばそうとしたが、日本と衝突して1904年の日露戦争となった。1905年に血の日曜日事件など一連の革命騒動が発生し、ポーツマス条約を結んで敗れると、戦後の1907年にロシアはイギリスと英露協商、日本と日露協約を締結し、三国協商に立ってドイツやオーストリアと対立した。国内ではドゥーマの開設やピョートル・ストルイピンによる改革が行われたが、皇帝ニコライ2世の消極的姿勢もあって改革は頓挫し、帝国の弱体化は急速に進行した。その中で、都市部の労働者を中心に社会主義運動が高揚した。1914年に勃発した第一次世界大戦では連合国の一員として中央同盟国となった。ソビエト連邦とロシア連邦共和国の首都がサンクトペテルブルクからモスクワへと約200年ぶりに復され同時にサンクトペテルブルクはレニングラードに改称された。ロシア連邦共和国内に居住する少数民族についてはその人口数などに応じて自治共和国自治州民族管区などが設定され事実上ロシア連邦共和国とは異なる統治体制をとった。ソビエト体制でのロシア連邦共和国は他の連邦加盟共和国と同格とされたが面積人口とも他の共和国を圧倒していたロシアでは事実上連邦政府と一体となった統治が行われた。ソ連共産党内には連邦崩壊直前の1990年まで創設されず第二次世界大戦後の国際連合でもウクライナや白ロシアと異なり単独での加盟が認められなかった。1930年代の世界恐慌で多くの資本主義国が不況に苦しむ中、ソビエト連邦はその影響を受けず、レーニンの後を継いだスターリンによる独裁的な主導の下でと重工業化が断行され、高い経済成長を達成した。しかし、その実態は農民からの強制的な収奪に基づく閉鎖的な工業化であった。農村弾圧の結果、ウクライナやロシア南西部では大飢饉が発生した。その歪みはやがて政治的な粛清と強制収容所の拡大など恐怖に基づく支配をもたらす事態へとつながった。1939年9月の第二次世界大戦勃発直前に一時ナチスドイツとモロトフリッベントロップ協定を結んで協調しポーランド第二共和国をソ連ポーランド不可侵条約を一方的に破棄して侵攻しポーランドを占領冬戦争でフィンランドにも圧迫を加え1939年12月の理事会において国際連盟から除名された。1940年にはバルト諸国占領によりソビエト連邦へ併合しさらにルーマニアからベッサラビア地方を割譲させた。1941年6月には独ソ不可侵条約を一方的に破棄したナチスドイツのヒトラーに突如攻め込まれて西部の広大な地域を占領され(バルバロッサ作戦)危険な状況に陥った。しかし1942年初頭に首都モスクワ防衛に成功した後英米をはじめとする連合国の助力もあってスターリングラード攻防戦およびクルスクの戦いを境に1943年後半には反攻に転じて独ソ戦の主導権を握り最終的には大戦に勝利した。さらにポーランド東半ドイツルーマニアフィンランドチェコスロバキアの一部などを併合し西に大きく領土を広げた。極東方面では1945年8月日本に日ソ中立条約の不延長を通告して参戦。満州国やサハリン南部千島列島朝鮮北部に侵攻して占領した。戦後は新領土内の非ロシア人の住民を追放しロシア人などを入植させる国内移住政策が進められた。特にエストニアやラトヴィアなどではロシア人の比率が急増しソビエト連邦解体後の民族問題の原因となった。旧ドイツ領のカリーニングラード州でもロシア人の比率が急増して8割以上を占めるようになった。1946年には旧ドイツ領の東プロイセンの北部をカリーニングラード州日本に侵攻して占領したサハリン島南部(南樺太)とクリル列島(千島列島歯舞群島色丹島を含む)全域を南サハリン州として編入した(南サハリン州は1947年にサハリン州に吸収)。一方1954年には黒海沿岸のクリミア半島(クリミア州)がウクライナに移管されロシア連邦共和国の領土は2014年のクリミア半島編入以前のロシア連邦にあたる領域になった。日本はサンフランシスコ講和条約で一部領土を放棄したものの、千島列島南部の北方領土の返還を要求。それ以外の千島列島及び南樺太はロシア領土ではなく帰属未定地であると主張している。ロシアはサンフランシスコ講和条約に調印していない。なお、日本はユジノサハリンスクに在ユジノサハリンスク日本国総領事館を設置している。日本外務省によれば、当総領事館が位置しているユジノサハリンスク市をはじめとした南樺太は、サンフランシスコ平和条約によりその全ての権利・権限及び請求権を放棄したため、以降ソビエト連邦及びこれを承継したロシアが継続的に現実の支配を及ぼしており、これに対してロシア以外のいかなる国家の政府も領有権の主張を行っていないことなどを踏まえ、千島列島及び南樺太を含む地域を管轄地域とする在ユジノサハリンスク日本国総領事館を設置したものであるとしている。戦後、ソ連は強大なソ連軍の軍事力を背景に1949年の北大西洋条約機構を行っている。1985年にソ連の指導者となったミハイル・ゴルバチョフは冷戦を終��させる一方、ソ連を延命させるためペレストロイカとグラスノスチを掲げて改革に取り組んだものの、却って各地で民族主義が噴出し、共産党内の対立が激化した。党内抗争に敗れた改革派のボリスエリツィンはソ連体制内で機能が形骸化していたロシアソビエト連邦社会主義共和国を自らの権力基盤として活用し1990年に議長となると同年6月12日にロシア共和国と改称して主権宣言を行い翌年にはロシア共和国大統領に就任した。1991年8月のクーデターではエリツィンが鎮圧に活躍し連邦を構成していた共和国はそろって連邦を脱退していった。同年12月25日にはソ連大統領ミハイルゴルバチョフが辞任し翌日12月26日ソビエト連邦は崩壊した。1991年12月26日のソビエト連邦崩壊によりロシア共和国が連邦から離脱してロシア連邦として成立しエリツィンが初代ロシア連邦大統領に就任した。またソビエト連邦崩壊により世界規模のアメリカの覇権が成立し当時はこれを歴史の終わりと見る向きも現れた。ロシア連邦は、旧ソ連構成国の連合体である独立国家共同体・国際法上の関係を基本的に継承し、大国としての影響力を保持している。国名は1992年5月ロシア連邦条約によって現在のロシア連邦と最終確定した(ロシア連邦への国名変更はソ連大統領ゴルバチョフ辞任の当日である1991年12月25日当時のロシア最高会議決議による)。エリツィン政権下では市場経済の導入が進められたが急激な移行によってロシア経済は混乱し長期的な低迷を招いた。その一方でこの時期にはと呼ばれる新興財閥が台頭し政治的にも大きな影響力を持つようになった。ソ連政府は国民にあまねく賃貸住宅を配分していたがそれらを建設するだけで巨額の財政負担となっており財政再建中のロシア連邦がリフォームすることなどかなわず無償で住民が物件を取得できるようになり急激な私有化を進めた。私有化されていないものは地方自治体への譲渡が進み人口減少社会となるなか若者向けに低家賃で貸し出されている。1993年には新憲法制定をめぐって激しい政治抗争と、ロシア人およびロシアへの残留を希望するチェチェン共和国のチェチェン人勢力との間で第二次チェチェン紛争が発生した。1999年夏からイスラム急進派の排除という名目のもとにロシア軍は全面的な攻勢に出ている。同年8月にロシアの首相に就任したウラジミール・プーチンらがこの強硬策を推進した。1996年11月、ロシアは第一回だけで10億ドルのユーロ債を起債した。それまでの累積ユーロ債発行額は160億ドルほどに達した。1999年12月8日、当時の大統領エリツィンとベラルーシの大統領アレクサンドル・ルカシェンコとの間で、将来の両国の政治・経済・軍事などの各分野での統合を目指すロシア・ベラルーシ連盟国創設条約が調印された。しかし、その後、後継大統領に就任したウラジーミル・プーチンが、ベラルーシのロシアへの事実上の吸収合併を示唆する発言を繰り返すようになってからは、これに反発するベラルーシ側との対立により、両国の統合は事実上停滞状態となっている。1999年12月31日、当時の大統領エリツィンが任期を半年余り残して突然辞任した。首相のウラジーミル・プーチンが大統領代行に就任し、2000年3月の大統領選挙に圧勝して大統領に就任した。による統治をめざす強権的体質が内外から批判される一方、安定した経済成長により国民の高い支持率を維持し、2004年にも再選された。2003年、ミハイル・ホドルコフスキーが脱税などの罪で逮捕・起訴され、ユコスの社長を辞任した。シブネフチとの合併が取り消されるなどして株価が乱高下し、内部者取引が横行した。2005年にロシアの住宅私有化率は63パーセントに達し、国際的な不動産価格の下落へつながっていった。2007年、ホドルコフスキーを除くユコス株主らはロシア政府がユコスを破綻させたとしてハーグの常設仲裁裁判所へ提訴した。2010年6月26日、政府側のロスネフチに賠償命令が出た。7月27日には内部者取引と株価操作を取り締まる法案が可決された。これは翌年から施行された。2014年7月、ユコス破綻事件で政府は19億ユーロの賠償金支払いを命じられていたが、12月に欧州人権裁判所が政府の上訴を棄却した。2016年4月、ハーグ地区裁判所���、ロシア政府に株主らへ500億ドルの賠償金支払いを命じた常設仲裁裁判所の判決を棄却した。政権初期にチェチェン共和国への軍事作戦を再開するとともに周辺各共和国への締めつけも図った。チェチェン独立派を支持するサウジアラビアなどアメリカに友好的な湾岸のスンニ派諸国との関係悪化を招いた。これらの過程において報道管制を強化し、反政府的な報道機関やジャーナリストは強い圧力をかけられた。対外的には、上海協力機構を通じて中華人民共和国やイランとの関係を強化し、また中央アジア各国とはエネルギー開発の面での協力を強めた。ウクライナで親西欧政権ができると、天然ガス供給停止措置をとることで圧力をかけ、間接的にドイツやフランスへの自国の影響力を誇示した。また、プーチンの大統領就任当初はアメリカ同時多発テロ事件以降の対テロ戦争という目的から蜜月と言われたアメリカとの関係も、イラク戦争やイラン核開発疑惑といった諸問題を扱う中で悪化、また米国が主導する旧ソ連各地のカラー革命などロシアの裏庭地域へのアメリカによる露骨な政治介入、上院議員のマケインに代表されるアメリカの反ロシアネオコン勢力が中心となって行った東ヨーロッパのミサイル防衛構想、ソ連崩壊時に北大西洋条約機構は東方へ拡大しないとしたゴルバチョフと当時のアメリカ大統領ブッシュの取り決めが破られ、実際にはNATOの東方拡大が進んだなどの理由により、関係は冷却化した。一方で、首脳同士の懇談は頻繁であり、かつての冷戦とは違った様相である。プーチンが行った事業はいずれも西側諸国から強圧的であるとの批判が多いものの、結果的にはロシアの国際的地位を向上させた。これにはプーチン政権発足後から続くエネルギー価格の急騰により、対外債務に苦しんでいたロシアが一転して巨額の外貨準備国となり、世界経済での影響力を急速に回復したことも寄与している。2007年には2014年の冬季オリンピックを南部のソチで開催するソチオリンピックの招致に成功した。2008年5月、側近のドミートリー・メドヴェージェフが大統領に就任したが、プーチンも首相として引き続き残留した。同年、メドヴェージェフ政権下で南オセチア問題を原因とする南オセチア紛争が発生。これはソ連崩壊後、初めての対外軍事行動となっている。これらの行動から国際政治での多極主義を唱えて、ロシアが新たな一極となろうとしていると思われる。事実、「アメリカの裏庭」であるベネズエラ、エクアドルなどの反米的な中南米諸国との関係を強化している(逆にアメリカは「ロシアの裏庭」であるウクライナ、ジョージア(グルジア)などとの関係を強化している)。このように、冷戦終結後の一極主義の維持を目指すアメリカ側と対立する「新冷戦」の開始をもいとわないとも見られ、緊張状態が続いている。クリミア半島編入とシリア内戦をめぐる欧米との対立.2014年ウクライナ騒乱により財政援助を目的にロシアとの関係を強化していた同国の大統領ヴィクトルヤヌコーヴィチが解任されるとロシアのプーチン大統領は反発しオレクサンドルトゥルチノフ大統領代行の暫定政権を承認しなかった。2月後半から以前からクリミア半島に駐留していたロシア軍部隊によって1954年までロシア領で親ロシアの住民が多いクリミア自治共和国セヴァストポリ特別市を掌握した。クリミア自治共和国とセヴァストポリは3月16日にウクライナからの独立とロシアへの編入を問う住民投票を実施しその結果を受けて翌3月17日に両者はクリミア共和国として独立しロシアへの編入を求める決議を採択した。翌3月18日プーチンはクリミア共和国の要請に応じ編入に関する条約に署名して事実上クリミア半島を併合した。アメリカ合衆国欧州連合そして日本などの諸外国政府はクリミアの独立とロシアへの編入は無効であるとしロシアとの間で対立が続いている。この経緯によってロシアはG8の参加資格を停止され欧米諸国がロシアに経済制裁を科した。2011年から始まったシリア内戦では反体制派を支援する欧米に対し、中東での影響力を維持したいロシアがイランと共にバッシャール・アル=アサド政権に対して軍事的・経済的に援助を行っていることで欧米諸国と代理戦争に近い様相となり、対立を深めている。2015年9月30日にはロシア連邦軍がアサド政権を支援する直接的な軍事介入を開始。これ以降、膠着状態だった戦況はアサド政権側に大きく傾いたことに加え、アサド政権とクルド人勢力の双方を支援していることから両者の仲介や、当初はアサド政権打倒を目指し欧米と協調して反体制派を支援していたトルコがクルド人勢力への対応で欧米と対立するに伴いシリア戦後処理へのトルコの引き込み、さらにエジプトやイラク、イスラエルといった親米国家であるもののアサド政権打倒後のシリアの安定に懐疑的な近隣国にも接近しつつあり、シリア内戦の収束に向けて主導的な役割を発揮し、中東での確固たる地位を築いている。プーチンによる外交は、アメリカの大統領バラク・オバマを差し置いて世界的な影響力を持ち、クリミア半島併合以降はとりわけ国民の支持も手厚くなっている。一方、2013年以降に原油価格の暴落が続いたことで、天然資源に依存した脆弱な経済体制が浮き彫りとなり、深刻な経済的困窮を招いている。現在一部の欧米諸国はロシアへの経済制裁の解除及び緩和をし始めているがアメリカを中心とする西側の欧米主要国はいまだにそういった様相を見せておらず原油価格の上昇も当分は見込めないことからロシアは経済的に長い停滞期間が続いている。西側諸国から孤立しつつある一方上海協力機構を中心に非欧米諸国との結びつきを強めることで国際社会での存在感を見せつけている。2016年12月アメリカで親ロシア派と公言していたドナルドトランプ政権への政権交代があったもののアメリカ国内でロシアへの敵対感情が高まっているため弱腰外交と捉えられるような親露外交は回避し米露間の関係が修復する兆しは一向にない。アメリカ大統領選挙のサイバー攻撃やミンスク和平合意の不履行による報復措置がとられたりロシアが条約に違反したとして中距離核戦力全廃条約から撤退するなど両国間の溝は深まるばかりである。2021年1月、アメリカで反ロシア派と公言しているジョー・バイデン政権への政権交代があり、今後も米露関係修復の見込みはないと考えられている。国政では連邦制、共和制・半大統領制をとっている。国家元首であるロシア連邦大統領がおり、三権であるロシア連邦大統領は国家元首で、国民の直接選挙で選ばれる。ソビエト連邦への加盟構成以降、大統領の任期は4年であったが、2008年の憲法改正によって6年となった。国家元首である大統領は行政には含まれないが、行政に対して強大な指導力を発揮する。大統領は議会の長を兼ねる。第2次ウラジーミル・プーチン政権が発足してからが2015年にそれぞれ成立し、政府の統制が強化されている。一方、ロシアは反体制派への統制を強化してはいるものの、そもそも旧西側の欧米諸国が支援するロシアの反プーチンリベラル勢力は大多数のロシア国民の間では至って不人気となっており、与党の統一ロシアは高い支持率を保っている。これは、初代大統領のボリス・エリツィン政権時代の親欧米派オリガルヒによるロシアの富の私物化や市場経済化による国民生活の混乱に起因し、急激な貧富の格差拡大の受け入れを強いられているロシア国民の大半は安定を求めているからである。ロシア連邦議会からなる。下院議員は任期4年で、小選挙区制と比例代表制により半数ずつ選出される仕組みであったが、2005年4月23日完全比例代表制に移行する選挙制度改正が下院を通過した。また、5パーセント条項が7パーセント条項へと議席を獲得するためのハードルが上げられ、ウラジーミル・プーチン政権、シロヴィキおよび与党統一ロシアに有利な選挙戦が展開された。また、大統領と同様に2008年に任期が5年に延長された。ロシアの司法には最高位にがある。その下に地域裁判所がある。裁判は大陸法型である。行政府からの訴追は司法省が担当する。1996年に陪審制を連邦各地に順次導入することを決定2010年までにすべての地域で導入された。以前から死刑の執行を停止していたが2009年11月19日に憲法裁判所は死刑の廃止を規定している欧州人権条約を批准するまでは死刑の執行を停止するという命令を出した。この憲法裁判所���命令でロシアの死刑制度は事実上廃止された。2010年1月15日ロシア下院は欧州人権条約第14追加議定書を賛成多数で批准し名目上も死刑が廃止された。ロシアは欧州評議会の加盟国47か国中同議定書の最後の批准国となった。複数政党制を採用しており主要政党以外にはリベラル派や中道派をはじめ社会主義や共産主義民族主義愛国主義を活動理念に掲げる政党が存在する。ロシア連邦政府は1990年代まで続いたソビエト連邦の正式な後継政権で国際連合では安全保障理事会の常任理事国5か国の一つでもありその他国際組織でソ連の持ち分を引き継いでいる。国際関係は多面的であり世界の191か国と関係を持ち大使館を144か所置いている。国際関係の方針は大統領が決め具体的には外務省が執行する。かつての「超大国」を引き継いではいるが現在の多極体制へ移行した世界の中でその立場は専門家の間で様々に議論されており列強ではあるが「潜在的な超大国」扱いである。ロシアはに参加している。欧州評議会とも友好的であったが現在は様々な分野で対立が顕著である。21世紀になってからは、豊富な原油や天然ガスなどエネルギー資源を梃子に、特に欧州と中央アジアに対し、急速に影響力を拡大している。ソビエト連邦の崩壊後の弱体性から比較すると相当影響力を取り戻したといえ、豊富な資金力を背景に軍備の更新を進めており、ロシア政府との協議なしにソ連時代の旧東側の東ヨーロッパへのミサイル防衛基地の展開を進めている米国やNATOとの緊張状態は高まりつつある。ロシアが欧米から批判されている問題の一部に同国における人権問題自由でないメディアLGBT禁止問題ノビチョクなどがある。両国の間では経済的な交流がいくつかあるが過去のシベリア抑留北方領土問題それに起因する漁民銃撃と拿捕事件資源問題(サハリン2を参照)なども生じておりその関係はあまり良くない。その上でロシア人の日本に対する信頼はアメリカイギリスに対する信頼よりも高いという調査結果がある。ロシアはブラジルと重要な同盟関係を構築しており、宇宙・軍事技術をはじめ、電気通信などの分野でパートナーシップを結んでいる。ブラジルはBRICSのメンバーでもある。インドとは大幅な防衛戦略上の関係を結んでおりインドはロシア連邦製兵器の最大の顧客である。中華人民共和国とは2001年に中露善隣友好協力条約を結び東シベリア太平洋石油パイプラインの支線も大慶油田へ引いている。傍らで上海協力機構やBRICsでの関係も深めており良好な間柄となっている。南アフリカはソ連と公式の外交関係を結んでいたことから後継国のロシアと深い関係性を持っており、1992年2月28日付で完全な外交関係を樹立している。南アフリカはBRICSの1国として加盟。キューバとはソ連時代から緊密な協力関係を築いておりソ連崩壊以降も外交関係を維持している。ロシアが2014年3月にウクライナからクリミア半島を併合した際キューバは同半島をロシアの一部として承認している。ロシアとサウジアラビアの両国はと呼ばれており世界の原油生産の約4分の1を占めている。ロシア連邦軍にはロシア陸軍海軍空軍がありこれとは別に戦略ミサイル部隊()航空宇宙防衛軍空挺軍もある。2017年には約100万人が軍に属しておりこれはである 。これに加えてソビエト時代の招集を考えると約250万人の予備役(在郷軍人)がおりその総数は約2500万に上るともいわれている 。18才から27才の国民男子は全て1年間の兵役義務がある。ロシアは世界で最大の核兵器部隊を持ち米国以外で唯一の戦略爆撃機隊がある。ロシアの戦車部隊は世界最大で海軍の海上部隊空軍は世界でも最大級である。ロシアでは軍需産業が盛んである。軍事関係の世界的な供給者としては2001年には世界の30パーセントを占め80か国へ輸出しており世界でも上位にあった 。ストックホルム国際平和研究所の調査では2010 - 2014年には世界第2位の輸出国で2005 - 2009年に比して37パーセントの増加を示した。ロシアは56か国および東部ウクライナの反乱部隊へ武器を供給した。世界最大の面積を持つロシアはユーラシア大陸の北部にバルト海沿岸から太平洋まで東西に伸びる広大な国土を持つ。その面積は日本の約45倍アメリカの約1.7倍にも達し��米大陸全体の大きさに匹敵する大きい)。国土の北辺は北極圏に入り人口も希薄だが南辺に近づくと地理的に多様となり人口も多くなる。ヨーロッパ部(ヨーロッパロシア)とアジア部(シベリア)の大部分は広大な平原で南部のステップから北は広大な針葉林の森であるタイガがその大部分を占めている。さらに高緯度になると樹木が生育しないツンドラ地帯となる。黒海とカスピ海の間の南の国境にはヨーロッパ最高峰(カフカス地方をヨーロッパに含めた場合)のエリブルース山を含むカフカース山脈がありヨーロッパとアジアの境界にはウラル山脈がある。面積を見るとヨーロッパ部よりアジア部の方が広大であるが、国土の西端に当たるヨーロッパ部に人口や大都市、工業地帯、農業地帯が集中していること、さらにスラブ文化のつながりから、ロシアをヨーロッパに帰属させる分類が一般的である。国土を囲む海域には北極海の一部であるバレンツ海、白海、カラ海、ラプテフ海、東シベリア海と、太平洋の一部であるベーリング海、オホーツク海、日本海、そして西のバルト海と西南の黒海があり、海岸線は3万7,000kmに及ぶ。これらの海に浮かぶロシア領の主要な島には、ゼムリャフランツァヨシファ、ノヴァヤゼムリャ(米国を越える史上最大規模の核実験が行われた)、セヴェルナヤ・ゼムリャ諸島、ノヴォシビルスク諸島、ウランゲル島、サハリン(樺太)、そして日本との領土問題を抱えるクリル諸島がある。特に北極海に面した地域をはじめ、冬季は北極寒波の影響が強いため厳寒であり、氷点下を下回る日が長く続く。ロシア領内の主要な川にはヨーロッパ部のドン川大型で良質のチョウザメが多数生息するヴォルガ川カマ川オカ川アジア部のオビ川エニセイ川レナ川サケ類の漁獲で有名なアムール川などの大河が挙げられる。これらの下流域は日本で大河とされる最上川北上川や四万十川よりも川幅が広くいずれもセントローレンス川下流域に近い川幅がある。またアジア部の大河はアムール川を除いて南から北へ流れ北極海へ注ぐ。ブリヤート共和国のバイカル湖は世界一古く水深の深い湖として有名な構造湖である。このほかソ連時代の水力ダム建設によって生まれた大規模な人造湖が存在する。ロシアには基本的に大陸性気候が卓越する。すなわち気温の年較差が大きい。ケッペンの気候区分に従うと亜寒帯。しかしながら夏季には最高気温が30°Cを超える。典型的な植生は北極海沿岸がツンドラ南に下るにしたがって針葉樹林のタイガ混交林プレーリーステップに移行していく。右図はロシアを中心とした地域にケッペンの気候区分を適用したものである。以下、気候区分にしたがって特徴と地域区分を示す。ロシア連邦は85の連邦構成主体と呼ばれる地方行政体からなる連邦国家である。連邦構成主体としては46の「州」( oblast')9の( avtonomnyj okrug)がある。ただしこのうちのクリミア共和国とセヴァストポリ連邦市はウクライナと帰属係争中である。プーチン政権は、連邦政府の地方への影響力拡大を図り、85の連邦構成主体とは別に、2000年5月13日に全土を7つに分けた連邦管区を設置した。2014年時点ではウクライナと係争中のクリミア連邦管区を含め、9つになっている。連邦管区には連邦大統領の代理人としての大統領全権代表が派遣され、連邦構成主体を監督している。さらに、2004年12月に地方自治体の首長を選挙制で選ぶ方式から、大統領が指名して地方議会が承認するという方式に転換した。事実上の官選化となるこの措置に対し、欧米諸国ではプーチン政権による強権支配が民主主義を脅かすという批判が生じた。ロシアには人口100万人を超える都市が15ある。最大の都市は首都モスクワ(1260万人(2021年))である。続くサンクトペテルブルク(545万人(2021年))との2都市が規模としては飛び抜けて大きく独立したロシア連邦の構成主体としてほかの州や連邦内の共和国と同格となる。ウラル山脈東山麓のエカテリンブルクチェリャビンスクシベリアのオムスクノヴォシビルスクを除く都市はすべてウラル山脈よりも西側すなわちヨーロッパロシアに位置する。一方厳しい気候条件のために長らく人口希薄地域だった極東部や北極海沿岸地域でも19世紀以降に鉄道港湾整備や鉱業開発などに伴う都市建設が進みハバロフスクやウラジオストクは50万人を超える人口を持つ。ロシアはブラジル・中国・インドとともにと呼ばれる新興経済国群の一つに挙げられているが、この中でロシアは1人あたりのGDPが最も先進国に近い。IMFによると、2021年のロシアのGDPは1兆5800億ドルであり、世界第11位である。一方、1人あたりのGDPは1万1,163ドル で首都モスクワと地方の格差もあり、ロシア全体では先進国より低い水準である。中村逸郎は、GDPの約70パーセントを国民の1パーセントである富裕層が持っている としている。ソ連解体後、ボリス・エリツィン大統領の主導のもと市場経済化が進められたが、このために却って急速なインフレーションを招き、1990年代半ばには経済的に落ち込んだ。その後、成長に転じつつあったが1997年のアジア通貨危機の影響を受けて1998年に財政危機を招き、再び落ち込んだ。2014年のクリミア併合による欧米から経済制裁と石油価格の下落により経済は低迷している。2019年現在ロシアはアメリカとサウジアラビアに次ぐ世界第3位の原油生産国 であり同時にサウジアラビアに次ぐ世界第2位の原油輸出国である。2003年以来の原油価格上昇によって貿易収支が改善し市場経済転換後の長い経済停滞を脱し急速な景気回復が見られた。豊富な地下資源を武器に石油の価格が高いときに成長が続く。その石油産業への依存の重さや自由化の恩恵に与った者とそうでない者の貧富の格差の拡大チェチェン独立派武装勢力によるテロのリスクなど不安定要因もいくつかは見られる。石油価格が高かった2000年にはGDP成長率が10パーセントを越える一方インフレーションも抑制され好調が続いた。一人当たり名目GDPも1999年には1334ドルに過ぎなかったのが2006年には6879ドルと5倍強の増加を見せた。しかし輸出の6割以上を原油や天然ガスなどの鉱物資源に頼る経済構造となっているいわゆるモノカルチャー経済である。モーリーロバートソンはと説明している。農産物の自給自足にも力を入れておりロシアは世界におけるとして知られている。米国農務省は2016年度2017年度で生産量は記録的に高いものとなっている。加えて米の栽培効率は1ヘクタールあたり7100キロでヨーロッパにおいて米を生産する国で知られるスペインイタリアに比較しても多いものとなっているうえアジア諸国より多い。同国の米はウズベキスタンタジキスタントルクメニスタントルコにも輸出されている 。米国農務省による2021-22年度推計ではロシアの小麦は生産量が過去最多の8600万トン輸出量は4000万トンで世界一を維持する見通しである。ソ連時代は大量の穀物を輸入していたが平坦な国土に農地が広がっておりロシア経済の安定化に伴い農機や肥料の投入増畜産の効率向上による飼料に使う小麦の節約で生産性や輸出余力が高まった。欧米の経済生産による通貨ルーブルの下落も輸出競争力を高めているがパン価格の上昇に国民が不満を抱くと輸出関税などで国外への出荷を抑えようとする政策も採られている。ロシアはもっとも鉱物資源が豊富な国の一つである。産出量が世界シェア10位以内となる資源だけで20種類に及ぶ(以下の統計数値は経済産業調査会『鉱業便覧 平成14年版』による2002年時点のもの)。有機鉱物資源では、天然ガス(2,1807千兆ジュール、21.9パーセント、2位)、原油(3.5億トン、10.3パーセント、2位)、燃料に用いられる亜炭(8,668万トン、9.5パーセント、4位)、石炭(1.6億トン、4.4パーセント、6位)の採掘量が多い。原油と天然ガスの産出量は1位の国(サウジアラビアと米国)との差が小さく、いずれも2ポイント未満の差にとどまる。このため、統計年度によっては1位となることもある。これらの有機鉱物資源のうち、国内で消費される比率が高いのが石炭と亜炭である。ロシアは世界有数の観光地として知られている。観光スポットが各地にあり海外から多くの観光客が訪れている。その中で最も代表的なものとして知られているのは世界遺産に登録されているサンクトペテルブルク歴史地区と関連建造物群や赤の広場である。ロシア経済に占める貿易の割合は急拡大している。1992年時点では、国民総生産3,978億ドルに対し、輸出が381億ドル、輸入が350億ドルであった。2003年には、国民総生産4,885億ドルに対し輸出は1,260億ドル、輸入524億ドルに増加しており、輸出の伸びが著しい。これは原油および、石油関連の生産・輸出拡大によるものである。ロシアの貿易構造は1992年から2003年までの約10年間で大きく変化してきた。1992年時点ではソ連を構成していた諸国に対する貿易が、輸出で7割、輸入で5割を占め経済ブロックを形成していた。品目では機械と原油、化学工業製品を輸出し、建設機械と軽工業品、食料を輸入していた。ところが、2003年時点では輸出入とも相手国が分散する。原油,石油製品を輸出し、機械、自動車を輸入している。つまり、機械工業の落ち込みと原油輸出の大幅な伸びが特徴と言える。1992年時点の輸出品の品目別の比率はUnited Nations Statistical Yearbook 2003などによると建築機械ベラルーシウクライナ中国アメリカとなっている。日本との貿易は順調に拡大している。日本からの輸入額は15億ドルから45億ドルへ、輸出額は28億ドルから62億ドルに伸びている。品目は輸入を中心に変化した。日本への輸出の変化を見ると、1992年時点は魚介類、木材の2品目で5割弱を占め、アルミニウム、映像機器、通信機器、バスに変わった。品目が自動車に集中したことになる。ロシアにとって軍需産業はソ連時代から重要な地位を占めており、今後も積極的に輸出拡大を続けるとしている。輸出額は2011年は100億ドルを超え、2012年には150億ドルを超えるとされ順調に推移している。民間転用も積極的に行っており、宇宙・航空・情報通信産業など多岐にわたる。しかし、政治的な理由で輸出ができなくなるなど不安定な要素も含んでいる。しかし、ロシアを含め世界の軍事費は今後も増え続けるとされ、軍需産業は今後も拡大を続けるとされている。ロシアの科学技術はピョートル大帝がロシア科学アカデミーとサンクトペテルブルク大学を設立し博学者ミハイルロモノーソフがモスクワ大学を設立した啓蒙時代から急速に発展した。19世紀から20世紀にかけてロシアは多くの著名な科学者を輩出しており物理学天文学数学コンピューティング化学生物学地質学地理学などの学系分野に重要な貢献を果たしている。元素周期表のドミトリメンデレーエフ近年ではポアンカレ予想のグリゴリーペレルマンなどが著名である。なおロシアにおいて発明家や技術者の存在は電気工学造船航空宇宙兵器通信IT核技術宇宙技術などに幅広く影響を及ぼしている。20世紀のロシアの人口動態は第一次大戦干渉戦争期そして第二次世界大戦期と2度にわたって激減したがその後は回復傾向にあった。しかし1992年以降再び人口減少が続き1992年で最大1億4800万人いた人口が2050年には1億1000万人程度まで減少すると見られている。原因には出生率の低下や男性の平均寿命がきわめて短くなっていることがある。ロシアの男性の平均寿命は1987年以降短くなる傾向にあり世界銀行の統計によると1994年には57.6歳まで低下した。その後回復し2017年時点では67.5歳である。女性は1993年に71.2歳まで低下したが2017年には77.6歳と上昇男女差は10歳ときわめて大きいままである。ちなみに2008年OECD諸国の平均は男性77.2歳女性82.8歳と男女差は6歳程度である。続いていた人口減少は2012年に止まり2014年のクリミア併合で人口増加に転じたが2016年の減少に戻り2020年は約51万人の減少 となった。また出生率も2015年には1.78をピークに上昇したが2018年時点では1.5人程である。ロシアには182の民族が存在している多民族国家である。2010年の統計によると約80パーセントは東スラブ系民族となっており、ロシア人が全人口の77.71パーセントを占める。同じ東スラブ人のウクライナ人の割合も1.35パーセントと全体の3位となっており、ベラルーシ人やポーランド人を含めたスラブ系全体では82.7パーセントを占める。チュルク系のタタール人はロシア人に次いで多い民族集団となっており全体の3.72パーセントを占め、バシキール人やチュヴァシ人、トゥヴァ人、アルタイ人、カザフ人、ウズベク人、アゼルバイジャン人、サハ人などのチュルク系民族はロシア全体の8.7パーセントを占める。コーカサス系で最も多いのがチェチェン人で全体では6位の1パーセントを占めイン��ーシ人オセット人アヴァール人アルメニア人グルジア人などを合わせるとコーカサス系民族はチュルク系に次いで多い3.7パーセントを占めている。ウラル系はマリ人モルドヴィン人カレリア人ウドムルト人ネネツ人などで構成され全体の1.6パーセントを占めている。そのほか、モンゴル系民族のカルムィク人、ブリヤート人、ツングース系民族のエヴェンキ人、エスキモー系のユピク人、さらに、ユダヤ人やゲルマン系のドイツ人など多くの非スラヴ系民族がいるが、公用語であるロシア語が民族共和国を含め全域でほぼ完全に通用する。ロシア語が公用語である。ロシアの各共和国の公用語として以下の28言語がある。法律上結婚可能な年齢は成人となる年齢と同じ18歳である。ただし尊重すべき理由があるときはそれ以下の年齢でも認められる場合がある。結婚後の姓は夫婦どちらかの姓に合わせる同姓の場合は妻が夫の姓に合わせることが多い。なおロシア連邦民法典19条により個人の姓名前父称の変更は一定の手続きにより可能である。婚姻登録の申請は特別な事情がある場合を除き、結婚する1か月前までに行う(家族法典11条)。宗教やほかの形式での結婚式が行われることもあるが、家族関係や出生・死亡を扱う市民登記機関であるザックス(、ザークスなどとも表記)にある結婚式場で婚姻の署名などを式典形式で行う結婚式がよく行われる。これはソビエト連邦時代からのものである。ロシア人を含めた多くの民族がキリスト教正教会の信徒であるが、カトリック、プロテスタントやイスラム教、ユダヤ教、仏教などの信徒も少なくない。ロシア憲法においては全市民へ無料のユニバーサルヘルスケアが保障されている。しかし無料で医療が受けられる範囲は法定の範囲に限定されている。ロシアの人口1人あたりの医師数病院数医療従事者数は世界の中で最も多く一時はソ連崩壊によって社会経済生活様式の変化を受けて悪化したがしかし2000年代半ばからは回復しており平均余命は2006年と比べて男性で2.4年女性で1.4年ほど長くなった。2009年には、ロシアの平均余命は男性で62.77歳、女性で74.67歳であった。平均余命の男女差が大きい理由は、主に労働年齢層での死亡率の高さに起因し、それは予防可能な死であった。このような男女の余命差と第二次世界大戦の戦死者によって人口男女差は大きく、女性1人あたり男性0.859人となっている。ロシア政府は2006年から本格的に少子化対策や医療対策に取り組んでおり、その後の出生率や死亡率は徐々に改善されている。年金の支給は男性が60歳から、女性が55歳となっているが2018年に引き上げが決定し、2030年までに引き上げが行われる。ロシアの治安は不安定さが幾ヶ所に見受けられる面を持つ。同国内務省が発表した「2017年時におけるロシア国内の犯罪情勢」によれば、全犯罪の登録件数約2058,500件(4.7%減)の内93.0%が摘発されており、同年にロシアで認知された「テロ行為」は37件(前年比+48%)、テロに準じた犯罪を含む「テロの性格を有する犯罪」は1,871件(前年比-16%)発生している。傍らで犯罪による死亡者数は29,300人 (0.5%増)で、公共施設における犯罪件数は738,000件(6.6%減)となっている。都市部では外国人を狙った強盗やスリ、置き引き、詐欺、クレジットカードやキャッシュカードのスキミング等の犯罪が多発しており、被害者の中には日本人も含まれているとの報告がある。一方で一般国民による反体制抗議運動は集会法の罰則強化を始めとする当局による規制の強化により実施されにくい状況になっているもののそれにも拘わらず首都モスクワ市内では反政権活動家による抗議集会等が開催されており参加者が数万人規模となることもあるとされている。これらの活動は現時点において平穏に行なわれているが一部の無許可集会等の参加者が治安当局に逮捕されることもあり旅行などで同国を訪れたり滞在する際にはトラブルを回避する為にもそれらの集会やデモには近付かず干渉しないことを心掛ける必要性が求められる。現状この節は日本語版記事があるものが列挙されているだけであり主要なものを紹介しているとはいえない状態である。ロシアにおける言論の自由についての批判はを参照。公���機関も含め、YouTubeやInstagramの利用も盛んである。ロシア国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が16件、自然遺産が10件存在する(2015年の第39回世界遺産委員会終了時点)。そこには、モンゴルと共有する自然遺産が1件、リトアニアとだけ共有する文化遺産が1件、ウクライナ、エストニア、スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、ベラルーシ、モルドバ、ラトビア、リトアニアと共有する文化遺産1件が含まれる。クリスマスが1月7日なのはキリスト教の宗教行事はロシア正教が公認しているユリウス暦に基づいて行われていることによる(正教会ではほかにエルサレム総主教庁グルジア正教会セルビア正教会アトス山などがユリウス暦を採用している)。現在の暦であるグレゴリオ暦は歴史的にはカトリック側が作った暦であるためである。すなわちグレゴリオ暦(新暦)1月7日がユリウス暦の12月25日に相当する。2100年2月28日まではグレゴリオ暦とユリウス暦のずれは13日である。「旧正月」も同様の理由から1月14日に祝う。ソ連時代は1917年にロシア革命でソヴィエト政権が成立した11月7日が革命記念日として最大の祝日になっていたがプーチン政権は2005年にこれを廃止し帝政時代に「モスクワ解放記念日」となっていた11月4日を「国民団結の日」として復活させた。ソ連時代からオリンピックで毎回優れた成績を残しており、メダル獲得数では上位にランクされることが多い。ロシアは1980年のモスクワオリンピックをはじめ、国際スポーツ競技大会の開催も数多い。2014年には黒海沿岸のソチで冬季オリンピックを開催している。国内リーグにはロシアサッカープレミアリーグアイスホッケーのコンチネンタルホッケーリーグなどがある。またソ連崩壊の前後から多くのロシア人指導者が国外に移住し陸上競技フェンシング体操競技新体操アーティスティックスイミングフィギュアスケートなどの種目で世界各国の選手を指導している。ロシア旧ソ連発祥のスポーツとしては日本の柔道と西洋のレスリングなどをベースに編み出されたサンボが挙げられる。他方で、ドーピング問題で国家的な関与があったとして国際的な非難がされている。2018年平昌オリンピックでは国家としての参加が認められず、ロシアの選手はOARという呼称で個人での参加となった。このオリンピックでは、公式記録上はOARとしての記録である。また、優勝しても国旗の掲揚、国歌の演奏はされず、代わりにオリンピック旗が掲揚され、オリンピック賛歌が演奏された。この平昌大会から正式競技となったカーリング混合ダブルスで、当初は銅メダルを獲得したロシアのペアのドーピングが発覚しメダルを返還するなど、アンチドーピング対策が大きな課題となっている。2019年に世界アンチ・ドーピング機関は、ロシアのドーピングのデータ改ざんに対して4年間国としての参加を認めない処分を決定。2021年に開かれた2020年東京オリンピック・パラリンピックではROC、RPCとして参加した。 +現代では以下のように、文脈によって様々な意味をもつ多義語である。という日本語は明治時代の学者西周がフィロソフィーに対してあてた訳語である。したがってという意味でありそれだけではまだ何を研究する学問であるかは示されていない。この語では内容が規定されていないのである。哲学以外の大抵の学問は分野名を聞いただけでおおよその内容が察せるこのように対象によってこの学を規定することができないと「対象を扱う«方法»に共通点がありそれによって規定できるのはないか」との期待が生まれることがあるがそのような期待も裏切られ哲学に一定の方法が存在しうるわけではない。日本語辞典の広辞苑では次のように説明している。観念論的な形而上学に対して唯物論的な形而上学もある。諸科学が分化独立した現在では哲学は学問とされることが多いが科学とされる場合もある。科学と学問以外に、哲学の分野の包括的な用語としては、学(science・Wissenschaft) があり、広辞苑は次のように説明している。哲学者による哲学の定義.近現代哲学において代表的な哲学者の言説を以下に記述する。啓蒙思想時代の哲学者でありまたドイツ観念論哲学の祖でもありそして近現代哲学に大きな影響力を持ち続けている哲学者イマヌエルカントは哲学について次のように説明している。現代思想において特に分析哲学に多大な影響を及ぼした哲学者ルートヴィヒウィトゲンシュタインは哲学について次のように説明している。現代思想において、特に大陸哲学に多大な影響を及ぼした哲学者、マルティン・ハイデッガーは、哲学について次のように説明している。古典ギリシア語の「フィロソフィア」(ピロソピアーフィロソフィア)という語は「愛」を意味する名詞「フィロス」()の動詞形「フィレイン」()と「知」を意味する「ソフィア」()が結び合わさったものでありその合成語である「フィロソフィア」は「知を愛する」「智を愛する」という意味が込められている。この語はヘラクレイトスやヘロドトスによって形容詞や動詞の形でいくらか使われていたが名称として確立したのはソクラテスまたはその弟子プラトンが自らを同時代のソフィストと区別するために用いてからとされている。古典ギリシア語のと述べている。英語をはじめとした多くの言語でをそのまま翻字した語が採用されている。例えばなどである。日本で現在用いられている以外にも様々な哲学用語の訳語を考案している。漢語の本場である中国では西周が作ったという訳語がいわば逆輸入されて現在も使われている。経緯としては清末民初の主に変法運動期の知識人たちが同じ漢字文化圏に属する日本の訳語和製漢語を受容したことに由来する。と訳されることが多かった。17世紀・明末の中国に訪れたイエズス会士ジュリオ・アレーニは、西洋の諸学を中国語で紹介する書物を著した。同書のなかでフィロソフィアは、と訳されている。日本の場合幕末から明治初期にかけて洋学。なお兆民は晩年の著書でと述べたことでも知られる。上述の中国の変法運動期の知識人の間でも、と訳したほうが適切ではないか、という見解が出されることもあった。という旨を述べている。紀元前の古代ギリシアから現代に至るまでの西洋の哲学を眺めてみるだけでも、そこには一定の対象というものは存在しない。西洋の哲学を眺めるだけでも、それぞれの時代の哲学は、それぞれ異なった対象を選択し、研究していた。ソクラテス以前の初期ギリシア哲学では対象はという身近で実践的な問題が中心となった。ヨーロッパ中世では、哲学の対象は自然でも人間でもなくを基盤として学ばれるものであった。さらに時代が下り近代になると人間が中心的になり自己に自信を持った時代であったのでとする経験論者が対立した。カントはこれら合理論と経験論を総合統一しようとした。19世紀20世紀ごろのニーチェベルクソンディルタイらはいわゆるということを中心的課題に据えた。このように哲学には決して一定の対象というものは存在しなく対象によって規定できる学問ではなく冒頭で述べたようにただとでも呼ぶしかない とされている。学問としての哲学で扱われる主題には、真理、本質、同一性、普遍性、数学的命題、論理、言語、知識、観念、行為、経験、世界、空間、時間、歴史、現象、人間一般、理性、存在、自由、因果性、世界の起源のような根源的な原因、正義、善、美、意識、精神、自我、他我、神、霊魂、色彩などがある。一般に、哲学の主題は抽象度が高い概念であることが多い。これらの主題について論じられる事柄としては定義性質複数の立場見解の間の整理などがある。これをひとくくりにということについて考える分野である。また、といった問いの答えを模索する営みとして、旧来の神学や科学的な知識・実験では論理的な解答を得られない問題を扱うものであるとも言える。またこのようなテーマは法哲学の現場に即しておらず、真偽が検証不可能であり、実証主義の観点からナンセンスな問いであると考える立場もある。こちらはひとくくりにということはどういうことなのか何がよりよいのかを考える分野である。過去の哲学を扱うものとしての哲学.このような意味での哲学はより具体的にはとりわけ古代ギリシアのギリシア哲学、中世のスコラ哲学、ヨーロッパの諸哲学。また、諸学問の扱う主題について特にこうした思考を用いて研究する分野は哲学の名を付して呼ぶことが多い。例えば、歴史についてその定義や性質を論じるものはと呼ばれる。これらは哲学の一分野であると同時にそれら諸学の一部門でもあると考えられることが多い。哲学ではしばしば多くの「学派」が語られる。これは通常特定の哲学者の集団(師弟関係であったり交流があったりする場合も少なくない)に特徴的な哲学上の立場である。古代ギリシア哲学、自然哲学、形而上学、実念論、唯名論、大陸合理主義、イギリス経験論、ドイツ観念論、超越論的哲学、思弁哲学、生の哲学、現象学、実存主義、解釈学、新カント派、論理実証主義、構造主義、プラグマティズム、大陸哲学特定の学者や学者群に限定されないについても多くの概念が存在している。言及される主要なものに存在論実在論観念論決定論宿命論機械論相対主義二元論一元論独我論懐疑主義などがある。哲学は様々な形で細分化される。以下に挙げるのはそのなかでも特に広く用いられている分類専門分野の名称である。貫成人が次の三つの種類に哲学を分類している。即ち型の三つである。第一のタイプは自然イデア神といったすべての存在を説明する絶対的原理の存在を前提するものであり古代や中世の哲学が含まれる。第二のタイプは認識の主体に焦点を当てて主観と客観の対立図式に関する考察を行うもので近世や近代の哲学は主にこのタイプとされる。第三のタイプは人間を含む全ての存在を生成するシステムをについて考えるものでクロードレヴィ=ストロースの構造やルートヴィヒウィトゲンシュタインの言語ゲームがこれに該当する。第一のタイプの絶対的存在が自身は常に同一にとどまりつつ他の物体に影響を与えるのに対し第三のタイプの全体的なシステムは可変的であるという。古代ギリシャ哲学はイスラム世界に受け継がれ、イスラム世界において、アッバース朝のカリフ、マームーンは国家的事業として、ギリシャ語文献を翻訳させた。翻訳センター・研究所・天文台であるが設けられた。翻訳の大半は、ヤコブ派、ネストリオス派などの東方キリスト教徒が、シリア語を介して行った。ギリシャ哲学のアラビア語への翻訳で中心を占めたのは、アリストテレスとその注釈者の著作であった。ネオプラトニズムについてはプロティノスやプロクロスの原典からの直接の翻訳が行われずネオプラトニズムの著作がアリストテレスの著作だとして伝わることになった。キンディーはイスラーム最初の哲学者と言われる。イブン=ザカリーヤーラージーはアリストテレスの哲学ではなく原子論やプラトン主義の影響を受けた珍しい哲学を展開した。ファーラービーは、神から10の知性(=ヌース)が段階的に流出(放射)すること、そして第10の知性が月下界を司っている能動知性で、そこから人間の知性が流出している、という理論を打ち立てた。政治哲学の分野でも、アリストテレスを採用せず、(ネオプラトニスムでは忘れられていた)プラトン的政治論を採用した。イブン=シーナーはイスラーム哲学を完成させたと言われている。イスラームのイベリア半島においてはイブン=ルシュドがアリストテレス研究を究めアリストテレスのほぼ全著作についての注釈書を著した。そしてイブン=シーナーのネオプラトニスムを廃し純粋なアリストテレス主義に回帰しようとした。ヨーロッパ哲学の大きな特徴として、 があり、古代、近代、現代といった節目を設けて根底的な相違を見出すようなことが比較的容易であると言える。古代、近代、現代といった枠組みの中でも大きく研究姿勢が異なる学者、学派が存在する場合も珍しくない。上述のようにフィロソフィアフィロソフィという語そのものは西洋で生まれ時代が下ってから東洋に伝わったものであるがタイトルに東洋哲学と冠した書籍書名にと称する例 が存在する。また東洋哲学研究所日本哲学史フォーラム といった団体が存在するほかいくつもの大学で東洋哲学を研究する過程が設置されている。以上のように東洋の思想を哲学と呼称する例はしばしばみられる。哲学の中でもインドを中心に発達した哲学で、特に古代インドを起源にするものをいう。インドでは宗教と哲学の境目がほとんどなく、インド哲学��元になる書物は宗教聖典でもある。インドの宗教にも哲学的でない範囲も広くあるので、インドの宗教が全てインド哲学であるわけではない。中国では春秋戦国時代に諸子百家が現れた。中でも老子や荘子の道家孔子や孟子荀子らの儒家がよく取り上げられる。時代が下ると南宋では形而上学的思索を含む朱子学が生まれ明代には朱子学を批判して陽明学が登場した。東洋にも哲学はありインドと中国は大きな影響を持っている。日本哲学は伝統的には中国の影響を受けて来たが現代ではヨーロッパの影響も無視出来ないものがある。これと同時に、日本におけるヨーロッパ哲学の研究は、全く異なる生活現場でヨーロッパ同様にヨーロッパ哲学を扱うことは奇妙であり、伝統を汲まない、必然性を欠いたものであるといった指摘もある。日本のヨーロッパ哲学の研究者が、徹底的な議論をすることなく、むしろ議論の場を作らせず、ヨーロッパの哲学とはほど遠い、哲学とはほど遠い現状がある。西田幾多郎を発表、知情意が合一で主客未分である純粋経験の概念を提起した。またその後、場所の論理あるいは無の論理の立場を採用した。彼の哲学はと呼ばれるようになった。井筒俊彦などを著し、東アジア・インド・イスラーム・ユダヤの神秘主義を元に、ひとつの東洋哲学として構造化することを試みた。哲学と宗教は共に神の存在に関連している分野である。そのため厳密な区分は難しい。宗教と神学と哲学の境界は必ずしもはっきりしない。ただ、合理的な追求を試みる態度によって異なっている、とする人もいる。西洋哲学の萌芽ともいえるソクラテス以前の哲学の中にはそれまでの迷信を排したものがある。例えばホメロスの詩はそれまでの民衆の狂信的要素を極力退けているものになっていると言われる。この点古代ギリシア人及びその哲学には二つの傾向が見られた。一つは合理的で冷静もう一つは迷信的で熱狂的であるというものであり彼らはその合理性によって多くの迷信を克服したが恐怖や苦難に見舞われた際に以前の迷信が再び頭をもたげた。オルフェウスは‘清めの儀式’や天上地獄の教義について述べていて後のプラトンやキリスト教に影響を与えた。日本の仏教でも例えば極楽浄土と地獄に関する教え等を説いている。プラトンは永遠で恒久なる存在について考えたが彼の場合は少なからず認識といった知的なアプローチを説いた。後世においてライプニッツは時間の絶対性の観点からして時間の始源より以前に時間を遡ることが論理的に不可能であるとしその始源に神の座を据えたと言われる。現代では宇宙のビッグバン説や時間の相対性といった発想が反論として挙げられるだろう。宗教や神の存在に関する知的な理解を求めた人々は、しばしば哲学的な追究をし、逆に信仰生活に重点を置いた人々は、哲学的に手のこんだ解釈やへ理屈めいた議論を敬遠したといえるだろう。同じ宗教にたずさわりながら、知的に優れ業績を残した人もいれば、実践を重んじ困っている人を助けることを日々実行する人もいれば、迷信的なものにとらわれた人もいた。信仰心のあつい人は、しばしば、哲学をする人の中に、詭弁で他人を議論の袋小路に追い込む酷薄な人を見てとり、哲学者を不信の目で眺めた。ただし、知的なだけでなく、人格的にも傑出した哲学者に限れば、人々の尊敬を広く集めた。また哲学と宗教との差異としてなにがしか態度の有無が挙げられることがある。宗教ごとに性質はことなるのでひとくくりに語ることは難しいが例えばアブラハムの宗教など)には信仰の遵守を求めるドグマ性がある時として疑問抜きの盲信を要求しがちな面があるとして比較されることはある。18世紀~19世紀ごろから自然科学が成功を収め神的なものに疑問符が突きつけられるようになったため、唯物論思考など神を介しない考え方も力を得てきている一方、古代から、否定的確証にも肯定的確証にも欠けるとして科学・宗教いずれの見解も留保する不可知論的立場もあり、これは現代でも支持者がいる。中世哲学研究者の八木雄二は、と自説を主張している。つまり、哲学を理性的な吟味を行うことと定義し、その定義より神学は哲学に含まれると述べているのである。は著書でといった哲学史観を示している。これは今日一般的な哲学観であり中世哲学史家のエティエンヌジルソン科学哲学者のカールポパー もこれと同じ哲学観を持っている。哲学と思想、文学や宗教の関係について、相愛大学人文学部教授の釈徹宗はと述べている。と主張の形で表出することになるため、哲学は思想としてしか表現されないことになる。このために思想と哲学の混用は避けられない。哲学と思想を区分することのメリットは具体的な使用事例で発見することができ、たとえば思想史と哲学史は明らかに異なる。通常は思想家とされない人物でも、その行動や事業を通して社会に影響を与えた場合には思想史の対象となる。これに対して哲学史の対象は哲学者の範囲にとどまり、哲学を最大限に解釈したとしても、政治家や経営者が哲学史で論じられることはない。しかし思想史においては、実務を担当し世界の構造を変えようとした人々は思想史の対象として研究対象になる、とする。一方で小坂修平は別の立場をとり であるとする。小阪はこの区別に基づき19世紀後半から20世紀前半にかけて生まれてきた思想は分析哲学や現象学を除けば哲学の枠組みには収まらず現代思想になるとする。一部の哲学は、理知的な学問以外の領域とも深く関わっている点に特徴がある。古代ギリシア哲学が詩と分かちがたく結びついていたこと、スコラ哲学や仏教哲学のように、信仰・世界観・生活の具体的な指針と結びついて離れない例があることなどが指摘できる。理性によって物事を問いながらも、言葉を用いつつ、人々の心に響く考えやアイディアを探すという点では文学などの言語芸術や一部の宗教と通じる部分が多い。哲学者の名言が多いのはそのためでもある。例えば日本では大学の主に文学部の中のという学部が存在する。八木雄二は前節で述べたように哲学を理性的な吟味を行うことと定義した上で人文科学はと述べている。自然科学は数学的方法を適用することで数学的方法を適用できない人文科学は哲学によってそれらが理性的であるかが確認できそういった数学的方法や哲学的吟味を受容してこそそれらは学問として認められるのだと彼は主張している。学問分野としての哲学の特徴.哲学を学ぶということについて、イマヌエル・カントはと主張している。後世の著作物の中に太古の思想との類似性が見つけられる場合、それが先哲の思索を継承したのか、独自の着想によるものかは即断できないが、明らかに以前には無い発想が述べられている場合、しばしばそれが重要な哲学的な独創性を意味していることがある。一方で思索は極めて属人的な営みであり、思索家の死や沈黙、著作物の散逸などにより容易に否定され失われてしまうが、弟子達の著作によりその思想が後世にまで残り、多大な影響力を及ぼしているものがある。思索の継承と橋頭堡を打ち立てた先哲に対し敬意を払い続ける態度もまた哲学の顕著な特徴である。一方で異なる学派間の対立は民衆の懐疑と嘲笑的態度独断の蔓延とそれによる思想の貧困化につなり戦乱が続いた時代は思想が停滞後退した。ヨーロッパにおいて教会の権力が頂点に達した頃には哲学はしばしば神学的な問題に用いられ近代には先哲の批判的継承のうえに独自の哲学を打ち立てた近代哲学者たちが現れた。逆に、哲学者自身が及ぼした影響の痕跡が後世に見られることもある。哲学が専ら同時代の観察と分析に徹しているという意見もある一方で、旺盛な活動によって世に知られた哲学者もいる。他の学問と哲学を区別する特徴となるような独自の方法論が哲学にあるかどうかというのはなかなか難しい問題である。少なくとも近代哲学においてはデカルト以来、疑いうるものを懐疑する態度、できるだけ明晰に思考する態度、事物の本質に迫ろうとする態度が哲学を特徴づけてきたといえるだろう。ただこれだけであれば学問の多くに共通する特徴でもあるし逆に理性や常識を信頼するタイプの哲学が哲学でないことになってしまう。分析哲学においては概念分析という道具を手にすることで自然科学とは異なる独自の思考形態が成立したがこれも哲学すべてを特徴づける思考形態であるとは言い���たい。三森定史によれば、科学と哲学は区別されるべきであり、科学が外観学への批判を込めて としている。哲学はその黎明期において、科学において大切でかつ難しいといわれる仮説の発明を、重要な形で成してきた。ソクラテス以前の哲学者と呼ばれるタレス、アナクシマンドロスといった自然学者はいずれも自然現象の説明を目論んだ。19世紀までは科学(science)、自然科学(natural science)という言葉は現代的な意味で用いられておらず、それらに相当する分野を指す言葉としては「自然哲学」(natural philosophy)ないしは「自然学」(Physics)という言葉が使われており(例えばニュートンの『プリンキピア』の正式名称は『自然哲学の数学的諸原理』である)、今日的な意味での「哲学的」な自然の探求と「自然科学的」な自然の探求とは伝統的には切れ目のないひとまとまりの領域として扱われてきたが、その中においても今から振り返って、「自然科学的」な部分と「哲学的」な部分を区別することができる。そうした「自然科学的」部分は伝統的に人間の作為を含まない対象(自然)を観察、分類することを主眼としてきた。また近代に至っては実験という形で積極的に自然に介入することを重視する実験科学が登場しさらに19世紀以降には目に見えるものからその背後の秩序を推測してモデル化するという営みが科学の中心となってきた。例えば、時間について考察する哲学者は同じ問題を扱う物理学者とは違い観察や実験の積み重ねによらず結論を導くことがある。また、哲学者は物理学の成果を参照しそれを手がかりに哲学的思索を行うことはあるが、現代において物理学者が(自然)哲学の成果を積極的に参照することは少ないようである。こうした分離や性格の差が生じた理由はいくつか考えられるが知識の取得法(方法論データのとり方理論の当てはめ方論争の決着のさせ方など)が確立した分野が順次哲学から分離していった結果哲学はデータのとれないことについて考える領域なのだという了解が後から成立してきたという事情はおそらくあるだろう。そうしたものの見方から捉えると先の時間の例について言うならわれわれの主観的経験や世界を捉えるためのもっとも基本的な形而上学としての時間は未だに物理学はもちろん心理学でもうまくとらえきることのできない対象でありそのために哲学的な時間論の対象となるわけである。客観的データになじまないもうひとつの領域が規範の領域、つまりを論じる文脈であるが、これは自然科学というよりは、むしろ倫理学の領域であろう。哲学も決して自然科学的知見を無視するわけではないので自然科学によってもたらされる新たな発見はしばしば旧来の哲学に重大な脅威を与えてきた。またそもそも古代の哲学者が成した科学的発見が自身の手による実験によって証明されていることがある。自然科学が自然哲学から分化して以降とくに近代の哲学者は自然科学者の成果を重視し両者の親和性を失わないよう不断の努力を行ってきたしまた近代においては観察や経験を重要視する哲学者たちが生まれた。また一方で科学者たち自身が扱わないような非常に基礎的な問題。あるいは科学が他の姿をとりうる論理的現実的可能性を論じることで一度は忘れられた仮説を再発掘する原動力となったり新しい科学理論の形を呈示したりする場合もある。歴史的に有名な事例としては全ての力が引力と斥力の二つに集約されるというドイツ観念論のテーゼが電力と磁力の統合というエルステッドの発見に結びついたといった例がある。なお近年の英米哲学では認識論の自然化を提唱したクワインのように自然主義という名の下に哲学を自然科学の一部とする動きがある。伝統的に論理学は哲学の一分野として研究されてきた。論理学は伝統的にわれわれの推論のパターンを抽出することを目的としてきた。特に伝統的な論理学においては、前提が正しければ確実に正しい結論を導くことができる手法としての三段論法が主な研究の対象であった。推論の厳密さを重視する哲学においては論理学は主要な研究の対象であり政治や弁論術、宗教、数学や科学の諸分野において論理学は重要な研究の対象であり続けた。古��の哲学者たちはしばしば現代でいう論理学者や数学者を兼ねていた。論理学の直接の関心は推論の妥当性や無矛盾性にありかならずしも人間や社会や自然の諸事象が考察の焦点にならない。もし疑いようのない前提から三段論法を用いて人間や社会や自然の諸事象についての結論を導き出すことができるならそれは非常に強力な結論となりうる。哲学者たちが論理学を重視してきたことは当然といえるだろう。しかし逆にいえば、三段論法の結論の厳密さはあくまで前提の正しさに依拠するものであり前提がとんでもないものであれば結論もとんでもないものが出てしまう。たとえば「すべてのカラスは黒い。この鳥は黒くない、したがってこの鳥はカラスではない」といった推論では最初の前提が間違いで本当は白いカラスもいるような場合、結局あやまった結論にたどりついてしまう(参照:ヘンペルのカラス)。この問題は重要で、たとえばジョン・スチュアート・ミルは三段論法が内包するこの危うさについて結論を知っていないならば、大前提の全称判断は得られないのだから、三段論法は一種の循環論証であると批判した。一方彼は帰納法の四大規則をこしらえたが、それらは因果律が仮定される限り有効に用いられるものであり、まったく単純枚挙による機能にもとづいてのみ、容認しうるものであることを白状せねばならなかった。哲学的論理学においてはしばしば推論規則そのものの哲学的な正当性が問題となってきた。古典論理については排中律の是非が問題となってきたし帰納論理についてはそもそも帰納論理なるものが成立するのかどうか自体が問題となった。こうした検討は認識論や科学哲学といった他の分野にも大きな影響を与えてきた。20世紀の初頭までには古典論理による推論の限界が明らかにされる一方でその公理系そのものを懐疑する視点から様相論理学直観論理や矛盾許容論理などの展開も提示されている。欧米に比べ、日本では女性の哲学者はまだ圧倒的に少ない。著名な女性の哲学者としては、ヒルデガルト・フォン・ビンゲン、ローザ・ルクセンブルク、ハンナ・アーレント、シモーヌ・ヴェイユ、シモーヌ・ド・ボーヴォワール、エリザベス・アンスコム、ジュリア・クリステヴァ、ジュディス・バトラー、カトリーヌ・マラブーなどが挙げられる。広義の哲学は思索を経て何かの意見や理解に辿り着く営みであり、そのような営みの結果形成されたり選ばれたりした思想、立場、信条を指すこともある。例えば、「子育ての哲学」「会社経営の哲学」などと言う場合、このような意味での哲学を指していることが多い。また哲学は個々人が意識的な思索の果てに形成獲得するものに限定されず生活習慣伝統信仰神話伝統芸能や慣用表現その他の文化的諸要素などと結びついて存在している感受性価値観世界観などを指す場合もある。つまり物事の認識把握の仕方概念あるいは発想の仕方のことである(こうしたものは思想と呼ばれることも多い)。このような感受性や世界観は必ずしも理論体系として言語によって表現されているわけではないが、体系性を備え、ひとつの立場になっていると考えられることがしばしばある。貫成人はに含めるかが異なることによるためだとする。現代理工医学からの批判.脳神経科学コンピュータ科学AI研究からの批判.という問題を解明してきた脳科学計算機科学人工知能研究開発等に関連して神経科学者分子生物学者のフランシスクリックはと批判している。こうした観点において、哲学はの学問・科学に過ぎない、と評価されている。脳科学者の澤口俊之はクリックに賛同し、次のように述べている。実際、哲学は暇(スコレー)から始まったとアリストテレスが伝えており、上記のような否定的発言も的外れではないと、科学哲学者の野家啓一は言う。また、うつ病の有無を血液(血中PEA濃度)で計測する検査法を開発し、臨床現場でも用いている心療内科医の 川村則行 は数学・論理学・数理論理学からの批判.数学者論理学者である田中一之はと述べている。計算機科学者(コンピュータ科学者)論理学者電子工学者哲学博士(Ph.D. in Philosophy)であるは哲学者たちによる数学的な言及の多くがと批��している。田中によると、ゲーデルの不完全性定理について哲学者が書いた本が、フランセーンの本と同じ頃に書店販売されていたが、哲学者の本は専門誌によって酷評された。その本は全体として読みやすく一般読者からの評判は高かったが、ゲーデルの証明の核について、根本的な勘違いをしたまま説明していた。同様の間違いは他の入門書などにも見られる。フランセーンによれば不完全性定理のインパクトと重要性についてしばしば大げさな主張が繰り返されてきた。たとえばという言があるがこれらは乱暴な誇張とされる。不完全性定理が一番大きな衝撃を与えたと思われる数学においてさえを証明した”というような誤解が一般社会哲学宗教神学等によって広まり誤用されている。数学者ダヴィットヒルベルトは的なヒルベルト流の見解を持っていた。哲学等においてという類の発言がよくあるが、これは実際の不完全性定理やゲーデルの見解とは異なる。正確に言えば、ヒルベルトの目的を拡張する必要がある、ということをゲーデルが不完全性定理を通して示したのだった。日本数学会が編集した第4版では、不完全性定理について次の通り記述されている。量子論・量子力学・理論物理学からの批判.哲学者は、科学とは違う日常的言語での概念さえ理解していない。ディラックの考えでは非科学的な日常的言語をいくら使っても正確な意思疎通を行うことはできない。量子力学を説明してくれと言う家族や友人に対してディラックはと返した。宇宙の背後にある等の研究が進められている。生物学・進化生物学・進化生態学からの批判.の序文で、進化生物学者リチャード・ドーキンスはと述べている。前掲書の第一章ではこう述べる。また進化生物学者社会生物学者のロバートLトリヴァースは前掲書へ以下の序文を寄稿した。同時にトリヴァースはとしている。哲学や人文学からの批判は生物学へそして生物学について解説したドーキンスへ向かった。その批判は例えば遺伝子の理論を極端に単純化して捉えつつ遺伝子との関連が薄い事物を同列に置いていた(「遺伝子は利己的でも非利己的でもありえない。原子がやきもち焼きだったりゾウが抽象的だったりビスケットが目的論的だったりすることがありえない以上に」等)。批判に対しドーキンスは前掲書の中で「利己的」等の生物学用語を挙げつつ「このような言い回しはそれを理解する十分な資格を備えていない(あるいはそれを誤解する十分な資格を備えたというべきか?)人間の手にたまたま落ちるということさえなければ無害な簡便語法である」と反論した。彼は次のようにも記している。また前掲書中でドーキンスは文化的自己複製子の理論に関してと述べている。彼によると破壊的で危険なミームの典型例は宗教であり。なおの邦訳者の一員である進化生態学者岸由二は40周年記念版の後書きでこの本をと呼び次のように評価している。物理学宇宙物理学からの批判.の中で宇宙物理学者の須藤靖は、科学についての哲学的考察が、実際には科学と関係が無いことを指摘している。須藤は、哲学的に論じられていると述べている。須藤によると学問の扱う問題が整理され分化したことで科学と哲学もそれぞれ異なる問題を研究するようになった。これはと返した。対談で須藤は「これまでけっこう長時間議論を行ってきました。おかげで、意見の違いは明らかになったとは思いますが、果たして何か決着がつくのでしょうか?」と発言し、伊勢田は「決着はつかないでしょうね」と答えている。。学問分野として全面的な否定や揶揄の対象にされることが多い点も哲学ならではの特徴といえる。ちなみにこの批判の中には哲学者とされる者によって展開されるものも含まれそのような批判が一つの哲学的立場になっている場合もある。抽象的な概念を巡る定義や論争などは証拠によって決着を着けたり万人が合意するような立場に辿りつけたりする可能性が低く。また、大学の哲学教員など現代の職業哲学者の従事する学問としての哲学は理性と言語による思考に特化しており必ずしも詩や宗教などと密接に結びついているわけではない。これに関して理性や言語による思考には限界や欠陥があり、人間の豊かな感性、感情を見落としがちであり哲学は学問分野としてそのような本質的限界、欠陥を抱え込んだ分野であると批判されることもある。また理性や言語を重んじる価値観は近代以降の西洋の諸文化に特徴的なものであると見做して攻撃する立場もある。既存の哲学が中心であることや習慣などに埋め込まれて存在していて言語化されたり理性的な吟味の対象にならない思想を哲学の一種として扱わない傾向にあったりすることなどをそのような価値観の表れと考え問題視する立場もある。1990年代半ばより、ポストモダンやフランス現代思想に分類される一部の哲学者並びに思想家が数学や物理学などの自然科学の理論や用語を、その意味を理解しないままに模倣したり、読者を煙に巻いたりしていることへの批判が起こった。哲学者のこうした欺瞞を批判した最も著名な例としてソーカル事件がある。彼らの論文に用いた数学らしき記号の羅列は数学者でなくとも自然科学の高等教育を受けた者ならそれが出鱈目であることはすぐに見抜けるお粗末なものだったのである。森岡正博は日本の大学や哲学教室倫理学教室学会や懸賞論文は制度化されており本来答えるべき哲学的課題に向き合えていないと批判している。学会は文献学特定個人の思想著名哲学者の思想に偏重しており直面した根本問題を検討することをに先延ばしすることに特徴があるとしている。哲学の<純粋探求>の凄みと快楽は理解するもののそれは本当に向かい合うべき問いから巧妙に逃げているのではないかと問題提起する。古代ギリシャの時代の時代から、フィロソフィアが役に立たないと思う人がいた。アリストテレスはその著において 次のような逸話を提示することで、そうではないと示した。コロサイの信徒への手紙の中でパウロは以下のように哲学を「むなしいだましごと」と称している箇所がある。 +ブラックミュージック () あるいは黒人音楽(こくじんおんがく)とはアメリカの黒人発祥の音楽の総称を表す言葉。強いビート感・グルーヴ感が特徴。ブルースゴスペルソウルR&Bジャズファンクヒップホップといった現在世界的に様々な形で展開されているジャンルを生みまたポップスやロックカントリー等にも影響を与え20世紀に生まれた多くのポピュラー音楽の源泉となった。大きく分けると黒人霊歌やゴスペルなどの宗教歌 (sacred music) と奴隷制時代のプランテーションソング (work song) から現代のヒップホップまで連なる世俗音楽 (secular music) の二つに分類できるがその分類も便宜的な機能上のものであって実質ブラックミュージックはすべて呼応しあいコールアンドレスポンスのように境界なく連続している。は自然科学の一分野である。古代ギリシアの自然学として自然哲学から独立した意味を持つようになった。物理学の古典的な研究分野は、物体の運動、光と色彩、音響、電気と磁気、熱、波動、天体の諸現象である。化学、生物学、地学などほかの自然科学に比べ数学との親和性が非常に強い。物理現象の微視的視点と巨視的視点.材料力学や流体力学は巨視的現象の法則からなる独立した物理学上の理論体系である。ここで注意しなければならないのは材料力学や流体力学はそれらの適用範囲においては、他の理論から完全に閉じた理論体系として存在していることである。現代の物理学はたとえば素粒子論がある一方で熱力学があるように巨視的現象の理論と微視的現象を記述する力学とをつなぐ理論や現象も重要なテーマとして研究されている。一般的にこの分野では統計物理学と呼ばれる強力な手法が使われる。ルートヴィッヒボルツマンらによって開発されたこの手法は構成粒子の振る舞いを統計的に処理することによって巨視的現象と結びつけるものである。物理学では、理論やモデルを数式として表現することが多い。物理学の研究において最も重要なステップの一つは物理法則を数式に表現する前の段階観測された事実の中から記述すべき基本的な要素を抽出する行為である。電磁気学に貢献したマイケルファラデーが正規の教育を受けなかったため数学的知識がなかったにもかかわらずさまざまな発見を成し遂げたことやノーベル賞を受賞したリチャードPファ���ンマンが液体ヘリウムについて論じた論文やジョージガモフが初めてビッグバン理論を提唱した論文には数式が出てこないことは自然界の中に記述すべき対象を見つけ出す営みが物理学において重要なステップであるということを示している。物理学の歴史は一見異なる現象を同一の法則の異なる側面であるとして統一的に説明していく歴史でもあった。地上付近での物体の落下と月の運動を同じ万有引力によるものとしたニュートンの重力の理論はそれまであった惑星の運動に関するケプラーの法則やガリレイの落体運動の法則が万有引力の別の側面であることを示した。マクスウェルはそれまでアンペールやファラデーらが個別に発見していた電気と磁気の法則が電磁気という一つの法則にまとめられることを導き電磁波の存在を理論的に予言し光が電磁波の一種であることを示した。20世紀に入るとアインシュタインが相対性理論によって、時間と空間に関する認識を一変させた。彼はさらに重力と電磁気力に関する統一場理論の研究に取り組んだが実現しなかった。しかし、その後も統一場理論に関する研究は他の研究者たちによって続けられ、新しく発見された核力も含めて統一しようとする努力が続けられた。1967年頃電磁気力と弱い力に関する統一場理論(ワインバーグ・サラム理論)が提唱され、後の実験的な検証により理論の正当性が確立した。この理論により、電磁気力と弱い力は同じ力の異なる側面として説明されることになった。自然界に存在する重力電磁気力強い力弱い力の四つの相互作用のうち上記の電弱統一理論を超えて電磁気力強い力弱い力に関する統一場理論である大統一理論重力電磁気力強い力弱い力の四つの相互作用全てに関する統一場理論。古典的な物理学では、物理現象が発生する空間と時間は、物理現象そのものとは別々のものと考えられてきたが、重力の理論によって、物質の存在が空間と時間に影響を与えること、物質とエネルギーが等価であることが解明されたことから、現代物理学では、物理現象に時間と空間、物質とエネルギーを含める。物理学はほかの自然科学と密接に関係している。物理学で得られた知見が非常に強力なために、他の自然科学の分野の問題の解決に寄与することも多く、生物学、医学など他の分野との連携も進んでいる。特に化学においては密接に関連する分野が多く、特に物理学的な手法を用いる分野として物理化学という分野が設けられている。生物学においても、生物の骨格や筋肉を力学的に考察したり、遺伝子レベルでの解析や進化の物理的考察を行う分子生物学がある。地球科学においても地球を物理的な手法を用いて研究する地球物理学があり、地震学・気象学・海洋物理学・地球電磁気学等は地球物理学の代表的な分野であるといえる。今日の物理学は自然科学のみならず人文科学・社会科学とも関係している。人文科学においては哲学との学際領域に自然哲学がある。また、心理学も精神物理学を通じて物理学と関係している。社会科学においては中学校・高等学校における教科としての物理は教育学と密接に関係しており、経済現象を物理的に解明する経済物理学は経済学との学際的分野であるといえる。天動説や暦の作成などの天文学が最古の物理学である。初期文明であるシュメール人古代エジプト人インダス文明などは太陽や月などの天体を観察した。これらの天体は宗教的に崇拝され現代からすれば非科学的な現象の説明もされたがこれがのちの天文学や物理学へと成長する。16世紀以前のヨーロッパにおいて科学は、キリスト教的な要素を含んだアリストテレスの自然哲学が主流であった。アリストテレスは物質の振る舞いをによって説明し、例えば天体が地球の周りを回るのは回転しようとする目的があるためだとした。自然哲学は観測よりも哲学を重視したため、試行的な試験で事象を説明する現代科学とは性質が異なる。また、この時既に数学は中東やエジプトなどで発達していたが、自然哲学的な物理に使われることはなかった。しかし古代ギリシアにおいて実証的な考え方がされていなかったわけではなく、紀元前3世紀のアルキメデスは自然哲学では無視されていた数学を自然と結びつけ、数学や物理に数々の貢献をした。続くヒッパルコスやプトレマイオスなども幾何学や天文学を発達させた。また、アリストテレスの時代より前の紀元前5世紀にはすでにレウキッポスやデモクリトスなどがそれまでの超自然的説明を否定して自然現象には原因となる理論があるとして原子の存在などを考えていた。中世のイスラームの学者は、他のギリシャ文化と共にアリストテレスの物理学を継承した。その黄金期には観察と先験的な推論に重点を置いた初期の科学的方法を発展させた。最も注目すべきは、イブン・サール、アル・キンディー、イブン・アル・ハイサム、アル・ファリス、アビセナ等による視覚と視力の分野である。アル・ハイサムが書いたは視覚に関する古代ギリシャの考え方を最初に反証したばかりでなく、新しい理論を作り出した。この本では史上初、ピンホールカメラの現象を研究することで、目自体の仕組みをさらに詳しく調べた。解剖学と既存の知識を使って、どのように光が目に入り、焦点が合い、目の後ろに投影されるかを説明したのである。さらに、現代の写真撮影の開発から数百年前に、既にカメラ・オブスクラを発明した。全7冊のは、600年以上にわたって、東洋と西洋の中世の芸術における視覚の理論から、視点の性質への学問全体の考え方に大きな影響を与えた。 グロセテストやダ・ヴィンチから、デカルト、ケプラー、ニュートンまで、後世の多くのヨーロッパの学者や思想家が影響を受けている。近世に入り、科学的研究法の発展の中で実験による理論検証の重要性が認識され始めた。16世紀後半、ガリレイは力学現象の研究を行い、落体の法則と慣性の法則を見出した。1687年にニュートンはを出版した。ニュートンの示した理論は、ガリレイらの発見した法則を一般化し、包括的な説明を与えることに成功した。ニュートンの理論の中で最も基礎的な法則として、運動の法則と万有引力の法則が挙げられる。これらの法則は、天体の運行などの観測結果をよく説明することができた。ニュートン自身は力学法則を幾何学を用いて記述したが、オイラーなど後世の研究者によってそれらの理論は代数学的に記述されるようになった。ラグランジュ、ハミルトンらは古典力学を徹底的に拡張し、新しい定式化、原理、結果を導いた。重力の法則によって宇宙物理学の分野が起こされた。宇宙物理学は物理理論をもちいて天体現象を記述する。18世紀から、ボイル、ヤングら大勢の学者によって熱力学が発展した。1733年に、ベルヌーイが熱力学的な結果を導くために古典力学とともに統計論を用いた。これが統計力学の起こりである。1798年に、ランフォードは力学的仕事が熱に変換されることを示した。1840年代に、ジュールは力学的エネルギーを含めた熱についてのエネルギーの保存則を証明した。電気と磁気の挙動はファラデーオームらによって研究された。マクスウェルは1855年から1864年までに発表した3つの論文でマクスウェルの方程式で記述される電磁気学という単一理論で二つの現象を統一的に説明した。この理論によって光は電磁波であると予言された。この予言は後にヘルツによって実証された。1895年にレントゲンがX線を発見し1896年にはベクレルがウランの放射能を1898年にはピエールキュリーとマリキュリーがウランよりも強力な放射能を持つラジウムを発見した。これが核物理学の起こりとなった。トムソンは1899年に原子よりもはるかに小さな質量を持ち負の電荷を持つ電子の発見を発表し1904年には最初の原子のモデルを提案した。このモデルは現在プラムプディング模型として知られている。1905年、アインシュタインは特殊相対性理論を発表した。アインシュタインの相対性理論において、時間と空間は独立した実体とは扱われず、時空という一つの実体に統一される。相対性理論は、ニュートン力学とは異なる慣性座標系間の変換を定める。相対速度の小さな運動に関して、ニュートン力学と相対論は近似的に一致する。このことはニュートン力学の形式に沿って定式化された相対論的力学において明確になる。1915年、アインシュタインは特殊相対性理論を拡張し、一般相対性理論で重力を説明した���特殊相対論によって、力学と電磁気学の理論は整合的に説明できるようになったが、重力に関してはニュートンの万有引力の法則以上の満足な説明を与えることができなかった。一般相対論によって、重力の作用を含めた包括的な説明ができるようになった。一般相対論において、ニュートンの万有引力の法則は低質量かつ低エネルギーの領域における近似理論と見なすことができた。1911年にラザフォードの下で原子の研究が進展しその時の散乱実験から電荷を持つ物質を核とする原子像が提唱された。原子核を構成する正電荷の粒子は陽子と呼ばれる。電気的に中性な構成物質である中性子は1932年にチャドウィックによって発見された。1900年代初頭にプランクアインシュタインボーアたちは量子論を発展させ離散的なエネルギー準位の導入によってさまざまな特異な実験結果を説明した。1925年にハイゼンベルクらがそして1926年にシュレーディンガーとディラックが量子力学を定式化しそれによって前期量子論は解釈された。量子力学において物理測定の結果は本質的に確率的である。つまり理論はそれらの確率の計算法を与える。量子力学は小さな長さの尺度での物質の振る舞いをうまく記述する。また量子力学は凝縮系物理学の理論的な道具を提供した。凝縮系物理学では誘電体半導体金属超伝導超流動磁性体といった現象物質群を含む固体と液体の物理的振る舞いを研究する。凝縮系物理学の先駆者であるブロッホは結晶構造中の電子の振る舞いの量子力学的記述を1928年に生み出した。第二次世界大戦の間、核爆弾を作るという目的のために、研究は核物理の各方面に向けられた。ハイゼンベルクが率いたドイツの努力は実らなかったが、連合国のマンハッタン計画は成功を収めた。アメリカでは、フェルミが率いたチームが1942年に最初の人工的な核連鎖反応を達成し、1945年にアメリカ合衆国ニューメキシコ州のアラモゴードで世界初の核爆弾が爆発した。場の量子論は特殊相対性理論と整合するように量子力学を拡張するために定式化された。それはファインマン朝永シュウインガーダイソンらの仕事によって1940年代後半に現代的な形に至った。彼らは電磁相互作用を記述する量子電磁力学の理論を定式化した。場の量子論は基本的な力と素粒子を研究する現代の素粒子物理学の枠組みを提供した。1954年にヤンとミルズはゲージ理論という分野を発展させた。それは標準模型の枠組みを提供した。1970年代に完成した標準模型は今日観測される素粒子のほとんどすべてをうまく記述する。場の量子論の方法は多粒子系を扱う統計物理学にも応用されている。松原武生は場の量子論で用いられるグリーン関数を統計物理学において初めて使用した。このグリーン関数の方法はロシアのアブリコソフらにより発展され固体中の電子の磁性や超伝導の研究に用いられた。2018年時点において物理学の多くの分野で研究が進展している。スーパーカミオカンデの実験からニュートリノの質量が0でないことが判明した。このことを理論の立場から理解しようとするならば、既存の標準理論の枠組みを越えた理解が必要である。質量のあるニュートリノの物理は現在理論と実験が影響しあい活発に研究されている領域である。今後数年で粒子加速器によるTeV(テラ電子ボルト)領域のエネルギー尺度の探査はさらに活発になるであろう。