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ギリシャやローマの文明はどのように発達し、どのような特徴をもっているのだろう。 ギリシャやローマの文明は世界にどのような影響を与えたのだろう。 四大河文明(メソポタミア文明など)からしばらく遅れて、紀元前8世紀頃から地中海近くにあるギリシャ・ローマで文明が発達してくる。 ギリシャでは紀元前8世紀頃から、ギリシャ各地に、いくつもの独立した都市国家(ポリス)が出来た。なかでも、アテネという都市国家 と、 スパルタ という都市国家の、この2つの都市国家(ポリス)が、とても有力であった。 ギリシャでは商工業が発達して、平民や兵士の力が強くなった。 都市国家(ポリス)のうちの一つであるアテネでは、18歳以上の男子の市民による直接民主政治(デモクラチア)が行われた。 いっぽう、ギリシャには、奴隷が多くいた。奴隷は、民主政治には参加できなかった。奴隷は人口の3分の1もいた。民主政治に参加できたのは、市民や兵士などの特権階級だけであった。 スパルタなどの、他のポリスでも、似たような市民や兵士という特権階級による民主政治が行われた。 スパルタは、周辺のポリスを侵略したりするので、スパルタでは兵士を育てるための軍事訓練がきびしい。スパルタではスパルタ人の男子は、少年期から兵士として育てられ、少年の受ける軍事訓練(ぐんじ くんれん)では、きびしい規律(きりつ)によって集団訓練をさせられた。現在の「極めて厳格な様子」を表すスパルタの語源となっている。 なお、スパルタ人以外の征服された地域の人は、軍事や政治からは切り離されて、農業や商工業などをさせられた。スパルタ人は、征服された人々の反乱をおそれて、征服された人々が武器を手にしないよう、征服された人々を軍事や政治の仕事には関わらせなかったのである。 また、スパルタは、鎖国的な政策をとり、スパルタは、ほかのポリスとの貿易(ぼうえき)を禁止したので、スパルタでは商工業はあまり発達しなかった。 ギリシャでは、ギリシャ文字が使われていた。ギリシャ文字は、フェニキア文字(オリエント地方で使われてた文字の一つ)が元になっている。 ギリシャでは、演劇や建築、物語などが発達した。ギリシャ神話もつくられた。議論もさかんになり、哲学や数学などの学問もさかんになった。哲学者の アリストテレス や ソクラテス 、 歴史学者の ヘロドトス など、多くの学者がギリシャ文明から出てきた。 紀元前4世紀ごろにギリシャ各地のポリスが統一される。北方のマケドニアの アレクサンドロス大王 によって、ギリシャは統一され支配された。 アレクサンドロスは、さらに領土を拡大しようとし、エジプト、ペルシャなどオリエント各地にも遠征した。 同じころ、オリエントの文化が、ギリシャにも伝わってきた。これによって、ギリシャでは、オリエントの文化とギリシャの文化がまじわった新しい文化のヘレニズム文化が生まれてきた。ヘレニズムの語源になった「ヘレネス」とは、「ギリシャ人」という意味。 ギリシャの学問では、科学がさかんになり、数学者の エウクレイデス(ユークリッドのこと) や、 物理学者・機械工学者の アルキメデスが出た。 アレクサンドロス自身は、ペルシャ征服後のインドへの遠征からの、バビロンへの帰還中に病没し、満32歳で死亡した。アレクサンドロスの死後、彼の帝国は分裂した。 伝説では、アレクサンドロスが東方への遠征中、ゴルディオンという地方に立ち寄ったとき、ゴルディオンのゼウス神殿には、絶対にほどくことのできない結び目があると言われていました。その神殿にある、伝説の車にとりつけられた結び目です。 そして、その結び目をほどいたものは、世界の王になれるという言い伝えがありました。 アレクサンドロスが立ち寄るずっと前にも、多くのものが、この結び目をほどいてやろうと挑戦しましたが、誰一人として、ほどけませんでした。 アレクサンドロスは、自分こそ結び目をほどいて王になってやろうと挑戦しましたが、それでも結び目はほどけませんでした。 そこでアレクサンドロスは剣を持ち出して、結び目を一刀両断に切って、無理矢理、ほどいてしましました。 結び目の言い伝えが影響したのかどうか知りませんが、アレクサンドロスは東方の遠征に成功し、大きな領土を獲得しました。 紀元前6世紀ごろには、イタリア半島でいくつかの都市国家ができていた。紀元前1世紀ごろに、都市国家の一つのローマは周辺の都市国家を征服し、ローマ帝国ができた。さらに、紀元前30年ごろにはローマ帝国が地中海を囲む、ヨーロッパ南部および中央部、西アジアの地中海沿岸部、アフリカの地中海沿岸分の一帯まで、支配を広げた。 ローマによるヨーロッパの支配は、今で言うフランス(当時はガリア)の地をほぼ全て支配し、今で言うスペイン(当時はイスパニア)の地まで、ほぼ全土を支配した。 ギリシャ文字のアルファベットをもとにした、ローマ独自の文字のラテン文字(ローマ字)を持っていた。 ローマには、奴隷がいた。 広い領土をおさめる必要性から、実用的な文化が発達した。 暦(こよみ)では、エジプトの太陽暦をもとに、ユリウス暦(ユリウスれき)を作った。道路を整備した。法律も整備された。水道も整備された。
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インドで紀元前5~6世紀頃に釈迦(ゴーダマ=シッダールタ)という人物が、それまでの身分制度(カースト)を批判し、及び、バラモンの教えを批判した。 釈迦は苦しみとその原因について説き、正しい道をおこなって心の迷いを捨て、悟りをひらくことで、身分によらず救われると唱えた。 このようにして、 仏教が出来た。 その後、仏教は、国家にも保護される。 仏教は、その後、東南アジアにも広がり、さらに中国や朝鮮半島、日本にも伝わる。 オリエントのパレスチナ地方ではユダヤ教が信じられていた。紀元前のころ、ローマ帝国にパレスチナは支配された。 西暦1年より少し前ごろに、パレスチナの地に、イエスという人物が現れた。(西暦とは、かつてイエスの生年と考えられた年を西暦1年とした、キリスト教の暦である) 当時、極端に細かいおきてや形式を重んじて信仰や愛を軽んずるユダヤ教の宗派が人々を苦しめていたが、イエスはこれを批判し、人々に分かりやすいたとえで罪のゆるしと救いを説いた。愛あふれる父である神を愛し、兄弟や仲間、隣人を愛し、敵をも愛すること、真の平和と幸福、神の国、世の終わり、さばきについて教え、本当のおきてを示し、多くの人々が信じて弟子となっていった。 イエスはキリストと信じられるようになったが、(「キリスト」とは、ユダヤ教の「メシヤ」からきたことばで、救世主をさす)イエスに偽善をあばかれた宗派やローマ帝国は、かれらを迫害した。 イエスは、大きな十字架にはりつけにされて、ローマ帝国に処刑されたという。しかし、イエスの弟子たちはのちにクリスチャン(キリスト者)とよばれるようになり、やがてかれらの信仰はキリスト教として今日までに世界でもっとも多くの人々に広まることになる。 ユダヤ教はユダヤ人のための民族宗教であって、ユダヤ民族とそれ以外の民族には格差があり、人は平等ではなかったが、イエスの弟子たちは、ユダヤ人も、ユダヤ人からみた異邦人も、みなキリストを信じて救われたという。そうしてキリスト教は、ローマ帝国の領内で広まっていった。4世紀になると、ローマ帝国が方針をあらため、キリスト教を国教として保護する。 1世紀ごろから弟子たちは、イエスやその教えに関する文書・手紙類(新約聖書)を書き写し、ユダヤ教の聖書(旧約聖書)とともに信仰のみちびきとしていた。こんにち、その日本語訳はウィキソースの聖書からも読むことができる。なお、「新約」「旧約」の「約」というのは、神との契約、約束という意味で、翻訳の「訳」とは別の字である。また、『旧約聖書』の「旧約」というのはキリスト教徒から見たいいかたである。ユダヤ教徒は、『新約聖書』を経典とは認めていない。ユダヤ教の経典はもともと、日本語で『旧約聖書』と呼ぶものだけであり、ユダヤ人たちは旧も新もなく単に『タナッハ』と呼ぶ。 キリスト教は、ユダヤ教を完成させたものであるといい、ユダヤ教と似ている部分もある。ユダヤ教は聖書にある唯一の神ヤハウェ(かつてはヱホバと呼ばれた)を信じる一神教であり、キリスト教は同じく聖書の神を三位一体と信じる一神教である。 のちの時代にできるイスラム教も、ユダヤ教やキリスト教を参考にしている。 パレスチナのエルサレムは、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教、いづれにとっても聖地である。 7世紀の始めごろ、アラビア半島では、商業がさかんであり、商人が力を持っていた。アラビア半島の都市メッカでは、商業が発達していた。 7世紀はじめごろに、メッカの地に、商人の家に生まれたムハンマドが現れ、40歳の頃にムハンマドは神の啓示を受けたとして、40歳の頃からメッカの地で、イスラム教を唱えた。 イスラムの教えでは、神は唯一アッラーのみであるとしており、偶像崇拝を禁止した。 このため、イスラム教では、神の像は無い。 また、神の前に、人々は平等であると説いた。イスラム教の経典は『コーラン』と言う。 ムハンマドの教えは、迫害された。ムハンマドは、迫害を逃れるため、メディナに移住した。ムハンマドは、教えを広めるため、軍を組織した。そして、ムハンマドは軍事力でメッカを奪い返した。 その後、ムハンマドと弟子たちの征服活動によって、アラビア半島の諸国は統一されていき、イスラム教はアラビア半島と北アフリカなどの周辺の地に広まっていった。 コーランは、生活を厳しく律しており、豚肉を食べることの禁止や、飲酒の禁止、1日5回の礼拝や、断食や巡礼など、日常生活の多くの決まり事を記している。 「イスラーム」という語は、自身の重要な所有物を他者の手に引き渡すという意味を持つaslamaという動詞の名詞形であり、ムハンマド以前のジャーヒリーヤ時代には宗教的な意味合いのない人と人との取引関係を示す言葉として用いられていた。ムハンマドはこのイスラームという語を、唯一神であるアッラーに対して己の全てを引き渡して絶対的に服従するという姿勢に当てはめて用い、そのように己の全てを神に委ねた状態にある人をムスリムと呼んだ。 中東のパレスチナという地方にある エルサレム という場所に、キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の聖地がある。 現代(西暦2014に記述。)の話になるが、 このエルサレムと周辺の地域で、第二次大戦後にイスラエルが建国を強行した。このことにより、以前にこれらの地に住んでいたパレスチナ人たちが住む場所をうしない、パレスチナ人が難民になった。 パレスチナ人はイスラム教の多い民族であり、イスラエル人はユダヤ教の民族である。 このことが、アラブ諸国のあいだで、イスラエルに対しての反発の理由の一つになっている。 イスラエルがユダヤ教の国なので、アラブ諸国ではユダヤ教への反発が強い。 また、アメリカ合衆国がイスラエルと同盟を結んでおり、アメリカはキリスト教の多い国なので、そのようなこともあり、アラブ諸国ではキリスト教への反発につながっている。 このようなパレスチナ周辺の政治問題をパレスチナ問題と言う。 ヒンドゥー教は、現代ではカースト制などで批判があるが、このカースト制はバラモン教が手本になっている。 ヒンドゥー教よりも昔の時代に(現代人の言う方では)「バラモン教」という宗教があり、このバラモン教でカーストの教えがあった。 仏教がインドで出来たこともあってか、仏教の伝説上の仏(ほとけ)は、じつはヒンドゥー教の神が由来であったりする場合も多い。 ところで、たぶんアナタは「ヒンドゥーとインドの発音が似てる」と思うだろうが、その通りで、ヒンドゥーとはペルシャ語で「インド人」という意味である。
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日本列島の人々はどのような生活をしていたのだろう。 日本列島の生活や文化の様子は、どのように変化していったのだろう。 今から数万年も前の氷河時代 には、地上には、今よりも多く氷った土地があり、そのため海水面が今よりも低く、我が国は大陸(たいりく)と地続きでした。 ナウマンゾウ や オオツノジカ や マンモス などの動物も、我が国にやってきました。(※「オオツノジカ」とは、大きな角の鹿だから、オオツノジカという。) ナウマンゾウなどの骨の化石が、我が国で発見されています。野尻湖では、ナウマンゾウとオオツノジカの化石が発見されています。 この時代の気候については、植物の化石からも、地層などから、寒い地域に多い木の花粉の化石が多く見つかっており、今よりも気候が寒冷だったらしいことが分かっています。 3万年前には、日本列島に人間(新人)がやってきていました。まだ、石器時代であり、 打製石器(だせい せっき) を使っています旧石器時代です。 当時の人間の生活は、大型動物の狩りをしたり、木の実などを採集していました。 我が国にも、旧石器時代があったことが、考古学の調査により、知られています。 この時代は、まだ土器は作られておらず、先土器時代ともいいます。 住居は、簡単なつくりの小屋や、洞窟(どうくつ)など暮らしていました。 まだ、きちんとした農業は、始まっていません。そもそも、人々は、一つの場所には定住せず、えもの の動物を追って、移り住んでいたと考えられており、したがって農業をする必要もありません。 群馬県の 岩宿遺跡からは、三万年前の地層と二万年前の地層から、打製石器のかけらが見つかっています。 岩宿遺跡の石器は1946年に発見されました。青年の相沢忠洋により、発見されました。 相沢により、群馬県の関東ローム層の地層から、石器のような、黒曜石のかけらが発見されます。 相沢は、この石の破片を、大学に調査してもらおうと思い、明治大学に石の破片の調査を依頼しました。(※ 学校名の「明治大学」は、覚えなくて良い。) 明治大学などの学者の調査で、この遺跡が一万年以上前の遺跡であることが分かり、我が国に旧石器時代があったことが証明されます。 人類は 猿人 原人 新人 の順番 約2万年前ごろから、気候が温暖になりはじめました。 そして約1万年前には、ついに氷河時代が終わり、南極や氷河の氷が溶けて、海水面が上がっていました。海水面の上昇により、日本列島が大陸(ユーラシア大陸)から切り離され、ほぼ現在の形になっていました。 我が国では、ナウマンゾウやオオツノジカは、絶滅しました。 この時代に、西アジアなどを中心に世界では農業が始まりました。気候が暖かくなったこともあり、農作物が育ちやすくなったと考えられています。 また、土器も、世界では作られ始めました。 我が国でも、しだいに農業や土器の生産が始まっていきました。農業では、クリなど、実のなるものを栽培していました。クリやドングリなどを食料にしていました。植物の栽培など、原始的な農業は始まっていたが、まだ本格的な農業は、この時代には始まっていないと考えられています。 我が国の土器は、食料の煮炊きや、保存などのために用いられました。ドングリなどを煮炊きしていました。 (ドングリは、煮て、アクを抜かないと、食べられません。クリは、アクがないので、煮なくても食べられます。) 我が国の、このころの土器は、表面に縄の文様がついているので、縄文土器と言われます。 そして、我が国での、この時代を縄文時代といいます。 縄文時代の人の家の建物は、竪穴住居といって、地面に穴をほりさげたあとに、柱を立てて、草ぶきの屋根をかけただけの住居にすんでいました。 縄文人の集落が あったとおもわれる場所からは、貝がらが多い場所が、たくさんでてきます。 この貝がらが多くある場所を貝塚と言います。 縄文時代の石器には、打製石器の他に、表面を磨いた磨製石器が見つかっています。 また、矢じりの石器などが見つかっており、弓矢が作られていたらしいことが分かっています。この時代は、弓矢による狩りでは、動きの素早いシカやイノシシなどの中型の獣を狩っていたと思われています。 磨製石器は、石の槍先や、石の矢じり、斧などに使われています。 動物の骨でつくった 骨角器という刃物も、みつかっています。 骨角器でつくった釣り針や もり(水中の魚を突き刺す武器) なども、見つかっています。 打製石器を旧石器ということがあるように、磨製石器を新石器とも言います。 この時代の住まいとして、穴に柱を立てて、草や木の枝で屋根を作っただけの竪穴住居が出てきました。 縄文の遺跡からは、土偶という土を焼き固めて作られた、女性のような形の人形が見つかる場合があります。 土偶(どぐう)は、食料が増えることを祈ったり、女性の安産をいのったものだと考えられています。 貝塚には、たとえば大森貝塚があります。明治時代に、アメリカ人のモースが大森貝塚を発見しました。この大森貝塚の発見が、きっかけとなり、日本各地で貝塚の調査や発掘が、始まりました。 ほかの貝塚には、福井県の鳥浜貝塚や、千葉県の加曽利貝塚があります。 青森県の 三内丸山遺跡は、今からおよそ5000年前の集落だと思われています。三内丸山遺跡からは、栗の木を栽培した形跡が見つかっています。 多くの土器や石器のあとも、みつかっています。 大型の掘立て柱も、見つかっています。掘立て柱の用途は、まだ分かっていません。 ヒスイの玉や、黒曜石(こくようせき)で出来た刃物のようなものも、見つかっています。 ヒスイは、この地ではとれず、新潟県の糸魚川などの他の土地で取れるので、他の地域と交易があったのだろう、ということが考えられています。 この三内丸山遺跡は、縄文時代を知る遺跡として、代表的な遺跡です。 縄文人の死者の骨は、姿勢が、手足を折り曲げて、葬られている骨が多く見つかっています。このような葬り方を屈葬と言います。この姿勢で葬った理由は、まだ分かっていません。 この時代の社会は、村長はいたが、まだ、貴族などの階級などは無かったと思われています。住居の大きさや、墓などの遺跡を調べても、だれの住居や墓でも、それほど大きさに変わりはなく、副葬品なども少なく、よって貴族などはいなかったと思われています。 以上のような縄文時代が、紀元前500年くらいまで、約1万年と数千年ほど続きました。 イネの栽培については、一説では、すでに縄文時代の後期から、大陸から伝わってきた稲作により、九州を中心に日本各地でイネの栽培が始まっていたという説があります( (※ 範囲外:)「縄文稲作」説とか「縄文農耕」説とか言われる)。一方、定説では、縄文時代のあとの弥生時代から日本各地でイネの栽培が始まったというのが定説です。
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この時代の人々の生活は縄文時代からどのように変化したのだろう。 稲作のはじまりは人々にどのような影響を与えたのだろう。 紀元前4世紀ごろから、稲作が、大陸や朝鮮半島から、西日本へと伝わった。そして稲作は西日本から東日本へと広がっていったというものが定説。 いっぽう、実は縄文時代に稲作が伝わっていたという説もある( (※ 範囲外)「縄文稲作」説または「縄文農耕」説 )。 どちらの説にせよ、紀元前4世紀ごろには、すでに日本に稲作が伝わっており、日本人は水田を耕作しはじめた。稲だけでなく、麦やクリなども栽培していた。 ただし、北海道と沖縄には、稲作は伝わらず、北海道と沖縄では、それぞれ独自の文化ができた。 青銅器や鉄器も、紀元前4世紀ごろに、中国(大陸のほうの中国。)や朝鮮から日本へと伝わっている。 物だけでなく、人間も大陸(中国)や朝鮮半島から、多くの人が、九州などに やってきたと思われている。遺跡から発見された人骨などの特徴から、大陸や朝鮮半島の人々と近い特徴の人骨が見つかっている。 このような中国や朝鮮からやってきた人たちと ともに、稲作や青銅器などの技術も伝わったと思われています。 縄文土器とはちがう、新しい土器が見つかっており、縄文土器より、うすくて、かたい。また色が褐色(かっしょく)である。高温で土を焼ける技術が発達したため、このような、うすめの土器が作れるようになった。縄目(なわめ)は無く、表面は なめらかである。このような土器の名を、最初に発見された場所の東京都 文京区(ぶんきょうく) 弥生町(やよいちょう)から、この土器を弥生土器(やよい どき)という。 また、弥生土器の発見される地層が、縄文土器の地層よりも新しい地層であることが多いことから、時代の順序が分かる。 このころの時代を 弥生時代(やよいじだい) という。この弥生土器の発掘されたものには、よく、米や籾(もみ)がついており、この土器の時代に稲作が始まっていたことが分かる。 まず、弥生土器は、縄文土器にくらべて明るく褐色で、うすくて かたい。このような色調や器肉の厚さの違いは、縄文土器が焼成時にまさしく器面を露出させた野焼き(のやき)をするのに対し、弥生土器ではワラや土などをかぶせる「覆い焼き」(おおいやき)を用いたことに由来する。このために焼成温度が一定に保たれて縄文土器にくらべて良好な焼き上がりを実現できたと思われる。こういった焼成技法は、土器の焼成前の赤彩(縄文土器は焼成後に赤彩)といっしょに九州北部で発生したと推察されるが、九州から関東まで時期差があり、弥生土器の出現が東に行くにしたがって遅くなることと関係が深いと思われる。また強度を増すためにつなぎ(混和材)として砂を用いたために、器面に大粒の砂が露出しているのがみられることがある。 石包丁は、イネの穂先を刈り取るのに、使われたと思われている。 イネを保管するための、高床倉庫(たかゆか そうこ)の遺跡も、発見されている。 ねずみや湿気をふせぐために、高くしてあり、柱にはネズミよけの返しがついている。 農具には、木製の鋤(すき)や鍬(くわ)を作って、使っていたと思われています。 青銅器や鉄器が、中国(大陸のほうの中国。)や朝鮮から伝わっている。 銅鏡(どうきょう)、銅剣(どうけん)、銅矛(どうほこ)、銅鐸(どうたく)などの青銅器がある。 発見された銅鐸に、うす や きね を用いた作業の様子を ほった絵がある。このことからも、稲作が行われていることがわかる。この銅鐸の絵には、他にも、高床倉庫の絵、動物を弓矢で射っている絵がある。 青銅器の多くは、おもに、いのり の道具に使われていたと思われています。 豊作などを、祈っていたと思われています。 鉄器は、工具や武具、農具など実用品に用いられた。 農具や工具や武具には、石器や木器もあわせて、もちいられた。 以上のような弥生時代は、紀元前4世紀ごろから、紀元3世紀ごろまでのあいだ、約700年間ほど続く。 稲作など農業で、人口が増える。農地に必要な土地や水などの配分をめぐって、村と村との間で、争い(あらそい)が増えた。 佐賀県の吉野ヶ里遺跡(よしのがり いせき)から、争いのあとが見つかっている。吉野ヶ里遺跡は、集落のまわりに、柵(さく)や濠(ほり)の有る集落であり、しかも矢が刺さった人骨が見つかっており、 物見やぐら も、ある。 なお、柵(さく)や濠(ほり)で囲まれた集落のことを、環壕集落(かんごう しゅうらく)という。吉野ヶ里遺跡は、環壕集落の代表例でもある。 中国(漢)の歴史書によると、紀元前1世紀ごろには、倭人(わじん、日本人のこと)が100あまりの小国を作っていた、という。(『漢書』(かんじょ)による。) 漢での日本国の呼び名は、中国の歴史書では、「倭」(わ)と記されており、日本人のことを「倭人」(わじん)と記している。 のちの時代の日本で、「倭」の代わりに「和」という漢字が当てられる。「倭」という文字には「まかせる」と受け取れる意味があったり( 「委任」(いにん)の「委」に字が近い。 )、小さいことを意味する「矮小」(わいしょう)の「矮」(わい)に近く、のちの時代の日本が嫌がったためである。すくなくとも752年(天平勝宝4年)ごろから日本のことを言う時に「和」という名称を用いている。 現代の日本で、日本風のことを「和風」と言ったりするときの「和」の語源は、この「倭」である。 いっぽう日本の、この時代には、文字を持っていなかったので、中国の歴史書が、現代での弥生時代の歴史研究でも手がかりになっている また、別の歴史書の『後漢書』(ごかんじょ)の東夷伝(とういでん)という部分によると、1世紀半ばに、倭(わ)の奴国(なこく、現在の福岡県あたり)の王が、漢に使いを送り、皇帝から金印(きんいん)などをあたえられたという。 金印の実物は、江戸時代に発見されている。江戸時代に、現在で言う福岡県の志賀島(しかのしま)で、1784年に発見され、金印には文字が刻まれており、「漢委奴国王」(かんのわのなのくに)と、漢字が刻まれている。 『後漢書』の「後漢」というのは、漢の王朝は、いったん、途絶えたが復活したので、いったん途絶える前の漢を「前漢」(ぜんかん)といい、復活したあとの時代の漢のことを「後漢」(ごかん)という。 「奴国王」という言い方から分かるるように、日本の各地に「国」があり、「王」に当たる階級があったことが分かる。つまり、この時代の日本には、すでに階級があって、人々どうしの貧富の差も大きかったと考えられている。 その後の時代の様子からも、すでにこの弥生時代の日本に「王」に当たる特権階級が出来ていたと思われている。 漢(中国)では西暦184年から民衆の反乱である 黄巾の乱(こうきんの らん) により、漢は従えていた諸国の軍勢を動員した。黄巾の乱は平定されたが、諸国の軍勢の権力が強まり、これによって諸国の軍事力なしでは漢は政治ができなくなり、諸国どうしが中国の支配をめぐって争い、長い戦乱の時代が始まり、後漢はおとろえた。 漢の王朝は220年まで残っていたが、190年ごろから、実質的に中国は戦乱の時代になっており、多くの国々に別れて戦争をしていたが、220年ごろには、魏(ぎ)・蜀(しょく)・呉(ご)の3カ国に集約されていった。それぞれの3国が、べつべつの皇帝を立てていた。220年ごろから280年ごろの中国の時代を三国時代(さんごく じだい)という。184年の黄巾の乱から280年までを三国時代にふくめる場合も有る。 最終的に、中国で三国を統一する国は、魏のながれをくむ「晋」(しん)という王朝である。 中国の歴史書『三国志』のうちの、魏についての歴史書の『魏志』(ぎし)に、倭人についての記述である倭人伝(わじんでん)によると、3世紀の始めごろの日本では、小国どうしの争いが多かったが、30か国ほどの小国が小国どうしの共同の女王として、邪馬台国(やまたいこく)の卑弥呼(ひみこ)という女王を立てて連合し、日本の戦乱がおさまったという。卑弥呼は、30か国ほどの国をしたがえたという。邪馬台国の卑弥呼は、239年に魏に使者をおくり、魏の皇帝から、「親魏倭王」(しんぎわおう)の称号をもらい、また金印と、銅鏡100枚をもらったことが、倭人伝に記されている。 邪馬台国の位置が、どこにあったのかは、現在でも不明である。学説では、近畿説と九州説が、有力な説である。 この時代の日本には、階級が奴隷から王まで、あったことが、倭人伝の記述から分かっている。 魏志倭人伝には、つぎのようなことが書かれている。(抜粋)
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このページ (中学校社会 歴史/古墳時代) では、古墳時代について解説します。この単元の用語には難しいものが多いので、漢字の間違いなどに十分注意してください。 日本列島での国家の形成と古墳の出現にはどのような関係があるのでしょうか。 記紀の記述から、当時の日本人のものの見方はどのようなものだったのかを読み取りましょう。 3世紀前半ごろ、奈良県の纒向遺跡(まきむくいせき)に、前方後円墳[1](ぜんぽうこうえんふん)が作られました。それは、90メートル級で、しかも5基同時に作られたと伝えられます。 さらに、280メートル級の巨大な箸墓古墳(はしはかこふん)が、3世紀の半ばごろには造営されるようになりました。 このように、古墳(こふん)が造営されるようになってから6世紀後半まで続くこの時代を、古墳時代(こふんじだい)と呼びます。この時代の文化を、古墳文化(こふんぶんか)といいます。 このころ、大和(奈良県)を本拠としたヤマト王権(おうけん)が生まれていました。その首長は、大王(だいおう、おおきみ)で、のちの天皇(てんのう)です。 ヤマト王権の支配域と考えられる場所に古墳が多く存在するので、大王や豪族(ごうぞく)[2]の墓だと考えられています。 古墳の形は、円形に土が盛り上がっている「円墳」と、四角形に土が盛り上がっている「方墳」が基本的な形であり、これらを組み合わせた前方後円墳が代表的である。 古墳の多くは、表面を石で覆っていて、内部には石室と呼ばれる部屋があり、死者が入った棺が収められていた。このほか、さまざまな副葬品がおさめられた。副葬品には、古墳時代のはじめごろは銅鏡や銅剣、埴輪などが置かれた。やがて、鉄製の武具や馬具、農具なども石室におさめられるようになった。これらの副葬品は、その当時貴重であったり、価値があったものが多い。 特に大きな古墳が、大和(現在の奈良県)や河内(現在の大阪府南部)を中心に多く作られていることから、近畿地方を中心に、有力な豪族たちがいたと考えられている。この近畿地方の有力な豪族たちの連合の政権のことを、現代では「ヤマト王権」、「ヤマト政権」などという(呼称は担当教員に尋ねるかもしくは教科書並びにプリント類を参照)。 4世紀から5世紀には、前方後円墳が、大和地方だけでなく、各地に広がっていく。各地で発掘された鉄剣などにヤマト王権の関連人物の名 (後述) が刻まれていたことから、5世紀の後半には、ヤマト王権は九州から関東までを支配していたと強く考えられている。 この大和にいた、有力な豪族たちの連合体であるヤマト王権が、のちに日本を支配していき、のちの飛鳥時代の朝廷になっていく。 埼玉県の稲荷山古墳から見つかった鉄剣には、ワカタケル大王の名の入った文が、刻まれている。この文から、この地方の支配者 (豪族) は、ワカタケル大王に使えていたと推定される。そして、熊本県の江田船山古墳にも、おなじ名前の刻まれた鉄刀[3]があることから、ワカタケル大王の支配領域が、関東地方から九州までの広い範囲に、及んでいたと強く推定されている。当時はまだ漢字以外の文字が存在しなかったので、稲荷山古墳の鉄剣には115字の漢字の文が刻まれており、その文に「ワカタケル大王」という名がある。また、江田船山の鉄刀は、「ワ▫︎◻︎◻︎ル大王」と名前の一部が読めなくなっている。 後の日本の神話の書の『古事記』や、後の歴史書の『日本書紀』などから「ワカタケル」という人物の存在が知られていることが、鉄剣などがワカタケルの存在を裏付ける証拠になったのだ。ワカタケル大王が雄略天皇であるということが分かっている。また、中国の歴史書などでの倭の五王の倭王武にでもある。「ワカタケル大王より」 この章では「ヤマト政権」並びに「ヤマト王権」のみを挙げた (基本的にはこの2つが主流) が、この政治体の呼び方は多数ある。また、「ヤマト」を漢字で「大和」と書く人もいる。前述のように、できるだけ担当教員の指示に従い、それが不可能ならば教科書に従ってほしい。 なお、この本を読んでいる学生の周りに、「ヤマト朝廷」という呼び方をする人はいないだろうか。かつてこのように呼ばれていたことがあるが、現在、この呼び方は衰退し、一般に通じにくくなっている[4]。保護者やインターネット上のウェブサイトなどでこのように教えられるもしくは表現されている場合があれば、一般に通じない可能性があることに、十分留意してほしい。 ヤマト政権が、後に朝廷になるとはいえ、古墳時代の始めや中頃では、まだヤマト政権は各地の豪族のうちの1つに過ぎないという。古墳時代の始めのうちは、まだ日本の統一がほとんど進んでおらず、ヤマト政権は「朝廷」と呼べる段階に至っていないというのが現在の定説である。ただし、これには疑問点も出されるなど、ヤマト政権の勢力範囲などの真相については諸説ある。 5世紀の後半ごろから、ヤマト王権は、東北や北海道地方、南洋諸島を除く日本各地を平定した。ヤマト王権の中の、もっとも有力な支配者を、大王と呼んでいた。大王の一族は、後の天皇の一族である。例えば、5世紀の中ごろに近畿地方に作られた大仙古墳 (仁徳天皇陵とされる) は、大王の墓だと考えられている。仁徳天皇が祀られている。(葬られている者は判明していない) この頃には、政権がかなり安定しており、政治組織を整えられるようになった。 豪族は、血縁をもとに、氏という集団を作っていた。そして、豪族たちの名前に関する制度で、この氏と姓による、後に氏姓制度と呼ばれる、作られた。 例えば、蘇我馬子であれば、「蘇我」が氏、「馬子」が名となる。詳しくは以下のとおりである。 この氏とは、血のつながった者どうしの集団である。 それに対し姓とは、政治の職務による称号である。 このような改革により、6世紀の半ばごろまでには、ヤマト王権による中央集権的な日本各地の支配が進み、のちの時代で言う「朝廷」のようなものが形成されていったと考えられる。 4世紀、朝鮮半島には南西部の百済(高校世界史では「ひゃくさい」)[5]と、東部の新羅(高校世界史では「しんら」)[6]、北部の高句麗(「ゴクリョ」ともいう。)、伽耶諸国が存在し、互いに争っていた。伽耶のことを任那あるいは加羅とも言った。 日本は、鉄などの資源をもとめて、伽耶や百済と交流があった。そのため、日本はこの2国 (伽耶と百済) と連合して、敵である新羅および高句麗と戦った。 朝鮮半島での、広開土王(好太王とも言われる)の碑文によると、倭が高句麗との戦争を4世紀後半にしたことが書かれている。この戦いでは高句麗が倭の軍を破った。 最終的に、7世紀、新羅が朝鮮半島を統一する。 5世紀の終わりごろ、中国では「宋」という国が、中国の南部を治めていた。この時代、中国は北朝[7]と呼ばれる北魏、南朝[7]と呼ばれる宋の2つの国に分かれ、争っていた。 その宋の歴史書の『宋書』倭国伝では、5世紀ごろ、日本の5人の王が、それぞれ外交の使者を宋に送ってきたと書かれている。この5人の王が、どの天皇か、それとも天皇ではない別の勢力なのか、様々な説がある。有力な説では、このうちの武は、日本書紀に「幼武天皇」という記述のあるワカタケル大王のことだろうと考えられているが、仮説に過ぎず、実際の関係は定かではない。 なお、最終的に、中国は「隋」という国によって6世紀の終わりごろに統一される。しかし、この隋の時代は長くは続かなかった。 5世紀ごろ、朝鮮半島や中国大陸から、多くの人が日本に移住した。これらの古い時代に大陸から日本へ移り住んだ人たちを現代では 渡来人(教科書によっては「帰化人」) という。 この5世紀頃の渡来人により、以下のような外国の文化が日本に伝わった。 特筆すべきことは、須恵器と仏教が伝わったことである。 須恵器とは、弥生土器よりも、さらに製法の進んだ、かたい土器である。須恵器の製法は、丘などの斜めになってる地面の斜面をくりぬいて穴窯を作り、その穴窯の中で土器を焼き固めるという、「のぼり窯」を用いた方法だ。野焼きよりも高温で焼けるので、よりかたい土器が焼きあがる。縄文土器も弥生土器も、のぼり窯は用いていなかった。 6世紀の半ばごろに仏教も伝来する。545年前後に、朝鮮半島の百済の王から、仏像や経典が日本の天皇に贈られる。 仏教は、紀元前5世紀ごろのインドで、 シャカ という人物が始めた宗教である。シャカはゴーダマ=シッダルタ とも言われる。
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このページでは、6~7世紀前後の中国のようすについて紹介します。学校では学習しない範囲が多く含まれているので、注意してください。 ※ほとんどの教科書には、隋そのものについての詳しい記述はありません。 中国は、五世紀から六世紀にかけて南北に分裂していました。589年、分裂していた中国を一つにまとめたのが、隋です。 隋を建国した楊堅は、「科挙」という官僚を選ぶ試験を作りました。この科挙は、20世紀まで1000年以上行われました。 楊堅に続いて隋を支配した皇帝が、煬帝です。 煬帝は、高句麗遠征(高句麗との戦争)を三回も行い、この遠征のために大運河の建設も進めました。 しかし、遠征は失敗。このために重税を課された人々は 次々に反乱を起こし、中国は内乱状態になります。 結局、都の大興(のちの長安、西安)は、隋の武将であった李淵に攻め落とされ、そのすぐ後に隋は滅亡しました。 ※学校では学習しない範囲が含まれています。 隋を滅ぼした李淵は、618年に唐という国を建国し、皇帝になって国を治めました。その後、李淵に続いて皇帝に即位した太宗は、628年に中国の統一を達成します。 太宗は、当時モンゴル草原を支配していた「東突厥」という国を侵略し、支配下に入れました。 三代目の高宗という皇帝は、東突厥の西にあった「西突厥」や朝鮮半島の「高句麗」「百済」を滅ぼし、唐を拡大させていきました。 中央アジアから朝鮮半島まで領土を広げた唐。唐の都は長安(現在の西安)に置かれました。 当時のユーラシア大陸には、地中海から西アジア、中国までを結ぶ「シルクロード」という巨大な交易路がありました。 シルクロードでは、中国の特産品である絹をはじめ、香辛料や金貨・宗教や音楽といった文化も各地に伝えられました。 シルクロードの東に位置する長安には、それらの交易品や文化・技術が集まり、人口百万人を超える国際都市として繁栄しました。 また、シルクロードを通してイスラム教の国々と貿易を行っていた唐では、長安や洛陽・広州などの中国の都市でムスリム商人(イスラム教を信じている商人)が活発に活動しました。 唐では、律令によって次のようなことが制定されました。 ちなみに、律令の律は「刑法」、令は「政治に関する法」を表します。律令の一部は、日本でも取り入れられました。
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なぜ大化の改新などの改革が起こったのだろう。 この時代の文化にはどのような特色があるのだろう。 6世紀はじめ、九州北部で、朝鮮半島での百済をすくうための出兵の負担への反発がきっかけで、大和朝廷に対する大規模な反乱が527年に起きる。豪族の磐井(いわい)氏が反乱を指揮したためこの名がついた。磐井氏の役職は国造(くにのみやつこ)という。後の国司(こくし)と間違えやすいので、注意が必要である。古墳時代のページで説明した氏姓制度にのっとり、筑紫国造磐井(つくしのくにのみやつこのいわい)という呼称が一般的である[古墳時代参照]。 朝鮮半島での、百済をすくうための出兵の負担への反発がきっかけである。 ヤマト王権は、反乱をおさえるのに、1年余り要した。この 磐井の乱(いわい の らん) を、豪族の物部氏(もののべし)の 物部麁鹿火(もののべの あらかみ) が しずめたので、物部氏(もののべし)の大和朝廷での影響力が強くなる。 ※磐井の乱は、超中学の範囲なので、超難関校受験を希望しないのであれば、覚える必要はない。 一方朝鮮半島では、かつて半島がいくつかの国に分かれていたが、5世紀中頃には新羅(しらぎ、シルラ)による統一が進み、日本が協力していた伽耶(カヤ)諸国は領土を失い、滅んだため、朝鮮半島での日本の勢力は失われた。 (なお、朝鮮半島の国々は、中国・唐に強く影響を受けるということも頭に入れておいて欲しい。新羅は、唐との結びつきが強かったため、唐とほぼ同時期に栄え、そして滅びた。) 大和朝廷の中では、豪族どうしが、権力をめぐって争っていた。 中でも豪族の蘇我氏(そがし)が、力をのばした。蘇我氏は、渡来人と協力していた。そのため、大和(ヤマト)王権では外交の担当しており、また中国の宗教である仏教を日本に取り入れようとしていた。 蘇我氏は、自分の娘である堅塩媛や小姉君を欽明天皇の 妃 にするなどもして、勢力を強めていった。しかし、もともと力をつけていた物部氏と対立を深めていくこととなる。 用明天皇の跡継ぎをめぐって、ついに、対立は極限まで来てしまう。蘇我馬子は泊瀬部皇子(のちの崇峻天皇)、物部守屋は穴穂部皇子を挙げたのだ。そして蘇我馬子は穴穂部皇子を殺害した。これに物部守屋は怒り、挙兵をする。しかし蘇我氏には、大伴氏や平群氏、厩戸皇子が味方に付いたため、優勢になった。そして蘇我馬子(そがの うまこ)は、物部守屋(もののべの もりや)を倒す。これが丁未の乱である。 そして蘇我氏は、大王とならぶほどの、大きな権力を手に入れた。 このころ、大陸では、南北朝に分かれていた中国を、隋(ずい)が統一して、589年に隋は帝国になった。 しかし618年に、わずか29年で、隋は唐(とう)にほろぼされてしまう。 これから説明する古代日本の時代は、中国では、ちょうど隋が活躍していたころと同じころの時代である。 蘇我氏が物部氏を倒してから、しばらくして、蘇我氏は、蘇我の血を引く額田部王女(ぬかたべのおうじょ、 「推古天皇」ともいう。)を大王(おおきみ)にした。(この時代には、まだ「天皇」という呼び名がなかったといわれている。「天皇」という名称は、あとの時代の天武天皇のころから用いられるようになったという説がある。) また、大王が女性なので(推古は女性)、政治を助けるために、推古天皇の 甥 であり、蘇我氏の血を引く厩戸皇子(うまやどのおうじ)、 のちの聖徳太子(しょうとくたいし)が摂政(せっしょう)として593年に任命された。聖徳太子は、蘇我馬子の娘の 婿 であり、また、穴穂部間人皇女の子である。また聖徳太子の祖母が蘇我氏の一族である。 この時代に、まだ「摂政」という正式な呼び名や制度は無く、したがって聖徳太子は、将来的な天皇の候補としても立てられている。 こうして、蘇我の一族の者たちが、政治の実権をにぎった。この時代を、今で言う奈良県の奈良盆地南部の飛鳥地方に政治の中心地があったので、飛鳥時代(あすか じだい)という。 聖徳太子は、蘇我氏と協力して、天皇を中心とする国家を作り上げました。聖徳太子は、そのための改革を、いくつも行いました。 603年には、冠位十二階(かんい じゅうにかい)の制により、家がらにとらわれずに、才能の有る人物を役人などに取り立てるようにしました。それまでは、氏姓(うじ・かばね)の制度のように、家がら ばかりで、仕事や地位が決まっていました。位(くらい)が12の階級に分かれているので、冠位十二階という。位により、冠(かんむり、かん)の色が違う。「冠」といっても、布製の帽子のような冠であり、べつに金属冠では無い。 また604年には、十七条の憲法(じゅうななじょう の けんぽう)を定め、役人の心がまえとして、天皇の命令にしたがうべきことや、仏教をうやまうべきこと等を定めました。豪族などに対して、役人としての心がまえを述べたものでしょう。 内容を現代風に訳す(やくす)と、およそ、次のようなことが書かれています。 十七条の憲法(抜粋) その他にも、いろんなことが書かれていて、全部で17条あるので、十七条の憲法(じゅうしちじょう の けんぽう)と言います(憲法十七条ともいうが、少し古臭い)。 もともとの文は漢文で書かれています。この聖徳太子の時代には、まだ、ひらがなが、ありません。のちの歴史書の『日本書紀』(にほんしょき)に、十七条の憲法の原文があります。 原文は、とても長いので読みやすいように送り仮名をつけ、記述の一部を抜粋すると、 十七条の憲法(抜粋) といったふうに、書かれています。 十七条の憲法は、「憲法」と言っても、現代の日本の「日本国憲法」のような、他の法律の基本となる民主主義の理念や、日本国の国家理念がふくまれたものとはちがうので、混同しないでください。 「和をもって尊しとなす」と、「篤く三宝を敬え」は、有名な言葉なので、知っておいてください。 「詔(みことのり)を承り(うけたまわり)ては必ず謹(つつし)め」も、けっこう有名です。意味は「天皇からの命令(=詔)を受けたら、かならず、したがいなさい。」という意味です。 これらの改革は、中国の制度を参考にしたと思われています。隋でも、科挙(かきょ)という試験の成績で、成績優秀な人を、役人に取り立てていました。 日本では、国内の政治が整うと、日本は外交を活発化させ、隋との正式な国交を目指しました。そのために、日本は、隋への外交の使者として、日本から小野妹子(おのの いもこ)を随に607年に派遣させました。 隋も、隋は朝鮮半島北部の高句麗(こうくり、コグリョ)と対立していたので、日本との関係を重視しました。 小野妹子が隋に送られ時、聖徳太子らは、隋と日本を対等の立場で国交を結ばせようとしたので、妹子には、そのような内容の手紙を、隋の皇帝へと届けさせました。隋の皇帝の煬帝(ようだい)は、その対等になろうとする日本の手紙の内容を無礼だとして、たいそう腹をたてたと言いますが、隋は高句麗との争いをひかえていたので、敵を増やすのは好ましくないと判断し、隋は日本との国交を重視しました。 隋の歴史書である『隋書』(ずいしょ)に、この妹子との外交に関する記述があります。 隋の皇帝へと、小野妹子が差し出した国書(こくしょ)には、 「日出ずる処(ひ いずるところ)の天子(てんし)、書(しょ)を日(ひ)没する処(ぼっするところ)の天子に致す(いたす)。恙無きや(つつがなきや)」  とあります。両国とも「天子」(てんし)という表現を用いていることに注目してください。つまり、日本の天皇と、中国大陸の皇帝を、同じ地位(ちい)と見ているわけです。 ほかにも、日本のことを「日出ずる処」と書いて、隋(ずい)を「日没する処」と書いてあります。日本がこれから栄え、隋は滅びるという風に見えてしまいます。 当初、この日本からの国書を読んだ隋の皇帝の煬帝(ようだい)は、日本を無礼(ぶれい)な国と思い怒ったといいます。 煬帝を怒らせた「日出ずる処」ですが、地球上では、中国大陸の東側に日本があるので、日本のほうが、夜明けが早いです。隋から見ると、日本のある方角から太陽が登ってきます。このことを言ったのです。 それから、数回にわたって、日本から隋に使者が渡った( 遣隋使(けんずいし) )。 また隋の進んだ文化を学ぼうと、多くの日本の留学生や僧などが同行し、隋の進んだ政治制度や仏教を学んで、日本に持ちかえりました。 隋も、これら日本からの留学生や僧を受け入れました。 聖徳太子が政治をおこなっていた時期でもある7世紀ごろ、今でいう奈良県である飛鳥地方に都が置かれていました。この時代のことを 飛鳥時代(あすかじだい) といい、この時代の文化を 飛鳥文化(あすかぶんか) といいます。 蘇我氏や聖徳太子らが、仏教を保護したため、この飛鳥文化は仏教を中心とした文化であった。蘇我馬子は飛鳥寺(あすかでら)を、(場所は今で言う奈良県に)建てさせます。聖徳太子は、法隆寺(ほうりゅうじ)を607年に建てさせます。法隆寺の場所は、今でいう奈良県の斑鳩(いかるが)地方(奈良盆地の西部)にあります。 法隆寺は、現存する木造建築の中では、 世界最古の木造建築 です。法隆寺は、世界文化遺産に1993年に登録されました。法隆寺は、のちの7世紀後半に火災にあって消失してしまい再建されるが、それでも世界最古の木造建築である。 法隆寺には、 釈迦三尊像(しゃか さんぞんぞう) や 百済観音像(くだらかんのんぞう) 、おさめられている。釈迦三尊像を作ったのは、渡来人の子孫である 鞍作止利(くらつくりのとり) が作ったとされる。鞍作止利のことを、止利仏師(とりぶっし)とも言う。 そのほか、法隆寺には絵画の玉虫厨子(たまむしのずし)など、多くの美術品が、おさめられている。 この飛鳥文化には、中国や朝鮮半島の影響が強く現れています。 さらに、間接的であるが、ギリシアや中東の美術文化が、中国や朝鮮半島を通して、日本に入って来ている。 たとえば法隆寺の柱は、円柱の中央が、ふくらんでいる。これはギリシャのパルテノン神殿などギリシャ建築に多く見られる特徴であり エンタシス という特徴である。その他、唐草文様などが美術品に見られるが、唐草文様の発祥はギリシアである。 さて、聖徳太子は、四天王寺(してんのうじ)も、建てさせます。場所は、今でいう大阪府の難波(なにわ)です。 飛鳥時代の、ほかの寺では、広隆寺(こうりゅうじ)の弥勒菩薩像(みろく ぼさつぞう)も、飛鳥時代の仏像として有名である。 中国大陸では、すでに618年に隋(ずい)が滅んでおり、唐(とう)という帝国になっていた。唐は、隋の制度を引き継いだ。 622年に、聖徳太子が、死去します。 聖徳太子の死後は、蘇我氏が権力が強まります。 蘇我馬子(そがのうまこ)も、626年に、なくなります。 まず、蘇我馬子の子である蘇我蝦夷(そがの えみし)の権力が、強まります。さらに、馬子の孫であり、蝦夷の子である蘇我入鹿(そがのいるか)の権力が強まります。 643年に、蘇我入鹿は、山背大兄王(やましろのおおえのおう)という聖徳太子の子である人物と、山背大兄王 の一族を滅ぼします。 このような強権的な蘇我氏に対して、豪族たちからの不満が高まります。 645年に、ついに、皇族の中大兄皇子(なかのおおえの おうじ)と、豪族の中臣鎌足(なかとみの かまたり)との協力により、蘇我入鹿は殺害されます。蝦夷は、この事件を知り、自殺します。 これを 乙巳の変(いっしのへん) といいます。(※ 「乙巳の変」の用語は高校の範囲なので、一般の中学生は覚えなくていい。) 大化の改新と混合しやすいので、注意しましょう。 この殺害事件が乙巳の変、それを含めた政治改革が大化の改新です。 このあと、中大兄皇子らが権力を取り、政治改革を色々と行なう。この皇子らの改革を 大化の改新(たいか の かいしん) という。言い伝えでは、645年に年号(ねんごう)を「大化」(たいか)に定めたと言われますが、確認されていません。 もし、この年に「大化」の年号を定めたなら、この「大化」という年号により、日本では始めて年号が定められたことになります。なお、年号をさだめることは、中国大陸の帝国を参考にしたのだろうと思われます。 645年の一連の事件により、皇極天皇(こうぎょくてんのう)は退位して、皇極元・天皇の弟の孝徳天皇(こうとく てんのう)が645年に天皇になります。中大兄皇子は、のちに天皇( 天智天皇(てんじ てんのう) )に即位することになるが、この大化の改新のときには、まだ中大兄皇子は天皇では無い。孝徳天皇は難波宮(なにわのみや)に都を移します。難波宮は大阪府にあります。 中国大陸では、すでに618年に隋(ずい)が滅んでおり、唐(とう)という帝国になっていた。日本も、これに対して、政治改革をする必要があった。 さて、改革の内容はと言うと・・・ 乙巳の変(いっしのへん)の翌年646年(大化2年)に改新の詔(かいしん の みことのり)が出されます。これは改革内容の方針や目標を表したものです。この詔の発見は『日本書紀』で発見されています。 改革の内容は、以下の、公地公民(こうちこうみん)、班田収授(はんでんしゅうじゅ)、租(そ)・庸(よう)・調(ちょう)、国司(こくし)の設置(せっち)、です。 次に述べる一連の制度改革は、唐の法律を参考にしています。 これまでは豪族や皇族たちが持っていた土地は、すべて朝廷のものになります。豪族や皇族が持っていた人民も、朝廷が持つことになります。この命令が公地公民(こうちこうみん)です。朝廷が管理できない土地の存在を禁止します。同様に、朝廷が管理できない住民の存在も禁止します。 7世紀のなかばになると、朝鮮半島で戦乱が起きます。 朝鮮半島では、新羅(しらぎ、シルラ)が唐(とう)と連合して、百済(くだら、ペクチェ)を攻めた。 660年に百済(くだら、ペクチェ)が、 新羅(しらぎ、シルラ)に滅ぼされます。 百済は、日本とは親しかったのでした。親しかった百済が滅んだことで、日本は、朝鮮半島での勢力を失います。 日本は百済を復活(ふっかつ)させるため、新羅と戦争をします。663年に、中大兄皇子の指導により朝鮮半島に軍を送り、日本 対 新羅の戦争が起きます。これが白村江の戦い(はくすきのえ の たたかい、はくそうこう の たたかい) と言います。日本は負けます。新羅と唐の連合軍に、日本は負けました。 なお、後に新羅は676年に高句麗(こうくり)も滅ぼし、新羅が朝鮮半島を統一することになります。先ほども述べたように、唐との結びつきがとても強いです。唐が滅びるまで、新羅の時代が続きます。 白村江の戦い にやぶれた日本は、国内の政治に集中します。中大兄皇子は、唐と新羅の攻撃にそなえるため、九州の防備を強化します。九州北部に 防人(さきもり) という防衛(ぼうえい)のための兵士たちを置き、水城(みずき)という水の満たされた濠(ほり)を持った土塁(どるい)が築かれた防御地点をいくつも作ります。 667年に、中大兄皇子は都を 大津宮(おおつのみや) に移します。大津宮の場所は、今でいう滋賀県の近江(おうみ)です。それ以前の都は、奈良の飛鳥(あすか)地方にありました。 この都を近江の大津宮にうつしたことも、攻撃に備えてなのかもしれません。近江は、飛鳥よりも内陸にあります。 668年に中大兄皇子は天皇として大津宮で即位し、中大兄皇子は天智天皇(てんじ てんのう)になります。 668年に、法典である 近江令(おうみりょう) が出来ます。天智天皇(=中大兄皇子)が中臣鎌足に命じ、役人たちに編纂(へんさん)させたものです。また天智は、全国的な戸籍である 庚午年籍(こうごねんじゃく) を作成されます。これが、日本最初の戸籍です。よく聞かれるのは、天智天皇なのか、後に出てくる天武天皇(てんむてんのう)なのかです。注意しましょう。 天智天皇が亡くなる(なくなる)と、天皇の皇位をめぐり、皇族どうしの争いが起きます。天智の弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)と、 天智の子の大友皇子(おおとものおうじ)とが、672年に争い戦争になる。これを 壬申の乱(じんしんの らん) という。大海人皇子が勝ち、大海人皇子が 天武天皇(てんむてんのう)として飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)で即位する。 「日本」という国号や、「天皇」という称号は、天武天皇の時には、使われていただろうと考えられています。 天武天皇の死後、その皇后が持統天皇(じとうてんのう)として即位します。持統天皇は、都を奈良に移して藤原京(ふじわらきょう)を建設させます。藤原京は、道路が碁盤(ごばん)の目のように、格子(こうし)状に区画されています。この都の碁盤目のような区画は、唐の都を参考にしています。 701年(大宝元年)の文武天皇(もんむてんのう)のときに、 大宝律令(たいほうりつりょう) という法典が完成する。大宝律令は、唐の律令(りつりょう)という法律を参考にしています。 「律」は罪人をさばくための刑法で、「令」(りょう)は役所や役人などに対する法律です。 律令にもとづいて政治を行う国家のことを、歴史学の用語で 律令国家(りつりょう こっか) と言います。 この大宝律令を編纂(へんさん)した人物は、藤原不比等(ふじわらの ふひと) らが中心に編纂(へんさん)した。藤原不比等は、中臣鎌足(なかとみのかまたり)の子である。 政府の中央組織には 二官八省(にかんはっしょう) が置かれた。二官には、神々をまつる宗教を行なう 神祇官(じんぎかん)と、一般の政務をおこなう 太政官(だじょうかん)がおかれた。 太政官には、 右大臣、 左大臣、 太政大臣が置かれた。 太政官の下に、大蔵省などの八省が置かれた。 八省は、宮内省(くないしょう)、大蔵省(おおくらしょう)、刑部省(ぎょうぶしょう)、兵部省(ひょうぶしょう)、民部省(みんぶしょう)、治部省(じぶしょう)、式部省(しきぶしょう)、中務省(なかつかさしょう)である。 このようにして、中央の地位の高い役職についた者たちが元になって、貴族(きぞく)の階級が出来上がっていった。 班田収授や、租庸調(そようちょう)も定められた。 また、九州には、防衛のための役所として、太宰府(だざいふ)が置かれた。 政府の組織や、地方行政の組織にも、改革が加わります。 まず、日本全国をいくつかの 国(くに) に分けて管理し、国は郡(こおり)に分けられ、郡は里(さと)に分けられます。 国には、中央の朝廷から、国司(こくし)という役人が派遣され、この国司によって、それぞれの国が管理されます。 郡を管理する役職は、郡司(ぐんじ)という役職の役人に管理させます。たいてい、その地方の豪族が郡司です。 中央と地方の役所を図にまとめると、次のようになる。
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この時代の人々のくらしはどのようなものだろう。 公地公民はどのように崩れたのだろう。 人々の身分は良(りょう)と賤(せん)に分かれていました。「賤」は奴隷などのことで、いわゆる「奴婢」(ぬひ)です。男の奴隷が奴(ぬ)で、女の奴隷が婢(ひ)です。奴婢は、売買もされたという。 「良」の人々の多くは、いわゆる農民などのことです。奴婢は全人口の1割ほどで、奴婢以外との結婚を禁じられるなどの差別を受けていました。 政府は人民を管理するために戸籍(こせき)を作り、人民に耕作をさせるための口分田(くぶんでん)という田を与え耕作させます。 この当時の戸籍とは、人民をひとりずつ、公文書に登録することで、住所や家族の名や年齢、家の世帯主、などを把握することです。 この奈良時代に、すでに「戸籍」という言葉がありました。 このような情報の管理は、税をとることが目的です。税の台帳である計帳(けいちょう)をつくるため、戸籍が必要なのです。 現在の日本での戸籍とは、「戸籍」の意味が少しちがうので、注意してください。「計帳」という言葉は、この飛鳥時代の言葉です。詔の本文に書かれています。 詔の本文に、「初造戸籍計帳班田収授之法。」とあります。現代風に読みやすく区切りを入れれば、「初 造 戸籍 計帳 班田収授之法。」とでも、なりましょう。 目的は、収穫から税収をとるためです。前提として、公地公民が必要です。 6年ごとに人口を調査します。 税を取るにも、まずは人口を正しく把握しないと、いけないわけです。女にも口分田(くぶんでん)が与えられます。 原則として、6才以上の男女に田を与えます。男(6才以上)には2反の田を与え、女(6才以上)には男の3分の2の田を与えています。5才以下には与えられません。 6年ごとに更新されるため、詳しく言うと、6才から11才までの間に田を与えられる、ということになります。 死んだ人の分の田は、国に返します。 これらの制度を班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)と言い、これは唐の均田制(きんでんせい)に習った制度です。 税(ぜい)の種類です。 租(そ)とは、田の収穫量の、およそ3%の稲 を国に納めよ(おさめよ)、という税です。 調とは、絹や地方の特産物を国に納めよ、という税です。 庸(よう)とは、都に出てきて年10日以内の労働をせよという労役(ろうえき)か、または布を納めよ、という税です。 前提として、公地公民(こうちこうみん)や班田収授(はんでんしゅうじゅ)などが必要です。 これとは別に、出挙(すいこ)という、国司が強制的に農民に春に稲を貸し付けて、秋に5割の利息を農民から取る制度があり、税のように考えられていました。 この他、一般の人々の負担には兵役(へいえき)や労役(ろうえき)などがあり、兵役では防人(さきもり)として3年間ほど九州に送られたり、衛士(えじ)として都の警備を1年間 させられました。 労役では、雑徭(ぞうよう)として土木工事などの労働を60日以内(1年あたり)させられたり、運脚(うんきゃく)として庸・調を都まで運ばされました。 農民の負担が重い一方で、貴族は税などを免除されました。 政府の組織や、地方行政の組織にも、改革が加わります。 まず、日本全国をいくつかの 国(くに) に分けて管理し、国は郡(こおり)に分けられ、郡は里(さと)に分けられます。 国には、中央の朝廷から、国司(こくし)という役人が派遣され、この国司によって、それぞれの国が管理されます。 郡を管理する役職は、郡司(ぐんじ)という役職の役人に管理させます。たいてい、その地方の豪族が郡司です。 この時代に農民は貧しくて、税の負担は重く生活が苦しく、多くの農民は竪穴住居に住んでいた。山上憶良(やまのうえの おくら)のよんだ貧窮問答歌(ひんきゅう もんどうか)には、このころの農民の苦しい生活のさまが歌われている。 * また、人口が増えたので口分田は不足した。国の仕組みが整うにつれて、税の仕組みも整い、税の負担は重く、口分田を捨てて逃げ出す農民が増えた。なお、この時代に鉄製の農具が普及してきて、農業の生産力が上がった。 朝廷は税を増やすため、田を増やす必要があり、そのため、法律を変え、開墾した3代にわたり、田を所有できるように法を制定した。これが三世一身の法(さんぜい いっしん の ほう) であり723年(養老7年)の出来事である。 さらに743年(天平15年)には、期限が無く所有し続けられる 墾田永年私財法(こんでん えいねん しざい の ほう) が制定された。 これは、つまり公地公民の原則を廃止したことになる。 また、貴族や豪族は、これを利用し、私有地を広げた。この貴族の私有地は、のちに 荘園(しょうえん) と呼ばれることになる。 経済では、この奈良時代の都では、和同開珎(わどうかいちん、わどうかいほう)という貨幣が708年(和同元年)に発行され、流通していました。 これより古い貨幣には、7世紀後半の天武天皇の頃に富本銭(ふほんせん)という貨幣がつくられています。
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奈良時代の日本の人口は、時期にもよりますが、日本全国で600万人ほどです。 律令国家はどのようにして完成し、どのような特色を持っているのだろう。 律令国家とは、どのようなものなのだろう。 この時代の文化はどのような特色があるのだろう。 この時代の外国との交流にはどのような特徴があったのだろう。 文武天皇(もんむてんのう、大宝律令を作らせた)の、つぎの天皇である元明天皇(げんめいてんのう)の時代に、都(みやこ)が移りました。藤原京(ふじわらきょう)から710年(和銅3年)に奈良の 平城京(へいじょうきょう) へと都が移りました。この710年から、794年(延暦13年)に京都の平安京(へいあんきょう)に変わるまでの、奈良(なら)に都がある約80年間の時代を 奈良時代(なら じだい) といいます。年号をおぼえる語呂合わせ(ごろあわせ)は「なんと(710)、見事な平城京」。 平城京は、唐(とう)の都の長安(ちょうあん)を参考に作られました。道の通りが碁盤目(ごばんめ)のように、区画(くかく)が整理(せいり)されています。このような、碁盤目のような区画のつくりを 条坊制(じょうぼうせい) といいます。 都と全国を結ぶ幹線道路も整備されました。(五畿七道、ごき しちどう) 五畿とは畿内の5つの国である大和(やまと)、山城(やましろ)、河内(かわち)、摂津(せっつ)、和泉(いずみ)のことです。 七道とは、東山道(とうざんどう)、東海道(とうかいどう)、北陸道(ほくりくどう)、南海道(なんかいどう)、山陽道(さんようどう)、山陰道(さんいんどう)、西海道(さいかいどう)のことです。 道路には、役人が馬を乗り継ぐための 駅(うまや) が置かれました。「駅」と言っても、現在の鉄道の駅(えき)とは、ちがいます。 また朝廷(ちょうてい)は、東北地方の人々を蝦夷(えみし)と呼び、蝦夷を支配(しはい)するための拠点(きょてん)として多賀城(たがじょう)が、今で言う宮城県(みやぎけん)の位置に置かれました。 奈良時代の文化は、仏教の影響と唐との交流の影響で、平城京を中心に貴族の文化が栄えました。 とくに、聖武天皇(しょうむ てんのう)の治めた 天平(てんぴょう) の年号の時代に、この傾向が強いので、この奈良時代の文化を 天平文化(てんぴょうぶんか) と言います。 聖武天皇のころ、飢饉(ききん)がつづいたり、貴族の反乱が起きたりします。 737年(天平9年)には病気の天然痘(てんねんとう)が流行り、多くの死者が出る。 740年(天平12年)には、九州で、貴族の藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)による反乱も起きた。 政治が不安定になる。 また、人口が増えて公地公民が上手くいかなくなってきた。 聖武天皇は、仏教の力に、すがる。 まず聖武天皇は741年(天平13年)に、国ごとに 国分寺 (こくぶんじ)と 国分尼寺 (こくぶんにじ)を建てさせる。都には 東大寺 (とうだいじ)を建てさせた。 743年(天平15年)に、東大寺の本尊(ほんぞん)として大仏を作らせる。 東大寺の大仏は、盧遮那仏(るしゃなぶつ)という仏です。 行基(ぎょうき)という僧(そう)がいました。彼は、民衆のために用水の池や橋をつくったりしながら、諸国をまわって教えをといていたので、民衆に、したわれていました。 しかし、朝廷は、はじめは、行基の行動をとりしまります。当時は、民衆への仏教の布教が禁止されていたし、寺の外での活動も禁止されています。 朝廷からは、おそらく行基は、民衆をそそのかす危険人物(きけんじんぶつ)だろう、と思われていたのです。 さて、大仏を作るのは、とても多くの労働力を必要とするので、朝廷には、民衆の支持が必要でした。このため、民衆に慕われていた僧の行基(ぎょうき)の活動を認めます。 中国大陸の帝国が唐にかわっても、かつての遣隋使(けんずいし)と同様に、日本から中国の唐に、外交の使者の 遣唐使(けんとうし) を送ります。 遣唐使は、奈良時代のあいだに6度ほど、派遣(はけん)されます。 のちの平安時代には遣唐使は廃止(はいし)されますが、奈良時代には、まだ遣唐使は廃止されてません。 717年に唐にわたった 阿倍仲麻呂(あべの なかまろ) や、仲麻呂と供に唐にわたったこともある 吉備真備(きびのまきび) が遣唐使として有名です。阿倍仲麻呂は、唐からの帰りの船で遭難(そうなん)してしまい、日本に帰れず、唐の役所に仕えることになって一生を終えました。 なお、最初の遣唐使として630年に唐に派遣された犬上御田鍬(いぬがみ の みたすき)は、最後の遣隋使(けんずいし)でもあります。 阿倍仲麻呂は、日本に帰ろうとして乗った船が難破(なんぱ)し、日本に帰れず、最終的に唐の皇帝(こうてい)に仕えることになります。 吉備真備は2回も唐にわたり、日本に帰れます。 日本の朝廷らは、唐の有名な僧(そう)の 鑑真(がんじん) に、日本でも仏教(ぶっきょう)をひろめてほしいと、鑑真を日本へ招き(まねき)ます。この招きを受け、鑑真は日本への渡航をおこないますが、5回も失敗し、6回目で日本に着きます。6回目で日本についたころには、鑑真は失明しています。 鑑真は、奈良に 唐招提寺(とうしょうだいじ) を開きました。 東大寺にある 正倉院(しょうそういん) には、奈良時代の美術品や、聖武天皇が日用した道具などが収められています。 宝物には、ギリシャやペルシャ、インドなどから運ばれてきたものもある。シルクロードという中国大陸からヨーロッパまでの貿易の通路を通ってきた宝物である。後世の言い方だが正倉院のことを「シルクロードの終着駅」とも例える。 (※ 赤漆文欟木御厨子〜蘇芳地金銀絵箱蓋は、おぼえなくて良い。) 712年(和銅5年)に『古事記』(こじき)という天皇家や貴族などにつたわる神話の時代をまとめた書が、できます。この『古事記』は、天武天皇により編纂が命じられ、712年に完成しました。 『古事記』は、稗田阿礼(ひえだのあれ)が、暗記していた神話や歴史を、太安万侶(おおの やすまろ)が3巻の書にまとめた書です。 神話の時代から推古天皇にいたるまでの出来事が古事記に書かれています。 また、日本の歴史書および神話の『日本書紀』(にほん しょき)が720年(養老4年)に完成します。神話の時代の伝説から、7世紀末ごろの持統天皇にいたるまでの国家と天皇の歴史を書いた、歴史書と神話の混ざったような書です。 日本書紀の編纂は、時代順に出来事を書く編年体(へんねんたい)で記述しています。日本書紀は、舎人親王(とねり しんのう)らが、全30巻にまとめています。 古事記と日本書紀を合わせて、「記紀」(きき)と言います。この他、地方の産物や地理・伝説などをまとめた『風土記』(ふどき)も作られた。 文学では、和歌(わか)をまとめた『万葉集』(まんようしゅう)が759年(天平宝字3年)ごろから編纂(へんさん)されます。貴族の作った和歌だけでなく、農民や防人などの様々な身分の者が作ったと思われる和歌も収録されています。万葉集には全部で4500首あまりの歌が収録されています。 貴族の歌人では、飛鳥時代の柿本人麻呂(かきのもとの ひとまろ)や、奈良時代の大伴家持(おおともの やかもち)と同じく奈良時代の山上憶良(やまのうえの おくら)、奈良時代の山部赤人(やまべの あかひと)などが有名です。 万葉集の文字の読みは、万葉仮名(まんようがな)という、漢字の音で日本語を表す読みです。たとえば、次のような句を次のように読みます。 (現代語訳) さあ、みんな 早くヤマトへ帰ろう 大伴の御津(みつ)の浜の松のように (家族も)帰りを待ち(=松とのシャレ)こがれているだろうよ (現代語訳) 唐衣の 裾に、すがって 泣きつく子どもたちを (防人に出るため)置いてきてしまったなあ、 母もいないのに
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この時代の政治にはどのような特徴があるのだろう。 この時代の文化にはどのような特色があるのだろう。 この時代の人々の考え方はどのようなものだろう。 ~貴族がさかえた時代~ かつての天平文化の仏教保護の政策などにより、仏教の僧や寺院の影響力が強くなる。 のちの天皇や朝廷は、これらの仏教勢力を嫌がり、そのため、桓武天皇(かんむ てんのう)により、寺院の多い現在でいう奈良県から京都府へと都をうつす。まず784年(延暦3年)に京都府の 長岡京(ながおかきょう) にうつす。さらに794年(延暦13年)に京都府の 平安京(へいあんきょう) にうつす。 奈良から平安京への寺院の移転は禁止されます。 他にも、社会の変化で、もはや、公地公民による昔(むかし)の政治が上手くいかなくなり、政治のしかたを改める必要もあったのだろう。 平安京に都を移してから約400年間は、政治の中心地は平安京だったので、この時代を 平安時代(へいあんじだい) という。 くわしくいうと、後に1192年(建久3年)に武士である源頼朝が権力をにぎる鎌倉幕府(かまくら ばくふ)ができますが、794年から1192年までを平安時代と言うことが多い。 なお、平安時代より、あとの武士による政治の時代になっても、都は平安京のままです。明治時代に東京に都が移るまでは、平安京が日本の都でした。平安京のつくりは、唐の都である 長安(ちょうあん) を、参考(さんこう)にしています。 桓武天皇は、公地公民が上手くいかない理由の一つである、税負担の重さに改革の手をつけます。 税負担の重さを減らしました。雑徭(ぞうよう)の日数を60日から30日に減らします。6年ごとに見直してた区分田に支給を、12年ごとに変えました。 (※ 中学の範囲外:) また、国司に対する監督をきびしくするため、勘解由使(かげゆし)という役人を置きました。(※ 検定教科書では、単に「国司に対する監督をきびしくさせました」的なことだけが書いてあり、「勘解由使」(かげゆし)の用語は紹介してない。 ただし、自由社の教科書では、勘解由使(かげゆし)を紹介している。) このころ、奴婢(ぬひ)の制度も、無くなっていきました。 また、農民を兵士にすることをやめ、郡司の子弟(してい)などから健児(こんでい)という兵士を選ぶようにしました。 また、桓武天皇の政権は、東北地方に支配を広げます。 東北地方の 蝦夷(えみし) とよばれる人々は朝廷の支配に反対し、たびたび反乱を起こしていました。朝廷は蝦夷の征服のため、797年(延暦16年)に 坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ) という人物を 征夷大将軍(せいいたいしょうぐん) という役職(やくしょく)に任命し、彼に東北地方を平定させ、朝廷は東北地方に支配を広げました。 しかし、その後もたびたび、蝦夷の反乱は起きました。 蝦夷の族長はアテルイという人物で、アテルイの兵力と、対する田村麻呂らの朝廷軍との戦いです。 結果的に、田村麻呂の側が勝ちます。つまり朝廷の側が勝ちます。 アテルイは負け、802年(延暦21年)に降伏(こうふく)します。アテルイは平安京に連行されたのち、京にて処刑されます。 田村麻呂は、アテルイの命を助けるよう減刑をもとめましたが、貴族たちの反対により、アテルイは処刑されました。 東北での戦争のさい、胆沢城(いさわじょう、場所は岩手県、築802年)が田村麻呂らにより築かれ、また多賀城(たがじょう、宮城県、築724年)、秋田城(あきたじょう、秋田県、築733年) なども朝廷軍の拠点になり、朝廷による東北支配の拠点になります。 平安時代に入り、奈良時代の仏教とは変化した。天台宗(てんだいしゅう)や真言宗(しんごんしゅう)という新しい宗派(しゅうは)ができ、それが広まった。奈良時代の仏教とはちがい、新しい平安時代の宗派は、山奥(やまおく)で修行(しゅぎょう)をしたりする仏教である。 僧の最澄(さいちょう)と僧の空海(くうかい)による、新しい仏教の考え方が広まった。おそらくは朝廷が、奈良時代の政治に深く介入した従来の仏教勢力をきらい、かわりに新しい宗派を保護したのだろう。 最澄も空海も、遣唐使と共に唐にわたり留学し、唐の新しい仏教の教えを学んできた僧である。 最澄は805年(延暦24年)に日本に帰国し、比叡山(ひえいざん、滋賀県にある。)に 延暦寺(えんりゃくじ) を建て、天台宗 (てんだいしゅう)をひろめた。最澄は伝教大師(でんきょうだいし)とも言われます。 空海は806年に帰国し、高野山(こうやさん、和歌山県にある。)に 金剛峯寺(こんごうぶじ) を建て、真言宗(しんごんしゅう)を広めた。 ことわざの「弘法も筆のあやまり(こうぼうも ふでのあやまり)」の弘法大師は空海のことだ。 比叡山と言い、高野山と言い、ともに山であることに注目もしよう。朝廷が仏教の政治介入を嫌う事とも、つじつまがあう。 奈良時代に墾田永年私財法により、開墾した土地の所有が認められるようになったので、貴族たちや寺社は農民らに開墾をさせ、貴族の所有する土地を広げていった。この貴族の所有する私有地が 荘園(しょうえん) である。 また、平安時代に、貴族や寺社の所有する荘園には税をおさめなくてもよいという、貴族につごうのいい権利が出来た。 税を収めない権利を不輸の権(ふゆのけん)と言い、荘園への役人の立ち入りを拒否(きょひ)できる権利を不入の権(ふにゅうのけん)といいます。 これら不輸不入の権もあり、貴族の荘園は、どんどんふえていき、朝廷の税収は減るので財政は悪化し、律令政治が上手くいかなくなります。 有力な貴族でない者の荘園は国司に取り上げられたり、他の豪族にうばわれることもあったので、そのような有力でない者は、朝廷の有力な貴族に、形式的だが荘園を寄付(きふ)した。これを寄進(きしん) という。 10世紀に入ると、班田収授は行われなくなり、公地公民は くずれていきます。 9世紀の中頃になると藤原鎌足(ふじわらのかまたり、中臣鎌足のこと。)の子孫の一族の藤原氏(ふじわらし) が、権力を強めます。 藤原氏の一族は、代々、娘を天皇の妃(きさき)にしています。 すると、藤原氏は天皇の母方(ははかた)の親戚(しんせき)ということになるので、藤原氏の権力が強まる、という仕組みで、さらに権力を強めました。 藤原氏の一族では、とくに11世紀の前半に 藤原道長(ふじわらの みちなが) と、道長の子の藤原頼通(ふじわらのよりみち)らの親子が権力をにぎっていた時代が、もっとも勢力が、さかんでした。 道長が有名なので、よく、教科書などに道長が取り上げられますが、藤原氏の権力は、べつに11世紀に急に強まったわけではなく、9世紀ごろから藤原良房(ふじわらのよしふさ)が摂政になったりなど、すでに藤原氏の勢力が強かったです。皇族以外で摂政になったのは、良房が、はじめてです。 天皇が幼いときは、藤原氏の者が摂政(せっしょう)になり政治の実権(じっけん)を握り、天皇が成人しても藤原氏は関白(かんぱく)という地位になり実権をにぎり、政治を行いつづける、という手法で権力を強めました。このような摂政や関白として政治を行なうという政治の方法を 摂関政治(せっかん せいじ) といいます。 道長の読んだ歌で、つぎの歌があります。 意味は、「この世は 自分(道長)のためにあるようなものだ 望月(=満月)のように 何も足りないものはない」という意味です。この歌は、いわゆる「望月の歌」(もちづきのうた)として有名です。 摂関政治のころ、地方の行政は、国司に まかせられるようになりました。国司の中には、自分は現地に行かずに都にとどまり、代理人を送る者も、いました。 国司には、蓄えをふやそうと、税を厳しく取り立てる者もあり、農民などの不満は大きく、朝廷に国司の不正を訴えでる者もいました。 894年(寛平6年)に、菅原道真(すがわらの みちざね)の進言により遣唐使が廃止されます。 遣唐使の廃止の理由は、すでに唐から多くのことを学んであること、中国大陸で内乱が多く唐が弱っていること、船の遭難(そうなん)など死の危険が多く有能な人材の命を損ないかねないこと、経済的な負担が大きい、などです。 この遣唐使の廃止により、日本の貴族文化では、だんだん、中国大陸の文化の影響(えいきょう)が、うすれていきます。 かわりに日本独自の貴族文化が発展していきます。この平安時代に発展した日本独自の貴族文化を国風文化(こくふうぶんか) と言います。 なお、) 大宰府の職の地位については、道真のもとの右大臣の職とくらべたら、(大宰府の管理職は)地位が低い。 「左遷」(させん)という熟語が現代の日本にありますが、その具体例として、菅原道真が901年に大宰府の職へ追いやられたことが、「左遷」の典型例であると、現代ではよく表現されます。 なお、「左遷」の語源は古代中国の文献『史記 韓信盧綰伝』であり、日本に由来する言葉ではありません。(※ 文献名『韓信盧綰伝』は中高の範囲外なので覚えなくてよいです。) 右大臣である道真が大宰府に追いやられる前、藤原氏で左大臣だった藤原時平(ふじわらの ときひら)が、道真をこころよく思わなかったので陰謀をしかけたのです。(※ 育鵬社の検定教科書のコラム欄に、道真の「追放」と書いてあるので、追いやるなどと言ってもマチガイではない。) そして時平の陰謀により菅原道真が大宰府に追放されて以降、道真は903年(延喜3年)に大宰府で亡くなってしまいました。道真の死後、京都では災害や異変が多く発生したので、人々はこれを、きっと道真の祟り(たたり)にちがいないと、恐れ(おそれ)ました。ある貴族は、落雷に打たれて死をとげたとも、言い伝えられています。 このため、当時の京都の天皇や大臣たちは祟りをしずめようとして、道真を神様として、たてまつるようになった、といわれてています。 現在、「天満宮」(てんまんぐう)と言われる神社・寺は、菅原道真をたてまつっている宗教施設です。また「天神」(てんじん)とは、神様としての菅原道真のことを言っています。「天神」とか「天満」とか「天」と言葉のつく理由は、一説には、たたりが京都の天気・天候の異常としてに災害をもたらしたからだと(いわゆる「気象災害」、たとえば台風による被害、暴風雨や激しい落雷、あるいは日照り(ひでり)などといった天気の異常による被害の発生のこと)、いわれています。 こうして現代には、菅原道真は学問の神様であるとして、いいつたえられるようになりました。 大宰府の場所にあたる現代の福岡県も天満宮(太宰府天満宮)があります。 道真が「学問の神様」であるといわれてるほどに学問が得意と言われている理由は、道真は若くして、地位の高い役人になるための試験に合格したからだと、言われています。 なお、京都には北野天満宮があります。 唐は10世紀の始めごろに滅び、小国の争いをへて、宋(そう)が統一して、宋に王朝が変わります。中国と日本の、正式な国交は途絶えますが、商人などの交流や僧侶の留学はその後も続き、中国の文物も日本に入ってきました。同じ頃、朝鮮半島では高麗(こうらい、コリョ)が出来て、高麗が新羅(しらぎ、シルラ)を滅ぼしました。 ひらがな や カタカナ などの かな文字が、平安時代に発明されます。 ひらがなは、漢字の形をくずして、発明されました。カタカナは漢字の へん や つくり などの一部をもとに発明されました。 この時代の当初(とうしょ)、ひらがなやカタカナは、女が用いる字であった。 (※ 発展 : )貴族の紀貫之(きの つらゆき)は男だが、名を隠し(かくし)、女を名乗り『土佐日記』(とさにっき)を書いた。日記の出だしの文章は「男もすなる日記というものを 女もしてみむとて するなり」と言った出だしです。 内容は、第三者のフリをして、国司(こくし)として、四国の土佐(とさ)に派遣されていた紀貫之のような経歴の人物のことを、書いた日記です。(※ 教育出版の教科書で『土佐日記』を紹介。) かな文字をつかって、『古今和歌集』(こきん わかしゅう) や『竹取物語』(たけとり ものがたり) などが、この時代に書かれた。 『古今和歌集』は、紀貫之(きのつらゆき)という人物の編集による和歌集です。(醍醐天皇(だいごてんのう)の命令により、紀貫之らが『古今和歌集』を編集しました。) 文学の物語では、紫式部(むらさきしきぶ)によって『源氏物語』(げんじものがたり)が書かれました。 (※ 発展: )この『源氏物語』は、主人公は貴族の「光源氏」(ひかる げんじ)という人物で、光源氏を中心とした貴族の恋愛などを書いています。 なお、名前が後の幕府の「源氏」(げんじ)と似ていますが、光源氏は武士ではありません。源氏物語が出来た1007年ごろは、まだ鎌倉幕府はありません。 随筆(ずいひつ)では、清少納言(せい しょうなごん)が『枕草子』を記しました。清少納言が 日常生活や自然を観察して、感想を述べたものです。 紫式部も清少納言も、宮廷(きゅうてい)に仕える女官(にょかん/にょうかん)です。 絵画では、日本の風景などを書いた 大和絵(やまとえ) が出てくる。寝殿造りの屋敷の屏風(びょうぶ)や ふすま などに大和絵が描かれた。絵巻物などにも大和絵は描かれた。 (※ 発展: )大和絵の作品では、鳥獣戯画(ちょうじゅうぎが)や源氏物語絵巻(げんじものがたりえまき)などが有名です。 鳥獣戯画(ちょうじゅうぎが)は、当時の社会を風刺するために、蛙や猿、うさぎなどの動物たちを擬人的に描いて表現した絵です。 大和絵にも、「源氏物語絵巻」(げんじものがたりえまき)が、描かれました。「源氏物語絵巻」は、紫式部の『源氏物語』の内容を、絵画を使って表したものです。 平安時代には、貴族の衣服の正装(せいそう・・・正式な服のこと)が変わり、男の貴族の服は 束帯(そくたい) になり、女の貴族の服は 十二単(じゅうにひとえ) になります。 貴族の住居の形が 寝殿造(しんでんづくり) になる。 平安時代の中ごろは、伝染病が流行ったり、災害が起きたりしたので、社会の不安が大きくなった。このため、宗教では、人々に安心を与える宗教が、平安時代の半ばごろから流行るようになる。 浄土教という信仰が流行るようになる。阿弥陀如来(あみだにょらい)にすがり、念仏(ねんぶつ)を唱えていれば、死後には、極楽浄土へ行ける、という信仰である。 浄土教を布教した人物では、空也(くうや)という人物が有名である。空也(生:903年~没:972年)は、10世紀中ごろ、諸国をまわり、庶民に浄土教を布教していた。「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)という念仏を唱えるとよい、と空也は民衆たちに広めたという。人が集まる市(いち)で布教していたことから、空也は、市聖(いちのひじり)とも呼ばれます。 仏教の教えによると、1052年(永承7年)は釈迦が死んでから2000年後ということらしく、死後1000年ともなると釈迦の教えがおとろえて世の中が悪くなるという思想があり、この思想は 末法(まっぽう) と言われた。この末法思想もあって、浄土信仰は広まっていった。 地方にも浄土教がひろまり、各地に阿弥陀仏をまつる寺院である 阿弥陀堂(あみだどう) がたてられた。たとえば岩手県の平泉(ひらいずみ)には 中尊寺金色堂(ちゅうそんじこんじきどう)という阿弥陀堂 が建てられた。大分県に富貴寺大堂(ふきじおおどう)が、たてられた。 人々の不安もあって、仏教では、念仏(ねんぶつ)を唱えて阿弥陀仏(あみだぶつ)さえ信じさえすれば救われるという内容の浄土教(じょうどきょう)が流行りました。 京都の宇治(うじ)にある平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)は、この時代に建てられました。十円玉に描かれている建物は、平等院鳳凰堂の絵です。 平等院鳳凰堂のなかにも、阿弥陀像(あみだぞう)があります。平等院鳳凰堂も阿弥陀堂です。 平安時代には、地方の豪族や有力農民たちは私有地を広げていったのであった。9世紀の中ごろから、豪族や有力な農民たちは、自分たちの土地や財産をまもるためには、兵力をたくわえていった。一族の者や、手下の農民たちに武装させるようになった。 このようにして、武士(ぶし)が、できていった。 武士たちは、一族の かしら を棟梁(とうりょう)として、それぞれの一族ごとに武士団(ぶしだん)を結成していった。 貴族の中にも、これにならい、武士団をつくり棟梁となって兵を指揮する者が、地方貴族から出てきた。源氏や平氏などが、そのような貴族の武士である。 源氏も平氏も天皇の子孫です。 武士の中には、朝廷に対して反乱を起こす者も出てきました。 10世紀の935年(承平5年)に、平将門(たいらの まさかど)が反乱を関東地方で起こしました。朝廷は、ほかの武士の助けを借りて、将門の反乱を鎮圧します。 将門は、常陸(ひたち)の国府をおそい、周辺の国府もしたがえて、自分たちで国司を任命し、京都の朝廷とは別に自分たちの朝廷をつくろうとします。平将門は「新皇」(しんのう)をなのりました。しかし、鎮圧されました。 939年(天慶2年)には、藤原純友(ふじわらのすみとも)が反乱を瀬戸内海の周辺で起こし、海賊らを率いて反乱を起こします。朝廷は、ほかの武士の助けを借りて、反乱を鎮圧します。 朝廷の力だけでは、この2つの反乱をしずめることはできず、ほかの武士の協力をえる必要があり、これらの反乱により武士の影響力が増すことになった。 この2つの反乱のことを、起きた年の年号をとり 承平・天慶の乱(じょうへい・てんぎょう の らん) と言う。 11世紀の1051年(永承6年)には東北地方で反乱が起き、安倍頼時らが反乱を起こした。この反乱の鎮圧を、源氏である源頼義(みなもとのよりよし)および源義家(みなもとの よしいえ)らの兵が鎮圧した。この反乱と鎮圧のできごとを 前九年の役(ぜんくねん の えき) と言う。 1051年から1062年(康平5年)まで続いた。源氏が鎮圧を行ったので、関東地方では源氏の影響力が強まった。 また1083年(永保3年)にも反乱が起き、源氏らが鎮圧した。1083年から1087年まで争乱がつづき、この争乱を 後三年の役(ごさんねんのえき) と言う。 また、後三年の役で勝利した源氏の側についた藤原清衡(ふじわらの きよひら)の一族の奥州藤原氏(おうしゅう ふじわらし)の勢力が広まった。中尊寺金色堂(ちゅうそんじ こんじきどう)は、藤原清衡が建てさせた阿弥陀堂(あみだどう)である。
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11世紀の半ばすぎごろになると、藤原氏の影響力は弱まり、藤原氏とは関係のうすい 後三条天皇(ごさんじょう てんのう) が即位した。天皇は、藤原氏の政治に不満をもつ貴族も用いて、政治の実権を天皇にもどした。こうして摂関政治は終わっていった。 後三条の子が次の天皇の 白河天皇(しらかわ てんのう)になり、同様に天皇中心の政治を行った。白河天皇は1086年(応徳3年)に、生存中に次の天皇の堀河天皇に位をゆずり、白河 元・天皇は上皇(じょうこう)として、上皇が政治の実権をにぎった(天皇や上皇が出家すると、法皇ともよばれる)。 上皇の住む住居が 院(いん) と呼ばれていたので、上皇による政治を 院政(いんせい) と言う。 (※ 後三条天皇は院政をしていない。院政をしたのは白河天皇。) 堀河天皇の死後は、白河の孫である 鳥羽天皇(とば てんのう) が即位する。この鳥羽天皇も鳥羽上皇になった。 鳥羽上皇の次は、後白河 元・天皇が後白河上皇(ごしらかわ じょうこう)となり、院政を行った。 このようにして院政が100年ばかり、続いていく。 いっぽう、摂関家だった藤原氏の権力は、おとろえていった。 さて、平安時代に、貴族や寺社の所有する荘園には税をおさめなくてもよいという、貴族につごうのいい権利がある。 税をかけさせない権利を不輸の権(ふゆのけん)と言い、荘園への国司など役人の立ち入りを拒否(きょひ)できる権利を不入の権(ふにゅうのけん)という。有力な貴族でない者の荘園は国司に取り上げられたり、他の豪族にうばわれることもあったので、そのような有力でない者は、朝廷の有力な貴族などに、形式的だが荘園を寄付(きふ)した。これを寄進(きしん) という。 院政のころには、上皇や皇族などに寄進される荘園が増えていった。 また、上皇が仏教を保護したこともあり、寺院に荘園が多く与えられた。 摂関政治のころは天皇の母方の摂関家が政治を支配していたが、院政になり父方の家系に政治の実権が移った。 さて、天皇家の内部でも天皇と上皇との権力をめぐって対立が起きてくる。これにくわえて、藤原氏の内部の対立も加わり、ついに1156年(保元元年)には戦乱となって、保元の乱(ほうげん の らん)が起きた。 上皇の側の崇徳上皇(すとく じょうこう)には、左大臣の藤原頼長(ふじわらの よりなが)、平氏の平忠正(たいらの ただまさ)、源氏の源為義(みなもとの ためよし)が、従った。 天皇の側の後白河天皇には、関白の藤原忠通(ふじわらの ただみち)、平氏の平清盛(たいらの きよもり)、源氏の源義朝(みなもとの よしとも)が、従った。 勝ったのは、後白河天皇の側である。 つまり平清盛と源義朝が加わった側が勝っている。 保元の乱の後、1159年(平治元年)に、保元の乱での恩賞に不満をいだいた源義朝(みなもとの よしとも)が兵をあげて乱をおこしたが、平清盛らの軍に鎮圧される。これが 平治の乱(へいじの らん) である。源義朝の子の源頼朝(みなもとの よりとも)は、伊豆(いず、場所は静岡県)に流された。 この件により、平氏の影響力が強まった。 清盛は、武士の力を利用しようとする後白河上皇との関係を深めます。 1167年(仁安2年)には、清盛は武士としては初めての太政大臣(だじょう だいじん)になります。 平清盛は、藤原氏の摂関政治のように、清盛の娘の徳子(とくこ)を、天皇の高倉天皇(たかくらてんのう)の后(きさき)にして、生まれた子を安徳天皇(あんとくてんのう)にさせ、平氏が政治の実権を得ていきます。 このようにして、平氏の一族が、朝廷での重要な役職を得ていき、権力をつよめます。 清盛は、宋との貿易を重視し、日宋貿易(にっそう ぼうえき)のための整備に、かかります。今でいう神戸にあった大輪田泊(おおわだのとまり)という港を改修します。日宋貿易により、日本には宋銭(そうせん)が多く入ってきた。 日本と宋との正式な国交は開かれておらず、これらの交易は、民間の交易である。 平氏の一族は栄え(さかえ)、 「平氏にあらずんば 人にあらず」 (意味:平氏の一族でなければ、その者は人ではない。) とまで言われるほど、平氏が栄えた。平氏は全国ほどの土地を支配した。 清盛は 海の神をまつっている厳島神社(いつくしま じんじゃ) を敬った(うやまった)。そして厳島神社の神を、平氏一族がまつるべき氏神(うじがみ)とした。 厳島神社には、『平家納経』(へいけ のうきょう)という、平家が一族の繁栄(はんえい)を願って納めた(おさめた)書が、納められている。 10世紀のはじめごろ、907年(延喜7年)に唐がほろんで、多くの小国に分かれた。979年(天元2年)に宋(そう)が中国を統一した。 中国では、役人を登用するための試験の科挙(かきょ)が隋のころにつくられたが、宋になって科挙(かきょ)を整えた。 12世紀に宋は、北方におこった国である金(きん)との闘いにやぶれ、宋は都を長江(ちょうこう、チャンチヤン)の流域にうつし、これ以降の時代を南宋(なんそう)という。南宋に移る前の宋は、北宋(ほくそう)ともいう。 こうして中国の政治が中国南部にうつったため、中国南部の土地の開発がすすみました。 宋の文化では儒学が重んじられ、儒学の一派から、身分の秩序を重んじる朱子学(しゅしがく)がおこった。仏教では座禅を重んじる禅宗(ぜんしゅう)や浄土宗(じょうどしゅう)がさかんになった。 宋の技術からは、火薬や羅針盤(らしんばん)、木版印刷(もくはん いんさつ)の技術が出来た。宋の産業では、茶の栽培や、陶磁器などの生産がさかんになった。美術では水墨画がさかんになった。 遣唐使のような役人などの留学は廃止されていたが、民間の商人たちの貿易はつづいた。宋で貨幣に用いられていた銅銭(どうせん)の宋銭(そうせん)は、日本にも輸入された。日本と宋との正式な国交は無く、民間での交易である。 日本で平清盛が支配する時代に、日本と貿易を行った宋は、南宋のほうである。 8世紀に新羅(しらぎ、シルラ)がおとろえ、10世紀の936年(承平6年)に高麗(こうらい、コリョ)が新羅を滅ぼした。 高麗の産業では、陶磁器の生産がさかんになった。 平氏の独裁的な政治に、他の皇族や、上皇の院、ほかの武士などからの不満が高まっていく。それらが、のちに、平氏の打倒へと、つながる。 ついに1180年(治承4年)、皇族の 以仁王(もちひとおう) は、平氏を滅ぼすように命令を下す。以仁王は後白河法皇の子である。以仁王の命令を受け、各地で武士たちが平氏をほろぼそうと兵をあげた。
