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訃報 2023年4月(ふほう 2023ねん4がつ)では、2023年4月に物故した、または物故が報じられた人物についてまとめる。 1日 - 15日 4月1日 - 金森達、日本のイラストレーター(* 1932年) 4月1日 - ケン・ブキャナン、スコットランドの元プロボクサー、元WBA・WBC統一世界ライト級王者、国際ボクシング殿堂(* 1945年) 4月1日 - 羅志軍、中華人民共和国の官僚、政治家、元南京市長・江蘇省人民政府省長(* 1951年) 4月1日 - クラウス・トイバー、ドイツのボードゲームデザイナー(* 1952年) 4月1日 - 櫛田泰道、日本の声優(* 1976年) 4月1日 - 田本憲吾、日本の政治家、第6代北海道帯広市長(* 1929年) 4月2日 - 降旗勝信、日本の理科教育学者、東京学芸大学名誉教授(* 1932年) 4月2日 - 、アメリカ合衆国の実業家、サイアー・レコード共同設立者(* 1942年) 4月2日 - 平田冨峰、日本の元警察官、剣道家、元警視庁刑事部捜査第一課長(* 1942年) 4月2日 - 川田文子、日本のノンフィクション作家(* 1943年) 4月2日 - ブッチ・ミラー、ニュージーランドの元プロレスラー、WWE殿堂(* 1944年) 4月2日 - ウラドレン・タタルスキー、ロシアの軍事ブロガー(* 1982年) 4月3日 - ナイジェル・ローソン、イギリスの政治家、一代貴族、元庶民院・貴族院議員、第64代財務大臣(* 1932年) 4月3日 - 、中華人民共和国の女優(* 1934年) 4月3日 - 藤吉次郎、日本のアナウンサー(* 1947年) 4月3日 - 、オーストラリアのアボリジニ権利活動家(* 1948年) 4月3日 - 萩原幸之助、日本の格闘家(* 1968年) 4月3日 - 、アメリカ合衆国の公務員、元メリーランド州知事首席補佐官(* 1969年) 4月3日 - 三浦隆一、日本のミュージシャン、ロックバンド「空想委員会」メンバー(* 1981年) 4月4日 - 、アメリカ合衆国の陸軍特殊部隊兵士、CIA職員(* 1929年) 4月4日 - レフ・マルキズ、ロシア出身のオランダのヴァイオリニスト、指揮者(* 1930年) 4月4日 - 、アメリカ合衆国の元レーシングドライバー、元自動車の速度記録保持者(* 1937年) 4月4日 - 、韓国の歌手(* 1938年) 4月4日 - 、韓国の元サッカー選手・指導者、元大分トリニティ監督(* 1939年) 4月4日 - 、ドミニカ共和国出身のメキシコの俳優(* 1941年) 4月4日 - 國重惇史、日本の実業家、元楽天証券・楽天銀行会長、元楽天副会長(* 1945年) 4月4日 - 、アメリカ合衆国のキーボーディスト、元メンバー(* 1963年) 4月4日 - 、アメリカ合衆国の実業家、決済アプリ「」創業者、元Square, Inc.CTO(* 1979年) 4月5日 - ビル・バトラー、アメリカ合衆国の撮影監督(* 1921年) 4月5日 - ダスコ・ゴイコヴィッチ、セルビアのジャズトランペット奏者、作曲家、編曲家(* 1931年) 4月5日 - 畑正憲、日本の小説家、随筆家、ナチュラリスト、動物研究家、プロ雀士(* 1935年) 4月5日 - 藤井明、日本の実業家、元新晃工業社長(* 1938年) 4月5日 - 松井伸一、日本のラジオパーソナリティ(* 1939年) 4月5日 - 海野弘、日本の評論家、作家(* 1939年) 4月5日 - 、イランの映画監督(* 1949年) 4月5日 - ウナちゃんマン、日本の配信者、YouTuber(* 1968年) 4月6日 - 、アメリカ合衆国の料理評論家(* 1926年) 4月6日 - ノーマン・レイノルズ、イギリスのプロダクションデザイナー、映画監督(* 1934年) 4月6日 - 、ドイツ出身のイギリスのパトロン、ジョン・ライドン夫人(* 1942年) 4月6日 - 生野慈朗、日本のテレビドラマ演出家、映画監督(* 1950年) 4月6日 - 、イギリスの歌手、S Club 7メンバー(* 1977年) 4月7日 - 、ルーマニア王国出身のアメリカ合衆国の法律家、元アインザッツグルッペン裁判主任検事(* 1920年) 4月7日 - 本村ツル、日本の元小学校教員、元ひめゆり学徒隊員、元ひめゆり平和祈念資料館館長(* 1925年) 4月7日 - 、アメリカ合衆国のマジシャン(* 1926年) 4月7日 - 寺崎裕則、日本の演出家(* 1933年) 4月7日 - 、スイスの政治家、元国民議会議員・司法警察相(* 1936年) 4月7日 - 、アメリカ合衆国のSF作家、タロットカード研究者(* 1945年) 4月7日 - 、スウェーデンのギタリスト、ABBAバンドメンバー(* 1952年) 4月7日 - 、スコットランドのミュージシャン、元アラン・パーソンズ・プロジェクトメンバー(* 1953年) 4月8日 - 富岡多恵子、日本の詩人、小説家、文芸評論家(* 1935年) 4月8日 - マイケル・ラーナー、アメリカ合衆国の俳優(* 1941年) 4月8日 - 高橋豊、日本の演劇評論家、元毎日新聞社専門編集委員(* 1945年) 4月8日 - 、スコットランドのソングライター、音楽プロデューサー(* 1946年) 4月8日 - 佐久川政信、日本の空手家、政治家、元南城市議会議員、元全沖縄空手道連盟会長(* 1949年) 4月9日 - 香村眞徳、日本の藻類学者、琉球大学名誉教授(* 1930年?) 4月9日 - 澄川喜一、日本の彫刻家(* 1931年) 4月9日 - 山本栄彦、日本の政治家、第15代山梨県知事、元山梨県甲府市長(* 1935年) 4月9日 - カール・ベルガー、ドイツのジャズピアニスト、作曲家、音楽教育者(* 1935年) 4月9日 - リチャード・ン、香港の俳優(* 1939年) 4月9日 - 今村忠純、日本の日本文学研究者、大妻女子大学名誉教授(* 1942年) 4月9日 - 、クロアチアのチェロ奏者(* 1947年) 4月10日 - 、フランスのバレエダンサー、振付師(* 1932年) 4月10日 - 広淵升彦 - 日本のジャーナリスト、元テレビ朝日ニュースキャスター、アメリカ文化研究者(* 1933年) 4月10日 - 武村泰男、日本の哲学者、三重大学元学長・名誉教授(* 1933年) 4月10日 - アン・ペリー、イギリスの小説家、元服役囚(* 1938年) 4月10日 - 、カナダの元アイスホッケー選手【王子イーグルスなどに所属】(* 1985年) 4月11日 - 菊池光造、日本の経済学者、京都大学名誉教授(* 1936年) 4月11日 - 中村美彦、日本のジャーナリスト(* 1941年) 4月11日(訃報発表日) - 、北アイルランドのIRA暫定派活動家、英陸軍情報機関による二重スパイとされる人物(* 1946年) 4月11日 - 、イスラエルの作家、新聞コラムニスト(* 1948年) 4月11日 - 、大韓民国の女優、モデル(* 1996年) 4月12日 - 、インドの実業家、名誉会長(* 1923年) 4月12日 - イヴォ・バフスカ、チェコ出身のアメリカ合衆国の数学者(* 1926年) 4月12日 - 山﨑孝明、日本の政治家、東京都江東区長、元東京都議会議員、元江東区議会議員(* 1943年) 4月12日 - 竹山洋、日本の脚本家(* 1946年) 4月12日 - 、イギリスのアンティーク専門家(* 1951年) 4月12日 - ジャー・シャカ、ジャマイカのレゲエミュージシャン(* 1950年代後半) 4月12日 - 、ロシアの作家、ラジオパーソナリティ、政治活動家(* 1975年) 4月12日 - 大川内智彦、日本のボーカリスト、ポップバンド「sancrib」メンバー(* 1993年) 4月13日 - ジョー・プライス、アメリカ合衆国の美術収集家(* 1929年) 4月13日 - マリー・クヮント、イギリスのファッションデザイナー(* 1930年) 4月13日 - 小池滋、日本の英文学者、翻訳家、鉄道史研究家(* 1931年) 4月13日 - 三浦紘一、日本の実業家、ユニバース創業者(* 1939年) 4月13日 - クレイグ・ブリーン、アイルランドのラリードライバー(* 1990年) 4月13日 - 、ナイジェリア出身のイタリアのバレーボール選手、同国女子代表(* 2004年) 4月14日 - 波多野重雄、日本の政治家、元東京都八王子市長(* 1926年) 4月14日 - 、イギリスの俳優(* 1932年) 4月14日 - 丹波明、日本の作曲家(* 1932年) 4月14日 - アベル・ポッセ、アルゼンチンの小説家、外交官(* 1934年) 4月14日 - 、ドイツ出身のイタリアの画家、グラフィックデザイナー(* 1934年) 4月14日 - 、アメリカ合衆国の伝道師、OM創設者(* 1936年) 4月14日 - 溝手顕正、日本の政治家、元自由民主党参議院議員、第74代国家公安委員会委員長、元防災担当大臣、元広島県三原市長(* 1942年) 4月14日 - 高橋康夫、日本の建築史・都市史研究者。京都大学名誉教授(* 1946年) 4月14日 - 、中華人民共和国の俳優(* 1950年) 4月14日 - 、アイルランドのギタリスト、ロックバンド「ザ・スクリプト」メンバー(* 1976年) 4月14日 - シンシア・ジェリ・バイレ、ケニアの陸上競技選手(* 2002年) 4月15日 - 四代目市川左團次、日本の歌舞伎役者、俳優(* 1940年) 4月15日 - 、インドの政治家、ギャング、元国会議員(* 1962年) 16日 - 30日 4月16日 - 松長有慶、日本の仏教学者、高野山真言宗僧侶(* 1929年) 4月16日 - アーマッド・ジャマル、アメリカ合衆国のジャズピアニスト(* 1930年) 4月16日 - 四十宮正男、日本の実業家、元兼松社長(* 1934年) 4月16日 - 仲田勝男、日本の実業家、元沖縄明治乳業社長(* 1944年) 4月16日 - 藤井幹雄、日本の弁護士、政治活動家(* 1960年) 4月17日 - 黒土始、日本の実業家、第一交通産業創業者(* 1922年) 4月17日 - 、アメリカ合衆国の歌手(* 1929年) 4月17日 - 加藤孝造、日本の陶芸家、人間国宝(* 1935年) 4月17日 - 、ブラジルのドラマー、アジムスメンバー(* 1946年) 4月17日 - 、ロシア出身のアメリカ合衆国のバス歌手(* 1950年) 4月17日 - 、ウクライナの政治家、元最高議会議員(* 1967年) 4月17日 - 、アメリカ合衆国のアメリカンフットボール選手(* 1992年) 4月18日 - アルバート・デル・ロサリオ、フィリピンの政治家、元外務大臣(* 1939年) 4月18日 - 高橋戒隆 - 日本の政治家、岡山県議会議員【自由民主党所属】(* 1967年) 4月18日 - 久保田剛史、日本のお笑い芸人、お笑いコンビ「インデペンデンスデイ」メンバー(* 1987年) 4月19日 - 椎名武雄、日本の実業家、元日本IBM社長(* 1929年) 4月19日 - 厚木凡人、日本の舞踊家、振付家(* 1936年) 4月19日 - 、アメリカ合衆国の元アメリカンフットボール選手、プロフットボール殿堂(* 1942年) 4月19日 - 、ドイツのテノール歌手(* 1950年) 4月19日 - 駒井久晃、日本の政治家、北海道苫前郡羽幌町長(* 1953年?) 4月19日 - 、アメリカ合衆国の歌手、ギタリスト、元メンバー(* 1964年) 4月19日(訃報発表日) - 大橋勇武、日本のギタリスト、作曲家(* 1967年) 4月19日 - ジェレミー・ノビス、アメリカ合衆国の元アルペンスキー選手(* 1970年) 4月19日 - エレナ・パンポロバ、ブルガリア出身のドイツの元テニス選手(* 1972年) 4月19日 - ムンビン、韓国の歌手、俳優、アイドルグループ・ASTROのメンバー(* 1998年) 4月19日 - C.ぶち、日本のイラストレーター(* 生年不明) 4月19日 - 井出智、日本の実業家、芸能プロダクション「Andmo」代表取締役(* 生年非公表) 4月20日 - 米倉健司、日本の元プロボクサー、元ヨネクラボクシングジム会長(* 1934年) 4月20日 - 高野澄、日本の作家(* 1938年) 4月20日 - ジョゼップ・マリア・フステ、スペインの元サッカー選手、元同国代表【FCバルセロナなどに所属】(* 1941年) 4月20日 - 川満勝弘、日本の歌手、ロックバンド「コンディション・グリーン」メンバー(* 1944年) 4月20日 - 、韓国の元タレント、牧師(* 1956年) 4月21日 - 、アメリカ合衆国の元軍人、真珠湾攻撃時の戦艦アリゾナ乗組員(* 1921年) 4月21日 - 、ユーゴスラビア王国出身の機械技師、玩具・パズルデザイナー、ホロコースト生存者(* 1926年) 4月21日 - 伊藤七郎、日本の実業家、元イトーキ社長(* 1930年) 4月21日 - 山本和義、日本の漢文学者、南山大学名誉教授(* 1936年) 4月21日 - 、韓国の俳優(* 1946年) 4月21日 - 、イタリアの作曲家(* 1957年) 4月21日 - マーク・スチュワート、イギリスのミュージシャン、ザ・ポップ・グループメンバー(* 1960年) 4月21日 - ダレ・クオディーテ、リトアニアの歴史学者、政治家(* 1962年) 4月21日(訃報発表日) - 坂本雄一、日本の陸上自衛官、陸将、第39代第8師団長(* 1967年) 4月22日 - ハーブ・ダグラス、アメリカ合衆国の元陸上競技選手、1948年ロンドンオリンピック走幅跳銅メダリスト(* 1922年) 4月22日 - バリー・ハンフリーズ、オーストラリアのコメディアン、俳優(* 1934年) 4月22日 - 、ヨルダンの政治家、第23代首相(* 1934年) 4月22日 - 朱銘、台湾の彫刻家(* 1938年) 4月22日 - フランク・シュー、中華民国出身のアメリカ合衆国の天文学者、天体物理学者(* 1943年) 4月22日 - ハルタJACK、日本の漫画家(* 生年非公表) 4月23日 - アモロス・マヌエル、スペイン出身の神学者、哲学者、上智大学名誉教授(* 1930年) 4月23日 - 中尾保徳、日本の実業家、元鶴屋百貨店社長(* 1933年) 4月24日 - 、ルクセンブルクのスポーツジャーナリスト、司会者(* 1927年) 4月24日 - 出村文男、日本の空手家(* 1938年) 4月24日 - 常石敬一、日本の科学史家、神奈川大学名誉教授(* 1943年) 4月25日 - 杉山栄太郎、日本の地方公務員、元石川県副知事(* 1923年?) 4月25日 - ハリー・ベラフォンテ、アメリカ合衆国の歌手、俳優、人権活動家、ロックの殿堂(* 1927年) 4月25日 - 、アメリカ合衆国の映画監督、映画プロデューサー、ハーモニーゴールド USA会長(* 1930年) 4月25日 - ベラ・クレプキナ、ソビエト連邦出身のウクライナの元陸上競技選手、1960年ローマオリンピック女子走幅跳金メダリスト(* 1933年) 4月25日 - 、アメリカ合衆国の女性、エメット・ティル殺害事件の発端となった女性(* 1934年) 4月25日 - 、スイスの作家(* 1939年) 4月25日 - 、イギリスの実業家、元シティグループ会長・ロイズ・バンキング・グループ会長(* 1941年) 4月25日 - フランソワ・レオタール、フランスの政治家、元文化大臣・国務大臣・国防大臣(* 1942年) 4月25日 - 西田隆昭、日本の実業家、川商ハウス社長(* 1952年) 4月25日 - 野中友博、日本の劇作家、演出家(* 1962年) 4月26日 - 、リトアニア出身のドイツの元ザクセンハウゼン強制収容所看守、ナチス戦争犯罪裁判で起訴・有罪判決を受けた最高齢の人物(* 1920年) 4月26日 - 、中華人民共和国の元空軍軍人、パイロット、元空軍副司令官(* 1927年) 4月26日 - 勝匡昭、日本の実業家、元ユニチカ社長(* 1934年) 4月26日 - 勝部明生、日本の考古学者、元橿原考古学研究所副所長・附属博物館長(* 1934年) 4月26日 - 岩崎堅一、日本の建築家、東京都市大学名誉教授(* 1939年) 4月26日 - 、台湾の俳優(* 1944年) 4月26日 - 、イランのアーヤトッラー、専門家会議議員(* 1947年) 4月26日 - 福間健二、日本の映画監督、詩人(* 1949年) 4月26日 - 、シンガポールの麻薬密輸人(* 1977年) 4月26日(訃報発表日)- 中北晃二、日本のイラストレーター、メカニックデザイナー(* 生年非公表) 4月27日 - ディック・グロート、アメリカ合衆国の元MLB選手・バスケットボール選手、、全米カレッジバスケットボール殿堂(* 1930年) 4月27日 - (レイ・ウィリアムズ)、スペインの俳優(* 1941年) 4月27日 - 、フランスの法律家、元欧州人権裁判所長官(* 1941年) 4月27日 - 、イギリス出身のアメリカ合衆国の司会者、政治家、元シンシナティ市長、バラエティ番組「ジェリー・スプリンガー・ショー」司会者(* 1944年) 4月27日 - 野沢正光、日本の建築家(* 1944年) 4月27日 - (ジョン・モーゲン)、イタリアの俳優(* 1950年) 4月27日 - オレクサンドル・ミシチェンコ、ウクライナ出身の親ロシア派警察官、メリトポリ警察署長(* 生年不明) 4月28日 - 、インドの歴史家(* 1923年) 4月28日 - 、ドイツの映画監督、脚本家、俳優(* 1929年) 4月28日 - 、ブラジルの柔術家(* 1935年) 4月28日 - 北村太道、日本の仏教学者、種智院大学名誉教授(* 1937年) 4月28日 - 大石悦子、日本の俳人(* 1938年) 4月28日 - 、イギリスの元近代五種選手、1976年モントリオールオリンピック団体金メダリスト(* 1941年) 4月28日 - 、アメリカの医師(* 1941年) 4月28日 - 木下和、日本の洋画家(* 1942年) 4月28日 - 、アイルランドのギタリスト、メンバー(* 1951年) 4月28日 - 、カナダのギタリスト、元バックマン・ターナー・オーヴァードライヴメンバー(* 1951年) 4月28日 - 、ドイツのギタリスト、フェア・ウォーニングメンバー(* 1961年) 4月29日 - 宮坂増雄、日本の写真家(* 1935年) 4月29日 - 、アメリカ合衆国のジャズピアニスト、トロンボーン奏者、編曲家(* 1937年) 4月29日 - 、アメリカ合衆国の元MLB選手、野球解説者【セントルイス・カージナルスに所属】(* 1939年) 4月29日 - ユリ・コロレフ、ロシアの元体操選手、9度の世界体操競技選手権優勝者(* 1962年) 4月29日 - アブ・フセイン・フセイニ、出所不明のイスラーム過激派活動家、自称ISIL第4代カリフ(* 生年不明) 4月30日 - 津田耕治、日本の浪曲師、歌手(* 1934年) 4月30日 - 、ロシアのファッションデザイナー(* 1938年) 4月30日 - ラルフ・ボストン、アメリカ合衆国の元陸上競技選手、1960年ローマオリンピック走幅跳金メダリスト(* 1939年) 4月30日 - 石田博三、日本の元プロ野球選手【大阪タイガース・阪神タイガース所属】(* 1939年) 4月30日 - 森下源基、日本の実業家、ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ1969)元社長(* 1941年) 4月30日 - 松田博、日本の社会思想史学者、立命館大学名誉教授(* 1942年) 脚注 04 ふほう
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吉成 夏子(よしなり なつこ)は、日本の実業家。株式会社Vernalossom代表取締役社長。父はゲーム会社・株式会社サクセス社長の吉成隆杜。 人物 株式会社サクセス社長・吉成隆杜の長女。かつてはパチンコメーカー京楽産業.に籍を有していたが、2012年より京楽産業.の実質的子会社であるAKS(現・Vernalossom)に出向。2014年1月より代表取締役に就任し、窪田康志との共同代表制を敷いた。同年6月をもって窪田が代表取締役を退き、以後吉成が単独で代表取締役を務めている。AKSでは発行済株式の100%を保有している。2019年1月のNGT48を巡る一連の騒動の際にも代表取締役の座にあったが、対応に批判を集めた。 関連企業 株式会社リイカ(元代表取締役社長) 株式会社クロスゲート(元代表取締役社長) 脚注 出典 外部リンク AKS社長·吉成夏子氏単独インタビュー:上海ChinaJoy 関連項目 AKB48 松村匠 今村悦朗 日本の女性実業家 AKB48 存命人物
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戸川町(とがわまち)は岡山県津山市にある地名。郵便番号は708-0037。 地理 奴通り(岡山県道68号津山加茂線上)の東に位置する。北は本町二丁目、本町三丁目、元魚町、西は福渡町、南新座、南は南新座、新職人町、桶屋町、東は新魚町、新職人町に接する。 歴史 古くは富川村、富川宿とも称した。 沿革 1889年6月1日 - 町村制施行により、津山城下町の戸川町他、宮川以西の町が合併して西北条郡津山町となる。 1900年4月1日 - 津山町が東南条郡津山東町を編入するとともに、西北条郡が西西条郡、東南条郡、東北条郡と合併し、苫田郡津山町となる。 1923年4月1日 - 苫田郡林田村が町制・改称、津山東町となる。 1929年2月11日 - 津山町が周辺の町村と合併し、市制施行し、津山市となる。 地名の由来 中世に戸川(富川)の宿があったと伝えられる歴史を尊重し、その中心にこの名前がつけられた。 世帯数と人口 2021年(令和3年)1月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである。 小・中学校の学区 市立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる。 交通 岡山県道68号津山加茂線 施設 吉田楽器 妙願寺 長泉寺 脚注 参考文献 和泉橋警察署 『新旧対照市町村一覧』第2冊(東京:加藤孫次郎, 1889(明22)) 地名編纂委員会 『角川日本地名大辞典33 岡山県』(角川学芸出版, 1989, ISBN 4040013301) 津山市の町・字