実験物理学者はそこでヒッグス粒子や超対称性粒子の証拠を見つけられるのではないかと期待している。量子力学と一般相対性理論を量子重力の単一理論に統合するという半世紀以上におよぶ試みはまだ結実していない。現在の有望な候補はM理論とループ量子重力理論である。宇宙物理学の分野でも1990年代から2000年代にかけて大きな進展が見られた。特に1990年代以降大口径望遠鏡やハッブル宇宙望遠鏡COBEWMAP などの宇宙探査機によって格段に精度の良い観測データが大量に得られるようになり宇宙論の分野でも定量的で精密な議論が可能になった。ビッグバン理論及びインフレーションモデルに基づく現代の-CDM宇宙モデルはこれらの観測とよく合致しているが反面ダークマターの正体や宇宙の加速膨張を引き起こしていると考えられるダークエネルギーの存在など依然として謎となっている問題も残されている。これ以外にガンマ線バーストや超高エネルギー宇宙線の起源なども未解決でありこれらを解明するための様々な宇宙探査プロジェクトが進行している。凝縮物質の物理において高温超伝導の理論的説明は未解明の問題として残されている。量子ドットなど単一の電子光子を用いたデバイス技術の発展により量子力学の基礎について実験的検証が可能になってきておりさらにはスピントロニクスや量子コンピュータなどへの応用展開が期待される。 +新聞学は狭義には新聞についての広義には新聞以外も含めたマスコミュニケーション過程についての社会科学的研究の総称。1916年カールビュッヒャー の尽力によりライプツィヒ大学にの名を冠した研究所が設立され正式な初代代表者となったのは1926年から1933年に代表を務めたエリックエフェルト であった。1926年にはと題した最初の学術誌がカールデスター とヴァルターハイデ によって創刊された。1930年代にはベルリンのフリードリヒヴィルヘルム大学にも新聞学部門が設けられた。その主任であったエミールドヴィファート は長きにわたる闘争と幾多の議論を経て映画やラジオもすべて新聞学の研究対象に含まれるものとし新聞学の拡張を行なった。新聞学はコミュニケーション学の先駆けであったと考えられる。日本の大学には、もっぱら新聞学について教育する部門として新聞学科などが設けられている場合がある。1932年、上智大学の専門部に新聞科が設置された。これはその後1948年に、学制改革を経て文学部新聞学科となった。GHQの指導により、戦後の1946年には早稲田大学政治経済学部に新聞学科がつくられたが同時期の学制改革として続く。1951年に日本新聞学会が設立され、日本におけるマス・コミュニケーション研究の中心的な学会となっていたが、1991年の決定に基づいて、学会の名称は1993年に日本マス・コミュニケーション学会へ改められた。日本新聞学会が1952年から刊行していた学術誌『新聞学評論』は学会名の改称を受けて1993年から『マスコミュニケーション研究』と改題された。ソクラテスは、ソクラテスの若さに関する重要な情報を提供している。プラトンの対話篇は古代から残されたソクラテスに関する最も包括的な著述でありこの著作により倫理学と認識論の分野でのソクラテスの貢献が知られるようになった。ソクラテスのアイロニーやソクラテスの対話法あるいはエレンコスを有名にしたのはこのプラトンが描いたソクラテスである。しかし実在したソクラテスとプラトンの対話篇でのソクラテスの描写との違いに関しては疑問が残されている。ソクラテスは後代の古代の哲学者たちと現代の哲学者たちに絶大な影響を及ぼした。芸術文学ポピュラーカルチャーの中でのソクラテスの描写によりソクラテスは西洋哲学伝統の中で最も広く知られる人物の一人になった。釈迦キリスト孔子と並び四聖人に数えられる。生前のソクラテスと直接面識交流があった人物によるソクラテスの言行人物像について述べられたまとまったテキストで今日まで伝わっているものとしてはソクラテスの死後に書かれた後世のテキストとしては、アリストテレスの『形而上学』第1巻におけるわずかな言及を除けば、約600年後に伝聞情報をまとめた、したがって一般的にソクラテスの人物像や思想の推定はクセノポンとプラトンの著作を土台としさらにディオゲネスの情報で補強する形で行われる。クセノポンとプラトンが描くの共通点と差異.クセノポンとプラトンが描いているソクラテスの人物像は、など、概ね共通している。しかし、決定的に異なるのが、クセノポンがの第4巻第7章において、ソクラテスが、といった有用性・実用性に欠けるものを学ぶことに賛成しなかった(他の哲学者たちのように、そうした「神々の領域」に踏み込むことは、不毛かつ良くない危険なことであり、その時間・労力を「人間の領分」における他の有用な学習・探求に当てるべきと考えた)と述べている点である。(同様な内容の記述は、同書の第1巻第1章などにも見られる。)プラトンが対話篇で描くソクラテスはクセノポンが描く場合と同じく敬神的ではあるもののイデア論の萌芽が見える初期のの頃から徐々にプラトン自身の思想の代弁者となり中期以降に至ってはピュタゴラス派やエレア派の徒と交わりながらイデア論を展開したり魂の肉体からの浄化また、クセノポンはヘルモゲネスから聞いた話として、裁判前のソクラテスは、老齢によって身体・思考・記憶が衰え、これまでのようなを印象付けるプラトンの描き方とは一線を画している。父は彫刻家ないし石工のソプロニスコス母は助産婦のパイナレテとされる。アテナイに生まれ生涯のほとんどをアテナイに暮らした。彼はペロポネソス戦争においてアテナイの植民地における反乱鎮圧としてのポテイダイア攻囲戦ボイオティア連邦との大会戦で重装歩兵として従軍した。青年期には自然科学に興味を持ったとの説もあるが晩年は倫理や徳を追求する哲学者としての生活に専念した。プラトンのにおいてソクラテスが語ったところによると、彼独特の思想・スタイルが形成されるに至った直接のきっかけは、彼の弟子のカイレフォンが、デルポイにあるアポロンの神託所において、巫女にと答えられたことにある。これを聞いて、自分が小事・大事ともに疎くて賢明ではない者であると自覚していたソクラテスは驚き、それが何を意味するのか自問した。さんざん悩んだ挙句、彼はその神託の反証を試みようと考えた。彼は世間で評判の賢者たちに会って問答することで、その人々が自分より賢明であることを明らかにして神託を反証するつもりであった。しかし実際に賢者と世評のある政治家や詩人などに会って話してみると彼らは自ら語っていることをよく理解しておらずそのことを彼らに説明するはめになってしまった。それぞれの技術に熟練した職人達ですらたしかにその技術については知者ではあるがそのことを以って他の事柄についても識者であると思い込んでいた。こうした経験を経て彼は神託の意味をとしてソフィスト達のように報酬を受け取るでもなく家庭のことも省みず極貧生活も厭わずに歩き廻っては出会った賢者たちの無知を指摘していくことをライフワークとするようになる。これらの説明をそのまま鵜呑みにするならば、後世への影響のあり方はさておき、知恵の探求者、愛知者としての彼の営みそのものは、その旺盛な知識欲や合理的な思考・態度とは裏腹に、ことを目指すという。 +ソクラテスは当時賢人と呼ばれていた政治家や詩人達さらには手工者をはじめとして様々な人を次々に訪ねを検証するために対話を行なった。その結果彼らの無知に対する無自覚ぶりと無知を自覚している自分の優越性神託の正しさを確信し決意と使命感を持ってその活動にのめり込んでいくこととなりソクラテスが賢者であるという評判が広まる一方で無知を指摘された人々やその関係者からは憎まれ数多くの敵を作ることとなり誹謗も起こるようになった。更に暇を持て余した富裕市民の息子達はソクラテスを面白がって追い回しその試問を傍聴しその中からは影響されて試問を模倣する者達も現れそんな青年達の試問の餌食となった人々もまたソクラテスへの憎悪を募らせることとなった。又、そんなソクラテスを、喜劇作家のアリストパネスがにおいて、といった、自然哲学者とソフィストを混ぜ合わせたような怪しい人物として描いて揶揄し、大衆にその印象を広めたり、ペロポネソス戦争で講和を破って戦争を再開した挙句、敵国スパルタに亡命し、アテナイの敗北を招いたアルキビアデスや、その後の三十人政権の指導者となったクリティアスなどが、ソクラテスに教えを施された弟子であったと見なされていたことも、ソクラテスを攻撃する絶好の口実となった。このため、ソクラテスはなどの罪状で公開裁判にかけられることになった。アテナイの500人の市民がソクラテスの罪は死刑に値すると断じた。原告は詩人のメレトスで、政界の有力者アニュトスらがその後ろ楯となった。しかし、ソクラテスの刑死の後、など複雑な事情があったと考えられる。ソクラテスは自身の弁明を言い渡される。票決は2回行われ、1回目は比較的小差で有罪。刑量の申し出では常識に反する態度がかえって陪審員らの反感を招き大多数で死刑が可決された。神事の忌みによる猶���の間にクリトン、プラトンらによって逃亡・亡命も勧められ、またソクラテスに同情する者の多かった牢番も彼がいつでも逃げられるよう鉄格子の鍵を開けていたが、ソクラテスはこれを拒否した。当時は死刑を命じられても牢番にわずかな額を握らせるだけで脱獄可能だったが、自身の知への愛(フィロソフィア)と「単に生きるのではなく、善く生きる」意志を貫き、票決に反して亡命するという不正を行なうよりも、死と共に殉ずる道を選んだとされる。紀元前399年ソクラテスは親しい人物と最後の問答を交わしてドクニンジンの杯をあおり従容として死に臨んだ。この顛末は弟子であるプラトンの著作にくわしく書かれている。ソクラテスには、カイレポン、クリトン、プラトン、アリスティッポス、アンティステネス、エウクレイデス、クセノポン、アルキビアデス、クリティアス等々、と考えていた。ソクラテスの家族についてはクセノポンやプラトンの著作でも一部言及されているがディオゲネスラエルティオスの第2巻第5章にあるソクラテスの項目に詳細にまとめられている。それによると父親は石工(彫刻家)ソプロニスコス母親は産婆パイナレテでありアテナイのアロペケ区で生まれ育った。妻はクサンティッペと、義人アリステイデスの娘ミュルトの2人で、クサンティッペとの間にはランプロクレス、ミュルトとの間にはソプロニスコス、メネクセノス、計3名の息子をもうけた。一夫多妻だったのは、当時のアテナイの人口不足を解消するための議決に沿った措置とのこと。クサンティッペは口やかましく激情的な性格だったことが知られており、第2章にてアンティステネスがソクラテスに妻クサンティッペについて問い質す記述からも、それが伺える。ソクラテスの思想は内容的にはイオニア学派の自然哲学者たちに見られるような唯物論的な革新なものではなくという当時の伝統的な考え方の延長線上に彼の思想はある。それにも拘らず彼が特筆される理由はむしろその保守性を過激に推し進めた結果としてのそういった彼の姿勢がその数多くの内容的な欠陥不備素朴さにもかかわらず半端な独断論に陥っている人々よりは思慮深く卓越した人物であると看做される要因となり哲学者の祖の一人としての地位に彼を押し上げることとなった。ディオゲネスラエルティオスの第1巻序章の記述によるとイオニア学派が始めたの祖に位置付けられる。(ソクラテスが後世に名をはせることになった理由としては、彼の弟子の中に、古代ギリシャの哲学者にして著述家であり、アカデメイアの創設者でもあるプラトンがいたこと、そして、そのプラトンが自身の著作の中心的な登場人物として、師であるソクラテスを用いたことを、挙げることができる。)また彼の弟子達の多種多様な思想展開からもわかるように、着眼点によって様々な解釈が可能な、多面的な性格を持ち合わせていた思想家であったとも言える。ちなみに、相当皮肉屋な人物であったようで、死刑が確定し、妻のクサンティッペが「無実の罪で死ぬなんて!」と嘆いた時も、「じゃあ僕が有罪で死んだほうがよかったのかい?」といったといわれる。ソクラテスの一見わかりづらい思想態度を理解するには、彼の生きた当時の時代背景や、ギリシャ世界におけるアテナイの立ち位置を知ることが、いくらか助けになる。まず、彼に先行する哲学者やソフィスト達は、ほとんどがアナトリア半島(小アジア半島)沿岸や黒海周辺、あるいはイタリア半島の出身であり、ギリシャ世界における知的活動は、こういった植民市・辺境地によって先導されてきたものであり、アテナイを含むギリシャ中心地域は、それと比べると、古くからの神話や伝統に依存した保守的な土地柄であったという全体像を確認しておく必要がある。ソクラテスが生きた紀元前5世紀当時のアテナイはペルシャ戦争を経てギリシャ世界の中心地としての地位を確立し最盛期を迎えると共に徹底した民主政が確立された時代からペロポネソス戦争の敗戦後状況による社会的政治的混乱を経て没落していく時代にまたがっている。当然そこには辺境地の哲学者達の知識や優秀なソフィスト達が集まってくるし民主政における処世術や��論術を学ぶべく彼らは歓迎されることになる。こうして古くからの神話伝統に寄りかかった旧秩序が崩れ徳弁論術の講釈に長けたソフィスト達唯物論無神論的な自然哲学者の知識などが新旧入り乱れアテナイの知的環境は混乱する。ソクラテスの思想はこういった引き裂かれた知的混乱状況の中アテナイ人としての保守性と知的好奇心合理的思考の狭間で揺れ動きつつどれにも与し得ないまま誰の意見もが無知思い込みを孕んだ怪しいものであることの経験的発見と神々への信仰心が独特な形で結びつくことで成立したものだと言える。そのため彼の思想的立場はアテナイの保守層とも外来辺境のソフィスト哲学者とも合致せずそのどれに対しても相対的で「無知の知」を投げかける特殊なものとなっている。しかしペロポネソス戦争の敗戦とその後の三十人政権による恐怖政治に対する怨念が渦巻くアテナイではソクラテスは他のソフィストや唯物論無神論哲学者達と同類のアテナイを堕落させた危険思想家の一人と看做され政治的に敵視されることとなりソクラテスは裁判にかけられ死刑となる。ソクラテスはアポロンの託宣を通じてもっとも知恵のある者とされた。ソクラテスはこれを、自分だけがということを自覚しており、その自覚のために他の無自覚な人々に比べて優れているのだと考えたとされる。その結果、彼は知者を僭称する独断論者たちの無知を暴くための論争に明け暮れることになる。彼のを背景とした知無知に対するこだわりがあるとしたならばそこで真誠な半神たちによる裁判を受けることができるしホメロスやヘシオドスと交わったりオデュッセウスやシシュフォスと問答することもできるどちらにしろ幸福であるというわけである。であるがゆえに死を恐れて不正な裁判に屈することなどなく善き生を貫徹できるし善き生を貫徹した者は死に際しても幸福である。このように死後については「知らない」がそれを自覚しているがゆえにそれについての諸説を冷静に「知る」ことができるしひいてはどちらに転んでも自分や善き生を送った者にとって幸福であることも「知る」ことができだから死を恐れずに善き生をまっとうできる対照的に知に対する節度をわきまえない独断論者たちはどこかでつまずき知りもしないことに踊らされ翻弄されそうはならないといった具合に「善き生」と「無知の知」はひとつの円環を成し「無知の知」は「善き生」にとっての必須条件となっている。 +また一般に、ソクラテスは対話を通じて相手の持つ考え方に疑問を投げかける問答法により哲学を展開する。その方法は自分ではなく相手が知識を作り出すことを助けるということで「産婆術と呼ばれる。プラトンが描くソクラテス像に則るならばソクラテスの業績営みの特徴は人生や社会に関わる抽象概念や曖昧な事柄を明確化しようとしたことにあると言える。ポリスの自由市民達が尊ぶ徳正義善敬虔節制(分別)勇気……とは一体何なのかあるいはそれを教えると称するソフィスト達彼らが駆使する社会操縦術(説得術)である弁論術(レトリケー)等は一体何であるのかそういった曖昧なまま放置されている物事を再度入念に吟味検証することを彼は要求する。そしてそのためには一方通行のまま疑問に答えてくれない弁論や書物では役に立たずしっかりと質疑応答を経て合意を重ねながら対象を深く探求していける問答が必要になる。なお話をわかりやすくするためにそういった抽象概念や曖昧な事柄を具体的実用的な事柄に置き換えつつ問うのも彼の特徴の一つだと言える。例えば「医者は医術を教え彫刻家は〜建築家は〜大工は〜鍛冶屋は〜靴屋は〜ではソフィストは何を教えるのか?」などが典型である。また抽象概念同士の関係性や数一致性不一致性範疇所属なども執拗に問うていく。こういった飽くなき概念の明晰化の追求知識人間の吟味と向上これが彼の考えた愛知(哲学)の営みだと推察できる。こういった一見現実社会に直接役立ちそうもない重箱の隅をつつくような思索を、青年期を過ぎてなお延々と続ける人々を苛立たせる。そして、に登場するトラシュマコスなどのように、公然とソクラテスを非難する人々も出てくることになる。しかし��がら、そうしてソクラテスを非難する人々が拠って立っている考えの曖昧さですら、ソクラテスにとっては明確化の対象であり、そういった人々もまた、格好のカモとして、ソクラテスの明確化の渦の中に巻き込まれていくことになる。こうして、タレースなどミレトス学派(イオニア学派)に始まる自然哲学とは対照的な、人間・社会にまつわる概念を執拗に吟味・探求する哲学がソクラテスによって開始され、後にその弟子であるプラトン、更にその弟子であるアリストテレスが、(ピタゴラス教団やエレア派の影響を受けつつ)形而上学をそこに持ち込むことによって、その両者(「自然」と「人間・社会」)のあり方の説明を、包括的に一つの枠組みに統合・合理化したという見解が、一般的に広く受け入れられている。彼の最も重視した概念はよい生き方としてのアレテーである。という意味で、人間のアレテーは魂をよりよくすることであり、刑罰もそのために有効だとする。また、アレテーを実践する者の人生は幸福であるとも主張した。しかし、これはプラトンの考えという説もある。なぜなら、ソクラテスは著書を残していないからである。において、死刑を待ち、拘留されているソクラテスに逃亡を促しに来た弟子のクリトンに対して、彼はと彼自身を非難させ、クリトンに逃亡の説得を諦めさせた。これは、中世・近代に様々に展開していくことになる社会契約論の原型とも言える。彼の弟子であるプラトンや、その弟子であるアリストテレスも、徳の概念と関連させつつ、様々な国家論を論じていくことになる。ソクラテスは徳に従いおかしいと思うことは相手が誰であろうと忌憚無く問い正しいと思うことは誰に反対されようとも実践すべきであることを身を以て示した。その結果彼は自ら死刑を受け入れることになる。ソクラテスは時折といった訴状の内容にも影響を与えたと考えられる。著作をおこなわなかった理由.ソクラテスは書記言語が野放しの状態で広まることを激しく非難していた。ソクラテスは話し言葉つまりとは違って意味音旋律強勢抑揚およびリズムに満ちた吟味と対話によって1枚ずつ皮をはぐように明らかにしていくことのできる動的実体であると考えた。書き留められた言葉は反論を許さず柔軟性に欠けた沈黙であったのでソクラテスが教育の核心と考えていた対話のプロセスにはそぐわなかったのである。ソクラテスは、書き言葉が記憶を破壊すると考えた。個人的知識の基盤を形成するにふさわしい厳密さを期待できるのは暗記するという非常な努力を要するプロセスのみであり、そうして形成した知識基盤は教師との対話の中で磨いていくことができるという信念を抱いていたからである。ソクラテスは読字を恐れていたわけではないが過剰な知識が必然的にもたらす結果表面的な理解しかできないことを恐れていた。ソクラテスはよりよく知識を伝えるには相手の理解に合わせて問いを投げかけて考えを促し誤解を避けるために表現を選び知識を伝える適切なタイミングを計ることが必要でありそれができるのは書物ではなく対話だけだと考えていた。ソクラテスは自説を著作として残さなかったため、今日ではその生涯・思想共に他の著作家の作品を通してうかがい知ることができるのみである。これはとして知られる一連の問題を発生させている。同時代の作家の内、劇作家・詩人のアリストパネスは戯曲『雲』においてギリシャのソフィストたちを揶揄し、その筆頭としてソクラテスを挙げている。ここではソクラテスの言動は揶揄のために誇張されていると考えられる。同じくソクラテスの弟子であるプラトンの記した一連の対話篇にはソクラテスが頻繁に登場する。しかしながら、特に以降のソクラテスはプラトンの思想を表現するための人物として利用されている感がある。他の弟子による文章の一部やプラトンの弟子にあたるアリストテレスによる記述をはじめ、後世の著作家による記述も残っている。ソクラテスの弟子の一人とされるクセノポンは『ソクラテスの思い出』などソクラテスに関する文章を記しており今日まで比較的よく保存されている。ただし西洋哲学の場においては「一切の哲学はプラトンの��釈である」と言われるようにソクラテスについての理解もプラトンの著作と思想(プラトン主義)を通じて行われる厚い伝統がありクセノポンの描くソクラテスは通俗的で哲学者としての力量をとらえきれていないとする風潮がある。またソクラテスは容姿はグロテスクで弟子のプラトンに「我が師ソクラテスは世界で1番醜い。しかし1番賢い。」と言われていた。クセノポンのソクラテス像.でクセノポンが繰り返し強調しているのはソクラテスはとしている。クセノポンのソクラテスの態度はキリスト教の伝統的神秘主義に近い。この書でのダイモニオンについてのソクラテスの解説はキリスト教の聖霊論に非常に類似している。また、というナザレのイエスの教えがソクラテスにおいては、あたかも意図的であるかのように全く逆さまに書かれている点である。これは、戦争に参加もしたソクラテスの根本姿勢がアテナイ民主制の伝統的価値観に依拠していることによるのであり、この点においてソクラテスをナザレのイエスよりも孔子に引き寄せて評価する立場もある。概してにおけるソクラテスはプラトンの登場人物としてのソクラテスよりも明瞭に宗教的人物である。クセノポンはソクラテスは自分が裁判に訴えられたと知るとすぐさま反論を組み立て始めたがダイモニオンがそれを制止したと書いている。ストア派の創始者であるキティオンのゼノンは商人時代に書店で『思い出』に出会ったことから哲学の道に入った。一般にストア派におけるソクラテスの影響はプラトンではなくクセノポンを通じてのものである。 +スポーツは、一定のルールに則って勝敗を競ったり、楽しみを求めたりする身体活動などの総称である。になったと考えられている。日本では大正時代末ころからスポーツという言葉は一般化されたが、当時は欧米から入ってきたものだけを指していた。という表現で柔道や空手などの武道も含めるようになったのは戦後のことである。20世紀末ころから、エンジンのついた乗り物で競技をすることも身体活動が重要な要素を占めるため、などと呼ぶことがある。ビデオゲームによる対戦会もコントローラ操作という身体活動で対戦するためe-Sportsと呼ばれるようになった。の英語表記には集合的な意味で用いると種目別に表現するような場合に用いる / の二種類がある。またやなどのように形容詞的に用いる場合にはsportsという語が用いられることが普通である。特にアメリカでは集合的な意味で用いる場合にもという慣用表現が多用される。しかし学会の名称や学術書の表題などのように学術的な意味で集合的に用いる場合にはやなどのように語尾にを付けない表記が大多数を占めている。スポーツそのものは特に地域的な偏りなく原始的な文明も含めて古代から全世界において行われており古代エジプト王朝成立以前のエジプトにおいてすでに競走が行われていたことがわかっている。古代文明のうちでスポーツを特に重視したのは古代ギリシアであり紀元前776年以降オリュンピアで4年に1回行われた古代オリンピックはギリシアの全都市が参加する大規模なもので大会期間中は戦争が禁じられ勝者には栄誉が与えられた。なおギリシアではこのほかにもネメアー大祭イストミア大祭ピューティア大祭といった大競技大会が開催されていた。古代オリンピックはローマ帝国の統治下でも継続しおそらく393年に行われた第293回大会まで1000年以上継続したが394年にキリスト教の支持の元でテオドシウス1世によって禁止令が発出されたことによって終わりを迎えた。スポーツそのものは世界各地で盛んに行われてきたが、19世紀中頃になるとイギリスにおいてルールの整備と組織化が相次いで行われ、近代スポーツが誕生した。近代スポーツの誕生は、スポーツの隆盛と競技種目数の増加を招いた。サッカーとラグビーのように、いくつかの種目はルールの確定と厳格化によって原型から分化し、異なるスポーツとして発展し始めた。いくつかのスポーツは発祥地から遠隔地の諸国へと広がり、世界的な広がりを持つようになったが、特にイギリスの植民地においては、イギリス発祥のスポーツがそのまま伝播し、クリケットやラグビーのように共通のスポーツ���化を保持するようになった。また、野球やアメリカン・フットボールのように、スポーツが伝播した先で現地文化の影響を受けて変化し、新たな競技として分化することも珍しくなかった。フランスのピエール・ド・クーベルタンは古代オリンピックの復興を唱え、1896年には第1回アテネオリンピックがギリシアのアテネで開催された。このオリンピック大会は徐々に成長していき、やがて世界最大のスポーツイベントとなっていった。スポーツは当初アマチュアリズムに重点が置かれていたが、19世紀後半よりアメリカでスポーツのプロ化がはじまり、やがてヨーロッパにも広がっていった。1970年代に入るとスポーツ・フォー・オール政策が各国で導入されてスポーツの一般市民への普及が図られ、また1980年代に入ると大規模競技大会の商業化が急速に進んで、スポーツ人口および商業規模は大幅に拡大した。スポーツには様々な分類方法がある。たとえば、金銭を目的としない「アマチュア・スポーツ」と、金銭を目的とする「プロフェッショナル・スポーツ」に大別する方法がある。スポーツ技術、記録などの向上を目指し、人間の極限への挑戦を追求する選手のスポーツをと言う。例えばオリンピックなどが挙げられる。それに対して、老若男女、だれもがスポーツに「楽しみ」を求め、健康づくりや社交の場として行うスポーツ、身近な生活の場に取り入れられているスポーツを日本では「生涯スポーツ」と呼ぶ。楽しむことを主たる目的として行うスポーツを「レクリエーショナル・スポーツ」と分類する方法もある。何らかの障害者を持つ人々が行うスポーツをと分類する方法がある。非常に多種類あり、競技会も多種で、大規模な国際大会であるパラリンピックも行われている。フィールドとして水を利用して行うスポーツをと分類する。風や空気の力を主に利用するスポーツをと分類することもある。パラグライディング。道具としてボール」と分類する。原動機のついた乗り物類を用いるスポーツをと分類する。オートバイ競技や自動車レース、ツーリング、PWCなどが挙げられる。動物を使うスポーツは動物スポーツと総称されるが、スポーツと動物の関係は多様であり、馬術や競馬のように人が乗るものや、闘牛のように動物同士を戦わせるものなどさまざまな種類が存在する。に分類してしまうことが適切なのか不適切なのか、議論を生むことはあり、実際に、過去にも柔道連盟などでも何度も議論になってきた歴史がある。また、たとえば合気道は基本的に試合形式では行わない。合気道の師範は一般に、合気道をスポーツと呼ぶことには違和感を表明している。伝統的なスポーツと比較しつつ、新しく考案されたスポーツをと分類することもある。競技スポーツについては以下のように分類される。スポーツ競技一覧も併せて参照のこと。個人の成績だけで勝負を決めるもの。対人競技・競走・採点競技.相手と直接対戦し、勝敗を決めるスポーツのこと。相手と同時に対戦して着順で優劣を決めるか個別に所要時間の記録をとってその結果で優劣を決めるスポーツのこと。相手とは同時に対戦はせず優劣が決まるスポーツのこと。かつてフィギュアスケートは相対評価の6点満点方式だったが、2002年ソルトレークシティー五輪の不正採点事件を機に加点方式に変更されたといわれる。基礎点に加点・減点したの合算。オリンピックのモットーとして有名な、版には第1章の10.に書かれている。各種目のファンや競技者の人口統計.主なスポーツのファンの人口と人気順は、下図のようになっている。各種スポーツではそれぞれ競技大会が行われまた複数の競技を総合的に開催する総合競技大会も数多く行われている。総合競技大会の中でも最も大規模かつ著名なものは4年に1度行われるオリンピックである。このほかアジア競技大会のように地域別のものコモンウェルスゲームズのように政治的紐帯によるものなどさまざまな区分による総合競技大会が存在する。また各種競技単独で世界各国が参加して行われる国際大会も数多く存在する。こうした国際大会の中で最も大規模かつ人気のあるものはサッカーのFIFAワールドカップである。参加に対して報酬を得られ���かどうかによってスポーツ選手はアマチュアスポーツとプロフェッショナルスポーツの2つに分けられる。また報酬を得ているもののそれのみで生計を立てられないセミプロの選手も存在する。アマチュアとして一般市民が余暇の1つとして行うスポーツは多岐にわたっており、市民チームやクラブは無数に存在するほか、市民マラソンのように一般市民が参加できる個人競技大会も存在する。競技スポーツだけでなく、健康のために個人で行うスポーツの参加者も多く、ジョギングやエアロビクスなどの流行と隆盛をもたらした。世界最大のスポーツ大会であるオリンピックは、創設者のクーベルタン以降長らくアマチュアリズムの理想を掲げており、アマチュアしか出場することができなかった。なかでも第5代国際オリンピック委員会会長だったアベリー・ブランデージは強硬なアマチュア論者として知られ、プロの排除を厳格に遂行したが、この頃にはソヴィエト連邦をはじめとする共産圏諸国が国家の威信をかけて育成した、いわゆるの進出が進んでおり、この方針は多くの摩擦を引き起こした。こうしたことからブランデージ退任後の1974年にこの方針は削除され、以後プロの進出が急速に進んだ。これに対し一部の人気のあるスポーツにおいては優秀なプレイヤーがプロフェッショナル化しスポーツ参加のみで生計を立てることができるようになっている。各国において人気のあるスポーツは異なるためプロ化しているスポーツも国ごとに異なっている。人気に高いスポーツには多くの観客が集まりさらにマスメディアによって放映される試合には膨大な数の視聴者を見込むことができるため一部のプロスポーツでは莫大な金額が動きトッププレイヤーは高額な報酬を得ることができる。スポーツ選手としての収入のほかトッププレイヤーはコマーシャルの出演によっても多額の収入を得られる場合がある。こうしたことから世界の年収ランキングにおいては数人のトップ選手がランクインすることが常である。スポーツは参加者・ファンともに膨大な人口がいるため、スポーツに関連した産業も巨大なものとなっている。スポーツ用品産業には各種スポーツに専用の道具を生産するものだけでなく例えば各チームのユニフォームやスポーツ用シューズの生産なども含まれる。こうしたスポーツ用品は参加者のほかお気に入りの選手と同じ商品を求めるファンや機能やデザインを気に入った一般市民をも販売対象としている。メディア産業においてスポーツは重要な地位を占めている。プロスポーツの試合や世界大会のスポーツ中継には膨大な数の視聴者がおりその広告収入を見込んで有力スポーツのイベントには莫大な放映権料が提示される。放映権料のほかにスポーツイベントにおいては有力企業がスポンサーシップを獲得し資金を拠出する代わりに独占的な広告の権利を得る。こうしたスポンサー契約は高い広告効果を持つため各社は契約獲得にしのぎを削っている。放映権料はプロスポーツやオリンピックなどの大規模競技大会において総収入の過半を占めることが常でありスポーツ界を支える柱の一つとなっているが一方でマスメディアの都合により試合時間や時期の変更さらには競技ルールの変更が行われることもある 。テレビやラジオでは試合中継のほかにも結果がスポーツニュースとして流され翌日の新聞でもしばしば大きく報道される。スポーツ関係を主に扱うスポーツ新聞も各国に存在し各スポーツに特化したスポーツ雑誌も多数発行されている。登山やスキー、水上スポーツなど一部のスポーツは特定の場所でしか行うことができないため、スポーツを行うことを目的としたスポーツツーリズムも盛んに行われている。特に冬季にはアルプス山脈地方を中心に多くの観光客がスキーリゾートを訪れ、スキー客数は増加の一途をたどっている。また、大規模なスポーツイベントを観戦するための旅行や、スポーツチームが合宿や遠征を行うための旅行もスポーツツーリズムの小さくない部分を占める。スポーツツーリズムは該当地域の経済に好影響を与える一方で、環境や文化の破壊などの問題をもたらす場合もある。スポーツと賭博の間の関係は国によって���まざまである。2009年には世界の商業賭博総額3350億ドルの内競馬が7%スポーツくじが5%を占めていた。ただしスポーツ賭博を完全に禁じている国も珍しくなくさらに同じ国内においてもスポーツ賭博の対象として認められている競技と一切禁じている競技とが存在する。日本では戦前から認められていた競馬に加え1948年から1951年にかけて競艇競輪オートレースが相次いで公営競技化されたほか2001年からはサッカーを対象にスポーツ振興くじが発売されている。グローバリゼーション・ナショナリズム.19世紀以降、いくつかのスポーツは発祥地から遠隔地の諸国へと広がり、世界的な広がりを持つようになった。スポーツはルールの共有や整備を通じて、発祥地の文化を越えて普遍的な方向へと進む傾向があるが、一方で元々それを固有文化としていた地域においては、固有性と普遍性の間で衝突が起きる場合がある。それぞれの競技には国際的な統括団体として国際競技連盟が存在しており、各国の国内競技連盟間の調整や国際大会の主催、各国間の相互交流などを行っている。ただし競技が行われる地域はそれぞれ異なっており、サッカーのように比較的偏りなく全世界で行われるスポーツもあれば、北米・カリブ海・極東に競技者の集中している野球や、イギリス連邦諸国で主に行われるクリケットやラグビーのように一部地域で強い人気を持つものもある。こうした国際的な人気スポーツに対し、ある1カ国や1民族で長く行われている民族スポーツも世界各地に存在し、根強い人気を誇っている。スポーツとナショナリズムの間には、すでに19世紀において強い相関が認められ、21世紀においても各種国際大会の勝敗は各国のナショナリズムの高揚をもたらす。1969年には、関係の極度に悪化していたホンジュラスとエルサルバドル間の対立が1970 FIFAワールドカップ・予選の両国対決をきっかけに爆発し、サッカー戦争と呼ばれる戦争へとつながったこともある。多くの文明において身体を鍛えることは教育の一環として非常に重視されていた。ヨーロッパにおいてはそれまで教育においては軽視されていた体育がルネサンス期以降カリキュラムに採り入れられるようになり19世紀に義務教育が導入されると体育も必修科目となった。日本でも明治政府がこの考え方を取り入れ1872年の学制発布時に教科の一つとなり以後学校教科としての体育が定着していった。スポーツを対象とした学問分野はスポーツ科学と総称される。スポーツ科学の起源は19世紀末にさかのぼり当初はより高い身体能力の構築や選手の治療といったスポーツ医学の分野からはじまったがやがてスポーツ社会学など人文社会科学分野にも広がりを見せるようになりまた自然科学においても医学以外の分野へ発展していった 。1970年代には人類学との関連も始まり1980年代にはスポーツ人類学が確立した。こうしたスポーツ科学の発展はより競技者の能力を引き出せる質の高いスポーツ用具の開発を促しまた映像技術の活用によってより優れたスポーツ技術が一般化され記録の更新へとつながっていった。判定にもビデオ判定が導入されることにより誤審の減少へとつながっている。スポーツは市民の文化や健康にとって欠かせないものと考えられており、多くの国家でスポーツを振興するためのスポーツ政策が実施されている。プロスポーツの拡大やスポーツ人口の増大は都市におけるスポーツスタジアムの建設を不可欠なものとしたが、こうしたスタジアム建設は都市にとって大規模な再開発や都市基盤整備の契機となる。スポーツを題材とした作品は数多く存在し、文学、映画、漫画など多くの分野でそれぞれ傑作が生まれている。美的な事柄についての哲学である美学の領域において、近年スポーツに注目する理論家が増えてきた。例えば、デビッド・ベストは、スポーツと芸術との類似性について書き、倫理との関連性なしにスポーツが純粋に美的なものに近いことを強調した。ベストは、芸術の特徴として、人生に道徳的な考察をもたらす能力を持っていることを挙げる。スポーツにはこのような能力はないが、多くのスポーツの楽しみは間違いなく美的なものであると彼は考えた。1998年にスロヴェニア共和��のリュブリヤーナで行われた第14回国際美学会議で発表されたヴォルフガングヴェルシュの論考と呼びうるものになっているとヴェルシュは考えた。 +両国国技館は、日本の東京都墨田区横網一丁目にある大相撲の興行のための施設。公益財団法人日本相撲協会が所有している。プロレスボクシングなどの格闘技の興行会場その他のスポーツ競技の会場ポピュラー音楽のライブ会場としても使用される。クラシック音楽のコンサートが開かれた事例もある。なおという呼称は日本相撲協会が一般向けに用いる通称であり、同協会による正式な呼称は国技館である。番付では、旧字体で國技館と表記している。1833年となって常設館建設に動くことになった。その後、日本初のドーム型鉄骨板張の洋風建築の建物となった。屋根は法隆寺金堂を真似た。約13,000人収容できた。開館当初は仮称で、翌年から国技館という呼び方が定着した。また、鉄柱308本と鉄材538tで建造された大屋根が巨大な傘に見えたため、大鉄傘という愛称で呼ばれていた。その後、日本大学が日本相撲協会から旧国技館(墨田区両国)を買収。1958年(昭和33年)から1982年(昭和57年)までの間は、日本大学講堂だった(下記詳述)。回向院の近辺には旧国技館跡の説明板が建てられている。先代は現在の国技館とは異なり京葉道路沿いの本所回向院の境内にあった。1906年(明治39年)6月着工、3年後の1909年(明治42年)5月に竣工し、6月2日に開館式が行われ、6月場所より使用された(それまでは小屋掛け[臨時に設備を設けて行なうこと]による「回向院場所」が行なわれていた)。しかし6月場所の番付上は「常設館」とだけあって、まだ国技館の名は無かった。6月場所は本来は5月18日より興行との番付が発表されており、工事の遅延によって場所が延期となって6月開催となったという経緯がある。設計は日本銀行本店や東京駅浜寺公園駅の設計者として知られる辰野金吾とその教え子葛西萬司での愛称は当時のデザインに由来する。工事費用は27万円。枡席約1000席を含む13000人が収容可能で3000人程度しか収容できなかった小屋掛け時代の3倍以上の収容能力となった。実際の収容人数は20000人以上ともされていた。建物の内径は62m中央の高さは25mあった。天候に関係なく興行を打てるようになったことで優勝制度が自然発生的に生まれたとする見方もある。こうして竣工した常設館の名称は当初は設立委員会の委員長を務める伯爵板垣退助が提案した「尚武舘」(しょうぶかん)が有力な候補となっていた。ところが大の相撲好きだった作家の江見水蔭が開館式の式次第のために起草した披露文の中に「角力は日本の國技なり」という一文を見た委員の一人年寄の三代尾車(元大関大戸平)はこれに甚く感じるところがあり土壇場になって名称に「國技舘」を提案した。この名称については5月29日の委員会で話し合われたがまとまらず結局開館式の直前になって板垣の最終決定という形でこれを了承。これを受けて6月1日付の『朝日新聞』に「國技舘を觀る」という記事が掲載された。午前5時の祝砲に始まった翌2日の開館式は空前の盛会となり土俵の中央に立った板垣が「國技舘」と命名されたことを高らかに宣言すると会場は拍手万雷に包まれた。翌3日付の『朝日』が「國技と名づけられたる角力道がいや榮に榮えゆくべき瑞相とは知られたり」と書いたように相撲はここに神事から国技へと変貌を遂げたのである。なお命名が最後までずれ込んだため当初の番付表などにはまだ「両國元町常設館」とあったが翌年1月場所の番付表に初めて「本所元町國技舘」の名称が記された。1917年火災保険は約13万円だった。使用不能の間は靖国神社境内に仮小屋を建てて興行を行なった。新国技館は葛西博士により屋根は亜鉛製にて設計され1918年(大正7年)7月に地鎮祭起工式1919年(大正8年)4月3日に鉄柱崩壊事故があるも1920年(大正9年)1月15日に完成開館式を挙行した。1920年(大正9年)9月1日に再建興行したが1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で屋根柱など外観を残して再度焼失。再建の結果翌年の夏場所から興行を再開した。再建中1924年(大正13年)1月に愛知県名古屋市で本場所が行われたこともある。なお同年11月にも同球場で秋場所が開催された以来72年ぶりであった。両国メモリアルホール.日本の降伏による第二次世界大戦敗戦後の1945年場所が行なわれた。晴天10日間と露天並みの興行だった。占領軍から本場所開催許可の一つの条件としてという要請で1場所限り土俵の直径を15尺11月場所と11月場所終了後の第35代横綱双葉山引退披露が旧国技館での最後の興行となった。以降はプロボクシングやプロレスリングなどの会場として使用された。ちなみに日本初の公開プロレスは1951年9月30日にメモリアルホールで開催されており大相撲を廃業したばかりの力道山がリングサイドで観戦約1ヵ月後の10月28日にエキシビションながら同じメモリアルホールのリングに上がり前世界チャンピオンのボビーブランズと対戦しこれがプロレスデビューとなった。また全日本柔道選手権大会の会場にも使用された。1952年4月1日の接収解除後協会が再び国技館としての使用を検討したもののすでに蔵前国技館の建築が始まっておりまた自動車用の駐車場などを設置する場所的な余裕が無いことから使用を断念国際スタジアムに売却した。国際スタジアムではローラースケートリンクとしてまたプロボクシングやプロレスリングなどの会場としても利用された。国際スタジアムは旧国技館を1958年6月に日本大学に譲渡し「日本大学講堂」(通称日大講堂)となる。日大講堂は日大の行事よりもプロボクシングやプロレスリングコンサートなど多くの興行イベントに使用されていた。プロレスでは主に全日本プロレスが東京でのビッグマッチに使用しており1974年12月には日本人で初めてNWA世界ヘビー級王座を獲得したジャイアント馬場のジャックブリスコとの初防衛戦が日大講堂で行われた。ボクシングでは大場政夫が出場したWBA世界フライ級タイトルマッチ他にも輪島功一と小熊正二の世界戦が行われた。1968年としても使用された。1976年大相撲からプロレスラーに転向した天龍源一郎がこの日大講堂での全日本プロレスの興行において断髪式が盛大に行われた。1975年(昭和50年)の消防法改正によりスプリンクラーの設備がないままでは集会施設として使用できないこととなった。日大側は設備の設置を検討したが老朽化により屋根がもたないと判断。消防法が施行された1977年4月以降はほぼ使用されない状態となった。このため墨田区は両国の発展に支障をきたすとして1978年に大学へ善処するよう注文を付けている。1982年に解体された。以降日大の入学式卒業式は日本武道館で挙行されるようになった。日大講堂に解体されるまで国技館当時のの姿を堅持していた。解体後の跡地には複合ビル施設のが建設された。キーテナントは劇場シアターでありその他オフィス住宅レストランなどからなる。その中庭には旧国技館の土俵の位置がタイルの色で示されている。1985年11月30日に完成。翌年1月9日盛大に落成式が催され千代の富士と北の湖の両横綱による三段構えが披露された。その場所で千代の富士はと明暗分かれる世代交代の場所となった。蔵前国技館は厚木の海軍倉庫の鉄骨を払い下げてもらい建設されたものであり昭和50年代に入ると傷み具合は相当激しくなってきた。春日野理事長は1974年(昭和49年)の就任直後から理事会で新国技館建設の構想を打ち明けていてのちに記者会見で「私が入門したのは昭和十四年の初場所なんです。ご承知のとおりその場所はあの双葉山関が安芸ノ海関に敗れ七十連勝をストップされた歴史的な場所です。私はその日たまたま翌日の取組表をもらいに行って"双葉散る"の場面を目撃しているんですよ。まあ座ブトン灰皿までが飛ぶ大変な騒ぎでした。それでまたいつか両国で相撲をという思いは人一倍強かったんですね」「新しい両国国技館を建てたいという夢を描いたのは横綱の現役時代なんですよ。毎日両国の春日野部屋を車で出て蔵前国技館へ車で向かう途中旧国技館(当時の日大講堂)の前を通るんです。だんだん古くなってさびれていく様を見るにつけようし私が…という思いがつのっていったんです」 と述べ"両国帰還" の姿勢を鮮明にする。春日野理事長は最初に日大講堂の買い戻しを検討するも、敷地が蔵前国技館よりも狭いことからこの案は立ち消えになり、両国駅北側に狙いを定める。ちょうど国鉄が赤字解消を目指して遊休地の処分に積極的になっていた時代背景もある。1980年4月27日に着工した。大相撲の本場所引退相撲NHK福祉大相撲などで協会自らが使用するほか設計段階より多目的に使える構造として構想されていて新日本プロレスのG1 CLIMAX決勝戦からは毎年全日本ロボット相撲大会が開催されるほか毎年2月には国技館5000人の第九コンサートが行なわれている。煌めく青春 南関東総体2014では相撲競技の会場となった。イベント会場としての利用.プロレス興行でのこけら落としは1985年3月9日の全日本プロレスであった。しかし、輪島大士ら力士出身者の全日本プロレス入りが相次いだことなどから、全日本は日本武道館を主に使用するようになり、両国国技館は新日本プロレスの会場として定着していく。新日本の初使用は1985年4月18日(当日のメインイベントはアントニオ猪木 対 ブルーザーブロディ戦)である。だが前年のIWGP優勝戦蔵前国技館大会の暴動事件から日本相撲協会に気を使った新日本がトップレスラーのブルーザーブロディに「入場コスチュームのチェーンの持ち込み禁止」を通達激怒したブロディが猪木を試合前に襲撃するという一幕があった(ブロディは結局チェーンを持ってリング入りしている。またブロディは3月の全日本両国大会にもチェーン持参で参戦している)。しかし1987年12月27日にたけしプロレス軍団の登場に激怒したファンが暴動を起こしその際に座布団を破ったり設備を破壊するなどしたため日本相撲協会から無期限使用禁止を言い渡された(1989年2月に解除)。なお1991年の第1回G1 CLIMAX決勝戦において蝶野正洋が優勝した際リング上に大量の座布団が投げられたため以後座布団の使用が禁止されている。現在は年2回のビッグマッチに使用されている。一方の全日本は武藤敬司体制となってから武道館が使用できなくなったのもありと題したPPV興行としてビッグマッチを再び両国で開いている。全日本から分かれる形で旗揚げされたプロレスリング・ノアは長らくビッグマッチを武道館で開いていたため両国を使用することがなかったが、2011年限りで武道館から撤退したため、2012年7月22日に初の両国大会を開催した。この大会では力士出身である力皇猛の引退セレモニーも執り行われた。1986年4月5日に、全日本女子プロレスがビッグマッチを開いていた。2007年2月のLLPWを最後に女子プロレス興行は行われなくなったが、2012年4月29日にスターダムが初進出。2014年10月11日にはLLPW-Xが7年ぶりに開催された。2021年12月29日にスターダムが8年ぶり2度目の開催、2022年3月19日に東京女子プロレスが初開催をそれぞれ予定。2009年にはインディー団体のDDTプロレスリングも進出して「両国ピーターパン」と題したビッグイベントを夏に開催している(2012年は武道館を使用したが、2013年は再び両国に戻し2日間に渡り開催)。2015年には同じくインディー団体の大日本プロレスも進出(デスマッチを売りにしている団体であるが、蛍光灯・ガラス・画鋲など、破片等が飛散する凶器の使用は禁止)。過去には近畿を拠点とするDRAGON GATEも東京におけるビッグマッチの会場として使用した時期がある(大田区体育館建て替えのための代替。現在は建て替え後の大田区総合体育館を使用)。FFF(1998年解散)、格闘探偵団バトラーツ(2001年解散)も会場として使用したことがある。2010年には世界最大のプロレス団体WWEの日本大会が開催され、2017年の開催も決定している。2010年から2015年までIGFが、12月に開催し、2012年以降はINOKI BOM-BA-YEを大晦日興行として行われていた。2015年11月15日には、天龍源一郎の引退興行が催された。又新日本プロレスでは年二回ビッグマッチを行なっている。2020年には両国3連戦も計画している。ボクシングでは、浜田剛史3試合を全て両国国技館で開催。2017年には村田諒太がここで世界王者となり、日本人初となるオリンピックメダリストのプロボクシング世界王者となった。また世界戦のみならず日本プロボクシング協会主催のチャンピオンカーニバルで1998年スーパーフェザー級王者コウジ有沢の5階級日本タイトルマッチ同時開催興行等も実施された。2020年東京オリンピックではボクシング競技会��として使用された。その他格闘技では、高田延彦が1991年12月にUWFインターナショナルと銘打って元WBC世界ヘビー級王者トレバー・バービックに圧勝。その後も極真会館主催の全日本空手道選手権大会と全世界ウェイト制空手道選手権大会、パンクラス、SRC、THE OUTSIDER、シュートボクシングなどで開催実績がある。他のスポーツ競技では1985年の新両国国技館開場の年に日本女子代表チームが出場したバレーボールの国際試合が開催されたことがある。2011年にはFIG体操ワールドカップ東京大会の会場となった。2018年10月にはプロ卓球リーグTリーグ開幕戦の会場として使用された。試合が行われたわけではないが2020年12月にプロ野球読売ジャイアンツがファン感謝デーの会場として使用したことがある。スポーツ以外のイベント.1985年12月31日には、民放同時放送のメイン会場として使用された。1986年4月29日には内閣の主催により昭和天皇御在位60年記念式典を挙行した。1992年には格闘ゲーム『ストリートファイターII』、1993年にはそのバージョンアップの『ストリートファイターIIターボ』、1994年にはさらなるバージョンアップの『スーパーストリートファイターII』(いずれもスーパーファミコン版)の全国大会が行われた。同1992年12月6日には等のゲーム大会やUFOキャッチャー選手権が開かれたりや司会者にマイケル富岡ゲストに所ジョージ高橋由美子大森うたえもん大川興業林原めぐみ等が出演した。メガドライブやメガCDの新作ソフトの出品がラインナップされた。アイデア対決全国高等専門学校ロボットコンテストという高等専門学校のロボットの性能技術を競うコンクールでは1991年の第4回大会(テーマ「ホットタワー」)以後毎年全国コンクールの会場として使われており地方コンクール(全国8地区)を勝ち抜いた高専生の憧れの場「高専生の甲子園」とまで言われている。蔵前国技館時代から日本民謡協会主催の民謡民舞全国大会が4日間当会場で開催されていたが2017年から品川区立総合区民会館に会場を移動して継続開催されている。また、年に数回程度、コンサート・ライブの会場として使われることがある。ライヴ会場としてのこけら落としは1985年3月31日に開催された、ロックバンド甲斐バンドの が開催され、石野卓球、大沢伸一らが出演した。2018年11月にはポール・マッカートニーが日本ツアーの追加公演を、本人の希望で国技館を会場として開催した。アニメゲーム関係では2007年12月24日には堀江由衣が声優としては初めて単独コンサートを行い2015年11月28日29日にはAQUAPLUS作品のファンイベント『大アクアプラス祭』を行い2018年10月6日7日には『それいけ!アンパンマン』テレビアニメ放送30周年&劇場版30作記念イベント東京公演を行った。また両国国技館傍に本社を置くライオンや芸能プロダクションアミューズの株主総会も当地で開催される。年末年始は通常大相撲初場所の準備のため会場貸しは行われないが2009年の大晦日から2010年の元旦にかけてさだまさしが国技館初のカウントダウンコンサートを行い幟のほかに角界関係者をはじめとする企業個人などから150枚を超える懸賞幕が出された。2010年には演芸コンテストの準決勝会場としても使用されたほか、2019年には日本テレビで毎年8月に放送されるチャリティー番組のメイン会場として使用された。満点☆青空レストラン・行列のできる法律相談所の生放送でも使われた。うち2020年/2021年は、新型コロナウイルス感染症の流行の影響により無観客で開催される。2015年6月2日、ミュージシャンの星野源がリーダーを務めるインストバンド、SAKEROCKの解散ライブが開催された。相撲協会は国技館を蔵前国技館時代は土俵の上にリングを組む女子プロレスや女子格闘技の大会、興行、イベントには当初は貸していたが女人禁制により貸さなくなっていた。男子のものでも花束嬢などの女性はリングには上がらせないようにしていた。両国国技館になって土俵はエレベーター式の昇降型となり地下に沈めることができるようになったために貸すようになり、リング上に花束嬢などの女性が中央に立つことも可能となった。しかし、のちに他会場を含め花束嬢の登壇は減少している。リングでの女人禁制は解禁されたもの��土俵への女人禁制は両国国技館になっても続いた。アマチュアの国際相撲連盟主催世界相撲選手権大会は女子が参加してなかった第9回大会までは大半が国技館で実施されていたが世界女子相撲選手権大会が同時開催となった2001年第10回大会から2018年第22回大会は一度も国技館で開催されていない。わんぱく相撲全国大会については男女混合で行われることもある地区大会優勝者が女性だった場合に出場権がないことが問題となっていた。この問題についてはわんぱく相撲全国大会主催の東京青年会議所が2019年にわんぱく相撲女子全国大会を開設することによって解決を図っている。2005年ヒップホップのイベント『B BOY PARK』のMCバトルは国技館の土俵上で行われた。出場者に女性ラッパーのCOMA-CHIがいた。ハイヒールは脱ぐことになったが土俵には上がることができ準優勝を果たした。平成期以前にハプニング以外で国技館の土俵に女性が上がったのは唯一か非常に珍しいことである。2007年9月19日には観客の40歳前後の女性が国技館の土俵にハプニングで乱入する事件が発生している。これに関して日刊スポーツはとしている。日本相撲協会側ではこれについて、この女性が土俵の勝負俵内には入っていないため伝統は破られていないとしている。女人禁制のため断髪式でも女性は鋏を入れる役をさせてもらえなかったが2010年10月2日最高位大関だった千代大海の国技館で行われた断髪式で彼は母美恵に鋏を入れてもらうことにした。しかし美恵は土俵下で彼の髪を切ることとなった。これを機に女性も鋏を入れる例が増えたが土俵には上がらないことが続いた。 +薬学(やくがく、)とは、薬物を専門とする学問である。医療をサポートする学問領域の医療薬学と薬の発見と製造に関する領域の医薬品化学に大別される。1940年代以前は前者は医学における一大分野であり後者は有機化学の主たるテーマの1つであった。20世紀に入り有機化学生物学および医学の著しい発展とともにを軸とする学問分野も展開し1950年代になるとそれらを統合した薬学を専攻する機関として薬学部が設置され医学や化学などとの領域分担が明確になっていった。日本では、大学で6年制の薬学科を修了すると薬剤師国家試験の受験資格が与えられる。したがって薬剤師は必ず学士以外の学位を持つ場合も見受けられる。薬学の基礎領域科学には次に挙げるものが知られている。有機化学 - 物理化学 - 分析化学 - 放射化学 - 医薬品化学 - 天然物化学 - 生物有機化学 - 生薬学 - 栄養学 - 農薬学 - 火薬学 - 創薬学 - 工業薬学 - 解剖学 - 組織学 - 生理学 - 細胞生物学 - 微生物学 - 寄生虫学 - 分子生物学 - 免疫学 - 生化学薬学の応用としての医学との学際的分野であるが大きく二つに分けると次のようになる。薬剤学臨床薬学関連分野.医薬の使用をテーマとした医療サポートに関連が深い薬剤学臨床薬学に関する学問分野として次に挙げるものが知られている。薬理学 - 物理薬剤学 - 化学薬剤学 - 生物薬剤学 - 薬物動態学 - 調剤学 - 製剤学 - 医療薬剤学 - 病理学 - 内科学 - 外科学 - 看護学 - 予防医学 - 病態生理学 - 薬物治療学 - 医薬品情報学 - 日本薬局方 - 薬物学 - 生薬学-漢方薬学 - 歯科薬理学 - 家畜薬理学 - 臨床化学 - 神経化学 - 粉体工学- 薬局薬学- 病院薬学衛生上の知識に関連する学問分野として次に挙げるものが知られている。衛生化学 - 栄養化学 - 環境科学 - 疫学 - 公衆衛生学 - 口腔衛生学 - 家畜衛生学 - 病態生化学 - 毒性学 - 生態学社会薬学は薬がもつ社会的使命や価値に関する学問分野として次に挙げるものが知られている。薬と社会 - 薬をめぐる行動とその関係および相互作用 - 薬害の社会学 - 社会薬学 - 薬剤経済学 - 薬史学 - レギュラトリーサイエンス - 薬物乱用- ファーマシューティカルコミュニケーション日本薬局方収載医薬品は治療薬一覧に詳しい +身体装飾として区別する場合もある。人類の歴史上身体の装飾行為がいつ始まったのかは定かではない。しかし人類が社会を形成するようになって以降の遺構からはさまざまな身体装飾の痕跡が見出されている。例えば日本列島では縄文時代の土偶などに入れ墨が表現されており男女ともに身体装飾に使用されていた。身体の装飾は美意識だけによる��のではなく個人ないし集団を同定し得るシンボル(目印)ともなり通過儀礼や魔除け等のためにも行われた。自然崇拝や精霊崇拝の盛んな地域では動物と同じ能力や精霊の力を手に入れるためにその対象物の一部を模した模様や紋章などを入れ墨や瘢痕文身として身体に入れることも見られる。また身分差別や犯罪者の識別等のための懲罰的な身体装飾もみられる。現代的な人権意識では纏足等身体への侵襲を伴う身体装飾を強要したり自意識が発達する以前に恒久的な身体装飾を施すものは問題視される傾向も見られる。宝石とは、希少性が高く美しい外観を有する固形物のこと。一般的に外観が美しくアクセサリーなどに使用される鉱物を言う。主に天然鉱物としての無機物結晶を指すがラピスラズリガーネットのような数種の無機物の固溶体オパール黒曜石モルダバイトのような非晶質珊瑚や真珠琥珀のような生物に起源するものキュービックジルコニアのような人工合成物質など様々である。古の中華文明圏では価値のある石をであり玉ではない。一方で西欧を含む非中華文明圏ではダイヤモンドに代表される透明な鉱物が宝石として特に珍重された。宝石としての必須条件は何よりその外観が美しいこと次に希にしか産しないことによる摩擦風化劣化のために表面が傷ついたりファセットの稜が丸みを帯びたりして観賞価値が失われてしまうためである。例としてダイヤモンドはモース硬度10ルビーサファイアはモース硬度9である。石英のモース硬度は7でありこれらの宝石の硬度は石英のそれより高いことに注意されたい。例外的に硬度が7以下であってもオパール真珠サンゴなどはその美しさと希少性から宝石として扱われる。硬度以外の耐久性の条件としては、衝撃により破壊されないこと(じん性)、ある程度の耐火耐熱性があること、酸、アルカリといった化学薬品に侵されないこと、経年変化により変色、退色しないことなどが挙げられる。その他、大きさ、色彩、透明度などの鑑賞的価値、知名度などの財産的価値といった所有の欲求を満たす性質が重要である。ただし宝石と云う扱いを受けても知名度があまり高くない石は収集家やマニア向けの珍品逸品いわゆるコレクターズアイテムの位置に留まり見た目の美しさと希少性だけが取り上げられその他の条件についてはかなり緩くなっている場合が多い。この手の石にはモース硬度2~5などといった傷つき易い石空気中の湿気を吸い取ったり酸化が進んで変質する石紫外線を吸収して自然と退色する石1カラットに満たない小さなそれしか取れない石はてはお湯をかけるだけで溶けてしまう石などがあり当然取り扱いには注意を要する。知名度が高い石であっても取り扱いに注意を要する石もある。例を挙げるとオパールやトルコ石は石内部に水を含んでいるため乾燥により割れたり、オパールの場合その一大特徴である遊色効果が消失することもある。サンゴや真珠は酸には極端に弱く、レモン汁や食酢が付着しただけで変色する。コハクは高温に弱くすぐ溶ける。エメラルドは内部に無数の傷を抱えているので、とりわけ衝撃には弱くたいへん割れ易い。鉱物の中で金属にあたり希少性が高く化学反応や風化などによる経年変化が著しく低い鉱物を貴金属といい金プラチナなどが該当する。したがって材質のみから資産価値を定めた場合換金性実用用途に関しては貴金属の方が宝石よりおおよその場合優れている。貴金属とりわけ金は価格算定の根拠となる世界的に通用する評価基準が決められており相場や市場が整備されさらに金本位制という経済制度によって各国通貨の貨幣価値を超国家規模で並列化している事に対し宝石はダイヤモンドこそ国際的な評価基準ルールや市場相場が定められているもののそれ以外はどの宝石もその評価基準は厳密ではなく国や民族によっても大きく異なっている。具体的には翡翠は東アジアの国々では高く評価されるが欧米での評価はそれほどでもない。逆に真珠のように日本国内よりも海外の方が高額で取引される宝石も存在する。誕生石が国によって異なるのもその辺の事情を物語っている。一見貴金属並みの資産価値が確立されているように思えるダイヤモンドも材質��の理由から火災などの高温環境にさらされると損傷を受け資産価値が損なわれる可能性があるため純資産として永続的に保有し続けるには難がある。<br>ただし、特定の宝石はホープダイヤモンドやコ・イ・ヌール、インドの星のように、その歴史的経緯や由来により動産や美術・博物収集品として品質以上の価値をもつことがままある。上記のように資産性においては宝石は貴金属より安定しないものの、貴金属が宝飾向け以外にも、金属特有の優れた電気電導性、箔に代表されるように著しい展延性を活かした加工、耐酸化・還元性を生かした工業用途で多々用いられるように、宝石もまた人工生産により安定供給されるものを含め、工業用製品の材料として用いられている。例えばダイアモンドは研磨材、ボーリングマシンのロッド、切削加工工具などに使用され、サファイアはレコード針や高級腕時計の風防、クロマトグラフのプランジャー・精密機器基板、ルビーは機械式時計の軸受けやレーザー発振媒質、ガーネットはルビー同様のレーザー発振媒質および紙やすりの砥粒、水晶は水晶振動子や各種石英製品、真珠は漢方薬と個々の性質を生かして多様に用いられている。宝石の名称は地名やギリシャ語から名付けられることが多い。特に古くから宝石として扱われてきたものには、ルビーとサファイア、エメラルドとアクアマリンのように無機物としての組成は同一だが、微量に混入する不純物、ジャスパー、カーネリアン、クリソプレーズ、アベンチュリンなど様々な名称で呼ばれている。また近年宝石として評価されるようになった新発見の鉱物に関しては、ゾイサイトやスギライトなど発見者や研究者の名に由来するものが多い。と記述される。刊行後に発見された物も含め、Wikipedia日本語版では110種余の試料を宝石として取り扱っている。 +液晶は液体のような流動性と結晶のような異方性を兼ね備えた物質である。一部の液晶は電圧を印加すると分子の向きが変化しそれによって光学特性が変化する性質を持つものがある。この性質を応用した液晶ディスプレイなどの製品が広く普及している。液晶は、液体と結晶の間に出現する中間相の一種で、細長い分子や円盤状の分子が、分子の方向はある規則に従って並んでいるが、重心位置には結晶のような3次元秩序を持たない状態の総称である。液晶には様々な種類があり、それらの命名は液晶研究者により非系統的に行われていたが、2001年にIUPACが国際液晶学会の協力の下に液晶関連の名称定義に関する勧告を公表している。本稿での液晶の分類はそれに準じたものである。中間相には液晶の他に、結晶と同様の3次元的な重心秩序は存在するが、分子の方向はランダムである柔粘性結晶(Plastic Crystal)がある。液晶は分子の重心の規則性の程度において重心位置の秩序が普通の液体と同様に存在しないネマチック液晶1次元の重心位置秩序を持つスメクチック液晶2次元の重心位置秩序を持つカラムナー液晶に分類される。歴史的にはネマチック液晶スメクチック液晶にコレステリック液晶を加えた3分類が流布しており現在でも用いられているが後述するようにコレステリック液晶はネマチック液晶に含まれるもので重心秩序に基づく分類により科学的な根拠がある。すべての物質が液晶状態となるわけではなく多くの物質は結晶から液体へと直接変化する。液晶相を発現する物質の中で温度変化により結晶と液体の間に液晶状態をとるものをサーモトロピック液晶溶媒へ溶解するとある濃度範囲で液晶となるものをリオトロピック液晶と呼ぶ。また細長い分子からなる液晶をカラミチック液晶円盤状分子からなる液晶をディスコチック液晶と呼ぶ。重心の位置がランダムな液晶.ネマチック液晶は棒状分子の向きが平均して同一方向に揃っており分子の重心秩序はまったくランダムな中間相である。ネマチック液晶は普通の液体と同様の流動性がある。通常のネマチック相では分子の頭尾の向きには規則性はなくまた分子の配向方向に垂直な面内では分子の向きはランダムである。N液晶となる分子には極性を持つ物も多いが一般的なN液晶は非極性である。に由来しネマチック液晶を顕微鏡で観察すると糸状の構造が見られることからフリーデルが命名した。分子の平均配向方向は文字nで表記され配向ベクトルと呼ばれている。非極性であるので物理的にn=-nであることからベクトル表記はされない。棒状分子が方向に並んでいるので配向ベクトル方向とそれと垂直方向では、屈折率や誘電率が異なっている。液晶は光学的軸性物質で、棒状分子の液晶は正の軸性である。誘電率については、分子構造により、正の異方性のものも、負の異方性のものも存在する。ネマチック液晶には流動性があり液体と同様に形態変化しても元の形には戻らない。しかし配向ベクトルの空間分布に関しては全体で一様である方がエネルギー的に有利であるため与えられた条件下で変形のエネルギーが最小となるような空間分布となる。ただし局所的な配向変化を安定状態に引き戻す復元力は小さいため外部電場の印加により容易に配向ベクトル方向を変化できる。電場印加後は復元力により自動的に電場印加前の状態へと復帰する。これを利用したのが液晶ディスプレイである。ディスコチックネマチック相.円盤状分子からなるネマチック相である。配向ベクトルは円盤面に垂直な方向となる。このため棒状分子からなるネマチック相とは逆に負の光学軸性を示すことがふつうである。カイラルネマチック相.カイラルネマチック相は歴史的にはコレステリック液晶と呼ばれていた状態で、外観がネマチック相と大きく異なるために、別の液晶状態として命名された。コレステリック液晶という名称はコレステロール誘導体で発見されたことに由来する。ふつうの液晶は不斉炭素のない分子かラセミ体混合物など掌性を持たない分子により構成されるのに対してカイラルネマチック相は掌性のある分子かネマチック液晶に掌性のある分子を加えた時に発現する状態で配向ベクトルの方向が配向ベクトルに垂直な一つの軸方向で螺旋状の変化していく構造をしている。カイラルネマチック液晶のように不斉構造を持つ液晶相はその元である相に*マークをつけて不斉構造の存在を示す。カイラルネマチック相はこの規約に従いN相に*をつけてN*相と表記する。ただし歴史的経緯によりCh相と表記される場合もある。N*相は螺旋周期に平均屈折率をかけた波長の光を反射する。左巻きのN*相は左円偏光のみを反射し右円偏光は反射せずに透過する。右巻きのN*相は逆に右円偏光のみを反射する。この現象は選択反射と呼ばれている。選択反射が可視領域にあるとN*相は色づいて見える。この現象を利用したのが液晶温度計である。N*相と等方相との間にN*相ではない中間相が出現することがある。この状態も配向ベクトル方向のねじれ構造を持つが、N*相とは異なり、複数の方向にねじれるダブルシリンダー構造となっている。この相の研究初期に見いだされた状態が青色を示したことからブルー相と呼ばれるようになったが、全てのブルー相がブルーに発色するわけではない。種類のブルー相の存在が知られている。重心位置に1次元周期構造を持つ液晶相.重心位置に1次元の周期構造を持つ液晶群はスメクチック液晶と呼ばれている。Sm相は1次元的な重心の周期構造を持ち結晶的な側面を持ち液体やネマチック相のような流動性はない。シャボン膜も両親媒性分子が層をなす構造となっておりSm相の一種として考えることが出来る。スメクチック液晶の語源は石けんを意味するギリシャ語に由来する。Sm相は層内の分子の配置によりSmASmBSmC...とさらに複数の状態に分類されている。命名は発見順になされており液晶の状態を反映したものではない。かつてSm液晶とされていたものの中には現在は別の名称が使われている物もある。1次元的な周期構造を持つが層内には重心の秩序はない2次元液体状態の相である。SmA相では分子長軸は層法線方向を向いているがSmC相では層法線に対して有限の傾き角を持っている。傾き方向は層をまたいで同方向であるが中には層毎に逆方向に傾くものもありSmCA相と呼ばれている。SmB、SmF、SmI相.1次元的な周期構造に加え、層内で分子は六方対称の配置をしている。六方対称の格子方位は長距離秩序を持つが、分子の重心位置については、短距離の秩序しか存在しない。このような構造は、六角形の格子の中に��5角形と角形の格子が組合わさった欠陥が存在することにより作り出されている。これらの相はヘキサチック相とよばれSmBHEXのように記述されることもある。SmB相では分子長軸は層法線に平行SmF相とI相は有限の傾きがある。SmF相では個々の分子は第2隣接分子方向に傾くのに対しSmI相では隣接分子方向に傾いている。CryB,CryG,CryH相.層内でも六方格子を組んでおり分子の重心位置にも3次元的な秩序がある。これらの相は液晶研究者が研究対称としていたためSm相として分類されていたが2001年のIUPACの勧告以来Cry相と呼ばれるようになっている。完全な結晶との違いは分子長軸回りの回転が止っていないことである。直鎖アルカンでは液体と結晶の間にローテーター相と呼ばれる状態が存在するがこれらのCry相は直鎖アルカンのローテーター相に相当するものである。CryB相は分子は層法線ほうこうを向いているのに対してCryG相とCryH相では分子は相法線から傾いている。CryBとSmBHEXは顕微鏡観察での区別が困難であるため古い文献に記載されているSmBはSmBHEXの場合もCryBの場合も存在する。CryE,CryJ,CryK相.これらの相では層内の配置が矩形格子となっている。また、分子の配置は矢筈型構造となっている。CryEでは分子は層に対して垂直で、CryJとCryKは傾いている。これらの相は光学的に軸性を示す。層構造がねじれて3次元構造を形成したもので、かつてはSmD相と称されていたが、3次元構造であることより、液晶からは外されている。SmA*相およびTGB相.不斉炭素を含む分子からなるSmA相では通常の場合は不斉構造によるねじれはSm相の層構造により抑制され掌性のないSmA相と区別の付かない状態となる。特に不斉炭素を含んだ状態であることを示す場合にはSmA*相と表記することがある。高温側の相との転移点近傍で層構造が柔らかくまた分子のねじれ力が強い場合には層構造に周期的に螺旋転位が発生し層が捻れていく構造となる。この状態はツイストグレインバウンダリー(TGBA*)相と呼ばれている。同様にSmC相の層が捻れたTGBC*相も存在する。SmC*相および副次相.多くの化合物ではSmC相に不斉構造を導入した場合に、層のねじれが生じることなく、分子の傾き方向が層ごとに回転していく状態となる。この状態はSmC*相と呼ばれている。SmC*相の螺旋周期は物質により数百nmから数程度である。N*相と同様に、螺旋周期が可視光領域にある場合には選択反射が起こり発色する。SmC*相はその対称性から強誘電性を示しうることが知られている。典型的なSmC*強誘電性液晶では分極は層内で分子の傾きと垂直な方向に発生する。螺旋構造があるため巨視的には分極方向は打ち消しているが螺旋構造と分極は直接はリンクしておらず適当な化合物では螺旋が発散した状態で極性を保った状態を実現できる。いくつかのSmC*相副次相の存在が知られている。SmC*相はSmC*相の高温側に出現することのある相で、数分子程度の短い螺旋構造をとっている。SmCA*相は傾き方向が層ごとに反転し、数百程度の螺旋周期も有する相で、分極は隣接層で相殺するが、強い外部電場により傾き方向がそろった状態に転移するので、反強誘電性相として知られている。そのほか、層周期、層周期、さらに多層周期の構造が見いだされている。層構造により反強誘電性かフェリ誘電性を示す。重心位置に次元周期構造を持つ液晶相.多くの場合は円盤状分子または会合により円盤状になる分子がカラムを構成してカラムが次元配列した構造をとっている。カラム内の分子の重心位置には規則性がなくこの点で完全な結晶と異なっている。格子により以下のような分類がなされている。ヘキサチックカラムナー相(Colh).カラムが次元的には六方格子を組んだ液晶相である。レクタンギュラーカラムナー相(Colr).カラムが形成する格子が長方形となったものである。カラムナーオブリーク相.カラムが形成する格子が平行四辺形となったものである。液晶はオーストリアの植物生理学者 によって1888年に発見された。ライニッツァーの論文以前に現在の目からみると液晶を扱った論文もあるが結晶と液体の中間状態としてきちんと認識されてはいなかった。ライニッツァーの研究の主題はコレステロールの分子構造の解明であり精製のために合成した誘導体において二重の融点を見いだしこれが液晶の発見となった。その後1920年代にはジョージズフリーデルによってネマチックスメクチックコレステリックという3分類が提唱された。液晶はその後物理化学生物との関係などの観点から研究が続けられていたが1960年代になってコレステリック液晶を用いた温度分布の可視化といった応用研究が始り1968年のRCAのジョージHハイルマイヤーらによる液晶ディスプレイの発表以来応用面での研究が一気に開花した。液晶に関する国際会議は1965年にKent State Universityで開催され、2回目は1968年に同じ場所で開催された後は、2年ごとに開催地を変えておこなわれている。日本では1980年に京都、2000年に仙台、そして、2018年に再び京都で開催されている。国際液晶学会は液晶の国際会議に遅れて1990年に組織された。国際液晶会議は、液晶全般について扱っているが、よりテーマを絞った内容の会議も行われている。日本への液晶に関する知識の伝来は明治後期から大正初期に遡る。大幸勇吉のには液晶が紹介されている。この他第二次世界大戦前の応用物理学会誌における山本健磨の解説やいくつかの書籍で液晶が取上げられている。日本語のというものが使われたというが学会誌などに掲載された解説記事類にはその用例は見当らない。RCAの発表以前には液晶の研究は日本では殆ど行われていない。僅かに玉虫による論文や界面活性剤からみの論文が検索出来る程度である。この点は物理化学研究の伝統を持つ欧米とは大きく異なった状況にある。RCAの発表以後は国内で液晶研究が行われるようになるが当初から多くの企業研究者が参加していることに一つの特徴がある。これらの研究者の中には有機半導体の研究から移ったものもいる。液晶に関する学術講演は、様々な学会で行われていたが、1975年に日本化学会第33秋季年会連合討論会合同大会で応用物理学会と日本化学会の共催により液晶討論会が開催され、液晶に関する発表が分野横断で行われる場となった。その後、連合討論会から離れた単独開催になり、1997年の日本液晶学会の設立にともない、1998年以降は日本液晶学会討論会として継続している。液晶に関わる都市伝説.という話が一部に出回っているがこれらは両方とも日本国内に限定されたもので正しくない情報である。1980年代に函館にあった日本化学飼料がイカの肝を原料としたダーク油からコレステリック液晶を製造販売していたのは事実である。またこの液晶をアクセサリーとして販売していた会社も存在する。液晶ディスプレイにイカが使われているという話には2つの系統があり一つはコレステリック液晶を使ったカラーテレビというまったく実現されなかった話でもう一つはTN型液晶ディスプレイにイカ由来の原料が使われているという話である。後者に関してはTN型液晶ディスプレイでコレステロール誘導体が使用されていたのは事実であるがイカ由来のコレステロール誘導体の使用は確認されていない。またイカ墨が天然の液晶物質であるという話も流布しているがこれも事実ではない。液晶ディスプレイが新人の失敗から生れたという話はNHKのプロジェクトXが発祥と考えられる。当事者の記したものを調べると、プロジェクトX直後は、の1年前には公表されており、液晶を開発していたグループも目にする時間は十分にある。新人の失敗というストーリーは放送のための演出と考えるのが妥当である。液晶の専門書として以下のものが良く知られている。 +ネマティック液晶と呼ばれる単位ベクトル n によって表される事が多い。実験的に、巨視的なネマティック液晶の対称性はformula_1である事が知られているので、構成分子は n を軸に自由回転をしており、また向きに関しては上向きと下向きを50%ずつ含むことが結論される。構成分子が全て n の方向を向いているのが理想的であるが、実際のネマティック液晶の構成分子は n の方向からある程度熱揺らぎをしている。この熱揺らぎの度合いは秩序因子すなわち巨視的な系の物性値異方性 formula_2 と絶対温度"T"→0における巨視的な系の物性値異方性 formula_3により評価することができる今分子の n からの揺らぎ角を は微視的な分子の揺らぎ角を用いて文学(ぶんがく)とは、言語表現による芸術作品のこと。文芸ともいう。詩・小説・戯曲・随筆・文芸評論などを典型的な文学の例とする。それらを研究する学問も文学と称されるが、これについては文芸学で扱う。原初的な文学は口承文芸であったが、写本による書物の流通を経て、やがて印刷技術が普及するにつれて活字印刷による文学作品の出版が主流になった。現在ではインターネットを利用した電子メディア上で表現されるものもある。西洋でのに相当する語を語源とし現在では主に以下の意味を持つ。中国・日本でのが当てられた明治時代からである。文学は、言葉(口頭または文字)によるコミュニケーションのうち、言語のあらゆる力を活用して受け手への効果を増大させようとするものとして定義される。個人的な判断によって境界が曖昧でまちまちとなる文学は、その媒体や分野ではなく審美的な機能によって特徴づけられる: メッセージの表現方法が内容より優位であり、(複雑なものも含む)情報の伝達に限られた実用的なコミュニケーションからもはみ出すものである。今日では、文学はそれによって作者が歳月を隔てて我々に語り掛けるところの書物文化に結び付けられ、しかしながらまた同時に我々の歌謡がその遠縁であるところの文字を持たぬ人々の伝統的な詩歌のようなさまざまな形の口承による表現や、役者の声と身体を通して受容される演劇などにも関係する。最も普通の意味での文学は、それ自身が歴とした芸術である。しかしながら、哲学書や、舞台芸術の戯曲や脚本などに接近すると、この芸術の境界を定めるのは時として困難である。一般的には、文学は特に審美的な目的ないしは形式を持つ作品と再定義される。この審美的な側面が文学の志向性であり、ジャーナリズムや政治などの何らかの特定の制約に従う各種の作品と識別する基準である。一見すると、この定義は純粋に哲学的・政治的・歴史的な作品を排除するように思える。だが、作品の各分野やジャンルが文学に属するか否かの分類にはとくに慎重であるべきである。あるテクストは作者がそう望まなかったにもかかわらず、またそれがその分野としての目的ではなかったにもかかわらず一定の文学的側面を持ってしまい得る。作品の文学性の基準は学者の間の数々の論争の的となってきた。ある者は分野の間にヒエラルキーを設け、またある者はある作品がその分野によく一致していることや、文学的テクストに期待される役割に専念していることで満足する。またある者にとっては、文学の傑作は何よりもまず時の試練に耐えるものであり、それこそが全世界的な射程を保証する資格なのである。実際のところ文学とはまず第一に自分自身と自分を取り巻く世界について自分の言葉で語る者とその発見を受容し分かち合う者との出会いなのでありその形式の果てしのない多様性と絶え間なく新たに生まれる主題は人間存在の条件そのものを物語っているのである。「文学」という概念の歴史的発達.審美的な志向性を持つ作品の集合という文学の定義はかなり近代になってからのものである。事実、それまではむしろ、相応に厳密な形式的基準に適合する作品が文学として認められる傾向にあった。アリストテレスはにおいて、悲劇と叙事詩に的を絞りそれらの話法を支配する形式的な規則を導入した。さらに、古代ギリシア人にとっては、歴史は純然たる芸術であり、詩神クレイオーに霊感を与えられるものであった。随筆もまた文学に属すると考えられていた。今日のもはや文学作品とは考えられなくなったような随筆に比べ、当時の随筆では主題は重要なものではなかった。哲学もまた劣らず両義的なものである。プラトンの対話篇やローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌスのの文学性は今日誰も疑問に思わないであろう。他方で、文学の審美性が厳格な単純性をもって表される詩がしばしば最も純粋な文学形式であると考えられてきた。作品の文学性は移ろいやすいものであり、世紀を経ると共に文学は領域を拡大し、多様で通俗的な諸形式を次々と取り込んで行ったものと思われる。文学の定義に基づくと「作者」と「作家」の間には区別がある。作家は文学作品を書く者を��すが作者は政治歴史科学文学などの別を問わず何らかの書物を著した全ての者を指す。芸術と文学―芸術家か職人か.文学作品の芸術性の拠り所は文芸評論家たちを頻繁に分断してきた問題である。古代より2つの異なった概念が存在し来たるべき様々な文学や芸術の潮流に影響を及ぼしてきた。アリストテレスは『詩学』において表現的な側面は重要でないと考えそれよりも作品の形式的な特性に固執していた。作家の仕事は厳密な規則や理論に従うという面で建物を建てる大工の仕事と類似したものであるということになる。それに反して偽ロンギヌス()は『崇高論』において感情の表現を前面に押し出した。崇高は読者を興奮させ恍惚とさせるものでありそれは話法の完成と一致するものとされた。ここには審美的な題材に細工を施し受け手に反応を引き起こそうと働く職人と公衆に移入させるような感情を表し作り出す霊感に恵まれた芸術家の対比が見出される。この論争は文芸評論史で幾度となく再出現しまた古典主義とロマン主義自然主義と耽美主義のような互いに相容れない潮流を数多く生み出した。文学的な著述は正書法や文法だけでなく修辞学や詩学の規範にも従う。作家は文体を作り上げることを可能にする言語的な諸手段を利用し話法を支え散文を美的なものにするために詩学的な破格脱線造語などもまた拠り所とする。作者に固有の文体的要素と修辞技法のような修辞学的効果の双方が駆使されそのようにして作家は他と一線を画す芸術家となるのである。原初的な文学は口伝(口承文芸)である。それが文字で書きとめられるようになり写本の形で流布するようになったが、15世紀以降印刷技術が普及し、やがて活版印刷による文学作品の出版が盛んになった。現在ではインターネットに代表される電子メディア上で表現されるものもある。メディアの変遷に応じ最初は音声で受容される叙事詩抒情詩などの詩や演劇が中心的な役割を果たしたが近代に至り文字の形での受容が容易になるにつれて詩から小説への大規模な移行が起こった。言語に依存する芸術であるため他言語の作品を鑑賞解釈するためには翻訳が大変重要であり翻訳家の存在が大きな意味を持つ。翻訳された作品を翻訳文学と呼ぶ。文学作品を研究・分析・批評することを文芸評論という。広義には研究論文から雑誌のコラムまで全て評論と言える。文学だけではなく、あらゆる作品が評論の対象になる。評論には様々な手法があり、それは研究対象や時代、評論家自身などに依存する。優れた評論文は、それ自体が文学作品として評価される。作家や思想家が文芸評論家として活動することもしばしばある。詳細はそれぞれの項目を参照。多数の文学作品を編集したものを文学全集と呼ぶことが多い。代表的なものとして世界文学全集、日本文学全集がある。他に個人の全集、特定の国の全集、特定のジャンルの全集などがある。 +ポピュラー音楽のジャンル一覧も参照。