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鎌倉幕府はどのように成立し、どのように政治を行っていったのだろう。 この時代の人々はどのように暮らしていたのだろう。 平安時代末期、政権をにぎっていた平氏(へいし)に対する不満が高まった。その中で、1180年(治承4年)に以仁王(もちひとおう)が挙兵し[1]、諸国の武士に「平氏を討伐せよ」との命令を出した。同年、伊豆(いず)に流されていた源頼朝(みなもとの よりとも)、ついで木曽(きそ)の源義仲(みなもとのよしなか)らがこの命令に従って挙兵した。源頼朝は鎌倉を中心に関東の支配を固めていった。頼朝は、自らは鎌倉にとどまって指揮をして、かわりに弟の源義経(みなもとの よしつね)を西に送って、平氏を西へと追いつめていく。 そのころ、源義仲は平氏を京都から追い出すことに成功したが、朝廷の後白河上皇(ごしらかわじょうこう)側との対立を生じていた。後に、朝廷は源義仲追討の命令を出し、義仲は源頼朝の命令を受けた源義経(みなもとの よしつね)らに滅ぼされた。一方、平氏も力を盛り返し、京都に攻め上ろうとする勢いを見せ始めた。しかし、源義経らが平氏を 一の谷の戦い(いちのたにの たたかい) および 屋島の戦い(やしまのたたかい) で破り、ついに1185年(文治元年)に壇ノ浦の戦い(だんのうらの たたかい)で平氏をほろぼした。 ※ 脚注 義経(よしつね)は頼朝(よりとも)と対立する。義経(よしつね)は、頼朝(よりとも)らによって、滅ぼされる。 義経らは東北地方である奥州にいる奥州藤原氏(おうしゅうふじわらし)をたよって東北に逃げていたので、かくまっていた奥州藤原氏も頼朝により滅ぼされる。 いっぽう、平氏の滅亡後、頼朝(よりとも)が朝廷に要求したことより、新しい制度として国ごとに守護(しゅご)が一人ずつ置かれ、荘園や公領(こうりょう)には、地頭(じとう) が置かれた。守護の仕事は、その国の御家人の統制や謀反の取り締まりなどの、軍事・警察の管理者である。地頭の仕事は、荘園および公領の管理や、税である年貢(ねんぐ)の取り立てである。 そして頼朝は1192年(建久3年)に、朝廷から征夷大将軍(せいい たいしょうぐん) に任命される。 頼朝は鎌倉に(今でいう神奈川県の鎌倉市のあたり)、幕府(ばくふ)という武家政治の拠点を開いた。この鎌倉にある幕府を鎌倉幕府(かまくら ばくふ)と言い、鎌倉に幕府があった時代(1192年~1333年の約140年間)を鎌倉時代(かまくらじだい) と言う。 「征夷大将軍」という言葉の意味は、頼朝の時代からは武士たちの中での最高権力者というような意味になっていく。「征夷大将軍」の元々の意味は、平安時代の坂上田村麻呂(さかのうえの たむらまろ)のように東北地方の蝦夷(えみし)を征服するための将軍という意味だった。 将軍の家来の武士のことを 御家人(ごけにん) という。将軍は、御家人たちの土地の権利を保証する政策をとるかわりに( 御恩(ごおん) )、御家人たちは将軍のために警備をしたり戦争の時には戦う( 奉公(ほうこう) )という関係であった。 頼朝は、御家人を守護や地頭の仕事につけた。 御恩(ごおん)とは、将軍が御家人の土地の権利を認めて保証したり、手柄のあった御家人には新しく領地を与えることである。 奉公(ほうこう)とは、将軍や幕府のために仕事をすることで、具体的には、戦争の時には将軍のために戦うことである。「いざ鎌倉」(いざ かまくら)と言って、御家人は戦いが起きれば、すぐに鎌倉へと行って将軍に指示を聞き、将軍のために戦うべき、とされていた。「一所懸命」(いっしょけんめい)という言葉があるが、この言葉は、御家人たちが自分たちの領地を守るために命がけで戦う様子から出来た言葉である。 この主従関係は土地を仲立ち(なかだち)としている。このように土地を仲立ちとした主従関係を 封建制(ほうけんせい) あるいは封建制度(ほうけんせいど)と言う。 頼朝の死後は、頼朝の子の頼家(よりいえ)が次の将軍になり、さらに次の将軍位は頼朝の子の実朝(さねとも)がついたが、政治の実権は、頼朝の妻の北条政子(ほうじょう まさこ)らの一族の北条氏にあった。その政子の父である北条時政(ほうじょう ときまさ)が執権(しっけん)という役職につき、北条氏らが幕府の実権をにぎった。 また、幕府の問題を決めるときには、会議のため、有力な御家人の中から選んだ評定衆(ひょうじょうしゅう)を集めて、会議をした。北条氏のように執権として政治の実権をにぎる政治のやりかたを 執権政治(しっけん せいじ) という。 3代目将軍の実朝は、1219年に頼家の子である公暁(くぎょう)によって実朝は殺される。こうして源氏の直系の将軍は3代で絶える。北条氏は、京都の貴族を形式的な将軍にむかえて、北条氏が政治の実権をにぎった。 1221年(承久3年)、京都の朝廷で院政を行っていた 後鳥羽上皇は政治の実権を朝廷に取り戻そうとして、北条氏を倒す命令を出し、兵を挙げた。だが、集まった兵士は少なく、北条氏の側が上皇側の軍を破る。 後鳥羽上皇は島根県の隠岐に島流しにされ、追放される。これを承久の乱という。 幕府は朝廷や西国を監視するため、京都に六波羅探題を置いた。また、上皇側に味方した勢力の土地は取り上げ、上皇側の土地に新たに地頭を任命した。こうして西国でも幕府の支配は強まっていった。 承久の乱 のあとの1232年(貞永元年)に、執権の北条泰時(ほうじょう やすとき)らにより、武家社会の慣習(かんしゅう)をもとに御成敗式目(ごせいばい しきもく) という法律をつくり、御家人の権利や義務が定められ、この式目が政治や裁判の よりどころ になった。これは律令(りつりょう)とは別の法律である。御成敗式目のことを貞永式目(じょうえい しきもく)ともいう。 御成敗式目(抜粋) その他、律令では ゆるされていないが、女性が養子をむかえることを認める。女性が養子に所領をゆずることを認められた。鎌倉時代は女の地位が、けっこう高かった。女でも土地の相続(そうぞく)ができ、また女でも地頭になれた。 武士は、日ごろから武芸(ぶげい)に、はげんでいた。やぶさめ(流鏑馬)、かさがけ(笠懸)・犬追物(いぬおうもの)などの武芸に、はげんでいた。3つとも、馬に乗り、弓矢で的をいるものである。 この3つの武芸を 騎射三物(きしゃみつもの) という。 犬追物では、やわらかい特殊な矢を使い、犬を殺さないようにしていたのである。 農民の負担は、荘園や公領の領主への年貢だけでなく、地頭も労役などを農民に負担させていた。こうして、領主と地頭とによる二重の支配を農民は受けていた。地頭の領主は、領主と同じように強くなっていき、地頭と領主とが裁判であらそうようにもなった。幕府は、領主の土地の半分を地頭のための物としたり( 下地中分(したじちゅうぶん) )、地頭から一定の年貢を領主に納めることを条件に地頭が領地を支配するようになった。( 地頭請(じとううけ) ) 農民の中には、地頭のきびしい支配を領主に訴えでる者たちも、あらわれた。 鎌倉時代の農業では鉄を用いた農具が普及し、そのため農業が発展した。 鎌倉時代には稲(いね)と麦との二毛作(にもうさく)が、近畿地方や西日本を中心に行われるようになった。秋に米を収穫し裏作として麦をつくり、春に麦を収穫する。 また、桑、うるし、茶、こうぞ(紙の原料)、ごま、大根、豆、ねぎ などの栽培も、さかんになった。 牛や馬を用いて、牛や馬に鋤(スキ)をひかせて田を耕す方法も行われるようになった。また、草を焼いた灰や木を焼いた灰( これらを草木灰(そうもくばい)という )や糞尿(ふんにょう)の肥料(ひりょう)も使われた。 商業や工業も発展していった。 手工業では、鉄製の農具や武具などを作る鍛冶(かじ)職人や、大工、ほかにも染め物をする職人など、いろいろな手工業の職人があらわれるようになった。衣料品などの手工業者もあらわれた。 農工業の発達もあって商業も発達した。定期的に市場(いちば)をひらく定期市(ていきいち)が、寺社などの近くで、毎月3回ほど決まった日に市が開かれはじめるようになった。この毎月3回の定期市を 三斎市(さんさいいち) という。 商業には貨幣が必要なので、中国大陸から宋銭(そうせん)が多く、日本に輸入された。また、貨幣の流通とともに、銭を貸す高利貸し(こうりがし)もあらわれた。 上述のように、鎌倉時代のころ、宋銭が日本全国的に貨幣として普及したと考えられている。つまり、貨幣経済が鎌倉時代ごろに日本全国的に普及したという事。つまり、鎌倉時代以前の地方の経済は、いまでいう「物々交換」や「現物交換」の経済が主体だった事である。 裏を返すと、鎌倉時代以前の古代の貨幣である和同開珎(わどうかいちん)や富本銭(ふほんせん)は、京都および京都の周辺など一部の地域でしか普及しなかった事[1][2]が、歴史学的には分かっている。貨幣の流通しなかった地方では、麻や布、稲などが貨幣の代わりとして役割をはたした[3][4]。 鎌倉時代には、文化の担い手は主として公家(くげ)や僧であったが、やがて、かざり気のない力強さを好む武士の気風が文化のうえにもあらわれた。これを鎌倉文化(かまくらぶんか)という 鎌倉時代には、武士や庶民にもわかりやすい新しい宗派が生まれ、信者を多く得ることになった。修行を重んじる禅宗(ぜんしゅう)は、武士の気風にあっていることもあり、武士に広まった。北条氏は、禅宗を保護し、宋から禅僧を招いたり、鎌倉には建長寺(けんちょうじ)や円覚寺(えんかくじ)を建てたり、そのほか各地にも禅寺を建てた。 禅宗以外の浄土信仰などは、幕府や朝廷からは迫害(はくがい)も受けたが、民衆に広がっていった。 鎌倉時代の前からある、天台宗や真言宗などの宗派も、貴族などを中心に引き続き、信仰されていた。 新しく開かれた宗派の一覧とその特色を次の表にまとめた。 ※ 脚注 歴史学で現代では疑問視されている仮説だが、かつて鎌倉時代の地方文化や地方経済の発展の原因としての仮説で、「鎌倉幕府ができたことにより、京都の中央の文化が鎌倉をふくむ地方に広がるようになった」という説がよく言われていた。だが21世紀に入り歴史学が進歩して、この説が疑われている。どうも、鎌倉幕府ができる前から、たとえば宇都宮歌壇による和歌など、地方で独自に芸術作品なども作られてきた[1]。 ※ なお、奥州藤原氏による中尊寺金色堂(1124年に建立)は幕府以前から岩手県に存在しているが、この金色堂について中学歴史では、浄土宗の普及の結果として、平安時代の単元にて語られている。 ともかく、このような歴史学の進歩のため、現代の小中高の教育では鎌倉時代の文化の発展の原因については、教えずにボカすことになる。中学生・高校生の学習としては、まずは実際に過去に起きた事実を覚えるべき、という事になる。まずは史実を確認しよう。 武士の支配する社会になったので、平安のころの貴族文化とは、ちがった文化が出てきた。 文芸では、平氏の繁栄(はんえい)から滅亡(めつぼう)までを書いた『平家物語』(へいけ ものがたり)のように、軍記物が人々の関心をあつめた。 琵琶法師(びわほうし)という盲目(もうもく)の僧の人物が、琵琶による弾き語りで各地で平家物語などを語り歩いたという。当時は、文字の読める人が少なかった。 随筆では鴨長明(かもの ちょうめい)による『方丈記』(ほうじょうき)や、吉田兼好( よしだ けんこう、兼行法師(けんこうほうし) )の『徒然草』(つれづれぐさ)などが出てきた。 朝廷の貴族を中心とした和歌などの文化も残っていた。朝廷では後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)の命令により、藤原定家(ふじわらの さだいえ、ふじわらの ていか)により『新古今和歌集』(しんこきんわかしゅう)が編集された。 鎌倉時代の和歌集は他にもあり、3代将軍の源実朝(みなもとの さねとも)によって残された『金槐和歌集』(きんかい わかしゅう)がある。武士出身の歌人もあらわれ、源実朝や、武士から僧になった西行(さいぎょう)などの歌人もあらわれた。 彫刻(ちょうこく)では、金剛力士像(こんごうりきしぞう)が、つくられた。金剛力士像がある場所は、奈良の東大寺の南大門にある。この金剛力士像を作った彫刻家(ちょうこくか)は運慶(うんけい)と快慶(かいけい)である。 東大寺は、平安時代からあった寺ですが、平氏に焼き払われたので、鎌倉時代のはじめごろに再建されました。この再建のときに、中国大陸の宋の建築様式である大仏様(だいぶつよう)が南大門などに取り入れられました。大仏様は天竺様(てんじくよう)ともいいます。 絵画では、似絵(にせえ)という肖像画が描かれるようになった。 鎌倉は、陸上では山に囲まれており、防御には向いていた。しかし、そのままでは孤立してしまうので、切通し(きりとおし)がつくられた。
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モンゴル帝国はどのように勢力を広げていったのだろう。 モンゴル帝国はどのように日本に侵攻し、日本はどのように対処したのだろう。 なぜ鎌倉幕府は衰えたのだろう。 13世紀、中国大陸と、中国をふくむユーラシア大陸の広い地域では、遊牧民(ゆうぼくみん)であるモンゴル民族がモンゴル帝国を築いていた。まずモンゴル民族じたいの統一はテムジンによって統一された。そしてテムジンは1206年にチンギス=ハンという称号を名乗ります。つまり、テムジンとチンギス=ハンは同一人物です。チンギス=ハンと、その一族は、西アジアや東ヨーロッパまで攻め込み、領土を拡大しました。 チンギスの孫の フビライ=ハン もモンゴル帝国を支配しており、フビライは国号を元(げん)に変えました。また、都を大都(だいと、現在の北京(ペキン) )に変えました。モンゴル帝国は戦争によって支配を中国にも広め、それまで中国南部を支配していた王朝であった南宋(なんそう)をほろぼしました。また、ベトナムにも、元は出兵しましたが、ベトナムは強く抵抗(ていこう)して戦いました。 元(げん)は、モンゴル人のつくった国であり、中国人や漢民族の作った国ではありません。チンギス=ハンもフビライ=ハンも、モンゴル人であり、漢民族ではありません。(現在でも、モンゴル地方には、モンゴル国という独立国があります。) フビライの率いる元(げん)は、朝鮮半島を統一していた高麗(こうらい、コリョ)も服属(ふくぞく)させました。 中国大陸には南宋(なんそう)がのこっているのでした。日本は平安時代に日宋貿易をしていたように、宋は日本との結びつきがある国です。 元は南宋を支配下におくため、宋と交流のあった国に次々と服属を求め、したがわなければ兵を送り、支配していきました。 日本にも、フビライからの服従の要求を伝える元(げん)からの使者が、たびたび来ます。執権の8代目の北条時宗(ほうじょう ときむね)は、元(げん)の要求を拒否しつづけます。 1274年(文永11年)、ついに元が日本に攻め込みます。元が約3万人の軍勢(ぐんぜい)で博多湾(はかたわん)に上陸し、元(げん) 対 日本の戦いになります。 最終的には暴風雨の影響により元軍が引き上げたので日本が勝ちますが、元との戦いでは元軍の火薬を用いた新兵器(日本では「てつはう」と呼ばれた)や、毒矢(どくや)、元軍の集団戦に苦戦しました。 それまでの日本では、武士どうしの戦いでは一騎打ち(いっきうち)が主流でしたが、外国の軍隊が相手では、日本の慣習は通用しません。 この1274年の元と日本の戦いを 文永の役(ぶんえい の えき) と いいます。 画像の合戦の絵は、蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらい えことば)という絵巻物の一部の絵です。 蒙古(もうこ)とはモンゴルのことです。 この戦いのあと、幕府は次の元軍(げんぐん)の侵攻(しんこう)に備え、博多湾の沿岸(えんがん)に石塁(せきるい)を築かせます。 1281年(弘安4年)に、元(げん)の軍勢(ぐんぜい)は、再び日本に襲来(しゅうらい)してきます。今度の元(げん)軍は14万人もの大軍(たいぐん)です。 日本は、勝ちます。この1281年の戦いを 弘安の役(こうあんのえき) といいます。この弘安の役でも暴風雨により元軍は被害を受けました。 この2度の元軍の襲来をあわせて、元(げん) 対 日本の戦いのことを 元寇(げんこう) という。 つまり 文永の役 と 弘安の役 をあわせて 元寇(げんこう) と言う。 「元寇」という呼称は江戸時代に徳川光圀(とくがわみつくに)の編纂した『大日本史』に出てくる。 元は3度目は日本に襲来できなかった。フビライは企画したが中国大陸南部での反乱などがあり、日本への襲来は延期になり、さらにフビライの関心が中国大陸南部の平定やベトナムの遠征へと関心が変わり、そのうちフビライも死んだので、日本には3度目の襲来はなかった。 さて、このときの暴風雨は、のちに「神風」(かみかぜ)と言われるようになった。1276年(建治2年)の公文書である『官宣旨』(かんせんじ)の中に「神風」という字が出てくる。のちに、江戸時代の国学でも「神風」(かみかぜ)と言われ始めた。 「神風」という言葉は、後に昭和の戦争での「神風特攻隊」(かみかぜ とっこうたい)などの語源にもなった。 古くは日本書紀にも「神風」という語句は出てくるが、江戸以降で「神風」といったら、元寇のときの暴風雨のことである。 御家人は元寇で多くの費用を使ったが、幕府は 御恩(ごおん) としての褒美(ほうび)の土地を、じゅうぶんには用意できなかった。元寇は日本国内での防衛戦なので、新たに日本が獲得した領土は無いのである。 このため、御家人は幕府に不満を持つようになった。 さきほど紹介した竹崎季長(たけさき すえなが)も、恩賞(おんしょう)の少なさに不満をもった御家人(ごけにん)の一人で、そのため幕府に自分の功績(こうせき)をうったえでるために、彼の元寇での活躍を記した絵巻物(えまきもの)を手下のものにつくらせた結果、さきほどの蒙古襲来絵詞(もうこ しゅうらい えことば)が出来たと言われています。 御家人の中には、社会の変化で、生活が貧しくなり、借金をする者も出てきた。1297年(永仁5年)に、幕府は御家人の借金を帳消し(ちょうけし)にする 徳政令(とくせいれい) を出した。永仁の徳政令(えいにん の とくせいれい)である。 だが結果は、金貸しからすれば、貸した金が返ってこないのは困る(こまる)から、なので、金貸しが御家人には金を貸さなくなっただけであった。 金をかりれなくなった御家人は、あいかわらず貧乏なままであった。 このような鎌倉幕府の失政がつづき、幕府の権威(けんい)や信用は落ちていった。 鎌倉時代のなかごろにより、朝廷では2つの派閥が皇位を争うようになった。幕府は、2つの派閥に交代で皇位につくよう命じた。いっぽうの派閥を 大覚寺統(だいかくじとう) と言い、もういっぽうの派閥を 持明院統(じみょういんとう) という。 (※ 派閥名は、おぼえなくて良い) 大覚寺統であった後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は、幕府を倒す計画をたてるが、1324年(元亨4年)、計画がもれて失敗する。この1324年の事件を 正中の変(せいちゅうのへん) という。 (※  正中の変は、おぼえなくて良い) 1331年(元徳3年)に、ふたたび幕府を倒そうと計画するが、また、計画がもれて失敗する。この1331年の事件を 元弘の変(げんこうのへん) という。 (※ 元弘の変は、おぼえなくて良い) 後醍醐天皇は幕府に捕らえられ、隠岐(おき)に島流しにされた。天皇は島流しになったが、幕府に不満のあった各地の武士や御家人たちは、天皇に味方して各地で兵をあげはじめた。 御家人でない武士の楠正成(くすのき まさしげ)らが、幕府軍に抵抗した。また、悪党(あくとう)という、幕府や荘園領主に従わない武装勢力が出てき始めて、幕府に逆らう勢力が増えた。 当時の「悪党」という言葉は、「強いもの」というふうな意味であり、今でいう「悪い者」という意味では無い。 やがて後醍醐天皇が隠岐(おき)から脱出する。 1333年(元弘3年)、幕府の御家人であった 足利尊氏(あしかが たかうじ) は幕府を裏切り、後醍醐天皇と協力し、京都の六波羅探題(ろくはらたんだい)を足利尊氏が攻め落とした。 同1333年、関東では 新田義貞(にった よしさだ) が鎌倉を攻め落とし、こうして鎌倉幕府は1333年に滅んだ。
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この時代はどのような改革が行われ、どのように室町幕府が成立したのだろう。 1333年(元弘3年)に新田義貞(にった よしさだ)らが鎌倉幕府を攻め落として、鎌倉幕府をほろぼした。鎌倉幕府がほろんだあと、後醍醐天皇は、摂政や幕府をおかず天皇を中心とした政治を行った。翌年1334年には年号を「建武」(けんむ)とさだめたので、これらの後醍醐の政治を 建武の新政という。だが、公家に多くの恩賞を与えるいっぽうで、武士への恩賞は少なかったので、武士は不満を持った。 新政をほろぼそうと足利尊氏が武士の復権をかかげて兵をあげた。そして、尊氏の軍が後醍醐天皇の朝廷の軍に勝ち、建武の新政はわずか2年半ほどで終わった。 後醍醐天皇が政治を行っていた頃、建武元年(1334年)に京都の二条河原に立てかけられた札に、次のような、政治の混乱ぶりが書かれている。新政への批判を遠まわしに書いていると思われる。 原文は、韻をふんでいて、リズムカルになっている。 足利尊氏(あしかが たかうじ)は、京都にあらたに天皇をたてた。こうして京都に北朝(ほくちょう)が出来た。このときに尊氏が京都にたてた天皇は光明天皇(こうみょう てんのう)。 すると、後醍醐天皇(ごだいごてんのう)は奈良の吉野(よしの)山中に逃れた。後醍醐天皇の吉野側の朝廷を南朝(なんちょう)という。 尊氏は1338年に北朝の天皇から(尊氏が)征夷大将軍に任命され、足利尊氏が室町幕府(むろまち ばくふ)を開いた。 南北朝の対立は、やがて全国的な対立へと発展した。 各国の武士は、南北朝のうち自分に有利な側に味方して争ったので、南北朝の対立は全国的な内乱となり、約60年間にわたって争乱がつづいた。 南北朝から拡大した全国的な争乱によって、各国の守護(しゅご)職の権利が強まり、それまでの軍事や警察権に加えて、さらに年貢の半分を得る権利などが守護に認められた。やがて国司にかわって守護が各国を支配するようになった。このような守護を守護大名(しゅご だいみょう)という。 南北朝の対立は、足利の側の北朝に有利に進み、3代将軍の足利義満(あしかが よしみつ)のころには、南朝はほとんど勢力を失っていた。そして南朝を北朝に合一するように呼びかけ、南朝に従わさせて、1392年に足利義満は南北朝を統一した。 義満は将軍権力を固めて南北朝の統一を行い、天皇に迫る権力を確立する事となる。「室町」時代(むろまち じだい)の呼び名は、3代将軍の足利義満(あしかが よしみつ)が、京都の室町(むろまち)に開いた御所(花の御所(はなのごしょ))が政治の中心地になったことによる。室町幕府がつづいた1573年までの約240年間を室町時代という。南北朝が、幕府主導で統一されたことにより、朝廷は政治的な権限を失っていった。 のちに義満は太政大臣(だじょう だいじん)となり、朝廷の権威も手に入れ、政治の実権をにぎった。さらに、のち、義満は出家したので、義満は天皇の臣下ではなくなった。 室町幕府では、将軍の補佐役として管領(かんれい)という職を置いていた。守護は、有力な守護大名などから選ばれた。細川(ほそかわ)氏や畠山(はたけやま)氏などの有力な守護大名が交代で管領に選ばれた。 また、関東には鎌倉府(かまくらふ)を置かれ、室町幕府による関東支配の拠点になった。関東府の長官には足利氏の一族がついた。 14世紀には中国で漢民族の帝国である明(みん)が1368年にたてられた。いっぽう、モンゴル族の元(げん)は北に追いやられた。 南北朝の争いのころから、東シナ海では倭寇(わこう)の海賊的な活動が活発になった。このころの倭寇の人員は日本人が中心だったが、ほかにも中国人や朝鮮人も加わっていた。倭寇は海賊行為や密貿易をしていた。倭寇は、沿岸の街から食料などを略奪したり、人をさらったりした。明は、日本に倭寇の取り締まりを求めた。 明は貿易を制限し、明に朝貢をする国にのみ、明との貿易を認め、自由な貿易を禁止した。貿易そのものも、明への朝貢の一部とみなされ、周辺国からの朝貢としての輸出品に対し、明は返礼を与えてやるという形式での貿易だった。 足利義満は、この機会に明と国交をむすび、倭寇の取り締まりも行い、明への朝貢貿易を行った。明の皇帝からは義満は「日本国王」(にほん こくおう)と認められた。正式な日本の貿易船には、海賊船と区別するために、文字の書かれた合い札(あいふだ)が日本として、明から勘合(かんごう)という合い札の片方が日本の貿易船に与えられた。 合札の、もう片方は中国側が持っており、日中両国の合い札を合わせることで、文字が正しく出来上がる。日明貿易のことを、勘合を用いたため、勘合貿易(かんごう ぼうえき)という。 日本からは、銅や刀剣が輸出された。明からは、銅銭、生糸、絹織物、陶磁器などが日本にもたらされた。 日本の明との貿易の利益は、幕府の収入源に なった。 14世紀末の朝鮮半島では、李成桂(り せいけい、イ・ソンゲ)が高麗(こうらい、コリョ)をたおし、朝鮮(ちょうせん)という国をたてた。 朝鮮も明への朝貢貿易を行った。また朝鮮も日本に倭寇の取り締まりを求め、日本とは対等な国交をむすび、朝鮮と日本との貿易も行われた。勘合に似た仕組みの合い札が、朝鮮との貿易でも使われた。 朝鮮では、公用語が漢文だったが、あらたに独自の文字のハングルが民衆のために作られ、1446年(文安3年)に朝鮮王によって公布された。しかし、まだ民衆には、あまりハングルは普及しなかった。現在の韓国や北朝鮮ではハングルが文字に使われている。ハングルは表音文字である。また、朱子学が広まった。このころに日本では、まだ綿があまり栽培されていなかったので、朝鮮からの輸出品で綿布などが多く輸出された。 のちに日本でも綿の栽培がされるようになった。 朝鮮からの輸出は、綿の他には経典などが日本へ輸出された。朝鮮の印刷技術では、金属活字が使われていたという。 朝鮮との貿易は、のちに対馬の宗(そう)氏だけが朝鮮から貿易をみとめられ、貿易の独占権を与えられ、宗氏が朝鮮との貿易を独占するようになった。 沖縄では14世紀には、3つの勢力に分かれていて北山(ほくざん)・中山(ちゅうざん)・南山(なんざん)の3つの地域が争っていたが、15世紀に中山王(ちゅうざんおう)の尚(しょう)氏が沖縄本島を統一し、琉球王国(りゅうきゅう おうこく)をたて、首里(しゅり)を都とした。(首里の場所は現在の那覇(なは)市。) なお、北山を山北(さんほく)という場合もあり、南山を山南(さんなん)という場合もある。 琉球の貿易では、東南アジア・中国・日本とをむすぶ中継(ちゅうけい、なかつぎ)貿易が行われた。 北海道は蝦夷地(えぞち)と言われていた。蝦夷(えぞ)では、アイヌ民族が、くらしていた。 津軽(つがる)半島の十三湊(とさみなと)を拠点に、和人とアイヌとの交易が行われた。 蝦夷地からは鮭(さけ)や昆布などが輸出され日本にもたらされた。 この十三湊の領主の安東氏(あんどう し)が栄えた。 15世紀には、北海道の南部に和人が進出し、渡島(おしま)半島の沿岸部に館(たて)と呼ばれる根拠地を多くつくり、アイヌと交易した。和人の進出により、それまでいたアイヌと衝突を起こした。アイヌの首長のコシャマインが蜂起したが、和人に鎮圧された。 コシャマインの蜂起の鎮圧後、しばらくすると和人とアイヌとの交易が再開され、交易は安定していった。また、この時代、和人の居住区域は限定されていた。(※ 帝国書院のデジタツパンフレット版の教科書見本より。) 6代将軍 義教(よしのり)が暗殺されたころから、すでに守護大名どうしが対立していました。(※ 東京書籍、日本文教出版の教科書で紹介。) そして15世紀の8代将軍 足利義政(あしかが よしまさ)の時代に、義政には実子がおらず、跡継ぎ(あとつぎ)の座をめぐり、まず先に弟の足利義視(あしかが よしみ)が形式的には跡(あと)を継いだが、その翌年に正妻である日野富子(ひのとみこ)が義尚(よしひさ)を生み、このことが発端となり15世紀なかばに争いになる。 (※ 自由社の教科書で、上述のような、あとつぎ争いのイキサツが紹介されている。) また、三官領のうち斯波(しば)氏では斯波義敏(しば よしとし)・斯波義廉(しば よしかど)のあいだで相続争いが起こり、また畠山氏では畠山政長(はたけやま まさなが)・畠山義就(はたけやま よしなり/よしひろ)の間でそれぞれ相続争いが起こった。 このころは既に将軍の権力は衰えており、各地の守護大名が力を強めていて、たがいに勢力争いをしていた。将軍や官領の跡継ぎ(あとつぎ)争いが起こり、それぞれの家中でそれぞれ細川勝元(ほそかわ かつもと)と山名宗全(やまな そうぜん)につき、このため二派の争いはその後に全国的な争いに発展することとなる。 畠山政長と義就の衝突から、京都を戦場とする戦いが1467年(応仁元年)に起きた。この戦乱を 応仁の乱(おうにんの らん) という。この戦いは長期戦となり、京都の町は焼け野原になり、勝元・宗全の両者亡き後も争いは止まず、応仁の乱は11年ほど続いた。応仁の乱では、足軽(あしがる)と呼ばれる軽装の歩兵が、機動力が高く、活躍した。 (この応仁の乱を要因として、戦乱が地方にも広がり、しだいに戦国時代へと突入することになる。) 米と麦などの二毛作(にもうさく)が西日本だけでなく東日本でも広まり、全国各地に広まった。 手工業も進歩し、農具が普及したこともあり農業技術が進歩した。かんがい(灌漑)の技術の発達が発達して灌漑に水車が用いられるようになったり、用水が作られた。また人の糞尿や牛馬の糞などから作られた肥料の使用の普及や、牛馬を用いた耕作も普及していった。これらに加えて、従来の肥料である草や木を燃やして灰にした草木灰(そうもくかい)や、刈草をくさられた肥料なども使用されていた。 農業の生産力が増えたこともあり、多くの種類の農作物が栽培された。麻(あさ)、桑(くわ)、藍(あい)、茶なども生産され、養蚕(ようさん)もさかんになった。16世紀には、朝鮮から伝わった綿の栽培も、三河(みかわ、愛知県)などでさかんになった。 紙の原料の こうぞ、油の原料の えごま、漆器(しっき)の塗料(とりょう)の原料の うるし、なども栽培された。手工業では、京都の西陣(にしじん)や博多(はかた、福岡県)などの絹織物(きぬおりもの)や、紙、陶器、刀や農具なども生産された。各地の特産物が手工業や農業では作られた。 茶の特産地では、京都の宇治(うじ)などが特産地になった。 刀や農具を作るための鍛冶(かじ)や鋳物(いもの)業も、さかんになった。その原料を掘り出すための採掘も多く行われ、銅や金・銀、砂鉄などが採掘された。 手工業では、業種ごとに同業者どうしの組合の 座(ざ) がつくられ、座には製造や販売を独占する権利が、有力な寺社などから与えられた。 室町時代には、鎌倉時代よりも ますます商業が発達した。たとえば定期市は、鎌倉時代は月3回の 三斎市(さんさいいち) だったが、室町時代には月6回の 六斎市(ろくさいいち) になった。 室町時代の産業では、運送業(うんそうぎょう)が発達した。商業や農業・工業が発達したので、商品を運ぶ必要がふえたからである。 この時代の陸上での運送業者は、馬を使って運送をすることが多かったので、 馬借(ばしゃく) と言われる。なお、牛車で運ぶ場合は 車借(しゃしゃく) と言う。 道路も整備された。幕府や寺社などは、交通の要所に関所(せきしょ)をもうけ、通行税をとった。 商業には貨幣(かへい)が必要である。明の銅銭である明銭(みんせん)を日本に輸入されて使われた。この明銭とあわせて、鎌倉時代に宋から輸入して使われた宋銭(そうせん)も引き続き使われていた。このころの日本では、正式な貨幣は作られず、明銭や宋銭などを日本国内での貨幣として使用していた。 明銭では永楽通宝(えいらくつうほう)が有名である。 農民は、年貢を貨幣で納めることも多くなっていった。そのために、農作物を市で売って貨幣に変えることも行われた。 他にも、倉庫などの保管業などを行っていたり輸送の管理をしたりする 問丸(といまる) が出来た。これが問屋(とんや)の起源である。 高利貸し(こうりがし)で金貸しをおこなう金融業者(きんゆう ぎょうしゃ)が京都や奈良などの都市で増えてくる。土倉(どそう) や 酒屋(さかや) と言う。土倉(どそう)とは今でいう質屋(しちや)のことで、客から品物をあずかるかわりに、客にお金を貸した。酒屋は、文字どおり酒もつくっていたが、大きな利益をえていた一部の酒屋は土倉も行い、金貸しも行っていた。幕府は、土倉や酒屋から税を取って利益を得るかわりに、土倉や酒屋を保護をした。 諸産業の発達により、各地の湊には港町が発達した。また寺社の門前には門前町が発達した。 職業が増えるに連れ、庶民の職業の中でも、いやしい職業だと差別される職業も出てきた。たとえば、動物の革を加工して革製品をつくる皮革業などが、動物を殺したり死体を扱うので、いやしい職業だと差別されるようになった。このような差別される職業には、「河原者」(かわらもの)と言われる、河原に住んでいるような者がなった。河原に住んでいた理由は、河原が無税だったから貧しい者などが住んだという説と、皮革加工には大量の水が必要だからだという説と、加工などの際の臭気などで人里から離れたところに住む必要があったという説などがある。河原者のつく職業には、皮革加工の他にも、河原者は井戸掘り、芸能(能の役者)、運搬業、行商、庭づくりなどの造園業などにも河原者が多く従事していた。 のちの江戸時代には、皮革業の職業の身分は「えた」とされ、「ひにん」という農民よりも低い身分と同様に扱われるようになった。 いっぽう、僧侶や武士などの職業も、死にふれる機会は多い職業だが、これらの職業は差別されなかった。 もっとも、皮革業なども商工業に必要な職業なので、皮革業などの職業からも商売で成功して金持ちになる者も出てきた。また、江戸時代には、必要な職業なので皮革業は差別されつつも、規制によって一定の保護もされた。明治時代の以降、職業の自由化にともなう競争により、皮革業などの職業の者の多くが没落し貧しくなったが、それ以前の時代は、必ずしも皮革業は貧しくなかった。 河原者の中で最も著名なのが庭師の善阿弥で、彼は足利義政にも仕え、銀閣寺の庭園を彼と彼の子と孫とによって作った。その他、京都の中世以降の石庭の多くは河原者(御庭者)の作である。 神道では、「けがれ」(穢れ)という思想があって、死は「けがれた」物だという考えがあり、それに関わることは良くないことだとされていた。仏教でも、殺生を嫌う考えがあった。このようなこともあり、皮革業などは、けがれの多い職業だと見なされており、「エタ」と言われた。エタは江戸時代ごろの後世には「穢多」という当て字をされた。「けがれ」(穢れ)の概念は、不衛生などの概念とは異なる。 室町時代には、農民の自治が前の時代よりも強くなった。 色々な村で、用水路や共用地の管理など村の運営(うんえい)のしかたについて、寺社などに集まって自主的に相談しあって決める 寄合(よりあい) という集まりが開かれるようになった。 このような主体的な村を惣(そう)または 惣村(そうそん) という。このような惣は、産業が発達していた近畿地方から始まり、しだいに地方へも広がっていった。 近江(おうみ、今は滋賀県)の国の今堀惣(いまぼり そう、今は近江市)で、1488年に定められた。 翌年1489年には、つぎのような別の規則も定められた。 なお、現在も山間部の一部の村において寄合の風習がのこる地域がある。 室町時代には、農民は、厳しい領主に対しては、集団で対立するようになる。 年貢が重い場合は、集団で領主に押しかけて(おしかけて)訴えでる(うったえでる)という強訴(ごうそ)をしたり、訴え(うったえ)がききいれられない場合は、全員が村から逃亡して村に人がいなくなってしまう逃散(ちょうさん)などで、対抗しました。 農民や馬借などは、あまり裕福ではなく、これらの貧しい職業の民は、当時は 土民(どみん) と言われていた。 この土民たちが集団で実力行使にでることを 土一揆(どいっき) という。 室町時代には、貨幣による経済がすすんできたので、生活苦の農民などは借金をする必要が生じました。そのため、借金のふくらむ農民などが多くなり、たびたび借金帳消しの徳政をもとめて高利貸しなどをおそって借金の証文(しょうもん)を焼きすてる土一揆が、よくおきた。 このような一揆のきっかけが、次にいう 正長の土一揆(しょうちょう の どいっき) である。 近江国(おうみのくに、滋賀県のこと)の貧しい馬借(ばしゃく)たち運送業者が、京都で高利貸しをしている酒屋や土倉をおそい、幕府に徳政を要求した一揆である。 当初、幕府は徳政の求めには応じなかったので、一揆の民衆は借金の証文(しょうもん)を焼き捨てたり質物をうばうなど、実力行使(じつりょくこうし)に出た。 ・正長元年(1428年) ・オイメ(負い目) - 借金のこと。 1428年より先の借金は、神戸(こうべ)の4か郷では、帳消しにする。 奈良の興福寺(こうふくじ)大乗院(だいじょういん)の日記には、この正長(しょうちょう)の土一揆(どいっき)について、次のように書かれている。 また、北陸地方の加賀(かが、今で言う石川県)では、農民などが浄土真宗の一向宗(いっこうしゅう)を中心にして、一揆(いっき)によって守護を追い出し、それから自治が100年間ほど続いた。このような、一向宗を中心にした一揆のことを一向一揆(いっこう いっき)という。 一向宗の信仰では、蓮如(れんにょ)が中心的になった。 京都の山城(やましろ)では、地侍(じざむらい)や農民たちの団結した一揆により、守護大名の畠山(はたけやま)氏を追い出し、自治を8年間ほど行った。これを、山城の国一揆 という。 禅宗などの影響はみられるが、鎌倉時代と比べると仏教色や大陸色は一層薄れたものになり、現代に伝統文化、伝統芸能と呼ばれるものの多くはこの時代にその源流が求められるものが多い。室町時代には、京都の文化が地方にも伝わっていった。 足利義満(あしかが よしみつ)によって、北山(きたやま)の別荘として金閣(きんかく)が建立された。3つの階の1番下は寝殿造り、2階は武家風、3階は禅宗の様式となっており、公家と武家の文化がまざった造りになっている。後の禅宗の鹿苑寺(ろくおんじ)。 このころの文化のことを北山文化(きたやま ぶんか)という。 京都の東山に、足利義政によって銀閣(ぎんかく)が建立された。2層からなり、下の層は寝殿造り、上の層は禅宗の様式というように、内部の様式は金閣と似た様式になっている。後の慈照寺(じしょうじ)。(京都) このころの文化のことを東山文化(ひがしやま ぶんか)という。
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この時代の世界はどのような動きを見せたのだろう。 ヨーロッパでは、395年にローマ帝国が東西の2つの国に分裂したが、はじめは、どちらも国政がふるわなかった。やがてヨーロッパ各地で小国がいくつも興った(おこった)。そしてローマではキリスト教が国教だった。 ローマ帝国の国教だったキリスト教は、ローマ帝国の崩壊後もヨーロッパの諸国に受け入れられ、西ヨーロッパを中心にカトリック教会が作られ、ヨーロッパ全域にキリスト教が普及した。やがてカトリックの教皇は、小国の国王にも勝る影響力を持つようになった。 そしてキリスト教中心の社会になっていった 8世紀ごろから、西アジアを中心に、イスラム教が発展する。そして西アジアが、中国やインドと、ヨーロッパとの間をつなぐための貿易の経路となり、イスラム諸国は交易でさかえた。イスラム諸侯は、中国(唐)などとも貿易をした。 また、西アジアのイスラム諸国では、古代ギリシアの書物などが残され、そのため古代ギリシアの哲学や医学などが、イスラム諸国に受け継がれた。また、中国から、紙の製法や、羅針盤(らしんばん)・火薬などの技術が、イスラム諸国に、つたわってきた。 さらに、数学では、インドからゼロの概念や、インドの数字が伝わってきて、アラビア数字に発展した。 11世紀に西アジアでイスラム教の勢力が伸びたことで、キリスト教の聖地エルサレムが、イスラム教の領土になった。カトリック教会は聖地エルサレムの奪回(だっかい)のために、ヨーロッパ諸国にイスラム諸国との戦いを呼びかけ、十字軍(じゅうじぐん)を結成させて11世紀から13世紀にかけて軍を数回にわたり遠征させたが、最終的に十字軍はイスラム諸国に敗退して失敗に終わった。こうした十字軍の失敗により、ローマ教皇の権威は低下した。その代わり、各地の国王の影響力は強まった。 いっぽう、経済では、イタリアとイスラムの間で、地中海を通じた貿易などによって交易が進んだ。そして西ヨーロッパに、イスラム文化の文化が伝えられた。 イスラム勢力の西アジアでは、当時のヨーロッパで失われていた古代ヨーロッパの文献が残っていたこともあり、古代のヨーロッパの文化が西アジアからヨーロッパに伝わった。 14世紀ごろから、当時のヨーロッパで忘れられていた古代ギリシャ・古代ローマの文化を復興する風潮が起こり、この風潮はルネサンス(文芸復興)と言われた。イタリアを中心にルネサンスが起きた。 中国からイスラム商人を経て伝わった羅針盤(らしんばん)や火薬などの改良も進んだ。科学では実験や観察を重んじるようになり、地球球体説にもとづく世界地図が作られ、天文学や地理学も発達した。こうした科学技術は交易にも役立ち、航海の技術などが発達して、のちに南ヨーロッパの商人たちが海外進出していく。 ルネサンスでは、レオナルド=ダ=ビンチ や ミケランジェロ などの芸術家が活躍した。 16世紀ごろ、ローマのカトリック教会は免罪符(めんざいふ)を売りに出した。教会は、軽い罪なら、免罪符を買えば許される、とした。 ドイツのルターは、この免罪符の販売の行為を腐敗として、ローマ教会を批判して、宗教改革(しゅうきょう かいかく)を始め、新しい宗派を結成した。このルターらの宗教改革を支持してローマ教会から離れたキリスト教徒は、プロテスタント(抗議する者)と呼ばれた。 また、ルターの宗教改革に刺激され、スイスでも、フランスから来たカルバンが宗教改革を起こした。カルバンの宗教改革では、職業や労働を信仰の一部として解釈(かいしゃく)したので、労働の結果として富を蓄えることが正当化された。そのため商工業者にルターの改革は受け入れられ、商工業の影響力が強いオランダ・イギリスやフランスなどで広まった。 これらの宗教改革は、けっして人道主義でもなく、民主化ではない。 たとえば、カルバンは、厳密な教義にもとづく統制的かつ独裁的な政治を行い、もしも統制に従わない者などがいれば処刑した。[1] また、ルター派の政治家は、農奴制(のうどせい)のドイツで大規模な農民反乱が起きたとき(「ドイツ農民戦争」、※高校の範囲、中学範囲外なので覚えなくて良い)、農民を弾圧する諸侯(しょこう)を支持した。ルター派は富裕な商工業者に支持されてたのであり、貧しい農民に支持されたのではない。 いっぽうカトリック教会でも、立て直しのための改革が進み、イエズス会が結成された。イエズス会は、アジアやアメリカなど海外にも積極的に布教した。 参考文献 ヨーロッパの商人たちでは、アジアとの貿易により伝わってきた香辛料や絹織物などのアジアの産物を求めて、インドや中国などへの関心が高まっていたが、西アジア諸国ではイスラム教の国々の勢力が強く、イスラム諸国との取引の深いイタリア以外の国は、地中海からはヨーロッパの商人は自由にインドや中国へは向かえなかった。そのため、イタリア以外のスペインやポルトガルなどの国では、別の航路が求められ、新しい航路が探されていた。 ポルトガルは1488年に南アフリカ大陸の南端の喜望峰(きぼうほう)に到達して、海路でインドに直接に行ける可能性を明らかにした。 そして、1498年には、ポルトガルのバスコ=ダ=ガマが実際にアフリカ南端を経由してインドに到達した。 いっぽう、スペインは、ポルトガルに対抗し、イタリア人で西回りの航路を開拓していたコロンブスを支援した。コロンブスは実際に大西洋を西へ航海して、1492年にアメリカ大陸の西インド諸島を発見した。コロンブスは、アメリカ大陸をインドの一部だと思っていたが、ヨーロッパ人には知られていなかった新しい大陸であった。のちにスペインはアメリカ大陸を征服していった。 アメリカ大陸の先住民を「インディアン」「インディオ」などと呼ぶ習慣は、このコロンブスの時代の誤解がもとになっている。なお、現在は、アメリカ合衆国では先住民のことを「ネイティブ=アメリカン」とも読んでいるが、その一方で「ネイティブ=アメリカン」という言い方がヨーロッパ系のアメリカ白人の主導での言い換えであるので、先住民の中には、この言い換えを嫌い、引き続き「インディアン」と呼び続ける運動も起こっている。 歴史的事実かどうかは不明だが、次のような言い伝えがある。 コロンブスは、アメリカ大陸を発見したあと、その発見を祝ったパーティーで、コロンブスをねたんだ者から「海を船で西に進んだだけじゃないか。そんなのは簡単なことだ。」というような やっかみ を言われた。そこでコロンブスは、そのパーティー会場の卓上にあった ゆで卵を取り出し、「だれか、この卵を、支えをつかわずに立ててみてください。」と言ってみた。すると、他のものは、誰も立てられなかった。そのあとコロンブスは、卵の端を少し潰して、端を平(たいら)にすることで、じっさいに卵を立てて見せた。 すると、やっかみを言ってた者は「そんな方法でいいなら、誰でもできる」と反論したという。 するとコロンブスは、次のようなことを言ったという。「ええ。手本を見せたあとなら、だれでも簡単にできますね。」と。 「このように、誰かがやってみせた事は、後から来た人には簡単に見えることなのです。ですが、実際には、最初になにかをするのは、とてもむずかしいことなのです。」と。 ・・・というような言い伝えがあり、この言い伝えを「コロンブスの卵」という。 16世紀には、スペインの援助を受けたマゼランの船団が西回りの航路で世界一周をした。マゼラン本人は航海の途中にフィリピンで先住民と争い、マゼランは死亡したが、彼の部下がそのまま航海をつづけ、世界を一周してスペインにもどった。この世界一周により、地球が球体であることが航路からも証明された。 アメリカ大陸に到達したスペイン人はアメリカ大陸を武力で征服し、先住民の文明をほろぼした。そしてアメリカ大陸のいくつかの土地をスペインの領土とした。 15世紀ごろまでは、メキシコにはアステカ王国が栄え、ペルーにはインカ帝国が栄えていたが、スペイン人は、これらの国を武力で征服し、ほろぼした。そして先住民を奴隷として働かせ、農場や鉱山などでの労働力として酷使した。このようにして中南米はスペインに征服され、中南米の地域はスペインの植民地になった。 アメリカ大陸では有力な銀山が発見され、銀が多く採掘された。 じゃがいも・さつまいも、とうもろこし・かぼちゃ・トマト・たばこ・とうがらし・カカオ などは、アメリカ大陸の作物である。これらの作物がヨーロッパに紹介された。 さとうきびは、オセアニア州のニューギニア島あたりが原産であり、アメリカの原産では無い。 さとうきびも、アメリカの大農場(プランテーション)で栽培され輸出された。 アメリカ大陸で先住民だけでは労働力が足りなくなると、アフリカから黒人を強制的につれてきて、奴隷として働かせた。 スペインの宗教がキリスト教のカトリックだったことから、中南米にはイエズス会の宣教師が多く送られ、中南米地域でカトリックが広まった。また、スペインはフィリピンを占領し、マニラを拠点に貿易を行った。 ポルトガルは、インドのゴアやマレー半島のマラッカ、中国のマカオなどを拠点にして、香辛料や絹などを買い入れ、ヨーロッパに輸出した。 しかし16世紀末ごろに、カトリックの多いスペイン領から、プロテスタント系の住民の多いオランダが独立した。そしてオランダの貿易のため、17世紀の始めごろの1602年には東インド会社を作り、インドネシアのジャワのバタビア(今のジャカルタ)を貿易の拠点にして、東南アジアでの貿易の影響力を強めた。 アメリカやアフリカを征服したヨーロッパ人が、アジアと貿易してたことから、世界の各地の産業や情報が、貿易を通して結びつくようになった。
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日本に来たヨーロッパ人はどのような影響を与えたのだろう。 戦国時代の16世紀の1543年(天文12年)に、九州の今でいう鹿児島県の島である種子島(たねがしま)に、ポルトガル人を乗せた中国大陸の船が流れ着く。 このとき、ポルトガル人から鉄砲(てっぽう)が日本に伝わる。それまでの日本には鉄砲は知られていなく、新兵器であった。当時の鉄砲の仕組みは、火縄銃(ひなわじゅう)という仕組みである。種子島の領主の種子島時尭(たねがしま ときたか)は、ポルトガル人から大金を払って鉄砲を買い入れ、部下にその仕組みと製造法を学ばせた。 時尭はヨーロッパ人の鉄砲の威力を見て感心し、即座に2000両の大金を支払い2丁の鉄砲を購入したという。 やがて各地に鉄砲の情報が広がる。堺(さかい、大阪府にある)や国友(くにとも、滋賀県にある)で、それまでの刀鍛冶などによって大量に鉄砲が日本国内でも生産されるようになった。 この時代のころ、ヨーロッパでは、海路での貿易が、さかんであった。15世紀に入ってから西アジアではトルコ系のオスマン帝国が成長し、ヨーロッパは貿易ルートをオスマン帝国にさえぎられるようになっていたからだ。このため陸路(りくろ)をさけた貿易が、さかんになった。16世紀には、ポルトガルやスペイン人らは、貿易で東アジアに進出しており、そこで貿易を行っていた。 鉄砲の伝来により、日本での戦いの仕方が、大きく変わった。 このようなことをきっかけに、日本とポルトガルとの貿易が始まり、やがてスペインも日本との貿易を始め、ポルトガル人・スペイン人の商船が、九州の長崎や平戸(ひらど)や、大阪の堺(さかい)の港などを訪れ、貿易をするようになった。 日本への輸入品は、中国の生糸や絹織物など、中国産の物品が中心だった。ヨーロッパの鉄砲、火薬、毛織物、時計、ガラス製品、南方の香料なども、日本に輸入され、伝えられていった。日本からの輸出品は、銀や刀剣だった。当時の日本では銀山の開発が進んでいたので、世界市場に影響を与えるほどの産出量・輸出量だった。 当時の日本人がヨーロッパ人を南蛮人(なんばんじん)と読んだので、日本によるヨーロッパとの貿易のことを 南蛮貿易(なんばん ぼうえき)という。 また、戦国時代のヨーロッパ人の来航により、キリスト教が日本に伝わった。 1549年(天文18年)にはイエズス会のスペイン人の宣教師(せんきょうし)であるフランシスコ=ザビエルが日本の鹿児島に来て、キリスト教を伝えた。当時の日本では、キリスト教徒のことを キリシタン と呼んでいた。 そのあと、他の宣教師も、次々と日本にやってきた。たとえばルイス・フロイスなどの宣教師である。 宣教師は貿易の世話もしたので、戦国大名たちの中にはキリスト教を保護する者が、西日本を中心に、特に九州を中心に多く出た。キリスト教の信者になった大名のことを キリシタン大名(キリシタンだいみょう) という。キリシタン大名になった戦国大名には、有馬晴信(ありま はるのぶ)、松浦隆信(まつら たかのぶ)、宗義智(そう よしとも)、大村純忠(おおむら すみただ)、黒田長政(くろだ ながまさ)、大友宗麟(おおとも そうりん)、小西行長(こにし ゆきなが)、高山右近(たかやま うこん)などがいた。 1582年(天正10年)には、九州のキリシタン大名の大村・大友・有馬を中心に、日本からローマ教皇のもとへ少年使節が4人、送られた。(天正遣欧少年使節(てんしょう けんおう しょうねん しせつ)) しかし、使節は1590年(天正18年)に帰国して、帰国の時点では、すでに日本では豊臣秀吉により宣教師が禁止されていたが、キリスト教はまだ許されていた。 キリスト教は、平等を説き、病院や孤児院なども建てたので、民衆の心をつかみ、民衆たちにもキリスト教は広がっていった。17世紀の初め頃には、日本国内でのキリスト教の信者の数が30万人をこえるほどになっていたと言われている。 (: 発展)イエズス会は、カトリック系の組織。ヨーロッパの宗教改革で勢力を伸ばしたプロテスタントに対抗し、カトリックでも改革が進められ、そのカトリックの中でもイエズス会は有力な組織であった。信者を獲得する理由もあり、イエズス会(カトリック)は海外への布教も進めていた。ザビエルなども、そういったカトリックの一連の布教活動もあって、日本などに布教しにきていた。(※ 教科書会社の副教材ワークブックで、ここら辺の背景事情まで教えられている。 )
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中学校社会 歴史/戦国時代と安土桃山時代では、戦国時代と安土桃山時代について解説します。 戦国時代とはどのようなものだったのだろう。 この時代の対外政策はどのようなものだったのだろう。 この時代の文化にはどのような特色があるのだろう。 室町時代の後半は、応仁の乱がきっかけで各地に領土獲得のための争いが広がった。この室町時代後期の日本各地で戦乱があった時代を 戦国時代と言い、戦乱が続いた。応仁の乱で、守護大名が京都に出向いて兵を指揮していたころ、国もとに残っていた家臣らが実権をにぎるというということが起きた。他にも、各地で、身分が下の者が、守護大名に取って代わろうとして争い、大名になった者たちが現れ始めた。このように身分の下のものが身分が上の大名を倒して、新しく大名になることを下克上という。 そして、戦国時代の大名を戦国大名という。戦国大名の多くは、下克上によって、大名に成り上がった。 無論、すべての守護大名が下克上で倒されたわけでなく、守護大名のまま、時代が戦国時代になり、守護大名から戦国大名になった者もいる。守護大名出身の戦国大名には、武田氏、今川氏、佐竹氏、山名氏、大友氏、島津氏などがある。 その他の戦国大名は、ほとんどが下剋上によって戦国大名に成り上がった者である。 戦国大名どうしが戦うことから、領地内での統制も強める必要があった。戦乱の時代に対応した、領地を管理するための法律を、新たに作る必要がある。 それぞれの戦国大名が領地内でしか通用しない法律を勝手に作った。これが 分国法 である。戦国大名の領地を分国と呼んでいた。その分国の中で通用する法律だから分国法というわけである。 たとえば甲斐 (山梨県) の戦国大名である武田信玄は『甲州法度次第』という分国法を1547年(天文16年)に作った。 甲州法度次第のように、部下どうしの争いを両方とも処罰することを 喧嘩両成敗 という。 他にも今川氏の『今川仮名目録』などの分国法がある。 分国法の内容は大名によって違うが、多くの大名の分国法では、勝手に他国と連絡をとることを禁止するなど、家臣の裏切りを防ぐための決まりや、家臣同志が争った場合は両方とも罰することで領内を団結させるなどの決まりであることが多い。 大名の多くは家来を自分の城の近くに住まわせた。このため、城の近くに街が出来た。これが 城下町 がである。朝倉氏の一乗谷 (現在は福井県内) や、北条氏の小田原 (現在は神奈川県内) などが城下町である。 戦国大名たちは、荘園領主の支配を認めず、荘園だった土地を自国の領土とした。 多くの大名がおり、各地で争いがおきているので、その全てを解説する時間はない。なので、代表的な人物を中心に取り上げる。 戦国時代には各地に大名がおり、多くの大名どうしが争っていた。1560年(永禄13年)以降から、まず、尾張 (現在の愛知県西部) の 織田信長 が勢力を伸ばし始める。きっかけは、1560年(永禄3年)に、尾張が桶狭間の戦いで駿河 (現在の静岡県) の大名である今川義元の軍に攻めこまれたが、今川義元を織田らの軍が討ち取り、今川義元は死亡する。このため、今川軍は負ける。 今川討ち死にのいきさつは、信長軍の兵が少数の軍勢で今川の本陣を攻撃し、今川義元を討ち取った。 (発展的事項、おわり。) なお、豊臣秀吉(とよとみひでよし)は、桶狭間の当時は織田信長の家臣であり、当時の名は 木下藤吉郎(きのした とうきちろう) と名乗っていました。のちの1570年のころに名を変え、木下藤吉郎から羽柴秀吉(はしば ひでよし)に名前を変えています。 桶狭間の戦い以降、信長は西へと勢力を伸ばしていく。1568年(永禄11年)には、足利義昭(あしかが よしあき)を支援して京都に入った。義昭が、室町幕府の第15代将軍になる。 1569年(永禄12年)、キリスト教の宣教師のルイス・フロイスと初めて出会い、彼にキリスト教の布教を許可します。(※ ルイス=フロイスについては、中学の範囲外。清水書院など一部の教科書ではコラムなどで紹介されている。) 信長本人はキリスト教の信者ではなく、信長の狙いは宣教師のもたらす情報などが狙いだとか、あるいは当時に信長と敵対していた仏教勢力への対策などと、一般に言われています。 (発展的事項「信長包囲網」、おわり。) また、仏教勢力にも容赦は無く、一向一揆の根拠地である大阪の石山本願寺を1580年(天正8年)には屈服させた。 義昭は1573年に京都の槇島城(まきしまじょう)で挙兵したが失敗し、織田によって義昭は京都から追放された。 (※「槇島城」については、おぼえなくてよい。) これによって、室町幕府は、ほろんだ。 1575年(天正3年)に織田・徳川の同盟と、対する敵は、甲斐(かい)の大名の武田勝頼(たけだ かつより)らの戦争である 長篠の戦い(ながしのの たたかい) が三河(みかわ)で起きる。この戦いでは、織田・徳川らの鉄砲隊の活躍により、織田が勝ち、武田は負ける。 武田の戦法は騎馬兵による従来の戦法であった。 1576年(天正4年)、近江(おうみ、滋賀県)に城を築かせ(きずかせ)、5層の天守閣(てんしゅかく)を持つ 安土城(あづちじょう) を築かせる。 安土城の城下町では、次に説明する楽市楽座(らくいち らくざ)などの新しい政策が行われた。 商業をさかんにするため、関所(せきしょ)で通行税(つうこうぜい)を取ることを廃止(はいし)する政策を、岐阜や安土で行った。 一般に商人は、利益をだすために、費用をあまり払いたくないので、そのため税のひくい場所で商売をしたがります。 また、各産業の同業者組合である座(ざ)の独占権を廃止し、だれでも商売が始められるようにします。このように座の独占権を廃止したことを 「楽座」(らくざ) と言います。 そして、商業を活発にするための信長による一連の規制(きせい)の撤廃(てっぱい)などの商業の振興策(しんこうさく)を、楽市楽座(らくいち らくざ)といいます。 商業都市の堺は自治都市だったが、信長は堺を支配下に置き、自治の権利をうばい、直轄領にした。 1582年(天正10年)、中国地方へと勢力をひろめるため、織田軍は家臣の秀吉(ひでよし)などに命じて、中国地方の大名の毛利と戦争をしていました。信長はこれを支援するため中国地方に向かう途中、京都の本能寺に泊まって(とまって)ました。 このとき、家臣の明智光秀(あけち みつひで)が反逆をして、この本能寺で信長および信長の子の織田信忠(おだ のぶただ)たちは死亡します。 信長は当初は応戦していたといいますが、やがて敵の兵数を知るとけを覚悟し、家臣の森蘭丸(もり らんまる)らに寺に火を放たせ、信長は自刃(じじん)したと 言います。 この1582年(天正10年)の本能寺での一連の事件が本能寺の変(ほんのうじのへん) です。 信長は、天下統一をしていません。 天下統一ならず、信長は死亡します。 のちに、戦国時代の天下統一をした人は、羽柴秀吉です。 織田信長の時代のころ、秀吉は、信長に仕えていた有力な武将であった。そのころは、羽柴秀吉(はしば ひでよし)などと名乗っていた。 本能寺の変のとき、秀吉は、信長の命令により、毛利軍と戦争をしている時期だった。信長の死の報告を聞いた羽柴秀吉は、ただちに毛利との停戦をし、そして京都・大阪に向かい 山崎の戦い(やまざき の たたかい) で明智光秀を倒す。 その後、信長の家来だった柴田勝家と戦い、賤ヶ岳の戦い(しずがたけのたたかい)で秀吉軍は柴田軍を倒す。 このようにして、信長の支配権の争いに秀吉は勝って行き、信長の領地を受け継いでいく。 1583年(天正11年)に秀吉は、大阪にあった石山本願寺(いしやまほんがんじ)の跡地(あとち)に大阪城(おおさかじょう)を築かせ、この大阪城を本拠地(ほんきょち)にした。 そのあと、秀吉は各地の大名たちを平定し従えていきます。徳川家康も、秀吉は従えさせた。 1585年(天正13年)、羽柴秀吉は朝廷から 関白(かんぱく) の称号を、もらう。 1586年(天正14年)、羽柴秀吉は朝廷から豊臣(とよとみ)の姓(せい)をもらい、豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)と名乗る許可を得ます。秀吉は、関白と太政大臣(だいじょうだいじん)の朝廷の地位を手に入れる。 そして秀吉は、各地の大名どうしに争いをやめるように停戦命令として惣無事令(そうぶじれい)を1585年(天正13年)に出す。停戦命令に従わなかった九州の島津(しまづ)氏は、1587年(天正15年)に征伐され屈服させられた。 そして1590年(天正18年)には、秀吉に従わなかった北条(ほうじょう)氏の治める関東の小田原(おだわら)を攻め、北条氏政(ほうじょう うじまさ)を滅ぼします。同1590年(天正18年)、秀吉に従っていなかった東北の奥羽(おうう)の伊達(だて)氏など東北の大名は、秀吉にしたがい、これで秀吉が天下統一をなした。 秀吉は支配下に大坂、堺、京都、などの重要都市を直接支配下に置いた。佐渡(さど)金山、生野(いくの)銀山、石見銀山(いわみぎんざん)なども直接支配下に置いた。 農民から年貢を取るための土地の調査を検地(けんち)という。 検知そのものは信長の時代からも行われていたが(※ 教育出版などの検定教科書に記述がある)、さらに秀吉は各地でちがっていた物さし(ものさし)の長さや ます の容積などを統一し、また、全国の田畑の面積や土地のよしあしを調べた。(※ 信長はそもそも全国統一してないので、物差し などの全国統一のやりようがない。日本を全国統一したのは秀吉である。) マスの基準(きじゅん)は、京都で使われていた京枡(きょうます)が全国の基準の枡になった。このような、秀吉が行った検知の改革のことを太閤検地(たいこう けんち)という。「太閤」(たいこう)とは「関白をやめた人」という意味であり、秀吉のことである。秀吉は関白をやめた後には「太閤」(たいこう)と名乗っていました。 そして検知の記録によって、田畑の面積や、田の収穫高である石高(こくだか)、その田畑を耕す農民の名前などが記録される 検地帳(けんちちょう) が作られた。 検地帳によって耕作者が、はっきりしたので、農民は田畑を持つ権利を認められたが、同時に年貢(ねんぐ)をおさめる義務をおうことになり、土地を勝手に離れる(はなれる)ことができなくなった。 また、これで、かつての荘園のように土地の権利がはっきりしない土地がなくなった。そして公家や寺社などの荘園領主としの権利は完全に否定され、公家などの勢力は衰えた。 1588年(天正16年)に農民から刀や鉄砲などの武器を没収する命令の刀狩令(かたながりれい)をだします。名目は大仏を京都の方広寺(ほうこうじ)に作るので材料の鉄が必要なため、という名目です。秀吉の狙いは、一揆(いっき)を防ぐため、というのが現代(2014年に記述)での一般的な考えです。 このような検地や刀狩の結果、農民と武士との中間的な立場の人間がいなくなり、農民と武士との身分のちがいが、はっきりとしました。このようなことを現代の用語で兵農分離(へいのう ぶんり)といいます。 さらに秀吉は1592年(天正20年)に、人々が身分を勝手に変えることを許さなくした。これを人掃令(ひとばらい れい)という。 豊臣秀吉は、キリスト教を禁止する。いっぽう、信長はキリスト教を優遇して保護していました。信長がキリスト教の布教を認めた理由は、信長に敵対する仏教勢力と対抗する目的だと思われている。秀吉も、最初のほうはキリスト教を許可していた。 秀吉がキリスト教を禁止した理由として一般に言われているのは、一般に、 キリシタン大名の大村純正が長崎をキリスト教に寄付し、長崎がキリスト教の領地になっていることを、九州の平定の際に知った秀吉が、キリスト教は天下統一のさまたげになるだろうと考えたから、と言われています。 1587年(天正15年)にキリスト教の宣教師(せんきょうし)を日本の外へ追放(ついほう)するバテレン追放令(バテレンついほうれい) を出します。バテレンとは、ポルトガル語で神父を意味する パードレ padre が由来の言葉。 (※ ポルトガル語表記「padre」は、おぼえなくてよい。) しかし南蛮貿易は許可していたこともあり、取り締まりの効果は不十分だった。 天下統一を果たした秀吉は、明を征服しようという夢を抱(いだ)くようになりました。秀吉は明を統治する計画を持っていました。しかし、日本から中国大陸の明へ向かって直接軍隊を派遣(はけん)するのは困難です。 そこで、秀吉は、朝鮮に、明へ行く道の通行許可を求めましたが、朝鮮はその要求を拒みました。これにより、秀吉は明を征服する前に、朝鮮に出兵する必要があると考え、朝鮮に軍隊を送って朝鮮と戦いました(文禄の役)。 文禄の役で出兵した軍隊は、朝鮮の地域を次々に陥落(かんらく)させ、ついには漢城(かんじょう、現在のソウル)にまで達しました。明は、朝鮮に軍を派遣し、日本と明の戦いになりました。さらに、日本軍は補給を断たれ、明との間で苦戦しました。 すると、明との間で和平交渉が行わrましたが、さまざまな事情により、破局しました。秀吉を「日本国王に命じる」などの文書を秀吉が不満に思ったことも原因の一つとされます。 明との交渉が破局すると、再び、開戦です。日本は朝鮮へ軍を派遣(はけん)しました(慶長の役)。このとき、秀吉自身も朝鮮に赴(おもむ)こうとしましたが、第107代後陽成天皇によって止められました。 秀吉が没すると、朝鮮への出兵は終わりました。 信長が生きてて影響力の強かったころの安土文化(あづち ぶんか)と言います。信長が安土城(あづちじょう)を建てさせたころの文化だからです。秀吉の時代の文化を桃山文化(ももやま ぶんか)と言います。「桃山」とは、秀吉が築いた伏見城(ふしみじょう)の、のちの時代の地名です。安土文化と桃山文化を合わせて安土桃山文化(あづちももやま ぶんか)と言います。 室町時代に生まれた茶の湯は、千利休(せんの りきゅう)により、質素さや簡素さなどの「わび」(侘び)を重んじる、「侘び茶」(わびちゃ)とよばれる茶道(さどう)へと発展した。 織田信長のころから、めずらしい茶器(ちゃき)が好まれるようになった。朝鮮出兵のときに陶工を捕虜として連行した理由の一つには、このようなことがある。 千利休により、妙喜庵待庵(みょうぎあん たいあん)などの茶室が造られた。(※ ウィキペディアに茶室内部の画像が無いので、外部で探してください。)妙喜庵待庵は国宝になってる。妙喜庵待庵の茶室の広さは、わずか二畳しかない。 ふすま絵や屏風絵(びょうぶえ)が発達した。狩野永徳(かのう えいとく) や 弟子の狩野山楽(かのう さんらく) などの 狩野派(かのうは) の画家が活躍した。ふすま絵や屏風絵(びょうぶえ)を合わせて障壁画(しょうへきが)という。 狩野永徳の作品の『唐獅子図屏風』(からじし ずびょうぶ)が有名。 ほかの派の画家では、長谷川等伯(はせがわ とうはく)が有名。 南蛮貿易により、ヨーロッパの医学・天文学・印刷技術が日本に伝わる。 パン(pão)やカステラ(pão de castela)、カボチャ、カッパ、カルタ(carta)、テンプラ(Temporas)、たばこ(tabaco)、ボタン(Botão)が日本に伝わる。 (※ ポルトガル語表記は、おぼえなくてよい。「pão」や「carta」などは、おぼえなくてよい。) 「カステラ」の由来は、有力な説はポルトガル語でCastelaがスペインのカスティーリャ地方のことだが、カスティーリャ地方のパンケーキという意味でカステラが日本に伝わって、日本語の「カステラ」になったという。 (※ ポルトガル語表記は、おぼえなくてよい。) 逆に日本からの輸出では、銀や刀や茶などが輸出され、catana(「カタナ」、刀のこと)などのポルトガル語の由来になった。屏風がbiomboに、坊主がbonzoに、伝わった。 浄瑠璃(じょうるり)と歌舞伎(かぶき) 琉球から 三味線(しゃみせん)のもとになる三線(さんしん)が日本に伝わった。日本で 三味線(しゃみせん)として発展した。民衆のあいだでは、三味線の音色に合わせて、人が物語をかたるのを見て楽しむ浄瑠璃(じょうるり)が流行る。この浄瑠璃は、さらに発展し、人の代わりに人形を使う人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)へと発展した。 のちの江戸時代には歌舞伎は演劇となっていき男だけが歌舞伎を行うことになるが、この安土桃山時代には女が歌舞伎踊りをしていた。 衣服では、小袖(こそで)が普及していった。木綿(もめん)の衣服が、麻にかわって一般的になった。民家の屋根には瓦屋根(かわら やね)の様式が京都などでは増えていった。
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豊臣秀吉の死後、徳川家康が勢力を伸ばした。 徳川家康は、出身地である東海地方から、関東地方に(豊臣秀吉の命令によって)領地を移されており、徳川家康は江戸(えど)を拠点としていた。 豊臣側の石田三成(いしだ みつなり)などは、豊臣秀頼(とよとみ ひでより)の政権を守ろうとして、家康と対立した。徳川家康は、1600年の関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい、場所は岐阜県)で勝利し、1603年に朝廷により征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命され、江戸幕府(えど ばくふ)を開いた。 豊臣氏はまだ、大阪城を拠点に存続していたが、家康は豊臣氏を滅ぼすために1614年と1615年の二度にわたって大坂の陣で豊臣氏と戦い、1615年に家康は豊臣氏を攻め滅ぼした( 大坂冬の陣(ふゆのじん)、夏の陣(なつのじん) )。こうして、戦乱の時代が終わり、徳川氏は日本全国を支配し、江戸幕府が置かれてからの約260年間、大きな戦乱のない時代が続いた。この1603年からの約260年間を江戸時代という。 幕府の直接の支配地(現代語で「直轄地」(ちょっかつち)又は幕領という)の広さは、全国の約4分の1にあたる約700万石(ごく)であった。 江戸幕府の直轄地(ちょっかつち)とは、江戸はもちろん、そのほかに、京都・大阪・奈良・長崎も江戸幕府の直轄地だった。つまり、江戸・大阪・長崎などの重要な都市や、金銀の取れる鉱山、政策上で重要な港などが、直轄地になった。 江戸幕府では、将軍から1万石以上の領地を与えられた武士を、大名(だいみょう)と言った。17世紀なかごろでは、日本全国で200あまりの大名がいたとされる。 大名家は、大きく3つの種類に分けられ、それによって配置も大きく異なっている。 それぞれの地方の政治は、大名に任されていた。大名の支配している地域とその支配の仕組みを合わせて藩(はん)という。また、各藩は幕府に従い、農民に対しては「年貢」(ねんぐ)とよばれる税を課していた。 このように、江戸時代には将軍と大名による人民の支配体制がとられ、このような支配体制を幕藩体制(ばくはんたいせい)という。 なお、将軍直属の家来であり、1万石未満の者のことを、「旗本」(はたもと)または「御家人」(ごけにん)といいます。 幕府は大名を取りしまる法律として武家諸法度(ぶけしょはっと)を1615年に定め、幕府に無断での築城・婚姻などを禁止した。法度に違反した大名には、領地没収(いわゆる「取りつぶし」)などの、きびしい処分を行った。 また、3代将軍の徳川家光(とくがわ いえみつ)の時代に、 領地と江戸を往復する参勤交代(さんきんこうたい)をするように定めた。 また、大名の妻子(さいし)を江戸に住まわせ、江戸住まいの生活費は、大名の藩の負担になった。参勤交代の旅費も、藩の負担となった。 なお、通説として、参勤交代のねらいは、大名による反乱を防ぐために、江戸に大名の妻子を人質(ひとじち)として住まわせる事と、往復の旅費や江戸生活の出費をさせる事である、というものがある。また、大名と大名宇都将軍の主従関係を確認するという意味合いもある。 さらに大名は、幕府から江戸城の修築や河川修復などの普請(土木工事)も命じられ、その費用は藩の負担になったので、ますます藩の財政は苦しくなりました。 また、幕府は公家や天皇にも法度を定め、禁中並公家諸法度(きんちゅう ならび に くげしょはっと)を1615年に定めました。そして京都には朝廷を監視するため京都所司代(きょうと しょしだい)を置きました。 1603年、徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開いた。3代将軍の徳川家光(いえみつ)の時代ころに、幕府のしくみが完成した。 まず、将軍の下に老中(ろうじゅう)を置き、通常時の政治の実務を監督させ、それを「若年寄」(わかどしより)たちが補佐をした。通常時は、老中が将軍の次に位が高い。 非常時には、大老(たいろう)が置かれた。非常時は、大老が、将軍の次に位が高い。 「大目付」(おおめつけ)とは、大名の監視(かんし)をする役職である。 「寺社奉行」(じしゃぶぎょう)とは、寺社を取りしまる奉行である。 「町奉行」(まちぶぎょう)とは、江戸の町政をおこなう奉行である。(※ 中学3年の公民の用語でいうと、江戸の町の行政(町政)と司法(裁判)の仕事をするのが町奉行である。つまり、町奉行は、「立法」はしない。江戸時代は、司法と行政を、同じ機関が行った。) 「勘定奉行」(かんじょうぶぎょう)とは、江戸幕府の財政を取りしきる奉行である。また、幕府の直轄領(ちょっかつりょう)の監督もしている。なお、江戸幕府の直轄領のことを「天領」(てんりょう)という。(※ いちおう、「天領」(てんりょう)は中学検定教科書の範囲内。教育出版の教科書および自由社の検定教科書で紹介されてる。しかし、他の教科書では紹介されておらず、それほど重要な用語でもないだろうから、無理して覚える必要は無いだろう。下記の、歴史用語が「天領」から「幕領」に変化している件も参照のこと) つまり、勘定奉行の仕事とは、江戸幕府の財政のほか、天領を監督する仕事もしている。 「遠国奉行」(おんごくぶぎょう)とは、京都・大阪・長崎などを支配する奉行である。 西国大名の監視のため、「大坂城代」(おおさかじょうだい)が置かれた。 勘定奉行のしたに、郡代(ぐんだい)や各種の代官(だいかん)が配置された。 また、幕府は、貨幣の発行権も独占し、さらに石見(いわみ)銀山や佐渡(さど)金山などを幕府の直轄地(直接の支配地)にした。 江戸幕府はヨーロッパ諸国の軍事的干渉・宗教的干渉などをおそれ、貿易や出入国をきびしく制限する政策をとった。のちの明治時代にこのような江戸幕府の政策は「鎖国」(さこく)と呼ばれた。 中学・高校の歴史の検定教科書を執筆している歴史学者のひとりである山本博文(大学教授、東大)も、彼の著書で、「鎖国」という言葉が間違いだというデマを批判している[1]。 山本のいうには、 ・・・というような感じで山本は批判している。 要するに、歴史研究の成果としては、単に、アイヌや琉球といった従来(昭和ごろ)は未解明だった地域との貿易の実態が、21世紀頃から解明されてきただけにすぎない。 その研究成果を反映して「4つの口」(中国・韓国・アイヌ・琉球)という表現がある歴史学者によって提唱されただけのことである。この表現風にいうなら、昭和の従来説はさしずめ「2つの口」(中国・韓国)だろうか。 ところが、それを無知な世間の人(マスコミなど)が、「鎖国」という表現が「4つの口」に変わった、というデマに置き換えているだけである。 念のため参考書を調べてみても、2020年以降に出版された中学参考書(学研や旺文社など)を見ても、「鎖国」という用語は引き続き使われています。 中学だけでなく、高校の山川出版社(教科書会社名)の2020年発行の検定教科書ですら、「鎖国」という用語があります。高校の参考書でも、その出版社の本をみても、「鎖国」の用語はあります。参考書によっては「4つの口」という用語を紹介している出版社もありますが、べつに「鎖国」と言う用語と置き換えようしなんて、していません(マスコミが勝手に「置き換わっている」と騒いでるだけです)。 もはや「教科書に『鎖国』の用語は無い」と言うのは、完全なデタラメです。またもし仮に将来、中学教科書から「鎖国」の文字が消えたとしても、高校教科書には引き続き残るでしょう。 世間では、「江戸時代の当時、『鎖国』という用語は使ってなかったので、教科書から消すべき」という意見もあります。 しかし、そもそも「藩」という用語は廃藩置県のときに出来たらしいです。『江戸幕府』という用語自体、滅んだ鎌倉幕府や室町幕府を連想させるため、江戸幕府は自分たちの政権を呼ぶのに『幕府』という用語を使わせなかった、とも言われています。歴史用語にはこのように、当時は存在しなかった言葉も多くあります。 「鎖国」政策の直接要因となった出来事は、1637年の島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)である。この「島原・天草一揆」とは、九州の島原(しまばら、長崎県)・天草(あまくさ、熊本県)地方で、農民たちが重税やキリスト教の取り締まりに反発して、大規模な一揆を起こした事である。 このような出来事の結果、江戸幕府は、さらにきびしいキリスト教の取りしまりをするために、1639年にはポルトガル船の日本への来航を禁止した。(スペインは1624年にすでに日本への来航を禁止されていた。) ただし、いわゆる「鎖国」の例外として、オランダは日本への来航を許された。 1639年には貿易のための商館が平戸から長崎の出島(でじま)へと移され、出島でオランダ・清(しん)と日本との貿易が行われた。また、対馬藩を通じて李氏朝鮮(りしちょうせん)との貿易をしており、日本は合わせて3か国とのみ貿易を行っていた。 オランダは、日本ではキリスト教を布教していない。 徳川家康の時代のころから、東南アジア方面の国々と貿易をしていた。なお、この貿易は、のちに廃止される。 この貿易では、日本の船に幕府の貿易許可をしめす朱印状(しゅいんじょう)という証明書が必要だったので、そのような朱印状を持っている日本船を朱印船(しゅいんせん)と呼んだ。この朱印船による東南アジアとの貿易を朱印船貿易(しゅいんせんぼうえき)という 2代将軍の秀忠の時代にも朱印船貿易は続き、キリスト教を秀忠が禁止したあとにも、朱印船貿易は続けられた。 東南アジアのルソン(今のフィリピン)やシャム(今のタイ)に日本人が集団で移り住み、東南アジア各地に日本町が出来た。 当時はスペイン人がルソン(今のフィリピン)に進出していた。 この朱印船貿易のころは、日本は貿易相手になった西洋諸国については、オランダの他にもイギリスとポルトガルとも日本は朱印船貿易をしていました。 なお、このころは、長崎県の平戸(ひらと)に、貿易のための商館がありました。 朱印船貿易により、日本からは銀が輸出されました。いっぽう、中国産の生糸や絹織物などが、日本に輸入されました。 朱印船貿易は3大将軍の家光(いえみつ)のときに終わります。 家康は、イギリスとオランダの日本との貿易を許し、平戸(ひらど、長崎県にある)での貿易が始まる。 きっかけは1600年に豊後(ぶんご)に流れ着いたオランダ船リーフデ号に乗っていたオランダ人のヤン・ヨーステン(Jan Joosten)とイギリス人のウィリアム・アダムス(william Adams)であり、この二人が幕府の外交の相談役になったからである。 今の東京にある八重洲(やえす)の名前の由来はヤン・ヨーステンである。 スペインに遅れて貿易に参加することになったオランダは、キリスト教の布教には関心がなかった。 オランダは日本との貿易を独占するため、スペインやポルトガルはキリスト教の布教を通じて日本を侵略しようとしている、と幕府に、つげていた。 イギリスはオランダとの競争にやぶれ、日本をはなれて、イギリスの関心はインドでの貿易に変わった。 3代将軍の家光の1629年のころから、キリスト教徒を発見するため、踏み絵(ふみえ)を用いた絵踏み(えふみ)が行われるようになった。 この時代、キリスト教は禁止されていたが、かくれてキリスト教を信じる「隠れキリシタン」(かくれキリシタン)がいた。このような隠れキリシタンを取り締まるため、幕府は人々にキリストやマリアなどが描かれた銅板の踏み絵(ふみえ)を踏ませるという、絵踏み(えふみ)をさせて、絵踏みをしないものはキリシタンであるとして処罰した。 反乱軍の中心人物は、天草四郎(あまくさ しろう)とも言われる「益田時貞」(ますだ ときさだ)で、反乱軍は島原半島の原上にたてこもったが、幕府の松平信綱(まつだいら のぶつな)を中心とする兵数12万人ほどの幕府軍により、反乱軍は負けた。 この出来事を「島原・天草の一揆」(しまばら・あまくさ の いっき)と言う。「島原・天草の一揆」とは、いわゆる「島原の乱」(しまばら の らん)のことである。 「島原・天草の一揆」後、幕府は、人々を宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)に記し、仏教寺院にその人が仏教徒であることを証明させることで、キリスト教の禁止をさらに強めた。 江戸幕府は貿易を制限していき、江戸時代の貿易の相手国は最終的に朝鮮と琉球(りゅうきゅう、今でいう沖縄)、オランダ、清(しん、今でいう中国)、アイヌ(今でいう北海道)だけに、かぎられていく。 当時、オランダは台湾やインドネシアに進出していた。台湾の地に、オランダ人は「フォルモサ」(オランダ語:Formosa)という地名を名づけていた。(※ フォルモサという地名は、小中学生は、おぼえなくて良い。) スペイン人の来日を禁止する。 このように、幕府は貿易を独占し、また、制限していく。 貿易だけでなく、キリスト教の布教も禁止し、また、外国人が、一部の地域をのぞいて日本に入れないようにした。 この、江戸幕府による、外国人と日本人との交流を減らして(へらして)いった対外政策は、のちに江戸時代の1800年ごろから鎖国(さこく)と言われはじめ、明治時代から「鎖国」という用語が広がります。 なお、江戸幕府は長崎のオランダ商館に、外国のようすを幕府に報告(ほうこく)させるための報告書(ほうこくしょ)の提出を義務づけ、『オランダ風説書』(オランダふうせつがき)の提出が義務づけられた。 (※ 発展: )オランダの宗教は、宗教改革のプロテスタントの国である。それまで戦国時代に貿易していた相手国であるスペインやポルトガルは、カトリックの国である。 結果的に、日本はカトリック国との貿易を日本国民に禁止したことになり、そして日本は結果的にプロテスタント国であるオタンダとの貿易を日本国民に認めたことになる。 徳川家康の時代に、対馬藩(つしまはん)を通して朝鮮(ちょうせん)との貿易が行われます。秀吉の時代には朝鮮出兵により貿易が中断(ちゅうだん)しましたが、江戸時代に入り日本と朝鮮との国交が回復し、日本と朝鮮との貿易が再開します。対馬藩(つしまはん)の大名である宗(そう)氏の媒により、朝鮮と日本との貿易が復活します。朝鮮から日本への(、日本が輸入した)輸入品は、生糸や木綿、朝鮮人参(ちょうせんにんじん)です。 日本からは銅や銀が輸出されました。 3代将軍の家光の時代からは、日本で将軍の代替わり(だいがわり)ごとに、朝鮮からの通信使(つうしんし)が訪れるようになります。朝鮮からの通信使を 朝鮮通信使(ちょうせん つうしんし) と言います。 また、朝鮮の釜山(プサン)には倭館(わかん)が作られ、貿易の拠点になりました。 江戸時代、沖縄は「琉球」(りゅうきゅう)という王国でした。 江戸時代の初めごろ、17世紀に、琉球国は薩摩藩によって征服(せいふく)されました。そして、薩摩藩によって、琉球は年貢を取られるようになりました。 幕府や薩摩藩は、琉球国に、日本と中国との貿易を仲介させました。琉球が、日本に征服される以前から行っていた中国との貿易をつづけさせ、その貿易の利益を薩摩藩が手に入れました。 また、中国は、朝貢をする国とだけ貿易をする方針だったので、日本は、琉球国を仲介して、琉球を中国に朝貢させた。江戸幕府も、琉球に中国との貿易を仲介させるため、琉球が中国に朝貢することを認めた。 このため、琉球王国は、日本に征服されているのに、琉球は中国に朝貢するという、独特な立場の国になった。 中国との貿易のために、このような朝貢貿易という名目があったため、江戸時代のあいだ、琉球王国は、ほろんでいません。 (江戸幕府)将軍や琉球国王の代替わりごとに江戸に使節を送らせるのが慣例になり、幕府の権威(けんい)が琉球にまで及んでいる事を江戸などの人々に印象づけた。琉球からは、将軍が変わるごとに慶賀使(けいがし)と呼ばれる就任祝いの使節と、琉球王が変わるごとに謝恩使(しゃおんし)と呼ばれる感謝の使節が江戸に派遣された。 幕府は、琉球からの使節には、中国風の衣服を着させることで、あたかも中国が日本に服属しているかのような印象を、庶民に与えたと言われています。 江戸時代、北海道は「蝦夷(えぞ)」とよばれており、アイヌ民族が住んでいました。 現代では、この北海道のいくつかの民族をまとめて、アイヌ民族と呼んでいます。 アイヌは、松前藩(まつまえはん)と貿易をさせられていました。 アイヌの人が持ってくるサケやコンブを、わずかな米などと交換していたといいます。 このような不公平な貿易におこったアイヌの人たちが、1669年、反乱を起こしました。シャクシャインという人物を中心に反乱を起こしました。 松前藩は、シャクシャインをだまし討ちして殺害しました。松前藩は、停戦を申し込むとウソをいってシャクシャインをまねき、シャクシャインがやってきたところを、殺害しました。(※ 検定教科書の範囲内 東京書籍や帝国書院の教科書で、本文外の写真などの下のコラムで記述。) そしてアイヌによる反乱は鎮圧され、いっそう厳しく(きびしく)、アイヌは支配されました。 貿易の品目は、日本からは、コメや酒、鉄器などを、アイヌに輸出していたと言われています。 江戸時代は身分制度がきびしく定められた時代です。 江戸幕府は、それ以前の秀吉の時代からの兵農分離(刀狩り)の政策を江戸幕府も受け継ぎ、江戸幕府は人々を、武士(ぶし)、百姓(ひゃくしょう)・町人(ちょうにん)に区別する身分制度を定めました。 江戸時代の「町人」とは、今でいう、城下町などの比較的に大きな都市(当時は城下町などが都市だった)に住む住人、というような意味です。また、町人の職業も、今でいう商人と職人です。 百姓(ひゃくしょう)は、主に農民たちです。江戸時代の全人口の80%以上は百姓(農民)です。 町人は、主に、商人と(大工などの)職人です。 武士や町民のような、比較的に高い身分は、原則として、その家の親から長男に代々、受け継がれました。また、勝手に身分を変えることは出来ませんでした。 また、身分や職業や家柄などによって、住む場所がほとんど決められており、それ以外の場所に住むことは原則的に出来ませんでした。 武士は、城下町に住まわされました。 また、江戸時代は、武士・百姓・町人のほかに、「えた」「ひにん」という低い身分が定められていました。 (身分別の人口割合 おわり)。 武士の頂点に立つのが将軍であり、その下に様々な役職が置かれました。 武士の特権として、名字(みょうじ)を名乗ったり、刀を持つこと(帯刀、たいとう)は原則として武士のみ許されていた。武士の住む場所は、主に城下町でも城に近いところに住むようにされました。 農民は、おもに農村に住まわされました。農村は、城下町よりも離れたところに作られています。 農民は主に二つに区別されており、土地を持つ本百姓(ほんびゃくしょう)と、土地をもたない水呑百姓(みずのみびゃくしょう)に区別されていました。 収穫高の40~50パーセントが年貢として納められた。年貢が5割の場合、五公五民(ごこう ごみん)と、いいます。「五公」で年貢が5割という意味です。 年代によって年貢が6割の場合もあり、その場合は六公四民(ろくこう よんみん)といいます。 年代によって年貢が4割の場合もあり、その場合は四公六民(よんこう ろくみん)といいます。 つまり、江戸時代の年貢は、五公五民ぐらいでした。 年貢となる農作物は、おもに米(こめ)ですが、地域の実情に応じて、特産品などが代わりに年貢として納められる場合もあります。 村役人は、有力な本百姓のなかから、藩などによって選ばれました。有力な本百姓は、「名主」(なぬし)、「組頭」(くみがしら)、「百姓代」(ひゃくしょうだい)などといわれる村役人に選ばれました。名主は、「庄屋」(しょうや)ともいいます。 農民のくらしは、贅沢(ぜいたく)をしないように、きびしく管理されました。 農民への御触書(おふれがき)によって、農民の生活のきまりが、定められました。 御触書の内容は、現代風に訳すと次のような内容です。 農民への御触書(おふれがき) 以上の内容が御触書の内容として有名ですが、他にもつぎのような内容も御触書にあります。 (※ おぼえなくても、大丈夫だろう。) 農民への御触書(おふれがき) 御触書などの命令により、江戸時代では、田畑の売買は禁止されていました。 農民には、村で5〜6件ごとに五人組(ごにんぐみ)という集団をつくらせ、年貢の未納や犯罪などに連帯責任を負わせました。 (※ 範囲外。& 編集者への情報 )かつて上記の御触書は「慶安の御触書」といわれていましたが、どうも慶安(年号のひとつ)の時代のものではなく、元禄(げんろく)元年(※ 17世紀末ころ)に甲府藩で作成されたものであり、なのに天保(てんぽう、19世紀前半)の頃に日本全国に普及した際に、作成年代が「慶安の御触書」と間違って慶安の頃のものとして伝えられたらしい事が歴史研究で解明されてきた[3]。なので、「慶安」という時代を限定する表記は外すことになり(慶安の時代ものではないので)、単に「御触書」または、御触書だけだと何の御触書か分からないなら「農民への御触書」のように言うようになった。 どうやら、江戸時代後半の財政難やら飢饉などで悩んでいる諸藩の政治家たちが、江戸時代初期の江戸幕府が隆盛していただろうと思われた3第将軍・家光のころの時代を懐かしんで、「慶安の御触書」という名前をつけたらしい[4]。なお、江戸時代、年号をつける権限をもつのは天皇である(将軍ではない)。慶安は3代・家光や4代・家綱の時代。 また、昭和の時代の歴史学の通説では、「慶安の」御触書などを信じて、江戸時代の農民は比較的に貧しかったと考えられていたが、しかし、江戸時代の後半になると庶民の旅行ブーム(御蔭参り(おかげまいり) )なども発生するので、もし本当に貧しいなら旅行の余裕は無いはずなので、つまり実際の江戸時代の農民・庶民の暮らしぶりは、昭和の通説で考えられていたよりも、生活に余裕があったという可能性も、21世紀の学説では考えている。 なお、「御蔭参り」(おかげまいり)とは、伊勢神宮に参拝するブーム。江戸や大阪から数十日をかけて伊勢神宮に参拝したり、東北や九州からも伊勢神宮に参拝したり、そんな旅行ブームが江戸時代の後半にあった。 土地や家屋などを持つ町人は、それぞれ「地主」(じぬし)、「家持」(いえもち)と言われた。それらを持たない町人は、「地借」(じがり)、「店子」(たなこ)と呼ばれた。 家や店を持つ町民は、営業税を納める必要がありました。しかし、町人の負担は、百姓と比べると軽かったです。 このほか、「えた」 および 「ひにん」 と言われる、農民よりも身分が低くされ、もっとも身分が低い(ひくい)という差別をされた人々がいました。「えた」と「ひにん」は、それぞれ別の身分です。 えたは、皮革業(ひかくぎょう)などのような、動物の死体をあつかう職業などをしていた身分です。このような死体を扱う身分は、いやしい職業だと、当時は考えられていました。しかし、武士なども、戦(いくさ)のときには敵をころしたりしますが、武士は低い身分とはされませんでした。このように、とても武士に都合のいい非合理な差別でした。 「えた」や「ひにん」は皮革業のほかにも、さまざまな職業の者がいました。犯罪者の処刑にたずさわったりする職業の「えた」・「ひにん」の者もいました。「ひにん」には、役人のもとで下働きをしたり、あるいは芸能にたずさわる者もいました。 「えた」「ひにん」の住む場所は、きびしく制限され、あまり他の身分の者と関わる機会の少ないような場所にすまされ、他身分との交流なども制限を受けた。百姓や町人の住む場所とも別の場所にと、「えた」「ひにん」の住む場所は区別されました。 かつて昭和の終わりころまで、江戸時代には「士農工商」(しのうこうしょう)の4つの身分がある、と言われてました。 しかし、近年の研究により、4つの身分に区分するよりも、武士・町人・百姓の3つに区分するほうが実態に近い事が分かっています。 そもそも「士農工商」とは、中国(今でいう中華人民共和国の「中国」)の古い書物にある用語だったようです。 江戸時代、家庭は、父親の権限が強かった。(いわゆる家父長制(かふちょうせい)である。) 家長(かちょう)には、原則として父親がなるものとされた。(家長とは、いわゆる「戸主」(こしゅ)のことであり、その家の主(あるじ)のことである。)武家の場合、女性は家長になることは許されなかったし、財産を相続することも許されなかった。(※ 武家と女性の相続についての参考文献: 清水書院の検定教科書。)  また、次の家長になるものとして、長男が優遇された。女性や次男以下の家庭内での地位は、低かった。 (で、自由社の検定教科書などが指摘してる事だが、)江戸時代の「家」は、企業・自営業(じえいぎょう)に近い。だから、たとえ長男であっても、家業(かぎょう)を継がない場合は、家を継げなかったのである。「家業」とは、たとえば店を経営している商家なら、その店を経営することが「家業」。 江戸時代、家業と家の財産は、家長ではなく、家そのものに属するものとされた。(※ 参考文献: 日本文教出版の検定教科書。) よく、江戸時代の家制度の説明で「家は長男が継ぐものとされた」などと教科書で書かれる場合があるが、家を継ぐ場合には家業も継がねばならない、という条件がある。 べつに商人に限ったことではなく、江戸時代に限ったことでもなく、武家や戦国時代から、こうである。(※ 参考文献: 『大学の日本史 2―教養から考える歴史へ 中世』山川出版社、2016年第1版、192ページ、) (で、自由社の検定教科書が言うには)江戸時代の家制度は、血統による身分の区分ではなく、職業による身分の区分である。(※ 参考文献: 自由社『あたらしい歴史教科書』、平成23年検定版、127ページ) だから、百姓・町人などから武士に取り立てられる者もいれば、その逆に武士から町人になる者もいた(・・・と自由社は主張している)。 (※ 範囲外:) たとえば、「3本の矢」の故事でも有名な戦国大名・毛利元就(もうり もとなり)は、息子の苗字が「吉川」元春(きっかわ もとはる)・「小早川」隆景(こばやかわ たかかげ)のように、倒した敵大名の苗字を名乗らせているのは、敵大名の統治していた領地や家臣団・領民などを、息子に継がせるために、その敵大名家の苗字を名乗らせたのである。(※ 参考文献: 『大学の日本史 2―教養から考える歴史へ 中世』山川出版社、2016年第1版、192ページ、) {[コラム|丁稚など| 当時の「家」は現代とは違い、商人や職人の家では、住み込みなどで主人の家で働く人も多かった。10歳くらいの若い子が、住み込みで働きに来ていることもよくあり、10歳くらいの彼らは「丁稚」(でっち)と言われた。 }} 17世紀のなかばごろになると、平和な時代になったこともあり、幕府や藩は、大規模な新田開発を進めました。 その結果、開墾(かいこん)が進み、全国の田畑の耕地面積が秀吉の頃の、ほぼ2倍 に広がりました。 幕府や藩の財政は百姓からの年貢にたよっており、財政をゆたかにするために農業を発達させる必要があったのです。 江戸時代は貨幣が全国的に流通していたので、武士は年貢米を売って貨幣(かへい)に現金化していました。 年貢米は江戸や大阪にある蔵屋敷(くらやしき)に運ばれ、商人によって売りさばかれ現金化されます。 治水(ちすい)工事も進み、農地に水を引く灌漑(かんがい)のための用水路(ようすいろ)が各地にできた。 箱根上水(はこね じょうすい) や 玉川上水(たまがわ じょうすい) は江戸時代に出来た。 九州の有明湾で干拓(かんたく)事業がされた。 備中鍬(びっちゅうぐわ)・千歯こき(せんばこき)・千石どおし(せんごくどおし)などが開発された。 踏車は、人間が踏んで回す水車なので、重力に逆らって水を高いところにあげられるという仕組みである。 竜骨車(りゅうこつしゃ)という、かんがい用の農具もあります。形は踏車とちがいますが、竜骨車も、農民が足で踏んで(ふんで)動かすことで、水がくみあがる仕組みです。 売ることを目的に、綿・なたね・茶・麻・あい、などの、今で言うところの商品作物(しょうひんさくもつ)が作られるようになった。 農村でも貨幣(かへい)が使われるようになった。 綿の生産の発達により、民衆の服は麻(あさ)から綿(めん)に変わっていく。 あい や べにばな などは、染料として使われた。 外国から伝わった作物も、つくられるようになった。さつまいも、じゃがいも、かぼちゃ・とうもろこし、などである。 油かす(あぶらかす) ・・・ なたね油やごま油の しぼりかす であり、肥料として使われる。 干鰯(ほしか) ・・・  いわし。肥料として使われた。 沿岸漁業が、ほとんど。 九十九里浜(くじゅうくりはま、現在の千葉県)では、いわし漁がさかんだった。瀬戸内海では塩田(えんでん)が発達した。 家内制手工業(かないせい しゅこうぎょう) 問屋制家内工業 工場制手工業(こうじょうせい しゅこうぎょう) 西洋史で言う マニュファクチュア に対応している。 金山(きんざん) 銀山(ぎんざん) 銅山(どうざん) 銅は長崎貿易の輸出品に、なった。 鉄 江戸時代は、商人があつかう商品の量や種類が増えた。このため、商業の仕組みが発達した。貨幣が全国的に流通するようになった。 商品の量や種類がふえ、複雑(ふくざつ)化していったので、商人も分業化するようになり、問屋(とんや)や仲買(なかがい)や小売商(こうりしょう)の区別ができた。 問屋どうしの中でも分業はすすみ、さらに分業化が商品の種類ごとに進み、米をあつかう米問屋(こめどんや)や、木綿(もめん)をあつかう木綿問屋(もめんどんや)、油問屋(あぶらとんや)など、専業化していった。 問屋(とんや)とは、生産者から商品を仕入れ、販売店などの小売業者に商品を販売する仕事である。 いろんな種類の商人の職が出てきます。現代の仕事に関連づけて、おぼえてください。現代の仕事に関連づけないと、おぼえづらいでしょう。 江戸時代は貨幣が全国的に流通していたので、武士は年貢米を売って貨幣(かへい)に現金化していました。 年貢米や、年貢のかわりの特産物(とくさんぶつ)は、江戸や大阪にある蔵屋敷(くらやしき)に運ばれ、商人によって売りさばかれ現金化されます。 大阪は商業がさかえ、「天下の台所」(てんかの だいどころ)と言われました。 分業化は蔵屋敷でも、されていました。仕事の種類によって、大阪では蔵元(くらもと) や 掛屋(かけや)などに分業されました。江戸では 札差(ふださし) などがありました。 蔵元(くらもと)は、売りさばきが担当の商人です。今でいう販売員です。 掛屋(かけや)は、売上金の輸送や保管の仕事です。今でいう銀行の 預金業務(よきんぎょうむ) や 振り込み(ふりこみ) のような仕事をしています。 蔵屋敷で現金化できる年貢や特産物など、諸藩からの商品をあわせて、 蔵物(くらもの) と言います。 いっぽう、民間から出た商品も出回り、納屋物(なやもの)といいます。 (※ おぼえなくてよい。) 両替商(りょうがえしょう)は、もともとは、金貨や銀貨や銅貨の交換を、手数料をもらって行なう仕事ですが、そのうち仕事の内容が変わり、今でいう銀行のような預金(よきん)業務と貸付(かしつけ)業務を行なうようになった。 両替商は貨幣の調達などに信用があるので、両替商どうしの帳簿(ちょうぼ)上の処理(しょり)で貨幣(かへい)の送金(そうきん)の代わり(かわり)とする 信用取引(しんようとりひき) の仕組みが発達した。 江戸を中心に関東では金が取引の主流であり、大阪などの関西では銀が取引の主流であったので、両替が必要だった。「両」とは金貨のこと、あるいは金貨の単位である。 商人のなかには、江戸の三井(みつい)や大阪の鴻池(こうのいけ)のように、財政の苦しい藩(はん)や大名に おかね を貸し付けたり、藩の財政にかかわるほどの、有力な商人もあらわれた。 貨幣をつくるには、材料の金や銀が必要なので、幕府は鉱山を開発しました。 また、貨幣をつくる権利は幕府が独占した。 商業の発達には、交通の発達も必要である。 江戸時代の始めごろまでは、商売の支払い方法では、後でまとめて払う方法が普通だった。 しかし1673年に、三井高利(みつい たかとし)が江戸で開いた越後屋呉服店(えちごや ごふくてん)が、現金払いで店頭ですぐに売買する商法を始めた。 このような商法は江戸時代の当時「現金かけ値なし」(げんきん かけねなし)と言われた。「かけ値」とは、定価よりも高く売ること。 越後屋は、かけ値をやめたのである。(※ 東京書籍、清水書院、教育出版など、多くの検定教科書で紹介。) 売買がすぐに成立するぶん、越後屋はすぐに代金を改修できるし、また、客にとっては安く販売できるため、越後屋と客の双方に利点があった。(※ ← ほぼ帝国書院の教科書の見解) 越後屋は、呉服店のほか、両替商(りょうがえしょう)も行った。 船は、大量の荷物を、少ない人物で運べます。しかも、一度、船に積めば、目的地までは途中で積み替えをする必要がありません。 このため、大量の商品を運ぶには、海上交通をつかうと、時間はかかるが安く運びやすい。このような理由で、海運(かいうん)が発達した。 また、船も改良され発達した。 菱垣廻船(ひがきかいせん) 樽廻船(たるかいせん) 東廻り(ひがしまわり)航路 西廻り(にしまわり)航路 江戸の商人である川村瑞賢(かわむら ずいけん)によって、東回り航路と西回り航路が開かれた。 全国を道でつなぐため、街道(がいどう)が出来た。 江戸の日本橋(にほんばし)を起点とする幹線道路(かんせんどうろ)としての街道が5本あるが、これを五街道(ごかいどう)という。読みは「ごがいどう」ではなく「ごかいどう」なので、まちがえないように注意。 五街道(ごかいどう) と、そのほかの道である 脇街道(わきかいどう) などによって、東北から山陰・山陽地方までが道でつながった。 九州や四国も、それぞれの島の内部が、道でつながった。 五街道は、東北地方の南部の今でいう福島県から京都までしか、つながっていない。 日光へと向かう 五街道のうちの街道が日光街道(にっこうかいどう)である。 日光街道は、北関東の宇都宮(うつのみや)のあたりで、ふたまたに分かれていて、宇都宮から福島の白河(しらかわ)へと向かう奥州街道(おうしゅうかいどう)に分岐(ぶんき)している。 (※ 宇都宮・白河など、細かな地名は、おそらく教科書の範囲外なので、学校対策では、おぼえなくてよい。) 以上の二本の街道が、五街道への北への方面である。 次に京都方面について、説明する。 京都の方面へと江戸から向かう街道は3本あるが、そのうちの2本は、途中(とちゅう)で合流(ごうりゅう)する。 五街道のうちの一つである甲州道中(こうしゅうどうちゅう)は、長野県の信濃(しなの)の諏訪(すわ)のあたりで、五街道のうちの別の一つである中山道(なかせんどう)と合流する。 甲州道中の名前は「甲州」道中だし甲府(こうふ)を通るが、じつは長野県の信濃まで、つながっている。 五街道のうちの一つである東海道は、太平洋ぞいの街道であり、京都まで他の街道とは、つながっていない。東海道の経路は、今でいう神奈川県 → 静岡県 → 愛知県 → 京都 の経路である。 当時の用語で言えば、小田原(おだわら、神奈川) → 駿府(すんぷ、静岡) → 名古屋(なごや、愛知) → 京都 である。 東海道は、もっとも人々の行き来が、さかんだった。 警備(けいび)上の理由から、街道には、通行者の取り調べるため通行を制限(せいげん)する関所(せきしょ)が、おかれた。 関所では、通行者は、関所の役人に、通行許可証である手形(てがた)を見せる必要があった。 関所では、とくに江戸に入る鉄砲(てっぽう)と、江戸から出る女は、きびしく調べられた。鉄砲の取り調べは、反乱を恐れて(おそれて)、のことである。江戸から出る女は、参勤交代で人質として江戸に住まわせた女である、大名の妻が、こっそり江戸から故郷(こきょう)へ帰国(きこく)することを恐れて、である。 「入り鉄砲に出女」(いりでっぽうに、でおんな)と言われ、これら2つは、きびしく調べられた。 街道には、旅行者が寝泊まり(ねとまり)するための宿場(しゅくば)が、もうけられ、宿場町が発達した。 大名(だいみょう)や幕府の役人のとまる宿(やど)である本陣(ほんじん)や、ふつうの武士のとまる脇本陣(わきほんじん)や、一般の旅行者が泊まる旅籠(はたご)が、もうけられた。 宿場の周辺の人々には、役人などのため人手をかす負担があって、この負担を 助郷(すけごう) という。 東海道には53の宿場があり、東海道五十三次(とうかいどうごじゅうさんつぎ)と言われた。 街道には、通行者が場所をわかりやすいように、並木(なみき) や 道しるべ が、もうけられた。また街道の道のりの約4キロメートルごとに一里塚(いちりづか) が、もうけられた。一里(いちり)とは、長さの単位(たんい)であり、今でいう約4キロメートル。 郵便物をとどけるため、人が走ったり馬をつかって運ぶ飛脚(ひきゃく)の仕事が発達した。 幕府が管理する飛脚を 継飛脚(つぎひきゃく) という。町人のあいだでは 町飛脚(まちひきゃく) が利用された。 江戸時代に商業の中心的な都市は、江戸と大阪です。江戸と大阪と京都を三都(さんと)という。 江戸 大阪 貨幣は、江戸と大阪で違っており、江戸では主に金が用いられ、大阪では主に銀が用いられた。そのため、両替商が金銀の交換を行った。 その他の都市 京都 都市では、商業の発達にともない、商人たちが同業者の組合である株仲間(かぶなかま)が結成されていった。 株仲間は、幕府の許可のもと、営業を独占するかわりに、税を納めた。 商人には、大名にも金をかすほどの有力な商人もあらわれ、江戸の三井(みつい)家や、大阪の鴻池(こうのいけ)家などの有力な商人が現れた。 4代将軍〜5代将軍のから、幕府は財政が悪化していき、財政のあまり良くない状況が、江戸時代の終わりまでずっと続きます。 江戸時代には貨幣が普及していきますが、田畑の収穫が急にふえるわけでもなく、そのくせ人口はふえるし、鉱山から採れる金銀の量もへっていきますので、今の時代から見れば財政がわるくなっても当然です。 5代将軍の徳川綱吉(とくがわつなよし)は、動物を極端に保護する、生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)を出した。 綱吉が、いぬ年の生まれで、特に犬を保護したので、犬公方(いぬ くぼう)と大衆から呼ばれて、きらわれた。 令を出した理由は、一節には、綱吉には、子がなく、僧からのすすめで、殺生を禁じたら子ができる、と僧にすすめられ、とくに犬を大切にすれば子ができるとすすめられたらしいのが、令を出した理由だと言われている。 儒学などの学問に力を入れた。湯島に孔子(こうし)をまつる聖堂(せいどう)を立てる。儒学の中でも、とくに朱子学(しゅしがく)という学問を重んじた。朱子学は身分秩序を重んじるため、幕府にとって都合がよかった。 前将軍のときの火事の、明暦の大火(めいれきのたいか)での費用がかさむなどが、財政悪化の理由の一つです。 金貨・銀貨にふくまれる金・銀の量をへらした貨幣を発行したが、貨幣の信用がさがり、そのため物価(ぶっか)が上がった。 現代でも、一般に、貨幣の信用が下がると、物価が上がります。 江戸時代は貨幣の信用のうらづけは、金貨や銀貨にふくまれている金・銀なので、貨幣の中の金銀のわりあいを減らせば、商人が物を売るときに今までと同じ金・銀を手に入れるには値段を上げなければ金銀の量が前と同じになりません。 なので、貨幣の質をさげると、物価が上がってしまいやすいのです。 ただし、綱吉の政権がそこまで経済政策に詳しかったかどうかは、まだ未解明である。歴史学者が研究中であるので、中学生は深入りしなくていい。 (発展的事項、おわり。) 綱吉が、このように儒学などの学問を重んじた理由や、あわれみの令を出して殺生(せっしょう)をきらった理由としては、一節には、家康からの軍事力にたよった武断(ぶだん)的(てき)な政治をあらためるためかも?・・・という説も今では言われています。しかし、家康のころから朱子学を重んじてはいましたので、綱吉のねらいがコレかどうかは、わかりません。 (雑談、おわり。) 読者はテレビ時代劇などで『忠臣蔵』(ちゅうしんぐら)を見たことある人もいるでしょう。 この忠臣蔵の題材にもなった、赤穂浪士の討ち入り事件およびキッカケの事件が起きた時期(1702~1703年)が、ちょうど綱吉の統治の時代です。 赤穂事件とは、旧・赤穂藩の主人である浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が、幕府のお偉いさんの吉良上野介(きら こうずけのすけ)に過度に馬鹿にされたと思い、江戸城の中で、刀で吉良に切りつけた事件です。 その後、浅野内匠頭は処刑されましたが、旧・赤穂藩の武士たちは、主人の復讐のために、吉良家に討ち入りしました。 武士道の観点からすれば、主人のカタキを取る旧・赤穂藩による討ち入りは美談のように思えますが、一方で幕府の役人・吉良に反逆することは武士道に反するように思えます。 江戸時代の当時からもう、庶民のあいだでも議論になっていました。 当時の庶民が詠んだとされる狂歌に、次の歌があります。 赤穂浪士たちの討ち入りのリーダーは、大石内蔵助(おおいし くらのすけ)という人物です。 幕府内ですら、さすがに討ち入りに処罰を与える必要性は多くの幕府内の幹部・学者が感じているものの、ではどういう理由で処罰を下すべきか、討ち入り直後の時期には幕府内でも意見が割れたようです。 なお、赤穂浪士たちは最終的に幕府から切腹を命じられ、切腹しました。 もしかしたら、1710年や1718年に武家諸法度が改訂されたのは、赤穂事件の影響があるのかもしれませんね。(考えて見ましょう。検定教科書も、答えを出さずに、自分で考えるように推奨しています。) 新井白石(あらい はくせき)は、綱吉のあとの、6代将軍の家宣(いえのぶ)に使え、7代将軍の家継(いえつぐ)に仕えた儒学者である。 新井白石は、綱吉のときに質の低下した金貨・銀貨の質をもとの質にもどした。また、貿易で金銀が外国に流出していたので、長崎貿易に制限を掛け、金銀の海外流出をおさえた。この白石の政治(せいじ)を、正徳の治(しょうとく の ち)という 綱吉の生類あわれみの令は、白石によって廃止(はいし)されます。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B9%95%E5%BA%9C%E3%81%AE%E5%A7%8B%E3%81%BE%E3%82%8A