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1988年度新人選手選択会議(1988ねんどしんじんせんしゅせんたくかいぎ)は1988年11月24日にホテルグランドパレスで行われた第24回のプロ野球ドラフト会議である。 概要 昭和最後のドラフト会議。 71選手の交渉権が確定した。 抽選に外れた球団は奇数指名順位はウエーバー方式、偶数指名順位は折り返しウエーバー方式で希望選手を指名。 ウエーバー順位は阪神 - ロッテ - ヤクルト - ダイエー - 大洋 - オリックス - 広島 - 日本ハム - 巨人 - 近鉄 - 中日 - 西武。 ロッテ5位の西山だけが指名を拒否してNTT四国に進んだ。 ダイエーは1位、2位、3位、6位の抽選に全て失敗した。 この年のドラフトは2巡目指名の岡幸俊が最多競合となった。 選択希望選手一覧 太字は、交渉権確定。色付きは指名重複。 背景色が暗い選手は入団拒否。 矢印の向きはウェーバー・逆ウェーバー制の指名順。 指名リスト パシフィック・リーグ 西武ライオンズ 近鉄バファローズ 日本ハムファイターズ オリックス・ブレーブス 福岡ダイエーホークス ロッテオリオンズ セントラル・リーグ 中日ドラゴンズ 読売ジャイアンツ 広島東洋カープ 横浜大洋ホエールズ ヤクルトスワローズ 阪神タイガース 脚注 1988 1988年の日本プロ野球 千代田区のスポーツ史 1988年11月
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ウルトラトレイル・デュ・モンブラン(=リュルトラ・トラーユ・デュ・モン・ブラン)はUTMBと略称され、フランスの東南部にあるシャモニー=モン=ブランで毎年8月末に開催される、ヨーロッパアルプスの最高峰モンブランを取り巻くフランス、スイス、イタリアにまたがる山岳地帯を走るトレイルランニングの大会である。 この大会は2003年に始まり、その後に4つのレースが追加され、2009年にNHKが取材・テレビ放映してから日本でも広く知られるようになった。姉妹レースとして、富士山にてウルトラトレイル・マウントフジが2012年から開催されている。 レース 現在、5つの主なレースがある。 UTMB (Ultra-Trail du Mont-Blanc) 169.4km 累積標高差9,889m 制限時間46時間30分 CCC (Courmayour-Chanpex-Chamonix) 101.1km 累積標高差6,092m 制限時間26時間30分 TDS (Sur Les Traces des Ducs de Savoie) 119.1km 累積標高差7,338m 制限時間33時間 OCC (Orsières - Champex - Chamonix) 52.4km 累積標高差3,322m 制限時間14時間 PTL (La Petite Trotte à Léon) 307.9km 累積標高差26,471m 制限時間142時間 そのほか、16歳-22歳が参加できる#YCCや3歳-13歳が参加できるMini Ultra-Trailがある。 日本人の戦績 日本人の上位の戦績としては鏑木毅の3位、横山峰弘の6位、山本健一の8位(いずれも2009年)。 出典 関連項目 ウルトラトレイル・マウントフジ トレイルランニング ウルトラマラソン アドベンチャーレース トレッキング 外部リンク (フランス語・英語・イタリア語・ドイツ語・スペイン語) トレイルランニング大会 オート=サヴォワ県のスポーツ競技大会 ヨーロッパの陸上競技 2003年開始のスポーツイベント
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近藤 正昭(こんどう まさあき、1941年4月16日 - 2020年6月6日)は、日本の弁護士。NHK総合の法律をテーマにしたバラエティ番組『バラエティー生活笑百科』に1985年4月の放送開始から2010年(平成22年)11月まで出演し、視聴者に親しまれた。 経歴 1960年(昭和35年) - 岡山県立岡山操山高等学校卒業。 1965年(昭和40年)3月 - 京都大学法学部卒業 1966年(昭和41年)9月 - 司法試験合格 1969年(昭和44年)4月 - 岡山地方裁判所裁判官 1971年(昭和46年)4月 - 大阪地方裁判所堺支部裁判官 1973年(昭和48年)4月 - 依願退官・大阪弁護士会入会。近畿合同法律事務所に入所。 2020年(令和2年)6月 - 死去 役職 ダイキ株式会社社外監査役 DCMホールディングス株式会社社外監査役 津山圏域クリーンセンター技術審査委員会審査委員 宇治市個人情報保護審議会委員 講演 1998年(平成10年)11月 - 四国大学第38回芳藍祭(演題:「法律おもしろ百科」) 1999年(平成11年)10月2日 - 大阪経済法科大学フェア KEIHO IN 名古屋(演題:「おもしろ法律百科」) 2007年(平成19年) 8月24日 - PETサマーセミナー2007 in 琵琶湖(演題:「おもしろ法律百科」) 10月10日 - 「蒼穹私塾」第7回勉強会(演題「法律おもしろ百科」) 脚注 外部リンク 近藤正昭 - 近畿合同法律事務所 日本の弁護士 日本の裁判官 人 京都大学出身の人物 岡山県立岡山操山高等学校出身の人物 1941年生 2020年没
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竹村健一 パイプ片手に(たけむら・けんいち パイプかたてに)は、1993年4月-1997年3月にTBSラジオ・ABCラジオで放送されたトーク番組である。オリコカード協賛。 概要 評論家の竹村健一が最近の世相・社会情勢についてワンマンで熱弁する番組だった。アシスタントは高橋進。 竹村にとって、TBSラジオでは「ミッドナイトプレスクラブ」(1974年-1980年)以来のレギュラー番組であった。 出典 ラジオ東京スピリッツ~TBSラジオ開局60周年~ - 過去の番組表 竹村健一 1993年のラジオ番組 (日本) TBSラジオの番組の歴史 TBSラジオのトーク番組 TBSラジオのニュース・報道番組 TBSラジオの情報・ワイドショー番組 朝日放送ラジオ番組の歴史
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メンタルマップ()とは、認知心理学において記憶の中に構成される「あるべき姿」のイメージをさす言葉である。地理学では、「心の中の地図」を描いたものを指し、「イメージマップ」や「認知地図」とも呼ばれる。 教育における用法 地理教育では心の中の地図のことを指し、重要な概念とされている。 メンタルマップを調べるには、自由に思い浮かんだ地図を描かせる法や、課題に沿って順序を追って描画させる方法があげられる。前者では印象深かった建物などが描画されるが全体的にはあいまいなものになる傾向がある。後者ではより細かい描画も可能となるが、出題者の課題によってはメンタルマップを改変させてしまう危険性もはらんでいる。 地理学における用法 地理学、特に行動地理学おいてメンタルマップは地理空間上での書き手の空間的知識の広がりを理解するために用いられる。一般的に、都市内を描いた手書き地図には、都心から居住地に向かって広がる扇形の範囲内が描かれる傾向にある。 ピーター・グールド (地理学者)の著書、「メンタルマップについて」が嚆矢であり、メンタルマップの構造・機能的役割について分析している。メンタルマップは主観的に描かれるため、書き手の外部世界への認識を表している。従来は客観的な地図ではないため「ゆがんだ地図」として捉えられていたが、メンタルマップの特徴からその町に暮らす人々の様々な要素に対する知覚・認識(交通手段や買い物の選択といった行動のベース)にアプローチすることができる。 メンタルマップの破壊 元来、メンタルマップは自分の経験や知識・感覚を元に構成されたイメージであり、人はそれを元に行動をとる。しかし、実際の環境がメンタルマップと大きく異なった場合、躊躇したり、パニックに陥る場合がある。これを「メンタルマップの破壊」という。 コンピュータ上のグラフィカルユーザインタフェースにおいて、画面遷移の際にパーツの配置を大きく変更することはメンタルマップの破壊につながるため禁忌とされている。ただし、フェイルセーフのひとつの方法としてメンタルマップの破壊を利用した配置を用いる場合がある。 脚注 出典 参考文献 中村豊(2004)『メンタルマップの現象学』古今書院 富田和暁・藤井正(2001)『図説 大都市圏』古今書院 関連項目 ワーキングメモリ 行動地理学 レジナルド・ゴリッジ 地図 ユーザインタフェース 認知科学 記憶
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四輪車(よんりんしゃ) 動力を持ったものについては自動車を参照。 人力で動くものについては四輪自転車を参照。 鉄道車両の四輪単車については二軸車 (鉄道)を参照。
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宜興州(ぎこうしゅう)は、中国にかつて存在した州。現在の河北省承徳市灤平県北東部に設置された。 1203年(泰和3年)、金代により設置された宜興県を前身とする。1328年(致和元年)、元代により宜興県は宜興州に昇格した。1370年(洪武3年)、明代により廃止された。 かつて存在した中国の州 河北省の歴史
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ランジオロール(英:Landiolol)は、超短時間作用型の静注用のβ1超選択的アドレナリン拮抗薬である。 解説 血圧や心筋収縮力への陰性の影響が少なく、効果的に心拍数を減少させる 。 他のβ遮断薬と比較して、ランジオロールは、消失半減期が最も短く (3 ~ 4 分)、効果発現が非常に速く (投与終了直後に心拍数が低下し始める)、不活性代謝物(心拍数) で予測可能な有効性を示す。ランジオロール塩酸塩投与終了後 30 分で投与前値に戻る)。 ランジオロールの純粋な S-エナンチオマー構造は、他の β遮断薬と比較して、降圧の副作用が少ないと考えられている。これは、動脈血圧を低下させずに心拍数を低下させたい場合に、患者の治療に好ましい影響を与える。 ランジオロールは、エスモロールの化学構造を変更して、作用の持続時間を増加させることなく、より高い心選択性とより強力な効力を持つ化合物を生成することによって開発され、ランジオロール塩酸塩として販売されている。その良好なベネフィットリスクプロファイルに基づいて、ランジオロールは販売承認を取得し、2016 年半ばにRapibloc 、 Raploc 、 Runrapiq 、 Landiblocという商品名で欧州市場に導入された (300mgバイアルと20mgアンプルの2つの製剤で)。ランジオロールは、日本ではオノアクト(50mgと150mg) およびコアベータ (この12.5mg製剤は冠動脈 CT 血管造影における画質の改善を目的としている)が利用可能である。 作用機序 この薬は、超短時間作用型β1選択的遮断薬として作用する。肝臓のカルボキシルエステラーゼと血漿の偽コリンエステラーゼの両方によって急速に加水分解され、約4分の消失半減期を示す。 ランジオロールは、カテコールアミンであるアドレナリンとノルアドレナリンの心臓(β1受容体が主に位置する部位)に対する正の変時効果を阻害する、高度に選択的なβ1アドレナリン受容体拮抗薬 (β1 受容体遮断の選択性は、β2 受容体遮断の 255倍)である。ランジオロールは、他のβ遮断薬と同様に、交感神経興奮を低下させ、心拍数の低下、異所性ペースメーカーの自発的発火の減少、伝導の遅延、房室結節の不応期の延長をもたらすと考えられている。ランジオロールは、in vitro で膜安定化活性や固有の交感神経刺激活性は示さない。前臨床試験および臨床試験では、ランジオロールは超短時間作用で頻脈を制御し、作用の開始と消失が速く、さらに抗虚血効果と心臓保護効果を示した。 今日まで、ランジオロールは、臨床で使用されている β 遮断薬の中で、血漿半減期が最も短く、心臓選択性が最も高くなっている。 β1受容体遮断に対するランジオロールの選択性は、β2受容体遮断の255倍である。それに比べて、メトプロロールは心臓選択性がはるかに低く (ランジオロールはメトプロロールよりも100 倍 、エスモロールよりも 8 倍心臓選択的 )、半減期が60倍長い (ランジオロールの3-4分に比べて 3 ~ 4 時間)。 遺伝子変異がメトプロロールの不活性代謝物への変換を減少させ、メトプロロールの血漿濃度がほぼ 5 倍高くなるため、 CYP2D6代謝不良者は、メトプロロールの血中濃度が上昇するため、メトプロロールに対する心臓選択性が低下するとFDAは指摘している。 β2 アドレナリン受容体の活性化は、気管支の拡張と肺気道系の肺胞液クリアランスを促進する。その結果、β2受容体への影響が限定された心臓選択的β1遮断薬は、 COPDまたは喘息患者の肺に悪影響を与えることなく心拍数を低下させる。 β2受容体の薬理学的刺激は、健康なヒトおよび軽度のアテローム性動脈硬化症の冠動脈患者の冠血流を増加させる。このように、心臓選択的β1遮断薬は運動中の心筋酸素要求量を減少させるだけでなく、心拍数を選択的に低下させながら、β2受容体を介した冠動脈運動充血を顕在化させるのである。興味深いことに、ランジオロールはナトリウムとカルシウムの拮抗作用を持たないため、心拍数を低下させる作用が高い一方で、陰性強心作用が弱く、心不全患者にとってより適した心臓選択的β遮断薬である。ランジオロールとは対照的に、エスモロールなどの他のβ遮断薬への曝露は、長期のエスモロール注入中に見られる薬物耐性効果の原因となる、β受容体の再発現を増幅する。薬理学的シャペロンとして作用するβ遮断薬への細胞の長期暴露は、β1-アドレナリン受容体の総表面レベルを上昇させ、治療が突然中止されると、カテコールアミンなどの内因性アゴニストに対する反応が増強される。この現象は、β遮断薬離脱リバウンドと呼ばれる。しかし、ランジオロールは極性表面積が大きいため、細胞膜をほとんど透過せず、薬理学的シャペロン作用に乏しい。 生体内変化 ランジオロールは、エステル部分の加水分解によって代謝される。in vitroおよびin vivoのデータは、ランジオロールが主に偽コリンエステラーゼおよびカルボキシルエステラーゼによって血漿中で代謝されることを示唆している。加水分解によりケタール (アルコール分子) が生成され、さらに切断されてグリセロールとアセトンに分解され、カルボン酸成分 (代謝物 M1) となり、続いてβ酸化されて代謝物 M2 (置換安息香酸) が生成される。ランジオロール代謝物 M1 および M2 のβ 1 アドレナリン受容体遮断活性は、親化合物の 1/200 以下であり、ランジオロールの最大推奨用量と注入期間を考慮した場合、薬力学的影響は無視できることを示している。ランジオロールも代謝物 M1 と M2 も、異なるシトクロム P450 分子種 (CYP1A2、2C9、2C19、2D6 および 3A4) の代謝活性に対する阻害効果を in vitro で示さなかった。また、ラットにおいてランジオロールを反復静脈内投与した場合、チトクロームP450含量に影響を及ぼさなかった。 CYP P450誘導または時間依存性阻害に対するランジオロールまたはその代謝物の潜在的効果に関するデータはない。 用途 ランジオロールは、ヨーロッパで抗不整脈薬の適応がある。 上室性頻脈、および心房細動または心房粗動を有する患者の周術期、術後、または短時間作用型薬剤による心室レートの短期制御が望ましいその他の状況における心室レートの迅速な制御。 非代償性洞性頻脈で、医師の判断で心拍数が速くなり、特定の介入が必要となる場合。 さらに、ランジオロールは日本で心室細動または心室頻拍の治療薬として承認されている。 ランジオロールは、心房細動患者の急性心室レート制御の第一選択治療として使用できる (レベル I 推奨 - 欧州心臓病学会の 2020 年ガイドライン )。 ランジオロールの有益な効果は、60 以上の臨床試験で実証されている (Pubmed検索 - 2018 年 8 月)。ランジオロールは一般的に忍容性が高く、低血圧と徐脈のリスクは比較的低かった.ランジオロールを使用したほとんどの臨床試験は、心臓および心臓以外の手術の前後に、上室性頻脈または頻脈性不整脈の治療または予防のために周術期に実施されている。心不全のを有する患者もしくは有さない患者を対象とした、ランジオロールをプラセボ< ジルチアゼムおよびアミオダロンと比較する無作為化臨床試験が発表されている。心筋梗塞後や不応性致死的不整脈に対する使用の症例報告が公開されています。ランジオロールの代謝は速く、投与期間が限定されるため、ほとんどの有害事象は軽減される。ランジオロールは、敗血症によるVEGFシグナル伝達系の発現低下を阻害し、炎症性サイトカインとは無関係に冠微小循環を正常化することにより、敗血症ラットの心臓保護に寄与する可能性が示唆された。 敗血症性ショックに対するランジオロールの有効性と安全性が多施設共同前向き無作為化比較試験で検討され、その結果が2020年に有名誌Lancet Respiratoryに掲載され、敗血症患者におけるランジオロールの臨床効果が、新規発症不整脈を大幅に減少させ患者を目標心拍数範囲内にとどめることを実証した。さらに、ランジオロールは、人工呼吸不要日数、ICU不要日数、入院不要日数に関しても、臨床的に好ましい影響を与えることが示された。また、対照群では28日目までの死亡率が20%であったのに対し、ランジオロール群では28日目までの生存率が88%であった。頻脈や心房細動は敗血症の重要な予後因子であるため、これらは敗血症患者の標準治療にランジオロールを含めることができる非常に重要な知見である。さらに、集中治療室(ICU)入室時に100回/分(bpm)を超える頻脈は、予後を悪化させる危険因子とされている。 Journal of Cardiology に掲載された論文では、慢性心不全における心房細動・心房粗動の治療薬としてランジオロールの安全性と有効性が前向き臨床試験(全国209医療機関、1,000名以上)により示された。本調査は、心拍数の静脈内投与によるコントロールを必要とする慢性心不全患者を対象とした過去最大規模の試験であるが、重篤な血圧低下の報告は1%未満であり、ランジオロールの心臓選択性が強調され、血圧への作用は限定的であった。注目すべきは、70%以上の患者がNYHA IIIまたはIVクラスであり(35%がNYHA IV)、50%近くが左心駆出率40%未満であったことである。Landiolol投与後、最初に洞調律に戻るまでの時間の中央値は14時間で、最高注入速度の中央値は3μg/kg/minであった。 Landiololは、非心臓手術における術後心房細動の管理に有望な薬剤であり、血圧への影響を最小限に抑えながら心拍数を制御できる特性を有している。ランジオロールは、陰性強心作用が限定的であり、呼吸器系への耐性も良好である。炎症反応の調節とアドレナリン経路の鈍化に関連する付加的な利点が、おそらく心房細動の発生率の減少に寄与していると思われる。低用量(5-10μg/kg/min)の使用は、通常、心拍数を迅速に制御するのに十分であり、対照群に比べ洞調律への変換が早く、高い割合で行われることに関連している。 ランジオロールは低用量(3〜5μg/kg/min)で優れた耐容性を示すため、手術中および術後に予防的に使用することが可能である。ランジオロールの予防投与は、β遮断薬に関連する有害事象を誘発することなく、術後の心房細動の発生を減少させる。術中に限定した投与では十分な効果が得られないが、術後もランジオロールを継続投与する最適な投与方法を選択すれば、より良い効果が得られると思われる。 左心室機能障害のある患者 (左室駆出率 <40%、心係数 <2.5 L/min/m2、NYHA 3-4)、例えば心臓手術後、虚血中または敗血症状態では、1 µg/kg/minから低用量を開始し、綿密な血圧監視下で段階的に10μg/kg/minまで増やして心拍数を制御することが可能であった。 持続静注の換算表:μg/kg/min から ml/hr へ(オノアクト点滴静注用150の場合は下の例)150mg/50ml = 3mg/ml): ml/h での毎時注入速度の計算式 = (kg での体重 x μg/kg/min での投与量) / 50 (上表に基づく) 脚注 外部リンク 尿素 モルホリン ジオキソラン カルボン酸エステル フェノールエーテル アドレナリンβ受容体拮抗薬 抗不整脈薬 未査読の翻訳があるページ