このページはトランスロックEDMレゲエなどのジャンルのほかにJ-POP洋楽アニメソングゲームソングなどの出典ジャンルやラブソング卒業ソングなどの歌詞ジャンルが含まれている。ミュージシャンは音楽を作ったり演奏したりする人のこと。作曲家は著作権を有し、編曲家は二次的著作権を有する。これらを総称して音楽作家と呼ぶ。また、複数の役職を兼ねている制作者も多い。指揮者、演奏者、歌手に分類される。現代の日本において実演家はその実演に対して著作隣接権を有する。音楽に関係する他の職業については、を参照。音楽に関係する具体的ジェイオーク人物についてはを参照。アイシャ・ラドワーン、アーイシャ・ラドワーン(、Aicha Redouane, Acha Redouane, 1962年 - )は、モロッコ出身の女性歌手。主にアラブ古典音楽の歌い手として知られる。現在フランスで活動。言語学は人間の言語の特性構造機能獲得系統変化などを研究する学問。下位分野として音声学音韻論形態論統語論 意味論語用論などの様々な分野がある。これらの下位分野は 音 音素語と形態素句と文意味 言語使用に概ねそれぞれが対応している。言語学は言語そのものの解明を目的とする科学である。実用を目的とする語学とは別物である。よく誤解している人がいるが、言語学は古い時代の言語とか語源だけを扱うわけではない。言語学は過去・現在をともに対象としており、さらに言うと、直接に観察できる現代の言語を対象とする研究のほうがむしろ有利であり、言語の本質に迫りやすいので、言語学ではより重要である。言語学の目的は、人間の言語を客観的に記述・説明することである。とは、その規則・制約がなぜ発生するのかを明らかにすることである。言語学は言語の優劣には言及しない。むしろ現代の言語学においてはあらゆる言語に優劣が存在しないことが前提となっている。そのためすべての言語は同等に扱われる。しかしながら言語の史的変化を言語の進化ととらえ社会文明の成熟度と言語体系の複雑さを相関させるような視点が過去に一部存在していた。その後いかなる言語も複雑さを有していることが明らかとなりそうした見解は否定された。すなわち「幼稚な言語や高度な言語といったものは存在せずすべての言語はそれぞれの言語社会と密接に関連しながらそれぞれのコミュニティに適応して用いられている」というのが現代の言語学の基本的見解である。英語における名称"の語源は "linguistique"である。linguisticsという語は1850年代から使われ始めた。古代の言語学者に、インドのパーニニがいる。西洋における言語研究の始まりは紀元前にギリシアの哲学者たちに大きな影響を与えた。言語学が大きく飛躍する節目となったのは、1786年のことである。イングランドの法学者ウィリアム・ジョーンズは、インドのカルカッタに在任中に独学していたサンスクリット語の文法が、以前に学んだギリシア語やラテン語などの文法と類似していることに気づき、による歴史的比較言語学がドイツのライプツィヒで興り。20世紀に入ると言語学は大きな変動期を迎えることになる。20世紀初頭にスイスの言語学者、フェルディナン・ド・ソシュールの言語学は、通時的な。20世紀以降の言語学を指して、近代言語学と呼ばれることもある。アメリカの言語学は、人類学者のフランツ・ボアズ のアメリカ州の先住民族の言語研究やエドワード・サピアがさきがけとなった。そこから発展したアメリカ構造主義言語学の枠組みは、レナード・ブルームフィールドによって確立された。20世紀後半、ノーム・チョムスキーの生成文法は、以上で延べたような近代言語学からさらに一変するような変革をもたらし、現代言語学と言われることもある。後述する認知言語学からは批判もあるなど、が全てではないが、現代の言語学においてその影響は大きい。また20世紀後半には他にも、マイケル・ハリデーや、ジョージ・レイコフらの認知言語学など、異なったアプローチも考案された。音声学が発音時の筋肉の動きや音声の音響学的特性など物理的な対象を研究するのに対して、音韻論ではその言語で可能な音節の範囲(音素配列論)など言語が音声を利用するしくみを研究する。語の成り立ちは形態論で研究し、語が他の語と結合して作る構造は統語論で研究する。統語論が研究対象とするのは文までで、それ以上のテクストや会話などは談話分析で扱う。意味論が研究対象とするとは伝統的に話者や文脈状況を捨象した普遍的な語の意味や文の意味に限られてきた。話者の意図は意味論の研究対象ではないと見る場合これの研究は語用論で行う。主要な切り口主要な学説や仮説.人間の言語学の基本原則は、言語は人々によって作成された発明であるということです。 言語研究の記号論的伝統は、言語を意味と形式の相互作用から生じる記号のシステムと見なしています。言語構造の編成は計算と見なされます。 言語学は本質的に社会的および文化的科学に関連していると見なされています。なぜなら、言語コミュニティによる社会的相互作用ではさまざまな言語が形成されているからです。 言語の人間性の見方を表すフレームワークには、とりわけ構造言語学が含まれます。構造分析とは音声形態構文談話などの各層を最小単位で分析することを意味します。 これらはインベントリに収集され構造およびレイヤー階層内での相互作用を調査します。 機能分析は構造分析に各ユニットが持つ可能性のあるセマンティ���クおよびその他の機能的役割の割り当てを追加します。 たとえば名詞句は文の文法的な主語または目的語としてあるいは意味論的なエージェントまたは患者として機能することができます。機能言語学または機能文法は構造言語学の一分野です。 人間性の文脈では構造主義と機能主義という用語は他の人間科学におけるそれらの意味に関連しています。 形式的構造主義と機能的構造主義の違いはなぜ言語が持つ特性を持っているのかという質問への答えにあります。 機能的な説明は言語がコミュニケーションのためのツールであるまたはコミュニケーションが言語の主要な機能であるという考えを伴います。 したがって言語形式はその機能的価値または有用性に関して説明されます。 他の構造主義的アプローチは形式が二国間および多層言語システムの内部メカニズムから続くという視点を取ります。言語の生物学的基礎を明らかにすることを目的とした認知言語学や生成文法研究言語認識などのアプローチ。 生成文法はこれらの基礎が生来の文法知識から生じると主張しています。 したがってこのアプローチの中心的な関心事の1つは言語知識のどの側面が遺伝的であるかを発見することです。 一例をあげるとノームチョムスキーらは生成文法という仮説を唱えという仮説を提起した。(なお、チョムスキーの仮説は、現在ではそれほど広く支持されているわけではない。対照的に認知言語学は生来の文法の概念を拒否し人間の精神がイベントスキーマから言語構造を作成する方法を研究します。 認知的制約とバイアスが人間の言語に及ぼす影響も研究されています。 神経言語プログラミングと同様に言語は感覚を介してアプローチされます。 認知言語学者は感覚運動スキーマに関連する表現を探すことによって知識の化r身を研究します。密接に関連するアプローチは進化言語学であり、文化的複製者としての言語単位の研究が含まれます。 言語がどのように複製され、個人または言語コミュニティの精神に適応するかを研究することが可能です。 文法の構築は、ミームの概念を構文の研究に適用するフレームワークです。生成的アプローチと進化的アプローチは形式主義と機能主義と呼ばれることもあります。 ただしこの概念は人間科学での用語の使用とは異なります。言語学が明らかにした言語の特徴の例.以下に言語学が明らかにしてきた言語の特徴をいくつか記す。ソシュールは という2つの概念を用いて言語記号の音声形態とその意味との間には必然的な関係性はないという言語記号の恣意性を説いた。これとはほぼ反対の立場として音象徴という見解がある。これは、音素そのものに何らかの意味や感覚、印象といったものがあり、言語記号はその組み合わせによって合理的に作られているとするものである。しかし、実際にはどの言語にも普遍的な音象徴というものは存在しないため、現在そのような立場の言語研究はあまり行われていない。アンドレ・マルティネは言語が単なる音声の羅列ではなく、二重構造を有していることを指摘した。すなわち、文を最小単位に分割しようとした場合、まずは意味を持つ最小単位である形態素のレベルに分割される。そして、形態素はさらに音素に分割される。例えば、日本語の という語は語としてはこれ以上分解できないが、音素としては /a/、/m/、/e/ の三つに分解される。言語の持つこのような二重構造は二重分節と呼ばれる。動物の発する声にはこうした性質が見られないため、二重分節はヒトの言語を特徴づける性質とされる。ノーム・チョムスキーは言語の規則には、例えば「前から3番目の語」というような表層の順序に言及するようなものは存在しない、言語の規則はむしろ表層にあらわれない範疇・階層・構成素などの構造から生まれると考え、これを「構造依存性」と呼んだ。ノーム・チョムスキーはgenerative capacityという概念により、「(ある言語の)文法は、その言語の文ら(「表層」)をweakly generateし、それら文らのstructural descriptors(「深層」)をstrongly generateする」(ここで「文ら」としているのは、原文sentencesの複数形に意味があるため)と述べた。『(科学をおこなう前に)』とか『』と言った人がおり、『』と言った人がいる。"関連文献のリストを見るには右の[表示]をクリック" +著作権は、作品を創作した者が有する権利である。また、作品がどう使われるか決めることができる権利である。作者の思想や感情が表現された文芸・学術・美術・音楽などを著作物といい、創作した者を著作者という。知的財産権の一種。このうち著作者の権利は、著作物を活用して収益や名声などを得ることができる財産的権利も、著作権の概念に含めることがある。知的財産権には著作権のほか特許権や商標権などの産業財産権があるが保護の対象や権利の強さが違う。産業財産権は産業の発達を目的とする技術的思想を保護の対象とし権利者に強い独占性を与える性質のため所管官庁による厳しい審査を経て登録されなければ権利が発生しない。一方の著作権は創造的な文化の発展を目的とする表現を保護の対象としていることから産業財産権と比べて独占性は低く日本を含む多くの国地域では登録しなくても創作した時点で権利が発生する。著作物の定義・範囲、著作物の保護期間、著作物の管理手続や著作侵害の罰則規定などは、時代や国・地域によって異なるものの、国際条約を通じて著作権の基本的な考え方は共通化する方向にある。しかし、著作物のデジタル化やインターネットの社会普及に伴い、著作権侵害やフェアユース(無断利用が著作権侵害にあたらないケース)をめぐる事案が複雑化している時代趨勢もある。著作権は人権という側面もある。著作権は狭義には著作財産権のみを指し広義には著作財産権と著作者人格権最広義には著作者の有する実定法上の権利の総体をいう。広義の著作権概念は概して大陸法の諸国で用いられる著作権概念である。一方狭義の著作権概念は英米法の諸国で用いられる著作権概念である。日本の著作権法はをおく二元的構成をとっている。著作権は狭義には著作財産権のことをいう。著作者に対して付与される財産権であり著作物を独占的排他的に利用する権利である。著者は著作権(財産権)を他人に干渉されることなく利用する権利を持つ。たとえば小説の著作者(作者)は他人に干渉されることなく出版映画化翻訳することができる。したがって、著作権に充当できる。これにより、アマチュアからプロへと進む際のハードルも低くなる。また、各分野での世代交代が活発化する。しかし、著作者の合意(許諾)を得ていない他人が、その著作物を広く世間に発表(公表)すると、著作者は生活するために必要な収入を失い、「執筆」「作曲」「映画製作」などの仕事(創作事業)も継続できなくなる。この他人による著作者の財産を盗み取る行為が、著作権の侵害である。著作者が著作権を財産として扱える範囲を明確に限定するために、支分権を用いて細目を列挙しており、著作者以外の者にとっては、細目の把握が困難である。これによりと表示し、細目のすべてを含めた「すべての権利を著作者が自ら保持するといったことも法的には可能である。一方で著作物を収めた記録媒体が自由に利用できるようにする方法もある。このような契約をという。著作権は相対的独占権あるいは排他権である。特許権や意匠権のような絶対的独占権ではない。すなわち既存の著作物Aと同一の著作物Bが作成された場合であっても著作物Bが既存の著作物Aに依拠することなく独立して創作されたものであれば両著作物の創作や公表の先後にかかわらず著作物Aの著作権の効力は著作物Bの利用行為に及ばない。同様の性質は回路配置利用権にもみられる。狭義の著作権(著作財産権)は財産権の一種であるが著作者に認められる権利(著作者の権利)としてはそのほかに著作者の人格的利益を保護するものとして人格権の一種である著作者人格権がある。両者の関係については考え方および立法例が分かれる。まず、著作権法により著作者に対して保障する権利を純粋に財産権としての著作権として把握する考え方がある。この考え方を徹底しているのがアメリカ合衆国著作権法であり、著作者の人格的権利はコモン・ロー上の人格権の範疇に含まれる。もっとも、ベルヌ条約が加盟国に対して著作者人格権の保護を要求していることもあり、1990年の法改正により、視覚芸術著作物について限定された形で著作者人格権を保護する旨の規定を設けた。第2に、著作者に対して、財産的権利と人格的権利の双方を著作権法上保障する考え方がある。大陸法の著作権法は基本的にこのような考え方に立脚している。フランス著作権法がこの考え方に立脚しており、著作者の権利について、人格的な性質と財産的な性質を包含するものとして規定し区別している点にこのような考え方が現れている。第3に、著作者に対して、財産的権利と人格的権利の双方を著作権法上保障するが、両者は一体となっており分離できないものとして把握する考え方がある。ドイツの1965年9月9日の著作権および著作隣接権に関する法律がこの考え方に立脚しており、著作者の権利の内容を構成するものとして著作者人格権に関する規定を置いているが点にこのような考え方が現れている。日本法の法制は、著作権法上、著作者の権利として財産権たる著作権と人格権たる著作者人格権を保障しつつ、前者は譲渡可能なものとして理解し、後者は譲渡不可能なものとして理解している点でフランス法に近い。著作者によって制作された楽曲(著作物)は、著作者である作詞家・作曲家が著作権を有している。しかし、楽曲を演奏する実演家や、それを録音するレコード製作者、楽曲を放送する放送事業者・有線放送事業者も、著作者ではないものの著作物に密接に関わる活動を業としており、1970年の現行著作権法制定に伴い、これらの利用者による実演、レコード、放送または有線放送にも著作権に準じた一定の権利(著作隣接権、)が認められることになった。著作隣接権は実演家の権利(著作権法90条 - 95条)、レコード製作者の権利(同96条 - 97条)、放送事業者の権利(同98条 - 100条)、有線放送事業者の権利(同100条)からなり、人格権と財産権が含まれる。保護期間は実演日(実演)または最初の固定日(レコード)から70年間(放送、有線放送は放送等から50年間)。著作権と異なり楽曲(著作物)そのものの権利ではないため、演奏権や翻案権(編曲権)は認められていない。また映画の著作物においては、二次利用の際の著作隣接権の適用が制限される(映画の著作物#著作隣接権との関係も参照)。著作権が本格的に考慮されるようになったのは15世紀にグーテンベルクによる印刷術が確立するとともに出版物の大量の模倣品が問題化するようになってからである。記録に残る最初の本の著作権は1486年に人文主義者のマルカントニオサベリーコのヴェネツィア史に与えられ芸術家の最初の著作権は1567年にヴェネツィアの元老院からティツィアーノに与えられた。18世紀初頭、イギリスではアン法や、その後のパブリック・ドメインの概念も制定されている。フランスではフランス革命時の1791年に大陸法系の国の中では初めて著作権法が制定された。その後18世紀から19世紀にかけて各国で著作権を保護する法律が成立した。19世紀に入ると著作権の対象は印刷物以外に拡大されていく。ところが19世紀半ばになっても著作権の保護の法律を持たない国がありイギリスやフランスなどの作家の書いた作品が複製による被害を受けていた。そのため1886年採択1887年発効のベルヌ条約で国際的な著作権の取り決めができ1952年採択発効の万国著作権条約によってベルヌ条約未締結国との橋渡しがなされた。さらには世界貿易機関 主管のTRIPS協定が1994年に採択1995年発効し国際的な著作権侵害の際にはWTOに提訴できる仕組みが導入された。また国際条約と国内法の中間的な位置づけとして欧州連合(EU)の各種指令がある。EU加盟国は指令を遵守して国内法を整備する義務を負うことからEU加盟国間の著作権法のばらつきを平準化する役割を担っている。しかし著作権法および著作権についての考え方は著作者著作権者利用者など利害関係者のさまざまな要請を受け専門家だけでなく広く世論の間でも議論が起きたり立法の場で話し合われたり行政の場で検討されたり司法の場で争われたりするなど絶えず変更を受け続けている。21世紀に入りテクノロジーの著しい進歩および権利ビジネスの伸張など経済社会の変化を受けた産業保護の観点からの要請と著作物の自���な利用の要請との衝突が顕著な争点のひとつになっている。これを受けデジタル著作物の保護規定を強化したWIPO著作権条約が1996年に採択され2002年に発効している。新しいテクノロジーに関連する個別の判例や法制には、1984年に判決が出た米国のベータマックス事件(ソニー勝訴)、1992年に生まれた日本の私的録音録画補償金制度、1997年に創設されたインタラクティブ送信に係る公衆送信権・送信可能化権(日本)、1999年に起こされたソニー・ボノ法への違憲訴訟(米国、2003年に合憲判決)、2001年のナップスター敗訴(米国)などがある。本節では著作権のうちおもに狭義の著作権の保護の対象と要件について述べる。著作権は著作者の精神的労力によって生まれた製作物を保護しまた自由市場における市場価格を著作者に支払うことを保証して著作者の創作業務を維持し収入を安定させることで間接的に著作者本人を保護する効果もある。日本の現行著作権法では具体的にが表れていればよく、新規性や独創性は求められず、区別できる程度であればよいとされる。また、表現されている必要があり、文字・言語・形象・音響などによって表現されることで著作物となる。著作権の対象として想定されるのは典型的には美術音楽文芸学術に属する作品である。絵画彫刻建築楽曲詩小説戯曲エッセイ研究書などがその代表的な例である。ほかにインターネット掲示板の書き込み写真映画テレビゲームなど新しい技術によって出現した著作物についても保護の対象として追加されてきた。美術的分野では、著作権のほか、意匠権が工業デザインの権利を保護するが、著作権は原則として美術鑑賞のための作品などに適用され、実用品には適用されないとする。ただし、この境界線は必ずしも明解ではなく、美術工芸品は双方の権利が及ぶとする説もある。また、国によっては意匠法と著作権法をまとめて扱っている場合もある。入学試験の問題は数学の問題における数式そのもの社会科の問題における歴史的事実そのものといった場合を除き問題を作成した学校等に著作権が生じるとされる。国によって保護の対象が異なる場合があり、たとえば、フランスの著作権法では著作物本体のほかにそのタイトルも創作性があれば保護する旨を規定している。同じく、一部の衣服のデザインが保護されることが特に定められている。米国の著作権法では船舶の船体デザインを保護するために特に設けられた規定がある。ほかに、明文規定によるものではないが、活字の書体は日本法では原則として保護されないが、保護する国もある。アプリケーションプログラミングインタフェースについても日本法では明示的に保護対象外としているが、米国ではという最高裁判決が出ている。著作権が生じないもの.権利が生じず、保護の対象にならない製作物がある。おもなものは以下の通り。そのほか、キャラクター設定や感情そのもの、創作の加わっていない模倣品、範囲外の工業製品・選択の幅が狭い表現などは創作性が認められない傾向にある。方式主義と無方式主義.特許権意匠権商標権などは登録が権利発生の要件であるが著作権の発生要件について登録などを権利発生の要件とするか否かについては立法例が分かれる。著作権の発生要件について、登録、納入、著作権表示など一定の方式を備えることを要件とする立法例を方式主義という。これに対して著作物が創作された時点で何ら方式を必要とせず著作権の発生を認める立法例を無方式主義という。ベルヌ条約は加盟国に無方式主義の採用を義務づけている。なお、北朝鮮もベルヌ条約加盟国であるが、日本は北朝鮮を国家として承認していないことを理由に、2011年12月、北朝鮮の著作物に関しては日本国内で保護義務がないとの司法判断が最高裁によってなされた。ベルヌ条約に加盟し無方式主義をとる国においては著作物を創作した時点で著作権が発生するため著作物に特定の表示を行う義務は課されていない。一方ベルヌ条約締結後も同条約に加盟せず方式主義をとる国々があった。そのため自国が無方式主義を義務づけるベルヌ条約を締結していても方式主義をとる国々では著作権発生の要件を満たさずそのままでは著作権保護���得ることができず不都合を生じていた。そこで万国著作権条約は無方式主義をとる国における著作物が方式主義をとる国でも著作権保護を得ることができるよう氏名と最初の発行年©のマークの3つを著作権表示として明示すれば自動的に著作権の保護を受けることができるとした。著作権マークは著作権の発生要件として著作物への一定の表示を求める方式主義国において要件を満たす著作権表示を行うために用いられるマークである。先述のように、ベルヌ条約と万国著作権条約の双方に加盟している場合には、無方式主義を定めるベルヌ条約が優先する。したがって、このような問題が生じるのはベルヌ条約を締結しておらず万国著作権条約のみを締結している方式主義をとっている国においてである。かつては米国が方式主義国の代表的存在で、長い間、万国著作権条約のみを締結しベルヌ条約を締結していなかった。しかし、米国は1989年にベルヌ条約を締結して無方式主義を採用した。ほかの国においても無方式主義の採用が進んだ結果、2017年現在、万国著作権条約のみを締結し方式主義を採用している国はカンボジアだけとなっている。そのカンボジアもベルヌ条約自体は締結していないものの、2004年のWTO加盟によりTRIPS協定9条1項の適用を受けることとなり、ベルヌ条約の1条から21条の条項および附属書の遵守義務を負ったため、実質的に無方式主義に転換した。なお著作権表示は条約上の著作権の発生要件とは別に国内法上一定の効果を生じることがありたとえばアメリカの著作権法では著作権の存在を知らずパブリックドメインと信じた者を保護する善意の侵害者の法理があるが©マーク等の著作権表示が著作物に明確に表示されていれば原則として善意の侵害にはあたらないとされている。有形物への固定の要否.著作物が有形の媒体に固定されている必要があるか否かについても立法例が分かれる。ベルヌ条約では固定を要件とするか否かに関しては加盟国の立法に委ねている。著作権侵害は、民事では差止請求権、損害賠償、名誉回復等の対象となる。また、刑事事件として罰金刑や懲役刑などの刑事罰が科される場合もある。米DMCAに基づいて、自称著作権者およびその代理人による著作権侵害告発で、正規の著作権者や合法な著作権利用が妨げられるケース、果ては言論弾圧に利用するケースすら多発している。著作権の保護についてはなどの条約が保護の最低要件などを定めておりこれらの条約の締約国が条約上の要件を満たす形で国内の著作権保護法令を定めている。18世紀から19世紀にかけて各国の民間交流は増大したが、それとともに剽窃も国際的な問題となった。多くの国では著作権法が制定されていたが、効力範囲は自国民などに限られていた。そこで各国は、相互主義のもと互いに相手方国民の著作権を保護する二国間条約を締結して解決を図ろうとした。しかし、二国間条約では締約国以外には効力が及ばず、各国は法律で登録などの著作権保護要件を定めていたため現実に著作権を取得することは難しく実効性に乏しいものだった。そこで国際文芸家協会などが国際的な著作権保護の運動を展開しスイス政府などの主導のもと1886年にベルヌ条約が締結された。ベルヌ条約に関しては1908年のベルリンでの改正条約によって無方式主義が採用された。ベルヌ条約は内国民待遇、遡及効、無方式主義の採用などを柱とする。ベルヌ条約は1908年のベルリンでの改正条約によって無方式主義が採用されたがアメリカ合衆国や中南米諸国など方式主義を採用している諸国との間に制度的な差異を生じ問題化した。そこで方式主義を採用しているアメリカ合衆国や中南米諸国などとベルヌ条約に加盟して無方式主義を採用している国々との間の架橋となる条約として1952年に万国著作権条約が成立した。万国著作権条約は内国民待遇、不遡及効、方式主義の採用などを柱とする。ただし、ベルヌ条約と万国著作権条約の双方に加盟している場合には万国著作権条約17条によりベルヌ条約が優先する。1979年にアメリカ合衆国がベルヌ条約に加盟したのちグアテマラなどの中南米諸国も次々とベルヌ条約に加盟するなど各国で無方式主義への転換が進んだ。先述のよ��に万国著作権条約のみを締結して方式主義を採用している国は2017年現在カンボジアだけとなっておりそのカンボジアもWTO加盟によりTRIPS協定9条1項の適用を受けベルヌ条約の1条から21条の条項および附属書の遵守義務を負ったため実質的に無方式主義に転換している。日本の著作権法は著作物によって生じる著作者の財産権の範囲を定めている。日本では創作した時点で自動的に帰属される。日本の著作権法はを著作者の財産的利益を保護する権利とする。著作権法は以下で条数のみ記載する。日本では近代以前においては版木の所有者である版元が出版物に関する権利者と考えられ著作権に相当する概念が存在しなかったとされている。明治初期に福沢諭吉らの紹介と政府への働きかけによりとして著作権の一部が保護を受けることになった。19世紀末に日本がベルヌ条約への加盟をするにあたり、国内法の整備の一環として初めて著作権法が制定された。この著作権法はとも呼ばれるもので、1970年に旧法を全部改正して制定された新著作権法とは通常区別される。20世紀半ば以降企業により著作物が製作されるようになると便宜的に架空の人物を著作者とした事例が出てくるようになった。権利の内容と譲渡可能性.日本の著作権法の下では、原則として、著作権は創作の時点で自動的に創作者(著作者)に帰属する(無方式主義 cf.方式主義)。たとえ創作活動を職業としない一般人であっても、創作された時点で自動的に帰属される。つまり、原始的には著作者たる地位と著作権者たる地位が同一人に帰属する。もっとも、著作権は財産権の一種であり、譲渡することが可能であり、さらには、以下のような支分権ごとにも譲渡可能と理解されている。したがって、創作を行った者と現時点の著作権者とは一致しないことや、支分権ごとに権利者が異なることもありうる。ただし、譲渡を受けた者が第三者に対抗するためには、文化庁に著作権を登録しておく必要がある。また、映画の著作物については、著作権の原始的帰属について特例が設けられている、著作権者であるといえども無断で著作物を公表・改変したり、氏名表示を書き換えたりすることはできない。なお著作者と著作権者の用語の使い分けが分かりづらいためか2005年1月に文化審議会著作権分科会から発表されたの中では用語の整理の検討が必要であると言及されている。著作権者は、他人に対し、その著作物の利用を許諾することができる。共同著作物とはの事案においてはストーリー作者により事前に原稿用紙に執筆されたストーリーに基づいて作画者が作画をするという方式がとられており二次的著作物に該当するものと判断された。次に間違いやすいのは結合著作物である。これは、各人の創作的表現を分離して利用可能なものであり、たとえば、などがこれに該当する。この場合は、共同著作物ではなく、それぞれが著作物であり著作権を有すると解される。著作権の対象とならないもの.2項はと規定している。10条3項は本法律による保護はと規定している。これによりプログラミング言語APIアルゴリズムは少なくとも日本法においては保護対象とならない。は、次の著作物がと規定している。これらの著作物の内容は、国民の権利や義務を形成するものであり、一般国民に対して広く周知されるべきものであるため、著作権による保護対象とすることは妥当でないと考えられるためである。また北朝鮮の著作物については日本は保護する義務を負わないとする最高裁判所の判決が2011年12月8日に出ている。→無断放映#日本における北朝鮮著作物放映基準の最高裁判例を参照著作物の利用や使用についてその便宜上必要とされる範囲または著作権者の利権を害しない範囲において著作権が制限されることがある。これは著作権というものが公共性の高い財産権であることに由来する。おもなものは以下の通り。著作権に明るくない一般人においては、しばしば、著作物を表象した有体物の所有権を取得したことにより、著作権に類する権限も取得できると誤解する場合がある。しかし、所有権を取得したからといって著作権にかかる諸権利まで取得できるわけではない。このことは美術の著作物についての判例���顔真卿自書建中告身帖事件」で明らかになっている。ただし美術の著作物についての原作品の所有者による著作物の展示や展示に伴う複製などの行為には著作権の効力が及ばないとする規定がある()。所有権者による当該行為にまで著作権の効力が及ぶものとすると美術品の所有権を得た者の利益が著しく損なわれるため著作権と所有権の調整を図ったものである。保護期間を永久と定める国も存在するが一般に一定の保護期間の下においてのみ保護される。保護期間の満了を迎えると著作権は消滅パブリックドメインとされる。著作権者が他人に対して著作物の利用を認める契約には著作物利用許諾契約や出版権設定契約がある。著作物利用許諾契約は契約を結んだものに対して著作物の利用を認める契約である。著作物利用許諾契約の相手方は複数の者でもよい。出版権設定契約は特定の者に対し出版権を設定するもので、出版権の設定を受けた出版権者は設定行為に従って著作物を複製して頒布することができる。出版行為には紙媒体やDVD、CD-ROMなどへの複製のほか、インターネットによる公衆送信行為や電子出版なども含まれる。出版権は排他的・独占的な権利であり、出版権を侵害する者に対しては差止請求や損害賠償請求が認められる。日本では出版権は複製権の一形態として著作権法第三章。80条2項 原作のまま前条第一項に規定する方式により記録媒体に記録された当該著作物の複製物を用いて公衆送信を行う権利 +映画に連続投影することで形や動きを再現するもの。活動写真キネマシネマとも。なお、本来の語義からははずれるものの、フィルムではなくビデオテープなどに磁気記録撮影されたものや映画館で上映される動画作品全般についても、慣例的に「映画」と呼ばれている。映画館が普及して以降一般的に映画というと専用施設(映画館等)の中でスクリーンに投影して公開する作品を指すことが多い。20世紀に大きな発展を遂げた表現手段であり映画は今や芸術と呼ぶべき水準に達している。また古くからの芸術である絵画彫刻音楽文学舞踊建築演劇に比肩する新たな芸術として「第八芸術」ないし舞踊と演劇を区別せずに「第七芸術」とも呼ばれる。また映像やストーリー音楽など様々な芸術の分野を織り交ぜてひとつの作品を創造することから「総合芸術」の一種としても扱われる。「映画」という語の本来の意味は「画を映すこと」あるいはそうして「映された画」ということである。そのため近世末期においては写真と同義に用いられていた。そこから転じて「(スクリーンなどに)画像を映し出すこと」や「映し出される画像」さらに長いフィルムに撮影された「動きのある画像」に対しても用いられるようになっていった。なお、におけるの項目には、以下のように記載されている。「活動写真」は英語「motion pictureモーションピクチャー)」の直訳語で元来は幻灯機のことを指すが後に意味が変じて映画を指すようになった。「シネマ」は、フランス語の「cinma」のカタカナ表記である。フランス語のcinmaは、「cinmatographe(シネマトグラフ」の短縮形であり、1.シネマトグラフのフィルムを制作し、レアリゼ(=上映、上演)する技術、2.スクリーン上にあたかも現実が動いているかのように(フィルムを使って)投影すること(=日本語で言う「映画の上映」)、3.上映を行う場所(=映画館)、4.フィルムの配給を行う産業(映画の配給会社)、を意味する。フランスでは同国の伝統をふまえて、フランスのリュミエール兄弟が開発したシネマトグラフという概念やその技術(の延長上)というとらえかたで「cinemaシネマ」という言葉や概念が使われているわけである。語源はギリシア語の「(「動く」という意味)」。なお、フランス語でも「film フィルム」という用語もあり、シネマトグラフを実現するための、薄くて細長い物体も当然フィルムと呼ぶが、個々の「映画作品」という意味でもフィルムという。アメリカでは、アート作品をフランス風に「シネマ」と呼び、娯楽作品は英語風に「ムービー」と区別して呼ぶ傾向がある。戦前の日本では、映画はとも呼ばれた。当時から続く映画雑誌にこの名前が残っている他、懐古的な情緒��好まれる時にも用いられる。19世紀後半に写真技術が発展すると、やがてそれを利用して動く写真の開発が始まり、1893年にトーマス・エジソンが1人でのぞき込んで楽しむキネトスコープを発明するなど、1890年代にはいくつかの映画の原型が考案されていた。そうした中、1895年にフランスのリュミエール兄弟がスクリーンに動く写真を投影して公開した。これが現代にまでつながる映画の起源とされている。スクリーンに上映する映画は登場と同時に世界中で反響を呼び、開発の翌年には各国で上映されるようになった。草創期の映画は単に事実を記録した映像に過ぎなかったが、それでも新奇さから各地の見世物で大当たりを取り、映画館が相次いで各地に設立された。20世紀に入るとストーリーを持つ映画の制作が始まり、盛んに映画作品が作られるようになった。映画表現において大きな画期となったのは、1920年代の「トーキー」の登場、それに続いて行われたいわゆる「総天然色」映画の登場が数えられよう。これらはそれぞれ、それまでの映画の形式を最終的には駆逐するにいたった。例えば、今では「トーキー」以前の形式である「サイレント」が新たに発表されることはほぼない。また、今「モノクローム」で撮影された映画が発表されることは極めてまれである。20世紀前半に行われたこれらの映画技術の進展とは異なり20世紀後半の映画技術の発展は映画表現の多様性を増す方向に作用した。戦後普及した映画の撮影技法には例えばが挙げられる。これらの新たな撮影技法はそれ以前の方法を駆逐することによって普及したのではなくそれが登場する以前の撮影技法と共存しつつ独自の分野を成す形でそれぞれの発展を遂げている。1970年代からはVTRが普及したが、フィルムとビデオとの基本的な表示方式の違いから映画は35mmフィルムによる撮影が一般的であった。21世紀に入った頃から商業作品もデジタルビデオカメラで撮影され、フィルムを使わずコンピュータ上で編集される例が増加している。詳しくはデジタルシネマを参照。映画には技術的な側面に着目した分類観客に映画作品を届ける経路やビジネスモデルによる分類コンテンツによる分類などさまざまな分類法がある。映画はもともと映画館など専用の上映施設で上映されるものとして発達してきた。ビジネスモデルとしては映画作品を制作する会社やそれを配給する会社は映画館に対して映画作品のフィルムを一定期間貸し出し貸すことに対する料金を得るというしくみであり映画館のほうは配給会社に料金を支払う形の契約で限られた日数だけフィルムを借り多数の観客が入場に必要なチケットを購入してくれることで収入を得る配給会社に支払うお金と観客から得るお金の差額がなどと呼ぶことも行われている。その後各国で1940年代や1950年代になってテレビの放送が始まるようになりテレビ所有者が増大する中ですでに劇場公開が行われた映画作品を後からテレビの電波に乗せるということも行われるようになった。この場合ビジネスのしくみとしては当該の映画作品の諸権利を有する映画会社とテレビ局の間で交渉契約が行われテレビ局のほうから映画会社のほうに対して放送にまつわる対価は生じない。テレビ番組を充実させるためにテレビ局が行った策であり1960年代のアメリカのテレビ番組の中では一種のの映画が多く製作された。1970年代後半~1980年代以降に、ベータマックスやVHSなどといった規格の比較的安価な家庭用のビデオ装置が先進国の家庭から次第に普及してゆくと、やがてビデオ装置を所有している比較的裕福な家庭をターゲットに、数千円~1万円超という価格設定で映画作品がビデオテープの形でも販売されるようになった。これによって映画と分類される。その後 映画作品は、DVDやブルーレイでも販売・レンタルされるようになり、さらに近年、ブロードバンドが一般家庭にも普及すると、テレビ放送以外にネット配信からも映画会社が相応の権利料を得るようになった。2010年代以降、Netflixが、最初からNetflixのコンテンツとして提供するために、"オリジナル映画"を多数製作し日本を含む世界各国で配信するようになった。こうして観客に映画作品が届けられる経路が多様��するにしたがい境界域が曖昧になりどこで線引きするか決定的な線というは一律に定めることは次第に難しくなってきている。たとえばアメリカでは以前からを対象とする賞が別枠で設けられるという状況になっている。映画の歴史を踏まえると、もともとは映画というのは写真フィルムで撮影されるものである。やがてそうしたフィルムを磁気フィルムにとりこむということも行われるようになったがもともと劇場で大型スクリーンに投影することを前提としている映画の世界では基本的に35mmフィルムでの撮影が標準でありつづけた。1990年代あたりから、国ごとに状況が異なるようになってゆき、資金面で余裕のあるハリウッドメージャーの場合、映画は未だ35mmフィルム撮影の方が圧倒的に主流でありつづけ、日本などではむしろデジタル化が進む、という現象も起きた。一部の国で写真フィルムで撮影した素材を一旦デジタル化し、デジタル技術ならではの加工や編集を行う、という手法も用いられるようになった。2000年代に入ってからは最初から写真フィルムを用いずHD24p等のデジタル機器で撮影編集されその後フィルムに変換されたうえで劇場に納品されるという映画も登場し徐々に増えていった。音声情報も映画館の多チャンネルサラウンド化に伴いフィルムに焼き付けずにCD-ROMなどで納品される場合が増えてきた。最近の映画館され、それが、デジタルデータを直接的に映像として投影する装置によって、スクリーン上に投影されるようになっている。技術的にいえば、データセンター内に映画会社側のサーバがあり、各映画館は映画作品のデータをダウンロードし、映画会社のほうはのやりとりをすることで、各映画館で各作品を上映を可能にしたり反対に不可能にするような操作・管理を行い、ビジネスを行っている。世界各国に映画産業は存在しているがそのなかでも最大規模のものはアメリカ合衆国の西海岸ロサンゼルスのハリウッドである。金額規模で見るとハリウッドがまぎれもなく世界最大である。ただし年間の映画製作本数が最も多いのはアメリカではなくインドであり2009年には1288本が製作されてアメリカの2倍弱の数字となっている。インドの映画製作の中心はムンバイ(旧名ボンベイ)でありこの地の映画業界はボリウッドと呼ばれるがインド映画界は各言語別に映画業界が成立しているためムンバイ以外にも映画製作地は多数存在している。日本では京都の太秦が時代劇映画の集積地となっているほか他のジャンルはおおむね東京に多く大泉(東映撮影所)や調布市(日活撮影所角川大映スタジオ)や砧(東宝スタジオ)などである。最近経済成長が著しい中国は青島東方影都を出現させた。映画産業は、アメリカでは「不況に強い」産業となっている。なお、といった考えはを用いるべきだという指摘もある。以下のデータは、特に明記されていない限りユネスコ統計研究所による、上映された長編映画の上位15か国のリストである。ユネスコ統計研究所によると、チケット販売数で上位の国々は以下のようになっている映画作品の制作にかかわる人々.映画制作の最高責任者は映画プロデューサーである。プロデューサーが、企画の選択、資金調達、予算規模の決定や配分の大枠の設定、配給先候補(映画館系列)との交渉、宣伝戦略の検討や決定、監督の人選、俳優の人選、ファイナルカットの判断、等々を行う。プロデューサーの権限は最大である。監督よりも強く監督の仕事ぶりの善し悪しを判断し場合によっては撮影の途中で監督を解雇し別の監督にすげかえるということすら行う。ある程度以上の規模の映画となると制作するには巨額な費用がかかるものでまずは制作のための費用を調達しなければならない。資金調達が最大のそして根本的な土台として必要でそれができなければ予算を組むことができず資金の配分割合も決められず撮影計画の立案も映画スタッフの手配も機材の手配も何もできない。映画は非常に多数多種類の専門職的なスタッフたちによって制作される。映画はたとえば脚本家プロダクションマネージャーも膨大なものとなる。現在、個人ないし少人数のアマチュアグループでの映画撮影は、カメラ一体型VTRで行われ���のが普通である。2000年代前半からDVDやメモリー素子に記録することで、磁気テープを使用しないデジタルビデオが普及しているが、DVビデオも現役である。安価な機材は個人制作の映画の必須条件ではなく、ジョージ・ルーカスの個人制作である新三部作などは当時の商業映画と同じ機材を使用している。アナログ式のビデオテープレコーダが普及する以前は8ミリフィルムで撮影するのが主流であった。業務用の35ミリフィルムは個人では機材の調達が困難でありまたフィルムも高価であった。よって個人向けに小さなフィルムを使うことでフィルム代や現像代といった感材費をおさえた。一方1980年代にベータカムが普及するまではテレビ局での野外撮影や上述のテレビ映画には16ミリフィルムが用いられることが多かった。16ミリであれば35ミリに比較すれば安価な制作が可能であり個人でもとみなされてきた時代が長く続いた。更に安価で手軽になった8ミリフィルムでの映画制作については、8ミリ映画の項も参照のこと。デジタル式ビデオカメラとPCベースのノンリニア編集機材の低価格化によりアルビントフラーのに登場する生産消費者が台頭しつつある。またプロユースでもノンリニア編集システムと連動した映像管理ソフトなどが利用されている。YouTubeなど動画サイトを用いた、誰でも簡単に表現する場ができて、映像の個人製作をめぐる状況が大きく変化してきている。上映する場所もプロジェクションマッピングなどの発達とともに、「映画」と「映像作品」の距離が縮まっている。日本では明治時代から個人撮影の映画が制作され始めた。戦前から一部でカラーフィルムで撮影が行われNHKで2003年に 前編後編と計3本で取り上げられた。「日本映画の父」と言われた牧野省三によると、映画には三要素があるとのことで、『スジ・ヌケ・ドウサ』の順である、とした。スジは脚本、ヌケは映像美、ドウサは役者の演技を指す。一方、ブリタニカ国際大百科事典小項目事典のと、4つの要素を挙げている。原作との関係文字による芸術との関係.映画はもともと映画のためだけにプロット日本やアメリカなど漫画やコミックがさかんな一部の国では漫画やコミックを原作として映画がつくられることがある。小説のような文字による芸術と、映画という映像文字を用いた芸術と映像を用いた芸術は いわばなので、古典文学を原作として映画化を行うことは、さまざまな困難がともなう。たとえばジュリアン・デュヴィヴィエ監督のでは冒頭のに相当する部分は、映像では表現することはあきらめ、結局、文字で示さざるを得なかった。沼野充義はということ。例えば、ワレーリイ・フォーキン監督 などは3時間あるが、絢爛豪華な歴史世界を映画で見ることができるし、いつか原作を読もうという気持にさせる。一般的には原作をできるだけ忠実に映像化しようと試みた映画作品は映画作品としては評価が低くなりがちでその反対になど原作とは異なる内容の映画作品や短編小説を原作とした映画作品のほうがとされることが多い。 +メーリングリストする仕組み。MLと略される。用途としては、特定の話題に関心を持つグループなどで情報交換をする場合に利用されることが多い。メーリングリストの原理は登録メンバーの電子メールアドレスのリストとメーリングリスト宛ての代表電子メールアドレスを用意しておき代表アドレスへ送信されたメールをリストに登録されたメンバー全員のアドレスへ転送するものである。元は郵便を利用したものがあったが、今日では専ら電子メールを用いたものを指す場合が多い。メーリングリスト用のサーバソフトウェアにはfmlLISTSERVmajordomoMailmanなどがある。ネット上の他のサービスとの相互乗り入れも多くかつてはネットニュースのニュースグループとの相互乗り入れも多く行われた。しかし1990年代よりネットニュース上のEMP/ECPの増加や帯域の増強に伴いニュースグループを介さずに個々のメンバーがメールを受け取ることに支障がなくなってきたことよりニュースグループとの相互乗り入れによるメーリングリスト側のメリットが薄れ相互乗り入れは減少する傾向にある。代わってワールドワイドウェブの普及に伴いWWWと相互乗り入れ���いしウェブページ上にアーカイブを公開するメーリングリストが増加している。メーリングリストサーバを運営するにはメールサーバについてのある程度の技術的知識が必要だが、近年はWWW上で、無料で使用できるメーリングリストサーバも提供されている。代表的な無料サービスには、freeml(2019年12月2日終了)やYahoo!グループ(2014年5月28日終了)などがある。このようなことやADSLやFTTHといったいわゆるブロードバンドインターネット接続の普及からグループなどでの情報交換手段としては新規のメーリングリスト開設は下火になっており代わりに(登録制の)電子掲示板(BBS)が多用される傾向にある。メーリングリストの運用方針は管理者の志向話題の性質や構成メンバーなどによって大きく異なる。ある組織の構成員に限る場合や専門家対象の場合で有資格者に限る場合紹介が必要なもの誰でも自由に入れるものなど様々である。ロムを認めず一定期間投稿がないとリストから削除される場合もある。また画像を添付するとサーバに負担がかかるため禁止しているところも多い。アーカイブをWEBで公開していることもあるし会員外への転送を禁止している場合もある。こうした運用方針については管理者が定めることで通常は入会時のお知らせなどに記載されている。マイクロソフト製電子メールクライアントとの相性.Outlook Expressなどのマイクロソフト製電子メールクライアントでは初期設定でhtml形式で送信したり添付ファイルが自動的に開くようになっているなどメーリングリストでの利用に問題が発生することが多い。そのためメーリングリストを利用する際は適切な設定を行うよう促されたり運用上問題があるとして利用禁止にしているケースもある。セキュリティ上の問題点.メーリングリストは古くから存在する仕組みであるが、セキュリティ上の問題点も存在する。参加を検討する際には、セキュリティ問題に関する運営者の知識レベル等を見極め、参加することのリスクを考慮する必要がある。 +画像とは事象を視覚的に媒体に定着させたものでそこから発展した文字は含まない。定着される媒体は主に2次元平面の紙であるが金属石木竹布樹脂やモニタープロジェクター等の出力装置がある。また3次元の貼り絵ホログラフィー等も含まれる。現存する古い画像は後期旧石器時代の洞窟壁画(スペインの(全文:La Cueva de Altamiraや、フランス(書影:三浦定俊)。)等)である。これらの画像すなわち、岩面画から抽象化が行われ、画像に属するピクトグラム、さらに文字に属する象形文字が生まれた。コンピュータで扱う画像データの最少単位を画素という。物理的な点情報をドットといい、1インチあたりのドット密度をdpiという。ピアノは、弦をハンマーで叩くことで発音する鍵盤楽器の一種である。鍵を押すと、鍵に連動したハンマーが対応する弦を叩き、音が出る。また、内部機構の面からは打楽器と弦楽器の特徴も併せ持った打弦楽器に分類される。一般に据え付けて用いる大型の楽器で、現代の標準的なピアノは88鍵を備え、音域が非常に広く、オーケストラの全音域よりも広い。汎用性の高い楽器であることから、演奏目的として使われるのはもちろんのこと、音楽教育、作品研究、作曲などにも広く用いられている。そのためピアニストに限らず、作曲家、指揮者、他楽器奏者、声楽家、音楽教育者などにも演奏技術の習得を求められることが多い。保育士試験、小学校教員採用試験などでも必要とされている。の名は17-18世紀の楽器製作家バルトロメオクリストフォリが製作したピアノの原型であるクラヴィチェンバロコルピアノエフォルテに由来しこれが短縮されたものとされる。歴史的にはと呼ばれ、現代でも略称としては という表記が用いられている。現代ではイタリア語英語フランス語では “piano” と呼ばれるやアップライトピアノを意味する “” が用いられることが多い。その他ハンガリー語では “Zongora” と呼ぶ。20世紀後半以降あえてなどと呼ぶ。日本では戦前の文献では「ピヤノ」と書かれたものが見受けられる。一例として尋常小学校の国語の教科書に「月光の曲」と題されたベートーヴェンの逸話が読み物として掲載されていたことがあるがこのときの文章は「ピヤノ」表記であった。モダンピアノは主に2つのタイプに分かれる。すなわち、グランドピアノとアップライトピアノである。モダンピアノはフォルテピアノと同様にアコースティック楽器だが、それ以外にエレクトリックピアノ、デジタルピアノなども存在する。グランドピアノは地面と水平にフレームと弦を配し弦は奏者の正面方向に張られる。そのためグランドピアノはきわめて大型の楽器となり充分に共鳴の得られる天井の高い広い部屋に設置することが理想的である。グランドピアノは大きさによっていくつかに分類される。製造者やモデルによって違いはあるが大まかに言ってに分けられる。ベビーグランドはゾーマー社が1884年に特許を取得している。他の条件がすべて同じであれば、長い弦を張った長いピアノの方が響きがよく、弦のインハーモニシティが小さい。インハーモニシティとは、倍音の周波数の、基本周波数の整数倍からの遠さである。短いピアノは、弦が短く、太く、固いため、弦の両端が振動しにくい。この影響は高い倍音に顕著であるため、第2倍音は理論値よりも若干高くなり、第3倍音はもっと高くなる。このようにして、短いピアノではインハーモニシティが大きい。短いピアノではダンパーペダルを踏んだときに共鳴する弦が少ないので、音色が貧弱である。一方、コンサート・グランドでは弦長があるため短いピアノよりも自由に振動でき、倍音が理想に近くなる。一般的にはフルサイズのコンサートグランドは大型なだけでなく高価でもあるため専用ホールなどでの演奏会で用いられより小型のグランドピアノは学校の体育館講堂や教室などで用いられる。アップライトピアノはフレームや弦響板を鉛直方向に配し上下に延びるように作られている。グランドピアノよりも場所を取らないためグランドピアノを設置するスペースの取れない家庭や学校の教室小規模の演奏会場などに広く設置されている。グランドピアノでは、ハンマーが反動と重力によって自然な動きで下に落ちるのに対し、アップライトで一般的な前後に動くハンマーでは、反応のよいピアノ・アクションを製造することは難しい。これはハンマーの戻りをばねに依存せざるをえず、経年劣化するためである。またレペティションレバーという、ジャックをハンマーの下に引き戻す機構が、ほとんどのアップライトピアノには備わっていないため、連打性能に関しては決定的に劣る。エレクトリックピアノ.20世紀の中頃より音響部分を電気回路に置き換えたエレクトリックピアノが登場した。音色が独特であるためアコースティックピアノの代用品として使用されるケースは稀でありしばしば同じ楽曲作品内でアコースティックピアノとエレクトリックピアノの両方を使用し共存する楽曲も多い。発音原理はアコースティックピアノと同じく、ハンマーで音源部を叩くことで音を得ているが、音響増幅をボディ部分の反響から得ているアコースティックピアノと異なり、音源部で鳴らした音を磁気やピエゾピックアップなどで拾い、アンプで電気的に増幅してスピーカーから出力している。アコースティックピアノとエレクトリックピアノは物理的な発音構造が基本的には同じであるので、他の楽器で例えるならアコースティック・ギターとエレクトリック・ギターの関係に近い。合成音ではなく実際に物理的な音源部を振動で鳴らしているため、電源を入れずとも演奏すれば小音量ながら生音は聞こえる。音源部の素材や反響・共鳴方法はメーカーや機種によってまちまちであり、最もよく知られるエレクトリックピアノの一つであるローズ・ピアノは、各鍵盤ごとの音程を発音する金属片を弦の代わりに叩くことで原音を鳴らし、またその振動を別の金属板で共鳴させている。ヤマハの製品のようにアコースティックピアノと同じく弦を使用するものもある。当然ながら音源部が同じため弦以外の音源を使用する機種よりもアコースティックピアノに音は近くこの構造を持つCP-70やCP-80などはエレクトリックグランドピアノとも呼ばれる。また、アコースティックピアノにピックアップを搭載したエレクトリックアコースティックピアノとも呼べるハイブリッドモデルも存在するが、後述の電子ピアノにおけるハイブリッド機とは構造が異なり消音機能がある訳ではない。構造としては同じ音を電気的に出力するかしないかだけであるため、仮に消音処理を行なえばエレクトリックピアノとしての音も発音されなくなる。電源を通した場合も当然アコースティックピアノとしての生鳴りは残り、住宅事情や夜間演奏の対策になるものではない。エレクトリックピアノは発声原理がアコースティックピアノと基本的には同じか、もしくは似通っているため、電子回路で音を生成・合成するエレクトロニックピアノや、デジタルピアノといった電子ピアノ類とは明確に区別される。物理的な音源を用いずに、電子回路によって音を生成及び合成しているものは電子ピアノと呼ばれる。上位モデルではペダルや、実際のピアノの感触を再現した鍵盤、多様な音色、およびMIDI端子を備えている。とりわけ、コンサートなどで用いられることを想定した脚部分のない本体部分だけのものはステージピアノとも呼ばれる。電子ピアノの音色生成や合成方法はアナログデジタルなど様々であるが古くは1970年代にアナログシンセサイザーの技術を転用してピアノの音色再現を試みたエレクトロニックピアノが1980年代にはデジタルシンセサイザーの技術を用いたFM音源による合成やサンプリング技術を利用して打鍵にあわせて音を再生するデジタルピアノが登場した。FM音源式はローズピアノなどの音色の再現がしやすくサンプリング式は本物のエレクトリックピアノの音色をそのまま録音して収録できるためメンテナンスや搬入に難の多い本物のエレクトリックピアノが駆逐される原因ともなった。特に90年代以降アコースティックピアノやエレクトリックピアノの代用として用いられているものはサンプリングタイプが多く一般に単にデジタルピアノや電子ピアノと呼ぶ場合はこのタイプを指す。近年では通常のピアノを切り替えによって電子ピアノとしても使用できるサイレントピアノも登場している。サイレントピアノ類は前述のアコースティックピアノとエレクトリックピアノのハイブリッド機とはまったく異なり電子ピアノとして使用する場合は生音が消音されデジタル音源によるサンプリング音が出力される。電子ピアノは内部構造や発音原理がシンセサイザー類と同じであるため、ピアノの音色や打鍵感覚に重きを置いたシンセサイザーと見ることもできる。エレクトロニックピアノはアナログシンセサイザー、デジタルピアノはデジタルシンセサイザーとそれぞれ相同である。実際のところ、と銘打っていてもデジタルピアノには一般的なシンセサイザーのようにピアノ以外の多彩な音色を備えている機種が多く、そういった機種ではピアノ的な打鍵の重さや細かいコントローラ類が省かれているのを気にしないのであれば、シンセサイザーとしても使用可能である。多くのデジタルピアノでアップライトやグランドなどのアコースティックピアノ音色の他に、エレクトリックピアノの音色や、古い時代のシンセサイザーに搭載されていたピアノ音色うち、人気の高いものなども搭載されている。しかし、現在の技術水準ではアコースティックピアノの要である打弦されていない弦の共鳴による響きを完全に再現することは困難であり、物理モデル音源技術などを用いた開発が続けられている。上に分類されないピアノの形態としてはかつて長方形をしたスクエアピアノがあったが19世紀中頃から次第に姿を消し現在は製造されていない。トイピアノは19世紀に製造が始まった、元来は玩具用のピアノである。1863年、アンリ・フルノーがピアノ・ロールを用いて自動演奏する自動ピアノを開発した。自動ピアノでは紙製のパンチ・ロールを使って演奏を記録し、気圧装置を使ってこれを再生する。現代の自動ピアノとしてはヤマハのディスクラヴィーアがあり、これはソレノイドとMIDIを使用したものである。アーヴィングバーリンは1801年にエドワードライリーが開発した移調ピアノという特殊なピアノを使用した。これは鍵盤の下に備えられたレバーによって望みの調に移調できるというものであった。バーリン所蔵ピアノのうちの1台はスミソニアン博物館に収められている。20世紀現代音楽の楽器としてプリペアドピアノがある。プリペアドピアノは標準的なグランドピアノに演奏前にさまざまな物体を取り付けて音色を変えたり機構を改造したものである。プリペアドピアノのための曲の楽譜には奏者に対してゴム片や金属片を弦の間に挿入する指示が書かれていたりする。以下では基本的にモダンピアノの構造を解説する。モダンピアノの基本的な構造は、鍵盤、アクションから響板に伝わり拡大される。またペダルによって全てのダンパーがあげられていると、打弦されていない他の弦も共鳴し、ピアノ独特の響きを作り出す。鍵から手を離すとダンパーがおり、振動が止められる。フレームおよびそれを支える木製の胴体足弦アクション機構などによりピアノの重量はパイプオルガンを除くほかの楽器に比べて桁違いに重くアップライトピアノで200 kg〜300 kgグランドピアノでは300 kg以上コンサートグランドでは500 kgを超えることも珍しくない。このためごく少数のこだわりを持つ演奏家を除いてコンサートに自分のピアノを持参することはなく会場にある楽器を使う。標準的モダンピアノは黒鍵36白鍵52の計88鍵を備える(A0からC8に及ぶ7オクターヴと短3度)。この音域のものは19世紀後半頃から作られ始め第一次世界大戦後に標準となったものである。88鍵が標準的になったのはこの音域が楽音として人間が認識できる限度であるためだといわれている。鍵そのものはほとんどの場合木でできており表面にかつては白鍵は象牙を黒鍵は黒檀を貼っていることが多かったが現在では合成樹脂製つき板を使ったものが多い。また近年では象牙や黒檀の質感を人工的に再現した新素材(人工象牙人工黒檀)などが採用されたものもある。古いピアノには85鍵の楽器を作っており、この108鍵のピアノは2018年9月に初めて作られたもので、2021年現在世界一広い音域を持つピアノとなっている。また102鍵 の楽器はフランスのステファン・ポレロ社でも作られている。これらのスチュアート・アンド・サンズ社やステファン・ポレロ社などのモデルでは、拡張音域の鍵盤の見た目は他と変わらない。拡張音域は、主により豊かな共鳴を得るために追加されたもので、これらの音を使うように作曲されている楽曲は僅かである。逆に流しのピアニストたちが使う65鍵の小さなスタジオアップライトもある。ピアノと呼ばれるこのタイプのピアノは相対的に重量が軽く2人で持ち運び可能であるが響板部分はスピネットピアノやコンソールピアノよりも大きく力強い低音部の響きを有する。鍵を押し下げるとハンマーが連動して弦を叩く仕組みをアクションという。アクション機構は伝統的に木材で作られてきたが近年はごく一部のメーカーで炭素繊維を含ませたABS樹脂なども使われる。鍵を押し下げた時に、ハンマーが弦の手前 2〜3ミリメートルの位置にくると、ハンマーが鍵の動きから解放される。この動きをといい、このような機構をエスケープメントと呼ぶ。打撃による発音では発音体との接触時間を短くすることが重要な要素であるが、これを鍵盤の動きにかかわらず一定の条件で行うための仕組みであり、このエスケープメント・アクションを発明したことが今日のピアノの地位を築く出発点であった。弦とハンマーの間の距離は2〜3 ミリの範囲内のいずれでも良いわけではなく、全鍵において可能な限り揃えられる必要があり、これをレット・オフ調整という。一部のメーカでは最高音部のレット・オフを 1ミリまで近づける方が充分な音色を得られることがある。この機構のため、鍵を押し下げるときに指に感じられる重さは、押し下げきる直前で軽くなる。鍵が軽くなってから鍵が深く沈むと、鍵が重く感じられる。アクションで次に重要な課題となったのはエスケープした部品を如何に素早くハンマーの下に戻して次の打弦に備えるかであり様々な方式のアクションが発明改良されることになった。歴史的には大きく分けてウィーン式アクションとイギリス式アクションが存在した。モダンピアノのアクションは基本的にイギリス式アクションの系列である。モダンピアノでは、アップライト・ピアノはジャックのみがエスケープするシングル・エスケープメント・アクションを用いているが、グランド・ピアノはジャックとレペティションレバーがエスケープするダブル・エスケープメント・アクションを用いている。ダブルエスケープメントアクションにはレペティションレバーという部品がありこれによって素早い連打を可能としている。これは打弦後鍵を押し下げる力をわずかに緩めた瞬間にレットオフの時にジャックとともに外れていたレペティションレバーがハンマーを持ち上げて維持しジャックの戻りをたやすくする機構である。これにより鍵の深さの半分まで戻すことで次の打弦が可能になる。一方ハンマーが弦を横から叩くアップライトピアノではシングルエスケープメントアクションのために鍵が完全に戻らなければ次の打鍵はできない。ハンマーが戻るのを助けるバットスプリングと呼ばれるスプリングが付いているためにこの力によってハンマーが戻りやすくなっているようにとらえられがちであるがスプリングを外しても連打の性能には大きな変化はない。正しくアクション調整が行われたグランドピアノのアクションでは毎秒14回程度のアップライトピアノでは7回程度の連打が可能である。レペティションレバーの有無という構造の違いがグランドピアノとアップライトピアノのタッチ表現力の差に大きく影響を及ぼしている。グランドピアノのダブルエスケープメントアクションはシュワンダー式アクションが主流だったが1970年代以降スタインウェイ式アクションを採用するメーカが多くなった。アクションにおいてハンマーとともに重要なのがダンパーと呼ばれる消音装置である。打鍵時以外はこれが弦に密着しその振動を常に抑えている。鍵を叩くとハンマーがハンマーと弦の間の1/3 ないし 1/2 進んだときにこのダンパーが弦から離れ始めるように調整される。これにより弦の自由な振動を可能とする。鍵を抑えている間中ダンパーは離れているが鍵を離すと同時にダンパーが弦に戻り弦の振動を止め音が消える。ただしピアノの最高音部は弦の鳴る時間が短いためダンパーを備えない。弦に直接触れるハンマーヘッドは一時樹脂製のものが用いられたこともあったが今ではほぼ例外なく羊毛のフェルトでできている。ハンマーヘッドは長時間演奏されれば変形するが音色に大きく影響するものなので音程の調律ほど頻繁ではないが定期的に調整することが必要となる。具体的には調律師など専門の技術者がと呼ばれる表面にサンドペーパーを行う。技術が進歩した近年では、電気ピアノのように同じような発音原理を持ちながら電気的に増幅するものや、電子的に発音するピアノに類する楽器も登場している。ピアノは鍵盤と同じ数弦の総数は200本を超える。各音の弦は複数弦でも単一のハンマーで同時に叩かれるがグランドピアノの弱音ペダルを踏むとハンマーを含めた鍵盤の機構すべてが物理的に横方向にずれ中音域以上では叩かれる弦の数が3本から2本に減り低音域では2本の場合はそのうち片方の弦のみが1本の場合もその弦の端の方のみがハンマーで叩かれるので音量が低下する。弦はミュージックワイヤーと呼ばれる特殊な鋼線で、低音域では質量を増すために銅線を巻きつけてある。音域ごとの弦の仕様に関しては、具体的には次のようなものがある。弦長は一般に長いほうが豊かな音色になるが使われるようになってからである。現在のピアノではオーバー・ストリンギングのために、音が濁るという欠点が存在する。ドイツのDavid Klavinsは、この問題を解決するために1987年にKlavins Piano Model 370を発表した。このピアノは弦を平行に配置するために高さは3.7m、総重量20トン以上にも上る巨大なもので、共鳴板はグランドピアノの二倍以上あり、階段の上にアップライト型の鍵盤が配置されている。Model 370は2012年現在も世界最大のピアノである。ちなみにこの楽器はオルガン同様据え付けとなっているためコンサートなどには使用できず、ほとんど映画などの音源収録のみに使われている。2012年には、Native InstrumentsからModel 370から収録したKONTAKT 5用のソフト音源が発売されている。響板響棒は弦の下に位置しブリッジを通じて伝えられた弦の振動を空気に効率良く伝える。響板は柾目に木取りされておりその方向はブリッジの長さ方向に一致させるのが一般的である。響棒は響板のブリッジに対して反対面に位置しやはり柾目に木取りされている。響棒は響板木目方向に対してつまりブリッジの長さ方向に対しても交差する方向に配置される。響板を支える骨組みの役目を果たすが響板響棒材を伝わる音は木目方向と木目横断方向ではおよそ41となるために響板の柾目横断方向への振動の伝播を助け響板全体に振動が均質に伝わるように工夫されてもいる。グランドピアノでは弦を覆う上蓋がついており、これを持ち上げることによってより豊かな音量を出すことが出来る。これは支え棒によって斜め約45度に固定される。これにより音が指向性を帯びる。演奏者から見て右側が開くため、演奏会場では客席に向かって音を発するように、客席から向かって左側に鍵盤が置かれる。大屋根を半開にすることもでき、伴奏ではこの状態が好まれる。アップライトピアノも上部の蓋を開けることができこれによって若干の音量調節は可能になるもののグランドピアノほど効果的ではない。むしろほこりが入るので開ける事はあまり好まれない。21世紀現在の一般モダンピアノは、3本のペダルを備える。20世紀以前は2本のペダルのメーカーも存在した。第1のペダルは一番右の長音ペダルでありダンパーペダルと呼ばれる。このペダルを踏むとすべてのダンパーが離れ打鍵した音が延びる。また演奏した弦だけでなくそれらの部分音成分に近い振動数を持つ弦が共鳴することでペダルを踏まずに鍵を押下したまま音を延ばした場合よりも音が豊かに聴こえる。ペダルを放すとダンパーが戻り延びていた音は止まる。またペダルの踏み込み具合を半分などに調節することで音の延び具合を調節することも出来これをハーフペダルと呼ぶ。さらに熟練した奏者はこのハーフペダルと完全に踏み込んだ状態とを往復する操作によって延び具合を周期的に変化させヴィブラートに似た演奏効果を得ることも可能である。武満徹のではトランペット奏者がピアノの内部に向かってトランペットを吹きその共鳴を聞き取る場面がある。第2のペダルは一番左の弱音ペダルでありソフトペダルもしくはシフトペダルと呼ばれる。グランドピアノではこのペダルを踏むと鍵盤全体がフレームに対して少し右にずれ中高音域ではハンマーが叩く弦の本数低音域では弦に当たるハンマーの部位が中央から端に変わり音量が減少するされ自由運動で打弦するがきわめて弱い音を速いテンポで繰り返す場合にはハンマーが弦を打たないミスタッチとなる。そこでソフトペダルを使用して打弦距離を幾らか短くすることで弱く弾いた場合でもミスタッチを起こしにくくする効果がある。つまりアップライトピアノのソフトペダルは他のペダルのようにペダルを踏むことによって何かしらの効果を得るものではなく演奏の補助的な役割を果たすペダルといえる。第3のペダルは中央のペダルである。かつてはエラールなど多くのメーカーによって省略されていた。グランドピアノではソステヌートペダルと呼ばれこのペダルを踏んだ時点で押していた鍵のダンパーが鍵から手を放してもペダルを踏んでいる間は弦に降りないようになっている。主に低音の弦を延ばしたまま高音部を両手でスタッカートで弾いたりあるいは高音部のみダンパーペダルを複数回踏み変える奏法に際して用いられる。前者はシェーンベルクの「3つのピアノ曲」(作曲者自身はこの指定をしていないがピアニストによってこの奏法を採るものが多い)サミュエルバーバーの『ピアノソナタ』終楽章のフーガなど後者はドビュッシーのピアノ曲集「映像」第2曲「ラモーを讃えて」や武満徹の「閉じた眼」「雨の樹素描」などの作品で効果的に使われる。また低音の鍵を無音で押さえたままソステヌートペダルを踏んで「鍵を押しっぱなし」と同じ状態にし高音部の鍵をダンパーペダルなしで(多くの場合スタッカートで)弾く事により低音で押された音の部分音の振動数に対応する音が部分音の共鳴によって若干の残響を伴って聞こえる。多くの現代音楽で使われている奏法である。アップライトピアノの中央のペダルは、��フラーペダルとも呼ばれ、夜間練習などのために、弦とハンマーの間にフェルトを挟んで、音を弱くする。踏み込んだペダルを左右いずれかにずらすことでロックされ、踏みっぱなしにしておくことができる。もともとのこのペダル効果はハンマークラヴィーアなどでハンマーと弦の間に薄い皮や羊皮紙などを挟み音色の変化を愉しんだことによる。歴史的楽器では4つないし5つのペダルを持つものもありこのうちのいくつかはシンバルや太鼓といった打楽器に連動されていた。シューベルトの一部の作品ではこれらの打楽器に連動するペダル構造を用いた曲もある。現代でもファツィオリ社のグランドピアノでは第4のペダルを備えるものがある。このペダルを踏むことにより鍵盤の前面が下がり鍵盤の沈む深さが浅くなる。現代のピアノが沈む深さは平均して約1cmであるがモーツァルトが活躍した時代の鍵盤が沈む深さは約6mmであり操作は現代よりも遥かに軽やかであった。この時代のような鍵盤の軽やかさを現代のピアノに持たせるために第4のペダルが備えられたものである。現在第5ペダルと呼べるはどのメーカーのグランドピアノにも接続することができる。すでに新製品に組み込んだメーカーも出現している。近年はアップライトピアノであってもグランドピアノと同等のペダル能力を持つピアノが出現している。またオルガンと同様に足鍵盤を備えた楽器(ペダルピアノ)も存在した。シューマンシャルル=ヴァランタンアルカンらにペダルピアノのための作品がいくつかある。ロベルトプロッセダが現代テクノロジーを用いて復刻された楽器を用いているほかメーカーが市販した例がある。各弦の張力を調整する調律は、今日のほとんどのピアノが十二平均律で調律される。他の弦楽器に比べて張力が大きく、またピンの保持力も高いため音程の精度はかなり高く誤差は1セント。また、ジェラール・グリゼーの後期作品は、ピアノの特定の数音を四分音下げて調律することが要求される。調律の狂ったような音に聴こえるが、これは合成された倍音に基づく調律である。特に激しい跳躍のある第1部のカデンツァにおいて効果的に響く。いずれの場合もコンサートに用いる際はピアノ調律師の特殊な技能が要求され、また日本のコンサートホールではこのような特殊調律を断られる場合があるので、それでもあえて演奏する場合にはピアノのレンタルが必要になる。19世紀にはヴィルトゥオーゾのピアニストらにより、リストの半音階、3本の手などの技巧が開発された。クラスター奏法とは、ヘンリー・カウエルらによって提唱されたもので、鍵盤を手・腕・ひじを使って打楽器のように演奏する。トーン・クラスターも参照のこと。内部奏法とは、ピアノを鍵盤によってではなく、内部の弦をギターのプレクトラムなどで直接はじいたり、弦の縁や真ん中を指で押さえながら対応する鍵盤を弾いたり、松脂を塗ったガラス繊維あるいは弦楽器の弓の毛を、ピアノ内部の特定の弦に通して擦弦したりすることにより、本来のピアノにはない音色を得るための奏法。ピアノの作音楽器に劣後する特性を何とか克服しようとするものである。現代音楽では当たり前のように多用されるが日本の多くのコンサートホールは新しい楽器1台しか用意してないことが多く楽器が傷むという理由からこの内部奏法を非常に嫌悪し禁止している。それに対して外国とくにヨーロッパでは古い楽器や破壊用の楽器も万遍無く用意してあることが多いのでこのような規制はほとんど見受けられない。とはいえ楽器に傷をつけやすい金属製器具での演奏は控えたり指の汗が弦につくことを考慮し演奏後にはサビ防止のためにきちんと布でふき取るなどの配慮は必要である。ピアノは1人だけでなく2人以上が一台の楽器を同時に演奏することも可能である。これを連弾という。19世紀のヨーロッパではサロンの愛好家やアマチュアの子女のたしなみとして連弾のための音楽がもてはやされた。ヨハネスブラームスはこのような状況を受けてを書くことを勧めた。どちらも連弾のレパートリーとして欠かせない楽曲でありまたオーケストラ編曲としても親しまれている。カミーユ・サン=サーンスの「交響曲���3番『オルガン付き』」では、第4楽章においてオーケストラ内のピアノが連弾で用いられる(しかし主役はオルガンであり、そちらの方がずっと目立つ)。また一般的な2人で演奏して高音部と低音部を弾き分ける4手連弾のほかに、3人で演奏する6手連弾もラフマニノフなどの楽曲に作例が見られる。ピアノを2台並べて演奏する方法。連弾よりも音量において勝り、また奏者が2人とも音域に制限されずに演奏できる利点がある。その反面、音が混ざり易く、雑多に聞こえ易いという短所もある。2台のピアノは1台ずつそれぞれに調律するのだが、インハーモニシティはそれぞれのピアノに固有のものなので、調律は他のピアノとは完全には一致しない。そのため、微妙なずれによって賑やかな音になる。多くの場合は2台のピアノを向かい合わせに置くため双方のピアノは反響板が互いに反対方向に開いてしまう。このため大抵の場合は聴衆とは逆に開くピアノ側の反響板を取り外して演奏する。2台ピアノのために書かれたオリジナル曲のほか、オーケストラ曲やピアノ協奏曲を試演する際にも用いられる。この試演とは、主に19世紀において限られた音楽関係者の聴衆を前にオーケストラ曲の新作を披露する際、または現在においても音楽学校などでピアノ科の生徒が協奏曲を試験などに際して弾く際に用いられる演奏手段である。2台目のピアノを連弾にし、合計3人の奏者が演奏する場合もある。ダリウス・ミヨーとスティーヴ・ライヒの作品には、それぞれ6台のピアノを同時演奏するものがある。また1993年から毎年開催されているヴェルビエ音楽祭で2003年の10周年記念として行われたガラコンサートでは著名なピアニスト8名がスタインウェイのピアノ8台をの字に並べ同時演奏した。弦を叩くことで発音する鍵盤楽器を作ろうという試みは早くより存在しており、中でも鍵盤付きのダルシマー系の楽器をピアノの先祖とみる向きもあるが、一般的には、現在のピアノはトスカーナ大公子フェルディナンド・デ・メディチの楽器管理人であったイタリア・パドヴァ出身のバルトロメオ・クリストフォリが発明したとみなされている。クリストフォリがいつ最初にピアノを製作したのかは明らかでないが、メディチ家の目録から、1700年にはピアノがすでに存在していたことが知られる。現存する3台のクリストフォリ製作のピアノは、いずれも1720年代に製作されたものである。多くの発明がそうであるように、ピアノもそれまでにあった技術の上に成立している。ピアノに先行する弦を張った鍵盤楽器としてはクラヴィコードとチェンバロが特に普及していた。クラヴィコードは弦をタンジェントと呼ばれる金属片で突き上げるもので、鍵盤で音の強弱のニュアンスを細かくコントロールできる当時唯一の鍵盤楽器であったが、音量が得られず、狭い室内での演奏を除き、ある程度以上の広さの空間で演奏するには耐えなかった。一方のチェンバロは弦を羽軸製のプレクトラムで弾くものであり、十分な音量が得られたものの、ストップの切り替えで何段階かの強弱を出せる他は自由に強弱をつけて演奏することは困難であった。これらの鍵盤楽器は数世紀にわたる歴史を通じて、ケース、響板、ブリッジ、鍵盤のもっとも効果的な設計が追求されていた。クリストフォリ自身、すぐれたチェンバロ製作家であったため、この技術体系に熟練していた。クリストフォリの重要な功績は、ハンマーが弦を叩くが、その後弦と接触し続けない、というピアノの基本機構を独自に開発した点にある。クラヴィコードでは鍵を押している限りタンジェントが弦に触り続けるが、ハンマーが弦に触れ続ければ響きを止めてしまう。更に、ハンマーは激しく弾むことなく元の位置に戻らなければならず、同音の連打にも堪えなければならない。クリストフォリのピアノアクションは、後代のさまざまな方式のアクションの原型となった。クリストフォリのピアノは細い弦を用いており、モダンピアノより音量はずっと小さいが、クラヴィコードと比較するとその音量は相当に大きく、響きの持続性も高かった。クリストフォリの新しい楽器は、1711年にイタリアの文筆家がピアノを称賛する記事をヴェネツィアの新聞に掲載するまでは、あまり広く知られていなかった。この記事には構造の図解も掲載されており、広く流通して、次世代のピアノ製作家たちにピアノ製作のきっかけを与えることとなった。オルガン製作家としてよく知られるゴットフリート・ジルバーマンもその一人である。ジルバーマンのピアノは、1点の追加を除いては、ほぼクリストフォリ・ピアノの直接のコピーであった。ジルバーマンが開発したのは、全ての弦のダンパーを一度に取り外す、現代のダンパー・ペダルの原型であった。ジルバーマンは彼の初期製作楽器の1台を1730年代にヨハン・ゼバスティアン・バッハに見せているが、バッハはダイナミックレンジを充分に得るためには高音部が弱すぎると指摘した。その後、ジルバーマンの楽器は改良を加え、1747年5月7日にフリードリヒ大王の宮廷を訪ねた際にジルバーマンの新しい楽器に触れた際にはバッハもこれを評価し、ジルバーマン・ピアノの売り込みにも協力したという。ピアノ製作は18世紀後半にウィーンを中心に盛んとなり、ドイツ・アウクスブルクのヨハン・アンドレアス・シュタイン、その娘でウィーンのナネッテ・シュトライヒャー、同じくウィーンのアントン・ワルターなどが活躍した。ウィーン式のピアノは、木のフレームに1音2弦の弦を張り、革で覆ったハンマーをもつ。また現代のピアノとは黒鍵と白鍵の色が逆のものもある。ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトがそのピアノ協奏曲やピアノソナタを作曲したのは、こういった楽器によってであった。J. S. バッハの末子、ヨハン・クリスティアン・バッハはロンドンに在住中、演奏旅行で訪ねて来た少年時代のモーツァルトを膝の上に乗せて、ピアノを連弾したという。モーツァルトの時代のピアノは、イギリス式のピアノや、現代の一般的なピアノよりも軽快な響きを持ち、減衰が早かった。20世紀後半より当時の楽器の復元がなされ、19世紀初頭以前の初期ピアノはフォルテピアノとしてモダンピアノと区別することも多い。1790年から1860年頃にかけての時期に、ピアノはモーツァルトの時代の楽器から、いわゆるモダンピアノに至る劇的な変化を遂げる。この革新は、作曲家や演奏家からのより力強く、持続性の高い響きの尽きぬ要求への反応であり、また、高品質の弦を用いることができ、正確な鋳造技術により鉄製フレームを作ることができるようになるといった、同時代の産業革命によって可能となったことであった。時代を追って、ピアノの音域も拡大し、モーツァルトの時代には5オクターヴであったものが、モダンピアノでは7オクターヴか時にはそれ以上の音域を持っている。初期の技術革新の多くは、イギリスのブロードウッド社の工房でなされた。ブロードウッド社は、華やかで力強い響きのチェンバロですでに有名であったが、開発を重ねて次第に大型で、音量が大きく、より頑丈な楽器を製作し、初めて5オクターヴを越える音域のピアノを製作した。1790年代には5オクターヴと5度、1810年には6オクターヴの楽器を作っている。フランツ・ヨーゼフ・ハイドンとルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンにも楽器を送っており、ベートーヴェンはその後期の作品で、拡大した音域を利用して作曲している。ウィーンスクールの製作家たちもこの音域拡大の流れを追ったが、イギリスとウィーンではアクションの構造が違っていた。ブロードウッドのものはより頑丈で、ウィーンのものはより打鍵への反応がよかった。1820年代になると、開発の中心はパリに移り、当地のエラール社の楽器はフレデリック・ショパンやフランツ・リストの愛用するところとなった。1821年、セバスチャン・エラールは、ダブル・エスケープメント・アクションを開発し、鍵が上がり切っていないところから連打できるようになる。この発明によって、素早いパッセージの演奏が容易となった。ダブル・エスケープメント・アクションの機構が公に明らかになると、アンリ・エルツの改良を経て、グランドピアノの標準的なアクションとなり、今日生産されているグランドピアノは基本的にこのアクションを採用している。日本にフィリップフランツフォンシーボルトによって初めてピアノがもたらされたのもこの時期である。山口県萩市の熊谷美術館には1823年にシーボルトより贈られた日本最古のピアノ(スクエアピアノ)が現存する。モダンピアノの響きを作り出した大きな技術革新の一つに、頑丈な鉄製フレームの導入があげられる。鉄製フレームはとも呼ばれ、響板の上に設置し、弦の張力を支える。フレームが次第に一体化した構造を獲得するのにあわせて、より太く、張力が高い弦を張ることが可能になり、また張る弦の本数を増やすことも可能となった。現代のモダンピアノでは弦の張力の総計は20トンにも上りうる。単一部品の鋳物フレームは、1825年にボストンにてオルフェウス・バブコックによって特許が取得されている。これは、金属製ヒッチピン・プレートを組み合わせたものであった。バブコックは後にチッカリング・アンド・マッカイ社で働き、チッカリング社は1843年にグランドピアノ用のフル・アイロン・フレームを初めて特許取得した。ヨーロッパの工房はその後も組合わせフレームを好むことが多く、アメリカ式の単一フレームが標準となるのは20世紀初頭である。その他の代表的発明として革の代わりにフェルトをハンマーヘッドに用いることがあげられる。フェルトハンマーは1826年にジャン=アンリパップによって初めて導入された。素材がより均質である上にハンマーが重くなり弦の張力が増すとともにより大きなダイナミックレンジを得ることを可能とした。音色の幅を広げるソステヌートペダルは1844年にジャンルイボワスローによって発明され1874年にスタインウェイ社によって改良された。この時代の重要な技術的発明としてはほかに、弦の張り方もあげられる。低音部を除いて、1音2弦ではなく3弦が張られ、と呼ばれる、2つの高さのブリッジを用い、張る向きの変えて弦の並びを重ねる張り方が導入された。このことにより、ケースを長くすることなく、より大きな弦を張ることが可能になった。オーバー・ストリンギングは1820年代にジャン=アンリ・パップによって発明され、アメリカ合衆国におけるグランドピアノでの使用の特許は1859年にヘンリー・スタインウェイによって取得された。テオドール・スタインウェイが1872年に特許を取得した、デュープレックス ・スケールは、同じく1872年にブリュートナー社で開発されたほか、コラード社は、よりはっきりとした振動を使って響きを調える技術を1821年に開発している。初期のピアノの中には、一般に見慣れない外形や設計を用いているものもある。スクエア・ピアノは地面と水平に弦を張ったケースが長方形の楽器で、ハンマーの上に対角線状に弦を張り、ケースの長辺側に鍵盤が設置されている。スクエア・ピアノの設計の原型はさまざまにジルバーマンおよびクリスチャン・エルンスト・フレデリチに帰されており、ギュイヨーム=レブレヒト・ペツォルトとオルフェウス・バブコックによって改良された。18世紀後半にはツンペによりイギリスで人気を博し、1890年代には、アメリカ合衆国にてスタインウェイの鋳物フレーム、オーバー・ストリンギング・スクエア・ピアノが大量生産され、人気を博した。