8代将軍の徳川吉宗(とくがわ よしむね)のころになっても、幕府の財政は、よくありません。吉宗の理想は家康のころの政治で、吉宗は質素倹約(しっそけんやく)をすすめました。 吉宗の行った一連の改革を享保の改革(きょうほう の かいかく)と言います。 吉宗自身も倹約につとめました。 財政の悪い理由は、収入が少なく、支出が多いわけです。だったら、財政(ざいせい)改革では、何らかの方法で収入をふやして、支出をへらせばいいわけです。 質素倹約には、支出をへらす狙い(ねらい)も、あります。倹約令の対象者は、武士が中心です。(武士の給料は幕府から出ていたので、幕府の支出を減らすには、武士に倹約をしてもらう必要があります。) では、収入を増やすには、どうすればよいでしょうか。米の収穫量の石高(こくだか)をふやせばいいわけです。年貢の米が、収入のもとなのだから、だったら米の石高を増やせばいいので、吉宗は新田(しんでん)の開発をすすめました。 年貢も、ふやしました。 商品作物の開発も、すすめて、菜種・さつまいも、さとうきび、朝鮮人参(ちょうせんにんじん)、・・・などの開発をさせました。 飢饉(ききん)にそなえ、さつまいもの栽培の研究を、青木昆陽(あおきこんよう)に命じます。 江戸に目安箱(めやすばこ)を作って、庶民や町民でも、アイデアを書いて投書(とうしょ)で幕府に意見をとどける仕組みが出来た。目安箱からの意見により、江戸に無料の病院の小石川養生所(こいしかわ ようじょうじょ)が出来た。 江戸の消防(しょうぼう)である町火消し(まちひけし)の制度を、目安箱の意見も参考にして、整備していった。 キリスト教をのぞく、産業や医学や天文学(てんもんがく)などの実学(じつがく)の洋書(ようしょ)の輸入を許可します。当時の輸入された洋書は、ヨーロッパの洋書が中国語に訳された漢訳洋書(かんやくようしょ)です。 また、オランダ語を青木昆陽(あおき こんよう)や野呂元丈(のろ げんじょう)たちに学ばせました。 大名の参勤交代をゆるくするかわりに、大名は石高1万石につき100石の割合で米をさしだす上米の制(あげまいのせい)が作られました。上米の制により、参勤交代での江戸の滞在期間は半年になった。それまでは1年の江戸滞在だった。 公正な政治や裁判をおこなうため、これまでの法令を整理した公事方御定書(くじがた おさだめがき)を出して、政治や裁判の基準を定めた。 このような,吉宗の行った一連の改革を享保の改革(きょうほうのかいかく)と言います。 (以下略) 改革により一時的に財政が立ち直ったが、農民にとっては年貢がきびしくなったこともあり、さらに飢饉(ききん)や凶作(きょうさく)も重なって、百姓一揆(ひゃくしょう いっき) や 打ちこわし(うちこわし) が起こった。 吉宗の改革で、年貢の率を、豊作・凶作にかかわらず一定の率にする定免法(じょうめんほう)で、米の値段を安定させようとしていたので、不作のときは農民が苦しくなりました。 米の値段(ねだん)の調整(ちょうせい)につとめた吉宗は「米将軍」(こめしょうぐん)と人々から呼ばれたり、「米公方」(こめくぼう)と人々から呼ばれたりしました。 吉宗は、青木昆陽(あおき こんよう)にオランダ語の学習を命じて、蘭学者にしました。この青木昆陽が、日本でのサツマイモの栽培方法を研究し、(青木の助言もあってか)吉宗たちは飢饉(ききん)にそなえる食品としてサツマイモを日本で普及させました。(※ 東京書籍、帝国書院、教育出版、清水書院、日本文教出版などの教科書で紹介。) 10代将軍の家治(いえはる)のころ、幕府の財政が、また悪化していきます。 8代吉宗の改革で年貢は増えたのですが、そのあと、米の値段そのものが下落していったのです。こうして、10代将軍のころ、また財政が悪化したのです。 老中の田沼意次(たぬま おきつぐ)は、農産物を中心とした年貢(ねんぐ)だけでは限界があると考え、商業を重んじた政策を取ります。 商工業者に事業独占の株仲間(かぶなかま)の結成を積極的に認めるかわりに、株仲間から税(ぜい)を取り、収入をふやしました。 田沼は、長崎貿易もすすめ、日本からの輸出品(ゆしゅつひん)には海産物(かいさんぶつ)や銅(どう)を輸出(ゆしゅつ)することで、日本に金銀を流入させようとします。また、銅山の開発も行いました。 輸出品には銅のほかにも、海産物が俵物(たわらもの)として輸出された。 田沼の政治は、貨幣経済の進む世の中でも安定的に税収をとる工夫をしている、という財政的には合理的な政策であったが、幕府の役人のあいだに賄賂(わいろ)が横行するようになったりして、批判(ひはん)もあった。 また、天明のききんが1782年(天明2年)から1788年(天明8年)に東北地方を中心におこり、百姓一揆や打ちこわしがおこり、田沼の政治は行きづまり、田沼は失脚(しっきゃく)して老中をやめさせられた。その原因は、東北地方での冷害が原因だと言われています。また、同じ時期に浅間山の噴火も発生しています。 (※ 発展:) 田沼のこういった経済政策の効果があったのか、江戸の文化はこのころ発展して、日本の文化の中心も、それまでの大阪(上方(かみがた))を中心としていた文化だったのが、しだいに江戸を文化の中心とする文化になっていった。(※ ソースは某教科書会社の副教材ワークシート。)あるいは、文化の発展にあわせて、経済政策を田沼が改革したのか。 田沼の活躍した時代の(大阪ではなく)江戸中心とした文化はおおむね、「化政文化」(かせいぶんか)と言われる時代に含まれる。 (かんせいの かいかく) 天明のききんが1782年(天明2年)から1788年(天明8年)に東北地方を中心におきた。天明のききんのつづくなか、老中だった田沼意次(たぬま おきつぐ)が失脚し、新しい老中として松平定信(まつだいら さだのぶ)が1787年に老中になる。 定信は奥州白河(おうしゅうしらかわ、福島県)の藩主で、天明のききんのときに、素早い対策を取り、すばやく商人から米や食料を買いあげて、農民に食料をくばるという方法で、領内で飢饉(ききん)による死者を一人も出さなかったと言われる。 この功績が評価され、定信は老中になった。 このとき、将軍は徳川家斉(とくがわ いえなり)。 定信は、さまざまな改革をおこなう。松平定信の行った改革を 寛政の改革(かんせいの かいかく) といいます。 飢饉(ききん)により、まず、食料生産をふやさないと国が危険な時代になってるので、定信は、食料生産を増やす(ふやす)政策を取る。 江戸に出稼ぎで来ていた農民を農村にかえらせるため帰農令(きのうれい)を出し、農民を農業に専念させます。また、商品作物の制限をし、なるべく米をつくらせます。 凶作でも飢饉(ききん)にならないように、米を蔵(くら)に蓄え(たくわえ)させるという囲い米(かこいまい)の制度を作ります。 ききんで米が不足しているということは年貢による収入も少ないということであり、幕府の財政も少なくなっています。なので、帰農令や囲い米には、財政を安定化させる役割もあります。 定信は倹約をすすめました。ききんで、余計な金をつかっている余裕がないし、そもそも年貢不足による財政難(ざいせいなん)なので、ぜいたくも出来ません。 松平定信(まつだいら さだのぶ)のこれらの改革を 寛政の改革(かんせいの かいかく) といいます。 寛政の改革には、食料の増産(ぞうさん)のほかにも、以下のような政策もあります。 職業訓練です。 ききんにより、農村が荒廃して江戸に人が流入したりして、江戸の町に浮浪者がふえたので、無宿舎を対象に職業訓練を行った。 借金の負担がおもくなった武士をすくうための、借金帳消しの政策。つまり徳政令(とくせいれい)。当然のごとく、商人は次からは金をかさなくなるので、武士の経済問題が先送りされただけであった。 儒学の派(は)には、朱子学の他にも陽明学(ようめいがく)などがある。 朱子学が正式な儒学である正学(せいがく)とされ、陽明学などのほかの派の儒学は異学(いがく)とされた。 しかし、この改革では倹約を強制し、さらに学問の統制、思想の統制などを行ったり、借金帳消しをさせたため、産業や文化が停滞(ていたい)し、人々の反発がつよまり、定信は6年ほどで失脚(しっきゃく)した。 狂歌には、「白河(しらかわ)の 清き(きよき)に魚(さかな)の 住(す)みかねて もとの濁り(にごり)の 田沼(たぬま)こいしき」とも、うたわれました。 「世の中に 蚊ほど うるさき ものは(わ)なし ぶんぶ(文武)といふて 夜もねむれず」とも、うたわれました。 (※ 社会科の範囲外: )よく「狂歌」と「川柳」(せんりゅう)とが間違えられる。「狂歌」は五・七・五・七・七の合計31音。「川柳」は五・七・五の合計17音。 寛政の改革のころの18世紀後半に、ヨーロッパやアメリカなど欧米では政治改革や産業の近代化がおこり、そのため欧米の国力が強まって、アジアへ進出してきました。このため日本の近くの海にも、欧米の船が出没しはじめます。 ロシアは、1792年に日本に貿易の通商(つうしょう)を求めるため日本に人を送り、1792年に根室(ねむろ、北海道)にロシアから使節として ラクスマン が来ました。ラクスマンは、ロシアに漂流した大黒屋光太夫(だいこくや こうだゆう)を日本に送り返しに来るついでに、通商を求めました。 しかし、そもそも外交交渉は日本では長崎で行なうことになっているので、根室での通商の要求は、日本に断られました。日本側は、つぎの交渉では長崎で交渉するようにロシアに伝えます。 さて、1804年にロシア人の外交官(がいこうかん)のレザノフが日本の長崎に来て通商の要求をしますが、幕府は、通商をことわります。 幕府は、北方の海岸の警備(けいび)に力をいれます。また、間宮林蔵(まみや りんぞう)などに千島や樺太の探検を命じます。 また、伊能忠敬(いのう ただたか)に、蝦夷地(えぞち、北海道)を測量させた。 1808年にはイギリスの軍艦(ぐんかん)のフェートン号が対立しているオランダ船をとらえるために長崎に侵入し、オランダ商館員を人質(ひとじち)にする事件があった。イギリス側は、薪水(しんすい、「たきぎ」と水のこと)と食料を要求し、これを得たのち、日本から退去(たいきょ)した。これを フェートン号事件(フェートンごう じけん) と言います。 1825年に異国船打払令(いこくせん うちはらいれい)を出した。 将軍・家斉(いえなり)のとき。 全国的なききん。ききんで死者の大きい地域は東北や北陸だけでなく、関東や、大阪などの西日本をふくむ。 大阪は、この時代の商業の中心地である。その大阪で被害が出てるのだから、すごい飢饉(ききん)なわけである。 幕府や藩には、まずしい人を救うだけの財政的なゆとりがなかった。関東も、ききんの被害が大きく、幕府には、財政的な余裕(よゆう)がない。 幕府が、江戸での打ち壊しをふせぐため、江戸に米をあつめるため、大阪町奉行などに米を買い占めさせた。 このようなことから、幕府に対して反乱が起きる。 大阪の町奉行所の元・役人の大塩平八郎(おおしお へいはちろう)が、町奉行に貧民の救済を申し出たが、町奉行に聞き入れられず、その上、大阪で買い占めた米を江戸に送っているという有様(ありさま)だった。 ついに1837年に反乱を起こしたのが、大塩平八郎だ。商人の家を大砲でおそったりした。 乱は一日ほどで、しずめられた。 しかし、大塩の乱が世間の人々の心に与えた影響は大きい。 これから、各地で、一揆や打ち壊しが、ふえてきた。 1841年に、老中に水野忠邦(みずの ただくに)がつき、対策をとった。水野忠邦の政策を天保の改革という。手本は、松平定信の寛政の改革が、水野の手本であった。 水野の政策では、財政を立て直すため倹約令(けんやくれい)を出した。 物の値段が上がった原因を、水野は株仲間による独占が原因だろうと考え、株仲間(かぶなかま)を解散させた。 だが、物価の上がった本当の理由は、その時代に貨幣の質を下げられて発行されていたのが原因であり、このため、物価の引下げの効果は、ほとんどなく、株仲間の解散は失敗に終わった。 (発展的事項、「政策の分析」、おわり。) 天保の改革は、他にも、以下の内容がある。 ・ 農村から人が流出し、江戸に人が出てきたので、農村にかえすための人返しの令(ひとがえしのれい)を出した。 ・ 江戸と大阪を幕府の領地にしようとして上地令(あげちれい)を出したが、多くの大名などに反対され失敗した。 天保の改革は失敗に終わり、たったの2年あまりで終わり、水野忠邦は失脚し、幕府そのものも人々からの信用が下がっていった。
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百姓や町民などの庶民は、「読み」(日本語の読み)、「書き」(日本語の習字)、「そろばん」(算数のこと)などを寺子屋(てらこや)で学んだ。 当時の外国では読み書きの出来る庶民は少なく、世界各国の中でも日本は文字を読める人が多い国であった。 徳川家康(とくがわいえやす)をはじめとして幕府は、幕府を保ちつづけるには儒学(じゅがく)などの道徳的な学問が必要だと考え武士に儒学を学ばせた。 儒学では、平和に必要なのは忠義の大切さや子の親への忠孝の大切さなど、上下関係にもとづく忠孝や礼儀が社会の平和に必要だと考えられていた。 このように上下関係にもとづき平和を求めるという儒学の内容が幕府の身分差別の制度にも都合が良かったので、儒学が武士に学ぶべきとされる学問になった。 儒学の中でも、朱子学(しゅしがく)と言われる学問は、とくに上下関係による礼節を重んじていたので幕府は朱子学こそ儒学の中でも学ぶべき学問と定めていき、朱子学が武士の学ぶべき学問とされた。 5代将軍の綱吉のころ、幕府は武士に儒学を学ばせる学校を江戸に開き、 昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ) を開いた。ほかの藩も武士の教育のため、藩校(はんこう)を開いた。 いっぽう、ヨーロッパの政治や道徳や宗教などに関する学問は日本の社会をまどわし日本を混乱におとしいれる危険な学問であるだろう、ということが江戸幕府に考えられており、西洋の政治に関する学問の多くは禁止をされ、西洋道徳を学ぶことも禁止された。 日本の古典や歴史を学ぶことは幕府は認めていたので、たとえば万葉集(まんようしゅう)などの古典や、古事記(こじき)・日本書紀(にほんしょき)などの歴史を学んだり研究する者もあらわれた。 ヨーロッパの医学や農学、科学技術など、キリスト教や政治道徳に関係の無い学問を学ぶことは江戸時代のなかばの18世紀はじめごろ、8代将軍・徳川吉宗の改革などにより、西洋の科学技術などの研究が認められていった。 当時はオランダ語を通して西洋の科学を学んでいたので、ヨーロッパから取り入れた学問のことを蘭学(らんがく)と言った。 *蘭(らん)とはオランダのこと 18世紀のおわりごろ、オランダの医学書が日本語へと訳(やく)された。翻訳書(ほんやくしょ)を出したのは、医者の杉田玄白(すぎたげんぱく)と医者の前野良沢(まえのりょうたく)の二人がかりである。 杉田と前野の協力により、オランダ語で書かれた医学書の『ターヘル・アナトミア』(オランダ語:Ontleedkundige tafelen「オントレートクンディヘ・ターフェレン」)が日本語に訳され、翻訳版(ほんやくばん)が『解体新書』(かいたいしんしょ)として出されたのである。 これが、西洋の本を日本語に訳した本のうち、日本では初めての本格的な翻訳書になった。 翻訳の当時は、日本語で書かれたオランダ語の辞書が無くたいへんな時間がかかった。わずか一行ほどの文章を翻訳するのにも数日かかることもあり、翻訳本の出来上がるまでには4年ほどの年月がかかった。 まだオランダ語に対応する日本語が無い言葉もあって、「神経」(しんけい)・「軟骨」(なんこつ)・「動脈」(どうみゃく)・「盲腸」(もうちょう)・「十二指腸」(じゅうにしちょう)などの言葉は、この翻訳のときに前野と杉田が考えた言葉である。 ついでに杉田と前野は、翻訳のときの苦労話などを書いた本である『蘭学事始』(らんがくことはじめ)という本を記した。 ちなみにオランダの医学書のターヘル・アナトミアそのものが、実はドイツの医学書の翻訳本である。 19世紀には、オランダ商館の医師として長崎に来日したシーボルトが、鳴滝塾(なるたきじゅく)をひらき医学をおしえるかたわら、いろいろな蘭学を教え、多くの弟子を育てた。 シーボルトは帰国のときに、国外持ち出しの禁じられていた地図を持ち出そうとしたため追放された。 いっぽう江戸では、18世紀のなかごろ、植物や絵画や蘭学など色々なことに詳しい平賀源内(ひらがげんない)が発電機(はつでんき)のエレキテルを作った。エレキテルでの発電の仕組みは、摩擦(まさつ)によって発電する仕組みである。平賀源内はほかにも、寒暖計(かんだんけい)を日本で初めて作っている。 伊能忠敬(いのう ただたか)は、日本全国の地図をつくるために細かく調べる測量(そくりょう)する旅をして、正確な日本地図である『大日本沿海輿地全図』(だいにほんえんかい よちぜんず)を作った。 江戸時代のなかばごろから、儒教や仏教の考えにとらわれない立場で、日本古来の古典や文化の研究をする学問が生まれた。このような学問を 国学(こくがく) という。 賀茂真淵(かものまぶち)の弟子の本居宣長(もとおり のりなが)が『古事記』の研究を行い、本居宣長(もとおり のりなが)は『古事記伝』(こじきでん)を記し、国学を高めた。 宣長の研究は『古事記』のほかにもあって、平安時代の紫式部の『源氏物語』についても研究している。 国学のそもそものきっかけは、もっと前の時代にさかのぼる。 4代将軍の徳川家綱(いえつな)の時代の1650年代のころに水戸藩の藩主であった徳川光圀(とくがわ みつくに)は、日本史の研究を人々に勧め(すすめ)させた。その歴史研究にともなって、万葉集などの古典も研究された。 光圀の命令により、僧の契沖(けいちゅう)が万葉集を研究し、次のようなことに気づいていった。 学者たちの古典研究の結果、学者たちから儒教や仏教の考えにとらわれない立場で日本古来の古典や文化の研究をする学問が生まれてきて、のちに国学(こくがく) へと発展していく。 つまり、国学の発展にともない、儒学にもとづいた古典研究への疑い(うたがい)が増えてきた。 「 『万葉集』や『古事記』などの日本の古典の内容を研究するときに、外国の国の文化である儒教や仏教だけの道徳にもとづいて研究するのはおかしくないか? 」 「そもそも儒学は中国という外国の学問じゃないか? 仏教だって、中国から伝わったインドの宗教だ。日本古来の宗教ではない。」 「中国の古典を研究するときに、中国の儒教の立場から考えてみるのならまだ分かる。」 「しかし、なぜ日本の研究で、しかも平民にまだ儒教や仏教が伝わってない時代の『万葉集』や『古事記』の研究で、儒教や仏教の考えにもとづいてばかりの研究しか儒学者は研究しないのか? おかしくないか?」 「日本古来の伝統とは、儒学にもとづいてではなく、その古代の道徳を解き明かして研究するべきだろう?  日本の古典文化を研究するときは、儒教にとらわれない立場で日本古来の古典や文化の研究をするべきだろうと思う。」 以上のような考えが、国学の考え方である。 徳川光圀(とくがわ みつくに)から万葉集の研究を命じられた契沖(けいちゅう)は万葉集を研究し、『万葉代匠記』(まんようだいしょうき)を記して1690年に出来あがった。研究を命じた光圀は、のちに日本史の歴史書の『大日本史』(だいにほんし)を記した。 もっとも、国学のきっかけである徳川光圀は儒学も信望していた。また、『万葉代匠記』を表した契沖も、仏教の僧侶である。 この契沖の研究をさらに発展させたのが、後の時代(吉宗のころ)の荷田春満(かだの あずままろ)であり、さらに荷田春満の弟子の賀茂真淵(かものまぶち)が研究を受け継いだ。 さらに、のちの時代(10代将軍家治(いえはる)のころ)に、本居宣長(もとおり のりなが)が『古事記』の解読(かいどく)と研究を行い、以上に述べたように国学をより発展させた。本居宣長は賀茂真淵(かものまぶち)の弟子である。 じつは儒教の研究者のほうも、国学より少し前のころ、日本国内で日本人の儒学者から改革者が出てきて、彼ら改革者が言うには、 などの主張があった。 そこで、だったら『論語』を直接研究しよう、という運動が起こった。これを古学(こがく)という。 この「古学」は儒教の研究だが、『論語』など古代中国の古典の原典にあたろうとする、伊藤仁斎(いとう じんさい)などの客観的な研究により、すぐれた研究成果をあげ、のちの「国学」にも影響を与えた。 しかし幕府は、古学が体制の学問である朱子学を批判しているので、寛政2年(1790年)に寛政異学の禁(かんせい いがく の きん)で、朱子学以外の儒学を規制し、陽明学(ようめいがく)などの規制とともに古学も規制して、陽明学や古学を公式な場所で授業することなどを禁止した。 (※ 範囲外?:) 火薬は、戦国時代には鉄砲の弾薬として利用されていた。しかし、江戸時代に入ってから火薬の技術は、花火(はなび)などの娯楽に活用された。(※ 帝国書院の検定教科書で紹介されている。) 江戸時代の文化は、まず、17世紀末ごろから18世紀はじめごろにかけて、大阪や京都を中心に、新しい文化(「元禄文化」(げんろくぶんか)という)が生まれ、発展した。江戸の半ば頃から文化の中心が江戸に移っていった。元禄とは、この時代の元号が元禄(げんろく)だからだ。元禄文化は、町人を中心とした、生き生きとした活気のある文化である。 江戸時代の後半になると、文化は江戸の町人が中心になった。これを、 化政文化(かせいぶんか) という。 正月 と 雑煮(ぞうに)や、節分、ひな祭り と ひな人形、端午の節句 と こいのぼり、などの年中行事が庶民にも広まったのは、江戸時代のころです。それ以前は、武家など一部の人の行事でした。(なお、年中行事(ねんじゅうぎょうじ)とは、毎年 特定の日に行う行事のことです。) なお、江戸時代の暦(こよみ)は旧暦であり、中国の暦を手本にしており、現在とは違う暦(こよみ)なので、約1か月ほどのズレがあります。 また、歌舞伎などの芝居で提供されていた幕の内弁当(まくのうち べんとう)が好評で、しだいに芝居以外の場所でも弁当として普及した。(※ 日本文教出版が傍注で紹介。) 新興宗教が登場し、天理教(てんりきょう)や黒住教(くろずみきょう)や金光教(こんこうきょう)などの新興宗教が登場した。 菜種油を使った照明が庶民のあいだにも普及し、比較的に多くの人々が夜にも働いたり遊んだりどをできるようになった。(※ 帝国書院の教科書デジタルパンフレットに記載あり)
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ヨーロッパでは、16世紀の初めごろ、王権が強く、王が絶対的な権力をにぎっていた。これを絶対王政(ぜったい おうせい)という。イギリスのエリザベス一世や、フランスのルイ14世が、絶対王政の王として有名である。 王権は、神から国王に与えられたものとされ、国民は、絶対に王にしたがわなければならない、とされた。これを王権神授説(おうけん しんじゅせつ)という。 16世紀から17世紀のイギリスでは、国王が王権神授説(おうけん しんじゅせつ)を取っていた。 国王は、国民に重い税金をかけた。 こうした国王の専制に、ついに1642年に議会が反発し、内戦になった。議会派は、クロムウェルの指導の下、国王派と戦争し、内乱になり、ついに国王派の軍を倒し、クロムウェルらの議会派が勝ち、革命が起きた。かつての国王のチャールズ一世は処刑された。 イギリスは一時的に共和制になった。 これをピューリタン革命という。 しかし、その後のクロムウェルの政治に対して、独裁的だとして国民らの反発が起きる。そのため、クロムウェルの死後、王権が権力を取り戻して、王政が復活する。 復活した王政に対しても国民らの反発がおき、議会を尊重しない国王(ジェームズ2世)に対して、1688年に議会はジェームズ2世を国外にしりぞけ、かわりにオランダから新しい国王(ウィリアム3世)をイギリス議会は招いた。 このイギリス議会による国王追放の事件を、名誉革命(めいよ かくめい)という。議会政治による革命なので、血を流さざるを得ない従来の革命に比べて「名誉的」という考えである。 オランダから来た新しい国王(ウィリアム3世)は議会を尊重した。そして、新国王とイギリス議会のあいだで、政治に関する取り決めの約束が行われた。このイギリスでの国王と議会の取り決めを 権利章典(けんり しょうてん) という。(あるいは「権利の章典」とも。) 権利章典(要約) 国王は議会の承認がなければ、税金を掛けることもできず、また議会の承認なしでは法律を国王は作れないようになった。 こうして、国王は議会にしたがうようになり、政治の中心は議会に移り、国王と言えども、議会の定めた法律にしたがう立憲君主制(りっけん くんしゅせい)がイギリスで始まった。 これらの革命後、イギリスでは、さまざまな改革が進みイギリスは発展していき、18世紀ごろからイギリスはヨーロッパの強国になっていく。 イギリスでの名誉革命のころから、新しい合理的な思想が出てきて、これらの思想が名誉革命以降のアメリカやフランスなどでの革命などに影響を与えた。 イギリスのロックは、人間は生まれながらにして自由と平等の権利を持っているとして、専制的な王に対して民衆が抵抗する権利を持つことを説き、名誉革命を支持した。(抵抗権) フランスのモンテスキューは『法の精神』により、司法・立法・行政の三権による三権分立(さんけん ぶんりつ)を説いた。なお、司法とは裁判をすることである。立法とは法律を作る事である。 フランスのルソーは『社会契約論』(しゃかい けいやくろん)を書き、人民主権の考えを説いた。(人民主権) 同じころ、物理学などの科学も発達した。 これら、新しい知識や思想を説明するため、百科事典なども作られた。 これらの新しい合理的な思想を啓蒙思想(けいもう しそう)という。 イギリス本国では名誉派革が起きても、イギリスは植民地には独立などを認めなかった。北アメリカでは最初はイギリスとフランスとが植民地を広げて争っていたが、フランスは北アメリカから撤退した。18世紀の半ばには、北アメリカの大半はイギリスの植民地になっており、その数は13州にわたった。 北アメリカではイギリスから、一方的な課税をされた。アメリカは、国会議員のような代表者をイギリス本国の議会には送らせてもらえなかった。イギリスは、海外の植民地をめぐってフランスと対立し戦争をくりかえしており、その税負担がアメリカに重くのしかかった。 これらのイギリスの支配に反発し、北アメリカで現地の白人らによる独立戦争が起きた。アメリカはイギリスから1775年に独立し、アメリカ合衆国(アメリカがっしゅうこく) となった。1776年にアメリカは独立宣言(どくりつ せんげん)を発表した。 独立宣言(抜粋、要約) 1787年には文章で書かれた憲法も定められた。なお文章で書かれた憲法のことを成文憲法(せいぶん けんぽう)という。アメリカの憲法が、世界最初の成文憲法である。独立戦争を指揮していたワシントンが、アメリカ合衆国の初代大統領になった。アメリカ合衆国の憲法では、国民主権(ただし白人のみ)および三権分立(立法・行政・司法)がさだめられ、連邦制の共和国家になった。独立後のアメリカでは、貴族などの制度は、認められなかった。 こうしてアメリカ合衆国は民主主義の国になった。しかし、基本的人権は白人にのみ限られ、黒人や先住民(いわゆる「インディアン」)らは差別されており、奴隷制度も南部を中心にあって、黒人などは奴隷のままであった。 イギリスやアメリカで革命がおきてもなお、18世紀のフランスでは絶対王政がつづいていた。かつて17世紀の「太陽王」ともいわれたルイ14世のころには、ベルサイユ宮殿などのような豪華な宮殿が作られた。その後の18世紀も同様に、絶対王政がつづいていた。 また、フランスは、領土や植民地をめぐっての戦争をイギリスなどと行ってもいたので、このような支出の多い財政から財政は悪化し、結果他国と比べても税金が重かった。 イギリスで革命が起きた後は、フランスなど周辺国でも、各国の議会が、それぞれの国の国王に改革などを求めたが、フランスの場合、あまりフランスの国王は積極的でなかった。 フランスでは、貴族と聖職者が権力をにぎっており、国民の大多数を占める農民や市民などは低く扱われていた。フランスでは、身分は主に3つに大きく分かれていた。第一身分に聖職者、第二身分に貴族、第三身分は市民や農民である。聖職者と貴族の階級が特権階級であった。この身分制度などの、フランスの旧制度を アンシャン・レジーム(仏: Ancien régime)という。3つの身分の代表者による議会である三部会(さんぶかい)も、たびたび開かれていたが、第三身分の改革を求める意見が他の身分と対立していた。平民たち第三身分は、あらたに国民議会(こくみん ぎかい)をつくり、対抗した。この国民議会の動きを、国王が武力でおさえようとした事に対する、平民たちの反発がきっかけとなり、後の革命の動きに、つながっていく。 1789年にパリなどの都市で平民や農民、一部の貴族などが反乱を起こした。反乱軍により、政治犯などが収容されていたバスティーユ牢獄(バスティーユろうごく)が襲撃された。バスティーユ牢獄は絶対王政の象徴(しょうちょう)と見られており、政治犯などが捕らえられていると考えられていた。 もっとも、実際のバスティーユ牢獄には当日の囚人は7名しかおらず、ほとんど空の状態であった。その解放された囚人7人には、政治犯はいなかった。7人のうち、4人は文書偽造犯であり、2人は狂人であり、1人は素行の悪い貴族であった。 襲撃後も反乱は続き、ついに国王側の軍を倒し、フランス革命になった。 革命派の議会が人権宣言(じんけん せんげん)を出し、政治の主権は国民たちにあることが定められた。 フランスでは王政(おうせい)は廃止され、共和制(きょうわせい)になった。 地方でも、農民たちが反乱を起こし、こうしてフランス全土に革命がいきわった。国王だったルイ16世は処刑され、国王の妻のマリー=アントワネットも処刑された。 これら一連のフランスの革命をフランス革命という。 フランスの人権宣言(抜粋、要約) 自由・平等・人民主権や、私有財産の不可侵などが、人権宣言で、うたわれた。 周辺の王政の国は、フランスから革命が波及するのを警戒し、そのためフランスとの戦争になった。 こうした時代の中、フランスでは軍人のナポレオンがクーデターを1799年に起こし、ナポレオンが一時的に権力をにぎった。直後にナポレオンは臨時政府を作り、国民投票により信任された。1804年にナポレオンは国民投票によって皇帝の地位についた。 ナポレオンの政権では、個人の自由や平等などの理念にもとづく法律を作り、また、さまざまな改革が行われた。ナポレオン法典(ナポレオンほうてん)により、経済活動の自由 や 私有財産の不可侵 などが定められた。 フランスは、かつての絶対王政から一転して、革命された国家になった。 フランス国民は、自由と平等の理念のもと、一致団結し、フランス国民としての自覚が出来上がっていった。教育制度も整えられ、義務教育や大学などの教育制度がフランス国内に整えられた。 革命後のフランスは、しだいに国力をつよめ、ついには周辺国へ攻め込んで侵略した。そして、一時期、フランスは、イギリスとロシアをのぞく、ヨーロッパの大部分を支配した。しかし、ロシアとの戦争でフランス軍がモスクワを攻め落とすも(ロシア遠征)、フランス軍は最終的に大敗し、それからナポレオンの権力はおとろえた。 このフランスとロシアの戦争のときのロシア軍の戦略は、フランスに占領される前に自国ロシアの町を焼き払ってしまう 焦土作戦(しょうど さくせん) であった。そして、ロシアは、わざと退却してフランス軍をロシア領の奥深くに引きずり込んだ。ロシアの戦略は、このような戦術により、フランス軍の食料の補給(ほきゅう)を断つという戦略であった。フランス軍がロシア各地を占領したとき、占領先の町は焼失させられていた。フランス軍は占領先のロシアでの住居も食料も失ってしまう。そして冬が近づき、ひとまずフランスへと撤退しようとするフランス軍に対し、ロシア軍が攻撃をして、フランス軍は敵地ロシアでの寒さと食糧不足のために死にゆくフランス兵が続出した。 こうして、フランスはロシア遠征で大敗をした。 その後、フランスは諸国に攻め込まれ、ナポレオンは捕らえられ、1815年にナポレオンはエルバ島に流された。 フランスに支配された国や、フランスと敵対した国でも、フランスの改革は見習われ、ヨーロッパのそれぞれの国でも改革が進んでいった。 ナポレオンの失脚後、1814年にオーストリアの首相メッテルニヒによる諸国への呼びかけでウィーンで開かれた会議により、ヨーロッパは、革命前のような状態にもどされた。この旧体制による反動を ウィーン体制(ウィーンたいせい) という。 フランスでは、しばらく王政がつづくが、1830年7月にふたたび革命が起き(七月革命)、つづけて、いくつかの革命を経て(二月革命など)、フランスは共和制になっていく。 フランス革命などのように、市民や平民などが政治参加を求めて起こす革命のことを市民革命(しみん かくめい)という。 ではなぜ、そもそもナポレオンがロシア遠征をしたのか。その理由は、ナポレオンはロシア遠征以前にはイギリスと戦争していたので、欧州諸国にイギリスとの通商を禁止させる大陸封鎖令(たいりく ふうされい)を出したのだが、ロシアが封鎖令に従わなかったためである。ロシアは穀物などをイギリスに輸出した。 なので、フランスに従わないロシアを懲らしめるために、ナポレオン率いるフランス軍はロシアに遠征し、その結果が返り討ちにあった、ということである。 では、なぜイギリスとフランスは戦争をしていたのか? その解説は、中学教科書の範囲外であろう。
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17世紀でのヨーロッパの工業は主に手工業だった。 しかし18世紀の後半ごろから、イギリスでは蒸気機関(じょうき きかん)を動力とする機械が、さかんに工業に使われ始めた。蒸気機関とは、石炭で湯をわかし、発生した蒸気の圧力で、物を動かしたりする装置である。 ワットなどの発明家・技術者が蒸気機関を改良していった。 イギリスでの蒸気機関の実用化により、イギリスの工業生産力が飛躍的に高まった。イギリスでは、製鉄業、機械工業、造船業などが、さかんになった。このような蒸気機関の実用化などによる、工業の機械化と工業力の飛躍的な進展のことを、産業革命(さんぎょう かくめい)と言う。 さらに汽車がスチーブンソンにより発明され、鉄道により、イギリスの交通が発達した。 イギリスの各地にはマンチェスターのような工業都市が各地にできていった。 イギリスは、安価な工業製品を輸出した。19世紀のイギリスは「世界の工場」と呼ばれた。 イギリスは、インドから綿織物(めんおりもの)を輸入していたが、イギリスで産業革命が進み、イギリス国内では紡績機械で綿織物を安く大量生産できるようになって、イギリスから世界に綿織物が輸出された。 19世紀にはイギリスの周辺のフランス・ドイツなどのヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国でも、イギリスに対抗するため、産業革命が進められた。 工業用地や農地などの土地や設備などの資本(しほん)によって、生産量が大きく変わるので、それらの資本を有する地主や企業経営者などの資本家による、利益を求めての投資活動が、さらに経済を発展させるという資本主義(しほんしゅぎ)の考え方が出てきた。 産業革命による機械化により、多くの職業では熟練工がいらなくなったので、賃金の安い子供や女性も労働力として用いられるようになった。機械設備を購入するには多額の費用が必要なので、工場や土地を持つ資本家と、それらを持たない一般の労働者の経済格差が広がった。 労働者の地位は低く、たとえば工場や炭鉱などで働かされた子供は、低賃金で1日15時間以上もの長時間労働をさせられることもあった。長時間労働させられる子供は、学校などには通わせてもらえない。 失業した労働者が、仕事を求めて都市などの工場などで働いたため、都市は過密になっていった。また、石炭の煙などにより、大気汚染などの環境汚染も進んでいった。 産業革命後のイギリスでは、貧富の格差は広がっていった。イギリスをまねて産業革命をすすめた他の国でも同様に、貧富の格差は広がっていった。 ヨーロッパの貧しい者たちの中には、アメリカ大陸に希望をもとめて移住する者たちも出てきた。 資本主義が貧富の格差の原因と考えられたので、資本主義の考えの見直しの運動が起こっていった。 労働者どうしで組合(くみあい)をつくり、労働組合(ろうどう くみあい)を結成して、資本化との賃金の交渉や労働時間の交渉などで資本家に対抗していこうという考えが起こった。あるいは土地や機械設備などの生産手段を公有化していこうとする改革を起こそうという考えが起きていった。 工業文明での貧富の格差の拡大などが、資本主義の矛盾(むじゅん)だと考えられた。 労働組合の拡充や、生産設備の共有化を求める改革運動などを通して、平等な社会を築こうとする考えは、社会主義(しゃかい しゅぎ)といわれた。 このような社会主義的な運動によって、平等な社会が実現できるだろうと、当時のヨーロッパでは考えられていた。 ドイツでは、マルクスが社会主義の思想をとなえた。 マルクスの分析は、支持者から科学的な分析だと考えられた。 資本家の側からも、労働者のきびしい状況を知り、労働環境の改善につとめる人物も出てきて、オーウェンなどの人物がいる。
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アメリカ合衆国は産業で大きく2つに分けられ、北部で工業が発展した。南部では農業が主な産業だった。 アメリカでは、経済政策、奴隷制をめぐって南北が対立していた。南部が奴隷制の維持および自由貿易を主張していた一方、北部は保護貿易や奴隷解放を主張していた。1860年に奴隷解放を主張するリンカーンが大統領に当選した事から、1861年に南北戦争(なんぼく せんそう)が起きた。 1863年にリンカーンは奴隷解放宣言(どれい かいほうせんげん)を出した。 戦争は、北部が勝利した。黒人にも選挙権が与えられた。しかしながら、黒人などへの差別は、その後も続いた。 その後、西部の開拓が進んでいった結果、元々住んでいた先住民(インディアン)などは追い出され、移住させられた。 1869年には大陸横断鉄道(たいりく おうだん てつどう)が出来て、大西洋岸と太平洋岸が鉄道で結ばれた。 このころ、西部の開拓地のことは、「フロンティア」と呼ばれた。 このころ、カリフォルニアで金脈が発見され、ゴールドラッシュがあった。 ※ 検定教科書ではコラムとして、 が扱われている。(帝国書院)
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19世紀に入り、産業革命やフランス革命がおこると、欧米では近代国家(国民国家・近代国民国家)の建設が進みました。 近代国家とは、国に住む文化や価値を共有している人々を、自由や平等といった考えの下で「国民」として一つにまとめる国家のことです。 近代国家では、国民から兵士を集め(徴兵制)、「国民軍」が作られました。 このページでは、そんな近代国家の建設を進めた国々を紹介します。 ドイツは19世紀の半ばまで、数十か国の国々に分かれていました。その中で特に大きな影響力を持っていたのが、プロイセン王国です。プロイセンは、首相であったビスマルクのもとでドイツの統一を進めました。下記の文は、そんなビスマルクが議会で行った演説の一部です。 鉄は武器を、血は兵器を表します。ビスマルクはドイツの武力による統一を目指し、プロイセンの軍事力を強化させていきました。(このことを、鉄血政策という) 1871年、ドイツ統一に反対したフランスとの戦争(普仏戦争)に勝利したプロイセンは、ドイツ統一を達成。プロイセン国王ヴィルヘルム一世を皇帝として、「ドイツ帝国」を成立させました。 ※プロイセン王国自体は、ドイツ帝国を構成する国として存続しました。 ドイツ帝国では、新しい憲法(ビスマルク憲法)や帝国議会を整備し、近代国家の建設を進めました。 そんなドイツの宰相となったビスマルクは政治の実権を握り、重工業を中心に工業や軍事力を強化。イギリスと肩を並べる大国へと成長しました。力を蓄えたドイツは、のちに世界進出を目指すようになります。 ちなみに、ドイツ帝国の憲法は大日本帝国憲法の手本とされたりもしました。(日本の立憲政治のはじまりも参照のこと。) ※この項目は中学校の範囲外です。 普仏戦争の際、ドイツはフランスの領土であるアルザス・ロレーヌ地方を自国の領土としました。フランスがこの地方の奪還のため戦争を仕掛けることがないよう、ビスマルクはフランスを国際社会から孤立させるように外交関係を築きました。 これを、「ビスマルク外交」といいます。 <ドイツの外交関係> 1890年にビスマルクが失脚すると、フランスはロシアとの同盟などを通して孤立状態を脱していきます。 イタリアは、ドイツと同様に19世紀半ばまで小国に分裂しており、フランスやオーストリアなどの大国に翻弄されてきました。 そのような状況の中、イタリアを統一しようと行動に出たのが、サルデーニャ王国です。サルデーニャ王国は統一に反対するオーストリアなどとの戦争を通し、1861年に「イタリア王国」を成立させます。イタリア王国は、1870年までにヴェネツィアや教皇領(ローマ)などを併合し、イタリアのほとんどを統一しました。 しかし、イタリアには統一の際に回収できなかった地域がオーストリア領に残っていました。この地域のことを「未回収のイタリア」と呼びます。北イタリアの南チロル地方や、現在のクロアチアの一部であるトリエステがそれにあたります。この地域をイタリア領とすることは、イタリア王国の悲願でした。このことがその後の争いの火種となっていきます。 19世紀、皇帝の専制(独裁)政治であったロシア帝国には、不凍港(冬に凍らない港)がありませんでした。そのため、冬でも港が凍らない、地中海や黒海へ領土を広げようと画策していました。しかし、そのためにはロシアの南にあるオスマン帝国を打ち倒さなければなりません。そこで、ロシアはオスマン帝国に対してクリミア戦争を起こしました。このような、ロシア帝国の南への拡大を目指す政策のことを「南下政策」といいます。 しかし、クリミア戦争はロシアを警戒した英仏にさまたげられ敗北。地中海・黒海方面への進出は失敗に終わりました。こうして、ロシアは近代化・工業化の遅れを実感するようになりました。 近代化の遅れを感じたロシアは、近代化へ向けた改革を進めるようになります。 ※行われた改革の内容は、覚えなくても良い。 しかし、改革の効果はそこまで発揮されず、憲法や議会は整備されないままでした。このような状況で、ロシアでは徐々に社会主義が台頭していきます。 欧州方面での南下に失敗したロシアは、次にアジアでの南下を目指しました。 ロシアは、中央アジアの「トルキスタン」と呼ばれる地域の国々を征服。 ペルシャ(現在のイラン)にも攻撃をしかけ、領土の拡大・不平等条約の締結などを行いました。 ※帝国主義の世界も参照のこと。 1860年までに、ロシアは清との間にも条約を締結。清の領土であった沿海州などをロシア領としました。 ロシアはさらなる東アジアでの拡大を狙い、同じく東アジアでの拡大を狙う日本やイギリスと対立していくことになります。
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日本が鎖国していたころ、ヨーロッパでは産業革命などにより科学技術が大きく発達したため、ヨーロッパの兵器の技術も発達していった。 19世紀のころ、産業の近代化などで国力をつけていたヨーロッパ諸国は、アジアとの貿易のしかたを変えるようになった。結論から言うと、ヨーロッパによるアジアへの侵略が始まっていった。 もっと、くわしく説明すると、つぎのような説明になる。 日本では戦国時代ごろだった16世紀ごろは、ヨーロッパは、貿易相手のアジアの国とは、あまり戦いをしなかった。だが、そのあと、ヨーロッパの近代化でヨーロッパの国力が強まったことで、ヨーロッパはアジアに対しても侵略的になっていく。 (アフリカや南米では、ヨーロッパは、すでに侵略的だった。) たとえば、直接、アジアと戦争をして領土を獲得して、領地で現地のアジア人を安い値段で働かせ農産物などを生産して、本国のヨーロッパに産物を輸出するようになった。 また、ヨーロッパの武力を背景に、戦争で負かしたアジア諸国の国政に干渉するようになった。 1800年代のはじめごろ、イギリスはインドに進出していました。イギリスの支配は、だんだんと強まっていきます。イギリスに対する大きな反乱が1857年に起きました。インド大反乱です。シパーヒーが反乱を起こしたので、シパーヒーの乱(あるいは「セポイの乱」)とも言います。 ですが、イギリスは反乱を武力で平定し、そのあと、イギリスの支配をますます強め、インドを直接の支配下に置き、植民地にしました。 インド大反乱より昔になるが、1830年ごろ、イギリスはインドを中継地として清(しん)と貿易をしていました(三角貿易)。清は欧米との貿易の港を広州(こうしゅう、コワンチョウ)の一港に制限して欧米と貿易をしていました。 イギリスは、綿織物などの輸出品が、あまり清には売れず、そのいっぽうで、清からは茶(ちゃ)などを多く輸入しました。イギリスでは、紅茶を飲む習慣が広がっていました。 イギリスの貿易は赤字になり、そのためイギリスから支払いのための銀が多く流出しました。この銀の流出をいやがったイギリスが、貿易でかせごうとして、支配していたインドで麻薬(まやく)のアヘンをつくり、アヘンを清にこっそりと輸出します。 このため、清には多くの麻薬中毒者(まやくちゅうどくしゃ)が出てきて、また、支払いのための銀が清から流出していきました。 清が、アヘンの輸入を取り締まり始めます。清の役人の林則徐(りん そくじょ)が、アヘンの取締りを始めます。林則徐は、密輸されたアヘンを没収し、焼き捨てさせました。 すると、イギリスは貿易の自由を口実にして、戦争を1840年にしかけました。これがアヘン戦争(アヘンせんそう)です。イギリスの海軍の軍艦で、清の船を破壊するなどして、清は対抗手段がなくなり、戦争はイギリスの勝利でした。 戦争に負けた清は、不利な条約である 南京条約(ナンキンじょうやく) を1842年に結ばされ、さらに多額の賠償金(ばいしょうきん)を支払わされ、また清は香港(ホンコン)をイギリスにゆずりわたすことになってしまいました。イギリスは香港を手に入れました。 また、上海(シャンハイ)など5つの港を開かせました。 清は、関税自主権(かんぜいじしゅけん)を失いました。また、清は外国人を裁判にかける権利がなくなり、イギリスなど外国の領事が裁判権を持つことになりました。外国が領事裁判権(りょうじ さいばんけん)を持つことになりました( いわゆる、治外法権(ちがいほうけん) )。  上海などの主な港の近くには、中国の主権がおよばない地域が作られ、外国人が母国のように自由に行動できる 租界(そかい) という居留地(きょりゅうち)が出来ました。 また、清はイギリスとの条約だけでなく、アメリカやフランスなどの、その他の欧米諸国とも、清が不利な不平等条約を結ばされました。 清は多額の賠償金を払うため、国民に重い税をかけた。このことが清国民の不満を高めた。また、もともと清の王朝は満州族の王朝であり、漢民族などは満州族による支配には不満をいだいていた。 洪秀全(こう しゅうぜん、ホンシウチュワン)を中心にする、満州族の政府である清国政府を倒そうとする反乱が1851年に起き、南京を拠点にして太平天国(たいへい てんごく)という国が、一時的に作られた。 この乱を、太平天国の乱(たいへいてんごく の らん)という。 太平天国は、運動の理想として、農民たちに土地を平等に分け与えることなどをかかげて、農民たちに支持されました。 しかし、イギリスなどの支援を受けた清国政府によって、太平天国は倒され、1864年には太平天国の拠点だった南京も占領され、洪秀全も自殺しました。 いっぽう、そのころの日本に、アヘン戦争での清の敗戦の知らせが、貿易相手のオランダなどを通して、幕府の上層部に伝わっていった。 また、幕府のほかの民間の学者の中にも、アジアがヨーロッパに侵略されていっているという情勢(じょうせい)に気がつく者があらわれはじめた 。 このあと、フランスなどの他のヨーロッパの国々も、イギリスのように、武力でアジアを支配するようになっていった。 日本の幕府は、貿易相手のオランダなどを通して清の敗戦を知ったこともあり、異国船打払い(いこくせん うちはらい)の方針を変えないと欧米と戦争になり、日本が侵略されてしまう、と考え、1842年に異国船打払いの方針をあらため、外国船に薪(たきぎ)や水・食料を補給(ほきゅう)することをゆるしました。
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ロシアは勢力を 千島(ちしま) や 樺太(からふと) にのばしていました。 1778年に、ロシアが蝦夷地(えぞち)の厚岸(あっけし)に来て、日本の松前藩(まつまえはん)に通商をもとめましたが、ことわられました。 寛政の改革のころの18世紀後半に、ヨーロッパやアメリカなど欧米では政治改革や産業の近代化がおこり、そのため欧米の国力が強まって、アジアへ進出してきました。このため日本の近くの海にも、欧米の船が出没しはじめます。 蘭学を学んでいた林子平(はやし しへい)は、書物の『海国兵団』(かいこくへいだん)を1791年に記し、日本は海岸をまもる必要性を人々にときましたが、幕府には世間をさわがせるものだとして林子平は処罰されてしまいます。 しかし、子平の言う通りの状況に、このあとの時代は動いていくのです。 ロシアは、1792年に日本に貿易の通商を求めるため日本に人を送り、根室(ねむろ、北海道)にロシア人の軍人の ラクスマンがきました。しかし、そもそも外交交渉は日本では長崎で行なうことになっているので、根室での通商の要求は、日本に断られました。日本側は、つぎの交渉では長崎で交渉するようにロシアに伝えます。  1804年にはロシア人の外交官のレザノフが日本の長崎に来て通商の要求をしますが、幕府は、ことわります。 幕府は、北方の海岸の警備に力をいれます。また、間宮林蔵(まみやりんぞう)などに千島や樺太の探検を命じます。 また、伊能忠敬(いのうただたか)に、蝦夷地(えぞち、北海道)を測量させました。 そして、間宮林蔵は間宮海峡(タタール海峡)の発見<=樺太が島であることを証明>、伊能忠敬は大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)<=日本全国の地図>を作成しました。 レザノフの1804年よりもさかのぼって、1796年にはイギリスが日本に来ていました。 1808年にはイギリスの軍艦のフェートン号が対立しているオランダ船をとらえるために長崎に侵入し、オランダ商館員を人質にする事件があった。イギリス側は、薪水(しんすい、「たきぎ」と水のこと)と食料を要求し、これを得たのち、日本から退去した。これを フェートン号事件と言います。 幕府は、1825年に異国船打払令(いこくせん うちはらいれい)を出しました。 いっぽう、アヘン戦争(ヨーロッパによるアジア侵略のページ参照)での清の敗戦の知らせが、日本に、貿易相手のオランダなどを通して、幕府の上層部に伝わっていきました。 また、幕府のほかの民間の学者の中にも、アジアがヨーロッパに侵略されていっているという情勢に気がつく者があらわれはじめてきます。 このあと、フランスなどの他のヨーロッパの国々も、イギリスのように、武力でアジアを支配するようになっていきました。 日本の幕府は、貿易相手のオランダなどを通して清の敗戦を知ったこともあり、異国船打払いの方針のままだと欧米と戦争になり、日本が侵略されてしまう、と考え、1842年に異国船打払いの方針をあらため、外国船に薪(たきぎ)や水・食料を補給することをゆるしました(天保の薪水給与令、しんすいきゅうよれい)。 1853年にアメリカ合衆国の4隻の軍艦が日本の浦賀(うらが、神奈川県の港)にあらわれ、軍艦をひきいたアメリカ人のペリー(Perry)が開国を日本に求め、アメリカ大統領からの国書を幕府に、わたしました。 当時、日本に来た4隻のアメリカの船は、色が黒かったため、黒船(くろふね)と日本の人から言われました。 アメリカの軍艦は、蒸気船と言われるもので、石炭などを燃料とした蒸気機関によって動く最新式の船であり、船の煙突からは煙がもうもうとあがっていました。この蒸気船は、それまでのロシアやオランダの船の帆船とは違い、最新式の船でした。 ペリーは日本について事前にオランダの本などから研究していたので、日本人は権力者の命令に弱いということを知っており、わざと幕府のある江戸に近い関東の浦賀に黒船で、やってきたのです。当時の日本では、長崎が外国との外交の窓口でしたが、ペリー達はまったく長崎に行こうとはせず、幕府と直接に交渉をしようとする態度をとりました。 このようなアメリカの船とペリーの態度を見て、日本人はおどろきました。とりあえずペリーに、返事を出すまで時間がかかるので、一年後にもう一度、日本に来てもらうように頼みました。 幕府は、事態を重く考え、朝廷にも報告をして、諸国の大名にも相談をしました。相談のあいては、外様大名もふくみます。 これがのちに大きな意味を持つこととなります。 いっぽう、アメリカが日本に開国をせまった目的は、燃料や水の補給を日本でおこなうために立ち寄りたいという理由が、主な目的でした。当時のアメリカは、中国大陸の清と貿易をおこなっていたり、太平洋で捕鯨(読み:「ほげい」・・・、意味:「クジラとり」のこと)を行っていたので、日本で補給が出来ると都合が良かったのです。 そして1年後の1854年に、ペリーがふたたび日本に来ました。1854年の交渉では、もはや幕府はアメリカの開国要求をことわりきれず、ついに日本は開国をします。 日本とアメリカとの間で条約がむすばれ、日米和親条約(にちべい わしんじょうやく)が結ばれました。 この日米和親条約により、下田(しもだ、静岡県にある)と函館(はこだて、北海道)が開港され、アメリカ船に燃料や水・食料などを補給することが決まりました。 (※ 参考:) 1855年に日露和親条約が結ばれ、択捉島より南の北方領土を日本領に、得撫島より北の千島列島をロシア領としました。 アメリカの総領事(そうりょうじ)のハリス(Harris)は、幕府に対して、日本とアメリカとの貿易を求めました。ハリスの説得は、イギリスなどの戦争をためらわない国から、不利な開国の要求をおしつけら戦争をしかけられる前に、アメリカと開国の条約を結んだほうが安全である、という説得でした。 幕府は、オランダなどからの情報で、清がイギリスでアヘン戦争に負けたという国際情勢を知っており、欧米に戦争になり日本が侵略されることを恐れたので、アメリカとの条約を1858年に幕府の大老の井伊直弼(いい なおすけ)は結びました。こうして、日米修好通商条約(にちべい しゅうこう つうしょう じょうやく)が結ばれ、この条約によって、函館・神奈川(横浜)・長崎・新潟・兵庫(神戸)の5港が貿易港として開かれました。 日米修好通商条約の内容は、日本にとって不利な内容で、不平等な条約でした。 この、アメリカ人など外国人が、日本の法律では処罰されないことを治外法権(ちがい ほうけん、英語:Extraterritoriality)と言います。領事裁判権(りょうじ さいばんけん)とも言います。 また、イギリス・オランダ・ロシア・フランスとも、同様の貿易の条約を、幕府は結びました。これを、安政の五カ国条約(あんせいの ごかこくじょうやく)と言います。覚え方は、五つの国の頭文字をとって「アオイフロ」です。 幕府の伊井直弼による条約締結は、日本を欧米の侵略から守ろうとする考えのものでしたが、当時の庶民の多くは、まだ、欧米の強大な軍事力を知らず、幕府の態度は、臆病者だと思われていました。 井伊直助は幕府の許可を取らなかったこともあり、反対派も多くいました。 開国に反対の主張をしていた諸藩の武士たちを、幕府は弾圧していき捕らえて処刑などの処罰をしていきます。この鎖国派への弾圧を「安政の大獄」(あんせいのたいごく)と言います。吉田松陰(よしだ しょういん)などの人物が処刑されました。 ちなみに、このときの元号は「安政」です。だから、安政の五カ国条約、安政の大獄というのです。 のちの1860年、井伊直弼は江戸城の桜田門(さくらだもん)の近くを通っていたときに、「安政の大獄」による弾圧に反対をしていた浪士(ろうし)によって、暗殺されてしまいます。この、井伊直弼が死んだ暗殺事件を「桜田門外の変」(さくらだもんがいの へん)と言います。 また、金銀の交換比率が、日本と欧米でちがっており、日本では金銀の交換比率が1:5なのに対して、外国では1:15であった。外国人がこの比率の差を利用して、日本に多くの銀貨をもちこんで、日本の金を買って交換したので、日本から多くの金が流出した。 その後、幕府は小判を改鋳して小さな小判をつくることで(万延小判、まんえんこばん)、交換比率を国際的な比率に近づけさせて、金の流出をふせいだが、小判の価値が低下したため物価の上昇が起きた。 このような品不足や物価の上昇などにより、庶民のくらしは苦しくなっていきました。そのため 一揆(いっき) や 打ち壊し が起きました。 庶民だけでなく下級武士にも、開国に不満を持つ者が増えていきます。 世間から、外国を打ちはらおうとする考えが出てき始めます。このような、外国を打払いしようという考えを攘夷(じょうい)と言い、攘夷の主張を攘夷論(じょういろん)と言います。 攘夷論にくわわり、世間では、国学などの影響(えいきょう)もあって、朝廷や天皇を盛り上げて、敬おう(うやまおう)という、尊王論(そんのうろん)が出てきます。 尊王論と攘夷論が加わり、尊王攘夷論(そんのうじょういろん)という、組み合わせた考えが出てきました。(のちに、尊王攘夷論は、朝廷に許可を得ず勝手に開国した幕府への批判にかわり、やがて幕府を倒そうという運動へと変わっていきます。) 薩摩藩と長州藩は攘夷の実力行使に出ましたが、外国に負けました。 ・薩英戦争(さつえい せんそう) 戦後、薩摩では政治の方針を攘夷から切り替え、イギリスなどから制度を学んだりして、藩の強さを高める方針へと変わりました。そして薩摩藩では、下級武士であった西郷隆盛(さいごうたかもり)や大久保利通(おおくぼとしみち)らが、イギリスの援助も受けて、彼らが改革の中心になっていった。 ・長州藩の下関戦争(しものせきせんそう) 長州藩の高杉晋作(たかすぎ しんさく)や木戸孝允(きど たかよし)らは、攘夷論のマチガイに気づき、かわりに長州藩の改革を進めていきます。下級武士であった高杉晋作(たかすぎ しんさく)や木戸孝允(きど たかよし)・伊藤博文(いとう ひろぶみ)らが、イギリスの援助も受けて、彼らが改革の中心になっていきます。 このようにして、薩摩や長州は、実戦から、欧米の実力を知ることに知ることになりました。単純な尊王攘夷運動はマチガイだと気づくようになりました。まずは、軍隊の近代化が必要と考え、そのためには改革が必要であり、そのためには改革をさまたげている幕府を倒す必要があるという考えが高まりました。 薩摩と長州は、過去の歴史的な関係から、両者は対立をしていました。 しかし、1866年に、土佐藩(とさはん、高知県)の浪人坂本龍馬(さかもと りょうま)が両藩の仲立ちをして同盟を結ばせ、薩摩藩と長州藩との同盟である薩長同盟(さっちょう どうめい)が1866年に結ばれました。 幕府は、薩長同盟を倒すため長州と戦争をしましたが、幕府の征伐は失敗に終わりました。 イギリスが薩摩や長州の支援をしていましたが、いっぽう、幕府はフランスの支援を受け、軍備や技術の改革をしていました。 なお、坂本竜馬は、のちの大政奉還のあと、何者かによって暗殺された。坂本竜馬が、京都の河原町(かわらまち)にある近江屋(おうみや)に、友人の中岡慎太郎(なかおか しんたろう)といるところを、何者かによって坂本・中岡の二人ともが斬殺され殺害された。 坂本は首を斬られて即死した。中岡は重傷を負って、二日後に死亡した。犯人は不明である(諸説あり)。 土佐藩の下級武士の生まれで、剣術をまなぶため江戸に出たたときに海外情勢に関心をもつようになり、さまざまな知識人と会う内に、勝海舟(かつ かいしゅう)と知り合う。そして、海軍や海上貿易などの必要性をさとる。その後、龍馬は「海援隊」(かいえんたい)という貿易商社をつくる。また、龍馬は薩長同盟の仲立をした。龍馬が書いた「船中八策」(せんちゅう はっさく)は、のちの明治維新の方針の参考にされた。この船中八策は、横井湘南が書いた「国是七条」(こくぜしちじょう)を参考にしたと言われている。 船中八策の内容は(要約、現代語訳)、 である。 また、高杉晋作(たかすぎ しんさく)は、アヘン戦争後で薩長同盟前の1862年に藩の仕事として上海(シャンハイ)に滞在していたころ、中国人がヨーロッパ人の召使い・奴隷のような扱いを受けている様子を目撃し、危機感をもち、長州の改革の必要性を痛感した。 このころ、「世直し」をとなえた農民一揆が、全国各地で起きていた。また、大坂や江戸で、打ちこわしが起きた。また、1867年には「ええじゃないか」と民衆が熱狂する騒ぎが起きた。
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幕府の15代将軍・徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)は、1867年10月に二条城にて政権を朝廷にかえしました。土佐の藩主の山内豊信(やまのうち とよしげ)などが慶喜に朝廷に政権を返すことを助言しました。 この出来事のことを、つまり徳川幕府が朝廷に政権を返したことを大政奉還(たいせい ほうかん)と言います。 こうして、江戸幕府の約260年の時代は終わりました。 倒幕派は、幕府の再興をきらったので、政治を古来の天皇中心の政治にもどそうとして、王政復古の大号令(おうせいふっこの だいごうれい)を1867年12月に出した。 慶喜は、新政府から領地の一部を国に返すように命じらた。また、慶喜の政治への参加が認められなかった。旧幕府はこれに反発し、京都の鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)で戦い1868年に起こし、旧幕府軍と新政府軍との戦いになった。この戦いを、鳥羽・伏見の戦い(とばふしみ の たたかい)と言う。この鳥羽伏見の戦いで幕府軍はやぶれた。 新政府軍は、鳥羽伏見の戦いで幕府軍をやぶり、西郷隆盛ひきいる新政府軍は江戸へと進み、1868年に江戸城を戦わずにして開城(かいじょう)させた。無血開城(むけつかいじょう)という。江戸城の開城の交渉では、倒幕派の西郷隆盛(さいごう たかもり)が、幕府の勝海舟(かつ かいしゅう)とが話し合った。 会津藩(あいづはん、今でいう福島県)は、江戸城の開城を不服とし、新政府軍とは対立した。また、東北の諸藩も、会津を支援した。江戸をおさえた新政府軍は北上し、会津藩の城を次々と落としていき平定していった。 会津の戦いでは、16歳~17歳の会津藩士の若い少年兵からなる白虎隊(びゃっこたい)が、会津藩が戦いにやぶれ、城下に火が上がるのを見て、自決した。 旧幕府軍は、会津の他にもいたので、新政府軍は、さらに北上し、新政府軍は1869年に北海道の函館(はこだて)の五稜郭(ごりょうかく)にたてこもった幕府軍をやぶり、榎本武明(えのもと たけあき)らのひきいる旧幕府軍は負けをみとめ降伏(こうふく)した。この江戸の北上から五稜郭までの一連の戦争を戊辰戦争(ぼしんせんそう)という。 戊辰戦争が終わり、新政府軍は日本国内を平定した。
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戊辰戦争のころ、新政府は大名などに対して政治の方針をしめすため、五箇条の御誓文(ごかじょう の ごせいもん)を、明治天皇(めいじてんのう)より出させた。 内容は、現代風に訳すと・・・ 五箇条の御誓文(抜粋) このように、あたらしい日本の政治では、なるべく日本国民みんなで政治を行おう、という政治を行う方針であることを、大名などに示した(しめした)。 庶民に向けては五榜の掲示(ごぼうのけいじ)を出したが、内容はキリスト教を禁止したり、一揆を禁止したりと、江戸時代と変わらない内容であった。キリスト教の禁止については、外国からの反発により、1873年には解禁になった。 五榜の掲示の原文は、長いので原文紹介は省略する。 1868年、新政府は「江戸」(えど)の地名を「東京」(とうきょう)に改めた。年号を「明治」(めいじ)に、あらためた。1869年に、新政府は東京を首都にした。明治天皇は京都から東京にうつった。 年号が明治の時代を明治時代(めいじ じだい)という。 幕末から明治時代はじめごろに行われる一連の改革を明治維新(めいじ いしん)という。 江戸幕府が無くなったあとも、藩の領地は大名がおさめつづけていた。新政府は1869年に、大名のおさめていた藩の領地を国の領地にさせた。これを版籍奉還(はんせきほうかん)という。 1871年には、明治政府は、藩をやめさせて、かわりに県・府をおきました。府知事(ふちじ)や県令(けんれい)には政府の任命した人間がつきました。 これを廃藩置県(はいはん ちけん)と言います。 江戸時代の身分制度はなくなり、農民や町民は平民になりました。平民は、江戸時代とは違い、職業や済む場所は変われるようになりました。苗字を平民も持てるようになりました。 武士は士族(しぞく)と変わりました。公家と大名は華族(かぞく)となりました。 また、えた・ひにん〈非人〉などの差別をされていた人たちも平民としてあつかう、解放令(かいほうれい)が出された。このように、身分の差が小さくなっていったことを四民平等(しみんびょうどう)という。 武士は、江戸時代に持っていた特権を失いました。 1871年に、不平等条約の改正の交渉のため、岩倉具視(いわくら ともみ)を大使(たいし)とした使節団が欧米に送られた。( 岩倉使節団(いわくらしせつだん) ) 使節団には木戸孝允(きどたかよし)・大久保利通(おおくぼ としみち)・伊藤博文(いとう ひろぶみ)などの政府の首脳たちも、使節団として同行した。 しかし、条約改正は出来なかった。欧米は、日本の法律が不十分なことや、日本の国力が弱いことなどを口実に、日本からの条約改正の要求には応じなかった。 かわりに使節団は、同行した留学生らと共に、欧米の政治などの制度を視察・調査したり、文化などを見学したり、工場などを視察してから、日本に帰国した。 政府の首脳たちが直接に欧米を視察して、日本政府は欧米の国力を知ることになった。
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政府は、欧米の軍制に習った改革として、1873年(明治6年)に徴兵令(ちょうへいれい)を出し、満20才以上の男子に、3年の間、兵士になる兵役(へいえき)の義務を課した。この徴兵制は、江戸時代の武士だけに軍事が独占されていた時代とちがい、徴兵制では農村などの平民にも兵役の義務がかされ、士族・平民の区別なく徴兵をされた。 江戸時代は、武器を持てるのは武士だけの特権だった。このため、徴兵制によって軍事の特権のなくなった士族からは不満があった。また、農村などの平民からも、労働力をうばわれるので、農村からの不満があった。 ただし、徴兵制には、当初は免除規定がいくつかあって、一家の主(あるじ)や、長男や、徴兵のかわりに代金を払った者などは徴兵を免除された。だが、のちに免除規定は廃止され1889年には、ほぼ全ての20才以上男子が徴兵された。 江戸時代の税は米など農産物であり、農作物の不作・凶作などによって税の収入がへるので、政府にとっては不安定な制度であった。 このため、政府は税の制度をあらため、地主に現金で税をおさめさせるようにしました。この改革を地租改正(ちそ かいせい)といい、1873年から行われました。 土地にかかる税の金額は、土地の値段の3%と決められ、この地価の3%を土地の税である「地租」(ちそ)として地主が現金ではらう制度になりました。土地の値段を「地価」(ちか)と言います。つまり、地主のおさめる地租(ちそ)の金額は、地価(ちか)の3%の金額になりました。 この制度の前提として、土地を個人が所有できるように、土地の制度が、すでに改正されていました。また、農地に、何を作付けするかは、農地の所有者の自由になっていました。 この改正の結果、地域によっては税の負担が増えた地域もあり、一揆が起きた地域もあった。のちの1877年には地租の税率(ぜいりつ)が引き下げられ、3%から2.5%へと税率が引き下げられました。 1872年(明治5年)に、義務教育をすべての児童に受けさせる目的のため、学制(がくせい)を公布した。学制の内容は、6才以上の男女に義務教育を受けさせるという内容であった。 しかし、学校の建設費の負担や授業料の負担は地元の人に負わされ、負担が大きいので反発があり、また当時の子供は働き手であったので労働力を取られることからも反発があった。 このような理由で就学率(しゅうがくりつ)は低く、実際に学校に通ったのは、一部の子であった。 (就学率とは、学校に通っている者の割合のこと。) 明治のはじめは就学率が低かったものの、明治の終わりごろには就学率は高くなり、ほぼ100%の就学率になっていった。 義務教育の制度は、欧米を手本にした制度であり、主にフランスを手本にしている。フランスの制度が、日本にあわない部分もあったので、のちにアメリカの教育制度を取り入れた教育令(きょういくれい)を1879年に出した。 フランスでの義務教育の始めの歴史について言えば、フランス革命が1789年に起きたことが、義務教育のきっかけであった。革命によって民主化したフランスは、周辺国の民主化していない国からは危険な国と思われており対立していた。フランスはドイツなどの周辺国と戦うために、軍を発展させる必要があり、そのためには工業の発展や、国民の教育が必要であった。 工業を発展させるにも教育を受けた学力の高い労働者が多く必要である。また、軍隊を近代化させるにも、もしも兵士が読み書きをできないと、軍の近代化が出来ない。 このようにして教育を受けたフランスの軍はとても強く、また国家に対する忠誠心も高かった。周辺の国の兵士は領主や国王のための戦争をさせられていたが、いっぽうのフランス兵は自らの国を守るために戦争に行った。フランスと戦争をした周辺国のドイツなどは、勇敢(ゆうかん)なフランス軍に苦戦をした。 フランス以外の国にも以前から教育制度はあったが、戦争でのフランスの強さを知り、周辺のヨーロッパ諸国の教育でもフランスを手本に教育を改革していった。 明治政府の指導者たちは、このような教育の歴史を知っており、日本の近代化のため、フランスを手本にしたのであろう。 学校の教科に関して言えば、理科が教えられるようになった。『小学人身窮理』(しょうがく じんしん きゅうり)などの教科書が使われた。(江戸時代の子供への教育は「読み・書き・そろばん」だった。)「窮理」(きゅうり)とは自然法則を学ぼう、という意味である。 また、算数の教育が始まり、漢数字をもちいていた和算にかわり、現在の小学校の算数でならうようなアラビア数字をもちいた洋算(ようさん)が始まった。『筆算題叢』(ひっさんだいそう)などの教科書が使われた。 外国の歴史や地理についても教えられるようになり、ヨーロッパの歴史や地理についても教え始め、教科書として『万国地誌略』(ばんこくちしりゃく)や『万国史略』(ばんこくしりゃく)などの教科書が作られ始めた。 図画などの美術などの教育も始まり、『小学普通画学本』(しょうがっこう つうがどくほん)が使われた。 体育や家庭科などの教科も作られ、それらの教科書が作られた。 政府は、産業についても近代化を図るため、関所や株仲間を廃止し、自由な経済活動を促した。そして、欧米の先進国から招いたお雇い外国人らの指導のもとで、西洋の知識や技術を取り入れ、近代産業の育成を目指した。この政策を殖産興業という。 政府は、幕府や諸藩が持っていた造船場・鉱山などを政府のもとに移し、新たに富岡製糸場などの官営模範工場を開設した。また、博覧会を開催して、産業技術の普及に努めた。 交通では、1872年(明治5)年、新橋・横浜間に初めて鉄道が開通し、その数年後には神戸・京都間にも開通した。政府は、港や道路を建設し、海運会社に補助金を支給するなど、交通網の整備を図った。通信では、飛脚に代わる郵便制度が、前島密の立案で1871年に始まったほか、国内各地が電信で結ばれた。こうした整備によって、人や物資の輸送、情報の伝達が便利になり、全国的な交流も活発になっていった。
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明治のはじめごろ、政府はちょんまげをやめてもよいという許可を人々に出し、散髪脱刀令(さんぱつだっとう)を1871年に出した。:「ざんぎり頭を たたいてみれば 文明開化の音がする」などと、ちまたで言われていた。 また、1876年には、刀を持ち歩くのをやめさせるように廃刀令(はいとうれい)が出された。 東京や横浜、大阪などの大きな町には、ガス灯がつきはじめた。牛肉や豚肉などをたべる習慣がでてきて、牛なべ などが食べられる牛肉屋や洋食屋が出てきた。江戸時代は、仏教の関係で牛や豚などの4本足の動物の肉を食べるのが禁止されていた。 いっぽう、地方の村のようすは、江戸時代と、さほど変わらない様子だった。 中江兆民(なかえ ちょうみん)や植木枝盛(うえき えもり)などが、フランスなど欧米の人権思想を紹介し、運動に影響を与えた。 また、福沢諭吉の「学問のすゝめ」(がくもんのすすめ)による、自立をすすめる主張が、青年の考えに影響を与えた。 活版印刷(かっぱん いんさつ)の普及もあり、新聞や雑誌などの出版物が広まり、これらの新しい思想もそれらの出版物をとおして普及していった。 宗教では神道(しんとう)を重んじる政策が取られました。そのため、1868年に神仏分離令(しんぶつ ぶんりれい)が出されました。これがきっかけになって、日本全国にわたって仏教寺院や仏像などが破壊される運動がおきる混乱になりました。このように明治初期に仏教が破壊された混乱のことを「廃仏毀釈」(はいぶつ きしゃく)といいます。(「廃仏毀釈」の漢字は、教科書レベルでは覚えなくて良い。しかし常識的な歴史知識なので、出来事じたいは覚えておくように。) また、キリスト教の信仰が、日本でも明治時代に合法化された。 西洋の学問(洋学)を学習する熱が高まっていき、それに応ずる思想も現れた。 福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)は『学問のすすめ』で、国を発展させるには、国民の一人ひとりが自分の頭で物事の善悪などを考えられるようになる必要があることを説き、 と、主張した。 また、物事をきちんと考えられるようになるためには、きちんとした内容の本などを読み、学問をするのが良いことを述べた。 福沢諭吉(ふくざわ ゆきち)は『学問のすすめ』を出版し、勉強をしないと、単純な仕事しかできないので地位のひくい仕事にしかつけずに貧しい生活しか出来なくなる、というふうなことを福沢は説いた。 まず、福沢は『学問のすすめ』の出だし(でだし)の冒頭(ぼうとう)の文では、 という文があり、 人は生まれながらにして平等である、という内容である、アメリカ合衆国の建国(けんこく)した当時の独立宣言(どくりつせんげん)の内容を紹介した。 そのうえで、現実の社会は、理想とはちがって不平等であることを福沢は説明した。 冒頭文のしばらくあとには、きびしい現実を紹介した説明が続いている。現代語に訳して紹介すると、 福沢は民主主義(みんしゅしゅぎ)を紹介し、そのゆえ、政府の能力の高さは国民の能力の高さによって決まると説き、そのため国民は学問を学んで自らの知識を高めなければならない、と説いた。 もし、国民が馬鹿だったら、民主主義の国では政府も馬鹿になってしまう、と福沢は説き、これからの時代は、政治が悪くなっても政治家だけの無能(むのう)ではなく、国民にも学問をしなかったという無能の責任がある、と注意をした。 そして福沢は、『学問のすすめ』や、他の本などで、実学や、算数や理科や地理学などの大切さをとなえた。 いっぽうで古文や漢文などの文学だけを学問とみなそうとする態度の学者を、福沢は批判した。 学問は、なるべく世の中の役に立てるべきである、というふうなことを、福沢は説いた。
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日本は開国したが、隣国の朝鮮は開国した日本を、欧米の圧力(あつりょく)に負けた格下(かくした)の国の日本とみなし、日本との国交を朝鮮は中止した。 日本の政府の中には、アジアの近代化のためには、日本の軍事力を背景にして強引(ごういん)にでも朝鮮を開国させるべき、という征韓論(せいかんろん)という考えがあり、板垣退助(いたがき たいすけ)や江藤新平(えとう しんぺい)や西郷隆盛(さいごう たかもり)が征韓論を主張していた。 また西郷隆盛(さいごう たかもり)が、みずからが交渉役となって、朝鮮と平和に交渉をすることを西郷は提案していた。 欧米の視察から帰国した大久保利通は、朝鮮の早急な開国には反対し、交渉が失敗した場合の日本の安全を考え、早急な朝鮮の開国を目指している西郷や板垣の提案に、大久保利通など政府メンバーの多くは反対した。 大久保の考えは、対外政策をいそぐよりも、まずは国内の近代化をすすめ国力をたくわえるべき、というような考えであった。 このような経緯から、板垣と西郷と江藤は、政府を去った。 伊藤博文(いとう ひろぶみ)は、征韓論を支持してなかったと考えられている(東京書籍などの教科書でも、その見解)。現代の世間では、明治時代の後半に伊藤が韓国統監(とうかん)に就任したイメージから、ついつい伊藤が征韓論を支持していたかのような珍説が、ネット上などにあるが、しかしそのような言説(伊藤が征韓論を支持してた?という珍説)は事実無根の言説なので、けっして信用しないように。 上述のように、むしろ伊藤博文・大隈重信(おおくま しげのぶ)・木戸孝允(きど たかよし)・岩倉具視(いわくら ともみ)は、大久保の主張のような内政優先の路線を支持していただろう、と考えられており、(現代日本の東京書籍などの)検定教科書も その見解である。 また、板垣退助について現代人は、自由民権運動などのイメージから、ついつい、現代日本の政治での「リベラル派」などの主張する外交路線の 韓国や北朝鮮との友好重視路線のイメージを かさねがち であり、てっきり、板垣退助が韓国に友好的かというイメージ(もちろん、まちがったイメージである )を いだきがち かもしれない。しかし、むしろ板垣は、征韓論を主張していた中心的人物である。 現代人の このような勘違い(「板垣は征韓論を主張しないはずだ」的な勘違い)の原因のひとつは、おそらく「民主主義者は平和主義」であるという勘違いが原因であり、「戦争を起こすのは、民主的でない人物が政治家だからだ」という勘違いである。しかし、アヘン戦争を起こしたイギリスが議会制民主主義の国であることからもわかるように、「民主主義者は平和主義」という思想は、勘違いでしかない。 いっぽう、西郷が政府をさったのと同じころ、士族の間では政府の対して不満が高まっていた。さまざまな改革により武士の特権が剥奪されていったからである。 1874年ごろから九州の各地で、士族による反乱が起きた。1874年に江藤心平らが佐賀で反乱をおこしたが、政府軍によって、鎮圧(ちんあつ)された。江藤は死刑になった。 ほかにも、反乱がおき、このような不平士族たちの指導者として、西郷隆盛がかつぎだされた。西郷も、その不平士族とともに、1877年に大規模な反乱が鹿児島で起きた。この鹿児島での西郷ひきいる反乱が西南戦争(せいなんせんそう)である。 だが、政府軍が勝ち、西郷たち反乱軍は負けた。 西南戦争の以降、士族の反乱は、なくなった。 1871年に日本は清国と条約を結び、日清修好条規(にっしん しゅうこうじょうき)がむすばれた。 5年後の1876年には朝鮮との国交の条約である日朝修好条規(にっちょう しゅうこうじょうき)がむすばれた。 この条約によって、日本と朝鮮との貿易も始まった。日朝修好条規の内容は朝鮮にとって不利な条約であり、朝鮮にとっての不平等条約であった。 日本の軍事力を背景に不平等な条約を朝鮮におしつけた条約であった。また、この条約で、日本は朝鮮を独立国として見なすことになった。当時の朝鮮は、清国に朝貢をしていた清の属国であったが、日本は今後は朝鮮を清の属国としてではなく、朝鮮を独立国としてみなして、朝鮮と交渉していくことになった。 このため、朝鮮を属国とみなしていた清国とは、しだいに日本は対立をしていった。 この条約の前年1875年に、日本の軍艦が朝鮮から砲撃を受けた事件である江華島事件(こうかとう じけん)があり、この事件の原因は朝鮮の近くで無断で測量を行った日本に落ち度があったが、日本はこの事件の被害をもとに交渉を有利にすすめた。 (覚えなくてもいい。) 日本との条約が不平等であったものの、朝鮮も改革の必要性はみとめており、朝鮮の軍の改革のため、日本からの支援を受けた。 だが朝鮮の改革は軍事の改革にとどまり、朝鮮政府は議会など民主的な改革はしなかった。 それから、朝鮮の政府では、日本を手本にして朝鮮も民主的な改革をしていこうという派閥の独立党(どくりつとう)と、清との関係を維持するために改革に反対する事大党(じだいとう)とが、対立しました。 1882年には改革に反対する守旧派の軍人らによる暴動がおきました。 1884年には改革派の政治家である金玉均(キム・オッキュン、きん・ぎょくきん)によって、改革をすすめようとしない政権をうばおうとする事件の甲申事変(こうしんじへん)がおきましたが、失敗しました。清の軍隊により鎮圧され、金玉均の事変は失敗しました。 それまでの政権は、王妃(おうひ)である閔氏(びんし)が、政権をにぎっていたのです。 そして、金玉均が失敗したのですから、つまり閔氏が勝ったことになります。 当時の清の軍の兵器は、ヨーロッパから銃器などの兵器を買っており、清は軍事力の強い国だった。日本政府は清との戦争をおそれ、金玉均をあまり支援しなかったのです。 これらの事件が、清の軍隊により鎮圧されたことで、朝鮮での日本の影響力は弱まりました。 甲申事変に失敗した金玉均は、日本に逃げ、福沢諭吉などから支援を受けます。 日本では、民主化をしようとしない朝鮮や、その朝鮮を支援しようとする清に対して、民主化をしようとしない周辺国を見捨てるべきという考えが日本で広まり、新聞に書かれた論説の『脱亜論』(だつあろん)が広まった。 金玉均は、のちに政治活動のため清の上海(シャンハイ)に出かけたときに、朝鮮政府から送られた暗殺者の洪鐘宇(ホン・ジョンウ)によってピストルで撃たれて、金玉均は暗殺された。 金玉均の死体は、朝鮮の漢城(かんじょう)でさらしものにされ、日本人の民衆の怒りをかった。 日本は、欧米の近代的な国際関係を模倣として、国境を定めようとしました。 幕末の1855年にロシアと結んだ日露和親条約では、北方領土(歯舞群島、色丹島、国後島、択捉島)が明確に日本固有の領土とされ、千島列島がロシア領とされた一方、樺太については、どちらの領土であるか明確に定められませんでした。 そのため、明治政府は、1875年(明治8年)にロシアとの間で、樺太・千島交換条約を締結し、樺太はロシア領とする代わりに、千島列島を日本領としました。 翌年の1876年(明治9年)、日本政府は、小笠原列島は日本領であると宣言し、国際的社会は、日本の小笠原所有を認めました。こうして小笠原諸島は、日本の領土になりました。 1895年に、清をはじめとするどこの国の支配も及んでいないか慎重に確認した上で当時は無人島だった尖閣諸島を日本領に編入することを閣議決定しました。また、1905年には、遅くとも17世紀半ばごろには領有権を確立していた竹島を正式に日本領へ編入することを閣議決定しました。
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1869年(明治2年)に、政府は蝦夷地(えぞち)を「北海道」(ほっかいどう)と改めた。 また、開拓使(かいたくし)という役所を置いた。開拓史は官営工場の運営や、鉱山の開発などを行い、また北海道の開拓のため、日本各地から移住者をつのって、北海道に移住させた。 北海道の開発に伴い、先住民のアイヌは従来の土地を失った。また、政府はアイヌに対して同化政策を行い、アイヌの風習の多くは否定されていった。アイヌの人びとは、日本語の使用や、日本風の姓名を名乗ることを義務づけられました。 北海道での農地の開墾・開拓のついでに防備の仕事をする屯田兵(とんでんへい)として、士族を北海道に移住させた。 札幌農学校(さっぽろ のうがっこう、今の北海道大学)を設立し、(いわゆる「お雇い外国人」の)クラークの指導の下、北海道の農業にアメリカ式の農業を取り入れた。しかし、北海道以外では、アメリカ式の農法は、あまり取り入れられなかった。 樺太については、 1875年にロシアとの間で、樺太・千島交換条約(からふと・ちしま こうかんじょうやく)が結ばれ、樺太はロシア領と決定し、千島は日本領と決定した。 1899年、政府は、アイヌの生活などを保護する名目で、「北海道旧土人保護法」(ほっかいどう きゅうどじん ほごほう)(※ 法律名)を制定した。(※ 注意: 旧来の「土人保護法」ではなく、「旧土人」(アイヌのこと)の「保護法」のこと。) そして政府は、農業を希望するアイヌ人に、農地を与えた(※ 参考文献: 清水書院、自由社など)。また、契約に不慣れなアイヌ人を守るために、相続以外の土地の取引を、この法律(北海道旧土人保護法)で禁止した(※ 参考文献: 東京書籍のコラムの欄外の表、自由社など)。 また、アイヌの人々だけが通う学校もできた。 第二次大戦後、日本全体の社会保障や福祉政策が整備され、農地改革などにより(※ 自由社の教科書)、アイヌに対する特別な施策は行われなくなった(※ 参考文献: 東京書籍、自由社など)。 1997年、アイヌ文化振興法が制定された。アイヌ語やアイヌ舞踊の伝統が振興されることとなった。また、アイヌ文化振興法の制定にともない、北海道旧土人保護法は廃止された。 2008年、日本の衆参両議院で、「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が全会一致(ぜんかいいっち)で採択(さいたく)された。 ネットなどをみると、しばしば、「明治時代、アイヌ語が禁止された」という俗説がある。 しかし、それを裏付けるような「アイヌ語禁止令」みたいなものの存在は知られていない。 もちろん明治時代、一般のアイヌの子供には日本語の学習は強制されました。(なお、そもそも伝統的なアイヌ語に文字が無い。「アイヌ文字」と言うのは無い。) むしろ、明治時代になると、和人の言語学者がアイヌ語を研究対象にし始めます。金田一京助(言語学者)などのアイヌ語研究も有名です。w:金田一京助 現代では、一部の人権団体・公共団体みたいな組織や、書籍などを出している評論家が、「アイヌ語禁止令」とか著作内で言ってたりしますが、しかしその禁止令は歴史学的には知られていません。 なお、歴史文書などで確認されている、同化政策によりアイヌが禁止された出来事は、 などです。(※ 検定落ちだが、自由社(教科書出版社)の検定不合格本が、女性の入れ墨禁止令、男性の耳輪、酋長の妾の制限、などに触れている。)自由社だ けでなく、日本学術会議の論文 『報告 アイヌ政策のあり方と国民的理解』、3ページ目などにも同様の、アイヌの風習の禁止令の記載がある。 アイヌ語の衰退について、近年の研究によると、じつはアイヌ語が急速に衰退した時期は、大正・昭和戦前の時代から、らしいという学説もある。明治時代は、学校では教えられないものの、北海道のアイヌ社会ではアイヌ語が存続していたらしい。(※ 参考文献: ネット上のPDF論文: 『アイヌ民族の文化復興と教育に関する研究 言語復興と歴史教育におけるエンパワーメント』40ページ目。リンクすると何故かwikiがエラーになるので、非リンク。) どうやら結局のところ、少数民族の言語というのは、単にその言語を話す権利を与えるだけでは不十分のようである。少数民族の文化は、積極的に保護をしないと、少数民族の言語は経済的な事情などにより急速に淘汰されてしまい消失してしまいやすい、という、歴史的にたびたび見られる現象のようである。 たとえば経済政策において、自由放任が必ずしも労働者の保護につながらないので適切な規制が必要な場合もあるように、どうやらアイヌ語も明治政府~昭和の過剰な自由放任によって、アイヌ語が衰退してしまったような側面もあるようである。 似たような事は、少数民族といった異民族の文化だけにかぎらず、一国内の一つの民族内の少数派の文化でも、少数派の文化は経済的な事情により淘汰されてしまい衰退・消失・途絶などをしてしまう現象は、よく起きる現象である。(※ 参考 『アイヌ語の衰退と復興に関する一考察』) 1871年に、清と日本国との間で、日清修好条規(にっしん しゅうこうじょうき)が結ばれ、国交が開かれた。 琉球(りゅうきゅう)は、江戸時代には薩摩藩に事実上は支配されていた。しかし、形式的には、琉球は清にも朝貢する外交を行っていた。 このため、琉球や台湾の所属の問題で、日本政府は清と、たびたび対立していた。 廃藩置県(1871年)のあと、1872年に政府は琉球藩(りゅうきゅうはん)を置いた。廃藩置県の方針に従い、1879年に琉球の藩を廃止し、沖縄県を設置した。これを琉球処分(りゅうきゅうしょぶん)という。 学校教育をすぐに導入したが、租税制度などの行政はすぐには変えなかった。 1895年には尖閣諸島(せんかくしょとう)も日本領として編入することを閣議決定しました。 1876年ごろ、日本政府は、小笠原列島は日本領であると宣言し、。国際的社会は、日本の小笠原所有を認めたので、日本領となりました。 1905年、島根県の竹島(たけしま)も正式に日本領へ編入することを閣議決定しました。