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パームデールの戦い()は、1956年にアメリカ合衆国で発生した無人航空機の暴走、およびその後の撃墜の試みに関する一連の出来事である。 1956年8月、暴走した無人機を撃墜するため、アメリカ空軍所属の邀撃機がカリフォルニア州南部の上空に展開した。無人機はミサイル試験の標的機として使うためにから無線操縦により離陸したが、直後に操縦に反応しなくなり、無制御のまま飛行し続けた。を出撃した邀撃機は、すぐに無人機を捕捉し、搭載したロケット弾を全弾使用したが、これの撃墜に失敗した。無人機は燃料が切れた後、人口の少ない砂漠地帯に墜落した。 無人機に向けて発射されたロケット弾は流れ弾となって地上に落下し、面積にして1,000エーカー以上が炎上し、多くの地所/建造物が損害を受けるか破壊された。 背景 1950年代中頃、アメリカ海軍は艦船および施設の防衛のため、地対空/空対空ミサイルの開発を行っていた。当時試験されていたミサイルとしては、AIM-7スパローやなどがある。ミサイルの能力を確認する際には無人標的機が使用された。グラマンF6F-5K"ヘルキャット"は、こうした用途に使われていた無人機のひとつだった。 同時期、空軍においてはソビエト連邦の戦略爆撃機(Tu-16や新型のM-4など)からいかにして国土を防衛するべきかが議論されていた。1956年の時点で、空軍が第一線に配備した最新鋭の邀撃機は、重武装のノースロップF-89Dスコーピオン戦闘機であった。空軍では30個の現役部隊、空軍州兵では7個の邀撃機飛行隊にて運用されており、アラスカからニューヨークまでの各地域にF-89Dが配備されていた。 事件 1956年8月16日朝、ポイント・マグー海軍航空基地にて、視認性の高い赤色に塗装されたF6F-5K無人機が、海軍による最後の任務のために準備されていた。11時34分、無人機は離陸し、無線操縦によって太平洋上のミサイル試験空域に向かった。しかし、その後しばらくして無人機は操縦を受け付けなくなり、暴走状態に陥ったと判断された。 操縦手らは無人機が上昇しつつ緩やかに左へと曲がり、ロサンゼルス市のある南東へと向かうのを目撃していた。海軍には無人機の追跡に適した航空機がなかったため、北のオックスナード空軍基地に連絡した。直ちに所属のF-89D戦闘機2機が出撃した。1機目には飛行士ハンス・アインシュタイン(Hans Einstein)およびレーダー手C・D・マレー(C. D. Murray)の両中尉、2機目には飛行士リチャード・ハリマン(Richard Hurliman)とレーダー手ウォルター・ヘール(Walter Hale)の両中尉がそれぞれ搭乗していた。両機はアフターバーナーを全開にして北へと飛行し、無人機をロサンゼルス北西上空で捕捉した。無人機は南西へと進路を変え、ロサンゼルス通過後、再び北西へと進路を変えた。無人機が上空でゆっくりと旋回し始めると、F-89D戦闘機のパイロットらはMk4 "マイティ・マウス"2.75インチロケット弾での攻撃を行うべく、無人機が人口の少ない地域まで移動するのを待った。 戦闘機乗員らは攻撃手段についての議論を交わした。彼らのF-89Dには新型のヒューズ製E-6火器管制システム、AN/APG-40レーダー、攻撃計画コンピュータが搭載されており、無誘導ロケット弾を自動モードで発射するにあたって2つの選択肢があった。すなわち、対象の後方に付き追尾する形で発射するか、対象の進路に対し直角に侵入し真横から発射するかである。議論の末、無人機は旋回し続けていたため、後者が適していると判断された。北西へと旋回してからまもなくして、無人機はおよび上空を通過し、ほぼ無人のアンテロープ・バレー西部上空に侵入した。F-89D戦闘機は自動モードでの射撃を複数回試みたものの、火器管制システム設計上の不備のため、ロケット弾の発射には失敗した。 直後、無人機は再び進路を変え、ロサンゼルスへと引き返し始めた。アインシュタインとハリマンは故障した自動モードでの射撃を断念し、手動モードへの切り替えを余儀なくされた。元々、F-89D戦闘機は照準器を装備していたが、彼らの乗機からはE-6火器管制システムを搭載するにあたって取り外されていた。レーダー誘導システムが故障した状況下にあって、彼らは照準器を使うこともできないまま、無誘導のロケット弾の射撃を行わねばならなかった。F-89D戦闘機は104発のロケットを1度に発射することが可能で、全弾発射に要する時間はわずか0.4秒であった。また、2つの異なるパターンでリップル射撃を行うこともできた。2リップル(62発/42発)または3リップル(42発/32発/30発)である。1発でも命中すれば対象を撃墜することが可能と考えられた。マレーとヘールはインターバロメータを調整し、射撃パターンを3リップルに設定した。 無人機が上空を飛行している最中、最初の戦闘機が42発のロケットを発射したが、命中弾はなかった。2機目も続いて攻撃位置について42発を発射した。この時には数発が無人機の下部をかすったものの、爆発は起きなかった。付近で2機の戦闘機は再度攻撃を試み、合計64発のロケット弾が発射されたものの、命中弾はなかった。2機の乗員はインターバロメータを再調整し、無人機が北東に進路を変え、パームデールの街へと向かおうとしたところで最後の攻撃を行った。しかし、合計60発のロケット弾は1発も命中しなかった。この事件で空軍は合計208発のロケットを発射したものの、F6F-5K無人機を撃墜することができなかった。 戦闘機が燃料不足で帰投した頃、パームデールへと向かっていた無人機もまた燃料が切れ、エンジンが止まりかけていた。無人機はゆっくりと円を描きながら高度を下げ、から東に離れた砂漠地帯に墜落した。この際、P通り(Avenue P)の未舗装区間に設置されていた社の送電線を切断している。無人機の右翼は砂にめり込み、横転の後に大破した。1997年7月、考古学者らの調査中に残骸の一部が発見され、部品番号と検品スタンプから、この事件で墜落した無人機のものと確認された。 無人機が暴走した原因は、地上の送信機、もしくは航空機側の受信機の誤作動が原因だと考えられている。 その後 この事件は地上に被害をもたらした。無人機の撃墜に用いられたMk4ロケット弾にはPD弾頭(point-detonating warhead)が取り付けられていた。208発発射されたロケット弾のうち、起爆せず発見されたのは15発のみだった。 最初に発射されたロケット弾はキャスティークから北東に位置する雑木林で火災を引き起こし、からほど近い旧を含むが焼失した。 2回目の攻撃で発射されたロケット弾のいくつかは、ニューホールの街の近くに着弾した。プラセリタ・キャニオン(Placerita Canyon)では、1発のロケット弾が地面を跳ね回り、公園近くの複数箇所で火災を引き起こした。他の複数のロケット弾はインディアン・オイル社(Indian Oil Co.)の原油貯蔵所に火災を引き起こした。火災はバーマイト・パウダー社(Bermite Powder)の爆発物工場からの地点まで及んでいた。そのほか、グレアソン山(Mount Gleason)近くの付近でもロケットによる火災が起き、以上の雑木林が焼失した。 最後の攻撃はパームデールの方向に向かって行われたので、多くのロケットが市街地に到達した。「無人機がパームデールのダウンタウンを通り過ぎると、マイティマウスが雹のように降り注いだ」(As the drone passed over Palmdale's downtown, Mighty Mouse rockets fell like hail.)、「東3番街に住むエドナ・カールソンによれば、空軍のロケットが炸裂した際の破片が家の正面の窓を割って飛び込み、天井で跳ね返り、壁を突き抜け、最後は台所の食器棚に飛び込んだ」(Edna Carlson, who lived in the home on Third Street East, said that a chunk of shrapnel from one Air Force rocket burst through the front window of her home, ricocheted off the ceiling, went through a wall and came to rest in a kitchen cupboard.)などと報じられた。東4番街(4th Street East)ではロケット弾の破片が多くの家やガレージを貫通していた。1発は西10番街(10th Street West)に近いを走行中の自動車の目前に着弾し、破片がタイヤを切り裂いた上、車体を穴だらけにしていた。プラセリタ・キャニオンでは、作業用トラックの車内で食事を摂っていた2人の男が、木陰で休もうと離れた直後にロケット弾が着弾し、トラックを完全に破壊した。サンタクラリタ近くでは多数の火災が発生した。パームデール周辺では大規模な火災が3箇所あったほか、小規模な火災も無数に起きていた。 対応のために500人の消防士が投入され、状況が安定するまでに2日間を要した。が焼失した。死者はいなかった。 脚注 関連項目 コーンフィールド・ボンバー 1956年のアメリカ合衆国 1956年の航空事故 カリフォルニア州の歴史 軍用機による航空事故 アメリカ合衆国の空軍史 アメリカ合衆国の災害 (1945年-1989年) アメリカ合衆国で発生した航空事故 1956年8月
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小松 伸六(こまつ しんろく、1914年9月28日 - 2006年4月20日)は、日本のドイツ文学者、文芸評論家。筆名・内海伸平。 経歴 北海道釧路生まれ。東京帝国大学卒。第四高等学校(金沢)教授を務めた。ゲーテ論、トーマス・マンの翻訳などを行うかたわら、1941年、第五次『赤門文学』を主宰。戦後は立教大学教授。久保田正文、林富士馬、駒田信二らと『文學界』の同人雑誌評を担当、原田康子らを発掘した功績で1979年、菊池寛賞受賞、81年、『美を見し人は』で芸術選奨文部大臣賞受賞。 日本現代紙碑文学館 岐阜県海津市の海津市海津図書館の文学同人誌を収集する施設「日本現代紙碑文学館」は、小松伸六の1万5千冊の寄贈が基礎となり、1976年(昭和51年)4月に設立されている。 著書 『美を見し人は 自殺作家の系譜』講談社, 1981 『ミュンヘン物語』文藝春秋, 1984 『愛と美の墓標』講談社, 1988 参考 デジタル版日本人名大辞典 『日本近代文学大辞典』講談社、1984年 日本の文学研究者 ドイツ文学者 日本の文芸評論家 日本の翻訳家 立教大学の教員 金沢大学の教員 東京大学出身の人物 北海道出身の人物 1914年生 2006年没
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山岡 洋之(やまおか ひろゆき、1975年4月23日 - )は、兵庫県伊丹市出身の元プロ野球選手(投手)。 来歴・人物 伊丹北高では3年夏の全国高等学校野球選手権兵庫大会で27回連続無失点を記録。その後進学した東北福祉大学では2年先輩に門倉健、1年上には山田貴志らがおり、上級生になって台頭すると仙台六大学リーグで4年春は3勝、秋に4勝してリーグ最優秀選手を受賞するなど通算10勝0敗の成績を残した。4年時は同期の鈴木郁洋とバッテリーを組んで春秋ベストナイン。のドラフト会議で阪神タイガースから5位指名を受け入団。 スライダーとシュートとサークルチェンジを武器に、1年目のは21試合に登板した。肩ができるのが早いため急なリリーフ登板が多かった。その後はを最後に一軍公式戦での登板がなく、オフに戦力外通告を受け、他球団の入団テストを受けたが合格せず現役引退。 引退後、オリックスの打撃投手に転身した。 9月15日、ほっともっとフィールド神戸での対東北楽天ゴールデンイーグルス13回戦において、前日に育成契約から支配下選手登録されたばかりの大下誠一郎のユニフォームが間に合わなかったため、大下は山岡のユニフォームを借りて出場しプロ初打席本塁打を放った。 詳細情報 年度別投手成績 記録 初登板:1998年4月3日、対横浜ベイスターズ1回戦(横浜スタジアム)、8回裏に4番手で救援登板・完了、1回無失点 初奪三振:同上、8回裏に井上純から 初先発登板:1998年5月4日、対広島東洋カープ5回戦(広島市民球場)、4回1/3を3失点で勝敗つかず 背番号 57 (1998年 - 1999年) 54 (2000年 - 2002年) 102 (2003年 - ) 脚注 関連項目 兵庫県出身の人物一覧 東北福祉大学の人物一覧 阪神タイガースの選手一覧 外部リンク 日本の野球選手 兵庫県立伊丹北高等学校出身の人物 東北福祉大学硬式野球部の選手 阪神タイガース及びその前身球団の選手 日本の打撃投手 オリックス・バファローズ関連人物 兵庫県出身の人物 1975年生 存命人物
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スティーブン・エドワード・デラバー(Steven Edward Delabar , 1983年7月17日 - )は、アメリカ合衆国ケンタッキー州出身の元プロ野球選手(投手)。右投右打。 経歴 プロ入り前 のMLBドラフト43巡目(全体1283位)でアナハイム・エンゼルスから指名を受けるも、この時は入団しなかった。 プロ入りとパドレス傘下時代 のMLBドラフト29巡目(全体851位)でサンディエゴ・パドレスから指名を受け、プロ入り。 当初は先発だったが、にA+級に昇格したのを機にリリーフに転向。A級に降格され、5月23日に解雇された。 独立リーグ時代 6月7日、独立リーグであるフロンティアリーグのフローレンス・フリーダムに入団した。リリーフとして4試合に連投し、6月11日に退団した。 直後の6月20日、独立リーグであるカナディアン・アメリカン・リーグのブロックトン・ロックスに移籍。ここでは先発として起用され、11試合に先発して3勝3敗・防御率3.01の成績を記録。シーズン終了までプレーした。 も引き続きロックスでプレー。リリーフに転向したが、右肘を骨折して退団した。 独立リーグ退団後 は野球から離れ、妻の勤務先であるケンタッキー州のエリザベスタウンで右肘のリハビリをしながらクラブ活動担当の非常勤講師として働いた。 非常勤講師時代、速球の速度が戻っていることに気付いて野球を再開することとなった。 マリナーズ時代 4月30日、シアトル・マリナーズと契約を結んだ。同年9月11日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦でメジャーデビューを果たした。さらに、9月14日のニューヨーク・ヤンキース戦では延長12回を無失点に抑え、その後チームがサヨナラ勝ちしたためメジャー初勝利を手にした。 3月22日にアスレチックスと東京で開催されたMLB日本開幕戦の遠征メンバー30人に登録された。3月26日に28人の開幕ロースターに登録された。 ブルージェイズ時代 2012年7月30日にエリック・テイムズとのトレードで、トロント・ブルージェイズに移籍した。 移籍後の8月13日のシカゴ・ホワイトソックス戦に10回から登板し「1イニング4奪三振」を記録。なお、延長戦でのこの記録はMLB史上初の記録となった。 は開幕から安定した投球を続け、前半戦は38試合に登板し5勝1敗・防御率1.71を記録し、奪三振58はアメリカンリーグの救援投手の中でトップだった。この成績が認められ、オールスターの「最後の一人」のとして選出される。オールスターでは1/3回を投げ、サンフランシスコ・ジャイアンツのバスター・ポージーから三振を奪った。7月30日のオークランド・アスレチックス戦では、対戦した3人の打者から全て三球三振を奪い、MLB史上48人目、球団史上初の三者連続三球三振を達成。なお、「1イニング4奪三振」と「イマキュレイト・イニング」の両方を達成したのは、デラバー含め4人しかいない(他はボブ・ギブソン、A.J.バーネット、フェリックス・ヘルナンデスの3人)。8月4日、右肩の炎症により15日間の故障者リストに入り、9月1日に外れた。後半戦の成績は、17試合の登板で防御率7.02であった。 6月17日、川﨑宗則のメジャー昇格に伴い、マイナーオプションによってAAA級バッファローに降格された。しかし、ブレット・セシルの故障者リスト入りによって6月19日にメジャーに再昇格した。6月24日に再びマイナーオプションによってAAA級バッファローに降格された。以降はメジャー昇格せず、セプテンバー・コールアップの拡張選手名簿からも外された。この年は前半戦だけの出番に終わり、中継ぎで30試合に登板して防御率4.91だった。 は、31試合に登板し、防御率5.22を記録。 1月15日にブルージェイズと1年契約を結んだが、3月29日に自由契約となった。 レッズ時代 2016年4月2日にシンシナティ・レッズとマイナー契約を結び、傘下のAAA級ルイビル・バッツへ配属された。5月7日にメジャー契約を結んで25人枠入りした。7試合に登板し8回、失点・自責点6、防御率6.75を記録。5月22日にDFA、5月24日にAAA級ルイビルに降格となった。 広島時代 2016年6月25日に広島東洋カープとの契約が合意に達したことが発表された。12月2日に自由契約公示された。 インディアンス傘下時代 1月13日にクリーブランド・インディアンスとマイナー契約を結び、同年のスプリングトレーニングに招待選手として参加することになった。 シーズン開幕後の4月24日、筋力増強剤の一種であるオスタリンの陽性反応があったとして80試合の出場停止処分(薬物規定違反)となった。なお、インディアンス傘下では登板機会がないまま7月5日に自由契約となった。 レンジャーズ傘下時代 1月4日にテキサス・レンジャーズとマイナー契約を結び、スプリングトレーニングに招待選手として参加することになった。 4月20日に自由契約となった。 2019年2月4日にカナダのラジオ番組「Outta the Park」の番組内で現役を引退する意向を示した。現在は地元で高校生に野球指導をしている。 投球スタイル 2013年までは平均球速93.9mph(約151.1km/h)のフォーシームとスプリッター、スライダーを武器に三振を奪う投球スタイルだった。基本球種はフォーシームだが、スプリッターやスライダーを初球から投げる割合も比較的高めとなっている。 球速は独立リーグ時代までは90mph(約145km/h)前後だったが、右肘の骨折手術成功後にウェイトボールを使用したトレーニングに取り組んだ結果球速が増加。しかし2013年8月4日に右肩を痛めて故障者リスト入りして以降、球速が低下した他、2014年からはリリースポイントが安定しなくなった。2015年までの2年間で与四球率5.40を記録。マイナーリーグ時代を通じて与四球率は4.50以上である。 詳細情報 年度別投手成績 2017年度シーズン終了時 獲得タイトル・記録・表彰 MLBオールスターゲーム選出:1回(2013年) NPB投手記録 初登板:2016年9月18日、対横浜DeNAベイスターズ24回戦(横浜スタジアム)、7回裏に3番手で救援登板、1回無失点 初奪三振:同上、7回裏に宮﨑敏郎から見逃し三振 背番号 35 (2011年 - 2012年途中) 50 (2012年途中 - 2015年) 56 (2016年 - 同年途中) 70 (2016年途中 - 同年終了) 脚注 関連項目 メジャーリーグベースボールの選手一覧 D 北米・欧州出身の日本プロ野球外国人選手一覧#アメリカ合衆国 広島東洋カープの選手一覧 外部リンク Steve Delabar stats MiLB.com アメリカ合衆国の野球選手 在カナダ・アメリカ人の野球選手 在日外国人の野球選手 サンディエゴ・パドレス傘下の選手 独立リーグの野球選手 シアトル・マリナーズ傘下の選手 シアトル・マリナーズの選手 トロント・ブルージェイズの選手 トロント・ブルージェイズ傘下の選手 シンシナティ・レッズ傘下の選手 シンシナティ・レッズの選手 広島東洋カープ及び広島カープの選手 MLBオールスターゲーム選出選手 アメリカ合衆国のドーピング違反選手 ドーピング違反の野球選手 在日アメリカ人のスポーツ選手 アメリカ合衆国の野球指導者 高校野球指導者 ケンタッキー州の人物 1983年生 存命人物
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ミヤマタネツケバナ(深山種漬花、学名: )は、アブラナ科タネツケバナ属の多年草、高山植物。別名、ミネガラシ(峰芥)。 特徴 全体が無毛。根は地下に長く入る。短い根茎には古い根出葉の葉柄基部が残る。根出葉は奇数羽状複葉で長さ2-5cm、小葉は5-7個、長楕円形から倒卵形、長さ2-6mm、幅1.5-5mmになり、頂小葉はやや大く、小葉の縁は全縁。地上茎は株立になり、高さ3-10cm、茎葉は互生し、小葉は3-5個で根出葉と同形。葉柄の基部がやや耳状になって茎を抱く。 花期は7-8月。茎先に短い総状花序をつけ、白色の十字形の4弁花を2-6個つける。萼片は長楕円形で長さ約2mm。花弁は倒卵形で、長さ4-6mm。雄蕊は6個のうち4個が長い。雌蕊は1個。果実は長角果で斜め上向きにつき、広線形で長さ2-3cm、種子のあるところはやや膨らみ、先端の残存花柱は長さ1mmになってとがる。果柄は長さ3-6mmになる。長角果が熟すると果皮が2片に裂開し、種子を弾き飛ばす。種子は長さ約1.5mmになる。 分布と生育環境 北海道、本州の中部地方以北に分布し、高山帯の湿った岩礫地、砂礫地、岩隙などに生育する。雪解けの遅い雪田の跡などによく見られる。米倉浩司 (2017) は、「台湾にもあるとされるが疑わしい。」としている。 タイプ標本の採集地は、白山、御嶽山。 名前の由来 和名ミヤマタネツケバナは「深山種漬花」の意。別名のミネガラシは「峰芥」の意で、高山に生えることによる。牧野富太郎 (1940) は、『牧野日本植物圖鑑』において、「和名峰芥ハ高山ニ生ズルヨリ云ヒ此名ハ深山種漬花ヨリハ舊シ」と記述している。 種小名(種形容語) は、「日本の」の意味。 種の保全状況評価 国(環境省)のレッドデータブック、レッドリストでの選定はない。都道府県のレッドデータ、レッドリストの選定状況は、福島県で絶滅危惧II類(VU)。また、長野県では、変種ホソバミヤマタネツケバナ var. を認め、絶滅危惧IA類(CR)としている。 分類 同属で、南千島の高山から報告され、極東ロシア北東部から北アメリカ大陸北西部に分布するチシマタネツケバナ とは、本種は葉柄の基部が耳状になるが、同種は葉柄の基部が耳状にならない点が異なる。両種とも多年草であるが、チシマタネツケバナの地上部の形態は、むしろヨーロッパ原産の帰化植物で越年草であるミチタネツケバナ に似る。 ギャラリー 脚注 参考文献 北村四郎・村田源著『原色日本植物図鑑・草本編II(改訂53刷)』、1984年、保育社 豊国秀夫編『山溪カラー名鑑 日本の高山植物』、1988年、山と溪谷社 清水建美編・解説、門田裕一改訂版監修、木原浩写真『山溪ハンディ図鑑8 高山に咲く花(増補改訂新版)』、2014年、山と溪谷社 大橋広好・門田裕一・木原浩他編『改訂新版 日本の野生植物 4』、2017年、平凡社 牧野富太郎原著、邑田仁・米倉浩司編集『新分類 牧野日本植物図鑑』、2017年、北隆館 米倉浩司・梶田忠 (2003-)「BG Plants 和名-学名インデックス」(YList) The World Flora Online 牧野富太郎『牧野日本植物圖鑑』、みねがらし、1940年、北隆館、牧野日本植物図鑑インターネット版 日本のレッドデータ検索システム 外部リンク ミヤマタネツケバナ - コトバンク アブラナ科 高山植物