スタインウェイのスクエアは、木製フレームのツンペの楽器に較べて2.5倍以上大きかった。スクエア・ピアノは、製作コストが低く、安価なために大人気であったが、簡単な構造のアクションと、弦の間隔が狭いために、演奏のしやすさや響きの点からは難があった。アップライト・ピアノは弦を垂直方向に張った楽器で、響板とブリッジを鍵盤に対して垂直に設置する。開発初期のアップライト・ピアノでは、響板や弦は鍵盤よりも上に設置し、弦が床に届かないようにしている。この原理を応用し、鍵盤の上方に斜めに弦を張るジラフ・ピアノやピラミッド・ピアノ、リラ・ピアノは、造形的に目を引くケースを用いていた。非常に背の高いキャビネット・ピアノは、サウスウェルによって1806年に開発され、1840年代まで生産されていた。鍵盤の後にブリッジと連続的なフレームが設置され、弦はその上に垂直に張られ、床近くまで延び、巨大なを用いて必要な鍵盤の高さを確保している。日本では1900年に日本楽器製造株式会社が木目のピアノはデザインの都合上木目を合わせる必要があり木材の選定に限界があった。ピアノを漆黒の一色で塗装することは木材の選定に限界がなくなり最良の木材を利用することが出来るばかりか製造における労力が減るため大音量の楽器を大量生産することが可能になる。昭和40年代以降には耐久性に優れる不飽和ポリエステル樹脂とアニリンブラックを用いた鏡面仕上げ塗装が行われるようになった。1965年には日本の住宅事情に合わせてアップライトピアノにおける音量を大幅に低下させるマフラーペダルがヤマハにより開発された。 +医学の構造や機能、疾病について研究し、疾病を診断・治療・予防する方法を開発する学問である。医学は、病気の予防および治療によって健康を維持、および回復するために発展した様々な医療を包含する。仏教圏において、という言葉が用いられるようになったのである。また、「医学のひとつ、とする説もある。まず世界全体の医学を概観すると世界各国には様々な医学があり例えば中国伝統医学イスラーム医学西洋医学 等々がある。ギリシャ医学、ユナニ医学、チベット医学など、歴史が長い医学を、まとめて伝統医学と呼ぶことがある。なおこれらの伝統医学は各地で現在でも用いられており、現役の医学である。エジプトのパピルスの中にと記述されており、現代と変わらない診療手順を行ったことが明らかになっている。医学は歴史をふりかえると経験医療とされた。として機能や社会的な面についても見落とさないようにする立場に変わりつつある。現在日本でと呼ばれるものは、おおむね伝統中国医学に相当している西洋医学とは異なる理論・治療体系をもつ医学である。と言う以上、きちんとした論理の上に成立している。そしてそれは、日本人が持つ生命観や自然観に近いものである。中国伝統医学は民間療法とは区別されている。東洋医学は、民間療法とは異なった考え方に基づいて運用されている。一例として生姜の使い方を見るとどちらも風邪の時に使うことはあるものの民間療法では風邪の時に何の考えもなしにそれを機械的に与えるのに対し中国伝統医学では寒気が強い時のみに使用され反対に熱感が強い時には使用しないのである。なぜなら中国伝統医学では生姜は体を温める作用があると考えているからである。日本でも古代よりは巫女、陰陽師、僧侶によって中国から伝えられた呪術、医療が行われていた。室町時代以降は中国大陸との交易も盛んとなり、漢方が積極的に伝わっていった。江戸時代以降は、日本は独自の漢方医学を発展させ、薬学である本草学を中心に診療が行われていった。華岡青洲によって記録上世界最初となる麻酔による乳癌手術が行われたりした。また、幕末には国学の影響を受けて漢方伝来以前の医学を探求する動きも現れた。現在は中華人民共和国に中医学、朝鮮民主主義人民共和国では東医学、大韓民国では韓医学として実践されている。ヨーロッパ世界においてはの起源は古代ギリシアのヒポクラテスとされている。ヒポクラテスは学問としての医学を確立しその後古代ローマのガレノスがアリストテレスなどの自然学を踏まえそれまでの医療知識をまとめ古代医学を大成した。しかしこうした医学書の多くはギリシア語で書かれていたためローマ帝国の崩壊とともにヨーロッパではその知識の多くが失われ断片的なものが残るに過ぎなくなっていた。一方医学知識はローマの継承国家でありギリシア語圏である東ローマ帝国において保持され8世紀以降アッバース朝統治下においてヒポクラテスやガレノスをはじめとする医学文献がアラビア語に翻訳された。イスラム世界においてもガレノスは医学の権威とされその理論を基礎とするイスラム医学が発達した。11世紀初頭にはイブンスィーナーがを著わしたようにこの時期イスラム世界では百科全書的医学書が多く編まれイスラムおよびヨーロッパ世界に大きな影響を与えた。これらのアラビア語文献は12世紀に入るとシチリア王国の首都パレルモやカスティーリャ王国のトレドといったイスラム文化圏と接するキリスト教都市においてラテン語へと翻訳されるようになった。これによってヒポクラテスや特にガレノスの著作が西欧に再導入され権威とされたほかイブンスィーナーなどの新たな文献も流入した。ヨーロッパ中世においては内科学のみが医学とされ外科学の地位は低かった。外科医療は理容師を著わしガレノスの誤りを修正した。またパラケルススは医学への化学の導入を試み医化学を確立した。18世紀前半にはヘルマンブールハーフェが近代的な臨床の方法論を確立した。またこの時期ジョバンニモルガーニが医学と解剖学を結びつけ病理解剖の創始者となった。1796年にはエドワードジェンナーが種痘を成功させた。19世紀に入ると自然科学の発展に伴い医学も急速な発展を遂げた。特に19世紀後半にはロベルトコッホとルイパスツールによって細菌学が創始され人工的な弱毒化によるワクチンの生産や多くの病原菌の発見が起きさらにこれに関連して衛生学も進歩を遂げた。日本では安土桃山時代にキリスト教の伝来に伴ってわずかに西洋医学の流入があったとされるが、本格的な流入は江戸時代中期の1774年、オランダ語の解剖学書である『ターヘル・アナトミア』が杉田玄白や前野良沢らによって翻訳され、『解体新書』として出版されてからのことである。解体新書の出版は日本の医学界に衝撃を与え、以後医学を中心に蘭学が隆盛するきっかけとなった。通常医療と代替医療の状況.近年、伝統中国医学の本場であった中国では西洋医学の医師が増加中で現代西洋医学の利用される割合が増加しつつある。反対にアメリカ合衆国やヨーロッパ諸国では西洋医学の様々な問題点が取り沙汰され伝統医学などの代替医療のほうが高く評価され利用率が増えておりアメリカ合衆国では代替医療の利用率が西洋医学のそれを超えた。無保険者だけでなく富裕層の利用も増えている。日本では西洋的な思考様式に基づく医学をと呼ぶようなことも行われるようになったという。明治政府の方針により西洋医学が主流の医学と位置づけられるようになり東洋医学を行う医師も西洋医学を学ぶことになった。それ以来日本では西洋医学の利用者数が多くなったが現在でももっぱら東洋医学のほうを好み愛用する人々もおり両者は並存してきた。研究や教育のための知識体系としての医学は次のように分類されている。大学医学部の組織においても研究教育のための人員の配置がこの分類に沿って行われる場合が多い。最近は名称が多様化しているが実質は下記の分類とさほど変わりがない場合が多い。人体の構造機能疾患とその原因など医学研究の根拠となる知見を得るための学問分野である。これらの科目は医学部薬学部等医療系学部以外に一部の大学では理学部や理工学部等の生物学科でも開講している。診断や治療などに直接関連する応用的な研究分野である。社会医学とは社会的な環境と健康について研究する医学領域。医学に関連する分野には以下のようなものがある。歯学 - 薬学 - 看護学 - 心理学 - 健康心理学 - 臨床心理学 - 生体機能代行装置学 - 作業療法学 - 理学療法学 - 性科学 - 抗老化医学 - 熱帯医学 - 医用生体工学 - 医療機器 - 医学教育 - 医学史- 生命倫理学 - 医療人類学 - 病跡学 - 医療社会学 - 医療経済学 - 宇宙医学 - 臨床情報工学 - 柔道整復学 +FAQとはよくある(あるいはあると想定される)質問とその回答とを集めたもののことである。FAQの語は英語のFrequently Asked Questionsの略語で、となっていることが多い。主にコンピュータと呼ぶことが多い。といった状況が発生した結果、同じような質問が度々尋ねられることから、その都度答えを繰り返す代わりに、一連のQ&A集を参照するように促すことで、問い合わせに対する時間と手間を省くことを目的としたものである。通常、ウェブサイトやニュースグループなどで、よくある質問が、それに対する答えと共にひとつのファイルにまとめられ、定期的に配布されたり、自由に参照できるように公開されるという形をとる。元々はユーズネットニュースグループで始まったものだとされる。パブリックドメインとは、著作物や発明などの知的創作物について、知的財産権が発生していない状態または消滅した状態のことをいう。日本語訳として公有という語が使われることがある。パブリックドメインに帰した知的創作物については、その知的財���権を行使しうる者が存在しないことになるため、知的財産権の侵害を根拠として利用の差止めや損害賠償請求などを求められることはないことになる。その結果、知的創作物を誰でも自由に利用できると説かれることが多い。しかし、知的財産権を侵害しなくても、利用が所有権や人格権などの侵害を伴う場合は、その限りにおいて自由に利用できるわけではない。また、ある種の知的財産権が消滅したとしても、別の知的財産権が消滅しているとは限らない場合もある。また、各法域により法の内容が異なるため、一つの法域で権利が消滅しても、別の法域で権利が消滅しているとは限らない。したがって、特定の知的創作物がパブリックドメインであると言われる場合は、どの法域でどのような権利が不発生あるいは消滅したのかを、具体的に検討する必要がある。知的財産権の不発生または消滅の原因.そもそも創作性を欠くなどの理由により保護すべき知的創作物にならない場合(例えば著作権の場合は思想または感情の創作的表現でなければ著作物にならないので単なるアイデアにとどまる場合や境界線や海岸線などの記載しかない地図のように想定される表現が限られるようなものはそもそも創作性を欠くので知的財産権が発生するか否かという問題自体が生じないしライセンス付与も本来ありえない)もあるが著作物や発明の要件を満たしていながら知的財産権が発生しない場合または発生した権利が消滅する場合としては以下のようなものがある。権利が発生しない場合.権利取得に必要な手続方式の不履行.例えば特許権の取得において審査主義を採用している国においては発明を完成させたとしてもその発明の産業上利用可能性新規性進歩性といった特許要件について公的機関による審査を経なければ特許権を取得できない。また、著作権の取得について方式主義を採用している国(ベルヌ条約加盟前のアメリカ合衆国など)においては、著作物を創作したとしても、必要な方式(著作権の表示、登録など)を履行しなければ、著作権は発生しない。なお、日本の著作権法は無方式主義を採用しているので、何らの方式をも採らず著作権を取得できる。その他、法が権利付与を否定する場合.「著作物」、「発明」など、知的財産権の客体としての要件は満たすが、主に政策的な理由によって、法が権利の付与を否定している場合がある。例えば、国や地方公共団体が創作した著作物を、著作権の対象としない法制が多数みられる。例えば日本では、憲法その他の法令、国や地方公共団体が発する通達、裁判所の判決などは、著作権や著作者人格権の対象にならない。また、イタリアでは、イタリア及び外国または官公庁の公文書には著作権法の規定を適用しない旨の規定がある。その他、アメリカ合衆国の著作権法では、連邦政府の職員が職務上作成した著作物は、著作権の対象とならない。もっとも、連邦政府の職員ではない者の著作権を連邦政府が譲り受けた場合は連邦政府による著作権の保有を否定されないし、州政府の職員が職務上作成した著作物に対しては、法は著作権の付与を否定していない。また、外国人による権利の享有を認めない法制が存在する場合、当該外国人による創作物は。もっとも、パリ条約などにおいて、内国民待遇の原則が採られているため、これらの条約の加盟国間においては、外国人であるというだけの理由により知的財産権の享有が否定されることはない。つまり、これらの条約に加盟していない国との関係で問題になるに過ぎない。知的創作物を対象とする独占排他権は、法定の存続期間満了により消滅する。例えば、特許権は特許出願の日から20年をもって消滅し、著作権は著作者の死後50年または70年をもって消滅するものと規定する国が多い。創作活動は先人の成果の上に成り立っていることは否定できないため、創作後一定の期間が経過した場合は恩恵を受けた社会の発展のために公有の状態に置くべきとの価値判断によるものである。相続人なく知的財産権の権利者が死亡した場合において相続財産の清算のために相続財産管理人によって著作権が譲渡されなかった場合あるいは権利者である法人が解散した場合において��の著作権を帰属させるべき者が存在しない場合。民法などの原則をそのまま適用すれば、知的財産権はいずれの場合も国庫に帰属するはずである。しかし、著作権法など知的財産に関する法律では、知的所産であり広く国民一般に利用させるのが適切として、特別規定を置き権利を消滅させることとしている。相続人不存在の場合特許権などは相続人の捜索の公告の期間内に権利主張をする者が表れなかった場合に権利が消滅するのに対しという差異がある。原則として権利(ただし財産権)を放棄することは自由なので、権利者により権利が放棄されれば法による保護を認める必要性は消滅する。日本においては産業財産権法では産業財産権の放棄を認める規定が存在する立法担当者からは著作権放棄の効力を発生させるためには著作権者による新聞広告その他への明示的な放棄の意思表示が必要であると説明されている。しかしこのような説明に対してはそのような厳しい要件を課する理由が存在せず要は証明の問題に過ぎないとの批判もある。仮に権利者の意図に反して著作権放棄の効果が生じないと評価された場合その後著作権が消滅したことを信頼した者に対して著作権を行使することは権利濫用または信義誠実の原則に反し認められない場合もある。もっとも権利を放棄することにより他者の権利を害することはできないと解されているためそのような場合には権利放棄は認められない。例えば著作権者から著作物の独占的利用許諾を得ている者が存在する場合は著作権の放棄によって誰でも著作物を利用できることになるとすると被許諾者の財産的利益を損なう結果となるため放棄はできないと解される。特許権の専用実施権が設定されているような場合も同様である。なおある法域で成立した知的財産権の効力は当該法域でしか及ばないためは法域ごとに可能である。したがってある法域で知的財産権が放棄され知的財産権が消滅しても他の法域において消滅しているとは言い切れず専ら放棄当時の著作権者の意思に基づき判断せざるを得ないし同じ対象につき法域により権利者が異なる場合は放棄の効力は当然に他の法域に及ぶわけではない。以上、財産権としての知的財産権は放棄可能であるのが原則であるが、ドイツ著作権法の下では著作権の放棄はできないものと理解されている。ドイツにおける という概念(著作権と訳されることが多いが、実際には日本法の著作者の権利に相当する)は、財産的権利と人格的権利が一体をなす概念として理解されており、そのような権利を他人に譲渡することはできないためである(ドイツ著作権法29条1項)。そのため、著作権が放棄された場合は、不特定多数の者に対して著作物の利用権を設定した状態と理解されることになる。著作権法に特有の問題.著作者人格権との関係.財産権としての著作権のほか、ベルヌ条約や多くの国の著作権法により人格権としての著作者人格権が保護されている。そのため、著作物についてパブリックドメインと言えるためには著作者人格権が消滅していることも必要ではないかとの議論をする者もいる。アメリカ合衆国の著作権法には、一定の範囲の視覚芸術著作物を除き著作者人格権を保護する旨の規定が存在しない。これに対し、他の国ではベルヌ条約の要請もあり著作権とは別に著作者人格権の制度を著作権法に取り込んでいる。著作者人格権についてはその放棄を認めている国もあるが、日本においては、反対説もあるものの放棄はできないと伝統的に解されている(人格にかかわる権利であるため)。そのため、日本においては著作権を放棄しただけでは著作物は厳密にはパブリックドメインの状態になったとは言えないとの誤解に基づく。しかしアメリカにおいても著作者人格権は伝統的に著作権法に基づく権利とは理解されていなかっただけであり同一性保持権や氏名表示権は不正競争防止法の不正表示禁止に関する規定などにより実質的に保護されているなどコモンローにより人格権が保護されているという説明がされている。つまり著作者人格権という呼称が与えられている権利が著作権法制の枠内にあるか否かという問題に過ぎない。したがって著作者人格権の問題は���ブリックドメインという概念を受け入れるか否かとは別問題である。ただしドイツでは著作権の放棄ができないがゆえにドイツ法では著作権放棄に基づくパブリックドメインの状態は成り立たないのは前述のとおりである。しかし、日本においては著作者人格権の相続は否定されるものの(民法896条但書)、法は一定範囲の遺族や遺言で指定された者に対して故人の人格的利益の請求権を有することを認めている(著作権法116条)。さらには、著作権の保護期間が経過しかつ遺族や遺言で指定した者が存在しなくなった場合でも、著作者が存しているとすればその著作者人格権の侵害となるべき行為をしてはならず(著作権法60条)、違反者に対する罰則もあるが(著作権法120条)、それをもって著作物がパブリックドメインの状態にはないという議論はされていない。しかし、日本法では著作者人格権の制度があるから著作権放棄に基づくパブリックドメインはあり得ないとの議論は、後述のパブリックドメインソフトウェアが日本で存在し得るかという問題に関連して、アメリカの法制度を理解していないプログラマーとその周辺で問題になったことがほとんどであり、知的財産権の専門家の間ではそのような問題自体議論されていない。パブリックドメインと区別されるべきもの.日本においては、1990年代以前のいわゆるパソコン通信において、ネットを通じて配布される無料のソフトウェアをPDS と呼んでいたことなどがあった。しかし、その実態としては、単に著作物の利用に関して著作権を行使しないことのみをもってパブリックドメインであると宣言したり、著作権表示を行いつつもパブリックドメインである旨の宣言をしている場合も多かった。この場合は、厳密には著作権自体は存続しており、単に著作権の行使を控える旨の宣言にとどまるので、権利放棄に伴う著作権の消滅があったことにはならない。また、日本の著作権法の下では、国の機関などが一般に周知させることを目的として作成した広報資料などは刊行物への転載が可能でありであるとは言えない。権利者として作品をパブリックドメインに置きたい著作者や、既にパブリックドメインとなっている作品にその旨標記したい場合がある。しかしながら前述のように解釈の問題が数多いため、実行の壁は高い。クリエイティブ・コモンズは万国共通のを提供して、この障壁の低減を図っている。著作権が切れパブリックドメイン化したにも関わらず元権利者が権利を主張したり利用者側が「許諾」を得たり支払う必要のない使用料を支払う例が存在するとして福井健策弁護士が問題提起している。著作権が消滅した著作物の活用事例として、電子図書館における著作物の収集活動が挙げられる。近年の情報技術の発達、インターネットの普及を受けて、著作物をデジタル化し、インターネットを介して誰でも閲覧することを可能とするものが多い。しかし、著作権の保護期間を延長する法改正が各国で相次いでいることから、その存続が危ぶまれているものも存在する。また、格安DVDソフトの製造販売のように、著作権が消滅しても依然として経済的価値を有する著作物(映画の著作物など)の流通によって、収益を図ろうとする事業も存在する。特許が切れた医薬品は複数の会社から後発医薬品として販売されることで価格が低下する。特許権消滅後に普及した工業技術としてフェネストロンなどがある。 +記録 (きろく)は安定した形で定着保存された状態にある情報である。会議の議事録が会議の終わった後にも残るように会議中の発言を文書などの形にして保存するのがこの例である。人類が意図的に残し現存する最古の記録と思われるのは洞窟に残された壁画と推察されている。もっとも、これらの壁画は何かの情報を保存する目的のものであったのかどうかは疑わしい。呪術などに用いられたものではないかとする説などもある。文字に近い記録に限った場合には、古代メソポタミア文明における楔形文字が最初の例とされる。紀元前8000年頃から、シュメール人は小さな粘土の板に記号化された絵のようなものを記し、物財の管理や分配をする際の助けにしていたとされる。表現の対象となったの��例えば、羊、一定量の油や穀物などである。ただしこの粘土板を用いた記録の初期形態は文字として今日我々が考えるものとはやや異なっている。この小さな板はちょうどコインのようなもので容器に入れて持ち運ばれ羊の量と羊を描いた板の数が比例するという形で用いられていた。時と共に平らな粘土板に複数の文字を並べる習慣が広まりまたそれらの文字とは独立して頭数や量を表す数字が発明された。さらに表意文字としての性格を帯びるようにもなった。ちなみにメソポタミアの文字文化はシュメール人の後に現れたアッカド人バビロニア人にも受け継がれ成文法の最初の例として知られるハンムラビ法典を生み出した。このバビロニアはエジプト文明に影響を与え、ヒエログリフの使用のきっかけとなった。そしてエジプト文明は古代ギリシア文明に影響を与えたとされる。文字による記録を行う社会と、口承によって物事を伝達する社会とでは人々の人間関係、物事の考え方、時間や世界に対する構えなどが異なる、という研究がある。正確な保存のために記録をとるという発想が文字の文化だ、という説も、そこからは導き出せる。また、記録の仕方によっても人や社会が影響を受けるとする考察もある。例えばハロルド・イニスは、エジプトのパピルスが粘土板に代わって記録に用いられるようになったことで人々の思考も軽くなった、と論じている。合理主義哲学大陸合理論とも呼ばれる。大陸合理主義の思想的内容は通常当時のイギリスにおいてロックヒュームらによって担われていたいわゆるイギリス経験論との対比でヨーロッパ大陸側の傾向として理解される。イギリス経験論において人間は経験を通じて様々な観念概念を獲得すると考えるのに対し大陸合理主義においては人間は生得的に理性を与えられ基本的な観念概念の一部をもつもしくはそれを獲得する能力をもつと考える。また理性の能力を用いた内省反省を通じて原理を捉えそこからあらゆる法則を演繹しようとする演繹法が真理の探求の方法とされた。17世紀、フランスのデカルトに始まり、オランダのスピノザ、ドイツのライプニッツやヴォルフ、フランスのマールブランシュなどによって継承・展開された。今日広く普及している西洋哲学史観では、18世紀にカントによって合理主義と経験論の総合が行われたという見方がなされている。大陸合理主義のルーツはスコラ学ひいてはアリストテレス(の『オルガノン』(論理学))や『ユークリッド原論』(数学幾何学)にある。アリストテレスは「蓋然的」な要素を排除した「真にして第一の前提」(第一原理)から演繹的に構築される厳密に形式化され自己完結した体系(恒真(apodictic)的な「論証」(demonstration))しか「学知」(エピステーメー)としては認めなかった。そうであればこそ「学知」は他の経験的な思い込みとは区別され信頼に足る普遍的汎通的な知の体系としての地位を保証されることになるという発想である。数学(幾何学)の基礎を築いた『ユークリッド原論』もまた絶対的な「公理」「公準」をまず設定し自己完結的に形式化された体系を導く構成になっている。これが西洋の「学知観」に決定的な影響を与えており大陸合理主義(やカント)もその延長線上にある。またもちろんこのような営みを可能たらしめるためには経験によらずに先天的(アプリオリ)にそれを進めていける能力すなわち「理性」が人間に付与されているはずだというある種の「信念」「信仰」を必要とする。したがってここで言う「合理主義」は「形式主義」とか「(自己)完結主義」あるいは「理性主義」などとも言い換えることができる類のものである。逆にフランシスベーコンイギリス経験論自然科学(実証主義)などはこのような拙速な「形式主義」「自己完結主義」「理性主義」から離れ着実にこの物理世界の「内実」「真相」に近づき解き明かしていける道を求めて踏み出して行った流れであると言える。等々我々が少し考えてもわかるようにこの大陸合理主義には多分に怪しさが孕まれているし自然科学が発達した現代においては経験主義実証主義の方が信頼に足るということは自明だと言える。とりわけこういった問題��形而上学分野において深刻かつ顕著に現れる。実際当時も独断論が乱立し収拾がつかない状態になっていた。そこでイマヌエルカントは大陸合理主義からが実在することを前提としつつその性質の批判 +ミュージシャン一覧 はミュージシャン音楽家のグループ名の50音順の一覧。なおを省いて紹介している。参照:音楽家、音楽家の一覧については、各々同項目を参照。(ポピュラー)(パゴーヂ)「イエスタデイ」 ()はビートルズの楽曲である。1965年8月6日に発売された5作目のイギリス盤公式オリジナルアルバム『ヘルプ!』に収録された。アメリカでは1965年9月13日にシングルで発売されたのち1966年6月20日に発売されたキャピトル編集盤『イエスタデイアンドトゥデイ』に収録された。レノン=マッカートニー名義となっているがポールマッカートニーが単独で書いた楽曲で弦楽四重奏をバックにしたアコースティックバラードをビートルズ名義で初めて発売した楽曲となっている。世界中のミュージシャンに数多くカバーされておりビートルズ活動時点で既に1000を超えるカバー音源が存在し「世界で最も多くカバーされた曲」としてギネスワールドレコーズに認定されている。BMI調べによる「20世紀にアメリカのテレビやラジオで最もオンエアされた100曲」のランキングでは700万回以上のオンエアで3位にランクインされた。BBC4が2012年に放送したドキュメンタリー番組『ザリッチエストソングスインザワールド』にて音楽史上最も稼いだ10曲を選出し本作は第4位にランクインした。1999年のBBCラジオ2の世論調査においてにランクインし翌2000年にローリングストーンとMTV共同のグレイテストポップソング100において第1位を獲得。また、ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500では13位にランクインした。と共に主に日本の中学校・高等学校の音楽の教科書に採用され教材になっている。本作についてジョン・レノンはと語った。マッカートニー及びビートルズの伝記によれば当時のガールフレンドであるジェーンアッシャーと家族が暮らすウェンポールストリートにあるマッカートニーの部屋で家で睡眠中に夢の中で流れたメロディを基に作曲したという。マッカートニーは起床後メロディを忘れないようにするために急いでコードを探してスタジオで完成させた。この時のことをマッカートニーはと述べている。曲が書かれた時期はいくつか説があり、マッカートニーの友人や伝記作家のらはレコーディングの数週間前に書かれたものと主張し、ジョージ・マーティンはと語っている。歌詞の内容からと2001年に述べている。2010年に『レイトナイトウィズジミーファロン』にゲスト出演した際司会のジミーファロンと原曲の「Scrambled Egg」をデュエットで披露した。歌詞はマッカートニーがベジタリアンであることを反映したものに変更されている。その音源は2012年に発売されたファロンのアルバム『』に収録された。「イエスタデイ」のレコーディングは、マッカートニーの23歳の誕生日の4日前である1965年6月14日にEMIスタジオで開始された。マッカートニーは、ギターのチューニングを全弦1音下げでレコーディング。アコースティック・ギターとボーカルを担当したマッカートニー以外、他のビートルズのメンバー3人はレコーディングに参加していないが、スタジオには同席している。本作に対し、リンゴ・スターは「この曲にドラムを合せるのは難しい」と発言し、レノンとジョージ・ハリスンは「もう一本ギターを追加するのも無意味だと思う」と発言した。ここでジョージ・マーティンは仮でマッカートニーに弾き語りをさせることを提案。プレイバックを聴いたあとにマッカートニーが「僕のソロ曲になるの?」と訊いて、メンバーが「僕らが何かを足す必要はなさそうだ」と答えた。その後、もう一度録音されたのちテイク2が採用された。6月17日に弦楽四重奏がオーバーダビングされた。弦楽四重奏のアレンジはプロデューサーのジョージマーティンによるものである。マッカートニーは当初ストリングスのアレンジをと奏するアレンジと第3コーラスでヴァイオリンが高音域でラの持続音を奏するアレンジはマッカートニーのアイデアである。6月14日にレコーディングされたテイク1が1996年に発売されたに収録された。このテイク1ではリリース版におけると入れ替わっていた。2006年に上演されたシルクドゥソレイユのショーのポールのギターワークの一部をイントロに加えたが今聴くとこれで正解だったと思える。そのシンプルさは非常にダイレクトに胸に響く」と語っている。「イエスタデイ」は、イギリスで1965年8月6日に発売されたオリジナル・アルバム『ヘルプ!』のB面6曲目に収録された。発売当時、ビートルズは「バンドのイメージに合わない」という観点から、本作のシングル・カットを拒否していた。一方アメリカでは、9月13日に新曲扱いのシングル盤として発売され、B面は「アクト・ナチュラリー」が収録された。10月9日付のBillboard Hot 100より4週連続で1位を獲得し、11週にわたってチャートインし、5週間以内で100万枚以上の売り上げを記録。『キャッシュボックス』誌では、3週連続第1位を獲得。その後1966年6月にアメリカで発売されたキャピトル編集盤にも収録された。日本ではカップリングはアメリカ盤と同じながらA面に「アクトナチュラリー」B面に「イエスタデイ」が収録されたシングル盤として発売された。イギリスでは、シングル・カットされなかった代わりに、1966年3月4日に4曲入りのEP盤のシングル盤が製造されている。ビートルズ解散後の1976年3月8日にをB面にして、イギリス内販売用にもシングル・カットされた。このシングル盤は全英シングルチャートで最高8位を獲得した。なお日本ではこちらのシングル盤も1976年3月5日より販売されている。この曲がビートルズのライブで演奏に際して、2種類のアレンジが存在している。ウイングス時代は一人でエレクトリックアコースティックギターを演奏し、ストリングス部分はサポートのホーン隊が演奏した。ウイングス解散後のコンサートでもギターを一人で演奏しているがストリングスはキーボードで演奏されている。マッカートニーのソロコンサートでは主にアンコールで演奏されており1990年代のツアーではアルバレズヤイリやタカミネのエレアコを使用していたが2002年のツアーからはこの曲のレコーディングで実際に使用したエピフォンテキサンを使って演奏している。2013年の日本公演では「福島の被災者に捧げたい」と前置きし歌っている。ライブ音源は『ウイングスオーヴァーアメリカ』『ポールマッカートニーライブ!!』『ポールマッカートニーライブハイライツ!!』『バックインザU.S. -ライブ2002』『バックインザワールド』『グッドイヴニングニューヨークシティ〜ベストヒッツライヴ』などの作品に収録された。「イエスタデイ」はポップミュージック史上最も多くカバーされた楽曲の1つで1986年1月時点で1600以上のカバーバージョンが発表されていた。「イエスタデイ」は、1965年度のアイヴァー・ノヴェロ賞で最優秀ソング・コレクション部門を受賞し、最優秀ソング部門では「ミッシェル」に次ぐ2位に入った。2004年に『ローリング・ストーン』誌が発表した「ローリング・ストーンの選ぶオールタイム・グレイテスト・ソング500」では13位、2010年に同誌が発表した「100 Greatest Beatles Songs of All Time」で4位にランクインした。BMI調べによる「20世紀にアメリカのテレビやラジオで最もオンエアされた100曲」のランキングでは、700万回以上のオンエアで3位にランクインされた。1988年10月20日にはの500万枚達成を記念した昼食会がハイドパークホテルで開催されオノヨーコに記念賞が贈られた。本作は、1997年にを受賞した。チャックベリーは本作についてをカバーしたことがあるが未発表のままとなっている。レノンは、1980年の誌のインタビューでと歌っている。2012年にBBCが発表したは4位にランクインした。イギリスでは、によるカバー・バージョンが全英シングルチャートで最高位8位<ref name="UKchart/19651111"></ref>、マリアンヌ・フェイスフルによるカバー・バージョンが同チャートで最高位36位をそれぞれ獲得している。1967年には、レイ・チャールズのカバー・バージョンもシングル盤として発売され、Billboard Hot 100で最高位25位、全英シングルチャートで最高位44位をそれぞれ獲得している。作者であるマッカートニーもビ��トルズ解散後にセルフカバーしている。1984年に公開された主演映画『』で歌唱しその時の音源が同名のサウンドトラック盤に収録された。その他エルヴィスプレスリーやフランクシナトラスプリームスマーヴィンゲイマイケルボルトントムジョーンズヒメーシュパテルなど音楽ジャンルを問わず今でもカバーされ続けている。 +Peer to Peer同士が通信をすることを特徴とする通信方式、通信モデル、あるいは通信技術の一分野を指す。P2Pと略記することが多く、以下本項目においてもP2Pとする。P2Pに対置される用語としてクライアントサーバー方式がある。クライアントサーバー方式ではネットワークに接続されたコンピューターに対しクライアントとサーバーに立場機能を分離しており一般的には多数のクライアントに対してサーバーが一つである。クライアントはサーバーとだけ通信できあるクライアントが他のクライアントと通信するにはサーバーを介する必要がある。P2Pではネットワークに接続されたコンピューター同士が対等の立場機能で直接通信するものである。クライアントサーバー方式ではクライアント数が非常に多くなるとサーバーおよびその回線に負荷が集中するのに対してPeer to Peer方式はその構造上コンピューター機器数が膨大になっても特定機器へのアクセス集中が発生しにくいという特徴がある。P2P通信の一例としては、インターネットに接続した一般ユーザーの複数パソコン 同士が互いのIPアドレスを呼び合う直接通信が挙げられる。P2Pによるネットワークはオーバーレイ・ネットワークの一つに数えられる。実用化されたシステムとしてはP2Pデータ配信、P2P電話、P2P掲示板、P2P放送といった応用例が増えてきている。しかしこれらの応用技術は2000年代初頭から実用化され始めた技術であり歴史的にはまだ日が浅く成熟技術となるまでには解決しなければならない様々な問題がある。そのため現在でも学術的な研究が盛んな分野である。また無線通信で使われるモバイルアドホックネットワークもP2Pの一種であるが無線での通信可能距離を稼ぐという特殊な使い方であるので詳細な解説は別項に譲る。P2Pにおける通信端末はピア と呼ばれるがトポロジー理論グラフ理論などで用いるという呼称を用いることも多い。またクライアントの機能とサーバーの機能を併せ持つという意味でサーバントという呼び方をすることもある。端末装置の種類としてはPCやスマートフォンが使われることが多いがセットトップボックス やHDDレコーダーHDD内蔵ルーターといったものもピアになりうる。インターネットにおけるP2P.インターネットの基盤であるIPネットワークはIPアドレスさえ分かっていればどのコンピューター機器と見ることができる。例えば放送型サービスにP2Pを応用する場合はマルチキャスト型の通信形態となる。そのためこれをオーバーレイマルチキャスト あるいはアプリケーション層マルチキャスト と呼ぶことがある。後者の呼び方はIPマルチキャストがTCP/IPのレイヤーでのパケットの複製によりマルチキャストを行うのに対してアプリケーション層でデータのコピーをしてマルチキャストを行うという意味合いから来ている。インターネットにおけるP2P通信のメリットデメリット.インターネットにおけるP2P方式の通信には以下のようなメリットとデメリットがある。P2Pアプリケーションの分類.ピア間で何を行うかという観点で大きく以下の4つのタイプのアプリケーションに分けられる。複数の機能を併せ持ったアプリケーションも存在する。IP電話LINE電話やSkypeに代表されるようなコンピューター間で一対一のコミュニケーションを行う使い方である。相手のIPアドレスを電話番号やニックネームなどから見つけ出しが設けられている。このタイプのアプリケーションでは、データは通常、リアルタイムでのストリーミングでやりとりされる。P2P-SIPではSIP-URIからIPアドレスを知るためにP2P技術を利用しており従来からあるSIPサーバーを不要にできる。アドレス解決以外の接続切断のシグナリング音声データのストリーミングに関しては従来からのSIPやRTP/RTCPの技術をそのまま利用している。応用例IP電話SkypeLINEMSN メッセンジャーP2P-SIPP2Pグループウェア。ノード間接続を、カスケード状に多段階層化して、配信ツリーを形成することで、放送型のサービスが実現できる。ツリーの根元のノードが、放送局となり、上流ノードから下流ノードへ、データをバケツリレーさせることで、全参加ノードに、ほぼ同時に同じデータを配信することが出来る。これにより、リアルタイムのストリーミング中継が可能となる。多くのP2P型放送システムではアドレス解決にハイブリッドP2P方式ことも可能ではあるがそのような実装例はまだ発表されていない。上流ノードが脱退したときに、ストリームが途切れるが、内部にバッファを持つことで、一定時間は再生が途絶えないようにして、その間に、別の上流ノードを探し出して、再接続を行う。再接続の処理には時間がかかるため、通常、予備の上流ノードを用意しておく。再接続先候補のノードを、効率的に準備しておくために、様々な創意工夫が考案されている。応用例:P2P放送; 動画コンテンツの配信などでは、コンテンツを欲するノードが、当該コンテンツを持っているノードを探し出して、そこへデータを要求することで、保持ノードがそれに応じてデータを送信する、という一方向型の通信が行われる。言い換えると、持っている者から欲する者へ、という通信である。送信元は、使用しているコンピューターが複数ある場合、どれからでも良くて、不特定多数の中からアプリケーションまかせで選ばれる。送信元のIPアドレスは、コンテンツのタイトルなどを手がかりに、インデックスを検索して見つけ出し、コンテンツ保持ノードにデータ送信を要求することで、データ転送が開始される。オンデマンド型のP2Pアプリケーションでは配信効率を上げるためにコンテンツのコピーを作ることが良く行われる。一度取得したコンテンツのコピーを保持して他のノードに対して提供可能な状態にすることで他の誰かが再度同じコンテンツをリクエストしたときに負荷分散の効果が期待できるからである。これは特に人気のあるコンテンツに対してのアクセス集中の緩和に効果的である。レプリカを作るアプリケーションでは通常レプリカをキャッシュフォルダー内に作り古いレプリカから追い出すような実装になっていることが多い。オンデマンド型のP2Pアプリケーションではデータ全体を一旦リクエストした端末までは持ってきてから利用するの実装がほとんどである。応用例P2Pコンテンツ配信P2P掲示板P2PグループウェアP2P分散ファイルシステム無線のアドホックネットワークゲームソフトのアップデート[[ビットコイン]][[Ripple (支払いシステム)|Ripple]]などでは通貨の取引履歴情報を各ノードで分散して持つことによって通常はサーバーで管理する台帳データの不正な改竄を防ぐことができるのでP2Pを利用している。これにより自分のノードの台帳データを改ざんしたとしても他の多数のノードが正しいデータを保持していることにより比較した際に改竄を検知することができる。インデックス情報の持ち方での分類.という問いに答えるためには、データを検索するための属性キーとデータのありかの対応表を持っている必要があるが、これをサーバーに集中して持たせる場合と、各ノードに分散して持たせる場合と、特定の選ばれたノードに分散して持たせる場合、の3種類が存在する。 +ハイブリッドP2Pにおいては、インデックス情報を、中央のインデックスサーバーで一括して管理する。新しいデータを保持したノードは、自分が持っていることを、インデックスサーバーに申告しておく。データを欲するノードが、とインデックスサーバーに問い合わせると、対応する相手のIPアドレスを教えてくれる。インデックスが膨大になると、スケーラビリティが無くなる点が、後述のピュアP2Pと比べて劣るが、通常規模のシステムであれば、この方式で事足りるケースが多い。インデックスサーバーがダウンすると、システム全体が停止するため、耐障害性の面では、ピュアP2Pに劣る。、放送型P2P の多くは、この方式を採用している。インデックス情報は各ノードが少しずつ分散して持ち合う。自分の知っているノードにというメッセージを投げるとそのノードが知っていれば回答が返り知らなければ又聞きをしてくれる。 はこの方式を採用している。ピュアP2Pに参加する際には既に参加しているノードのIP情報を何らかの形で知っている必要がある。このためには常に活きているノードを用意しておいて参加時はいつもそこに接続するようにするかあるいは参加しているいくつかのノードの情報をサーバーに集めてここから知るように構成する。スーパーノード型P2P.インデックス情報は、特定の選ばれたノードが選ばれる。スーパーノードは、一般のエンドユーザーの端末から能力に応じて選ばれるが、サービス提供者側が用意した端末であることも多い。は、この方式を採用している。ピュアP2Pの構造による分類.ピュアP2Pにおいてはインデックス情報も分散されて持たれるため相手先IPアドレスの発見の仕組みは検索メッセージを転送することで行われる。転送方式で種類に分類ができる。P2Pノードの一般的な機能.P2Pに参加するノードには以下のような機能が必要となる。ソフトウェアでこれらの機能は実現できる。P2Pに対する誤解と技術的課題.P2Pの技術は、実用化されて間もないため、成熟した技術として使われるためには、いくつかの課題が残されている。また、これまでのP2P技術は、によって注目されてきた経緯があり、P2Pを使っていると聞くだけで有害なソフトウェアだと思うような誤解を与えてしまうことがある。しかし、以下に示すように、多くの誤解はアプリケーションやP2Pソフトの実装上の問題であり、解決策が見えてきている。つまり、P2P技術自体は、うまく使えば非常に有用な技術である。P2P関連情報サイト.[[Category:P2P|*]] +日本の漫画家では日本における漫画家について解説する。「漫画家」は、漫画作品を作る。脚本のみを作る者は「漫画原作者」。脚本と作画の両方を作る者も作画のみを作る者も「漫画家」である。ただしアマチュアが増加している事を考慮すると、漫画の作家全般と捉える事もできる。漫画風のイラストの需要が高いため、イラストレーターを兼ねている場合があり、明確な区別は難しい。画家でも脚本家でも小説家でも書道家でも、創作活動に対して対価を受け取る者はの敬称を付けられる。メディアへの露出に関しては、様々である。いしいひさいちのようにメディア露出を避ける漫画家がいる一方、江川達也、蛭子能収、やくみつるのように積極的にテレビ出演する漫画家もいる。さくらももこ、尾田栄一郎のようにメディアにしばしば登場し私生活を明らかにしながらも、素顔を出すことを拒む者もいる。また、雑誌や単行本での顔写真の公開・非公開についても、人により様々である。またCLAMPを始めとした共有筆名が含まれていてもの集団と見做される。アシスタントとスタジオ.漫画家の中にはアシスタントを雇う者も存在する。アシスタントが担う作業の内容や量は、雇用主となる漫画家によって大きく異なる。一般には、ストーリー構成・下書き・主要人物のペン入れまでは漫画家自身が担当し、群衆や背景の描写・ベタ塗り・消しゴムかけ・スクリーントーンを貼る、集中線などの画面効果を入れるといった、高度な作画技術を要しない作業や絵柄の個性が重視されない手間のかかる作業はアシスタントに任せる場合が多い。また雇用主となる漫画家によっては、アシスタントにストーリー構成やスケジュール管理、食事の用意など作画以外の作業に従事させる事例もある。漫画家がアシスタントを雇う背景には漫画の主な発表媒体が貸本から月刊雑誌そして週刊雑誌と幅広くなるに従い主に週刊誌などで漫画を一人で完成させることが時間的に難しくなったことがある。漫画家とアシスタントは雇用関係にあるためまた絵柄を安定させるため専属化している事例が多いが専属のアシスタントを雇わず知人や駆け出しの漫画家にアシスタントを依頼する者も少なくない。アシスタントの給料は雇っている漫画家が支払うため人件費を捻出できない漫画家は自然と全てを一人で製作せざるを得ず収入に乏しい漫画家の中にはアシスタントへの給料を支払うために原稿料の前借や借金個人資産の売却などを行う者もいる。なお最近ではパソコンを使用した漫画制作のデジタル化の影響から全ての作画を一人でこなす漫画家��比率が増えてきている。これはアシスタントに任せる手間のかかる作業がデジタル化により短時間で容易にできるようになったためである。またアシスタントを雇う費用の削減にもなる。アシスタントの中にはデジタル作業を主体とする者もおり彼らは特にと呼ばれる。漫画家の多くはプロデビュー前に専属アシスタントを経験しておりアシスタントからプロデビューした際にも作風技法について従事していた作家の影響を受けていることが多く基本的には師弟関係が成り立っている。アメリカや香港などでは、漫画の制作は全てを分担して作業していて役職名も細かく表示される。日本でも、単行本になった際になどといった表記で紹介されることがある。スタジオとして漫画を制作していることを公にしている漫画家にさいとう・たかを、本宮ひろ志などがいる。売れっ子となった際に所得税対策。共同筆名とスタジオは明確に区別されるが両者を区別する基準は特に存在しない。ただし多くの場合共同筆名は「漫画製作の主体者」として互いが対等な関係でありプロデビュー前から共同で漫画製作を行っているスタジオは「漫画製作を補助する集団」として主体者と主従関係にありプロデビュー後に漫画製作に加わると言った傾向が見られる。また作品の内容によっては、共同筆名でもアシスタントでもスタジオでもない、作画や設定、考証等のが外部から付く場合もある。これは主体者となる漫画家が、作品に必要な全ての知識を網羅・検証できず、それを補完する必要があるためであり、漫画製作の主体者に準ずる存在として位置づけられる。連載作品の場合、連載途中から協力者が付く事例も見られる。売れなければ収入にならないと思われがちだが出版物は基本的に刷られた時点で印税(価格の5% - 15%)が発生する。逆に言えば、在庫が少しずつ売れていても増刷がかからなければ全く作家の収入にはならない。収入の差が極めて大きい。稼ぎの少ない漫画家ではアシスタント代を払うことすら困難な場合もあり、借金生活を余儀なくされている者もいる。その一方で、作品が大ヒットした漫画家は、作品のアニメ化やキャラクターグッズ化などのメディアミックス化も相俟って、年収十億円を超える事すらある。収入の多い漫画家のアシスタントが数千万円を超える年収を得ていることもあるが、これらは少ない。売れない作家の収入が低いのはあらゆる表現媒体に共通しているが、漫画家においては、売れっ子の収入が極めて高くメディア等で取り上げられる機会も多いため、売れない者の収入の低さがより際立つようである。人気の浮き沈みが激しくかつてヒットを飛ばした漫画家が廃業し別の業界に転職していたり、アシスタント専業として生計を立てていたりと安定した職業とは言いがたい現状にある。ただし、日本のは、作家の資質・関心が現在の時流にミスマッチである場合を除き、一定水準の才能を持つものが地道に努力すれば充分に生活が成り立つだけの裾野を持っていることも事実である。コンピュータゲーム・広告・一般書籍・情報誌などにおいて、漫画や漫画調のイラストレーションなどのコンテンツの需要は大きくなっており、こうした媒体がヒット作のない漫画家や漫画家志望者の収入源となっている側面が無視できない。近年は商業漫画誌に執筆しつつ同人作家を兼業している者も多く、作家によっては同人誌からの収入の方が商業誌からの収入より多い場合もある。以前から一部の漫画家は慈善活動等を行って来たが、東日本大震災の発生を受けて大勢の被災者を支援する為に出版社の枠を超えて共同で東日本大震災チャリティ同人誌に多くの志ある漫画家が執筆した。赤い羽根共同募金に協力する漫画家もいる。 +LimeWire はかつてGNU General Public License下で公開されていたフリーソフトウェア及びオープンソースのGnutella P2Pクライアントソフトウェアである。米連邦地方裁判所の命令を受けて2010年10月にソフトウェアの配布を停止。LimeWireはGnutella P2Pプロトコルを利用したファイル共有をユーザー同士で行うことができる。これは2004年12月に公開された。バージョン4.2の特徴としてファイアウォール設置同士のファイル交換をサポートした最初��ファイル共有ソフトである。開発元はLime Wire LLCである。LimeWireはJavaで書かれているためJava仮想マシンがインストールされたコンピュータで利用できる。普通のユーザー向けにインストールを簡単にするためデベロッパーは WindowsMac OS X及び deb/RPM 形式でLinux向けにインストールパッケージを公開していた。ソースコードを入手して使用する場合には Javaランタイムルーチンを別途用意する必要があった。オープンソースであったためLimeWireはペンシルベニア州立大学での実験的上のソフトウェア開発プロジェクトLionShare独特なインタフェースと共に人気のあるApple製Macintosh向けグヌーテラクライアントAcquisitionCabos FrostWireを含むいくつかの派生型が作成された。LimeWire PRO.LimeWireの有償版としてLimeWire PROが販売されており価格は21.95ドルであった。PRO版の特典期間を1年間延長するLimeWire PRO延長版も販売されており価格は34.95ドルであった。PROではBASICよりファイルのダウンロードが高速で行えることと、より多くのソースにアクセス可能となることが特徴であった。PROにすると電子メールサポートも可能になった。また、BASICでは起動時にPROにアップグレードを勧めるメッセージが出てくるが、PROでは出なかった。LimeWire PRO 5.5より、オランダのAVG Technologiesのウイルス対策SDKエンジンが組み込まれた。PROでダウンロードされた全ファイルは、ユーザーのPCで再生または実行される前にスキャンされ、ウイルスの感染拡大を防いでいた。米国時間2006年8月4日Sony BMGVirgin RecordsWarner Bros. Recordsなどが参加するレコード著作団体が著作権侵害の疑いがあるとしてLimeWireと経営陣を提訴した。内容としては1曲あたり約15万ドルの賠償金および今後楽曲を共有する際事業モデルをレコード会社と契約する形への変更を求めた。しかし約2ヵ月後LimeWireはレコード会社がLimeWireから利用者を減らそうと不当な商行為を行ったと反訴。またオンライン楽曲配信市場の取引抑制を共謀しシャーマン独占禁止法クレイトン独占禁止法の条項に反しているとも主張した。2010年5月11日ニューヨーク州南部地区連邦地裁はLimeWireの親会社Lime Groupとその設立者マークゴートンがLimeWireによって著作権侵害およびその幇助さらに不正競争に関与したことを認める略式判決を下した。2010年10月26日、米連邦地裁がLimeWireに恒久的なサービス停止を命じたことを受けて、ソフトウェアの配布とサポートを停止した。 +日本の漫画作品一覧は日本語版ウィキペディアに記事の存在する日本の漫画作品の五十音順の一覧である。日本以外の漫画作品については漫画作品一覧を参照。小学館漫画賞少年少女部門受賞作。とも。2019年4月時点で累計発行部数は3000万部を記録している。浮気者の高校生諸星あたると彼を愛する一途な宇宙人美少女ラムを中心に架空の町友引町や宇宙や異次元などを舞台にしたドタバタラブコメディ。その内容の斬新さと魅力的なキャラクターは1980年代のみならず以降の漫画界とアニメ界に衝撃を与え、当時の若者たちの圧倒的支持を受けて一大ブームを引き起こし、若者文化にも影響を与えた。高橋留美子の初期代表作であり、後年、本作とについて、と語っている。短期集中連載から週刊連載へ.1978年に短期集中連載作品として『少年サンデー』に初掲載され好評であったため1979年に月刊連載化不定期連載化された。当時高橋はまだ大学生であったため約20 - 30Pの作品を数カ月おきに連載していたが大学を卒業すると同時に週刊連載に移行。そして1980年に『少年サンデー』にて本格的週刊連載となり(第1回の本格連載は面堂終太郎登場話である原作第23話「トラブルは舞い降りた!!」)一週およそ16Pの連載が続けられた。定期連載以降最終話まで作者都合による休載はない。あだち充の史上最長巻数だった。不定期連載時は恋愛要素が皆無でドタバタやSFをメインにしたギャグ要素が非常に強かったが週刊連載になり話が進むにつれて恋愛をメインにギャグをサブにした雰囲気いわゆるラブコメの作風に変化させてゆく。後半にゆくに従って笑いの要素を抑えた非常にシリアスなストーリーも盛り込まれていく。そこに高橋留美子の持ち味の奇想天外なキャラクターなどを絡ませつつ恋愛学園モノからSF妖怪幽霊伝奇スポーツ冒険格闘歴史などある意味の世界観を打ち出し長期連載作品となっていった。定期連載時や読み切り作品のようなギャグ要素の強い作風は一部がのちのに引き継がれていった。当初は諸星あたるを中心として話が展開することが多かった。高橋は当初いろんな災いを呼び寄せる受身のキャラクターであるあたるでは毎回の話を作るのに行き詰まってきたため短期連載の後半から週連載への移行を境にあたるをもっと楽観的で積極的な浮気性のキャラクターに変化させていく。すると今度はラムがあたるを追いかけるストーリーばかりになり後半はラムの扱いに苦労したという。したがって藤波親子の登場前後の週連載の前期までは様々なキャラクターが登場してはあたるとラムの関係に絡みつつ話を展開していくパターンが多かった。藤波親子の登場あたりの中期 - 後期にかけては次第にそれまで登場したキャラクターたちの再登場や竜之介と弁天レイとクラマ姫等のサブキャラ同士を絡めたりそれまで登場したキャラの近親者や関係者などを登場させて話を展開させるなど群像劇に近いものとなる。回によってはあたるやラム以外のキャラクターを中心として話が進みそこにあたるやラムが登場はするものの傍観者に留まり重要な役割を果たさないエピソードも多くなる。物語のほとんどが一話完結型。登場人物は基本的に進学卒業などがなく週刊連載開始後はあたるやラムたちは友引高校2年生のままである。ただし正月節分七夕クリスマスなどのいわゆる年中行事は連載の掲載時期にあわせて毎年行われ最終回までこの設定は貫かれた。ただしあたるの浮気性の改善や面堂の暗所恐怖症の原因究明のため過去に行く話やや因幡くんのシリーズ連作などで未来に行くエピソードでは登場人物は相応に若かったり大人になったりしている。「うる星やつら」というタイトルは、高橋のデビュー作のタイトル『勝手なやつら』の名残を残し、かつ作品の宇宙的なイメージから当時の編集長田中が名付けた。連載開始当初のタイトルロゴはおどろおどろしい感じのデザインであった。またサブタイトルには「思い過ごしも恋のうち」(サザンオールスターズ)「酒と泪と男と女」(河島英五)「かけめぐる青春」(ビューティペア)「ないものねだりのI Want You」(C-C-B)「絶体絶命」等のヒットソング名を度々用いているほか本作と同時期に『少年サンデー』で連載されていた作品のタイトルから語句を拾ってサブタイトルにしたこともある(宮本武蔵編)。『週刊少年サンデー』(以下『少年サンデー』)で、1978年から1987年にかけ連載。単行本は少年サンデーコミックス版が全34巻、1989年から1990年にワイド版が全15巻、1998年から1999年にかけ文庫版が全18巻で刊行した。新装単行版が2006年11月から2008年3月にかけ毎月2巻ずつ刊行、2016年1月には『少年サンデー』連載時のカラーページを全集成した『うる星やつらパーフェクト★カラーエディション』(上下)が刊行した。他にコンビニコミック版が度々出されている。高橋はで、あたると幽霊の望がデート中に花火を見上げているシーンだという。中盤あたりでマンネリになってきたための乱馬と父のモチーフにもなった。この物話の主役についてはと語っている。宇宙人である鬼族が、地球侵略を仕掛ける。鬼族は圧倒的な技術力と軍事力を保有しており、武力で容易に地球を手に入れるのでは簡単過ぎて面白くない。そこで、鬼族代表と地球代表とが一騎討ちで戦い、地球代表が勝った場合、おとなしく帰り、地球代表が敗れた場合、地球を占領すると宣言した。その一騎討ちは、鬼族の伝統に従い『鬼ごっこ』で行われ、期限内に地球代表が鬼族代表の角を掴むと地球の勝ち、鬼族代表が逃げ切ると鬼族の勝ちというものである。地球の命運を賭けたの一言は、あたるが恋人で幼なじみのしのぶを想っての発言であったが、ラムは自分に求婚しているのだと勘違いし、それを受け入れてしまう。そのため、鬼ごっこには勝利、地球は侵略を免れるが、ラムは諸星家に住み着いてしまう。かくして、恋多き男・あたると宇宙から来た押しかけ女房・ラムの果てしなき鬼ごっこが始まる。そして、友引町はさまざまな災いや奇妙な出来事に��き込まれていく。本作はアニメ化されたことにより4年半に渡るTVシリーズ6作の劇場版12作のOVAが製作され商品化においても100億円以上売り上げる大きな成功を収めた。LPは7作がオリコンLPチャートで10位以内にランクインしている。アニメ版ではチーフディレクターの押井守が1984年3月放映分をもってチーフディレクターを降板したため前半と後半で作風が大きく異なる。押井守による劇場映画第2作から降板し同時にスタジオぴえろを退社。その後、2度と高橋留美子作品を担当することはなかった。アニメ作品は原作の人気に加えてスタッフの暴走と揶揄される押井守や伊藤和典の先鋭的な演出や当時若手の実力派アニメーターによる作画からアニメファンからも注目されるようになった。本作はアニメ界の異才をあまた輩出した伝説的な存在となっている。また1980年代の国産アニメで盛んに行われていたアニメーターの的に登場しているほか本作と全く関係のない他の漫画映画アニメのキャラクターもしばしば登場している。3作共にツクダホビーより発売。芸能人では西村知美が熱狂的なファンの一人として知られている。西村は芸能界デビュー前、アニメ版のシナリオ公募に応募したこともあり、選考では残り20作品程度までの中に残っていたという。西村が芸能界デビュー後の1990年に出版したにはそのシナリオが収録され、SF翻訳家の大森望は、との感想を述べている。西村は高橋の短編集など他の作品も全て鑑賞している。1987年にテレビシリーズ全話を収録したレーザーディスクの50枚組のセットが33万円という高額で発売された際、作家の平井和正、友成純一、漫画家の野部利雄が購入した。単行本の新装版には巻末ににの安野モヨコなどが寄稿している。国外では、本作の作品名を自分たちのバンド名にしたロックバンドもいる。それがスコットランドで1993年に結成され、1995年にメジャーデビューしたロックバンドである。メンバーが日本好きで、本作にちなんで命名したものだが、高橋から「うる星やつらを結成している。アメリカ合衆国のミュージシャンマシュー・スウィートがプロモーションビデオにアニメうる星やつらの映像を使用し、肩にラムのタトゥーを彫ったことも知られている。 +士郎 正宗は、日本の漫画家・イラストレーター。兵庫県神戸市葺合区(現:中央区)出身。大阪芸術大学芸術学部美術学科(油画科)卒。大学では美術の教員免許を取得。子供の頃にジャンアンリファーブルやチャールズダーウィンの著書を読んでいてそういった様々な記憶からストーリーを考えており特にSF作品が好きなわけでもなく他のマンガ家の作品にも関心がないと語っている。大学時代に漫画研究団体に一般メンバーとして所属メンバーにぴゅあ製作アトラスから出版し仲間と出版社などに売り込みを始めての執筆を行っていたがのち退職して専業作家となっている。というサイバーパンク的世界観と宇宙論から量子力学など幅広いハードSF的アイデアを融合し一部にニューエイジ的意匠を取り込んだ独特の世界観を持つ作品を発表している。ヒット作がマニアックかつカルト的な人気に支えられ全国に流通するという快挙を成し遂げたという。カッティングやタッチなどは田中久仁彦山下いくとなど多くの作家に影響を与えた。作品の大半は完結しておらず非常に遅筆であることをしばしば自虐している。その一方で切自体を破ったことは無い。これをの形をしたモニュメントを背負う自画像で表現したこともある。絵柄については大友克洋の影響が指摘される。商業誌での連載終了以降では漫画作品をほとんど発表せず、イラストレーターとしての活動が目に付く。傾向としてはMacintoshによるデジタルペイントや3DCGを構成要素に用い、女性キャラクターやメカニックを描くことが多い。をリリース中。本人は未完結の漫画作品もいつかは完成させたいと話している。において、1995年の阪神大震災被災後から倉庫の整理もままならないまま4回に渡る引っ越しを重ね、2013年まで父親の介護などで創作活動がままならなかった事実について触れている。メディアには顔を出さないので、本人を知っている人は少ない。一度会ったことのある押井守はいい男だったと話して���るが、神山健治とは会って大喧嘩したという。代表作と言える『攻殻機動隊』は、『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(監督:押井守)として1995年にアニメ化された。この作品は漫画家かつ映画監督として活躍している 大友克洋氏が制作した が発表された時代に作られた。作風としてという傾向に時代は動き始めていた。このような傾向はのちに正宗氏ら 多くの制作者に徹底的に追究されていくことになる。その後自身の代表作となる」という グローバルな評価を押し上げた大作となった。国内国外でしばしばという宣伝文句が付されている。本人は映像化作品についての感想は控えているがが好きだと語っている。2004年の『イノセンス』はその続編でありながら原作のエピソードを独自の解釈によって演出したオリジナリティの強い内容となっている。TVアニメ作品『攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX』シリーズは漫画を原案として再構成されたオリジナル作品。1987年のOVA作品では詳細なプロット等を提示し、本人とは関係の無いアニメ作品にもキャラ原案・設定を持ちかける時もある。一方で、制作側の混乱で未完成のまま公開されたでと記している。コンピュータゲームのキャラクターデザインメカニックデザイン等も数多く手掛けている。また市販の光学式マウスのデザインも手がけた。 +は士郎正宗のメジャーデビュー作となったSF漫画。雑誌連載を経ずに単行本の形でリリースされている。物語は未完であるが作者が凍結宣言している。タイトルはアメリカの開拓時代のリンゴ農園民話より。キャラクターや設定の各所にギリシア神話由来の名前が使われている。OVA版が1988年4月21日に発売され映画版が2004年4月17日劇場公開された。2011年6月全13話からなる新シリーズがスタート。ネット配信の他Blu-ray DiscDVDで発売され劇場リミックス版が2011年6月13日より公開された。2014年7月には3作目となる長編アニメが欧米を中心にビデオスルー公開日本では2015年1月に劇場公開された。物語は化学兵器生物兵器も使用された第5次非核大戦を生き抜いたデュナンナッツと全身をサイボーグ化したデュナンの恋人であるブリアレオスの活躍を描いた近未来サイエンスフィクション作品。22世紀。世界は2125年に勃発した第5次世界大戦を経て荒廃し第4次世界大戦後から北大西洋のアゾレス諸島とカナリア諸島の間に密かに建設が進められていた人工島オリュンポスに設置された総合管理局が台頭世界をその影響下に置いている。2127年第5次世界大戦の終戦を知らずに逃亡生活を続けていたデュナンと戦闘サイボーグであるブリアレオスはヒトミと名乗る少女から終戦の知らせと“オリュンポス”への招待を受け総合管理局の内務省部隊ESWATに所属して対テロ作戦などに加わる。その中で巨大な計画旧大国の策謀が明らかになっていく。によるとと同じ時間軸上の話であり日本の近海に存在する人工島を本社とした企業国家ポセイドンが両作に登場する。第五次大戦後、国家や情報網は破壊され尽くし、デュナンとブリアレオスは廃墟となった無人都市を転々としながら流浪の日々を送っていた。他にどれぐらいの人間が生き残っているのかも分からない状況の中、突然来訪した若い女性・ヒトミによってオリュンポスへの移住を持ちかけられ、デュナンとブリアレオスは疑うが、警察官 として復職できる望みから受諾する。やがてオリュンポスに着いたデュナンとブリアレオスを待っていたのは、戦後世界とは信じられないほど、清潔かつ高度で豊かな都市だった。オリュンポスは人類がついに建設した理想郷とされているうえ人口の半分を占める人為的にコントロールされて生まれた人間バイオロイドが人間同士の無用な衝突を避ける緩衝剤として機能しており人間とバイオロイドの関係性が精妙に描かれている。デュナンとブリアレオスはする。しかし、当初は理想郷に見えたオリュンポスも人の業を脱することはまだできておらず、さまざまな問題を抱えていた。戦争の後遺症とも言えるテロリズム、オリュンポス行政院と立法院の対立、他国との駆け引き、ライフサイエンス解禁によって科学技術が人間や社会の在り様にまで干渉する。デュナンとブリアレオスは、オリュンポスを巡るさまざまな思���や陰謀に巻き込まれていく。独特の生物的なフォルムや動作原理や素材内部構造などの詳細な描写が本作の特徴の一つでもある。この作品は雑誌連載を経ずに直接単行本として刊行された経緯から、一部の巻において雑誌原稿では用いることの出来ない薄墨を用いて、単色ではなくグレースケールで印刷する試みがなされている。なお、現在入手容易な文庫版では通常の単色印刷となっている。上記のISBNコードは青心社の新装版の物だが、他に同社より原稿原寸版、メディアファクトリーより文庫版が刊行されている。また4巻刊行後青心社から設定解説資料や短編を収録したISBN 4-87892-219-2 として再版されている。なお第5巻はタイトルとして中断された。現状ではソ連崩壊に伴う作品中の世界観と現実における世界情勢の乖離および自身のスタンスの変化により続きを描くのは困難と語っている。1988年にガイナックス制作(実制作はAICとセンテスタジオ)でアニメ化された。多脚砲台が暴走したエピソードをベースにOVA向けにストーリーを手直しして作品を理解しやすいように配慮がなされており、ブリアレオスの20ミリライフルなどを除いてはデュナンの愛銃、コルト・ガバメントや当時最新鋭のモデルであったオーストリア製のグロック17などと現存する銃器を登場させたりと銃器描写はリアルであった。OVAのプロモーション映像用に実写版が製作されデュナンナッツには白人女性を起用している。プレリュードフィルム.DVDに映像特典として短縮版が収録されている。タイトルは『アップルシード 近未来的音楽学習専科』。1988年5月5日にキングレコードから発売されたイメージアルバム。(K32X-7122)。事実上OVA版のサウンドトラック的な内容だがドラマパートのキャストはOVA版とは異なる。世界で初めてフル3Dライブアニメという表現手法によって映像化された作品。3Dライブアニメとは3DCGをセルアニメのような画風に変換するトゥーンシェーダーと登場人物のリアルな動きを可能とするモーションキャプチャ技術を融合させた手法を示す造語である。セルアニメに近い画風でありながら従来のアニメーションと比べ自由なカメラワークやよりリアルな動きが表現できる。2004年4月17日の劇場公開を待つことなく続編の制作が発表された。原作者の士郎はノータッチである。監督の荒牧伸志は士郎の世界観を壊さずに一般の客層へのアピールを行うことを留意したという。主人公デュナンは声優が顔のモーションキャプチャー(フェイシャルキャプチャー)を行いそれ以外のシーンでは2名がアクションシーンと演技シーンを分担してモーションキャプチャーを行っている。声と顔の演技を務めるのは小林愛全身の演技を三輪明日美が担当。アクションシーンをアクション女優の秋本つばさが担当している。多脚砲台の登場シーンでは怪獣映画の要素を取り入れてられている。荒牧は「夜の街で多脚砲台が送電線を横切る」というカットについてスタッフからの「未来都市に送電線があるのか」「夜景で黒い多脚砲台は見えづらい」という指摘を押しのけて強引に入れ込んだと述べている。DVDは続編公開時点までに全世界で42万枚以上を売り上げるなど好調なセールスを記録した。EX MACHINA.2007年10月20日に続編『EX MACHINA -エクスマキナ-』が公開された。プロデューサーは『フェイス/オフ』や『』等を監督したジョン・ウーが担当。衣装デザインはファッションブランド、PRADAのミウッチャ・プラダ。音楽監修を細野晴臣が担当。元YMOの三人がHASYMO名義でメインテーマを書き下ろしている。その他、テイ・トウワ、コーネリアス、m-flo、rei harakamiなどが名を連ねている。キャストについてはデュナン役は前作から引き続いて小林愛が担当するが、それ以外のキャラクターについては大幅なキャストの変更が加えられている。映像も前作よりリアル調のシェーディング・テクスチャが施されている。副題の転じてご都合主義的な話の展開などを表すネガティブな言葉である。Appleseed Alpha.原作第一巻をベースとしたリブート作。荒牧伸志による長編アニメ三作目で、過去の二作品よりも更に実写的なCGスタイルで制作された。APPLESEED GENESIS.2008年3月東京国際アニメフェアにてのタイトルで全編3DCG製作の���レビアニメの予定として製作発表された。オリュンポスが完成する以前理想郷の完成を阻止しようとするテロリストたちとデュナンナッツらESWATとの戦いが描かれるオリジナルストーリー。監督はロマのフ比嘉キャラクターデザインは美樹本晴彦。当初2009年春より各話30分全26話が放送される予定であった。その後アニメ制作会社が製作元に対して制作代金の未支払いを理由に提訴を行い制作がストップしていると報じられた。その後2011年にミコットエンドバサラが倒産したため実質的に製作は中止となった。APPLESEED XIII.アップルシード XIIIからなる完全新作アニメシリーズ。2011年6月より、劇場での期間限定上映、ネット配信、Blu-ray Disc・DVD発売を同時展開。2011年6月13日より劇場リミックス版が公開。宮川輝により漫画化され2011年12月号より2013年6月号まで連載された。ストーリーはアニメ本編のシナリオをほぼなぞる形になっているが、ラストシーンなど一部はオリジナルの展開で再構築されている。また、原作や過去のアニメ化作品のオマージュと思われるシーンが多く、アニメ本編には登場しない立法院の七賢老、大佐、アルゲス、吉野、A-10が登場したり、デュナンとブリアレオスの恋愛関係が強く押し出されたラブコメ的な場面もたびたび登場する。細密なメカニック描写やアクションシーンが高く評価される一方で、独特の画風やキャラクターのデフォルメ、関西弁を多用したセリフ回しは賛否両論となっている。余談であるが作者の宮川輝は今回のコミカライズの依頼があるまで漫画のアップルシードを読んだことがなく担当者を驚かせたという。スーパーファミコンおよびPlayStation 2用としてとしても展開されている。アップルシード EX.『アップルシード EX』(アップルシード エクス)は、2007年2月15日にセガが発売した ガン&ファイティングアクションゲーム。製作はドリームファクトリー。漫画を題材に2004年に劇場公開された映画『APPLESEED』を元にしている。ゲーム中に流れるムービーなどは監督である荒牧伸志と同映画でCGを担当したデジタル・フロンティアが製作するなど、映画との連動を強く打ち出しているものの、ゲームの内容についてはファミ通レビューにおいて過去の最低点より一つだけ上(40点満点中13点)という評価がなされている。アップルシード XIII.アップルシード XIIIのマルチプラットフォーム対応ブラウザ型ソーシャルゲーム。 +高橋 留美子は、日本の女性漫画家。有限会社るーみっくプロダクション代表取締役。新潟県新潟市出身。血液型A型。1978年など。特にラブコメディを得意としておりそのキャラクター造形はの原型の一つとも言われている。少年漫画の分野における女性漫画家の草分け的存在で代表作はいずれもTVアニメ化されヒットを記録長期シリーズ化され単行本の世界累計発行部数は1995年に1億部2017年には2億部を突破した。その独特の世界観はしばしばと称され作品集のタイトルにも用いられている。新潟市中央区古町で産婦人科医院を開業していた高橋家の末っ子教育に貢献している。幼少期から兄の持ち物であった少年漫画を愛読し、中学の頃からに投稿するも落選、一時は漫画家になるのを諦めたという。高校卒業後はと声をかけられすぐに特別研修生となる。在学中の1978年投稿作と感動しの掲載号を3冊も買ったという。1978年サンデー39号よりSFコメディの連載を開始。約1年半の不定期連載の後大学卒業を機に同人作家から本格的に漫画家に転身することとなり1980年春から同作品の週刊連載を開始。さらに1980年秋から並行して、青年誌にてを、連載開始。デビュー直後は画力が低かったものの、この頃から画力が安定し現在の絵柄を確立した。1987年まで2つの人気作品の連載をこなし、少年誌&青年誌という作風の広さから知名度を高めた。1987年冬にの連載を開始し不定期連載となる。1996年冬に『らんま1/2』を終了し同年秋から『犬夜叉』の連載を開始。かねてから興味のあった伝奇ものの本格連載でこの作品ではギャグ要素を減らしたシリアスな路線を取った。2008年夏にの連載を開始している。自身をと評し、デビュー。大学の漫画研究会出身で、初の連載でヒットという極めて稀な例であった。影響を受けた漫画��として。2018年現在は小学館新人コミック大賞の審査員も務めている。作詞家の岩里祐穂は高校時代の同級生。インターネットなどに疎いと自負しており長らくSNSも活用していなかったが2021年6月に担当編集者の手を借りてTwitterに公式アカウントを開設した。自身のツイッターで向けられた質問への回答をしている。その中の一つにと語った。というキャッチコピーだった。これをきっかけに、作品集のタイトルおよび世界観を総括した言葉としても用いられるようになった。ギャグやコメディ作品でみられる中指と薬指を曲げたポーズが主流。これは、ドタバタシーンでぶん殴られて吹っ飛ばされた時など、痛そうに見えないようにと呼ばれる。読み切り・短期連載作品.※は単行本未収録作品。週刊少年サンデー創刊50周年記念としてが2008年7月から2010年3月まで全国各地で開催された。会場では主にに収録されている。さらに同年10月20日にこれら3作品が単巻Blu-rayDVDで発売された。アシスタントは山本貴嗣を除いて全て女性である。 +ゲームと混同され、国内では和製英語としてにも重点を置いた解説をする。以下はよく使われるゲームの定義である。ウィトゲンシュタイン.哲学者のウィトゲンシュタインは、著書のなかで、カテゴリ化に関する議論のなかでゲームの定義を議論した。おそらくゲームを定義づけようとした最初の議論と考えられている。ゲームと呼ばれているものは、ルールや競争を共通の要素として持っている。しかし、彼は、どのようにゲームを定義づけようとしても、必ずその定義から外れてしまうような「ゲームによってゆるやかにまとまっていると主張した。フランス人社会学者のロジェカイヨワは著書のなかで以下のようにゲームを定義した。すなわち楽しみのために行なわれること時間と場所が区切られていること勝敗が不確定であること何かを生産するものではないことルールに支配されること現実の活動から意識的に切り離されていることをゲームの参加者が知っていることである。また彼はplayに対応するパイディアPaideaを提案した。ゲームデザイナーのグレッグ・コスティキャンは雑誌Interactive Fantasyの記事 において、例えばの作者ウィル・ライトが自分の作品を」であるとしている言葉などを引きつつ、ゲームとはものであるとした。ゲームデザイナーのクリス・クロフォードは二分法の一連を使ってゲームという用語を定義することを試みた。:したがってクロフォードの定義は次のようにされるかもしれない遊ぶアクティブなエージェントとの互いに干渉できるインタラクティブでゴール指向の活動。エニックス元社員のJUNZOは著書を導入することによりそのあるものをゲーム化できるというゲーム化理論を考案した。ゲームのルールあるいはゲームのプレイに必要な情報はプレイヤーの間でよく知られたものと仮定される。ゲーム理論そのものはゲーム理論において状況の分析などに使う分類はゲーム研究でも有用なためしばしば流用される。まず前述のように一般にここで扱っているようなゲームでは完備情報ゲーム or 不完備情報ゲーム という分類では完備である。一般によく使われる表現になどである。以下の節のうちのいくつかはこの分類法中に含まれるような話題を扱っている。ゲームはしばしば、必要とされるコンポーネントによって分類される(ミニチュアゲーム、球技、カードゲーム、ボードゲーム、コンピュータゲームなど)。よく皮革が使用される場所で、ボールは歴史を通じてポピュラーな試合の部品であり、結果としてラグビーフットボール、バスケットボール、フットボール、クリケット、テニス、バレーボールなどの球技は世界的に人気になった。他のツールは一定の地域に特有である。たとえば、ヨーロッパの多くの国ではユニークなトランプの標準的なデッキを持っている。チェスなどのほかのゲームは主にそのゲームのピースの開発と発展を通じて追跡されるかもしれない。多くのゲームのツールはトークンであり他のものを表すことを意図される。トークンはボードプレイマネーまたは得点などの無形のアイテムの質入であることがある。かくれんぼまたは鬼ごっこなどのゲームはどのような明白なツールも使用しない。むしろそれらのインタラクティブ性は環境によって定義される。環境が変更されるならば同じまたは同様な規則を持つゲームは違うゲームプレイを持つかもしれない。たとえば学校の建物でのかくれんぼは公園の同じゲームと異なる。オートレーシングは同じ車によってもレーストラックまたはストリートレースのコースに依存して根本的に違うことがある。ランダム性の有無による分類.ランダム性の有無という視点である。確定ゲーム と不確定ゲーム といった用語がある。probabilistic gameの例として、各種トランプゲーム、まわり双六、バックギャモンなどがある。トランプゲームにおいてはカードをシャフルする事がランダムさの源で、まわり双六やバックギャモンにおいてはサイコロの目に従うことがランダムさの源である。deterministic gameの例としては囲碁、将棋、チェス、チェッカー、ダイヤモンドゲームなどがある。これらのゲームでは偶然の要素はない。参加する人数による分類.ゲームがもしだとしても、競う相手は一人からでも楽しむ事のできるゲームも数多く存在する。一人で楽しむ事のできるゲームはソリテール(ソリティア)もしくはペーシェンスと呼ばれる。ソリテールの多くは事前目標に到達できたことを「勝ち」そうでないことを「負け」とも考えられる。ソリテールにはボードカードなどを使うものも昔から多様な種類が存在することも知られている。一人で遊ぶ事を主眼としたコンピュータゲームなどはソリテールに分類する事もできる。ソリテール以外のゲームに参加する人数が固定しているもの=例えばの話だが囲碁将棋コントラクトブリッジなどとそうでないもの=例えばの話だがポーカー7並べババ抜きなどがある。固定しなくても上下限があるものも数多く存在している。シングルプレイヤーゲーム.ほとんどのゲームは複数のプレイヤーを必要とする。しかしシングルプレイヤーゲームはプレイヤーが直面している挑戦のタイプとしてユニークである。ゲームのゴールに到着するために互いに張り合っているマルチプレイヤーゲームと違ってシングルプレイヤーゲームは環境(人工的な相手)の要素に対する自分のスキルに対する時間に対するまたはチャンスに対するのみの戦いである。ヨーヨーで遊び壁を背景としてテニスをすることは一般的に手ごわい相手の欠如のため試合と認められない。コンピュータが相手を提供する場合コンピュータゲームをシングルプレイヤービデオゲームと評することは有効ではない。コンピュータが記録するのみであるならばゲームは正当にシングルプレイヤーとされることがある。と評された多くのゲームは実際にはパズルまたはレクリエーションと名づけられるかもしれない。隠された情報の有無による分類.囲碁将棋オセロなどは現在の相手の手がすべて分かるという意味で隠された情報がないゲームである。これに対し、ポーカー、麻雀などは、相手の手など、プレイヤーから隠された情報を推測するという要素の加わるゲームといえる(不完全情報ゲーム)。必勝法を探索する問題の困難性による分類.ゲームの必勝法探索問題それ自身の困難性は、今のところ定義されておらず、ゲームのクラスに対する必勝法探索問題の困難性が定義されている。ハミルトンゲームはNP完全問題である。(先手後手あわせて)n手で終了するゲームの必勝法を探索する問題はしりとりはPSPACE完全問題である。尚、二人零和有限確定完全情報ゲームには必勝法があることが知られている。ゲームがしばしばそれらのツールによって特徴付けられまた規則によって定義される。規則がハウスルールに左右され規則の十分な変化は結果として通常ゲームを生じさせる。たとえば野球は野球によってまたはウィッフルボールによって行われる。しかしプレーヤーが3つだけのベースによって遊ぶと決めるならば彼らは間違いなく違うゲームをしている。いくつかのゲームが意図的に自身の規則の変更に関係していることを例外としてそのときでさえしばしば不変のメタ規則が存在する。ルールは一般にターンオーバーとプレイヤーおよび各プレイヤーのゴールの権利と責任を決定する。プレイヤーの権利は資源を使��することやトークンを動かすことを含む。よくある勝利条件は最初にポイントまたはトークンの一定の割合を貯蔵することである。ゲームのツールと規則は結果としてスキル、戦略、運またはそれらの組み合わせの必要性を生み出すであろうし、それに応じて分類される。スキルのゲームはレスリング綱引き石蹴りライフル射撃スケートなどの物質的なスキルのゲームとイングリッシュドラフトとチェスなどのメンタルスキルのゲームを含む。戦略ゲームはイングリッシュドラフトチェス囲碁アリマア三目並べを含みしばしば特別な道具を必要とする。運のゲームはギャンブルゲームおよび蛇と梯子やじゃんけんを含む。多くはカードやサイコロなどの機器を必要とする。しかしほとんどのゲームはこれらのうち2つまたは3つの要素を含む。たとえばアメリカンフットボールや野球は物質的なスキルと戦略の両方に関係しティドリーウィンクポーカーモノポリーは戦略と運を結合する。多くのカードゲームとボードゲームは3つすべてを結合する。ほとんどのトリックテイキングゲームやリスクカタンの開拓者たちカルカソンヌなどの多くの戦略的なボードゲームはメンタルスキル戦略および運の要素に関係している。ローンゲームは、一般にとしてマーケティングされる。メジャーなローンゲームはホースシュー、ショルフ、クロッケー、ボッチェ、ローンボウルズ、およびスケートを含む。卓上ゲームは一般に遊びの要素が小さい領域に制限され通常ゲームのピースを置き回復し動かすことのみで構成され激しい運動を必要としないゲームを指す。したがってこれらのゲームんほとんどはプレイヤーが座りゲームの要素が存在するテーブルで行われる。さまざまな主要なゲームの型は一般に卓上ゲームのうちに入る。