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いっぽう、征韓論にやぶれて政府を去っていた板垣退助(いたがき たいすけ)らは、西南戦争の前から、言論活動によって、政府への批判を主張した。 1874年に、板垣は、政府に対しての求めで、選挙で選ばれた政治家による政治をおこなう民撰[1]議院(みんせんぎいん)を、すぐに設立するように求め、民撰議院設立の建白書(みんせんぎいんせつりつ の けんぱくしょ)を政府に提出しました。 当時の日本の政治には、まだ選挙の制度が無かったので、薩摩藩や長州藩の出身者など明治維新に影響力のあった藩の出身者たちから成りたつ、少数の政治家によって政治が決まっていた藩閥政治(はんばつ せいじ)だったのです。 この民撰議院の設立の要求のように、国民が政治に参加できる社会をもとめる運動を自由民権運動と言います。自由民権運動は、はじめのうちは不平士族を中心とした運動だったが、しだいに農民や商工業者などにも支持をされていきます。 などいいう歌詞の歌が流行った。俳優の川上音二郎(かわかみ おとじろう)が歌ったことで有名になった。 このような、演説に節(ふし)をつけた歌のことを演歌(えんか)という。 1880年(明治13年)に、各地の自由民権運動の代表が大阪に集まり、国会期成同盟(こっかい きせい どうめい)を作り、署名を集めて、政府に対して国会開設を要求した。 しかし、1881年のときには、まだ、国会を開くために必要になる、憲法(けんぽう)などの法律がありませんでした。憲法とは、その国の法律をつくるさいの基本となる考え方を定めたり、法律をつくるときの決まりごとや、国会の決まりごとなどを定めた法律です。 国会の決まり事をきめた法律すら出来ていないので、まだ民撰議院を開くことは出来ません。 国会の開設の時期や憲法の方針をめぐって、政府では意見が分かれ、大隈重信と岩倉具視(いわくらともみ)の意見が対立した。岩倉は、ドイツにならった憲法を時間をかけて作ろうとした。いっぽう、大隈重信は、イギリスにならった憲法をつくるべきと主張し、ただちに国会を開くべきだと主張した。 1881年に政府が北海道開拓使の施設を安く商社に払い下げようとしたことが、新聞で問題になった。政府は払い下げを中止した。 そして1881年、北海道の開拓使の施設を関係者に安く払い下げようとする事件が起きると、民権派による政府への批判が強くなり、政府はこの民権派の動きに大隈が協力したとして、大隈を政府から追い出し、10年以内に国会を開くことを国民に約束しました( 国会設立の詔(こっかいせつりつ の みことのり) )。(実際に、10年後の1890年に国会が開かれます。数え年での10年後なので、1881年の10年後が1890年になる。) この1890年の国会の開設にそなえて、政府は、議会制度に必要になる憲法(けんぽう、英語:Constitution コンスティチューション)を作りました。 そして、板垣退助は自由党を結成し、一方、政府から追放されていた大隈重信は立憲改進党(りっけん かいしんとう)を結成した。 政府とは別に、民間で将来の憲法の提案が色々と考えられました。これを私擬憲法といいます。有名なものに以下のものがあります。 五日市憲法は、東京の五日市町(いつかいち ちょう)(※ 現在の あきる野市(あきるのし) )で発見された憲法案です。 内容の一部を現代語訳すると、 このように、五日市憲法案には、検閲の禁止や、言論の自由もあり、いまの日本国憲法に近い内容の条文も多い。 明治時代の日本国の憲法を、大日本帝国憲法(だいにっぽんていこく けんぽう)と言います。また、この憲法のあとのころから、日本の国名は「日本」のほかに「大日本帝国」(だいにっぽんていこく、だいにほんていこく)という言い方もされるようになりました。 明治政府は、ヨーロッパの憲法を調べさせるため、伊藤博文(いとう ひろぶみ)らをヨーロッパに派遣しました。伊藤らは、イギリスの法学者であるスペンサーやドイツの法律学者であるグナイストから憲法学を学び、またオーストリアの法律学者のシュタインから憲法学のほか軍事学や教育学などさまざまな学問を学びました。 スペンサー(イギリスの法学者のひとり)などは、もし日本が憲法をつくるなら、欧米の憲法の文章をまねるだけではダメであり、日本の国の歴史や文化にあっている憲法を考えて作るべき必要があるということを教えました。また、伊藤は、シュタインから憲法を学んだほか、軍事学や教育学、はたまた統計学や衛生学など、さまざまな学問を学びました。 そして帰国後、伊藤はドイツ(プロイセン)を中心にさまざまな国の憲法を手本にして、 大日本帝国憲法を作りました。 また、伊藤の帰国後の1885年(明治18年)に、立憲制の開始にそなえて内閣制度がつくられ、伊藤は初代の内閣総理大臣になった。 伊藤は、日本の憲法の天皇についての条文は、ドイツが日本と同じように皇帝をもっているので、ドイツの憲法を手本にするのが良いだろう、と考えたようです。 大日本帝国憲法(だいにっぽんていこく けんぽう)は1889年に明治天皇から国民に発布[2](はっぷ)されます。 大日本帝国憲法(抜粋) 現在(21世紀)の日本と比べると、大日本帝国憲法は国民にとっては制限の有る項目が多いものの、大日本帝国憲法は、アジアの国では初めての本格的な憲法となった。当時の日本からすると、大日本帝国憲法は民主的に進歩した憲法だった。 そして、明治の日本は憲法を持ち憲法に基づいた議会政治を行う、アジアでは初めての立憲国家(りっけんこっか)となった。 新憲法は翻訳されて、世界各国に通告された。 大日本帝国憲法の内容では、まず、天皇が日本を統治すると定められた。そして実際の政治は、大臣(だいじん)が行うとされた。 つまり、日本を統治するのは、藩閥でも華族でもなく、天皇であるということである。ただし、天皇の独裁ではなく、内閣の助言をもとに天皇が政治を行うとした。また、予算や法案の成立には、議会の同意が必要だった。このように、大日本帝国憲法の成立を期に、日本は事実上の立憲君主制(りっけん くんしゅせい)となった。 司法・立法・行政などの最終的な決定権は、天皇が持つ事になった。 外交や軍事の、最終的な決定権は天皇がにぎる事とされた。憲法では、軍隊は天皇が統率するものとされた。宣戦や講和も天皇の権限になった。 つまり、政治家が勝手に戦争を初めたり講和したりするのを禁止している。 (このように軍隊を統率する権限を 統帥権と言います。天皇が統帥権(とうすいけん)を持っています。) 外国と条約をむすぶのも、天皇の権限である。 国民は、天皇の「臣民」(しんみん)とされた。 国民の権利は、法律の範囲内という条件つきで、言論の自由や結社・集会の自由、心境の自由などの権利が保証された。ただし、現在(西暦2014年に記述)の日本の権利と比べると、当時の権利は国民にとって制限の多いものであった。 国民には兵役(へいえき)の義務があることが憲法にふくまれていた。 なお、右の図中にもある「枢密院」(すうみついん)とは、有力な政治家をあつめて、天皇の相談にこたえる機関である。 憲法発布の翌年1890年には、国会での議員を選ぶための総選挙が行われた。つづいて国会である帝国議会(ていこくぎかい)が同1890年に開かれた。(第1回帝国議会) 議会の議院(ぎいん)は衆議院(しゅうぎいん)と貴族院(きぞくいん)との2つの議院からなる二院制(にいんせい)であった。 この1890年のときの選挙で選ばれたのは 衆議院の議員のみ、である。一方の貴族院では議員は、皇族や華族などの有力者から天皇が議員を任命しました。 衆議院の立候補者に投票できる権利である選挙権(せんきょけん)は、国税の高額な納税(年間15円以上。)が必要で、満25才以上の男子に選挙権が限られた。実際に選挙に参加出来たのは全人口の約1.1%ほど(約45万人)に過ぎなかった。その後、普通選挙の実施を目指して、大正デモクラシーなどを通じて人々は努力していくことなる。 また、第一回帝国議会の衆議院総選挙での、政党ごとの議席の割合では、自由民権運動の流れをくむ政党が多くの議席を獲得しました。 1891年、ロシアの皇太子のニコライ2世(ロシア語: Николай II, ラテン文字表記: Nicholai II)が日本を訪問し、日本政府はニコライを接待していた。 皇太子ニコライが滋賀県の大津町(現 大津市)を訪問中に、警備の仕事だったはずの日本人の巡査の一人に切りつけられるという事件が起きた。犯人は、その場で取り押さえられ、捕まった。 この事件で、日本の政府はロシアの報復をおそれて、裁判所に犯人を死刑にするように要求した。 しかし、当時の最高裁判所である大審院の院長である児島惟謙は、日本の刑法の法律にもとづくと、この場合は死刑は不可能であり、無期懲役にするべきと主張とした。 日本の新聞などの世論は、これに注目した。日本だけでなく、欧米も、この事件の判決に関心をもった。もし、裁判所が死刑の判決を出せば、裁判所は政府のいうままで、場合によっては法律も曲げることがあることを示す。それは近代国家では決してあってはならないことである。しかし、犯人を死刑にしなければロシアとの戦争になるかもしれない。または多額の賠償金や領土を要求されるかもしれなかった。 結局、日本の裁判所は、法律にしたがって、犯人を無期懲役にすることに決まった。 憲法発布の翌年の1890年には教育勅語(きょういく ちょくご)が出された。教育勅語では、「忠君愛国」(ちゅうくんあいこく)の道徳が示され、また、親孝行などを中心とする道徳も示された。 憲法の交付に続いて、刑法(けいほう)・民法(みんぽう)・商法(しょうほう)などの法律も公布されていった。民法での家の制度は、父親や長男などの家長(かちょう)・戸主(こしゅ)の権限が強く、実質的には江戸時代での家の制度と、あまり変わらなかった。一夫一妻制が制度化されたことにより、女性の地位は安定したが、あいかわらず女性の地位は低かった。 同じころ、地方制度も整備され、市制・町村制などが定められた。知事や市長を任命するのは、政府によって任命された。
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明治のはじめごろ、政府はちょんまげをやめてもよいという許可を人々に出し、散髪脱刀例(さんぱつだっとう)を1871年に出した。:「ざんぎり頭を たたいてみれば 文明開化の音がする」などと、ちまたで言われていた。 また、1876年には、刀を持ち歩くのをやめさせるように廃刀令(はいとうれい)が出された。 東京や横浜、大阪などの大きな町には、ガス灯がつきはじめ、レンガづくりの洋館(ようかん)がつくられるようになった。牛肉や豚肉などをたべる習慣がでてきて、牛肉屋や洋食屋が出てきた。なお江戸時代は、仏教の関係で牛や豚などの4本足の動物の肉を食べるのが禁止されていた。洋服を着る人も、でてきた。 馬車や人力車も、でてきた。 このような明治初期の社会の変化のことを「文明開化」(ぶんめい かいか)という。 いっぽう、地方の村のようすは、江戸時代と、さほど変わらない様子だった。 飛脚に変わり、1871年に郵便制度が出来た。前島密(まえじまひそか)らによって、郵便の制度が、ととのえられた。数年後には、全国一律の料金制度ができた。 1872年には、新橋(しんばし)・横浜(よこはま)間に、日本で最初の鉄道が開通した。 活版印刷の技術は幕末の頃より輸入されていた。明治になって、出版活動がさかんになった。 1870年には、日本で新聞(しんぶん)が最初に出始め、日刊(にっかん)の「横浜毎日新聞」(よこはままいにちしんぶん)が発行された。そのあと、次々とあたらしい新聞が発行されていった。 暦(こよみ)では、江戸までの太陰暦(たいいんれき)をやめて、明治からは太陽暦(たいようれき)に切りかわった。 1週間を7日にすることが決まり、1日が24時間と決まり、日曜日が休日と決まりました。 江戸時代の貨幣制度は複雑であったが、1871年(明治4年)に新しい貨幣が発行された。新しい貨幣の金額の単位は「円」(えん)、「銭」(せん)、「厘」(りん)である。 改革によって、株式会社の制度も認められた。 1873年には日本で初めての銀行も出来て(※ 「第一国立銀行」という銀行が出来た。なお、後述する「日本銀行」ではない。)、 また、1882年には中央銀行として日本銀行(にほん ぎんこう)が設置された。 渋沢栄一(しぶさわ えいいち)などの財界人が、これらの金融改革にも中心的になった。なお渋沢栄一は、富岡製糸場の建設にも協力している。 ※ 「第一国立銀行」については、中学範囲外なので、覚えなくて良い。 幕末のころから、貿易などによって欧米人が日本にやってくるようになると、病気も日本に持ち込まれてしまい、コレラなどの病気が、日本にも入ってきた。 明治10年には、1万4000人ほどの死者をだすほどに流行していた。 政府は対策のため、消毒や、上下水道などの整備などをした。
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欧米は産業革命などによって国力が高まり、軍事力も高まった。イギリスやフランス・アメリカなど、欧米の主要国は原材料や市場などを求めて、アジアやアフリカの侵略の競争に乗り出し、アジアやアフリカを植民地とした。 この時代の、植民地を獲得できるような強国のことを、「列強」(れっきょう)などと言います。 欧米の列強どうしは、植民地の獲得の競争によって、互いに対立していった。ときには植民地の獲得をめぐって、欧米の国どうしで戦争をする場合もあった。 このような、列強が植民地をめぐって争う時代や運動のことを、帝国主義(ていこくしゅぎ、imperialism [1])といいます。 また、ヨーロッパでは多くの国で、市民革命や産業革命などに伴う(ともなう)近代国家としての確立とともに、徴兵制を導入するようになっていったりして、そして各国で国民軍が設立されていきました。(※ 帝国書院の見解です。帝国書院の令和3年用デジタルパンフレットに記載あり。) スエズ運河をイギリスが入手。(スエズ運河の位置は、アラビア半島とアフリカの付け根。) イギリスはビルマ(現在のミャンマー)を支配した。 アメリカはハワイを併合した。ハワイは、もともとは「ハワイ王国」という独立国だったが、白人によるクーデターによって、ハワイ王国を侵略して併合した。 また、アメリカは東アジアではフィリピンをめぐるスペインとの戦争の米西戦争(べいせいせんそう)に1898年に勝ち、アメリカはフィリピンを獲得した。 ロシアはシベリア鉄道の建設を進めた。また、太平洋岸に軍港を建設し、その軍港をウラジオストクと名づけた。「ウラジ・オストク」とは、ロシア語で「東方(=オストク)を支配(=ウラジ)する」という意味である。 このようにロシアは南下政策(なんか せいさく)を取った。 イギリスはロシアの南下政策を警戒し、日本との条約改正の交渉に応じて、1894年に日英通商航海条約(にちえい つうしょう こうかい じょうやく)が結ばれる。理由はロシアの警戒。内容は治外法権の撤廃。(領事裁判権の撤廃) まだ日本の関税自主権は取り戻せていない。この条約改正の時期は、まだ日清戦争の前。この1894年のときの外相は陸奥宗光(むつ むねみつ)。 関税自主権の回復は、日露戦争後の1911年になる。 ドイツやイタリアは、産業革命が遅れたので、イギリスやフランスに遅れて、植民地の獲得競争に乗り出した。 このような帝国主義の列強の植民地獲得競争によって、世界の多くの地域は、欧米のいずれかの国の領土あるいは植民地となっていった。 日本は外交交渉を有利にしようと、井上馨(いのうえ かおる)らの主唱する欧化政策(おうか せいさく)の一つとして、1883年には、東京に、洋風の建物の鹿鳴館(ろくめいかん)を建て、欧米人もまねいて社交のための洋風のダンス・パーティーなども、日々、ひらいてみたが、まったく条約改正は進まず、鹿鳴館は失敗した。国民や自由民権派などからは、ぜいたくな物として反発された。 1886年には、和歌山県の沖合い(おきあい)の海上で、イギリス船のノルマントン号(ごう)が沈没する事件が起きた。このとき、イギリス人船長らイギリス人は、イギリス人の乗員だけをボートで助けて、日本人は助けなかった。日本人の乗客は、全員、死亡した。 この事件の裁判は、イギリス人の領事によって、日本国内で、おこなわれた。治外法権による領事裁判権にもとづき、イギリス人領事による裁判が、おこなわれたのである。 船長は軽い罪に問われただけで、日本人の多くは、これが日本への差別的な判決だと感じた。なお、船長は禁錮刑(きんこけい)3ヶ月になった。 この一連の事件をノルマントン号事件(ノルマントンごう じけん 、英語:Normanton Incident ノーマントン・インシデント)という。 この事件の判決をきっかけに、日本では、条約改正をしようという運動が強まっていったのであった。 そして、そのあと、1894年に、イギリスとの間で条約を改正し、1911年に各国とのあいだの日本の関税自主権の回復に成功したのである。
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朝鮮では、開国に伴う改革の負担などは、農民に押し付けられた。税は重税になり、農民は貧困になった。このような状況によって、朝鮮の政権や開国への不満が農民たちに高まり、大規模な反乱が1894年に起きた。 減税や、腐敗した役人の追放や、日本をふくむ外国の排除を求める反乱である、甲午農民戦争(こうご のうみん せんそう)が1894年に起きたのである。 この反乱を起こした農民たちの多くが、「東学」という宗教団体を信じていたので、この反乱を、東学党の乱(とうがくとうの らん)とも言う。キリスト教を「西学」(せいがく)としており、その西学に関して、東洋の伝統的な価値観を「東学」と、いっていた。 反乱は大規模であり、いっぽう朝鮮政府はわずかな兵力しか持っていなかったので、清に鎮圧のための軍の派遣をたのんだ。 日本も、事前の天津条約(てんしん じょうやく)による清との取り決めにしたがって、朝鮮半島に反乱鎮圧や居留民(きょりゅうみん)の保護などのための日本軍を出兵した。 1894年に起きた甲午農民戦争の反乱はすぐにおさまったが、日本・清の両国とも朝鮮から兵をひかなかった。 日本・清の両国とも、朝鮮での自国の影響力が弱まることをおそれたのである。 やがて両国は対立が深まっていき、同1894年に豊島(ブンド)沖で日本艦隊と清国艦隊が交戦したのをきっかけに、同1894年に日本は清に宣戦布告を行い、ついに日本と清との戦争が起きた。 こうして日清戦争(にっしんせんそう)が1894年に始まった。 日清戦争で争いあった国は日本と清であるが、両国が手にいれようとしたのは朝鮮半島の支配権であり、戦場になった場所も朝鮮半島およびその周辺の地域・海域である。 戦争は、日本の勝利で翌年1895年に終わった。 清は軍事力の高い強国だと思われていたのですが、戦争が始まってみると、陸戦でも海戦でも日本の勝利でした。 日清戦争の前の清は「眠れる獅子」(ねむれる しし)と諸外国から恐れられていました。獅子とはライオンのことです。 この日清戦争のあと、中国大陸では、清の民族(みんぞく)である満州族(まんしゅうぞく)に対する反発が、だんだんと強まっていきます。じつは、もともと、中国では満州族に対する不満が大きかったのです。清の王朝は、満州族の王朝でした。満州族が、漢民族(かんみんぞく)などのおさめていた中国を侵略してつくった王朝が清(しん)です。満州族は、漢民族を支配しました。 漢民族たちは、満州族の支配を、不満に感じていました。 満州族は、自分たちの風習を漢民族にも、むりやり、やらせました。たとえば満州族の男は、髪型が辮髪(べんぱつ)という、髪を一部を残して剃りあげ、残りの毛髪を伸ばして三編み(みつあみ)にし、後ろにたらした髪型なのですが、漢民族の男にも、これをやらせました。ほかにも、いろんなことで、漢民族は、満州族のやりかたに、したがわせられました。 なので、日清戦争は、民族で見れば、日本人と満州族との戦争です。 1895年、日清戦争の講和条約として、首相の伊藤博文や外務大臣の陸奥宗光を代表者として、下関条約(しものせきじょうやく)が日本と清とで結ばれた。内容は、以下の通り。 以上が、下関条約の主な内容である。 朝鮮が清の属国でなくなり、朝鮮が独立国となったこともあって、朝鮮は国名を「大韓帝国」(だいかん ていこく)に1897年に変更しました。朝鮮国王も皇帝を名乗った。 「大韓帝国」の3文字目が「帝」であることに注意してください。 これによって、古代から東アジアでつづいていた、中国を諸国の最高権力として周辺国を属国と見る朝貢体制(ちょうこう たいせい)は、完全に、くずれました。 また、台湾が日本領になった。第二次大戦で日本が戦争に負ける1945年(昭和20年)まで、台湾は日本領である。 日清戦争後の台湾の領有によって、日本が台湾の統治を行い、日本の投資や開発によって台湾の近代化は行われていく。 日本は、清からの多額の賠償金をもとに、産業開発の投資や軍備の増強を行った。八幡製鉄所(やはたせいてつじょ)は、このときに建設されたものである。 総額 約3億6千万円 のうち、 つまり、 以上、賠償金の使いみち。 ロシアは、日本の勢力が中国にのびることで、ロシアに日本の勢力が近づくことをおそれました。 ロシアは、ドイツとフランスと組んで、日本に遼東半島を清に返させる要求を出すように、日本に要求をだします。 この、ロシア・ドイツ・フランスによる、遼東(リャオトン)半島を清国へと返させる要求を、三国干渉(さんごく かんしょう、 英:Triple Intervention)と言います。 日本は、三国干渉の要求にしたがい、しかたなく清国に遼東半島を返します。 この三国干渉にかんして、日本国内ではロシアに対する反発から、「臥薪嘗胆」(がしん しょうたん)という言葉が流行した。「臥薪嘗胆」の意味は、復讐(ふくしゅう)のために、がまんすること、と言う意味である。 臥薪嘗胆とは、中国の古い故事(こじ)に由来する熟語(じゅくご)で、漢字の意味は、 薪(たきぎ)の上で寝ることの痛みで屈辱(くつじょく)を思い出し、(= 臥薪) にがい胆(きも)を嘗(な)めることで、屈辱を忘れないようにする(嘗胆)、ということである。 ロシアへの対抗心が当時の日本では盛り上がった。
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清(しん)が日清戦争に負けたことで、清が弱いことがヨーロッパに知られると、ヨーロッパは清に対して強気の交渉に出て、清から多くの利権を手に入れます。 清は、それまで「眠れる(ねむれる)獅子(しし)」とおそれられていましたが、日本に敗戦してからは、清は弱い国だと、欧米から見られるようになったのです。 やがて、ロシアが遼東半島を借りる権利を清から手に入れた。 イギリスやドイツ・フランスも、清から土地の権利などの利権を手に入れていきます。 このようなことから、清の民衆とのあいだに、ヨーロッパに対する反発感情が高まっていきます。 1899年には、義和団(ぎわだん)という宗教団体が欧米の勢力をしりぞけようとする暴動(ぼうどう)を起こします。この暴動を 義和団の乱(ぎわだん の らん) と言います。義和団は、「扶清滅洋」(ふしん めつよう)という言葉を、運動の標語にしていました。「扶清滅洋」の 意味は、「清朝をたすけて、西洋をほろぼせ」という意味です。 清の政府は、この乱を支援します。清国政府は、欧米に対して宣戦布告(せんせん ふこく)をします。 欧米は、日本をふくむ8カ国からなる連合軍を派遣し、義和団と清国軍と戦い、乱をしずめます。 なお、連合軍は、イギリス・ドイツ・ロシア・日本・アメリカ・フランス・イタリア・オーストリアの8カ国の軍隊からなります。「オーストリア」は、南半球に有る「オーストラリア」ではなく、ヨーロッパに有る「オーストリア」ですので、まちがえないようにしてください。 (※ やや難しいので、分からなければ、あと回しにしてください。) 日本の議会では、日清戦争後、政党の力が強くなりました。 民権派の大隈重信(おおくま しげのぶ)と板垣退助(いたがき たいすけ)が憲政党(けんせいとう)を結成し、それまでの第三次伊藤博文内閣(いとう ひろぶみ)に代わり、1898年に大隈重信を首相とする日本で最初の政党内閣が生まれた( 「隈板内閣」(わいはんないかく)という。 ※ 中学範囲外か)。 1898年の板垣と大隈の内閣はわずか4ヵ月あまりで倒れ、1898年11月から(第二次)山県有朋(やまがた ありとも)内閣になる。山県有朋は、政党勢力が官僚に入り込めないように、文官任用令(にんようれい)を制定した。(※ 中学範囲外) (※ また山県内閣は軍部大臣現役武官制(ぐんぶだいじん げんえきぶかんせい)という制度を制定し、軍部大臣には、現役の陸海軍大将・中将しか、なれないようにした。これは政党の力が軍部におよぶのをふせぐためである。この単元の範囲をこえるので、くわしい説明を省略。とりあえず、この「軍部大臣現役武官制」の用語が、のちの時代に、とても重要になる用語だということを知ってもらいたい。) このような山県の政党への制限に、憲政党は不満をもった。憲政党は、山県と対立する伊藤博文(いとう ひろぶみ)に接近していった。 そして山県内閣が終わり、1900年には伊藤博文(いとう ひろぶみ)が、伊藤みずからを総裁(そうさい)とする立憲政友会(りっけん せいゆうかい)の結成が9月に予定されていたので、憲政党はこれに合流し、そして立憲政友会が予定どおりに9月に結成され、1900年10月から立憲政友会による第四次伊藤内閣になった。 ※ 憲政党と立憲政友会は対立していない。議会で対立したのは、山県系の勢力と、政党系の勢力である。 つまり順序は、 である。(※ 中学の範囲では、この順序が重要。) なお、伊藤内閣は貴族院の反対によって退陣させられ、1901年に政権が桂太郎(かつら たろう)内閣に変わる。桂は、山県系の人物だと考えられている。 ※ 政党名がたくさん出てくるが、まず覚えるべき政党は、「憲政党」「立憲政友会」の二つであり、覚えるべき人物については憲政党の大隈重信と板垣退助、および立憲政友会の伊藤博文である。他の政党を覚えるよりも、それなら「山県有朋」をさらに覚えたほうが、政争の背景が分かりやすくなるだろう。
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ロシアは、冬でも凍らない港が軍事上の理由で必要だった[1]。そのため、ロシアは勢力圏を南に伸ばしていた(南下政策)。東アジアでは、遼東半島にあった旅順に軍艦の基地を増設していた。 1899年(明治32年)の義和団事件のあとも、ロシアは兵力をひかず、ロシア軍は満州にいつづけた。そして、朝鮮半島や清に勢力をひろげようとした[2]。日本・イギリス・アメリカの3カ国がロシアに抗議して、ロシアは兵を引くことを約束した。だが、じっさいにはロシアは兵をひかずに居続けた。それどころか、ロシアは占領軍を増強した。 ロシアの強硬な方針にイギリスは危機感を感じた。イギリスは南アフリカでの戦争[3]のため、中国に影響を及ぼす余裕がなかった。 そこでイギリスは、ロシアの南下政策に対抗するため、日本との提携をはかり、1902年に同盟を結んだ。この日本とイギリスの同盟を、日英同盟(Anglo-Japanese Alliance)という。 日本はロシアとの戦争をふせぐため、外交で解決しようとした。日本の案では、ロシアが満州を支配することを認めるかわりに、日本が朝鮮を支配することを認めさせるという案をロシアに提出した。 しかし、ロシアがこの案を拒否し、交渉はまとまらず決裂し、1904年に、ついに日本はロシアとの戦争の開戦にふみきった。 開戦にあたって、ロシアの満州領有に反対するイギリスとアメリカは、日本を経済的に支援した。また、戦費調達のために日本銀行副総裁の高橋是清が、イギリスやアメリカを訪問し、外国債(外債)[4]を募集する。 日露戦争の戦場になった場所は、朝鮮半島の周辺の海域と、満州の陸上および海域であった。 陸地での戦場では、旅順や奉天[5]での戦いで、激しい戦闘となったが日本がロシアに勝利した。海上では、日本海海戦において東郷平八郎ひきいる連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊をほぼ全滅させた。 しかし、日本は大きく戦力を消耗しており、軍事費を使いきっていた。いっぽうのロシアでも政府に反対する革命の動きがおきはじめ、ロシアも戦争をつづけることが、難しくなった。 そこで日本は状況が日本に有利なうちに講和をしようと考え、アメリカにロシアとの講和の仲立ちをしてもらって、講和条約であるポーツマス条約(英語: Portsmouth Treaty) が結ばれ、日露戦争は終結した。 アメリカ大統領のセオドア=ローズベルト(Roosevelt)が講和の仲立ちになり、日本の代表は外務大臣の小村寿太郎、ロシアの代表はヴィッテ(Витте)であった。 条約の主な内容は次のようなものであった。 しかし、日本は講和を急いだため、賠償金をとらなかった。このことが国民の反発を呼び、東京の日比谷では政府高官の邸宅や警察署・交番、講話を支持した新聞社を襲撃して放火するなどの事件が起きた(日比谷焼き討ち事件)。国民からすれば、20万人の死傷者を出し、戦争で多くの負担をしたにもかかわらず、賠償金をとれないことを不満に感じたのだった。 ポーツマス条約で獲得した鉄道の経営のために、政府により半官半民の企業の南満州鉄道株式会社(満鉄)が設立された。 また、租借地と満鉄路線の警備などのため、満州に日本の機関[7]が置かれた。 のちの第二次世界対戦のときに日本軍が満州に滞在している理由は、おおまかな理由は、元をただせば、この日露戦争で得た権益を防衛するために派兵されたからである。 1907年には日露協約が結ばれ、日本とロシアとの満州での勢力範囲が決められた。 この満州への日本による権益獲得では、アメリカが日露戦争では資金面などで日本に協力したにも関わらず、ほぼ日本が満州の権益を独占することになり、アメリカは満州に権益を獲得できなかった。アメリカなどは、満州の事業の門戸開放を日本に要求したが、日本は要求を拒んだ。こうしてアメリカの日本への不満が高まり、のちにアメリカと日本とが対立していく原因の一つとなった。 日露戦争の前、開戦を、多くの国民が支持した。だが、開戦に反対する意見もあった。 非戦論をとなえた人をあげれば、キリスト教徒の内村鑑三や、社会主義者の幸徳秋水が有名である。 また、歌人の与謝野晶子(よさの あきこ)は、戦場にいる弟を思いやる詩を書き、「君(きみ) 死(し)にたまふ(たもう)こと なかれ」という詩を書いた。 君死にたまふことなかれ(抜粋) 現代語訳 私は日露戦争の非開戦論者であるばかりでなく、戦争の絶対廃止論者である。・・・(中略)・・・戦争の利益は強盗の利益である。・・・・・・近くはその実例を日清戦争において見ることができる。二億の富と一万の生命を消費して日本国がこの戦争より得たものは何であるか。・・・その目的だった朝鮮の独立は弱められ、中国の分割が始まり、日本国民の負担はとても増加し、・・・東洋全体が危険におちいったではないか。 (以上、現代語訳) 内村鑑三のこの反戦論は、当時の世論である主戦論に対抗したものである。 日清戦争の直前の1894年に、イギリスとのあいだで、外務大臣の陸奥宗光(むつ むねみつ)の交渉により、治外法権をなくすことに成功。この治外法権の廃止(はいし)は、日本がイギリスと結んだ、 日英通商航海条約(にちえい つうしょう こうかい じょうやく) による。 (1870年代から条約改正のための交渉はしていたが、そのころは、欧米は理由をつけて、受け入れなかった。) 日清戦争で日本が勝利すると、ロシア・フランスなども治外法権をなくすことに同意したが、日本の関税(かんぜい)自主権(じしゅけん)は、みとめなかった。 日露戦争で日本が勝利したことにより日本の国際的な地位が高まると、各国は、関税自主権の改正にも応じるようになり、外務大臣の小村寿太郎(こむら じゅたろう)の各国との交渉により、1911年に日本の関税自主権は回復した。 この日露戦争での日本の勝利は、黄色人種(日本)が白人の国(ロシア)に勝利した戦争であるとみなされた。そのため、アジアやアフリカの欧米の植民地にされた地域の人々を勇気づけた。だが、その後の日本は、欧米と同じように植民地支配的な政策を朝鮮などで行っていったことにより、アジア・アフリカの欧米への不満と同様に日本も失望されていくことになる。 のちのインドの独立運動家ネルーは、獄中で書いた著書『父が子に語る世界史』の中で、ネルーの少年時代のころの日露戦争における大日本帝国の勝利が、アジア諸国に独立への希望を与えたことを書いており、ネルー少年自身も感激した。 しかし、その後、大日本帝国が欧米列強と同じく、近隣諸国を植民地支配下に置いたこと、日本による侵略の悲惨を最初に味わわされたのは朝鮮であったというふうに記述している。 とはいえ、日露戦争の終戦直後の時点では、アジアでの植民地支配をされていた民衆は、日本の勝利に喜ぶ者が多かった。日露戦争後、アジアでは独立を目指す政治運動がさかんになる。もっとも、アジア植民地のヨーロッパ諸国からの独立の時期そのものは、ほとんどは第二次世界大戦後の時代になる。
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日露戦争の勝利によって、大韓帝国(以下、韓国)でのロシアでの影響力が無くなり、韓国での日本の影響力や支配が強まる。 日露戦争後、日本は韓国を保護国としてあつかい、外交権をにぎり、1905年に 韓国統監府 を置いた。初代統監には伊藤博文がついた。やがて内政権も日本がにぎり、韓国軍を解散させた。 日本による韓国の保護国化にともない、国としての権利を韓国から接収したので、韓国の民族運動家は不満をいだいた。保護国化にともなう反発が朝鮮で起こり、解散させられた兵士が民衆とともに武器をもって日本に抵抗する義兵運動(ぎへい うんどう)とよばれる抵抗運動が朝鮮半島で広がった。 また、韓国の皇帝も、国際社会に訴えようとしたが、しかし欧米列強に無視された。 それどころか、すでに韓国統監府の時点で、更新された日英同盟やポーツマス条約で、韓国に対する日本の保護権が認められていたありさまであった。(※育鵬社の教科書に書いてあります)。 そして1909年に、満州に滞在中の伊藤博文が暗殺される事件が起きる。事件は1909年に満州のハルビンで発生した。犯人は韓国人の民族運動家である 安重根 であった。伊藤は統監として、韓国の政治を取りしきり義兵運動を弾圧したため、韓国人の運動家からは恨まれる立場にあった。(※ 備考: 歴史学では、安重根が独立運動をしていた証拠は見つかってなく、東京書籍や教育出版などの検定教科書でも単に「運動家」または「民族運動家」としか書いてない。清水書院は「独立運動家」と記述している。) ( 伊藤が死んだこともあり、日本の世論は強硬になった。)そして、1910年、韓国併合ニ関スル条約に基づき日本は韓国を併合し、大韓帝国は無くなり、朝鮮半島は日本の植民地になった。 この、日本が大韓帝国を併合したことを韓国併合(かんこくへいごう)という。 朝鮮(および韓国)という国家が消滅したことにともない、欧米や日本と結んでいた不平等条約は消えた。 石川啄木(いしかわ たくぼく)の短歌 初代朝鮮総督の 寺内正毅(てらうち まさたけ) の短歌 この併合は対等ではなく、併合により朝鮮の国家を完全に廃され、韓国では日本の武力を背景とした植民地支配が行われた[1] [2] [3]。 先に植民地になっていた台湾と同様に、朝鮮の人々には選挙権がなかった[4]。 大韓帝国が消滅したことにより、名が「朝鮮」(ちょうせん)に変わった[5]。 韓国統監府の名は 朝鮮総督府(ちょうせん そうとくふ) に変わった。 その他の政策は日本での近代化政策を元にして行われた。 たとえば朝鮮の学校教育に関して言えば、朝鮮の学校では、日本語と朝鮮語をはじめ算数、日本史、朝鮮史などが教えられるようになった。併合以前は朝鮮語が国語であり、日本語は外国語扱いであった。また日本にならい初等教育は6年生で義務教育であったが、併合後は当初4年制で高中等教育への連絡を断ち、義務教育ではなくなった。 後に6年制に戻したが、就業率は不明で4年で退学する生徒が多かった。 朝鮮語よりも日本語の教育の授業時間が増加、朝鮮語は1939年には随意科目となり、授業時間がなくなった。日本人校長の判断で朝鮮語授業は続けられたという話もある。 朝鮮の学校では、朝鮮の歴史や文化を教えることは禁止されたとも言われている(※ 東京書籍の教科書に記述あり)。 また、工業化のための開発や投資が朝鮮に対して行われていった。鉄道をひくなどの開発が、おこなわれた。土地調査と、土地の権利の整理もされた。朝鮮は公田制で私有地は宮田や両班など有力者、駅田などで農民は土地を所有せず、代々耕作権を所有し、収穫に応じて税を納めていた。土地調査後は地主に小作料を納める事になり、耕作権の取得争いに破れた農民は土地を離れ、都会へでるか、日本や満州へ流浪するものが、表れるようになった。 耕作権を取得しても、本来地主が負担すべき土地税なども農民に負担させたから、小作料は40〜50%前後の高率となった。 なお通説では、この土地の権利整理のときに、所有権が不明確という理由で、朝鮮人の多くが土地を失った(※ 東京書籍の教科書に「所有権」、「土地を失い」との記述あり)と言われている。土地を失った朝鮮の人のいくつかは、小作人になったり、日本や満州に移住するなどの必要にせまられた。[6] 朝鮮の工業や商業は、日本との貿易や、日本からの投資によって、近代化していった。しかし、朝鮮の歴史や文化を軽視した同化政策や、強引な近代化や日本企業・日本人に有利な政策などは、朝鮮人の不満をさらに高め、朝鮮の人びとの抵抗がつづいた。 両班は官職であり、法によって定められた身分ではなかった。安定した貴族階級ではないため、官職でなくなれば収入は無くなり、没落する両班が多く現れるようになった。 朝鮮の植民地支配は1945年(昭和20年)の日本の敗戦まで続いた(※ 東京書籍の教科書に記述あり)。 余談だが、韓国併合の際、現在のソウルにあった首都の「漢城」(かんじょう)を「京城」(けいじょう)に改名した(※ 東京書籍や教育出版の教科書に記述あり)。 その他にも、併合により多くの地名を日本風に変えた。 なお、義兵などの抵抗運動が起きたが、日本軍によって鎮圧された。 併合直後の朝鮮では、日本はいっさい創氏改名の強制も、徴兵も、していない。それらの政策を強制した時期が、ちがう。 日本の占領による政策として有名な政策で、「創氏改名」(そうし かいめい)という、朝鮮人に日本風の名前を名乗らせた政策が有名だが、併合直後は、まだこの政策をおこなっていない。 創氏改名を行った年は1939年(昭和14年)であり、ずいぶんとあとの時代である。よって、この節では創氏改名 を解説しない。 朝鮮半島での徴兵(日本軍への徴兵)は、第二次世界大戦の途中ごろからである。 冷静に考えれば、もし、併合当初での独立運動の頻発するような状況で、日本が朝鮮で徴兵制をしたら、朝鮮の独立派に武器を与えてしまうことになるだろう。 徴兵期間は短いが、現地徴兵徴用が多く、戦後外務省の調査では軍人軍属は陸軍25万、海軍12万人となっています。 注
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を参照。 日露戦争の勝利によって、日本がポーツマス条約で得た利権をもとに、日本は南満州鉄道株式会社(みなみまんしゅうてつどう かぶしきかいしゃ)を設立した。南満州鉄道株式会社は「満鉄」(まんてつ)と略される。 満州には、満州経営のため、政府により半官半民の企業の南満州鉄道株式会社(みなみまんしゅうてつどう かぶしきがいしゃ) ( 略称: 満鉄(まんてつ) )が設立された。 また、満鉄の鉄道の警備などのため、満州に日本軍が置かれた。 なお、この満州鉄道を警備している日本軍は、のちの1919年に「関東軍」(かんとうぐん)と言い改められる。中国の山海関(さんかいかん)より東の位置を「関東」といい、その地域を守備していたので、関東軍(かんとうぐん)と言い改められる。 この戦争の交渉の結果、日本は満州に権益を得ることになった。のちの第二次世界対戦のときに日本軍が満州に滞在している理由は、おおまかな理由は、元をただせば、この日露戦争で得た権益を防衛するために派兵されたからである。 さて、1907年には 日露協約(にちろ きょうやく) で、日本とロシアとの、満州での勢力範囲が決められた。 この満州への日本による権益獲得では、アメリカが日露戦争では資金面などで日本に協力したにも関わらず、ほぼ日本が満州の権益を独占することになり、アメリカは満州に権益を獲得できなかった。アメリカなどは、満州の事業の門戸開放を日本に要求したが、日本は要求を拒んだ。こうしてアメリカの日本への不満が高まり、のちにアメリカと日本とが対立していく原因の一つともなったと考えられる。
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日露戦争後の1911年に中国大陸で革命が起きて 中華民国(ちゅうかみんこく)が建国され、 孫文(そんぶん、スンウェン)という人物が中華民国の代表者に選ばれる。この一連の革命が 辛亥革命(しんがい かくめい)である。 孫文は、政治の方針として、民族の独立をかかげる「民族」主義、そして「民権」主義、庶民の生活の向上である「民生」(みんせい)の安定をかかげた、3つの民に関する考えからなる 三民主義(さんみん しゅぎ) を唱えた。 日露戦争の以降、戦争に勝った日本から近代化の方法を見習おうと、清からは多くの留学生が日本にやってきた。清の政府も、戦後は、戦前までの方針をあらため、封建社会は維持しつつも、日本政府とも協力して近代化のための改革を進めることにした。 日本国内では、言論の自由などが保障されていたので、清などの周辺国からは革命家などが日本へ亡命のために滞在した。日露戦争に日本が勝ってからは、より多くの外国人が日本に学びにきた。欧米に植民地にされている国からも、欧米を倒すために近代化の方法を学ぼうと、多くの者たちが日本に訪れた。 これから紹介する孫文(そんぶん、スンウェン)も、政治運動などのため、日本に滞在していた時がある。 当時の日本政府は、欧米との友好の政策方針のため、あまり日本国内での反欧米の革命家の滞在や活動を好まなかったが、民間人や一部の政治家などが、周辺国の革命家を支援した。 そして、まだ孫文たちが革命を起こさないうちに、中国で革命が急に起きる。次の節で説明する。 1911年、中国の四川省での鉄道の国有化および、その鉄道の外国への借款に対する反対の暴動が起き、この反乱に応じて、武昌(ぶしょう、ウーチャン)で軍隊が反乱を起こした(鉄道借款が国権を売り渡す行為と批判された)。 そして各地で反乱が起こり、清からの独立宣言が次々と起きた。 これが辛亥革命(しんがい かくめい)である。 当時、中国人の革命運動家として有名であった孫文(そんぶん、スンウェン)は、この辛亥革命を起こしてない。革命当時、孫文はアメリカに滞在しており、アメリカで革命の知らせを聞いた。孫文は、アメリカのほかにも、日本に滞在し中国での革命のための運動をしていた時期もある。中国大陸では、清国の王朝を倒そうとする革命運動は、当然、取り締まりを受けていたので、日本やアメリカで孫文は中国での革命のための運動を行っていたのであった。 革命後、孫文は中国大陸に帰国した。 そして、革命運動の代表者が決まっていなかったので、1912年に臨時政府の代表者として孫文が 臨時大総統(りんじ だいそうとう) として選ばれた。 孫文は、民族の独立をかかげる「民族」主義、そして「民権」主義、庶民の生活の向上である「民生」(みんせい)の安定をかかげた、3つの民に関する考えからなる 三民主義(さんみん しゅぎ) を唱えていた。 そして孫文たちは、中華民国(ちゅうか みんこく)の建国を宣言した。中華民国の首都は一時的に南京(ナンキン)に変わった。 まだ、清の皇帝は生き残っている。清の宮殿なども、残っている。 しかも孫文は、臨時の代表者にすぎない。 実際に中華民国で権力をにぎったのは、かつて清国の政治家であり、軍を掌握していた袁世凱(えん せいがい、ユワン シーカイ)だった。孫文には軍隊を管理する能力がなく、孫文に大した実権はなかった。 袁世凱は、清の皇帝を退位させ、そして袁世凱が最高権力者の大総統になった。皇帝が退位したことにより、清の王朝は終了した。 そして中国の首都は南京(ナンキン)から北京(ペキン)にもどった。 袁世凱は、独裁政治を始めた。 結局、孫文は日本に亡命することになった。 1915年に、袁世凱は病死した。袁世凱の死後、中国はまとまらず、各地に軍閥(ぐんばつ)が出てきた。
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日本での産業革命は、明治時代に起きた。 明治の始めごろ~中ごろは、繊維産業を中心に、軽工業から、工業が成長していった。明治の後半は、重工業の発展が日本でも起きた。 繊維工業は、欧米向けの生糸などの輸出であった。日本の安い賃金で、欧米向けに安い価格の生糸などを輸出していた。 明治の始めごろは、工場設備などの機械や、軍艦・大砲などの兵器は、日本では国産化できず、欧米から輸入していた。 生糸などを輸出して獲得した外貨をもとに、機械類や兵器などを欧米から購入していた。 明治のはじめごろ、国は工業をさかんにするため、官営の工場を経営していた。しかし、政府にとっては財政の負担だった。また、政府が工場の経営をすると、民間の工場の仕事をうばっていることにも、なってしまう。 なので、政府は官営工場の民間への払い下げを1880年代に行った。 この払い下げをうけた会社が、三井(みつい)・三菱(みつびし)・古河(ふるかわ)などの大会社であった。これらの大会社は、経済で支配的な地位をもつ財閥(ざいばつ)になった。 イギリスから輸入した紡績機(ぼうせきき)をもとに、生糸を生産し、おもにアメリカむけに輸出していた。イギリスの紡績機は、蒸気機関を動力として用いる、最新の紡績機だった。日本でも、紡績機を改良していった。 日清戦争後は、清や韓国にも、日本産の綿糸が輸出された。 原料の綿などは、併合した朝鮮や、獲得した満州などから安い値段のものが輸入され、そのため日本の農家は打撃を受けた。 このように生糸(きいと)や綿(めん)製品は、日本の主要な輸出品になっていった。そして繊維工業を中心に、日本の軽工業は発展していった。また、農村では、生糸の生産のため、養蚕(ようさん)が、さかんになった。 日露戦争後には、日本が世界一の生糸輸出国になった。 日清戦争で得た賠償金をもとに八幡製鉄所(やはたせいてつじょ)が1901年に建設された。この八幡製鉄所が、日本での重工業の発展の、きっかけになった。 鉄道の建設がすすみ、1889年(明治22年)には東海道線が開通した。1906年に軍事上の理由により、主要な民間の鉄道が国有化された。 農民には、不景気などで土地を手放してしまい、地主などの下で農作業を働かされる小作人(こさくにん)が増えた。 理由はいくつかあるが、よくある説は・・・ など。 いっぽうで、手放された土地を、地主(じぬし)などが買いしめていった。 農村で収入が少ない農民は、都市に出稼ぎにいったりした。 貧しい農家の娘などは、紡績工場などの工場などで女工(じょこう)としてはたらくこともあった。 女工は、長時間労働で、安い賃金(ちんぎん)で、はたらかされた。それでも、その娘には、ほかに仕事先がないので、その仕事先で、はたらかざるをえなかったのだろう。 日本の輸出品の生糸や綿製品などは、この女工などの、安い賃金の労働によって、ささえられていたのである。 1925年の『女工哀史』(じょこう あいし)という細井和喜蔵(ほそいわきぞう)という機械工(きかいこう)の労働者が自らの体験をもとに書いた本に、1925年と時代は少しあとの時代だが、このような女工たちのつらい状況が書かれている。 日本の労働者の賃金は安く、重労働で過酷だった。このため、労働運動が盛り上がっていた。労働組合も、明治の半ばごろから作られ始めた。 しかし、政府は、労働運動が革命運動などにつながると考え、労働運動を取り締まる方針であった。 1900年には、治安警察法(ちあん けいさつほう)が制定され、社会運動が取締りを受けた。 いっぽうでは、工場法が制定され、労働条件の改善も はかられた。 1901年には社会民主党が、片山潜(かたやません)などにより、結成されたが、取締りを受け、解散させられた。 1910年(明治43年)には、天皇(明治天皇)の暗殺計画のうたがいにより、幸徳秋水(こうとくしゅうすい)ら12名が死刑にされた。これを大逆事件(たいぎゃく じけん)という。 平塚らいてう(らいちょう)が青踏社(せいとうしゃ)を作り、女性解放を唱えた。 栃木県にある足尾銅山では、明治時代ごろには、全国の生産の3分の1の銅を生産していた。 ここで公害事件がおき、鉱石の処理の安全対策が不十分なまま、工場からの排水(はいすい)中に有毒物質の「鉱毒」(こうどく)が周辺の渡良瀬川(わたらせがわ)に流れ込み、川の魚が死に、農作物などは枯れて(かれて)いった。 ほかにも、工場の排煙から排出される亜硫酸ガスによって、周辺の山の木や草は枯れていき、はげ山(はげやま)になった。はげ山 になると、洪水がおきやすくなるので、鉱毒でよごれた川の水が広がっていき、ますます被害は拡大した。 作物だけでなく、人間も病気になっていった。死者もふえていった。眼病にかかったり、胃などの内臓の病気にかかっていった人がふえてきた。 衆議院議員の田中 正造(たなか しょうぞう)は、これらの原因は足尾銅山の鉱毒のせいであるとして議会でうったえた。だが、政府は対策をとられなかった。 田中正造は、世論にうったえるため、天皇に直訴しようとした。そのため、議員をやめて、それから天皇に直訴しにいったが、天皇の近くで警官に取り押さえられた。 だが、直訴のことが新聞などに報道され、この足尾銅山の鉱毒事件が世間に広く知られた。 鉱石は、ほりだしたままでは、さまざまな不純物をふくんでいるので、使えないのである。なので、不純物をとりのぞくため、さまざまな薬品の液体を鉱石にくわえていく。 このため、排水が出てくる。 この排水の安全化の処理が不十分なままであった。 なお、1892年の古在 由直(こざい よしなお)らによる調査結果によれば、鉱毒の主成分は銅の化合物、亜酸化鉄、硫酸である。 幕末のころから、コレラなどの伝染病が日本に入ってきた。 明治時代には、伝染病の防止のため、上下水道の整備や、消毒などの公衆衛生が発達した。 江戸時代の小説は、正義が悪をこらしめるという、儒教的な発想にもとづいた、勧善懲悪(かんぜんちょうあく)の小説が多かった。 しかし、明治になり、欧米の文学や思想が紹介されたりしたことから、このような勧善懲悪な筋書きをうたがう作家が出始め、新しい傾向がでてきた。 文芸では、つぎのような作家が出てきて、つぎのような変化をおこした。 ・坪内 逍遥(つぼうち しょうよう) ・二葉亭 四迷(ふたばてい しめい) それ以前は、小説は漢文調だったのだ。 坪内逍遥の小説も、漢文調である。 小説で写実主義が強調されると、それの影響を受け、ほかの分野にも写実主義を導入しようとする者も、出てくる。 ・正岡 子規(まさおか しき)  「柿(かき)くへば 鐘(かね)が鳴る(なる)なり 法隆寺(ほうりゅうじ)」などの視覚的・映像的な情景的な句を、多く、のこす。 弟子は高浜虚子(たかはま きょし)や河東碧梧桐(かわひがし へきごとう)など。 正岡の努力もあり、俳句の地位は高まり、小説家など、ほかの分野の作家も俳句を作り始めた。夏目漱石や坪内逍遥なども俳句を作っている。 正岡は、祖父に江戸時代の高名な儒学者の大原観山(おおはら かんざん)を持つ。正岡の作風は、漢詩の影響を受けていたのだろう。 ・夏目漱石(なつめ そうせき) 『坊っちゃん』の主人公は、東京の物理学校(現代の東京理科大学の前身)を卒業したばかりの新任教師である。漱石の英語の教員の体験をもとに書いている。 ・与謝野 晶子(よさの あきこ)や樋口 一葉(ひぐち いちよう)など、女の作家も、この明治時代に出てきた。 与謝野 晶子の代表作は、『みだれ髪』、『君死にたまふことなかれ』など。 樋口 一葉の代表作は、『たけくらべ』、『にごりえ』など。 美術や音楽などの分野では、つぎのような変化があった。 日本画は、一時、おとろえたが、フェノロサ や 岡倉天心(おかくら てんしん)が、復興させた。 また、横山大観(よこやま たいかん)が活躍した。西洋式の手法を取り入れた、新しい日本画が流行った。 彫刻では、高村光雲(たかむら こううん)が活躍した。 ・音楽 小学校の唱歌(しょうか)や、軍隊での軍歌などとして、洋楽(ようがく)が広まっていった。 音楽では、滝 廉太郎(たき れんたろう)が『荒城の月』などの曲を作曲した。
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ハワイに移民する人が、明治の中ごろから増えました。 ハワイではアメリカなどの要望により、砂糖を生産するためのサトウキビが大量に栽培されている大農園を耕す労働力が不足しており、移民を受け入れていました。 ハワイはもともとハワイ王国という独立国であり、ハワイ王国は憲法をもつ立憲君主制の国でしたが、1898年にアメリカによってハワイがアメリカ領として併合されました。 明治時代の末期にアメリカは移民を制限したので、日本人の移民先がブラジルなどに変わりました。 よくある仮説では、「日本によるハワイ移民は、白人国家アメリカのハワイ侵略に対する、アジア人の国家の日本としての牽制(けんせい)だ」という説もある。 アメリカによるハワイ併合を嫌った併合前のハワイ国王カラカウワは、明治時代の日本をおとずれ、当初はハワイ王室と日本の皇室との婚姻を申し出たが、しかし日本政府はアメリカとの外交関係の悪化をおそれたため、この婚姻の申し出は断られたという史実がある(※ 参考: w:カイウラニ)。そして説では、代わりとして、日本はハワイ移民を申し出だという説。 ただし、日本の移民先がしだいにハワイからブラジルなどに変わったり、日本だけでなく中国もハワイなどに移民していたりなど、疑問点もある。 なお、アメリカ白人によるハワイ併合のクーデター時、日本は邦人(ほうじん)保護の名目として軍艦を送っており、これは日本の婉曲的な意思表明として、アメリカ人によるクーデターに対する日本の不快感の表明だろうと思われている(※ 参考: w:リリウオカラニ)。 (※「邦人」(ほうじん)とは、海外・外国にいる日本の一般人(軍人などではない)のこと。)
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1914年から起きた第一次世界大戦では、ドイツ・オーストリア・トルコなどの陣営と、イギリス・フランス・ロシアなどによる陣営とが戦争をしていました。 ドイツ・オーストリア・イタリアの三国は三国同盟(さんごくどうめい、Triple Alliance )を結び、同盟国(どうめいこく)と言われます。対してロシア・フランス・イギリスは三国協商(さんごくきょうしょう、Triple Entente)を結び、連合国(れんごうこく)と言われています。つまり同盟国と連合国(三国同盟と三国協商)が、争った戦争ということです。(ただし、イタリアはオーストリアとの領土問題があったため、連合国側で参戦しました。) 戦争は長期化した。また、毒ガス(どくガス)が新兵器として登場し、被害が大きくなった。潜水艦(せんすいかん)も、新兵器として、つかわれた。 なお、戦車(せんしゃ)や飛行機、飛行船も新兵器として使われたが、この時代の戦車や飛行機は、まだ性能がひくかった。 この第一次世界大戦からヨーロッパでは戦争のしかたが大きく変わり、それまでの男の兵士だけが戦争に従事する方式から、民間人や女子も工場動員などで戦争に協力させて、国力を出し切って戦う総力戦(Total War [1])になった。 (ただしヨーロッパ以外の日本やアメリカでは国土が戦場にならなかったこともあり、日本やアメリカでの総力戦への変換は、のちの第二次世界大戦のころになる。) 日本では、国土が大した被害にあわなかったことから、日本の民衆や評論家などの多くは、戦争のしかたが総力戦に変わったことに気づかず、のちに、欧米の戦力をあなどることになる。 このころの日本は、大正時代であった。明治天皇は、すでに亡くなっており、大正天皇が日本の天皇だった。 日本も第一次世界大戦に参戦し、日本はイギリスと日英同盟を結んでいたことを理由として、日本はイギリス側である連合国(れんごうこく)の側に立って参戦した。 ドイツの基地が、中国大陸の青島(チンタオ)にあったので、日本は、青島のドイツ基地を占領した。 また、大戦中の1915年(大正4年)に中国政府(袁世凱の中華民国)に要求を出した。二十一か条の要求(にじゅういっかじょう の ようきゅう)という。要求の内容は、中国における、ドイツの山東半島などの権益を、日本が受け継ぐ事を認めさせる内容の要求だった。また、満州や内モンゴルでの日本の権益を認めるさせることも、日本は要求した。日本は、要求のほとんどを中華民国に認めさせた。 中国では民衆などに、日本への反対運動が起きた。 ヨーロッパ南東部の、ルーマニアやギリシャなどのあるバルカン半島(Balkan)の支配をめぐって、オーストリアとロシアが対立をしていた。 第一次大戦の前からバルカン半島では多くの戦争や紛争があり、バルカン半島は「ヨーロッパの火薬庫」(Powder keg of Europe)と言われていた。バルカン半島にはルーマニアやブルガリアやセルビアやアルバニアやギリシアなどの多くの国がある。また、歴史的背景から宗教や民族も複雑にからみあっていた。 1914年に、オーストリアの皇太子の夫妻が、ボスニアの首都のサラエボをおとずれていたときに、暗殺される事件が起きた。この暗殺事件を サラエボ事件 という。この事件の犯人がスラブ系セルビア人の青年であった。 この事件に対する報復で、同年1914年にオーストリアがセルビアに宣戦布告したのが、のちの第一次世界大戦のきっかけであった。そしてオーストリアの同盟国のドイツがオーストリアを支持した。いっぽう、セルビアには同じスラブ系民族であるロシアが支持した。ロシアと協力関係にあったフランスやイギリスも、ロシアの支持を通して、セルビアを支持した。 オーストリアの支持の側であるドイツは、セルビアを支持しているロシア・フランス・イギリスに対して宣戦布告した。 13世紀以降、バルカン半島はオスマン帝国(オスマン・トルコ)の支配下に置かれていた。しかし、オスマン帝国がおとろえていくとバルカン半島でもギリシャ人やスラブ系民族による独立運動が盛んになっていった。さらに、ヨーロッパ諸国が勢力拡大を目指してバルカン半島に介入していった。特に、南下政策を続けるロシアとパン=ゲルマン主義[2]をかかげるオーストリアとが厳しく対立した。 そうした中で、1908年にオスマン帝国で立憲政治の回復をめざす青年トルコ革命がおきる。この革命でオスマン帝国が混乱していることに乗じて、オーストリアは同じ年にボスニアとヘルツェゴビナをオーストリアに併合した。しかし、既にトルコから独立していたセルビアも、セルビア人を中心とするスラブ人の統一国家をつくろうとする大セルビア主義に基づいて、同じスラブ系民族の多いボスニア・ヘルツェゴビナを併合しようとしていた。このため、このボスニア・ヘルツェゴビナをめぐってオーストリアとセルビアと対立していたのである。 大まかに言えば、青年トルコ革命 → オーストリアによるボスニア・ヘルツェゴビナの併合→ オーストリアとセルビアの対立 → サラエボ事件 という流れといえる。 世界大戦のさなか、ロシアでは革命が1917年に起きる。ロシアでの、これらの革命をロシア革命 (英:Russian Revolution)という。 ロシアでは、日露戦争のころから、ロシア皇帝の圧政(あっせい)に反対する運動があったが、第一次世界大戦による物資の不足などで国民生活が苦しくなり、ますます皇帝政治に対する反対運動が強まっていた。 そして1917年3月に、労働者の抗議(こうぎ)などの運動が起こり、軍隊もこの運動に同調した。軍隊が、皇帝を裏切った以上、もはや皇帝を守るものはなく、ロシア皇帝のニコライ2世(ロシア語: Николай II、英:Nicholas II)は退位するはめになった。(三月革命) そして、退位後、ニコライ2世とその一族は革命政府により殺害された。こうしてロシアの帝政(ていせい)は終わり、ロマノフ王朝(ロマノフおうちょう、英表記:House of Romanov)は終わった。 帝政にかわる、革命運動による臨時の政府が出来て、1922年にはソビエト社会主義共和国連邦(英語表記:Soviet)と呼ばれた。日本語での呼び方では、短く略して「ソ連」「ソビエト連邦」などと呼ぶ場合もある。 こうしてロシア政府にかわり、ソビエト政府が、ロシアの領土を支配することになった。 1917年3月直後のころの臨時政府は、当初、第一次世界大戦の戦争継続の方針だった。だが、即時の停戦をかかげるレーニン( ロシア語:Ле́нин ,英:Lenin)が1917年11月に革命を起こして成功し(十一月革命)、こうしてロシアの革命運動ではレーニンの思想が、中心的な思想になった。 ソビエト政府も、第一次世界大戦を、ロシア・フランス・イギリスの三国協商のまま、イギリスやフランスと協力したが、革命によるソビエト国内の混乱もあり、ソビエトは戦争から引いていった。 ソビエトは各国に、無併合・無賠償・民族自決の即時講和を呼びかけた。 1918年に、ソビエトはドイツ側と講和して、ソビエトは連合国では無くなった。 ソビエトは、地主の土地を没収して、農民に使わせるために政府が管理するなど、社会主義的だと考えてた政策を行った。 ソビエトの政治の仕組みは社会主義(しゃかい しゅぎ)や共産主義(きょうさん しゅぎ)と言われる方式であり、当時としては新しい方式の政治の仕組みだった。 日本の中学校教育では、社会主義と共産主義とは、区別しない事例が多い(ただし、いくつかの教科書では例外)[要出典]。実際、欧米でも、歴史的にも、似たような意味で「社会主義」と「共産主義」の語句が使われていた事もある。ややこしい事として、現代(21世紀)の中国共産党は、名前は共産党だが、しかし経済の政策では、中国政府は私企業を認めているので、中国共産党の政策は厳密な意味での「共産主義」とはいいがたい。 本書でも、とくに断りが無い限り、社会主義と共産主義を区別しないこととする。 ロシア革命後、ソビエト連邦が社会主義運動や共産主義運動の中心地になったので、ソビエトに従おうとする政治思想と共産主義・社会主義とが混同されることになった。 ソビエトの政府は、共産主義を目指していた。そのため、土地や産業を国有化した。 共産主義はロシア以外には広まらなかった。(のちに中国(ちゅうかじんみんきょうわこく)が共産主義になる時期は、第二次世界大戦のあとである。) ※(中学の範囲外: )なお、「共産主義」という言葉は、少なくとも日本ではすでに1920年代から存在しており、たとえばロシア革命よりも約10年後だが1925年4月に公布された治安維持法に関して、交付前の衆議院の法案成立をめぐる審議では,若槻礼次郎(わかつき れいじろう)内務大臣が「俗(ぞく)の言葉で申し上げれば,この法律は無政府主義,共産主義を取りしまる法律であるといってもよろしいのであります」と述べている。(清水書院の高校「歴史総合」教科書より。)いくつかの中学歴史のような、「共産主義」という言葉を使わずに「社会主義」という言葉だけで説明するスタンスは、少なくとも日本史学的には、いろいろと苦しい。 連合国は、ロシア革命が周辺国に広がることをおそれ、革命反対派に協力するため、1918年にシベリアに出兵した。イギリス・フランス・アメリカ・日本が出兵。日本は約7万人の軍隊をシベリアに出兵した。これらの出来事をシベリア出兵(シベリアしゅっぺい、英: Siberian Intervention)という。 1924年にレーニンが死んでからは、ソ連では、しだいにスターリン (ロシア語:Сталин、英: Stalin)が権力をにぎっていった。 スターリンは統制を強め、しだいにスターリンの独裁政治へとなっていった。そして、スターリンに反対する人物を次々と追放したり処刑したりしていった(大粛清)。 産業政策は、重工業を中心にした工業化を進めていった。1928年からは「五ヵ年計画」を実行し、重工業化と農業の集団化をおしすすめた。 アメリカは、はじめは中立を保っていたが、ドイツが中立国の船を攻撃しはじめた事を理由に、1917年に、アメリカはイギリスの側として参戦する。アメリカから支援された大量の物資や武器などにより、イギリス側の連合国が有利になった。 連合国の側にアメリカと日本という、当時の強国が2つも加わったこともあり、戦争は連合国に有利に進んだ。 そして1918年、ドイツが負けを認めて降伏(こうふく)し、よってアメリカ・イギリス・フランスの連合国が勝利して、第一次世界大戦は終わった。ドイツとオーストリアは負けた。 イタリアは、戦争の途中で、連合国の側の支持へと変わった。 第一次世界大戦中の1915年(大正4年)に、日本は中国政府(袁世凱の中華民国)に要求を出した。二十一か条の要求(にじゅういっかじょう の ようきゅう)という。要求の内容は、中国における、ドイツの山東半島などの権益を、日本が受け継ぐ事を認めさせる内容の要求だった。また、満州や内モンゴルでの日本の権益を認めるさせることも、日本は要求した。日本は、要求のほとんどを中華民国に認めさせた。 中国では民衆などに、日本への反対運動が起きた。 フランスの首都のパリで講和会議(こうわかいぎ)であるパリ講和会議(英:Paris Peace Conference)が1919年に開かれ、ドイツとの間で戦後の処理のための条約として、ベルサイユ条約(フランス語:Traité de Versailles) が1919年に結ばれた。「ベルサイユ」とは、フランスにあるベルサイユ宮殿(きゅうでん)のことで、この場所で講和会議が行われたことによる。 条約の結果、ドイツは多くの賠償金を払うことになった。ドイツは、フランスとの領土問題のあったアルザス=ロレーヌ地方(英表記:Alsace-Lorraine)を失い、アルザス・ロレーヌはフランスに渡された。(アルザス=ロレーヌ地方は、炭鉱や石炭などの資源が豊富であり、そのためフランスとドイツとの間で、しばしば領土争いになる事の多い土地である。) そしてドイツが世界各地に持っていた植民地は、放棄させられた。特に、大戦前にドイツが持っていた中国の山東省の権益や、ドイツ領だった南洋諸島の委任統治権などは、日本が受け継ぐことになった。 アメリカのウィルソン大統領は、民族自決(みんぞく じけつ、self-determination)の原則などの理想を掲げた。民族自決の原則などの要求をふくんだ「14か条の平和原則」をウィルソンは掲げた。しかし、英仏などの戦勝国が、自国の植民地の権益を主張したため、ドイツが植民地を失った以外には、たいした成果はなかった。 なお、「14か条の平和原則」の主な内容は、秘密外交の廃止、民族自決、軍備の縮小、国際機関の設立である。 パリ講和会議のさい、日本は国際連盟の規約に人種差別撤廃を盛り込むことを提案した。人種差別撤廃に向けた世界初の試みだった。 当時は、欧米諸国を中心に人種差別が横行しており、日系移民排斥問題など日本人に対する人種差別問題の解決が急務であった。この提案は、人種差別を受けていた多くの人々を勇気付けるとともに、イギリスのアーサー・バルフォア外相は説得に訪れたハウスに対し、「ある特定の国において、人々の平等というのはありえるが、中央アフリカの人間がヨーロッパの人間と平等だとは思わない」と述べるなど波紋を呼んだ。 そして、植民地保有国である欧米列強の反対により、賛成多数にも関わらず、全会一致でないとして却下された。アメリカでは、差別を受けていた黒人が日本の提案に期待していたが、賛成多数にも関わらず、全会一致でないという理由で却下した自国政府の決定に反発する声が上がった。 ちなみにウィルソン自身は人種差別の撤廃に賛同したようだが、アメリカ議会が反対したようである。 アメリカ大統領ウィルソンの提案によって、平和を目的とした国際連盟(こくさい れんめい、英:League of Nations)の設立が決まった。そして1920年に、国際連盟が設立した。国際連盟の本部はスイスのジュネーブに置かれた。 スイスは、永世中立国(えいせい ちゅうりつこく、英: permanently neutralized country)である。中立国とは、戦争の時に、どの外国にも協力しない、ということである。 (※ べつに、中立は、「戦争をしない」という意味ではないし、「軍隊を持たない」という意味でもない。スイスは軍隊を持っているし、もしスイスが攻め込まれたらスイス国民は自国を守るための戦争を行う。) スイスは中立国なので、国際機関の本部の場所として良いだろうと考えられ、スイスが国際連盟の場所に選ばれたのである。 この国際連盟と、のちに作られる国際機関の国際連合(こくさい れんごう、英:United Nations、略称:UN ユー・エヌ )とは、べつの組織である。 国際連合が作られるのは第二次世界大戦のあとであり、第一次世界大戦のあとの時代には国際連合(UN)はまだない。 国際連盟を提案したアメリカは、国際連盟には加盟していない。アメリカ議会の反対により、アメリカは国際連盟には加盟していない。 日本人の新渡戸 稲造(にとべ いなぞう)が、国際連盟の事務局の次長(じちょう)として選ばれた。「次長」というのは役職のひとつで、二番目ぐらいにえらい役職のことである。 今日(2014年に記述。)の一般の会社でも「次長」(じちょう)という役職があり、社長や部長などの次にえらい役職が次長である。 なお、国際連盟の常任理事国に、日本が入っている。 国際連盟は、ヨーロッパ人など白人の国家および列強国を中心とした国際機関であった。当時はアフリカやアジアの多くは列強の植民地であったので、今の国際連合とは違って、国際連盟ではアフリカなどの主権をうったえることが出来なかった。 第二次大戦後の国際連盟ですらも、国際連合の設立直後は、戦勝国とヨーロッパ諸国など白人の国を中心とした連合であり、当初はアフリカやアジアの多くは植民地のままであり、代表者を国際連合に送ることは出来なかった。 とはいっても、べつに国際連盟の当時の国際協調の方針は、なにも植民地支配の正当化を目的としたものではないだろう。国際連盟の設立者たちは、もっと単純に、世界平和や有効を願ったのだろう。しかし、当時の現状の前提となる列強の身勝手な植民地支配もあり、やがて国際連盟の加盟国から、たいして植民地を持たないドイツや日本国などが国際連盟に反発していき、列強が二つの陣営に分かれ(植民地を「持つ国」「持たざる国」)、そして国際連盟は機能をしなくなっていく運命にある。 かといって、当時の帝国主義時代の、植民地をあらそう時代の、欧米の人たちに、もはや植民地を独立させることは国防上からも無理であろう。もう国際連盟の理念と現実との矛盾は、いわば「時代の限界」とでも言うしか無いのだろう。 もちろん、たとえ「時代の現代」だろうが、列強が植民地支配という「悪」(民族自決の観点から見れば)を行ったことには変わりない。そして日本国すらも、欧米と同様にして朝鮮半島や中国へと植民地支配を広げていった「悪」の国となる。 この、植民地支配という悪行のために、やがて列強の各国は、「第二次世界大戦」という、とても手痛い犠牲を払うことになる。 各国が、おたがいに軍備の保有量を減らして少なくするという軍縮(ぐんしゅく、英:Disarmament)のための会議が、1921年、1922年にアメリカのワシントンで開かれた。この会議を ワシントン会議(Washington Naval Conference) という。 このワシントン会議によって、各国の海軍の軍事力を軍縮することが決まった。 イギリス・アメリカ・日本・フランス・イタリアの軍艦の主力艦(しゅりょくかん、英:Capital ship)の保有トン数の比が、 と、決まった。 主力艦以外の、補助艦については、まだ決まっていない。 また、日本・アメリカ・イギリス・フランスによる、太平洋における各国領土の権益を保障した四カ国条約(よんかこくじょうやく)が結ばれ、それにともなって日英同盟は廃止(はいし)された。 交渉の結果、日本は山東省を中国(中華民国)に返すことになったので、中国に山東省を返還した。 軍縮によって、軍事費の増大にこまっていた日本の政府は助かった。だが、日本国内の一部の強硬派には、軍縮に不満も多かった。 このようなワシントン会議によって決まった国際社会の体制を ワシントン体制(ワシントンたいせい、Washington system [3]) と言う。 ワシントン会議では、補助艦の保有トン数の制限については、決まっていなかった。1930年のロンドン会議(英:London Naval Conference)では、補助艦の保有トン数の制限が決まった。 の比率である。 ロンドンはイギリスの首都で、ロンドンでロンドン会議が開かれた。 第一次世界大戦の戦後処理で、アメリカ大統領ウィルソンが提唱した「民族自決」(みんぞく じけつ)の理念にもとづき(「どの民族も、他の民族から支配されるべきではない」という思想)、オーストリアからはハンガリー、チェコスロバキア、ユーゴスラビアが独立し、ロシアからもポーランドやフィンランドが独立した。 しかし、この民族自決の理念は、ヨーロッパの民族の自決にだけしか適用されず、アジアやアフリカなどは、欧米の植民地のままであった。 東欧諸国の独立は、ドイツの封じ込めや、ソ連の封じ込めなどに都合がよい。 第一次世界大戦の戦中や戦後に、ヨーロッパやアメリカでは、労働者や女性も総力戦に貢献したことから、選挙権を労働者や女性にも拡大するべきと言う要求が強くなっていき、実際に多くの欧米の国で選挙権が拡大された。 女性の選挙権は、イギリスでは1918年には女性に選挙権が与えられた。アメリカでは1920年に男女の普通選挙が与えられた。 また、ドイツでは第一次世界大戦の終了のころに皇帝が退位して共和国となっており、ドイツでは1919年にワイマール憲法が制定され、満20歳以上の男女に選挙権が与えられ、国民主権となり、労働者が労働組合を作る権利(団結権)が認められた。 また、すでに説明したが、ロシアではロシア革命により社会主義・共産主義が成長した。ロシア以外の国でも、社会主義を掲げる運動が活発になった。 戦中や戦後、ヨーロッパが戦場になって疲弊したこともあり、国際社会での中心的な国が、イギリスからアメリカに、しだいに移っていった。 アメリカの工業や商業も発展し、ラジオや自動車などが大量生産され普及した。映画やジャズ音楽なども普及した。 欧米の列強は、アジアの植民地の運動を認めなかった。しかし、ウィルソンの平和原則や、ロシア革命など、民族自決を重視する国際的な風潮に刺激され、インドや中国などのようなアジア各地の植民地では、独立運動がさかんになった。 日本も植民地として朝鮮半島を支配しており、また中国の満州などに権益を持っており、中国の一部植民地のように支配していたので、それら朝鮮半島や中国では、日本へ反発する運動がさかんになった。 朝鮮半島では、1919年3月1日に京城(けいじょう、今のソウル)で、民衆が、日本からの独立を求めて「独立万歳」(どくりつばんざい、独立マンセー)と言って行進する運動が起きた。これを三・一独立運動(さん・いち どくりつうんどう)と言う。 これをキッカケに朝鮮各地でも、日本からの独立を求める運動が起きた。 しかし朝鮮総督府は、これらの運動を取り締まり、武力で鎮圧した。 その一方で、総督府は強圧的な方針の一部をあらため、朝鮮人の権利の一部を拡大し、朝鮮での言論や出版や結社などを、部分的に認めた。 日本人の思想家である柳宗悦(やなぎ むねよし)は、三・一独立運動に関して、日本の朝鮮支配を批判した。「反抗する彼らよりも一層愚かなのは、圧迫する我々である」と批判した。当時、ほとんどの日本の文化人が朝鮮文化に興味を示さない中、朝鮮美術(とりわけ陶磁器など)に注目し、朝鮮の陶磁器や古美術を収集した。 中国に権益を持っていた国は日本だけではなくヨーロッパ諸国も同様だが、しかし日本は「二十一か条の要求」で中国に高圧的な要求したばかりという理由もあり、中国での反・帝国主義の運動では、日本が主に敵視された。 1919年5月4日には、二十一か条の要求の取り消しを求めて、北京(ペキン)で学生による行進があった。これを五・四運動(ご・し うんどう)と言う。これをキッカケに、中国の各地でも、日本への抗議運動が起きた。 日本の商品などへのボイコットも起きた。 (「ボイコット」とは不買運動のこと。) 中華民国は独立国である。なので、「独立運動」とは言わない。たとえ列強に権益を持たれているといっても、いちおう中華民国は独立国である。 このような情勢のもと、孫文(そんぶん、スンウェン)は中国国民党(ちゅうごく こくみんとう)を結成した。 また、孫文とは別の勢力が、中国共産党(ちゅうごく きょうさんとう)を1921年に結成した。 なお、孫文は1925年に病死する。孫文の持っていた権力は、孫文の死後は、国民党の軍を掌握していた蒋介石(しょう かいせき、チャンチエシー)が権力をにぎることになる。 イギリスなど欧米は、インドなど植民地のアジア諸国に対しては、第一次世界大戦中には、戦後の自治の拡大を約束して、協力を呼びかけた。しかし、その約束は守られなかった。 インドではガンディー (Gandhi)などの主導により、自治やイギリスからの独立を求める運動が起きた。 ガンディーは「非暴力・不服従」( 非暴力 = Non Violence 不服従 = Civil disobedience)の方針を掲げて、独立運動を指導した。 だがしかしイギリスは、弾圧をつづけた。
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を参照してください。 を参照してください。 第一次世界大戦中の1915年(大正4年)に、日本は中国政府(袁世凱の中華民国)に要求を出した。二十一か条の要求(にじゅういっかじょう の ようきゅう)という。要求の内容は、中国における、ドイツの山東半島などの権益を、日本が受け継ぐ事を認めさせる内容の要求だった。また、満州や内モンゴルでの日本の権益を認めるさせることも、日本は要求した。日本は、要求のほとんどを中華民国に認めさせた。 中国では民衆などに、日本への反対運動が起きた。 第一次世界大戦の被害を、日本とアメリカは、ほとんど受けなかった。またヨーロッパは戦争のため、中国などのアジア市場に手が回らず、そのため日本がアジア市場を、ほぼ独占でき、日本の輸出先がアジアにも広がった。 従来の輸出先のアメリカとの貿易も、ひきつづき好調だった。 さらに軍需や船などの需要が増え、日本の軍需産業や造船業や鉄鋼業が好景気になった。また、欧米からの輸入がとだえたため、染料・薬品などをつくる化学工業が発達した。こうして結果的に、重化学工業が、日本で発達した。 このような要因があり、日本は好景気になった。この第一次世界大戦による日本の好景気のことを、「大戦景気」(たいせん けいき)という。 商人には、うまく商売に成功して、急に大金持ちになるものが出てきた。彼らは「成金」(なりきん)と呼ばれた。将棋で「歩」の駒が裏返ると「と金」になることに例えられたのである。 特に、船と鉄に関する商売が好景気だったので、船成金(ふねなりきん)などが出てきた。 また、日本で商工業が発達したことにより、都市で働く労働者の人口が増えた。 また、水力発電がすすんだ。 連合国は、ロシア革命が周辺国に広がることをおそれ、革命反対派に協力するため、1918年にシベリアに出兵した。イギリス・フランス・アメリカ・日本が出兵。日本は約7万人の軍隊をシベリアに出兵した。これらの出来事をシベリア出兵(シベリアしゅっぺい)という。 好景気にともない、物価が上昇した。特に戦争により米の輸入が減ったこともあり、米の価格が上昇した。 またシベリア出兵のため、米の買占めも起きた。 米の価格が上昇すると、米の値上がりを期待して取引で儲け(もうけ)ようとする商人などがあらわれはじめ米の買い占めがおこり、ますます米が値上がりしていった。米が急に値上がりしたので、庶民は米が買えなくなり、また、かわりの穀物(こくもつ)も、すぐにはできないので、庶民は食べ物にこまることになった。 1918年には、富山県で主婦たちが米屋に安売りを要求して暴動がおきたことをきっかけに、全国で米の安売りをもとめる暴動が起きた。 これら一連の米に関する騒動(そうどう)を、米騒動(こめそうどう)と言う。 当時の内閣の寺内正毅(てらうち まさたけ)内閣は、この米騒動により議会で辞職に追い込まれた。 そして1918年に新しい内閣総理大臣が決まり、立憲政友会の総裁の原敬(はら たかし)が、寺内の次の内閣総理大臣になった。 原内閣は、軍部と外務大臣以外の大臣が、すべて政党出身(立憲政友会)であり、はじめての本格的な政党内閣だった。 このように、好景気にかんして、いろんなことが日本で起きた。 しかし、ヨーロッパでの世界大戦が終わり、ヨーロッパの産業が回復してくるにつれて、日本は不景気になっていった。1920年には、日本は不景気になっており、多くの会社や工場が倒産(とうさん)した。 藩閥政治(はんばつ せいじ)を批判し、政党による政治を主張する 護憲運動(ごけん うんどう) が政党から主張された。 立憲政友会の尾崎行雄(おざき ゆきお)や、立憲国民党の犬養毅(いぬかい つよし)などが護憲運動の中心になった。 そもそも日露戦争後の日本の議会の政権では、政党の立憲政友会を基盤とした内閣と、藩閥・官僚・陸海軍を基盤とした勢力とが、交互に政権を担当していた。 1912年には、陸軍が軍備増強の要求をしたが、政権を担当する立憲政友会の総裁(そうさい)の西園寺公望(さいおんじ きんもち)の西園寺内閣(さいおんじ ないかく)が財政難を理由に増強案を拒否したので(※ 日露戦争後なので財政難)、内閣に圧力をかけるために陸軍大臣が辞職して、内閣が解散するはめになった。そして、後任の首相には藩閥の支持する桂太郎(かつら たろう)がついた。しかし、民衆がこれに反発し、倒閣運動を起こし(第一次護憲運動、だいいちじ ごけん うんどう)、倒閣運動は日本各地に広がり、桂内閣は50日あまりで倒れた。 この第一次護憲運動で、尾崎行雄や犬養毅が運動の中心になったのである。 護憲運動などにより、民衆の意見を政治に反映すべきだという考えが強まった。 政治学者の吉野作造(よしの さくぞう)は、民衆の意向を議会や政治に反映させるべきだと説き、吉野は民本主義(みんぽん しゅぎ)を唱えた。「民本」(みんぽん)という語の理由は、当時の日本の主権者は天皇だったので、「民主主義」という語は天皇の主権を侵すことと考えられていたので、「民本」と言う語を吉野は用いた。 そして、この民本主義の思想によって、普通選挙を要求する運動が強まった。 以上のように、大正時代には、自由主義、民主主義(デモクラシー)的な社会の風潮があった。このような大正時代の民主的な風潮のことを大正デモクラシー(たいしょうデモクラシー)という。 1925年の加藤高明(かとう たかあき)内閣で、普通選挙制が成立。満25才以上のすべての男子に選挙権が与えられた。納税額は、選挙権には関係なくなった。まだ、女子には選挙権は無い。 1928年には、第一回の普通選挙が行われた。 加藤内閣以降の議会では、衆議院で多数をしめた政党の総裁が首相になることが、「憲政の常道」(けんせい の じょうどう)とされ、五・一五事件(ご・いちご じけん)の起こる1932年まで、おこなわれていった。 女性の地位の向上や、女子の選挙権の獲得を目指す女性解放運動(じょせい かいほううんどう)が、平塚らいてう(ひらつか らいちょう)などにより主張された。 平塚らいてうは市川房枝(いちかわ ふさえ)と協力して、1920年に新婦人協会(しんふじん きょうかい)をつくった。 なお、青踏社(せいとうしゃ)は文学団体。いっぽう、新婦人協会は政治団体。 しかし女性の選挙権獲得は、(第二次世界大戦の終結の)1945年まで無い。 1922年に被差別部落への部落差別の解消をうったえるための全国水平社(ぜんこく すいへいしゃ)が京都で結成した。 そのほか、北海道では1930年に北海道アイヌ協会が設立された。 第一次世界大戦が終わり、しばらくの間、世界は、そこそこ平和だったこともあり、また欧米との各国での軍縮に関する条約もあり、日本では軍備が縮小された。 大正時代には、都市ではガス、水道、電気、電灯が普及した。(※ 水力発電が大正時代に始まったことと関連づけて、電気や電灯が大正時代に普及したことを覚える。) 工業の発展が背景にあり、そのため専門知識をもつ労働者の必要性が生じ、都市などでは、会社勤めをするサラリーマンがあらわれた。 そのため、都市の郊外も開発された。このころの新式の住居には、洋間を利用した「文化住宅」(ぶんかじゅうたく)があらわれた。郊外に、このような文化住宅が多く建築され、サラリーマン家庭が住んでいた。 また、都市と郊外をつなぐ交通手段としての必要などから、電車や鉄道が使われるようになった。バスも普及した。さらに、東京では地下鉄が、浅草・銀座などに開通した。 ターミナル駅もあらわれた。そのターミナル駅の周辺には、デパートや劇場なども、あらわれた。鉄道会社が中心となって、このような鉄道周辺やターミナル周辺の郊外の開発をすすめた。 都会にはデパートなどもできた。 食事では、パンを食べることも広がった。 洋食屋も普及し、カレーライス、オムレツ、コロッケなどの洋食も普及した。キャラメルやドロップなどの洋菓子も普及してきた。(※ 洋菓子の普及については、清水書院や帝国書院のコラムに記載されている。キャラメルなど、明治大正のころに国産の洋菓子が登場してきた。) また、女性タイピストやバスガールや女性アナウンサー(ラジオ用)などの「職業婦人」(しょくぎょ うふじん)が表れた。男性労働者では、工場や役所などに勤めるサラリーマンが増えてきた。 (※ 発展: )また、役所などのサラリーマンの服装を通じて、背広(せびろ)が普及しはじめた。(※ 清水書院の教科書に、「背広」の記載あり) 洋服は、先に男性を中心に洋服が普及していたが、大正時代になると女子の洋服も普及してきた。バスガールなどの制服にも、洋服が採用された。また、女学校の制服に洋服(セーラー服など)が取り入れられた。(※ 洋服については、東京書籍や教育出版などに記載あり。) 義務教育は、ほぼ完全に普及した。さらに、中学校や女学校への進学者も増えてきた。このような背景もあり、雑誌や新聞を読む人が増えた。発行部数(1日の発行部数)が100万部をこえる新聞もあらわれた。 また、活字本を読める人も増加したため、当時としては比較的に価格の安い1冊1円の円本(えんぽん)による文学全集シリーズ本が流行した。それからは庶民が比較的気軽に文芸に親しめるようになった。(※ それ以前は、文芸は富裕層だけが楽しめた文化であった。) 同じころ、文庫本なども出版され始めた。 大衆小説が流行り、江戸川乱歩(えどがわ らんぽ)も、この時代に流行った作家である。 このような大衆へのメディアの普及が、大正デモクラシーの背景にある。 ラジオ放送が始まったのも、大正時代である。1925年に東京、大阪でラジオ放送が始まった。(※備考. 放送開始の翌年には、東京・大坂・名古屋の放送局が合併して日本放送協会(NHK)が設立した。) 映画とレコードが、大正時代のころから流行をしはじめる。映画では、アメリカの映画も劇場公開された。 映画では、はじめは音声がなく、かわりに弁士がセリフや解説をしゃべる無声映画であり、当時は活動写真(かつどう しゃしん)とよばれていた。しかし1920年から、有声映画(ゆうせい えいが、いわゆる「トーキー」)が始まる。 アメリカ映画やジャズなどの日本での普及を通して、アメリカ的な文化が日本に流入していき、そのようなアメリカの大衆娯楽的な文化は「モダン」と言われた。(※ 帝国書院に記載あり。) 同じころ、洋服が普及してきたこともあって、私服などで洋服を着ることも「モダン」と言われた。 街中などで洋装をした若者は、洋服を着た女性なら「モガ」(「モダン・ガール」の略)と言われ、男性なら「モボ」(モダン・ボーイ)などと呼ばれた。 野球などのスポーツも流行した。テニスも、知られてきた(※ テニスの参考文献: 帝国書院の教科書)。 競馬も人気に。 民俗学(みんぞくがく)という、農村の庶民の文化を研究する学問を唱えた柳田国男(やなぎだくにお)が表れた。 哲学では西田幾多郎(にしだ きたろう)が『善の研究』(ぜん の けんきゅう)をしるし、ドイツ哲学に東洋の禅の思想を加えた解釈を築いた。 芥川龍之介(あくたがわ りゅうのすけ)、志賀直哉(しが なおや)、谷崎潤一郎(たにざき じゅんいちろう)、 児童向けの文芸雑誌『赤い鳥』には、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』(くものいと)が掲載された。 児童向けの文芸雑誌『赤い鳥』には、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』(くものいと)や、新実南吉(にいみなきち)の『ごんぎつね』が掲載された。 労働組合の指導により、ストライキなどの労働争議(ろうどう そうぎ)が盛んになった。 労働運動を行っていた友愛会(ゆうあいかい)などの指導により、1920年(大正9年)には日本で最初のメーデーが開かれた。 1921年には友愛会は日本労働総同盟(にほんろうどうそうどうめい)と改名した。 農村でも、小作料引き下げなどの要求をする小作争議(こさく そうぎ)が盛んになった。 1922年には全国的な農民組合である日本農民組合が結成された。 また1922年には日本共産党がひそかに結成された。 また、1925年の男子普通選挙が実現した年と同年、暴力的な革命運動を取り締まる目的で治安維持法(ちあん いじほう)が1925年に成立した。治安維持法を制定した背景には、ソビエトなどから革命思想が日本に入ってくることを恐れたのだろう、という説が有名である。 だが、この治安維持法は、本来の目的とはちがい革命とは結びつかない労働運動をも取り締まる目的で悪用されることになり、さらに、のちの時代には政府に反対する者を弾圧するために悪用されることになる。 1923年に、関東地方で東京と横浜を中心に大地震(だいじしん)が起きた。死者・行方不明者は14万人以上であった。この地震を 関東大震災(かんとう だいしんさい) と言う。 また、地震による被害(ひがい)で、日本の不景気が、さらにひどくなった。 なお、この地震で、「朝鮮人が反乱を、くわだてている」という内容のデマ(「デマ」とは、かんちがいした連絡や伝言などのこと。)が飛び交い、不安にかられた民衆らが、朝鮮人や社会主義者らを殺害する事件が起きたという。殺害された人数については、現代の歴史学では、定説がなく、人数は定まっていない。当事の司法省は230名あまりの朝鮮人が殺害されたと発表した。 東京に朝鮮人がいた理由は、当時は韓国併合後の時代だったので、仕事などで日本に働きに来ていた朝鮮人がいたのです。 震災後の復興では、大都市の公共の建築物は、赤レンガから鉄筋コンクリートに置き換えられていった。(帝国書院の教科書に、鉄筋コンクリートの記載あり。) 復興のさい、火災などの延焼を防ぐため、各地に(建物以外の)公園などを設けた。このような、防火のための、公共の空き地のようなものを、「防火帯」(ぼうかたい)という。隅田公園(すみだ こうえん)は、その役割を持っている。[2] また、小学校に隣接する公園を増やした。これも、後藤新平などが、関東大震災の復興として主導したものである。 こうした後藤新平らの手法は、その後の災害復興でも参考にされた。1995年の阪神・淡路大震災後の神戸市の復興事業でも,この時の計画が参考とされた。[3]