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マダ( マドハー,Madha,Madhah)は、オマーンの飛地領土。 解説 本地はオマーンの飛地領土であるムサンダム半島とオマーン本土の間のアラブ首長国連邦領内にある。ムサンダム特別行政区・マダ県に属する。北緯25度17分4秒、東経56度19分59秒に位置する。中心部の標高は41m。内陸部の飛び地であり、海岸線は有していない。2003年現在の人口は2,246人。 この飛地はフジャイラとホール・ファッカーンを結んだ道路上にある75km2の土地であり、道路からマダに向けられた出口は2ヶ所整備されている。この飛地の国境は1969年に画定された。 マダは「New Madha」と呼ばれる開発地区以外はほとんどが無人地帯で、「New Madha」には道路・学校・郵便局・銀行等があり、電力および真水の供給がなされ、滑走路及び警察も存在する。 またマダ地内のナワという土地は、法的にはアラブ首長国連邦・シャールジャ首長国の一部とされており、飛地内の飛地(二重飛地)を形成しており、同心円状の飛地の多重構造を持つ。 脚注 外部リンク マダ・シャルージャ国境の道路標識 オマーンの地理 領土の飛地 オマーンの国境 アラブ首長国連邦の国境
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カルナヴァレ博物館 (カルナヴァレはくぶつかん、仏:) は、フランスの首都・パリの3区にある博物館。パリ歴史博物館 ()、カルナヴァレ美術館ともいう。 概要 カルナヴァレ博物館は、パリの歴史資料を収蔵・展示している市立博物館で、パリ3区の南境であるフラン=ブルジョワ通り沿いにある。 歴史のある貴族の邸宅が多いマレ地区に位置しており、この博物館もまた、カルナヴァレ館とル・プルティエ・ド・サン=ファルジョー館という2つの歴史的な建物で構成されている。カルナヴァレ館は、もともとは1548年に建造されたルネサンス様式の建物で、17世紀中頃に建築家フランソワ・マンサールが改修した後 、1866年、パリ市が買収・改修し、カルナヴァレ博物館が誕生した 。ル・プルティエ・ド・サン=ファルジョー館は1688年に建造された建物で、1895年にパリ市が購入し、パリ市立歴史図書館として使用した後、1989年、博物館の一部となった 。 博物館の収蔵品は約60万点に達し、絵画、彫刻、模型、家具、調度品、版画、ポスターなど様々な分野に及んでいる 。また、歴史資料を年代順に展示し、古代から現代に至るまでのパリの歴史を紹介している。 主な収蔵品 ジャン・ベロー 『オペラ座の舞台裏』 - (1889年) ダヴィッド 『球戯場の誓い』 - (1789年) ユベール・ロベール 『解体が始まったバスチーユ監獄』 - (1789年) 所在地及び交通手段 所在地:パリ3区 セヴィニエ通り23番地 (、) 地下鉄メトロ1号線 サン・ポール駅下車、北へ徒歩。 地下鉄メトロ8号線 シュマン・ヴェール駅下車、西へ徒歩。 脚注 外部リンク 公式サイト パリの博物館 パリの美術館 パリ3区 16世紀の建築物 フランソワ・マンサール
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ジャケット(ジャクリーヌ)・ド・リュクサンブール(仏:Jacquette(Jacqueline) de Luxembourg, 1415/16年 - 1472年5月30日)は、北フランス出身のイングランドの貴族女性。ベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスターの2番目の妻、そしてエドワード4世の王妃エリザベス・ウッドヴィルの母親として知られる。英語名はジャケッタ・オブ・ラクセンバーグ(Jacquetta of Luxembourg)。 生涯 リンブルク=ルクセンブルク家の傍系に位置するルクセンブルク=リニー家当主のサン=ポル伯ピエール1世と、その妻のマルゲリータ・デル・バルツォ(1394年 - 1472年)の間の娘として生まれた。嫁ぎ先となるイングランドの王室との血縁では、母方を通じてジョン(欠地王)の直系子孫にあたる。ジョンの末娘エリナー・オブ・レスターとその夫シモン・ド・モンフォールの間の三男の6世孫(つまりジョンの8世孫)に当たるためである。弟にサン=ポル伯・リニー伯兼フランス王国ルイがいる。 1433年4月22日、ベッドフォード公ジョン・オブ・ランカスターと結婚した。ベッドフォード公は百年戦争中のイングランド・フランス二重王国の摂政を務めていた。サン=ポル伯爵家はブルゴーニュ陣営の有力貴族であるのみならず神聖ローマ皇帝ジギスムントとも同族であり、ベッドフォード公としてはジャケッタとの結婚により皇帝家に接近し、欧州大陸におけるイングランドの影響力を拡大しようと考えていた。なお、ベッドフォード公は1432年に先妻でブルゴーニュ公フィリップ3世(善良公)の妹アンヌ・ド・ブルゴーニュに先立たれており、この結婚は再婚だった。 しかし、イングランドの同盟相手の善良公はベッドフォード公の再婚に不満で、先妻アンヌが存命だった1430年にベッドフォード公の従妹イザベル・ド・ポルテュガルと善良公が結婚した時から冷え切っていたベッドフォード公と善良公の関係は悪化、ブルゴーニュがイングランドから離反してフランスと和睦する遠因となった。ジャケッタは1435年9月14日、結婚から2年半ほどで子供もないまま夫と死別した。 イングランド王ヘンリー6世は叔父の寡婦ジャケッタをイングランドに呼び寄せるため、ベッドフォード公の侍従の息子だったサー・リチャード・ウッドヴィルを彼女の許に遣わした。イングランドへの旅行中に2人は恋愛関係となり、王の許しもないまま秘密裏に結婚した。やがてリチャードとの結婚が露見すると、王は腹を立ててジャケッタに与えられるはずだった寡婦財産を没収したが、補償として1000ポンドの年金を受給させた。2度目の結婚生活は長く幸福であり、ジャケッタはリチャードとの間に(判明しているだけで)14人もの子供を授かった。 1440年代半ばまでに、ウッドヴィル家の地位は上昇していった。ジャケッタがヘンリー6世と王妃マルグリット・ダンジューの双方と親族関係にあったことが最大の要因だった。ジャケッタは王の叔父の未亡人であり、ジャケッタの妹イザベルは王妃の叔父メーヌ伯シャルル4世・ダンジューの後妻であった。ジャケッタは宮廷では王妃に次ぐ身分にあり、かつ王妃とは親しい友人関係にあったので、宮廷で大きな影響力を持つことが出来た。さらに1448年に夫リチャードがヘンリー6世の計らいでリヴァーズ男爵に列せられた恩もあり、薔薇戦争の開始時、ウッドヴィル家はランカスター家の与党として活動した。 1464年、ウッドヴィル夫妻の長女エリザベスがヨーク家のエドワード4世と結婚したことで、ウッドヴィル家の運命は大きく変わった。夫リチャードはヨーク派に寝返り、エドワード4世からリヴァーズ伯爵位を授けられ、多くの高級官職にあずかった。しかし同家の突然の隆盛は、ヨーク派の古参の重鎮ウォリック伯リチャード・ネヴィルや王弟のクラレンス公ジョージ、グロスター公リチャード(後のリチャード3世)らの不興を買った。ウォリック伯は1469年に公然とエドワード4世に敵対し、エッジコート・ムーアの戦いでジャケッタの夫リヴァーズ伯と三男ジョンを生け捕ると、2人を斬首してしまった。 国内の実権を掌握したウォリック伯はさらに、ジャケッタに魔術によって国王夫妻を呪ったという汚名を着せ、彼女を魔女裁判にかけようとした。ジャケッタの嫌疑は1470年1月19日、ウォリック伯の軟禁から逃れて一時的に権力を回復した娘婿エドワード4世が開いた枢密院の議決により、無罪と証明された。ジャケッタはその2年後の1472年に亡くなった。リチャード3世は1484年、自身の王位継承を正当化するための法令「」の中で、ジャケッタと長女エリザベスは魔術を使ってエドワード4世とエリザベスの結婚を実現させたと非難したが、この非難の根拠となる証拠は一切挙げられていない 。 子女 2番目の夫リチャード・ウッドヴィルとの間に14人の子女があった。 ルイス・ウッドヴィル(生没年不明、夭折) アンソニー・ウッドヴィル(1483年没) - 第2代リヴァーズ伯爵 ジョン・ウッドヴィル(1469年没) ライオネル・ウッドヴィル(1484年没) - ソールズベリー司教 エドワード・ウッドヴィル(1488年没) リチャード・ウッドヴィル(1491年没) - 第3代リヴァーズ伯爵 エリザベス・ウッドヴィル(1492年没) - サー・と結婚、イングランド王エドワード4世と再婚 アン・ウッドヴィル(1489年没) - バウチャー子爵ウィリアム・バウチャーと結婚、第2代ケント伯と再婚 メアリー・ウッドヴィル(1481年没) - 第2代ペンブルック伯と結婚 ジャケッタ・ウッドヴィル(1509年没) - 第8代ストレンジ男爵ジョン・ル・ストレンジと結婚 マーサ・ウッドヴィル(1500年没) - サー・ジョン・ブロムリーと結婚 エリナー・ウッドヴィル(1512年没) - サー・アンソニー・グレイと結婚 マーガレット・ウッドヴィル(1490年没) - 第17代アランデル伯爵と結婚 キャサリン・ウッドヴィル(1497年没) - 第2代バッキンガム公ヘンリー・スタフォードと結婚、初代ベッドフォード公ジャスパー・テューダーと再婚 脚注 参考文献 森護『英国王妃物語』大修館書店、1986年。 城戸毅『百年戦争―中世末期の英仏関係―』刀水書房、2010年。 トレヴァー・ロイル著、陶山昇平訳『薔薇戦争新史』彩流社、2014年。 イングランド王族の妃 薔薇戦争の人物 ルクセンブルク=リニー家 1410年代生 1472年没
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『王様達のヴァイキング』(おうさまたちのヴァイキング)は、さだやす(ストーリー協力:深見真)による日本の漫画。『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)にて、2013年14号から2019年39号まで連載。 孤独な天才ハッカー・是枝一希とエンジェル投資家・坂井大輔がIT業界を舞台に「世界征服」を目指す。作中の時間は1話の時点で2013年5月。 第18回文化庁メディア芸術祭審査委員会推薦作品。「マンガ大賞2015」第9位。 あらすじ 2013年5月7日、浅草の取り壊し寸前のビデオ屋での“怪物”と“天使”の邂逅が、大航海の始まりだった。天涯孤独の天才ハッカー・是枝一希が、エンジェル投資家・坂井大輔に導かれ、数々のサイバー事件を解決していくうちに、信頼できる仲間を得て、才能を大きく開花させる、その成長の航跡を描く。 登場人物 主人公 是枝 一希(これえだ かずき) 天才ハッカー。1995年2月21日生。連載開始時点は18歳で、ドローン暴走事件の後に19歳になる。ハンドルネームは「zer0(ゼロ)」。 高校中退。人とうまく接することができず、不器用でコンビニの仕事も即クビになる社会不適合者。消費者金融会社へのサイバー攻撃を繰り返す犯罪者だったが、エンジェル投資家の坂井に拾われる。 愛機は、2005年・IBM 製の ThinkPad X41。メモリーを2GBまで増設し、OS に Ubuntu 12.04 LTS を入れて使用。設定でCtrlキーとCapsLockキーを入れ替えている。是枝は「義父に買ってもらった」と思い込んでいるが、実際は義父が懸賞で当てたのを、是枝に与えたものである。 登場当初はおどおどした面が目立った少年だったが、やがて本来の攻撃性がむき出しになってゆく。ヘッジホッグからも「有言実行の男」と一目置かれる存在へと成長した。ずば抜けた能力を買われ、警視庁のコンピュータ犯罪捜査官に採用の後、「サイバーテロ対策特別研究チーム」(通称“特研”)に抜擢される。 好きなもの:PC、数字、256、大根 苦手なもの:水、風呂、コーヒー、炭酸飲料 癖:自分の爪を噛む、邪魔をする者を引っ掻く、考える時は紙に数字を書く 坂井 大輔(さかい だいすけ) エンジェル投資家。連載開始時点は40歳。 上田市立西中学校野球部を経て、早稲田大学を卒業後、情報通信系の企業に就職。その後、DVD並行輸入サービスの会社を創業した起業家だったが、その会社を20億円で売却しエンジェル投資家に転身した。 渋谷区宇田川町の「坂井ビル」を自宅兼仕事場にしている。 長野県出身で、実家は温泉旅館「藤ノ屋旅館」。 株式会社ヘッジホッグ(hedgehog) 坂井が投資して起業した会社。SNS関連のサービスを運営している。坂井ビルの地下1階にオフィスがあり、社員は同ビルに居候している。 唐沢 周平(からさわ しゅうへい) ヘッジホッグの社長。快活な人物。1989年5月30日生。 南雲 亮(なぐも りょう) ヘッジホッグの社員。人柄は穏健。1989年4月23日生。 西 ミノル(にし ミノル) ヘッジホッグの社員。口は悪いが、是枝の才能を認めている。1990年11月6日生。 渡部 裕助(ゆうすけ) ヘッジホッグの社員。石川県出身。加賀弁で話す。1988年12月19日生。 株式会社ゲームビット(GAME BIT) 坂井の投資先の1つ。社員数14人。是枝の初仕事でValkyrjaらによるサイバー攻撃から救われ、拉致事件の際には全社を挙げて捜索に尽力した。仮想通貨事件においても、重要な役割を担うこととなる。 玉山(たまやま) ゲームビットの社長。社員からは「玉さん」とも呼ばれている。 口の悪さと、常時着けている腕輪念珠がトレードマーク。 警察関係 神崎 翔太(かんざき しょうた) 警視庁刑事部捜査二課 特別捜査係 特殊知能犯担当 巡査部長。 無差別サイバーテロの取り調べで是枝と知り合い、共に捜査をしていくうちに彼の腕に全幅の信頼を寄せるようになる。 蘇芳に命を狙われ、一時意識不明の重体に陥るが、彼の総理就任後に無事現場復帰。 権力を傘に釈放された性犯罪者を取調室で暴行したことがあり、警察内では問題視されている。 古い体制を壊すためには自己犠牲も厭わない、直情型の熱血漢で、趣味はゲーム(FPS、ガンシュー、MMORPG など)。 藤井寺 絵美(ふじいでら えみ)、二ノ宮(にのみや)、末永(すえなが) 捜査二課の神崎の同僚達。 衣笠 真琴(きぬがさ まこと) 警視庁刑事部捜査二課の管理官である、異例の女性キャリアで、神崎らの上司。35歳。 父親が警察庁のOBだが、親子仲は険悪。 丹羽 久嗣(にわ ひさつぐ) 警視庁生活安全部サイバー犯罪対策課の一員。神崎とは警察学校での同期だった。優秀な頭脳と身体能力、刑事部顔負けの洞察力を併せ持つ。 ハッカーとして有能すぎる是枝に不審を抱き、当初は敵視していたが、是枝拉致事件を機に和解。対サイバー犯罪者共闘を誓う。 猿渡(さるわたり)、真鍋 直己(まなべ なおみ)、窪塚(くぼづか)、田尻(たじり) サイバー犯罪対策課の丹羽の同僚達。 赤城(あかぎ) 警視庁公安部外事第三課の一員。 国際テロ事件に当たり、是枝らが極秘で開発している、サイバー兵器の使用を依頼する。 蘇芳 正哉(すおう まさちか) 次期総理候補と目されている、経済産業大臣。日本のハイテク武装を目論む野心家。(14巻で内閣総理大臣に就任) ドローン暴走事件を受けて、「サイバーテロ対策特別研究チーム」を発足させたが、その真意は是枝の力を利用するためだった。 クラッカー Valkyrja(ヴァルキュリヤ) 本名:鶴野 秋(つるの あき)。1990年4月5日生。坂井がお気に入りの女性ソムリエ。本職は凄腕のクラッカー。是枝の逆鱗に触れてPCを壊された過去がある。laughingcatと二人で蘇芳正哉への復讐を画策するが、是枝の能力とセンスに利用価値を見い出し、仲間に引き入れようとする。 蘇芳正哉と愛人の間に生まれた娘であり、laughingcatの腹違いの姉。 laughingcat(笑い猫) 是枝の“宿敵”。「武器商人」と呼ばれるクラッカー。Valkyrjaを「女王様」と呼んで付き従う。是枝の技術に興味津々。偽名を名乗って堂々と坂井ビルに侵入、ルーターに細工し是枝へのメッセージを残した。 シリコンバレーに住んでおり、「シュレディンガー」という名前の猫を飼っている。 全身にタトゥーを入れたアウトロー風の青年だが、小学生時代は太っていてイジメを受けていた。 “特研”発足後、蘇芳正哉の一人息子:蘇芳 竜二(すおう りゅうじ)であることが明らかになる。1990年4月8日生。 mos(モス) 非合法な取引を行う裏サイトの管理人。本業は音楽関係で自宅にスタジオを持っている。 高 星雷(カオ・シンレイ) 中国のITセキュリティ企業「閃光電子公司」技術部トップ(CTO)だが、裏で工作用サイバー部隊「黒海」を率いる腕利きのクラッカー。日本のネットショップに対してサイバーテロを行う。 青年時代、出稼ぎ先の広島で地下銀行を営んでいたが暴力団に目を付けられ暴行を受ける。その際、命を救ってくれた蘇芳に心酔している。 犯罪関係者 鷲尾 威(わしお たけし) 元暴走族で六本木の半グレ集団「暴雷連合」の総長。 伊草の依頼により、パワーハラスメントでの告訴への火消しとして、被害者家族への脅迫や中傷、桐生のPCに対するクラッキングを請け負う。 伊草 公俊(いぐさ きみとし) 大手レストランチェーン「イグサフーズ」の社長。社内では悪質なパワーハラスメントを蔓延させている。 六本木では、荒っぽい遊び方をしていることで評判が悪い。 広島伊達会 西日本の暴力団にして、蘇芳正哉の資金源。 蘇芳との繋がりに感づいた神崎に、瀕死の重傷を負わせる。 その他 256(ニゴロ) 是枝が飼っているバーニーズ・マウンテン・ドッグ。9歳。 失踪した彼の実母からの最後の贈り物である。是枝の唯一の家族であり、心の支え。 加藤 剛(かとう つよし) 是枝の幼なじみ。電機メーカーの営業職。26歳。是枝からは「ゴリラ君」と呼ばれている。 人生の先輩として、陰日向から是枝を温かくサポートし続ける。 桐生 克典(きりゅう かつのり) 北里法律事務所に所属する敏腕弁護士。坂井と同じ中学の1期上。 インサイダー事件で坂井の窮地を救った後、パワーハラスメントに関する依頼を受け、そのことにより半グレ集団からの妨害に遭い、是枝の力を借りる。 書誌情報 さだやす(ストーリー協力:深見真) 『王様達のヴァイキング』 小学館〈ビッグコミック〉、全19巻 2013年7月3日発行(2013年6月28日発売)、ISBN 978-4-09-185329-5 2013年10月5日発行(2013年9月30日発売)、ISBN 978-4-09-185414-8 2014年2月4日発行(2014年1月30日発売)、ISBN 978-4-09-185845-0 2014年6月17日発行(2014年6月12日発売)、ISBN 978-4-09-186204-4 2014年10月5日発行(2014年9月30日発売)、ISBN 978-4-09-186354-6 2014年12月31日発行(2014年12月26日発売)、ISBN 978-4-09-186658-5 2015年5月5日発行(2015年4月30日発売)、ISBN 978-4-09-186889-3 2015年8月4日発行(2015年7月30日発売)、ISBN 978-4-09-187140-4 2015年12月5日発行(2015年11月30日発売)、ISBN 978-4-09-187338-5 2016年5月3日発行(2016年4月28日発売)、ISBN 978-4-09-187598-3 2016年11月2日発行(2016年10月28日発売)、ISBN 978-4-09-187899-1 2017年3月5日発行(2017年2月28日発売)、ISBN 978-4-09-189378-9 2017年8月2日発行(2017年7月28日発売)、ISBN 978-4-09-189607-0 2017年12月5日発行(2017年11月30日発売)、ISBN 978-4-09-189689-6 2018年4月4日発行(2018年3月30日発売)、ISBN 978-4-09-189816-6 2018年7月4日発行(2018年7月30日発売)、ISBN 978-4-09-860048-9 2019年1月4日発行(2019年1月30日発売)、ISBN 978-4-09-860208-7 2019年7月3日発行(2019年6月28日発売)、ISBN 978-4-09-860319-0 2019年10月5日発行(2019年9月30日発売)、ISBN 978-4-09-860405-0 ムービーコミック 2018年6月30日より映像配信サービスのdTVにて配信開始。 キャスト 是枝一希/小野賢章 坂井大輔/関俊彦 唐沢周平/広瀬裕也 南雲亮/金子哲平 西ミノル/鍛治本大樹 渡部裕助/阿部大樹 256/亀山雄慈 神崎翔太/濱野大輝 笑い猫/熊谷健太郎 ヴァルキュリヤ/今井麻美 主題歌 Candy or Whip「last show time」 脚注 外部リンク 王様達のヴァイキング 【作品TOP】 | ビッグコミックBROS.NET(ビッグコミックブロス) うさまたちのうあいきんく ビッグコミックスピリッツの漫画作品 犯罪を題材とした漫画作品