このカテゴリー特にパーティーゲームに分類される多くのゲームが遊びにおいてもっと自由な形式でたとえ基本的な前提がゲームが広い領域大量の力やスタミナ箱に入らない専門的な機器を必要としていないことであってもパントマイムなどの身体活動に関係することを行うことが可能であることには注目する価値がある。器用さとコーディネーションのゲーム.ゲームのこの分類は、関係しているスキルの要素が手先の器用さまたは手と目の統合と関連しており、コンピュータゲームを除くあらゆるゲームを含む。ジャックス、ペーパーフットボール、ジェンガなどのゲームは、非常にポータブルな、または即席で作られた機器のみを必要とし、あらゆる平面で行われる一方、ピンボール、ビリヤード、エアホッケー、テーブル・フットボール、テーブルホッケーは専門的なテーブルまたは試合用のその他の内蔵モジュールを必要とする。テーブルホッケー、ビリヤード、ピンボール、テーブル・フットボールは私的および公的なゲームルームで人気のある備え付け品であり続けるが、ホームビデオゲームシステムの出現は主としてテーブルホッケーなどのこれらのいくつかを取り替えた。これらのゲームは、反射とコーディネーションを必要としているので、一般に酔った人によってより不十分に実行されるが、結果として怪我を受けることがありそうにない。このようなゲームはドリンキングゲームとして人気がある。さらに、クォーターズなどの専門のドリンキングゲームもまた身体的な調整力に関係し、同様な理由のために人気がある。ボードゲームはプレイヤーのステータス資源進歩が物質的なトークンを使用して追跡されるボードを中心的なツールとして使用する。多くはサイコロやカードを使用する。戦争のシミュレーションをするほとんどのゲームはボードゲームでありボードはプレイヤーのトークンが移動するマップであることである。事実上全てのボードゲームは遊びに反する。チェス囲碁将棋オセロなどのいくつかのゲームは完全な決定論であり興味は戦略要素のみである。一方では子どものゲームは非常に幸運ベースである傾向がある。たとえばキャンディランドは作成される決定の要素を事実上全く持っていない。他のボードゲームは戦略と幸運の要素を結合する。バックギャモンは2つのサイコロのロールに基づいた最もよい戦略的な動きを決��することをプレイヤーに要求する。トリビアゲームは人が得る問題に基づいたたくさんの無作為性を持っている。ユーロゲームは多くのボードゲームより幸運のファクターがやや少ないことがしばしば存在することについて有名である。ボードゲームのグループは、上で述べられているトリヴィアゲーム、ユーロスタイルボードゲームのほかにレースゲーム、ロール・アンド・ムーブ・ボードゲーム、アブストラクトゲーム、言葉遊び、ウォー・シミュレーションゲームを含む。いくつかのボードゲームは複数のグループに属し、他のジャンルの要素を含んでいる。たとえば、クラニアムはひとつの人気のある例であり、プレイヤーは4つの主要なスキルのそれぞれに成功しなければならない:芸術性、ライブパフォーマンス、トリヴィア、語学力。カードゲームは中心的なツールとしてカード一組を使用する。これらのカードは標準的な52枚の英米式トランプデッキであることがある。UNOとロークは元来標準のデッキとされたがその後カスタマイズされたデッキが商品化された例である。などのいくつかのトレーディングカードゲームは大きな入手可能なセットから個々に収集されるか購入されるカードの小さなセットによって行われる。いくつかのボードゲームはゲームプレイの要素として、通常ランダム化のために、またはゲームへの注意を継続させるためにカード一組を含む。逆に、スコアを維持するために、クリベッジなどのいくつかのカードゲームはムーバーとボードを使用する。そのような場合の2つのジャンルの間の区別は、ゲームのどの要素が真っ先に作動しているかに依存する。ランダムな行動のためにカードを使用しているボードゲームは通常ランダム化のほかの方法を使用でき、一方クリヘッジはちょうど同じぐらい容易に紙に得点を記述することができる。使用されるこれらの要素は、単に目的を達成する伝統的でもっとも容易な方法である。ダイスゲームは中心的な要素として多くのサイコロを用いる。ボードゲームはしばしばランダム化要素のためにサイコロを用い、サイコロの各ロールはゲームの結果への深い影響を持っているが、サイコロがゲームのほかの要素の成功か失敗かを判断しないので区別される。代わりにこれらがゲームをする人の中心的な指示者である。有名なものにはヤッツィー、ファルクレ、ブンコ、ブラフ、デュド、ポーカーダイスなど。サイコロが、ごく自然に、見たところ乱数の生成を行うようにデザインされるので、これらのゲームは通常運の占める程度が高い。プレイの戦略的な要素を通じて、そして確率論の教義を通じてある程度プレイヤーが指示することができる。このゲームはギャンブルゲームとして人気がある。ブラフやポーカーダイスは本来ギャンブルゲームとして考えられたが、現在おそらくもっとも有名な例はクラップスである。ドミノとタイルのゲーム.ドミノゲームは多くの点でカードゲームと同様であるが、代わりの一般的な機器は、2つの終わりを持ち、それぞれにいくつかの数のドット(あるいは「目」)が置かれ、上で現れる2つの可能な終端の値がセットの中にユニークであるような、ドミノと呼ばれるタイルのセットである。ドミノゲームは、主にマッチしている他のドミノの終端にプレイヤーの「手」からドミノをプレイしている中心に置くことによってプレイされる。このとき全体のオブジェクトは、すべてのオープンな終端を与えられた数に達せさせるため、あるいは単にボードの上に人の手からすべてのドミノをプレイするために、常にプレイを作ることができるかもしれない。セットは一つの終端の可能なドットの数の中で、およびピースの組み合わせの数によってさまざまである。歴史的に最も一般的なセットはダブル・シックスであるが、最近はダブル・ナインのようなより「拡張」されたセットが導入されている。これはゲームにおいてより大きな手と多くのプレイヤーの参加を許す。マギンズ、メキシカントレイン、チキンフットは非常に人気のあるドミノゲームである。42はカードゲームに非常に類似しているドミノゲームである。伝統的なドミノのバリエーションは以下の通りであるトリオミノは理論において同様であるが三角であり1つのタイルあたり3つの値を持っている。同様にクアッドオミノスとして知られているゲームは4角形のタイルを使用する。いくつかの他のゲームはカードの代わりにタイルを使用する。ラミーキューブはアングロアメリカン式トランプに非常に類似している4色の間でランクを上げていくことを数えるタイルを使用するカードゲームラミーの同種である。麻雀はカード風の値と絵によるタイルのセットを使うラミーに非常に類似している別のゲームである。最初に、プレイするゲームのほかの要素の上で、ボードのレイアウトを形成するために、いくつかのゲームはグラフィカルなタイルを使用する。カタンの開拓者たちとカルカソンヌがその例である。それぞれの中で、「ボード」は一連のタイルからなる。カタンの開拓者たちの中で、最初のレイアウトはランダムであるが静的であり、カルカソンヌではゲームはタイルごとのボードである「建物」によってプレイされる。ボードを全く持っていないが、ピースを動かすためにタイルを使用する抽象的な戦略ゲームハイブはチェスに類似しているメカニカルで戦略的な要素を持っている。ピース自身がレイアウトを形成し、また動くことができる。鉛筆と紙によるゲーム.この種類のゲームは文房具以外の専門的な機器をほとんどまたは全く必要としない。ただしボードゲームとして商品化される。これらのゲームは多様でありピクショナリーのような描かれたデザインに注目しているゲームやスプロウツのような"点と点を結ぶ"ゲームボッグルやスカッテルゴリエスなどの文字と言葉のゲーム数独やクロスワードパズルなどのソリテールとロジックのパズルゲームがある。推理ゲームは1人のプレイヤーが知っている情報をコアとして所持しオブジェクトはテキストまたは話された言葉の中で事実上それを漏らさない情報の断片を推理することを他人に強いることである。ジェスチャーはおそらくこのタイプのもっとも有名なゲームでありキャッチフェイズタブーピクショナリーなどの通信のタイプの異なる規則に関係しているたくさんの商業用のバリエーションを生み出した。このジャンルはまたウィンルーズオアドローパスワードおよび25000ドルのピラミッドなどの多くのゲームショーを含む。球技などのスポーツの試合というゲームがあるがそういうゲームとのかかわりかたは試合に参加する方法と見て楽しむという方法がある。スタンリー・フィッシュは、社会的なとりきめによる規則の操作の明白な例として、野球のボールとストライクを挙げた。ストライクゾーンというのは人々がそれがあるとみなすことに互いに合意した場合だけ存在している。物理的な実体はまったく無い。人々の心の中の決めごとによって生み出されているのである。そして、どの投球も、権限を与えられた審判員の判定によってなどと声でラベルを付けて分類されるまで、ボールでもストライクでもない。なお、すべてのスポーツがゲームというわけではない。たとえば競走や体操などは、近代オリンピックにおいてどう扱われていようが、クロフォードなどの定義によるゲームにはあたらない。彼らは間接的な方法で互いに挑むのみである。直接的に相手に干渉したりはしない。1950年代や1960年代から大型計算機ではしるゲームソフトを書いて遊ぶ人たちがいた。1970年代後半にパーソナルコンピュータが登場してからは、パーソナルコンピュータを買える年齢の大学生や大人たちの間でゲームソフトがさかんに制作された。また1983年に任天堂からファミリーコンピュータというゲーム専用コンピュータが発売されてからは価格の安さと専用機の扱いやすさのおかげで爆発的に普及し子供たちがコンピュータゲームをするようになった。それぞれの属する世代や各人の経済力によりコンピュータ関連のと言えばスマホのゲームアプリのことだと思っている。コンピュータゲームはコンピュータをゲームルールの情報処理に深く利用している。コンピュータはカードまたはサイコロなどの人あるいは人工知能との間でのゲームで使用されるバーチャルなツールを作成することができるかゲームプレーをとおじて処理できる現世のもしくはファンタスティックなものよりずっと精巧な世界をシミュレーションすることができる。ビデオゲームでは1つ以上の入力デバイスを使用する。アーケードゲームでは一般的に押しボタンとジョイスティックの組み合わせである。パーソナルコンピュータ用ゲームではキーボードマウストラックボールである。ゲーム機ではゲームコントローラまたはモーションセンシティブツールである。パドルコントローラなどのより難解な機器も入力のために用いられる。コンピュータゲームにおいて単純なキーボードからマウスジョイスティックジョイパッドにいたるまでのユーザーインタフェイスの発展はゲームの開発の性質を大きく変更した。多くのジャンルのビデオゲームが存在する。最初の商業用ビデオゲームポンは卓球の簡単なシミュレーションであった。処理パワーの増大に伴いアドベンチャーやアクションゲームなどの新しいジャンルが開発された。これが障害の一連を通じて第三者の眺望からキャラクターを誘導しているプレイヤーに関係した。この戦略に制限されるボードゲームによって容易に再現されない。この有利さはビデオゲームがより現実的に戦闘などの状況をシミュレーションすることを可能にする。さらにコンピュータゲームの遊びは実世界の表現と同じ物質的なスキル力危険を必要とせず空想的な自然物質的な暴力を伴っているゲームまたはスポーツのシミュレーションの要素を許し非常にリアルだが誇張されるか不可能な物理学を提供できる。最後にシングルプレイヤーのよってプレイすることができるシミュレーションを引き起こしコンピュータは成功のさまざまな程度によってチェスなどの伝統的なテーブルゲームにおいて1人以上の人の相手をシミュレーションすることができる。サンドボックススタイルゲームとして知られるより無制限のコンピュータシミュレーションにおいて、ゲームは、プレイヤーが自由にこの宇宙の限界の中で好きな何かをすることができるかもしれないバーチャルな環境を提供する。時々、ゴールの不足または欠如があり、これは、これらがのどちらと考えられるべきであるかについてのいくらの討論を起こしたタイムシェアリング方式の電話回線でつないだコンピュータの時代からオンラインゲームは一応行われていた。PLATOなどの初期の商用システムは厳密に教育的な分野と少なくとも同じくらいゲームによって有名であった。1958年Tennis for Twoは訪問者の日を支配しブルックヘブン国立研究所のオシロスコープに注意を引きつけた。1980年代パロアルト研究所は主にメイズウォーによって知られていた。それは訪問者に実地のデモとして提供された。パソコンで遊べるゲームはフラッシュゲームなどもある。とはいえこれはアメリカの研究所の研究員の話であり世界中の一般人はこんなことはできなかった。一般の人々にとっては、1980年代後半のパソコン通信の時代でもオンラインゲームはあまり一般的ではなかった。1990年からすこしづつインターネットが普及したが、最初は従量制で時間あたりの料金が高すぎて、おまけに回線速度もとても遅かったので、オンラインゲームは普及しなかった。普及したのは、プロバイダー同士の競合が激化して、安い定額料金が設定され安心して遊べるようになり、回線の高速化つまりブロードバンドや光回線が一般的になってからである。現在のオンラインゲームはインターネット接続を使用して行われる。いくつかがクライアントプログラムを献呈した一方ブラウザゲームはウェブブラウザのみを必要とする。いくつかのより簡単なブラウザゲームはビデオゲームをほとんどしない人口統計のグループにアピールする。コンピュータゲームは出現したニューメディアのランドスケープの全てのセクタでよく設立される。メディアは、1つだけの方法を循環する伝統的な方法からインタラクティブな方法へ変換する。これはビデオゲームの世界中で広がっている現象である。これは、オンラインとオフラインの空間が別れずにと考えられることができる方法の明白な例である。)社会的変化と開発の結果としてメディアの客の特徴が変化する。彼らはアクティブになりこれまでよりもっと対話する。この現象においてゲームのプレイヤーは私たちの社会の中での構成に似ている。彼らは両方とも自動調節であり彼ら自身の社会規範を作成していてゲームのコードを通してそして時々それを実行する人々によるゲームの取締りを通じて規則と強制に縛られる。取り締まられる価値はゲームによって変わる。ゲーム文化の中にエンコードされた価値の多くはオフラインで文化的な価値を反映するがゲームはまたチャンスを強調の選択肢に提供したりファンタジーと遊びの名において価値を鎮圧する。新しい世紀のゲームのプレイヤーは現在見たところゲームを通じて深い自身を表現している。彼らが匿名のステータスによって遊ぶことができるときに急ぎまた一度も外出したことがないポジションから外に進むことを発見できる。それらはコンピュータ技術のインタラクティブで浸水の可能性に基づいた新しい体験と楽しみを提供する。対戦ゲームeスポーツ.コンピュータゲームで対戦を行うことは、1983年発売のファミリーコンピュータでも、1994年発売の初代プレイステーションでも行われていた。コントローラーが2つ付属しており、2人が同時にプレイでき、2人で対戦するためのゲームソフトも販売されていたからである。ネットワークにつながなくても対戦を楽しむことができた。PS2のグランツーリスモ3 A-specでのプレーヤ2人での対戦は、ただコンピュータゲームというだけでなく、プレーヤたちは互いの車をぶつけあって干渉しあうので、クロフォードの定義のにも該当する。近年、PCゲームで対戦を行うことがさかんになり、対決試合の大会まで行われるようになり、最初はスポーツ系・肉体系の動作を表現したゲームから始まり、その直接的な競い合いぶり、そのぶつかりあいの激しさに、これはもうスポーツだ、ということでeスポーツと呼ばれるようになった。たとえばの対戦など、自分のキャラは相手のキャラに激しく干渉しており相互作用が起きており、クロフォードの定義のにも該当する。ロールプレイングゲーム.RPGとしばしば省略されて呼ばれるロールプレイングゲームは通常参加者が虚構の設定上で活動するキャラクターの役割を受け持つタイプのゲームである。本来のロールプレイングゲームという用語が指すテーブルトークロールプレイングゲーム(TRPG)とも呼ばれるこれらのゲームは通常テーブルに向かい合った複数人の参加者によってプレイされ筆記具と紙を用いたフィクションの展開に終始傾注する。プレイヤーたちは協力して、彼らのキャラクターに関連した設定を作り、その設定を発展させ、探求し、また他人になりきって日常生活の枠を飛び越えた冒険を経験することになる。今日のテーブルトークロールプレイングゲームは、伝統的なジャンルの境界を越えて、様々な作品が作られており、戦闘重視なものから、よりストーリー重視なものまで、数百種類のゲームが存在している。ロールプレイングゲームという用語は今日ではコンピュータRPGを指すためにも使われる。あらかじめプログラムされた状況とストーリーを単独のプレイヤーが遊ぶゲームであることが多いがインターネットの発達によりMORPGMMORPGと呼称される小規模大規模の複数プレイヤーが参加するコンピュータRPGも存在する。また一人でコンピュータを用いずにプレイできるテーブルトークロールプレイングゲームとしてゲームブックなども存在する。ビジネスゲームはインタラクティブなボードゲームから違う支柱と活動のさまざまな種類に関係しているインタラクティブゲームまでのさまざまな形式を取ることができる。これらのゲームの目的は組織的な性能のいくつかの面にリンクしビジネスの発展についての議論を生成することである。多くのビジネスゲームは組織的な行動に注目する。これらのいくつかがコンピュータシミュレーションである一方他方はプレイと情報の聞き出しによるシンプルなデザインである。チームビルディングはそのような活動の共通のフォーカスである。用語で使うことができる。有名な例は軍事演習と役割演技である。この意味の根は、先史時代に端を発するかもしれないことが、原始文明を観察する���とから人類学によって推論された。それにおいて、子どものゲームは重要なほどに狩猟、戦争、看護、などの大人の活動を真似する。これらの種類のゲームは現代に保存される。デザインゲームとはまちづくりにおけるシミュレーションの一種で具体的な空間計画等を行う際に空間イメージをシミュレーションし目標のイメージを関係者で共有するための手法。ワークショップのような集会において参加者が意見やアイデアをだし合い実際に設計やデザインに参加する。ワークショップ形式での新しい公園やまちを計画する際など住民参加型の計画に用いられる。種類として将来の町の姿をシミュレーションするなど各種ある。 +コンピュータゲームとはコンピュータの機能を使って動作するゲームの日本語における総称。あるいはコンピュータ上で動作しコンピュータと人間の間で行なうゲームのこと。もしくはコンピュータを利用したゲームおよびそのプログラム。名称については節で詳説する。日本語は、使用する機器とディスプレイ装置およびゲームソフトの供給媒体の違いから、以下の5種類に分類される。また、という語は、広義ではコンピュータゲームと LSIゲームの総称であるが、狭義では LSIゲームの別名である。日本語では、コンピュータ化したものという意味合いでコンピュータゲームを「デジタルゲーム」と呼び、コンピュータゲーム以外のゲーム(非電源ゲーム)をこれと対比して「アナログゲーム」と呼ぶ向きもある。ここでの「デジタル」および「アナログ」という用語は、本義からは離れた日本語独自の俗用である。デジタルゲームという言葉は1975年頃には使用され、テレビを介する場合のテレビゲームの語も使われたが、1980年代初頭の段階ではテレビを使わない小規模な電子回路のゲーム機をデジタルゲームと呼び、両者は部品に一部共通点があるが別の意味の言葉だった。1980年代末には既存のボードゲームなどを意味するアナログゲームの言葉が使われ始め、同時期にはの発売でコンピュータゲームの音楽がファミコン音楽と呼ばれていたのがゲームミュージック/ゲーム音楽と呼ばれるようになり、ゲームという単語でコンピュータゲームを意味するようになっていた。1996年頃には新聞でもデジタルゲームとの見出しの記事があるが流行の1つともいえたため時が立つにつれて使用頻度が減っていったが、日本デジタルゲーム学会の設立もあり、学術用語やマニア向けに語が広まっていった。英語(※事実上の国際共通語)ではコンピュータの信号をビデオモニターに出力して表示していた時代が長かったことから"video game" という語を用いるのが通例。英語と日本語の対応については英語の"video game"と日本語の「コンピュータゲーム」の語義が近く"computer game" や "PC game" に語義が近いのは「パソコンゲーム」や「PCゲーム」である。また英語の "electronic game" は日本語の広義の「電子ゲーム」と同義である。日本語では漢字表記しないが日本語と同じ漢字文化圏の中国語では。史上初のコンピュータゲームとされるものは、1947年にコーネル大学卒業生のアメリカ人およびエストル・レイ・マン によって開発された陰極線管娯楽装置 である。次いで、1952年にEDSAC上でプログラムされたを開発し、これが世界初のコンピュータ式アーケードゲームとなったことで、産業化が始まった。翌1972年にはラルフ・ベアによって世界初の家庭用ゲーム機であるが開発された。日本においては1970年代末より広まったアーケードゲームにおけるLSIゲームがコンピュータゲームの産業化のはしりと言え1978年にが登場することで一大ブームを巻き起こした。家庭用ゲーム機も1980年代に入るといくつか登場したがなかでも1983年に発売されたファミリーコンピュータは社会現象となるほどの爆発的な売れ行きを記録しほかのハードを圧倒して家庭用ゲーム機の代名詞となった。その後もコンシューマーゲームの成長は続きプレイステーションやセガサターンNINTENDO64といった新ハードの発売も進んで1996年に日本国内の家庭用ゲーム市場規模は最大となった。しかしその後は家庭用ゲーム販売は減少傾向となり2006年には携帯用ゲームソフトの販売が据え置き用のそれを上回った。し���しこのころにはすでにモバイルゲームの急速な躍進が始まっており2009年から2011年にかけてはフィーチャーフォン向けのソーシャルゲームが急成長を遂げその後2011年以降はスマートフォン向けのゲームに切り替わった。日本においては国立国会図書館法の一部を改正する法律が2000年10月1日に施行され、コンピュータゲームソフトを含むパッケージ系の電子出版物に納本義務が課せられた。日本標準産業分類においては、コンピュータゲームのソフトウェア産業は情報通信業に分類され、なかでも情報サービス業に区分される。ゲーム産業は、テクノロジー/ビジネスモデル/コンテンツデザインによってといわれる。コンピュータゲームの市場は成立以降急速に拡大を続け一大産業へと成長した。2018年のコンピュータゲームの総売上は13兆1774億円と推定されておりそのうち90%以上がデジタル配信ゲームでありパッケージゲームの売り上げは1割以下となっている。また売り上げはアジア北アメリカヨーロッパの順に多くこの3地域の売り上げは95%近くにのぼる。日本国内のコンピュータゲーム売上は2018年に1兆6704億円となっておりこのうちスマホゲームが1兆1660億円家庭用ゲームが4343億円を占めた。ゲーム企業の売り上げは年較差が激しいが2017年のゲーム事業売り上げデータでは中国のテンセントが1位であり以下ソニーAppleマイクロソフトアクティビジョンブリザードの順となっている。またこの年任天堂は9位バンダイナムコは10位となっている。またコンピュータゲームをスポーツや競技として捉えるエレクトロニックスポーツも盛んとなってきている。ゲーム一般としての分類.一般のゲームと全く同様に、コンピュータゲームに関しても、理論的なというような分類が応用できる。コンピュータゲームの特殊性としては、割とありえる、といった点がある。以下はよりコンピュータゲーム固有の事情や観点からの分類である。ここではビデオゲームやデジタルゲームの特徴として、非電源ゲームであるボードゲーム、テーブルゲーム、カードゲームなどとの対比を述べる。プラットフォームによる分類.コンピュータゲームはそのプラットフォームによっていくつかに分類される。ゲーム専用機によってプレイされるゲームはアーケードゲームとコンシューマーゲームの2つの区分がある。アーケードゲームは業務用ゲーム機によって提供されるゲームで個人向けでなく企業向けのプラットフォームでありゲームセンターや遊園地などに設置されることが多く大型の専用筐体を用いた大型筐体ゲームも存在する。コンシューマーゲームは家庭用ゲーム専用機によって提供されるものを指し据え置き型ゲーム機によるテレビゲームと小型で持ち運びしやすい携帯型ゲームの2種類が存在する。またコンシューマーゲームは任天堂やソニーのようなゲーム機(ハード)を製造する企業とゲームソフトのみを製造しハードをプラットフォームとしてのみ使用する企業の2種類が存在しこうしたソフト専業企業をゲーム業界ではサードパーティーと呼ぶ。ゲーム専用機以外のハードウェアによってプレイされるゲームはパーソナルコンピュータを利用してプレイするパソコンゲームと携帯電話やスマートフォンスマートデバイスなどを使用するモバイルゲームとに分かれる。またDVDなどの再生機能つきゲーム機でプレイすることのできるDVDプレイヤーズゲーム/UMDプレイヤーズゲーム/BDプレイヤーズゲームといったものも存在する。古くはVHDゲームやLDゲームといったものがあり特に後者はLD-ROM2やMEGA-LDといったハードもあった。という用語もプラットフォームによる分類の一種である。プラットフォーム発展史.アーケードゲームビジネスはコンピュータゲーム以前から存在しておりそれらのゲーム機特にビデオゲームのコンピュータ化が1970年代のコンピュータゲームビジネスのルーツの一つである。1970年代のコンピュータゲームとしては、メインフレームやミニコンピュータ上で作られ遊ばれたものもあるが、前者はデモンストレーション用といった位置付けが強い。後者は『スペースウォー!』のようにアーケードゲームに発展したものもある。しかし最も多いのは『スタートレック』のように、次に���べるマイコンゲームになったパターンであろう。1970年代後半から急速に発展したパソコン(当時の呼称はマイコン)では、当初は自作や、公開されたプログラムリストによって自由に流通するプログラムの中の1ジャンルとしてゲームは人気のある分野であったが、ビル・ゲイツの努力(を参照(1976))などもありパソコン向けプログラム製品を商品とした市場ができると、パソコンゲームも商品となるようになった。続いて、家庭用のテレビゲームがあらわれた。前述のアーケードやこれらのゲーム専用機は、1970年代のものは1機種につき1種類のゲーム、ないし多くても十数種類程度の最初から内蔵されたゲームが遊べるというものであった。1980年代にあらわれたアタリや任天堂のテレビゲーム機は、プログラム(ソフトウェア)をカートリッジに搭載のROMで供給するという形態により、ゲーム機本体をプラットフォーム化し、ゲームソフト市場を作った。後にはより小型化されディスプレイを内蔵した携帯型ゲーム機も発売された。以上の類型をまとめて「コンシューマーゲーム」(コンシューマー=民生市場向け→「家庭用」)とも呼ぶこともある。家庭用ゲーム機はその生産台数の多さから、任天堂ファミコンの場合ではリコーの各IC、セガサターンのSH2、セガドリームキャストのSH4など、集積回路産業に影響を与える存在にもなった。アーケードのビデオゲームも高度化によりコストが高騰したこともあり基本的な設計の流用から始まり1990年代以降は多くの製品が何らかのプラットフォームをベースに設計されることがほとんどとなっておりカートリッジでソフトが供給されるようなプラットフォームもある。LSIの高性能化などにより1980年代から1990年代にあらわれた電子手帳や携帯情報端末でもゲームを遊べるものがあった。近年は携帯電話やスマートフォン/スマートデバイスで遊べるゲームという形態となっている。コンピュータの処理能力の進歩により映像表現や演出が高機能かつ多彩となっている。CGやシェーダ、アニメーション、バーチャルリアリティなど、機械学習/深層学習は特に話題を集めた。コンピュータゲームが特にゲームソフトがどのような経路でプレーヤーに届けられているかで分類する方法である。パッケージソフトウェア / ダウンロードゲーム(配信ゲーム) などと分類する。なお、同人ゲームという同好の士たちが交換したり小規模に販売するゲームというものもある。ゲームシステムによる分類.以下に示すのは既存のゲームジャンルを便宜的に区分して列挙したものである。既存のゲームジャンル幾つかに跨るものも存在しそれが新しいジャンルに発展したものもあるためジャンル分けも絶対的なものではない。テイルズ オブ シリーズのように独特のジャンル名が付けられる場合がある。操作技能要求系はいわゆる反射神経や動体視力がものを言うゲームであるがその幾つかでは要素の出現パターンが決まっておりそれらの暗記が求められるものもある。またコントローラーの性質で遊び易かったり遊びにくかったりするという要素も強い傾向がある。操作技能不要系は即決的な判断よりも、熟考して判断することが重視されるゲームである。より複雑なゲームルールである傾向が強く、また、遊ぶ時間も他のジャンルに比べ、長くなる傾向がある。セーブで中断に対応するものも多い。ゲームのジャンルとしては、ロールプレイングゲームやウォー・シミュレーションゲームのように、コンピュータゲームが生まれる以前から遊ばれていたものや、ボードゲーム/カードゲームといった卓上ゲームをコンピュータで遊べるようにしたものも多い。統合系は幾つかのゲームジャンルの要素を組み合わせたりまたはゲーム以外の概念を既存ゲームに組み込んだものである。登場当初は確定したジャンルが存在しなかったものも多い。RPGにアクションゲームの要素が加えられたアクションロールプレイングゲームやパズルゲームにリアルタイム性を持たせたアクションパズルがある。リアルタイムストラテジーもある。他には、脳トレ・学習ゲームという分類もある。オンライン機能の有無による分類.オンラインゲームはコンピュータネットワーク��利用して機能するゲームのジャンルである。古くはパソコン通信などであったが2000年代に於いてその多くではインターネットへの対応を見せる。スタンドアローンなゲームに対して用い狭義では常にネットワークに接続した状態で行うものを表す。インターネットの普及に伴って遠隔地にいるユーザ同士がプレイを共有するゲームソフトが登場している。ネットの多人数参加型コンピュータRPGとしてMORPG/MMORPGがある。他のプレイヤーとの関係による分類.プレイ人数による分類よりも他のプレイヤーとの関係による分類が有意と言える。2人対戦を基本とするゲームでも、アルゴリズム(人工知能)を対戦相手とした1人プレイのモードが存在する。これはコンピュータが対戦相手役を兼ねるものであり、プレイヤーが1人であってもゲーム内容は2人プレイと同質のものとなる。複数人が同時にプレイするコンシューマーゲームにおいては家庭内でゲーム機を介して他人とコミュニケーションするという意味合いもあって協力関係であるものと競争関係にあるものが主流となっている。複数のプレイヤーが相互に一人プレイを行う形態もレトロゲームやボードゲームやといったパーティーゲームをコンピュータゲーム化したものに見られる。携帯型ゲーム機ではセーブデータを複数保持することで同じロムカートリッジで複数プレイヤーに対応するものもある。2000年代より急速に進歩を見せたオンラインゲームのようにコンピュータネットワーク経由で他のプレイヤーと協力ないし競争するタイプのゲームも増えこちらでは特定人数による対戦形態からMMORPGのようにほぼ無制限なプレイヤー人数と同じ仮想世界を共有する形態も一般化の傾向が見られる。プレイヤー条件による分類.おもに極端な特性を持つという理由からプレイヤー層が限定されたり条件が示されたりする分類である。販売店で購入者の適格チェックが行われる場合もある。このような作品はいわゆる全年齢対象のような万人受けは最初から切り捨てて特定のプレイヤー層に特化しているため老若男女に受け入れられるように配慮されていない。そのため対象プレイヤー層以外には与えるべきではなくまた場合によっては内容に関する注意免責事項が必要であると考えられる。ゲームの分類というのはメーカーの意図どおりに行われるとは限らない。ゲームを販売する販売店側通販側でも分類名を用意して行われることもあるしプレーヤー側でも独特の分類が行われることがある。プレーヤーの特定の趣味嗜好に合うか合わないかで分類する場合もある。 +ゲームのタイトル一覧ではゲームのタイトルに関する一覧を列記する。ゲーム会社一覧では主に を一覧にまとめる。吸収合併や事業譲渡などにより解散した会社.2つ以上の会社による吸収合併・事業譲渡.「コナミデジタルエンタテインメント」発足以降「セガ」の開発子会社(本社から分社された後再統合)「バンダイナムコゲームス」を経て「バンダイナムコスタジオ」へ移行「B.B.スタジオ」へ移行民族音楽が固有に伝承してきた音楽」の意味。国語辞典には昭和50年代から載るようになった比較的新しい言葉だが、この語はさまざまな用いられ方をしており、注意を要する。この節の出典は、学館のの項西洋の古典音楽と大衆音楽以外の伝統的な音楽.もともとethnicにはというニュアンスがあった。歴史的にこの語は欧米で内外の異民族、特に異教徒や少数民族の音楽の特異な響きを指して用いられることが多く、ヨーロッパ人が自民族の音楽を指す言葉としては使わなかった。西洋と日本の古典音楽と大衆音楽以外の伝統的な音楽.日本に移入されたこの語は(1)の意味から自国である日本を除外して「日本以外の非欧米の伝統的な音楽」の意味でつかわれた。近年は当たり前になったが以前は例えば「フランスの民族音楽」などのような言い方はしなかった。伝統的な音楽への志向はまだ残っており例えば「中国の民族音楽」と言った場合京劇や民謡がすぐ思い浮かぶが女子十二楽坊やランランは通常含む。特定の民族・地域・国で行われている音楽全て.に含まれる西欧中心主義や自民族中心主義および伝統的な音楽とそれ以外のジャンルを峻別する考え方への批判か��例えばと言えばよいことになる。(4)「○○の音楽」と言った場合に見落とされやすい音楽を特に示す.基本的にはの立場に立つがと言われれば民謡や民族舞踊の存在を意識する。自民族の伝統的な音楽およびそれに基づいて新たに創作された音楽.ロシア・中国・朝鮮などでは民族音楽という語をそのような意味で使っている。中国の用法では女子十二楽坊は立派に民族音楽である。中国・朝鮮ではもほぼこれに準じる。エキゾチックな感じを与える音楽.と呼ぶ場合が多い。民族衣装や民族料理を楽しむような気軽さで異民族の音楽のエキゾチックさを楽しむ際にこの用法が使われる場合があるがエキゾチックさを強調することはの用法に近い部分があり注意を要する。ここでは世界で行われている音楽全てを除いた音楽つまりの意味での民族音楽について世界各地域の概観を示す。地域の区分は平凡社に準拠するが、旧ソ連地域はヨーロッパ、西アジア、中央アジア、チベット・モンゴル、極東シベリアに分割し、さらに極東シベリアをエスキモーと統合した。また地域名称は適宜現代的なものとし、それぞれに例を示した。当然ながら、地域の分割は様々な文明論・文化論で示されている区分とかなり似てくる。古代中国では三分損益法・十二律・五声が生まれている。なお、14世紀ころには胡弓や三弦が中央アジアから中国に伝わり、そこから朝鮮や日本にも伝わった。日本では三弦は三味線のもととなった。こうした歴史から楽器は共通のものが多い。また五音音階をどの国でも好んで使っているが含まれている音は若干違いがある。朝鮮の音楽には三拍子系統のものが見られる。東アジアの民族音楽の例.モンゴルは五音音階を使うことは中国朝鮮日本と共通している。音楽の主流は声によるものでモリンホールで伴奏され強烈な声量と細かい節回しを特徴とする。五音音階に含まれる音はドレミソラであり中国とも共通する明るいもので親しみやすい。ホーミーと呼ばれる1人の演奏者が同時に2種類の声を発声する倍音唱法も見られる。 喉の奥で発せられる一定した持続低音 その低音に含まれる倍音を口腔の形を調整して発する高音の共鳴音で旋律をつくるというもの。どちらも広大な草原で声を届かせるためのものである。チベットは、ラマ教音楽の誕生した地であり、同じくラマ教を信奉したモンゴルの音楽に影響を与えた。ただチベット文化は弾圧されており、充分に調査されているとは言い難い。チベットモンゴルの民族音楽の例.オルティン・ドー、ホーミーなど非常に多様な地域であるが、大まかには北部と南部に分けることができる。パキスタンとバングラデシュは北部、スリランカは南部の音楽と共通性が高い。インドの音楽は基本的には単旋律の音楽で、旋律楽器を担当する。旋律は22律による7音音階とラーガに基づく。1オクターブを22の音に不均等分割する音律から7音を選び出して音階にするが、現実にはこれは4分音を含むと言うことである。ラーガは旋律を演奏するルールのようなもので、使う音や音の順番、強調すべき音、終わりの音などを決めており、北インドでは72種類、南インドでは10種類あるとされる。リズムはターラに基づく。ターラは基本的なリズムパターンで、2拍や3拍の組み合わせでパターン化されており、一つの曲の中では一つのターラが使われ続ける。どちらもインドの音楽の基本であり、蛇使いの吹く笛もこの理論にきちんと当てはまる。南アジアの民族音楽の例.カタックバラタナーティヤムなどインドと中国両方の影響を受けた地域だがインドの文化の方が基層にありヴェトナムフィリピンを除いてはインド文化圏の辺境と言えそうである。始めインドからヒンドゥー教と仏教が13世紀以後はイスラム教が流入し半島部では仏教が島嶼部ではイスラム教とヒンドゥー教がそれぞれ優勢である。このような歴史からかインドで3~4世紀に成立した「ラーマーヤナ」(ラーマ王子の物語。インドの叙事詩)を題材とする舞踊劇や影絵芝居が方々で見られ音楽とともに上演されて人気を博している。東南アジア独自の要素としては、青銅のゴング。そのような伝統に基づくものと考えられる。音楽は基本的に5音音階の地域が多いが、調律は1オクターブをほぼ5等分や7等分するなど、中国ともヨーロッパとも大幅に違い、わざと濁った響きになるように作られている。調律が合わない時に発生するが超自然的な力を持つと考えられたため。リズムは2拍子系だが、複数の声や楽器がからみ合い、非常に複雑なリズムを作り出す。東南アジアの民族音楽の例.サハラ砂漠以北のアフリカをマグリブも有力な言語である。イスラム教の中では音楽を認める考えと邪悪なものとして退ける考えの対立が長くキリスト教のように宗教儀式で公式に音楽を使うことはないが聖典コーランの朗唱キラーアや1日5回の祈りを呼びかけるアザーンなどは大変音楽的に聞こえる。とくにコーラン朗唱には地域などにより何種類かあり優秀者をたたえるコンクールもおこなわれる。伝統音楽では単旋律即興的メリスマ的(音が長く伸びながら上下に動く)微分音(半音の半分の音程)の使用非常に複雑な拍子(48拍子まである)ウードサントゥール(カーヌーン)ネイ(尺八のような笛)ダラブッカ(太鼓の一種)ラバーブスルナーイ(チャルメラのようなダブルリード楽器)の使用など共通する特徴が見られる。なおウードは琵琶リュートギターのサントゥールはダルシマーやピアノのカーヌーンはプサルテリウムやツィターやハープシコードのラバーブはバイオリン二胡のスルナーイはオーボエの祖先であり長く先進地帯だったこの地域は楽器の宝庫である。またオスマントルコ以来トルコはアラブ世界の音楽的中心地となったほか古くから軍楽が見られその中で使われているシンバルやトライアングルナッカーラとともにヨーロッパの音楽に多大な影響を与えた。西アジアマグリブの民族音楽の例.サントゥールによる古典音楽などカザフスタン・ウズベキスタン・トルクメニスタン・タジキスタン・キルギスと中国の新疆ウイグル自治区を指す。北のステップ地帯(シャーマニズムの影響が残る)と南のオアシス地帯(トルキスタン=トルコ族の地とも呼ばれる。西アジアの影響をいち早く取り入れた)に分かれる。どちらもトルコ系言語が主流であり、アナトリア半島に進出したセルジューク・トルコも中央アジアからイランを経てである。遊牧民の末裔が多く住み、イスラム教信仰やトルコ語・ペルシャ語(に近い言語)使用など、西アジア地域との歴史的・文化的な関係が深く、楽器は西アジアと共通するものが多く、明らかに西アジアの音楽用語が使われていたりする(シャシマコームとは「6つのマカーム」の意味で、マカームとはアラブ音楽の音階・旋法・旋律の意味である)。ただしカルナイ(長いトランペットのような楽器)はウズベキスタン・タジキスタンの楽器である。西アジアの音楽を主導したトルコの音楽の土台は中央アジア共通の民俗音楽であり、太鼓による軍楽の要素はトルコの軍楽のルーツである。中央アジアの民族音楽の例.キュイ(カザフスタン) シャシュマコーム(ウズベキスタン・タジキスタン)などサハラ砂漠より南の地域は黒人の数が圧倒的に多い社会である。言語はスワヒリ語やズールー語などで、声調を持つことを特徴としている。2000を超すといわれる多数の部族の中で伝承されている音楽は、きわめて多様であるが、いくつかの共通する特色をもっている。(1)さまざまな宗教儀礼や祭りなどと深く結びつき、部族社会の生活との深い関係があること(2)音楽や歌の旋律が声調に対応していること。話し太鼓として知られるトーキング・ドラムは、その典型の一つ。(3)きわめて複雑で高度なリズム。同時にいくつかのリズム型を奏するポリリズム、複数のリズムが交錯するクロスリズムなど(4)即興性。踊りと太鼓、あるいは歌詩と旋律、楽器と楽器などの場合、伝統的な旋律やリズムの型をもちながら、状況や場所、演奏者の感情によって自由に組み替えられる。楽器でアフリカにおいて最も注目されるのはマリンババランキティンピラバラフォンなど多くの呼称をもつ旋律楽器の木琴類である。ヒョウタンの共鳴器をつける場合が多い。この木琴類と同じく広範に分布するのが指ピアノとして知られるサンザである。使用される楽器は打楽器系が圧倒的に多いがナイジェリアなどイスラム文��の影響下にある地域では弦楽器を多く使用する。サブサハラアフリカの民族音楽の例.バラフォンの演奏、トーキングドラムの演奏、グリオなどほとんどの国がキリスト教を信仰している。教会で聖歌を歌う習慣がどの国にもありそれぞれの民族音楽に影響を与えている。上流階級的な音楽はどの国も舞踏会だったりオーケストラの演奏会だったりオペラやバレエだったりであまり差はないがお祭りや結婚式や酒場での歌楽器の演奏踊りなどの中に特徴的な民族音楽が見られる。ヨーロッパの民族音楽に共通する特徴は以下の通り。ただ、イスラム勢力に支配されていたことのあるイベリア半島諸国やバルカン半島諸国は、ドイツ・イタリアを中心とするヨーロッパ中央部の音楽とは音階やリズムにかなり違った特徴も見られる。特にバルカン半島諸国では奇数拍子や変拍子が良く見られる。また、東欧諸国では明らかに西欧諸国と違う地声による発声、輪舞を主とする舞踊など、共通性が見られる。ピレネー山脈、鉄のカーテン、カトリックと正教の境界線など、よくヨーロッパの潜在的な境界線とされるものは、民俗音楽の特徴の違いにも表れている。さらに、東欧諸国やイベリア半島にはジプシーがかなりの数いる。ジプシーはさまざまな町を移動しながら、音楽を演奏したり、金属を加工した馬具を販売したりして生活していた人たちで、インド北西部が発祥の地と言われている。ジプシーは職業音楽家としてこれらの国で人気を博し、これらの国の民族音楽に影響を与えたとされている。ヨーロッパの民族音楽の例.極東シベリア・エスキモー.極東シベリアにはロシア人が進出する前から遊牧民・狩猟民・漁労民が生活しており、それぞれ固有の文化を今でも残している。極東シベリアでは口琴や団扇太鼓が広く使われているが、衣装がモンゴル・中国・アイヌ・日本のはっぴに少しずつ似ていたり、祭りの雰囲気が日本の東北地方を思わせたりするのが興味深い。エスキモーの文化はロシア・アメリカ・カナダからグリーンランドまで広がっているが、死霊を慰め狩猟の成功を祈願する儀礼、歓迎や娯楽のために、踊りや太鼓をともなう歌をうたう。歌は個人の所有財産で、贈答も可能である。喉を緊張させ声門と横隔膜を震わせる発声法が用いられ、舌打ちや叫び声などが装飾的に使われる。やはり団扇太鼓の使用が見られる。極東シベリア・エスキモーの民族音楽の例.ジャンル名は明確なものはないが歌民族楽器アンサンブル民族舞踊などネイティブ・アメリカンについて書く。宗教や儀礼に関する踊りを伴い、太鼓やラットルで伴奏する歌が多い。歌は、夢や幻覚を通して超自然的存在から授けられるとし、演奏には呪術師が関わった。喉を緊張させた発声や裏声に特徴があり、エスキモーやシベリア原住民、南米のインディオとの共通性が感じられる。北アメリカの民族音楽の例.ジャンル名は明確なものはないがそれぞれの部族に儀式の歌祭りの歌戦いの歌や踊りが見られる。白人と黒人が長く反目を続けた北アメリカと違って人種間の混血が多かったのが南アメリカの特徴であり音楽もそのような歴史を反映している。どちらにせよ、踊りを伴う活発な音楽が特徴で、ラテンなどと呼ばれ世界的に人気がある。ルンバ、ハバネラ、マンボなど、この地域はリズムの宝庫である。南アメリカの民族音楽の例.カンシオン・ランチェーラ、メキシカン・ハット・ダンスなどニューギニア島、オーストラリア、ニュージーランド、及び太平洋の島々が広い地域で見られる。オセアニアの民族音楽の例.フラ(ハワイ)、ヒメネ・ターラバ、オテア(タヒチ)、ティティトレア(ニュージーランド・マオリ族)など音楽は一般的な意味においての音楽を排除する傾向にあることからという信念に反対する者もいる。 +村上 もとかは、日本の漫画家。東京都世田谷区出身、練馬区在住。男性。父親が映画会社の美術部に勤務していたこともあり幼い頃から絵に親しみ少年時代にはプラモデルの箱絵の戦車や飛行機を描く日々を送った。また近所の女の子の家にあった少女漫画雑誌でを読み満州への憧れを持つなど後の作風に繋がる影響を受ける。当初は小説の挿絵画家を目指すも1960��代の漫画の隆盛を機に漫画に興味が移り高校時代に手塚治虫が創刊した漫画雑誌の影響を受け本格的に漫画家を目指すようになった。神奈川県立大和高等学校卒業後は建築製図の職業訓練校に進むも中退し、近くに住んでいた漫画家の望月あきらのもとに押しかけ無理やりアシスタントにしてもらったが、半年後事情があってアシスタントチームが解散になり、そこから雑誌に漫画を投稿する日々を過ごした。その後は中島徳博の下でアシスタントを務める。1972年、投稿した作品が編集者の目に留まり、などスポーツを題材にした作品を発表、繊細な描写を含んだ力強い作風で注目を浴びた。1981年には、が大ヒットを記録した。テレビアニメ、ゲーム化に加えて、読者層である小学生の間で、剣道が部活動の人気になるほどの剣道ブームが起きたほか、迫力のある試合シーンや個性豊かな登場人物とその成長の過程を丹念に描き出したドラマ性は、子供ならず大人層からも注目を浴びた。12年間のを連載開始する。昭和初期の日本を舞台に財閥の一人息子として生まれた青年を軸に彼の周囲の様々な人々が織り成す群像劇を中心にサスペンスやSF的な要素を交え高い人気を確立した。15年にわたる長期連載となり小学館漫画賞青年一般部門受賞などの栄誉に輝いたこの作品は村上の代表作となっただけでなく漫画家としての活動にも大きな転機をもたらすこととなった。では、幕末にタイムスリップした医師の目を通して人間の尊厳を描くなど、熟練したドラマ性から高い評判を呼び、テレビドラマ化されると高視聴率を記録するなど、話題を集めている。青木 光恵の母。夫は小形克宏。1988年頃に写真誌にてデビュー。以降一般情報誌女性誌4コマ誌青年誌などに作品を発表する。1993年当時雑誌編集者として活動していた小形克宏と結婚。2000年代前半から慢性的な腱鞘炎などの持病などにより時折連載を休載するなど仕事をセーブしていたが近年は主に太田出版のなどに作品を発表していた。2009年竹書房の4コマ漫画雑誌『まんがくらぶオリジナル』3月号から10月号に永森裕二原作の『幼獣マメシバ』を連載していたほか一迅社『コミック百合姫』7月発売号にて『プリンセス♥プリンセス』のゲスト掲載を経て10月号より新連載化された。また芳文社『まんがタイムラブリー』にて10月号から12月号にかけて『青木くんの彼女』がゲスト掲載されていた。また『まんがくらぶオリジナル』にて『はなむら酒店』が2回のゲスト掲載を経て2010年5月発売分の7月号より新連載化された。短編のギャグ漫画や4コマ作品、エッセイを多く執筆。近年はストーリー性のある軽妙なコメディ作品も多く執筆している。デビュー当時から「可愛い女の子」を描くのが得意な漫画家として知られ、特に『女の子が好き♥』の主人公などに代表されるようなグラマーな女性を多く描く。太く柔らかい線で描かれたシンプルな絵柄が特徴。とのこと。そのため百合を苦手とする者からの抗議もあり対応に困っていると自身のHPの日記などで漏らしている。デビュー当時の短編集において既に現在の画風をほぼ完成させていた。代表作にで主人公が上京してからも常に大阪人としてのアイデンティティが強調される。西原理恵子と親しかったことがあり、西原の無頼派エッセイ漫画に登場したことがある。他に内田春菊や寺島令子とも交友があったことが複数の単行本への帯部分へのコメントやゲスト寄稿などがあることから見て取れる。また自身同人活動用ブログでは金澤尚子とも仲が良い旨が公表されている。 +赤塚 不二夫。満州国熱河省出身。小学六年生の時、手塚治虫ので1956年にデビュー。その後赤塚よりも3歳年下の石森章太郎を慕いトキワ荘に入居。以後作品発表の舞台を漫画雑誌に移し1962年にといった一連のヒット作や長期連載作品等により と謳われ戦後ギャグ漫画史の礎を築いた。1935年に赤塚藤七と妻リヨの6人兄弟の長男として生まれる。古北口は中国内地である河北省と満州熱河省との境界であった万里の長城において山海関と居庸関の中間地点に設けられた要害関門の町で古来より北京との国境地帯であった。父親である赤塚藤七活動を行う特務機関員をしていた。父・藤七は非常に厳格でなお��つ権威的であり、田河水泡の といった漫画を読むことを禁じられたり、箸の持ち方等で厳しくしつけられ、幼い頃の赤塚は恐怖感から父親が大の苦手であり畏怖を感じさせる存在だったという。しかし宣撫官という職務柄もあって普段から現地に住む中国人とも平等に接することに努め、補給された物資を現地の村人達に分けてあげたり、子供たちにも中国人を蔑視しないよう教えるなど正義感の強い人物でもあった。そのため彼には抗日ゲリラ側から当時の金額で2000円もの懸賞金がかけられていたにも関わらず現地の村人から密告されることもなく、また終戦直後の奉天で赤塚家の隣に住む日本人一家が報復として中国人に惨殺される中で普段から中国人と親密にしていた赤塚の家族は難を逃れている。母親であるリヨに藤七が結核に罹患した際にリヨはと自らの意思で刺青を除去したという。なお、リヨは子供の頃に目を傘で突かれたことが原因で右目を失明しており、少年時代の赤塚はタンスの引き出しから見つけた母の義眼であるガラス製の目玉をそうとは知らずに妹たちに見せて驚かせていたところ、母からこっぴどく怒られたと回想している。現地での掃討作戦及び華北分離工作の進展により古北口地域の治安情勢が安定したとして1937年が青龍県にて生まれている。1944年、父・藤七は特務警察官の職を辞し奉天で鉄西消防分署長となった。1945年8月15日小学4年生の赤塚は奉天で終戦を迎えた。しかし翌16日中国人の群衆が鉄西の工場内にある軍需物資を狙って大挙して押し寄せ暴徒化凄惨な殺戮に発展した。この時、馬小屋に潜んでいた一家は父の部下だった中国人の手助けもあり、全員中国服を着せられて消防車に乗り、鉄西から無事脱出して事なきを得た。後に赤塚はと語っている。しかし父親は侵攻してきた赤軍によってソビエト連邦へ連行され、軍事裁判にかけられて4年間シベリアに抑留されることになる。奉天に残された家族は赤塚が11歳だった1946年(昭和21年)に奉天を後にして海岸(渤海沿岸)の引揚船を目指して徒歩で引き揚げを始め、途中でソ連兵からの襲撃を受けてソ連軍憲兵(内務人民委員部政治将校)に助けられながらも葫芦島在留日本人大送還によって葫芦島から大発動艇に乗船し4日間かけて6月15日、(赤塚にとって初めて見る日本・内地である)佐世保港に到着、厚生省佐世保引揚援護局(現在の浦頭引揚記念平和公園)から国鉄大村線南風崎駅を経由し汽車で母の実家がある奈良県大和郡山市矢田口に移った。引き揚げまでに妹更には死んだ次女である綾子の名を授けられた生後6か月の末妹も母の実家に辿りついた直後に栄養失調のため夭折し日本に帰還する頃には兄弟は藤雄と弟と妹の三人と半数となってしまった。その時の母親には泣く気力もなく赤塚はという。父を除いた一家が奈良へと引き揚げてから母親は大日本紡績郡山工場の工員寄宿舎で寮母として働くようになり赤塚は地元の郡山町立郡山小学校に編入して小学5年生となった。一家が満州帰りとして差別を受け学校でもいじめの対象となる中2学期の頃から貸本屋で5円で漫画を借りて読むようになりこのとき手塚治虫のに出会ったことで漫画家になることを決意。見よう見まねで手塚風の漫画の執筆に没頭する。この漫画がきっかけで学校で番長を張っていた奥村という同級生と仲良くなり学校生活が一転柿畑から柿を盗んで売り警察の厄介になるなど数々の悪行に手を染めることになったが赤塚のみならずかつて父が現地の中国人に対して親切に接したように周囲から差別される立場の人間に対して優しい態度をとる一面もあったという。その後も赤塚は漫画を描き続け、小学6年生になった12歳の時には『ダイヤモンド島』という128ページのSF長編漫画を描き、母親と一緒に大阪の三春書房という出版社へ最初の持ち込みを行ったが失敗した。中学生となった13歳の時の1949年秋母親のわずかな稼ぎでは残った3人の子供を養っていくことが困難であったため兄弟は父の郷里である新潟の親類縁者にそれぞれ預けられることになり中学1年生になっていた赤塚は新潟県に住む父親の姉一家である大連帰りの母子家庭に預けられて母親からのわずかな仕送りで暮らした。赤塚が14歳になったその年の暮れに父親が舞鶴港に帰国するが過酷なシベリアでの抑留生活や日本の敗戦などで権威を失い、栄養失調による水疱でかつての面影もなくし、動作がのろくなって食欲が異常に強くなり台所を度々荒らしてしまうなど以前とは全く違うような人物になっていたという。母親を除いた父親と3人兄弟の4人一家は父の出身地であり赤塚の本籍地であった新潟県西蒲原郡四ツ合村井随へ転入し、父親は農業協同組合職員の職を得て彼の実家近くにあった 法讃寺に月100円で納屋を間借りをして生活を始めたが、やはり赤塚一家はという。1952年に赤塚は中学校を卒業したが家庭の金銭的な事情から高校進学を断念し映画の看板を制作する新潟市内の看板屋小熊塗装店に就職した。ドラム缶を塗る仕事の他映画看板の制作に携わっていた由縁から花月劇場という映画館の管理人と仲良くなったおかげで映画を無料で鑑賞できる事となりこのときバスターキートンや駅馬車チャーリーチャップリンの喜劇に感銘を受けたという。またこの看板屋の経験は赤塚に大きな影響を与えておりと語っている。この時期にへの投稿も始めた。手塚治虫が投稿作品を審査するコーナーがありこの頃から自分の絵柄を模索し始めるようになる。初採用は新潟の看板屋時代をテーマにした作品であり1954年5月号に掲載された。18歳だった1954年の目に留まり、石森が主宰するの同人に参加。この同人の東京支部に長谷邦夫やよこたとくおがいた。また既にプロの漫画家だったつげ義春が同じく赤塚の漫画に興味を持ち、しばしば遊びに来るようになった。まで曙出版とは40年以上に渡る付き合いとなる。この長期間に渡る契約は曙出版の社長が同郷の新潟であったことが大きく関係しており赤塚はと語っている。同年、上京した石森を手伝う形でトキワ荘に移り、第二次新漫画党の結成に参加する。のちに赤塚の母も上京し、しばらくの間同居した。赤塚の母は向かいの部屋に住んでいた水野英子を非常に気に入り、事あるごとに結婚を勧めたという。当時、赤塚はトキワ荘一の美青年として認識されていた。後年のイメージとは異なる、シャイで穏やかな赤塚青年の姿は、トキワ荘を描いた様々な作品で一致している。当時の赤塚は少女漫画の単行本を3、4ヶ月に一冊描く貸本漫画家であり、原稿料の前借をして漫画を描く自転車操業状態にあった。将来を悲観して漫画家廃業を考え、新宿のキャバレーの住み込み店員になろうと思った時期もあったが、安孫子素雄にと現金5万円を渡される。またこの時期、石森のおごりで映画を浴びるほど観て、その経験が後の作品に活かされることになった。1958年作家不足に陥った増刊号で1作家1作品の原則を守りながら既存の作家で補うために編集者が石森との合作を企画。合作ペンネーム 名義で作品を発表した。合作の楽しさから、続いて石森と水野英子との合作ペンネーム でを合作し発表。同年、ちばてつやの代原にトキワ荘の石森は赤塚を推薦し、秋田書店の名物編集者として知られる壁村耐三は赤塚に読切漫画を依頼。、当時21歳だったアシスタントの稲生登茂子との結婚のためにトキワ荘を退去。その間に横山光輝の出張アシスタントをつとめたこともある。1962年系でテレビアニメ化され赤塚が監修として関わっている他主題歌2本の作詞も手掛けている。1967年にと代表作が相次いでテレビアニメ化された。1970年(昭和45年)3月、母親が不慮のガス爆発事故で入院。一命は取り留め一時退院するものの、ショックからクモ膜下出血を発症して再入院となる。その後容態が急変するも赤塚の懸命の呼びかけで再び息を吹き返すが、脳死状態となり8月20日に59歳で死去した。この年に妻と別居状態となり、12月にはスタジオ・ゼロが事実上の解散となった。1970年11月22日-23日にかけて10年余振りに新潟へ帰郷。サイン会では約300枚の色紙1枚1枚に丁寧にイラストを描き、クラス会にも参加した。と語り、以後、晩年に至るまで、新潟には幾度となく訪れ、同級生との交流、ファンサービスを行っている。1971年(昭和46年)9月25日『天才バカボン』が日本テレビ系列で放映開始。1972年にの連載がスタートし10年を超えるロングランとなる。また同年、フジオ・プロに財政的な余裕が生まれたためと題した雑誌を創刊。多忙を極める赤塚が編集作業に携わることが不可能だったため、実質的な編集長は長谷が務め、赤塚の荒唐無稽なイメージを伝える事に腐心した。しかし1号につき250万円程の赤字を出し、1973年に6号で休刊。1973年11月5日に3年の別居生活を経て妻登茂子と正式離婚。1974年掲載のを含む連載中の作品新連載作品読み切り作品等の全てのタイトルを名義で執筆するも広告サイドから苦情があり3か月で元に戻した。一方でこの年の税務署の調査で税金の支払いが長期に渡り滞納していることが発覚。延滞金だけで6,000万円ともされた。原因はフジオプロの経理担当者の横領によるもので被害額は二億円とも言われ、実印まで預け信頼していた人物による裏切りであった。失踪したこの人物は後日逮捕されるが、赤塚はこの人物の将来を考え告訴することはなかった。しかし、横領された二億円の中には古谷三敏や芳谷圭児といったフジオプロ所属の漫画家らのプール金もあり、このトラブルにより古谷、芳谷はフジオプロを退社。それぞれのスタッフを引き連れ、自身らの制作プロダクション・ファミリー企画を設立した。なお、この年にはこれまでのギャグ漫画家としての功績が讃えられ、が設立された。ステージへの傾倒と長いスランプ.1975年10月6日が日本テレビ系列で放映開始。この時期には漫画家としては最も多忙を極め週刊誌5本月刊誌7本の同時連載をこなす一方で長谷邦夫の紹介によりタモリと出会う。タモリを中枢とする芸能関係者との交流を深める中1977年(昭和52年)を境にステージパフォーマンスに強い関心を示し傾倒していく。後述の面白グループでの活動を筆頭に数多くのイベントを企画出演するようになったがその10年後には「漫画に費やしていたエネルギーをステージで発散してしまった」といった趣旨の発言があり長いスランプに陥っている事を公言。1978年、長らく主力作家として執筆していた12月号でも、が終了し、以降、執筆活動は縮小傾向をむかえる。1979年、3月31日、にっかつ配給による赤塚原案、面白グループ脚本によるロマンポルノが公開。どちらも監督は山本晋也が務め、一部ファンからカルト的な人気を博する。そうした陰で5月17日にフジオプロで赤塚のマネージャーとなっていた父親の赤塚藤七がすい臓ガンの転移により71歳で死去している。1982年(昭和57年)『ギャグゲリラ』の連載が終了。この頃より酒量が激増する。1985年での連載が開始。いずれも大ヒットとまではいかなかったもののこれらが赤塚の漫画家“復帰作”となった。1987年アルコール依存症に陥った赤塚のサポートを行っていた写真家の国玉照雄の元アシスタントでスタイリストの鈴木眞知子と結婚。結婚にあたっては先妻登茂子が後押しし保証人になっている。結婚記者会見には登茂子とりえ子も同席した。この年テレビ東京のが21年ぶりにリメイクされ高視聴率をマークする。その後も頃より更に酒量が増え始める。以後も治療のため入退院を繰り返すものの回復の兆しはなく、1992年には長年赤塚のアイデアブレーンとして支えてきた長谷がフジオプロを退社。1993年、NHKのドラマ新銀河枠で連続ドラマ化される。1997年(平成9年)第26回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞。1998年(平成10年)紫綬褒章を受章。1997年6月1日より、静岡県伊東市の池田20世紀美術館で、とタイトルを変え、上野の森美術館や新潟市美術館、横浜ランドマークプラザ、箱根彫刻の森美術館、京都美術館えき、増田町まんが美術館など、全国を巡業し、いずれも大入りを記録。特に、上野の森美術館では、期間中65,000人を集客し、ピカソ展やゴッホ展の記録を塗り替え、同美術館の動員新記録を樹立した。また赤塚の故郷である新潟市美術館では「郷土作家シリーズ」と題し新潟の各施設に寄贈した直筆画のほか四ツ合中学校(現潟東中学校)の同級生小林利明氏が保管していた処女作『ダイヤモンド島』の原画20枚が初公開された。初日には赤塚本人も出席しサイン会やトークイベントに参加。「若い頃漫画家を目指していたこの新潟で漫画家となって作品を見てもらえることがものすごく嬉しい。」「新潟時代は漫画家になりたくて一生懸命勉強していたところ。本屋で漫画雑誌を探したりパーマ屋や映画館の看板を描いたり思い出深い。きょうは感無量です」「新潟で個展を開けることはとても嬉しい。なんとも幸せです」と喜んだ。当時赤塚の側にいたスポーツニッポン記者の山口孝によれば「赤塚は珍しくスーツ姿で登場した。何度となく会っているがスーツを着た赤塚を見たのは初めてだった。いつもなら襟の付いたシャツなら良いほうでほとんどTシャツで通すのだが……」赤塚本人は「ここは特別だからね」と語っていたという。同年12月12日吐血し緊急入院。精密検査の結果食道がんと診断され22日に告知を受ける。医師からのため入院を繰り返した。1998年四作目に当たるがそれぞれフジテレビ系テレビ東京系で放映開始されるが1980年代後期 - 1990年代初頭の赤塚アニメのリバイバルラッシュの時とは異なり放送期間に合わせる形で赤塚の手によるリメイク漫画が描かれることはなかった。1999年に収録された。2000年を辞退している。2001年2月8日、快気祝いを兼ねた新年会に発展。相変わらず水割りを手離さずに新作の構想を語る様子が報道された。2003年3月27日を持って閉館された。2006年7月12日、赤塚を看病してきた妻の眞知子がクモ膜下出血のため56歳で急死。2年後の2008年。また赤塚の死去の3日前の7月30日前妻でりえ子の母である登茂子が死去していた事が後に報じられた。赤塚不二夫の訃報はスポーツ新聞各紙が一面で大きく取り上げた他、一般紙も一面で大きく掲載した。また民放各局ばかりでなくNHKでもトップニュースで取り上げるなど、その一連の報道は赤塚その人が昭和・平成を通して日本の漫画史に一時代を築いた大漫画家であったことを改めて世間大衆に印象付けることとなった。また赤塚が才能を見出し、芸能界へデビューさせたタモリはの関係であることに変わりはなく、りえ子に対しても励ましやアドバイスがあったとのこと。赤塚の葬儀では藤子不二雄Ⓐ」。生前の最後の言葉は倒れた時に偶然女性の胸に手が触れて放った。最後の仕事は倒れる前日18年間欠かさず続けてきた東京アニメーター学院の入学式スピーチとなった。2009年ヒットアニメの原作提供という観点から東京国際アニメフェア2009で第5回功労賞を受賞。同年8月より東京銀座の松屋百貨店でを開催、これを皮切りに全国巡業で開催される。2011年が全国松竹系で、それぞれ劇場公開される。2013年新潟市にゆかりのある漫画家の作品などを展示するがオープン。赤塚作品や赤塚キャラを用いたアトラクションが常設展示される。2015年が全国東映系で劇場公開される。同年9月にはBSプレミアムにおいて過去の赤塚不二夫特集番組の再放送が行われたほか新作ドキュメンタリー番組の『赤塚不二夫 最後のこれでいいのだ』が制作放映されこれまで陽の目を見なかった未完成の遺作『ヤジキタ バカ道中』の一部分が初めて一般に公開された。ちなみに番組中によるとこの原稿は何故か自宅のキッチンに無造作に保管されていたという。また、大人になったも10月からテレビ東京系列にて放映開始し、以後全国で順次放映。イベント開催、記念切手、関連書籍の多数発売など単なる人気作品に留まらず、社会現象を引き起こすほどの人気を博す。赤塚人気としては、二次媒体との連動も含め、近年にない盛り上がりと発展を見せ、2017年に第3期が放映される。2016年が、ポレポレ東中野、下北沢トリウッド、新潟・市民映画館シネ・ウインドほか、全国にてロードショー公開される。2021年の存在が明らかになった。晩年はアルコール依存症に苦しめられるが酒に溺れた原因は極度の恥ずかしがり屋であるため酒なくして人と向き合う事が出来なかった事と自己分析している。また自分よりお酒を飲む人としてたこ八郎壁村耐三滝田ゆうを挙げている。なおアシスタントだった古谷三敏によると若い頃は一滴も飲めなかったという。愛猫家。1979年に菊千代は他界、赤塚自身のみならず周辺のファンをも悲しませた。自宅のライブラリーには大画面モニターと、数千本の映画のビデオがあったという。また、少年時代の夢は喜劇王チャーリー・チャップリンの弟子になることだったという。バカボンのパパが一番気に入っているキャラクターで、その理由���とのこと。またバカボンのパパが赤塚の実父・赤塚藤七をモデルにしていることもあり、晩年は赤塚本人がパパのコスプレをする事が多かった。同じくの母親・松野松代のモデルは赤塚の実母・リヨとされ、自身の少年時代を回顧する作品での実母が松代の顔で描かれる。のトト子が似ていることについて1989年に発行されたコミック本のあとがきで指摘された際赤塚自身はという趣旨の発言を残していたらしいとも伝えられている。山下洋輔らジャズメンとの交流からジャズ好きかと思われがちだが赤塚はジャズを一切聴かず歌謡曲好き美空ひばり好きだった。水木しげるの娘赤塚不二夫の娘手塚治虫の娘による対談集内でイヤミがジャズを使ったギャグを言っているコマを見たジャズ評論家の相倉久人。1968年で放映されている。2010年、誕生日である9月14日、Googleのロゴマークに赤塚作品のキャラクターが描かれた。名和広著『赤塚不二夫大先生を読む 「本気ふざけ」的解釈 Book1』によると、一個人による漫画家の単行本の発行部数が初めて1000万部を突破したのは赤塚だと言われており、曙出版・講談社より刊行された『天才バカボン』の単行本だけで1000万部を売り上げたとされている。またデビュー以来付き合いがあった曙出版の社長は赤塚と同じく新潟県出身でのちに売れっ子になった赤塚は貸本時代にお世話になった恩から曙出版で単行本を出すことを了承。曙出版はその後『おそ松くん全集』の初版だけで文京区に7階建てのビルを建てるまでに成長し他に出た赤塚単行本も含めると1500万部以上を売り上げる大ヒットを記録する。しかし連載元の出版社がこれを問題視し今後赤塚の新刊を出す場合は著作権使用料を支払うよう曙出版に命じたため1977年の『天才バカボン』31巻を最後に新刊を出せなくなり以降は再版のみになる。その後曙出版の社長が死去した際赤塚は真っ先に葬儀に駆けつけ荼毘にふされた社長に泣きながら何度もお礼を言っていたという。しかしその帰り際赤塚は靴を履き間違えて帰っていき弔問客の笑いを誘った。これは湿っぽい雰囲気を変えようとした赤塚流の粋な計らいだったという。1967年、テレビ番組で当時は漫画家としては異例のテレビの司会を、黒柳徹子と共に担当。これを機に、赤塚の交流は各界に広がった。後に受章する紫綬褒章は荒木経惟に贈っている。1973年にはロックミュージシャンの内田裕也との交友から日本ロックンロール振興会会長なる役職に就きその流れで矢沢永吉率いる人気ロックバンドキャロルの私設応援団団長を赤塚自ら名乗り上げ務めた。1970年代半ばには山下洋輔等を介して素人芸人時代のタモリと出会う。タモリの芸を認めた赤塚は大分県日田市のボウリング場の支配人であったタモリを上京させ、自らは事務所に仮住まいしながらタモリを自宅に居候させ、のちの芸能界入りに大きな貢献をした。またタモリや高平哲郎、滝大作らとを結成した。高平からは由利徹を紹介され、赤塚は終生、由利徹を敬愛し、由利の弟子だったたこ八郎が赤塚家の居候となっている。1982年(昭和57年)写真家荒木経惟との交友から『写真時代』(白夜書房)9月号の巻頭グラビアで漫画家としては初となるハードコア男優を務めファックシーンを披露した(荒木撮り下ろしの写真集『別冊噂の真相 荒木経惟の真相』所載)。テレビアニメやドラマ、映画などの音響効果や選曲を手掛けていた音響技師の“赤塚不二夫”は赤塚のペンネーム、および本名とも同姓同名の別人だが、2人の間には親交があった。全日本満足問題研究会.1976年からを発表。伊東市のホテルハトヤのステージでライブコンサートをやったらどうなるかという設定で作られた。赤塚もという二曲の歌唱を務めた。タモリや高平、滝らと結成したグループ。上記のもの以外に赤塚がプロデュースしたイベントまた赤塚をフィーチャーしたイベントには次のようなものがある。共に強い立場にありながら弱い者を守り決して差別しない態度をとった父親と奈良での小学生時代の同級生の奥村の二人と接した少年時代の経験がきっかけとなって後の赤塚作品ではと評している。 +一条 ゆかりは、日本の漫画家。岡山県玉野市出身。玉野市立玉野商業高等学校卒業。少女��画の技法に貢献した。代表作に等。1960年代終わりから70年代の半ばごろ、少女漫画の華麗な画風の進展をリードした作家。平面的・装飾的とも言えるイラスト的な線によるドラマチックな表現を進めた。当時の発表の場であるは当時の少女漫画の前衛的な場の一つともなっていた。その後も総じて安定した長期の作家活動をしている。コメディは長くシリーズ化されたヒット作となっている。幼少期は野菜全般が嫌いであり、今もネギや漬物の類は嫌っており、野菜のキムチは嫌悪している。りぼんマスコットコミックス.※ りぼんマスコットコミックスから発行されるの表記を用いる。2006年7月キリスト教系の新興宗教摂理が警察の捜査を受けた際同団体との関連が各種メディアで報道されるなど注目を集めた。騒動に対して一条はの執筆準備で取材に応じた聖職者に摂理の関係者がおり、同人物から摂理の集会をとして関係者各位に謝罪した。うすた 京介(うすた きょうすけ1974年5月25日 - )は日本の漫画家。愛知県生まれ熊本県合志市育ち。熊本県立大津高等学校美術コース卒。妻は漫画家の榊健滋。1995年から1997年まで、でという噂があったが、後にうすた本人はこれを否定し、実際は意図して落としたのではなく最後までやったが落ちた、と述べている。1999年、『週刊少年ジャンプ』18号より同年40号まで「武士沢レシーブ」を連載する。2000年をで連載開始。2010年第38号まで10年の長期に渡って連載した。2015年を連載していたので夫婦そろっての連載となった。2016年にて自身の名前を冠した新人賞が創設される。2021年アイドルグループの漫画キャラクターデザイン担当として運営陣に参加する。台所にあったウスターソースから名前をとってということで現在のペンネームになったという。独特のセンスと描写で描くシュールギャグを得意とする。叶恭弘によると。かた焼きそばが大好物。喫煙者。学生時代は剣道部と美術部に入っていた。には節々で顔出しをしている。またジャンプリミックス版ではお笑いコンビさまぁ〜ずの三村マサカズと対談している。アニメ監督の大地丙太郎はのアニメ化の際原作の作者のセリフの適当さに親近感を抱いていたが実際に会ったら非常に真面目な性格で演出内容の細かい訂正を要求され困惑したと後述している。パチンコが嫌いである。2016年12月29日、第一子となる男児が誕生。2018年7月3日、第二子となる女児が誕生。2018年12月より北海道札幌市に在住。 +浦沢 直樹は日本の漫画家。東京都府中市出身。1983年デビュー。漫画賞の受賞が多く手塚治虫文化賞大賞を2度受賞している唯一の漫画家である。2021年4月時点でコミックスの国内累計発行部数は1億2800万部を突破している。府中市立府中第四中学校東京都立富士森高等学校明星大学人文学部経済学科卒業。1960 - 1970年代のロックのファンでを開催するなどしている。1960年、東京都府中市に次男として生まれる。幼稚園には通わず、昼間は祖父母と3人きりの幽閉状態であった。このころ、手塚治虫の『鉄腕アトム』と『ジャングル大帝』を買い与えられ、自分でも漫画を描くようになる。地元の小学校に入学、3年生から学級委員を務め、学級新聞に4コマ漫画を連載した。一時期いじめられかけたこともあったが、クラスのガキ大将に漫画を描いたことがきっかけでいじめはピタリと止まったという。このころ、初めて長編漫画を描き上げる。当時テレビでも放映していたフィルム・ノワールの影響を受けた暗い内容のもので、当時は4つ上の兄がもっぱらの読者であった。中学では当初陸上部に入るも、先輩の偉そうな態度が嫌になり、軽音楽部へ転入。吉田拓郎にのめり込み、拓郎が影響を受けたと公言するボブ・ディランの研究を始める。中学生時代の経験は後にを流した放送部には小室が部長として所属していた。高校、大学も軽音楽部に所属していた。一方で漫画の制作も続けており、高校では国語の教科書に載っていた芥川龍之介の『羅生門』を漫画化している。もっとも当時の梶原一騎ブームに乗れず、一時期漫画に興味を失いかけていたこともあった。しかし大学の時に登場した大友克洋をはじめとするニューウェーブの作品群に感化され、漫画に対する情熱を取り戻した��と思われるのが嫌で、大学では漫研には近寄らなかったが、漫研の人よりもたくさん漫画を描いていたという。なお大学の軽音部では1年上にTHE STREET SLIDERSのHARRYが所属しており、プロの演奏を目の当たりにして、自身のバンドをきっぱりと断念。下手にバンドで食べていこうと思わなかったのは、彼のパフォーマンスを見たからかもしれないと語っている。もともと漫画家になるつもりはなかったが就職活動時に小学館に編集者としての面接を受けた際ついでに持って行った原稿で初連載する。長崎尚志担当のもと、『ビッグコミックオリジナル』で外国を舞台にした『パイナップルARMY』『MASTERキートン』を連載する一方、『ビッグコミックスピリッツ』で『YAWARA!』『Happy!』と女子スポーツを題材にした作品を発表し人気を得る。1986年開始の『YAWARA!』以降は2誌掛け持ちで、毎月100枚を越える連載を10年以上続けた。スリラー作品『MONSTER』手塚治虫の『鉄腕アトム』をリメイクした『PLUTO』により2度の手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞。2004年には『20世紀少年』によりフランスアングレーム国際漫画祭で最優秀長編賞を受賞している。2008年より長崎尚志とともに名古屋造形大学の客員教授も務めている。2014年からはがNHK Eテレにおいてスタートした。2020年に開催される東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会の公式アートポスター、を手掛ける。浦沢の作品は登場人物の表情が印象的でその微妙さ浦沢漫画の特徴の一つとも言われている。浦沢は原稿にペン入れをする時に最も気を付けているのは人物の表情であると語っている。浦沢はわかりやすく単純な表情を嫌っており「絵文字のようにシンプルにニコッと笑っている人などいません」と述べている。元アシスタントも含む。 +車田 正美は日本の漫画家作詞家。男性。東京都中央区月島出身。血液型はA型。東京都中央区月島のとび職の家に生まれる。若い頃は下町の不良少年で喧嘩に明け暮れ本宮ひろ志の漫画『男一匹ガキ大将』に感銘を受けて漫画家を志す。漫画を本格的に描き始めた当初は画材を知らず青インクでペン入れをしたという。高校3年生の時初作品を『週刊少年ジャンプ』の「ヤングジャンプ賞」に投稿したが落選。週刊少年ジャンプ編集部に落選理由を尋ねに行ったのがきっかけで当時『侍ジャイアンツ』を連載していた井上コオのアシスタントとなる(一時的に本宮ひろ志のアシスタントも兼ねた)。20歳の時、を同誌で連載し、荒唐無稽ながらも独特の作風で黄金期ジャンプの看板漫画家の一人として活躍する。は、人気作品となりアニメ化された。現在は秋田書店の雑誌を中心に活動中。誌上で連載した。根性や友情兄弟愛仁義をキャラクターに語らせる熱血漫画を得意とする。本宮ひろ志に影響されたと語る大ゴマや大胆な見開きなどを多用しダイナミックな必殺技の応酬を描くのが特徴。その一方で作中に古人の名言を引用したり物理学の知識を応用した展開を見せる。『リングにかけろ』の中盤あたりから「リングを切り裂く窓をぶち破る建造物を破壊する」などの荒唐無稽なパワーを宿すボクサーまた神々の力を宿す奇跡のボクサーなどが登場し始め「SFボクシング」とでもいうべき新しいジャンルを開拓。同作のトーナメント式団体戦は後の『週刊少年ジャンプ』の格闘漫画の先駆けとなった。島本和彦は『アオイホノオ』において『リングにかけろ』の一場面を引用し「これは車田正美が長い年月をかけて作り上げた様式美。本人だけが許されるオリジナリティー」と評価している。描線は一見太く力強いがかぶらペンで引いた細い線を重ねて太く見せている。などのアルファベットの擬音や墨を飛び散らせたような黒い吹き出しなどは車田独特の様式として頻繁に使われる。連載中は激しい生存競争の中と語っている。それが故に物語が途中のまま最終ページにとコメントしている。太字の作品はメディアミックスされた作品他作家によるスピンオフ作品リスト.車田正美自身の手に拠らない、車田正美を原作者とするスピンオフ作品など。高橋 しんは、日本の漫画家。北海道士別市出身。北海道士別高等学校、山梨学院大学法学部法学科卒業。大学1年生の時に第63回箱根駅伝。在学中からチームのTシャツのデザインを担当し、その洒落たデザインは他大学は元より高校生にとっても羨望の的であったという。1990年でデビュー。その後、新人漫画家に5話程度の短期連載を競わせる企画が18号からの連載を始める。高橋にとっての、各エピソード毎に主人公が変わるという実験的作品は登場人物の後日談集を発表している。はそれまでの一般庶民の生活に密着した作風から一変したSF色の強い作品である。この作品は大ヒットしアニメ化もされ2006年2月には前田亜季主演の実写映画も公開された。2005年に完結した。2016年にかけてはで駅伝を主題にしたを連載。最終兵器彼女に関連した作品.これらの作品は2006年7月発売の外伝に収録された。SHIN Presents!高橋しんの個人事務所。及び高橋しん作品におけるアシスタントスタッフの総称。通称。を新連載するにあたって高橋しんの読切時代のアシスタントさかもとたけしと新人漫画家同士の仲間いけだたかしと共に結成し事務所を設立。後ちに両者は退所し独立する。 +高屋 奈月は、日本の漫画家。東京都出身。血液型はA型。1992年、で活動。代表作は、2001年にで第25回講談社漫画賞少女部門を受賞。1991年にでプロデビューし以降白泉社を中心に活動する。1998年から2006年までににより頭蓋骨に穴をあけた手術を行ったことをツイートしており、その部分だけ未だにハゲがあるとのこと。のキャラクター原案を手がけている。2013年11月病気療養のための長期休載を発表。12月にはブログを更新し以前患った職業性ジストニアの再発ではないことを明かした。2015年9月花とゆめONLINEでを連載を開始。2021年11月東京都の西武池袋本店別館2階の西武ギャラリーにて画業30周年に向けた展示イベントが開催予定。を軸とした高屋の作品が展示される。竹本 泉は日本の漫画家。埼玉県出身。男性。血液型はB型。日本大学経済学部卒業。配偶者はマンガ家の矢野礼子。少女漫画は妹の影響で読み始めた。和田慎二の影響を受けて少女漫画を描き始め、に2年間投稿。大学4年次の教育実習時に第21回なかよし・少女フレンド新人漫画賞佳作となった本誌での初連載作品は。短編または短編連作型のシチュエーションコメディを得意としておりほのぼのとしているがどこか変な話というのが基本的な作風でこれはデビュー当初から掲載誌のジャンルの変遷を経ても一貫している。その作風を端的に表現したものとしてという評もある。エドガーライスバローズをはじめとしたSFファンで作品中に著名SF作品を下敷きにしたネタが散見される。またいくつかのSF作品は宇宙人コピーされた地球など設定が同じである。各作品世界が同一のものであるかは不明。また無類の猫好きとして知られ猫をテーマとした漫画をしばしば描く。猫以外にも犬イルカ宇宙人恐竜などもよく作品に登場する。2003年まで飼っていた飼い猫のエピソードを漫画化した作品としてなどもある。飼い猫や作中に登場する猫にツヴァイどら菜ふゅあ菜ふゅん菜じーく菜などが頻出する。の専属契約を離れフリーランスの漫画家となって以降は、ゲーム誌やマニアックな雑誌での作品が増え、現在はほぼその方面で活動する作家である。しかし本人は少女誌の仕事がほとんどなくなった後も、少女漫画家を自称し続けている。趣味は海外SFを中心とした読書と、チェス、アニメ鑑賞、テレビゲーム。ポリシーとして原稿はいつも締め切り前に仕上げる。ただ、毎年11月は休載が慣例となっている。独特のポップな背景かわいらしい画風を持つ。この作風とペンネームゆえかつては女性と誤解されることが多かった。登場人物の台詞と名前作品タイトルも掛詞や言葉遊びを凝らした独特のものが多い。ヤシの木などの慣れている物であれば当たりをつけただけの下書きでペン入れしたりするなど作画のスピードは速くの作者である森薫と対談した際原稿を描くスピードについてと発言し森を驚愕させた。長年作画にはGペンを使用していたが2011年末に遂にモノクロ原稿のみデジタルを導入した。カラー原稿は少女誌で活動していた頃はカラーインクやエアスプレーを使用していたが後にコピックやアクリルガッシュに移行。2015年末ごろよりカラー原稿もデジタル化している。メディアミックス展��について.デビュー間もない頃からアニメに向いた絵柄という評価があり、フリーランスになってからの掲載誌についてはメディアミックスに注力している雑誌・出版社も少なくないため、作品のメディアミックス展開、とりわけテレビアニメ化については各方面で度々噂が上がった作家である。また、『アニメディア』などのアニメ雑誌が行うアニメ化希望作品についての読者アンケート調査でも、1980年代後半の一時期、『あおいちゃんパニック!』などが上位ランクインの常連作品の一つになっていた事がある。しかし、竹本の原作作品はもとより、竹本が関連する作品についても、テレビアニメ方面で作品展開されたケースは実質的に存在しない。わずかにメディアミックス絡みのものとして、1986年から1987年に掛けて倉金章介のでは竹本が同作のリメイク漫画作品を連載したことが挙げられるが、このテレビアニメは竹本版とはキャラクターデザイン もストーリーもまるで別物で、特徴的なことと言えば本来アニメ企画用に用意されたオリジナルキャラクターである隣国の若殿様“さくらもち太郎”が竹本版に登場していたという点くらいであった。1980年代には当時の講談社・東映動画の日曜朝の放映枠でで、同作に至ってはアニメ化を前提に立ち上げられた企画であったはずにもかかわらず、第2巻のあとがきで登場キャラクターにと言わせており、やはりアニメ化企画が頓挫していることを暗に示している。テレビゲームソフトについてはコンシューマ機用のものを中心に過去に数作発売されている。しかし企画段階で頓挫した作品制作中止になった作品も多い。