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第一次世界大戦の前からアメリカは生産力がとても高かった。さらに戦争によってヨーロッパが弱体化したので、戦後(第一次世界大戦後)はアメリカが世界経済や国際政治の中心地になった。 1929年に、アメリカで株価が大きく下がった。株価などが大きくさがることを「暴落」(ぼうらく、英:Crash)あるいは「大暴落」(だいぼうらく、英:Great Crash)などという。この株価の大暴落をきっかけに、世界的な不景気になり、世界中で多くの会社が倒産したり銀行が破綻(はたん)して、世界中で失業者が増えた。このアメリカの株価の暴落がきっかけになった世界の不景気を世界恐慌(せかい きょうこう、英:world economic crisis ワールド・エコノミック・クライシス)という。 このアメリカでの暴落が起きた日が木曜日だったことから、「暗黒の木曜日」つまり英語に直すと「ブラック・サーズデイ」(black Thursday)とも、言うようになった。アメリカでは、労働者の4人につき1人が失業した(失業率25%)。 日本では世界恐慌の前から、すでに大戦景気の終わりによって不景気になっていた。日本では、世界恐慌の起こる前から、たびたび国内で不景気による恐慌が起きていた。1923年には関東大震災で、経済も大きく傾いた。 日本では1927年に、多くの銀行の倒産や休業があいつぎ、取り付け騒ぎも起こって、金融恐慌(きんゆう きょうこう)が起きていた。(※ 昭和戦前の「金融恐慌」を覚えさせるは中学範囲外だが、高校で覚えさせられるので、覚えた方が良い。この用語自体は、中学の検定教科書にも書いてある。) このような日本国内の金融恐慌にくわえて、世界恐慌が1929年に起きたので、日本は大きく不景気になった。 アメリカ向けに生糸などの輸出をしていたので、日本も世界恐慌の影響を強く受け、日本はとてつもなく不景気になった。 そして日本では、多くの会社が倒産した。このため、三菱や三井・住友などの財閥が倒産した会社の事業を吸収した。だが、このことによって、財閥が大もうけしていると庶民から見られるようになり、財閥が敵視されるようになっていった。 世界恐慌後、日本では農業が混乱していた。まずアメリカ向けの生糸が売れなくなったことから、日本では生糸の原料の まゆ の価格が暴落し、養蚕業(ようさんぎょう)が衰退した。さらに1930年では、豊作で米の価格が暴落し、農家の収入が減り、農家が苦しくなった。そして翌年の1931年は凶作となり、東北地方を中心に、農村が不況になった。欠食児童(けっしょくじどう)がでたり、娘(むすめ)を身売りする家も出てきた。 いっそ農村から脱出して都市で働こうにも、むしろ都市で失業した人が農村にもどってくる状況であった。 このように世界恐慌の影響が、日本では1930年ごろから影響があらわれはじめ、昭和恐慌(しょうわ きょうこう)となった。 (※ 昭和戦前の「昭和恐慌」を覚えさせるは中学範囲外だが、高校で覚えさせられるので、せっかくだから覚えてしまおう。この用語自体は、中学の検定教科書にも書いてある。) このように日本国民の生活が苦しくなってきたため、労働争議や小作争議が、はげしさを増していった。 恐慌の名前のつく出来事が、たくさん出てきたので、順序をまとめよう。 の順序で起きている。 このうち、因果関係が直接的にあるのは「世界恐慌 → (日本での)昭和恐慌」である。 同じころ、第一次大戦後の軍縮のながれがあったので、各国の政府は不景気もあり軍事費をへらすため、軍縮に同意した。 1930年には、ロンドン海軍軍縮会議に日本も参加して、この条約(ロンドン海軍軍縮条約)に調印した。 (※ 昭和戦前の「ロンドン海軍軍縮条約」を覚えさせるのは中学範囲外だが、高校で覚えさせられるので、せっかくだから覚えてしまおう。この用語自体は、中学の検定教科書にも書いてある。) しかし、日本の軍人たちの中には、この軍縮を敵視した。そして、この軍縮条約が、天皇の権限を犯しているという口実で、政党を批判する意見が、軍部内に強くなった。 首相の浜口雄幸(はまぐち おさち)は、過激派の右翼の暴漢におそわれて負傷し、浜口は退陣をした。 また、このころ恐慌だったため、政党が財閥の味方をして民衆を苦しめていると考える勢力が、軍部内に多くなり、軍部からは政党を敵視する意見が強くなった。 (※ なお1928年には、張作霖(ちょうさくりん)を爆殺した事件を、日本の陸軍が起こしている。) 世界恐慌(1929年に起きる)の起こる前から、イタリアでは1922年にムッソリーニひきいるファシスト党が政権をにぎっていた。 このファシスト党が独裁的な政党だったので、このような思想を、のちにファシズムというようになった。 ドイツでは第一次大戦の賠償(ベルサイユ条約にもとづく賠償)で国家財政が苦しくなっているのに加えて、そこに大恐慌がやってきたので、貨幣のマルクの信用が落ち、物価がものすごく上がった。このように物価が上がることを インフレ(英:inflation インフレーション) と言う。ものすごく物価が上がることを ハイパー・インフレ(英:Hyperinflation) という。 パンなどの食料品を買うのにすら、手押し車に札束をたくさんつめて買い物をする、という状況であった。 このような状況のため、ドイツ経済は大混乱になり、失業者があふれた。 1933年には、ヒトラーのひきいるナチ党(「ナチス」ともいう)が政権を取った。ヒトラーは公共事業をおこして失業を減らすことに成功したので、ドイツ国民からの支持をあつめた。 ナチスは、ドイツ民族の優秀さを強調するいっぽう、ユダヤ人を迫害し、また共産主義者を敵視した。 また、ベルサイユ条約を無視して再軍備をした。このため軍需産業も活発になり、これも景気の回復に役だった。 日本で世間一般に「ナチ」や「ナチス」と言った場合、ヒトラーの時代の彼らの党のことを言う場合と、ヒトラーらの政権が支配する時代のドイツ軍や、ヒトラー政権時代の軍国主義的なドイツ国全体のことを言う場合がある。 いちおう、現代では、学術的には、政党名として「ナチス」「ナチ」などというのが基本的とされている。21世紀の現代日本の中学の検定教科書でも、まずヒトラーたちの政党名として「ナチス」「ナチ」などの用語を紹介している。 しかし、東京書籍(教科書会社のひとつ)の教科書を読むと、ドイツ軍のほうの意味でか、「ナチスは(中略)。(次の文では主語を省略)東方に領土を拡大しました」のように、ドイツ軍またはドイツ国のほうの意味でも「ナチス」と読み取れるような表現もある。 また、教育出版(教科書会社のひとつ)の教科書では「ナチ党」のように、政党のことを言う場合には、語尾に「党」をつけている。 歴史的には、もともと第二次大戦のときに、英米など、第二次大戦でのドイツの交戦相手国が罵倒(ばとう)のような意味で「ナチ」「ナチス」「ナチ・ジャーマニー」(ジャーマニーとはドイツ人のこと)などと言いはじめた経緯(けいい)がある。 ナチ・ジャーマニーという表現については、日本では、「ナチス・ドイツ」などと和訳される。 欧米などの各国は、世界恐慌の負担を、植民地におしつけた。そのため、イギリスとフランスは、本国と植民地とのあいだだけで自給自足をしようとして、外国からの輸入品には高い税金をかけて、追いだそうとした。(このような、外国の商品にかける税金を関税(かんぜい)と言う。つまりイギリスやフランスなどは、輸入品に高い関税をかけた。) ※「関税」(かんぜい)という言葉も、地理分野や公民分野の範囲なので、おぼえよう。「関税」そのものは、現代でも存在している制度である。 このようにして植民地と本国だけからなるブロック内で自給自足する ブロック経済(ブロックけいざい、英:bloc economy) をつくっていった。そのため、今までの自由貿易主義を、イギリスやフランスは、やめていった。 こうなると、日本やドイツなどの、あまり大きな植民地をもたずに、貿易による輸出で稼いでいた国は、とても経済が苦しくなることになる。実際に、日本の経済は苦しくなっていった。 イギリスほどの植民地ではないが、日本もまた満州に権益をもっていたので、満州の権益の保護を強めようとした。 アメリカ合衆国のルーズベルト大統領は、失業者を減らすために公共事業をたくさん起こすなど、政府が積極的に仕事をつくって経済を回復させるニューディール政策を1933年から行った。 「ニューディール」とは「新規まき直し」という意味である。 テネシー川にダムをつくるなどの公共事業を行った。また、政府は労働組合を保護し、労働者の賃金をあげる政策を行った。 ソビエト連邦は、経済が共産主義であり、欧米型の資本主義ではなかったので、あまりソビエトは世界恐慌の影響をうけなかったとされる。 このようなこともあり、世界恐慌にくるしむ各国では、ソビエトのように経済における統制をしようとする意見が強まっていく。 そして、経済だけでなく、政治全体においても統制を強めようとする全体主義(ぜんたいしゅぎ)の意見が、日本でも軍部などを中心に強まっていく。 こうして、世界恐慌により、全体主義の国が増えていく。 ドイツおよび日本の全体主義的で軍国主義的な思想や傾向は、ファシズムと言われた。元々の意味は、イタリアの政党の「国家ファシスト党」(こっかファシストとう、イタリア語: Partito Nazionale Fascista、PNF))の政治思想が言葉の由来である。 このイタリアのファシスト党の政治思想が全体主義的で軍国主義的な思想だったので、このような全体主義的で侵略的な思想をファシズム(fascism)というようになった。そして、このような軍国主義的な傾向をかかげるドイツや日本の政治家を、アメリカやイギリスなどが「ファシスト」(fascist)と批判するようになった。「ファシズム」という用語は、アメリカなどがドイツを批判するためにもちいたのであり、ドイツのナチス党自身はナチス自身の政策のことを「国家社会主義」(こっか しゃかいしゅぎ,ドイツ語: Nationalsozialismus、英語: national socialism)と言っていた。 (※ 発展: )第二次大戦前後および戦中のドイツ・イタリア・日本の3国の同盟関係をあらわす歴史用語として、「枢軸国」(すうじくこく)という用語がある。 枢軸国の語源は1936年の「ベルリン=ローマ枢軸」というドイツ・イタリアの協定である。(※ 東京書籍の教科書でも、語源として「ベルリン=ローマ枢軸」という語句だけ紹介している。) 歴史学では、「ファシズム」という用語は国際的にも学術用語・歴史用語として定着している。 この国際的な意味での歴史用語・学術用語として「ファシズム」の意味は、単にドイツとイタリアと日本の、世界恐慌後から第二次大戦終了までの政治の、強権的な政策や、軍備拡張的な政策、対外侵略的な政策のことを言ってるだけです。 日本国の中学や高校の学校教育での教科書も、国際的な「ファシズム」の意味と同じように、単にドイツ・イタリア・日本に限定して「ファシズム」という用語が使われている。 「ファシズム」(伊: fascismo)の語源はイタリア語の「ファッショ」(束(たば)、集団、結束)である。 なお、ドイツ・日本・イタリアの3か国とも、ソ連の共産主義を敵視していた。このため、共産主義とファシズムとは、べつべつの思想として取りあつかうのが、現代では普通である。
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中華民国では、孫文の亡くなったあと、蒋介石が国民党の実権を握った。一方で、中国には辛亥革命のあと、各地で多くの軍閥が、おたがいにあらそっていた。軍閥の中でも特に有力だったのが、満州から北京一帯を支配する張作霖だった。 蒋介石の率いる国民政府軍が共産党をおさえて各地の軍閥を倒して統一を進めていた、1927年、国民政府軍が南京で外国の領事館などを襲撃すると、イギリスとアメリカは武力で報復したが、協調外交を進める日本は参加しなかった。これにより、政府の外交政策は軟弱であると批判されることになる。 1928年には国民党軍は北京にせまった。このとき、張作霖は北京から奉天に引き上げようとした。その列車の中で、張作霖は殺害され、満州占領のきっかけとなる(張作霖爆殺事件)。 満州現地に駐留していた関東軍は、軍閥や国民党よりも先に満州を占領しようと考えた。 関東軍は、満州を占領する口実をつくるため、柳条湖ちかくの南満州鉄道の線路を爆破し、中国側のしわざだと断定した。そして、自衛を口実として奉天などの都市を占領し支配下においた。この自作自演の事件を 柳条湖事件という。 そして1932年に、日本軍は満州国の建国を宣言した。 満州は表向きは独立国とはいうものの、満州の政治は日本人がおこなっており、実際は満州は日本の領土のような状況であった。 このことから、第二次大戦後の日本の歴史教科書では、満州国のことを「傀儡政権」「傀儡国家」などと言われることが多い[1]。 このとき日本政府は、中国とは戦争をしない方針だった。しかし、日本の世論が中国と協調しようとする日本政府を弱腰だと批判したこともあり、このような背景のもと陸軍は事変を強行して満州を占領をしていき、満州国の建国を宣言した。そして、清朝の最後の皇帝であった 溥儀 を、満州国の元首にさせた。 この一連の満州国の建国にいたるまでの事件および前後の事件を満州事変[2] という。 当時の中華民国は満州国の建国をみとめず、日本と対立した。 1932年、日本政府は満州の問題を、中国との話し合いで解決しようとしていた。首相の犬養毅は、満州国の承認には反対していた。しかし1932年の5月15日、日本海軍の一部の青年将校らが総理官邸に乱入して、犬養を殺す事件をおこした。この事件を 五・一五事件 という。 犯人の軍人たちは、法律で処罰されることになった。だが、当時は政党の評判がわるかったので、世論では刑を軽くするべきだという意見が強く、犯人の軍人への刑罰を軽くした。このような決定のせいで、のちに、軍人による、政治に圧力をくわえるための殺人事件がふえていくことになる。 次の首相は斉藤実(海軍出身)に決まった。そして斉藤内閣は、満州国を承認した。 その後も軍人や官僚出身の首相がつづき、第二次世界大戦のおわりまで政党出身の首相は出なくなった。このような理由もあり、五・一五事件で政党政治が終わったと言われる。 中国政府は、日本の満州での行動は不法である、と国際連盟にうったえた。そして、国際連盟による調査がおこなわれることになり、イギリス人のリットンを委員長とする調査団(リットン調査団、英:Lytton Commission) が満州におくられた。 調査団の報告と分析は、つぎのようなものであった。 リットン報告書(英:Lytton Report)は満州国建国は否定したものの(なので満州地域の名目上の主権者は中国[3])、日本の権益も認めたものであった。しかし、日本の世論および政府は報告書の提案に反発した。 日本は満州事変前にも満州の一部(満鉄の付属地など)に権益を持っていたので、その事変前の権益は、事変後にも維持されている。(つまり、決して満州全域から撤退したのではない。[4]) なお、リットンの調停案では、最終的には実現しなかったが、中国の主権のもと、実際は国際連盟からの外国人顧問による自治政府を作ってはどうか、というものだった[5]。一説には、これは事実上、国際連盟の委任統治とするものだという説もある[6]。 ※ 中学レベルどころか高校レベルでも難しいので、詳細は覚えなくていいだろう。 しかし、名目上、リットンの調停案では、中国は満州への主権を持っている[7]のも、忘れてはならない。 日本から国際連盟におくられた全権の松岡洋介(まつおか ようすけ)は脱退に反対し、収集のための連盟での演説に努力をした。 しかし、この間にも満州では陸軍が占領地を拡大していったこと(熱河作戦)から、日本は国際的な信用を失った。ついに日本は1933年3月に国際連盟から脱退した。 なお、ドイツも翌1934年に国際連盟を脱退する。このように主要国である日本とドイツが脱退してしまったので、国際連盟は紛争の調停の場所としての役割が弱まってしまう。 さて、建国後の満州国は、日本からの投資もあり好景気になって工業化が進んだ。満州では自動車なども生産できるようになった。当時は世界恐慌の影響がある時代だったが、日本では、国策による満洲関連の投資や軍需産業への投資などが始まり、日本では、あらたに成長する新興の財閥があらわれた(いわゆる「新興財閥」)。 しかし農村では、ひきつづき不景気が続いていた。また、満州を開拓する人々を満蒙開拓団として募集したので、日本から多くの移住者が満州に移り住んだ。日本政府は満州を「王道楽土」「五族協和」などと宣伝し、朝鮮や中国など周辺の地域からも多くの者が満州に移住した。 1936年、陸軍の青年将校の一部が、1936年2月26日に兵数1400人ほどの部隊を率いて反乱を起こし、首相官邸や警視庁などの政府の主要機関や大臣らを襲った。首相の岡田啓介は一命をとりとめたものの、前首相の斉藤実と蔵相の高橋是清などが、反乱軍[8]によって殺害された。 反乱軍は、日本の不況や国難の原因を政党と財閥による腐敗政治だと唱え、天皇中心の政治を行うことをめざした。 結局、この反乱は4日で鎮圧され、首謀者たちは処刑された。 しかし、不況を解決できない政党政治への不信や国際協調路線に対する不満などから国民や新聞の多くは、青年将校たちの反乱を賞賛した。このため、以降の政治では、軍部の発言力が強まっていく。 一部の政党政治家も、政争を自分たちの党に有利に進めるために、国民による軍部の支持を利用して、軍部に理解をしめしたので、議会が軍部につけこまれる原因をつくってしまった。また、議会でも国際協調路線の政治家の発言力が弱まっていく。軍部内でも、外国に対して強硬的な方針の者の発言力が強まり、国際協調などの路線の発言力は弱まっていく。 そして、軍部に反する言論が取り締まりを受けることになっていった。 大正デモクラシーの自由主義的な風潮から一転して、昭和初期の日本では、議会の制度はあったものの、しだいに、まるで軍部の支配する国のようになっていく。 日本は、ワシントン軍縮条約・ロンドン軍縮条約を、アメリカやイギリスと結んでいたが、1936年に軍縮条約が期限をむかえるのに合わせ、軍縮条約を破棄し、日本は軍備を増強していく。 こうして、第一次大戦後の国際体制の「ワシントン体制」は崩壊していった。 1930年代の当時の日本経済は、世界恐慌の影響で世界的な不況下だったが、ドルに比べて円安だった時期があって、綿製品や雑貨などが一時的に輸出がふえた。しかし、その後、欧米諸国が日本製品の関税を引き上げた。 いっぽう、日本では政府が軍需産業に投資を行ったので、重化学工業が発達した。
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1937年に盧溝橋事件が何者かにより発生し日中戦争が起こる。宣戦布告 (戦争を始める旨の事前通告) をしないまま、日本軍は中国に侵攻し、特に首都[1]の南京を占領した際に市民や捕虜を殺傷し、多数の死者を出した。これを南京事件という。なおこの事件については、現在残されている資料では規模を完全に把握出来ないというのが実情である。中国はゲリラ戦などを駆使し激しく抵抗する。 満州事変以降、日本との関係が悪化し始めていたアメリカやイギリスなどが反発し、中国を援助する政策を取ったこともあり、戦争は長期化する。 戦争が長期化するにつれ国民生活も貧窮し始め生活必需品の配給制、物価統制が行われるようになった。また「挙国一致」(国のため一致団結しようというスローガン)の一環として1938年に国家総動員法が成立し、議会の同意なく、戦争に必要な人員や物資の動員が行われることが可能になった。1940年には、ドイツ (ナチス) やソ連の一党独裁を模倣して大政翼賛会を結成した。 戦後(第二次世界大戦後)の昭和の時代の中学高校の世界史教育では、今では勘違いだが、かつて「日本が中国を侵略していたとき、中国軍はほとんど近代兵器を武装していなかった」と中学校で教えられたと言われている[要出典]。 だが、これは間違いであると、21世紀の世界史研究で明らかになっている。 じっさいの中国はアメリカ・イギリスなどから高水準の武器の支援を受け、中国軍は欧米の戦車も持っているという、中国はなかなかの軍事強国の水準でもあった。また、このため、日本軍がなかなか苦戦をしいられた戦場もある。 1937年7月7日と8日に、北京にある盧溝橋という地区で訓練中の日本軍と中国軍が軍事衝突する[2]事件があった。この事件を盧溝橋事件と言う。[3]ここから、日中間での戦闘が始まる。 もし日本が宣戦布告をすると、日本は中立国アメリカからの輸入をできなくなったり、資金調達のための国債 (国の借金) を引き受けてもらえなくなるので、「戦争」とは言わずに「事変」という用語を用いて「北支事変」と呼称したが、事変といえど、北支事変は事実上の戦争であり、この北支事変が日中戦争の始まりであるとする中学校の教科書が多いはずだ。 盧溝橋事件で、最初に誰が発砲したかには、多くの説がある。 中国の国民党軍による警備上の発砲を日本側が攻撃と勘違いしたという説もあれば、中国軍が意図的に日本軍をねらって挑発したという説もあるし、日本軍の自作自演説もある。他の説には、中国には国民党と対立していた共産党という勢力がある[4]が、その共産党の陰謀で日本軍と国民党軍との戦争をねらった発砲だという説もあれば、ソビエト連邦のソ連共産党のスパイによる陰謀説もある。 しかし、真相はいまだ不明である。 日本軍は1937年8月に上海へ「上海地区に居る日本人の保護」を目的として派兵を行った。この戦闘を第二次上海事変と言う。あるいは、上海戦とも言う。 上海戦は4ヶ月ほど長続きした。そして12月には、日本軍は中華民国の首都の南京を攻略した。日本軍には、「南京を攻略すれば中国に勝てる」という考え (中国一撃論) があった。しかし、国民党の支配者であった蒋介石は、日本軍の南京の攻略の前に、すでに南京から脱出しており、日中戦争は継続された。 12月の南京攻略の際、日本軍により、住民など非戦闘員 (戦いに携わらない人) を含め、かなりの人々が殺害された。この1937年12月から1938年2月の南京で日本軍が多くの南京市民を殺害したとされる事件を 南京事件 と言う[5]。南京大虐殺と呼ばれることもある。 真偽や実情は今でも不確定であり、研究者などが研究中だ。日本政府は、国民に対し特に南京での住民の殺害の有無についての一切を語ることは無かった。そのため戦後になって極東国際軍事裁判によって多くの日本国民は南京での虐殺を知ることになる。 この日中戦争では、ソビエトやアメリカ、イギリス、フランスは、中国に軍事物資などを援助していて、中国側を支持していた。 アメリカ・イギリスは、フランス領インドシナから、物資を国民党に援助していた。一方でソビエトは、おもに中国共産党を援助した。 1938年、国会の手続きがなくても戦争に必要な物資や人を (政府が) 動かせるように、国家総動員法を定めた。 1940年には、近衛文麿内閣のもと、「挙国一致」(国を挙げて1つの目的を実行しようというスローガン)の体制をつくるため、ほとんどの政党や政治団体が解散して、大政翼賛会に合流した。 その後、戦争が長びき、日本では物資が不足したので、1941年からは米や日用品などは配給制や切符制になった。その他にも、「ほしがりません、勝つまでは」「ぜいたくは敵だ」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」などの標語が物資の節約のため唱えられた。 庶民たちは10戸ごとにまとめられ、「隣組」を組み、協力しあう事とされたとともに、互いに監視させられた。 もし、このような統制的な風潮に反対すると、「非国民」などとレッテルを貼られ、批判された。 朝鮮では、朝鮮人の名前を日本風の名前に変える創氏改名が行われた。朝鮮人の日本への同化政策から、朝鮮人から朝鮮名を奪い、日本人のような氏名を名乗るよう強制した。創氏制度は王族など特殊な例外を除き、全朝鮮人民に法規で適用されたものであった。
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中国大陸で日中戦争が行われているころ、ヨーロッパではドイツが軍事力を背景にして、オーストリアやチェコスロバキア西部(現在のチェコにあたる。)を併合した。 イギリスやフランスは、当初はドイツによる併合を認めていた。併合を認めていた理由は、ドイツの占領した地域がオーストリアなど民族的に近い国だったことや、ドイツが植民地を持たないこと、ソビエト連邦を封じ込めるためであった。しかし、ヒトラー率いるドイツは、その後、ポーランドの領土も要求した。イギリスとフランスは、ポーランドの支援を発表したが、ドイツはこれを無視した。 ドイツは、1939年8月にソ連と独ソ不可侵条約を結んだ上、1939年9月にドイツはポーランド西部に侵攻して占領した。そのため、ポーランドと同盟を結んでいたイギリスとフランスがドイツに宣戦布告[1]し、ドイツ対イギリス・フランスという列強どうしの戦争に発展した。ソ連もポーランド東部に侵攻して占領した。 このドイツによるポーランド侵攻をきっかけとして第二次世界大戦(英語: World War II)が始まった[2]。ただし、まだこのときはアメリカはイギリスの援助にとどまっていた。 1940年には、ドイツ軍は、デンマークとノルウェーを攻撃し占領した。さらにドイツはオランダおよびベルギーを攻撃。ドイツは1940年にはパリを占領し、フランスを降伏させた。そして、イギリス本土に上陸するためにイギリスへ激しい空襲を行う。 また、イタリアが、ドイツ側で参戦した。 いっぽう、独ソ不可侵条約をむすんでいたソ連はポーランドの東部を占領し、さらにフィンランドを侵略して戦争となった[3]。 1940年6月にフランスに、ドイツの傀儡政権[4]が建てられた(ヴィシー政権)。しかし、ドイツに抵抗する軍人や政治家はイギリスに亡命して自由フランスという組織を結成し、フランス国内に住む民間人に抵抗運動(レジスタンス)を呼びかけて抵抗した。 (※ 「レジスタンス」 英語: resistance )。英語で「抵抗する」をレジスト resist という。 1941年8月には、アメリカのルーズベルト大統領とイギリスのチャーチル首相との間に、大西洋憲章が結ばれた。ドイツに対抗して戦うことを確認した憲章である。このドイツとの戦いを、ファシズム国家による侵略から民主主義を守るための戦い、と宣言した。 1936年、共産主義国であるソ連に対抗するための、日独防共協定が日本とドイツとの間に結ばれた。また1937年11月にはイタリアが加入し、日独伊防共協定が結ばれた。 しかし1939年にはドイツとソビエトとの間で、独ソ不可侵条約がむすばれたため、防共協定は、いったん実効性がなくなった。 日本は、ドイツが勝利をつづけていることから、1940年にドイツとイタリアと同盟を結んだ。この三国の軍事同盟を日独伊三国軍事同盟[5](独:Dreimächtepakt、伊:Patto tripartito)が1940年に結ばれた。 この日独伊三国同盟によって、ドイツとの戦争の最中だったイギリスと、イギリスを支持するアメリカと日本との対立は決定的となった。 ドイツはナチスの政策にもとづき、占領地ではユダヤ人を迫害し、多くのユダヤ人を捕らえ、アウシュビッツ(ポーランド)の収容所など、各地の収容所に送った。ユダヤ人は収容所などで強制労働させられたり、処刑された。このため、ナチスの迫害から逃げるため、多くのユダヤ人が隠れて住んだり、あるいはアメリカなどに亡命[6]した。 このユダヤ人への迫害のようすを伝える史料として、ユダヤ人の少女アンネ=フランクが書いた日記が有名である。アンネは衰弱のため、収容所内にて15歳で亡くなった。 さて、1940年のこと。リトアニアの日本領事館にはドイツに追われたユダヤ人が集まっていた。リトアニアの日本領事館の外交官であった杉原千畝は、同盟国ドイツの意向に反して、杉原は人道の観点からユダヤ人をアメリカなどに逃がすために、途中経路の日本入国のビザを発給した。このため、約6000人のユダヤ人が命をすくわれた。 このほか、中国の上海などに逃げようとしていたユダヤ人が、満州国が入国をしぶったために足止めされていたので、日本の陸軍のハルビン機関長の樋口季一郎は、独断で列車の手配をして、通行させた。 なお、救出されたユダヤ人の人数については、史料ごとに人数が違っており、正確な人数は、よく分かっていない。 第二次世界大戦が始まった1939年は、日中戦争の最中だった。この頃には、戦争の範囲が拡大しすぎて日本にとっては収拾がつかない状態になっていた。また、アメリカやイギリスは中華民国の蒋介石を支持し、東南アジアなどの植民地から中国を支援していた。そのため、すぐに中国は降伏すると考えていた日本の目論見ははずれ、戦争が長期化していた。日本軍の侵攻は中国の主権と独立の尊重などを取り決めた条約(九カ国条約)違反であるとされ、国際的な孤立も深まった。 日中戦争の行きづまりを解決するため、アメリカやイギリスによる中国への支援ルートを断ち切ろうとした。石油・ゴム・錫などの資源の確保も重要だった。そのため、1939年に日本軍は東南アジアへの足がかりを求めて中国南部へと侵攻した。その結果、米・英・仏は警戒を強め、アメリカは日本に対して経済制裁を始めた。 1940年に入ると、ヨーロッパでドイツが次々と勢力を拡大していた。フランスはすでに述べたように、ドイツに占領されて傀儡政権のもとにおかれていた。オランダも国土が占領されて政府はイギリスに亡命していた。イギリスはドイツ軍の空襲を受け、激しい戦いとなっていた。 こうしたヨーロッパの状況を見た日本は東南アジアへの侵攻を進めた。そのために、1941年、ソ連と日ソ中立条約を結び、北方の安全を確保した。そして、1940~41年にかけてヴィシー政権の要請を受けるという形をとって日本軍はフランス領インドシナ[1]に進駐する。アメリカは日本の行動を侵略的な行動と認定し、日本への石油の輸出を全面禁止した。 アメリカにくわえ、オランダやイギリスや中国も、同様に日本への輸出を制限していた。この状況を、日本政府やマスコミは、アメリカ(America)・イギリス(Britain)・中国(China)・オランダ(Dutch)の4カ国の頭文字をとった「ABCD包囲網(または「ABCD包囲陣」)」と呼び、国民の敵愾心[2]をあおった。 日本の近衛内閣は、アメリカと交渉を進める一方、1941年の10月上旬までに交渉が上手くいかなければアメリカ・イギリスとの戦争を始めるという方針を固めた。このときの日本の要求は以下のようなものだった。 あまりにも都合の良すぎる日本側の提案はアメリカ側に受け入れられず、たちまちタイムリミットである10月がやってきた。しかし、近衛文麿は有効な手を打つことができず、軍・帝国議会・世論の強硬路線をおさえきれなくなった。そのため近衛内閣は総辞職し、陸軍大将の東条英機が新たに首相となった。 1941年11月26日、アメリカは日本に対して以下のような要求を出した。 このときのアメリカからの要求を「ハル・ノート」(英:Hull note)という[3]。「ハル・ノート」はあくまでアメリカの原則的な方針を書いたものでしかなかったが、日本はこれを「交渉決裂」と判断した。そして、1941年12月1日にアメリカ・イギリスとの戦争を正式決定した[4]。 1941年の12月8日に、日本海軍がアメリカのハワイの真珠湾(英:Pearl Harbor)にあるアメリカ海軍の基地を奇襲攻撃(真珠湾攻撃(英語:Attack on Pearl Harbor))した。真珠湾攻撃の約1時間前には、日本陸軍がマレー半島のイギリス領に上陸し、イギリス軍との戦闘がはじまった。こうして、 主に日本とアメリカ・イギリスが中心となった太平洋方面の戦争を、太平洋戦争(英語:Pacific War または Asia-Pacific War)という[6]。 この奇襲攻撃のあと、アメリカ政府は日本の外交官から日本の宣戦布告の知らせを聞いた。このため、アメリカ国内では、日本の奇襲攻撃は、だましうちだとして、アメリカで反日的な意見が強まっていった。「Remember Pearl Harbor」(意味:真珠湾を忘れるな! )が、アメリカでのスローガンになった。 日本のアメリカとの開戦後、ドイツ・イタリアもアメリカに対して宣戦布告した。こうして、日本・ドイツ・イタリアの3カ国を中心とする陣営(枢軸国)と、アメリカ合衆国・イギリス・フランス(自由フランス)・ソビエト連邦・中華民国を中心とする陣営(連合国)とが戦争するという形になった。 開戦当初、アメリカ・イギリスなどは戦争の準備が十分にできていなかったうえ、アメリカ海軍は真珠湾攻撃で大きな損害を受けていた。このため、日本軍は次々と勢力を拡大することができた。その際、日本は列強諸国によるアジアの植民地を解放するというスローガンを掲げた。そのため、当時の日本では大東亜戦争とよんだ[7]。 このように、日米戦争の開戦のはじめごろは日本が有利だった。だが、1942年にミッドウェー海戦で、日本は空母[8]を4隻失うなどの大損害を受け、アメリカに大敗した。その後、アメリカ軍も戦争の準備を整えていったため、ガダルカナル島の戦いなどを経て、日本軍は各地で敗北し、当初の占領地の多くを失った。そればかりでなく、太平洋戦争以前から日本が統治していた地域にもアメリカ軍が迫ってきた。 また、日本軍は食料や物資などの補給を軽視していたため、戦況が悪化すると物資の輸送が困難となり、いくつもの戦場で日本兵が餓死した。 なお、日本政府では、戦局の悪化にともない、議会では首相の東條英機の指導力をうたがう意見が強くなる。サイパンが米軍に占領されて日本列島がアメリカ軍の空襲範囲に入ると、東條は議会の政治家からの支持も失い、1944年(昭和19年)7月に東條内閣は総辞職に追い込まれた。 日本にとっての太平洋戦争の目的の一つは東南アジアの資源の確保だった。しかし、日本は、表向きの戦争の正当化の理由として、ヨーロッパ諸国による東南アジアでの植民地支配の打倒と解放という理念をかかげた。それを大東亜共栄圏とよんだ。 当時の東南アジアの地域の人々は、すでに独立運動を始めていた。独立運動の指導者たちは日本と利害が一致したので、当初は日本軍に協力した。 しかし、日本軍が支配するようになると、独立運動の弾圧、地下資源の独占、食料や物資の略奪、ゴムやジュートなどの軍事的に必要な作物への転換を強制したりするようになった。物資調達には軍票を用いたが、無計画に発行したため現地ではハイパーインフレが起き、経済を混乱させた。また、強制労働にアメリカ・イギリスなどの捕虜以外に現地の人々を動員したが、厳しい労働と少ない食料などから多くの犠牲者を出した。このため、今度は日本への不満が高まった。 1943年、日本は東京で大東亜会議をひらく。これは1941年8月にアメリカ・イギリスが発表した大西洋憲章に対抗するという目的もあった。タイ、満州、ビルマ、フィリピン、インドなどの代表をあつめ、欧米からの植民地支配の解放などをうたった大東亜共同宣言を発表した。しかし、日本軍による厳しい統治にはかわらなかった。 日本の劣勢が明らかになると、各地で日本に対する不満がゲリラなどの形でふき出してきた。ビルマ(現・ミャンマー)のように抗日組織が結成され、大規模な武装蜂起を起こした地域もあった。 第二次世界大戦の開戦直後はドイツ軍が圧倒的な速さで各地を侵攻したが、イギリスへの上陸はできなかった。そのため、ヒトラーは方針を転換し、1941年6月に不可侵条約を結んでいたソ連へと攻め込む(独ソ戦)。ドイツが攻めこんでくることを予想していなかったソ連は敗北を重ねるが、首都のモスクワの手前で踏みとどまり、激しい抵抗を行った。そして、1942~43年のスターリングラード攻防戦でドイツ軍は大敗し、ソ連がドイツ占領地へ侵攻を始めた。 ヨーロッパ西部でも、1944年にアメリカ・イギリス連合軍がフランス北西部のノルマンディーに上陸した。こうして、ドイツはアメリカ・イギリスとソ連にはさみうちにされた。そして、1945年4月30日にヒトラーが自殺し、5月2日にはドイツの首都ベルリンがソ連軍に占領される。1945年5月7日、ドイツは連合国に無条件降伏した。 イタリアは1943年7月に連合軍がシチリアに上陸・制圧したことで、ムッソリーニは失脚に追い込まれる。1943年9月にはイタリアは連合国軍に降伏した。 こうして、ヨーロッパでの戦闘は終わった。 アメリカ・イギリス・ソ連の代表は、1945年2月にソ連のヤルタで、ドイツの戦後処理について話していた( ヤルタ会談)。 このヤルタ会談では、日本との戦争の対応についても話し合われ、密約として、ソ連の対日参戦と千島列島・樺太の領有が認められた。 そして3カ国の代表は1945年7月には、日本の降伏条件についてドイツのポツダムで会談し、ポツダム宣言をまとめた。そして中国の同意を得て、アメリカ・イギリス・中国の名で発表した。 戦争で日本が不利になるにつれて、兵士が足りなくなっていった。1943年、それまで徴兵をされていなかった文科系の大学生も兵士として動員された。これを学徒出陣という。徴兵されなかった理科系の学生、女学生、中学生なども工場などの仕事に動員されて働かされた(勤労動員)。 また、生活物資とくに食糧の不足はますます深刻になっていった。普通の店で買える品物は極端に少なくなる一方、軍や軍需工場は違法な買い占めを行っていた。その上、物資の横流しも横行していたため、軍に対する反感は強まっていたが、治安維持法などで取りしまられていたので、表に出ることはなかった。 朝鮮や台湾では、反乱や自治権を要求されることなどをおそれ、徴兵は行われなかった。しかし、もはや兵力や労働力の不足は極めて深刻だった。はじめは労働者の動員にとどまっていたが、やがて朝鮮や台湾でも徴兵を実施された。徴兵された朝鮮人・台湾人は戦線に出るのではなく、連合国兵士の捕虜監視の役割を当てられることがあり、戦後、戦犯と認定されることもあった(※ 中学範囲外: BC級戦犯)。 アメリカ軍がサイパン島を占領すると、サイパン島から飛び立ったアメリカ軍の大型爆撃機B29によって、日本の各地が空襲されるようになる。都市が空襲の目標になることが多かったので、都市に住んでいる子どもたちは、空襲の危険からのがれるため、両親からはなれて地方へと移り住む、疎開をさせられた(学童疎開)。 当初は軍事施設や工場だけを標的にしていたが、効果が薄かったため、都市を無差別に攻撃するようになった[1]。B29は焼夷弾[2]を投下し、日本の都市を焼き払った。 1945年3月10日の東京大空襲では、約10万人の人が亡くなった。その後は、大阪や名古屋など日本全国の主要な都市が空襲にあい、多くの人命が失われた。 1944年になると、沖縄での戦闘が始まる可能性が高くなり、沖縄の住民たちは疎開のため九州や台湾に移動した。しかし、アメリカ軍の潜水艦によって、民間船が撃沈されることも激増した。特に疎開する学童を多く乗せた疎開船・対馬丸が撃沈され、多数の犠牲者が出た事件は現在でもよく知られている。 1945年4月1日、アメリカ軍が沖縄本島に上陸し、日本軍と地上戦になった(沖縄戦)。沖縄では根こそぎ動員と呼ばれ、成人男性だけでなく、中学生は兵士として、女学生は看護婦などとして動員された。そのため、被害は軍人・兵士だけでなく、一般市民の犠牲も多大だった。 また、日本軍によって、集団自決をせまられた沖縄県民も多くいたという[3]。「洞窟に沖縄住民とともに隠れた日本軍は、泣きやまぬ乳幼児がいると米軍に発見されないためにと乳幼児を殺害した」「禁止されていた方言を話した地元住民が、スパイ容疑で殺害されたりもした」という事例もあったという。 こうして、米軍との戦闘だけでなく、様々な要因で沖縄県民のうち約5分の1から4分の1にあたる約12万人が亡くなった。 1945年6月23日、日本軍の現地司令官は、もはや日本軍は力つきたとして自決した。こうして、日本軍の組織的な抵抗は終わり、沖縄はアメリカ軍に占領された。しかし、日本軍の一部はその後も沖縄各地にひそんで、戦闘はその後(終戦後の9月7日ごろまで)も続いた。 ドイツが降伏し、沖縄戦での敗色が濃厚になる中、日本政府はソ連を仲立ちとしてアメリカなどと講和することを模索しはじめた。しかし、ドイツの降伏後、日本との戦争を決めていたソ連は日本政府との交渉には消極的だった。 一方、1945年7月には、アメリカ・イギリス・ソ連の三か国は日本の降伏条件についてドイツのポツダムで会談し、ポツダム宣言をまとめた。そして中国の同意を得て、アメリカ・イギリス・中国[4]の名で発表した。 ポツダム宣言(要約、抜粋、現代語訳) このとき、日本はポツダム宣言を「黙殺」すると発表したが、これはアメリカ側からは「拒否」と受け取られた。 アメリカは1945年の8月6日に広島に原子爆弾(略して原爆)を投下した。広島の街は一瞬で破壊され、広島では10万人をこえる一般市民が亡くなった。9日には長崎に原子爆弾が落とされ、8万人ほどが亡くなった。 また、8月8日、ソ連は日ソ中立条約をやぶって満州に攻めこんだ。こうして、日本が計画していた「ソ連を仲立ちとする講和」という方針は完全に破綻した。8月14日、日本はポツダム宣言を受け入れることを正式に決定し、連合国に通達した。 1945年(昭和20年)の8月15日、ラジオ放送で天皇が国民に日本の降伏を発表した。こうして日中戦争や太平洋戦闘をふくむ第二次世界大戦は終わった[5]。 「大本営」とは、戦時中の日本軍の本部のこと。日本政府による公式な戦況の報告が大本営発表である。当初は比較的正確だったが、日本政府は戦況が不利になっても、国民の戦意を低下させないために、ウソの発表をしたり、あたかも勝利してるかのように新聞などでの表現を変えさせた。そのため、戦局が悪化して誰の目にも日本の不利が明らかとなると国民の信頼を失った。有名な表現は、日本軍の退却・撤退とはいわず、あたかも単に軍の進行の方角を変更しただけのようにみせかける「転進」、部隊などの全滅を美化する「玉砕」などがある。 現代でも、政府や企業などによる、自分に都合よく信用できない発表のことを「大本営発表」という。 (資料集で名前だけ紹介されることが多い) 零戦は日本海軍の艦隊や航空機を敵方の航空機から護衛する戦闘機の一種で、太平洋戦争中の主力戦闘機だった。正式名称は「零式艦上戦闘機」。零戦の他に「ゼロ戦」「零式艦戦」などとも呼ばれる。 「特別攻撃隊」の略。特攻は日本軍が戦争末期にとった、航空機や特攻用に開発された人間爆弾「桜花」による体当たり戦法で、特攻隊はこれを行う部隊。特攻兵器に脱出装置はないため、パイロットは確実に死ぬ。「神風特攻隊」が有名である。形式的には志願だったが、実質的に強制されることが多かった。特攻のような攻撃はドイツやソ連でも行われてはいた。しかし、最初から生還を前提にしていないことや規模、組織的な戦法という点で日本が際立っている。ほかにも、1~2人乗り潜水艦に爆薬をつめた人間魚雷「回天」、モーターボートに爆薬を載せた「震洋」による特攻もあった。 大和は世界最大の戦艦である。沖縄戦の最中、大和をはじめとした軍艦10隻が沖縄に派遣された。しかし、途中でアメリカ海軍の艦隊に遭遇し、アメリカ海軍の航空母艦の艦載機による攻撃をうけて撃沈された。大和を攻撃したアメリカ軍の軍人は、まるで巨大な島を攻撃しているかの様な感覚に陥ったという。
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1945年8月に日本が降伏し、日本は、アメリカ軍を中心とした連合国軍に占領される。 アメリカの占領時の方針として、日本の政治体制を変え、未来においてアメリカの脅威にならないよう導く意図があった。その中で、日本を「民主化」(みんしゅか)するという理念も掲げられた。 終戦後の日本政府の上層にアメリカ軍の 連合国軍総司令部(れんごうこくぐん そうしれいぶ)であるGHQ(ジー・エイチ・キュー、General Headquarters ゼネラル・ヘッドクォーターズ の略)が位置するという、暫定的な統治システムが作られた。 一方、沖縄や奄美(あまみ)や小笠原諸島(おがさわら しょとう)は、アメリカが直接統治することになった。 GHQの最高司令官はマッカーサーというアメリカ軍人。 占領政策では、まずポツダム宣言にもとづき、日本軍を解散させた。 マッカーサーは、日本に来る数年前の時代、フィリピンでアメリカ軍を指揮していた。 しかし、フィリピン方面での日米の戦争が激化すると、アメリカ本土はフィリピンをあまり戦略的に重要でないと判断し、マッカーサーをオーストラリア方面の司令官に変えさせた。 フィリピン方面から外されたマッカーサーは不満を感じ「私はまた戻ってくるだろう」という意味の "I shall return." アイ シャル リターン という発言をした。 その後、太平洋方面のアメリカ艦隊は勝利をつづけ、ついに日本を占領する。マッカーサーはGHQの最高司令官になり、フィリピンではなく、日本と深く関わることになる。 アメリカによる日本占領開始の前後のころのマッカーサーの階級は「元帥」(げんすい)。日本では「マッカーサー元帥」などと呼ばれる場合もよくある。 軍隊内部では序列をきめる階級があって、例えば戦争映画などでは「軍曹」(ぐんそう)とか「二等兵」(にとうへい)とか「大佐」(たいさ、だいさ)とか、様々な呼称がなされるが、これら3つ(軍曹、二等兵、大佐)はすべて実在する階級。 「元帥」(げんすい)というのは、軍隊内部で最上級の階級である。 ただし、日本軍では「元帥」と「大元帥」(だいげんすい)は階級ではなく、称号、勲章に分類される。 戦争を指導した人間は、戦争犯罪人(せんそうはんざいにん)として、裁判にかけられ、東条英機以下 7名が死刑になった。 この戦争指導者をさばいた裁判を極東国際軍事裁判 (通称・東京裁判)という。 (※ 範囲外の注記:) 厳密には「戦争犯罪」というのは戦争指導者だけではないが(捕虜の虐待や民間人虐殺も国際法違反で戦争犯罪なので)、しかし東京書籍の検定教科書では東条英機など指導者を「戦争犯罪人」として表記している。 戦争犯罪として裁かれたのは敗戦国がおこなった行為だけであり、アメリカやソビエトなどの戦勝国のおこなった民間人殺害などの戦争犯罪については裁かれなかった。また、裁かれ、刑罰を受けた人物にもかたよりがあった。 なお、サンフランシスコ講和条約の規定により、日本政府は主権回復と引き換えに東京裁判を受け入れる事に同意し国際条約として締結された。そのため、後の占領終了後に日本政府は東京裁判の判決を引きつづき受け入れ、現在(2019年)にいたる。 「A級戦犯」とは、この東京裁判で死刑になった東条英機以下 7名と、戦争への指導的な協力者として逮捕されたそのほかの関係者のこと。 なお、国際法(こくさいほう)では「戦争犯罪」(せんそう はんざい)という言葉の内容は、戦争の指導にかぎらず、捕虜(ほりょ)の虐待や民間人の殺傷なども含む。 東京裁判において、連合国が戦争犯罪の内容をもとに罪を3種類に A級, B級, C級 に分類して、そのうち戦争指導を犯罪行為としてA級に分類したので、東京裁判で戦争指導者として裁かれた東条英機など7名ほかのことを「A級戦犯」という。 天皇は戦争犯罪人として指定されていない。 A級、B級、C級の分類は というように、罪の重さではなく、罪の種類を表している。 戦争犯罪人として裁かれた政治家・軍人のほかにも、連合国によって軍国主義的とみなされた政治家や公務員達が、それらの公職から追放された。 1946年には、あたらしい憲法の日本国憲法(にほんこく けんぽう)が交付された。 この日本国憲法はGHQがつくった憲法案を、日本の議会が採択したものである。 この新憲法の日本国憲法では、 国民主権(こくみんしゅけん) ・ 基本的人権の尊重 (きほんてきじんけん の そんちょう)・ 平和主義(へいわしゅぎ) の3つの原則が掲げられた。 天皇は政治の主権者でなくなった。日本国民の統合の象徴になった。戦後の主権者は日本国民である。(戦後の天皇が国の元首であるかどうかについては様々な議論があり、こういう場で断定的に記述すべきものではない) また、民法も改正され、父親の権限が強かった家制度が廃止された。家庭においては、男女の法的な権利は対等になった。夫と妻の法的な権利も対等。また、長男を優遇するような決まりもなくなった。相続では兄弟姉妹が均分に相続することになった。 戦時中に政治犯として捕まっていた人は釈放され、言論の自由がかかげられたが、あくまでも占領者のアメリカ主導の自由であった。 戦前や戦中は規制を受けたり禁止された政治運動や政治団体も、合法化した。 北海道アイヌ協会も再建。部落解放同盟も再建。日本共産党が合法化された。 1946年に昭和天皇は占領当局の意向に同意し、自分(天皇)は神ではなく人間 であると宣言した。 だが一方で、アメリカに不都合な主張は検閲(けんえつ)され、また戦時中の戦争指導者を擁護(ようご)するような主張も検閲(けんえつ)された。 つまり、言論の自由や出版の自由など一応は保証されたが、アメリカなど連合国に不都合な言論については弾圧された。 国家主義者の団体と見なされたり、連合国にとって不都合な団体は解散させられた。 戦前や戦争中の日本の外国への軍事行動を「侵略」と批判する主張は許可されても、イギリスやフランスなどの東南アジアやアフリカでの植民地支配を批判するような主張はほとんど許可されなかった。 戦前の日本はまったく民主的ではなかった、という主張はまちがいであろう。明治憲法は当時としてはかなり民主的であり、また、戦前にも普通選挙はあった。戦前の日本の立場について、擁護したり、戦勝国の言い分に反論を述べると、「軍国主義者」などと批判する悪弊は、当時も今もこの国で見られる。 しかし事実上様々な民主的な政策が、占領下の改革で行われた。 他にも、占領軍が民主化であると考えた幾つか(いくつか)の政策が実行された。 いっぽう、かつて日本に併合されていた朝鮮半島では、1945年9月2日に、北緯38度より北にソ連軍が進出してソ連に占領され、また朝鮮半島の南半分にはアメリカ軍が進出してきた。1948年に朝鮮半島で半島の南側には大韓民国(だいかん みんこく)が独立し、同じ年に半島の北側では北朝鮮(「きたちょうせん」、正式名称は朝鮮民主主義人民共和国(ちょうせん みんしゅしゅぎ じんみん きょうわこく) )が独立する。 満洲はソ連軍の軍政下に入り、そのあと中華民国に渡された。 日本のポツダム宣言受諾の通告の時期よりも前、ソビエト連邦は1945年の8月8日に満州に侵攻した。現地がかなり深刻で悲惨な混乱状態になった後、日本人の捕虜はシベリアなどのソ連領に連行されて、労働力として酷使(こくし)された。(シベリア抑留(シベリアよくりゅう))。 このため、6万人以上の日本人が死亡した。 このソ連によるシベリア抑留は、ポツダム宣言に違反した行為である。ポツダム宣言の条件文は、日本への条件だけでなく、戦勝国どうしにも条件をつけていて、その約束にソ連は違反している。宣言の第9項目では、武装解除した日本兵は日本に送りかえすことを、連合国どうしで約束している。 台湾は、中華民国に編入された。
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人類は二度の世界大戦を経てその悲惨さ(ひさんさ)から、欧米各国は「戦争は望ましくない」と考えるようになり、国家間の対立についてはなるべく交渉によって解決するべきだと考えるようになった。 第二次大戦のときにあった連合国(United Nations ユナイテッド・ネイションズ)は、第二次大戦の戦後には、あらたな戦争をふせぐために国際政治を話しあう国際機関である国際連合(United Nations)を1945年に作った。 ここで復習をしよう。国際連合と同じ役割をしていた国際機関を「国際連盟」といった。しかし第二次世界大戦を止められなかったことや制裁手段、加盟国の関係でこの国際連盟ではなく国際連合がつくられたのである。 国際連合の設立はアメリカのルーズベルト大統領の提案による。 日本では国際連合のことを「国連(こくれん)」と略すことも多い。 国連の本部は、アメリカのニューヨークにある。 また、主要国が国際政治をはなし合う場所を国際連合にかえたことで前にあった国際連盟は、自然に消えた。 国際連盟の常任理事国は、第二次大戦の連合国の主要国である。国際連合の常任理事国は、アメリカ・イギリス・フランス・ロシア・中国の5か国である。 また、戦時中の連合国が元になってるので、日本やドイツを「敵国」として認定する旧敵国条項(きゅうてきこくじょうこう)が、今(本文を2014年に記述)でも残っている。 第二次世界大戦後、世界の国々はアメリカやイギリスを中心とする「西側」の陣営と、ソビエトを中心とする「東側」の陣営にわかれた。「西側」とか「東側」とは、ヨーロッパを中心とした地図での話だからである。ソビエト連邦のあった(現在の)ロシアはヨーロッパの東側にある上、ヨーロッパ東部にはロシアに占領された地域が多かったので、このような呼び名になった。 いっぽう、アメリカはヨーロッパから見れば大西洋をはさんで西側にアメリカがある。 この米英の西側陣営と、ソビエトの東側陣営との対立を冷たい戦争あるいは冷戦(英:Cold War)という。アメリカとソ連とが直接、戦争をすることはなかった[1]。 ソ連の経済の体制が共産主義という私有財産や私企業を認めない制度であったので、冷戦は米英のような資本主義の陣営とソ連を中心とした共産主義の陣営との対立であるだろう、というような見方をされることもある。 1989年にソビエト連邦が崩壊してロシアなどのいくつかの国に分かれるまで、冷戦が続いた。 ソ連が崩壊したので、冷戦ではソ連が負け、アメリカが勝ったと言えるかもしれない(あくまでもソ連は『崩壊』したにすぎない。西側に敗れたわけではない)。 ドイツは米ソの方針の違いから「米英仏」の西側と「ソ連」の東側に分断して占領された(第二次世界大戦にナチス・ドイツだったため戦争で占領された)。その後1949年には東西が別々の国として独立した。西ドイツが西側陣営の資本主義国であり、東ドイツが東側陣営の共産主義国である。ドイツの首都であるベルリンでは1961年に東西ドイツの境界にベルリンの壁が築かれた。 また、軍事同盟として西側は自由主義・資本主義のヨーロッパの国同士およびアメリカと北大西洋条約機構(きたたいせいよう じょうやく きこう、略称:NATO ナトー)を1949年に結んだ。いっぽう、西側の共産主義・社会主義陣営であるソ連と東欧諸国はワルシャワ条約機構を1950年に結んだ。そして北大西洋条約機構とワルシャワ条約機構とは対立した。 米ソの両陣営は、軍拡競争(互いに相手より強い軍隊や武器をつくること)をした。両陣営とも、核兵器を開発した(第二次世界大戦中に)。 欧米の植民地となっていた国々では、第二次世界大戦後に、次々と独立運動がおこり、独立していった。 とくに東南アジアや南アジアでは、独立運動が戦後もつづいており、インドネシアやベトナムやインドなどの国々が独立していった。 アフリカでは1960年に独立が相次ぎ17カ国ほどが独立し「アフリカの年」と言われた。 第二次世界大戦が終結すると国民党とソビエトの支援を受けた中国共産党と国民党とが対立し、内戦となった。 内戦には共産党が勝利し、中国本土には1949年、 中華人民共和国が成立した。共産党の指導者であった 毛沢東 が主席に就任した。 いっぽう、負けた蒋介石ひきいる国民党は台湾に逃れた。このため、台湾は今も中華民国のままだ。こうした経緯のために、中国は「中華人民共和国」と「中華民国」との2つの中国が存在する状況になった。 朝鮮半島では、日本敗戦後、ソ連とアメリカが占領しあってそれぞれ北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と韓国(大韓民国)となった。そして、1951年に北朝鮮が韓国に攻め込んで朝鮮戦争(英:Korean War) が起きた。 アメリカ軍を主力とする国連軍(こくれんぐん、United Nations Force ユナイテッド・ネイションズ・フォース)が韓国をたすけて北朝鮮軍と戦闘。中国は同じ共産主義の北朝鮮をたすけて、「義勇軍」(ぎゆうぐん)という名目で、じっさいには正規の部隊である中国軍をおくり、中国軍(同じ共産主義のソ連はアメリカと直接対決するわけにはいかないのでソ連の援軍が中国軍に混じっていた)と国連軍とが戦闘した。すなわち、中国軍(一部はソ連軍)と国連軍(大部分をアメリカ軍が占める)が対戦したことにもなるので、冷戦の章でいった「西側と東側の直接対決」は実はあったことになる。 この国連軍と中国・北朝鮮軍との戦闘は休戦協定が1953年に結ばれるまで続く(あくまで「休戦」であり「終戦」ではないので国際法上は今も戦闘状態にあるが、現在それの「終戦宣言」をしようという話がある)。 朝鮮戦争によりアメリカ軍が苦しくなると、アメリカは日本を西側の陣営にくわえようとしたので、日本の占領政策を変えた。 アメリカは日本に軍隊をつくらせようとしたが、日本国憲法のしばりがあって軍隊をつくれないのでかわりに「警察予備隊」(けいさつ よびたい)という組織を日本につくらせた。 おそらく、「軍隊」とは呼べないので、かわりに「警察」と呼びたい、というわけなのだろう。 警察予備隊の装備はそのころの時代の軍隊の歩兵に近い(というか現在は一緒)銃火器を装備したり、警察予備隊の訓練はアメリカ軍の指導のもとにおこなわれたりなど、どう見ても軍隊としか思えない「警察予備隊」であった。 そのあと、警察予備隊は1952年に「保安隊」(ほあんたい)に発展し、さらに保安隊から1954年には自衛隊になった。 朝鮮戦争で経済的には日本はアメリカ軍から大量の物資の注文をうけたために日本は好景気になった。この朝鮮戦争のときの好景気は、「特需」(とくじゅ)と言われた。 また、これらの警察予備隊や自衛隊などの創設のさい、旧軍人の公職復帰などの規制が緩和された。 朝鮮戦争の前後からアメリカと共産主義陣営のソビエトとの対立という構図がしだいにアメリカの目に明らかになり、そのためGHQは1950年ごろから日本での政府・行政の公職から共産党系や共産主義者とみなした人物を追放した。これをレッドパージという。 さらに、マスコミや民間企業などにも、この動きが拡大した。 朝鮮戦争などがあったためアメリカは日本を西側の陣営に加えようとした。そのため、アメリカは米軍基地の存続を条件に日本の独立を早めようとした。 そのための講和会議がひらかれることになり、1951年9月にアメリカのサンフランシスコで講和会議がひらかれた。そして日本国は西側陣営である自由主義諸国などの48カ国とのあいだに サンフランシスコ平和条約(英:Treaty of Peace with Japan) を結んだ。 こうしてアメリカ・フランス・カナダ・オランダ・ベルギー・オーストラリアなどをはじめとした48カ国と平和条約がむすばれた。 このころの日本の首相は吉田茂(よしだ しげる)である。日本国は吉田茂首相を全権にしてサンフランシスコ平和条約に調印した。 そして翌年の1952年には、日本は独立を回復し、主権を回復した。この条約によって、GHQは廃止された。 しかし、沖縄はひきつづきアメリカの統治下におかれることになった。 なお、ソ連など東側諸国とはサンフランシスコ平和条約を結んでいない。ソ連は日本の北方領土の国後島などを不法に占拠しているので、講和を見送った。ソ連と日本の国交回復は、1956年の日ソ共同宣言(にっそ きょうどうせんげん)まで待たなければならない。 また、サンフランシスコ平和条約といっしょに、日本国内のアメリカ軍基地にひきつづきアメリカ軍がとどまるための条約である 日米安全保障条約(にちべい あんぜん ほしょう じょうやく、英:Security Treaty Between the United States and Japan) が日本とアメリカとのあいだで、むすばれた。略して「安保」(あんぽ)とか、「安保条約」(あんぽじょうやく)とか、「日米安保」(にちべいあんぽ)などと言う場合もある。 日本は、独立後もしばらくは国際連合の加盟はできなかった。なぜなら、常任理事国であるソ連が日本の加盟に反対していたからである。しかし、1956年の鳩山一郎内閣の時代に日ソ共同宣言がむすばれて日本とソ連との国交が回復したこともあり、ソ連も日本の国連加盟に反対をしなくなり、1956年に国際連合の加入を認められた。日本では、この1956年の国連加盟をもって「国際社会へと復帰した」という意見が多い。 1955年(昭和30年)、インドネシアのバンドンでアジア・アフリカ会議が開催され、参加国としてインド・中国・エジプト・インドネシアなど29ヶ国があつまり、帝国主義の植民地支配に反対することが決められた。また、平和共存をうったえた。反帝国主義・平和共存の「平和10原則」(へいわ じゅうげんそく)が宣言された。この会議にあつまったこれらの国々は、「第三世界」(Third World [2])と呼ばれた。 1954年、アメリカは水素爆弾の実験を、太平洋のビキニ環礁で実験した。日本の漁船、第五福竜丸(だいご ふくりゅうまる)などが被ばくする事件があった。これをきっかけに、日本国内で原水爆禁止運動が広がる。 このころ、社会党などが安保条約や自衛隊に反対した。 1955年に自由民主党( じゆうみんしゅとう、略:自民党(じみんとう) )が結成され、長期政権が続いた。自民党は野党の社会党(日本社会党)などと対立した。この1955年から長く続いた自民党を与党とした長期政権の体制で、野党として主に社会党が対抗していた体制のことを55年体制(ごじゅうごねんたいせい)という。(この時代、野党第一党が社会党だった。) 1960年、日本政府は日米安保条約を改定し、与党自民党の岸信介(きし のぶすけ)内閣によって新安保条約(しん あんぽじょうやく)がアメリカと結ばれた。この条約によって、日本が他国から攻撃を受けた場合に日米共同で防衛義務があることが決まった。 そして、この安保に反対する国民が多く、反対派の野党や国民によって、新安保への大きな反対運動が起きた。安保反対派は、安保のせいで日本がアメリカの戦争に巻き込まれる、などと主張し反対運動を行った。 しかし、自民党は国会の手続きどおりに採決を行った。強行採決と批判された。 1960年5月〜6月には国会前で大きな安保反対デモが起きた。このような、新旧の安保条約に対する一連の反対運動を安保闘争(あんぽ とうそう)という。 なお、岸内閣は新安保条約が成立・発効するまでは内閣を続けて発効を見届け、条約が発効したのち、岸内閣は総辞職して退陣した。 1962年、ソ連がキューバにミサイルを配置し、アメリカとの緊張が高まる(キューバはアメリカに近いが東側陣営)。アメリカとソ連との交渉の結果、最終的にソ連はミサイルを撤去した。このできごとをキューバ危機という。 なお、この事件をきっかけに、米ソの首相間の直通電話(ホットライン)が設置された。 また、このキューバ危機の当時のアメリカの大統領はケネディ大統領で、ソ連の首相はフルシチョフ首相である。 ちなみに、この危機よりも前、キューバでは革命が1959年(昭和34年)に起きており、カストロやゲバラによって革命が行われて、それまでの親米政権が倒されて、革命後のキューバは反米政権になっていた。そのため、東側陣営であったのである。 ちなみに危機の前年の1961年は、ベルリンの壁が建設された年である。 1960年代前半のベトナムでは、ソ連・中国の支持する東側陣営の北ベトナムと、アメリカの支持する西側陣営の南ベトナムとのあいだで、ベトナムの南北の対立から発展した内戦が起きていた。アメリカは南ベトナムを支援するため、1965年にはアメリカが北ベトナムを爆撃し、さらにアメリカは地上軍をベトナムに派遣して参戦した(ベトナム戦争)。しかし、北ベトナムもソ連・中国の支援を受けていたことから、北ベトナムはもちこたえ、戦争は長引いた。そして世界的に反戦運動が起こり、アメリカ国内でも反戦運動が起こり、そのこともあって1973年にはアメリカ軍はベトナムから撤退した。そして北ベトナムが南ベトナムに侵攻し、ベトナムの南北が共産主義に統一された。こうしてアメリカが、ベトナム戦争では、敗れる結果となった。 なお、日本ではベトナム戦争中に沖縄の米軍基地がベトナム戦争のための戦闘機の拠点として活用されていたので、それに対する批判が起こった。(なお、沖縄が日本に返還された年は1972年である。)(※ 範囲外: ベトナム戦争で、沖縄からアメリカ軍の爆撃機(B-52など)が飛び立ち、北ベトナムに爆撃を行った。「B-52」とか範囲外なので、機種名は暗記しなくてよい。ただし、「爆撃機」くらいは、出来れば覚えてほしい。) ベトナム戦争中は北ベトナムはゲリラ戦で対抗した。アメリカ軍は北ベトナム軍のひそむジャングルを枯らすため、枯葉剤(かれはざい)をベトナムのジャングルにまいた。枯葉剤は人体にも毒性が強く、そのため、ベトナムのジャングルの多くの住民に健康被害が出た。 ※ 未記述 二度の世界大戦をへて反戦の気運(きうん)が世界各国で高まったにも拘わらず、第二次大戦後の時代でも戦争は無くならなかった。朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)などの中学歴史の学校教科書で説明している戦争以外にも、ベトナム戦争(1960年)、中ソ紛争(中国とソビエトの対立した戦争、1969年)、中越戦争(中国とベトナムの対立。「ちゅうえつ せんそう」、1979年)、中印戦争(中国とインドの対立。「ちゅういん せんそう」。1962年)、インド・パキスタン戦争(インドとパキスタンの対立。1947年)、フォークランド戦争(イギリスとアルゼンチンの対立、1982年)、アフガン紛争(1978年)、イラン・イラク戦争(イランとイラクが対立。1980年)など・・・、さまざまな紛争が、第二次大戦後でも起きている。 (※ 「フォークランド戦争」「アフガン紛争」は、中学の範囲外なのでいまのところおぼえなくて良い。「朝鮮戦争」(ちょうせん せんそう)などの覚える必要のある戦争名は他の節で提示する。)
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朝鮮戦争による特需による好景気もあり、日本経済は復興していき、工業は戦前の水準にまで、もどった。 1956年に政府が出した経済白書では「もはや戦後ではない。」とまで書かれている。 1950年代のなかごろから重化学工業が発達していった。 1960年に、内閣の池田勇人(いけだ はやと)首相は、「所得倍増計画」(しょとくばいぞう)を目標にかかげた。 好景気により、日本人の所得は増え、1968年には所得が倍増し、目標が達成された。 この好景気は1970年代の前半まで、つづく。 「三種の神器」(さんしゅのじんぎ) 白黒テレビ・電気式洗濯機・電気式冷蔵庫の3つの製品が普及し、「テレビ・洗濯機・冷蔵庫」が「三種の神器」と言われた。 この1960年〜1970年代ころの好景気による日本の経済力の成長のことを、高度経済成長(こうど けいざいせいちょう)と言う。 アジアで最初のオリンピック(Olympic)が、1964年に東京で開かれた。(東京オリンピック) また、東京オリンピックに合わせて新幹線(しんかんせん)もつくられ、東海道新幹線(とうかいどう しんかんせん)が開通した。 1970年には、大阪で万国博覧会(ばんこくはくらんかい、英: Universal Exposition, 仏: Exposition universelle)が、ひらかれた。そんな中で戦後の文化も形成されていった。(詳しくは中学校社会 歴史/検定教科書で紹介されているコラム的話題などのページを参照してください。) 1972年に沖縄は日本に返還された。 アメリカはソ連との冷戦を有利にすすめるため、中国大陸を支配している共産党の政府である中華人民共和国の政府と、1960年代ごろからアメリカは友好をむすんだ。 アメリカに軍事的に守られている日本も、このような国際的な流れに乗り、1972年の田中角栄(たなか かくえい)内閣のときに、日本は、それまで承認していた台湾の中華民国にかえて、中国大陸の中華人民共和国の政府を承認した。これにともない、日本は一方的に台湾の中華民国政府との国交を断絶した。 1952年に日本と国民党の中華民国とのあいだにむすばれていた日華平和条約(にっか へいわじょうやく)があったのだが、日本は一方的に、この日華平和条約を破棄(はき)したのである。 なお、2013年では、中華民国を国家承認している国家は22カ国である。 さて、1970年代の話に、もどる。 日本は台湾を無視し、人民共和国と日本とのあいだで、一方的に日中共同声明(にっちゅうきょうどうせいめい)を1972年に発表した。また1978年には、やはり台湾との友好を無視し、日本と中華人民共和国とは一方的に日中平和友好条約(にっちゅう こっこうゆうこうじょうやく)を結んだ。 日本では、これら一連の人民共和国との友好化のために台湾を見捨てた政策は、一方的に「日中国交正常化」(にっちゅう こっこう せいじょうか)とか「日中国交回復」(にっちゅう こっこう かいふく)などとして正当化された。 2015年の時点では、台湾の「中華民国」は、日本政府は承認していない国である。 朝鮮半島の大韓民国とは、1965年に日韓基本条約(にっかん きほんじょうやく) により、日本と韓国との国交が回復した。 なお、北朝鮮とは、2021年の時点では、まだ日本との国交は、むすばれていない。 1955年の経済白書に「もはや戦後」ではないと書かれたことで、日本の復興を宣言していると思うかもしれない。そういう側面もあるかもしれないが、じっさいに白書の前後の文章を読んでみると、じつは、だいぶ意味合いが違っている。 じっさいの文章には、「もはや戦後ではない」は、以下のように文章がつづく。 「もはや戦後ではない。われわれは今や異なった事態に当面しようとしている。回復を通じての成長は終わった。今後の成長は近代化によって支えられる。」 「新しきものの摂取は常に抵抗を伴う。」(中略)「近代化--トランスフォーメーション--とは、自らを改造する過程である。その手術は苦痛なしにはすまされない。明治の初年我々の先人は、この手術を行って、遅れた農業日本をともかくアジアでは進んだ工業国に改造した。その後の日本経済はこれに匹敵するような大きな構造変革を経験しなかった。そして自らを改造する苦痛を避け、自らの条件に合わせて外界を改造(トランスフォーム)しようという試みは、結局軍事的膨張につながったのである。 」 「我々は日々に進みゆく世界の技術とそれが変えてゆく世界の環境に一日も早く自らを適応せしめねばならない。もしそれを怠るならば、先進工業国との間に質的な技術水準においてますます大きな差がつけられるばかりではなく、長期計画によって自国の工業化を進展している後進国との間の工業生産の量的な開きも次第に狭められるであろう。」 「このような世界の動向に照らしてみるならば、幸運のめぐり合わせによる数量景気の成果に酔うことなく、世界技術革新の波に乗って、日本の新しい国造りに出発することが当面喫緊の必要事ではないであろうか。 」 と1955年の経済白書に書かれたのである。
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1970年代ころから、冷戦では、ソビエトの工業がおくれはじめ、ソビエトは経済でも行きづまっていった。 1979年のソビエトによる アフガニスタン侵攻(Soviet war in Afghanistan) もあり、米ソでは軍事費が増大した。 アメリカはミサイル防衛計画などを発表し、巨額の軍事費を軍事の技術開発に投資した。ソビエトは経済がくるしいにもかかわらず、ソビエトも、アメリカに軍事的に対抗するため、ソビエトは予算を軍事費につぎこんだので、ソビエトの経済はますます苦しくなっていった。そして、ついに共産主義経済が、行きづまりそうになった。 そのため、ソビエトは改革をおこなって、経済を活性化することを考えた。 1985年にはソ連で当時の最高指導者のゴルバチョフ(ロシア語:Горбачёв、ラテン文字:Gorbachev) によるゴルバチョフ政権が出来て、そしてゴルバチョフは共産主義的な経済手法をあきらめ、市場経済の導入や、情報公開などの改革をおこなった。このゴルバチョフの改革を ペレストロイカ(ロシア語:перестройка、ラテン文字表記:Perestroika) と言う。ペレ・ストロイカとは、ロシア語で「再建」という意味である。 しかし、この改革により、ソ連の国内では自由化をもとめる声がつよまっていった。また、東欧ではソ連からの独立をもとめる声がつよまっていった。 そして、1989年に、ゴルバチョフとアメリカのブッシュ大統領とが地中海のマルタ島で首脳会談し、ついに冷戦の終了を宣言した(マルタ会談)。 それからソ連は解体されていった。 1990年には、東西に分裂していたドイツが統一した。当時、西ベルリンへの行き来をさまたげていた ベルリンの壁(ベルリンのかべ、ドイツ語: Berliner Mauer) は、民衆たちによって壊された。 そして、1991年にはロシアやウクライナなどのソ連を構成していた国々が分離して独立した。ソ連にかわって、ロシアやウクライナなどのかつての構成国により、独立国家共同体(どくりつこっか きょうどうたい)が結成された。
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1980年代の前半ごろ、日本の製造業は、世界でもトップクラスの品質を持つほどまでの実力になった。(石油危機があったのは1973年であり、80年代ではない。) 日本経済は、「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と海外から評されるほどになった。 そして80年代の日本の貿易では、日本から家電(テレビなど)・半導体・自動車などの日本の工業製品が、海外に多く輸出された。 このため、アメリカの工業などが苦境に立たされ、アメリカのメディアなどが日本を批判し(いわゆる「ジャパン・バッシング」)、アメリカ政府から日本政府に政治的な圧力も加えられた。 このように、日本とアメリカのあいだで貿易摩擦(ぼうえき まさつ、trade friction [1])が起きた。 1980年代には、日本は世界の中でも経済大国になっていた。 1980年代の終わり頃には、土地の地価や株の株価の値上がりを期待して、取引が活発になっていった。やがて、地価や株価が値上がりしすぎて、1991年(平成3年)ごろから地価や株価が下がり始めた。(ちなみにピーク時の都内中心地の地価は、一般人が買えるような値段でなくなってしまい、ある試算では山手線の内側の土地価格で米国全土が買えるというデータがはじき出されたとか。まさに、土地神話だった。) 株価などが下がり始めると、多くの証券会社が経営難におちいっていった。経営破綻した証券会社もある。また、銀行も株価や地価の値上がりを前提に融資の貸し出しをしていたため、株価が下がりはじめると、銀行の経営も苦しくなっていった。銀行どうしの多くは、合併などによりこの危機をのりきっていった。また、大手を含めていくつかの銀行は倒産した。 (例えば、バブル時代に代表的だった山一證券は借金が膨らみ、結局倒産してしまった。) 直接は株取引をしていない企業も、株価や地価が高い好景気を前提にした事業計画を立てていたりしていたため、いったん株価が大きく下がり始めると、経営が苦しくなっていき、多くの会社が経営難におちいり、多くの会社が倒産していった。また倒産していない企業でも、従業員の解雇もふえたり、事業の見直しによる事業の縮小や事業撤退や事業転換などが行われたりした。 こうして「平成不況」(へいせい ふきょう)と言われるになっていった。 「平成不況」といっても、けっして1991年以降は株価が下がりっぱなしだったわけではなくて、実際には、のちにコンピューター業界の好景気によるITバブル(アイティーバブル)と言われる部分的な好景気も1990年代後半から2000年代前半あった。 1990年は冷戦後である。冷戦が終わったら、地域紛争が各地で、増え始めてきた。 1990年にはイラクが隣国のクウェートに侵攻し、湾岸戦争(わんがんせんそう、Gulf War [2])が起きた。この湾岸戦争で、イラク軍と戦うためにアメリカなどからなる多国籍軍が結成された。 この他、旧ユーゴスラビアで内戦があった。 また、1992年には国連のPKO(平和維持活動)に自衛隊が参加した。 1995年には、阪神・淡路大震災(はんしん あわじ だいしんさい)が起きた。 ヨーロッパでは1993年に、それまでのECに代わりヨーロッパ連合(EU)が発足した。その後、東ヨーロッパ諸国がEUに加わっいった。なお現在、EU域内の共通の通貨としてユーロが用いられている。 なおAPEC(エイペック、アジア大平洋協力会議)が発足した年は1989年である。 1990年ごろから自民党の金権体質への不満が高まり、1993年に国政では自民党・共産党をのぞく党派が細川護煕(ほそかわ もりひろ)を首相として連立政権をつくった。こうして自民党の「55年体制」と言われる長期政権は終わった。 約40年間、55年体制が続いたことになる。 そののち、自民党はふたたび政権与党にもどった。 2001年、アメリカのニューヨークで、何者かによる航空旅客機のハイジャックによるテロ事件が起こり、多くの乗客が死んだ。その後すぐに、このハイジャック犯の正体は、アルカイダ(英語: Al-Qaeda)というイスラム系をなのる過激派組織の一味だということが分かった。 このアメリカでの2001年のテロ事件を アメリカ同時多発テロ などと言う。 アメリカは、このアルカイダをかくまっていたアフガニスタンのタリバン政権を攻撃し、戦争になり、アメリカはアフガニスタンを占領した。 日本の小泉純一郎(こいずみ じゅんいちろう)内閣は、アメリカを支持した。 アフガニスタン攻撃の後のころ、イラクには大量破壊兵器を開発しているという疑惑があった。国連はこの疑惑を調べようとしたが、イラクは国連の調査に協力的でなかった。 アメリカはイラクが大量破壊兵器を開発していると判断し、2003年にアメリカはイラクを攻撃した。 これを イラク戦争(イラクせんそう、英:Iraq War) と言う。 イラク戦争ではアメリカが勝利した。 ドイツやフランスなどは、イラク攻撃の理由が不十分だとして、アメリカの戦争には参加しなかった。 イラク戦争によってサダム・フセイン政権は崩壊した。しかし、イラクではフセインの独裁がなくなったことにより、それまでフセイン政権の軍事力をおそれていたテロ組織がイラクで活動するようになった。そして、イラク戦争後にイラクを占領していたアメリカ軍やアメリカ軍の協力者には、テロによる多くの死者が出た。 しかし、イラクは実は大量破壊兵器を開発しておらず、国連の調査に協力しなかったのは、イラクが大量破壊兵器を開発しているように見せかけることで、イラクの国際社会への影響力を強めようとしたフセインのウソであることが判明した。 イラク戦争が、フランスやドイツなどの大国を無視して行われたので、国際社会でのアメリカの影響力が落ちていった。 日本は、イラクの復興支援に協力するため、自衛隊をイラクに派遣した。 中国大陸の中華人民共和国では、第二次大戦後に共産党が国民党から政権をうばってから、ずっと共産党による独裁がつづいている。 (※ この節では、たんに「中国」といったら、中華人民共和国のこととする。台湾の中華民国政権のことを言う場合には、この節では「台湾」や「中華民国」などと区別することにする。 1989年には、天安門で民主化をもとめる学生の抗議運動がおきたが、この運動は弾圧された。 この天安門での抗議運動に関する事件を 天安門事件(てんあんもん じけん) と言う。 なお中国は、経済を活性化するために、1070年代から市場経済の導入をおこなった。そして中国はしだいに経済大国に成長していった。 こうして、中国は、経済の規模がアメリカや日本につぐ、経済大国になった。 しかし、中国では、あいかわらず民主化がなされずに共産党による独裁がつづいている。 また、中国は周辺国と領土問題で、もめている。 日本とは日本の尖閣諸島(せんかく しょとう)の領有に、中国は反対をしている。 2010年には、中国の漁船が、日本の海上保安庁の巡視船に衝突する事件が起きた。 また、中国と東南アジア諸国とのあいだでは、スプラトリー諸島(Spratly Islands、 中国名:南沙(ナンシャー)諸島 )をめぐって、ベトナム、フィリピン、マレーシア、ブルネイと領土問題がある。 中国は、第二次大戦後、1950年にチベットを侵攻し、また1949年に中国はウイグルに侵攻し、そのまま中国がチベットやウイグルを領有する状態が、つづいている。 このため、中国ではチベット人やウイグル人などに対する少数民族への人権問題が生じている。 チベット仏教の最高指導者であるダライ・ラマ14世(14th Dalai Lama)は、1959年にインドに亡命した。 1998年(平成10年)に、長野県長野市でオリンピック冬季競技大会が開催された。 2013年(平成25年)には、IOC総会で2020年に夏季オリンピックを東京都で開催することが決定した。 工場の海外進出などの経済のグローバル化と、物価(ぶっか)下落(げらく)のデフレ化が進んでいった。 2000年ごろからのインターネットや電子メールなどの普及もあり、これらの動きが、さらに強まった。 1990年代の半ばごろからか、日本の機械工業などの製造業は、この「平成不況」を技術開発によって乗り切ろうとしたので、すでにバブル崩壊の時点でも技術力の高かった日本の工業は、ますます技術力が上がっていき、現在(2014年に記述。)の日本は世界の中でも高度な技術を持った工業大国になっていった。 (バブルの前から、中国や韓国などの低価格な輸出品に対抗するため、日本の製造業は技術開発を重視していた。) しかし、日本は技術力の高さが製造業などの一部の業界だけにとどまり、コンピュータ業界などの技術力はアメリカにおくれをとっているなどの問題もある。また電子工業では日本企業の技術力は高いものの、しかしその能力を商品販売にうまく結びつけられず、よって韓国や台湾などの新興国との競争に苦しめられ、日本の電子工業業界などの企業は経営が苦しくなっていってるという問題点もある。 2000年ころからか、日本の大企業は、かかえる事業のうち、不採算な部門から事業撤退しはじめた。同様に2000年ころからか、大企業どうしの合併や再編が起き始めた。 少子化などとも絡んで、2000年ごろから地方経済が衰退し始めたり、貧富の格差が拡大してきたと考えられる。 不況の原因として、政治の遅れなどが考えられこともあり、また政府の収入・支出の健全化のための財政改革とも関係して、規制緩和などが行われた。しかし結果は、いまいち好況には、ならなかった。 また、2000年代には、郵政民営化(ゆうせい みんえいか)など、国営事業の民営化も行われた。 また、規制緩和とも関係してか、地方分権をうったえる政治主張が、さかんになった。 2000年ごろからか、中国(中華人民共和国)が「世界の工場」と言われ始め、世界各国に低価格の商品を輸出し、日本経済は苦戦した。 なお、中国は1970年代後半から、資本主義を取り入れる改革路線を取っていた。 日本は、1990年頃から、工場を海外に移し始めた。その結果産業の空洞化(さんぎょうのくうどうか)が進んでいる。 2001年にはアメリカ同時多発テロが起きた。 2002年、北朝鮮と日本との外交交渉で、北朝鮮による日本人拉致(らち)を北朝鮮政府が公式に認め、拉致被害者のうち5名が帰国した。 しかし拉致被害者はその他にも多くいるので、まだ拉致問題は解決していない。 2008年には世界金融危機(せかい きんゆうきき)が起きた。 2009年には、日本では政権交代が起き、自民党から民主党に政権が移り、2012年まで民主党の政権が続いた。 2011年には、日本の東北地方を中心に大地震が起きた( 東日本大震災(ひがしにほん だいしんさい) )。この地震による津波により、東北の太平洋岸が大きな被害を受け、主に津波により多くの死傷者が出て、また福島の原子力発電所が事故を起こして放射能もれが起きた。 2012年の衆院選で自民党が勝利し、2017年の現在では、ひきつづき自民党の政権が続いている。 現在、少子高齢化が日本では進行している。 世界では現在、グローバル化などのため移民が各地で増加している。先住民との摩擦も起きている。 2020年には、新型コロナウイルスが猛威を振るった。そのため、同年開催予定の東京オリンピック・パラリンピックが1年延期した。
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1989年(昭和64年)1月7日、昭和天皇が崩御[1](ほうぎょ)し、当時の皇太子の明仁(あきひと)親王[2](しんのう)が新たな天皇として即位した。翌日8日には元号が「平成」(へいせい)と改元されて、「昭和」は終わった。昭和天皇の遺体は、2月24日の大喪(たいそう)の儀(ぎ)、大喪の礼(たいそう の れい)が行われ、昭和天皇の霊柩[3](れいきゅう)は武蔵野陵に安置、埋葬された。明けて1990年(平成2年)に新天皇(平成の天皇)即位の礼が挙行された。 . 昭和天皇の死去による一連の儀式にともない、法令に基づき、元号(げんごう)の改元も行われ、そして1989年に日本の元号は『平成』(へいせい)になった。 その平成も、2019年には、高齢化した今上天皇の退位(譲位)とそれに伴う新天皇の即位によって『令和』(れいわ)という元号に改められた。 なお、2019年の時点では、退位した天皇は「上皇」(じょうこう)として新天皇の公務を支えている。
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次の3つの用語が、検定教科書では重要語句になっている。(令和2年検定版で確認済み、下記に例を記述する。) 文科省の定める学習指導要領(中学 社会科版)には そのためだろうか、「少子高齢化」、「情報化」、「グローバル化」の3つの語句を教科書で太字で紹介している検定教科書が多い。 よって、定期テストや入試には、このような語句や内容が、重点的に出ると思われる。 なお、「グローバル化」の語源の globe グローブ とは、球体や地球を表す意味の英語である。 「国際化」と「グローバル化」との違いは、「国際化」が同じ母国の国籍の国民どうしの共同体を前提にしたうえでの外国政府や外国企業間との交渉やビジネスなどを意味するのに対し、「グローバル化」とは共同体じたいが多国籍・多民族から成り立つような意味で使われる事が多い。 現在、世界の多くの国では、市場経済(しじょう けいざい)が導入されている。ソ連とアメリカの冷戦が1980年代後半に終わるまでは、ソ連の支配下にある共産圏では市場経済が導入されていなかったが、冷戦の終了と共に、かつての共産圏では市場経済を導入した。 また世界の多くの国で、貿易や外交のための外国語としては英語が多く使われている。英語が、国際的な場所での、中心的な公用語になっている。 産業に置いて、ヒト(人)・モノ(物)・カネ(金)が国境を越えても動くようになった。このため、賃金の安い発展途上国など(中国や南アジア諸国、東南アジア諸国など)に多くの産業や工場が集まり、賃金の高い先進国では、いくつかの国内産業が衰退(すいたい)した。国内産業の海外流出による産業の空洞化の問題が起こっている。知的所有権の国際的な対応も、せまられるようになった。 多くの国では、貿易なしでは、産業を維持するのが、むずかしい。国際分業化が進んでいる。 工業製品では、最終製品が日本で作られている製品でも、中身の部品が外国製の物も多い。たとえばパソコンなどのコンピュータがそうである。 たとえば、日本で売られているパソコンの部品の場合、たとえパソコンのブランドが日本企業のブランドでも、中身の部品は外国製のことも多い。マザーボード(基板のこと)の生産国は台湾企業が多く、パソコンのCPUはアメリカ合衆国の企業の生産が普通である。ハードディスクはタイかシンガポールか中国などのアジア諸国で生産されている事が多い。ハードディスクの場合、そのハードディスクの生産メーカーが日本企業でも、生産工場はその日本企業がタイなどの外国に保有する外国工場で生産している場合が多い。 メモリチップの生産国は、日本の場合もあるが、韓国企業などの場合もある。 その外国企業ですら、すべてを自国で生産するのは難しい。たとえば、おそらくマザーボードを作っている台湾企業ですら、それらのマザーボードの部品や生産設備を、けっして台湾だけで全部を生産することは困難であり、おそらくは外国製の部品や外国製の生産装置も用いられている。 食料生産は、とうの昔から国際化している。第二次大戦後の日本は食料自給率が低く、米(こめ)や生鮮食品を除けば、多くは輸入品でまかなっている。また、たとえ日本料理であっても、原材料は外国から輸入していることも多い。 国際政治では、主要国の首脳どうしの意見交換の場としてサミット(主要国 首脳会議)が開かれるようになった。どこの国も、主権は持つが、たとえアメリカ・ロシアのような大国でも国際世論を無視するのは難しくなった。しかし、ロシアは国際法をやぶってウクライナへの侵攻を開始するなど、軍事力が物を言う構造自体に変化があったわけではない。 現代には、インターネットやハイテクが定着した。エレクトロニクスはIC、LSI、超LSIや携帯電話や光ファイバーなどと技術革新が進んでいる。日本の工業の移り変わりの歴史は、明治や大正あたりの製鉄などの重厚長大(じゅうこう ちょうだい)から、現代は半導体などの軽薄短小(けいはく たんしょう)型の産業に切り替わり、産業構造のハイテク化を起こした。これは経済のソフト化[2]、サービス化[3]とも呼ばれている。 インターネットの発達によって、今までは情報を不特定多数には発信する機会の無かった人でも、簡単に情報を発信できるようになった。 インターネットによって、遠くの友人とも、動画つきのネット電話で簡単に話すことも出来るようになった。また、インターネットを利用した通信販売などオンライン・ショッピングなどと言われる商取引も、盛ん。 ネットでの通信販売は、ネットで商品について調べながらでも、品物を吟味することが出来る。 しかし,情報通信の発達にともない、今までは無かったトラブルも増えてきている。 知らない人から、迷惑メールが送られてくることもある。また、ネット取引を装った詐欺なども、簡単に行えるようになった。 また、情報を簡単に入手できるということは、裏(うら)を返すと、もしも非公開の個人情報などが漏れても、情報が簡単に伝わってしまう、ということである。 基本的に、インターネットでは、自分や友人・知人などの個人情報は書き込まないほうが安全である。 インターネットでは、プライバシーに配慮しなければならない。 また、コンピュータの発達により、データの複製が簡単に出来ることになったことから、著作物の許可の無いコピーなど、知的財産権の侵害も目立つようになっている。 もしも、インターネット上で文章や画像、音楽などを公開するときは、著作権に注意する。インターネット上での公開にも著作権法などが適用されるので、他人の著作権を侵害しないようにする。 インターネットで情報の入手がラクになったことから、大量の情報が入手できるようになった。すると、多すぎて読み切れない量の情報がインターネット上ではあるため、いらない情報は無視をしたり後回しにして必要な情報から集めるという、情報の優先順位をつける能力も必要になってきた。 コンピューターそのものは機械であり、善悪の判断が出来ない。そのため、犯罪に使われる場合もある。また、インターネット上には、違法行為や犯罪を行っているウェブ・サイトも存在している。 もちろん、犯罪行為は、たとえコンピュータやインターネットを用いていようが、用いていまいが、どちらにせよ法律によって犯罪は処罰される。しかし、コンピューター産業は技術の進歩が早く、私達の注意が追いつかないため、ネット上での詐欺などが見ぬきにくく騙されてしまうこともありえる。 悪者に悪用されないように、インターネット上には、むやみに自分の名前や住所などの個人情報を書いてはいけない。 他人の個人情報も、同意がない限り、書いてはいけない。 インターネット通信は、自分だけのものではないので、利用の際には、他人に迷惑をかけないように注意する。 書き込みをするときは、けっして違法な書き込みをしない。犯罪予告などの違法な書き込みをすると法的に処罰されることもある。 これらのマナーなどの問題とは別に、技術的な注意点がある。 インターネット上には、ネットにつながった他人のパソコンの情報を盗み見したり、他社のパソコンを無許可で遠隔操作(えんかくそうさ)したりなどの行為を行う者もいる。そのような悪意を持った者が、悪事をしやすくするソフトウェアを開発する場合もある。他人のパソコンのシステム内に勝手に入り込んで(感染)、かってにシステム設定を書き換えて、ウイルス開発者が悪事をしやすいように書き換えてしまう迷惑なソフトウェアを コンピュータ・ウイルス という。このようなコンピュータ・ウイルスは、感染したパソコンの利用者の知らないうちに、かってに他人のパソコンのシステムの中枢に入り込んでしまう。 コンピューターというのはプログラムという命令文を実行する機械に過ぎないため、もしプログラムに「このパソコンの情報を盗んで、外部にもらせ」とかいった、悪意にもとづいた命令文が書かれていたら、そのとおりに実行してしまう。 パソコンからコンピュータ・ウイルスを削除できるセキュリティ・ソフトと言われるソフトウェアも存在する。 ウイルスの削除には専門的な知識が必要なため、そのようなセキュリティ・ソフトを生産している企業がある。 コンピュータ・ウイルスは、ほぼ毎日、新しいウイルスが開発されている。これに対抗して、セキュリティ・ソフトも開発が進められている。 日本は、長寿国ということもあり、高齢化(こうれいか)が進んでいる。また、未婚率や女性の出産年齢の上昇などもあり、社会の子供の数が少ないという少子化(しょうしか)も進んでいる。 日本の人口は、2005年が人口のピークで、それから人口の減少が始まっている。 国民の高齢化によって、社会保険の負担が増えていくことが予想されている。(2014年に記述。) 少子化と高齢化を合わせて、少子高齢化(しょうし こうれいか)と言う。日本では少子化による労働力の減少の心配や、高齢者の生活を支える負担能力の減少が、心配されている。 日本だけに限らず、多くの先進国で、少子高齢化の傾向がある。 食料自給率の低さやエネルギー自給率の低さなど、食料やエネルギーを輸入に頼っていることを考えても、人口を維持し続けるのは難しくなっていくかもしれない。 しかし、日本の現在の社会制度の多くは前提として、人口増や1億人程度以上の人口を維持している状態を前提にした制度が多く、また人口増を可能にした高度経済成長などの好景気を前提にした制度も多く、あまり人口減少や少子化を前提としていない制度が多い。 政治家や企業家や国民の中には、自国の人口が多いほうが自国の経済活動の規模が大きくなると考え、自国の人口が多いほど外国との経済競争に有利になるだろうという考えにより人口を維持しようと考える者も多い。 制度改革にも時間がかかり、そのあいだは、急激な人口の減少や急激な少子化があると、社会に混乱が起きる。 日本では少子化を防ごうとする政策が取られている。 たとえば日本では2003年に 少子化対策基本法(しょうしかたいさく きほんほう)が制定された。 日本だけに限らず、多くの先進国では、少子化が進んでいるので、少子化を防ごうとする政策が取られている。 いっぽう発展途上国では人口の増加が問題である。人口の増加につれて、食料危機の危険性が高まってくる。現状では計算上では、農産物は人類のすべてを養えるだけの量は生産されている。しかし、人口が増えれば、どうなるかは分からない。 人口が増えれば、石油などのエネルギーの消費も増えていく。 長寿命化によって、高齢者の割合も増えていく。高齢者への介護の負担も増えていく。子供を産んで増やしたところで、その子供もいずれは年を取り、高齢者になっていく。 子供を増やして若者を増やせば、一時的には、一人あたりの高齢者福祉への負担は減るが、問題の先延ばしに過ぎない。 結局は、どこかの時代で、若者は「これから、高齢者福祉の負担が大きくなる」と、覚悟を決めるしかないのである。 (人口問題があるからか、)当面は発展途上国では人口増加によって若者が多くても、将来的には発展途上国でも、いずれ少子高齢化が進行すると予想されている。(※ 近年の帝国書院の教科書でも、そう予想している。2018年に本文を記述。) どのみち、世界の多くの国は、将来的に少子高齢化を体験することになるので、いっそ「日本などの先進国は、海外の発展地上国の未来の問題(高齢化社会など)を先取りしてる」とでも考えて、積極的に問題解決をしていくのがよいだろう。 企業の商品開発などで高齢者に対応した商品開発をするなど(※ 帝国書院の教科書がこういうのを提案している)、建設的思考で高齢化社会への対応を心がけていきたいものである。
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次の用語が、検定教科書では重要語句になっている。(平成28年度、令和3年検定版で確認済み、下記に例を記述する。) 文科省の定める学習指導要領(中学 社会科版)には(一部中略) 文化→習慣や生活様式、ものの見方など、人々が作ってきたものや生活の仕方 AI(人工知能)の発達...ビッグデータによる情報収集、提供。 その他、介護ロボット、補助ロボットなどの発達 情報格差(デジタルデバイト)の拡大
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E6%96%87%E5%8C%96