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エリザベス・ピーターズ(Elizabeth Peters、1927年9月29日 - 2013年8月8日)は、アメリカ合衆国の作家。本名はバーバラ・マーツ (Barbara Mertz) 、またバーバラ・マイケルズ (Barbara Michaels) のペンネームも使用する。 経歴 1927年、イリノイ州カントンにて生誕。 シカゴ大学のエジプト学者、ジョン・A・ウィルスンの下で学び、23歳の時に博士号を取得。1964年に作家としてデビュー、古代エジプトに関する本を2冊出版したが、主に執筆するのはミステリやサスペンスである。 バーバラ・マイケルズの名では主にゴシックや超自然現象を題材とした作品を執筆している。古代エジプトに関する学術書との混同を避けたい出版社がこの名を選んだ。アメリア・ピーバディシリーズは、エリザベス・ピーターズの名で執筆しているが、この名は彼女の2人の子から採られている。 雑誌『KMT』(古代エジプトに関する雑誌)の編集顧問委員のメンバーである。また、エジプト調査学会やオリエンタル・インスティテュートのジェームズ・ヘンリー・ブレステッドサークルのメンバーでもある。 2013年8月8日、メリーランド州フレデリックの自宅にて死去。 著書 エリザベス・ピーターズ名義 アメリア・ピーバディシリーズ エジプト学者のアメリアが主人公のシリーズ。最新作は2010年4月に刊行された第19作"A River in the Sky" 。 物語は1880年代にアメリアが独身女性として世界を見たいと決意するところから始まり、1922年にツタンカーメンの墓が発見されるところで終わる。以下、()内は作中のタイムライン。 砂洲にひそむワニ Crocodile on the Sandbank ( 1975年 / 2011年2月、青柳伸子 訳、原書房)(1884年 - 1885年) The Curse of the Pharaohs (1981) (1892年 - 1893年) The Mummy Case (1985) (1894年 - 1895年) Lion in the Valley (1986) (1895年 - 1896年) The Deeds of the Disturber (1988) (1896年夏) The Last Camel Died at Noon (1991) (1897年 - 1898年) The Snake, the Crocodile, and the Dog (1992) (1898年 - 1899年) The Hippopotamus Pool (1996) (1899年 - 1900年) Seeing a Large Cat (1997) (1903年 - 1904年) The Ape Who Guards the Balance (1998) (1906年 - 1907年) The Falcon at the Portal (1999) (1911年 - 1912年) He Shall Thunder in the Sky (2000) (1914年 - 1915年) Lord of the Silent (2001) (1915年 - 1916年) The Golden One (2002) (1916年 - 1917年) Children of the Storm (2003) (1919年 - 1920年) Guardian of the Horizon (2004) (1907年 - 1908年) The Serpent on the Crown (2005) (1922年) Tomb of the Golden Bird (2006) (1922年 - 1923年) A River in the Sky (2010) (1909年 - 1910年) Amelia Peabody's Egypt: A Compendium (2003) - ノンフィクション ヴィッキー・ブリスシリーズ ヴィッキー・ブリスシリーズは、美術史のアメリカ人教授が国際的な犯罪やサー・ジョン・スミスという美術品泥棒に関わっていく冒険小説。1969年に発表した"The Camelot Caper" は、スミスが主人公のスピンオフ作品である。どの巻から読んでも良いが、物語が続いているため刊行順に読むのが一番良い。 アメリア・ピーパディシリーズとクロスオーバーしており、第5作"Night Train to Memphis" と第6作"The Laughter of Dead Kings" では、アメリアの夫が重要な役どころを演じ、ジョン・スミスとエマーソンの関係が明らかになる。 Borrower of the Night (1973) Street of the Five Moons (1978) Silhouette in Scarlet (1983) Trojan Gold (1987) Night Train to Memphis (1994) The Laughter of Dead Kings (2008) ジャクリーン・カービーシリーズ ジャクリーン・カービーは特技が謎解きの司書。 The Seventh Sinner (1972) リチャード三世「殺人」事件 Murders of Richard III ( 1974年 / 2003年2月、安野玲 訳、扶桑社ミステリー) ロマンス作家「殺人」事件 Die for Love ( 1984年 / 2005年6月、本間有 訳、扶桑社ミステリー) 裸でご免あそばせ Naked Once More ( 1989年 / 1993年8月、田村義進 訳、徳間文庫) その他 The Jackal's Head (1968) Her Cousin John (1969) The Camelot Caper (1988) - ヴィッキー・ブリスシリーズのジョン・スミスが主人公 The Dead Sea Cipher (1970) The Night of Four Hundred Rabbits (1971) Legend in Green Velvet (1976) Devil-May-Care (1977) Summer of the Dragon (1979) The Love Talker (1980) The Copenhagen Connection (1982) バーバラ・マイケルズ名義 ジョージタウン三部作 Ammie Come Home (1968) - "The House That Would Not Die" のタイトルでバーバラ・スタンウィック、リチャード・イーガン主演でテレビ映画化された Shattered Silk (1986) Stitches in Time (1995) サムワン・イン・ザ・ハウス(誰かが家にいる)シリーズ Someone in the House (1981) Black Rainbow (1982) シリーズ外作品 The Master of Blacktower (1966) Sons of the Wolf (1967) Prince of Darkness (1969) The Dark on the Other Side (1970) The Crying Child (1971) Greygallows (1972) Witch (1973) House of Many Shadows (1974) The Sea King's Daughter (1975) Patriot's Dream (1976) Wings of the Falcon (1977) Wait for What Will Come (1978) The Walker in the Shadows (1979) The Wizard's Daughter (1980) Here I Stay (1983) The Grey Beginning (1984) Be Buried in the Rain (1985) Search the Shadows (1987) 残り火 Smoke and Mirrors ( 1989年 / 1993年2月、片岡しのぶ 訳、扶桑社ミステリー) 家出 The Runaway (短編) - マリリン・ウォレス編『シスターズ・イン・クライム』( 1989年 / 1991年1月、早川書房)収録 不思議な遺言 Into the Darkness ( 1990年 / 1992年11月、細美遥子 訳、扶桑社ミステリー) Vanish with the Rose (1992) Houses of Stone (1993) The Dancing Floor (1997) Other Worlds (1999) ノンフィクション Temples, Tombs, and Hieroglyphs (1964) Two Thousand Years in Rome (リチャード・マーツ共著) (1968) Red Land, Black Land (1978) 受賞・ノミネート 1986年:アンソニー賞巨匠賞受賞 1988年:"Trojan Gold" でアンソニー賞長編賞ノミネート 1989年:『裸でご免あそばせ』でアガサ賞長編賞受賞 1991年:"The Last Camel Died At Noon" でアガサ賞長編賞ノミネート 1992年:"The Snake, The Crocodile and the Dog" でアガサ賞長編賞ノミネート 1994年:"Night Train To Memphis" でアガサ賞長編賞ノミネート 1997年:"Seeing A Large Cat" でアガサ賞長編賞ノミネート 1998年:"The Ape Who Guards The Balance" でアガサ賞長編賞ノミネート 2000年:"He Shall Thunder in the Sky" でアガサ賞長編賞ノミネート、アンソニー賞長編賞ノミネート 2002年:"The Golden One" でアガサ賞長編賞ノミネート 2003年:"Amelia Peabody's Egypt: A Compendium" でアガサ賞ノンフィクション賞受賞、エドガー賞批評部門ノミネート 出典・脚注 外部リンク Barbara Michaels at Fantastic Fiction Elizabeth Peters at Fantastic Fiction アメリカ合衆国の推理作家 アメリカ合衆国のエジプト学者 アンソニー賞の受賞者 アガサ賞の受賞者 イリノイ州フルトン郡出身の人物 1927年生 2013年没
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藤田 浩一(ふじた こういち、1947年3月20日 - 2009年10月11日)は、日本のギタリスト、作詞家、作曲家、音楽プロデューサー、実業家。トライアングル・プロダクション、バミューダ音楽出版の社長を務めた。 来歴 1967年、グループ・サウンズのバンド「アウト・キャスト」のメンバー(リズム・ギター)としてデビュー。作詞・作曲を手掛け、1969年には「The Love」を結成し、リード・ギターを務めた。 The Love解散後は、音楽制作、プロモーター、マネージメントなどを手がけ、プロデューサーへの下地作りの活動をする。また、かまやつひろしのマネージメント・プロモーションを手掛けたり、ベイシティローラーズのコンサートフィルムをイギリスで購入し、日本全国の映画館で上映した。 1975年4月24日、音楽事務所「トライアングル・プロダクション」を設立。1977年、かまやつの紹介によりレイジーのプロデュースを手がけ、これをきっかけにプロデューサー業を本格的に始める。 1979年、角松敏生のデモテープを聞きスカウト。角松は1981年に、シングル「YOKOHAMA Twilight Time」でデビュー。同年6月1日、「バミューダ音楽出版」を設立。 1980年、レイジーのキーボーディスト井上俊次と、3人組コーラスグループ「トロワ」による4人組ユニット「ビッグバン」をプロデュース。1981年3月に、シングル「愛のコリーダ (曲)」でデビューさせた。 1983年には杉山清貴&オメガトライブ(杉山清貴)を、1984年に菊池桃子をデビューさせた。 杉山清貴&オメガトライブ(1983-1985)、菊池桃子(1984-1988)は立て続けにヒットし、その後、1986オメガトライブやカルロス・トシキ&オメガトライブなども商業的に成功を収め、藤田のプロデュース作品を総称して「トライアングル・サウンド」と呼ばれた。 1995年以降はプロデュース業を休止し、社長業に専念した。2009年10月11日18時24分、病気療養中のさなか、神奈川県川崎市高津の自宅で死去。62歳没。 人物 音楽プロデューサー時代、レコーディングが終了した深夜2時以降は「藤田タイム」と呼ばれ、藤田が音源と共にドライブへ出掛け戻ってくるまで電源は落とせず、戻ってきた後で再びレコーディングが始まることもあった。 レイジーの井上俊次は『NIKKEI STYLE』のコラムで藤田との確執を明かしている。記事によると、レイジーがベイ・シティ・ローラーズの様な路線になった理由は藤田が大のロック嫌いでその中でもハードロックを嫌っていたためであると明かしている。 レイジー解散後に藤田の推薦で角松敏生と組むように勧められたが、当時の角松が音楽活動よりも遊ぶことを優先していたため、藤田に「彼とは組めません」と抗議したところ藤田から暴行を受けたことにより藤田の事務所とは縁を切っている。井上は藤田と縁が切れたことで、藤田が杉山清貴&オメガトライブで成功した一方、角松と自分が組んだところで成功出来たとは思えず、自分が事務所を飛び出したことでお互い幸福だったのではないかと評している。また、角松もソロでの活動を望んでいたことを『角松敏生81-01……Thousand day of yesterdays』などのインタビューで話していた。 上記の経緯がありながら、藤田が逝去した後の2009年11月20日に行われた「藤田浩一さんを偲ぶ会」では井上が幹事を務めた。 角松は、『SEA BREEZE 2016』のライナーノートで、藤田について「お人柄や人生は怒涛そのもので、その生き様やビジネス手法には世間的には賛否両論あるというような話も聞く」と語る一方、方向性の違いから別れた後何十年も会っていなかったところ、「一度だけ突然電話をくれて『お前頑張っているよな。角松みたいな音楽をやる奴が生き残ってくれているのは嬉しいよ』とおっしゃってくれた」、というエピソードを語り、改めて感謝の念を述べていた。 2009年11月20日、ホテルフロラシオン青山で「藤田浩一さんを偲ぶ会」が営まれ、関係者のみならず、多くのファンも参列し、その功績を偲んだ。参列者には藤田のプロデュース作品29曲が収録された非売品の2枚組CDが配布された。 プロデュースしたアーティスト プロデュースした年代順に表示 レイジー 角松敏生 ビッグバン オメガトライブ 杉山清貴&オメガトライブ(杉山清貴) 1986オメガトライブ(カルロス・トシキ) カルロス・トシキ&オメガトライブ ブランニュー・オメガトライブ(新井正人) 菊池桃子 ラ・ムー 井浦秀知 池田政典 ジャッキー・リン&パラビオン TWIN FIZZ(仁科かおり、中谷内映)※仁科は藤田の没後、バミューダ音楽出版の事業を継承した。 KAZZ(川上和之) 脚注・出典 外部リンク 藤田浩一 Official Fan Site バミューダ音楽出版 藤田浩一紹介ページ 日本の作詞家 日本の男性作曲家 日本の音楽プロデューサー 日本の実業家 過去の渡辺プロ系列所属者 千葉県出身の人物 千葉県立千葉中学校・高等学校出身の人物 1947年生 2009年没
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エリック・アントニオ・プルガル・ファルファン(, 1994年1月15日 - )は、チリ・アントファガスタ出身のサッカー選手。CRフラメンゴ所属。チリ代表。ポジションはMF。 クラブ歴 アントファガスタに生まれ、CDアントファガスタの下部組織に入団した。2011年、15歳でプリメーラBの試合に出場しプロ初出場。その後2013年にレギュラーとしてトップチームメンバーとなった。2013-14シーズン末に退団。 2014年6月28日にウニベルシダ・カトリカは40万米ドルで彼の権利の70%を買い取り、同クラブに3年契約で移籍。前半戦、チームの調子が上がらない中で彼は活躍をみせた。マリオ・サラスが加入するとポジションを移した。 2015年8月20日にセリエAのボローニャFCに4年契約で移籍、移籍金は明らかになっていない。背番号は5番を与えられた。 2019年8月9日、ACFフィオレンティーナと4年契約を締結した。 2022年2月3日、ガラタサライにシーズン終了までのレンタル移籍が発表された。 代表歴 2015年1月29日に行われたアメリカ合衆国代表戦で代表初出場。コパ・アメリカ・センテナリオにも出場した。 コパ・アメリカ2019初戦の日本戦でコーナーキックからヘディングシュートを決め、先制ゴールを挙げた。 タイトル 代表 チリ代表 コパ・アメリカ: 2016 参考文献 外部リンク チリのサッカー選手 サッカーチリ代表選手 CDアントファガスタの選手 ウニベルシダ・カトリカの選手 ボローニャFCの選手 ACFフィオレンティーナの選手 ガラタサライの選手 CRフラメンゴの選手 コパ・アメリカ・センテナリオ出場選手 コパ・アメリカ2019出場選手 コパ・アメリカ2021出場選手 FIFAクラブワールドカップ2022出場選手 アントファガスタ州出身の人物 1994年生 存命人物
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5,6,7,8-テトラヒドロキノリン()は、化学式で表される複素環式化合物の一種。ベンゼン環とピリジン環が一辺を共有して縮合したキノリンのうち、ベンゼン環が飽和水素結合した構造である。 用途 医薬品や農薬の合成中間体となる。 合成 キノリンを卑金属触媒で水素化して得た1,2,3,4-テトラヒドロキノリンを、貴金属触媒で異性化して得られる。九州大学の実験で、PhTRAP-ルテニウム錯体を不斉触媒として、2-フェニルキノリンのうちピリジン環を水素化して2-フェニル-1,2,3,4-テトラヒドロキノリンを得ようとしたところ、ベンゼン環が選択的に水素化され、2-フェニル-5,6,7,8-テトラヒドロキノリンが93%の収率で得られた。 安全性 引火点は86℃で、日本の消防法では危険物第4類第3石油類(非水溶性)に区分される 脚注 キノリン シクロヘキサン テトラヒドロキノリン 第3石油類
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ドゥアルテ・ヌノ・デ・ブラガンサ(, 1907年9月23日 - 1976年12月23日)は、ポルトガルのミゲリスタ王位請求者。1932年より最後のポルトガル王マヌエル2世より立憲派ポルトガル王位請求者の地位をも引き継ぎ、単独のポルトガル王位請求者となった。 生涯 ポルトガルのミゲリスタ王位請求者ミゲル2世とその2番目の妻であるレーヴェンシュタイン=ヴェルトハイム=ローゼンベルク侯女マリア・テレザの間の第7子として、オーストリアの城で生まれた。2人の異母兄がおり、父にとっては3番目の息子だった。 祖父ミゲル1世は姪の女王マリア2世と王位を争って敗北していた。そのため一家はマリア2世によって王位継承権を剥奪され、国外に追放されていた。 ドゥアルテ・ヌノの次兄は1919年に死去し、1920年7月21日には長兄のヴィゼウ公が貴賤結婚のために相続人の地位を放棄した。その10日後の7月31日、ミゲル2世はミゲリスタ王位請求者の地位を12歳のドゥアルテ・ヌノに譲り、ドゥアルテ・ヌノはミゲリスタの支持する名目上のポルトガル王「ドゥアルテ2世()」を名乗るとともに、位を継承した。ドゥアルテ・ヌノはまだ幼いため、叔母のバルディ伯爵夫人アルデグンデスが1928年まで摂政役を務めた。このときポルトガルは既に共和制に移行しており、ブラガンサ=コブルゴ家のポルトガル王であるマヌエル2世(マリア2世の曾孫)は亡命者の身の上であった。 ミゲリスタ派とマヌエル2世を戴く立憲派とは誰が正統なポルトガル王かで対立しているだけでなく、理想とする政体(前者は絶対君主制を、後者は1910年まで続いた立憲君主制を支持していた)についてもその考えは相容れないものだった。 しかしマヌエル2世に後継者がなかったことが、分裂状態にあるポルトガルの王制支持者を合同させる機会を与えた。マヌエル2世とミゲル2世は協議を重ね、マヌエル2世の死後はドゥアルテ・ヌノを後継者とするという取り決めを行った。1927年にミゲル2世が、1932年7月2日にマヌエル2世が死去すると、ミゲリスタと立憲派からなる王制支持者の大多数はドゥアルテ・ヌノを唯一のポルトガル王位請求者と認めるに至り、ミゲリスタと立憲派の合同が実現した。 立憲派の一部はミゲリスタ系のドゥアルテ・ヌノを自分たちの王と認めず、別の国王候補を立てようとした。マリア2世の曾孫にあたるザクセン元王太子ゲオルク、マリア2世の弟のブラジル皇帝ペドロ2世の曾孫ペドロ・ガスタンなどの名前が挙がったが、いずれも擁立には至らなかった。 1950年、ポルトガルの共和国議会は1834年に出されたミゲル1世に対する、また1910年に出されたマヌエル2世に対する追放令を撤回し、ドゥアルテ・ヌノを家長とする旧ポルトガル王室に帰国を認めた。しかしドゥアルテ・ヌノはティオンヴィルで自動車事故に遭い、ポルトガルに帰国したのは1952年になってからであった。 1951年にポルトガル大統領アントニオ・オスカル・カルモナが死去した際、独裁的権限を有していた首相アントニオ・サラザールはドゥアルテ・ヌノを国王とした王政復古を考えたが、その後考え直して自らが大統領になることにした。 1974年、ドゥアルテ・ヌノは自分の邸宅であったサン・マルコス宮殿をコインブラ大学に譲り渡し、その2年後に死去した。 ドゥアルテ・ヌノはポルトガル王家家長として 、 の総長を務めたほか、マルタ騎士団や金羊毛騎士団の騎士にも叙任されていた。 結婚と子女 1942年10月15日、ブラジルのペトロポリスにおいて、ブラジル皇子ペドロ・デ・アルカンタラの次女と結婚した。マリア・フランシスカは先述したペドロ・ガスタンの妹であり、この縁組はミゲリスタ派と立憲派2系統の合同を象徴するものとして、王制支持者たちから非常に喜ばれた。マリア・フランシスカとの間に3男を儲けた。 ドゥアルテ・ピオ(1945年 - ) - ブラガンサ公、ブラガンサ家家長 (1946年 - ) - ヴィゼウ公 (1949年 - 2017年) - コインブラ公 脚注 参考文献 関連項目 王位請求者 ブラガンサ公 ポルトガル王位請求者 金羊毛騎士団員 マルタ騎士団員 ブラガンサ家 20世紀ポルトガルの人物 1907年生 1976年没