また発売された作品もゲーム性の低いマルチメディア作品が大半である。上述の『あんみつ姫』ではセガマークIII用のテレビゲームソフトも制作されているがこちらのキャラクターもアニメ版に拠るものである。※巻数の記載の無い物は1巻完結。各単行本の出版社は刊行順。には品切重版未定を含む。※巻数の記載の無い物は1巻完結。ebookjapan などにて以下の作品が購入可能。 +寺沢 武一は日本の漫画家。北海道旭川市出身。1987年第39回小学館漫画賞少年部門受賞。を不定期連載中。血液型はA型。※ 各作品の詳細などについてはリンク先の各記事を参照。書誌情報の詳細などについてはリンク先の各記事を参照。鳥山 明。血液型はA型。妻は少女漫画家のみかみなち。1978年にと長期に渡り鳥山原作のアニメが放映されていた。漫画家としての活動の合間にデザイナーとしても活動しなどのゲームやマスコットのキャラクターデザインプラモデルや車などのデザインを多数手掛けている。漫画家デビュー以来地元で活動を行っておりDr.スランプ単行本の描きおろしページによると当時は名古屋飛行場から航空便で東京に原稿を送っていた。1980年から1990年代のジャンプの全盛期を支えた立役者であり当時編集長を務めた西村繁男はと評価している。『Dr.スランプ』と『ドラゴンボール』は2021年の現在でも、コマーシャルに起用されたり、グッズが作られるなど根強い人気を博している。初代担当編集者の鳥嶋和彦は、「家は貧しかったが両親共にのんびり屋の性格で、食べ物を買うお金がない代わりに、両親は二人でワルツを踊るような人だった」と述べている。鳥山自身は絵を描くことが好きで、腹を空かせながら漫画を描くのを唯一の楽しみにしていた。欲しい物があるとそれを手に入れるまで、あるいは興味がなくなるまで絵に描き続ける癖があり、その癖は漫画家になって以降も続いている。「当時通っていた絵画教室で描いた『101匹わんちゃん大行進』が表彰されたことで自信を持った」と言い、小学校の写生コンクールで数回入賞し、高校時代には美化キャンペーンのポスターで全国高校生の部で入賞している。妹がいる。よく悪戯をしていて、父親に怒られていた。尊敬していた漫画家は手塚治虫とウォルト・ディズニーで、にディフォルメの影響を受けて毎日模写をしていた。幼少時は漫画やアニメに熱中したが、小学校高学年以降は映画やテレビドラマに興味の対象が移り、漫画に触れる機会が無くなっていた。しかし、絵を描くことは変わらず好きで自信もあったため、愛知県立起工業高等学校(��在の愛知県立一宮起工科高等学校)のデザイン科に進学した。と言う。1974年に同校を卒業した。高校を卒業した1974年絵を描く仕事に就きたいと思い地元の広告関係のデザイン会社にデザイナーとして就職したが平然と遅刻を繰り返したりレタリング作業が主な仕事になり嫌気が差して約2年半ほど経った1977年1月に退職した。本人はと述べている。退職後1年間はアルバイトでイラストを手掛けていたがその後は遊ぶ金もなく途方に暮れていたある日喫茶店で偶然手に取ったを投稿する。投稿したのはギャグ漫画だがその理由はストーリー漫画と賞金が一緒なのにページ数は半分だったため。投稿した作品は入賞には及ばないもののすぐにまた描き上げた鳥山の投稿作品のパロディなどを描いており一部の作品は後にファンクラブの会報に掲載された。なおこの作品自体はパロディは賞の対象にならない規定により選外になった。鳥山は厳しくネームのボツを出す鳥嶋のもとで懸命に修行することになる。この間のボツ原稿の総量は、1年で500ページにも及んだ。デビュー前はだと言う。Dr.スランプの連載.1978年での掲載が決まった。1980年にとしてTVアニメ化され、最高視聴率36.9%を記録、歴代アニメ最高視聴率で3位になるなど大ヒットアニメとなった。鳥山の地元である東海3県の東海テレビでは関東以上に視聴率が高く視聴率40%超を記録している。ジャンプコミックス第5巻はの120万部を上回り第6巻は初版220万部を記録した。連載1年目は睡眠は3日に1回最高記録となる6日連続徹夜ペン入れの記憶がない回があるなどと多忙を極めた。ドラゴンボールの連載.アイディアの不足を理由にの連載を開始する。当初は西遊記にコメディや格闘漫画の要素を加えた孫悟空という少年の冒険譚でありアンケートで反響も無く人気は低迷していたがストーリーの調整を経て格闘大会天下一武道会で人気が出たのをきっかけに次々に登場する強敵難敵との戦闘をメインに据えたシリアスな物語となることで人気を獲得し1986年から1997年まで放送されたTVアニメシリーズは平均視聴率20%を維持した。から担当している。堀井雄二の描いたラフ絵を基にデザインしているものもあるがスライムに代表されるように自分のアレンジを加えておりキャラクターデザインに至ってはほとんど別物になっている。堀井のラフ絵では目も口もないドロっとしたスライムであり鳥山によりという理由で液体で雨粒様のデザインになった。なお専属契約上の問題で公式攻略本にはイラストが載せられず鳥山の絵が掲載されているのは集英社から出ているファミコン神拳奥義大全書やVジャンプブックスゲームシリーズに限られている。このため公式攻略本では鳥山明風の作画ができる村上ゆみ子などに委託している。鳥山は当時「コンピュータRPGをやったことがなかったため初めは苦労したがの漫画を描くのは絶対に嫌だという。鳥嶋の紹介により「あっ、いいですよ」という軽い気持ちで引き受けたが、30年以上続くシリーズになるとは想定しておらず、「そんなに続くなら断っていた」と心境を語っている。キャラクターデザインは楽しくもキツい仕事であるといい、最初はなんでもない雑魚キャラクターを自由にデザインをしていたが、回を重ねていく内に個人的にあまり興味のない健全なメインキャラクターのデザインが多くなり、ある程度の時代設定や細かく指定されるデザイン設定のため自由に書かせてもらえなくなり、今は騙し騙しで描いているという。ただし引き受けた仕事は目一杯やる主義であり、今後も一生懸命デザインすると語っている。のキャラクターデザインを初めて堀井雄二と中村光一に見せた際、全てがフルカラーのドット絵で手書きされており、2人とも困惑したという。は日本国外でも翻訳出版された。また、2003年には絵本『てんしのトッチオ』を発表。2009年にはNPO「田園社会プロジェクト」が発行する環境教育教材『最終戦略 バイオスフィア』に読み切り漫画『おいしい島のウーさま』を発表。集英社との専属契約上描けないことになっているのを特別に許可してもらったものである。2007年3月には、を執筆した。2013年7月から10月まで、において、ストーリー&キャラクター原案を担当する。2017年11月、租税回避に関する流出文書、パラダイス文書に鳥山の名が記載されており、投資組合に出資していたことがわかった。ただし本人によれば資産運用は完全に税理士任せで、報道を見て知ったという。この組合は12人の投資で組成されていたが赤字に陥り、本業の所得からの控除が認められず修正申告を行ったことで知られていたが、パラダイス文書の解析の結果、そのひとりが鳥山であったことが判明したにすぎない。この煽りを受ける形で11月8日に自宅前での突撃取材に遭い、元々露出を好まない本人の意思とは無関係に顔出しをすることになった。インクはパイロット製図用インクか証券用インク。ペンはゼブラGペン、たまにコピックペン、ピグマ。着色は昔はルマのカラーインク、現在はほとんどパソコンで、使用ソフトはAdobe Photoshop、たまにCorel Painterを使用。またと語っている。にエキストラで参加。本編中では大写しにならなかったが市販もされた一部ポスターにおける群衆の中に写っている。元々マスコミなどへの露出を好まなかったがの連載後期には顕著となり、小さな町に在住しているため顔がばれるのが嫌だからという理由で本人の写真が公表、掲載されることはなくなっている。スーパーマーケットなどを見て歩くのが好きだというが、新しくオープンしたスーパーマーケットに行った際に売場の女性たちからサイン攻めに遭い、なかなか出ることができなかったことがあり、それ以降はそれまで応じていたインタビューを断るようになり、顔のあからさまな露出も避けるようになった。自画像は連載時は普通の人間の顔だったが、のちに擬人化した鳥やマスク姿など変遷を繰り返し、最終的にガスマスクを着用をしたデフォルメキャラクターとなった。照れくさいという理由による。1978年から1990年代半ばまでの大半の作品は短編作品集シリーズに収録されている。アシスタントは歴代2人。連載初期はアシスタントを雇うこと自体知らなかったため1人で全部描いていた。アシスタントを呼ぶのは1週間に1日だった。 +永野 のりこは日本の女性漫画家。東京都多摩地区出身。通称の表記も使用していた。東京都多摩地区出身で、作品にときどき多摩地区の方言が現れる。法政大学文学部哲学科卒。同期にほりのぶゆきがいる。ほりは漫画研究会所属だったが永野は所属しておらず、当時面識は無かった。出産早々夫が失業し自分が漫画で家計を支えようと持ち込みを始める。子供を背負って持ち込みをし気の毒がられたというエピソードがある。彼女を最初に担当した編集者は徳間書店の大塚英志だった。1985年に。1992年末からで大きな人気を博した。同作品のドラマCDでは作者の歌唱によるオリジナルソングを聞くことができる。近年は作中でカトリックについての言及が見られる。一人娘はオタク系バンド。見やすい絵柄と破天荒なストーリー展開」と称されることが多い。いわゆるメガネ男子好きであるため、ほぼすべての作品に眼鏡をかけた少年が主要人物として登場する。また、おかっぱというパターンのものが多い。脇役キャラも、黒髪ロングの少女、茶髪の少女、ショートカットの少女、ウェーブのかかったロングヘアの少女、細身の少年、マッチョで角刈りの少年、お下げ髪でメガネの少女など、ある程度見た目と性格のパターンが固定化されている。漫画を描くことについては母から大反対された。そのため母との折り合いが悪くなり永野が漫画家としてヒットを飛ばしてからも決してその活躍を認めなかったという。そのため娘の希は「メガネくんはつらい現状から逃避しようとする母おかっぱ女性はそんな自分を許し癒そうとするもうひとりの母」であると語っている。当初はタッチの荒い少年漫画調の絵柄であったが1990年代前半からベタ塗りを多用したレディースコミック調に変化し現在はスクリーントーンを多用したアニメ調の絵柄となっている。SF・特撮ファンでもあり、作中どさくさにまぎれて、ウルトラ怪獣等が多く登場する。同嗜好の唐沢なをきによるとなっており、円谷プロダクションの協力により、文字通り多数のウルトラ怪獣が登場する。音楽ではニューウェイヴやテクノポップが好きであり作品中でもネタとして登���する。好みの男性はディーヴォのマークマザーズボーである(メガネが特徴の人物である)。非常にシャイな性格であり一度発表し雑誌等に掲載した作品をといってお蔵入りにすることもあるため連載作品でも単行本未収録が数話ある。2010年2月11日の発売に合わせサイン会Little Nonバレンタインスペシャルライヴイベントが六本木ヒルズにて開催された。父が福島県双葉町の帰還困難区域であることからやなせたかし等の協力を得て早くから東日本大震災に伴う原発事故被害地域への慈善活動に取り組んでおりその一つおきあがりこぼしプロジェクトでは一本木蛮とともにウクライナへも渡航した。 +聖 悠紀。シリーズなど多数。新潟県新発田市出身で、小学生時代は三条市や新潟市など新潟県内を転々としていた。中学3年生で愛知県名古屋市に引っ越し、高校進学後に石森章太郎のの名で呼ばれていた。1969年にでデビュー。少女漫画家として活動するようになり1973年には上京。そのような状況の中などが知られている。1977年に『超人ロック』の特集が「月刊OUT」で組まれ、同誌の別冊「ランデヴー」で「新世界戦隊」が連載された。これは初の『超人ロック』の商業連載で、その後は少年漫画誌などを主な活動の場としている。漫画家となるきっかけになった作画グループではその後も活動を続け、多数の会員が集まって一つの漫画を制作する「合作」にも参加していた(後述)。2017年11月に慢性副鼻腔炎の手術を受けた。術後の経過診断のための診察時に倒れて心停止となった。蘇生に成功するが昏睡状態となり、その後12月に心臓の外科手術を受けた。術後2ヵ月入院し、2月初頭の退院直後に旨とリハビリ中であることを自身のTwitterアカウントにて発表した。単行本と画集の発売も遅れたが、画集は同月中に刊行された。また、当時連載中のは5ヵ月間休載となった。2020年6月10日、パーキンソン病で闘病中であることを公表した。子供向けテレビ番組を幼年誌へ掲載するために漫画化したもの。主に登場キャラクターの一人を作画している。初期には主人公やヒロイン担当も多い。詳細は各記事を参照。日渡 早紀は日本の漫画家。神奈川県出身。血液型はB型。代表作になど。実家は書店。1981年(昭和56年)「魔法使いは知っている」で白泉社の第6回アテナ大賞第2席を受賞。この作品が1982年(昭和57年)『花とゆめ』(白泉社)第4号に掲載されデビュー。なお、この作品は早紀シリーズ第1話として位置付けられている。※ 発表年は掲載誌の号数に準拠。単行本は花とゆめコミックス、文庫版は白泉社文庫、愛蔵版はジェッツコミックスより刊行。藤島 康介は、日本の漫画家、イラストレーター。東京都生まれ、千葉県出身。千葉県立成東高等学校卒業。妻はコスプレイヤー・タレントの御伽ねこむ。江川達也のアシスタントを経て、1986年8号掲載のでデビュー。1986年よりをはじめとするゲーム、アニメ作品のキャラクターデザインやイラストなどでも人気が高い。2008年11月が開始した。2009年5月12日、で第33回講談社漫画賞一般部門を受賞。子供の頃読んだ松本零士の漫画に影響を受け漫画家を志すようになった。1980年代前半の一時期に漫画情報誌を南田 洋名義で連載していた。南田名義では同人活動もしており所属サークル名は「ワルキューレ」。同時期に千葉県内で初めて開催された同人誌即売会『ライブマガジンフェスティバル(LMF)』の案内カタログにスタッフ漫画を描いていたこともある。オートバイマニアで、作品中でもバイクに関わる話が頻繁に描かれる。車もフェラーリ・360モデナ、ケーターハム、アルファロメオ・156、ロータス・エランS3(漫画家の田中むねよしより購入)を所有。自転車やプラモデルにも造詣が深い。2014年に前妻と離婚。2016年6月29日コスプレイヤータレントの御伽ねこむと結婚したと報じられた。なお2016年7月21日発売のPlayStation 4用ロールプレイングゲーム『クロバラノワルキューレ Black Rose Valkyrie』は藤島がキャラクターデザインを務めており御伽が一之宮ルナ役で声優として初出演している。2016年7月7日、自身の誕生日であるこの日にTwitterで結婚を報告した。同年7月27日、前日26日に御伽との間に第一子が誕生したことを双方のTwitter及び���伽の公式ブログを通じて報告した。 +山下 和美(やました かずみ、1959年8月15日 - )は、日本の漫画家。北海道小樽市出身。女性。神奈川県立希望ヶ丘高等学校卒業。横浜国立大学教育学部中退。1980年、講談社漫画賞一般部門を受賞。2011年時点、を掲載している。2021年3月より画業40周年を記念して開催。2021年4月 で第25回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞。和田 慎二は日本の漫画家。広島県呉市出身。代表作などがある。漫画原作者挿絵画家としての仕事も手がけた。1971年東海大学在学時にでデビュー。大学卒業後の1974年に作品『キャベツ畑でつまずいて』の中で、日本で最初に「ロリータ・コンプレックス」という言葉を使ったといわれている。集英社『別冊マーガレット』白泉社『花とゆめ』などの少女誌で主に執筆していたが『少女鮫』の終了後少年誌やミステリーホラー誌などを中心に執筆。その後白泉社と決裂して版権を引き上げメディアファクトリーから新作や過去の代表作を新装出版した。2011年7月5日虚血性心疾患のため自宅で死去。61歳没。秋田書店の月刊少女漫画誌が遺作となった。ジャンルは少女漫画に分類されるが作風としては壮大なファンタジーに加えて大胆なアクションを取り入れたものが多い。の新作のオファーが来ても断っていた。しかし主役が大ファンだったならということで映画化を許諾しテレビシリーズ終了後の2006年には4代目となる主人公麻宮サキを松浦亜弥が主演深作健太監督作品として映画化された。和田の作品には一度出演したキャラクターが後の作品で再登場する例がたびたびある。例として、代表作のにも同様の役柄で登場する。和田自身もデビュー初期の兄貴シリーズから漫画家の「岩田慎二(いわた しんじ)」通称「岩(がん)さん」や「ヒゲクマ」の名で劇中に登場することが多く実写でもヨーヨー売りの男性役で映画『スケバン刑事』(1987年)にカメオ出演している。和田は手塚治虫のスター・システムを積極的に継承している漫画家のひとりである。しかも人間の顔に関する二通りの考え方も、一人の役者が異なる役を演じていると考えることができる。海堂美緒はでは夫婦であり敵という関係になっている。また、ではドン・キホーテのお供として活躍を見せた。また、当時のの漫画家たちとコラボレーションしていた事もある。タンゴのうちでとくに名高く重要なのはアルゼンチン・タンゴすなわちブエノス・アイレスに起こりそこを本場として発達したタンゴである。タンゴが生まれた経緯は不明だが、18世紀の後半にと記された手稿譜が見つかっており、盛んにイベリア半島で踊られていた。その後、スペイン帝国による植民地政策の結果としてラプラタ川の河口地域の人々にこのダンスパターンが伝わり、1880年にはすでに出版譜が見つかっており、1900年以降にバンドネオン、フルートなどの混合されたアンサンブルを伴ったダンススポットが強烈に流行した。ポピュラー音楽およびダンスの一形態で、カンドンベ、ミロンガ、ハバネラなど複数の音楽が混ざり合って19世紀半ばにブエノスアイレス、モンテビデオ近辺のラ・プラタ川流域で生まれた。ともいわれる。しかし、実際には記録はほとんど残っていないため、正しいことはわかっていない。ただ、リズムに関してはキューバのハバネラ、ヨーロッパ伝来のワルツ、アメリカ伝来のフォックストロット、アフリカ起源で南米のいくつもの国に広がったカンドンベ、アルゼンチンのパンパで生まれたミロンガなどが、初期のタンゴに影響を与えた。日本では、本場アルゼンチンのタンゴをの類であった。すなわち、競技ダンス・社交ダンスで用いられる1ジャンルのタンゴのための舞踊音楽であった。よって、長らくタンゴと言えばマランド、アルフレッド・ハウゼといったイメージで、多くの場合理解されていた。しかし1960年代からはオスヴァルド・プグリエーセ、フランシスコ・カナロなどの大御所たちもこぞって来日を果たしており、一部の聴衆から熱狂的な支持を生んだ。ただ、楽器の習得や様式の完成に非常に時間がかかり、専門的な教育機関も存在しない日本で学習するのは非常に困難なジャンルという認識もあった。いったん上記の競技ダンスや社交ダンスが一般的には下火になっていた1980年代後半米国で成功した公演が日本にも移入しこれ以降アルゼンチンタンゴが普及するようになった。現在は鬼怒無月のように調性を廃したタンゴアヴァンギャルドエレクトロニクスをフル活用したタンゴエレクトロニコなどの新たな可能性が日々探られている。インターネットラジオもアルゼンチンではない国からアルゼンチンタンゴが24時間流れ続ける例が存在するなど新しい聴取者層を獲得している。近年は日本のみならず韓国や台湾などもタンゴの音楽家が続々と増えており技術的に本場とほぼ変わらないレヴェルのテイクも珍しくない。弦楽器の騒音的奏法ヴァイオリン群による集団グリッサンドバンドネオン本体への打撃コントラバスのコルレーニョバトゥットピアノとバンドネオンのトーンクラスターが典型例だがピアノの内部奏法はタンゴアヴァンギャルドを除いて行われることがない。バンドネオンが用いられることが特徴である。また非常に鋭いスタカートでリズムを刻むにも関わらず打楽器を欠く。オルケスタティピカに始まりキンテートを通過し現在はこの枠ではくくれない編成も多い。またバンドネオンなしのピアノと弦のみの演奏もある。ギターの伴奏と歌によるタンゴもカルロスガルデルらが録音を残し高く評価されている。アストルピアソラの作品のようにクラシック音楽の演奏家によりクラシック音楽のスタイルで演奏されるものもある。特に1950年代後半頃からアコースティックギターなども使われるようになってきた。少しでも伝統を外すとという苦情が寄せられることも多くウルグアイとアルゼンチンですら激しい対立があることで有名だが多種多様な実験が多くの聴衆に受け入れられてきたことも事実なのである。楽器編成は通常のポピュラー音楽での管弦楽編成に近い。ムード音楽的演奏からマランドのように歯切れの良いリズムを重視したアルゼンチンスタイルに近い演奏までさまざまである。一般的にはアコーディオンが用いられるためバンドネオンの鋭いスタッカートではなくオーケストラの分厚いくぐもったスタッカートが多い。ヨーロッパのタンゴは日本ではと言い、ヨーロッパで大雑把にひとくくりにしたがる人がいても、実際には国ごとにそれなりに傾向は異なり、ジャーマン・タンゴ、ロシアン・タンゴ、フィニッシュ・タンゴ、フレンチ・タンゴ、チロリアン・タンゴ、ダッチ・タンゴ、デニッシュ・タンゴなど各国ごとのタンゴに細分化することも可能である。北欧フィンランドのタンゴはどうかと言うと、フィンランドでは1910年代からタンゴ演奏が始まったため、日本より伝統が長い。アコーディオンが使われる。ことが必須になっており、朗らかさは無く、その点で南欧のタンゴとは異なっている。現在はアストル・ピアソラ国際演奏コンクールの優勝者も輩出するなど、演奏の質の高さには定評がある。毎年必ず行われるTangomarkkinatが有名。小編成が圧倒的に多い。アルゼンチンタンゴの中になかった楽器も積極的に取り入れられておりなおかつコンチネンタルタンゴのような妥協を行わない点が特徴。かつてはオルケスタティピカ東京坂本政一とオルケスタティピカポルテニヤのようなオルケスタティピカを組織するのが一般的であったが1970年代の低迷期に入ってからは小編成が有力となった。アルフレッドハウゼ楽団のようなコンチネンタルタンゴの人気も日本ではかなりある。1990年代は日本でもアストルピアソラが人気を博したこともありピアソラスタイルを表面的に模倣した楽団も見られた。1970年から毎年必ず行われる民音タンゴシリーズが有名で同シリーズは2019年時点で50回を重ねている。1979年のジャパニーズ・タンゴとはといったステレオタイプなものを指していた。2010年代は、このようなスタイルを日本人がとることは最早ない。日本は1940年代に戦争の影響で音楽活動が制限されたために、とする現地民と意見が食い違うタンゴ・ファンは今もなお1910-30年代生まれの日本人に多い。日本人にとってのタンゴの黄金期は1920年代末期を完璧に演じきったオルケスタ・ティピカ・ヴィクトルで知られる1927年前後、日本のタンゴ楽団の活動と活発なAM放送に��る啓蒙で知られる1954年前後、そしてインターネットによる新たなファン獲得に成功した2010年代を印象に残る日本にとっての黄金期と捉える人物が多い。タンゴでは作曲者の作ったメロディーは大切にされるものの演奏する楽団の編曲により新たな旋律や副旋律がつけられたり変奏 variacin がつけられたりすることが当然のようになっている。たとえばはヘラルドマトスロドリゲスの作曲したメロディーの他にロベルトフィルポが付け加えた中間部が好評を呼び著名度が高いタンゴとなった。タンゴについては、やはり演奏する楽団の編曲の良し悪しが、聴いている聴衆の満足度につながるものとされる。これはバッハのコラール編曲と事情が似ており、コラール原曲より付された対旋律のほうが有名、といった古事を継承している。なお、楽譜からはずれる即興演奏は、避けられる方向であったが、アストル・ピアソラのように即興演奏を好むタンゴ演奏家もいる。ピアソラは徹底的にを売ることで顰蹙を買ったが、タンゴ楽団の譜面には自分たちの芸風を示したメモは一切書かないのが本当は主流で、伝統的にはすべて演奏様式は口承である。アストル・ピアソラやそれ以降の楽団のモダンタンゴの解釈については、古くからのタンゴ愛好家で違和感を覚えるような声が多くあった。これは、ジャズやジプシー楽団から引き抜かれた人物が独自の癖を披露したからである。その一方で、そのモダンタンゴに感銘を覚えるタイプのタンゴ愛好家も増えてきている。21世紀に入ると、古典またはアルカイックタンゴ専門の楽団も出現している。タンゴの歌詞のスペイン語.タンゴの曲の多くにはスペイン語の歌詞がついているが"La ltima curda" の "curda" のようにブエノスアイレス地方の俗語である ルンファルド がよく用いられる。日本の西和辞典で引きづらいこともしばしばである。また、vos およびそれに相当するという南米の言い回しボセオ が出てくることもある。ボセオについては、日本の西和辞典では、具体的な活用形ですらも取り上げられているとはいえない状態である。英語の や、その他のサイトで調べるしかない。ひとつのタンゴに違った複数の歌詞がつけられる.のように、ひとつのタンゴの曲に、違った複数の歌詞が付けられることがある。作詞者に敬意が示されている.タンゴの歌詞について の ガビノコリアペニャロサ や の オメロ・マンシ のように、作者に敬意が表される場合も少なくない。歌詞が文学的なタンゴは歌がつけられた演奏になる傾向にある。地名・招聘した人物への敬意が示されていることもある。またラファンダリエンソやコロールタンゴのような先人の発明を継承したが多いのもタンゴの特徴でメンバー紹介には誰から後継を行ったのかが丁寧に書かれていることがある。歌詞なし演奏も当たり前.歌詞なしで演奏されることもごく普通である。のように歌詞なし演奏がほとんどの曲もある。また『レスポンソ』や『とろ火で』のように歌詞がつけられていない場合もある。スペイン語以外の歌詞がつけられているタンゴ.原曲にスペイン語の歌詞がつけられているタンゴに別の言語の歌詞がつけられる場合もある。としてアメリカで歌われヒットした。日本では菅原洋一が第31回NHK紅白歌合戦で『ラクンパルシータ』を日本語の歌詞で歌った。冴木杏奈が着物姿で『カミニート』を歌っている映像が YouTube でアップロードされている。淡谷のり子も日本語の歌詞で『ラクンパルシータ』や『ジーラジーラ』を歌っていた。原語がスペイン語でない歌がタンゴとして演奏される場合もある。たとえばシャンソンのがタンゴとして演奏される場合もある。ファンダリエンソ楽団はサービスと称してスペイン語で原曲を歌わせそのまま日本語の訳詞で歌わせるということも行わせた。ファンサービスとしてファンダリエンソ楽団はと主張して翻訳された歌詞を専属歌手に歌わせその録音が残っている。複数の作品のサビを数曲ほど接合させる例もある。これは先人への敬意が込められる。このような形態では歌手は歌わない。ラテン音楽の規則と近代和声法の規則のせめぎあいや禁則の頻発.ラテン音楽は原則的にスリーコードのみで進む鉄則があるため、これを��ろうとする者はと呼ばれていた。四声和声法ではというのが鉄則だが、古典タンゴの代表作のように、最初からメロディーがアルペジョで動くことも普通に行われる。さらに、アルフレド・デ・アンジェリス楽団はベースや中声部のバンドネオンがアルペジョで動くこともある珍しい集団である。モダンタンゴの時代に入ると近代和声の影響を徐々に受けて減ったがそれでもバンドネオンセクションは依然として平行進行が好まれる。またファンダリエンソ楽団のに至ってはメロディーとベースがサビで有名な連続8度を行うなど西洋楽器を使いつつ西洋音楽の規則では説明のつかないことが頻発する。楽曲を編曲しなおす楽団も数多く、オスバルド・プグリエーセ楽団やエドゥアルド・ロビーラはバンドネオンの左手や弦楽セクションを用いて対位法的な趣味を前面に打ち出しており、近代和声や対位法の規則を意識したようである。タンゴ黎明期から黄金期にかけての作品が和声法と対位法を守っていないわけだが、一体どこまでがミスでどこからが意図的なのかについては明らかにされていない。タンゴは器楽では楽に演奏できても声楽では歌唱が厳しいメロディーラインが多く歌手は独特の修練を必要とする。他の種類の音楽との関連.タンゴは、始めはフォルクローレから出発した。初期のタンゴでは、ギター・ヴァイオリン・フルートのアンサンブルで演奏されて、バンドネオンは定着せず、ミロンガ・カンドンベと同種のラプラタ諸国の民俗音楽であった。バンドネオンの導入により、タンゴは差別化がなされるようになった。ミロンガについては、タンゴとして演奏されることもある。カルロスガルデルはフォルクローレ歌手として活動を始めてその後タンゴを歌いだした。ガルデルの歌にギター伴奏のタンゴにタンゴ愛好家の人気があり今でも頻繁に聴くことができる。またタンゴ楽団によるヴァルスすなわちアルゼンチン当地のワルツの演奏もよく聴かれフランシスコカナロ楽団のが有名である。ブエノスアイレスのタンゴ生演奏の店タンゲリア tanguera では、フォルクローレの演奏も行っているところもある。東京の六本木にありタンゴバプとして有名だった店 「六本木カンデラリア」 (閉店) の店主の高野太郎は、フォルクローレ歌手である。タンゴもフォルクローレも、どちらもレパートリーとしている歌手も、目立つ。エドガルド・ドナートがクラシック系統の音楽学校であるフランツリスト音楽院の優等生だったように、アルゼンチンでも日本もふくめ他地域でもクラシック音楽を専門的に学んだ人がタンゴ界で活躍することは、めずらしくない。タンゴも最初期の『エルエントレリアーノ』から半音階をとりいれたりしている。またカデンツァなどクラシック音楽の用法がタンゴに応用されている。スペインのクラシック音楽の作曲家イサークアルベニスも有名な『タンゴ ニ長調』(「アルベニスのタンゴ」)を作曲している。『ビクトリアホテル』の作曲者のフェリシアーノラタサはクラシック音楽の作曲家と伝えられている。クラシック音楽に対抗意識をもちつつ対話していたタンゴの権威にアストル・ピアソラがいて、アルゼンチンに来たアルトゥール・ルービンシュタインに自作の曲を見てもらったり、ナディア・ブーランジェから作曲を学んでいたというエピソードがある。また、クラシック音楽家でも、演奏にタンゴをあえて選ぶ人も出てきている。チェロ奏者のヨーヨー・マが、ピアソラ作曲のを演奏曲目に選んでいる。エドガルド・ドナートは、ウルグアイのジャズのカルロス・ウォーレン楽団に所属していたこともある。フランシスコ・ロムートは、ジャズピアニストとしても活躍していたこともあった。アストル・ピアソラは少年期はタンゴよりもジャズを好んでいたといわれている。タンゴも時代が下りモダンタンゴに近づくとジャズの影響が見られる曲も増えてくる。ちなみにピアソラはジャズタンゴを提唱しているしジャズの演奏家としている表現もみかける。タンゴもジャズもピアノとコントラバスとギターという楽器を使用するということでは共通している。アティリオスタンポーネ楽団やネストルマルコーニ楽団はジャズのリ���ムやピアノソロを全面に押し出すなどタンゴアヴァンギャルドではジャズのイディオムも解禁されている。ただジャズの曲をタンゴとして演奏されたりすることはなかなかありえない。がジャズ楽団でも演奏されている。それ以外の例でモダンタンゴ以外のタンゴがジャズとして演奏されることはあまりない。1940年代を過ぎるとフランチーニ=ポンティエル楽団やサルガン楽団トロイロ楽団は近代和声を拡張したジャズに影響された大胆な和声を積極的に織り込むようになった。この展開を嫌い古典和声にこだわり続けたダリエンソやデアンジェリスのような硬派のタンゴ楽団もいる。近代和声を用いた名曲の第一号がマリアーノモーレスのという見解を示す識者は多い。この作品はジャズのようなナインスコードが偶発的に出現するがこのような艶のある表現はレトロタンゴの時代では決してみられなかった。『小雨降る径』と『恋心』については、タンゴとして演奏される場合がある。(なお、逆にタンゴの曲がシャンソンとして歌われる例はあまり見当たらない。)日本ではタンゴ歌手として出発した菅原洋一がシャンソンを歌った。シャンソン歌手の高英男が第12回NHK紅白歌合戦で同じくシャンソン歌手の芦野宏が第13回NHK紅白歌合戦でを歌った。シャンソン生演奏の店シャンソニエで月何回かタンゴの生演奏を行うところもある。スペインの歌手のフリオ・イグレシアスや、メキシコのトリオ・ロス・パンチョスのように、タンゴ歌手でないスペイン語圏の歌い手も、タンゴのレコード録音がヒットすることもある。DJバラーシュの選んだタンゴ十大楽団.このように多くのタンゴ楽団に接した者ほどアストルピアソラを避ける傾向にある。ラウルオウテーダも同様である。アルゼンチン・タンゴ起源-黎明期.ロセンド・メンディサーバル 作曲アンヘルビジョルド 作曲ドミンゴ・サンタ・クルス Domingo Santa Cruz 作曲フェリシアーノ・ラタサ Feliciano Latassa 作曲エンリケ・サボリド 作曲ホセ・ルイス・パドゥラ Jos Luis Padula 作曲ビセンテ・グレコ 作曲アルゼンチンタンゴ起源-黄金期.1910年頃〜1940年頃アグスティンバルディ 作曲ロベルト・フィルポ 作曲ヘラルドマトスロドリゲス 作曲ペレグリーノパウロス Peregrino Paulos 作曲フランシスコ・ロムート 作曲エドガルド・ドナート 作曲ヘススベントゥーラ Jess Vntura 作曲エドゥアルド・アローラス作曲エンリケデルフィノ Enrique Delfino 作曲サムエル・カストリオータ Samuel Castriota 作曲フアンデディオスフィリベルト 作曲マヌエルホベス Manuel Jovs 作曲カルロスガルデル 作曲セパスティアンピアナ Sebastin Piana 作曲カトゥロカスティージョ 作曲フアンデアンブロージョ Juan Deambroggio 作曲エンリケ・サントス・ディセポロ 作曲ペドロラウレンス Pedro Laurenz 作曲フリオセサルサンデルス Julio Ccar Sanders 作曲フランシスコカナロ 作曲アレハンドロ・スカルピーノ Alejandro Scarpino & ファン・カルダレーラ Juan Caldarella 作曲ファン・カルロス・コビアン 作曲アルゼンチン・タンゴ起源-過渡期.1940年頃〜1960年頃フランシスコ・カナロ & マリアーノ・モーレス 作曲マリアーノ・モーレス 作曲オスヴァルド・プグリエーセ 作曲アニバル・トロイロ作曲ファンカナロ Juan Canaro 作曲アルゼンチンタンゴ起源-復興期.コンチネンタル・タンゴ起源.ヨゼフリクスナー 作曲ハンスオットーボルグマン 作曲ジョルジュビゼー Geroge Bizet 作曲ヘンリー・ヒンメル Henry Himmel 作曲ルロイアンダーソン 作曲 +スカ は1950年代にジャマイカで発祥したポピュラー音楽のジャンル。24拍目を強調したリズムが特徴。メントやカリプソアメリカのR&Bなどの影響を受けている。有名グループにはザスカタライツがいる。スカの発祥については諸説ある。感度の悪いラジオで、ニューオーリンズなどアメリカ南部の都市のラジオ放送局からのジャズの2・4拍目が強調されて聞こえたため、誤ってコピーされたという説もある。直接的には、1950年代からのアメリカのリズム・アンド・ブルースと、ジャマイカの音楽文化には欠かせないサウンド・システムの影響が大きいが、それ以前にジャマイカにはジャズの下地があり、スカ以前のメント、ラスタファリアニズムの影響があった。イギリスの統治下の時代にジャマイカにもたらされたブラスバンドの形式は、キングストンでいくつかのジャズの楽団となって残っていたが、1950年代までは、労働者階級にはメントが一般的で、ジャズは中産階級に好まれていた。西キングストンにある感化院、アルファ・ボーイズ・カトリック・スクールの教師が、厳しく品行を正す教育と共に、特にジャズの音楽教育のプログラムが取り入れたのはこうした理由による。トミー・マクック、ドン・ドラモンド、リコ・ロドリゲスらはこの学校でジャズを学び卒業し、デューク・エリントンやカウント・ベイシーの影響を受けたジャマイカのビッグバンドで演奏を始めていた。1950年代には、ジャズの手解きを受けたアルファボーイズ出身者らが、ラスタファリアンのカウント・オジーを訪ね、ワレイカ・ヒルでナイヤビンギに合わせて管楽器を演奏するセッションが度々行われていたという。スカに特徴的な2・4拍目が強い裏打ちはこのナイヤビンギの影響もあり、アメリカ音楽に対するラスタ的な返答とも受け取れる。一方は、メントやカリプソなどカリブ圏の音楽は小節が3-3-2拍のリズムで、このリズムに対するバックビートとして2・4拍目を強調した結果であるとも言われている。第二次世界大戦後から、ジャマイカではラジオの購入者数が増加し、ニューオーリンズなどアメリカ南部の都市のラジオ局から、ファッツ・ドミノやルイ・ジョーダンなどのR&Bを聴くことができた。その上、戦後のアメリカ軍の駐留は、ジャマイカ人が軍事放送でアメリカ音楽を聞くことができたことを意味し、さらにアメリカからのレコードの一定の流入があった。そのような音楽の需要に応えるために、コクソン・ドッド、デューク・リードらはサウンド・システムを形成した。サウンド・システムはスピーカーシステムのパワーと、レコードの品質の両方によって良し悪しが判断されたため、サウンドマン達はマイアミやニューオーリンズからレコードを独自に入手した。R&Bが1960年代前半に人気があった時に、ジャマイカの音楽家たちは、R&Bのカバーを録音した。1960年代初め、スカは急激にジャマイカの音楽シーンを席巻しはじめた。アップテンポの裏打ちは1962年のジャマイカ独立を祝う気持ちと一致していた。デリック・モーガンのなどは、もっと後に生まれるロックステディとの橋渡しをする曲である。その一方で、スカのもっとも初期のリスナーたちは、地方からキングストンに仕事を求めて来たゲットーに住む若年貧困層であった。ルードボーイ達が踊ったスタイルによってスカにも影響を及ぼし、音楽はより脅迫的に激しく、ベースラインはよりシンプルに変化した。1966年までには多くの聴衆はスカのビートと速度に疲れるようになりビートはより遅くされてロックステディへと移行する。遅くなった理由としてジャマイカの暑い夏のためとする見方もあるがアメリカのR&Bからの影響が継続していたという点も挙げられる。1960年代半ばのモータウンやスタックスのソウルミュージックがより伸びやかで滑らかなスタイルに変化したことにジャマイカのミュージシャンも同調した。1970年代末には、パンク・ロックとスカを融合したサウンドの2トーン・スカが隆盛となった。主なバンドとしてザ・スペシャルズ、マッドネス、ザ・セレクター、ザ・ビートなどがいた。なお、2トーン・スカと区別するため、1960年代ジャマイカ産のスカをオリジナル・スカと呼ぶこともある。1980年代には、アメリカでフィッシュボーンがスカとパンク等を融合したロックを展開した。その後USネオスカバンドトースターズのボーカリストであるバケットがオーセンティックスカ~パンク系のスカレーベルムーンスカレコードを設立。アメリカにおいて「サードウェーブスカ」と呼ばれるムーブメントを引き起こした。さらに1980年代終わり頃から歪んだギターサウンドが特徴のスカコア/スカパンクが派生した。1990年代前半までにはスカと、スカ・パンクのバンドはアメリカだけでなく、そのほかの国々にも登場した。1997年、ランシドのティム・アームストロングとバッド・レリジョンのブレット・ガーヴィッツが、エピタフレコードのサブレ��ベルとして、ヘルキャットレコードを創設。ヘプキャット、ザ・スラッカーズなど、スカ、スカ・パンクのバンドを同レーベルから送り出した。スカという音楽ジャンルで日本で最初にヒットした曲は、『走れ正直者』(歌唱:西城秀樹/作詞:さくらももこ/作曲・編曲:織田哲郎)とされている。作曲と編曲を手がけた織田哲郎によると、この曲を制作した当時はスカやレゲエなどは日本では流行らないと言われていたそうである。国内の他のバンドは関連項目参照。 +六道 神士は日本の漫画家同人作家。男性。福岡県太宰府市出身。九州産業大学卒業。代表作はなど。1990年代から同人サークル「げんこつ団(18禁)」「下僕堂(18禁)」に参加、「六道館」を主宰する。1994年、の連載が始まる。この作品は全9話が連載されるが、同誌の休刊に伴い終了。その後1996年に掲載の短編に端を発している。同人活動においては男性向け作品をはじめ自身が描いた作品に登場するキャラクターについての解説本などを発行している。フォスターフォースター は英語圏の姓 またドイツ語圏の姓 。エルヴィス・アーロン・プレスリー (, 1935年1月8日 - 1977年8月16日)は、アメリカのミュージシャン、映画俳優。全世界のレコード・カセット・CD等の総売り上げは6億枚以上とされている、「」の第1位。「キング・オブ・ロックンロール」と称される。ミドルネームは公文書、サイン共にAronだが、墓石にはAaronと表記されている。1950年代にチャックベリーやファッツドミノリトルリチャードカールパーキンスジェリーリールイスビルヘイリーら と共にロックアンドロールの誕生と普及に大きく貢献したいわゆる創始者の一人であり後進のアーティストに多大なる影響を与えた。その功績からキングオブロックンロールまたはキングと称されギネスワールドレコーズではとして認定されている。1950年代にアメリカやイギリスをはじめとする多くの若者をロックンロールによって熱狂させそれは20世紀後半のポピュラー音楽の中で最初の大きなムーブメントを引き起こした。また極貧の幼少時代から一気にスーパースターにまで上り詰めたことからアメリカンドリームの象徴であるとされる。ザビートルズボブディランエルトンジョンボブシーガーロバートプラントフレディマーキュリーなど後に音楽業界で成功したロックミュージシャン特にボーカリストたちが憧れたことでも知られる。初期のプレスリーのスタイルは、黒人の音楽であるブルースやリズムアンドブルースと白人の音楽であるカントリー・アンド・ウェスタンを融合した音楽であるといわれている。それは深刻な人種問題を抱えていた当時のアメリカでは画期的なことであった。その後全国的な人気を得たが、保守層には「ロックンロールが青少年の非行の原因だ」と中傷され、PTAはテレビ放送の禁止要求を行うなど、様々な批判、中傷の的になった。KWKラジオではプレスリーのレコード(「ハウンドドッグ」)を叩き割り、「ロックンロールとは絶縁だ」と放送。さらにフロリダの演奏では、下半身を動かすなとPTAやYMCAに言われ小指を動かして歌った。この時には警官がショーを撮影し、下半身を動かすと逮捕されることになっていた。しかしプレスリーの音楽によって多くの人々が初めてロックンロールに触れロックンロールは一気にメジャーなものとなった。またいままで音楽を聞かなかった若年層が音楽を積極的に聞くようになりほぼ同時期に普及した安価なテレビジョンやレコードプレーヤーとともに音楽消費を増加させる原動力になった。さらに音楽だけでなくファッションや髪型などの流行も若者たちの間に芽生え若者文化が台頭した。晩年はその活動をショーやコンサート中心に移した。1977年8月16日自宅であるグレイスランドにて42歳の若さで死去した。プレスリーの記録は多数あり例えば最も成功したソロアーティスト最多ヒットシングル記録等がギネスによって認定されている。において第1位。プレスリーは1935年1月8日、ミシシッピ州テュペロの小さな家で生まれた。父ヴァーノン・エルヴィス・プレスリー、母グラディス・ラブ・プレスリーの3人家族であった。父ヴァーノンが不渡小切手で服役するなど非常に貧し���幼少時代であったが、両親はエルヴィスを大事に育てた。熱心なキリスト教プロテスタントの信者 であり9歳の時に洗礼を受けた。11歳の誕生日にはライフルを欲しがったが当然母親に却下され代わりに与えられたのがギターであった。これを機に自宅の地下洗濯部屋で練習し音楽に傾倒していった。1948年、プレスリーが13歳の時にテネシー州メンフィスへと引っ越した。下宿生活を経て、1949年に一家はメンフィスにあるロウダーデール・コート公営住宅に転居した。メンフィスは非常に貧しい黒人の労働者階級が多かったため、そのような環境の中で黒人の音楽を聴いて育った。エリス公会堂のゴスペルのショーも欠かさずに観に行っていた。ある日、毎回欠かさず観に来ていたエルヴィスだったが、入場料を払えないとの理由で1度欠席した。これに気を留めたのがJ.D.サムナーで「じゃあ次回からは楽屋口から入るといいよ」と告げ、エルヴィスは無料でショーを観ることができた(1970年代のコンサートではJ.D.サムナー&ザ・スタンプス・カルテットをコーラス隊として迎えている)。このことが後のプレスリーの音楽性に大きな影響を与えたとされる。プレスリーは高校卒業後、精密金型会社で働いた後にクラウン・エレクトリック社に転職しトラック運転手として働いていた。1953年の夏にプレスリーはメンフィスのサン・スタジオで最初の両面デモ・アセテート盤を録音するため4ドルを支払った。収録曲は当時のポピュラーなバラード と であった。サン・レコードの創業者サム・フィリップスとアシスタントのマリオン・ケイスカーはその録音を聞きエルヴィスの才能を感じ、1954年6月に行方不明の歌手の代理としてプレスリーを呼んだ。セッションは実り多いものであったかは分からなかったが、サムは地元のミュージシャン、スコッティ・ムーア、ビル・ブラックと共にプレスリーを売り出すこととした。プレスリーは最初と呼ばれた。1954年7月5日のリハーサル休憩中にプレスリーは をいじくり始め、サムはプレスリーが適所を得たかもしれないと考えて録音ボタンを押した。即興での演奏でドラムスが不在であったため、ベースをかき鳴らしての演奏となった。B面に が収録されたシングルは、WHBQラジオが放送した二日後に、メンフィスでのローカル・ヒットとなった。ラジオを聴いた人たちは黒人歌手だと勘違いしていた。また公演旅行はプレスリーの評判をテネシー中に広げることとなった。しかしと言い張り向こうが謝罪し多額のお金を積んだが絶対に行かなかった。このエピソードの様に、公民権法が施行される前の1950年代のアメリカでは、音楽も人種隔離的な扱いを受けている部分が多く残っていた。当時のロックンロールのヒットソングも黒人の曲をパット・ブーンらの白人がカバーし、そのカバー版が白人向けの商品として宣伝され、チャートに掲載され、またラジオなどで流れる傾向にあった。たとえ同じ歌を同じ編曲で歌ったとしても、黒人が歌えばリズム・アンド・ブルースに、白人が歌えばカントリー・アンド・ウェスタンに分類されることが常識だった。プレスリーは、このような状況にあって黒人のように歌うことができる白人歌手として発掘された。サンとの契約下でプレスリーは5枚のシングルをリリースした。とクレジットされた。10曲の中で最短の曲は1分55秒、最長のもので2分38秒である。1955年8月18日にプレスリーの両親はプロデューサーのトムパーカー(通称パーカー大佐)との契約書に署名しサンスタジオとの関係は終了した。プレスリーは1955年11月21日にRCAビクターと契約した。1956年1月28日に「CBS-TVトミードーシーステージショウ」にてTVに初出演し黒人のR&Bを歌う。そこでプレスリーは白人らしからぬパフォーマンスを披露したがこれに対してPTAや宗教団体から激しい非難を浴びせられた。しかしその激しい非難にもかかわらずそれを見た若者たちはプレスリーのファンになっていった。1956年1月27日に第6弾シングル がリリースされた。これは1956年4月にチャートの1位に達した。 はその後数多く登場したミュージシャンに多大な影響を与えた。レコーディング場所について1950年代はニューヨークにあるRCAスタジオを利用した��とがあったがプレスリーのキャリアにおいて主演映画の挿入歌以外のレコーディング場所で最も利用されたのはテネシー州ナッシュヴィルにあるRCAスタジオBである。しかし1972年以降はハリウッドにあるRCAスタジオや地元メンフィスのスタジオを利用した。更に1976年になるとRCAスタッフがプレスリーの自宅(グレイスランドジャングルルーム)に録音機材を持ち込みレコーディングを行った。後年レコーディング自体に関心を示さなくなったのは、RCAのミキシングやアレンジがプレスリーの意向にそぐわなかったことや良質な楽曲がなくなったこと、コーラスがプレスリーの要求にこたえられなかったこと、体調面など様々な理由があった。プレスリーは一発撮りと呼ばれる1テイク完成型のスタジオライブ形式のレコーディングスタイルにこだわった(いくつかのテイクをつなぎ合わせて一つの曲として発表する形式やパートごとの別録りといった選択肢もあったがプレスリーはそれを嫌い現在まで発表された曲数が700以上ある中でそのような形式で発表した曲は少ない)。そのためプレスリーの死去後現在まで様々な未発表テイクが発掘されておりその中には発表されたテイクと違った趣向のものもある。後年レコーディングに関心がなくなった頃は体調不良を訴え「歌のレコーディングは後で必ずするからミュージックだけ録音しておいてくれ」と言うこともあったがほとんどの場合それは実現しなかった。1956年12月4日、プレスリーはカール・パーキンス、ジェリー・リー・ルイスがレコーディングしているサン・レコードに立ち寄り、彼らとジャム・セッションを行なった。フィリップスにはもうプレスリーの演奏をリリースする権利はなかったが、このセッションを録音した。ジョニー・キャッシュも共に演奏していたと長い間考えられていたが、フィリップスが撮らせた写真でしか確認することができない。このセッションは伝説的な『ミリオン・ダラー・カルテット』と呼ばれるようになった。年末の『ウォール・ストリート・ジャーナル』一面で、プレスリー関連商品が2千2百万ドルを売り上げ、レコード売り上げがトップであることを報じられた。また『ビルボード』誌で100位以内にランクインした曲数が史上最高となった。音楽業界最大手の1つであるRCAでの最初の1年間、RCAのレコード売り上げの半数がプレスリーのレコードであった。エドサリヴァンショー.当時のアメリカの国民的バラエティー番組には1956年9月と10月1957年1月と短期間に3回出演した。なお広い視聴者層を持つ国民的番組への出演を意識してジャケットを着用し出演した上に当初保守的な視聴者の抗議を配慮した番組関係者が意図的にプレスリーの上半身だけを放送したというエピソードが伝えられている。そのようなやり取りがあったものの司会者のエドサリヴァンがと紹介したことからプレスリーへの批判は少なくなった上にアメリカ全土へのプロモーションに大きく役立ったと言われている。1958年1月20日にプレスリーはアメリカ陸軍への徴兵通知を受けた。当時のアメリカは徴兵制を施行しており陸軍の徴兵期間は2年間である。プレスリーは特例措置を受けることなく他と変わらぬ普通の一兵士として西ドイツにあるアメリカ陸軍基地で勤務し1960年3月5日に満期除隊した。徴兵命令が来た際プレスリーはと伝えた。翌日プレスリーは徴兵局へ出向き延期の申し入れを行った。1958年8月11日戦車兵としての専門教育を受けていたプレスリーはすでに体調を崩していた母グラディスが緊急入院したとの知らせを受けた。上官はプレスリーからの外出申請をいったんは却下したが8月12日の外出が許可された。グラディスは8月14日に亡くなり翌15日に葬儀が営まれた。再び帰営する際プレスリーはグラディスの部屋を生前の状態に保つよう言い残している。プレスリーは西ドイツに駐留する第32機甲連隊に配属され第1中戦車大隊の本部管理隊で勤務した。同地では松濤舘空手を学びまた軍曹まで昇進した。なお空手8段とされているがそれは誤りである。また在籍中病気にかかり軍の病院において扁桃腺炎だと診断された。その際医師はプレスリーの声が変調するのを恐れて扁桃腺の切除手術は行わなかった��回復し健康を取り戻した。1960年3月2日プレスリーは帰国の途に就いた。途中スコットランドを経由しているがこれが彼にとって唯一のイギリス滞在となった。プレスリーは3月3日の朝に帰国して大勢のファンに迎えられ5日に名誉除隊となった。歌手として有名になっていくにつれて、映画配給会社数社から出演の依頼がプレスリーのもとに届いた。プレスリーは大変喜んで、劇場に通いつめ、演技を独学で勉強した。初出演映画にはパーカー大佐がプレスリーを映画の主演にさせたかったので20世紀FOX配給「」に変更されて公開された。プレスリーは当時のガールフレンドに「映画会社がアホな曲を用意してきたんだよ。せっかくのいいストーリーが台無しになっちゃったよ」と不満を漏らしている。陸軍入隊前までの1958年までに4作の映画が製作されたがいずれも挿入歌ありの主演映画に終始しおまけに映画挿入歌を収めたアルバムが好評だったため当時のショウビジネスの世界に新たなビジネスの形態を作り出した。1960年に陸軍除隊するとパーカー大佐は配給会社数社と長期に渡り出演契約を結んだ為1969年まで1年に3本のペースで27本もの映画の製作が行われ活動の拠点をハリウッドに移さざるをえなかった。おおよその映画は制作費を抑えた挿入歌アルバム付きのものが多かったがなどコンサートをドキュメンタリー的に記録したものだけである。結局1956年から1969年まで計31本の映画が公開された中でプレスリーが望んだ(主題歌以外の)歌のない映画は1969年公開の「"(殺し屋の烙印)」のみであった。この映画が製作された頃のプレスリーは1960年代初期と違い映画への意欲が薄らいでいた時期ではあった(1968年のカムバックを経て残った契約の消化を急いでいた)が久しぶりに前向きに臨んだ西部劇で役作りの為にあごひげまではやし撮影された。しかしプレスリーの主演映画に対する世間の注目度が低かったこと脚本の出来もイマイチだったことなどが原因で映画の興行成績は振るわなかった。そういう状況の中ミュージカル映画の枠を超えていなかったこと台本の出来の悪さまたプレスリーが力を入れて撮影したシーンがカットされたことなどプレスリーの仕事への不満は募っていきそれが歌手としてコンサート活動を再開するきっかけになった。歌手活動の本格再開後も1970年8月のラスベガス公演やリハーサル風景を収めたドキュメンタリー映画が公開された。これらを合わせるとプレスリーが主演した映画は計34本となる。1974年8月19日にラスベガス公演中のプレスリーの楽屋をバーブラストライザンドが訪れた。バーブラは自らが主演する映画での共演をプレスリーに依頼しプレスリー自身も非常に乗り気だったと伝えられているが後日パーカー大佐が出演料を理由に断った。1970年代半ば、プレスリー自身が起案し出演する空手家が主人公の映画の撮影を行ったが、完成することはなかった。理由の一つとして、プレスリーの体調が悪くなることが多く空手を続けられる状況ではなくなり、空手自体をやめてしまったことが挙げられる。ちなみに、空手の後の太り始めた頃からの趣味はラケットボールで、医師からの勧めで始めた。プレスリーは自宅であるグレイスランドの敷地内に専用コートを建てた。亡くなる1977年8月16日の早朝も友人たちとプレーし、汗を流した。プレスリーとビートルズは直接的な接点はなかったが両者は1965年8月27日ロサンゼルスのプレスリーの邸宅で一度きりの会見を果たしたことがロック史に残る出来事として語られている。ビートルズのマネージャーであるブライアンエプスタインとパーカー大佐の間でのという名目だったがどこからか漏れてしまい案の定自宅周辺には野次馬が集まった。諸説あるがメンバーのジョンレノンポールマッカートニージョージハリスンリンゴスターは平静を装いながらも心を躍らせて招かれた部屋に入った。そこでエルヴィスはテレビを見ながらベースを練習してくつろいでいた。と声をかけた事から慌てて4人は挨拶し即興演奏が始まった。プレスリーはベースを演奏しレノンとハリスンはギターマッカートニーはピアノを演奏した。スターはドラムキットが無かったため演奏しておらずビリヤードやサッカ���を楽しんでいたという。プレスリーは彼らの曲も歌い、そのあとでと発言したことからその場が凍りついた。これはレノンの若気の至りとも、過激なジョークだったとも言われるが、プレスリーはその発言に気分を害してしまった。そしてその会見に実際に立ち会ったという記者のクリス・ハッチンスによれば、レノンはさらに当時アメリカ軍による関与が拡大を続けていたベトナム戦争にプレスリーが賛同する姿勢と、プレスリーのマンネリ気味であった映画を痛烈に批判した。これらの事がきっかけでレノンを嫌うようになったプレスリーはマッカートニーやハリスンの曲はコンサートで頻繁に取り上げているが、レノンの曲は取り上げていない。この様にレノンの発言と態度が場の雰囲気を壊したことでこの会見はとても成功したとは言えないものであった。レノンはこの発言を反省したためか後日プレスリーの取り巻きにと手紙を出したとも言われている。1967年5月1日にはラスベガスのアラジンホテルでプリシラアンボーリューと結婚。プリシラはプレスリーの駐西独アメリカ軍での所属部隊長の継子であった。プレスリーは未成年であったプリシラを自分の父親とその妻の家に同居させ有名なカトリックの女子高に通わせてきちんと卒業させるということをプリシラの母親と継父に約束してプリシラをメンフィスで暮らせるようにした。しかし程なく2人はグレイスランドで一緒に暮らすようになっていく。8年後に結婚し1968年2月1日には娘リサマリープレスリーが生まれる。その4年後、結婚前から続いているプレスリーの生活習慣といつも一緒の生活、さらに年間何ヶ月にも及ぶコンサートツアーによる別居生活などのさまざまな理由から、プリシラは空手教師のもとに走り、2人の結婚生活は破綻してしまう。グレイスランドを出たプリシラはリサ・マリーを引き取り、ロサンゼルスに住居を移す。1973年10月9日に正式離婚。離婚後もプレスリーとプリシラは友人関係にあり以前よりも密に連絡を取り合うようになったという。プレスリーがツアーでロサンゼルスにいるときはプリシラの家を訪れたりなにか事あるごとにプリシラをグレイスランドに呼び寄せたりして精神的にプリシラを頼りにしていた。二人はリサマリーがまだ幼かったこともあって2人が離婚したことでリサが不幸にならないようにと願っていた。リサとプレスリーは頻繁に会っていたようだ。プレスリーが死んだその日もリサはグレイスランドにいた。60年代70年代の音楽活動.プレスリーの音楽活動は62年のを発売しカムバックした。1969年から過密スケジュールでキャリアを再開。しかしそれはプレスリーを完全なワーカホリック状態へと追い込むものであった。1969年以降行ったライヴは1000回以上であり平均すると1年におよそ125回のペースだった。1969年よりネバダ州のラスベガスを中心にショーを行うようになっていた。プレスリーのコンサートは時代を経て大規模なものになっていった。瞬間最高視聴率約72%を記録した1968年のNBC-TVスペシャル以後翌年にラスベガスのステージで歌手復帰してからはロックンロール以外にもレパートリーの幅を拡げゴスペルやスタンダードナンバー等を取り入れた。バックもコーラスグループやピアノ等が新たに加わりオーケストラまで揃えた多人数の団体に膨れ上がった。なお派手な衣装はリベラーチェからの影響と言われている。またラスベガスのステージ編成をそのまま地方公演に取り入れた。コンサート活動再開後最後にコンサートを行った1977年6月26日インディアナポリス公演までチケットは売り切れ状態が続いた。72年には「バーニングラヴ」が大ヒットとなった。70年代には他に「アメリカの祈り」「ロックンロール魂」などを発売した。1977年8月17日から始まる予定だったツアーも最終日の8月27日のメンフィス公演まで売り切れ翌28日に同地で追加公演を行う予定だった。リチャード・ニクソンとの面会.1970年12月21日には、わざわざアメリカン航空の民間機でワシントンD.C.にジェリー・シリングと2人で出向き、シークレット・サービスに手紙を手渡した。一市民であるプレスリーから大統領にあてた手紙である。ホワイトハウス内は大騒ぎとなり、その40分後��佐官からと電話があった。ホテルに到着したデル・ソニー・ウェストが合流し3人でホワイトハウスへ行き、リチャード・ニクソン大統領に会った。ツーショット写真はその際撮影されたものである。この時プレスリーは、自分はといい、麻薬取締官の資格を与えられた。翌週、プレスリーはそのバッジをみんなに見せびらかせて回った。なお、プレスリーは警察官等のバッジ・コレクションをしており、大変な収集家であった。この際のエピソードはあまりにも有名なものとなり後にこのエピソードだけでいくつかの映画になったほかプレスリーとニクソン大統領とのツーショット写真はホワイトハウスの公用写真の焼き増しサービスの中で最も人気が高いものとなった。プレスリーは世界的なスーパースターとなったが終生アメリカカナダ以外でコンサートを行っていない。海外での公演ができなかった理由は移民であるパーカー大佐がアメリカの永住権を所持しておらずカナダを例外としてアメリカ国外へいったん出国すると再入国を許されない事態を恐れた為だったと言われている。ちなみにパーカー大佐が出身国に残してきた家族が大佐がプレスリーに付き添う姿をテレビで見て仰天したという逸話が残されている。これに対して、パーカー大佐は世界の公演希望に応えるため、衛星中継という方法で、ナマのプレスリーを世界へ送った。来日公演の要請に対しては、日本のゴールデンタイムに衛星生中継で視聴してもらえるよう、1973年1月14日に、ハワイ時間深夜1時からコンサートを開催する形で応えた。これは日本のゴールデン・タイムにあわせたものである。放送は約2時間続いた。このコンサートはプレスリーの愛唱歌でもあったの作者クイリーの遺族らによって創設された“クイリー癌基金”のためのチャリティーコンサートとして開催された為収益は全てクイリー癌基金へ寄付された。この公演のチケットには値段が付いておらず客が献金したい分だけ払えば購入することが出来た。6000席の会場で7万5000ドル集まったので1人あたり12ドル50セント支払った計算になる。アメリカでは公開中だった『エルビスオンツアー』と競合することを回避するために4月4日に放送された。新たにハワイのビーチや挿入歌がインサートされた生放送とは別の編集版であった。既にこのコンサートのライヴアルバムが発売されていたにもかかわらずこの放送を視聴した世帯数は人類初の月面着陸の映像を視聴した世帯数より多かった。この様な理由以外にも、プレスリーはパーカー大佐に対する不満をメンバーたちに多く漏らしていた。しかし、プレスリーは生涯パーカー大佐をクビにすることはなかった。ネルソン・ジョージは、「マネージャーのトム・パーカー大佐がプレスリーをどんどん安物のクズにおとしめていった」と評している。1977年8月16日にテネシー州メンフィスの自宅グレイスランドで没した。ガールフレンドのジンジャーアルデンによって寝室のバスルームの床に倒れているところを発見されバプテスト記念病院へ搬送されたが医師は午後3時30分プレスリーの死亡を確認した。。検視後死因は処方薬の極端な誤用による不整脈と公式に発表された。晩年プレスリーはストレスからくるとグレンDハーディンなどのメンバーさらにデルソニーウェストなどのメンフィスマフィアのメンバーたちも語っている。グレンは詳しいことは死ぬまで語るつもりはないといっているが、ソニー・ウェストは暴露本を書いて中傷したとされた。このことについてソニーはと述べた。違法なドラッグは一切使用していないが、この処方ドラッグの影響で癇癪持ちになり、体調も維持できなくなってしまった。イギリスのテレビ局、チャンネル4はプレスリーのDNAに、肥満や心臓疾患を引き起こすものが発見されたと報道した。当初はメンフィスのフォレスト・ヒル墓地で母親の隣に埋葬されたが、遺体の盗掘未遂事件後に、母親と共にグレイスランドに再埋葬された。グレイスランドには、プレスリーの様々な遺品やピンクや緑に塗られたキャディラック、愛娘の名前をつけた自家用機、コンベア880型と感じ、式に出席しなかった。プレスリーの急死後、その肖像権は非常に危うい位置にあ��た。プレスリーはステージ以外の事は人任せで、肖像権は一応管理されていたが杜撰だったため、金儲けの道具とされ、プレスリーのイメージを損なうものであっても簡単に商品化できた。存命中にはプレスリーは多くのと考え膨大な予算をプレスリーに用意させようとした。死去後まもなくして遺族らが膨大なプレスリーの物的財産を管理する組織を結成肖像権も管理しようと訴訟を起こした。遺族らは勝訴し肖像権を手に入れ以後今日までしっかりと管理されている。肖像権が管理できるようになってという名を使い現在まで様々なプロジェクトを世界に向かって発信してきた。プレスリーのキャリアはサンレコードからデビューした1954年から死去する1977年である。本業の歌の部門では数多くの未発表テイクが発掘されている。最近の話題だと新編集された曲が2002年のFIFAワールドカップの公式テーマソングになったり、未発表映像も発掘され、1968年のTVスペシャルや1973年のアロハ・フロム・ハワイのアウトテイクを収録した完全版がリリースされ好評となった。その他、側近や友人、家族らが語るプレスリーの人物像に焦点をあてた物や、プレスリーのゴスペルに対する思いを映像化した物もある。それ以外にもプレスリーをモチーフにした映画の製作やプレスリーの曲が数多くの映画の挿入歌に使用される事も多い。プレスリーに因んだセリフも数多くの映画の中で聞くことが出来る。ブロードウェイのミュージカルにも取り上げられる等そのような話題はとどまる事を知らない。プレスリーの記録であるナンバー1ヒット曲数18曲が2019年マライアキャリーの19曲によって更新された。死後、ロニー・マクドウェルは「キング・イズ・ゴーン」を発表した。あまりにエルヴィスに似ていることと、歌のうまさはおおいに話題となった。プレスリーの物まね、または成りきる(演じる)事を生業とする人々が世界に存在し、その数は8万5000人と言われている。また、エルヴィスを尊敬するアーティストも多く、そのようなアーティスト達が一堂に会したトリビュート・コンサートが実現した。更に1997年には新たなる試みとして、プレスリーのコンサート映像を使用し、それにあわせて当時のバンド・メンバーが演奏する(現)のメンフィス公演が行われ、以後全米各地のほか、ほぼ年に1回のペースでアメリカ以外の地域でツアーを行っている。彼の死後プレスリーの生存説目撃情報などの滑稽な陰謀論やオカルト話がなどを中心に相次いで報告された。年をとったプレスリーを見たという証言がある一方若い頃そのままのプレスリーを見たという証言もある。プレスリーが生きているという確実な証拠には300万ドルが支払われる。32本の映画出演作全てが主役という驚異的な記録を残している。ヨーロッパにおいてロックンロールという新しい音楽への興味を生じさせた。ジョンレノンボブディランポールマッカートニーエルトンジョンボブシーガーフレディマーキュリールーリードクリフリチャードロバートプラントブルーススプリングスティーンなどをはじめとする多くのアーティストが大きな影響を受けた。ジョン・レノンとエリック・カルメンは、ヴォーカル・スタイルにおいても影響を受けている。ZZトップ、チープ・トリック、ジョン・シュナイダーらはエルヴィスの曲をカバーした。ロバート・ゴードン、タフ・ダーツ、ストレイ・キャッツ、ブラスターズらもエルヴィスの影響を受けていた。日本では湯川れい子、小林克也らがプレスリーのファンである。歌手では平尾昌晃、山下敬二郎、ミッキー・カーチス、坂本九、ささきいさお、西郷輝彦、本郷直樹等もプレスリー・ファンとして知られる。世界中のティーンエイジャーはプレスリーのと呼ばれる横髪を後ろへなで付けるヘアスタイルをこぞって真似し始めた。そして黒いズボンや緩い開襟シャツといったプレスリーのニュールックはファッションの新たな潮流を作りその大きな需要を生み出した。プレスリーの影響は経済大国における大量消費を行う最初のティーンエイジャー世代を生み出した。エルヴィスプレスリーを慕うミュージシャンにドイツのオペラ歌手ペーターホフマンらがいる。1977年にジミー・��ーター大統領は「エルヴィス・プレスリーの死は、我が国から大事な一部分を奪いとったようなものだ。彼の音楽とその個性は白人のカントリー音楽と、黒人特有のリズム・アンド・ブルースのスタイルを融合させ、永久にアメリカの大衆文化の様相を変えてしまった。彼は、祖国アメリカの活力、自由、気質を世界の人々に植え付けるシンボルだった。」と語った。ジェームズ・ブラウンは「彼は白人のアメリカ人に目線を下げるということを教えた」という言葉を書き残している。アメリカ内務省のゲイルノートン長官は2006年3月27日プレスリーが約20年間を過ごしたテネシー州メンフィスの邸宅を国の国定史跡に認定した。認定の式典は一般公開で行われ娘であるリサマリープレスリーも出席した。1970年代のプレスリーは真っ白なジャンプスーツが思い出されるが、それ以外にも紺や青、水色、赤などのジャンプスーツも着ている。1970年初期のジャンプスーツは動きやすさを念頭に置いたシンプルな衣装であった。それがどんどん派手になっていき、ケープまで登場した。金やダイヤモンドやルビーなどを施したジャンプスーツは25kg以上にもなっていた。前述のように、これは敬愛していた著名なピアニストであるリベラーチェからの影響を受けたものであった。ただし、プレスリーは宝石類にはあまり興味がなく、ステージ上で華やかに見えるものなら安いイミテーションでも構わないという性格だった。酒も煙草もやらない。たまに葉巻を吸う程度である。「オン・ステージ」で観客から酒を渡された時も、口を付けるだけでほとんど飲んでいない。ステージ上で飲んでいるものは水かゲータレードである。コーヒーや炭酸飲料と呼ばれている。ただしこのサンドイッチは食べる前に多量のバターを溶かしたフライパンで揚げ焼きにしたもので当然ながら高カロリーなためプレスリーが30代以降体調を崩し肥満化していった一因になったのではないかという指摘もある。グレイスランドの前の通りはエルヴィスプレスリーブールバードという。世界中のプレスリーのファンファンクラブからの募金のみで運営しているセイントパウロエルヴィスプレスリー記念病院がある。プレスリーの記録には限りがないが代表的なものや興味深いものを挙げる。ディスコグラフィ:アルバム.公式リリース音源の数は800曲を超える。Follow That Dreamレーベル.プレスリーがそのキャリアにおいて発表した曲の未発表テイクが数多く存在するがプライベート録音を含めすべての残されたプレスリーの音源を聴きたいというファンの要望に応えるべく立ち上げられたのが主演映画のタイトルから引用したレーベルである。このレーベルのアルバムは限定生産され、世界中のファンクラブに優先的に流通させるので一般のCDショップ等に出回りにくい。1999年に第一弾 "がリリースされた。以後、定期的に貴重な音源が次々とリリースされている。わずかだが一つの曲のすべてのテイクを聴くことが出来たり、コンサートアルバムはプレスリーのコンサートを体験することが出来なかったファンにも追体験出来るような内容になっている。シングルディスコグラフィー.プレスリーが1977年に亡くなるまでの21年間に146曲が100位以内に112曲が40位以内に72曲が20位以内に38曲が10位以内にチャートインした。1962年4月21日から2週連続で1位を獲得した「グッドラックチャーム」を最後にプレスリーは1位から遠ざかったが1969年11月1日「サスピシャスマインド」が1位を獲得し「プレスリーの復活」と言われた。1972年10月28日には「バーニングラヴ」が2位まで上り詰めたがチャックベリーの「マイディンガリング」(1972年10月21日から2週連続1位)に阻止された。1970年代においてはプレスリーは一度も1位を取ることはなかったが2002年にリメイクされたは世界24カ国でナンバー1を取得した。アメリカにおいて1位を獲得したシングルの数は18作〈計79週間〉でビートルズの20作〈計59週間〉マライアキャリーの19作〈計82週間〉に次ぐ歴代3位の記録となっている。ロックン・ロール、カントリー、ゴスペル・ミュージックの3部門のいずれも殿堂入りした初のアーティストとなった。また、今のところ楽曲においては3回グラミー賞を受賞しているが、3回ともロック部門ではなくゴスペル部門においての受賞であり、プレスリーは終生この事を誇りにした。全米ナンバー1獲得曲.ナンバー1ヒットは全18曲合計79週間である。曲数はビートルズマライアキャリーに次ぐ歴代3位である。週間数に関してはマライアキャリーに次ぐ歴代2位である。 +[[Category:アメリカ合衆国のポップ歌手]][[Category:アイルランド系アメリカ人]][[Category:ギネス世界記録保持者]][[Category1935年生]]カーペンターズ は、アメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルス出身の兄妹ポップ・ミュージック・デュオ。楽器を兄のリチャードが受け持ち、ヴォーカルを妹カレンが担当。ロック全盛の1970年代において独自の音楽スタイルを貫き、大きな成功を収めた。1983年のカレンの死により活動を終えた。1970年代を中心に、アメリカのラジオ番組やアダルト・コンテンポラリー・チャートでの記録を塗り替え、ソフトロックやイージーリスニング、アダルト・コンテンポラリー・ミュージックといったジャンルにおける主要なヒットメーカーとなった。Billboard Hot 100で1位となったシングルが3曲、アダルト・コンテンポラリー・シングル・チャートで1位が15曲ある。さらに、トップ10入りは12曲に及ぶ。アルバム・シングルの総売上枚数は1億枚を上回るとされている。14年間の活動で11枚のアルバム31枚のシングル5本のテレビスペシャル番組テレビシリーズ番組を1本制作した。アメリカ本国をはじめ英国日本オーストラリアオランダベルギーなど世界各国でツアーを行った。オリコンチャートブックの集計では1970年から1989年の日本での海外アーティスト別アルバム売上枚数はビートルズに次いで第2位である。シングル売上枚数は第1位。CD時代に入った後も、1995年発売のベスト盤が200万枚越えるセールスを記録する等、日本においても時代を超越して愛され続けているグループである。カレンが神経性無食欲症(いわゆる拒食症)の合併症による心停止のために死去してから摂食障害の危険性の認識が深まったといわれている。家族の歴史とダウニーまでの道のり.カーペンター兄妹は二人ともコネチカット州ニューヘイブンにある Grace–New Haven Hospital にて Harold Bertram とAgnes Reuwer の夫婦のもとに生まれた。ハロルドは父(兄妹の祖父イギリス人)が宣教師として赴任していた中国で生まれた。その後一家は1917年にイギリスにもどり1921年にはアメリカに渡り技術者として身を立てた。父方の祖母のネリーは美しく歌声はとても大きくてきれいだった。兄妹の母であるアグネステイタムカーペンターはボルチモア出身で小売店を営む家庭の4人姉妹として生まれた。アグネスの父は姉妹たちに一生懸命働くことの大切さと勤労道徳をしっかり教え込んだアグネスはとても意志が強くウエディングドレスも自作し子供を守り家事をきっちりこなす母親であった。二人は1935年4月9日に結婚第二次世界大戦が終わりアメリカ庶民が手頃な価格で家が買えるようになった頃カーペンター夫妻は1946年ニューヘイブンの郊外に家を購入した。ハロルドはNew Heaven pulp and board companyでカラープレス工として働いた。アグネスとハロルドは週末は車の洗車をして家庭が豊かになるように努めた。兄であるリチャードは1946年10月15日生まれでハロルドの兄弟の名をとりRichard Lynnと名付けられた。3年後の1950年3月2日妹Karen Anneが誕生した。夫妻は子供を非常にかわいがったが、リチャードによると、夫婦は表だった愛情表現をあまり好まなかった。この関係がカレンがのちに神経性食思不信になった時に周囲から母親からの愛情が足りないのが原因と指摘された由縁である。しかし、リチャードが後にテレビ番組で「うちの家族は他の家族の様にHugging(何かの折に愛情確認のために抱きしめる)はしないが、お互いのことをちゃんと思いやっているんだ」とコメントした。ハロルドは表立った愛情表現は下手であったが音楽に対する感情表現を表すのは子供たちの前でもためらわなかった。ハロルドが集めた音楽はハリージェイムスレッドニコルズスパイクジョーンズチャイコフスキーやラフマニノフと多様でこれはリチャードが多種多様な音楽に触れるきっかけとなった。リチャードはおとなしい子供��、ほとんどの時間をピアノを弾いたり音楽を聴いたりして家で過ごしていた。リチャードが3歳になるまでに興味を持ったのは、地下室でレコードプレーヤの前で何時間も音楽を聴くことであった。父は地下室の天井からブランコを吊るし、そこでカレンとリチャードはブランコに揺られながら音楽を聴いて育った。二人はいつも一緒でそれは生涯変わらなかった。リチャードは屋内で遊ぶのが好きであったが、カレンはかなりのおてんばで、よくソフトボールをして遊んでいた。リチャードは12歳の時にピアノを始め、16歳の時に近くのエール大学でピアノのレッスンを受けた。この頃になると、リチャードがミュージシャンとしての将来を目指していることは、近所の皆が感じていた。他の子供が外でローラー・スケートをしているころ、リチャードがピアノを練習している音が窓から聞こえたそうである。母のアグネスはこの頃までには、リチャードがクラシック音楽でなく、何か違う音楽で身を立てると予感していたようで、毎日彼が練習するのを聞いていたという。リチャードの音楽的才能に気づいた夫妻は息子の音楽活動のためにハリウッドのある南カリフォルニアに引っ越すことを決断友に別れを告げ1963年6月車に引っ越しの荷物を詰めてカリフォルニアを目指した。ハリウッドの中心ではなく少し離れたダウニーに移り住んだ。ダウニーはニューヘイブンと同じく郊外でミドルクラスといわれる家庭が住むのに適していた。彼が最初に住んだアパートは今もありリチャードはそこに1年以上いたといわれている。カーペンター家はニューヘイブンの家が売れず、経済的に苦しかった。そのため家族は最初にShoji Apartments (現在はThe Pinecrest Apts、12020 Downey Avenue, Downey, CA)に移り住んだ。最初はShojiアパートの22号室であったが、数か月後に向かいの大きな23号室に移り、約1年間過ごした。1965年の11月父であるハロルドはようやくダウニーのフィドラーアベニューに家族向けの一軒家を手に入れて移り住んだ。この家が建っていた場所はパラマウントとベルフラワーの境界に位置していたため高速105号線の建設でちょうどこの場所だけが取り壊され歴史的建造物であることを惜しむ声も上がった。カーペンター一家はこのフィドラーアベニューの家に1971年まで住み続けた。リチャードリンカーペンターは1946年10月15日妹カレンアンカーペンターは1950年3月2日生まれである。リチャードは父親の膨大なレコードコレクションを聴きピアノの練習に熱心だった。。一方カレンは親しみやすく外向的でスポーツを好んだが兄と一緒に音楽を聴くことも多かった。1963年6月、両親のハロルドとアグネスは家族を連れてカリフォルニア州ロサンゼルス郊外のダウニーに移り住んだ。リチャードを音楽業界へ近づけることと、カレンと父がニュー・イングランドの厳しい冬を嫌ったための移住であった。同年の秋からリチャードはダウニー高校へ通い、体育の代わりにバンドを選択科目とした。後にカレンも、これを参考にして選択を体育から音楽に変更した。音楽教師のブルース・ギフォードは、リチャードが「ラプソディ・イン・ブルー」を指示されて演奏するのを聴いて、リチャードのピアノ奏者としての才能を認めた。翌年度からリチャードはカリフォルニア州立大学ロングビーチ校へ通い、将来の作曲パートナーとなるジョン・ベティスと出会った。ベティスの協力のもとに、リチャードはやがてを共作するフランク・プーラーらと知り合ったのもこの学校でのことである。カレンは1964年にダウニー高校へ入学しドラム演奏の才能を見せはじめた。カレンは運動は好きだが体育の授業は嫌いだったと述べている。カレンは体育から逃れるためカリフォルニア州立大学学生であったリチャードにやはり同様に体育からマーチングバンドを選択できるように教師を紹介してもらい結果ダウニー高校マーチングバンドの一員となることを認められた。1963年リチャードを教えていた教師のブルースギフォードはカレンにグロッケンシュピールを担当させたがカレンは気に入らなかった。あるインタビューでカレンはと述べている。その後間もなくカレンは、友人でありバンド仲間のフランキー・チ��ベスからドラムの演奏を勧められ、チャベスのセットを借りてドラムを教わった。という。1965年まで1年間カレンはドラムの練習に励みリチャードは教師フランクプーラーの指導の下でピアノを練習した。兄妹はジャズトリオの結成を真剣に考えるようになり親しくなったウェスジェイコブズとバンドを結成。ドラムはカレンピアノはリチャードベース/チューバはジェイコブズという編成のジャズトリオで などといった曲を録音した。しかしRCAとの契約はすぐに打ち切られる。1966年ロサンゼルスのベース奏者ジョーオズボーンが所有していたガレージスタジオで深夜にセッションが行われることとなりそこでオーディションを受けるトランペット奏者の伴奏を務めるために参加することとなったリチャードにカレンも同行した。この時ためしに歌ってみるようオズボーンから頼まれたカレンの声のすばらしさが認められ1966年5月13日カレンはオズボーンが立ち上げたばかりのレーベルマジックランプレーベルとソロアーティストとしての短期レコード契約を結ぶこととなった。このレーベルからはリチャードが作曲した を収録したシングルが制作されたがレーベル自体がその後すぐに消滅。しかしオズボーンはカレンとリチャードがA&Mレコードからのオファーを受けることとなる1969年まで2人にデモテープの録音を続けさせた。1967年リチャードとカレンはカリフォルニア州立大学ロングビーチ校の学生ミュージシャン4人と共にの名に落ち着いた。グループはジョリーナイトステーキハウスやウィスキーアゴーゴーなどで頻繁に演奏するようになった。スペクトラムはレコード会社と契約を交わせなかったが同じバンドのメンバーであると同時にのち1983年のカレンの死まで多くの楽曲の共作者となるジョンベティスとリチャードは親交を深めた。1968年、スペクトラム解散。リチャード・カーペンター・トリオのウェス・ジェイコブズは、ベースとチューバを演奏していたが、デトロイト交響楽団へ加入するためグループを去った(1970年首席チューバ奏者となった)。リチャードとカレンは1968年の中ごろにテレビ番組 で参加することとしたが、バンドを去ったジェイコブズの代わりとなるベース奏者が必要となり、オーディションを行った。結局、そのテレビ出演だけの臨時参加という形でビル・シショフが選ばれた。一時的なメンバーを加えたリチャード・カーペンター・トリオは1969年6月22日にテレビデビューを飾った。この演奏が、リチャードとカレンにとって初めてのテレビ出演でもあった。この出演を最後にリチャード・カーペンター・トリオは最終的に解散し、レコード会社からのオファーを待つこととなる。当時はジミ・ヘンドリックスやビートルズ、ジャニス・ジョプリン、ローリング・ストーンズなどロックグループが主流だった。しかし、リチャードとカレンは自分たちの路線を貫き、二人は友人たちの手を借りながらさまざまなレコード・レーベルにデモ・テープを送り続けた。それがA&Mレコードの共同所有者でありトランペット奏者・ヴォーカリストでもあるハーブ・アルパートの関心を惹いた。このアルパートがリチャードとカレンを世に送り出すことになる。1969年4月22日リチャードとカレンは「カーペンターズ」名義でA&Mレコードとの契約を結んだ。当時の州法で19歳のカレンは未成年者だったため両親も署名した。兄妹はあえて定冠詞 "The" の付かない "Carpenters" を契約上の名義とすることに決めた("The Carpenters" は「カーペンター兄妹」ないし「カーペンター家」を意味するが"Carpenters" だけでは「大工たち」の意味になる)。その理由についてリチャードは2004年に発売された "" のライナーノーツにおいてバッファロースプリングフィールドやジェファーソンエアプレインのように「ザ〜ズ」ではないバンド名のほうがかっこいいと思ったからだと述べている。A&Mレコードとの契約において、リチャードとカレンはスタジオ内での自由を与えられた。へと題名を変えて再発された。アルバム『涙の乗車券』のチャート・アクションは今一つ振るわなかったが、リチャードとカレンはバート・バカラック/ハル・デヴィッド作の「close to you」でついに��功を手にする。