次の用語が、重要語句である。 文部科学省の指導要領には と書いてある。 そのためだろうか検定教科書の多くは、これら指導要領で紹介された といった用語を、教科書で太字で紹介している教科書会社が多い。 学習者である中学生にとっては、これらの用語がテストに出る可能性があるので、重点的に暗記する必要がある。 文科省の用意した用語どうしの組み合わせは無視して、いったん、もとになった考え方を考察してみよう。 組み合わせは、以下のとおりだった。 さて、「対立」は、人間社会のいたるところで生じる。たとえば資源の分配をめぐっての対立、報酬の分配の対立、・・・さまざまなことで対立は生じるだろう。だれだって、多くの資源や多くの報酬が欲しい。 しかし「そんなことは無い! わたしはそんなに物が欲しくない!」という人がいるかもしれない。 だが、本当に、そうだろうか。どんな人でも、食べ物が必要である。食べ物だって、お金が無いと買えない。ならば、お金の確保をめぐって対立が起きるだろう。たとえ、円やドルなどの貨幣を廃止したところで、食べ物の問題が無くなるわけではない。食べ物を作るには農地などの土地が必要だ。農業を行うなら、用水などの水も必要だ。水の確保をめぐっての対立も起きる。 人間がいるかぎり、人間は自身のための資源をめぐって、他人との対立を起こすだろう。 しかし、現実として日本では、農業用水をめぐる内戦は起きていない。食べ物を奪い合っての戦争も起きていない。何故だろうか?  君たちの回答の中には、「他人の物を奪うと、ドロボウとして処罰されて警察に逮捕されるから。」と回答するかもしれない。 なるほど、たしかにそうだ。そういうルールがある。「ルール」は、文科省の指導要領での用語で言う「合意」に当たるだろう。なお、前提として、「ルールに基づいて行動しよう。」「ルールを守らない人は、処罰(しょばつ)しよう。」というルールを設ける必要もあるだろう。そうやってルールという合意に基づいて、みんなが平等に従うというのが、「公平」だろう。 しかし、公平(こうへい、equity)と公正(こうせい、fair)は意味が違う。 たとえば、具体的な人名を挙げるが、芸能人のビートたけしの川柳で「赤信号、みんなで渡れば 怖くない」という、日本人の習性を皮肉った川柳があった。 つまり、みんなで悪いことをすれば、それは平等かもしれないが、しかし正義ではない。 つまり、平等なだけではダメなんだ。さらに、正しいかどうかも考慮する必要がある。 だから、ぼくたちは「公正」を考えよう。「効率」と「公正」のバランスを考えよう。 実教出版の教科書では、たとえば一部のスポーツ選手が高額の年俸をもらっていることを、「効率」重視だが不「平等」の例として取り上げています。 さて、別に実教の見解ではないのですが、世間ではよく、企業の社長が高額な報酬を得ているのを「労働者への差別」だと文句を言う人がいます。そういう文句を言う人は、じゃあスポーツ選手には文句を言わないのでしょうか。「スポーツ選手は高額の報酬ではいいけど、そこらの中小企業の社長はダメ」なんてのは、それこそ中小企業への単なる差別です。なんというか、差別を批判する人ほど自身の差別性に気づけないようで滑稽(こっけい)です。 高校範囲で、かなり発展的な話題なのですが、東京書籍「公共」および清水書院「私たちの公共」の検定教科書が、ベンサムの格言「最大多数の最大幸福」を紹介しつつ、同じページで「トロッコ問題」というトレードオフの典型のような哲学的問題を紹介しています。なおそのページでは「トレードオフ」の用語は紹介していません。 なぜで大人たちは、そういうルール(「他人の物を奪うと、ドロボウとして処罰されて警察に逮捕される。」)を決めたのだろう。 君たちの回答の中には、「自分の物が盗まれたら困るから。だから、みんなでルールを作って、他人の物を盗めないようにした。」と回答するかもしれない。 ならば、どうして他人の物を盗んでもいい代わりに、自分の物を盗まれても文句を言わない。」というルールを作らなかったのだろう。あるいは、「強いやつが力ずくでいくらでも他人の物を盗んでもいい。」というルールを作らなかったのだろう。 ひょっとしたら、いまの各国での法律とか道徳などのルールも、もとをただせば、強いやつが力ずくで決めさせたルールなのかもしれない。 「僕たちは、弱いんだ。」「弱いから、みんなで力を合わせないといけない。」「だから、みんなで助け合おう。」 では、「他人に自分の盗ませてあげる」という行為は、貧しい人への "助け" には ならないのか? 他人に物を盗まれても、「盗まれた」と思うのではなく、「プレゼントした。」「寄付してあげた。」と思うのはダメなのか? 「みんなが物を盗むと、物を "自分で作ろう" とする人がいなくなる。」と反論するかもしれない。 なるほど、ドロボウにだって、物は必要だ。ドロボウにだって、食べ物も必要だ。ドロボウにだって、衣服も必要だ。ドロボウにだって、住居は必要だ。 "物を作る人" を盗んでくれば良いではないか? 人を誘拐して、奴隷にすれば良いではないか?  「それは犯罪だ。」「奴隷にされた人が、かわいそうだ。」「歴史的にも、奴隷制は失敗している。」 では、どうして他人を奴隷のように無理やり働かすのがいけないのか。 「歴史的にも奴隷制は失敗している証拠を教えよう。たとえば昔のアメリカの黒人奴隷。あるいは古代・中世での世界各地での奴隷制。これらは結局、失敗し、いまではアメリカもヨーロッパも、奴隷制を否定している。」 では、どうして奴隷制は失敗したのだろう? あるいは、もし奴隷制が歴史的に失敗していなかったら、奴隷制を始めるつもりなのか? あるいは、国は税金を国民から取ってるいるが、これは「国が無理やり金を国民に払わせる」という、国民を奴隷のように扱う行為にはならないのだろうか? なぜ税金を払うのだろう? 自分で作った物を売って得た富を、どうして他人に分けないといけないのか。税務署は強盗じゃないのか? なぜ税金を払うのだろう?  君たちの回答の中には、「日本に住んでる以上は、日本の公共サービスを使っているのだから、日本の役所にお金を払う必要がある。」と回答するかもしれない。 では、なぜ住んでる場所の持ち主に、お金を払わないといけないのだろう? そもそも、日本国の土地の持ち主は誰なのか? 地主か? そうだとすれば地主は、どうして税金を払うのか? 天皇が持ち主か? じゃあ、国民は天皇の所有物に過ぎないのか? あなた個人だけでなく、あなたの大切な家族も友人も、天皇の所有物の一つに過ぎないって言うのか? 国の持ち主は誰だろうか? 日本国民だろうか? では、もし外国人が日本に帰化して日本国籍を取得したら、彼/彼女は日本国の持ち主の一人か? ・・・・・・と、疑問はいくらでも考えようと思えば考えつく。しかし、日常生活では、このような疑問を考えなくても生活は回っている。べつに家庭生活だけでなく、企業での労働などでもこのような疑問を考える必要も無い。 なぜ、「国の持ち主が誰か?」とかを考えなくても、社会が円滑に動くのだろう。 ・・・・・・と、まあ、疑問はつきないが、深入りしすぎると、ほかの単元を勉強する時間がなくなるので、とりあえず、このくらいにしよう。 ちなみに、上記の説明は、高校でならう「万人の万人への闘い」という近代ヨーロッパの思想をもとに、現代日本風にアレンジしたものである。ヨーロッパの各地で宗教のちがいなどにもとづく戦争と内乱が続いた17世紀、イギリスの思想家ホッブズが「万人(ばんにん)の万人へのたたかい」という考えを著書『リバイアサン』[3][4]などで述べた。(※ 中学範囲外なので覚えなくて良い。高校の公民科では確実にホッブズについて習う。) ホッブズの思想によると、まず、すべての人間には、自分の生命を守る権利(自然権)があるとした[5]。 しかし、その権利だけでは、自分を守ろうとするがために、かえってお互いに相手を敵だとみなし、死の恐怖と不安に支配された状態になると考えた。ホッブズはそうした状態を「万人の万人に対する闘い」と呼んだ。そこには芸術も学問もなく、孤独で貧しく悲惨な人生しか送れない。 ホッブズは、自然権をお互いの合意のもとで制限し、これを主権者にゆずりわたすことで国家ができたと説明した。そして、人々は国家に従うことで、人民どうしが相手を味方であるとみなせるようになり、平和と安全を確保できると考えた。 理科でいう「効率」(こうりつ)とは、「少ない時間で、たくさんの仕事をする能力」のことである。 しかし、社会科のこの単元では、「効率」とは「少ない労力と費用と時間で、成果を出すこと」という意味だとしよう。 また、そのために(少ない労力などで成果を出すために)「無駄を省く(はぶく)」というような意味だとしよう。 ある国のある年度の政治についてなら、税金や人手にも限りがあるので、「効率」も必要である。 公立中学校の授業とかだって、限りある時間と予算のなかで、効率よく行われなければならない。なので、そういう理由もあって「授業中には、生徒は私語をしない」とかのルールもあるわけだ。 授業にかぎらず、部活とかだって、校庭や体育館などの限られたスペースを、みんなで上手く活用するわけだ。 ここで重要なのは、よほど体育館の広い中学(例えばスポーツ名門校の私学とか)でないかぎり、けっして皆が同時に、体育館を使うわけではない。 つまり、体育館が普通の広さの公立中学では、けっして室内スポーツをしてる運動部の皆(男子バスケ部、女子バスケ部、男子卓球部、女子卓球部、男子バドミントン部、女子バドミントン部・・・)の全部員(1年生から3年生まで全員)が、けっして同時に、体育館を使うわけではない。 では、どうやって使っているかというと、かわりばんこ に、一定の時間ごとに交代して、体育館の室内スペースを使ってるわけだ。 こういうルールをつくることで、体育館の限られたスペースを、うまく使ってるわけだ。ルールを作ることで、効率を上げてるよね。 で、体育館で練習できないあいだは、筋トレなどの他の練習をして、うまく時間を有効活用してるわけだよね。 (※ 検定教科書では、運動部どうしの校庭の使い方の事例であったが、ウィキブックスでは体育館にアレンジした。) 仮に、校庭が、校舎の耐震補強(たいしんほきょう)工事のため、校庭の3分の1の面積が、使えなくなったとしよう。 このため、校庭で練習しなければならない運動部である、サッカー部、野球部、ソフトボール部、陸上部、・・・などが、練習場所が足りなくなりそうだとしよう。 屋外競技のどの部活も、大会前の直前の期間であるとして、大会の試合にそなえて校庭で実践的な練習をしたいと思ってるとしよう。 私たち中学生は、どうすべきでしょうか? ・・・というのが、検定教科書に書かれている事例である。 なにも公共的な機関にかぎらず、日常生活でも、時間に限り(かぎり)があり、土地の広さにも限り(かぎり)がある。 夜間のピアノ練習によって、隣人トラブルが起きたという、そういう事件がある。(ここウィキブックスでは、この事件について深入りしない。検定教科書でも、そもそも事件が実在した事自体、教科書は紹介してない。) さて、夜中に眠ろうとしてる隣人からすれば、ピアノの音を聞かされて眠れないのは、すごく不満であるし、睡眠不足になりかねず、健康を害しかねないだろう。(別に、事件の隣人がそうだったとか言ってるわけではない。) だから、まあ、このピアノ事件に関して言えば、夜中に楽器の練習をする行為は、マナー違反だろう。 ピアノの練習時間を限定する法律なんて、普段の生活では聞いた事ないが(ひょっとしたら、今の時代なら、どこかの法律にあるかもしれないが)、だからって、けっして、ある行為の規制が法律に無いからって、なんでもやってイイわけではない。 夜中にピアノの音を聞かされる隣人にだって、夜中ぐらいは静かに眠らえてもらうっていう、当たり前の権利がある、・・・って考えるのが公正だろう。 だからといって、いちいち法律で、「夜中の◯時から翌朝△時までは、音を出す楽器の練習をしていけません。」とか書くのも、非効率である。だって、「楽器」が駄目でも、じゃあ、「夜中にトイレに行ってオナラの音が出るのはイイのか駄目なのか?」とか、あるいは「夜中に部屋で勉強するために明かりがつくのは、明かりが窓から漏れるから、通行人はまぶしくて、通行人に迷惑ではないか?」とか、「最近の電子楽器では、イヤホンをして演奏者にしか音が聞こえない楽器もあるんだが?」とか、いちいち、そういった細かいことの想定を、法律は書ききれない。 法律は、なるべく簡単なほうが、理解しやすいし、覚えやすく、効率的である。もし法律が効率的でないと、とても運用しきれない。 このように、「効率」とか「公正」ってのは、けっして、抽象的な議論ではなく、そういう事をきちんと考えて対策しておかないと、いろいろと隣人トラブルや、ついには事件になりかねない。 もし夜中、街灯が適度に明るければ、防犯などにも役立つかもしれないし、暗いことなどによる事故も減る。 でも、街灯を点灯するためには電気エネルギーが必要である。 街灯をいくつか消灯すれば、省エネになる。 さて、夜中に出歩くことの多い人にとっては、街灯が多く点灯するほうが、便利である。 いっぽう、夜中に出歩かないことの多い人にとっては、なるべく街灯をいくつか消灯するほうが、省エネになって有利である。 街灯を多く点灯しても、それとも少なく点灯しても、どちらかの人々に有利になってしまい、もういっぽうの人々に不利になってしまう。 どうすればいいか、読者の中学生は、生徒どうしで話しあってみよう、・・・ ・・・と教科書は課題を出している。 どんなに効率の良くて公正なルールでも、多くの人々が合意してなければ、そのルールは守られない。 だから、なるべく多くの人が合意するルールを作る必要がある。 でも、けっして検定教科書は、「すべての人」が合意すべきルールを作るべきなんて、言ってない。あくまで、「多く」の人が合意すべきである、と教科書は言ってるわけだ。 もう一方で、まだ生まれてない世代にも、政治や法律などのルールは配慮する必要である・・・と、ある検定教科書は言っている。 そして、社会の変化によって、どんなルールが効率的で公正かは、変わっていく。 また、ルールには、必要に応じて例外的に、少しだけ変更しなければならない場合がある。たとえば、スポーツして遊ぼうとして、野球やソフトボールなどの集団球技のスポーツで対戦しようと思ったとき、ルールどおりの人数がそろわず、人数が足りない場合がある。そのような場合、少ない人数でも遊べるようにルールを変更する必要があるだろう。 いくつかの検定教科書で、「少数意見の尊重」という言葉があります。(※ 帝国書院や日本文教出版(ただし社会保障の単元)など。) もちろん、けっして少数派の意見が議会などで可決して通るわけではありません。(もし少数派だから意見が可決すると仮定してしまうと、たとえば、まるで第二次世界大戦前の日本での軍部大臣現役武官制のような、一部の人間によって国会など議会が左右される不合理な状況になってしまいます。) 「小数意見の尊重」とは、けっして「少数意見に従う」という意味ではありません(※ 日本文教出版が紹介)。 ですが、良い議論をするためには、色々な立場などからの多様な意見をあつめる必要があります。だから少数意見であっても、その意見が存在すること自体は尊重しなければなりません。 中学の範囲を超えますが(たぶん教師などが口頭で説明するでしょうが)、近代フランスにおける哲学の格言で「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」という、民主主義的な態度を示したような名言があります。(※ なお、この格言は、よくヴォルテールの発言と紹介されてきたが、実際にはヴォルテールを研究した哲学者エルベシウスによる要約であるらしく、ヴォルテール自身は発言してないらしい。) (※ 高校の範囲:) 民主主義は、けっして万全の政治体制ではありません。しかし、ほかのどの政治体制よりもマシです。20世紀のイギリスで首相を勤めたチャーチルは、「民主主意義は最悪の政治形態である。ただし、(民主主義以外の)他の政治形態を除いてのことだが…」と述べています(高校の東京書籍『公共』教科書の見解)。 けっして形式的に「民主主義」と言われるものを妄信するのではなく、実際に少数意見の存在の権利が守られているかとか、多様な知見を政策などに取り入れているかとか、そういったことに気を配っていきたいものです(高校の東京書籍『公共』教科書の見解)。
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あなたの住むまちの広場が汚れていたとしましょう。広場をきれいにするには、気が付いた人がボランティアで掃除する、人々がお金を出し合って掃除係を雇う、などの方法があります。しかし、ボランティアが十分に集まるとは限りません。また、お金を払わなくても広場を使えるなら、掃除にかかるお金を出そうと思う人は少ないでしょう。快適な広場を維持するために、人々に公平な負担を求めるなら、広場を使う全ての人々から、少しずつ、かつ、強制的に、お金を集めるのが合理的です。 このように、人に何かを強制する力を権力といいます。 さらに、国や地方公共団体が行う、警察や消防のサービス、学校の運営、年金や医療保険などについても、広場と同じことがいえるでしょう。国家が国民に強制する力を国家権力といいます。 国民の自由と安全を守るために存在する国家権力は、社会に必要なものです。しかし、それはとても強大なもんどえあるがゆえに、同時に個人の意思を無視して、お金の支払いや労力の提供を強制するおそろしい力でもあります。それをよりよく使うには、どうすればよいでしょうか[1]。 そこで、ここでは、人権思想と民主主義の歩みについて見ていきましょう。 古代ギリシア民主政などの一部の例外を除いて、古代や中世では、世界のほぼすべての国で、民主主義は行われませんでした。(なお、例外の古代ギリシアでも、古代ギリシアでは参政権は原則的に兵役の義務にともなうものであったので[2]、つまり古代ギリシアで選挙権のあった「市民」とは軍役の義務を負った兵士などのことであり、現代の民主主義とは違う。) そもそも、古代や中世では、国家の主権者は、国民ではありませんでした。 国王や貴族(や教皇・法王)などの、一部の人たちだけが、その国の政治に参加していました。国王や貴族が、一般の人々を支配しており(専制支配、(せんせいしはい) )、人々に重税を課していたりしました。 また、その国王や貴族は、生れながらの身分によって、誰がその地位に付くかも、ほとんど決められていました。 選挙で選ばれた政治家からなる「議会」のような組織は、古代・中世では、ない国も多かったです。あったとしても、国王や貴族と比べて、当初の議会は、権力が弱いものでした。 しかし、近代になると、ヨーロッパでは、専制政治への不満が、高まっていきます。(※著者注 なお、もともと中世ヨーロッパの絶対王政には、外国からの不当な干渉をふせぐために(ローマ教会からの圧力なども、不当な干渉にふくむ)、国王の権力を強めていったという側面もあった。) そしてフランス革命(1789年)によって、フランスでは、フランス国王が処刑され、専制政治が倒されます。 同じ1789年に発表された『フランス人権宣言』は、決して単なる人権思想を主張するだけの狙いではなく、フランス革命後の政治方針という側面もあります。 『フランス人権宣言』は実質的に、革命後のフランスでの、当面の憲法のようなものでもありました。なお、フランス憲法は1791年に制定されます。(※ 教育出版の教科書で、革命後のフランス憲法の制定年が紹介されてる。) ヨーロッパの他の国では、国王を処刑しない国でも、選挙で選ばれた政治家からなる議会をつくらせていったりして、国王や貴族などから権力をうばっていきました。 このように、民主主義は、戦いによって、勝ち取っていったものです。 民主主義を行う国が増えていったのは、近代になってからであり、ヨーロッパやアメリカ合衆国を中心として、民主主義が行われるようになりました。 ちなみに、アメリカ独立革命が起きたのは1775年であり、フランス革命(1789年)よりも、アメリカ独立革命のほうが古いです。 1775年のアメリカ独立革命後、1776年に発表された独立宣言のなかで、生命・財産の権利などがうたわれます。 そして、1787年に、アメリカ合衆国の憲法が制定されます。 フランス人権宣言や、アメリカ独立宣言では、人は生まれながらにして、自由や平等などの権利をもつことが宣言されました。 このように、人が生まれながらにして持っている権利のことを「人権」(じんけん)といいます。 近代の人権思想で、最初に認められていった権利は、生命や身体を不法にはおびやかされない権利や、財産を持つ権利などといった、自由権(じゆうけん)です。 しかし、資本主義がすすむにつれて、長時間労働などの問題が出てきたり、貧富の格差が大きくなっていくなどしました。 そのため、最低限度の生活を保障する社会権(しゃかいけん)が認められていくようになりました 20世紀に入ってから、1919年にドイツのワイマール憲法で、社会権(しゃかいけん)が世界で初めて、憲法の規定として認められました。 また、労働者が、労働環境の改善のために、労働運動を始めるとともに、また、労働者が政治へ参加できる権利を求めるようになり、選挙権の拡大運動が行われました。 このように、選挙権が、しだいに広がっていき、普通選挙運動へと、つながっていきました。 じつは、中世のイギリスでも、1215年に発表されたマグナカルタで、国王といえども正当な法律や裁判によらなければ逮捕や土地・財産の没収などをしてはならないという取り決めが、されています。(※ マグナカルタは検定教科書の範囲内。検定教科書の図表中にマグナカルタの条文が紹介されている。) ただし、マグナカルタは、貴族の権利を保障したものです。 名誉革命(1688年)後のイギリスで、『権利の章典』(けんり の しょうてん)によって、議会の同意なしに国王が法律をつくることは違法とされ(第1条)、またイギリスの政治は、議会にもとづく政治とすることが確認されました。(※ 「権利の章典」は検定教科書の範囲内。検定教科書の図表中に「権利の章典」の条文が紹介されている。) イギリスでの名誉革命(1688年)のころから、民主主義的な思想が出てきて、これらの思想が名誉革命以降のアメリカやフランスなどでの革命などに影響を与えた。 たとえ革命で人権宣言が出されても、それが法律とならなければ、人権を守るための実効性がありません。 そのような事情もあってか、フランス革命では、フランス人権宣言が出されてまもないうちに、人権宣言にもとづく考え方を採用したフランス憲法が制定されました。 また、アメリカ合衆国でも、アメリカ独立宣言にもとづくアメリカ憲法が制定されました。 さて、憲法が制定されても、個別の法律が、憲法に従わっていなければ、人権を守るための実効性がありません。 そのような事情もあってか、近代以降の国家では、憲法とは、その国の最高法規(さいこう ほうき)であるとされ、憲法に従っていない法律は無効であるとされています。 そして、イギリスの『マグナカルタ』や『権利の章典』が国王といえども法律にしたがうべきだという決まりを定めたように(現代風にいうと、国王などによる「人の支配」ではなく、「法の支配」「法治主義」であるべきという考え方)、近代以降の国家でも、政治の権力を持った政治家たちが法律や憲法にしたがわなければ、人権を守るための実効性がありません。 なので、政治家には、憲法にしたがう事が、求められます。 このように、憲法に最高法規としての実効性を持たせることで、民主主義的な政治を行おうという考え方を、「立憲主義」(りっけんしゅぎ)といいます。
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日本では、明治時代になってから、西洋の民主主義が、一般の人々に紹介されました。そして、自由民権運動が、盛り上がりました。 また、欧米諸国と対等な外交関係を築くためにも(※ 育鵬社の教科書の見解がこう。こう書いても教科書検定に通る。)、日本国は法体系を近代化する必要などもあって、明治時代のなかば、大日本帝国憲法(明治憲法)が制定・発布されました。 大日本帝国憲法は、日本で初めての、近代西洋的な意味での「人権」(human rights[1])を保障した憲法でもあります。 この明治憲法では、天皇が主権者であるという点が現代の憲法とは違いますし、人権が「法律の範囲内」という制限がつくという点も、現代の憲法とは違います。 なお、大日本帝国憲法で想定された人権は、現代でいえば、法律によらなければ死刑などで殺されない生命の権利や、財産を持つ権利などの、いわゆる自由権(じゆうけん)を中心としたものです。最低限度の生活を保障する社会権は、まだ1889年(大日本帝国憲法の制定年)当時の世界には浸透していませんでした(そもそも社会権が誕生したのが、1919年のドイツのワイマール憲法が世界で最初。それより前の時代の1889年の大日本帝国憲法が、社会権を保障するはずがないのは当然。) 第一次世界大戦後には、日本で、政党政治の普及を通じて民主主義が進展し(大正デモクラシー)、また、男子普通選挙が実現しました。 しかし、1930年代、満州事変が起きた前後のあたりから、しだいに軍部が権力をにぎっていくなかで、大日本帝国憲法の天皇が軍部を管轄しているという名目のため、国会や政党が、軍部の権力に歯止めをかける事が、しづらくなっていきました。 また、1925年に制定された治安維持法(ちあん いじほう)と、大日本帝国憲法の法律の範囲内で人権を制限できるという規定により、軍部に批判的な言論が、発表しづらくなっていきました。 そしてついに軍部は暴走していき、日本が第二次世界大戦へと突入していき、1945年の敗戦をむかえました。 1945年8月に、日本が、降伏(こうふく)勧告としてのポツダム宣言を受け入れたことで、公式には第二次世界大戦が終わりました。(※ 実際には、東南アジアなどでは、ヨーロッパ諸国による植民地支配から、現地住民が独立するための戦争が、続いていた。日本軍の現地部隊が、非公式に、現地住民の独立運動家などに武器を横流ししていたという説もある。) そして、降伏した日本は、ポツダム宣言にある、戦後の民主化の方針のもと、憲法を改正する必要が生じました。 ポツダム宣言には、日本がしたがうべき方針としては、軍国主義を取り除くこと、民主主義を強化すること、基本的人権を尊重することなどが、定められています。 改憲案については、政党や民間の運動家などからも、さまざまな改憲の草案(そうあん)が出てきました。また、当初の政府案は、GHQにとっては民主化が不十分だとして認められず(※ 政府の当初案は、GHQには、大日本帝国憲法の語句を部分的に変えただけだと思われたようだ)、憲法を全面改正することになりました。 そして、最終的に、連合国軍総司令部(GHQ)が示した憲法草案をもとにした改憲案が、戦後の1946年に開かれた国会で審議され、1946年11月3日に日本国憲法として公布され、翌1947年5月3日から施行(しこう)されました。
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憲法(英:constitution コンスティチューション)とは国の基本となる最高法規(英:supreme law サプリーム・ロー)である。具体的には、憲法は国家や政治のあり方や国民の権利と義務を定めるもっとも基本的な法であり、憲法に違反している法律は無効とされる。(憲法98条) 一方、法律は国会の制定したきまりのことを指す。 日本国憲法の原則として、国民主権(英訳:the sovereignty of the people)、平和主義(英訳:Pacifism)、基本的人権の尊重(英訳: respect for fundamental human rights)が挙げられる。これは憲法の三大原則と呼ばれている。 日本国憲法では、主権者は日本国民であると、明確に宣言されている。 日本国憲法の前文でも「ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」と宣言されている。 政治の決め方は、国民からの選挙で選ばれた議員を代表者として、議員を通して議会で政治が決まります。なお、このように、議会を通して政治を決める方式を議会制民主主義(ぎかいせい みんしゅしゅぎ、Representative democracy リプリゼンティティブ・デモクラシー)と言い、また、間接民主制(かんせつ みんしゅせい)とも言う。 日本国憲法の議会のあり方では、大日本帝国憲法の時代と同様に、議会制が取られている。日本国憲法では国民の普通選挙が保障されており(憲法第15条)、公職選挙法によって選挙権は男女ともに18歳以上の大人に選挙権が平等に与えられる。また、最高裁判所の裁判官は国民による審査をうける。 このように、主権者が国民であるという方式や考え方などを「国民主権」という。 日本国憲法では、明確に国民主権が明記され、天皇の主権が否定された。大日本帝国憲法では主権者であった天皇は、日本国憲法では、天皇は日本国の「象徴」と憲法第1条で規定された[1]。 政治に関しては、天皇は、実際の政策の決定は行わず、また政策の決定をする権限も天皇は持っていない。天皇は、儀式的な国の仕事である国事行為を行うとされている。また、その国事行為は、内閣の助言と承認にもとづくとされている。 天皇の国事行為は次のようなものが挙げられる。 全ての人間が生まれながら持っている基本的な権利を基本的人権(きほんてき じんけん、英:fundamental human rights ファンダメタル・ヒューマン・ライツ)という。基本的人権は憲法第11条にて「侵すことのできない永久の権利」とされている。 基本的人権には、以下のような権利がある。平等権・自由権・社会権(英:Social rights)・参政権(英:Suffrage )・人権を守るための権利がある。これらについては別のページにて詳しく説明する。 憲法で定められた権利は、どうあつかっても良いのではなく、社会全体の利益または他人の権利をそこなわない範囲で、憲法の権利の活用がみとめられている。そのために各人の権利を調整する原理を公共の福祉'という。 たとえば授業中に大声でさわいだりして他の生徒の勉強をじゃますることは、他の生徒の「教育を受ける権利」を侵害しているため、授業中に大声でさわぐ生徒を先生が叱っても、人権侵害にはならない。 公共の福祉はあくまで、それぞれの人権の矛盾や衝突を避けたり、調整したりするためのものである。したがって、人権の侵害の口実に公共の福祉を用いることはゆるされていない。 日本国憲法では、戦争をおこさずに平和主義をまもろうとしています。憲法では、日本は戦力(せんりょく)や武力(ぶりょく)を持たないとしており、軍隊を持たないとしていますが、実際には日本国は自衛隊(じえいたい)が戦車などの兵器をもっています。 自衛隊が存在していたり、自衛隊が兵器をもっていることは、憲法に矛盾しているような状態なので、批判的な意見や議論もあります。ですが、日本の第二次大戦後の政治では、今までのところ、国会議員の選挙で選ばれた政権が、自衛隊の保有を認める時代が、ずっと、つづいています。 憲法には権利(けんり、英:right)だけでなく、国民の義務(ぎむ、英:obligation オブリゲイション)についても書かれています。 義務は、納税(のうぜい)の義務(第30条) 、 子供に教育を受けさせる義務(第26条) 、 勤労の義務(第27条) の3つの義務があります。 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、 われらとわれらの子孫のために、 諸国民(しょこくみん)との協和(きょうわ)による成果と、わが国(くに)全土(ぜんど)にわたって自由のもたらす恵沢(けいたく)を確保し、 政府の行為によって再び戦争の惨禍(さんか)が起る(おこる)ことのないようにすることを決意し、 ここに主権が国民に存(ぞん)することを宣言(せんげん)し、 この憲法を確定する。 そもそも国政は、国民の厳粛(げんしゅく)な信託によるものであって、 その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使(こうし)し、その福利(ふくり)は国民がこれを享受(きょうじゅ)する。 これは人類普遍(じんるいふへん)の原理であり、この憲法は、かかる原理に基づく(もとづく)ものである。 われらは、これに反する一切の憲法、法令(ほうれい)及び(および)詔勅(しょうちょく)を排除する。 日本国民は、恒久(こうきゅう)の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高(すうこう)な理想を深く自覚するのであって、 平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。 われらは、平和を維持し、専制と隷従(れいじゅう)、圧迫(あっぱく)と偏狭(へんきょう)を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたい(しめたい)と思う。 われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏(けつぼう)から免れ(まぬかれ)、平和のうちに生存する権利を有する(ゆうする)ことを確認する。 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであって、政治道徳の法則は、普遍的(ふへんてき)なものであり、この法則に従う(したがう)ことは、自国の主権を維持(いじ)し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務(せきむ)であると信ずる。 日本国民は、国家の名誉(めいよ)にかけ、全力をあげて この崇高(すうこう)な理想と目的を達成することを誓う(ちかう)。 憲法の改正は、通常の法律とは違う改正の手続きがありますが、改正そのものは日本国憲法でも可能です。 日本国憲法の条文にも改正の手続きが書いてあります。 憲法を安定させるため、改正の条件は、通常の法律よりも、きびしい条件になっています。 通常の法律の改正よりも、より多くの議員の賛成や国民の賛成が、憲法の改正では必要なようになっています。 憲法は最高法規なので、他の法律よりも安定させる必要があり、そのため日本では、きびしい改正の条件になっています。 まず、衆議院と参議院それぞれ両方の総議員の3分の2以上の国会での賛成によって、発議(はつぎ、意味:国会での提案のこと)されます。 この憲法改正の発議では、衆議院と参議院は対等です。 国会での発議ののち、国民投票にかけ、過半数の賛成があれば、憲法は改正されます。 これらの条件の一つでも満たさなければ、その発議での憲法改正は廃案になります。たとえば衆議院の3分の2以上の賛成が合っても参議院の3分の2が満たさなければ廃案です。衆参の3分の2以上を満たしても、国民投票の過半数の賛成に届かなければ廃案です。 以上の条件を満たし、もしも憲法改正が決まったら、天皇が国民の名で憲法改正を公布することになります。憲法改正の公布も、天皇の国事行為の一つです。 さて、西暦2021年7月の時点では、まだ日本国憲法は一度も改正されていません。 2007年に、憲法改正のための国民投票の手続きを定めた法律の国民投票法(こくみん とうひょうほう)が制定され2010年に施行されました。 なお、国民投票法の正式名称は「日本国憲法の改正手続に関する法律」です。 なお、憲法改正には改正発議のあとの国民投票による「その過半数」(憲法 第96条)の賛成が必要ですが、しかし「その過半数」とは何の過半数なのかは憲法そのものには書かれていません。国民投票法では、有効投票の過半数によって憲法改正をできると制定しています。(※ 検定教科書では、帝国書院や教育出版の教科書で、本文では説明は無いがい、図表で「投票」の過半数だと説明されている。) 有権者の過半数ではなく、有効投票の過半数です。 憲法の改正で、よく提案される改正案を上げます。 ほかにも、いろいろと改正案はあります。
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Main Page > 小学校・中学校・高等学校の学習 > 中学校の学習 > 中学校社会 > 中学校社会 公民 > 中学校社会 公民/国民主権 中学校社会 公民/国民主権では、日本における国民主権について憲法を交え中学校の公民という立場から考えます。 日本国憲法では、主権[1]者は日本国民であると明言しています。 現在は、国民による選挙で選ばれた議員を代表者として、議員を通して議会 (国会) で政治がされます。なお、このように、議会を通して政治を決める方式を議会制民主主義、あるいは間接民主制とも言います。 参政権とは、国民の誰もが政治に参加できる権利です。 日本では、18歳以上の日本国民ならば、誰でも国会や地方議会の選挙の際に投票できる選挙権があります。また、25歳以上の日本国民ならば誰でも衆議院の議員に立候補できる被選挙権の権利です。なお、参議院の立候補は、30歳からです。また、憲法改正のときの国民投票の権利なども参政権に含まれます。 日本国憲法では、大日本帝国憲法の時代と同様に、議会制が取られています。ただし、日本国憲法では選挙権を与えられる対象が大日本帝国憲法の時代よりも拡張され、選挙権は国民であれば18歳以上の男女に選挙権が平等に与えられます。 選挙で選ばれた議員が政治を決めるため、政治に投票する選挙権などの 参政権 が重要な権利になります。また、政策を主張するには、そのための自由や権利が無くてはなりません。そのため、言論の自由や表現の自由もまた重要な権利です。 大日本帝国憲法では国家の主権者であった天皇は、日本国憲法では日本国の「国民の統合の象徴」と憲法第1条で規定されています。 政治に関して言えば、天皇に実際の政策を決定する権限はありません。天皇は、儀式的な国の仕事である国事行為を行うとされています。また、その国事行為は、内閣の助言と承認にもとづくとされています。 もっとも、大日本帝国憲法の時代でも、形式的に政治の主権は天皇にあったものの、実際は議会の意向 (後に軍の意向) をある程度反映して政治が行われていました。 日本国憲法では国民主権が明記され、天皇の主権が否定されました。 外国からは、天皇が日本の元首と見なされることもあります。元首とは、外国に対し国を代表する人を指します。 これには、次の行為があります。
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基本的人権は、おおまかに 自由権(じゆうけん)、 平等権(びょうどうけん) 、 社会権(しゃかいけん) などの権利に分けられる。 このうち、自由権は大まかには身体の自由、精神の自由、経済活動の自由に分かれます。 犯罪をして逮捕されるときなどをのぞけば、体を不当に拘束されない、という権利です。 日本国憲法では、 という言い方をしています。 生命を法によらなければ奪われない権利と合わせて「生命・身体の自由」と言われています。 法律によらなければ、逮捕はされません。(第33条) 警察官が逮捕をする場合も、裁判官の発行する令状(逮捕令状)が必要になります。[1]  逮捕された場合でも、裁判をすぐに受ける権利があります。(第37条)  また、裁判とも関連して、憲法の条文では、取り調べでの自白の強要はゆるされていないというような定めがあり、自白のみを証拠にする場合には裁判の判決で処罰を下すことはできないことが定められています。被告人には不都合なことを黙る黙秘権(もくひけん)もあります。 また、「身体の自由」は、奴隷的な拘束を禁じた義務でも、あります。 どのような考えを持っていても、少なくとも法律では、その考えを持つだけでは罰しない、ということに、憲法では、なっています。 精神の自由には、思想・良心の自由、表現の自由、信教の自由や、学問の自由 などがあります。 どのような政治信条を持っていたり人生観を持っていようが、法律では罰されません。 また、何を正義と思おうが、思うだけなら罰されません。 ただし、思うだけでなく、実際に行動にうつせば、もし、その行動が法律に違反していれば、当然、取り締まりを受けます。 また、役所以外が、特定の考えを批判しても、べつに思想の自由を侵害したことになりません。 たとえば、政治の政党は、当然、政党ごとに政治信条がちがってきます。ですが、たとえ政党が別の政党の政治信条を批判したところで、それはべつに憲法違反になりません。 あなたの父母などの保護者が、あなたの考えを批判しても、保護者は憲法違反になりません。 学校などの場合、生徒の考えが道徳に違反している場合、先生が生徒の考えを批判する場合もあります。 厳密(げんみつ)に考えれば、たとえ子供であっても精神の自由があるのですが、教育上の理由から、生徒の考えが明らかに社会道徳にさからっている場合には、慣習的に教育者は生徒をしかることも、社会的には、ゆるされています。 どんな考えを発表しても、その主張が侮辱(ぶじょく)や脅迫(きょうはく)などを目的とした違法な主張で無い限りは、発表をしたことで刑罰や取り締まりを受けない、・・・と一般に考えられており、これを「表現の自由」と言います。 (※ 範囲外) 日本国憲法そのものの表現の自由に関する条文には、侮辱・脅迫などの例外規定はない。憲法では、表現の自由について、単に 「第二十一条 とだけ書いてある。だが、現実の社会においては、主張に侮辱(ぶじょく)や脅迫(きょうはく)などの違法な主張があれば、警察などによって取り締まられている。 例えば、もしも「○○(実在の人名)を殺してしまえ。」(犯罪の指示)とか「△△しないと、○○(実在の人名・地名など)を襲撃するぞ。」(脅迫)とか言ったり発表したりすれば、その人は、取り締まりを受ける場合もある。 なので、wikibooksでは「表現の自由」について「どんな考えを発表しても、その主張が侮辱(ぶじょく)や脅迫(きょうはく)などの違法な主張で無い限りは、発表をしたことで刑罰や取り締まりを受けない、」のように説明した。 もちろん、推理小説とかで作中の殺人犯とかが、「○○を殺す。」と言っても、脅迫を目的とした小説ではないので、取り締まりは受けないだろう。同様に、歴史小説とかで源頼朝が「平家を滅ぼす。」などと言ったとしても、その小説の作者は取り締まりは受けないだろう。 だが、もしも、単に現代の一般人が「○○(実在の人名)を殺せ。」などと言ったりすれば、当然、刑法などによって取り締まりを受ける。 検定教科書によっては、「侮辱や脅迫」などの例外については説明せず、単に「どんな考えを説明しても、取り締まりを受けない」などと説明する場合もありうる。中学生徒は、定期テストのため、答案は、自校で採用している検定教科書に合わせよう。 キリスト教を信じようが、仏教を信じようが、神道を信じようが、あるいは自分で作った宗教を信じようが、または、宗教を信じないとしても、法律では罰されません。つまり、どんな宗教を信じても、あるいは、宗教を信じないとしても、それは自由であるということです。 なお、キリスト教の教会が、教会の中で仏教など他教の儀式を禁じようが、それは信教の自由をやぶったことになりません。国や法律以外のことについては、憲法による信教の自由は関与しません。 ある宗教の信者が、その宗教をやめたいと思ったら、教団の側は、信者が信仰をやめて宗教から抜ける自由をみとめなければ、ならないでしょう。また、たとえ、親や学校の教師だとしても、あなたに特定の宗教を強要したり、あるいは、特定の宗教を信仰しないように強要することはできません。 また、政府と宗教とは分離されています。(政教分離) 原則として日本では、政府が特定の宗教を保護することは禁じられています。ただし、裁判の判例では、例外として、宗教的文化財への補助や宗教系私立学校への補助などを許しています。 また、外部的行為を伴う宗教行為は、他者の人権と衝突する可能性がある以上、信教の自由の保障は無制限ではない。 判旨:精神異常者の平癒のために加持祈祷が宗教行為としてなされても、それが他人の生命、身体等に危害を及ぼすものであり、それによってBが死亡した以上、信教の自由の保障の限度を逸脱したものであり、Aの加持祈祷行為は傷害致死罪に当たる。 憲法の保障する『学問の自由』とは、具体的に何のことかと言うと、通説では、おもに大学の自治のこととされています。(※ 日本の大学入試センター試験でも、この見解である。そういう出題がされている。)つまり、小学校・中学校・高校は、対象になっていません。 職業選択の自由などがあります。近代よりも昔は、人々は身分のしばりがあって、自由に職業を選ぶことが出来ませんでした。職業選択の自由では、そのような職業を選ぶ際の制限をなくしています。(第22条) ただし、どんな仕事も、お金を払う客がいないと成り立たないので、かならずしも、ある職業を目指したからと、その職業になれるとはかぎりません。 たとえばプロのボディビルダーを目指しても、その職業につける人は少ないでしょう。 職業選択の自由は、その職業になれることまでは、保証しません。職業選択の自由が保証するのは、ある職業を目指しても、法律では、その目標が禁止されることはない、ということです。 ただし医者や弁護士のように、その仕事につくのに免許などの資格が必要な仕事もあります。 原則的に、どこの地域にも引越しができて、住所をかえることができます。明治よりも前の、江戸時代では、人々は自由には移り住むことが出来ませんでした。明治時代になって、こういった引越しをさまたげる制限は、なくなりました。 ただし未成年(みせいねん)の子供は、親など親権者の許可がなくては、引越しはできません。 自分の財産をもてる権利と、その財産が不当におかされない権利です(第29条)。むかしは、支配者が勝手に人々の財産を取り上げることがあったので、そういう不当な取り上げが出来ないようにしています。 どうしても、国が土地などの財産をゆずってほしい場合には、かわりに、たとえば国が金を払って買い取るなどの、相応の補償(ほしょう)をしなければなりません。
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自由権だけがあっても生まれによる差別があっては、民主主義は達成できません。 もし、生まれによって、法律にしたがわなくてよい人がいては、法治主義は崩壊し、憲法や法律による民主主義は、機能しません。 また、性別を基準としての、不合理な差別があっても、民主主義は達成できません。第二次大戦後の日本では、参政権と公職選挙法によって、男女とも18歳以上の選挙権を認めていますが、日本国憲法では、さらに踏みこんで、性別による差別を許さないというような主張を憲法14条などで決めています。 このように、人間は、生れながらにして、誰もが個人としての尊厳を保障されなければなりません。 そこで、日本国憲法では、人はだれもが、法の下(もと)に平等であることを確認しています(いわゆる「法の下の平等」(ほうのもとのびょうどう). ※「下」の漢字に注意、「元」(×)ではない)。 もちろん、子どもといえども基本的人権があります。子どもにも生命の権利はあり、子どもの生命をうばう事は、許されません。このように、子どもといえども基本的人権の例外ではありません。 しかし、子どもは飲酒・喫煙の制限を受けるなど、さまざまな制限を受けます。このような子どもへの制限は、法律的に許されます。 また、学力試験や適性試験などの成績・得点によって、公立学校などへの進学先が変わってきたりすることは、認められています(※ 帝国書院 の見解)。そのかわり、公的機関への進学先・就職先などを決める試験の機会は、日本国民なら、だれもが生れながら均等に与えられていなければなりません。 つまり、「平等」といっても、専門知識、知力・体力などの能力のちがいによって、就職先がちがったり、進路がちがうことを認めないという意味ではありません。(「つくる会」の見解。検定合格する見解でもある) また、職場の上司と部下とのあいだの、仕事中の上下関係をみとめないという意味での平等ではありません。(「つくる会」の見解。検定合格する見解でもある) 憲法が保障する平等とは、おもに、法は、だれに対してでも強制力をもつという意味の、法の下の平等(ほうのもとのびょうどう)のことです。 たとえば、男女において、就職や進学の機会や、義務教育の内容が、もし仮に、特別な理由(健康上の理由など)もないのに、機会が大きくちがっているとしたら、きっと、平等に反する行為でしょう。(※ 実際には、女子校などもあるので、ややこしいが。なので、ときどき、国公立の女子大のあつかいで、男性からの裁判も起きている。) 労働についての法律においては、男女雇用機会均等法(だんじょこようきかい きんとうほう)が定められています。97年の均等法の改正により、募集や採用において、男女で賃金や採用条件などの格差をもうけることは、差別とされ、許されなくなりました。 家庭においても、夫婦間の家庭内暴力(かていない ぼうりょく、ドメスティック・バイオレンス、DV)は、許されません。夫から妻への暴力がゆるされないだけでなく、妻から夫への暴力も許されません。 日本国憲法では、結婚は、結婚をしようとする両性双方の合意だけが必要であり、夫婦どうしの結婚の機会は、対等です。 なお、大日本帝国憲法の時代にあった華族(かぞく)や貴族(きぞく)などの制度は、日本国憲法では認められていません。つまり、第二次世界大戦後の日本には、法律のさだめている貴族や華族はいません。 アイヌ民族などにも、差別があってはいけません。 また、黒人などに、肌のいろを理由とした差別があってはいけません。 在日外国人への差別もあってはいけません。今これらの人達に対する就職や結婚などでの差別がなくなっていません。人権保障を推進していくことが今後求められます。 外国人に対しては、その外国が、日本と国交のある外国なら、どこの国籍の外国人でも、原則として、外国人としての等しい扱いを受けるべきでしょう。 なお、「日本国」は、韓国とは国交があり、北朝鮮とは国交がありません。 また、韓国・北朝鮮のある朝鮮半島は、第二次世界大戦に日本が敗戦する前までは、日本国の植民地であり、事実上の日本領土であったので、単に不法入国した人もいるでしょう。そういう場合は、不法入国扱いは好ましくないと思われます。 また、出かせぎ労働などで、日本に来ている在日ブラジル人や在日中国人などは、不法入国でないとすれば、正式な法手続きをふまえて来日してるわけですから、権利は、それなりに保障されなければなりません。 たとえば、外国人の子どもの教育などでも、日本の公立の小中学校に進学してる場合は、教育の機会を保障するために、特別な配慮をすべきだろうと、現状では考えられています。 最低限度の生活の保障をしている社会権(しゃかいけん)とも関わることなのですが、身体障害などの障害者であっても、義務教育を受ける権利は、保障されなければなりません。たとえば、学校の検定教科書には、視力がよわい人のために、とくべつに文字の大きい教科書も、存在しています。 また、公共機関は、車イス利用者などの身体障害者でも利用できるように、なるべく、入り口にはスロープ(ゆるやかな坂)などをつけるべきだとされています(いわゆる「バリアフリー」)。 もし、その公共施設の建築構造上の理由で、どうしても車イス利用などのためのスロープを追加することが困難な場合には、その施設の人が介助者となって、入場などを手伝う必要があるでしょう。 本ページ上記では、説明を簡単にするために、法律的に明確に禁じられている差別や、あるいは政府などがその分野における差別を規制しようとしている事柄(ことがら)を中心にあつかってきました。 ですが、実際には、ある対応が、法律で許されないような「不合理な差別」に当たるかどうかを決めることは、社会には多様な意見があるので、なかなか容易なことではありません。 また、たとえば障がい者であっても、たとえば平等な機会にもとづく選抜試験の結果、障がい者の成績が悪かったとして、その成績の悪さを理由として選抜されずに、好成績の者よりも不利な状況になることもあるのは、程度の問題もありますが、日本では現状、それは差別ではありません(※ 帝国書院の見解)。
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江戸時代に「えた」「ひにん」という身分にされた人々が多くすんでいた地区がありました。その地区に住む人が、明治維新以降も差別されました。明治時代に身分の解放令がだされましたが、日本の世間では、地区住民への差別が残りつづけたためです。 こうした地区住民への差別問題のことを「部落問題」や「同和問題」といいます。また、差別された人々の多かった地区のことを、「差別されている部落」という意味で、「被差別部落」 といいます。 現在でも地方による差はありますが、就職や結婚などで被差別部落出身者への差別が残っています。 このような差別が残りつづけることは、日本国憲法で主張されてる国民の平等の理念に反するので、部落差別を解消するための法律などの政策が取られています。 1965年の同和対策審議会の答申では、同和問題を解決するために努力することが国の責務とされ、この答申の方針にもとづき、同和対策事業特別措置法などが制定されました。その後、1982年に地域改善特別措置法が制定され、1996年には人権擁護試作推進法が制定されました。 現在でも、人権教育などの施策が続いています。 全国水平社 とは、1922年 (大正11年) に設立された、部落問題を解決するために民間で設立された団体です。 アイヌ問題については、部落問題とは、事情が異なります。 まず、そもそもアイヌとは、北海道や樺太 (からふと、) (= サハリン) 、千島列島の先住民族のことです。 アイヌは、日本とは異なる、独自の言語や独自の文化を持っていました。 明治時代に、北海道は日本に併合されました。その結果、アイヌ民族も正式に日本に支配されることになったので、日本政府はアイヌ民族に対して、日本文化への同化政策を押し進めたので、アイヌ民族の固有の文化が否定されました。また、北海道の開拓にともない、アイヌの土地がうばわれたので、貧困におちいるアイヌ人も増えました。また、併合前のアイヌの生計は狩猟や漁労などで生計を立てていましたが、開拓にともない、農耕などに強制的に生業を変えさせ、また併合後に狩猟などが規制されたので、アイヌが生活の場を失い、貧困におちいりました。 第二次大戦後、このような同化政策がしだいに批判されます。そして1997年にはアイヌ文化振興法されました。また、2008年には国会で「アイヌ民族を先住民とすることを求める決議」によって、アイヌ民族を日本の先住民族の一つだと認めることが日本の国会で正式に認められました。 なお、この2008年の決議の背景として、2007年に国連総会で「先住民族の権利に関する国際連合宣言」が採択されたことも受けています。 そして2019年には、日本ではアイヌを尊重する地域社会づくりのための『アイヌ施策推進法』が制定され(※ 帝国書院の検定教科書デジタルパンフレットで確認)、これにともない今までのアイヌ文化振興法(1997年公布)は廃止されました[1]。
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このページは編集合戦のため、編集保護されています。現在の記述内容が正しいとは限りません。ノートで合意が形成されるなど、保護を解除できる状態になった場合、保護の解除を依頼してください。 日本には、外国人も多く暮らしています。そのうちの多くは、中国人(約64万人)と韓国人・朝鮮人(合わせて約50万人)です。(なお、この記事では「朝鮮人」とは北朝鮮の国籍に属する人とします。) 近年では、フィリピン(約20万人)やブラジル(約18万人)やベトナム(約8万人)などからの出稼ぎ労働者などが増えています。 在日外国人にも人権はあるので、人権は保障されていますが(「人権」とは人間に与えられる権利なので、外国人も人なので人権は保障される。)、日本人とまったく同じ権利が与えられているわけではありません。 外国人に与えられない権利の例として、参政権(さんせいけん)があります。 このうち韓国人と朝鮮人については、かつて日本が韓国( 「大韓帝国」という国が、昔あった。 )を併合していた歴史があり(1910年に大韓帝国を併合)、第二次大戦の終戦時ごろには約200万人の在日韓国人・朝鮮人がいました。 仕事で日本に来たり、あるいは戦時中の労働者としての動員で朝鮮半島から日本に連れて来られた人などです。 検定教科書では「強制連行」などと表記する場合があり、たしかに強制的につれてこられたわけですが、特定の民族を不利にあつかったわけではなく、戦時中の日本国民にも強制労働や徴兵の義務などを課したのと同じように、当事は日本国の一部だった朝鮮半島や台湾にも労働を強制したわけです。 現在の日本国民の中には在日朝鮮人・韓国人を信用してない人もいて、そのため在日朝鮮人・韓国人を嫌う人もいます。そのため、在日朝鮮人・韓国人への差別があります。検定教科書の多くは、これを不合理な差別と考えているようであり、不合理なのでこの差別をなくすべき、というような事を主張しています。在日朝鮮人への結婚や就職での差別をなくすべき、と考えている検定教科書が多いです。 なお、在日朝鮮人・韓国人には、普段は本名のかわりに、日本風の通称を名乗っている人がいます。(ただし、役所などへ公式な書類を出す時などは、本名を名乗る必要がある。)例外的に、それは日本の慣習でも認められています。 (※ 在日朝鮮人の通称の存在については、中学教科書の範囲内です。) 検定教科書は、おおむね「在日朝鮮人は民族の誇りを守って、日本国籍を取得せずに日本に暮らし続けてる」というような事を言って、かれら在日朝鮮人・韓国人の立場をかばっています。 かれら第二次大戦の終戦当時の在日韓国人・朝鮮人の多くは、第二次大戦の終戦後は母国の韓国・北朝鮮に帰ったり、あるいは日本の国籍を取得して日本国民になったりしました。 ですが、様々な事情で母国には戻らず、日本国籍を取得しないで、そのまま日本に住みつづけた者も多くいました。 そのような関係で現在にも日本に多くの韓国人・朝鮮人がいます。 よくある勘違いとして、戦争中に強制連行により朝鮮半島から連れてこられた人の子孫が、在日朝鮮・韓国人の大半だと勘違いしている人が多いです。しかし、統計では、戦時中に国の命令で強制的に朝鮮半島から日本に連れてこられた人は、たったの数百〜数千人です。(※ 参考文献: 外務省情報文化局 『外務省発表集(外務省発表集および公表資料集)』第十号, 昭和三十五年(1960年)二月, p. 51-54. 「(三) アジア、豪州関係 1.在日朝鮮人の渡来および引揚げに関する経緯、とくに、戦時中の徴用労務者について 記事資料 昭和三十四年七月十一日」 ) 考えてみれば、朝鮮半島の人をわざわざ日本に連れてくるよりも、現地の朝鮮半島で働かせたほうが安上がりです。 また、その他の在日韓国人・朝鮮人として、日韓併合の時代から日本にいた韓国人・朝鮮人とは別に、第二次大戦後の朝鮮戦争(1950年に勃発)から逃れるために、1950年代ごろに日本に密入国してきた人が加わっています。 当時の推定では約20万人〜40万人の密入国の韓国人・朝鮮人が密入国した、と言われています。 べつに、これら朝鮮戦争時の密入国者の全てが、そのまま今でも在日外国人のままではなく、日本には国籍を日本国籍にかえる帰化(きか)という手続きもあるので、帰化して日本国籍になった人もいる。 また、帰化の手続きがあるので、帰化して日本国籍を取得する外国人も多く、そのため、在日韓国人・朝鮮人の数は減ってきています。 在日外国人にも人権はあるので、人権は保障されていますが、日本人とまったく同じ権利が与えられているわけではありません。外国人に与えられない権利の例として、参政権があります。 「無制限に外国人に参政権を与えると、もしも日本を侵略したり負かそうとする外国があると、参政権が悪用される恐れがある」という考えと、「国政への参政権は、国家の主権に関わる」という考えのもと、参政権は日本国籍を持つ日本国民にのみ与えられ、外国人には与えられていません。 また、参政権いがいの権利の制限として、公務員にも国籍条項(こくせき じょうこう)があり、外国人の日本国の公務員への就職は制限されています。 ちなみに世界の多くの国では、外国人には選挙権を与えていません。地方参政権などを外国人に与えているのは、世界でおよそ40カ国です。 日本での、これら外国人の権利への制限について、「差別では?」という意見を主張する人もいますが、今のところ、外国人参政権に反対する日本国民の意見が多く、外国人に国政への参政権は与えられていません。 「地方政治の参政権のみに限り、外国人にも与えるべきでは?」という主張をする意見もあり議論になっていますが、国政への外国人参政権への日本国民からの反対意見の大きさと同様に、地方参政権の外国人参政権にも反対する日本国民の意見が多く、外国人に地方政治の参政権は与えられていません。 「国民の義務である納税の義務を負っているのに、参政権は無いのはおかしいのでは?」という意見もありますが、「納税は参政権の根拠にならない。納税と参政権を結びつけると、低所得者は参政権が無くなることになり、おかしい。」という反対意見もあります。 日本では、日本国外に住んでいる日本人にも本国の選挙に投票できる参政権があります。 ですが、韓国では韓国以外に住んでいる在外の韓国人については2012年まで選挙権がありませんでした。 また、北朝鮮にいたっては政治が独裁政治であり、そもそも民主主義ではありません。 ちなみに世界の多くの国では、外国人には選挙権を与えていません。地方参政権などを外国人に与えているのは、世界でおよそ40カ国です。 ヨーロッパでは、EUの加盟国の多くが、加盟国の外国人に対してのみ、地方参政権にかぎり参政権を与えています。国政への原則として参政権は与えていません。 フランス、ドイツ、イタリアでは、EU加盟国以外の外国人には参政権はありません。 日本国での学校の検定教科書では、多くの教科書会社では、在日韓国人・朝鮮人への蔑視にもとづく差別があるとしている。その差別の具体例として、就職や結婚での差別がある、と記述している。 いっぽう、日本国籍を持つ障害者などは、企業がなるべく雇用に努める法的な義務があり、一定以上の規模の企業は、規模に応じて雇用する障害者を雇用する義務があり、従わないと罰金を払う必要がある。 なお、日本の学校教科書では、いわゆる「えた」・「ひにん」などの被差別部落の問題を取り上げたあとに、在日外国人の「差別」問題を記述に取り上げたものが多い。 被差別部落の問題については、日本国の国会などで、これらの差別の解消にもとづく答申として「同和対策審議会」の「答申」が1965年に出されたり、差別の解消をめざすための法律の「同和対策 特別措置法」などが存在している。日韓基本条約などの条約はあるし、在日韓国人・朝鮮人の在留資格について定めた法律「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法」などもある。
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社会権とは、社会を生きていく上で人間が人間らしく文化的に生きるためには、国が積極的にかかわる必要がある、という考えからうまれたもの。 日本では生存権、教育を受ける権利、勤労の権利などの権利を社会権と呼ぶ。 歴史的には、社会権の考え方は、ドイツのワイマール憲法が世界で初めて法律として定めた。社会権は20世紀に入ってから認められた権利である。 「生存権」とは、だれもが人間らしい生き方ができる権利のことである。日本では、「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。」と日本国憲法第25条において明記されている。 そして、この「健康で文化的な最低限度の生活を営む」ことを保障するための手段として、社会保障などの行政がなされている。 病気やけが、老齢などによる生活不安、突然の失業・労働災害・事故などによって生活が苦しくなることがある。そういうときに個人や家族の責任にするのではなく、国の責任として、生活の保障をしていくためのしくみを社会保障という。社会保障は生存権を保障するための具体的な政策の一つでもある。 たとえば、病気にかかった場合に、安い価格で適切な医療や介護を受けられるような医療保険・介護保険や老齢になったときに受け取る年金、貧しくて生活が苦しい人を政府がサポートすることによって自立をうながしていく生活保護などがある。 詳しい内容は中学校社会 公民/社会保障制度を参照してほしい。 現代の社会では、子供は、親や学校などから教育を受けなければ、社会で必要な知識を身につけることは困難である。 そのため、子供が教育を受ける権利が保障されている(日本国憲法第26条)。 日本では義務教育は無償になっており(日本国憲法 第26条)、授業料などは取らず、義務教育の学校教科書も無料になっている。 (ただしエンピツやノートなどの文房具は、各家庭が自費で出費している。) 病気や大けがなどで病院に長期入院しているため学校へ通えない子供には、院内学級のある病院などを利用して、教育が施される。 勤労の権利は、日本では社会権に含まれている。日本国憲法は、国民に勤労の権利を保障している(日本国憲法第27条)。 賃金などの最低基準は、労働基準法などの法律で定められている。 また、一般に会社の従業員(労働者)などは経営者(使用者)などに対して弱い立場に落ちいりやすいので、労働者の権利を保護し、権利を守るための法律もある。 それが、労働時間や賃金などの最低限度を定めた労働基準法 、労働組合はどういうことができるかを定めた 労働組合法 、労働組合と使用者との対立がはげしくなったときのための労働関係調整法 などの法律で、労働者の権利が保証されている。この3つの法(労働基準法・労働組合法・労働関係調整法)をまとめて労働三法 という。これらをもとに、我が国は労働者も会社から最低限の保護を受けられるような仕組みをつくっている。 労働者は労働組合の結成をする権利が憲法や法律で認められており( 団結権 )、組合などがその会社の労働者の賃金を上げる賃上げ交渉などをする団体交渉権 を認めている(日本国憲法第28条)。 労働者の権利には、他にも、ストライキなどの団体行動権が認められている。ストライキとは、労働者が団結して仕事を停止することである。 これら3つの権利(団結権・団体交渉権・団体行動権)をまとめて労働三権という。この労働三権と勤労の権利をあわせて労働基本権という。
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当然のことではありますが、われわれは完全に、まっさらに自由なわけではなく、何をしてもいいわけではないですよね。 現代では多くの国民に言論の自由があると言われていますが、しかし、だからといって何を言ってもいいわけではないと思います。 他人のプライバシーを侵害する発言、名誉を傷つける発言は、許容されるのでしょうか ? 他人の尊厳、価値を侵害する行動は事実上制限されています。 また、区画整理や道路拡張などの公共の土木工事のとき、工事予定地にもとから住んでいた人は、充分な保障金を払われるという条件のもと、その工事予定地から引っ越すことを要請される場合もあります。 空港の建設などでも、充分な補償のもと、引っ越しを要請、期待される場合もあります。 この場合、居住の自由が、公共の利益のために、制限を受けているわけです。 また、(コレラや赤痢(せきり)などの)重大な伝染病、感染症にかかった人は、他人への感染をふせぐ隔離(かくり)のため、強制的に入院させられ、勝手に出歩かないように、移動の自由を制限させられる場合もあります。(感染症法 や 医療法 という法律で、こういう処置が認められている。(※ 東京書籍や清水書院などの教科書の図表に記述あり)) また、道路などでデモを行う場合は、事前に届け出(とどけで)が必要です。届け出をしないで、公共の場所でデモをすると、処罰の対象になります。 このように、公共の目的のために、人権・権利が制限されることがあり、これを「公共の福祉」(こうきょう の ふくし)といいます。 日本国憲法でも、公共の福祉は、憲法第12条で認められています。 一方で、「公共の福祉」を理由に、むやみに人権が制限されないようにする注意も必要です。 たとえば、表現の自由、言論の自由と、名誉を傷つけられた個人の関係にしても、その個人が政治家の場合、どうでしょうか?政治家の名誉を傷つけることを恐れるあまりに、マスメディアが、政治家を批判できなくなってしまうのは、風とおしの良い社会,政治が成り立たなくなり、政治家の暴走を許す危険もあります。 また、テレビなどの有名人・芸能人の場合の「プライバシー」を保護するべき範囲も、一般の人とは、違うかもしれません。しかし一方、有名人・芸能人にとってもプライバシーが侵害されないで生活できることは、重要な事です。 ハンセン病という病気があり、「らい病」ともいう。 ハンセン病は、現代では感染性は低いと考えられているが(しかし、感染性は低いとはいえ、ハンセン病は「らい菌」という細菌の媒介する感染症ではある)、医学が未発達だった過去の時代、ひどく感染すると思われていたため、第二次世界大戦後の1953年に公布された「らい予防法」によりこの病気の患者を強制的に隔離する法律が施行されて、強制隔離が実行された。 日本だけでなく、多くの外国でも、ハンセン病の治療方法が未確立だった時代には、隔離的な政策が取られていた。 だがのちに医学の発達により、ハンセン病は感染しない事が分かった。また、戦前~戦時中の1940年代には、すでにアメリカでハンセン病の治療薬とされるものが発表されていた(現代では、この1940年代の治療薬でハンセン病を治療できた事が解明されている。※ しかし医学の新薬開発はそんなに単純ではなく、治療や薬とされたものが効果が無かったり、失敗の歴史もある。(たとえば野口英世の黄熱病ワクチンなどの失敗例))。 1950年代には、ハンセン病治療薬が本当に効くかどうか分からなかったが、しかしその後何十年経っても、薬でハンセン病を治療できる事例が豊富に積み重なってきたにもかかわらず、「らい予防法」による強制隔離は続いた。 そしてようやく、「らい予防法」は1996年に廃止される。 現在では、ハンセン病患者を隔離する方針は、明らかに間違っている、という合意が成立している。 こういった一連の問題から、人権問題の議論として、ハンセン病の患者は、強制隔離により、不当に「行動の自由」などの人権を奪われたのではないか、という事が問題視された。 (※ 範囲外: )なお2008年には、「ハンセン病問題基本法」が制定された。(※ とうほう社「ビジュアル公民2020」で記載を確認) しかし、「らい予防法」は、戦後の日本国憲法の掲げる「公共の福祉」や「健康で文化的な生活」の文脈にもとづいて制定された法律だろう。 しかし結果的には、ハンセン病患者の方たちの人権を不当に奪っている。そして事実上、患者の方たちが嘗めた辛酸は、余人の想像を絶するものがあっただろう。 社会科の範囲外:赤痢やコレラなどの感染症の患者を、医師や自治体などの判断をもとに最低限度の隔離をすることは合法だし、公衆衛生からもそれが求められる。法律では「感染症法」などに規定がある。公共の福祉、ということになるだろう。日本国憲法には、「健康で文化的な生活」という文言もあるから、政府や行政などは公衆衛生を向上させる義務がある。 「公共の福祉は悪である。」、はずはないし、そもそも実際にはそんな主張をする人は、世の中に一人もいないだろう。 2020年、新型コロナ(2019年型コロナウイルス)の感染拡大の問題により、日本を含む多くの国で、医師などの診断によりコロナ感染者とされた人々の隔離等が行われている。本wiki本ページ執筆の現在もコロナ問題が進行中であるので、深入りを避けるが(2021年に記述)、行動の自由などの権利と公衆衛生を両立することの難しさは、政治家や医療関係者だけではなく、あらゆる人が痛感しているだろう。 新型コロナのような最近の話題だけではない。ハンセン病などの過去に議論になった話題でも類似の問題は存在している。 実際、ハンセン病患者団体などがコロナ問題についても声明を出しているので、けっして無関係ではない。また、新聞報道などでは関心事にもなっている[1]。 ハンセン病は、発症した場合、手足の末しょう神経に麻痺が出る場合もあり(※とうほう社「ビジュアル公民2020」で確認)、重い症状になる事もある。また、皮膚に病変が出来る場合もある。ハンセン病は皮膚の病変しか症状がないから、皮膚の病変のせいで、見た目が醜いので、差別された、という主張は不適切だろう。(もっとも、現実問題、ほんとうの意味でそんな主張をした人がいたかどうかも怪しい)。見た目による差別もあったかもしれないが、しかし手足の麻痺などの重大な症状もあるし、また、感染性も低いとはいえ、「らい菌」という細菌により伝染するので、感染性自体はある病気である。 「善意で行った行動は、かならず良い結果をもたらす」。残念ながら、この命題の真偽値は偽(false,0) でしょう。 日本の薬害エイズ問題でエイズウイルス入りの血液製剤(血友病の治療薬が血液製剤)を処方してしまった医師は、悪意からではなく、医師の職務として、患者を治療しようとして血液製剤を処方した筈だ。睡眠薬サリドマイドの催奇形性だって、通常の治療行為だった筈が、想定外の悲惨な事態に繋がっていったのだろう。とはいえ、実際に薬品を作って販売し、それを認可し、それを処方する人間には、その薬品の安全性と効果に責任があるだろう。その薬品に関して破滅的な悪い出来事が起こった時に、善意でやったことだから仕方ないよね、で、済む筈がない。それらの問題に関わった厚生官僚や政治家や医師が実際に、現実にどういう人間かは知らないが、業務上でミスをおかしたのは間違いないし、世間から多少悪人呼ばわりされて非難されても、仕方がないのではないだろうか。 医療にかぎらず、経済政策などでも、「よかれ」と思って行った政策で裏目の結果が出た例がある。1990年以降の例だと、バブル崩壊後、デフレをともなう不況で対策が遅れたのは、財務省官僚や政治家がインフレによって国民が困窮するのを防ぐためインフレ対策にに力を入れたため、結果、デフレ化して不況下していった・・・という側面がある。 海外の例なら、1980年代のソビエト連邦の崩壊、そのソ連を建国した1917年頃のロシア革命は、「改革により、ロシアの経済と社会をよくしよう。そのために改革に反対する、ロシアの王族を革命で打倒しなければ。」と考えたのだろう。もっともこの話は、善意が裏目が、というよりは、歴史の大きな流れが現前している出来事だろう。 日本の昭和の日中戦争や太平洋戦争などの今になっては無謀な戦争と呼ばれる出来事はどうだろう。あらゆる人間が確実に善意を持ち合わせていることは間違いない。当時の政治家達や大人達がこの国の国益の為に奔走したことは間違いないだろう。 しかし問題は、「善意」とは何かという事だ。善意とは個人の気持ちにすぎない。あくまでもそこには、自分自身の気持ち以外は何もない。 ここに他者が介在し、その他者が何を喜び、何を欲し、何を幸せとし、その他者が何者で、実際にはどんな存在なのか。 それを知ること無しに、(A)、善意が善行になる日は来ないであろう。 前編集者S は、(A)の部分に、または知れないことの限界を知らずに、という言葉をつけ足したが、あらゆることに関しての不可知性に関しては同意するが、この問題に関して知られないことを大上段に語るのなら、そもそも、善意や善行なるものについて最初から語らないのが正解だろう。 善意や善行について語るのなら、どこまでも真実を追求しなければならないし、限界を語って自己満足にふけるのなら、善性とは縁のない人間性なのだろう。
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「新しい権利」とは、日本国憲法では、まだ規定されていないが、時代の変化に合わせて、新たに、保障する対象に追加するべきと考えられている権利のことである。 「知る権利」や「プライバシーの権利」などが、新しい権利である。 国民が政治について判断を下すためには、国民に国や地方公共団体の活動についての正しい情報が与えられなければならない。 そのため、国や地方公共団体は、自分たちの活動を、なるべく公開するべきである、という考えがあり、この考えにもとづき活動内容についての情報公開が多くの役所で行われ、情報公開制度が作られている。 このような権利を「知る権利」(しる けんり)という。 1999年には 情報公開法(じょうほう こうかいほう) が制定された。 また、「知る権利」を保障するためには、新聞やテレビなどのマスメディアによる報道の自由も、重要である。 私生活での秘密であるプライバシー(英: Privacy)を、他人に勝手に公開されるべきではないと言う考えに基づき、私生活の秘密を守るべきという「プライバシーの権利」が主張されている。 このような考えにもとづき 個人情報保護法(こじんじょうほう ほごほう)が2003年に制定され2005年に施行された。 なお、行政の情報公開でもプライバシーに配慮する必要があり、たとえば地方公共団体での情報公開では住民個人の情報などは公開してはならない。 テレビや新聞などのマスメディアも、情報公開の対象者のプライバシーには配慮しなければならない。 その一方で、マスメディアやメディアを見る大衆には、知る権利もあるので、「知る権利」と「プライバシーの権利」とのバランスが重要である。 中学生どうしや友達どうしでも、相手にプライバシーがあるので、勝手に無断で相手に私生活の情報を公開してはいけない。 また、他人の電話番号や他人の住所などもプライバシーに近い扱いを受けるので、他人のこれらの情報は、公開しないほうが良い。 撮影された写真などを、みだりに公開されると、プライバシーが侵害されたり、つけまわされたりして危ない目にあいかねないので、無断の写真撮影を禁止するべきという考えにもとづき、他人から無断で写真を撮影されない権利や、写された相手に無許可で写真を利用しないように主張できる権利が考えられている。 このような、自分の写った写真を無許可で公開されない権利のことを肖像権(しょうぞうけん)という。 なお、日本の法律では、肖像権という権利を規定した文章は無い。 一般人を無断で撮影した写真を無許可で利用したら肖像権の侵害になるという考えが一般である。 では、テレビのニュース報道などの場合の相手の肖像権をどうするかが、よく議論になる。 たとえば政治家などの写真撮影やビデオ撮影などを無原則に禁止してしまうと、テレビや新聞などで報道ができなくなる。 このため、国会議員、地方議員、公務員などの公人(こうじん)といわれる人たちの公務中の活動ではプライバシー権などが部分的に制限されていて、報道などの正当な理由にもとづけば、公開できるという考えが一般である。 ただし、相手が公務員など公人であっても、公務いがいの私生活などでは、プライバシー権などがあるので肖像権もあり、私生活は、むやみに写真公開されてはいけない。 また、政治家の家族や友人など、公人の本人いがいのは、公人では無く私人(しじん)だと見なされるので、本人いがいは原則的にプライバシーの保護や肖像権の保護の対象になる。 また、スポーツの競技大会での選手など、注目されることが対象者の目的の場合は、スポーツ大会中の選手のようすなら一般に撮影が許されたりと、肖像権が制限されると考えるのが普通である。 また、テレビや新聞で報道された写真などの対象者が、特に有名でない一般人でも、個人を特定できない場合などは、肖像権の侵害には当たらないと判断される場合もある。 このように一般人相手でも特定できないなら写真公開できるように、しておかないと、たとえばニュースなどで報道に値する出来事があった場合でも、その出来事が起きた場所に、一般人がいると、出来事の写真を公開できなくなってしまうので、このような解釈がされている。 肖像権にはこのように例外的に制限される場合もあるとはいえ、中学生にはこのような判断が難しい。 取り敢えず、友達同士の写真や動画はインターネットやSNSでは公開しない方が良いだろう。 友達同士の場合は政治家や公務員などとは違い、相手が公人であることはまず無いと言っていいだろう。 友達以外でも、あまり他人が写った写真やビデオ動画などを自分が中学生もしくは高校生のうちは、インターネットなどで不特定多数などには公開しないほうが良いだろう。 どうしてもインターネットで写真を公開したい場合は、相手の人に確認を取って許可がもらえた場合にのみ公開するのが良い。しかし、中学生にはここまでのステップを踏めるだけの時間が足りない筈だから、中学生のうちはインターネットでの他人が写った写真の公開はしないほうがトラブルに巻き込まれにくくなるので良いだろう。 日本では、高度経済成長期ごろの公害問題や自然破壊などをきっかけに、環境を守る権利が主張されはじめました。 自然は一度、壊されると、回復するのが長い時間がかかったり、森林地帯などが工業化されてしまうと回復が困難になる。なので、大規模な工事や開発がされる前には、事前に工事などが自然環境にどういった影響を与えるかを工事事業者などが調査して、周辺住民に説明をする責任が工事事業者などにある。 このような、開発の環境への影響の評価を環境アセスメント(英:Environmental Impact Assessment、略:EIA)と言う。1997年には環境アセスメント法が制定された。 また、この高度成長のころ、ビルやマンションなどが増えたので、高い建物の周辺には日当たりの悪い住宅が出てきた。この問題を受けて、高い建物は日当たりを妨げてはいけないという制限が法律で作られ、周辺住民の日照権(にっしょうけん、英:Right to light)という権利が、それは日当たりを妨げるビルなどを制限する権利が主張され始めた。 日照権の観点から、建築基準法(けんちく きじゅんほう)では、建物の高さや形などが制限されている。 たとえばマンションの北側の部分が斜めになっていることが多いのは、周囲の建物の日照権を守るためである。(太陽は昼間には南に登るので、反対方向の北に影が出来る。) 個人が,個人的な事柄について,さまざまな人や物事から干渉されずに自由に決定する権利。医療現場での患者が十分な説明を受けたうえで同意するインフォームド・コンセントや自らの臓器の提供について意思を表明するドナーカードもこの権利に基づいている。 たばこの煙を吸いたくない人が、吸わないように出来る権利の嫌煙権も、環境権の一部と考えられている。嫌煙権の観点から、公共機関などでは、分煙(ぶんえん)や禁煙(きんえん)が進んでいる。 インターネットの発達した現代、個人の情報がインターネットに残りつづけることが、プライバシーの観点などからも問題視されるようになりました。 そこで、インターネット上の個人情報を削除させる権利をつくろうという議論が起こり、この権利のことを「忘れられる権利」と言います。 ヨーロッパでは、すでにEUにおいて2018年以降、「忘れられる権利」がEUの「一般データ保護規則」(GDPR)において制定されています。
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日本国憲法では、前文や第9条で、平和主義を主張しています。 第9条 【戦争放棄、戦力および交戦権の否認】  日本国憲法第9条では、おもに、 を主張しています。 しかし、実際の日本の第二次大戦後の歴史や政治では、そうなっていません。 本書でこれから述べるように、日本国は「自衛隊」(じえいたい)という組織をもっています。また、自衛隊は、戦車や戦闘機などの兵器を持っています。(※ 検定教科書でも、「自衛隊」という用語は、重要語として太字で紹介されています。) 日本国憲法が、こうなった経緯(けいい)は、大まかに言うと、第二次世界大戦後に日本国憲法が出来たあとに、国際情勢が大きく変わり、日本が戦力や武力をもたないでいることが、国際政治的には難しくなったのです。 ただし、なるべく憲法の平和主義の原則を守ろうという考えで、政治や法律では慎重な武力の運用がなされています。 日本政府は、「自衛隊」や、自衛隊の持つ兵器などは、憲法で禁じられた「戦力」ではない、という立場を取っています。 日本政府の説明では、主権国家には自衛権があり、「自衛のための必要最小限度の実力」を保持することは、憲法第9条で禁じられた「戦力」には当たらないと説明しています。 また、日本政府は、自衛隊の武器や部隊の能力のことを「防衛力」(ぼうえいりょく)という言い方で表現しています。 また、他国からの侵略のおそれなどに対策をすることを「安全保障」(あんぜん ほしょう)という言い方をしています。 ですが国際的には、日本の自衛隊や兵器は戦力だろうと見なされています。 自衛隊が存在していたり、自衛隊が兵器をもっていることは、憲法に矛盾しているような状態なので、批判的な議論もあります。ですが、国会議員の選挙で選ばれた政権が、自衛隊の保有を認める時代が、ずっと、つづいています。 つまり、自衛隊の存在を、選挙権を持った日本国民の多くは認めており、また自衛隊での兵器の保有も国民の多くは認めています。また、国民の多くは、そのような自衛隊や兵器保有の状態が憲法に矛盾していると考えています。 なお、2020年段階では、まだ日本国憲法は改正されておらず、「戦力」の保有を禁じたままです。 日本は第二次世界大戦でアメリカなどの連合国に敗れ、日本はアメリカ軍を主体とする連合国軍に軍事占領されました。 連合国は日本に非武装化を求め、その意向を組んだ憲法が作られることになりました。 それからしばらくして、アメリカとソビエトとの対立が起こり、そして1950年に朝鮮戦争(ちょうせん せんそう、英:Korean War)が起こり、アメリカは朝鮮半島に戦力を向けざるを得なくなりました。 それをきっかけとして、アメリカの連合国軍総司令部GHQの総司令官マッカーサーは日本に防衛のため警察予備隊(けいさつ よびたい)の設立をもとめました。警察予備隊は、その後、保安隊と名称が変わり、さらに1954年(昭和29年)に自衛隊(じえいたい)と名称が変わり、自衛隊法の制定もされました。 自衛隊は内閣の管理下に置かれています。自衛隊の最公指揮権は、文民(ぶんみん、英:civilian シビリアン)である内閣総理大臣が持ちます。 このように、国民が、選挙で選ばれた国民の代表である政治家(=文民)を通じて、軍隊をコントロールすることをシビリアン・コントロール(civilian control) といいます。 自衛隊は災害派遣でも活躍しています。 2007年(平成19年)には、防衛庁(ぼうえいちょう)は防衛省(ぼうえいしょう)に昇格しました。 日本は経済力が高い国なので、必然的に自衛隊の予算の金額も諸外国にくらべると大きく、世界でも上位の防衛力を自衛隊は持っています。日本は、国家予算にしめる防衛費の割合は、国の経済力の大きさを表すGDP(国内総生産)の1%未満という世界でも低い水準なのですが(多くの諸外国はGDPで2%前後)、日本の経済力自体が高いので国家予算も大きくなり、世界の中でも日本は上位の防衛予算になっています。 自衛隊は国外でも活躍しています。国際平和協力法(PKO協力法)に基づいて、カンボジアや東ティモールなどでの国連平和維持活動(こくれん へいわいじ かつどう、英:Peacekeeping Operations、略:PKO ピーケーオー)に参加しています。 また公海上での海賊対策などにも、自衛隊は活躍しています。ソマリア沖の海賊対策には、2009年に海上保安庁とともに自衛隊が出動しました。 2003年(平成15年)にはイラクの復興支援に自衛隊は参加しました。 日本はアメリカと 日米安全保障条約(にちべい あんぜんほしょうじょうやく、英:Japan / United States Security Treaty) を結んでいます。 内容は、日本の防衛のために、他国が日本の領域を攻撃したとき、日米が共同で対処することです。 またそのために日本国内にアメリカ軍が基地や軍事施設などをつくって駐留することを認めています。 アメリカ軍の日本国内の軍事基地は、東京都の横田(よこた)基地や、神奈川県の横須賀(よこすか)基地や厚木(あつぎ)基地、山口県の岩国(いわくに)基地、沖縄の嘉手納(かでな)基地や普天間(ふてんま)基地などがあります。 アメリカ軍基地の多くは、面積で見ると、沖縄に集中しています。面積では日本にあるアメリカ軍基地のうち約71%が沖縄にあります。このようなこともあり、沖縄県の基地負担がたびたび政治的問題になっています。 また日米両政府は、宜野湾市の住宅街の中にある普天間飛行場を名護市辺野古沖に移設することで合意しましたが、野党や地元住民の多くは反対しています。 そして、日米安全保障条約の施行についての具体的内容を定めた日米地位協定という条約があります。この内容について、裁判権などについて不平等だという批判があります。 同盟国が他国から攻撃を受けたとき、自国は攻撃されていなくても自国に対しての攻撃とみなし同盟国の防衛に参加する権利を集団的自衛権といいます。 日本政府は、この権利は憲法第9条の規定のため行使できないとしてきましたが、2014年に限定的な行使は可能とする見解に変更しました。(武力行使の「新三要件」) これに関連して、平和安全法制(安全保障関連法案)が2015年に成立し、自衛隊の任務が広がりました。
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国際連合(英:United Nations)は1948年(昭和23年)の世界人権宣言 ,1966年の国際人権規約を採択。世界人権宣言は国際社会において世界各国の人権保障における模範となっている。 そして国際人権規約は条約として締約国(ていやくこく)に対し人権保障を義務としている。 以上の他に国際連合は人種差別を無くすため人種差別撤廃条約や女性(女子)差別を無くすため女子差別撤廃条約 ,障害者の権利保障のための障害者権利条約などの人権保障のための条約を定めている。 これらの条約は締約国に対し強い影響力(えいきょうりょく)をもっており,現に日本では女子差別撤廃条約により男女雇用機会均等法が制定され男女平等が進んだ。 ・カナダを中心としたイヌイット ・オーストラリアのアボリジニ など先住民族の権利保障に努力する事も国際社会において広がっている。 2007年には国際連合において先住民族の権利に関する国連宣言が採択された。 今日(こんにち)の国際社会では世界規模で人権を保障するため条約など規則に定められた人権の「水準」に基づき世界各国の人権保障の状況を監視し,差別など人権侵害を解除しなければならない。 そこで国際連合では2006年に国連人権理事会が設置され加盟国の人権保障の状況について調査し,問題が発見された場合には改善するよう勧告をしている。 グローバル化の進んだ現在,人権保障ないしさまざまな社会問題は世界規模で結び付いている。 環境汚染は国境を越え,先進工業国と発展途上国の間の経済格差は不法移民の増加につながっている。 地球環境問題や貧困問題 ,難民問題の解決,エイズへの取り組みなどには国際協力が必要不可欠となっている。 我々にはこの国際社会の一員として「地球規模」で持続可能な社会を実現するため努力することが求められている。 そして国際的な人権保障を現実のものにするため「国境を超えて」活動する非営利(利益を目的としない)民間組織「NGO(非政府組織)」の活動が注目されている。 今日ではNGOがさまざまな国際会議に参加し条約の締結に影響をあたえている部分もある。
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政治についての、人々の意見のことを 世論(せろん、よろん、英:public opinion) と言う。 テレビや新聞やラジオや雑誌などによる、大衆への報道(ほうどう)のことをマス・コミュニケーション(略:マスコミ、英:mass communication [1])と言い、そのような報道を行っているテレビや新聞やラジオなどの機関のことをマス・メディア(英:mass media [2])という。テレビ、新聞、ラジオなどで報道を行っている報道機関(ほうどう きかん、英:the press)のことが、マスメディアです。 マスメディアと同じ意味で、つまり報道機関という意味でマスコミという言葉を使うこともあります。 マスメディアの報道では、単に起きた出来事だけでなく、その解釈もふくめて報道するのが一般である。 マスメディアの情報や解釈は、必ずしも正確とは限らない。(※ 検定教科書にも、そう書かれています) マスメディアの機関や会社は、機関や会社によっては、政治について特定の理念を持っている場合があります。 たとえば、新聞どうしでも、それぞれの新聞社ごとに(たとえば中日新聞と朝日新聞と毎日新聞と日本経済新聞と読売新聞と産経新聞で)、同じ時期の同じ事件についても、各社ごとに意見や論じ方が違っている場合もあります。(※ 東京書籍がそう言っている) このように、同じ情報源でも、結果的にマスメディアの会社ごとに、ちがう情報になることも、よくあります。 さて、もし特定の政治的な考えを、マスメディアのある機関が持っていた場合、その機関が、特定の方向に世論を誘導しようとする場合があります。世論を誘導するために、マスメディア機関が誘導したい方向に都合のいい情報しか発表しようとしない場合もあります。(日本文教出版や育鵬社がそう言っている。) たとえば、ことなる新聞社の新聞で、同じ政治の出来事についての記事で、その記事の解釈を見比べると、新聞社ごとに違っている場合もあります。好意的な解釈をしている新聞もあれば、同じ出来事を批判的に解釈している新聞もあります。 新聞だけでなく、テレビやラジオや雑誌でも同様に、それぞれの会社ごとに出来事の解釈に偏りがあります。 したがって、私達はマスメディアの情報を、いくつも比較して批判的に見ることが必要です。 私たちは、けっして一つの情報をうのみにすること無く、いろんな情報を比べることによって、情報を確かめて、きちんと考えて判断する必要があります。 このように、メディアを利用しつつも、メディアをうのみにせず、さまざまな視点から確かめることによって、メディアから社会についての正しい情報を読み解く能力のことをメディア・リテラシー(英: media literacy t [5] )と言います。(※ 東京書籍、日本文教出版、自由社、育鵬社などが「メディアリテラシー」という用語を紹介。) マスメディアによる意図的な誘導とは別に、マスメディアでは、まだ答えの分からない出来事も扱うので、出来事の解釈をマスコミ関係者が推測せざるをえない部分もあり、推測なので、正しい場合もありうるし間違っている場合もありうる。 私達が世論を知るには、マスメディアを利用するしか、ほとんど手段はありません。この点で、マスメディアの影響力はとても大きいので、マスメディアは、「司法、立法、行政」の三権につづく、「第四の権力」(英:Fourth Estate フォース・エステイト)とマスメディア全体が例えられることもあります。(※ 自由社が「第4の権力」という用語を紹介している。) また、新聞記者などの取材で、取材対象が外国の政府など権力の大きい場合、取材対象に批判的なことを書くと、今後の取材を断られる場合があって、取材が行いづらくなるので、取材を断りそうな相手には、あまり批判的なことを報道しない場合もありうる。 また、独裁国家では、政府に批判的なことを報道すると逮捕されたりしてしまうので、政府に都合の良い情報しか報道しない。 また、民間のテレビ局では、テレビ番組などを作るのにはお金(制作費)がたくさんかかるので、お金を払ってくれる大企業などの出資者(「スポンサー」という)や、大手の広告会社などの都合のいいことしか報道しない場合もある。(※ 中学公民では範囲外だが、過去に高校の『情報』科目で、メディアリテラシーにおける「スポンサー」などの概念を習う場合があった。) また、『提灯(ちょうちん)記事』という用語があり、なんらかの事情で、マスメディア企業が取材対象にとって都合のいい事ばかりを書いた記事のことを『提灯記事』(ちょうちん きじ)と言います。 取材対象に批判的なことを書くと、今後の取材をしづらくなる事が多いので、取材対象がよほどの不祥事をしないかぎり、マスメディア各社が取材対象に批判的なことを書かないで都合のいいことばかり書く場合(つまりチョウチン記事)があります。 また、単にマスメディア機関の知識不足などによって、マスメディアの判断が間違う場合もあります。 新聞などのマスメディアは、世論を知るための調査として、社会の関心になりそうな内閣の支持・不支持や、支持政党や、政策への賛成・反対など、政治における重要項目などについて、不特定多数の人々にアンケートを取って世論の考えを調査して、そのアンケートの結果を発表することがあります。 このようなマスコミによる、アンケートなどの調査を 世論調査(せろん ちょうさ、よろん ちょうさ、英:opinion poll オピニオン・ポール) と言います。 マスコミが、偏った意見を伝えるだけなら、まだマシです(良くないが)。 ひどい場合には、ウソの情報を伝える場合すら、あります。 昔から世界各国でマスコミは、そのマスコミ会社にとって都合の悪い対立陣営の政治家や対立業界の企業などについて、たびたび意図的にウソの報道をして、対立陣営のイメージを落として、テレビ視聴者や新聞読者などを だましてきました。近年、このようなマスコミによるウソの実態が露呈してきて、『フェイクニュース』として世界各国で問題視されてきています。 『言論の自由』を悪用し、無責任でデタラメな報道をしているマスコミ会社があります。学生は、気をつけましょう。 メディアからの情報は、たとえ伝える人に悪気(わるぎ)がなくても、実は不正確で、かならず偏見の入るものなのです。 型にハマったものの考え方や、そうして得られた世界観のことを「ステレオタイプ」と言います。 型にハマるのは悪い事のように思われがちですが、しかし私たちは物事を他人に伝える際、説明の前提として共通の認識がなければなりません。その共通の認識が、はたして本当に真実かどうかの保証はないのにかかわらず。 だから、メディアの伝える情報は、どうしても、どこかで人々の先入観に従ったものになります。 たとえ、偏見や先入観にとらわれないものの見方を紹介するメッセージであっても、そのようねメッセージですら他人に伝わる際には原理的に最低限の偏見にとらわれたものになってしまうのです。 清水書院の検定教科書では紹介していない事なのですが、たとえば小中学校の公民の説明の際でも、「民主主義はすばらしいものである」とか、どうしても前提として決め付けなければなりません。 そういう前提がないと、それ以降の細かい話(たとえば憲法の第何条がどうのこうのとかの解説)に入れません。 べつに政治や経済だけでなく、大衆文化や芸術などでも、とにかくメディアの伝えるものは基本的に、かならず、説明の前提としての偏見・先入観が含まれてしまいます。そのような先入観の混在は、説明を分かりやすくするためには、どうしても混ざってしまうのです。 だから私たちの目指すべきこととしては、実現不可能な「偏見のない考え方」を目指すのではなく、自身のもっている偏見に気づいて上手にコントロールできる能力が必要とされるでしょう。 さて、メディアからの情報収集ではなく、たとえばインタビューなどで聞き取り調査をする場合、気をつけなければならないこととして、取材対象の集団は必ずしも世間の人々の意見をバランスよく反映しているとは限りません。 どんな集団であっても、何らかの目的をもって集まっていることで集団が形成されているわけですから、その集団の考え方には片寄りがあります。 学校の生徒の集団だって、ほとんどが学生ばかりなわけで、片寄っているわけです。中学校の場合なら普通、先生以外に大人はいないだろうし(ただし戦災などで中学校に通えなかった高齢者の夜間中学などは除く)、片寄りはあります。 地域の自治会などの集会ですら、「その地域に住んでいる」という条件がありますので、片寄りがあります。 なので、一見すると集団の皆に意見をつのって「客観的な意見をあつめている」つもりでも、気づかないうちに似たような意見ばかりを集めてしまいますので、もし自分がそういう意見の片寄りの仕組みに気づいてないとしたら、その意見が世間の意見だと誤解してしまい、結果として片寄った意見が形成されている場合があります。 また、普通の人は、自分と似た考えをもつ集団に所属したがるので、自分の属する集団でほかの人の意見を聞いても、自分と似た考えばかりが集まりがちです。(たとえば部活動とかを例に考えてください。運動部の人が、自分の属する部活で「好きなスポーツは?」と他の部員にインタビューを聞いたら、当然ですが自分の部活と同じ答えが返って来る傾向が多いでしょう。) こういうふうに、せっかく意見を集めても、なんらかの原因で、自分と似た意見ばかりが片寄って集まってくる現象のことをエコーチェンバーと言います。もともと音響の用語で、音楽録音用の残響室のことをエコーチャンバーと言っていました。 さて、意見を集める際にはエコーチェンバーという現象がありますが、だからといって集団を形成する人々から意見を集めることが悪いわけではなく、こういう事があることを自覚すべきでしょう。世界中の全ての集団から意見を集めるのは不可能ですので、ある程度、意見を集める集団をしぼりこまざるをえないのが実情でしょう。 ともかく、エコーチェンバーという現象があることを自覚してないと、自分の属する集団の他人から意見をきいて「客観的な意見を集めている」つもりなのに、しかし同じ集団に属するので似たような意見ばかりが集まってしまうので実際には片寄った意見ばかりが集まることになってしまい、目的と結果が一致しません。 なので、意見の集め方には、ちょっとした工夫が必要です。(どういう工夫が必要なのかは本ページでは説明しません。大人になるまでに、各自で考えてください。) また、本を読んだりする場合でも同じ危険性があります。普通の人は、自分と考えの近い意見の書かれた本を読みたがります。なので、本を読んで「多様な意見を集めている」つもりでも、しかしエコーチェンバー(あるいは別セクションで述べているフィルターバブル)によって知らずのうちに自分の考えと似た意見ばかりを集めてしまい、あまり情報として役立たない、片寄った意見ばかりを集めてしまうこともあります。 なので本の読み方にも、工夫がいろいろと必要です。 なお、とくにインターネット上のコミュニティで、同じ意見・感想ばかりが集まって、(その意見が世間だと誤解してしまったりした結果として)閉鎖的・過激なコミュニティが形成される現象のことをサイバー・カスケードと言います。 自分がエコーチェンバーに落ちてしまうことを防ぐためには、現在の自分の考えとは違う意見の話を読んだり聞いたりして、自分の今までの考えを「勘違いかもしれない」と疑ってみる必要があります。 たとえば自分が高校生で、「今の高校生は昔の高校生よりも頭もいい」とか思っているなら、逆の「もしかしたら今の高校生は、昔よりもある意味では馬鹿かもしれない」みたいな主張をしている人の話も時々は読んだりするべきなのです。 読者対象である自分を否定するような内容の書籍で、統計や歴史などの証拠がキッチリとそろっていて、もっともらしい内容の書籍を読むのが良いでしょう。 スポーツで例えるなら、対戦などの試合のようなものです。自分の考えと同じ本ばかり読むのは、対戦・試合などをしないようなものです。 しかし、このような自分を否定するような意見の読書や視聴などには、心理的なストレス(負担・苦痛)が掛かります。まるで、スポーツの対戦で負けたら、挫折感(ざせつかん)を味わって、悔しい(くやしい)ようなものです。 しかし、反対意見を読むというストレスを我慢してでも、自分に対する反対意見に付き合わない限り、エコーチェンバーに落ちてしまいます。 社会問題などの情報なら、読者のアナタが自発的に修正しなくても、世間の偉い人(学者さんとか知識人とか)が勝手に教科書などを修正してくれます。 しかし、「私は頭がいい/私は馬鹿だ」みたいな自己評価などは、もしエコーチェンバー的な情報の片寄りによって、自己評価も片寄ってしまった場合、世間の偉い人の手ではもう、その誰かアカの他人にとっての「自己評価」の片寄りを修正できません。なぜなら、他人の脳味噌はいじくれないからです。 自分を褒めてくれる内容の本を読むのは気持ちいいですが、しかしそれを目的にしてしまう読書はもはや勉強ではなく、単なる娯楽です。なにより怖いのは、勉強できておらず娯楽で時間をつぶしているだけなのに、「自分は勉強できている」と自己評価が高くなり、本来の能力の低さ と 自己評価の高さ の差がどんどんと開いていしまうことです。 形式的に多くの冊数の本を読んでいても、内容が片寄っていては、せっかくの読書の意味がありません。気をつけましょう。 高校生くらいになったら、読書の評価軸を見直しましょう。小学生くらいに言われる「多くの本を読むとよい」のは、幼児や小学生のような言葉を覚える段階での話です。 高校生くらいになったら、やみくもに多くの本を読むのではなく、自分を鍛えるために適切な本を選んで読むのです。 読書で勉強する際は、やみくもに冊数やページ数の多さを目指すのではなく、「自分(このwikiをよんでるアナタ)の考えとは反対の意見のある書籍も読む」ということを目標にするのが良いと思います。もちろん、自分の考えと同じ意見の書籍も読むべきです。 さて、マスコミや左翼政党はよく、「低所得者に配慮しろ!」「女性にも配慮しろ!」などと言います。教科書もそう言っているかもしれません。 しかし、たとえば、貧乏人が「貧乏は素晴らしい」という本ばかり読んでたら、その貧乏人は一時(いっとき)は気分はいいですが、しかしいつまで経っても同じ暮らしを続けて貧乏のままでしょう。本当にアナタの人生、それで良いのですか? 貧乏なままで良いのですか? という事です。 仮にアナタが「べつにカネだけが人生じゃない」という人生観でも、たとえば仮にアナタがスポーツ好きの人なら「スポーツが下手でもイイじゃないか。スポーツの技術なんて知らなくていい」という主張につかってばかりではスポーツ能力が成長しません。「絵がヘタでもいいじゃないか」も「音楽がヘタでもいいじゃないか」も「勉強ができなくてもいいじゃないか」も同様です。 あるいは、アナタが女性なら、21世紀の欧米でのファミニズム運動の流行に乗って「女性は男性に差別されている!」と連呼するだけで何の建設的・現実的な提案もない本を読むのは、それが気軽で気持ちいい女性読者もいるかもしれません。ですが、その「女性差別」とやらの現状分析や原因を分析して現実的な対策をしない限り、何時まで経っても、その女性は差別されたままでしょう。理由はさきほどの貧乏人の例と同じです。 なお、現実はそんなに甘くはなく、もう実際に高校の公共の教科書などで、2010~2020年代のある医大での女性受験者の面接での点数の不利な取り扱いの事例が紹介されており、女性の面接の点数を下げた原因として、外科医の労働環境の過酷さと、それが女性には健康上の理由で耐えづらいという現実が、もう紹介されています。 そして、その公共教科書などでは、結論として「もし女性の医者をもっと増やすなら、保険料や税金などの医療費が増えることになるだろう」という感じの論で、トレード・オフ的な経済的な分析法で説明しています。医療費も増えずに女医を増やすことなんて無理なのです。一言も「女医を増やすな」なんて教科書では言っていません。単に「女医を増やすなら、医療費も増えることになる」という経済的な現実を認めろ、というだけの話です。 その医大の面接の採点方法が正しいかどうかなんて事は、公共教科書は一言も言っていません。ですが、それにも関わらず、「女医を増やせば医療費も増えることになるよ」という経済的な予想についてすら世間では「女性差別だ」などと批判するような人も、残念ながら世間には居ます。(もちろん、もう高校教科書では、そのような「女性差別だ」は相手にされていないのが現実。) なお、どちらか一方を選択すれば、もう一方をあきらめなければならない状態を、トレード・オフ( trade-off )と言います。もうこれが高校生・高校教科書の知的レベルの高さです。世間には残念ながら、こういった高校教科書より下の知的レベルの大人も、男女とわず、います このように、女性にとって現実と向き合うためには、都合のいい耳障りの言い非現実な主張は、否定しなければならない必要もあります。このため、社会問題などの現実的な対策を考える議論をストレスに感じる人もいます。しかしそういったストレスから逃れていて、自分に耳障りのいい主張だけを集めて広めていては、社会からは相手にされません。 低所得者や女性など何らかの「弱者」とされる者への配慮は必要ですが、しかし弱者とされた側の人は、けっして永久に配慮に甘んじ続けるだけではいけません。筋トレに負荷が必要なように、心や知性の成長にも適度な負荷が必要です。自分の心や知性の成長にあわせて、負荷も段階的に上げていきましょう。 メディアは、紹介する情報が片寄っているのが普通です。 インターネットなどで、ユーザーが見たくない情報を遮断する「フィルター」という機能があります。 こういうフィルターがあるので、多くの情報を集めているつもりでも、知らず知らずのうちに、自分好みの情報ばかりを集めてしまう現象も起こりえますが、こういう現象のことをフィルターバブルと言います。 ここでいうバブルとは泡のことで、いくつもの泡が、それぞれ、ほかの泡と切り離されて断片的に孤立している様子の事を言っています。(「バブル」と言っても、べつに不動産バブルや金融バブルのことではないので、誤解しないように。) また、インターネットに限らず、紙の書籍やテレビなどでもフィルターバブルと似たような現象は起こります。 残念ながら、雑誌や書籍や新聞・テレビなどでも、読者や視聴者の好みそうな情報でないと売れないので、結果として、読者などにウケのいい情報ばかりが紹介されますので、読者以外の知っている情報とはズレが大きくなっている場合もあります。 フィルターバブルに陥らないように、気をつけましょう。情報の集め方には、工夫がいろいろと必要です。