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ヒルディスヴィーニまたはヒルディスヴィン(古ノルド語:。「戦いの家猪」、「戦いの猪」の意)は、北欧神話の愛の女神フレイヤが持っているイノシシの名前。 一説には愛人の人間オッタルが変身した姿ともいわれている。 フレイヤは2匹の猫が牽く車を持っていてこれに乗って移動するがヒルディスヴィーニに乗ることもある。この点は双子の兄で豊饒神のフレイもイノシシのグリンブルスティを持っておりそれに乗って移動することと共通している。 しかし2人がイノシシがお気に入りなのはイノシシが子供をたくさん産むことから豊饒多産のヴァン神族の聖獣となっていたためだという。 脚注 関連項目 グリンブルスティ ヒュンドラの歌 参考文献 H.R.エリス・デイヴィッドソン(en)『北欧神話』米原まり子、一井知子訳、青土社、1992年、ISBN 978-4-7917-5191-4。 V.G.ネッケル他編『エッダ 古代北欧歌謡集』谷口幸男訳、新潮社、1973年、ISBN 978-4-10-313701-6。 山室静『北欧の神話 神々と巨人のたたかい』筑摩書房〈世界の神話 8〉、1982年、ISBN 978-4-480-32908-0。 北欧神話の生物 神話・伝説の豚・猪
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ヨーロッパタヒバリ(学名:Anthus petrosus)は、スズメ目セキレイ科に分類される鳥類。 関連項目 イギリスの野鳥一覧 ロシアの野鳥一覧 セキレイ科
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ゲルト・エンゲルス(Gert Engels)ことゲルト・ヨゼフ・アルトゥール・エンゲルス(, 1957年4月26日 - )は、ドイツ・ノルトライン=ヴェストファーレン州出身の元サッカー選手、サッカー指導者。 来歴 父親はアマチュアレベルのサッカー選手で、引退後はコーチを務めていた。エンゲルスも幼い頃から父親の指導するチームと行動を共にし、練習を手伝っていた。 1975年、U-18西ドイツ代表に選ばれて5試合に出場した。エンゲルスのもとにはブンデスリーガのクラブから数多くのオファーが舞い込んだが、その中から、幼い頃よりファンだったボルシア・メンヒェングラートバッハに移籍した。しかし、ボルシア・メンヒェングラートバッハでは出場機会が回って来ないまま3シーズン在籍して契約を満了した。選手時代のエンゲルスは、ボルシア・メンヒェングラートバッハでプレーしながら、で少年選手の指導も行なっていた。 1979年にアーヘン大学に入学し、卒業後はケルン体育大学に進んだ。ケルン体育大学時代も複数の青少年チームの指導にあたり、また同時にアマチュアクラブでのプレーも続けていたため、それらを合わせれば生活できる程度の収入を得ていたという。大学卒業も近づいたある日、学内に掲示されていた選手募集を見たのがきっかけとなり、1990年に日本のアセノ・スポーツクラブ(水戸ホーリーホックの前身のひとつ)に入った。クラブからの報酬はさほど高いものではなかったが、居住費や食費が出て日本語も勉強できるという点に魅力を感じたと語る。アセノ・スポーツクラブ在籍時は選手およびコーチをしながら、スポーツメーカー主催のサッカー教室で散発的に子供たちへの指導を行ったりしていた。 この頃、たまたま日本に住んでいた幼馴染のドイツ人女性を介して、その夫で祖母井秀隆と知り合う。祖母井の紹介により1991年春より黒田和生の下で滝川第二高校サッカー部の特別コーチとなる。その後、ドイツサッカー連盟(DFB)からフースバルレーラー(最上級指導者ライセンス)コースの受講が認められたため日本を離れる。6ヶ月間に及ぶフースバルレーラーの受講期間中には、選手獲得のためにドイツを訪れていた横浜フリューゲルスコーチの木村文治と出会い、スカウティングに協力した。 横浜フリューゲルス時代 ライセンスを取得して日本に戻った後、横浜Fからサテライトコーチ就任のオファーがあり、Jリーグ元年の1993年にコーチに就任した。監督が頻繁に代わる中、彼は一貫してコーチであり続け、1998年はヘッドコーチを務めていたが、10月に前任のカルロス・レシャックの監督解任を受け監督に昇格。それから1月後、横浜Fと横浜マリノスが合併し、クラブが事実上消滅することが発表された。動揺が走る中、チームは合併発表以降、リーグ戦、天皇杯のすべての試合に勝利した。 この間、エンゲルスはホームゲーム最終戦のスピーチで「誰でもいい、助けてくれ!」と叫んでアピールするなどクラブ消滅に対して最後まで闘い、天皇杯の決勝の前日にも「ドイツではカップ戦で優勝したチームには沢山の企業からスポンサーになりたいとオファーがある。カップ戦優勝チームが消滅するなんてドイツではあり得ない」と語った。 市原・京都時代 翌1999年はゼネラルマネージャーの祖母井秀隆に請われてジェフユナイテッド市原の監督となったものの成績不振によりファーストステージ限りで解任された。 2000年からは京都パープルサンガ(現:京都サンガF.C.)のヘッドコーチとなったが、前任の加茂周が解任されたのを受けてセカンドステージから監督に昇格、この年はチームのJ2降格を食い止めることは出来なかったものの翌2001年はJ2優勝を果たし、さらにJ1に復帰した2002年には朴智星や松井大輔を率い、天皇杯で優勝した。しかし2003年は退団した朴智星の穴を埋めきれず、開幕から10試合で2勝8敗の不振のため解任された。 浦和時代 2004年から4年2ヶ月の間、浦和レッドダイヤモンズのヘッドコーチを務める。エンゲルス自身監督経験豊富にもかかわらず、一歩下がって当時の監督であったギド・ブッフバルト、ホルガー・オジェックの片腕としてサポートする浦和にとって貴重な存在であった。 2008年3月16日、成績不振の責任とクラブ内の意思疎通の欠陥を問われたオジェックが解任されたことに伴い、監督に昇格した。これによって、Jリーグのクラブで指揮を執るのは4チーム目ということになった。就任後、守備の要である闘莉王をボランチで起用し、ユース出身の堤俊輔や、ブッフバルト体制からセンターバックとして起用されることが多かった細貝萌を本職のボランチで起用するなど、サプライズ起用や若手起用などを行うことでチームの活性化を図る。数々の策が功を奏し、第13節 G大阪戦までリーグ戦9試合負けなしの好成績を収め、下位に沈んでいたチームを上位まで引き上げた。しかし中断期間終了後は他チームに研究され始めたこともあってか、思うように白星を得られなくなり、ナビスコカップは予選リーグ敗退、連覇を目指していたACLもガンバ大阪に敗れて準決勝敗退、2年ぶりの奪還を目指した天皇杯も横浜F・マリノスに敗れて5回戦で敗退するなどとチームは低空飛行を続けた。 奇策にすがるようにも見える起用法や采配には選手やサポーターから批判が起こり、選手紹介の際にスタジアムがブーイングで鳴り響く事態に陥った。そして極めつけは当時の主力だった永井雄一郎がエンゲルスの采配と浦和フロントのコンセプトの無さを公然と批判する事態にも発展した(最終的に永井はこの年限りで浦和を退団し、清水エスパルスへ移籍した)。 また、最後の望みとなったリーグ戦も第32節清水戦、第33節G大阪戦に敗れ、翌日には名古屋が札幌に勝利したことによりチームは5年ぶりの無冠が決定した。また、リーグ戦順位が4位以内に及ばなかったことにより翌シーズンのACL出場も逃し、契約を1年残して解任を通告された。 その後 2011年10月よりモザンビーク代表の監督に就任した。2014 FIFAワールドカップ・アフリカ予選途中の2013年6月に成績不振を理由に解任された。 2018年1月8日に横浜F監督時代選手だった吉田孝行が監督を務めるヴィッセル神戸のヘッドコーチに就任した。 2018年12月、京都のコーチに就任すると発表された。2019年11月28日、契約満了により退任すると発表された。 2019年12月9日に2020年シーズンからINAC神戸レオネッサの監督に就任することが発表された。2021年2月22日、退任が発表された。 指導者として 元々ユース世代のコーチから出発しており、選手の育成能力や戦術的組織を作る能力は非常に高い。 天皇杯に強く、コーチとして1度(横浜F)、ヘッドコーチとして2度(浦和)、監督として2度(横浜F、京都)の計5回優勝している。 エピソード 日本滞在が長いため、インタビューでもほぼ全て日本語で答えている。なお、本人によればドイツ語と日本語を含めて6ヵ国語を話せるとのこと。 夫人はフィリピン人である。 愛煙家である。 選手経歴 1962年 - 1975年 ユース 1975年 - 1977年 ボルシア・メンヒェングラートバッハ SGデューレン99 アセノ・スポーツクラブ 指導者経歴 1975年 - 1989年 SGデューレン99ユース:コーチ 1990年 アセノ・スポーツクラブ:コーチ 1991年 - 1992年 滝川第二高校:コーチ 1993年 - 1998年 横浜フリューゲルス 1993年 :コーチ 1994年 :サテライト・コーチ 1995年 - 1998年10月 :コーチ 1998年10月 - 12月 :監督 1999年2月 - 1999年5月 ジェフユナイテッド市原:監督 2000年 - 2003年 京都パープルサンガ 2000年 - 2000年5月:ヘッドコーチ 2000年6月 - 2003年6月 :監督 2004年 - 2008年 浦和レッズ 2004年 - 2008年3月:コーチ 2008年3月 - 2008年11月 :監督 2011年11月 - 2013年6月 代表:監督 2018年 ヴィッセル神戸:ヘッドコーチ 2019年 京都サンガF.C.:コーチ 2020年 INAC神戸レオネッサ :監督 タイトル 指導者時代 横浜フリューゲルス 天皇杯全日本サッカー選手権大会1回(1998) 京都パープルサンガ J2リーグ:1回(2001) 天皇杯全日本サッカー選手権大会:1回(2002) 脚注 関連項目 Jリーグ監督経験者 浦和レッドダイヤモンズの選手一覧 外部リンク ドイツのサッカー選手 ボルシアMGの選手 ドイツのサッカー指導者 横浜フリューゲルスの監督 京都サンガF.C.の監督 ジェフユナイテッド市原・千葉の監督 浦和レッドダイヤモンズの監督 モザンビークのサッカー ヴィッセル神戸の人物 INAC神戸レオネッサ ノルトライン=ヴェストファーレン州出身の人物 1957年生 存命人物
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上杉 二美(うえすぎ ふたみ、1951年1月7日 - )は、長野県出身の女優。劇団青年座所属。桐朋学園芸術短期大学部芸術科演劇専攻卒業。血液型はA型、身長158cm、体重45kg。趣味は剣道、調布の民謡朗読などのボランティア。作陽音楽短期大学ミュージカル科非常勤講師、東京文理学院高等部で講師を務める。 出演 テレビドラマ TBS Gメン'75 第333話 「悪魔を呼ぶ子供」(1981年) 新・天までとどけ2 3年B組金八先生 第4シリーズ(1995-1996年) - 石築サツキ(朋子の母) 役 第5シリーズ(1999-2000年) - 入船クニ子(力也の母) 役 うちの子にかぎって…2 第6話 - 牛島レイ子 役 華麗なる一族 月曜ミステリー劇場 十津川警部シリーズ36 河津・天城連続殺人事件(2006年1月9日) ホステス探偵危機一髪6「銀座の高層マンション建設反対殺人事件 死体の横に落ちた鍵…通り魔のゴリラ男だけが知っている警察も騙された盲点」(2004年5月31日) 金田一耕助シリーズ「神隠し真珠郎」 - 女中かず子 役 月曜ゴールデン 信濃のコロンボ事件ファイル2 戸隠伝説殺人事件(2014年11月24日) 愛の劇場 愛の断崖 フライパンの唄 ポーラテレビ小説 グッバイ・ママ ディア・フレンド フジテレビ おばさんデカ 桜乙女の事件帖 アテンションプリーズ - 掃除のおばちゃん 役 赤い糸の女(東海テレビ、フジテレビ)- 徳州麟平の母 役 日本テレビ 外科医有森冴子スペシャル 火曜サスペンス劇場 わが町9「妻殺しをたくらむ夫の眼前で妻がレイプ - 大都会の闇にうごめく悪の連鎖」(1997年10月14日) ドロ刑(2018年)- 浜田律子 役 NHK 大河ドラマ 武蔵 MUSASHI 少年ドラマシリーズ ユタとふしぎな仲間たち スキッと一心太助 テレビ朝日 はぐれ刑事純情派(1993年)- 田代三枝子 役 流転の王妃・最後の皇弟 特捜最前線第21話 土曜ワイド劇場 炎の警備隊長・五十嵐杜夫3 私の部屋に見知らぬ男の死体が!秘密を知る女は隊長の恋人!?(2005年7月16日) 終着駅の牛尾刑事VS事件記者・冴子13 家族の食卓(2013年12月28日) 私は代行屋! 事件推理請負人3 不倫医師殺人!銀座ホステスを襲う謎の黒革の手帳!?(2014年11月15日) テレビ東京 北アルプス山岳救助隊・紫門一鬼10「白馬・唐松岳殺人ルート」(2008年3月12日)- 岡野誠二 役 孤独のグルメ Season2第7話(2012年11月21日)- お母さん 役 らせんの迷宮〜DNA科学捜査〜 第5話(2021年11月12日) 関西テレビ ドウニチラヴ第8話 毎日放送 ウルトラマンコスモス第6話・怪獣一本釣り(2001年8月11日) 不明 サザエさん 映画 まあだだよ 春の雪 さくら隊散る - 羽原の母 役 CM 松下電工 味の素 ヤクルト サントリー BOSS7 ゼロックス 東芝 うず潮 カーサワデー エーボン化粧品 味の素ほんだし デビアスダイヤモンド パナソニック ビデオムービー 松下電工 クリーンシャワレ エスビー食品 5/8チップ オリエントコーポレーション 足利銀行 綜合警備保障 舞台 劇団青年座 桜姫東文章 - 入山 役 新版四谷怪談 - お政・お大 役 永遠の青空 - 元村葉子 役 仏田摩耶山開帳 三文オペラ - ポリー 役 将軍たちの夜 永遠の青空 からゆきさん 四谷怪談 新・四谷怪談 真夜中のブランコ 三島由紀夫 綾の鼓 いやいやながら医者にされ ブンナよ木からおりてこい 盟三五大切 近松心中考 ほととぎすほととぎす 金閣炎上 弥次喜多 宮城野 写楽考 オセロ あした天気になあれ 劇団風力写真機 外部リンク プロフィール - 青年座映画放送 青年座公演 映像・舞台 日本の女優 桐朋学園芸術短期大学出身の人物 長野県出身の人物 1951年生 存命人物
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白 慶花(ペク・ギョンファ、1992年11月11日 - )は、在日朝鮮人の元女子バスケットボール選手である。ポジションはセンター。 来歴 京都府出身。 京都朝鮮中高級学校中級部から桜花学園高校に進み、全国大会優勝を経験。 卒業後は筑波大でインカレ3位を経験後、アイシン・エィ・ダブリュ ウィングスにアーリーエントリーを経て加入。 2019年6月、平壌で行われた2020年東京オリンピックを目指す朝鮮代表の選考会に参加した。 2020年、トヨタ紡織サンシャインラビッツに移籍。 2023年、引退。 脚注 関連項目 バスケットボール選手一覧 筑波大学の人物一覧 京都府出身の人物一覧 外部リンク #12白慶花 - トヨタ紡織サンシャインラビッツ 北朝鮮の女子バスケットボール選手 在日外国人のバスケットボール選手 在日韓国・朝鮮人のスポーツ選手 トヨタ紡織サンシャインラビッツの選手 アイシン ウィングスの選手 筑波大学出身の人物 桜花学園高等学校出身の人物 京都府出身の人物 1992年生 存命人物
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月弓(げっきゅう) 弦月の別名。 ツクヨミの別表記。月弓命。 サカタインダストリィ#月弓・シリーズ (ゲーム『フロントミッション』に登場する兵器) 参考文献
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大嶋 春樹(おおしま はるき、2000年7月11日 - )は、兵庫県出身のサッカー選手。Jリーグ・Y.S.C.C.横浜所属。ポジションはDF。 来歴 神戸弘陵学園高校をへて、中京大学に進学。同大サッカー部では川地功起、水口湧斗らとプレーした。2022年12月19日、2023年シーズンからのY.S.C.C.横浜加入内定が発表された。 2023年3月5日、J3リーグ開幕戦のカターレ富山戦でJリーグデビューを飾った。 所属クラブ 米田SSC VIVO FC 神戸弘陵学園高等学校 中京大学 2023年 - Y.S.C.C.横浜 個人成績 |- |2022||中京大||16||他||colspan=2|-||colspan=2|-||1||0||1||0 |- |2023||rowspan="2"|YS横浜||15||rowspan="2"|J3||31||3||colspan=2|-||colspan=2|-||31||3 |- |2024||5|||||||||||||||| |- 31||3||colspan=2|-||colspan=2|-||31||3 colspan=2|-||colspan=2|-||1||0||1||0 31||3||colspan=2|-||1||0||32||3 |} 脚注 関連項目 横浜スポーツ&カルチャークラブの選手一覧 日本のサッカー選手 中京大学体育会サッカー部の選手 横浜スポーツ&カルチャークラブの選手 神戸弘陵学園高等学校出身の人物 兵庫県出身の人物 2000年生 存命人物
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マッキントッシュ・ラボ (McIntosh Laboratory, INC) はアメリカ合衆国の高級音響機器の設計および製造会社。マッキントッシュ (McIntosh) のブランド名で知られる。 歴史 マッキントッシュ・ラボ社は1949年創立。創立者フランク・H・マッキントッシュ。創業地ワシントン。所有地はニューヨーク州ビンガムトン。代表者はチャーリーズ・M・ランドール。 1990年、クラリオンの米国法人が買収した。さらに2003年5月には持株会社であるディーアンドエムホールディングスが買収し、傘下ブランドとなった。日本への輸入・販売・サポート業務はそれまでエレクトリが行っていたが、2007年4月1日にディーアンドエムホールディングスが新たに設立した日本法人子会社、株式会社マッキントッシュ・ジャパンに移された。 2012年10月に高級オーディオメーカー(ブランド)を多く傘下に持つイタリアの持株会社がD&Mホールディングスから買収し、自社の傘下に収めた。日本での輸入販売権はまたエレクトリに戻され、サポート業務を引き継ぐことになった。 製品 アンプ製品については、「ブルーアイズ」と呼ばれる左右パワーメーターが主な外観的特徴となっている。 現行製品 スピーカー コンパクトディスクプレーヤー アンプ カーオーディオ(カーオーディオ事業の日本輸入権はクラリオンに残っている) McIntosh AP1 Audio Player - iOS向け音楽再生アプリケーション マッキントッシュ製アンプのフロントパネルのランプやメーターを再現している公式アプリケーション。 純正システムへの採用 日本国内においては、富士重工業(現・SUBARU)がレガシィ(3 - 5代目[BH/BE型 BP/BL型 BR/BM型])のメーカーオプション扱いでマッキントッシュオーディオを採用したことで知られる。 過去の日本法人 商号株式会社マッキントッシュ・ジャパン(英称: McIntosh Japan Co., Ltd.) 本社〒210-8569 神奈川県川崎市川崎区日進町2番地1 設立年月日2007年4月1日 株主株式会社ディーアンドエムホールディングス 100% 脚注 外部リンク アメリカ合衆国の音響機器メーカー アメリカ合衆国の自動車部品サプライヤー 音響機器メーカー スタジオ関連機材メーカー エポニム
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住信SBIネット銀カード株式会社 (SBI Sumishin Net Bank Card Co., Ltd.) は、住信SBIネット銀行株式会社の完全子会社。かつてはクレジットカード事業を行っていた。 概説 2009年に設立。2010年4月にソニーファイナンスインターナショナルからCPコスメティクスとの提携クレジットカード事業を会社分割により譲受したが、2023年3月31日をもって全てのサービスを終了している。親会社の住信SBIネット銀行とサービス面で提携しているクレジットカード「ミライノカード」は自社発行もしくはライフカードとの提携カードであり、ネット銀カードとは接点がない。 かつて発行していたクレジットカード 提携カード CPコスメティクス - ソニーファイナンスインターナショナルより会員と債権を譲受 加盟する信用情報機関 クレジットカードなどの信用審査を行う為に以下の信用情報機関に加盟する。 株式会社シー・アイ・シー(CIC) 脚注 外部リンク 住信SBIネット銀カード かつて存在した日本のクレジットカード事業者 東京都港区の企業