このシングルは1970年にリリースされて初登場56位となり、1970年7月22日にはチャート1位に昇りつめ、4週にわたって首位の座を守った。また1970年ビルボード誌年間ランキングでは第2位となっている。ベストセラーとなったアルバム『close to you』の収録曲からはこの曲と「愛のプレリュード」がRIAAによってゴールドディスクに認定され、同アルバムは『ローリング・ストーン』誌による『偉大なアルバム500選』 () の175位にも選ばれている。その年の最優秀新人部門をはじめとする2つのグラミー賞も受賞した。はウィリアムズとニコルズにとって初のヒット・シングルとなった。2人はその年の締めくくりとしてクリスマスソングをリリースした。この曲はカリフォルニア州立大学時代に2人の参加していた合唱団の監督を務めていたフランクプーラーとリチャードが共作した作品で1970年のビルボードのホリデイチャートで上位にランクインして翌年以降も同チャートにたびたび登場した。一連のヒット・シングルやアルバムによって、カーペンターズは1970年代を通じてヒット・チャートの常連となった。1971年のヒット曲は、元はサイ・ハワード監督による1970年の映画の結婚シーンのためにレコーディングされたものである。映画館でこの曲を聴いて気に入ったリチャードは、その後間もない1970年秋にこの曲を録音し、カーペンターズにとって3枚目のゴールド・シングルとなった。続いて送り出された だった。レオンラッセル/ボニーブラムレット作曲のシングルはカーペンターズの次の代表曲となりここで聴かれる痛切で心に残るカレンの歌声は高い評価を受けている。この曲もビルボードホット100で第2位となった。1971年には彼ら自身の名をタイトルとしたアルバムしている。この作品でカーペンターズはグラミー賞 を受賞し3部門でノミネートされた。1972年にリチャードはエレキギターによるソロを導入したバラードを考案した。後にこうした形態の曲をハードロックやヘヴィメタルのバンドが継承して と呼ばれる1ジャンルにまでなったことから、リチャードがこのジャンルの先駆者とみなされることもある。この曲はビング・クロスビー主演の映画 "" に着想を得たものである。この映画は1940年に制作され、作中にはベイジル・ラスボーンが演じる作曲家が登場する。この作曲家は歴史上最も美しい歌 "Goodbye to Love" の作者として有名という設定である。リチャードによれば、この曲は映画の中に言及があるだけで演奏されてはいなかったが、同名の曲を自分で書こうと思いつき、1972年にベティスと共作するまでそのアイディアを温めていたという。2人はリードギタリストとしてトニー・ペルーソを招き、A&Mのスタッフもペルーソの大胆なソロに満足した。これを機にペルーソは1983年までカーペンターズの伴奏者を務めることとなった。しかし、ファンの中にはカーペンターズのレコードにエレキギターのソロが入ることに不満を抱く者も少なくなく、嫌がらせの手紙を送りつける者さえいたという。1973年リリースのアルバムで挿入歌として使用された楽曲などのオールディーズのメドレーが続き聴き物となっている。カーペンターズにとって初となるベストアルバムは と題されアメリカとイギリスでアルバムチャートのトップに立っている。特にイギリスにおいては1974年7月13日にエルトンジョンの『カリブ』にトップを奪われるまでトータル17週も首位に立ち70年代に最も売れたアルバムのひとつとなっている。またこのアルバムはアメリカでも2008年までに700万枚以上を売り上げ7倍のマルチプラチナディスクを授与されている。このベスト・アルバム用に新たに作り直され、アルバムの先行シングルとしてリリースされたのがを1973年9月にシングルカットされ、同年12月にビルボードHOT100において2週連続で1位となり、カーペンターズにとって2枚目の全米1位シングルとなった。カーペンターズは1974年には新しいアルバムを発表しなかった。リチャードはこれについて「単に時間がなかったから。アルバムを作る気分にもなれなかったし」と語っている。その代わりに、2人はポール・ウィリアムズ/ロジャー・ニコルズ作曲のシングル「愛は夢の中に」をリリー��している。これはもともと1972年のアルバム『ア・ソング・フォー・ユー』に収録されていたものだが、カーペンターズはそのLPをリリースした2年後になって、この曲をシングル・カットすることを決定した。1974年3月、そのシングル・ヴァージョンはビルボード・トップ100チャートの11位に達し、アルバム『ア・ソング・フォー・ユー』からの5番目のトップ20ヒットとなった。一方同1974年にはに収録されたハンクウィリアムズのをシングルとしてリリースしている。1975年はまだ彼らにとって多作の年であった。マーヴェレッツが1961年にチャート1位を獲得したヒット曲でモータウンサウンドのクラシックであったをカヴァーしたシングルがヒット。これは1974年にリリースしたものだが75年の1月にビルボードトップ100で1位を獲得し彼らにとっての3度目の首位獲得作品となった。このシングルはまたカレンとリチャードにとっての12番目のアメリカでのミリオンセラーにもなった。日本ではこのシングルが最高の売上枚数を記録している。「プリーズ・ミスター・ポストマン」に続き、春にはリチャードとジョン・ベティスの共作「オンリー・イエスタデイ」がビルボードで4位まで上昇し、これは彼らにとって最後のアメリカでのトップ10ヒットとなった。リチャードとベティスはこの曲がヒット・シングルになるとは思っていなかったので、ロジャー・ヤングとの賭けでトップ5入りしない方に賭けており、2人はヤングに1000ドル支払うはめになったという。1975年の上半期に成功を収めたこの2曲はいずれも1975年のアルバムはプラチナム・アルバムに認定されたが、その後カーペンターズにとっては初めてマルチ・プラチナムに達することのなかったアルバムとなった。1976年6月11日に発売された次のアルバム『見つめあう恋』も、ゴールド・ディスクには認定されたものの、彼らにとってはファースト・アルバム『涙の乗車券』以来の7年間で初めてプラチナ獲得に至らなかったアルバムである。それでも1976年のシングル・リリースは成功を収めていたが、当時のヒット・ラジオ番組は音楽的スタイルを変化させており、ついにはカーペンターズのような「ソフト」なグループの多くを苦しめるようになった。カーペンターズのその年最大のポップ・シングルはハーマンズ・ハーミッツのカヴァー「見つめあう恋」で、最高12位であった。カレンの最も好きな曲といわれる「青春の輝き」はビルボード・ホット100では25位にとどまったが、アダルト・コンテンポラリー・チャートでは「見つめあう恋」に続き14枚目となる1位を獲得した。これは同チャートの歴史上他に類を見ない記録となった。彼らの功績の1つとして数えられることは少ないが、カーペンターズはアメリカでは最も早く自分たちのレコードの宣伝のためにミュージック・ビデオを制作したグループの1つである。1975年の初めに、彼らはディズニーランドでのビデオに出演した時には目に見えて違いが現れるようになっていた。1977年から1979年にかけてディスコブームの真只中でありカーペンターズやジョンデンヴァーら大人向けのはイギリスではヒットしたがアメリカのポップチャートでは32位止まりとなりカーペンターズとしては初めてゴールド認定となる50万枚の売り上げに達することのなかったアルバムとなった。リチャードは収録曲ののミュージック・ビデオがDVD " で観ることができる。国内チャートでの成績はやや振るわなくなってきたとはいえ、カーペンターズはまだ十分な人気を維持していた。1978年の初めには、アップテンポでフィドルを加味した「スウィート・スマイル」がカントリー・チャートで意外にもトップ10入りを果たした(ビルボード・ポップ・チャートではトップ40に若干及ばなかったが、アダルト・コンテンポラリーで7位、カントリー・チャートで8位を獲得した)。この曲は後年カントリーやポップのスターとなるジュース・ニュートンが作曲したものである。イギリスでは2作目のベスト・アルバム " が発売された。一方アメリカではカーペンターズ初のクリスマス・アルバム『クリスマス・ポートレイト』が発売されてその季節の人気作品となり、勢いの衰えはじめたこの時期にあっては意外な��れ行きを見せ、カレンとリチャードに再びプラチナムをもたらした。1979年、リチャードはカンザス州のリハビリ施設で薬物依存症からの回復を試みる。その間にカレンはニューヨークに渡って、プロデューサーにフィル・ラモーンを迎えた初のソロ・アルバムの制作を決意する。彼女はこのアルバムのためにより大人向けでディスコ調の作品を選び、これまでのイメージを払拭しようと努めた。だが、1980年の初頭に完成したソロ作品に対し、リチャードやA&Mは難色を示した。カレンにとっては不幸なことに、このアルバムは発表しないものとする決定が下され、この作品の制作費として印税から50万ドル以上の負債を請求されたのである。この決定に怒りを覚えつつも、ある面では慣れぬ仕事から解放されたカレンは、依存症から立ち直った兄と新しいアルバムの制作にとりかかる。お蔵入りになったカレンのソロ・アルバムは1996年10月にの中で陽の目を見た。その際にはシングルとしてリリースされ、アダルト・コンテンポラリー・チャートで20位以内にランクインした。カーペンターズは1980年にと題されたテレビの特番に出演しエラフィッツジェラルドやジョンデヴィッドソンをはじめとする著名なゲストと共演した。これはカレンがトムバリスと結婚したのと同じ年に撮影されたものでこの時期のカレンは比較的健康な体重を取り戻していた。。1981年6月16日にリリースされたカーペンターズのデュオとしての次なるLPは、商業的には失敗に終わった。この作品はアメリカでは、カレンが亡くなる1983年初頭までは20万枚ほどしか売れていなかった。しかしながら、アルバムからシングル・カットされたロマンティックなはHot100で16位まで上昇し、全米ポップ・チャートにおける彼らの最後のトップ20ヒットシングルとなった。この曲はビルボードのアダルト・コンテンポラリー・チャートでは彼らにとって15番目の首位記録作品でもある。カレンのトーマスジェイムズバリスとの結婚や彼女が患っていた拒食症などの個人的な問題はグループの復帰に暗い影を落とした。瞬く間に恋に落ちたあとカレンは不動産業者のバリスとの結婚式をビバリーヒルズホテルのクリスタルルームで盛大に行った。1980年の8月31日に挙げられたこのセレモニーの中でカレンは翌年にを披露している。だが、結婚してから1年ほどの間に、彼女の容姿は変わり果てていった。『メイド・イン・アメリカ』の販売促進用に制作されたビデオで窺えるその姿は、もはや彼女が重病人であったことを裏付けるのに十分な証拠といえるものであった。カレンとバリスの結婚生活は惨憺たるものであり、彼らは1981年の終わりには別居する。1982年、カレンは障害の診療を受けるためニューヨークの著名な心理セラピスト、スティーブン・レベンクロンを訪ね、この年の11月には仕事に復帰して離婚手続きを完了するためにカリフォルニアへ戻った。カレンの甲状腺は通常のものであったが、新陳代謝を加速するために甲状腺の薬を通常の10倍服用していることが分かった。これに加えて大量の下剤(日に90錠から100錠)を服用していたことが、彼女の心臓を弱める原因となった。ニューヨークの病院での2か月以上にわたる治療を経て、カレンは30ポンド(13.6キログラム)以上も体重を戻したが、急激な体重の増加は、長年の無理なダイエットですでに弱っていた彼女の心臓に、さらなる負担をかけてしまった。1983年の2月4日の朝、カレンはダウニーの両親の家で心肺停止状態に陥ってダウニー・コミュニティ病院に運ばれるが、それから20分後に死亡が確認された。彼女はその日、離婚届へ署名するつもりであったという。検死によるとカレンの死因は神経性無食欲症に起因するエメチンの心毒性であった。解剖学的な結論としては心臓麻痺が第1の原因で拒食症は第2の原因であった。第3に挙げられるのが悪液質でこれは負担や衰弱としては非常に軽いもので慢性的な疾患と関連した一般的な体の衰えというべきものであった。エメチンの心毒性が死因であったことはカレンが当時は簡単に入手できた薬である吐剤(誤って毒物を摂取してしまった人が即座に嘔吐できるようにするためのもの)を悪用していた可能性を示唆���たが明確な証拠はない。彼女の告別式は1983年2月8日火曜日にダウニーの統一メソジスト教会で執り行われた。カレンは白い開いた棺にピンクのドレスを着せて横たえられ、およそ1,000人の会葬者が最後の別れを告げた。会葬者の中には、ドロシー・ハミル、オリビア・ニュートン=ジョン、ペトゥラ・クラーク、クリスティナ・フェラー、ディオンヌ・ワーウィックといった彼女の友人たちがいた。別居中であったカレンの夫も葬儀に出席し、結婚指輪を外して棺の中に入れた。1983年10月12日、ハリウッド名声の歩道のコダック・シアターから2、3ヤードほどのところにカーペンターズの星型プレートが飾られた。多くのファンと並び、リチャード、ハロルド、アグネス・カーペンターが除幕式に出席した。カレンの死は拒食症だけでなく過食症に対してもメディアの注目を呼び寄せた。カレンの死によって有名人たちも自らの摂食障害を公表するようになったが、その中にはトレイシー・ゴールドやダイアナ妃といった人々がいた。医療センターや病院はこうした障害に悩む人々からの相談を受けることが多くなった。カレンの死が大きく報道されるまでは、一般大衆の間では拒食症や過食症についてあまり知られていなかったため、症状を正確に認識して対処することは困難だったのである。2003年12月、カレンと両親の遺骨がカリフォルニア州サイプレスのフォレスト・ローン記念公園から掘り起こされ、カリフォルニア州ウェストレイク・ビレッジのピアース・ブラザーズ・ヴァリー・オークス記念公園に改めて埋葬された。カレンの死後もリチャードは未発表音源集やコンピレーションアルバムなどデュオの作品のプロデュースを続けた。は1983年の終りにリリースされチャート46位に達してゴールド認定を受けた。このアルバムからは2枚のシングルがカットされた。はチャート入りしなかった。リチャードカーペンターは1984年5月19日にメアリルドルフと結婚した。1987年8月17日には長女クリスティが1989年7月25日には次女トレイシィが1992年7月25日には三女ミンディカレンが生まれその後もコリンとテイラーが生まれた。1984年リチャードはデュオの最初のクリスマスアルバム『クリスマスポートレイト』からのアウトテイクに新しい音源を加えた2枚目のクリスマスアルバム『オールドファッションドクリスマス』をカーペンターズの「新作」として制作した。また1987年にはリチャード初のソロアルバム『タイム』をリリースした。このアルバムからはダスティスプリングフィールドをゲストヴォーカルに迎えた「サムシングインユアアイズ」がヒットシングルとなった。カーペンターズのイメージを守りレコードの版権管理をしていこうと務めるリチャードに対しては批判が集中した。彼らを題材として扱うドキュメンタリーやドラマが制作されることになると、リチャードがそれらすべてに対して実質的な監督権を主張したためである。1987年には、トッド・ヘインズの自主制作短編映画 " はリチャードの協力下に制作され、好意的な評価と高い視聴率を獲得した。この映画の放映後数週間はレコード屋からカーペンターズの在庫がなくなったほどである。カレンのソロ・アルバム『遠い初恋』は1996年10月にリリースされた。CDにはA&Mが1980年にこのアルバムをお蔵入りにした経緯などを説明した、リチャードによるライナーノーツが付いている。ここに収録された楽曲は、ロック(ピーター・セテラをゲスト・ヴォーカルに迎えた「メイキング・ラヴ・イン・ジ・アフターヌーン」)からブルース(「ラスト・ワン・シンギン・ザ・ブルース」)まで、幅広いジャンルの音楽をカヴァーしている。なお、このアルバムのプロデューサーであるフィル・ラモーンはセテラがかつて所属していたバンド、シカゴの楽曲も数多く手がけている。カレンが1979年から1980年にかけて録音した未発表のソロ曲は他にも9曲ある。1997年にリチャードは自身のピアニスト・編曲家・作曲家としての才能のすべてを注ぎ込んだアルバムを録音して発表したが、そのタイトルはまさに "" というものであったがオリコンチャートのトップ10入りし、その他にも7曲がトップ40に入っている。1995年には日本市場向けにリチャードが編纂した がチャートトップを獲得し、2002年には出荷枚数300万枚を突破する。2003年には300万枚突破記念盤として再発、2005年には10周年記念盤として再々発された。リチャード・カーペンターは、妻のメアリ・ルドルフ・カーペンターおよび4人の娘と1人の息子らとともにカリフォルニア州サウザンド・オークスに住んでおり、夫妻は芸術家の後援活動をしている。2004年にリチャードと妻はカレンを記念したサウザンド・オークス市民芸術プラザ基金 に対し、300万ドルの寄付を行うことを公約した。これを受けて2006年9月20日には初年度となるとも提携している。彼はカーペンター・センターの資金繰りを目的とすることも含めて、コンサート活動を継続している。2001年にはヴァージニア州ノーフォークで行われたペトゥラ・クラークのを挙げた。2008年、アルバムのジャケットで有名になった、カリフォルニア州ダウニーのニューヴィル・アヴェニューにあるカーペンター家の家屋の取り壊しが間近に迫った際には、ファンによって抗議運動が展開された。2008年6月1日、ハリウッドにあるUniversal Studiosで火災があり、保管されていたUMGのものを含めた、50万を超える映画や音楽の原盤を焼失してしまった中にカーペンターズのものも含まれていたことが、40周年記念アルバム制作時にマスターテープが届かないことを不審に思ったリチャード・カーペンターの問合せによって判明した。音楽と歌詞のスタイル.カーペンターズの音楽を特徴的なものにした要素の1つは、カレンの用いた低い音域の声である。ジャズやカントリー・ミュージックの分野には見られたが、当時のポピュラー音楽の世界にアルト歌手はほとんど存在しなかった。しかし、カレンはおよそ3オクターヴにわたる広い声域をもっていたのである。リチャードの声もカレンの歌声と非常に相補的なものだと評価されていた。カレンは高い音域の声も出すことはできたが、低音ほど特質のあるものではなかった。リチャードはカーペンターズのオフィシャル・サイトのファンからの質問のページで、カレンと自分は彼女のに魔法のようなものを感じており、音の豊かさという点では比較にならなかったため、彼女の高音を強調するつもりはまったくなかったと述べている。カレンの「魔法」が低音域にあったためリチャードはカヴァー曲はもちろん自作曲もカレンにふさわしいキーで編曲しなおした。カーペンターズの曲の多くはD(「ユー」「見つめあう恋」)E(「イエスタデイワンスモア」)G(「恋よさようなら」「リーズントゥビリーヴ」「ふたりの誓い」「ユールラヴミー」)などのキーを用いている。カレンはこれらDからGまで場合によってはABCも用いているがこうした芸当のできる歌手は多くないことからカレンの声域の広さはよく知られている。歌手であると同時にドラマーでもあったカレンは、1974年まではしばしばドラムも演奏していた。リチャードによれば、カレンは自分をだと考えていた。5フィート4インチしかなかったカレンは、ライヴでドラムを演奏するとキットの陰に隠れてよく見えなかった。やむをえず2人は、バラードの時にはカレンが立ち上がって歌い、それ以外のあまり有名でない曲の時には座るという妥協案を見出した。年が経つにつれ、カレンがドラムを演奏している時にも彼女のヴォーカルを求める声が高まるようになり、カレンがドラムの前に座る時間は徐々に減っていった。1976年のアルバムのころには、カレンはまったくドラムを叩かなくなっていた。カーペンターズの音楽はそのアレンジの見事さによって高く評価されている。アレンジは大抵リチャードが担当しその手腕は広く賞賛された。アレンジの大半はクラシックのスタイルで多くの弦楽器やときには金管楽器や木管楽器も用いた。著名な音楽評論家のダニエルレビティンは "Electronic Musician" 誌においてと述べている。プロモーション活動とツアー.1969年の最初のアルバムに収録された。カーペンターズはコンサートツアーやテレビ出演などの過密なスケジュールをこなしていった。彼らが出演したテレビ番組にはではを演奏した。BBCのテレビ特番 では生演奏を披露している。彼らはまた夏の間だけのシリー���番組 で主演を務めアメリカでは毎週火曜日の午後8時にNBCで放送された。1980年のラジオでのインタビューでカレンとリチャードのいずれもが1970年代初めのテレビとの関わりにおいて自分たちはつけ込まれ利用されていたことその後の作品を制作してゆく上での支配権を握られそうになっていたことなどを述べている。1973年5月には時のアメリカ大統領リチャードニクソンと訪米中の西ドイツ首相ウィリーブラントからの招待を受けホワイトハウスで演奏することになった。カーペンターズは1971年から1975年にかけて数多くのコンサートを行っている。以下の表はリチャードが保存していた旅行記録に基づいたものである。1970年代の中ごろには度重なるツアーや長期に及ぶレコーディングセッションが2人を蝕みはじめており2人の十数年にわたる活動の後半は仕事の上でも個人生活の上でも問題を抱えたものとなっていた。カレンは強迫観念的にダイエットをするようになりやがて神経性無食欲症になって症状も進行していった。この拒食症が最初に現われたのはラスヴェガスでのショーの途中でカレンが倒れた1975年のことである。カレンは消耗しきっておりフィリピンとイギリスおよび日本へのコンサートツアーはキャンセルするよう命じられた。リチャードはその時期の67日の過密スケジュールのことを後悔しており現在明らかになったことを当時すでに知っていたら絶対にそのような日程には同意しなかっただろうと語っている。カレンはシングルのミュージックビデオを撮影したころにはの中毒に陥っており1970年代後半には演奏に悪影響を及ぼしはじめこれらをきっかけとして1978年に2人はライヴコンサートへの出演を辞めることとなった。カーペンターズとして行った日本公演は、1972年、1974年、1976年の3回である。1974年の日本公演では、武道館ではひばり児童合唱団と、京都では地元の合唱団とを日本語で歌った。カーペンターズが司会を務めるテレビ特番も大変好評で、1976年から1980年にかけて計5本のレギュラー番組を持っていた。なかでも1976年12月8日放送の "" は人気を博し、アメリカの視聴率調査会社ニールセンのランキングで第6位となった。彼らのショーには大抵「shtick」(演出上の見せ場として、お決まりのギャグなどを演じる滑稽な場面)があり、リチャードはこれを大変嫌っていたものの、カレンは気に入っており、その個性をカメラの前で花開かせることとなった。カーペンターズ最後のテレビ特番 "" は1980年5月に放送された。この番組にははなく音楽だけで構成されていた。テレビ司会者のジョンデヴィッドソンや有名なスタンダード歌手のエラフィッツジェラルドらがゲスト出演しさまざまな歌を披露した。この番組で演奏された曲の多くは2004年にアルバムに収録された。カーペンターズのオフィシャルサイトでこのアルバムに収められた15曲のうち5曲が "Music Music Music!" から採られたものであると明記されている。しかしABCは彼らの純粋に音楽だけで番組を構成するという方針に不満を覚えていた。ドキュメンタリー でリチャードはABCのスタッフがこぼしたという言葉を引用している。皮肉にもこのドキュメンタリーは翌1998年にMPIホームビデオ社からDVDとして発売される前にPBSで放映された。音楽評論家からの酷評.カーペンターズの絶大な人気は音楽評論家たちの批判をはねのける勢いをもっていた。バラードやミドルテンポのポップスを中心とした2人の音楽性は批評家たちから退屈で甘ったるいと斬り捨てられていたのである。しかしレコード業界は2人にいくつもの賞を授与した。カーペンターズはそのキャリアにおいて3度のグラミー賞を受賞している。また1973年には投票によって第1回アメリカンミュージックアワードの最優秀ポップロックデュオにも選ばれた。多くの批評家たちからとまで言いながらそうした評価を払拭しようと努めている。レイ・コールマンの著書 においてもリチャードは、カーペンターズのイメージをひたすらにしておこうと務めるA&Mの経営陣や、彼らの音楽よりも彼らのイメージばかりを批評する評論家に対して、自分がいかに嫌悪感を抱いていたかを強調している。カーペンターズの再評価.カーペンターズの本格的な���評価は、1990年代から2000年代にかけて各国で制作された、 などさまざまなドキュメンタリーによってもたらされた。作品の技術的な質の高さや歌に奥底に秘められた悲しみ、カレンの歌声やその人生に刻まれた苦悩が多くのファンを惹きつけた。彼女の特徴的なヴォーカルが、その後のポップ・ミュージックにアン・マレーやリタ・クーリッジ、メリサ・マンチェスターといったアルト歌手を登場させる契機になったといわれている。1990年代のR&BグループボーイズIIメンさえもが自分たちに影響を与えたアーティストとしてカーペンターズの名を挙げている。1990年にオルタナティヴロックバンドのソニックユースは "Tunic " という曲を録音した。これはカレンが新しいと批判されていたにもかかわらずカーペンターズをロックの殿堂へ入れるべきだとする運動や嘆願書が数多く存在する。1994年のトリビュート・アルバムでは、ソニック・ユースやベティー・サーヴァート、少年ナイフ、グラント・リー・バッファロー、マシュー・スウィート、クランベリーズといったアーティストによって、カーペンターズのヒット曲のオルタナティブ・ロック的解釈が試みられた。カーペンターズの曲の多くはもはやポップスタンダードとなっている。特になどはカラオケで歌われることも多い。この曲はでこの曲を歌い若い世代にもこの曲を知らしめた。はその良質さと歴史的重要性からグラミーの殿堂入りを果している。アーティスト達からの評価.自分に大きな影響を与えた人物としてカレン・カーペンターの名を挙げている現代のアーティストには、クリスティーナ・アギレラ、グウェン・ステファニー、シャナイア・トゥエイン、アナスタシア、メアリー・J. ブライジ、アリシア・キーズ、リアン・ライムス、ケリー・ジョーンズ、マドンナなどがいる。クイーンはプロフィールにカーペンターズをとして挙げていた。リチャードと妻メアリ・ルドルフ・カーペンターは、2007年にベンチュラ郡のフィランソロピスト・オブ・ザ・イヤー賞を授与された。アメリカ合衆国のバンドカーペンターズのディスコグラフィは、14枚のスタジオ・アルバム、2枚のライブ・アルバム、11枚のコンピレーション・アルバム、3作の音楽ビデオ、1枚のトリビュート・アルバム、46枚のシングル、2枚のサウンドトラックにより構成される。その経歴を通じて、カーペンターズは解散までにリード・アーティストとして30枚のシングルをリリースした。この30枚のうち13枚がRIAAによってゴールドディスクに認定され、22枚がアダルト・コンテンポラリー・チャートのトップ10に到達した。またカーペンターズは1969年から1983年までに10枚のアルバムを発表した。そのうち6枚のアルバムがビルボード・ホット100のトップ20入りした曲を収録している。1970年代を通じてリチャードとカレンはグラミー賞に何度もノミネートされている。リチャードはインストゥルメンタル曲 によって個人でもノミネートされた。2人はグラミー賞を3度受賞し2曲が殿堂入りを果している。5月31日 日本武道館6月1日 静岡駿府会館6月4日 京都会館6月5日 広島県立体育館6月7日 大阪フェスティバルホール6月8日 横浜文化体育館6月10日 名古屋市民会館6月12日 日本武道館 +3月15日・16日 日本武道館、3月17日 静岡市駿府会館、3月18日 愛知県体育館、3月19日 神戸市立中央体育館、3月20日 京都体育館、3月21日 和歌山県立体育館、3月24日★・25日★、26日★ 大阪フェスティバルホール、3月28日 金沢大乗寺山・実践倫理記念会館、3月29日 岡山市立体育館、3月30日 山口県体育館、3月31日★ 福岡 九電記念体育館、4月1日 熊本市立体育館、4月2日 広島県立体育館、4月5日★ 仙台宮城県スポーツセンター、4月7日 札幌真駒内アイスアリーナ、4月9日 日本武道館、4月10日★ 神奈川県民ホール、4月11日 水戸笠松運動公園体育館1971年A&Mのグラフィック部門はクレイグブラウン&アソシエーツを雇いカーペンターズの最新作となる3枚目のアルバムにだけこのロゴが使用されていないのか」という質問が多く寄せられている。これに対しリチャードは裏ジャケットの下中央で使われているはずだと答えている。日本でも現在に至るまでその人気は確かなもので、広告・ドラマの主題歌などさまざまなメディアで耳にする機会は少なくない。また、彼ら自身が1970年代に森永製菓のハイクラウンチョコレートや、サントリーのソフトドリンク、ポップのCMに起用されていたことがある。スローテンポで聴きやすいスタンダードポップス音楽的にも優れた楽曲覚えやすく歌いやすいメロディーカレンの正確な発音正しい英文法基本的な単語で構成された歌詞スラングがないことヒット曲が多いこと……などからビートルズなどと共にとしても一般的に広く薦められている。スティーヴ・ライヒ。異父弟に作家のジョナサン・キャロル。ドイツ系ユダヤ人移民の父親と東欧系ユダヤ人の母親の子として生まれる。最小限に抑えた音型を反復させるミニマルミュージックの先駆者として「現代における最も独創的な音楽思想家」などの初期の作品を発表。1990年、『18人の音楽家のための音楽』(1974年-1976年)、ホロコーストを題材にした『ディファレント・トレインズ』(1988年)により2つのグラミー賞を受賞。1993年には、「21世紀のオペラはこうあるべき」(タイム誌)と評された『The Cave -洞窟-』を発表した。2006年第18回高松宮殿下記念世界文化賞の音楽部門を受賞。2009年『』でピューリッツァー賞 音楽部門を受賞。2008年度の「武満徹作曲賞」審査員を務め18人の音楽家のための音楽の自作自演を行った。なお、日本国内ではドイツ語式に「ライヒ」と表記されるが、本国アメリカ合衆国では一般的に「ライシュ」または「ライク」と発音される。種々のインタビューやコンサート・トークにおいて、本人は「ライシュ」と発音している。ただし最近のTV番組などでは、ナレーターなどによりあえて「ライヒ」と発音されるケースもある。初期・フェイズ・シフティング.ライヒは1957年にコーネル大学哲学科で学士号を取得した後、1958年から1961年までニューヨークのジュリアード音楽院に在籍し、ウィリアム・バーグスマらに師事。1961年から1963年までは、カリフォルニア州のオークランドにある、ミルズカレッジでルチアーノ・ベリオとダリウス・ミヨーの元で学び、修士号を取得した。ライヒの作品、特にでは、アフリカ音楽の影響が色濃く、ライヒは特にAM・ジョーンズによる、ガーナのエヴェ族に関するアフリカ音楽の研究から影響を受けていた。やがてライヒは、ドラミングの研究のためにガーナを訪れるようになり、1970年にはガーナ大学アフリカ研究所でドラミングを集中して学んだ。また、ライヒは1973年から1974年にかけてシアトルでバリ島のガムランの研究も行った。さらにユダヤ人としての自らのルーツを探るようにヘブライ語聖書の伝統的な詠唱法を学ぶことで、「言葉が生む旋律」を再発見していく。中期・オーグメンテーション.以降、ライヒは自分自身が先駆者であった"フェイズ・シフティング"の技法から離れ、より複雑な楽曲を書き始める。彼は他の音のオーグメンテーションのような作品を作曲したのはこの時期である。特にでも採用されている。その結果、4台のオルガンがそれぞれ特定の8部音符を強調しながら、11thの和音を奏で、マラカスがテンポの速い8部音符のリズムを刻む立体的な音の空間を持った曲が出来上がった。リズムが変化し、繰り返される手法が使われている。この曲は、初期のライヒの作品が循環的であるのに対し、直線的である点が異質で特徴的である。1974年には、ライヒはライヒを知る大多数の人々から重要であると位置づけられる作品、『18人の音楽家のための音楽』を書き始めた。初期の作品の持つ作風へ戻りつつも、この作品には多くの新しいアイディアが含まれている。曲は11のコードのサイクルを基本としており、それぞれのコードには短い曲がそれぞれ割り当てられ、曲の終わりには元のサイクルへと戻っていく。セクション(楽曲内の区切り)はと名づけられている。ライヒにとっては、大人数のアンサンブルのために書いた初の試みであり、演奏家が増えることによって音響心理学的な効果はより大きなものとなり、その効果に夢中になったライヒは「もっとこのアイディアを探求したい」と語っている。また、ライヒはこの作品は過去に書かれたどの作品よりも、最初の5分間に含まれるハーモニーが豊かであるとも語っている。同じ年にライヒは彼自身の哲学美学1963年から1974年の間に作曲した作品についてのエッセイが収録された本"Writings About Music"を出版した。2002年には"Writings On Music (1965-2000)"として新しいエッセイが収録された本も出版されている。後期囁かれだした民族主義.1976年から1977年にかけては、ライヒはドイツ系ユダヤ人である自らのルーツを探るように、ニューヨークとエルサレムにて、ヘブライ語聖書の伝統的な詠唱法を学んだ。1981年に作曲されたは、ヘブライ語で詩篇もしくは賛歌を意味するタイトルが示す通り、ヘブライ語のテキストを女声が歌い上げる、4部に分かれた曲である。1988年にはクロノスクァルテットのためにを書き下ろす。この作品においてライヒはインタビューで録音された古い肉声を使用しておりその肉声が奏でる音程に合わせて弦楽器のメロディーが反復され加速するといった新しい手法を用いている。曲は3部に分かれており第二次世界大戦前のアメリカ第二次大戦中のヨーロッパでのホロコースト戦後のアメリカにおける汽車の旅が汽笛の音を散りばめながら描かれている。1990年にライヒはこの作品においてグラミー賞最優秀現代音楽作品賞を受賞する。1993年にはライヒは妻で映像作家でもあるとオペラ『ザケイヴ』においてコラボレーションを行う。このオペラでは彼はユダヤ教キリスト教イスラム教のルーツを探っている。テクニックはチェコ人作曲家のヤナーチェクの発話旋律と全く変わらないが採譜された旋律を電子キーボードとマイク増幅されたボーカルで二度三度と繰り返すためにライヒ色は失われていない(イスラムの場面ではコーランは歌うことができないのでそのままの詠唱を行ってもらった)。ライヒとコロットは飛行船ヒンデンブルク号の惨劇ビキニ環礁での核実験そしてより現代的な出来事特にクローン羊ドリーを取り上げたオペラ『スリーテイルズ』(2002年)でも再度コラボレーションを行っている。テクノミュージックやエレクトロニカのアーティストたちにも多大な影響を与えておりライヒ自身もテクノに興味があることをインタビューの中で述べている。1999年にはライヒ公認のプロジェクトとしてライヒの楽曲を9人のテクノのアーティスト達がリミックスしたCDをリミックス)ケンイシイ(『カムアウト』をリミックス)が参加した。完成された楽曲は一旦ライヒの元へ送られ曲によっては作り直しを命じられたこともあり実質的にライヒが監修したCDであるといえる。 +ミニマルミュージックは音の動きを最小限に抑えパターン化された音型を反復させる音楽。現代音楽のムーブメントのひとつ。1960年代から盛んになった。単にミニマルと呼ばれることもある。ミニマルミュージックは1960年代のアメリカで生まれた。この時期テリーライリーの「」(1964年)やスティーヴライヒの「」(1965年)「」(1966年)などの作品が作られている。ラモンテヤングの「」(1958年)をミニマルミュージックの始まりとする説もある。同時期にヨーロッパではルチアーノベリオジェルジリゲティヘンリクグレツキらも単純反復による音楽語法を試みておりこれらの作風はアメリカのミニマルミュージックと類似している。1968年には当時音楽評論家として活躍していたマイケルナイマンがコーネリアスカーデューのの概念を持ち込んだ。ナイマンは1974年の著書“"Experimental Music Cage and Beyond"”のラモンテヤングに言及した節でヤングのヴェーベルン聴取を取り上げと解釈可能であると見たのである。エリックサティの後期作品の一部は執拗な反復によって曲が成り立っておりジョンケージの初期作品に影響を与えているという点でケージの後に続いたミニマルミュージックへと続く音楽史の脈絡に深く影響している。日本における潮流としてはヨシワダ近藤譲藤枝守らが欧州における潮流としてはトムジョンソンジェルジリゲティジョンマクガイヤーらがミニマルミュージックに類似する反復語法を自身の語法に取り入れている。作曲家の久石譲は自らのコンサートの一部においてミニマルミュージックの語法で書かれた作品を上演している。また反復を基本とするオスティナート語法での作曲を長年続けていた���福部昭のもとへテリーライリーが表敬訪問した。シカゴ(、))は、アメリカ合衆国のイリノイ州クック郡にある都市。同州最大にして北アメリカ屈指の世界都市。国内ではニューヨークとロサンゼルスに次ぐ人口を持つ。シカゴはクック郡内にあり、同郡の郡庁所在地である。同郡には他にアーリントンハイツなどが含まれる。2012年の人口は271万人である。19世紀後半から20世紀中盤までアメリカ国内における鉄道航空海運の拠点としてまた五大湖工業地帯の中心として発展しニューヨークに次ぐアメリカ第2の都市となっていた歴史を持つ。摩天楼がそびえ立つアメリカ型都市の発祥とされダウンタウンの高層建築はシカゴ派として知られ近代建築史における重要局面をなした。1973年に建てられたシアーズタワーは1998年まで世界一の高層建築であった。マコーミックプレイスコンプレックスは北アメリカ最大のコンベンションセンターでありオヘア空港は全米有数の過密な空港として知られる。2017年にアメリカのシンクタンクが発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界12位の都市と評価された。アメリカの都市ではニューヨーク、ロサンゼルスに次ぐ3位である。2017年3月の調査によると、世界7位の金融センターである。2014年の都市の経済規模(GDP)では、世界9位となっている。日本語の漢字表記はと呼ばれている。シカゴはニューヨークが対西ヨーロッパから国際都市、ロサンゼルスが対中央アメリカ・アジアへの交易窓口として発展したのに対して古くから内陸交通の要衝として発展し、アメリカの産業・文化の発展と共に都市形成が行われてきた経緯がある。また、イリノイ川河口地点は古くからインディアン部族の交易の場として機能していた。一番古い記録では1673年にフランス人伝道師が訪れている。という意味で、おそらく河口付近にタマネギが自生していた地であったためだとされている。1779年にドミニカの毛皮商が入植し1803年には軍事拠点としてが作られるとともに開拓が進み1833年には人口200人程度だった。1836年に始まったミシガン湖とミシシッピー川を結ぶ運河建設を発端に土地投機家が大挙して押し寄せ一大開発都市に発展する基盤が築かれた。1837年に市に昇格すると人口は急増し翌年にはが開通以後交通の要衝として大発展を遂げる。その後1848年にはイリノイミシガン運河が開通1852年にはイリノイセントラル鉄道が開通し内陸交通の要としての地位を更に高めた。その頃の主要産業は農業でシカゴはとりわけ小麦を東部の都市に送り出す穀物の集散地として発展1848年には世界有数の先物商品取引所であるシカゴ商品取引所(Chicago Board of TradeCBOT)が作られた。また畜産業も発達し1855年には収容頭数が当時最大のが設けられた。一方で優秀な鉄鉱床が点在していたために鉱業も発展し1860年には人口6万人に増大しセントルイスやシンシナティを追い越し西部最大の都市になった。同年の大統領選挙ではシカゴを地盤とするリンカーン候補(共和党)が当選し初めて政治でも主導権を握ると翌年から南北戦争(1861年-1865年)を開始した。このころには30万都市となっていた。1871年にはシカゴ大火によって甚大な被害を受けた。一説によればオリアリー夫人が飼っていた牛がランプを倒して大火災になり、炎が燃え尽きるころには街は廃墟になり、ほとんどの公共建築が焼け落ちた。しかし、現在はギャラリーや公式観光案内所になっているシカゴ・ウォーター・タワーは唯一焼け落ちずに残った公共建築物である。被害額は当時にして約2億ドル、家を失った人は10万人に上ったという。しかし、この焼失はシカゴの計画都市化、新都市計画の幕開けになった。被災後に市は木造住宅を禁止し、煉瓦、石造、鉄製を推奨した。そのためシカゴは建築家たちの格好の市場となり、1885年にホーム・インシュアランス・ビル、1887年にタマコビルディングが竣工、建築におけるシカゴ派による摩天楼設立ラッシュの先駆となった。このダウンタウン形成時に、その観察に努めた社会学者が膨大な記述を行った。社会学におけるいわゆるシカゴ学派の始まりである。1873年に始まった大不況 (1873年-1896年)では、1886年5月に合衆国カナダ職能労働組合連盟が統一スト��イキを行なったが、ヘイマーケット事件が起こり、1889年に第二インターナショナルが国際労働運動のためのメーデーをパリで制定すると、1890年にメーデーをシカゴで実行した。コロンブスの新大陸と呼ばれた壮大な万博会場を造り上げ国際的な地位を高めるとともに文化都市として脚光を浴び成功を収めた。それと同時にオーケストラホール図書館博物館公園などの文化施設の建設ラッシュとなった。1882年から1905年にかけて電力産業が乱立すると1912年にの提唱で公益事業の価格統制制度が導入され低料金の電気が普及した。人口は1900年に170万人に達しニューヨークに次ぐアメリカ第二の大都市になった。しかしそれらはいわゆる富裕層によって生み出された文化であり肥大する経済発展とは裏腹に新たな社会問題も生まれた。それが貧富の差の拡大で20世紀に入るとウェストサイドでスラム化が進行した。またかつて奴隷としてアメリカ建国時に農業などの労働を担っていたアフリカ系アメリカ人が1914年から1950年にかけてアメリカ南部から次々に移入した(アフリカ系アメリカ人の大移動)。彼らは法律上表面的には奴隷の身分を解かれてシカゴにやって来たが人種差別などから低賃金重労働以外に就くことはほぼ不可能であり新天地での生活も相変わらず苦しいものだった。暴動は日常茶飯事となりとりわけ1919年のは過去最悪となった。更に腐敗政治の蔓延などで市街は無法地帯となりその時多くの住人が市街地を去った。1927年の市長選挙でウィリアム・ヘイル・トンプソンが勝利すると、トンプソンはシセロにあるナイトクラブの常連となってギャング(シカゴ・アウトフィット)と癒着し、アル・カポネが裏社会を支配した。1929年の世界恐慌の影響で、市の財政も大幅な赤字となった。同年、聖バレンタインデーの虐殺を契機に、トニー・アッカルドやサム・ジアンカーナ等、1940年代から1960年代の次世代を担うギャングが台頭した。トンプソン政権は、1931年市長選で敗北するまで続いた。1920年にも建築ラッシュは続き、や、戦後には世界一の高さを誇っていたシアーズ・タワーを打ち立てたことで有名である。1958年頃に旧来の白人中心のギャングだけでなくブラックPストーンズやヴァイスローズ1968年にはギャングスターディサイプルズといった黒人によるストリートギャングが誕生し1960年代より1970年代にかけてギャング同士の抗争が発生し治安が悪化した。1950年から1970年にかけてその職にあった民主党の市長は、様々な有力者の支持を受け、市街地の再開発と治安の改善、賃金格差の是正などに努め、市政を建て直した。ニューヨークやボストンなどが経済発展に陰りが見え始めた頃に、シカゴは比較的堅調な経済情勢を維持できたのも、この市長の善政のおかげだったといわれている。シカゴの人口は、1950年に362万人となり最高を記録した。以後、周辺部を含めた都市圏の人口は現在まで増加傾向が続いているが、市域内の人口は伸び悩む傾向が続き、市域人口は1980年代前半にロサンゼルスに抜かれている。これは五大湖近辺の市街地老朽化と製造業の衰退によるものと見られており、また、西海岸諸都市の経済発展を受けて、アメリカ国内におけるシカゴ経済の地位は、20世紀半ばまでの時期に比べて相対的に低下した。ただし近郊では、半導体・電子機器・輸送機械などの産業が発展し、シカゴは現在もアメリカにおける商業・金融・流通の重要拠点の一つとしての地位を保っている。シカゴには高さ100m以上の超高層ビルが575棟ある。これは世界でもニューヨーク香港に次ぐ数である。シカゴはミシガン湖の南西部先端であるイリノイ州北東部に位置している。アメリカ合衆国統計局によると、シカゴは総面積606.1kmである。このうち588.3 kmは陸地で17.8 kmは水地域である。総面積の2.94%は水地域となっている。ケッペンの気候区分では亜寒帯湿潤気候に属する。冬季は厳しい寒さとなるがさほど降雪は多くない。一方夏季は温暖な南西風の影響でかなりの暑さとなり気温の年較差が大きい大陸性気候となっている。シカゴは英語でである。つまり上記の英文はシカゴおよびシカゴ市民を馬鹿にした発言である。このことが本来の由来を離れて使用されるに至った。��お1893年の万博は結局シカゴで開催されそれまでの万博で最大の規模となった。2010年現在の国勢調査で、シカゴ市内の人口は269万5,598人、104万5,560世帯が暮らしている。これはイリノイ州の全体的な人口の約5分の1及びアメリカの人口の1%になる。かつてはニューヨークに次ぐ大都市だったが、ロサンゼルスの台頭と五大湖近辺の地位低下、更に都市圏の拡大による郊外化、サブプライムローン金融危機に伴う抵当物件差押えの増加や、低所得者向け高層公共住宅の取り壊しとそれに伴う住民の立ち退き、全米平均を上回る高い失業率を背景に人口が急減している。この都市の人種的な構成は白人45.0%、アフリカン・アメリカン32.9%、インディアン0.5%、アジア5.5%、その他の人種13.4%、および混血2.7%であり、黒人の比率が全米平均の12.6%より20%以上も高いのが特徴である。この人口の28.9%はヒスパニックまたはラテン系である。2011年の国勢調査によると、シカゴの白人住民のうちもっとも多いのがアイルランド系であり、ドイツ系、ポーランド系がそれに続く。この都市内の住民は26.2%が18歳未満の未成年、18歳以上24歳以下が11.2%、25歳以上44歳以下が33.4%、45歳以上64歳以下が18.9%、及び65歳以上が10.3%にわたっている。中央値年齢は32歳である。女性100人ごとに対して男性は94.2人である。18歳以上の女性100人ごとに対して男性は91.1人である。この都市の世帯ごとの平均的な収入は38,625米ドルであり、家族ごとの平均的な収入は42,724米ドルである。男性は35,907米ドルに対して女性は30,536米ドルの平均的な収入がある。この都市の一人当たりの収入は20,175米ドルである。人口の19.6%および家族の16.6%は貧困線以下である。全人口のうち18歳未満の28.1%および65歳以上の15.5%は貧困線以下の生活を送っている。1970年代は犯罪発生率が高く970人が殺害され殺人発生率は10万人あたり29人であった。近年は人口減少と共に殺人も減少傾向にあったが2012年には前年よりも有意な増加が見られ発生率は10万人あたり18.5人で全米平均の4倍近くとなっており506人が殺害されている。そのため警官の増員や地元代表らとの連携がなされ2013年には殺人被害者数が415人まで下がったものの暴力行為は依然多く発砲事件だけでも2013年の負傷者の数は2185人にのぼった。ギャング(前述)による抗争などが発生しており2011年と2012年にはシカゴで殺害された年間死亡者数がイラクやアフガニスタンに派兵された米兵の同年の死亡者数を上まったことから「Chiraq」(シカゴの「Chi」とイラクの「raq」をかけあわせた語句)という不名誉なあだ名がついてしまった。19世紀末の連続殺人犯であるH・H・ホームズがと呼ばれた建物を建てたのもシカゴである。シカゴの文化は富裕層らが築いた文化に大別されるが、一般に象徴されるのは後者である。一方で前述の通り1920年代に蔓延したマフィアや暴力団(ギャング)も有名。時代を反映した映画「ブルースブラザース」「逃亡者」などの舞台にもなっている。またシカゴ風ピザ(アイスクリーム)サンデー発祥の地でもある。ピカソの彫像『無題」が行われ市民が集う。聖パトリックの祝日にはシカゴ川がシンボルカラーの緑に染められる事で知られる。クラシック音楽ではシカゴ交響楽団やシカゴリリックオペラがある。シカゴ交響楽団は全米の一つとされる のみならず世界最高のオーケストラのひとつとして知られている。同交響楽団は1891年に創設され1953年~1962年の音楽監督フリッツライナーの時代と1969年~1991年の音楽監督ゲオルクショルティの時代にそれぞれ大発展を遂げ世界的な名声を確立した。シカゴリリックオペラはニューヨークのメトロポリタンオペラサンフランシスコオペラと並ぶアメリカ3大オペラハウスの一つとされている。またシカゴはアフリカ系アメリカ人らが築き上げた音楽文化ブルースやジャズのメッカとして名高い。アメリカ南部のミシシッピ川流域で発生したアコースティックなデルタブルースにエレクトリックギターなどを導入してシカゴブルースと呼ばれる音楽に発展させた。ジャズの分野では1920年代にはルイアームストロング等多くのミュージシャンが活動の拠点をニューオーリンズからシカゴに移した。1965年にはアフリカ系アメリカ人のジャズミュー��シャンたちがAACMを追求する者も多くいる。またギャング文化に伴ったヒップホップのメッカともいわれており近年ではトラップに影響を受けたトラックに乗せてシカゴの治安問題を暴力的な歌詞に乗せて歌うというジャンルが発生している。博物館及びギャラリー.1998年、シカゴは3つの主要な博物館に取り囲まれたレイクフロントパーク地域に、ミュージアム・キャンパスを公式に開設した。このミュージアム・キャンパスはグラント・パークの南部地区に設定された。グラントパークにはシカゴ美術館も所在している。シカゴ地域の他の主要な博物館ギャラリーは以下の通り。シカゴのロウアー・ウェスト・サイド地区と通称される。ピルゼンとは、チェコの都市プルゼニの英語およびドイツ語名である。しかし1970年代以降、地区の主な住人はメキシコ系へと置き換わっていった。北米4大プロスポーツリーグすべてを有する数少ない都市。さらにMLSやマイナーリーグなども構えている。友好姉妹都市(代表的な都市).全米国際姉妹都市協会加盟都市。シカゴを舞台にした映画・ドラマ・漫画・舞台・ゲーム.シカゴは多くの映画やドラマの舞台となっており、シカゴ内のある高層ホテルでは様々な映画やドラマを10回以上も撮影していることで知られている。 +は、日本の東北地方に位置する県。県庁所在地は盛岡市。東北地方の北部は、内陸部の北上盆地に集中している。盆地と海岸部以外は山地や丘陵地が多く、緑豊かな県である。江戸時代の幕藩時代は現在の岩手県の前身にあたる地域は南部藩の北部と伊達藩の南部で構成されていた地域は陸中に当たる。「岩手」の名称は、県庁の置かれた盛岡市の所属郡名「岩手郡」に由来する。その起源については、「住民の悪鬼追討の祈りに対し、人々の信仰を集めて『三ツ石さま』と呼ばれていた大岩(三ツ石の神、現:三ツ石神社)がそれを懲罰し、二度とこの地を荒らさないという鬼の確約を岩の上に手形で残させた」という故事に倣うとされる。またと詠じたという。この表現は古今和歌集の中からの本歌取りである。1872年の発足以降現在に至るまで正式にはを正式名としている。気候区分は内陸の那須火山帯の麓は日本海側気候、それ以外の地域は太平洋側気候。それに併せて、内陸は内陸性気候で夏は暑く冬は寒く、太平洋側沿岸部は海洋性気候で夏は涼しい。。三陸海岸沿岸部はケッペンの気候区分では西岸海洋性気候 に分類されることもある。北部内陸地方や西部山岳地帯は亜寒帯湿潤気候 に属し、寒さが非常に厳しく、特に藪川は冬季に−30°C近くまで冷え込むこともある本州最寒地として有名である。県内全域が豪雪地帯に指定されているものの、冬の積雪量には地域差が大きい。西和賀町と八幡平市は積雪量がかなり多く、特別豪雪地帯に指定されている。奥羽山脈では、積雪量が多く雪質も良いため、いくつかのスキー場でスキーやスノーボードの国際大会や国内大会が開かれることが多い。一方、太平洋側に位置する宮古市、大船渡市などは積雪量は概して少ない。太平洋側の盆地である北上盆地は、冬季の西高東低の気圧配置になると奥羽山脈がの役割をはたして晴天になる場合も多い。そのため、放射冷却によって早朝の最低気温がかなり低くなる。対して、降雪時や曇天の場合は気温が下がりづらい。北上盆地に位置する盛岡市は、このような放射冷却の影響がある脊梁山脈東側盆地の最北端都道府県庁所在地であるため、は、今でも厳冬期に−15°C前後まで下がることも珍しくなく、北海道を除き、標高が高くない都市平地部では最も冷え込みが厳しい地域である。しかし、冬場の朝晩は市街地と郊外の気温差は非常に大きく、盛岡、北上、一関を中心にヒートアイランドが顕著に見られる。一方北上盆地の夏はフェーン現象の影響で南にあり海洋性気候の傾向もある仙台市よりも気温が高いことがしばしばあるが沿岸部は仙台市と同様の気候となることが多い。国土地理院の全国都道府県市区町村別面積調によると、岩手県の面積は平方キロメートルである。岩手県の東西南北それぞれの端は以下の位置である。東端は魹ヶ崎西端は黒森峠の北東約2km南端はJR東日本東北本線油島駅の東南東約6.7km北端��JR東日本八戸線角の浜駅の北約1kmである。加えて重心も併記する。また総務省統計局の平成27年国勢調査によると人口重心は紫波郡紫波町佐比内字砥ケ崎にある。総面積で全国2位だが可住地面積割合が24.3%と低く全国40位で可住地面積では全国5位に下がる(都道府県の面積一覧#2014年 面積の順位を参照)。可住地は大別して内陸部(人口100万人程度)と沿岸部(30万人程度)の2つ。このうち内陸部には東北新幹線東北縦貫自動車道などの高速交通インフラが整っているがその他の地域ではインフラが未発達で地域間移動は国道や在来線レベルに留まっている。特に内陸部と沿岸部を行き来するためには一般国道県道は急峻な峠を上り下りする道となっており直線距離の割に移動に大きな時間を要する結果を招いている。このような状況は県土が多数の島によって構成されている沖縄県とも相似しており救急医療においてはヘリコプター輸送が行われているほどである。交通インフラの未整備に起因して、短時間で県庁にたどりつけない県民が多数存在することから、従来岩手県庁は、県内各所にの管轄とした。この結果、従来12だった広域生活圏は、4に減少した。広域振興局は以下4つに分けられる。圏域は以下9つに分けられる。各振興局ごとに県内市町村を列記する。県内には14市10郡15町4村がある。と読む。盛岡広域振興局管内 482482人県南広域振興局管内 514,132人沿岸広域振興局管内 218,744人県北広域振興局管内 133,932人北上市など県の南部では経済発展によって所得水準が大きく向上している一方の内陸北部沿岸部では目立った経済的発展がなく発展が遅れがちで所得格差が存在している。統計資料で比較すると県全体の平均所得が242万円なのに対し県北の中心都市二戸市久慈市では190万円台にとどまり50万円以上もの格差が存在している。岩手県庁は2006年県北沿岸振興本部を設置して対策に乗り出したが南北の格差は逆に拡大傾向すら呈しており根本的な対策が求められている。約4万年 - 3万3000年前には、斜軸尖頭器を出土した柳沢舘遺跡などの遺跡から旧石器時代から人が住んでいたと考えられる。古くは縄文時代より豊かな狩猟・漁労生活を実現した地だった。近年の東北学では、上代の北上川流域は蝦夷の中心地で、日高見国とも呼ばれていたという説が唱えられている。一方で、胆沢の角塚古墳は最北の前方後円墳であり、ヤマト王権の影響力が及ぶ北の端でもあった。北東北地域は律令国家の形成期である7世紀後半にはまだその支配に組み込まれておらず蝦夷は朝廷側からは征伐の対象であった。8世紀末の38年戦争では胆沢に蝦夷の軍事指導者アテルイが現れて朝廷軍に抵抗するが征夷大将軍に任ぜられた坂上田村麻呂によって滅ぼされる。その後北上川流域は朝廷が掌握し蝦夷の多くが全国に強制移住させられた。残った蝦夷は俘囚として支配体制に組み込まれ同時に胆沢には関東地方から柵戸として入植者が入った。11世紀までに奥六郡にいたる広大な地域に影響力を発揮した俘囚長の安倍氏が半独立の勢力を築いた。安倍氏は前九年の役で源頼義の率いるヤマト朝廷軍になびいた秋田仙北の俘囚主清原氏によって滅ぼされた。その清原氏も一族の内紛から後三年の役で滅び安倍氏の血を引く奥州藤原氏が江刺郡豊田館から磐井郡平泉に拠点を移動して奥州を掌握豊かな産金をもとに仏教を基盤とする地域支配を実現しその平泉時代を築いた。平泉が源頼朝に攻略され再び源氏が統治した鎌倉時代には甲斐国南部の河内地方を領した甲斐源氏の南部氏が八戸周辺に移住し今の青森県から岩手県北及び秋田県鹿角地方にまで勢力を伸ばした。沿岸部では閉伊氏県央部では斯波氏稗貫氏阿曽沼氏和賀氏などが割拠し県南部は葛西氏留守氏が有力だったが次第に福島県伊達郡に根城を置く伊達氏の勢力が浸透し室町時代には葛西氏留守氏は伊達の馬打ちとして事実上支配下に置かれた。これらの諸氏は伊達氏の内紛によって再び自立するが伊達政宗の仙台移封を機会に葛西氏は滅亡留守氏は伊達氏の一族として組み込まれた。同じ頃安倍氏の末裔である一方井氏を母に持つ南部氏の南部信直が勢力を拡大し南部所属の頭領として振舞うようになるとこれを認めない九戸南部氏の九��政実と争い豊臣秀吉の知遇を得た信直は秀吉軍を招きいれて政実を滅ぼした。大浦氏以外の南部氏諸家を統一した信直は盛岡に拠点を移し勢力を確立した。江戸時代には、県の南部は概ね仙台藩伊達氏に62万石、一関藩は田村氏、水沢には留守氏を作ると、現在の岩手県を支配していた伊達藩・南部藩はその中心となるが、結局敗れて明治政府によって占領された。明治3年7月10日盛岡藩は財政難により廃藩置県に先立って廃藩を申し出旧領には明治政府により盛岡県が設置された。盛岡県成立時の管轄地域は陸中国岩手郡稗貫郡および紫波郡和賀郡の一部のみで新政府に敗れる前の盛岡藩より大幅に縮小された。その後、莫大な御用金を課せられたり、旧藩を分断する県域を設定され弱体化を図られるなど敗戦の屈辱を味わう。(ただし盛岡藩の廃藩置県の折に課せられた70万両の納付は減免されている。)以降は旧藩を問わず多くの人材を輩出。原敬が内閣総理大臣に就任するなど、近代日本国家建設に多くの功があった。また中央へ人材を輩出したと同時に原敬と山田線、後藤新平と鈴木商店など金権政治の時代を先駆けた政治的犯罪も伴った。県域は明治4年の第2次府県統合で磐井県から胆沢郡・江刺郡・磐井郡を、青森県から二戸郡を編入したが、前者はおおむね旧仙台藩領であり、旧藩が分断された状態は是正されなかった。1876年1月に最初の県議会が開かれ、5月に岩手県が成立した。県名はそれまでの県庁所在地の郡名を採って付けられた。1889年には下閉伊郡宮古町・山口村・千徳村・磯鶏村が合併・市制施行して宮古市となり、戦前までに3市が誕生した。昭和戦後期の1950年代から1960年代には、山岳地帯のため交通の便が悪いことや、主な産業が富士製鐵1月22日封切のニュース映画において用いられたことから定着したという。その後1964年などの自動車産業東芝や富士通などの半導体工場塩野義製薬など大企業の工場の進出が進み製造品出荷額が大きな伸びを見せた。2008年が発生し沿岸部の各地で津波による大きな被害が出た。1995年以降公共投資予算は年10%以上の割合で急速に縮減され財政再建に大きく舵を切った。県自らも県議会での質問に答える形で財政悪化の原因について自己分析している。衆議院の小選挙区が3。参議院では、全県で1区を構成。かつては産業がほとんどない事を自称していたが東北新幹線や東北縦貫自動車道などの整備に伴って企業の誘致が進んでいる。企業の誘致には法人道府県民税収や法人事業税従業員からの住民税収関連企業による経済波及効果などで大きな税源涵養が見込まれることから全国の自治体が誘致にしのぎを削っている。岩手県もこの例に漏れず誘致に腐心しておりこれまでにトヨタ自動車系の生産工場東芝のフラッシュメモリ工場富士通などを誘致した。こうした奏功から1995年以降は製造品出荷額が伸びを示し47都道府県中県民所得は40位台後半から38位にまで改善した。東北6県で見ると福島県宮城県山形県に続く数字である。特に自動車産業については、トヨタ自動車が東北地方を新たに生産拠点と位置付けており、今後とも一層の誘致が見込まれる産業分野である。さらに、近年は国際リニアコライダーを軸とした国際学術研究都市構想を表明している。貯蓄率が極めて高いことで知られる。地方の県としては珍しく、県内に3行の地方銀行を持ち、保有する金融資産は4兆円以上に達する。県民の貯蓄率は39%で、東北地方平均の25%、全国平均の16.5%を大きく上回り、東北では宮城県に次いで2位、全国でも9位の高率を保つ。2006年(平成18年)農林水産統計によると、農業産出額は2,544億円。食料自給率は106%であり、北海道や青森県、秋田県、山形県などとともに、自給率100%を超える数少ない県の一つである。広大な面積と、山岳に囲まれた地形のため、地域によって気候が大きく異なる所があり、特性に応じてさまざまな形態の農業が営まれている。穀物ではコメの他に花巻市を中心に雑穀の生産が有名。畜産も盛んでありブランド牛肉である前沢牛のほか、北部を中心にブロイラーの全国有数の産地として知られる。林業では県の北部を中心に幹が通直で高品質なアカマツまたミズナラを中心としたブナ科広葉樹による木炭の生産が有名。木炭では特に黒炭の生産量が全国一である。アカマツが多いことからアカマツと共生するマツタケの出荷も多い。一方でアカマツの致死性の伝染病であるマツ材線虫病と全国5位の数字を出している。水産業では三陸海岸周辺が黒潮による豊かな漁場として知られている。リアス式海岸の岩礁はワカメや海苔といった海藻類の養殖にも適しておりワカメとあわびの養殖で生産高全国1位の規模を持つ。カキやホヤの養殖も盛ん。珍しいものでは陸前高田市広田湾におけるエゾイシカゲガイ養殖が知られる。流通量が少なく高値で取引される。製造品出荷額は2兆1000億円で東北地方では福島県である。長らく主要な産業が新日本製鐵(現日本製鉄)釜石製鉄所(釜石市)太平洋セメント大船渡工場(大船渡市)ほどしかなく政府の救済策を求めたこともあったが1982年(昭和57年)に東北新幹線大宮盛岡間が開業すると企業誘致が徐々に進展した。1993年(平成5年)に関東自動車工業(金ケ崎町)が進出して以来製造業は大きく進展し県民所得は全国40番台後半から30番台まで向上した。このほか県南には富士通や塩野義製薬東芝などの工場が立地する。特に2008年(平成20年)2月に決定された東芝フラッシュメモリ工場の北上市への建設は波及効果を合わせると1兆円程度の経済効果があるとされ県は法人事業税減免や低利融資などを通じてこれを後押しするとしている。東芝が「行政からの融資措置だけでなく質の高い人材の確保が容易なことが決め手になった」とし「金のかからない新しい産業誘致モデル」として注目された。工場新設に当たって北上市はこれまでに蓄積した企業誘致と合わせて法人市民税固定資産税の大きな増収が見込まれることから国から地方交付税の交付を受けない「不交付団体」への昇格を果たすことになった。岩手県ではかつて製鉄業が隆盛を極めていた時代に釜石市が不交付団体となっていた前例があり「それに次ぐ快挙」(2008年(平成20年)2月岩手県知事定例記者会見)と評された。自動車産業に関してはトヨタ自動車が東北地方を新たな生産拠点とする意向を示しておりすでに金ケ崎町に立地する自動車工場も現行より10万台増の25万台生産規模まで拡大されることが決まっている。自動車関連産業の集積を進めるため岩手県はトヨタ自動車東日本が進出している宮城県や山形県福島県などと連携して今後も誘致活動を展開していくとしている。観光業の振興に腐心している。2007年(平成19年)には、盛岡市を舞台にしたNHK連続テレビ小説「どんど晴れ」が放映され、盛岡さんさ踊りに訪れた観光客が8.7%増えて128万3000人となり、一定の効果が上がっている。2011年(平成23年)には、奥州藤原氏の栄華の遺産「平泉―仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群―」(平泉町)が世界遺産(文化遺産)に登録された。県庁所在地の盛岡市は、県内のみならず北東北の広域交通網を束ねる拠点として機能しており、新幹線に接続して北東北各地への高速バスが多数発着するほか、盛岡駅では東北新幹線の分割・併合も実施している。東北新幹線で首都圏や仙台青森と結ばれる。その停車駅でもある盛岡駅は県庁所在地にあり複数の路線が接続するなど拠点性を有している。旧国鉄のJR東日本のほか新幹線の新規開業に伴う並行在来線として分離した第三セクター鉄道のIGRいわて銀河鉄道および旧国鉄の既設線および予定線を承継した三陸鉄道がある。特にJR山田線・岩泉線は、民営化後も一部区間では列車本数が3 - 4本と数えるほどしかない。後者については事業者より廃止届が提出され、2014年4月1日をもって廃止されバスに転換された。貨物扱いについては盛岡貨物ターミナル駅が貨物駅となっている。県内のその他の路線は下記を参照。なお普通列車は盛岡市内近郊の区間を除いて本数は毎時1本以下である。また県内における営業列車の運用は臨時列車を除きすべて当日中に終了する。沿岸部と内陸部(特に対北部)を結ぶ鉄道のダイヤが極端に少ないため公共交通による県域横断の手段としては長距離バスが主力になっている。内陸部の縦軸の交通には、東北縦貫自動車道、国道4号など、自動車を用いた高速交通インフラが整っている。その反面、内陸部と沿岸を結ぶの交通は、いまだ急勾配・急カーブの一般国道レベルに留まっている。また、道路の舗装率も低く全国最下位である。なお、盛岡市内は道路が入り組んでいることと外環状バイパス道路の整備が不十分であることから、特に朝夕の混雑が激しい。秋田県秋田市とは、仙岩道路で結ばれており、トンネルや橋梁の整備で比較的スムーズな移動が可能である。また地域高規格道路である盛岡秋田道路が整備中で橋場バイパス、角館バイパスが一部供用中である。自動車のナンバープレート.運輸支局は、広大な県土に対し紫波郡矢巾町所在の本局1箇所のみであり、配下の車両検査事務所は存在しない。県内で登録される自動車のナンバープレートの地名表記はナンバーの使用が開始された。 重要港湾および主な関連施設を以下に列挙する。高校進学率は98.4%と全国平均を上回るが大学進学率が逆に10%以上低い。私立学校の数が少ないため公立学校が圧倒的な比重を占めている。なお、首都圏の大学に進学すると費用が高額に上りがちなことから、その対策として、当初は看護系単科大学となる予定だった岩手県立大学を、総合大学に路線変更したこともある。全国紙・広域(ブロック)紙.全国紙は全て東京本社発行の紙面となる。なお地域ニュース面は読売朝日毎日は岩手面だが産経日経河北は岩手単独ではなく東北6県版として掲載。スポーツ紙(スポーツニッポン日刊スポーツスポーツ報知サンケイスポーツ)の地域ニュース面は全紙が岩手単独ではなく東北6県版となっている。テレビは、朝日・毎日・読売は在盛局を中心に掲載。それ以外は、青森・秋田・岩手ので掲載する新聞もある。ラジオは、東北各県のAM・FMを掲載している新聞が多いが、聴取困難な福島県の放送局は割愛される場合もある。県内の民間放送局が2局しか無かった頃は、仙台放送や東日本放送を中心に宮城県の民間放送局の再送信が行われていたが、民間放送局が4局揃った現在では再送信は全て中止されている。岩手県の方言研究は南部藩士である服部武喬が1790年』がありいずれも語彙集である。1903年に国語調査委員会の方言調査が実施されたのをきっかけに各地域の学校個人による調査研究が盛んに行なわれた。大きく2地域から4地域に分けられるとされ4地域に分ける場合洋野町から西和賀町まで秋田青森県に隣接する帯状の北部方言地域久慈市沿岸から大船渡市北部までの沿岸方言地域盛岡を中心に遠野市中部北上市北部までの中部方言地方横は金ケ崎町から釜石市までの南部方言地方となる。広く県民に敬愛され県民に明るい希望と活力を与えることに顕著な業績があった者についてその栄誉を讃えることを目的とする。 +日本語のという言葉が記述された。これはIndividualの訳語といわれる。というのは社会集団と対比されている概念であり、社会集団を構成する個々の人のことである。 何らかの集団に対して、それを構成する個々の人のことである。赤石 路代は、日本の女性漫画家。埼玉県浦和市出身。武蔵野美術大学卒業。浦和第一女子高等学校時代は漫画同好会に所属。1979年小学館新人コミック大賞に入選。1980年1月増刊号掲載ので第39回小学館漫画賞児童部門を受賞。その後、で不定期連載していた完結。Twitterで自身のアカウントにアクセスできなくなり、新しいアカウントを作った。Cascading Style Sheets(CSS、カスケーディング・スタイル・シート、カスケード・スタイル・シート、)は、HTMLやXMLの要素をどのように修飾(表示)するかを指示する仕様の一つで、World Wide Web Consortium (W3C) がとりまとめ勧告する。文書の構造と体裁を分離させるという理念を実現するために提唱されたスタイルシートの具体的な仕様の一つ。CSSはHTMLで表現可能と考えられるデザインの大部分を実現できる要素を取り入れつつ新たなデザイン機能を備える。以下の点を特徴とする。CSSは、1994年にWWW生誕の地であるCERNに勤務するホーコン・ウィウム・リーにより提唱された。スタイルの情報は読み込む内容(作成者スタイルシート)やユーザーエージェントの設定(ユーザースタイルシート)の2か所に記載できる。ユーザーエージェントも独自のスタイル(デフォルトスタイルシート)を持っている。作成者スタイルシートはマークアップ文書の中に直接記述するか、別文書として読み込ませる形で利用される。CSSの利便性を最大限発揮するために、別文書として読み込ませる事が推奨されている。ここではCSS Level 2について説明する。CSSの文法は異なるレベル間でも後方互換性を持つように設計されており、例えばCSS Level 1で書かれたスタイルシートを CSS Level 2として扱うことも可能である。CSSでは要素にスタイルを与えるため、次のような仕様が定められている。以下のCSS断片を例にとる。上例の CSS 断片を適用すると宣言している文書のうち、セレクタが指定しているものと一致する部位を自由に入れられ、またで区切ることにより宣言を並べて書くことができる。上例は HTML 文書に適用する場合、という指定を意味する。color #ff3300このような宣言があったとき後者二つはで囲ったものは文字列として扱われcolorプロパティが取りうる色の値(#rrggbbrgb([0-255][0-255][0-255])またはblackやredなどのキーワードなど)ではないからである。と等価である。は前者のように宣言をセレクタに一つずつ書いてあるのをひとつのセレクタのブロックで記述するときに宣言を分けるのに使う。そのため必ずしも宣言にをつけるのを強制するものではない。セレクタは実装レベルの高いブラウザならばどの属性であってもCSSを適用することが可能でありこの場合IDに関する属性セレクタであるので#idはと等価である。セレクタの簡単なマッチングが可能である。そのほかHTMLタグに対する適用、文書構造からみた子・兄妹構造へ適用するセレクタ、更にはリンクや動的な表現・言語に関する疑似クラス(:link、:hover、:lang)などがある。CSSは必ずしも一つのところで一意に指定できずそのため指定内容の衝突を避けるために優先順位がユーザーエージェントによって計算される。その結果は以下のような条件により算出される。記載可能な方法の詳細は次の通りで一般的に優先される順位で並べ替えている。作成者スタイルシートの記述方法による優先順位は以下の通り。CSSの仕様にはレベルという段階があり、2011年11月段階で、Level 1 から Level 4 までの仕様が公開されている。Cascading Style Sheets, level 1 , 勧告 1996年12月.ボックスモデルの参考図ボックスにwidth属性を設定したとき、W3C のボックスのモデルでは内容の横幅であると解釈される。そしてパディングとボーダー分の横幅は要素の横幅に追加される。他方マイクロソフトのボックスのモデルでは width 属性は内容の横幅とパディングとボーダー分を足したもの、すなわち要素全ての横幅になる。そのためInternet Explorer5.5以下と6.0以上およびInternet Explorer以外のWebブラウザでの表示を近づけるためには、パディングとボーダーを0にする、もしくはCSSハックを使う必要がある。Internet Explorer 6 では DOCTYPE が正確ならば標準準拠モードに移行できる(ただXMLやXHTMLの場合、XML宣言を仕様通り書くと過去互換モードでレンダリングされるバグがある)。Cascading Style Sheets, level 2 , 勧告 1998年5月.CSS2 は CSS1 の上位互換。幾つかの概念の追加拡大改訂が行われた。具体的には表示媒体(モニターや TV、紙媒体など)によって自動的にスタイルシートを変更できるようにし、それに附随して音声ブラウザへの対応、印刷媒体への対応が行われ、フォントなどの表示機能の拡張や、ボックスの概念の修正などが行われた。ただし2002年頃以降に発表されたCSS対応UAで、これを仕様と見なしているものは存在せず、実質的に、CSS2.1に仕様としての役割を委ねた形になっている。CSS2勧告の仕様書にアクセスすると、CSS2は管理されておらず、仕様の参照や実装はCSS 2.1を基にせよと奨励する注意書きがある。Cascading Style Sheets, level 2 revision 1 , 勧告 2011年6月.CSS2の改訂版。CSS2仕様書の不明瞭な定義が原因で各ユーザーエージェントのCSS2実装に非互換が生じたため曖昧な記述を明確にする改訂が行われた。またtext-shadowプロパティのようにCSS2で策定されていながら長い間実装が行われなかったものdisplayプロパティのrun-in値のように複数のユーザーエージェントで相互運用性を確保できなかった機能は削除されている。それらはCSS3以降のレベルで定義され直すことになる。CSSの実装に際し��ベンダは2002年頃からCSS2.1を基本仕様と見なしている。Cascading Style Sheets level 3 .CSS3以降ではCSS 2.1を中核とし、新たな機能の追加や改良をモジュールとすることで実現するものとする。ユーザーエージェントは各モジュールへ対応するか否かを自由に選択できるようになる他、縦方向の書字や、HTML以外の規格にまで関与した内容となっている。2018年7月現在で勧告されているモジュールは以下の通り。Cascading Style Sheets Level 4 .CSS4はモジュール化されたため単一の統合された仕様は存在せずモジュールの総称となる。Level 4モジュールで追加される機能はLevel 3モジュールで未定義だった新しい機能のほか草案に一度含まれながら相互運用性を十分に確保出来ず仕様から省かれた機能からなる。未だに勧告候補に至っていないLevel 3モジュールが存在する中、既にLevel 4モジュールの公開草案がいくつか公開されている。 +吉田 秋生 は、東京都渋谷区出身の女性漫画家。武蔵野美術大学卒業。1977年にで第47回小学館漫画賞を受賞。津田 雅美は日本の漫画家。神奈川県出身。血液型はO型。1992年、「会えてよかった」で第17回白泉社アテナ新人大賞を受賞。1993年、同作品が『増刊LaLa ミステリースペシャル』1993年3月10日号(白泉社)に掲載されデビュー。以後、『LaLa』『LaLa DX』(いずれも白泉社)を中心に活躍。発表年は掲載誌の号数に準拠。藤崎 竜は、日本の漫画家、イラストレーター。男性。身長173cm。血液型はA型。初期の頃のペンネームは漢字表記は同じだが、読みが。青森県むつ市出身。工学系専門学校卒。小学校3 - 4年生の頃に車田正美のをきっかけに漫画を読むようになり気がついたら絵を描かけるようになっていた。幼い頃からパソコンに親しむ。10代の頃はコンピュータのシステムエンジニアを志望し専門学校に通っていた。高校在学中の16歳頃にオリジナル漫画を初めて製作し、雑誌の漫画賞に応募して最終選考に残る。1990年自分が漫画界に通用するかを試すための「実験」として製作した『ハメルンの笛吹き』を『週刊少年ジャンプ』に投稿したところ第39回手塚賞の佳作を受賞しそれをきっかけに漫画家を目指すようになる。同年再び『週刊少年ジャンプ』に応募した『WORLDS』が第40回手塚賞に準入選し『ジャンプ』増刊号に掲載されデビューした。デビュー後3本の読切漫画が『週刊少年ジャンプ』本誌および増刊に掲載される。1992年、3年制の専門学校を卒業して上京。在学中は就職活動をしており、採用通知も来ていたものの漫画家になるために断った。読切漫画をまとめた初の単行本、短編集を初連載するが、短期間で打ち切り終了。その後、3年間は読切漫画を増刊に3本発表するにとどまる。1996年に『週刊少年ジャンプ』で、連載開始した『封神演義』は人気作となり、1999年にはアニメ化された。2000年に完結。2002年にが掲載された。2006年には初の画集11月号に販促用の読切漫画を掲載した。2008年から月刊漫画誌の挿絵も手がける。2012年ジャンプスクエアとその季刊誌に自身が原作を担当した読切漫画を3本発表。同年末にはを発表。2013年、の連載を開始。2014年に第一幕了。2015年を漫画化し連載を開始する。書誌情報の詳細などについてはリンク先の各記事を参照。 +検索エンジンを検索する機能およびそのプログラム。インターネットの普及初期には、検索としての機能のみを提供していたウェブサイトそのものを検索エンジンと呼んだが、現在では様々なサービスが加わったポータルサイト化が進んだため、検索をサービスの一つとして提供するウェブサイトを単に検索サイトと呼ぶことはなくなっている。広義には、インターネットに限定せず情報を検索するシステム全般を含む。狭義の検索エンジンはロボット型検索エンジンディレクトリ型検索エンジンメタ検索エンジンなどに分類される。広義の検索エンジンとしてはある特定のウェブサイト内に登録されているテキスト情報の全文検索機能を備えたソフトウェア(全文検索システム)等がある。検索エンジンは、検索窓と呼ばれるボックスにキーワードを入力して検索をかけるもので、全文検索が可能なものと不可能なものとがある。検索サイトを一般にと呼ぶことはあるが、厳密には検索サイト自体は検��エンジンでない。検索エンジン(狭義).ロボット型検索エンジン.与えられた検索式に従って、ウェブページ等を検索するサーバ、システムのこと。検索式は、最も単純な場合はキーワードとなる文字列のみであるが、複数のキーワードにAND等の論理条件を組み合わせて指定することができるものが多い。ロボット型検索エンジンの大きな特徴の一つとしてクローラすることができる。大規模な検索エンジンでは80億ページ以上のページから検索が可能になっている。収集したページの情報は前もって解析し索引情報。日本語などの言語では自然言語処理機能が生成される索引の質に影響する。このため多言語対応した検索エンジンの方が精度の高い検索が可能となる。検索結果の表示順は、検索エンジンの質が最も問われる部分である。ユーザーが期待したページを検索結果の上位に表示することができなければ、ユーザーが離れてしまうからである。そのため、多くの検索エンジンが、表示順を決定するアルゴリズムを非公開にし、その性能を競っている。検索エンジン最適化業者の存在も、アルゴリズムを公開しない要因になっている。Googleは、そのアルゴリズムの一部であるPageRankを公開しているが、やはり、多くの部分が非公開になっている。Googleの場合、創設初期におけるアルゴリズムについては、創設者自身がウェブ上で公表している論文でその一端を知ることができる。参照 英語原文 日本語の解説ウェブページの更新時刻の情報を用いて、新しい情報に限定して検索できるものや、検索結果をカテゴリ化して表示するものなど、特長のある機能を搭載したり、検索結果をユーザーへ最適化していく動きもある。従来のウェブページを検索するだけの検索エンジンにとどまらず、最近ではインターネットショッピング専用の検索エンジンなど、特定の分野に特化した検索エンジンの開発も散見される。商品検索では、価格比較サービス日本最大手の価格.comや、ベンチャー企業が開発するQOOPIEなどある。また、職業検索エンジンとしてはCraigslistなどがある。GoogleYahoo!インフォシークテクノラティMARSFLAGAltavistaムーターAlltheWebTeomaWiseNutInktomiSAGOOLYahoo! JAPAN (2005.10〜) など。ディレクトリ型検索エンジン.人手で構築したウェブディレクトリ内を検索するサーバ、システムのこと。人手で構築しているため質の高いウェブサイトを検索可能。概要を人手で記入しているため検索結果の一覧から目的のサイトを探しやすいサイトのカテゴリ分けがされていることから特定分野や地区などに限定したサイトを探しやすいという特長がある。しかし検索対象となるサイトは人手で入力するため検索対象となるサイト数が多くできないという欠点がある。インターネットが一般に使われるようになった初期のころにはディレクトリ型が主体であったがWWWの爆発的な拡大によってあらゆるウェブサイトを即時にディレクトリに反映させることが事実上不可能になり。日立国際ビジネスのHole-in-Oneなど。P2P通信によってウェブコンテンツのインデックスを多数のピアに分散させP2Pネットワーク全体で各ピアの持つインデックスを共有する検索システムのこと。ウェブのクロールは各ピアが独自に行い、インデクサーはRWIを作成する。作成されたインデックスの一部はDHTとして他のピアに分配される。検索は自分のピアの端末からP2Pネットワーク上にある他のピアにリクエストを送信することにより行うことができる。分散型検索エンジンの例としてはYaCyがある。YaCyはを標榜し分散型であることにより検閲を防ぐことができるとしている。ひとつの検索ワードを複数の検索エンジンで検索することをメタ検索という。Startpage.comなどがこれに分類される。与えられた文書群から検索式による全文検索機能を提供するソフトウェアシステムの総称でウェブサーバに組み込んで利用されることが多い。スタンドアローン環境で用いられる個人用途のものもありそういったものは特にと呼ばれる。検索エンジンのはしりは1994年にスタンフォード大学のジェリー・ヤンとデビッド・ファイロが開発したYahoo!である。Yahoo!はディレクトリ型の検索エンジンでインターネットの普及に大きな役割を果たした。その後ウェブ上の情報を自動的に探索して情報を索引として整理するロボットまたはクローラと呼ばれるプログラムが開発された。ロボット型検索エンジンの中でもラリーペイジとセルゲイブリンが開発したGoogle検索は検索結果のランキングと高速検索に優れていたため検索エンジンのトップに躍り出た。2009年にはマイクロソフトが新たな検索エンジンとしてBingを発表した。日本のインターネット普及初期から存在した検索エンジンには以下のようなものがある。黎明期には、豊橋技術科学大学の学生が作成したYahho や、東京大学の学生が作成したODiN、早稲田大学の学生が作成した千里眼など、個人の学生が作成したものが商用に対して先行していた(いずれも1995年に作成、日本電信電話株式会社のNTT DIRCECTORY、サイバースペースジャパン(現・ウェブインパクト)のCSJインデックスは1994年に作成)。これらは単に実験用に公開されていただけでなく、多くの人に用いられていたものであり、黎明期のユーザにとっては知名度、実用度ともに高いものであった。またMondouなどのように研究室(京都大学)で作成したものもあった。Yahoo! JAPAN の独走.1995年12月にソフトバンクがアメリカ合衆国Yahoo!