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日本では18歳以上の男女の日本国民に、選挙権(英:voting rights)があり、一定の年齢(ねんれい)以上ならば仕事や性別や納税額(のうぜいがく)などに関係なく、だれでも選挙権があって投票に参加できるしくみです。 かつて、1945年以降から長らく20歳以上の男女の日本国民に選挙権が与えられる仕組みでしたが、2016年に公職選挙法の改正により選挙権が18歳以上に引き下げられました。そして実際に2016年の参議院議員選挙で、18歳以上の有権者による投票が行われました。 有権者がもつ一票の価値は性別や納税額など差別されず、平等であるというしくみです。 選挙でどの有権者がどの候補者に投票したかをわからないようにするしくみです。 有権者が直接、代表者(首長や議員)を選ぶしくみです。アメリカのように直接代表者を選ばない間接選挙(かんせつ せんきょ)のようなしくみもあります。 選挙の規則について定めた法律で、さまざまな規則があります。 選挙の運営を管理する機関のことです。 日本の国会は、衆議院(しゅうぎいん)と参議院(さんぎいん)という、2つの議院からなる二院制(にいんせい、英:bicameralism バイカメラリズム)である。 二院制により、同じ政策について、異なる議院で審議を出来るので、一院制の場合よりも、より慎重に議論をすることが出来ます。 なお、衆議院と参議院には選挙区や任期などにちがいを設けてあります。 衆議院の選挙は、小選挙区制と比例代表制をあわせた、小選挙区比例代表並立制(しょうせんきょく ひれいだいひょう へいりつせい)です。 小選挙区選挙で1票を投票し、比例代表選挙でも1票を投票するので、有権者は、有権者1人につき2票を持っています。 衆議院選挙での小選挙区選挙(全国での定数:289名)は、全国を289の小選挙区に区割りしているので、当選できる議員の定数は289名です。 比例代表選挙では、全国を11のブロックに区割りし、全国あわせて176人の議員が選ばれます。 参議院の選挙区は、都道府県ごとの選挙区(ただし鳥取県と島根県、徳島県と高知県をそれぞれ合同選挙区とした45の選挙区)で、各選挙区から2名〜8名を選びます。全国で選挙区制で148名を選びます。 これとはべつに、比例代表制で、全国を一つの選挙区として、100名を選びます。 現代には、さまざまな選挙制度の問題点があります。 たとえば小選挙区制では、当選者以外の票が多くなりやすいので、当選者以外に投票した人の意見が無駄になってしまうという問題点があります。(なお、当選者以外に投票した票のことを死票(しひょう)と言います。 )また、選挙区の人口などによって、有権者の一票の価値が異なってしまうという問題もあります。これを一票の格差(いっぴょうのかくさ)と言います。 このような問題点をなくすためには新しい選挙のルールをつくっていくことが必要です。そのため国などでは選挙区の区分けを変えたり、選挙区を減らしたりして対応しています。しかしながら、まだ問題は解決しておらず改善に向けた議論が続いています。 同じような政策の方針や、同じような政治の理念を持っている政治家の集団、あるいは議員の集団を 政党(せいとう、英:political party) と言います。 議会制の民主政治では多数決で政策が決まるので、同じ政策を目指している政治家どうしは協力しあって行動したほうが、政策が通りやすいのです。 特に国の政治の場合は、政党どうしの競争が政治の中心になることが多く、このような政党の競争が行われる政治のあり方を政党政治(せいとう せいじ、英:party system) と言います。 一般に、国会で、もっとも多数派をしめている政党が政権をとっています。政権をとっている政党のことを与党(よとう、英:ruling party または governing party) と言います。政権をとれていない政党を野党(やとう、英:opposition) といいます。 国会の場合などで、どの政党も過半数をとれてない場合には、複数の政党どうしが協力しあって、ひとつの内閣をつくる場合があります。この場合の連立している内閣の政党を、連立与党(れんりつ よとう、英:coalition government コーリション・ガバメント)と言います。 政党は、選挙の前に、有権者たちに、もし政権を取った時に行おうとする政策を発表するのが一般的です。このような政党が発表している、政権を取った時の実行を約束した政策のことを 政権公約(せいけんこうやく)と言います。またはマニフェストとも言います。 1955年から日本では選挙の結果、自由民主党(じゆう みんしゅとう)が、ほとんどの間、与党となって、自民党は与党として政権を担当しました。また野党は日本社会党(にほん しゃかいとう)の勢力が占めました。 このような自由民主党が与党の第一党として、日本社会党が野党の第一党とした国会の体制は55年体制(ごじゅうごねん たいせい)と言われました。 しかし、1992年〜1993年ごろから、政治の考えかたの違いから、それまでの政党が分裂し、再編成され、1993年には自民党(自由民主党)が野党になりました。 しかし、長続きせず、1994年には自民党をふくめた連立政権が出来ました。 その後は、2009年まで自民党の政権が続きましたが、2009年の衆議院選挙で民主党(みんしゅとう)が勝利して過半数の議席を獲得し、政権が自民党から民主党に交代し、自民党は野党になりました。 2012年12月に民主党の政権は終わり、それから自民党中心の政権に変わりました。 2021年の時点では、政権与党は自民党と連立政権を組んでいる公明党です。 政治の、政策の調査や、政党の宣伝などの活動を行うには、お金が必要です。国会議員にも給料が出ますが、それとは別に、政党には国から税金によって政党交付金(せいとう こうふきん)という政党への助成金が支出されています。政党助成金(せいとう じょせいきん)とも言います。 政治資金規正法(せいじしきん きせいほう)などの法律は、政党の資金について定められています。 国会議員を選ぶ選挙や、地方議員を選ぶ選挙など、日本国民や地域の住民などの有権者が投票できる選挙が実際に行われるさいに、選挙が始まってから、街中にある掲示板に、選挙の候補者の写真ポスターが用意されます。これを「選挙ポスター」と言います。 このポスターには、けっして、落書きをしたり、わざと破いたりしては、いけません。もし落書きしたり破いたりすると、違法行為になり、警察などによって、落書きなどを行った人は処罰されます。
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・ 国会(こっかい) ・・・ 国民の選挙によって選ばれた代表者で構成される議会であり、立法権(りっぽうけん)をつかさどる。日本の国会は二院制(にいんせい)であり、衆議院(しゅうぎいん)と参議院(さんぎいん)がある。 ・ 二院制 (にいんせい) ・・・ 国会が衆議院と参議院から成るように、議会が2つの議院から成り立つこと。メリットは、決議を慎重にし国民の意思をより正確に反映できること。もし、衆議院と参議院が、まったく同じ構成だと、同じ議論を衆議院と参議院で2回繰り返すだけになってしまうので、日本では衆議院と参議院の選挙区や任期などに、ちがいを設けてある。 (2022/8現在)[1] 衆議院の任期が短く、衆議院にだけ解散がある。 → 衆議院には国民の意思を反映させる機会が参議院に比べて多いことを表している。これによって衆議院には、いくつかの点で参議院より強い権限が与えられている。衆議院の優越(しゅうぎいん の ゆうえつ) 議員定数・選挙権(せんきょけん)・被選挙権(ひせんきょけん)は公職選挙法(こうしょく せんきょほう)で決められている。 国会の仕事はいくつかありますが、最大の仕事は法律の制定や法律の改廃などの、立法(りっぽう)です。 実例 衆議院が内閣不信任案を決議した場合、内閣は10日以内に、衆議院を解散するか、内閣を総辞職しなければならない。 国会には、衆議院・参議院ともに、議員全員が出席する本会議(ほんかいぎ)と、議員が分かれて参加する、少数の議員からなる委員会(いいんかい)があります。 国会に出された法律案などの議案は、まず、専門の委員会で審議(しんぎ)され、その結果が本会議に報告され、本会議に議案が回されます。 委員会では、必要に応じて外部から議案に関係ある知識に詳しい専門家を呼んできて、専門家の意見を聞く、公聴会(こうちょうかい)を開く場合もある。 本会議では、委員会での審議を参考にして、本会議で討論をして審議を行い、本会議での審議の後に多数決で採決をされます。 本会議は、公開が原則となっており、テレビ中継などもされます。 法案の可決など議案の可決などを行っているのは、本会議です。 衆参どちらかの本会議で可決された議案は、もう一方の議員に回され、同じような過程で、委員会や本会議で審議され、本会議で採決します。 もし、衆議院の本会議の意見と、参議院の本会議の意見が異なれば、両院協議会が開かれます。 「衆議院の優越」とは、衆議院の本会議の結果が、参議院の本会議よりも優越する、ということです。
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日本の議院内閣制は、イギリスの制度にならったものである。 世界の多くの国では、民主主義で国民からの投票によって議員が選ばれるが、そうでない国もある。 ※ 一部の検定教科書で紹介されているらしい。 国にもよりますが、「大統領」と「首相」は異なります。一般的に、国王のいない国では、「大統領」が国家元首です。「首相」は、行政府の長のことです。 たとえばフランスは、大統領もいますが、それとは別に首相もいます。 ドイツも、大統領がいますが、それとは別に首相がいます。 大統領と首相、どちらが政治の実権をにぎっているかは、国によって異なります。 なお、アメリカ合衆国には、大統領とは別の「首相」はいません。 国際的な通例では、国王がいる国では、国王が国家元首です。だからイギリスでは、国王(エリザベス女王)が国家元首です。しかしエリザベス女王は政治の実権は握っていません。イギリスで政治の実権をにぎっているのは首相です。 このように、国家元首だからといって、政治の実権をにぎっているかどうかも別問題です。 アメリカ合衆国は民主主義の国である。 アメリカでは行政の最高責任者の選挙は議会によらず、事実上は国民によって直接に選ばれる大統領(だいとうりょう)が行政の長になるという大統領制の国である。(実際はアメリカ国民が大統領選挙人を選ぶ。この選挙人は議会とは異なる。) アメリカの場合、議会には大統領の不信任決議権が無く、また大統領にも議会の解散権が無い。このように議会と大統領が独立している。したがって、議会の意見と大統領の意見とが対立することもある。 アメリカでは、法律の立法は、議会だけが立法権を持ち、大統領には立法権は無い。大統領には、議会が提案した法案への法案拒否権(ほうあん きょひけん)がある。大統領は議会には議席を持たない。 議会は上院(じょういん)と下院(かいん)からなる。 選挙権は18歳以上から。 イギリスは民主主義の国である。 イギリスは 立憲君主制(りっけん くんしゅせい) であり、国王を元首(げんしゅ)としている。国王には、ほとんど権限が無い。イギリスの議会は、上院の貴族院(きぞくいん)と下院の庶民院(しょみんいん)とからなる二院制である。下院は、国民からの選挙で議員が選ばれ、全体的に下院のほうが上院よりも権限が強い。 内閣は下院で多数をしめる党から選ばれるのが一般的で、首相は、その多数を占める党の党首であることが一般的である。議会が首相を指名し、国王は首相を任命する。 選挙権は18歳以上から。 中華人民共和国は、中国共産党が政治権力をにぎっている社会主義の国である。国民からの議院の直接選挙は無く、事実上は中国共産党が権力を握っており、一党独裁制を導入している。 日本の国会に相当する機関は、全国人民代表大会(ぜんこく じんみん だいひょう たいかい)である。略して全人大(ぜんじんだい)という。 権力分立はしておらず、立法、司法、行政の三権は共産党の指導下に置かれている。
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市議会や県議会・都議会・府議会・道議会では、お金のつかいかたを決めるだけでなく、市内・県内などのきまりを作る場合もあります。国の決まりは 法律(ほうりつ、英:law あるいは statute スタチュート) といいますが、市や県などの中のきまりを 条例(じょうれい、英:by-law バイロー) といいます。 市議会や県議会では、条例を決められます。市の条例は、その市内でだけ通用します。県の条例は、その県内だけで通用します。 法律に反する条例は作ることができません。 一般の法律は憲法(constitution)には逆らえないのと同様に、条例も憲法には逆らえません。 憲法、法律、条例の強制力の優先順位を書くと、 となります。 法律をつくる場所は、国会(こっかい、Diet)だけであり、国会議員(英:legislator レジスレイター)の多数決(英:majority rule マジョリティ・ルール)で法律を作ります。市議会や県議会など地方議会(英:local assembly ローカル・アセンブリー)の多数決では、法律は作れません。 (国会については、別の記事で、くわしく説明する。) 市議会の議員は、選挙(せんきょ)によって、選ばれます。市議会などの議員(ぎいん)を、住民などからの投票(とうひょう、英:voting)によって、えらぶことを 選挙(せんきょ、英:election) といいます。 自治体や国などの議員の選挙についての法律は、公職選挙法(こうしょく せんきょほう)などに定めがあります。 市議会議員の選挙や市長の選挙は、ふつうは、4年ごとに1回、おこなわれます。 県会議員や県知事の選挙も、ふつうは、4年ごとに1回、おこなわれます。 市長を選ぶ選挙では、立候補者の中から、もっとも多い投票をもらった人だけが市長になります。ほかの、まけた人たちは、市長には、なれません。 県会議員を選ぶ選挙と、市議会議員をえらぶ選挙は、べつの選挙です。 市議会選挙や県議会選挙などで、住民が投票をする、住民の持つ選挙権は20才以上からあります。 投票できるという、選挙権をもつ人を 有権者(ゆうけんしゃ、英:electorate エレクトレート) といいます。 市長選挙も県知事選挙も、投票は18才以上からです。 投票できるのは、その市や県に3ヶ月以上住んでいる18才以上の市民や県民だけです。このような人が、有権者になれます。 市議会議員(しぎかい)をえらぶ選挙(せんきょ)では、住民が、一人一票で立候補者(りっこうほしゃ)に投票し、もっとも多くの投票をもらった立候補者から議員になります。 選挙で議員として立候補できるのは、すくなくとも、25才以上からです。 市議会や県議会の議員は、25歳から立候補できます。市長も25才から立候補できます。 県知事など、都道府県知事への立候補は、30才以上でないと、立候補できません。 地方議会には、国政とは違い、住民が直接に、議会の同意を得ずに、議員の解職を求めたり、住民が条例を直接に制定できたりなど、直接に地方政治に携われる直接請求権(ちょくせつ せいきゅうけん)がある。 ただし直接請求には、一定の割合の、有権者の住民による署名が必要である。 (※ 高校の範囲 :)ちなみに外来語でいう「レファレンダム」やら「リコール」などは、単に欧米での上記の制度に対応する英語です。住民投票が「レファレンダム」であり、議員・主長・役員などの解職請求や議会の解散請求が「リコール」です。条約の制定・改廃の請求は「イニシアティブ」と言います。 格言で「地方自治は民主主義の学校」と言われます。この格言は、19世紀後半の政治学者ブライスの格言です。身近な地方自治を通して、やがて国政なども身近に感じるようになって主権者としての主体性をもつようになるというような意味です。
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地域によっては、住民が情報公開制度などを活用して、行政が適正に活動している監視する制度や運動があり、このような制度に「オンブズ制度」などと言います。スウェーデンで19世紀から始められた制度がもとになっています。 「オンブズマン」制度とか「オンブズパーソン」制度とか、単に「オンブズマン」、「オンブズパーソン」などとも言われます。 wikibooks『中学校社会_公民/地方自治#直接請求権』で説明ずみ。参照せよ。 地域のボランティア運動(たとえば高齢者福祉など)や自然保護運動などの団体をつくるさいに税制などで優遇を受けられやすい「非営利組織」(NPO)という制度があります。「エヌピーオー」と読みます。 自然保護運動、ボランティア運動などで、NPOを結成したりすることがあります。 都道府県や市町村といった自治体(じちたい)が、地域の高齢者保護など福祉行政の仕事の一部を、その地域のボランティア系のNPOに委託している場合もあります(※ ネットの東京書籍の教科書についての写真で見た)。 NPOは、その活動が国際的かどうかは関係ありません。(名前の似ているNGOは国際的。)
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家族に関する法律には、民法などに定めがある。また戸籍法では、出生や婚姻や死亡などの際の、戸籍の届け出についての定めがある。 祖父母や孫などがなく、夫婦と未婚の子どもだけの家族、または夫婦だけの家族のことを核家族(かくかぞく)という。 父または母と、その未婚の子の家族も、核家族に含める。 つまり、 いっぽう、祖父母や孫など、夫婦と子ども以外の家族がいる場合など、3世代以上の人のいる家族のことは、「大家族」といったり、「拡大家族」という。 現代の日本では、核家族の家庭が多い。拡大家族は、減ってきている。 このほか、一人で暮らす単独世帯も多い。 また、少子化により、核家族であっても、子どもの数が昔よりも減ってきている、といわれる。 昭和の高度経済成長のころは、父が働き、母が家庭で専業主婦をするという家庭が多かった。しかし、21世紀の現代では、男女とも働きにでる共働き(ともばたらき)の家庭も多くなっている。 婚姻(こんいん)は、本人および相手の両方の合意が必要。つまり両性の合意が必要。婚姻では男女が平等である。 ※ 帝国書院の教科書(平成25年版)に書いてある。 財産の相続(そうぞく)において、男女は平等。 現行の民法では、特に遺言(ゆいごん)が無いかぎり、もし死者に配偶者がいれば、まず、配偶者がその半分を相続する。子供がいれば、残りの半分を子供どうしで均等に分け合う。子供がおらず配偶者だけなら、配偶者が全て相続する。配偶者が既に死亡しており、子供だけが残っていれば、全財産を子供どうしで均等に受け継ぐ。 父母と子の間の財産相続は、平等では無い。子供の財産は、親の財産の半分を子供どうしが均分に相続する。 たとえば、ある家庭の父親(Aとする)が死んだとして、父親Aの財産の半分つまり 2分の1 をAの配偶者である妻が受け継ぐ。 ある家庭で父が死んだ場合の財産を「母」が受け継ぐ場合、その「母」とはA本人の生みの親の母親ではなく、Aの妻のことである。Aの子供から見た場合の「母」のことである。 そのあと、残りの半分を、Aの子供が分け合う。 もし子供が3人なら、 1/2 × 1/3 = 1/6 だから、子供は1人あたり 父親の 1/6 の財産を受け継ぐ。(均分相続) 明治時代〜第二次大戦終戦までの民法などでは、財産は父親が管理することが定められていて、長男が受け継ぐ。男女平等では無いし、男同士でも次男以下や次男や三男は財産を受け継がない。 当時は、家は長男が受け継ぐものと考えられていた。 上述のように現代では、父母が2人とも死んだ場合、現代の相続では基本的に、財産は子どもに均等に分配される。 このように、長男だけが相続するのではなく、息子たちと娘たちに平等に財産が分配されることを、一般に「分割相続」(ぶんかつ そうぞく)という。 (高校の日本史などで「分割相続」という用語が、平気で出てくる。 たとえば「鎌倉時代の御家人の領地が、分割相続によって、どんどんと少なくなっていき、鎌倉時代の後期には、貧しくなる御家人も多く出てきた」みたいな文脈で使われることもある。) もし親が死んだら、子は財産を相続しますが、このとき、もし親に借金が多いと、子供は借金も相続することになります。民法で、そう定められています。日本の相続制度は、このような単純承認(たんじゅん しょうにん)という制度になっています。 貯金よりも借金が多い場合に相続を断るには、死亡後から3ヶ月以内までに家庭裁判所に申請しなければなりません。「限定承認」(げんてい しょうにん)または「相続放棄」(そうぞく ほうき)を家庭裁判所に申請します。 「限定承認」とは、もし、親の貯金や資産と、親の借金を差し引きして、もし借金のほうが多ければ、相続しない、という選択です。 「相続放棄」とは、単に、親に借金があろうが無かろうが、親から何も相続しない、という選択です。 限定承認か相続放棄をしないと、たとえ貯金よりも借金が多くても、相続しないといけなくなりますので、借金ごと相続してしまいます\。 例えば親が会社経営をしている場合などで、会社の業績が悪い場合には、多額の借金を抱えてる場合がありうるので、注意が必要です。 なお、限定承認をするには、相続人全員の賛成が必要になります。なので、実質的には、限定承認が困難でしょう。親の借金が多い場合には、相続放棄をするのが安全です。 相続の仕組みなどを知らないのが普通なので、ついつい申請をためらってしまいがちですが、早めに申請しないと大変なことになる場合があります。 そもそも単純承認を原則にした民法自体に欠陥がある気もしますが、現実として日本の民法の相続の制度は、親の財産が借金の場合でも単純に相続する「単純承認」を原則とした制度になってるのが実情です。もしアナタが死亡した親の借金を相続させられてしまい、誰かを恨むなら、有権者と政治家を恨みましょう。このような、民法の欠陥を放置してきた人とは、有権者自身です。民法の議論を怠り、憲法論議ばかりをしてきた、無能な有権者たちの自己責任でしょう。有権者が選挙権を持ってとは、そういう事です。法律の欠陥は、有権者の愚かさの表れでもあります。 相続については、相続税の細かいことよりも、まずは借金の相続を放棄できる限定承認・相続放棄の期間が死亡後3ヶ月と限られているということを知っておいてください。 本人を基準に、血のつながった父と母、子供や、兄、姉、弟、妹や祖父母、おじ、おば、おい、めい、いとこ、などを血族(けつぞく)と言う。 本人を基準に、血の繋がっていない、結婚相手である配偶者(はいぐうしゃ)や、けっこない手の父親(義父)、母親(義母)、義兄(ぎけい)、義弟(ぎてい)、義妹(ぎまい)、義姉(ぎし)などを、姻族(いんぞく)という。 法律で、親族の範囲を定める場合には、「親等」という、血縁関係や婚姻関係などに基づき決められる階級が用いられる。 親等では、血族と姻族を区別しない。 ・ 1親等(いっしんとう) 本人および配偶者(夫や妻のこと)を基準とし、本人の子どもと本人および配偶者の父親・母親を1親等とする。 兄弟姉妹は2親等であり、1親等では無いので、間違えないように。 要は、「父」、「母」と呼ばれる相手は、血がつながってようが、義理で血がつながっていまいが、基本的に1親等になるはずである。 そして、本人の子供は1親等である。 ・ 2親等(にしんとう) 具体的に言うと、兄弟姉妹や祖父母や孫などが2親等である。また配偶者の兄弟・姉妹も本人の兄弟姉妹と区別しないので、配偶者の兄弟・姉妹も2親等である。つまり、兄弟姉妹は2親等である。 本人および配偶者を除く、1親等である人間の子供や父母を2親等とする。 本人の兄の配偶者の義姉や、姉の配偶者の義兄も、実の兄や姉と同じく2親等である。 配偶者の兄弟姉妹は2親等である。本人と配偶者を区別しないので、つまり本人および配偶者の兄弟姉妹および2親等とする。 要は、「兄弟姉妹」や「祖父母」と呼ばれる相手は、血がつながってようが、義理で血がつながっていまいが、基本的に2親等になるはずである。 ・3親等(さんしんとう) 3親等とは、血がつながってようが、義理で血がつながっていまいが、「おじ」とか「おば」とか「おい」とか「めい」とかが3親等である。 おじ、おばの子供のことを「いとこ」と言うが、いとこは4親等である。 日本の民法では、「親族」とは、6親等内の血族と、配偶者と、3親等内の姻族を「親族」として定める(民法第725条)。 親族の範囲では、血族と姻族は平等では無いので、間違えないように。
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~朗読(外部サイト)~ 以下、「前文」より日本国憲法の原文である。 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、 われらとわれらの子孫のために、 諸国民(しょこくみん)との協和(きょうわ)による成果と、わが国(くに)全土(ぜんど)にわたつて自由のもたらす恵沢(けいたく)を確保し、 政府の行為によつて再び戦争の惨禍(さんか)が起る(おこる)ことのないやうにすることを決意し、 ここに主権(しゅけん)が国民に存(ぞん)することを宣言(せんげん)し、 この憲法を確定する。 そもそも国政は、国民の厳粛(げんしゅく)な信託(しんたく)によるものであつて、 その権威(けんい)は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使(こうし)し、その福利(ふくり)は国民がこれを享受(きょうじゅ)する。 これは人類普遍(じんるい ふへん)の原理であり、この憲法は、かかる原理に基く(もとづく)ものである。 われらは、これに反する一切の憲法、法令(ほうれい)及び(および)詔勅(しょうちょく)を排除する。 日本国民は、恒久(こうきゅう)の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高(すうこう)な理想を深く自覚するのであつて、 平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。 われらは、平和を維持(いじ)し、専制(せんせい)と隷従(れいじゅう)、圧迫(あっぱく)と偏狭(へんきょう)を地上から永遠に除去(じょきょ)しようと努めてゐる国際社会において、名誉(めいよ)ある地位を占めたい(しめたい)と思ふ。 われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏(けつぼう)から免れ(まぬかれ)、平和のうちに生存する権利を有する(ゆうする)ことを確認する。 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念(せんねん)して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的(ふへんてき)なものであり、この法則に従ふ(したがう)ことは、自国の主権を維持(いじ)し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務(せきむ)であると信ずる。 日本国民は、国家の名誉(めいよ)にかけ、全力をあげて この崇高(すうこう)な理想と目的を達成することを誓ふ(ちかう)。 用語解説 協和 心を合わせて仲よくすること。 恵沢 めぐみ、恩恵(おんけい)。 惨禍 いたましい災い(わざわい)。 主権 政治のありかたを最終的に決定する最高の権力 厳粛 まじめで、きびしく、おごそかな様子。 信託 信用して、まかせること。 権威 社会的信用の高さなどによって他人を自発的に服従させるような力のこと。強制的に服従させる社会的な上下関係である権力とは区別される。 行使 権力や力を実行すること。 福利 幸福と利益。 享受 受け取って自分のものにすること。 普遍 どこでも。いつでも。 人類普遍の原理 人類にとって、いつの時代においても、当てはまる原理。 詔勅 天皇の発する公文書(詔書)と、公的な言葉(勅語)。 恒久 いつまでも変わらないこと。永遠。 崇高 気高い様子。 専制 上に立つ者が独断でものごとを決めること。 隷従 他の者につき従うこと。隷属。 偏狭 せまく、かたよっていること。 欠乏 不足していること 責務 責任と義務 第1条 【天皇の地位・国民主権】   第2条 【皇位の継承(けいしょう)】  第3条 【天皇の国事行為に対する内閣の助言と承認】  第4条 【天皇の権能の限界、天皇の国事行為の委任】  第5条 【摂政(せっしょう)】  第6条 【天皇の任命権】  第7条 【天皇の国事行為】 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。 第8条 【皇室の財産授与(ざいさんじゅよ)】  用語解説 第1条 象徴 抽象的で形のないものを表現するときに、かわりとして似たような感じをもつ具体的なもので表したもの。 第2条 世襲 地位などを子や孫など血のつながった者が代々うけつぐこと。 皇室典範 皇位の継承や皇室の範囲や皇族の扱いなど皇室に関することがらを定めた法律。 第3条 国事行為 天皇が国家機関として行う儀礼的な行為。 第4条 権能 権限と能力。 第5条 摂政 天皇にかわって国事行為を行う皇族。 第6条 指名 この人だと名をあげて確定すること。この憲法の場合は適任者を選ぶこと。 任命 人を官職や役目につける命令。この憲法の場合の「任命」は、国会の指名を承認する形式的な行為。 第7条 政令 憲法や法律を実施するために、内閣によって制定される命令。 公布 広く知らせるために発表すること。 公示 広く知らせるために、人々が知りうる状態におくこと。 官吏 役人。国家公務員。 任免 職につける行為・権限と、その職をやめさせる行為・権限。任命と免職(めんしょく)。 委任状 ある事務などの処理について他人に任せているときに、そのことを記した書面。 全権委任状 条約を結ぶかどうかの交渉の際に、自国の外交官など交渉者が国家を代表して交渉していることを証明するための公の文書。元首から代表者である外交官など交渉担当者に渡される。 大赦 国や皇室にめでたいことがあったときに、軽い罪など一定の程度以下の犯罪への刑罰に対して、特別に刑の執行を免除し、また刑事訴訟の訴えを取り下げること。 特赦 刑を言い渡された特定の人に対して、刑の執行を免除し、有罪判決の効力を失わせること。 復権 有罪判決により失われた権利(被選挙権など)を回復させること。 栄典 国家に功績のある者には勲章や位階などが与えられることがあり、そのような勲章や位階をまとめて栄典という。 批准 条約を国家が最終的に承認すること。 接受 受け入れること。 第8条 賜与 身分の高い者が、身分の下の者に財産などを与えること。 第9条 【戦争放棄、戦力および交戦権の否認】  用語解説 第9条 基調 ある作品や論説などでの、主張などの基本的な傾向。 希求 ねがい、もとめること。 国権 国の権力。「国権」という用語そのものには批判的な意味は無い。 威嚇 おどしつけること。 武力の行使 軍事力や兵力を実際に使うこと。この憲法の場合は、実際に戦闘を行うこと、という意味だろう。 交戦権 戦争をなしうる権利。この憲法での「交戦権」の解釈について、自衛のための戦争についての反撃の権利を認めるかどうかが論争・政争などになっている。また、「交戦権」の解釈について次の2つの説がある。 (1)戦時国際法では戦争を行ってる国どうしについて戦争当事者として認められている権利があり、それぞれの敵兵を攻撃したり敵国領土を攻撃したりする権利は認められている。この権利のことを、この憲法では「交戦権」と言っているというような説。  (2) 戦争を行う権利そのものを、この憲法では「交戦権」と言っているという説。 第10条 【国民の要件】 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。 第11条 【基本的人権の享有(きょうゆう)】 国民は、すべての基本的人権の享有(きょうゆう)を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。 第12条 【自由・権利の保持の責任とその濫用の禁止】 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用(らんよう)してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。 第13条 【個人の尊重・幸福追求権・公共の福祉】 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。 第14条 【法の下の平等、貴族の禁止、栄典】  第15条 【公務員 選定 罷免権(ひめんけん)、公務員の本質、普通選挙の保障、秘密投票の保障】  第16条 【請願権(せいがんけん)】  第17条 【国および公共団体の賠償(ばいしょう)責任】  何人も(なんびとも)、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償(ばいしょう)を求めることができる。 第18条 【奴隷的拘束(どれいてきこうそく)および苦役(くえき)からの自由】   何人も(なんびとも)、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る(よる)処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。 第19条 【思想および良心の自由】 思想(しそう)及び良心(りょうしん)の自由は、これを侵してはならない。 第20条 【信教の自由】  第21条 【集会結社表現の自由、通信の秘密】  第22条 【居住移転および職業選択の自由、外国移住および国籍離脱の自由】  第23条 【学問の自由】  学問の自由は、これを保障する。 第24条 【家庭生活における個人の尊厳(そんげん)と両性の平等】  第10条 用語解説 要件 必要とされる条件。 日本国民たる要件 これを定めた法律としては国籍法がある。 第11条 基本的人権  享有 生まれながらにして持っていること。 第12条 不断 絶えることのない。「普段」とは意味がちがうので、まちがえないように。 濫用 むやみに用いること。「乱用」とは字が違うので、まちがえないように。 第13条 公共の福祉  第14条 信条  門地 家がら。 華族 大日本帝国憲法下の時代にあった特権的な高い地位である爵位(しゃくい)を持つ人々とその家族。爵位には公爵(こうしゃく)・侯爵(こうしゃく)・伯爵(はくしゃく)・子爵(ししゃく)・男爵(だんしゃく)があった。 第15条 罷免 職をやめさせること。 固有 そのもの自体が、なんらかの性質などをもとから持っていること。 普通選挙 納税額や身分などに関係なく、自国民の大人なら誰でも投票できて、誰もが同じ一票を持つ選挙。 選挙人 選挙権を持つ人。 第16条 何人も(なんびとも) 誰でも。だれであっても。まちがって「なんにんも」とは読まないように注意しよう。 請願 国や地方公共団体等の機関に対して、希望などを申し立てること。 第17条 不法行為  第18条 拘束 捕らえたり監禁したりして、自由には動けないようにすること。 苦役 強制的に労働をさせること。 第19条 思想 政治や社会などについての考えかたや見解。 第20条 信教 宗教を信じること。 信教の自由 どの宗教を信じるかを本人が選ぶ自由。また、宗教を信じないことを選ぶ自由。 祝典 お祝い(おいわい)の儀式。 第21条 結社 人々がなんらかの目的をもった団体をつくること。または、その団体のこと。 検閲 民間による出版物や放送などの内容を、国など公の機関が審査を行い、大衆への発表の前に審査し、発表内容が不適当な内容と認めた場合には発表を禁止すること。 第24条 婚姻 結婚すること。 両性 この憲法の場合、男性と女性のこと。 配偶者 夫婦での、おたがいの結婚相手。夫にとっての妻。妻にとっての夫。 相続 財産を親などから受けつぐこと。 立脚 よって、たつこと。「立脚する」とは「よりどころ にする」というような意味。 第25条 【生存権(せいぞんけん)、国の社会的使命(しめい)】  第26条 【教育を受ける権利、教育の義務】  第27条 【勤労(きんろう)の権利および義務、勤労条件の基準、児童(じどう)酷使(こくし)の禁止】  第28条 【勤労者の団結権(だんけつけん)】  第29条 【財産権(ざいさんけん)】  第30条 【納税(のうぜい)の義務】  国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う。 第31条 【法定の手続(てつづき)の保障】  第32条 【裁判の権利】  第33条 【逮捕(たいほ)の要件】  第34条 【抑留(よくりゅう)・拘禁(こうきん)の要件、不法拘禁に対する保障】  第25条 社会福祉 老人福祉や障害者福祉など、社会的弱者に救済を国が与えること。 社会保障 社会保険や公的扶助などによって、国民の生存権を保障すること。 公衆衛生 国民の健康の維持や向上のため、病気の予防などを行うこと。 第26条 普通教育 専門教育・職業教育ではなく、国民にとって社会生活で必要とされる知識などを教え、国民共通に与える教育。 第27条 酷使 重労働などに、こき使うこと。 第28条 団体交渉 労働組合などの労働者の団体が、経営者など使用者を相手に、労働条件について交渉すること。 団体行動 労働者のストライキなど。 第29条 私有財産 個人または民間の会社など、公共機関でない民間の者が所有している財産。 第33条 現行犯 ちょうど目の前で犯罪を行っている者。または目の前で犯罪を行い終わった者。 司法官憲 司法に関わる公務員のこと。この条文では裁判官のこと。 令状 裁判官が出す警察などへの許可書で、強制的な処分を行うことを認める文書。逮捕状や差押状(さしおさえじょう)などがある。 第34条 抑留 比較的に短い期間、強制的に居場所をとどめおかせること。逮捕にともなう警察署内にある留置場での2日程度の留置など。 拘禁 比較的に長期の間、強制的に居場所をとどめおかせること。刑務所や留置場などで、被疑者や受刑者を、長期間にわたり留めておくこと。 第35条 【住居の不可侵(ふかしん)】  第36条 【拷問(ごうもん)および残虐刑(ざんぎゃくけい)の禁止】  第37条 【刑事被告人の権利】  第35条 押収 裁判所・検察官が、証拠物などを差し押さえたり、被疑者から取り上げて没収し警察署などで保管すること。 第36条 拷問 相手に肉体的苦痛をあたえ、むりやりに情報を出させたり要求にしたがわせること。 第37条 審問 審理のために問いただすこと。 第38条 【自己に不利益な供述(きょうじゅつ)、自白(じはく)の証拠能力】  第39条 【訴求処罰(そきゅう しょばつ)の禁止、一事不再理(いちじ ふさいり)】  第40条 【刑事補償(けいじ ほしょう)】  第38条 自白 自分が犯罪を犯したと供述すること。あるいは、自分の犯した犯罪の内容について供述すること。 第39条 訴求処罰 その法律が定められる前の出来事を、さかのぼって処罰すること。 第41条 【国会の地位・立法権】 国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。 第42条 【両院制】 国会は、衆議院及び参議院の両議院でこれを構成する。 第43条 【両議院の組織・代表】  第44条 【議員および選挙人の資格】  第45条 【衆議院議員の任期】  第46条 【参議院議員の任期】  第47条 【選挙に関する事項】 選挙区、投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は、法律でこれを定める。 第48条 【両議院議員 兼職(けんしょく)の禁止】 何人も、同時に両議院の議員たることはできない。 第49条 【議員の歳費(さいひ)】 両議院の議員は、法律の定めるところにより、国庫から相当額(そうとうがく)の歳費を受ける。 用語解説 第41条 国権 国の権力。国家権力。 第44条 選挙人 選挙権を持つ人。公職選挙法で、選挙権は、20歳以上の日本国民に定められている。 第45条 満了 期間を最後まで終えること。 第46条 改選 議員の任期満了のときに、あらためて選挙を行い、次の任期の議員たちを選ぶこと。 第49条 国庫 国家に属する財産の保管場所。あるいは、その国家財産の持ち主として捉えた国家財政および国家のこと。 歳費 国会議員に国から支給される報酬。 第50条 【議員の不逮捕特権(ふたいほ とっけん)】  第51条 【議員の発言・表決(ひょうけつ)の無責任】 両議院の議員は、議院で行つた演説、討論(とうろん)又は表決(ひょうけつ)について、院外で責任を問はれない。 第52条 【常会(じょうかい)】 国会の常会は、毎年一回これを召集する。 第53条 【臨時会(りんじかい)】  第51条 表決 議会に提出された議案について、賛成または反対の意思を表明すること。 第54条 【衆議院の解散・特別会(とくべつかい)、参議院の緊急集会(きんきゅう しゅうかい)】  第54条 但書 「ただし」や「但し」などをつけて、その直前の文章への例外規定を表す文。 第55条 【資格争訟(そうしょう)の裁判】  第56条 【定足数(ていそくすう)、表決】  第57条 【会議の公開、会議録、表決の記載】  第55条 争訟 訴訟を起こして争うこと。 議席 ここで言う「議席」とは、議員としての資格のこと。 第56条 定足数 議会を開くために必要とされる最小限度の出席者数のことをいう。衆参両院では本条文よりそれぞれ3分の1以上の出席者数が必要であり、委員会の定足数については国会法により「その委員の半数以上」つまり2分の1以上が必要であり、両院協議会は3分の2位上である。  過半数 半分をこえる数。 第57条 秘密会 公開されない会議。非公開の会議。 頒布 広く、多くの人に配って、行きわたらせること。 第58条 【役員の選任、議員規則・懲罰(ちょうばつ)】  第59条 【法律案の議決・衆議院の優越(ゆうえつ)】  第60条 【衆議院の予算先議(よさんせんぎ)、予算議決に関する衆議院の優越】  第61条 【条約(じょうやく)の承認(しょうにん)に関する衆議院の優越】  第58条 懲罰 ここでいう「懲罰」とは、院内の秩序を乱した議員に国会内で制裁を加えること。国会法122条によると議会秩序のために議員に科せる制裁としては、広会議場における戒告・広会議場における陳謝・一定期間の登院停止・除名(議員の資格をなくす。)の4種類の罰がある。最も重い国会による懲罰が除名。一般的な「懲罰」の意味は、こらしめるために罰すること。 除名 議員としての資格を失わせること。国会による懲罰のうち最も重い懲罰が除名。 第60条 予算 一会計年度の、国家または地方公共団体の、歳入と歳出における、見積もり。 第61条 条約  締結 とりきめること。 第62条 【議員の国政調査権(こくせいちょうさけん)】  第63条 【閣僚の議員出席の権利と義務】  第64条 【弾劾裁判所(だんがい さいばんしょ)】  第62条 出頭 本人みずからが、ある場所に出向くこと。 第64条 罷免 ある公務員を、やめさせること。 訴追 この条文でいう「訴追」とは、裁判官の罷免を求めるために弾劾の申し立てをすること。一般的には、訴追とは訴えを起こして、訴訟を進めさせること。 弾劾裁判所 衆参両院議員の各7人からなる。 第65条【行政権(ぎょうせいけん)】 行政権は、内閣に属する。 第66条【内閣の組織、国会に対する連帯(れんたい)責任】 第67条【内閣総理大臣の指名、衆議院の優越(ゆうえつ)】 第68条【国務大臣の任命および罷免】 第69条【内閣不信任決議の効果】 内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない。 第70条【内閣総理大臣の欠缺・新国会の召集と内閣の総辞職】 内閣総理大臣が欠けたとき、又は衆議院議員総選挙の後に初めて国会の召集があったときは、内閣は、総辞職をしなければならない。 第71条【総辞職後の内閣】 前二条の場合には、内閣は、新たに内閣総理大臣が任命されるまで引き続きその職務を行ふ。 第72条【内閣総理大臣の職務】 内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する。 第73条【内閣の職務】 内閣は、他の一般行政事務の外(ほか)、左の事務を行ふ。 第74条【法律・政令(せいれい)の署名(しょめい)】 法律及び政令には、すべて主任の国務大臣が署名し、内閣総理大臣が連署(れんしょ)することを必要とする。 第75条【国務大臣の特典】 国務大臣は、その在任中、内閣総理大臣の同意がなければ、訴追されない。但し、これがため、訴追の権利は害(がい)されない。 用語解説 首長 組織の中で、いちばん、えらい者。 第66条 文民 軍人でない人。この規定にともなって、日本では現役の自衛官は大臣にしないのが、日本では一般である。では、自衛隊を退役した元・自衛官についてはどうあるべきか、諸説ある。つまり、どの範囲までを「軍人」というかに多くの説がある。現憲法では自衛官も人権として参政権を持っており、それとの整合性についても諸説ある。なお、過去の戦後の昭和時代のころの日本においては「文民」と言う場合には「職業軍人の経歴を有しない者」とする説が有力であったが、べつに文民に対応する英語の civilian(シビリアン) には政治家の軍隊経験そのものを禁じるような国際的な定説は無く、たとえばアメリカ合衆国では元・職業軍人のアイゼンハワーが選挙に出て政治家に転職し大統領(第34代)になっているという例もある。 第67条 案件 議案にかけられている事がら(ことがら)。議題にされている事がら。 第68条 任意 法的な制限なく、自由に選択すること。意のままに、まかせること。 第69条 不信任 この条文での不信任とは、国会が内閣を信用せず、その存続をみとめないこと。 総辞職 この条文での総辞職とは、内閣総理大臣および全ての国務大臣が自ら(みすから)職をやめること。一般に「辞職」とは、みずから職をやめること。 第70条 欠缺 欠けていること。この条文見出しでは、欠員のこと。 第73条 総理する 全てを処理・管理すること。 時宜(じぎ)によつては  場合によっては。都合によっては。状況によっては。 掌理(しょうり) 全体を取りまとめて処理・管理すること。 第74条 連署 同一の文書等に複数の者が名を書き連ねること。同一の文書等に複数の者が署名すること。 第76条 【司法権・裁判所、特別裁判所の禁止、裁判官の独立】 第77条 【最高裁判所の規則制定権】 第78条 【裁判官の身分の保障】 第79条 【最高裁判所の裁判官、国民審査(こくみんしんさ)、定年(ていねん)、報酬(ほうしゅう)】 第80条 【下級裁判所の裁判官・任期・定年、報酬(ほうしゅう)】 第81条 【法令審査権と最高裁判所】 用語解説 第76条 特別裁判所 特定の種類の事件をあつかう裁判所であるか、あるいは特定の身分を持つ人についてのみ扱う裁判所であって、さらに司法裁判所の司法権に属さない裁判所。大日本帝国憲法下での行政裁判所や軍法会議、皇室裁判所などのこと。ただし国会が設置する弾劾裁判所は例外である。 (※ 中学の範囲外。大学範囲) なお、海難審判所(かいなんしんぱんしょ)や国税不服審判所(こくぜいふふくしんぱんしょ)などの行政審判所(ぎょうせいしんぱんしょ)は司法裁判所の管理下に属するので、特別裁判所には含めない。本76条の規定通り、行政審判は終審には出来ない。 終審 その裁判について、それ以上は訴えることのできない最終的な審判。 第77条 検察官 犯罪を捜査し、起訴および維持する権限をもつ公務員。 第78条 心身の故障 重い病気など心や体に生じた障害。 第82条 【裁判の公開】 第82条 対審 裁判で、対立している双方の当事者(民事訴訟では原告と被告、刑事訴訟では検察官と被告人・弁護人)が、裁判官の前でそれぞれの主張を述べること。民事訴訟における口頭弁論、刑事訴訟における公判手続などが、これにあたる。 善良の風俗 社会での道徳や、良いとされる習慣など。 虞(おそれ) 心配。 第83条 【財産処理の基本原則】 第84条 【課税(かぜい)】 第85条 【国費の支出および国の債務(さいむ)負担】 第86条 【予算】 第87条 【予備費】 第88条 【皇室財産・皇室の費用】 第89条 【公(おおやけ)の財産の支出または利用の制限】 第90条 【決算検査、会計検査院(かいけい けんさいん)】 第91条 【財政状況の報告】 内閣は、国会及び国民に対し、定期に、少くとも毎年一回、国の財政状況について報告しなければならない。 用語解説 第84条 租税 いわゆる税金のこと。 第85条 債務 この条文では、たとえば借金での返す義務のように、将来にお金を払う義務のこと。 第88条 計上 予算の中に、ふくませること。 第89条 公金 国や地方公共団体のお金。 便益 便利なこと。利益になること。 第90条 会計検査院 国家機関の一つで、国の収入支出の決算を検査する。 第92条 【地方自治の基本原則】 第93条 【地方公共団体の機関、その直接選挙】 第94条 【地方公共団体の権能】 第95条 【特別法(とくべつほう)の住民投票】 用語解説 第92条 本旨 あるべき姿(すがた)。ありかた。 第93条 吏員 地方公務員など。 第95条 特別法 ここでいう特別法とは、特定の地域のみに適用される法。例としては、広島平和記念都市建設法(昭和24年法律第219号)、長崎国際文化都市建設法(昭和24年法律第220号)、横浜国際港都建設法(昭和25年法律第248号)などの国際港都建設法(横浜・神戸)、京都国際文化観光都市建設法 (昭和25年法律第251号)などの国際文化観光都市建設法(京都・奈良・松江)などがある。 第96条 【改正の手続、その公布】 用語解説 第96条 発議 議案を提出すること。 第97条 【基本的人権の本質】 第98条 【最高法規、条約および国際法規の遵守】 第99条 【憲法尊重(そんちょう)擁護(ようご)の義務】 用語解説 第98条 条規 条文に書かれている規則・規定。 第99条 擁護 まもること。かばうこと。 第100条 【憲法施行期日、準備手続】 第101条 【経過規定 ー 参議院未成立の間の国会】 第102条 【同前 ー 第1期の参議院議員の任期】 第103条 【同前 ー 公務員の地位】 用語解説 第100条 起算 数え始めること。 施行 法令の効力を実際に発生させること。
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法律や公務員だけでは社会は動かず、民間の会社で労働をする多くの人たちによって、社会は支えられています。 職業の種類は、とても多いので、すべてを個別に解説はできません。 ところで、どのような買い物にも、お金が、かかります。物を買ったりサービスを受けたいするのにも、お金を払う必要があります。 なので、お金の流れを見ることで、社会での労働のしくみを、つかみやすくなります。また、労働を『お金の流れ』で表すことによって、計算できるようになりますし、大きさをくらべたりすることも出来るようになります。 ボランティアや家の手伝いなど、お金をやりとりしない労働もあります。ですが中学公民の経済分野では、とりあえずは、計算しやすさという理由で、お金のやりとりで表される労働を中心に考えていきます。 また、公民の「経済」(けいざい)の分野では、特定の職業にかぎらず、すべての労働に共通する仕組みについて、全体的に考えていきます。 お金も、特定の職業に限られずに、すべての職業で用いられているので、お金のやりとりの分析をすることで、特定の職業にかぎらずに通用する分析ができそうですね。 では、お金と労働との関係について、いろいろと学んでいきましょう。 まず、企業などが商品を製造し販売しているとき、その企業を、商品の 生産者(せいさんしゃ、英:producer プロデューサー) と見なします。そして商品を買う個人を、その商品の 消費者(しょうひしゃ,英: Consumer コンシューマー) と見なします。 ここで言う生産は、なにも食料品や自動車などの工業製品のような具体的な形のあるものだけに限らず、鉄道会社などが交通機関を提供したりなどの有料のサービスの労働も生産と見なすのが、経済学では普通です。なので、電車やバスやタクシーで、有料で人を運んだりすることもサービスの提供なので「生産」です[1] [2] [3] [4] 。 医者などが病院で医療行為をするのもサービスの提供なので[5] [6] [7] [8] [9] 「生産」と見なします。 世間一般でいう「サービス」や「生産」の意味と、経済学で言う「サービス」や生産の意味は違うので、アタマのすみに置いておいてください(中学生には、医療が「生産」や「サービス」かどうかとか、電車が生産が「生産」や「サービス」かどうかとかは、あまり重要ではないので、無理に分類を暗記しなくていい。実際、東京書籍はこの話題を扱っていない)。 日本の社会と世界』(平成25年2月25日検定版、96ページ)では、病院で治療を受けることも「サービス」とみなすとある。また、高校教科書「高等学校 新政治経済 最新版」(清水書院、平成25年3月26日 検定版、76ページ)によると、商品(正確には財)やサービスを作り出すことを「生産」という。よって医療行為も「生産」に分類される。中学教科書だけでなく、高校の検定教科書の出している山川出版でも同様、医療も「サービス」に含めている。 こう考えると、仕事をして お金をかせぐことは、「生産」と見なせそうです。こうして、まとめて生産という言葉で表すことで、いろんな職業の労働をまとめて分析できます。 公民では、労働を生産(せいさん、production[10] プロダクション)活動と捉えることで、私たちがその労働の成果に金をはらうことを消費(しょうひ、consumption[11] コンサンプション)と考え、生産と消費の関係を考えていくことで、社会における労働全体のしくみを考えていくことで、労働に対する理解をふかめます。 消費者は、生産者のつくった商品などの成果を買って消費します。生産者のつくった商品などのことを 財(ざい、英:goods グッズ) といいます。消費者は財を消費します。消費者が購入して使うだけの、ふつうの商品などの財を消費財(しょうひざい、consumer goods[12])という。財の中には、食料品のように、買ってからすぐに使用して無くなるものもあれば、家具や家電製品などのように長く残る物もある。家具などのように長期間つかう財のことを 耐久消費財(たいきゅう しょうひざい、英:durable goods デュラブル・グッズ)と言う。 一家の経済生活のやりくりのすべてを総称して 家計(かけい、households[13]) と言う。父母の月々の収入や貯蓄から、家族の1ヵ月の生活のもろもろの支出(ししゅつ)・ローンの支払いなどを差し引きしたものである。 経済学においては、消費側の最小単位として、個人の消費者ではなく世帯ごとで考えた家計(かけい)という言葉を用いる。これは、家賃や光熱費など家族に共通の支出があるなど、家計の支出や貯蓄、投資などの決定が、個々の世帯員単位ではなく世帯単位で行われると考えられるからである。 たいていの家庭では、収入の一部を将来にそなえて取っておく。つまり貯金をしている。この収入を取っておくことや、取っておいた収入のことを 貯蓄(ちょちく、英:saving) という。貯蓄を、病気など不慮(ふりょ)の出来事の対応などに当てたりしています。 貯蓄のお金の保管方法としては、銀行や信用金庫などにお金を預ける方法が普通であり、自宅でお金の多くを保管する家庭は少ない。 自宅には生活費などで必要な分だけを置いて、それ以上の大金は銀行などで保管してもらうのが一般的である。 エンゲル係数(エンゲルけいすう、英:Engel's coefficient エンゴルズ・コウフィシエント)とは、その世帯の消費支出のうち、どれだけ食費に回しているかを示す目安です。 収入が少ない世帯でも、生きていくためには食べ物が必要ですから、収入が少なくても食費は下がらないのが普通です。 一方、収入が増えれば増えるほど、人は食費以外のものにお金を使うようになる傾向があります。つまり、収入が少ない人ほど、食費にお金をかけてしまいます。この傾向を エンゲルの法則(英:Engel's law) といいます。 したがって、収入が低い時はエンゲル係数は高く、収入が高い時はエンゲル係数は低くなります。 ほとんどの場合、商売を行いたい人(経営者)は、その商売を運営するための組織(企業)をつくります。ここでは、企業についてみていきましょう。企業とは、次のような条件を満たした組織を指します。 商売を行いたい人(経営者)が、銀行や証券会社から必要なお金を借りて、工場や店舗などの設備を整えます。その上で、原材料や完成品を仕入れつつ、労働者(従業員)を雇って、経営します。[15] (>_<) 企業の定義は絶対に覚えてください。定義を覚えないと、この後の説明が分かりません。 では、そもそも企業は、なぜ、生産をするのでしょうか? 企業が生産をするのは、お金を儲けたいからです。例えば、製造業では、作った製品を売ってお金を稼ぎます。物を売って儲けたお金は「売上」(sales セールス)とよばれます。 普通、会社がいくら儲かっても、社長とサラリーマンは同じ給料を貰います。社長や社員は、売り上げたお金の全額を貰えません。何故なら、会社を運営するために、建物を守るために、原材料を買うためにも、お金は必要です。それだけではなく、将来への費用もかかります。したがって、多くの企業は売上の大半を会社の貯金箱に入れ、将来の仕事のための費用としています。 従業員は、会社から給料をもらうことで、お金を稼げます。こうして従業員は 収入(しゅうにゅう、英:income インカム) を得られます。 このような、仕事をするために、かかってしまうお金のことを「費用」(ひよう、英:cost コスト)とか「経費」(けいひ)とかと言います。 商品の売り上げは、材料費などの経費よりも大きくないと、仕事をしても儲からなくなり、その会社は損をしてしまいます。 なので、売り上げから経費を引いた金額が、儲けにあたり、大事です。売り上げから経費を差し引いた利益のぶんの金額のことを 利潤(りじゅん、英:profit プロフィート) と言います。 つまり、式で利潤を表せば、 です。 企業は、もし利潤が稼げないと、経費を払えなくなってしまい、だから原材料なども買えなくなってしまい、その仕事を続けられなくなります。 利潤が大きければ大きいほど、これからも安心して仕事をつづけやすいので、なので、ふつう、どの企業でも、利潤を大きくすることが、その会社の目標になります。 企業には、利潤の追求の他にも、法律などを守ったりなどの社会的責任も要求されますが、まずは法律の認める範囲内で利潤を確保しないと企業は存続できませんので、ほとんどの企業は利潤の追求を目標にします。 これらの説明は、会社から見た立場です。会社の社長などから見た立場です。 従業員の立場で見ましょう。 従業員は、かせいだ給料(きゅうりょう)で物を買えます。 給料などのように、労働をして、収入として得た金額のことを所得(しょとく、英:income [16])と言います。中学校の場合では、「 収入 = 所得 」と捉えて問題ないです。税金なども払い終わっており、自由に使えるぶんのお金のことが所得だと思って問題ないでしょう。 いわゆる「サラリーマン」などの、ふつうの労働者は、勤労所得でお金をかせぐことが多いでしょう。 なお、株式会社(かぶしき かいしゃ)の社長の給料の所得は、ふつうは勤労所得として扱います。株式会社の持ち主は、株主であって、必ずしも社長は自社の株(かぶ)を多く持つ大株主(おおかぶぬし)とは限らないからです。個人業主の収入は給料(きゅうりょう)では、ありません。給料というのは、事業主が部下に与える報酬(ほうしゅう)であり、事業主本人は部下では無いからです。個人事業の収入から経費や税金などを引いた所得が、そのまま、事業主の所得になります。 なお小さな商店などで、実質的には自営業であっても、税金などの扱いの差の理由から、株式会社として設立される場合があります。 収入から税金と社会保険料など支出する義務のある分を差し引いた残りの金額のことを 可処分所得(かしょぶん しょとく、英:disposable income ディスポーザボル・インカーム) と言います。 単に「所得」や「収入」と言っただけの場合、税金などが引かれた残りの金額のことなのかどうかがハッキリしないので、税金などを引いた残りの所得額だとハッキリさせる場合に「可処分所得」という言葉を用います。 つまり可処分所得とは、実際に所得者が使える金額のことです。 現代の産業では、一つの生産者が全ての財を自分で作ることは、ほとんどの産業では無理であり、生産者もまた、他の生産者が作った原材料や生産設備などの財を元にして、その財を用いて商品を生産している。この生産設備や原材料などを 資本財(しほんざい、英:capital goods キャピタル・グッズ) と言う。機械設備などのように、長期間、残り続ける資本財のことを 固定資本(こてい しほん、英:fixed capital フィックスド・キャピタル) という。原材料や労働力などは固定資本では無い。 生産活動には設備のほかにも、従業員や労働者などの労働力(ろうどうりょく)が必要であり、さらに工場や店などを建てるための土地などの自然(しぜん)が必要である。 これら、設備・労働力・土地などの生産に必要な財をまとめて生産財(せいさんざい、英:production goods[18])という。 生産財の内、とくに設備・労働力・土地の3つを「生産の3要素」などと言う。生産には、これ以外にも技術や特許や専門知識・ノウハウなどの 知的財産(ちてき ざいさん、英: intellectual property インテレクチュアル・プロパティー) が必要な場合もある。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E7%B5%8C%E6%B8%88%E6%B4%BB%E5%8B%95%E3%81%A8%E3%81%AF
多くの企業は、民間の人が経営しており、このように民間が経営している企業のことを私企業(しきぎょう)と言います。私企業とは別に、国や地方公共団体が資金を出して経営している企業のことを公企業(こうきぎょう)と言います。市営バスの経営は公企業です。放送局の公共放送のNHKも公企業でしょう。 ある会社の中で最高の権力を持っている人は、「大株主」(おおかぶぬし)や「筆頭株主」(ひっとうかぶぬし)と言われる人たちです。会社内での最高の権力者は、その会社の発行(はっこう)している「株式」(かぶしき)を持っている「株主」(かぶぬし)という人たちの中で、その会社が発行している株式のうちの半分以上の株を持っている人たちです。 なぜなら、いわゆる「社長」(しゃちょう)を選ぶ会議が、株主総会(かぶぬし そうかい)であり、その総会で、ある株主が投票できる票の数は、その株主の所有する株式の数に比例するからです。 そもそも株の売買とは、その会社の株式総会での、議決(ぎけつ)の権利(けんり)を売買しているのです。 ある株式会社(かぶしき がいしゃ)で、その会社を所有(しょゆう)しているのは、その会社の株券(かぶけん、stock certificate ストック・サーティフィケイト)を購入して保有している 株主(かぶぬし、英:shareholder シェア・ホウルダ)たち です。 経営者は、会社の持ち主では、ありません。いわゆる「社長」(しゃちょう)は、会社の持ち主では、ありません。同様に、会社は従業員の持ち物でも、ありません。 ある会社の所有と、その会社の経営や業務を行っている人たちは、かならずしも同じ人たちとは、かぎりません。 株主は、お金を払って、その会社を経営する権利を買っているのです。「社長」とは、株主から頼まれて代理に会社を経営する人です。大株主が自分を社長にする場合もあります。 いっぽう、会社の側が、なぜ株式を発行して売るのかというと、会社が資金調達(しきん ちょうたつ)をするためです。たとえば中小企業の経営者が自費を払って会社に5000万円の資本金を増やすときは、たとえば1口 5万円 の株式を1000口ほど発行して、それを経営者が自費で1000口を購入する、などの行動を取ります。 ※ 「資本金」の法律的な正確な意味は何か、という問いについては、中学高校の範囲を大幅に超えるので、説明を省略。とりあえず中学範囲では、「資本金」とは、会社の元手のお金、と思っておいても構わない。 なお、株式発行の他にも資金調達の方法はあります。株式発行は、資金調達の手段のうちの一つに過ぎません。ある企業が、生産活動の元手(もとで)のために預金しているお金のことを 「資金」(しきん) などといい、資金にくわえて機械や設備などの生産活動に使える会社の物を合わせて 資本(しほん、英: capital キャピタル) と言います。株式の公開は、資金を調達するための手段の一つです。資本とは、会社の持っている貯金や資産の中から、借金を返すために必要なお金などのように自由には使えない分のお金を差し引いて、残りの生産活動のために自由に使えるぶんのお金が資金です。 この「資本」という言葉をもって、私たち日本をはじめとする日本やアメリカなどの市場経済のような、原則的に企業の存在を認めて企業の自由な経営を認める市場経済を理想とする考えのことを 資本主義(しほん しゅぎ、英:capitalism キャピタリズム) と言います。 さて、株式会社では、有力な株主たちが経営者を決め、そして経営者が決める経営権の中には、会社の保有する資産(しさん、英:asset アセット)を、どう扱うかということを決める権利もありますので、したがって会社の持ち主は、実質的には株主ということになります。「社長を誰にするか?」ということを決めるのも、株主たちの決める権限です。 社長(しゃちょう)とは、株主から、代理人として経営を任されただけの役員(やくいん)に、すぎません。 従業員を、どれだけ雇うのか、どう雇うのか、そもそも従業員を雇う必要があるか、ということを決めるのも株主の権限か、あるいは株主から選ばれた経営者が決める権限です。 株主の人数は、一人とは限りません。ある会社の、多くの株主の中で、大きな割合で株を保有している人のことを 「大株主」(おお かぶぬし、英:major shareholder など) と言います。ある会社の株主の中で、その会社の株式を最も多く保有している株主を 「筆頭株主」(ひっとう かぶぬし、英:largest stockholder など) と言います。 ある社長が、その会社の大株主や筆頭株主でもある場合、いっぱんに「オーナー社長」と言われます。大株主でもなく筆頭株主でもなく、株主から社長職だけが与えられた社長の場合は「サラリーマン社長」とか「雇われ社長」(やとわれ しゃちょう)と言われます。 つまり、企業の所有と、経営や業務を行っている人たちは、かならずしも同じ人たちとは、かぎりません。 このように、株主が必ずしも経営者とは限らないという仕組みのことを「所有と経営の分離」と言います(※ この語は高校の範囲)。 株主総会において、株主の意思を反映する「取締役」が通常は複数選任されます。株主総会での投票権は、一人一票ではなく、所有する株式数に比例して株主に投票権が与えられます。取締役という役職は、あくまでも会社が出資者の利益のために経営をしているかを監視するための役職であり、取締役個人の権能として会社を代表して取引を行ったり、従業員を雇ったりすることは一般にはありませし、できません。取締役が複数選任される場合(こちらが一般的)、取締役会が組織され取締役は個人としてではなく、取締役会の決議として意思を表明します。 会社を代表して取引を行ったり、従業員を雇うことのできる権能を「代表権」といいます。「代表権」は個人の権能として行使されることに注意してください。株式会社の場合、この代表権を誰に与えるかは取締役(取締役会)の決定によります。代表権を与えられた相手が取締役である場合、代表取締役と言います。代表権の行使は会社の意思表明そのものですから、代表権を持つ人は「社長」と呼ばれる例が多いのですが、代表権を与える人数に制限はないため、代表権を持った「副社長」や「取締役会会長(一般には「会長」と略します)」がいる場合もあります。なお、取締役(取締役会)は「執行役」という役職を取締役またはそれ以外から選任することができ、執行役に代表権を与えることもできます。 会社法などに定められた会社の登記(とうき)などでは、代表取締役をかならず選任することが義務づけられています。このため、裁判などでも、その会社で「代表取締役」や「社長」などの肩書きをもつ人物が外部に対して行った取引などは、普通は取り消しできずに有効な取引として守らなければならないのが普通です(やや違うが「表見代理」という法律用語(民法学など)がこの解釈に近い)。なので、株主総会での社長の選任も、株主は慎重に行う必要があります。 「表権代理」とは、会社経営に限らない用語ですが、代理権を与えてない人物(無権代理人)にあたかも代理人としての肩書きなどを与えていた場合、裁判などでは、事情を知らない取引相手の利益を保護するために、その無権代理人の代理行為が法的に有効になってしまうことがあることです。民法110条あたりに、表見代理の規定があります。 だから代表取締役などの「社長」などの肩書きであっても、表見代理の考え方により、外部に対して行った取引では、「社長」の行った取引は裁判では有効とさることもあります。 また、規模の小さい小企業では、いちいち筆頭株主が社長を監視するのは面倒ですので、筆頭株主がそのまま代表取締役になるオーナー社長型の経営もよくあります。 さらに発展的な話をしましょう。会社が借金をしたさいの「借金のカタとして会社のものを差し押さえてもいい」という権利をもつ「抵当権」(ていとうけん)の話です。 上記の話を一見すると、会社は誰の所有物かと言うと、あたかも筆頭株主の所有物かのように見えます。実際、そうである実態の場合もあるのですが、しかし実はこれにも抜け穴があります。 その抜け穴のひとつが抵当権(ていとうけん)です。「抵当権」(ていとうけん)とは、おおむね、会社が借金をしたさいの「借金のカタとして会社の資産を優先的に差し押さえてもいい」という権利のことです。 抵当権で、カネを貸すのは通常、外部の人です。そして、時代にもよりますが、基本的に日本国の経済政策では、会社にカネを貸す人の権利を保護するための制度を用意しており、少なくとも2010年台では、会社が借金を払えなくなった場合、カネを貸していた人のうちでさらに「抵当権」をもつ権利者は、かなり強力な権利をもっており、抵当にいれられている会社資産を競売などにおいて、ほかの債権者に優先して所有することができます。 よく銀行などが、カネを貸している会社の土地や設備などを抵当に入れている場合があります。 そう、これらの情報を組み合わせるとわかるのですが、つまり、たとえば証券取引でもし大赤字・倒産寸前の上場企業の株を購入しても、どうせ銀行などが会社資産を抵当に押さえているので、その上場企業の株を購入した株主にはなんの得もありません(例外として、会社が倒産前に業績復活して株価が値上がりしないかぎりは)。なぜなら、会社が倒産した際、その設備などの資産の行き先は、株主ではなく抵当権をもつ銀行などの機関だから、です。 株主総会(かぶぬし そうかい、英:general meeting ジェネラル・ミーティング)とは、株主たちが定期的に集まって、会社の経営方針について話し合う会議です。 株主総会ではない場所で、その会社の株主以外である従業員や社長などが、その会社の仕事として会社の経営方針について話し合う会議をするのは可能です。ですが、その社長に誰を選ぶかを決める会議が株主総会です。なので、結局、株主総会が会社の経営について話し合う会議の中で、最高の権力を持った会議になります。 それぞれの株主の議決権(ぎけつけん)の大きさは、1株につき1票です。たとえば1000株の株主は1000票を持ち、3000株を持つ株主は3000票です。持ち株(もちかぶ、英:holdings)の株式数(かぶしきすう)に応じた議決権を持ちます。人数の多数決は、議決とは直接の関係がありません。 つまり、会社の経営に口を出したいなら、あらかじめお金を出資して株式を購入する必要があります。株主総会では、金(かね)を出さないくせに口を出すことなんて、出来ません。こういう株式数のみに応じて議決権の大きさが決まる仕組みがあることで、株式の出資者は、出資者以外からの不当な干渉を防ぐことが出来ます。 株主総会では、会社の今後の経営方針や、取締役(とりしまりやく)たちや監査役(かんさやく)などの役員が決められます。取締役会とは、株主総会で株主から経営を任された人たちによる会議です。 ニュースなどで、東京証券取引所などの 証券取引所(しょうけん とりひきじょ、英: Stock exchange) で取引される株式会社の 株価(かぶか) についてのニュースなどを見たことのある人も多いでしょう。 ある会社が規模が大きく、業績も とても良い会社は、証券会社での株の売り出しが認められます。証券取引所に株の売り出しを登録することを 上場(じょうじょう、英:Initial public offering 、略:IPO ) といいます。上場した会社は、資金調達の手段として、証券市場による株の売買を利用します。証券市場から調達する必要のない会社の場合、上場できるほどの業績を持っていても、上場しない場合もあります。 かならずしも、会社は、証券市場などに上場しているとは、限りません。 むしろ、日本にある多くの中小企業は、証券市場には上場していません。上場している会社は、ごく一部の大企業です。 株取引(英:stock trading など)の投資家は、証券市場で、上場している会社の株を買うことが出来ます。株主は、株を持ち続ける義務はなく、株を売ることも出来ます。また、株を買える人は、原則的に大人なら、金さえ出せば、誰でも株を買うことが出来ます。たとえば、日本人でなくても日本の会社の株は買えます。 上場している会社の株価(かぶか、英:share price)は、つねに変わります。一定の価格では、ありません。普通は、業績の良い企業の株価が上がります。原則的に株取引は、株を売りたい人と買いたい人との条件が合えば取引が成立するので、買いたい人たちの1株あたりに払ってもいいと考える金額と、株を売りたい株主たちが希望する売り値とで、株価は決まります。なので、ある会社の株が高くても、その会社の株を買いたいという人が多ければ、その会社の株価が高くなります。つまり需要と供給で決まります。 ある会社の株が値上がりしそうだと株の投資家が思ったとき、投資家は その株が安い時に購入して、高くなった時に売り払えれば、その投資家は、もうけることが出来ます。これを「利ざや」(英: margin または profit)と言います。 投資家が値上がりしそうだと思っても、かならずしも予想通りに値上がりするとは限りません。買った株の株価が値下がりする場合もあります。値下がりした場合でも売ることは出来ますが、売っても儲け(もうけ)が出ません。 このように、株を買うことには、「株価が下がるかもしれない」というリスクもあります。 東京証券取引所などの証券取引所と、たとえば野村證券(のむらしょうけん)や大和証券(だいわしょうけん)などの証券会社とは、別の会社です。証券会社は、単なる仲介業者です。証券取引所と、株の購入者との間を仲介します。一般の株式購入者は、証券取引所からの直接の購入は出きません。上場企業の株を購入したい場合は、証券会社を通して、証券取引所から購入する必要があります。 現代の株券は、電子的に管理されています。紙による株券の管理は廃止されました。日本の証券取引所は、東京や大阪など、合わせて日本には6ヶ所、あります。 株主に、会社の利潤の中から、利益が支給される場合があります。そのような株主への利益支給を 配当(はいとう、英:dividend ディビデンド) と言います。 このような配当を支給するかどうかを決めるのも、株主の権限です。 配当は義務ではありません。たとえば上場してない中小企業などで、株主が社長の一人だけという場合は、配当を支払う必要がないので、配当は行われないことが、ふつうです。 会社が倒産(とうさん)しても、株主の保有する、その会社の株式の資産価値が無くなりゼロになるだけであり、株主は それ以上の責任は 負いません。このような出資額を失うリスクを超えた責任を、投資家が負わないようにしている仕組みを 有限責任(ゆうげん せきにん、英:limited liability リミテッド・ライアビリティー) といいます。 こうすることで、出資者は、出資額以上のリスクは負うことがなくなるので、安心して出資できるようになります。また、会社側は、出資者を安心させることで、出資者を増やすことができるので、株式公開による資金調達で安定して資金調達をすることが出来ます。 会社の資金調達の方法は、なにも株式の発行により出資者をつのるだけには限りません。銀行から金を借りるという 借り入れ(かりいれ) の方法もあるし、社債(しゃさい、英: corporate bond)と言って社債の出資者から金を借りる債権を発行する方法もあります。 上場したばかりの企業をのぞけば、会社の資金調達は、むしろ銀行から借りるのが一般でしょう。そもそも、ふつう銀行がどのようにしてお金を儲け(もうけ)ているかというと、会社に金を貸して利息で儲けているのです。 企業の活動が、もし株主だけに貢献するだけで、消費者や社会全体に害を与える活動をしていれば、その企業は社会や消費者から反発され存続が難しくなります。 このため、企業は自社が社会に与える影響を自覚し、適切に行動する必要があります。少なくとも企業は法令を順守する必要があります。また環境になるべく負荷を与えない活動をする必要があります。 そして、株主や投資家に対しても、もちろん収益に関する情報開示など、適切な情報についての説明責任を企業は果たす必要があります。 企業の負う法令順守の義務に加え、上述のような社会に害を与えないといった類の責任のことを 企業の社会的責任 といいます。 ※ 本来:(※ 範囲外: )の意味では「社会的責任」とは下記コラムで述べるように「法的責任」に対比させたものだった。しかし現代では慣用的に企業の守るべき法的責任も含んで「企業の社会的責任」という場合も多い[1]。 また、1970年代の石油危機のさいにも、企業の便乗値上げや買占め・売り惜しみなどを批判する声として、公害や石油危機のこういった企業への批判として、たとい法的責任は問えなくても社会的責任を企業に要求すべきだというような文脈で用いられた表現です。 しかも前述の「メセナ」については、商業高校のその検定教科書では章「企業のマーケティング活動」の節「マーケティングの考え方」で紹介するほどの、徹底ぶりです[6]。 商業高校教科書では言及していませんが、この用語「社会的責任」の内容も、法律を守るのはもちろん、たとえ合法であっても反倫理的な脱法行為を企業が行わないようにするために「透明性の確保」(transparency トランスペアレンシー)や「説明責任」(accountability アカウンタビリティ)なども加えて企業に要求することで「持続可能な発展」に寄与させることが social responsibility です[7]。なので、まったくメセナとは意味が違います。 よって『企業の社会的責任』は、利益を目的としない慈善事業(いわゆる寄付、フィランソロピー、メセナ)とは異なります。 メセナとは、音楽コンクールなどの開催の支援をしたりなどの文化的活動だが、メセナ(フランス語:mécénat)はべつに社会的責任を果たすことではありません。そもそも特定の芸能活動を社会的責任と考えることは、その他の文化活動からすれば不公平であり、音楽コンクールの開催などは、単なる宣伝活動です。 寄附行為は、べつに社会的責任を果たすことではありません。企業は既に税金を払っており、国は税金を払わせる以上の金銭の徴収の義務を企業に負わせてはいけません。 企業は、短期的には利益だけを追求して活動しますので、なんの用心もしてないと、ともすれば企業は、長期的に企業活動を見た場合に、企業が公害やその他なんらかの人権侵害、あるいは詐欺的な行為などといった社会問題などを引きおこしたりして、社会に害をおよぼす自体にも、なってしまう場合がありかねません。 そのような害のある事態を起こさないようにするために、持続可能性のある企業活動をしやすいような制度や経済システムをつくろうという取り組みが、本来の社会的責任の意味です。欧州委員会はすでに2002年の時点で「CSR: 持続可能な発展への企業の貢献」という題名の報告書を出しています[11]。 2020年の現在、『SDGs』というフレーズで持続可能性(サスティナビリティ)の重要性がうたわれていますが、なにも最近に始まった事ではなく、企業に限定すれば、すでにCSRの一部として行われてきた活動にすぎません。 それと関係がるかどうか分かりませんが、商業高校の教科書『ビジネス・コミュニケーション』でも、CSRとSGCsを関連づけて説明しているものもあります[12]。 さてCSRの歴史の話に戻ると、欧米の国際企業の中には、かつて1980年代、生産費を安くするために、海外の工場では、先進国の労働基準法には違反しているような、強制労働のような環境で低賃金の労働をさせたり、あるいは移民を呼び寄せてパスポートを取り上げて、強制労働をさせていたという人身売買のような事例があり、世界的に問題視されました。そのような問題のある強制労働を規制しようというのも、『企業の社会的責任』(CSR)の文脈でよく語られます[13]。このように、音楽コンサート開催や自前の美術館を持つ事とは、CSRはまったく意味が異なります。 1990年代には、途上国の労働現場での児童労働が問題視されました。服飾メーカーやスポーツ用品メーカーが、そのような児童労働でマスメディアなどから批判されました[14][15]。先進国の多国籍企業は、発展途上国に生産を委託していることも多いので、こういった児童労働を防ぐことに協力することも、『企業の社会的責任』の範囲になります[16][17]。 そのほか、違法な労働で生産されたものを輸入しない、不当に安い賃金で働かせて生産されたものを輸入しないという、といったフェアトレード(直訳すると「公平な fair 取引 trade」)も、広い意味では『企業の社会的責任』のための活動のひとつと言えるでしょう[18][19]。 サッカーのワールドカップでも2002年以降、児童労働によって生産されていないことを保証した「フェアトレード」のラベルのついたサッカーボールを使用しています[20]。 なお児童労働に関する国際社会の規制についてては、2020年の現在では、とっくに法的にも禁止されており、すでに西暦2000年の段階でOECD理事会が多国籍企業ガイドラインとして児童労働などを禁止しています[21]。そのほか、環境保護や、贈収賄の禁止などが、OECDの多国籍企業ガイドラインで定められています[22]。 このように、当初は(法的責任ではないが社会的には責任があるという意味で)『企業の社会的責任』と言われていた規範でも、のちにそれが国際的な規制として国際機関や先進諸国に採択される場合もあります。 ほか、SA 8000 という国際認証規格が、児童労働や強制労働の禁止などを定めている[23][24]。SA 8000 ではILO(国際労働委員)や国連人権条約などに準拠して、具体的に労働の倫理を制定しています。 製造業でも、電子機器に、有害物質(鉛(なまり)やカドミウム、水銀、六価クロムなど)を原則として出来る限り使わないとするRoHS規制(ローズきせい)が現代では制定されています。このRoHS規制もよく『企業の社会的責任』の文脈でも議論されます[25][26]。 そもそも、日本では明治期や大正期から、大企業が病院建設や学校建設などの寄付をするというフィランソロピーの事例はありましたが[27]、しかし公害などは明治・大正・昭和中期までの時代は放置される傾向だった歴史があるので、フィランソロピーを社会的責任の文脈で述べるのは、やや問題があるでしょう。 その他、21世紀以降の日本では、たとえば株式総会での総会屋(そうかいや)の排除など、暴力団やそのフロント企業が類似組織といった反社会的組織(「反社」などと略称されます)による干渉を、企業活動から排除することも、「企業の社会的責任」の一貫として求められおり、たとえば平成19年に政府官邸の犯罪対策閣僚会議幹事会がそのような声明文(『企業が反社会的勢力による被害を防止するための指針について』)を出しています[28]。 現在の日本では暴力団との売買について、スーパーマーケットやコンビニなどの小売店が最低限の生活物資を販売する事以外は、原則として暴力団とは売買や取引をしてはいけないのです。なお、冠婚葬祭のために式場を暴力団に貸し出すのが認められるなど、若干の例外もあります。 また、このような暴力団排除として規制される対象の団体は、けっして明示的に暴力団や「○○組」などと自称公開している団体だけではなく、表面的には人権活動家のフリをして暴力団的行為を行う「エセ同和団体」や、右翼思想団体のフリをして暴力団的行為を行う「エセ右翼」といった、「エセ社会活動家」(政府官邸がそう表記しています)もまた、暴力団と同様に規制や監視などの対象になる事を、日本政府官邸がすでに平成19年に声明を出してます[29]。 なお、暴力団対処の行政活動は、法律(暴力団対策法)だけでなく、都道府県の条令もまた重要です。日本のすべての都道府県に、暴力団対策の条例があります。慣習的に、東京都で他県に先行して条例が制定され、他県が東京都をまねた条例を制定する傾向があります。 その他、議論になっていることとして、政治的に過激な学生団体をどう扱うかという問題で、暴対法の類推解釈が可能なのではないか[30]という意見もあれば、そういう類推解釈を批判する意見もあります。 過去の日本では、「連合赤軍」という、学生団体との密接なかかわりのあるテロ団体が、テロ事件を起こした事例があります(「浅間山荘(あさま さんそう)事件」など、他)。 高校の社会科で習う憲法裁判の事例で、「三菱樹脂(みつびし じゅし)事件」という昭和時代の1960~1970年代の裁判があり、この三菱樹脂事件とは、大学時代に学生運動団体に過去に関わっていた人が、企業(三菱樹脂)への就職活動の際に過去の経歴のことで内定取り消しにあったということで裁判を起こしたという裁判事例があります。なお昭和の当時はまだ暴対法は制定されていなかったので(暴対法の制定は1991年であり、平成3年)、当時の裁判では暴力団規制との関連の議論はされませんでした。 しかし、暴対法のある21世紀の現代は違います。 この三菱樹脂事件は憲法学ではよく憲法問題として扱われ、憲法「思想信条の自由」との問題で、高校レベルぐらいの教科書や参考書などでもそう紹介されるのですが、さらに21世紀の現代では暴対法との関連も気になるところでしょう。 さて、法学的な分析テクニックとして、昨今のテロ問題を議論する際は、けっして破防法(破壊活動防止法)やテロ団体規正法ばかりに注目するのではなく、暴対法(暴力団対策法)もにまた注目するというテクニックも参考にしたいところです。破防法やテロ団体規正法などは、これは警察や公安委員会が団体監視をするために従う刑事的な法律なのであって、けっして民間企業のテロ団体への売買の規制するという民事的な規定をしたものではないからです。 テロ団体やテロ疑惑団体の規制などのアイデアについて考える際、過去のマスコミでの議論の経緯から往々にして破防法ばかりを考えてしまいガチですが、しかし実務的には暴対法もまた考慮する必要があるのです。 なんでメセナに批判的なことをWikibooksでわざわざ書いてるかというと、じつは日本では困ったことに、企業の中には、従業員への残業代の賃金(ちんぎん)の不払いなどの違法行為を行ってる企業(いわゆる「ブラック企業」)であるにもかかわらず、その企業が「ボランティア活動」としてカンボジアなどの東南アジア諸国やアフリカ諸国などの民衆などにボランティアなどを行ったり、あるいはメセナ的な活動などを行ったりすることで、さぞかし、その違法企業が社会貢献をしてるかのような立派な企業であるかのようにみせかけるという、違法であり迷惑な企業が存在しているのである。[要出典] もちろん、そのボランティア活動やメセナ活動などの財源は、残業代不払いなどの違法行為によって、不当に稼いだカネを資金源にしてる、というカラクリなわけだ。[要出典] だから、読者のみなさんは企業を見るときに、決していくつもの判断基準の優先順位をまちがえないように注意しよう。メセナやボランティアを行ってるかどうかという判断基準よりも、まず先に、違法行為を行ってないかを判断基準にしたほうが良いでしょう。[要出典] 従業員を雇用をすることは、べつに社会的責任ではありません。そもそも企業には従業員を雇い入れる義務は無いので、社長が一人だけで会社を設立し、そのまま一人だけの会社であっても良いのです。 労働基準法などの義務規定は、会社が従業員を雇った際に、雇った従業員に対して会社が追う最低賃金や労働時間などの義務であり、そもそも従業員を雇うかどうか自体の義務は、企業にはありません。 労働基準法や男女雇用機会均等法などを守ることは、法令順守にふくまれています。 「中小企業」とは、日本では、製造業の場合、資本金3億円以下または従業員300人以下の企業です。 卸売業(おろしうりぎょう)の場合では、資本金1億円以下または従業員100人以下の企業が、中小企業です。 小売業では、5000万円以下または50人以下が中小企業です。サービス業では、5000万円以下または50人以下が中小企業です。 なお、参考までにサラリーマンの平均年収をネットで調べたところ、税引き前の金額で約400万円ということです。そこから税金や年金などをさしひくと約300万円になります。3億円という数字が、サラリーマンの平均年収の何人ぶんかというと、 です。つまり、100人のサラリーマンが、平均年収ほどの金額を会社設立のために出し合えば、なんと中小企業でない会社が設立できてしまいます。 (ちなみに「大企業」「大会社」の基準は、法律では決められていません。) 日本では、会社数全体の99%が中小企業です。従業員数では約70%〜80%ちかくが、中小企業です。出荷額では、全体の約50%が中小企業です。 製造業の場合、大企業の製品で必要とする部品などを、下請け(したうけ)として、つくっている企業などが多いです。 賃金格差は、大企業と中小企業との間で、明治時代ころの昔からあります。大企業のほうが賃金が高く、中小企業のほうが賃金がひくいのが、普通の場合です。 高度経済成長などの時代に、一時、賃金格差は解消に向かっていきましたが、近年、国際競争などにより、賃金格差が広がってきています。 資本金(しほんきん)とは、けっして土地や設備などの固定資産(こていしさん)でもなく、けっして売上高(うりあげだか)でもなく、純利益額(じゅんりえき がく)でもなく、預金額(よきんがく)でもなく、株式の発行価(はっこうか)額の合計でもありません。 また、資本金および従業員数が、中小企業の基準なわけです。 資本金の算出方法は法律で決められていますが、説明には中学の範囲を大幅に超えるので、説明を省略します。 資本金とは、おおまかにいうと、その会社が、社外からの信用を得るために、使わないで取って置くと決めた金額です。一般の個人どうしのつきあいでも、まったく貯金がない個人を信用しないのと同様に、会社どうしでも、まったく銀行預金のない会社を信用しません。 なので、ふだんの会社経営のさいには、資本金のおかねは、自由勝手には使えません。いわば、経営者が、会社から預かっている預金のようなものです。 なので、資本金とは、けっして、その会社の単なる銀行預金ではありません。では何かというと、中学範囲を大幅に超えるので説明省略します。 さて、場合によっては大企業などでは、ある会社の資本金の額と、その会社の利益額・売上高・預金額などのあいだに、大きな違いがある場合もありえます。すでに信用も知名度もある大企業の場合には、わざわざ新たな信用を得るために資本金を増やす必要がないから、です。 なので、とくに大企業の経営状況を見るとき、資本金だけでは実態がよく分からないので、気をつけてください。 近年、日本企業が、外国の企業と協力する場合も増えています。また、東南アジアなどの賃金の安い国に、工場をうつす企業も増えています。多国籍企業(たこくせき きぎょう)が、日本企業で増えてきています。 このように、経済のグローバル化が、近年の人類では起こっています。 また、外国人の労働者を、限定的に受け入れる事も始まっています。「研修」の名目で、外国人労働者を受け入れる場合もあります。