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スリュムヘイム(トリルハイムとも。)とは、北欧神話に登場する巨人スィアチの館である。その名前は「轟く家」("crash-home")、「雷の鳴る家」("Thunder Home")、「騒がしい家」("noisy-home")を意味する。 スリュムヘイムはヨトゥンヘイムの山合いにあった。スィアチが雷神トールに倒された後は、娘のスカジが一人で暮らしていたようである。『古エッダ』の『グリームニルの言葉』において神々の住居が列挙されるが、このスリュムヘイムは6番目に挙げられ、そこでスカジは「神々の麗しい花嫁」と呼ばれる。 『スノッリのエッダ』第一部『ギュルヴィたぶらかし』第23章によれば、スカジは海神ニョルズと結婚したが、彼女はスリュムヘイムに住みたいと言った。しかしニョルズは自分の館ノーアトゥーンで暮らしたいと言った。そこで2人は7日ずつ交互に互いの館で暮らすことにした。しかしノーアトゥーンは港にあったため、スカジは海鳥の声がうるさくて眠れなかった。ニョルズはスリュムヘイムで暮らす間、狼の遠吠えが我慢ならなかった。2人は離婚し、スカジはスリュムヘイムでまた暮らすようになった。 一説には、弓の神ウルとスカジが出会って意気投合し、スリュムヘイムで同居するようになったとも言われている。 脚注 関連項目 スカジ (北欧神話) スィアチ ヨトゥンヘイム 参考文献 V.G.ネッケル他編『エッダ 古代北欧歌謡集』谷口幸男訳、新潮社、1973年、ISBN 978-4-10-313701-6。 松村武雄編著『北欧の神話伝説(II)』名著普及会〈世界神話伝説大系 30 〉、1980年改訂版、ISBN 978-4-89551-280-0。 Byock, Jesse (Trans.) (2006). The Prose Edda. Penguin Classics. ISBN 978-0-14-044755-2. Orchard, Andy (1997). Dictionary of Norse Myth and Legend. Cassell. ISBN 978-0-304-34520-5. Simek, Rudolf (2007) translated by Angela Hall. Dictionary of Northern Mythology. D.S. Brewer. ISBN 978-0-8599-1513-7. 北欧神話の地名 神話・伝説の建築物
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三輪 祐見子(みわ ゆみこ、1969年4月23日 - )日本のテレビプロデューサーである。株式会社テレビ朝日総合編成局ドラマ制作部長。 来歴 東京都出身。早稲田大学卒業後、1992年にテレビ朝日入社。同期には六車俊治など。 広報部に配属され、『ドラえもん』『クレヨンしんちゃん』『美少女戦士セーラームーン』を担当。1995年に制作部へ異動し、『土曜ワイド劇場』の担当プロデューサーとなる。その後も深夜枠ドラマなどのプロデュースを経て、『エースをねらえ!』より本格的に連続ドラマを手掛けるようになる。『DOCTORS〜最強の名医〜』第3部から2018年SP、『刑事7人』第1部で黒田徹也と共にゼネラルプロデューサーを担当するなど、医療ドラマや刑事ドラマを手がけた。 2016年より『おっさんずラブ』の製作総指揮(ゼネラルプロデューサー)を担当し、2019年度エランドール賞(プロデューサー賞・奨励賞)を受賞。『おっさんずラブ』のプロデューサー貴島彩理は三輪のことを、内山聖子とともにテレビ朝日の女性ドラマプロデューサーの道を切り開いたスタープロデューサーと述べている。 2021年現在もドラマを担当する一方で、総合編成局の管理職の立場からシンエイ動画の非常勤取締役を務めたり、『RE-MAIN』の立ち上げに参画するなど、アニメーション製作にも僅かながら関与している。 作品リスト 脚注 日本のテレビプロデューサー テレビ朝日の人物 早稲田大学出身の人物 東京都出身の人物 1969年生 存命人物
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2005年日本グランプリ(2005 Japanese Grand Prix)は、2005年F1世界選手権第18戦として、2005年10月9日に鈴鹿サーキットで決勝レースが開催された。 概要 前戦ブラジルGPにて、ルノーのフェルナンド・アロンソがドライバーズチャンピオンを獲得。コンストラクターズタイトルはマクラーレンがルノーを2ポイントリードした接戦のまま、残り2戦を迎えた。 日本GP前の会見にて、ホンダがBARの全株式買収(フルワークス化)を発表。さらに、来期より参戦する新チームに対してエンジン供給を行う用意があると発表した。この新チームはのちにスーパーアグリと判明するが、テレビ解説者として鈴鹿入りした鈴木亜久里は、この時点では噂を否定していた。 テレビ放送は、フジテレビ系列が中継する日本GPとしては初の生放送となった。フジテレビ系列が日本国内で開催したF1グランプリを生中継するのは、1994年にTIサーキット英田で行われたパシフィックGP以来、11年ぶりのことであった。 予選 土曜日午前のフリー走行はウェットコンディションで行われ、フェラーリのミハエル・シューマッハがS字コーナーで足をすくわれてクラッシュした。午後の予選開始時には雨は上がっていたが、まだ路面は濡れているため、各マシンは浅溝のインターミディエイトタイヤを装着して出走した。 しかし、セッション途中から再び激しい雨が降り始め、終盤に出走したドライバー(前戦の上位入賞者)はスロー走行しかできなかった。その結果、13番目にアタックしたトヨタのラルフ・シューマッハが、2年連続となる日本GPのポールポジションを獲得。14番目にアタックしたBARのジェンソン・バトンが2位となった。思わぬ天候の演出により、トヨタとホンダ(エンジン)が日本GPのフロントローを分け合う形になった。 ラルフ・シューマッハの前にアタックしたレッドブルのクリスチャン・クリエンが自己ベストの4位を獲得し、BARの佐藤琢磨が5位につけた。 コンストラクターズタイトルを争うマクラーレンとルノーは直に雨の影響を受け、ジャンカルロ・フィジケラが3位につけた以外は、フェルナンド・アロンソ、キミ・ライコネン、ファン・パブロ・モントーヤの3人が16 - 18位と下位グリッドに沈んだ。 結果 決勝 新旧王者の接戦 決勝当日の日曜日は好天に恵まれた。ラルフ・シューマッハがポールポジションから好スタートを切り、フィジケラがバトンをかわして2位に浮上した。後方スタートのミハエル・シューマッハは7位、アロンソは8位、ライコネンは12位にジャンプアップした。佐藤とバリチェロはスタート直後に1コーナで接触し、大きく順位を落とした。モントーヤはオープニングラップの最終コーナーでクラッシュし、5周に渡りセーフティカーが導入された。 レース再開後、9周目のシケインでアロンソがクリエンをパスするが、勢い余ってシケインをショートカットした。レースコントロールはルノーに対してペナルティの可能性を通達し、アロンソは一旦クリエンを先行させてから再び抜かねばならなかった。 トップのラルフは12周目に最初のピットイン。燃料搭載量を減らす3ストップ作戦を予定していたが、セーフティカー走行で作戦が狂い、順位を落としてしまう。以後、レース終盤までフィジケラがトップをキープし、後方でバトンとウィリアムズのマーク・ウェバーが接戦を展開した。 5位争いはミハエル、アロンソ、ライコネンの3台が接近戦を演じる。19周目、アロンソはバックストレートでミハエルのスリップストリームにつき、超高速コーナー130Rへの飛び込みでアウト側からかわす大技を決めた。ライコネンも最初のピットイン後、30周目の1コーナーでアウト側からミハエルを抜いた。アロンソはピットイン後ポジションを落としたが、再びミハエルの背後に迫り、33周目にライコネンと同じく1コーナーアウト側からこの日2度目のオーバーテイクを成功させた。上位6台はフィジケラ-バトン-ウェバー-ライコネン-アロンソ-シューマッハの順となる。 最終ラップの逆転劇 フィジケラは2位以下を20秒近く離して、38周目に2回目のピットイン。40周目にはバトンとウェバーが同時ピットインしたが、ウェバーの給油作業の方が早く終わり、ふたりの順位が逆転した。ライコネンはピットインを最後まで遅らせ、ファステストラップを記録しながらコース上でマージンを稼いだ。45周目にピットインすると、ウェバーとバトンをかわして2番手でコースに復帰。トップのフィジケラとは5.4秒の差があったが、フィジケラはタイヤの磨耗でペースが上がらず、両者の差は急速に縮まっていった。 49周目、アロンソがホームストレートでウェバーに並びかけ、イン側の芝生にタイヤを落としながらも怯まず3位に浮上した。 ライコネンはフィジケラよりも2秒速いラップタイムを出し、残り3周で背後に追いついた。52周目、フィジケラは130Rで周回遅れに捉まり、2台はテール・トゥ・ノーズの状態で最終ラップに突入した。ホームストレートでライコネンはアウト側にラインを変え、フィジケラの抵抗にも構わず1コーナーアウト側から抜き去り、ついにトップに浮上。ライコネンはフィジケラを引き離し、劇的な展開で今季7勝目を達成。チェッカーを受けた直後に両手を挙げ、喜びを表現した。 ライコネンとアロンソは予選のハンディを挽回し、F1では抜きにくいサーキットといわれる鈴鹿で果敢なオーバーテイクショーを披露した。レース後のインタビューで、ライコネンは「自身のベストレース」と語り、アロンソは3位という結果に不満だったものの、ミハエルとの130Rでのバトルを「最高の瞬間だった」と語った。 デビュー以来、日本GPにおいて3年連続入賞していた佐藤は、スタート直後の1コーナでコースアウトを喫し、9周目にはシケインでトヨタのヤルノ・トゥルーリに接触した。その後走行を続け1周遅れの13位でフィニッシュしたものの、トゥルーリとの接触がレース後に危険行為と判断され失格となった。トヨタ代表の富田務とリタイアしたトゥルーリは、佐藤の強引な仕掛けを強く非難した。 コンストラクターズタイトル争いではルノーが逆転し、2点リードして最終戦中国GPを迎える。 結果 *Ret:リタイア、DSQ:失格 記録 ポールポジション: ラルフ・シューマッハ - 1'46.106 ファステストラップ: キミ・ライコネン - 1'31.540 ラップリーダー: ラルフ・シューマッハ (1-12周目) ジャンカルロ・フィジケラ (13-20周目, 27-38周目, 46-52周目) ジェンソン・バトン (21-22周目, 39-40周目) デビッド・クルサード (23周目) ミハエル・シューマッハ (24-26周目) キミ・ライコネン (41-45周目, 53周目) 脚注 2005 2005年のF1レースレポート 2005年の日本のモータースポーツ 鈴鹿サーキット 2005年10月
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中山 宏子(生年月日不明)は、かつて劇団「WAHAHA本舗」に所属していた女優。 1984年の第2回公演『福祉』からWAHAHA本舗に参加。1991年の第15回公演『シェイクスピアだよ!全員集合!』を以て俳優業を休業した。主なテレビ番組出演は「冗談画報」(フジテレビ)、「河田町プッツン意思表示」(フジテレビ)など。当時同劇団員のなんきんと婚姻関係があった。主なビデオ出演は「竹中直人の放送禁止テレビ」。 脚注 日本の女優 過去のWAHAHA本舗所属者 生年未記載
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浜町(はまちょう、はままち) はまちょう 廃止自治体 浜町 (佐賀県) - 佐賀県藤津郡に所在。現:鹿島市。 浜町 (熊本県) - 熊本県上益城郡に所在。現:山都町。 その他の地名 浜町 (釧路市) - 北海道釧路市の地名。 浜町 (苫小牧市) - 北海道苫小牧市の地名。 浜町 (函館市) - 北海道函館市の地名。 浜町 (洞爺湖町) - 北海道虻田郡洞爺湖町の地名。 浜町 (豊浦町) - 北海道 虻田郡豊浦町の地名。 浜町 (浦河町) - 北海道浦河郡浦河町の地名。 大湊浜町 - 青森県むつ市の地名。 浜町 (釜石市) - 岩手県釜石市の地名。 浜町 (気仙沼市) - 宮城県気仙沼市の地名。 浜町 (太田市) - 群馬県太田市の地名。 浜町 (加須市) - 埼玉県加須市の地名。 浜町 (銚子市) - 千葉県銚子市の地名。 浜町 (船橋市) - 千葉県船橋市の町名。 日本橋浜町 - 東京都中央区の町名。 浜町 (横浜市) - 神奈川県横浜市鶴見区の町名。 浜町 (川崎市) - 神奈川県川崎市川崎区の町名。 浜町 (小田原市) -神奈川県小田原市の地名。 浜町 (新潟市) - 新潟県新潟市東区の地名。 浜町 (一宮市) - 愛知県一宮市の地名。 浜町 (刈谷市) - 愛知県刈谷市の地名。 浜町 (蒲郡市) - 愛知県蒲郡市の地名。 浜町 (摂津市) - 大阪府摂津市の地名。 浜町 (芦屋市) - 兵庫県芦屋市の町名。 浜町 (西宮市) - 兵庫県西宮市の地名。 浜町 (出雲市) - 島根県出雲市の地名。 浜町 (宇部市) - 山口県宇部市の地名。 浜町 (五島市) - 長崎県五島市の地名。 はままち 浜町 (石狩市) - 北海道石狩市の地名。 浜町 (羽幌町) - 北海道苫前郡羽幌町の地名。 浜町 (黒石市) - 青森県黒石市の地名。 浜町 (鰺ヶ沢町) - 青森県西津軽郡鰺ヶ沢町の地名。 浜町 (滑川市) - 富山県滑川市の地名。 浜町 (能美市) - 石川県能美市の地名。 浜町 (半田市) - 愛知県半田市の地名。 浜町 (碧南市) - 愛知県碧南市の地名。 浜町 (四日市市) - 三重県四日市市の地名。 浜町 (大津市) - 滋賀県大津市の地名。 浜町 (舞鶴市) - 京都府舞鶴市の地名。 浜町 (宮津市) - 京都府宮津市の地名。 浜町 (門真市) - 大阪府門真市の地名。 浜町 (大東市) - 大阪府大東市の地名。 浜町 (守口市) - 大阪府守口市の地名。 浜町 (倉敷市) - 岡山県倉敷市の地名。 浜町 (高梁市) - 岡山県高梁市の地名。 浜町 (丸亀市) - 香川県丸亀市の地名。 浜町 (須崎市) - 高知県須崎市の地名。 浜町 (土佐清水市) - 高知県土佐清水市の地名。 浜町 (北九州市門司区) - 福岡県北九州市門司区の地名。 浜町 (北九州市若松区) - 福岡県北九州市若松区の地名。 浜町 (大牟田市) - 福岡県 大牟田市の地名。 浜町 (苅田町) - 福岡県京都郡苅田町の地名。 浜町 (鹿島市) - 佐賀県鹿島市の地名。 浜町 (長崎市) - 長崎県長崎市の地名。地元では「はまのまち」とも呼ばれる。 浜町アーケード - 長崎県長崎市にある商店街。 浜町 (水俣市) - 熊本県水俣市の地名。 浜町 (山都町) - 熊本県上益城郡山都町の大字。旧・矢部町中心地の地名で商店街の名称にも使われる。 浜町 (別府市) - 大分県別府市の地名。 浜町 (豊後高田市) - 大分県豊後高田市の地名。 浜町 (延岡市) - 宮崎県延岡市の地名。 浜町 (日向市) - 宮崎県日向市の地名。 浜町 (鹿児島市) - 鹿児島県鹿児島市の町名。 浜町 (阿久根市) - 鹿児島県阿久根市の地名。 浜町 (敷根村) - 鹿児島県姶良郡敷根村の大字。1954年(昭和29年)に敷根村が国分町に編入されたのに伴い大字麓と統合し大字敷根となった。現在の霧島市国分敷根の一部にあたる。
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昭明町(しょうめいちょう)は愛知県名古屋市中川区にある町名。現行行政地名は昭明町1丁目から昭明町5丁目。住居表示未実施。 地理 名古屋市中川区の南東部に位置し、東に松年町、西に明徳町、北に昭和橋通、南に港区丸池町と接する。 歴史 世帯数と人口 2019年(平成31年)1月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである。 学区 市立小・中学校に通う場合、学校等は以下の通りとなる。また、公立高等学校に通う場合の学区は以下の通りとなる。 施設 ヤマダ電機 家電住まいる館YAMADA名古屋本店 名阪近鉄バス 名古屋営業所 昭明公園 その他 日本郵便 郵便番号 : 454-0855(集配局:中川郵便局)。 脚注 関連項目 名古屋市の地名 中川区の町・字
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SARI(サリ)は、日本の女性シンガーソングライター。 概要 愛知県を中心に活動するインディーズ女性シンガーソングライター。2012年3月、インディーズレーベルStudio SoCoから楽曲『星が照らすキミ feat.SARI』でデビューする。 楽曲が発売された当時、愛知・岐阜・三重内で、ヒップホップ、R&B等ジャンル内で最も話題を呼んでいたと言われているCLUBイベント『FLY AND FLASHY』に過去出演していたアーティストとしても知られている。 ディスコグラフィ 配信 『星が照らすキミ feat.SARI』(2012年3月7日) 脚注 日本の女性シンガーソングライター 日本の女性歌手 日本のR&B・ミュージシャン 存命人物
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南部山健康運動公園(なんぶやまけんこううんどうこうえん)は、青森県八戸市にある都市公園(総合公園)である。 概要 南部山健康運動公園は通称南部山公園と呼ばれている、八戸市河原木の八戸北バイパス沿いに位置する。23haの公園敷地内には、体育館、温水プール、トレーニングジム、テニスコート、多目的広場などが整備されている。 アクセス 八戸自動車道:八戸インターから車で約20分 八戸自動車道/百石道路:八戸北インターから車で約5分 八戸市中心市街地から車で約20分 東日本旅客鉄道(JR東日本)・青い森鉄道:八戸駅から車で約20分 周辺 八食センター(車で10分程度) 八戸北インター工業団地 ハイテクパーク 脚注 外部リンク 南部山健康運動公園 東北地方の運動公園 八戸市のスポーツ施設 青森県の公園 八戸市の地理
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大野 ツトム(おおの ツトム)は、日本の漫画家。2022年より『ヤングガンガン』(スクウェア・エニックス)にて、『騎士団長のエルフさんだって乙女がしたい。』を連載している。 来歴 2011年、『チャンピオンRED』(秋田書店)10月号よりアクション作品の『閃槍のリオネ』の連載を開始。大野にとって同誌初登場作品となる。2013年、『漫画アクション』(双葉社)17号より「尻尾が生えた少女」が戦うバトルアクション『しっぽ!エンハンスメント』の連載を開始。2015年、『ビッグコミックスピリッツ』(小学館)にて堅物な男子高校生と義母のラブコメディ作品『茄子とアルタイル』の連載を開始し、同年に連載を終了。 2016年、『ヤングアニマル』(白泉社)22号より和風ファンタジーの『斑丸ケイオス』の連載を開始し、2017年に連載が終了となる。2019年、『ヤングガンガン』(スクウェア・エニックス)4号より犬とバディを組む冒険活劇『テツヲベルッタ』の連載を開始。2021年、同誌にて読み切り「騎士団長ギルガさんは乙女がしたい」を掲載し、2022年より同誌にて、誌面によると「読み切り版をパワーアップした」という『騎士団長のエルフさんだって乙女がしたい。』の連載を開始。 作品リスト 連載漫画 ネム×ダン(『月刊COMICリュウ』2008年5月号 - 2009年1月号、全1巻) - 不定期連載 夕ばえ作戦(原作:光瀬龍、脚色:押井守、『月刊COMICリュウ』2009年2月号 - 2011年1月号、全4巻) 閃槍のリオネ(『チャンピオンRED』2011年10月号 - 2012年3月号) - 未単行本化 TIGER&BUNNY -The Beginning-(原作:サンライズ、『ニュータイプエース』Vol.14 - vol.17、全2巻) しっぽ!エンハンスメント(『漫画アクション』2013年17号 - 2014年13号、全2巻) 茄子とアルタイル(『ビッグコミックスピリッツ』2015年7号 - 2015年44号、全2巻) 斑丸ケイオス(『ヤングアニマル』2016年22号 - 2017年24号、全3巻) テツヲベルッタ(『ヤングガンガン』2019年4号 - 2020年13号、全3巻) 騎士団長のエルフさんだって乙女がしたい。(『ヤングガンガン』2022年22号 - ) - 読み切りから連載化。 読みきり漫画 仲本の類(『アオハル』第0号) - 「青春とヒロイン」がテーマ。 タイトル不明(『震災に負けるな!東日本project』、2011年8月) - チャリティ同人誌に漫画寄稿。 タイトル不明(原作:サンライズ、『ニュータイプエース』Vol.1掲載、『TIGER & BUNNY 公式コミックアンソロジー #01 It takes two to make a quarrel.(ケンカは一人ではできない)』2011年) - 『TIGER & BUNNY』のアンソロジー寄稿作品。 信長ファイト(『アオハル "sweet"』、2012年) タイトル不明(『水着アクション』2013年) - 双葉社の合同誌寄稿作品。 鉄のゴーレム(『ヤングガンガン』2016年5号) - 『ヤングガンガン』初登場作品。 騎士団長ギルガさんは乙女がしたい(『ヤングガンガン』2021年19号) その他 イラスト(『pixiv年鑑2011オフィシャルブック』収録、2011年9月30日発売、エンターブレイン) 翠星のガルガンティア(作品公式Twitterカウントダウンイラスト) まどか☆マギカ(コミケ89ローソン) 脚注 師匠 只野和子 外部リンク 日本の漫画家 生年未記載 存命人物