株を一部買い取り翌年4月から日本版にローカライズしたYahoo! JAPANをサービス開始した。同年7月の展示会Interopでは机2つぶん並べる程度の小規模ブースで出展する程度の力の入れ具合でソフトバンクの一部署として開始する程度だったものがもともとの米国Yahoo!の知名度90年代後半のインターネット利用者人口の増加ディレクトリ型だけだった検索をロボット型も追加サイト登録した一部のウェブサイトの紹介をするYahoo! Internet Guideとの連携日本Yahoo!株高騰のニュースでインターネットを利用しない人にも名前が知れ渡るなど様々なプラス要因と経営戦略が見事に当たり検索サイト首位の座を固めた。そして検索サイトの集客力を武器にニュースオークションなど検索サービス以外のサービスを含めたポータルサイトとしての独走を始めた。1997年頃から、WWW(World Wide Web)の爆発的な拡大に伴って、ディレクトリ型のみであったYahoo!のウェブディレクトリの陳腐化が急速に進んだ。この頃、infoseekやgooに代表されるロボット型検索エンジンが人気を集め始め、Yahoo! JAPANはロボット型検索エンジンにgooを採用するなど、群雄割拠の時代になった。Googleが1998年に稼動させたGoogle検索は、従来の検索エンジンがポータルサイト化へと進む流れに逆行し、独創的な検索技術に特化し、バナー広告等を排除したシンプルな画面と2000年にYahoo!のロボット型検索エンジンに採用されたことにより、急速に人気を集めた。いつしかウェブページ検索の世界シェアのトップに躍り出たとされている。また日本においても、GoogleやYahoo!などの検索エンジンを利用すること=として、2005年、オーストラリアで誕生したMooterが日本に進出し、検索サービスを開始した。検索エンジンの多様化.検索という行為が一般化するにつれて、各種目的別に多様化した検索エンジンが現れるようになった。ブログの情報に特化した検索TechnoratiやblogWatcher、商品情報の検索に特化した商品検索サイト、サイトの見た目で検索するMARSFLAG、音楽検索、動画検索、ファイル検索、アップローダ検索ほか、次々と新しい検索エンジンが生まれている。また検索エンジンでは判断できない抽象的な条件などでの検索を人手に求めたOKWaveや人力検索はてななどのと呼ばれるサービスも登場した。近年ではパソコンだけでなく携帯電話や携帯型ゲーム機からもウェブサイトが検索される傾向が高くなり、GoogleやYahoo!をはじめとする携帯向けのモバイル検索サイトが登場し活気がでている。ソフトバンクYahoo! JAPANがボーダフォンを買収しKDDIがGoogleと提携するなど携帯電話の分野で検索エンジンの戦いが激化してきている。モバイル検索の分野は長らく公式サイトと呼ばれる世界がユーザーの囲い込みを行っていたため脚光を浴びることが少なかった。Googleなどのウェブ検索エンジンでは、データベースの検索結果など多くの動的ページが検索対象になっていない。このような動的ページはなどと呼ばれている。静的ページの500倍の量が存在し、多くは無料だといわ��る。深層ウェブは、一般の検索エンジンなどからデータベースなどを見つけ出すか、直接アクセスした上で、それぞれの検索機能から再度検索しなければならない。また、ダークウェブを探索する際に使われる検索エンジンAhmiaも存在している。ロボット型検索エンジンは、その原理上インターネット上のコンテンツを複製の上で、検索を目的とした蓄積に適した形態で保存する他、場合によってはキャッシュとして提供できるような形態でも保存する場合がある。著作権をたてに、ウェブサイトの閲覧利用規約等と称して、一切のいかなる複製も禁ずるとするサイト等があり、どういったものかと古くより話題になっていた。また2006年11月には日本の知的財産戦略本部コンテンツ専門調査会第3回企画WGにおいて検索エンジンに関して と報告されこれをうけて2010年1月の改正で複製が合法とされた。このことを拡大解釈したのか、あたかも著作権法のために、日本ではGoogleのような企業が育たなかったであるとか、日本におけるネット検索を妨げたのは著作権法である、といった論が巷に見られるが。検索エンジン上の各種広告.2006年頃から日本ではURLを表示せず社名や商品名などの検索キーワードを表示し検索エンジンで検索させるように仕向けるテレビコマーシャルなどの広告表現が急増している。大抵はキーワードが書かれた状態の検索フォームとボタンを表示しマウスクリックを促す演出がなされている。このような変化が生じた理由は不明であるが各メディアの広告掲載基準の変更やコマーシャルでURLを表示するのに比べてアクセス数を獲得しやすいことが増加の要因である。しかし検索結果に企業にとって不都合な情報が現れる場合があるためグーグル八分のような検索結果の操作が行われるケースも考えられる。現在主流となっている広告手法としてユーザーの検索結果後に広告を露出させる検索連動型広告とサイトの中を分析しそのサイトに合った広告を配信するコンテンツ連動型広告が主流である。英語圏でも2013年ごろからのような番号記号を使った広告活動をおこなっている。検索エンジンの課題と問題点.いわゆるは Internet Archive を用いて Euro Marketing と Global Reach から過去の月次資料を整理すると次のような推移を辿っている。1995年以前のInternet Societyによればインターネットで用いられている言語のうち英語が占める割合は85%とされていたがその後のITの進歩や各国のインターネットの普及により多言語化が進み上表に見られるように2000年の年末には英語と非英語の言語人口が逆転しその傾向は継続している。2005年2月2日の時点で、WWW検索エンジンの代表格であるGoogleでは80億を越す8,058,044,651ウェブページが登録されている。検索エンジンの利用者はそれら80億を越すウェブページから求める情報を容易に引き出せると思い込みがちであるが、例えば日本語入力のできないコンピュータなどの端末を用いて日本語サイトを検索することは容易ではない。同様に非英語圏の言語間の検索は中間に翻訳エンジンを介さないと検索作業は難しい。インターネットの多言語化が今後も増加すると仮定した場合言語間の壁をどのように乗り越えるかは今後の検索エンジンが抱える課題の一つとして挙げることができる。検索エンジンの危険性.検索エンジンは、利便性がある一方、危険性も存在する事やその被害例について参考文献や資料が存在する。検索エンジンの安全性に関する調査報告については、ウイルス対策ソフトなどを提供するセキュリティベンダーの米マカフィーが、2007年6月4日としている。また2006年05月12日に公表された調査報告書によると検索エンジンのキーワード検索結果には危険なリンクがあり検索エンジンが自分を守ってくれると思ってはいけない。それどころか検索結果ランキングがサイトの安全性を反映していないことも多く特に検索エンジン広告を訪れる場合ユーザーは高いリスクにさらされると警鐘を鳴らしている。さらに検索エンジンの提供サイトの危険度についての調査報告では同マカフィーが「検索エンジンの安全度調査」を発表し「最も危険な結果が多いのは米ヤフー」としている。サービスを終了した主な検索エンジンサイト. +テレビは、電気通信により、映像を遠方へと送る技術である。テレビジョンの略語であり、TVと表記することもある。主に放送や遠隔監視などに利用されている。「テレビジョン」は直接的にはフランス語の()に由来する。なお、()はギリシア語の「遠く離れた」、「」はラテン語で「視界」「像」の意味である。日本の電波法ではと定義されている。中国語では電信・電話に倣って電視と呼ばれる。TVチューナーのようなコンポーネント型の機器もあるが、基本的に複合型の機器が多い。演奏所設備をスタジオ機器と言うこともある。この場合撮影スタジオに置かれる機器だけを指すのではなく局舎内の放送関連機器全般を指す。主な物を以下に示す。放送の受信はアンテナまたはケーブルテレビ局などから信号を受け取りチューナーで選局され映像信号に変えられて、テレビ受像機やDVDレコーダー等の録画機に導かれる。アナログ放送もデジタル放送も次の機能や機器によって受信し視聴や録画を行うのは同じことである。かつては地上アナログ放送専用のチューナーと呼ばれる単体商品も存在した。これはゴーストキャンセル機能の強化や、音声多重機能のないテレビやビデオデッキに対しその機能を提供する目的で製造されていた。エントリークラスでもテレビで5万円、家庭用ビデオデッキで10万円を下らなかった時期に登場したものだが、NEC等1990年代に入っても生産していたメーカーも存在する。2005年度のフランスカンヌで開催されたテレビ番組の国際見本市「MIPTV」で発表された統計によると世界で最もテレビを見る時間が長いのは日本人で1日のテレビ視聴時間は平均5時間1分だった。2位は米国で4時間46分。世界平均は米国より90分少ない。最下位は中国とスウェーデンの2時間30分だった。テレビ番組の制作に関連する項目には次のようなものがある。詳しくは制作スタッフを参照。身体と精神の健康に与える影響.米国のこどもは1日平均3時間テレビを見ており高校卒業までに合計3年間テレビ視聴に費やしていることになる。また近年は生活習慣病の低年齢化も進行しておりI型糖尿病だけでなく小児でもII型糖尿病が増加し小児肥満も増加している。米国の調査ではテレビの視聴時間が長い小児ほど肥満の率が高い。テレビの長時間視聴によって運動時間が減り野菜や果物の摂取量が少なくなるという報告がなされている。CMや番組等でのハンバーガーやスナック菓子やソフトドリンクの映像による刺激がそうした症状の原因のひとつともなっている。エレンラペルシェルは食品業界にとって小児が大きなターゲットとなっており「家族の食費の鍵を握るのは子供である」といっている。心理学者のAric Sigmanはテレビの視聴は子供の健康に悪影響を与え、幼児期におけるテレビの視聴が多いほど、睡眠時間も不規則になり、免疫システムにも悪影響をおよぼし、自閉症や視力低下、肥満を引き起こす。また、テレビの視聴はホルモンの分泌を抑制し、その結果DNA変形を引き起こし、癌の原因になる可能性がある。そのため、3歳未満の子供はテレビを観るべきではないと言っている。また毎日視聴する場合はアルツハイマー疾患の可能性も高くなる。またテレビ視聴を減らすことで、国民健康保険制度の負担を減らすこともできると提言している。カナダのモントリオール大学と米国ミシガン大学の研究では幼児期にテレビを長時間見ていた子供は学校での適応能力の欠如いじめに遭いやすい数学などの学力低下運動不足ジャンクフードの過食肥満度(BMI)が高いといった問題が起きると発表した。日本小児科学会こどもの生活環境改善委員会は乳幼児にテレビを長時間見せると言語発達が遅れる危険性があるとして2歳以下の子供にテレビを長時間見せないことを提言している。同委員会によると子供に知識を教えるためにテレビを見させる親もいるが言語能力は大人との双方向の関わりが必要であり一方的に聞くだけでは発達しない。同委員会の調査結果では子供の長時間視聴は1歳6か月の時点における意味のある言葉の出現の遅れと関係があった。日本の文部科学省は2003年から2004年にかけての調査でTVゲームが予想以上に暴力性を誘発すること視力低下などは確認されたが社会的不��応といった問題については有用性も認められるともし今後悪影響とよい影響の双方から多角的に研究すべきとした。アメリカのランド研究所の研究によると10代の男女は性描写のあるテレビ番組を見る子供ほど妊娠するさせる可能性が高い。また性描写を含むテレビ番組を最も多く見る子供は最も見ない子供と比べて妊娠するさせる可能性が2倍だった。中国のによると14歳の少年がアニメに影響されてガソリンを5年間飲み続けていたことで知能障害に陥っていることが分かった。同作品のキャラクターがガソリンの補給でパワーアップする姿に感化されたという。少年は以前ガスを吸い込んでいたという経緯もあった。テレビに関する啓発映画.1950年代から1960年代にかけてテレビの構造や原理などを紹介するための短編映画が2本制作されている。一つは日本に於けるテレビ本放送が始まる前の年及びテレビカメラの原理の紹介の他本放送開始を前にしてNHKのテレビ実験局で行われたスタジオ収録の様子なども紹介されている。もう一つはカラー本放送開始の翌年の企画の下で東京シネマが制作したで、こちらはテレビを一電化製品として捉え、その原理や構造を細かく紹介しているほか、テレビの製造現場の様子も映し出されている。これら2本の短編映画は現在科学映像館のWebサイト上に於いて無料公開されている。 +テレビ番組の総称のことである。テレビ番組の内容は、きわめて多岐にわたり、また、放送局の性格によっても異なる。地上波放送は総合編成、衛星放送は専門店型編成が一般に見られる。具体的なテレビ番組の名称については、テレビ番組一覧を参照のこと。放送法によるテレビ番組分類.放送法5条では、が義務付けられている。そして、法107条では、各テレビ局は「放送番組の種別の基準」を定めて公表することが義務付けられている。日本放送協会(NHK)では「等」を除いた各4種、民間放送テレビ各局では4種に「通信販売」と「その他」を加えた6種(例→)を公表のための分類目安としている。なお教養番組と教育番組については法2条に内容の定義があるが報道番組と娯楽番組についての定義はなくこのの自主公表に委ねられている。この公表では1つの番組が上記4種ないし6種のいずれか複数を兼ねている場合が通例である。2020年4月期の日本テレビを例に取るとは娯楽教養に属する番組としてそれぞれ公表されている。その他のテレビ番組分類.上記の放送法に基づく種別公表や視聴率調査のための分類などテレビ番組の分類項目の設定は重要な事業として行われている。それらの分類は、あらかじめ項目を決めてから全番組をいずれかに分けるような方法をとるのではなく、いくつかの似た複合的性質をもった番組を、一つの種別としてカテゴライズするような形で行われる場合がある。結果、よく似た構成の番組が複数の分類にまたがって属したり、分類する者によって分類先が異なったりする。たとえばタレントが教科書から出る試験問題をクイズとして解くという内容の番組がある場合それは細分的にはクイズ番組であるが上記の法的に義務づけられた分類種別公表の場合はと分類する場合も考えうる。また、これまでに設定された項目のどれにも属さない番組が生まれた場合でも、項目の増加や拡大は、統計に困難をきたすために行えないことから、結果としてしっくりこない場所に分類されることもある。NHK教育テレビの番組に代表されるあらゆる世代向けの教育をおこなう番組。全国向けのものと、地域向けのものがある。多くのテレビ局ではニュース番組を報道局が制作する。映像で即時的に情報を伝えるテレビの特性から、しばしばニュースの現場からの中継放送が行われる。日本の地上波での民放テレビ番組の地域格差の諸問題.1950年代前半に日本で民放テレビ放送を開始するとともに各地で次第に地方局の相次ぐ開局特に平成新局の開局ラッシュにより放送対象地域も拡大されるようになったが今なお「地上波の民放」による「民放テレビ番組」の完全な形での全国(同時)放送は実現していない。これは公共放送であるNHKが放送法により日本全国をくまなくカバーすることが義務付けられているのに対し民放各局にはそれがないためである���また2000年に各キー局の子会社で個別にBSデジタル放送局との権利処理などの理由から各系列ともを行っている番組が少ないのが現状である。それを裏付けるかのように日本テレビのアニメや各コンテンツ事業を統括する元アナウンサーの船越雅史は「テレビ局にとっての最強のコンテンツは地上波放送の番組」と発言している。キー局の中でも特にテレビ東京は系列局がテレビ東京を含めて6局のみと他系列に比べて圧倒的に少なくの独立局向けに番販ネットする番組もあるがそれも一部に留まっている。また番組によっては一部系列局のみの放送に留まっているものも少なくない。2007年に大阪府域局であるテレビ大阪の京都府兵庫県全域への放送エリア拡大や宮城県静岡県広島県への系列局開局構想を当時の社長が発表したがその後具体的な進展はない。テレビ番組の存在意義.毎日放送の東京支社テレビ編成部に所属し現在は同局のテレビアニメなどを担当する丸山博雄はと語り能動的に視聴する傾向が強いインターネット番組との大きな違いを主張している。 +アメリカでは1982年9月26日から1986年8月8日までNBCで全84話(1シーズン毎に21話×4シーズン=全84話)が放送されたが日本ではテレビ朝日系列で全84話中、74本が放映され米国放送でシーズン4にあたるほとんどのエピソードは『新ナイトライダー』のタイトルで放映された。永らく未放映になっていた10エピソードは2015年にFOXクラシック 名作ドラマチャンネルで日本語吹き替え版が日本初放送され、その翌年の2016年にはNHK BSプレミアムでもシーズン1の未放映9エピソード(シーズン2の第11話にあたる1エピソードは未放送)が同じく放送された。本項目ではテレビドラマに関連する作品もあわせて解説する。「ナイトライダー。陰謀と破壊と犯罪の渦巻く現代に蘇る正義の騎士。(中略 登場人物紹介がある)巨大な悪に立ち向かう現代の騎士、ナイトライダー。今日、彼を待ち受ける者は、果たして、誰か」というナレーションで始まる(原語版では、ウィルトン・ナイト役のリチャード・ベイスハートによる「Knight Rider. A shadowy flight into the dangerous world of a man, who does not exist.」というナレーションである)。ナイトライダー誕生は、一発の銃声に始まる。若き敏腕刑事マイケル・ロングは、ある産業スパイ一味を追跡中一味に同僚を殺され、自らもまた凶弾に倒れた。だがマイケルは、ナイト財団の総帥ウィルトン・ナイトにより辛くも命を救われ、その身分もウィルトン・ナイトの養子として、新たにマイケル・ナイトとなる。重病で死の床についた養父ウィルトンはマイケルの手を取りを搭載しており自分で考えて言葉を話しさらに自らの意思で走行する事もできるスーパーカーでマイケルはキットと共に世の中の不正や巨悪と戦っていく。ナイト財団とはマイクロエレクトロニクス事業で巨万の富を築いた実業家ウィルトンナイトがその収益を投じて設立した組織」。ウィルトンナイトの名前を省略して頭文字をとりが製作されることとなった。劇中で、マイケルがと名乗っているように、ナイト財団の調査部門そのものに強制権・捜査権は一切ない。そのため、捜査の際には警察や軍との連携を図る場合もある。一方で、マイケルが不法侵入やハッキング等の違法行為を行うシーンがしばしば見られ、キットがマイケルを諌めながらも結局はそれに渋々協力する、というやり取りは半ば恒例となっている。マイケルが所属する組織は、日本語吹き替え版では単にとなっている。なお、偶然で全く同一名の財団法人が実在する。同作品中において2人以上の別名義で演じた俳優の一覧。役名の後のカッコ内は吹替え声優。備考は外観上の相違点など。以下は敵側による脅威級能力を持つメカ&マシン以下はその他(1話限りのゲスト等)のメカ&マシンアメリカで放送された順番に記載、また日本はテレビ朝日版での未放映エピソードで邦題タイトルはDVD版より。なおこれらテレビ朝日未放映エピソードはDVD版では全て原語音声と翻訳字幕のみだったが、2014年11月27日にリリースされたコンプリートブルーレイBOXで全話日本語吹替版が出揃う事となった。またシーズン2以降の各話の括弧内は通算話数を表記。シーズン1 エピソードリストシーズン2 エピソードリストシーズン3 エピソードリストシーズン4 エピソードリストCMへ移行する際のアイキャッチもシーズン毎に異なっている。新ナイトライダー2000.が1991年に製作された。製作当時から見て近未来である西暦2000年警官は銃規制が進んだことで実弾銃使用が撤廃され代わりに超音波銃の携行が義務付けられており犯罪者の服役は冷凍睡眠となっているシアトル市を舞台にした物語。捜査中に仲間に裏切られて頭部に銃撃を受けその影響による記憶の欠落を補うためかつてK.I.T.T.に使用されていたメモリーチップを頭に組み込まれた元警官の女性ショーンマコーミックが主人公である。ナイト財団では、10年前の下、バーチャル・リアリティを搭載したナイト2000の発展型・ナイト4000の製作が進められていた。2人はハロルド市長を相手にナイト4000のプレゼンテーションを行い、犯罪撲滅のための必要性を訴えるが、同席していたダニエルズ警察長官にと突っぱねられ、必要性を証明したいのなら30日以内に完成させるよう要求される。折りしも銃使用撤廃派市会議員の暗殺事件が発生しており助けが必要だと感じたデボンは引退して釣りのガイドや車いじりをして過ごす「第三の人生」を送っているマイケルの元を訪ね協力を要請する。デボンの熱意に打たれたマイケルはK.I.T.T.を相棒にすることを条件にナイト4000が完成するまでの30日間だけ財団に復帰するが肝心のK.I.T.T.とナイト2000はマドックによって解体されてしまっていた。マイケルは売却されたK.I.T.T.のパーツを買い戻させて再生し自らの愛車である1957年型シボレーベルエアに搭載して捜査を開始するが安物のチップを使って再生されたK.I.T.T.は手配中の犯罪者と一般人を間違えるなどかつてのような性能を発揮できないでいた。一方、銃撃された時の記憶を失くしたショーンは、ダニエルズから警官の職務に就くのは不適格であると言われ、警察を辞職してナイト財団に新たな職を求める。K.I.T.T.のチップがショーンに移植されていると知ったマイケルは、ショーンとともに捜査を開始する。当初は、マイケルとK.I.T.T.を見下した態度を取っていたショーンであったが、銃撃の真相をK.I.T.T.の協力で思い出し、次第に連携が取れるようになっていく。やがて、遂にナイト4000が完成し、デボンとマドックはテスト走行を行う。デボンは、性能はナイト2000を遥かに凌ぐと評価しながらも、マドックの声で話し、道路に飛び出してきた鹿をと言い放って避けようともしないナイト4000に、K.I.T.T.のような人間性が感じられないと不満を抱く。テスト走行を終えナイト4000を降りたデボンは、犯人一味に襲われて拉致されてしまう。犯人一味は意識不明となったデボンの記憶を抽出し、ナイト財団がまだ手掛かりを何も掴んでいない事を確認すると、そのまま薬剤を投与しデボンを殺害してしまう。死の間際デボンが最後に見た夢はウィルトンナイトの遺志を継ぎナイト財団総帥として悪と戦う決意をしたマイケルとに乾杯する場面であった。捜査を進める中マイケル達は犯人一味に追われK.I.T.T.の提案で車ごと海に飛び込み追跡をかわすもののK.I.T.T.は機能を停止してしまう。デボンの死にショックを受けたマイケルは、と自責の念にかられふさぎ込んでいたが、ショーンの叱咤で再び気力を取り戻す。財団に戻ったマイケルはK.I.T.T.を自分の愛車からナイト4000に移植する。マイケルとショーンは新たなボディを得たK.I.T.T.とともに事件の真相に迫ろうとする。この作品はパイロット版のみの製作にとどまったが、CICビクター株式会社からビデオソフトがリリースされた他、に特典として収録されている。また、テレビ朝日系を中心とした各地方局で深夜映画として放映された。日本語吹替え版は製作されていない。新主人公ショーンのというマイケルナイトの没設定をなぞったものであると言える。当作品でナイト4000のモデルとなったのは、ダッジ・ステルスをベースに新たに制作された車両で当時のコンセプトカーであるポンティアック・バンシーに類似したデザインで制作されたオリジナルカー。以後もの続編新作とされる作品がいくつか製作されている。ナイトライダー2010.1994年に2時間ドラマとして放映された。近未���のメキシコ。アメリカとの国境付近のなど、元祖ナイトライダーのコンセプトを骨子として部分的に織り込んでストーリーが紡がれていく。なお2014年11月27日にリリースされたに特典DVDとして初収録されている。チーム・ナイトライダー.1997年10月から1998年9月まで放映された連続テレビドラマ。90年代に入りF.L.A.G.はさらなる事件に対処するためにカイルスチュワートジェニーアンドリューデュークデパルマーエリカウエストケビンサンダースの5人のスペシャリストを集めそれぞれに人工知能による意思を持った車両」と呼ばれ人々にもその活躍は広く知られていた。マイケル・ナイトの情報はF.L.A.G.内でも最高機密とされていたが、終盤になって突然マイケルを名乗る人物が登場する。更に、など、様々な謎が登場する。しかし、番組自体が1シーズンのみで終わってしまったため、それらの謎は掘り下げられることはなかった。ナイトライダー/ナイトライダーNEXT. +2008年2月17日夜にNBC系列で『Knight Rider』新作のパイロット版が特番として放映され同年9月24日から翌年3月4日まで毎週水曜日2000 - 2100の時間帯で全17話(当初は全22話予定だったが諸事情により短縮された)の連続テレビシリーズ版が放映された。これまでの数ある続編作品としては元祖主人公であるマイケルナイト(デビッドハッセルホフ)が登場し次世代となる新主人公で自身の息子であるマイクトレーサー()にバトンを受け継がせるシーンもあり最も正統な続編と見られる。時代観は前作でのシーズン1(ウィルトン没後)から25年後の時代としており前作でのシーズン4終了以降ではない。前作でのナイト財団はあくまでも単独での捜査を常としていたが今回の新生ナイト財団は「ナイトインダストリー」と呼ばれることが多く中盤までFBIと密接な協力関係にある。日本では2012年1月16日から7月2日まで、フジテレビの深夜枠の邦題で日本語吹替え版が全19話とは違う系列。なおの文字が必ず入っている。KNIGHT RIDER HEROES.2015年12月、の予告動画が公開された。日本でも放映された人気ホームコメディにナイト役のハッセルホフとK.I.T.T.がゲスト出演した。このエピソードの中でのK.I.T.T.は、ひがみっぽくて性格が悪く、ナイト2000によりかかったアーノルド坊やをと怒鳴りつけた。日本の音楽番組の1987年2月9日放送分でナイト2000がゲスト出演し、マイケルに代わり藤井フミヤが乗って野外から中継された。オムニバスドラマでテレビから飛び出すキャラクターの中でナイト2000がゲスト登場。主人公の自宅のキッチンに突っ込んでくる。日本ではパイロット版のみがビデオソフト及びレーザーディスクにて発売されている、アメリカのアクションドラマの第4話後半で、ナイト財団のトレーラーの後ろ姿が写っている。1989年からアメリカのFOXテレビで放送されているのシーズン10第2話にナイト2000がゲスト登場している。原語版の声はウィリアム・ダニエルズが担当している。2005年公開のの冒頭でハービーの活躍を新聞記事で紹介するシーンでナイト2000がハービーと共演している。2006年、日本では劇場未公開のコメディ映画『がんばれ! ベンチウォーマーズ』(THE BENCHWARMERS)にナイト2000(K.I.T.T.)が登場している。原語版の声はウィリアム・ダニエルズが担当している。2008年11月1日のでの模様も再び放映された。2014年9月2日に韓国Samsung Electronicsは公式YouTubeチャンネルでデビッドハッセルホフとナイト2000[声はウィリアムダニエルズ]が共演するスマートホームサービスのCM動画を公開。内容はSamsungのスマートホームのCMを撮影しているハッセルホフがスマートホームの利点を説明するたびに嫉妬したK.I.T.T.が。DVD / ブルーレイ.これまでに数回にわたって、シーズン1 - 4までの各シーズンごとのBOXセットが発売されている。また、それとは別に全2巻の傑作選も発売された。放映当時に日本語吹き替えがあった話は原則全て吹き替えが収録されているが日本での放送時にカットされていたシーンは吹き替えが行われていない。また日本未放映話は英語のみである。ただし後述のブルーレイ版はそれら全てに日本語吹き替えが追加新録されている。加えて日本初放映時にテレビ朝日独自に編集を行った場面付近の吹替えも収録されておらずテレビ放映時のオリジナルタイトル字幕配役出演者字幕次回予告及び日本語版エンディングも未収録。日本未放映話を収録するにあたっては日本で放送された当時の邦題を彷彿とさせるセンスで新規に邦題が付けられている。また収録エピソードの順番はパイロット版であるとなっている。シーズン12では字幕切替に字幕のみとなっている。またシーズン12ではオープニング前のティーザーが収録されておらずシーズン34ではティーザーが収録されている。シーズン1の前発売のの日本語吹き替えは収録されていない。各シーズンのDISC1には第1話に相当するエピソードとして、シーズン1は版である「電子頭脳スーパーカー誕生。シーズン2第10話はテレビ朝日での地上波放送時に吹替が存在していたがDVD版では日本語吹替が全く収録されていない。シーズン4第1話の折り返しとなる前半部分終盤でナイト2000がジャガーノートに破壊された直後にボニーが駆け付けるシーンが丸々カットされている。さらにこの直後のトレーラー内でデボンが偽者であることをマイケルが確信しボニーにデボンが偽者だと言う場面の日本語吹き替えが収録されていない。なお後述のブルーレイ版では上述シーズン2第10話のシーンも含めこのシーンは収録されている。同様にブルーレイ版での日本語吹替もTV放映当時と同じく収録されているが一部録り直しになっている。2011年2月16日アシェットコレクションズジャパンからDVDマガジンとして刊行開始。収録内容はBOXのものを1巻ごとに分割したもの。全30巻を予定していたが東日本大震災の影響により3号で休刊となった。2014年11月27日NBCユニバーサルエンターテイメントからが発売された。ブルーレイの2枚組の計26枚セットとなっている。先述のDVD版と異なり収録エピソード順番は米国で放映された順番に正しく修正されている。今回ブルーレイ化されるにあたり、オリジナル・フィルムからHD化を行い、片面2層24枚組に各シーズンを収録した。TV未放送のため今まで字幕版でしか存在していなかった10エピソードで吹き替え版を新規収録し、さらにDVD版では吹替がなかった3時間42分にも及ぶシーンも追加収録した。追加収録では声優陣のみならずスタッフの方も、演出に壺井正、翻訳に平田勝茂と、当時のスタッフが再結集している。ゲスト側は基本的に追加吹替用にキャスティングされた数名の役者が持ち回りで代役を行っており、有川博、大久保正信、内海賢二、石田太郎、小林勝彦、北村弘一、小林修、富山敬、仁内建之など、すでに故人となっているキャスト及び、藤田淑子といった往年のキャストが当時と同じ役で追加収録に参加している。全エピソードを詳細に網羅した40ページの完全版ブックレットやDVD版シーズン1に収録されていたの吹替台本の復刻版が同梱されている。この他の全19話を収録したDVDが2012年7月3日にリリースされた。こちらも放映当時にカットされていたシーンにも新規に吹き替えが行われており完全ノーカット版となっている。2016年10月11日にはアメリカのインディーズレーベル ミルクリークエンターテイメントから が発売された。日本のブルーレイではティーザーが全てカットされていたがこのアメリカ版Blu-rayでは全てティーザーが収録されている。なお同時にComplete Series のDVD版も発売されている。 +将軍は、比較的大きな軍隊の指揮官に与えられる官職および称号の一つ、また軍閥の指導者の地位でもある。称号としての将軍を将軍号ともいう。古くから東洋における軍隊の指揮官の役職名の一つであった。外交上または軍隊内の敬称としては閣下が用いられる。なお古代中国では「将軍は皇帝に任命された官職」「将は王侯や地方領主に任命された官職」と区別されている。将軍は中国において発祥した語であるがその意味は文字通りに代わって軍隊の指揮官の名称として用いられるようになる。漢では将軍職は常設ではなく臨時の官として任ぜられた。4〜6世紀には、高句麗・百済・新羅・倭などの諸国が中国王朝(南朝宋ほか)と外交を結び、よりランクの高い将軍号を求めて競い合った。中国歴代王朝における将軍号の序列.上段の称号ほど、また左側の称号ほど、格上となる。3〜7世紀東アジア諸国による中国王朝授与の将軍号の序列.3〜7世紀に中国王朝と外交交渉を持った東アジア諸国は、国主に対して号とともに、将軍号の格付けなどに関して、より上位の称号を求めてせめぎ合った。<br>管轄領域について: ◯◯に管轄する地域名称が入る。<br>3〜7世紀の中国歴代政権は、中国の軍事指揮官に授与するのと同一カテゴリーの将軍号を、近隣諸国・諸民族の君主たちに授与した。<br>4〜7世紀に倭百済高句麗新羅渤海の王と臣下たちが受けた将軍号.4〜6世紀中国の周辺諸国では君主の代替わりごとに中国に使者を派遣し君主に所属する「王号軍事指揮官としての管轄領域将軍号」等のセットについて更新しまた配下の豪族官僚のための「将軍の称号」と「幕府(=将軍府)に所属する文官の称号」を求めそれを配下に分配することにより国内を統制しようとした。(→府官制)倭百済高句麗新羅等が中国に送った国書の中にはと称する。年高句麗は「璉為二使持節都督営州諸軍事征東将は中国側が実際に授与した称号。近代以降の軍隊における将軍.近代以降の軍隊では、陸軍・空軍・海兵隊の将官以上の階級としては、准将 、少将 、中将 、大将 が存在する。海軍における将官の呼称は Admiral であり、これの和訳語はである。日本では日本書紀の記述する時代から使われている。中国の南北朝時代の史書には、倭の五王が南朝の皇帝から安東大将軍などの将軍号を受けたり、自称したという記録がある。なお、将軍を和語で訓ずる場合は「いくさのかみ」である。日本の律令制では軍防令24条に将軍の規定がある。それによれば将帥が出征するとき兵一万人以上なら将軍一人副将軍二人を置く。また三軍ごとに大将軍一人を置く。しかし実際の任命はこの兵数には基づかず特に大将軍の下に複数の将軍を置くという形態は一度もとられなかった。将軍は原則として臨時任命であり任命された事態は東の蝦夷に対する遠征南西の隼人や外国に対する遠征天皇の行幸の護衛都に来た外国使節や蝦夷隼人の迎接の四つである。各将軍はそれぞれ異なる称号を冠し単なるだけの官名はなかった。例示すれば対蝦夷戦では陸奥鎮東将軍征越後蝦夷将軍征狄将軍征東将軍征夷将軍など対隼人戦では討卑賊将軍征隼人持節度大将軍外国には征新羅大将軍など行幸と迎接では左将軍右将軍御前騎兵将軍御後騎兵将軍騎兵大将軍などである。唯一常設されたのが鎮守将軍で蝦夷に対する防備についた。常置された武官には近衛府・兵衛府があり、特に顕官である近衛大将はである。東国に武家政権を築いた源頼朝は右近衛大将を辞任してから後の地位を望んだ。頼朝の要請を受けた朝廷は先例を調査し1192年に征夷大将軍に任じた。頼朝の継承者である鎌倉幕府将軍は代々征夷大将軍の職にあり他の将軍職は任じられなかったため将軍は征夷大将軍の略称として通用されるようになった。将軍は武士の頂点にある存在として認識されるようになり御所と尊称されるようになっていった。南北朝時代には鎮守府将軍が復活する。南朝方の北畠親房はわが子北畠顕家が陸奥守鎮守府将軍に任ぜられるにあたり三位以上の将軍は鎮守大将軍とするように奏請。これにより顕家は鎮守大将軍として記録されている。しかし南朝方の勢力減退に伴い室町時代においては征夷大将軍である室町幕府将軍の存在のみとなった。この頃から将軍を指して公方と呼称されるようになり鎌倉公方などの呼称も派生している。江戸時代における将軍は征夷大将軍である江戸幕府将軍のみであった。外交呼称として対外的にを称した場合もある。しかし1867年(慶応3年)に江戸幕府の15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行い王政復古の大号令により征夷大将軍の職を廃止された。その後仁和寺宮嘉彰法親王が征討大将軍に任ぜられたが短期間で廃止されている。西欧語に借用された は特に日本の征夷大将軍を指す言葉であり江戸幕府はと呼称される。明治時代になって近代軍制が敷かれると士官は将佐尉の三等に大別されその最上位の将には大将中将少将の三階級が置かれた。この職にあった軍人はときに将軍とも呼称された。三浦梧楼を指すの呼称を使う例が現れた。自衛隊においては幕僚長たる将将将補の将官が存在するが通常将軍とは呼称されない。前近代中国における将軍.漢代に於ける将軍は軍の指揮官として必要な時に皇帝により置かれたもので、最上級の大将軍は三公にも匹敵する重職であった。その下に驃騎将軍・衛将軍・車騎将軍があり、その下に上将軍・伏波将軍など臨時に任命される雑号将軍がある。後に戦乱などによって将軍号が増加し、南朝梁の武帝が将軍号を整理した際には12班で合わせて125号に分類整理されたという。唐の時代には、官職としての将軍の他に武散官の称号としての将軍も並存した。北宋では、武散官の称号としてのみ残され、それも神宗の時代に廃されてと改称された。元の時代に武散官の称号として復活し、続く明の時代には総兵官及びその麾下である軍指揮官の官職名としても復活した。清の時代には臨時の官職として大将軍が設置されたことがあるものの、常設官においては総兵官としての将軍の称号は再び廃されて、副将以下の軍指揮官及び駐防八旗兵の司令官の称号として残り近代に至る。国家指導者の敬称としての将軍.国際的には、軍事政権や一党独裁国家において最高権力者が、政権掌握当時の階級を意図的に名乗ったり国民の間に流布したりしている例がある。あるいは政権獲得後に軍人としてのキャリアの有無にかかわらず将官の階級を自らに与えるケースもある。例をあげるとパナマのマヌエルノリエガイラクのサダムフセイン北朝鮮の金日成金正日父子などもと呼ばれていた。存命人物では北朝鮮の金正恩がそう呼ばれている。このうちフセインと金正日金正恩父子は職業軍人としての経歴を持たない。金日成はソ連赤軍の朝鮮人義勇部隊に従軍したがソ連赤軍での最終階級は大尉である。また金日成の階級は朝鮮民主主義人民共和国大元帥金正日と金正恩は共和国元帥であり将官ではなく軍事的指導者の意味で将軍と称されていた。金正日はと呼ばれているだけであり日本語でそのまま将軍様とするのは適訳ではないという意見もある。 +は、大和朝廷から続く歴代の中央政権から見て、日本列島の東国などに住む人々の呼称である。大和朝廷による支配地域が広がるにつれ、この言葉が指し示す人々および地理的範囲は変化した。近世以降は、北海道・樺太・千島列島・カムチャツカ半島南部にまたがる地域の、アイヌ語を母語とするアイヌ民族を指す。大きく、という2つの呼称に大別される。大和朝廷の支配に服した東国の蝦夷は俘囚と呼ばれた。蝦夷は古くは愛瀰詩と書き次に毛人と表されともにが使われ始めたのは11世紀か12世紀である。えみし、毛人・蝦夷の語源については、以下に紹介する様々な説が唱えられているものの、いずれも確たる証拠はないが、エミシをしていたことが分かっている。古歌で「えみしを 一人 百な人 人は言へども 手向かいもせず」(えみしは一人で百人と人は言うが、我が軍には手向かいもしない) と歌われたこと、蘇我蝦夷、小野毛人、佐伯今毛人、鴨蝦夷のように大和朝廷側の貴族の名に使われたこと、平安時代後期には権威付けのために蝦夷との関連性を主張する豪族(安倍氏や清原氏)が登場していることから、「えみし」には強さや勇敢さという語感があったと推測されている。そこから、直接その意味で用いられた用例はないものの、本来の意味は「田舎の(辺境の)勇者」といったものではないかという推測もある。他方でアイヌ語に語源があると考えた金田一京助は、アイヌ語の雅語に人をであったと説いた。文献的に最古の例は毛人で5世紀の倭王武の上表文にとある。蝦夷の字をあてたのは斉明天皇5年の遣唐使派遣の頃ではないかと言われる。後代に人名に使う場合ほとんど毛人の字を使った。蘇我蝦夷はに出てくる毛民国を意識して中華の辺境を表すように字を選んだという説もある。人名に使った場合であっても、佐伯今毛人が勤務評定で今蝦夷になり、これが蝦夷の特徴なのだという説もある。諸説ある中で唯一定まっているのは、単独なら編者が彼を卑しめたものとする。だが、佐伯今毛人の例を引いてこれに反対する意見もある。用字については、『日本書紀』では蝦夷の夷の字に虫偏をつけた箇所も散見される。蝦夷の字の使用とほぼ同じ頃から、北の異民族を現す「狄」の字も使われた。「��狄」と書いて「えみし」と読んだらしい。毛人と結合して「毛狄」と書かれた例もある。一字で「夷」と「狄」を使い分けることもよくあった。これは管轄する国(令制国)による人工的区分で、越後国(後に出羽国)所轄の日本海側と北海道のえみしを蝦狄・狄、陸奥国所轄の太平洋側のえみしを蝦夷・夷としたのである。古代の蝦夷を、人種的にはともかく、民族的には区別する説が有力となった。は朝廷側からの他称であり、蝦夷側の民族集団としての自覚の有無に触れた史料はない。蝦夷に統一なアイデンティティーは無かったと解するか、朝廷側との交渉の中で民族意識が形成されたであろうと想定するかは、研究者の間で意見が分かれている。蝦夷についての形式上最も古い言及は神武東征記中に詠まれている来目歌の一つに愛濔詩として登場する。しかしこの来目歌がどの程度史実を反映するものかどうかは判然とせずまたここで登場する「えみし」が後の「蝦夷」を意味するかどうかも判然としないため古い時代の蝦夷の民族的性格や居住範囲については諸説があり確かなことはわかっていない。概ね関東地方から東北地方北海道にかけて広く日本列島の東方に住んでいたと考えられている。5世紀の中国の歴史書『宋書』倭国伝に478年(順帝昇明2年)倭王武が宋 (南朝)に届けた上表文として以下の記述がある。これにより既にこの時代には蝦夷の存在とその支配が進んでいた様子を確認することが出来る。景行天皇条には、武内宿禰が北陸及び東方諸国を視察した際の記述としと記述がある。蝦夷は、その優れた狩猟の弓術(和人の伝統の長弓に比べると短弓を用いた)に、古墳時代に日本へもたらされた馬を和人から取り入れ、飛鳥時代・奈良時代には狩猟における騎射の技を磨いた。戦闘が起きた場合には、優れた騎馬戦闘術(および蕨手刀などの騎乗武器)を生み出した。古墳の分布は和人文化の範囲を示し蝦夷との境界が北限となる。これまでの発掘調査により古墳時代前期における最古級の前方後円墳の北限は現在の新潟県越後平野中部福島県会津盆地宮城県仙台平野であったと考えられている。同時代の終末期までに北限は日本海側沿岸ではほとんど北進せずむしろ中越地方に後退するが日本海側内陸では山形県村山地方中部まで太平洋側では岩手県北上盆地南部まで北進した。飛鳥時代頃には蝦夷は現在の宮城県中部から山形県以北の東北地方と北海道の大部分に及ぶ広範囲に住んでいた。平時には和人と交易を行い昆布馬毛皮羽根などの特産物と引き換えに米布鉄器工芸品を得ていた。大和政権が支配領域を北に拡大するにつれてしばしば防衛のために戦い反乱を起こしまた和人の築いた城柵を襲撃したため日本書紀には襲撃や討伐の記録が記録されている。大和に帰順した蝦夷の集団は俘囚と呼ばれ関東地方へ移住させられたり西日本で兵隊集団を勤めるなどした。当初は大和側では秋田城などの城柵で儀礼的な会食や物資の提供を行い服属を促していたが蝦夷には中央政権が無いため恭順する集団と支配に抵抗し襲撃を行う集団が混在し長期間にわたり交易と征伐が並行して行われる事態となった。斉明天皇元年の管轄によって朝廷が用いた分類であると考えられている。この区別は後に出羽国と陸奥国の管轄になって平安時代まで踏襲されたが、字は北の異民族を指すとも書かれるようになった。斉明天皇4年と推定される。粛慎と呼ばれる集団の詳細は不明であり本州以外に住んでいる蝦夷の別称という説もあるが後には蝦夷と粛慎が別の集団であるかのような記述も登場する。斉明天皇5年蝦夷の長であった恩荷は阿倍比羅夫に降伏した際弓矢は武器ではなく狩猟の道具だと証言している。斉明天皇6年3月には阿倍臣が粛慎を討伐する際陸奥の蝦夷を自分の船に乗せて河を越え渡島に渡ったが到着後に渡島に住む蝦夷から粛慎の水軍が多数襲来するので河を渡って朝廷に仕えたいと申し出る記述がありこの時代には熟蝦夷の一部が朝廷軍として働いていたと見られている。また13世紀半ばから14世紀初頭にかけてモンゴル帝国は樺太のアイヌを攻撃しているが関連は不明である。蝦夷は、産馬、産金の地である陸奥で経済力および戦闘力を付けていったのに対し、朝廷は産出物に依存する形となるなど、次第にその王権外の存在が問題視され、完全に大和化する政策に次第に舵が切られていった。養老2年8月14日出羽と渡嶋の蝦夷が78人が馬1000頭を献納したので位と録を授けた記録がある。光仁天皇以降、蝦夷征討政策が本格化した。蝦夷も組織的に朝廷軍と戦うようになっていった。宝亀11年らの名がその指導者として伝わる。延暦6年(787年)の記録に「蝦夷に横流しされた綿で敵が綿冑を作っている」という記述 があり、不正な交易が行われていたことがうかがえる。延暦20年には志波城を築城し、蝦夷征討の目的がほぼ達成されたと見なされた。その後、朝廷は蝦夷に対する積極的な征服政策を転じ、民衆の負担を減らすことととし、朝廷の支配領域の拡大は現在の岩手県と秋田県のそれぞれ中部付近を北限として停止する。延暦24年(805年)、藤原緒嗣から蝦夷征討と平安京の造営の一時中止を奏上され、桓武天皇は蝦夷への遠征を中止した。また軍団を廃止し健児制へと移行したが、陸奥・出羽のみ蝦夷対策として軍団が維持された。その後は、現地の朝廷官僚や、大和に帰順した俘囚の長たちが蝦夷の部族紛争に関与することなどにより、徐々に大和化が進行していったものと思われる。その後前九年の役後三年の役などが勃発し平安後期の東北北部は戦乱の時代であったが当事者のうち安倍氏や清原氏は俘囚の長を自称し蝦夷との系譜的関連性を主張しているが他方源氏は蝦夷の系譜とは関係なく東北に乗り込んでいる。平安末期になると蝦夷との血縁的系譜的関係を主張する奥州藤原氏の支配が東北北端まで及ぶことになる。藤原氏3代は中尊寺金色堂でミイラになっている。を自称する藤原氏のミイラの調査は注目された。調査の結果、このミイラには指紋には渦紋が多く頭は丸顔で歯のかみ合わせも日本人的であり、藤原氏の骨格は日本人の骨格であるとされた。また、ミイラには内臓や脳漿は全く無く、腹部は湾曲状に切られ後頭部に穴が開いていた。ただ、裂け目にネズミの歯形が付いており、長谷部言人はミイラは自然発生したと主張し藤原3代は日本人であったとした。それに対し、古畑種基はミイラの人工加工説を主張した。木棺3個とも後頭部と肛門にあたる板に穴が開けられていたが、切り口は綺麗で汚物が流出した跡は無く、また男性生殖器は切断されており、加工の跡は歴然だとした。これは極めてアイヌ的な慣行で、樺太アイヌは偉大な酋長が死ぬと近親者は遺体の脳漿と内臓を除去し、何度か塩水を付けて天日で乾かしウフイを作る。森嘉兵衛は、和人との何代かにわたる婚姻で骨格は日本人化していたが、精神や葬祭の慣行はアイヌ的なものが変わらず残っていたのではないかとしている。奥州藤原氏が源頼朝率いる関東地方の鎌倉政権によって滅ぼされると、幕府は東北地方各地に東国武士を派遣し、ここに蝦夷の系譜ではなく、朝廷の系譜による鎌倉幕府(関東政権)による支配がはじめて東北北端にまで及び、大和化が成ったことになる。相前後して蝦夷、俘囚などと言った民族的諸概念は文献から姿を消し、次項に述べる「エゾ」に置き換わる。蝦夷の性格については、後のアイヌとの関係を中心に、江戸時代から学説が分かれている。蝦夷をアイヌ人とする蝦夷アイヌ説と、蝦夷を和人の一部とする蝦夷辺民説である。現在では、考古学からする文化圏の検討と、北東北にアイヌ語で説明できる地名が集中しているから、少なくとも飛鳥時代以降の蝦夷について、アイヌとの連続性を認める説が有力である。中央政府側に通訳がついていたことから蝦夷の言語が日本語と相当異なっていたことが分かり、前述の通りアイヌ語系の地名が東北北部に数多く残っていることから、アイヌ語系統の言葉を話していたと推定される。古墳時代の寒冷化に伴い、北海道の道央や道南地方を中心に栄えていた続縄文文化の担い手が東北地方北部を南下して仙台平野付近にまで達し、西南日本から北上して来た古墳文化の担い手と接触・交流していたことが、考古学的に明らかとなっている。彼らが文献上の蝦夷そのものであり、その後、北海道の蝦夷は最終的にアイヌに継承され、東北地方の蝦夷と国��に移配された俘囚は和人に合流したとされる。一方で蝦夷はモンゴル系民族と類似している。なおアイヌも短弓と毒矢を使用する。しかし北方系の騎馬民族には刺青の風習はなく日本在来馬の起源は蒙古馬から対州馬を経て拡散されたものでありこの説も空想の域を出ない。北米のネイティブ・アメリカンの例でもある様に、渡来した集団から馬を手に入れ、文化に組みこまれたものと思われる。民俗資料に見えるエミシ.東北地方に伝わる坂上田村麻呂伝説を始め種々の伝説中にエミシの族長クラスの名として悪路王阿弖流為大武丸赤頭の名が残る。民俗学者柳田国男はこのについて赤髪かまたは赤い顔の事だろうとしていた。柳田は同時にエミシの伝説として東北人は「赤頭太郎などと称して赤い大人。一方エミシは当時の東北人から鬼と呼ばれていたらしい。例を挙げると大武丸の生誕地が「鬼生田これらに共通した特徴を持っている事が分かる。中世以後の蝦夷頃には現在アイヌと呼ばれる人々と同一とみられるとなったとする説がある。アイヌ文化は前代の擦文文化を継承しつつオホーツク文化の量的増大にありアイヌ文化は交易に大きく依存していたことからアイヌ文化を生んだ契機に和人との交渉の増大があると考えられている。具体的には奥州藤原氏政権の盛衰との関係が指摘されている。鎌倉時代後期に任ぜられ、これら3種の蝦夷を統括していたとする記録もある。室町時代和人とアイヌの抗争の時代を生き抜き和人勢力を糾合して渡島半島南部の領主に成長していった蠣崎氏は豊臣秀吉徳川家康から蝦夷地の支配権交易権を公認され名実共に安東氏から独立し江戸時代になると蠣崎氏は松前氏と改名して大名に列した。蝦夷全体をクリルとしているものもある。昔のアイヌ民族は居住地にクリルという名前を使用していた。現在ロシア連邦では千島列島や歯舞諸島や色丹島を指しているとされているがまたロシア連邦領土北海道を指す用語としてという説もあり北海道全体や東北地方などの北日本をさす用語としても使用されている。クリルはロシア連邦では範囲がいろいろである。 +高橋 葉介(たかはし ようすけ、1956年(昭和31年)3月15日 - )は、日本の漫画家、漫画原作者。本名 高橋庸介。代表作に怪奇幻想マンガ『夢幻紳士』シリーズや学園ホラーマンガ『学校怪談』や『もののけ草紙』などがある。母の実家のある長野県で出生し幼少期は東京都青梅市で育ち建築業の父とともに武蔵野市武蔵境豊島区池袋神奈川県相模原市に移る。小学生の頃からマンガを描き始め高校時代から集英社や小学館に投稿を始める。駒澤大学時代に水野流転主宰の同人誌8月号掲載のでデビュー。その後は同誌に多く作品を発表する。デビュー当時は毛筆とGペンを併用した特徴的な線と絵柄で知られ休刊後は意識的に作風を変えていった。1980年前後には漫画界のニューウェーブの旗手と目され従来の少年漫画や少女漫画の影響を受けつつそれらのいずれとも異なる独特な表現で漫画ファンの注目を集めた。作品は、基本的に猟奇要素の強い幻想怪奇漫画が多いが、と評している。藤田和日郎も、高橋作品に強い影響を受けたと語っている。を掲載この作品はライフワーク的位置付けとなる。荒俣宏を2000年まで連載。この登場人物達も夢幻一族の子孫という設定になっている。2006年、近藤豪志の作画によるで初めて原作を手がける。2005年、怪奇篇の流れを汲むに連載。以降は早川書房とぶんか社での執筆が多くなっている。2021年7月『夢幻紳士』40周年を記念して高橋初の画集『にぎやかな悪夢』を刊行。その刊行を記念して東京にあるリベストギャラリー創にて原画展が開催された。各巻の収録作品については高橋葉介ウヱブサイトの高橋葉介著作リストを参照。書誌情報に関してはを参照。数学とは、数・量・図形などに関する学問である。数学は一般に形式科学に分類され自然科学とははっきり区別される。方法論の如何によらず最終的には数学としての成果というものは自然科学のように実験や観察によるものではない。数学の範囲と定義については数学者や哲学者の間で様々な見解がある。数学の最も普通の定義としては、というものがある。また冒頭ではとする、百科��典に掲載されている、研究対象によって数学を定義する定義文を紹介した。なおという言葉によってどのような要素が省略されているか、他にどのようなことを研究するか、というところまで説明を補うと、量、構造、空間、変化...など、さまざまなものが続々と出てくる。19世紀のヨーロッパで集合論が提起されてからはといった単純な定義で済ませておくことはできない状態にある。 +「現代的な数学においては公理的に定義される抽象的な構造を数理論理学を共通の枠組みとして用いて探究する。」などとも。数学を専門的に研究する人物数学の学者を数学者と言う。が発達した。現代の数学では証明は非常に重視されている。現代における純粋数学の研究は主に代数学幾何学解析学の三分野に大別される。またこれらの数学を記述するのに必要な道具を与える論理を研究する学問を数学基礎論という。以下の分野や項目の一覧は数学に対する一つの有機的な見方を反映している。ヴィンチェンツォガリレイは音楽数学の発展と物理学の発展は密接な関係にある。数理モデルは計算機の研究にも使われる。また言語の研究にも使われることがある。数理モデルは理想化されており往々にして実際との間にはが生じるという問題はあるがそれでもそうした分野の研究に俯瞰的な視点を与え研究に大きな進歩や高い次元からの洞察をもたらすこともある。数学と初等中等教育現場.日本の義務教育現場では、初等教育ではと表記されている。学習する分野は、10年ごとに文部科学省から学習指導要領が告示され、その基準に基づいて決定される。この学習指導要領について文部科学省は、学習指導要領のより詳細な事項を記載したを発行しており、学習指導要領とは異なり法的拘束力はないとされ、教科用図書検定規則などには学習指導要領解説に沿わなければならないという規定はないのだが、学習指導要領解説で提示された公式のみが教科書に実際に記述されているなど、教科用図書検定の際には強い影響力を持っており、事実上拘束力がある。※というものは存在しない。数学に関する賞としてはフィールズ賞が最高峰とされている。食文化(しょくぶんか)は食(食事)にまつわる文化のこと。食文化には、食材の選び方、献立の立て方、調理法といったことから、食器の選び方、また誰と、どのように食べるのか、といったことや、作法・マナーなどに至るまで多くのことが含まれる。食の頻度摂取する時刻なども食文化の要素の一つである。普段は何を食べるか暦の上で特別な日には何を食べるのかということもある。現代社会のグローバリズムの中で、それぞれの食文化は均一化の方向へ向かっている面もある。欧米企業を主体にしたファストフード店が、世界各国に展開していたり、インスタント食品やスナック菓子などが流通している。とは言うものの、世界各国の各家庭では、親から子へと伝統的な家庭料理が伝授されつづけているし、郷土料理の再評価や、地元の食材を用いた料理の評価、も起きている。また、跡継ぎ問題もあって家庭料理だけでなく地域固有の郷土料理に詳しい継承者を育てる動きもある。くらしき作陽大学に、日本初のが設置されている。民族や宗教、地域、国家等々によってそれぞれの多様な食文化が存在する。固有のものがある一方で、麺類のように地域・国境を越えて食文化が伝播している場合もある。たとえばユダヤ教には「カシュルート」や「コーシェル」と呼ばれる食物規定がある。これはもとをたどれば旧約聖書において、食べてよいもの、食べていけないもの、一緒に食べてはいけないものの組み合わせ、動物の屠り方、調理法などに関すること細かに記述・規定されていることによる。厳格な教派においては現在でもこれを厳格に守っているユダヤ教徒が多い。Pesa(ペサハ。過越祭、すぎこしのまつり、ニサン月14日の夜。太陽暦の3月か4月の移動日に始まり一週間つづく)には、先祖がエジプト人の奴隷であった時代にモーセに率いられエジプトを脱出しようとした際、神はエジプト中の赤子を殺したが、小羊の血を家の入口に塗ったヘブライ人の家だけは「過ぎ越した」(殺さなかった)という故事を思い起こし、過越祭の���初の晩には「セーデル」と呼ばれる正餐を催す。小羊・苦菜・マッツァー(種なしパン、膨らますための酵母を入れないパン)を食べる。そして「ハガダー」という、出エジプトに関する物語・詩篇を読み、先祖がエジプトでの奴隷の身分から救出されたことを記念する。ムスリムの名を唱えながら鋭利な刃物でさばくと定められている。イスラム法にかなっている食べ物をという。中東ではハラールに関して寛容になっているムスリムも増えたがインドネシアのムスリムの中にはハラールに関して厳密な人も多い。ムスリムはラマダーン月(イスラム暦の月のひとつ)には日の出から日没まで断食を行うを仲良く楽しく食べる。それ故ラマダーン月には街の料理店にはお客はまったくいなくなるという。ラマダーン月には世界中のイスラーム教徒はひとつになっていると実感し信仰心が高まる。ヨーロッパの近世では地理上の発見や植民地を得たことが食材や香辛料などの面でに大きな影響を与えた。こうして様々な食文化がある。航空機の国際線などでは様々な食文化の人が乗客となりうるので、ユダヤ教徒向け、イスラーム向け、ヒンドゥー教徒向けなど、典型的な人を想定していくつか機内食の献立が用意されていることも多く、予約時にそれを指定すればそれを食べられるようになっている。広大な国土をもつ中国では地方ごとに傾向が異なる。小麦やトウモロコシの生産の多い地方では饅頭餃子小麦粉の麺などを主に食す。それに対してインディカ米の生産が多い南部では米飯やビーフンなどを主食にしている。沿岸部では魚料理をよく食べる。なお、中華料理のステレオタイプのイメージが中国の食文化の歴史を理解するうえで誤解の原因となりうることに注意が必要である。具体例を挙げるとすれば、フカヒレ料理の歴史はたかだか300年であるし、北京ダックの歴史はたかだか100年しかない。それ以前はそういうものは食べていなかった。なお中国では食べ物にまつわる宗教的な制約はないので近年経済発展してきたのにともない中国の人々は外国の味を抵抗なく受け入れている。たとえば食肉に関しても世界各国のレストラン系列やマクドナルドのハンバーガーケンタッキーフライドチキン吉野家の牛丼 等々等々が中国でも多数出店して世界の多様な食文化が急速に浸透している。食事内容の統計を見てみると1985年を境にして米の量が減り始めさらに近年では小麦の量も減ってきている。それに代わって畜産物が特に増えてきている。それとともに供給熱量も1985年に2572kcalだったのが2003年には2872kcalにまで増えた。食生活が肉や油を多用する欧米の食文化に向かって変化してきていると言ってよい。USDAのデータで見ても中国の牛肉の消費量は1989年に101万5000トンだったが2008年には621万トンと約6倍に伸びた。一人当たりの年間消費量で見ても0.9キログラム(1989年)→ 4.7キログラム(2008年)と約5倍となっている。台湾の食文化を理解するには台湾文化全般のしくみを知っておいたほうがよく「本省人」と「外省人」という用語を知っておいたほうがよい。また台湾料理は(50年ほどにもおよぶ)日本統治時代の食文化の影響も受けていることや蔣介石らが率いた台湾国民政府の影響も受けていることも知っておいたほうがよい。別の言い方をすると、台湾の食文化は、中国大陸南部の食文化の影響も受けており、台湾の先住民の食文化の影響も受けており、日本の食文化の影響も受けており、香港の食文化の影響も受けているということである。混ぜ合わさった民族性が台湾におけるという言葉で表されるものだともいう。たとえば広東料理の影響がある。 広東省はといわれるグルメの本場。豊富な海鮮、フカヒレやアワビといった珍味、飲茶文化などが有名。そうした食文化の影響を台湾の食文化は受けている。台湾のは台湾固有のものとなっていった。また台湾は宗教的に言うと仏教道教一貫道の影響が大きいわけでそれらはどれも殺生を禁止しておりその結果ベジタリアンやヴィーガンの人々も多く台湾素食も知られている。韓国の食文化の基本は「五味五色」と言われる。「五味」は辛甘酸献(しよっばい)苦のことで「五色」は青赤黄白黒のこと。朝鮮半島南部の���候と地理的特性が韓国の食べ物を豊かにし、韓国食文化の特徴の一つである主食と副食を明確に分ける習慣を作り出した。儒教が朝鮮民族の伝統を育んでおりその食文化にも影響を与えている。儒教は年長者や年配者を大切にすることを重視しそれを食事の場において言葉や動作でも表現する。乾杯のときには年長者や目上の人の前ではグラスは目立たないように飲まなければならないとされている。儒教は韓国の焼肉の文化も育んだ。ニンニクの多用に関しても李盛雨(イソンウ 『韓国料理文化史』の著者)は「我国(=韓国)は崇儒廃仏主義であったため仏教で教える「ニンニク食禁忌」を受け入れずどんな抵抗感も無くニンニクを喜んで食べてきた」と述べた。日本においては仏教僧侶の献立や平安時代の貴族の酒宴における大饗料理さらに大饗料理の系譜を受け継いで武士社会における酒宴において儀式的な料理となった本膳料理などが成立した。本膳料理は客個別の卓上に膳部が配膳される銘々膳で一汁三菜のようにで構成され後々の日本人の食文化に大きな影響を与えた。また本膳料理を簡略化した袱紗料理も誕生した。その後明治維新に伴う文明開化にともなって牛肉などを食べる食肉文化が流入。他にも太平洋戦争中の食糧不足連合国軍最高司令官総司令部の占領下の日本での食糧援助高度経済成長などでも食文化が急速に変化した。 +飲むとは動物が口から水や他の液体を摂取する行為である。人間の開いた口に液体が注がれると嚥下過程によって食道の蠕動により液体が胃へ送られる。ただし重力によって液体は自然に胃の方へ向かうため固形物の嚥下の場合よりは蠕動は抑制されている。コップなどの食器から液体を飲むほか手から液体を注いで飲むこともある。熱い液体を飲むときや、スプーン、ストローなどで飲む場合には、空気を吸引することで液体を口に入れる。乳児が母乳を飲む場合は、唇を乳腺にきつく押し付けて吸引する。呼吸と舌の動きの組み合わせにより、口腔内の気圧を低下させて液体を口に引き込む 。行為が必要ないため歯のない乳幼児や歯の弱った老人には栄養を摂取する方法として適している。また消化器官が弱っている病人などには消化しやすいように流動食を与えることもある。水分補給のため又は嗜好品として液体状の物体を摂取する行為について用いられることが普通だが薬品(液体固体粉末)を服用する場合も飲むという。淡水に生息する両生類やは飲む必要はなく浸透によって皮膚を通して水分を安定して吸収する。それに対し海水魚は泳ぐときに口から海水を飲み余分な塩分は鰓から出す。飼育下のは水を飲むことに慣れるようになるがほとんどの野生の動物は食べ物の中の水分や液体によって水分補給を行う。水を飲まなければならない状態になった場合水の飲み方や動きは種によって大きく異なる。砂漠の動物の多くは水が利用可能であってもそれを飲まず多肉植物を食べて水分補給を行っている。猫、犬、反芻動物は、首を下げて、舌で水を舐める。猫と犬はスプーンのような形をした舌で水を包み込む。反芻動物やほとんどの草食動物は、舌を真っ直ぐにしたまま突っ込む動作によって水中に引き込むために、口の先端を部分的に水没させる。捕食の危険に直面する反芻動物と比べて、猫はかなり遅いペースで水を飲む。象は鼻で水を吸い込み、口に噴き出す。ほとんどの鳥は嘴の頬側の領域に水をすくい取るか、吸い込み、頭を上げて傾けて飲む。例外的に、カワラバトは吸入によって直接水を吸うことができる。という用語は酒および飲酒を伴う宴会の同義語としてよく使用される。歴史的にほとんどの文化で食事祝い事儀式乾杯やその他の機会に多種多様な酒を取り入れてきた。人間文化における発酵飲料の痕跡は新石器時代にまで遡り最初の絵画的な証拠は紀元前4000年頃のエジプトで見られる。飲酒は、世界中で様々なへと発展してきた。その一方で、アルコール摂取は重大な健康上のリスクをもたらす。アルコール乱用やアルコール依存症は、世界中の先進国で一般的な病気である。高頻度の飲酒は、肝硬変、胃炎、痛風、膵炎、高血圧、癌など、様々な病気を引き起こす可能性がある。 +ペンシルベ��アドイツ語は、北アメリカのカナダおよびアメリカ中西部でおよそ15万から25万人の人びとに話されているドイツ語の系統である。高地ドイツ語のうち上部ドイツ語の一派アレマン語の一方言である。ペンシルベニアアレマン語とも呼ばれる。この言語を主に使用するのはアメリカ合衆国のペンシルベニア州東部から発生し中西部モンタナ州アイダホ州ワイオミング州ワシントン州オレゴン州それにカナダのオンタリオ州に住んでいる大部分のゲルマンドイツ系アメリカ人である。話し手の多くはアーミッシュかオールド・オーダー・メノナイト派である。ただし、数世代前は全く違う状態にあった。これについては以下の#継承の節を参照のこと。またメノナイト派の内アメリカ北部や南部に住む人びとは、低地ドイツ語の諸語を話すことがあるが、これはまた全く異なるグループの言語である。ペンシルベニアダッチとも呼ばれるがいわゆるオランダ語と直接の関係はない。英語のダッチは現代ではオランダ語やオランダ人の意味で使われるが古くはドイツ語およびドイツ人を指す言葉であった。この語とは同語源である。元来オランダはドイツ文化圏の一部とみなされていたが後に意味が狭義化した。この紛らわしい呼び名はその古い語義を保つ形になっている。同時にアシュケナジムが使用するイディッシュ語とも系統が異なるグループの言語である。ヨーロッパにおける起源.ペンシルベニアドイツ語はドイツ中西部のプファルツ地域の言語である中部ドイツ語に属するフランケン諸語のさまざまな地域からの移民から構成される。これはアルザススイスを含む南西部のバーデンバイエルンシュヴァーベンを含む南中部のシュヴァーベンフランケン地方南西部を含む中南部のヴュルテンベルクなど移民がやって来てから最初の数世代の間に各種の方言が融合し現在のようなものになったという。ペンシルベニアドイツ語は、大衆文化のなかではアーミッシュと結び付けられることが多い。ペンシルベニア・ジャーマン訛りの英語を話す人は、v と w の発音をすり替えてしまうことなどが典型的である。たとえばと言ってしまう、などとされる。ただし、現実のペンシルベニアドイツ語の話し手が英語を話す際には、非常にわずかな訛りしかない。上のようなイメージは観光のために誇張されているものという色合いが濃い。現在、ペンシルベニアドイツ語には、2つの競合する表記の方法が存在している。例えばは次のように2通りに表記され得る。Unsah Faddah im Himmeldei nohma loss heilich seiDei Reich loss kumma.Dei villa loss gedu seiuf di eaht vi im Himmel.Unsah tayklich broht gebb uns heit,Un fagebb unsah shuldavi miah dee fagevva vo uns shuldich sinn.Un fiah uns naett in di fasuchung,avvah hald uns fu'm eevila.Fa dei is es Reich, di graft,un di hallichkeit in ayvichkeit.Unser Fadder im Himmel,dei Naame loss heilich sei,Dei Reich loss kumme.Dei Wille loss gedu seiuff die Erd wie im Himmel.Unser deeglich Brot gebb uns heitUn vergebb unser Schulde,wie mir die vergewwe wu uns schuldich sinn.Un fiehr uns net in die Versuchung,awwer hald uns vum Iewile.Fer dei is es Reich die Graftun die Hallichkeit in Ewichkeit.参考までに、現代の標準的ドイツ語による表記は、次のようになる。Vater unser im Himmelgeheiligt werde dein Name.dein Reich kommedein Wille geschehewie im Himmel, so auf Erden.Unser tgliches Brot gib uns heute,und vergib uns unsere Schuldwie auch wir vergeben unseren Schuldigern.Und fhre uns nicht in Versuchung,sondern erlse uns von dem Bsen.Denn Dein ist das Reichund die Kraft und die Herrlichkeitin Ewigkeitペンシルベニアドイツ語は少なくとも2つの意味で絶滅の危機に直面している。ひとつにはこの言語はペンシルベニア州南東部でかつて日常的に話されていたのだが今日ではそのような使われ方はされていない。今日でも高年齢層のなかにはペンシルベニアドイツ語を話す人々が多い。だが彼らの孫の世代は英語のみしか知らないのが普通である。もうひとつ今日でもペンシルベニアドイツ語を日常的に使っているアーミッシュについてはそこに多くの英単語が混ざるようになったことが指摘できる。一部の関係者はこの変化が進展するとやがてペンシルベニアドイツ語は消え去ってしまうのではないかと危惧している。またこの変化が加速しつつあることも指摘されている。これは多くのアーミッシュの大規模な共同体にとって土地が稀少になりつつありそれに伴って農業以外の職業に就く必要性が出てきているためである。工場などで働く場合英語との接触がかなり増えることになるケースがある。また、アーミッシュとオールド・オーダー・メノナイト派は、かつてはペンシルベニアドイツ語の話し手のごく少数を占めるに過ぎなかったが、現在ではかれらだけが世代間の言語の継承をおこなっているため、話し手の大多数を占めるようになった。ジョンズ・ホプキンズ大学の社会学者でペンシルベニア・ダッチ人のジョン・A・ホステトラーによれば、当初これら2つの集団は話し手全体の人口の10%以下であったという。しかしながらこの2集団がペンシルベニアドイツ語の使用をやめる兆候はない。かれらの文化では言語は従順さ謙譲の証として扱われ外部の世界に対するバリアーとして機能している。またアーミッシュは一般に多産であるため短期的には若い世代の話し手がいなくなる可能性は低い。カナダでは、次の3つの集団がペンシルベニアドイツ語を話す。一般に、カナダ国内のペンシルベニアドイツ語の話し手はアメリカ国内の話し手の数と比べて非常に少ない。だが、少なくともカナダのメノナイト派の内の1集団は、ペンシルベニアドイツ語の使用を中止する率がアメリカの同様の集団と比べて低いことがわかっている。具体的には自動車オールド・オーダー・メノナイト派がそうである。アメリカでは自動車を利用するオールド・オーダー・メノナイト派の人々は、英語に切り替えてしまうけれども、カナダではこうした人びとは家庭内で依然としてペンシルベニアドイツ語を使い続けている。アメリカ国内では次の各集団がペンシルベニアドイツ語を話す。これらの内最後の一連の諸集団がかつてペンシルベニアドイツ語の使い手の主流派をなしていた。また今日では夜間学校で言語を教える試みなどもおこなわれている。しかしながらこれらの集団内での話し手の数は年々減少する傾向にある。ほかにこうした人々を主な対象とした週に一度のラジオ番組がありルター派と改革派教会の内以前ドイツ語を使っていた支部の多くはペンシルベニアドイツ語による毎年一回のミサをおこなっている。またペンシルベニアドイツ語の母語話者と商取引を頻繁に行う人々のなかにはこの言語を話すようになる人もいる。今日の話し手の人口は15万から25万の間であると思われる。但し学術出版物も含めこれよりもさらに低い数字を提供する者もいる。これは上に挙げたさまざまな集団の存在に気づかないために起こる誤認による。全人口の内アーミッシュは15万から20万人を占める。オールドオーダーメノナイトは数万人その他のメノナイト派の話し手が数千人アーミッシュでもメノナイト派でもない話し手が数千人いる。たとえばペンシルベニア南東部にあるペンシルベニアドイツ語の話し手のための組織であるGrundsau Lodgeの会員数は6千人にのぼるとされる。これらの内アーミッシュの人口は見積りがやや困難である。アーミッシュの人口として統計上報告されるものはしばしば洗礼を受けた人の数である。ここには20代なかばとそれ以下の人口を含まない。教区の数と教区ひとつ当たりの平均人口に基づいた推計の方がより正確である。さらにペンシルベニア州オハイオ州インディアナ州の各州には大きな話し手の集団がいることがわかっているがこれら以外の地域の話し手は英語の話し手の間に散在しているために把握が困難である。アーミッシュの人口の公式な統計は、現在のところ存在しない。また、ペンシルベニアドイツ語を話す人びとは、カナダやアメリカの国勢調査ではドイツ語を話す者としてカウントされる。これは回答用紙にある選択肢のなかでドイツ語が一番近いためである。 +アーミッシュ()はアメリカ合衆国のペンシルベニア州や中西部カナダのオンタリオ州などに居住するドイツ系移民(ペンシルベニアダッチも含まれる)の宗教集団である。移民当時の生活様式を保持し農耕や牧畜によって自給自足生活をしていることで知られる。原郷はスイスアルザスシュワーベンなど。人口は20万人以上いるとされている。アーミッシュとメノナイトはルーテル派とツ���ィングリ派の新教再組織から分かれてスイスのチューリッヒで生まれた一派で、宗教的迫害を受けたのちにドイツ南西部やフランスのアルザス地方に移住した。キリスト教と共同体に忠実である厳格な規則のある派で、創始者のメノ・シモンズの名前をとってメノナイトと呼ばれた。そのメノナイトの一員であったは、教会の純粋さを保つために、ほかのグループから離れて暮らすことを考え、更に保守的な一派を作った。アーミッシュという呼称は彼の名に由来する。ライフスタイルは少し違うが、メノナイトもアーミッシュも基本的信条は同じで、ひとくくりにアーミッシュと呼ばれている。アーミッシュにはという戒律があり、原則として快楽を感じることは禁止される。なお、オルドゥヌングは各地のコミュニティーごとに合議によって定められるので各地で差異がある以下のような規則を破った場合、懺悔や奉仕活動の対象となる。改善が見られない場合はアーミッシュを追放され、家族から絶縁される。政治的にはとの信条から積極的に有権者として関わることはなかった。しかし2004年アメリカ合衆国大統領選挙では激戦州となったペンシルベニア州やオハイオ州のアーミッシュに共和党が宗教的紐帯を根拠とし支持を広げたという。彼らは専用の教会をその集落に持たず、普通の家に持ち回りで集い神に祈る。これは教会が宗教を核とした権威の場となることを嫌って純粋な宗教儀式のみに徹するためである。学校教育はすべてコミュニティ内だけで行われ、教育期間は8年間である。1972年に連邦最高裁において独自学校と教育をすることが許可された。教師はそのコミュニティで育った未婚女性が担当する。教育期間が8年間だけなのは、それ以上の教育を受けると知識が先行し、謙虚さを失い、神への感謝を失うからだとされる。教育内容はペンシルベニアドイツ語と英語と算数のみである。アーミッシュは移民当時の生活様式を守るため電気を使用せず、現代の一般的な通信機器(電話など)も家庭内にはない。原則として現代の技術による機器を生活に導入することを拒み、近代以前と同様の生活様式を基本に農耕や牧畜を行い、自給自足の生活を営んでいる。自分たちの信仰生活に反すると判断した新しい技術・製品・考え方は拒否するのである。一部では観光客向け商品の販売などが行われている(アーミッシュの周辺に住む一般人が、アーミッシュのキルトや蜂蜜などを販売したり、アーミッシュのバギーを用いて観光客を有料で乗せたりする例もある)。基本的に大家族主義であり、ひとつのコミュニティは深く互助的な関係で結ばれている。新しい家を建てるときには親戚・隣近所が集まって取り組む。服装は極めて質素。子供は多少色のあるものを着るが、成人は決められた色のものしか着ない。洗濯物を見ればその家の住人がアーミッシュかどうかわかる。アーミッシュの日常生活では近代以前の伝統的な技術しか使わない。そのため、自動車は運転しない。商用電源は使用せず、わずかに、風車、水車によって蓄電池に充電した電気を利用する程度である。移動手段は馬車によっているものの、ウィンカーをつけることが法規上義務付けられているため、充電した蓄電池を利用しているとされる。しかし、メノナイトは自動車運転免許を持つことが許されており、家電製品も使用している。アーミッシュは現代文明を完全に否定しているわけではなく自らのアイデンティティを喪失しないかどうか慎重に検討したうえで必要なものだけを導入しているのである。アーミッシュがあまり生活について語らないため謎に包まれている部分もある。写真撮影は宗教上の理由から拒否されることが多い。ただし、これらの宗教上の制限は成人になるまでは猶予される。アーミッシュの子供は、16歳になると一度親元を離れて俗世で暮らす際に、一年の間、アーミッシュのコミュニティから離れた後にアーミッシュのコミュニティに戻るか、アーミッシュと絶縁して俗世で暮らすかを選択する事が認められているが、ほとんどのアーミッシュの新成人はそのままアーミッシュであり続けることを選択するといわれる。この模様はの中で、アーミッシュの子供達をアーミッシュの居住地域から離れた、大都会であるロサンゼルスに連れて行き大学生の生活をさせると、自分の人生の可能性に気付き、彼らの内9割以上が、俗世に出ることを選択したという出来事もある。アーミッシュの言語はドイツ古語の一派が第二次子音推移を経た高地ドイツ語のうち上部ドイツ語に属するアレマン諸語やその一方言であるスイスアレマン語およびアルザス語などがアメリカドイツ語と融合したペンシルベニアアレマン語を基本とする。しかし現在のドイツ南西部にいるアレマン人の言語はペンシルベニアアレマン語の話者にとってきわめて困難かつ理解できない言語である。前述のとおりペンシルベニアアレマン語はアメリカ内で上部ドイツ諸語およびアメリカドイツ語などが複雑に融合して形成された言語であり従来のアレマン諸語のシュヴァーベン方言スイスアレマン方言アルザス語などの話者と会話をしても標準ドイツ語の影響を受けたこれらの言語はまったく通じない言語である。そのため彼らはとのコミュニケーションのためにアメリカ英語の言語を使用する傾向がある。アーミッシュキルトが有名で、着古した服の端切れを集めて作られる。スイスを離れ、北米に移住する前に一時期隠遁生活を送っていたフランスのアルザス地方にあるかつて銀が採れたボージュ山脈の谷間の村、(サント・マリー・オ・ミン)は、現在でもパッチワークの発祥地として有名で、構図がアーミッシュキルトの構図に似ているものがあることも興味深い。アーミッシュの人形も、古切れを縫い合わせた丁寧な作りである。顔に目・鼻・口などが描かれることはないが、アーミッシュの少女は、人形を我が身の分身のように大切にするという。音楽は楽器を所有したり演奏したりすることが禁じられている。理由は個人を引き立て虚栄心をあおる可能性があるからである。歌は斉唱である。これも個人を引き立たせることを禁じているからである。1曲歌い終わるのに15分くらいかかるものが多い。アーミッシュはことに価値を見出しているからである。アーミッシュでは独自の農業を行いほぼ完全な自給自足の生活を送っている。農業は農薬や化学肥料を全く使わずアーミッシュの農作物は市場では高値で売られ一部の高級ホテルや高級レストランで重宝されている。2006年10月、ランカスター郡の小学校にという男が闖入し児童や教員を銃で殺傷する事件が発生し、13歳のアーミッシュの少女が、自分より小さな子供に銃口が向けられた際に身代わりとなって射殺され、その妹も銃撃された。その後彼女らの祖父は犯人に恨みを抱いていないことを表明し、犯人の家族を葬儀に招いた。その独特の生活様式は1985年のアメリカ映画『刑事ジョン・ブック 目撃者』で取り上げられ、広く知られることとなった。ハリソン・フォード演じる主人公の刑事が、偶然殺人事件を目撃したアーミッシュの子供を守るため、アーミッシュの家庭に身を寄せるうちにその母親と恋に落ちるという物語である。しかし、必ずしも事実に忠実に描かれているわけではないため、アーミッシュの人々の中では必ずしも好意的に受け止められておらず、実際は共同体外部の異性と恋愛をすることは現在でも皆無だと言われる。またアーミッシュが多く居住するランカスターはスリーマイル島から南東に40キロメートルほどに位置しておりスリーマイル島原子力発電所事故のような技術災害が技術自体を好む好まずに関係なく社会全体に影響することの代表例として知られている。 +イラストレーターを描くことを生業としている人のこと。挿絵表紙絵本広告パッケージポスターなどを主な活動範囲とする。日本のポップカルチャーにおいては絵師と呼ぶこともある。注文や要請に的確に応じる必要性のためイラストレーターには画力やセンスのみならず対象事物への理解力や専門知識も求められる。このため科学医療料理ファンタジーファッションなどの専門イラストレーター工業デザインインフォグラフィックコンセプトアートキャラクターデザインを得意とするイラストレーターあるいはパステルエアブラシコンピュータグラフィックスを用いるイラストレーターなどのように細分化された専門分野��存在する。画家とイラストレーター.(絵画や漫画などに対する)イラストレーションの定義と同様イラストレーターの定義にも曖昧さが残る。画家が自らの創作意欲に基づいて独自の色合いや筆使いで絵画を描き、絵画を販売する職業であるのに対して、イラストレーターは商業的な用途などから目的となる事物やスケジュールを指定されて図絵を描き始める職業である点が異なる。例えば、書籍の表紙のために新しく絵を描き下ろす者は大抵イラストレーターと呼ばれる。専業のイラストレーターも多い一方、ポスターや商業デザインの分野ではグラフィックデザイナーが、日本の雑誌や小説のイラストでは漫画家・アニメーターが兼業していることも多い。アルフォンス・ミュシャはその仕事のどの部分を捉えるかにより画家ともグラフィックデザイナーともイラストレーターとも呼ばれる。今日ではイラストレーターも画集を出し、画家も表紙を描いたりするので両者の境界はますます曖昧となってきている。イラストレーションを描くという意味において漫画家・キャラクターデザイナー・絵本作家・挿絵画家・工業デザイナー・ウェブデザイナーなどとの明確な区分は難しいが、例えば漫画にあっては原作が漫画家独自のものであれば創作意欲や独自性から扱いとしては漫画家になり、発案したキャラクターを用いた商品広告などの場合にはイラストレーターに準じた扱いになって対価も異なる。同様に絵本にあってはストーリーや図絵を一人で行う場合はイラストレーターとは呼ばず絵本作家となり、挿絵画家とは異なる位置付けになる。イラストレーターはフリーランスが多く、画家と同じく認定資格もなく、1件毎に発注を受けることが多い職種のため、プロの定義も曖昧である。初期のイラストレーターの職業団体としては1902年2月1日にアメリカ合衆国で設立され、ハワード・パイルとその弟子のブランデーワイン派のイラストレーターたちが参加したがあり、イラストレーターの地位を向上させた。欧米の美術大学ではイラストレーション専門の学科が開設されていることもあるが日本国内ではイラストレーション科を持つ美術大学は存在せずデザイン学科の中にコースが設けられている(京都嵯峨芸術大学など)グラフィックデザインやインダストリアルデザインの専攻科などで学ぶこともできる。一方専門学校ではイラストレーション科も存在する場合がありより実践的な内容が教えられている。いずれにしてもそうした機関で教育を受けたからといって仕事が得られるとは限らない。編集者などへの売り込み個展の開催コンペティションへの応募斡旋エージェントへの登録Webサイトでの宣伝などを通し自力で仕事を獲得する必要がある。イラストレーターと依頼主の間で取り交わされる契約の内訳にも左右されるが一般的にはイラストレーターの描く図絵の著作権はイラストレーターにあり使用範囲を限定した使用権を依頼主に与えることが多い。著作権を譲渡する場合でも氏名表示権などの著作者人格権は譲渡できずイラストレーターの許に残る。イラストレーターの描いたイラストやキャラクターを盗作から守るために日本では公表済みのものにあっては文化庁管轄のにより著作権の保護管理下に置くことが可能である。他方でたとえ依頼主の指示であっても他人の作品の構図トレースなどの著作権侵害を行えばイラストレーターが責任を問われる。