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『ニンゲンBOX~プレミア!新種バカ図鑑~』(ニンゲンボックス プレミア!しんしゅバカずかん)は、2006年3月にフジテレビ系列で放送された番組。フジテレビでは、2006年3月28日0:35から1時間放送された。『100人目のバカ』の続編にあたる。 概要 日本中の愛すべき人達を紹介する番組。100人目のバカシリーズでお馴染みの存在だったバカトップ3の中沢健・伊藤博樹・ますだまつり、森下晴夫やヒャクレンジャー等の近況やいいのまちUFOふれあい館(福島市飯野町青木)などが紹介された。 出演者 関根勤 倉田真由美 YOU 斉藤舞子(フジテレビアナウンサー) レポーター ビビる大木 戸部洋子(フジテレビアナウンサー) ナレーション 吉田伸男(当時 フジテレビアナウンサー) スタッフ 構成:渡辺健久、根垣寿美 音効:岡戸久幸(SPOT) TD:岩崎真澄(…from r) CAM:山下義人(…from r) VE:石井博文(…from r) EED:高野毅(ヌーベルPC)、石井謙作 MA:寺本征弘 ヘアメイク:目崎陽子(SUGAR) ロケ協力:GEISAI実行委員会 協力:浅井企画 リサーチ:フリード、100バカ制作委員会 スタジオ協力:Tri-1スタジオ 編成:渋谷謙太郎(フジテレビ) AD:今井貴公 ディレクター:安達敏春、鈴木博久、安藤茂寛 演出:三澤隆之 プロデューサー:柴田明廣、大槻泰輔 制作協力:サラダボウル 制作著作:フジテレビ 2006年のテレビ番組 (日本) フジテレビの深夜番組の歴史 フジテレビの特別番組 フジテレビのバラエティ番組の歴史 関根勤
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肥田 金一郎(ひだ きんいちろう、1874年7月2日 - 1936年8月11日)は、日本の実業家。父・肥田昭作が採掘権を獲得した福島県高玉鉱山を経営する傍ら、福島県馬産の要職に携わる。日本中央競馬会(JRA)福島競馬場に連なる福島競馬倶楽部の公認開催権取得に功績を残し、また後には1908年の馬券禁止以来苦境に陥っていた千葉県中山競馬倶楽部の地位向上に尽くし、日本の最高障害競走・中山大障害を創設するなど、のちに中央競馬の主要場となる中山競馬場の礎を築いた。政治面では、安達郡高川村長や安達郡会議員を務めた。住所は牛込区市谷甲良町41であった。 経歴 福島県産馬・競馬事業について 1874年、東京市に生まれる。1892年、旧制学習院中等科を卒業し、福島県高玉鉱山に入社、1919年まで経営に携わった。 馬好きだった昭作の影響もあって自身も馬をよく好み、福島在住の間、県馬産事業に深く関わった。1912年に安達郡高川村から産馬組合議員に選出されたのを初めとして、1917年には安達郡産馬畜産組合長に就任した。福島はかつて1万5000頭の馬を生産した本州第一の馬産地であったが、この当時は1万1000頭前後まで減少しており、これを憂えた前組合長・伊藤彌(わたる)がオーストラリアから牝馬の輸入を画策していた。しかし伊藤は計画実現を目前にして没したため、肥田がこの事業を引き継いで各方面との折衝を行い、1919年に第1回の輸入が実現、以後3度にわたって40頭の牝馬が持ち込まれ、競馬や馬匹改良に充てられた。これは福島県に「豪サラ」が持ち込まれた最初の例となった。1920年、肥田は畜産組合長および1915年から務めていた高川村長を辞し、翌1921年に馬政長官より産馬功労者表彰を受けた。 肥田は馬産地福島県に公認競馬を設置することにも成功した。創立以来経営不振が続いていた静岡県藤枝競馬倶楽部が開催権の売却を希望していることを知ると、県内有力者の説得に努め、1917年12月、権利買収に成功。翌1918年に公認競馬施行体・福島競馬倶楽部が発足した。肥田は1921年より会頭、1923年より副会頭となった。なお、1918年の福島開場以前は、開成山競馬場で開催が行われていたが、肥田はここで自身の所有馬に騎乗してレースに出走する「紳士騎手」としての顔もあった。 また、1920年に競馬協会(帝国競馬協会)の理事に当選し、理事長安田伊左衛門らと共に競馬法の制定に取り組んだほか、馬匹改良上重要でありながら管理がずさんだった馬の血統および能力登録の必要性を説き、協会事業として行わせている。 中山競馬倶楽部における業績 1926年、帝国競馬協会理事を辞した肥田は、千葉県の中山競馬倶楽部に招かれ、常務理事に就任した。これ以前、同倶楽部は葛飾村古作(現・船橋市古作)にあった競馬場を行徳町(現・市川市行徳)の海岸沿いへ移転することを計画していたが、その完成を目前にして関東大地震(関東大震災)が発生し、新競馬場は津波によって流失した。この被害によって中山競馬の開催は妨げられ、混乱に乗じた幹部同士の権力闘争も発生するなど、倶楽部は機能麻痺状態に陥っていた。1924年より理事長は欠員が続いており、常務理事は事実上の最高職であった。 肥田はまず新たな競馬場用地の確保に着手、旧競馬場のあった古作の別の土地を改めて候補に選んだ。倶楽部の内紛で長らく競馬開催ができず土地の賃借料支払いが滞っていたことから、周辺地権者の悪感情が強く交渉は難航したが、中山町々長中村勝五郎、加藤貞次、法典村々長高橋恒治といった地元有力者の協力を取り付け、翌年には契約締結に至った。続いて肥田は「東洋一の競馬場」を建設すべく独断で競馬場の着工申請を行ったが、承認理事会において常務理事・阿部純隆が「着工申請は肥田の越権行為である」として不信任動議を提出した。これを受け、肥田は直ちに農林相山本悌二郎に宛て、事態収拾の陳情書を送付。この書簡は「同倶楽部に纏綿たる情実を赤裸々に具陳し謹んで明鑑を仰ぎ、もって同倶楽部の刷新更正の御裁断を懇願する」として、相次ぐ権力闘争などの内幕を詳細に記したものであった。これに対し農林省畜産局は「紛擾に終始し競馬開催が行われないことは競馬法違反であり、12月末日までに正常開催が行われなかった場合、中山競馬倶楽部の公認を取り消す」旨の通牒を返した。ここに至り内紛は沈静化、16日後の10月23日には新生中山競馬場が着工された。その後も肥田に反感を持つ一派は工事妨害を行うなどして裁判にも発展したが、行政による調停もあり大事に至らず、昼夜兼行の工事によって約70日という日数で落成した。 翌年から行われた新競馬場による開催は活況を呈し、また、身元不審な人間も出入りしていた旧習を改め規則励行に務めたことも奏功し、従来「競馬界の癌」との世評まであった中山競馬倶楽部は急速な成長を遂げた。肥田はその後も常務理事として倶楽部を主導、1930年からは正式に理事長となり、死去するまでその職にあった。 中山大障害創設 古作の土地は、起伏に富んだ独特の地形であり、この上に建設された中山競馬場もまた、直線に急坂を備えるなどした独特のコース形態となった。肥田はこれに着目し、東京競馬倶楽部が東京優駿大競走(日本ダービー)を創設したことを機に、対抗する目玉の競走として、かねて腹案としていた障害の大競走創設を実行に移した。協力を仰いだ騎兵少佐・岡田小七によるコース設計は、距離4100m、大竹柵、大土塁、大生垣という三大障害など8つの障害で計10回の飛越を行い、高低差4.06メートルから5メートルの3つ坂路を2回ずつ上下するという、当時の障害競走の常識をはるかに越えたものであった。出走馬が集まらないであろう、人馬とも未熟であるため危険が伴う、といった反対意見も出たが、1934年12月5日に「大障碍特別競走」として第1回競走が行われた。出走馬4頭と少ない中で肥田の所有馬キンテン(稲葉幸夫騎乗)が初代の優勝馬となった。その後「大障害特別」は「中山大障害」と名を変えて春秋2回の開催となり、日本における障害の最高格競走(2001年以降、障害で唯一のGI級競走)として定着、春季競走は2001年より「中山グランドジャンプ」と改名されて国際競走となった。 このほか、中山競馬場では日本ダービーに先駆けて行われた4歳馬限定の本格的ステークス競走「中山秋季特別」(1929年創設)や、平地競走で日本最長距離の4000mで施行された「中山四千米」(1930年創設)など数々の名物競走が行われた。他の倶楽部ではこうした競走の副賞に銀杯を提供することが専らであったが、中山では陶製の花器や金属の馬像なども用意され、「とにかくこの倶楽部は変わったことをするので有名だ」(『競馬フアン』昭和12年12月号)とも評された。 死去 肥田は理事長在任中の1936年8月11日、直腸癌により62歳で死去した。その死後従六位を追贈され、翌1937年3月23日にはその功績を讃えて中山競馬場に胸像が建立された。また同年、松平頼寿を理事長として公認11倶楽部を統合した新組織・日本競馬会が発足。肥田は生前、松平と共に出席した臨時馬政調査会などの場において、全国倶楽部の統合組織を設立すべしとの主張を繰り返しており、死後その実現へ至る運びとなった。帝国競馬協会は肥田の葬儀に際し、「今春議会を通過したる競馬機構の変革今方に其の実施を見んとす 君は実に機構革新の主唱者なり」とその死を悼んだ。墓所は東京都港区南青山の玉窓寺で、青山霊園1-ロ-10側の道路沿いにあり、正面「肥田家之墓」。 賞詞など ※『馬事功労十九氏事蹟』の略歴より 1918年 - 畜産功労者表彰(中央畜産会、福島県産馬畜産組合連合会) 1921年 - 産馬功労者馬政長官表彰 1925年 - 紺綬褒章(高川村役場および村立小学校々舎の建築費用4800円余の寄付による) 1935年 - 観菊御会招待 関連項目 ワカタカ:肥田から中山競馬倶楽部理事の乾鼎一に譲渡されたのち、第1回日本ダービーの優勝馬となった。 出典 参考文献 山田仁市(編)『馬事功労十九氏事蹟』(日本馬事会、1942年) 日本中央競馬会(編)『日本競馬史 第3巻 - 各地競馬場の歩み』(日本中央競馬会、1972年) 中山競馬場70年史編集委員会(編)『中山競馬場70年史』(日本中央競馬会中山競馬場、1998年) 19世紀日本の実業家 20世紀日本の実業家 馬主 日本の競馬に関する人物 福島県の市町村長 福島県の郡会議員 従六位受位者 紺綬褒章受章者 学習院中・高等科出身の人物 東京都出身の人物 1874年生 1936年没
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ロジャー・ウィリアムソン(Roger Williamson、1948年2月2日 - 1973年7月29日)は、イングランド出身のレーシングドライバー。 来歴 1972年にイギリスF3を制覇。翌1973年はF2に参加していたが、F1ドライバーのジャン=ピエール・ジャリエがF2チャンピオン獲得を狙って、F2に専念。ジャリエの代役として、ウィリアムソンはイギリスグランプリでF1デビューを果たしたが、2周目に発生した多重事故に巻き込まれリタイアした。 死亡事故 デビュー2戦目となったオランダグランプリでウィリアムソンは悲劇に襲われた。8周目コース中盤のS字コーナーを通過した際タイヤトラブルからウィリアムソンのマーチ・731フォードはコースアウトしてガードレールにクラッシュした。そのガードレールが過去のマシンのクラッシュ跡でコースとは反対側に反っているという危険な状態だった。マシンは飛び上がって一度土手に乗り上げた後コースに転落して横転、さらに火災が発生した。横転後もマシンのスピードは衰えず、逆さまのままコースを燃え上がりながら滑っていき、ガードレール沿いのインコース脇にようやく停止した。同僚のデビッド・パーレイが救出のためにマシンを止めて駆け寄り、消火と救出を試みたが、ウィリアムソンは燃え盛るマシンの中で焼死してしまった。25歳没。F1デビューからわずか2戦、一度も完走を果たせないままの死であった。 ウィリアムソンが事故に遭いマシンが炎上、パーレイが救出しようとするが果たせず、レースを続けている他のドライバーに停車と救出への協力を求めるが無視され、目の前でウィリアムソンが焼死していくのが分かりながら肩を落として去る、という悲劇的な顛末は写真や映像として記録されており、鎮火後にコクピットの中からウィリアムソンを出そうとする写真も撮影されている。 後にパーレイは「あの時、彼はまだ生きてたんだ。僕に叫んでた。『For God's sake, David, get me out of here!!(頼むから、デビッド、俺をここから出してくれ!!)』って…」と語っている。事故発生後も現場のすぐ脇を走り続け、このレースの優勝者になったジャッキー・スチュワートは「レースが中断されない限り、私達は走り続けることしかできなかった」とコメントした。ニキ・ラウダも、「パーレイを見て、(ウィリアムソンが)無事脱出したと思ってた。まさか乗ってたなんて…」とコメントしている。 レース戦績 脚注 関連項目 モータースポーツ F1ドライバーの一覧 デビッド・パーレイ 外部リンク Roger Williamson biography イングランドのF1ドライバー マーチのF1ドライバー ヨーロッパF2選手権のドライバー 競技中に死亡したモータースポーツ選手 火災で死亡した人物 1948年生 1973年没
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陸軍治罪法(りくぐんちざいほう)は、廃止された日本の法律。大日本帝国時代に大日本帝国陸軍の軍人を主な対象に施行された軍法の一つである。 概要 1883年(明治16年)に太政官布告として設置された(明治16年8月4日太政官第24号布告)。 1888年(明治21年)には法律として全部改正され(明治21年10月2日法律第2号)、「陸軍治罪法執行規則(明治21年陸達第204号)」が追加された。 1890年に刑事手続法の一般法である治罪法に替わり刑事訴訟法(明治23年法律第96号)が制定され、また1908年に陸軍刑法(明治41年4月10日法律第46号)が制定されたことから、刑訴法に習って訴訟手続を改正すべきとの法曹界からの意見を受け、1921年(大正10年)に「陸軍軍法会議法」(大正10年4月26日法律第85号)が設置され、これに伴い1922年(大正11年)4月に廃止。 構成(1883年) 第一章 総則 第二章 軍法会議ノ構成 第三章 軍法会議ノ権限 第四章 陸軍検察 第五章 審問 第六章 判決 構成(1888年) 第一章 総則 第二章 軍法会議ノ構成 第三章 軍法会議ノ権限 第四章 陸軍検察 第五章 審問 第六章 判決 第七章 再審 第八章 復権 第九章 特赦 関連項目 陸軍軍法会議法 陸軍監獄令 軍法会議 陸軍刑法 海軍治罪法 参考文献 官報附録「陸軍治罪法(明治16年太政官布告第24号)」、1883年。NDL。 官報「陸軍治罪法(明治21年法律第2号)」、1888年。NDL。 田山宗尭「陸軍治罪法執行規則(明治21年陸達第204号)」、『憲兵要規第1類』、1888年。NDL。 三浦裕史『近代日本軍制概説』信山社、2003年。 廃止された太政官布告・太政官達 廃止された日本の法律 日本の軍刑事手続法 大日本帝国陸軍 1883年の法 1888年の法 1922年に廃止された法
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SIGMA(シグマ)は、韓国でHIPHOPの最先端として名を馳せたBIGFLOの元メンバーZ-UK(ジウク)を中心に結成されたグローバルボーイズグループ。 楽曲制作からパフォーマンスまでメンバーが全プロデュースを手がけ、グループ名はSIGMA (読み方:シグマ)常に足し算をする記号=「Σ」「経験・実力・流行・人気」時代に沿って全てを足し算し、常に進化を遂げていく意味がある。 2021年1月26日にシングル「HIGHER」でデビュー!シングルには日本語Verの他に韓国語Verも収録されこの曲で日韓同時デビューとなる。 メンバー Z-UK(ジウク) リーダー 出身:韓国 プサン 担当:作曲・RAP・振付・音楽プロデューサー 生年月日:1月 27日 血液型:A型 身長:175cm Debut:2014年 BIGFLO「First Flow」 SHUN(シュン) 出身:日本 宮崎県 担当:ダンス・RAP 生年月日:10月 27日 血液型:A型 身長:178cm 趣味:ショッピング、ダンス Debut:2015年 SELLOUT CHANHYO(チャンヒョ) 出身:韓国 ソウル 担当:ヴォーカル 生年月日:1月 27日 血液型:B型 身長:178cm 趣味:サーフィン、歌、ゲーム 特技:テコンドー、キーボード、作曲 Debut:2020年 SIGMA PROJECT R.Y.U(リュウ) 出身:日本 長野県 担当:ダンス・RAP 生年月日:4月 2日 血液型:AB型 身長:180cm 趣味:ショッピング 特技:美味しいコーラを作れる Debut:2020年 SIGMA PROJECT ディスコグラフィ SIGMA Debut Single「HIGHER」(2021年1月26日) 「HIGHER-JP Ver-」 「HIGHER-KR Ver-」 「HIGHER-Instrumental-」 DM-0009 /DIAMOND MUSIC ¥1,500+Tax 脚注 外部リンク sigma-official Twitter OFFICIAL ΣSIGMA YouTube OFFICIAL ΣSIGMA Instagram OFFICIAL ΣSIGMA 韓国の音楽グループ コーラス・グループ 4人組の音楽グループ
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村上 昭夫(むらかみ あきお、1927年1月5日 - 1968年10月11日)は、日本の詩人。 生涯 岩手県東磐井郡大東町(現:一関市)出身。生地は現在の陸前高田市。両親は叔父と姪の関係であった。岩手中学校(現:岩手高等学校)を卒業。第二次世界大戦中、日本鋳造鶴見工場に学徒動員。工場の寮に募集斡旋があったことから満州国哈爾濱省官吏となるが、8月に終戦。ソ連のシベリアで二年間の過酷な抑留生活を送る。 1946年に帰国後、1947年に盛岡郵便局に勤務、労働組合機関誌を編集して小説や詩を発表する。しかし1950年に結核が発病し、退職を余儀なくされる。この結核との闘病生活は41歳で亡くなる最期まで続く。村上の創作活動は闘病生活の中、サナトリウムでの俳句から始まり、やがて同じサナトリウムに入院してきた詩人の高橋昭八郎の影響から詩に転じた。 処女詩集で唯一の詩集である『動物哀歌』は、村野四郎が序文と編集を担当し、第8回晩翠賞及び第18回H氏賞を受賞している。しかし贈呈式への出席は叶わなかった。 末弟で岩手放送の元ディレクターである村上成夫が評伝を書いている。同郷の詩人北畑光男が村上昭夫研究誌「雁の声」を主宰している。またコールサック社の「コールサック文芸・学術文庫」から『村上昭夫著作集』上下巻が刊行された。 略歴 1927年 岩手県東磐井郡大原町(現:一関市大東町)に生まれる 1939年 岩手中学校(現:岩手高校)入学 1950年 岩手医大サナトリウム入院 1954年 岩手県詩人クラブ結成会員 1959年 詩誌「La」の会入会、『動物哀歌』として作品発表。 1967年 第8回土井晩翠賞 1968年 第18回H氏賞受賞 詩集 『動物哀歌』思潮社 1967年 詩碑 村上昭夫詩碑(盛岡市立図書館) 関連人物 村野四郎 北畑光男 出典 外部リンク 村上昭夫詩碑 20世紀日本の詩人 岩手県出身の人物 シベリア抑留経験者 結核に罹患した人物 1927年生 1968年没
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IZU VILLAGE(伊豆ビレッジ、いずビレッジ)とは、静岡県伊豆の国市田京にある、時之栖が運営する複合リゾート施設。隣接する道の駅「伊豆のへそ」と一体的な関係にある。 概要 伊豆箱根鉄道の田京駅の南西、狩野川・国道414号と国道136号の狭間、修善寺道路の大仁中央ICの東隣に立地している。 2017年9月に、前身である「IZU・WORLD みんなのHawaiians」(旧・伊豆洋らんパーク)から改名して開業した。当初は御殿場高原ビールのレストラン「GKB & Village」のみだったが、同年12月には東隣に宿泊施設「HESO Hotel」(へそホテル)が開業。 2018年9月には、北部に「MERIDA X Base」がオープン。同年11月23日には、「道の駅 伊豆のへそ」の「伊豆いちごファクトリー」を中心としたリニューアルに合わせて、隣接する南端エリアに「伊豆・村の駅」(伊豆のへそ店)を併設した。 構成 MERIDA X Base - 自転車 GKB & Village - レストラン HESO Hotel(へそホテル) - 宿泊 伊豆・村の駅(伊豆のへそ店) (道の駅「伊豆のへそ」) 沿革 1976年(昭和51年) - 「伊豆洋らんパーク」開業。 2005年(平成27年) - 南方の駐車場の一角に、「道の駅 伊豆のへそ」が開業。 2009年(平成21年) - 時之栖が買収。 2012年(平成24年)5月2日 - 「IZU・WORLD みんなのHawaiians」に改称し、リニューアルオープン。 2017年(平成29年) 8月 - 「IZU・WORLD みんなのHawaiians」閉業。 9月 - 「IZU VILLAGE」(「GKB & Village」)開業。 12月 - 「HESO Hotel」(へそホテル)開業。 2018年(平成30年) 9月 - 「MERIDA X Base」開業。 11月 - 「道の駅 伊豆のへそ」が「伊豆いちごファクトリー」を中心にリニューアルオープン。合わせて隣接する南端エリアに「伊豆・村の駅」(伊豆のへそ店)を併設。 脚注 関連項目 時之栖 道の駅 伊豆のへそ 外部リンク IZU VILLAGE - 公式ウェブサイト GKB & Village - 公式ウェブサイト 伊豆いちごファクトリー - 公式ウェブサイト 伊豆の国市の建築物 2017年開業の施設

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