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そもそも銀行(英:bank)は、どうやってお金をかせいでいるのでしょうか? 銀行は、企業などにお金を貸して利子(りし)と元金(がんきん)を返してもらうことで収入を得ています。 お金を貸した際の利息によって収入を得ているのです。預金者が預けたお金の一部が、企業に貸し出されます。 貸すときの利息は、預金の利息よりも高いので、このしくみで、銀行は利益をかせげるのです。(くわしくは、後述の、銀行の仕事についての節で説明します。) 銀行のように、お金の貸し借りをする業務を、金融(きんゆう、英:finance[1] ファイナンス)といいます。お金の融通(ゆうづう)をする、という意味です。銀行以外にも証券会社や保険会社の業務も金融になります。 そして金融を業務に行っている会社を金融機関(きんゆう きかん、英:financial institution ファイナンシャル・インスティチューション)と言います。銀行や証券会社や保険会社は、金融機関です。 銀行は、企業などにお金を貸して利子(りし、英:interest インタレスト)と元金(もときん、がんきん 、英:principal)を返してもらうことで収入を得ています。借り手はお金を返す必要がありますが、さらに利子(りし)を借り手は銀行に払わなければなりません。そもそも利子(りし)によって、銀行は収入を得ているからです。 預金者が銀行に預けたお金の一部は、お金を借りたい企業や個人などに貸し出されています。 銀行が貸すときの利子率は、預金の利息率よりも高いので、銀行は利益をかせげます。銀行の利子収入と預金者への利息支出との差額が、銀行の利潤になります。 たとえば、ある銀行にあずけた預金につく利子が1年あたり0.001%だとします。その銀行が企業に貸し出す時の利息が、例として、1年あたり2.000%の利息で貸し出しをしたりするわけです。 すると銀行の貸し出しによる利益は、単純計算で、さしひき、1年あたり1.999%(=2.000ー0.001)の利益があります。(実際の数字ではなく、原理の説明のためのイメージですので、数字を覚える必要はありません。) 銀行からすれば、貸し出すお金が高いほど、リスクも大きいので、一般に貸し出す金額に 利子率(りしりつ、英:interest rate インタレスト・レイト) を掛けた金額が利子になります。 なお、銀行は、企業にだけカネを貸すのではありません。個人にも、銀行はカネを貸します。銀行が個人にお金を貸す例は、たとえば住宅ローンなどです。 必ずしも、お金を借りたい企業や個人が、返せるという保証は無いので、銀行は、その人や会社が本当に金をかえせるだけの能力があるかどうか、審査(しんさ)をします。会社が借りようとするする場合は、会社の事業計画や過去の実績や売り上げなどが審査されます。個人が借りようとする場合も、借りようとするお金の利用法や、その人の所得などを参考に審査をします。 銀行では、預けたお金の全てが貸しだされるわけではありません。預金をおろす利用者のために、お金のいくらかは、貸しださずに残しています。(※ 範囲外: なお、これを「預金準備」とか「準備預金」などと言います。) 預金者から見れば、預金者の預けたお金が銀行を通して間接的に企業などに貸し出されているので、銀行のように預金者と貸し手の異なる金融の仕組みを 間接金融(かんせつ きんゆう、英:indirect finance) と言います。 これに対して、株取引などの証券取引などは、購入者が直接、出資者や貸し手になっているので、証券取引などの金融を 直接金融(ちょくせつ きんゆう、英:direct finance) と言います。 銀行とは別に、貸金業(かしきんぎょう)には、消費者金融(しょうひしゃ きんゆう)のように預金業務を行わずに、お金を貸すことで利息を得ている会社もあります。ですが中高生には消費者金融の利用の機会は無いので、この節では、銀行などの預金業を行っている金融機関のしくみについて説明します。なお、消費者金融は、銀行からお金をかりて、元手の資金を調達していることが多いです。 銀行の仕事の、もうひとつは、いわゆる「振り込み」(ふりこみ、英:transfer )などの、銀行口座を用いた送金の仕事です。口座取引のたびに、けっして 直接 お金を送るのではなく、振込額を引き落とした口座から振込額の分だけ口座の預金額を引き落として、相手の振込先の口座のある銀行が振り込まれた分の金額だけ口座の預金額を増やします。 こうすることで、直接、お金を運ぶ必要がなくなるので、取引が円滑になります。このように、直接、現金を移動しなくても取引が行えるようにしている仕組みのことを 為替(かわせ、英:exchange) と言います。 銀行は、このように、口座を用いた取引の仲介(ちゅうかい)をして、手数料を取ることで利益を得ています。会社どうしの銀行を仲介にした支払いでは、「手形」(てがた)や「小切手」(こぎって)を使う場合もあるのですが、中学の範囲を超えるので、ここでは説明しません。 一般の人から預金をするのは、銀行の他にも、信用金庫も、預金業務をします。また、郵便局でも、郵便貯金(ゆうびんちょきん)として、預金業務をしています。信用金庫が預金から利益をえる手法は、銀行と同様で、企業にお金を貸して利息収入で、信用金庫は利益を得ます。 銀行には、一般の銀行の他に、銀行にお金を貸すことを業務にしている、言わば「銀行にとっての銀行」も あります。 それは、日本の国が運営している日本銀行(にほん ぎんこう)という銀行です。略して日銀(にちぎん)と言われる場合もあります。 日本銀行が、貸し借りをする目的は、お金の価値の安定のためや、物価の安定のためなどです。 日本銀行のように、銀行や政府に対してのみお金を貸し出す銀行を 中央銀行(ちゅうおう ぎんこう) と言います。日本にかぎらず、ある国において、自国の政府に対してのみお金を貸し出す銀行のことが中央銀行です。 つまり日本国の中央銀行は、日本銀行です。 日本銀行がお金を貸すときの利息の割合を、公定歩合(こうてい ぶあい)といいます。この公定歩合と、貸出すお金の量を調整することで、経済が安定するようにさせています。 証券会社や証券取引所は、株取引(かぶ とりひき)や国債(こくさい、英: Government bond)・社債(しゃさい、英: corporate bond)などの債券(さいけん)の売買や取引を仲立ちしています。 株取引などの証券取引などでは、購入者が直接、出資者や貸し手になっているので、証券取引などの金融を 直接金融(ちょくせつ きんゆう) と言います。 ある会社が規模が大きく、業績も とても良い会社は、証券取引所(しょうけん とりひきじょ、英:securities exchange[2])での株の売り出しが認められます。証券取引所に株の売り出しを登録することを 上場(じょうじょう、英:Initial public offering 、略:IPO ) といいます。上場した会社は、資金調達の手段として、証券市場による株の売買を利用します。証券市場から調達する必要のない会社の場合、上場できるほどの業績を持っていても、上場しない場合もあります。 かならずしも、会社は、証券市場などに上場しているとは、限らない。 むしろ、日本にある多くの中小企業は、証券市場には上場していません。上場している会社は、ごく一部の大企業です。 株取引の投資家は、証券市場で、上場している会社の株を買うことが出来ます。株主は、株を持ち続ける義務はなく、株を売ることも出来ます。また、株を買える人は、原則的に大人なら、金さえ出せば、誰でも株を買うことが出来ます。たとえば、日本人でなくても日本の会社の株は買えます。 上場している会社の株価(かぶか、英:share price)は、つねに変わります。一定の価格では、ありません。普通は、業績の良い企業の株価が上がります。原則的に株取引は、株を売りたい人と買いたい人との条件が合えば取引が成立するので、買いたい人たちの1株あたりに払ってもいいと考える金額と、株を売りたい株主たちが希望する売り値とで、株価は決まります。なので、ある会社の株が高くても、その会社の株を買いたいという人が多ければ、その会社の株価が高くなります。つまり需要と供給で決まります。 ある会社の株が値上がりしそうだと株の投資家が思った時、投資家は その株が安い時に購入して、高くなった時に売り払えれば、その投資家は、もうけることが出来ます。これを「利ざや」と言います。 投資家が値上がりしそうだと思っても、かならずしも予想通りに値上がりするとは限りません。買った株価が値下がりする場合もあります。値下がりした場合でも売ることは出来ますが、売っても儲け(もうけ)が出ません。 このように、株を買うことには、「株価が下がるかもしれない」というリスクもあります。 東京証券取引所などの証券取引所と、たとえば野村證券(のむらしょうけん)や大和証券(だいわしょうけん)などの証券会社とは、別の会社です。証券会社は、単なる仲介業者です。証券取引所と、株の購入者との間を仲介します。一般の株式購入者は、証券取引所からの直接の購入は出きません。上場企業の株を購入したい場合は、証券会社を仲介して、証券取引所から購入する必要があります。 現代の株券は、電子的に管理されています。紙による株券の管理は廃止されました。日本の証券取引所は、東京や大阪など、合わせて日本には6ヶ所、ある。 株主に、会社の利潤の中から、利益が支給される場合があります。そのような株主への利益支給を 配当(はいとう、英:dividend ディビデンド) と言います。 このような配当を支給するかどうかを決めるのも、株主の権限です。 配当は義務ではありません。たとえば上場してない中小企業などで、株主が社長の一人だけという場合は、配当を支払う必要がないので、配当は行われないことが、ふつうです。 会社が倒産(とうさん、英:bankrupt バンクラプト)しても、株主の保有する、その会社の株式の資産価値が無くなりゼロになるだけであり、株主は それ以上の責任は 負いません。このような出資額を失うリスクを超えた責任を、投資家が追わないようにしている仕組みを 有限責任(ゆうげん せきにん) という。 こうすることで、出資者は、出資額以上のリスクは負うことがなくなるので、安心して出資できるようになる。また、会社側は、出資者を安心させることで、出資者を増やすことができるので、株式公開による資金調達で安定して資金調達をすることが出来る。 会社の資金調達の方法は、なにも株式の発行により出資者をつのるだけには限りません。銀行から金を借りるという 借り入れ(かりいれ 、英:borrowing) の方法もあるし、社債(しゃさい、英: corporate bond)と言って社債の出資者から金を借りる債権を発行する方法もあります。 銀行にかぎらず、金融商品の売買の投資において、どんな投資であっても、必ずしも期待された値上がりが起きるとは限りません。値上がりを期待して購入した金融商品が、もしかしたら購入したときよりも値下がりしてしまい、売るときに購入時よりも低い値段でしか売れずに、結果的に損をしてしまうというリスクもあります。 一方で、もしかしたら購入時より値上がりするかもしれません。投資において、売値から購入金額を差し引いて結果的に得られた利益のことをリターンと言います。 このように金融商品には、リスクとリターンの可能性があります。 なお、よく「リスクが大きい」とか「リスクが少ない」「リスクが小さい」などの表現をする場合があります。 一般に、「リスクが大きい」とは、予想できる利益の金額のふれ幅が大きいことです。つまり、もしその投資が成功すれば莫大な利益が出る可能性が高いが、しかしもし失敗すれば損失が莫大になってしまう可能性が高いような場合、「リスクが大きい」のように表現します。 いっぽう、「リスクが小さい」「リスクが少ない」とは、予想の利益のふれ幅が小さいことであり、つまり成功時の利益が小さい可能性が高いが、しかし失敗時の損失も小さい可能性が高い、のような意味に使われる表現です。 リターンが比較的に大きいと予想される商品は、リスクも大きいのが通常です(株式など)。 一方、リターンが比較的に小さいと予想される商品は、リスクも小さいのが通常です(投資信託など)。 このように、リスクとリターンは比例的な関係にあります。 だから確実にお金を大きく増やせる投資なんて無いのです(※ 日本文教出版の見解)。 (※範囲外: )日本に証券取引所は4か所(東京、名古屋、福岡、札幌)です[3]。(ときどき世間には「東京だけ」だと誤解している人がいる。) 企業などが、じっさいに銀行から大金を借りる時などに、銀行が条件として「(カネを貸してあげたあと、あなたの返済の際に)もし借金を返せなくなった場合に、あなたの会社のこの土地を差し出してほしい」などのように、借り手の持っている土地や建物などの高額な財産を、もし返済できなかったときに銀行にゆずりわたすという条件で、銀行がお金を貸す場合があります。 このように、物を貸す時に、もし返せなかった場合に、ある物を提供することを、担保(たんぽ)といいます。 「銀行に融資してもらおうと交渉したら、銀行が担保を求めたので、土地を担保にして、銀行からお金を借りた」などのように、担保という言葉をつかいます。 担保とは、いわゆる「借金のカタにする」という言葉に、意味が近いです。なお、借金が返せなかった相手から、担保にしていた土地などを回収することを、世間では「借金のカタを取る」などと言います。 法律用語では、「抵当」(ていとう)という用語が、担保に意味が近いです。(※ 高校の世界史科目などでも、「抵当」という用語が出てくる場合があります。たとえば「古代ギリシアでは債務の抵当として、奴隷が売買された。しかしアテネでは改革により紀元前7世紀以降、アテネでは人間を抵当することを禁止した」のような表現で、使われます。) 銀行に預金口座をつくるとき、普通預金(ふつうよきん)のほかに、定期預金(ていきよきん)という種類の口座があります。 定期預金とは、利子は普通預金よりも高いのですが、しかし定期預金では預け始めてから一定期間(たとえば6ヵ月以上)が経過しないと定期預金は引出しできません。 どの程度の期間、引出しをできないかは、その口座の契約時などに定めます。 一定期間が経過する前に定期預金を引出しするためには、契約違反として解約手数料を預金者が払う必要があるので、預金者はカネが減ってしまいます。 預金をあずけている利用者にとっては、定期預金はメンドウですが、しかし銀行からすれば、定期預金のほうが、預金長期に安定して貸し出しをしやすいので、利率は定期預金のほうが高めになっているわけです。
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さまざまな商品の価格を平均した価格を 物価(ぶっか) という。 いっぽう、景気(けいき)とは、次のような事である。 物価と景気は、べつの概念(がいねん)だが、物価の動きと景気は深く関わりがあり、物価と景気の組み合わせによって、いろんな経済現象が起きる。それを、これから学んでいく。 物価のデフレーションとは、単に多くの商品の物価が、全体的に下がっていくことです。 物価のインフレーションとは、単に多くの商品の物価が、全体的に上がっていくことです。 物価が上がること自体は、別に好況でも不況でも無い。同様に、物価が下がること自体も、別に好況でも不況でも無い。 物価のうごきは、前年度を基準の100とした指数で表すことで多い。このような指数で表した物価の動きを 物価指数(ぶっか しすう、英:price index) という。 たとえば物価が前年度より5%上がったら、物価指数は105である。 物価指数を、英語で Consumer Price Index というので、英語の頭文字を取って CPI と略す場合もある。 (※ ウィキペディアの仕様で数式表示中に日本語が使えないので、英語ですがガマンしてください。) 物価には生産財の物価である企業物価(きぎょう ぶっか、英:producer price)と、消費者が実際に購入する消費財の物価である消費者物価(しょうひしゃ ぶっか、英:consumer price)がある。消費者物価指数(しょうひしゃ ぶっかしすう、consumer price index、 略:CPI)とは、消費者物価の物価指数のこと。 好景気のときは、物価が高くても安心して買えるから、商品の値段が高くてもモノが売れるので、物価が上がりやすく、インフレになりやすい、と言われています。 しかし、物価が高くなっても、かならずしも好景気とは限りません。インフレでも不景気になる場合はあります。 例えば第二次大戦前の世界恐慌時のドイツでのハイパーインフレ(hyperinflation)のときは、ドイツは失業が増えて不況でした。 日本では、中東で中東戦争が起きて石油の輸入が滞って石油危機(oil crisis [2])が起きた時には、多くの商品の物価が上がりました。この石油危機のとき、多くの会社が倒産しました。 インフレになった時、賃金も上がることが多いが、物価も上がる。たとえ賃金が上がっても、物価がそれ以上に上がれば、労働者の暮らしは楽にはならない。そこで、物価との比較で見た実質的な賃金のことを実質賃金(じっしつ ちんぎん)と言い、賃金を消費者物価指数で割り算した数で表す。 つまり労働者の給料が2割増加しても、同時に物価も2割増加しているならば労働者は多くの物資を購入できるようになっていないため実質賃金は向上していないというわけである。労働者の賃金が変化していなくても経済状況などにより物価が上昇しているならば実質賃金は下落しているということになる。 いっぽう、不景気のときは、お金を節約しようとして、なるべく安い商品を買いたがるので、デフレになりやすいと考えられています。しかし、物価が下がっていっても、かならずしも不景気とは限りません。 技術革新などをすれば、今までよりも安く物を作れるようになるので、物価は下がります。たとえば、日本の第二次大戦後の高度経済成長期には、工業技術の進歩により、多くの工業製品の値段は下がっていきました。しかし高度成長は物価が下がっても好景気であり、不景気ではありません。 デフレと不景気は違います。 日本では、バブル崩壊後の不景気の時期が、デフレの時期とも重なったので、「デフレ不況」(デフレふきょう)と言われましたが、けっして不況になると必ずデフレになるというわけでは、ありません。 通貨を基準にして物価のしくみを考えましたが、逆に物を基準にして通貨について考えることもできます。 インフレは、たとえば今まで100円の物が120円になれば、通貨の1円あたりの価値が下がったことになります。今まで100円を出せば買えた物が、今度は120円を出さないと買えなくなったわけですから。 なので、貯金をしている人にとっては、インフレでは、貯金の価値が下がります。 デフレでは、通貨の価値が上がることになります。たとえば今まで100円の物が90円になれば、100円を使えば10円があまって、その10円で別の物を買えます。 なので、貯金をしている人にとっては、デフレは貯金の価値が上がります。 インフレでの不況の場合、物価が上がるので、消費者は物が買いづらくなり、消費者は苦しくなります。 いっぽう、デフレでの不況の場合、生産者は物の値段を上がられないので、売り上げを出しづらく、生産者が苦しくなります。 大人の消費者は、お金をかせぐために仕事をしているので、別の場所では生産者でもあります。 なので、インフレ化で不況の場合、まず消費者が苦しくなりますが、いずれ生産者も苦しくなります。 また生産者は、稼いだ所得で消費するので、別の場所では消費者でもあります。なので、デフレ下で不況の場合は、まず生産者が苦しくなりますが、いずれ消費者も苦しくなります。 物価が急激に大きく上がり下がりすると、経済が混乱するので、どの国でも各国の政府は自国の物価を安定させる努力をしています。 また、政府が通貨を多く発行したりして市場に流通させれば、市場に多くのお金が流れ込みますが、社会全体の物の量はそのままなので、物価が上がりインフレになるのが普通です。 デフレ下で不況の場合、デフレの影響を弱めるために、このようなインフレ政策が取られる場合があります。 好景気と不景気が、交互に繰り返されていくのが、普通です。 どんな好景気もつづかず、終わります。不景気も、いつかは終わっていくのが、普通です。 たとえば、よく売れる商品は、多くの企業が、その商品を作ります。その結果、そのうち社会全体では、その商品が作りすぎになって、売れ残りが出てしまい、余って在庫(ざいこ)になってしまいます。 売れ残りのぶんは、当然、もうかりません。なので、生産に使ったお金が回収できなくなります。 生産しても売れなければ、お金が回収できなくなるので、当然、新しくその商品を生産をする会社は減ります。そうなると、今までその商品を作っていた会社や労働者は役割がなくなるので、失業が起こります。 このようにして、ある業界では好景気が終わり、不景気になっていきます。社会の多くの業界で好景気が終わり不景気になれば、社会も不景気になっていきます。 不景気も、労働者がきちんと努力をしていれば、いつかは終わるのが普通です。 なぜならば、不景気では、生産しても売れないのだから、生産量が減っていきます。そうなると、そのうち社会全体で物の量が減っていきます。そして社会で物不足になっていき、みんなが困るようになれば、今度は物が必要なので物が売れるようになっていきます。こうして、物を生産すれば、売れるように変わるので、好景気になっていきます。 こうして、不景気も終わっていくのが、普通です。 このようにして、好景気と不景気が、交互に繰り返されていくのが、普通です。
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ある業界の市場が、もし一つの企業にのみ供給されると、どうなるだろうか? 他の企業がなければ、売り手の企業が値段を上げても、消費者は買わざるを得ないだろう。 企業は、利潤を追求しようとするから、ふつうは、売れるのならば、なるべく高く商品を売ろうとするだろう。 すると、消費者は、高く商品を買わされることになる。 ここで、もし、他の企業がその業界の市場に参入すれば、売り手どうしの安値での販売競争が起きるので、消費者は安く商品を買える。 このように、生産者どうしの競争によって、消費者は得をするのである。 しかし、業界によっては、新規参入に大掛かりな設備などで膨大な投資費用が必要な場合などがあり、新規参入がしづらい業界もある。 そのような参入に膨大な費用が必要な業界では、少数の大企業にのみ市場が支配されてしまう恐れが ある。 少数の企業に生産や販売が集中している状態のことを 寡占(かせん、英:oligopoly オリゴポリー) と言います。そして、さらに寡占が進んで少数の大企業などの生産者によって生産や販売が支配されるようになった状態のことを 独占(どくせん、英:monopoly モノポリー) と言います。 このような独占や寡占の状態になると、(もし生産者企業が法律を無視すれば、)少数の生産者どうしで値段を釣り上げることが可能になる。( 独占価格(どくせん かかく、英:monopoly price)と言う。 ) このような独占・寡占が起こると、消費者には不利益になるので、国は競争をさまたげる行為を法規制しており、競争をうながすために独占禁止法(どくせん きんしほう) を制定しており、公正取引委員会(こうせい とりひき いいんかい)によって独占禁止法などにより、競争妨害の取り締まりが運用されている。
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物を買うのも、法律上は 契約(けいやく) の一つである。 買い物は、たとえ契約書(けいやくしょ)などの書類を交わさなくても、口頭での「買います。」という約束であっても、法律的には契約なのである。 なので、販売側に詐欺や不良品などの過失がない場合は、取り消しできないのが普通である。 販売方法によっては、消費者保護の観点から、一定期間内の間なら無条件な解約が認められる場合もある。だが、基本的にほとんどの契約は、もし解約すると損害賠償などが発生する。 たとえば、ある商品を購入したとして、そのあとに店にレシートを持って行って交換をしてほしいと頼んでも、基本的には店側には交換に応じる義務は無い。 店によっては好意で、消費者側の購入品の間違えの場合などに限り、商品が未使用・未開封で購入直後〜数日後程度で、生鮮品などでなければ、レシートの提示とともに店側が好意で交換や返金に応じてくれる場合もあったりするが、これらの交換に法的な義務はなく、あくまで、その店が好意で交換に応じてくれただけにすぎない。したがって交換や返金を店側が断る場合もあるし、たとえ店側に交換を断られても、法的には店側には責任は無いのが一般的である。 契約についての法律は、民法などに定めがある。 契約は原則的に守るべき責任があるが、ただし銃や麻薬などの売買契約などのように法律に違反した契約は無効であり、守る法的義務が生じないばかりか、処罰の対象にもなる。 また、だまされたり、おどされたりして結ばされた契約は取り消しをすることが出来る。 買い物には消費者にも責任があると言っても、消費者には生産者とちがい、その商品の専門的な知識が無いのが普通であり、その知識さを悪用してウソの広告を出したりする悪質な業者も、ときどき出てきます。 また、商品の中には欠陥品があり、消費者が被害を受ける場合もある。 そのため、消費者の権利を守るための法律が作られています。 1962年にアメリカの大統領 J・F・ケネディの主張した 消費者の4つの権利(Consumer Bill of Rights) がある。 日本の戦後の高度経済成長の時代において、経済の発展にともない消費者問題も取り上げられるようになり、1968年(昭和43年)に消費者を保護するための 消費者保護基本法(しょうひしゃ ほご きほんほう) が施行(しこう)された。 2004年(平成16年)には改正され 消費者基本法(しょうひしゃ きほんほう) となった。消費者基本法では、消費者の権利、事業主の責任、政府(国や地方公共団体など)の責任などを規定している。 1994年(平成6年)に 製造物責任法(せいぞうぶつ せきにんほう、PL法、Product liability) が定められた。 この製造物責任法により、欠陥品による被害は、生産者が負うことが定められた。より細かく説明すると、たとえ生産者に過失が無くても、製品に欠陥があることさえ本当ならば、生産者が損害賠償責任を負うことを定めた法律である。このため、消費者は製品の欠陥だけを立証すればよくなり、消費者が生産者に損害賠償をさせやすくなった。 損害賠償を求めることの出来る期間は出荷後10年までである。 2000年に 消費者契約法(しょうひしゃ けいやくほう) が定められた。 商品の説明が事実と異なる場合や、強引に加入されて契約した場合は、一定期間内であれば契約を取り消しできる法律。 2009年には 消費者庁(しょうひしゃ ちょう) が発足した。これは、それまで各省庁に分散していた消費者行政を一元化したものである。 訪問販売や電話勧誘で商品を購入した場合は、一定の期間内(基本的には8日以内)であれば、通知により、無条件で契約を取り消せる制度があり、この制度をクーリング・オフ(cooling-off)という。特定商取引法に定められている。通知は、内容証明郵便(ないようしょうめい ゆうびん)を配達証明つきで行うと確実であるが、別に書留(かきとめ)でも構わない。
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街角で声をかけ、事務所や喫茶店や営業所などにつれこんで、強引に契約させたりする。 電話などで「抽選に当たった」などと言って、「賞品を受け渡したいので事務所に来てほしい」などと言って事務所に呼び出して、事務所で強引に賞品を購入させる方法。 商品を販売しながら会員を勧誘し、会員は会費として高い値段で商品を買わねばならないが、もし自分が会員になれば、一時的には会費を出費するが、新規の会員を勧誘して入会させれば、今度は自分は紹介料をもらえて儲かるので、最終的には得をする、・・・などと言って勧誘する。 もちろん、マルチ商法は、いきづまる。 なぜかというと、新規会員を入会させるともらえる「紹介料」とやらの出どころは、もとをただせば、今までの会員が買わされた高額商品の出費である。なので、多くの会員は損をする側になっている。また、人間の数には限りがあり、いつかは必ず、会員が増えなくなる。よってマルチ商法の会員は、だいたいの場合は損をする側になる。 消費者トラブルについての相談機関として、地方自治体が消費生活センターを設置している。 また、国が、国民生活センターという機関を設置しており、消費者への情報提供、商品テストなどの活動をしており、消費生活センターとも連携している。 消費者庁では、電話で相談できる窓口の「消費者ホットライン」をもうけている。消費者庁は2009年に設立した省庁である。消費者庁は、2009年のそれまで、いろんな省庁で別々に行われていた消費者トラブルなどについての対応を、あたらしく消費者庁で一元化することによって行政を効率的にするため、あたらしく設立された庁である。 消費者トラブルになってしまったと感じたら、けっして一人では悩まずに、なるべく消費生活センターなど、公共の相談機関に、直接、行って、相談したほうがよいだろう。詐欺師の中には、ウソの肩書として「消費生活センター」などの職員を名乗る詐欺師も、いるかもしれない。なので、消費生活センターなどに相談する場合は、なるべく直接、消費生活センターなどに出向くのが望ましい。 消費生活センターの場所が分からない場合は、市役所などの役所に相談して教えてもらおう。地域によっては市役所の中に、消費生活センターの窓口がある場合もある。 悪質な業者や詐欺師(さぎし)には、いちど、詐欺にあった人を、「だましやすい人」と判断して、「もっと、だまそう」と考えて、さらにだまして来る場合もある。そのような、さらにだます手口として、たとえば「詐欺への救済手続きの代行をする」などのウソをついて、「手数料」などとして、お金をだまし取る詐欺業者もある。 詐欺師には、ウソの肩書として警察や弁護士または、警察・弁護士などの関係者などを名乗り、やはり、手数料などと称して、金をだまし取る手口もある。詐欺師の中には、消費生活センターの職員を名乗る詐欺業者も、いるかもしれない。 なので、悪質業者や詐欺業者に引っかかってしまったと感じたら、消費者の取るべき対策は、まず消費生活センターなどの公共の相談機関に、直接に出向いて相談することである。 契約とは、法律上の約束のことである。契約は、原則的には、一方的には解除できない。 もし、一方的に契約が解除できるとすると、合法的に契約されたものまで解除されてしまうと、社会が混乱してしまうからである。 ただし、訪問販売やキャッチセールスなどのように、消費者が自ら店舗に出向いた取引の場合、一定期間内なら、書面で取り消しを通知することで契約の取り消しができる。この制度をクーリング・オフ制度という。 クオーリング・オフ(cooling off)とは「頭を冷やしてから、考える」という意味である。 クーリング・オフは、契約直後から一定期間内しか出来ないので注意。販売方法の種類によって取り消しできる期間の日数がちがうが、たいていの場合の期間は販売後8日まで、である。 また、通信販売は、クーリング・オフできない。通院販売では事業者が自主的にクーリング・オフに応じない限りは、通院販売ではクーリングオフができない。 訪問販売だからといって、かならずしも詐欺とか悪質商法とは限らず、そのため商品の購入の契約をしてしまった場合、契約を守る義務が発生するからである。 また、消費者契約法(しょうひしゃ けいやくほう)により、事業者が契約内容について事実とちがう説明をした場合に、契約を取り消すことができる。また、事務所などにつれこまれて、契約しないと帰らしてもらえなかったりして、強制的に契約させられた場合も、消費者契約法により、契約を取り消しできる。 ・いらない場合は、けっして「いいです」とか「結構です」などのような、どちらとも受け取れる表現では、ことわらない。「いらないです」「買わないです」などというふうに、はっきりと断る。「いりません」だと、「いりま」と言った段階で相手が「いりますか? いるんですね?」と拒否の返答を遮ってきたりする場合がありうるで、「いらないです」と言って断るほうが、より安全です。 ・むやみやたらにサイン、署名(しょめい)をしない。サインしただけでも、契約が成り立つ。 家庭などで、宅配などの際、受け取りにサインをお願いされる場合もあるが、親などが留守で、子供だけでは信頼していいかどうかわかりづらい業者の場合、サインをせず、「現在は親が外出中で不在」「家にいるのは契約者とされる本人ではない」という事情を話して、いったん帰ってもらうのが望ましいだろう。 宅配や郵送をよそおった詐欺商法などの場合もありうる。なので、なるべく宅配時に留守をしている子供は、親に確認してから受け取る、あるいは親本人に受け取ってもらうのが望ましい。 まともな業者なら、どのみち、もしも宅配時に相手が留守なら不在通知をポストなどに入れて商品は持ち帰るので、事情を話せば、まともな業者なら、不在通知などをわたして帰ってくれるはずである。 「現在は親が外出中で不在」「家にいるのは契約者とされる本人ではない」というのは、一時的な受け取りを拒否する理由として、常識的には正当な理由であろう。 それでも宅配員が帰らない場合は、そもそも信頼できない業者であるか、または信頼できない宅配員である。 もしも、大手の宅配企業の宅配員が、そのような、親が不在の場合に受け取り拒否を認めない対応をすれば、相手企業に苦情を入れるべきである。相手企業に苦情を入れられるようにするため、相手企業の連絡先のメモをして、ひかえておくべきであろう。 こまったことに、一部の宅配員や宅配企業の中には、受け取り家庭の子供が「親が外出中」という理由を話しても、受取り拒否をみとめようとしない場合がある。なので、こういう場合には、あとで消費生活センターなどに相談を入れるのが望ましいだろう。 「無料」と言っても、サービスの一部が無料なだけで、有料な部分があるゲームが多い。ゲーム中で有料サービスを申し込むとゲームを有利に進められるなどのサービスがあり、そのためお金のない子どもが不用意に有料サービスを購入してトラブルになる事例がある。そもそもゲーム会社は利益を出すためには、何らかの有料サービスを売らなければいけない。 商品の実物が直接は確認できないので、購入後に、事前の情報と違っていたというトラブルがある。 オークションとは、一種の せり である。そのため、定価のような決まった価格はないので、たとえ法律にのっとって行われても、最終的な値段が、とても高い値段になることがある。 一個人が出品しているのが普通なので、出品者が詐欺的な人物だったりすると、たとえば代金を支払ったのに、商品が渡されないなどの詐欺がある。 ほかの詐欺の方法では、たとえば出品者の関係者が落札希望者として参加して、不当に価格をつりあげる詐欺などの事例もある。 また、国際的な消費者運動の団体である国際消費者機構(CI)が、消費者の8つの権利と5つの責任を定めている。 ※ 検定教科書でも近年では、電子教科書版や教師用マニュアルなどで家庭科の教科書にリンクしています(東京書籍の公式サイトのデジタルパンフレットで確認)。
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商店での商品の調達は、ふつうは、けっして商店が直接に工場などの生産者から買ってるわけでは ありません。 たいていの場合は、仲介の業者が、商品をつくった生産者と、商品を売ってる商店との間に入っています。その仲介業者は、 問屋(とんや) とよばれたり、または 卸売業者(おろしうり ぎょうしゃ) などとよばれます。 日本には、多くの商店があるので、もしも生産者から直接に買い付けていては、大変な手間が かかってしまいます。 生産者も小売店も、手間が大きく、かかってしまうのである。仲介業者が、生産者から商品を買い、それを商店などの 小売業(こうりぎょう) に売っているのです。 例として、北海道以外に住んでいる読者に質問しますが、たとえば牛乳を買うときに、毎回、北海道の酪農農家を訪問して牛乳を買いに行きたいですか? 問屋(とんや)という業種があることで、生産者は問屋とだけ販売交渉をすればよく、また商店などの小売業者(こうり ぎょうしゃ)も、問屋とだけ交渉すれば、よいのです。 私たちが買い物をする一般の商店のことを小売店(こうりてん)と言います。 商店街の商店や、スーパーマーケットやデパートやコンビニエンスストアなどが小売店です。 小売店や卸売業などをまとめて、商業(しょうぎょう)と言う。 生産者から小売店を経て、私たちの手元にまで商品が届くながれのことを流通(りゅうつう)と言います。 商品を運ぶ運輸業なども、流通の一部です。 生産者から小売店までの流通の経路に、卸売業者など中間業者を挟むと、そのぶんお金を中間業者に払わないといけないので、小売価格が高くなる場合があります。 このため、費用の削減のため、大きなデパートや大手コンビニなどの買い付けだと、本社などが、直接、生産者から買い付けて、卸売業者などを通さない直接仕入れ(ちょくせつ しいれ)や一括仕入れ(いっかつ しいれ)を行う場合もある。 インターネットを用いたオンライン・ショッピングでは、小売店を挟む必要が、ありません。 コンビニでは、レジで会計の時、バーコードを読み取ってレジで値段を計算している。このときに商品の購入情報も読みっており、どの商品が、いつ、どの店で、どれだけ売れたかという情報をコンピューターを通じて本社などに伝えている。このシステムをPOSシステム(読み:ポス・システム)という。 このPOSで入手した情報を、今後の販売戦略に利用している。POSとは「販売時点 情報管理」という意味で「point of sale」のこと。 なお、送られる情報は、商品名や商品の数量だけでなく、購入者のおおよその年齢(推測した年齢)や、性別、その日の天気なども、POSでは送られている。 コンビニの他にも、外食チェーンや、ガソリンスタンド、大手ドラッグストアなどの、チェーン展開をしている多くの業種でPOSシステムは活用されている。 小売店の自社ブランドの製品。スーパーやデパートなどの、あるていど大きい小売店に多い。商品で、生産から小売までを、小売店の一つの会社でまとめて行っている。 ブランドの企業の名義(めいぎ)は小売店だが、実際に生産を行っている会社は異なるのが普通である。
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ある市場での、ある商品について、消費者が買おうとする量を 需要(じゅよう、英:demand) と言う。 これに対して、生産者が実際に店頭において売りに出す量を 供給(きょうきゅう,英:supply) という。 市場での価格について考えていこう。なお、市場での価格のことを市場価格(英:market price)と言う。 まず、右の曲線グラフ(「需要供給曲線」)について、なぜ、生産者の曲線が右上がりになるのかを説明する。 生産企業からすれば、高い価格で売れるものほど、より多く生産したいので、価格に比例して数量が増加している。よって、生産者の曲線が右上がりになる。 いっぽう、消費者からすれば、低い価格で買えるものほど、消費者全体では、より多く、その商品を購入するので、価格が増えるほど数量の減っていく関係になっている。よって、消費者の曲線は、右下がりになる。 消費者と生産者は、まったく都合が対立するのである。そして、よくよくグラフを見ると、消費者の行動をあらわす曲線と、生産者の行動をあらわす曲線とは、グラフでは一点で交わっている事に注目しよう。 さて、もしも需要だけが大きくて、供給が少ないと、市場価格での値段はどうなるだろうか? つまり、式で不等号を用いて表現すれば、 の場合には、どうなるだろうか? 当然、少ない商品について多くの購入希望者が買おうと競争するので、買える人は限られてくる。 売り手からすれば、なるべく高い値段で売りたいので、より高い値段で買ってくれる買い手に、売り手は売るだろう。 そうなると、供給に対して、需要が大きければ大きいほど、商品の値段は高くなるのが普通である。 いっぽうで、売り手があまり値段を釣り上げすぎると、買い手は購入をあきらめ、買う気を無くすだろう。 つまり市場価格が高くなると、買い手の購入意欲が減るので、需要量は減る。 なので、消費者の多くが「買いたい。」と思える値段の範囲内で、値段は上がっていくだろう。 さて、商品が高く売れるとなると、ほかの多くの業者も、どんどん市場に参入するだろう。 その結果、市場への供給量は、どんどんと増えていくだろう。 つまり市場価格が高くなると、売り手の参入意欲が増えるので、供給量は増える。 そのうち、消費者の需要よりも商品の供給量が多くなれば、売れ残りの商品が出てくる。 生産者からすれば、生産に要した原材料費などの経費を稼がないとマズイので、安値でも売らざるを得ない。 商品は、倉庫や店舗に置いておくだけでも、場所を取ってしまう。なので、あまり多くを置き過ぎることは出来ない。なので、売れ残りは、安値でも売らざるを得ない。 また、食料品などの生鮮品など、商品によっては長期保存が難しい商品もある。このような商品は、販売者が保管しておくことが出来ない。 たとえば生鮮食料品の場合なら、値下げして売るか( 価格↓ によって 需要↑)、あるいは堆肥などの原料として専門業者に販売するか( 市場開拓により 需要↑)、あるいは廃棄するかなど (供給↓) 、自分で利用するか(市場に出さない、よって 供給↓)などしかない。 ともあれ、基本的に、売れ残った商品は、値段が下がる。( 価格↓ によって 需要↑) まとめると、 長期的には、市場の店頭で見られる価格は、売り手が「この値段なら売っても良い」と思える価格であり、また、買い手が「この値段なら買っても良い」と思える価格になっていきます。このような売り手と買い手の両方が納得できる価格のことを 均衡価格(きんこう かかく、英:equilibrium price) と言います。 このように市場では価格の調整によって、自動的に、うまく経済が回る仕組みが保たれている。このような仕組みを 市場メカニズム(英:market mechanism) という。 また、このように、自由な取引を前提とした経済の仕組みを市場経済(英:market economy [1])という。 生産者が生産して供給する理由は、消費者が買ってくれるだろうという需要を見越してのことである。なので、結局、生産者による供給と消費者の需要は、長期的には釣り合うことになる。 需要のほうが供給よりも多ければ( 需要 > 供給 )、多くの生産者が参入するなどして、供給量が増えていき( 供給↑ )、結局、生産者による供給と消費者の需要は、長期的には釣り合うことになる。 供給のほうが需要よりも多ければ( 供給 > 需要 )、売れ残りの商品が出てしまい、結局、生産者や販売者は売れ残りを処分するために値下げなどをして( 価格↓ よって 需要↑)、消費者に商品を買ってもらうなどするしか無い。なので供給が需要よりも大きい場合でも、長期的には、生産者による供給と消費者の需要は、いずれ釣り合うことになる。 需要供給曲線において、価格をあらわす変数には普通、「P」または小文字の「p」を使う。大学の教科書などを見ても、価格の変数お文字は通常、pまたはPである。おそらく、英語で価格を意味する price (プライス)に由来する記号だろう。一方、数量をあらわす変数の文字は特に決まっておらず、文献によってはQで表す場合もあれば、x(エックス)で表す場合もあれば[2]、yで表す場合[3]もある。 市場メカニズムの前提として、複数の企業が参入しており、それぞれ競争しあっている必要がある。もし、この前提がなくなると、市場メカニズムが働かなくなり競争が起こらなくなってしまう。 市場に、売り手となる企業・生産者が、一社しか参入していなく、その一社が市場を支配してる場合を独占(どくせん)という。独占された市場では、市場メカニズムによる価格の調節機能が働かなくなるため、消費者が不当に高い価格を支払わされることになりかねない。 なお、独占された市場での価格のことを独占価格(どくせん かかく)という。 また、売り手となる生産者・企業が、少数の場合を寡占(かせん)といい、この場合も価格調節の機能が働きにくくなる。寡占市場での価格のことを、「寡占価格」と呼ぶ場合もあるが、「独占価格」と呼ぶ場合が多い。 また、もし、ある市場に参入している企業の数が複数であっても、販売価格や生産量についてその市場の参入企業どうしが協定し足並みをそろえることで、市場メカニズムが働かなくなる。この場合、価格競争は起きないので、価格調節の機能が働かなくなる。販売価格について、企業どうしが協定をすることカルテル(Kartell)という。「価格カルテル」ともいう。 日本では、競争を促すため独占禁止法(どくせん きんしほう)が制定され、独占、カルテルを原則的には禁止している。また日本では、市場での独占・寡占などを取り締まる行政委員会として、公正取引委員会(こうせいとりひき いいんかい)が設置され、独占禁止法などの法律にもとづいて、企業や市場を監視している。 なお、公正取引委員会は、専門家5人から構成される。 ふつうの商品やサービスの価格は市場メカニズムによって決まるが、例外的に、水道料金などでは生活の安定のため市場メカニズムに左右されるのが好ましくと考えられており、地方自治体が水道料金を決めている。他にも電気やガスなども生活の安定という考えから、国や政府が価格を強く規制している。このように国や地方自治体などがサービスの価格を決めたり、あるいは国や政府などが価格の決定に強く関わっているサービスの料金のことを 公共料金(こうきょう りょうきん) と言う。 水道料金のほかに、電気料金や都市ガス料金が公共料金である。 公共料金のサービスを提供している組織は、必ずしも公共機関では無い。 である。 郵便料金とか、鉄道料金・バス運賃・タクシー運賃なども公共料金であり、民間が自由には決められない。 経済学などの用語で、「市場の失敗」と言う用語があり、インフラや治安などは民間企業に任せてしまうと、事業の性質上、独占をされているのが普通なので、価格調整などの市場メカニズムが起きずに、極端な高価格などの不便を引きおこしてしまいかねないことを「市場の失敗」と言います。 その他、「市場の失敗」の例としては有名なものとして、公害がよく例にあげられます[5]。 こういった「市場の失敗」という考え方にもとづき、たとえば治安維持など一部の事業は企業ではなく国などが運営したり、あるいは交通機関などはたとえ民間企業が運営する場合でも法的な規制が強く存在していたりもします。 なお経済学には「政府の失敗」という対比的な呼び名の用語もありますが、しかし意味がそれほど対比的ではなく、「政府の失敗」とは市場メカニズムとはあまり直接の関係のない意味です(なので当面は覚えなくていい)。「政府の失敗」とは政府など国家機関だけに運営させると、きめ細かい対応が出来ない[6]、非効率な運営になりやすい[7]、と言ったような意味です。
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価格(かかく)とは、購入される個々の財(ざい)・サービスなどの1単位ごとに支払われる金額のことを指す。いわゆる値段(ねだん)や料金(りょうきん)と似たような意味である。 価格の決まり方は、基本的には市場での需要(じゅよう)と供給(きょうきゅう)とのバランスによって価格が決定される。 価格は、基本的に商品の需要と供給によって決まる物であるが、価格に決定の仕方によっていくつかの種類がある。 市場(しじょう)で現実に成立する価格で、需要と供給の大小によって上下する。例として、株式市場における株価などがある。 一般に、供給量に対して需要量が多ければ価格は上昇する傾向にあり、価格の上昇にともない供給が増えていきます。一方で、供給量に対して需要量が少なければ、価格は低下する傾向があり、価格の下落にともない供給が減る傾向があります。このような仕組みがあるので、長期的に見れば価格は、需要と供給のつりあう価格となる傾向があります。市場価格のうち、需要量と供給量のつりあう価格を均衡価格(きんこう かかく)と言う。(※ 帝国書院の教科書風の説明。) 独占価格(どくせん かかく)とは、せまい意味では1社により独占された市場での価格をいうが、広い意味では寡占価格(かせん かかく)や管理価格(かんり かかく)のことも指す。 水道料金のほかに、電気料金や都市ガス料金が公共料金である。 公共料金のサービスを提供している組織は、必ずしも公共機関では無い。 である。 郵便料金とか、鉄道料金・バス運賃・タクシー運賃なども公共料金であり、民間が自由には決められない。
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輸出(ゆしゅつ、英:export)は、外国へ商品を売ることである。輸入(ゆにゅう、英:import)とは、外国から商品を買うことをである。 貿易収支(ぼうえき しゅうし、英:trade balance)とは、輸出額と輸入額の差額である。 貿易黒字(ぼうえき くろじ、英:trade surplus トレイド・サープラス)とは、輸出額が輸入額より大きい場合のことである。 貿易赤字(ぼうえき あかじ、英:trade loss)とは、輸入額が輸出額を上回ってる場合のことである。 加工貿易(かこう ぼうえき、英:added-profit trade)とは、外国から原料を輸入し、日本国内で加工して工業製品にして、その工業製品を外国に輸出することで外貨をかせぐ貿易の方法のことである。 日本には資源がとぼしく、外国から原料などを多く輸入しているので、日本にとって加工貿易は、必要な方法である。 「1ドル=110円」とかの、ある国と別の国との通貨の交換を、外国為替(がいこく かわせ)といいます。 また、「1ドル=110円」のような、国と国との通貨の交換比率のことを「為替レート」(かわせレート)または「為替相場」(かわせ そうば)といいます。 銀行の窓口の近くの電光掲示板などで、為替レートが表示されています。為替レートは、日々、変動します。 外国企業との貿易の取引きでは、取引きのどこかの段階で、日本円を、相手の国の通貨に変える必要があります。 このような、日本円と外国通貨との交換の手続きは、日本の銀行と、貿易相手の外国の銀行が、仲介業者となって、通貨の交換が行われます。 日本の貿易では、支払いの通貨はアメリカの通貨のドルで支払いをすることが多いです。 「円高ドル安」(えんだかドルやす)というのは、ドルに比べて円が高いということです。「円高」と略す場合もあります。 たとえば、仮に1ドルと交換するのに100円だったとして、つまり為替レートが1ドル=100円 だったとして、そのあと為替レートが 1ドル=90円 に交換の比率が変化したら、今までよりも少ない円でドルが買えるようになったので、円高になったことになります。 逆に為替レートが 1ドル=100円から 1ドル=110円に変わったら、円が安くなったので円安ドル高(えんやすドルだか)、つまり円安です。 円高になると、輸入企業が有利になります。なぜかというと、今までの手持ちの円で、より多くの外国製品が買えるからです。 いっぽう、輸出企業が不利になります。なぜかというと、たとえばアメリカに輸出するときは、現地の通貨であるドルで販売するのが一般です。日本で作っている以上は、製品を作る費用は日本の円でかかっているので、それと同等の価値の値段を輸出先のドルでもつけないといけません。なので、円高の時は日本の輸出製品は、現地企業に比べて割高の値段になるのが普通です。そのため、輸出先国の消費者から日本製品が高価格と思われて、購入を手控えられてしまうことが多いのです。 なので加工貿易による工業製品の輸出で儲けている日本にとっては、円高では経済が苦しくなる場合が多いです。また、日本の場合、円高だと貿易収支は赤字になりやすいです。円安だと、貿易収支は黒字になりやすいです。 製造業は円高だと苦しくなる場合が多いです。特にデジタル家電などの規格化が進んだ工業製品では、どこの国で作っても性能が大して変わらないので価格の安さだけで消費者に評価されやすく、円高だとデジタル家電の輸出は不利です。 円高による日本経済の「円高不況」(えんだか ふきょう)などと言われます。 もっとも、原材料や石油などを購入するのには円高のほうが安く輸入できるので、必ずしも円高が悪いことばかりではありません。また、円安が輸出に有利と言っても、日本は外国から多くの資源や食料を輸入しているので、円安が進みすぎると経済が悪化してしまう恐れもあります。 円安だと石油価格は、日本人にとって割り高になります。 1960年代ごろから、せんい製品・カラーテレビ・自動車・半導体電子部品などが多く輸出され、アメリカの製造業が不振になり、アメリカと日本との貿易摩擦が起こる。 アメリカは日本に輸出の規制を、もとめる。 アメリカと中国が、日本の大きな貿易相手。 日本から外国への輸出では、アメリカへの輸出、中国(中華人民共和国のこと)への輸出、韓国(大韓民国のこと)への輸出、台湾への輸出が多い。 外国から日本への輸入は、中国からの輸入、アメリカからの輸入、オーストラリアからの輸入が多い。 中国は人件費が安いので、その結果、輸出品の価格も安くなるので、各国の消費者が価格の安い中国製品を好んで買うので、多くの製品が中国から輸出される。 中国からの輸出品の生産は、中国の現地企業が生産している場合もあれば、外国の起業が人件費の安い中国に工場をたてて生産している場合もある。 中国にかぎらず、東南アジアも人件費が安いので、中国と同様に、安い製品の輸出をしている。 日本からも、人件費の安い外国に生産工場をうつす動きがあるが、その結果、国内の工場の仕事が減り、国内の生産力が下がるという産業の空洞化が起きている。 また、外国に工場を作ると、日本国内の工場でつちかわれた生産ノウハウも外国の労働者に教えることになるので、外国に技術ノウハウが流出するという 技術流出(ぎじゅつ りゅうしゅつ) も、問題になっている。 また、中国は人口が多く、世界最大の人口を持つので、中国市場に多くの企業が参入し、中国への輸出額も多くなっている。 自由貿易の促進のため、関税の引き下げや、貿易の障害になりうる制限である貿易障壁を取り払うことを呼びかける国際機関。GATTにかわって設立された。約160カ国が加盟。 日本もこれに加盟し、なるべく関税の引き下げや貿易障壁などに協力している。 太平洋沿岸地域ではアジア太平洋経済協力APEC(エイペック) 1989年にオーストラリアの呼びかけて発足。日本も参加。日本・アメリカ合衆国・カナダ・韓国・オーストラリア・ニュージーランドおよび当時の東南アジア諸国連合 (ASEAN) 加盟6か国の計12か国で発足した。 オーストラリア、日本、アメリカ、韓国、台湾、中国、香港、メキシコ、カナダ、ブルネイ、インドネシア、マレーシア、ニュージーランドの旗 ニュージーランド、フィリピン、シンガポール、タイ、パプアニューギニア、チリ 、ペルー、ロシア、ベトナム が参加。 北アメリカ大陸でアメリカ、カナダ、メキシコが結んでいる貿易の協定。関税の撤廃などの自由貿易の推進をしている。 その他、2国間以上で相互に関税の引き下げるなどの協定を結ぶ自由貿易協定(じゆう ぼうえき きょうてい、FTA )を結ぶことも多い。 FTAはFree Trade Agreement の略。 FTAをさらに発展させたものとして、関税だけでなく各国間での人の移動の規制緩和などをふくむ、より深い経済交流の協定である経済連携協定(EPA)がある。EPAはEconomic Partnership Agreement の略。 これらの経済のグローバル化によって、価格は安くなった。その反面、いくつかの産業では先進国から人件費の安い国へ産業が流れて、先進国でいくつかの産業が衰退した。 また、各国で景気が連動するようになった。2007年〜2008年におきた、アメリカの住宅バブル崩壊がきっかけの国際的な金融危機である世界同時不況は、その例であろう。 鉄鋼や自動車などの関税を10年以内に撤廃。 以下のものの関税を10年以内に撤廃もしくは削減。 農産物のバナナ、パインの関税を10年以内に撤廃。 水産物のキハダマグロ、カツオの関税を10年以内に撤廃。 日本からの輸出の農産品目として関心の高いブドウ・リンゴ・ナシの関税を撤廃。 介護現場や看護現場でのフィリピンからの外国人介護福祉士・看護師の日本への受け入れもEPAに基づく(もとづく)ものである。 ブラジル(Brazil)、ロシア(Russia)、インド(India)、中国(China)の4カ国のこと。 この4カ国は1990年以降の経済成長が目覚ましい国である。 この4カ国の共通点として、国土が広く、天然資源も豊かで、人口も多いので、1990年代よりも以前から経済発展が期待されていた。 4カ国の特徴
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一国の経済力は、どうやって計算すれば良いだろうか? まず、消費者が商品を買う時、値段のぶんの価値を認めている。 消費者が商品を買う時、原材料費などの原価よりも値段が高くても消費者が買う理由は、その「原価との差額のぶんだけの価値が、商品に追加されている」と消費者が認めているからである。 もし、消費者が値段分の価値を商品に認めていないのなら、消費者は買わなければいいのである。 だったら、ある商品について、原価と販売価格の差を計算すれば、その商品を消費者まで届ける労働の生産性が測れそうである。 最終的な売り上げ額から、原材料費や設備費や下請けメーカーへの費用などの原価を引いた差のことを 付加価値(ふか かち、英:added value[1]) という。 つまり式で書けば、簡単に言うと、 である。 販売者以外の原材料メーカーなどの労働の価値は、販売者から見た場合の原材料費に含まれている。 付加価値の計算では、原材料などの中間財を売ることで得た金は含まれない。これは同じ商品について二重に数えることを、さけるためである。 付加価値などの用語の意味などは、業界によって多少の意味の違いはあるが、大まかな意味は、このような意味や計算式である。 そして、日本中のすべての産業について、日本中の付加価値を足し合わせれば、その国全体の(つまり日本国全体の)、労働の生産性が計算できそうである。 じっさいに、国内の付加価値を総計した金額のことを 国内総生産( こくない そうせいさん)といい、英語のGross Domestic Product (グロス・ドメスティック・プロダクト)を略した GDP (読み:ジーディーピー) という表記がよく用いられる。 つまり式で書けば、簡単に言うと、 である。 国内総生産の計算では、企業が原材料などの中間財を売ることで得た金は含まれない。これは同じ商品について二重に数えることを、さけるためである。 ボランティア労働や家事労働などの成果は、GDPの計算には含まれない。なぜなら、計算のしようがないのである。 さて、日本のGDPは世界第3位である。(2014年。) GDPの1位はアメリカ合衆国であり、2位は中華人民共和国です。2010年に日本はGDPで中国に抜かれました。 ところで、「経済成長率」(けいざい せいちょうりつ、英:economic growth rate)という言葉を聞いたことがあるだろうか? 年ごとに国内総生産の変化を調べれば、経済力が成長しているかどうかが分かりそうである。 経済学では、経済成長率とは、次の式によって定義される。 なお、上の式で、 式から分かるように、GDPが前年より下がると、経済成長率はマイナスになる。このようなGDPが下がった場合を「マイナス成長」などという。 「マイナス」成長と言っても、けっしてGDPの金額そのものがマイナスというわけでは無くて、けっして赤字や借金などでは無くて、マイナス成長とは単にGDPが下がっただけのことである。 国内総生産(GDP)には、日本国内で働いた外国人の作った付加価値も含まれる。また国内総生産(GDP)には、日本人が外国で作った付加価値は含まれない。 以前使われていた指標として、国民総生産(こくみん そうせいさん)というものがあった。これは国民[2]が作った付加価値の合計で、英語では Gross National Product (グロス・ナショナル・プロダクト)と言い、略した GNP (読み:ジーエヌーピー) と言う略称の表記がよく用いられた。 式で国民総生産を書けば、 である。 国民総生産は、日本人が外国で作った付加価値の金額も含まれる。そのため、グローバルな経済活動が進み、日本企業が国外で、または海外企業が日本国内で行う経済活動も活発になった現在、日本国内の経済状況をしめすのにやや不正確なGNPは使われていない。 中学校の段階では、「名目GDP」と「実質GDP」の用語の意味のちがいは知らなくても、じゅうぶんである。 なお、「実質GDP」(じっしつGDP、英:real GDP)とは、物価の変動を考慮して、単純計算で求めたGDPに、物価指数を用いて補正したものに過ぎない。 実質GDPの式は中学レベルを超えるので紹介しない。 「名目GDP」(めいもくGDP、英:nominal GDP ノミナル・ジーディーピー)とは、物価の補正などを行ってない単純計算で求めたままのGDPのことである。 GNPについても同様に名目GNPと実質GNPがある。 「実質経済成長率」(じっしつ けいざい せいちょうりつ、英:real economic growth rate)とは、物価の変動を考慮して、単純計算で求めた経済成長率に物価指数を用いて補正したものに過ぎない。 実質経済成長率 の式は中学レベルを超えるので紹介しない。なお、「名目経済成長率」(英:nominal economic growth rate)とは、物価の補正などを行ってない単純計算で求めたままの経済成長率のことである。
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財政について、1年間の国または収入を歳入(さいにゅう)と言います。 4月1日から、翌年の3月31日までの1年間が、会計での一年の年度です。 財政について、一年間の年度の支出を、歳出(さいしゅつ)と言います。 国会できまった政策(せいさく)や事業(じぎょう)の計画を実行にうつすには、お金が、かかります。 警察や消防などにも、お金が、かかります。公立学校の運営にも、お金が、かかります。市役所や県庁や中央官庁の運営にも、お金は、かかります。このような公共サービスを行うのにも、お金が必要になります。 道路やダム、港、上下水道など、社会全体で利用したり活用したりする設備や施設を社会資本(しゃかいしほん)と言います。社会資本の多くは、投資の規模が大きくて、民間に投資させるのは不向きです。また、みんなが使うものなので、個々人に別個に所有させていては非効率です。なので、道路やダムなどの建設は、国などが支出をして建設していくのが一般です。なお、社会資本のことをインフラストラクチャーとかインフラとも言います。たとえば「道路インフラ」とか「港湾インフラ」と言ったら、社会資本として見た場合の道路や港のことです。 国や地方などの命じる道路建設や、国や地方の命じる災害対策工事などの土木工事のことを、公共事業(こうきょう じぎょう)と言います。この公共事業にはお金がかかります。そして、国のお金は、税金として、あつめられます。 一般に、道路やダムや公共の電気網・水道設備などを社会資本(しゃかいしほん)に分類されます。 このような国の政策や国の事業計画を実行するためのお金の出し入れのことを、財政(ざいせい)と言います。 国だけでなく、市町村や都道府県などが行う政策や事業のお金の出し入れも、おなじように財政(ざいせい)と言います。 一般の家庭や企業の収入・支出については、「歳入」・「歳出」とは言いません。歳入歳出という場合は、国の財政や都道府県・市町村などの財政の場合の用語です。 財政について、これからの一年間の歳出と歳入の計画を、予算(よさん)という。そして、前の一年間の歳入と歳出を、決算(けっさん)という。 国の歳入は税金だけでなく、国債(こくさい)という、国が金を借りるための債券を政府は発行していて、民間などから借入れています。 つまり、(日本)国債で金を借りている者は(日本)政府です。金を貸している者は、国債の購入者です。 国債は借金ですので、国債を購入した相手に、将来的に利子をつけて返却しなければなりません。 なお、日本政府ではなく地方公共団体が発行している債券のことを地方債(ちほうさい)といいます。 国債や地方債をまとめて公債(こうさい)と言います。(※ 東京書籍、教育出版、育鵬社などで「公債」を紹介) 国債も地方債も借金です。つまり、公債は借金です。 不景気がつづいて税収が減った時に、税収の不足分をおぎなうために国債を発行する事が多いと言われています(※ 検定教科書でも、そういっている)。 国債の返却は、将来にわたって、国民の税金によって返却が行われることになります(※ 検定教科書でも、そういっている)。 国債で借り入れた金は国の借金なので、当然、歳出として返さなければならない。国債費は、その年度に返すぶんの国債の金額である。国債の利子(りし)や元本(がんぽん)の返済のぶんである。 社会保険(しゃかいほけん)・生活保護(せいかつほご)・社会福祉・失業対策など。 社会保険(しゃかいほけん)とは、事故や病気や高齢などに備えて、国民が事前に強制的に入らされる保険です。医療保険(いりょうほけん)、年金保険(ねんきんほけん)、介護保険(かいごほけん)、雇用保険(こようほけん)、労災保険(ろうさいほけん)の5種類の社会保険があります。 国民の高齢化によって、社会保険が増えていくことが予想されています。(2014年に記述。) 地方財政をたすけるため、国は地方に金を出しています。地方が受けとる国からの交付金を地方校税と言います。国は、地方校税をはらう側の立場なので、つまり地方交付税を交付する側の立場なので、地方校税交付金が、国の歳出になります。 国や地方などの命じる道路建設や、国や地方の命じる災害対策工事などの土木工事のことを、公共事業(こうきょう じぎょう)と言います。国の歳出における「公共事業関係費」とは、国が、この公共事業に払う歳出のことです。 国民は、納税の義務を負っている。(憲法第30条:「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負う。」) ・ 直接税と間接税 所得税と法人税は、税金をおさめている納税者(のうぜいしゃ)と、税金を負担している人( 担税者(たんぜいしゃ) という)が同じ人である。 このような 納税者と担税者とが同じ税金を 直接税(ちょくせつぜい) という。いっぽう、税金を納める人と、税金を負担する担税者が別々の人である税金を 間接税(かんせつぜい) という。たとえば 消費税(しょうひぜい) が間接税である。酒税も間接税です。 ・ 国税と地方税 税金には、都道府県や市町村に納める(おさめる) 地方税(ちほうぜい) と、国に納める 国税(こくぜい) がある。 なお、消費税のように、税金を負担する人と、税金を納める人がちがう税金を 間接税(かんせつぜい) という。 収入の低い人にも消費税がかかるので、消費税の負担の感じかたが、収入の少ない人ほど重い負担と感じる場合もある。このようなことを、消費税の「逆進性」(ぎゃくしんせい)などと言う。(日本では、多くの人は累進課税を税における公平感の基準に考えているので、消費税は逆進的に感じる。) 必ずしも、だれもが健康とは限らないし、また、格差が固定化するのを恐れているので、累進課税によって所得を平均化するのが望ましいと、日本では考えられている。 このため、あまり消費税を大きくするべきではない、という意見もある。しかし、けっして収入が低いからと言って消費税の税率が高くなるということは無いので、そこは勘違いしないように。 所得税などの累進課税では、収入の低い人は負担をへらすほうが公平だろうという考え方にもとづいている。いっぽう、消費税は、収入に関係なく、同じに税率をかけるのが公平だろうと考えている。 税金は、だれかが負担しなければ、いけないのです。 公道などの道路を作ったり修理したりするのにも税金は使われています。ほかにも、公立の学校の設備や公立学校で働く先生や職員などの人の給料にも、税金は使われています。市役所や郵便局など役所の設備や、そこで働く人の給料にも、税金は使われています。警察署や消防署も、税金がつかわれています。 道路をなくすわけには、いきません。市役所や郵便局なども、なくすわけにはいきません。だから、税金が必要になるのです。 読者の学生は、大人になったら、会社などで働きはじめる人が多いでしょう。働いて収入をかせぐことは、所得税という税金をはらうことでもあります。けっして「募金(ぼきん)やボランティア活動をすることだけが、社会への貢献だ」なんてことは、ありません。仕事をするということは、結果的に所得税を税金を払うという、一種の募金のような行為でも、あるのです。 国が歳入をあつめるには、税金として集めるほかに、民間などから「借りる」という方法もあります。 国が民間からお金を借りる場合は、「貸してあげてもいい。」と考えている人からお金をかります。このため、国債(こくさい)という、「将来、利子を払って元金(もときん)とともに国がお金を返します」という権利をきめた証券(しょうけん)を、国が発行し販売します。 税収だけでは必要な財政支出をまかなえない場合に( 「赤字財政」(あかじ ざいせい)と言う )、国は国債を発行します。 国債は、国の借金なので、期限が来たら、国は、借りた分の元金に利子をつけて借金を返さなければなりません。なので、国債が多いと、あとで国の財政が苦しくなります。 国債の借金を返すための財源は税金です。なので、国債の借金は、将来の国民の負担になります。 なお、地方公共団体が発行する借金の債権を 地方債(ちほうさい) と言い、国債と地方債をまとめて 公債(こうさい) と言う。 国債や地方債の残高が、毎年、どんどんと増加しています。つまり、国や地方公共団体の借金が、増加しています。このため、「借金が本当に返せるのか?」とか不安視もされています。財政の改革が必要になっています。国の事業の経費の節減や、不要な事業の廃止や民営化が必要だろうと、よく言われる。 国が歳入をあつめるには、税金と国債のほかにも、印紙収入(いんし しゅうにゅう)というのが、あります。役所で手続きをする場合、手数料が必要になる場合があります。このとき、利用者は印紙(いんし)というものを役所の窓口などで購入し、役所に出す書類などに印紙を貼って(はって)提出します。印紙収入とは、役所が印紙を販売したことによる収入です。政府が印紙を発行しています。 税金として集めた金額を 租税(そぜい) と言います。国債は租税ではありません。印紙収入は租税ではありません。 所得税や法人税や消費税など、税金として集めた歳入が租税です。 ・ 統計(とうけい)データ 国の財政の役割としては、景気の調整という役割もあります。 不景気のときには、民間に仕事が少ないので、公共事業などを行い支出を増やすことで景気を向上させようとします。また、減税を行い民間に、流れる資金を増やします。この他、政府は中央銀行とも協力して、さまざまな政策を行います。 逆に、好景気がゆきすぎてる時は、増税をしたり、公共事業を削減(さくげん)したりして、景気を落ち着かせる場合があります。 好景気がゆきすぎると、物価が高くなりやすく(インフレになりやすく)、生活が苦しくなる場合があります。 このように、政府が財政を利用して、景気を調整しようとする政策のことを 財政政策(ざいせい せいさく) と言います。 税収や国債にもとづく予算とは別に、政府や国の信用にもとづいて集めた資金による予算が存在していた。その資金を、政府が地方公共団体や政府の関係機関に投資したり融資したりしていた。これを財政投融資といい、かつては郵便貯金などが財源にあてられていた。これは道路の整備や地域の開発のように、多くの人々の生活に深いかかわりのあるものの普通の銀行や金融機関は資金を出しにくい事業に出資される。 2001年からは、財政投融資は債券になっており、財投債という債券が発行されている。 かつて財政投融資は規模が大きく、一般会計の半分ほどの大きさだった時代もあった。そのため、財政投融資は「第二の予算」とも言われていた。しかし近年、財政投融資の規模は縮小している。 日本では、1960年代ごろの高度経済成長期あたりに、日本各地で多くの道路や水道、河川には橋など、多くの 社会資本が整備されてきました。 ですが21世紀をすぎた現在、それらは老朽化してきています。また、実際に老朽化した水道管が破裂するなどの事故、ときどき起きています。 整備して最新のものに取り替えようにも、財政難などの問題もあり、なかなか簡単にはいきません。 だから、もしかしら作り変えをするのではなく、その土地でその社会資本を廃止するという選択肢を取らざるをえない可能性もあります。 今後は少子高齢化による人口減少の問題もあるので、そういう未来の状況のなかで、その社会資本を維持できるのか、維持すべきなのか、それとも維持をやめて封鎖や取り壊しをすべきなのか、色々と考えていかざるをえません。 「ふるさと納税」という制度があります。これは所得税や住民税を納める際などに、自分の住んでいる自治体ではなく、希望する他の自治体に税金を収める制度です。(教育出版「公共」の見解) 自分の住んでいない場所を「ふるさと」と言うべきか日本語の語感として疑問もあるかもしれませんが、まあこういう制度もあります。
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税金には、都道府県や市町村に納める 地方税 と、国に納める国税 がある。 税 酒税は「しゅぜい」と読む。関税は「かんぜい」で、外国からの輸入物に対して、かけられる税金。 所得税と法人税は、税金をおさめている人(納税者)と、税金を負担している人(担税者)が同じ人である。このような(税金を納めている人と負担している人が同じ)税金を直接税という。また、直接税の多くは収入が多くなるほど税率が大きくなる累進課税 という仕組みが取られている。累進課税制度では、高所得者と低所得者とあいだの、納税後の収入を近づける結果になるので、格差の拡大のゆきすぎを防ぐという仕組みがある。いっぽうで、あまりにも累進の度合いが高すぎると、他人より多く働いても、多くの税金を持って行かれてしまうので、働く意欲をそこなう可能性もあると指摘されている。 また、所得税は、累進課税などの格差拡大をふせぐ仕組みから、一見すると公平な税金の取り方のように見えるが、会社などで働いている世代に多くの負担を求める税だともいわれている[1]。 主な直接税は所得税、法人税、相続税である。 他にも次のような直接税がある。どれも地方公共団体に納める地方税である。 教育出版などの一部の教科書でも触れられているので、ここでもいくつか補足しよう。また、検定教科書ではないが、資料集などで触れられている場合もある(とうほう社『ビジュアル公民2020』にて、確定申告の記述があるのを確認)。 ここで説明する制度の具体的な方法・内容については中学高校のレベルを大幅に超えるので、大まかな説明にとどめる。しかし、皆さんも将来、アルバイトをしたり仕事に就いたりしたときによく聞くようになる言葉なので、できれば読んでほしい。 所得税の場合、確定申告という、所得を税務署に申告する制度を利用する。これによって、支払うべき所得税額を確定し、自分で税を納める。普通は、働いて収入を得た人は全て確定申告をしなければならない。 しかし、日本などでは、会社員が会社から受け取る給料は、あらかじめ所得税が差し引かれているのが普通である。なぜなら、会社員の場合、会社側が確定申告を会社員に代わって行い、所得税を払っているからだ。こうした仕組みを「源泉徴収」という。「年末調整」はこれに関する制度。 ただし、会社員であっても1000万円以上の収入がある場合や複数の会社から収入を得た場合には自分で確定申告をしなければならない。 いっぽう、税金を納める人(納税者)と、税金を負担する人(担税者)が別々の人である税金を間接税という。たとえば、消費税の場合、税金を負担するのは消費者であるが、税金を納めているのはお店などの小売店である。 間接税の税率は個人の収入には関係しない。税金を負担する人は商品を買った消費者である。値段の中に、税がふくまれている。 主な間接税は、入湯税・関税・酒税などである。 所得税にも消費税にも、それぞれ長所と短所がある。 まず、所得税を中心に税金を集めると、おもに働く世代から税金を取っていることになる。だから、所得税だけで税金を集めることは、世代の公平性という観点からは望ましくない。しかし、収入の差を減らし、人々の間の格差をなるべく縮小する点で優れている。 一方、消費税は、年代に関係なく商品を買うので、どの年代の人たちからも、税金を取りやすい仕組みになっている。そのため、世代間の公平という点では優れている。一方で、収入の低い人でも、消費税を払うことになるため、消費税は収入のひくい人にも、負担をしいる。このため、消費税は、収入がひくいほど、収入における税の負担の割合が大きくなるという、「逆進性」がある。また、消費税は、消費をすればするほど税金を払うことになりますので、消費意欲をそこなって、消費が低迷する可能性がある[3]。 税を集める効率性という点ではどうだろうか。 収入によって税率が変わるというのは、払うべき税金額の計算や手続きなどが複雑になり、その制度のための費用なども掛かる。また、税務署が、すべての人の収入を把握するのは難しい。所得税だけでは、収入をかくす人も出るだろう。だから、所得税だけの税制だと、業種ごとの不公平が生じる。 いっぽう、消費税のように税率が一定なら、消費をするたびに税金を払うことになり、業種に関係せず人々は消費するので、そういう意味では消費税は公平でもある。このように、消費税には、業種によらず公平に税金をとれるという長所があることなどから、多くの国で、消費税は導入されている。しかし、消費税は支払う企業側の事務処理や資金の負担などが大きい。食料品などの特定の商品は消費税率を安くする軽減税率は制度が複雑になり、事務処理の負担がさらに増す。 結局、どんな税金の取り方にも、長所と短所がある。 ひとつの種類の税金に片寄ることなく、いろんな方式の取り方の税金を、組み合わせる必要がありそうだ。 税金は、だれかが負担しなければならない。 公道などの道路を作ったり修理したりするのにも税金は使われている。ほかにも、公立の学校の設備や公立学校で働く先生や職員などの人の給料にも、税金は使われている。市役所など役所の設備や、そこで働く人の給料にも、税金は使われている。警察署や消防署も、税金がつかわれている。 道路をなくすわけにはいかない。市役所などの行政サービスもなくせない。だから、税金が必要になる。
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日本は、戦後(第二次大戦後)に公共事業を多く行い、財政の支出がふくらんだ。その結果、国の借金もふくらんだ。国の借金の残高である国債残高(こくさい ざんだか)は800兆円をこえている。 政府は、支出を減らすために国の事業の縮小や撤退を行い、国が行っていた事業のいくつかを民間企業にさせたり、あるいは民間企業に事業を売り払う、民営化(みんえいか)を行っている。 また、省庁(しょうちょう)の統廃合も、財政支出の削減を考えての面もある。 2018年、水道事業の運営を民間企業が行うことを可能にする水道法改正案が国会で可決されました。 日本にかぎらず、海外でも一部の国で、水道を民営化する政策が実行されたこともあります。ただし海外では、国によっては、水道料金の高騰などの不都合が起こり、ふたたび水道事業を公営に戻した国もあります。(民営化前の議論では、「民営化によって効率的な経営が行われることにより、水道料金が安くなるはずだ」という予想があったが、その予想に当てはまらない結果になった国もあった。) かつて、日本の水道管理は原則、自治体が行うものでした。しかし近年の日本では、水道民営化も議論になっています。 なお、改正水道法の法案では、民営化したとしても最終的に自治体が給水の責任をもつものとされています。そのため、災害などの際は自治体が最終的な給水の責任を持つと考えられている、と言われています(※ 日本文教出版の教科書の見解)。 1980年代にイギリスではサッチャー政権が行政などの民営化の改革を進めており、経済的な議論のほかにもサッチャーが女性首相であったことなどワイドショー的な話題も含めて、世界的にも話題になった。ただし日本の上述の改革の手本は1990年代のものも多く、90年代にはすでにサッチャー政権は終了しているので、完全には時期は重なってはいない。ともかく、2000~2010年の日本は90年代のイギリスの民営化改革にならった行政改革をしていたと思われる。 なお高校の政治経済でサッチャー政権については習う。イギリスだけでなく、雨リカのレーガン政権の1980年代の新自由主義なども、この流れによるものである。日本も1980年代、国鉄(現在のJR)や電信電話公社(現在のNTT)などの民営化が続いたが、これも米英と歩調をあわせた日本流の新自由主義の一貫だと思われており、高校の政治経済の教科書でも、おおむね、そのような視点で解説される。)
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財政支出を行うには、財源となる税金を取らなければいけません。税金を取らずに、財政を大きくすることは出来ません。 スウェーデンなどでは、ステチルや介護などの福祉が手厚かったりしますが、かわりに税金が大きく、消費税は20%をこえています。このようなことを福祉の面から考えた「高福祉高負担」(こうふくし こうふたん)という言葉があります。 なにも医療や介護だけに限らず、国の公共サービスや公共事業が大きければ、その分、税金の負担は重くなります。 政府の財政支出の規模が大きくなれば、その分、税金は重くなります。 スウェーデンのような、たとえ税金が重くなっても、国の公共サービスなどを手厚くするべきだという考えを 「大きな政府」 と言います。 アメリカは政府の支出を最小にとどめるべきだという考えにたち、個人の責任に多くをゆだねるという考えにたっています。このような国の財政では、税金は小さくなりますが、国の公共サービスも小さくなります。政府の支出を最小にすべきだという考えを 「小さな政府」 と言います。 欧米の先進国では、財政を拡大するには税金などの歳入をふやすしかないと考えています。逆に税金を減らそうと思ったら、財政支出も減るので、国の事業が減り、公共のサービスのいくつかは無くなることもガマンしなければならない、と考えています。 どんな国の事業でも財源として税金が必要であり、何かの公共サービスをしてもらうには税金などを国民は払わなければならない、と考えられています。このような考えを財政におけるトレード・オフ(英: Trade-off)と言います。(※ 高校で習う単語です。) 財政の悪化をくいとめるには、国の事業に無駄づかいが無いかを監視するのも、有権者には必要かもしれません。ですが根本的には、有権者自身が、今ある公共サービスの意義を見直し、多くの人が不要だと感じた公共サービスは廃止したりしてサービスを中止させることをしなければ、財政支出は減りません。 もしも地方自治体などの財政が破綻したら、どのみち、その自治体の不要な公共サービスは、財源が無くなるのでサービスを中止することになります。 読者は中学公民の冒頭の単元で、公平・公正・効率の3つの考え方を習ったと思います。 これら3つの考えの間にも、トレード・オフはあります。 例えば、ある問題の対策として、公平に処理しようとすると、ある部分では効率性が損なわれたりする場合もあります。 このような場合には、「公平と効率はトレード・オフの関係にある」などと言えます。 そもそも公平・公正と効率の3つのバランスを考えないといけない理由じたい、これら3つの視点がトレード・オフの関係にあるからです。
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日本銀行は、物価や景気などが安定するように、民間の金融市場に流通するお金の量を調節したりする場合があります。 このような日銀の行動を、日銀の「金融政策」(きんゆう せいさく)などといいます。 日本銀行は金融市場で国債や手形などを売買することで、民間の金融市場のお金の量を調節しています(これを公開市場操作(こうかい しじょう そうさ)といいます)。 景気が悪くなってきた場合、日銀は、民間の銀行などの金融市場のお金を増やさせる行動を取ります。そのためには、景気が悪い場合には、日銀は、民間の銀行から何かを買うという買い物を、金融市場ですればいいわけです。そうすれば、民間の銀行には、日銀が買ったぶんだけのお金が入りますので。 つまり、景気が悪いとき、日銀は、民間の銀行から、それらの銀行が保有している国債(こくさい)や手形(てがた)などを買います。 逆に、景気がよいときは、日銀は、どんどん、日銀の持ってる国債や手形などを売ります。 昔は、公定歩合(こうてい ぶあい)(※ 日本銀行が民間の銀行にお金を貸し出すときの金利)を変化させて、景気を調節することが多かったですが、近年の日本では、日本銀行の金融政策は、原則として公開市場操作によることが主に用いられています。 ともかく、現在の金融政策の中心は、「公開市場操作」です。 政府も、公共事業などを通して、民間企業に入るお金の量を調節する場合があります。 不景気のときは、道路工事などの公共事業をして、民間企業に入るお金を増やします。公共事業のほかにも、減税を行うことで、民間企業の持つお金を増やす場合もあります。 ただし、これらの公共事業や減税は、政府の財政(ざいせい)を赤字に近づけてしまいます。 いっぽう、景気がよい時には、景気の加熱を防ぐため、税金を増やしたり、公共事業を減らすことで、民間企業のもつお金を減らします。 このように、政府が、公共事業の増減や、減税・増税などで、景気を調節することを財政政策(ざいせい せいさく)といいます。 じっさいには、日銀の金融政策と、政府の財政政策とが、うまく組み合わされて、景気を調節するための政策が行われます。 金融政策と財政政策をまとめて経済政策(けいざい せいさく)といいます。 外国でも、景気の変化にあわせて中央銀行は金融政策を行い、政府は財政政策を行います。
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日本の社会保障は、社会保険・公的扶助(こうてき ふじょ)・社会福祉・公衆衛生の4つにもとづいている。 社会保障での「公衆衛生」とは、保健所などの、感染症の予防の活動のこと。 人々が万が一の事故や病気などにあったときのために備えて、あらかじめお金を出し合う仕組みを保険(ほけん)という。 保険には、民間による保険と、国による保険がある。この記事での保険の説明は、おもに、国による保険について説明する。 「社会保険」(しゃかい ほけん)とは、日本国による保険である。たとえば、病気になったときに医療費が安くなるという国民健康保険(こくみん けんこうほけん)や、老齢になったときにお金を受けとる年金(ねんきん)などが社会保険である。 社会保険は保険の内容ごとに、医療保険(いりょう ほけん)や年金保険(ねんきん ほけん)、介護保険(かいご ほけん)や、労働災害保険(ろうどう さいがい ほけん)、雇用保険(こよう ほけん)などに分かれている。 国民健康保険などの国の医療保険に加入してないと、病気になったときに治療費を全額負担することになり、治療費が高くなる。 公的な医療保険(健康保険など)はすべての日本国民に加入の義務がある。( 国民皆保険(こくみん かいほけん) ) 健康保険に加入するのは75歳未満で、75歳以上は後期高齢者医療制度(こうき こうれいしゃ いりょうせいど)を利用する。 老齢になったときにお金を受けとる 年金(ねんきん) は、社会保険の一つである。 国による公的年金(こうてき ねんきん)の年金保険には、国民年金(こくみん ねんきん)などがある。 国民年金の基本的な役割は、高齢になったときに年金を受け取れる老齢年金(ろうれいねんきん)の役割が基本だが、ほかにも、けが・病気で障害者になったときの障害年金(しょうがい ねんきん)という役割もある。 これら老齢年金、障害年金、遺族年金は、一つの年金で、まとめて払っている。個別に払うことは出来ない。 また、年金の加入先には、職業別に国民年金、厚生年金、共済年金などがあるが、一般の利用者が「どの職業が、どの年金に加入するか?」を自分で覚える必要は無く、年金事務所などに相談に行って申請書に職業など必要事項を書いて報告すれば、事務所の担当者が法律にもとづいて、適正に加入先を判断してくれる。 就職した場合は、勤務先の会社が大手の会社なら、会社が手続きを代行して厚生年金などに登録してくれる。 だが、そうでない会社もあるので、きちんと確認する必要がある。 会社を失業した場合は、けっして自動的には加入するべき年金加入先が切り替わらないので、年金事務所を訪れて、自分で国民年金に登録しなおす必要が有る。 なお、年金を納め始める20歳のときと、45年後の65歳の時代では、物価が異なる場合も考えられる。このため、国による年金の受給額には、物価の変動に応じて年金受給額を調節するという、「物価スライド」という仕組みを取り入れている。 ・ 障害年金(しょうがい ねんきん) この障害年金では、病院への初診の時点で年金に加入してないと、たとえ病気・けがで障害者になっても、障害年金を受けられない。 障害者手帳(しょうがいしゃ てちょう)は年金に加入しなくても障害者が市役所の福祉課などに申請すれば受け取れるが、障害年金は年金に未加入(み かにゅう)だと受け取れない。 世間で「年金」というと、少子化による老齢年金の財政難ばかりが話題に取り上げられやすい。だが、実用的には、障害年金について知ることも、とても重要である。 この障害年金の制度による障害者への救済があるため、たとえ国の財政・政策に不満があろうが、年金には必ず加入するべきであり、年金保険料は払うべきである。 国民年金は20歳を過ぎると、国民すべてが加入する義務がある。払わなくても罰則がないが、年金を受け取れない。 国民年金、厚生年金などの加入者が死亡したときに、残された遺族(いぞく)に対して支給される公的年金。 ・ 労働災害保険(ろうどう さいがい ほけん) 仕事でケガをしたときの社会保険として、労働災害保険(ろうどう さいがい ほけん)がある。業務上の病気・けが等の災害を労働災害(ろうどう さいがい)という。通勤(つうきん)中の災害も含む。労働災害を略して労災(ろうさい)と言う。 労災保険は原則的に会社が加入義務を負い(特殊な業界を除く。)、負担料も会社が払う義務がある。 授業員がアルバイト、パートであろうが、経営者は労災保険を払う義務がある。経営者以外の授業員の数が、たとえ1人でも従業員がいれば、会社は労災保険を払う義務がある。 労災保険の加入義務が無いのは個人経営の自営業の場合など。 もし加入義務のある普通の会社なのに、労働者を雇っているのに会社が労災保険を払って無かったら、違法なので、役所に相談し違法行為を報告するべき。 アルバイトやパートを労災保険に加入させない会社があれば、会社の違法行為なので、役所に相談し違法行為を報告するべき。 世間で「社会保険」というと、少子化による老齢年金の財政難ばかりが話題に取り上げられやすいが、実用的には、障害年金や労災保険について知ることも、とても重要である。これら労災年金や障害年金などを知らないと、もしも病気や事故、労働災害などを負った時に、大変な事態に、あいかねない。 公的介護保険(こうてき かいご ほけん)は、40歳以上に加入義務がある。 介護が必要になったときに、1割負担で介護が受けられる。 介護が必要な老人も、老人ホームなどで介護を受ける。 2000年に、公的介護保険制度が導入された。 現在の日本では、介護労働は、一般に重労働であり、なのに賃金が低いという社会問題がある。さらに介護職員の待遇が、非正規社員の場合もある。 収入が少なくて最低限度の生活が出来ない人に、自立のために必要なぶんの生活費を役所が支給する制度を生活保護(せいかつ ほご)という。生活保護の財源は、税金などである。 貧しくて生活費をもらう側の人が、生活保護を受ける側の人である。 この制度は生活保護法(せいかつ ほごほう)に、もとづく。 まず、身体障碍や知的障害など、障害のある人のことを「障がい者」と言います。 英語のほうで、障害者を意味する ハンディキャップド handicapped が文字中の cap (帽子)のつづりから、物乞い(ものごい)・コジキを連想させるので尊厳上よろしくない、と苦情が高まって、言い回しが person with disabilities (直訳すると「できないことのある人」的な意味)になっており、日本の公文書などでは「障害のある人」のように訳されます。 小中学校にある「特殊学級」とか「特殊支援学級」というのは、知的障碍児童や肢体不自由児童や極度の弱視者や難聴者や身体虚弱者などのための教室のことです。教科書では習いませんが、おそらく中学校あたりで教師からの口頭などで習うと思います。昭和後半~平成初期の時代は「特殊教育」と言ってましたが、2007年から「特別支援教育」へと言い方が変わりました[1]。地域によっては「養護学級」などという場合もあります[2]。 ※ 下記から中学の範囲に戻る 高齢者や障害者を施設などに隔離(かくり)せず、たとえ障害者や高齢者でも、なるべく自宅で普通に生活できるようにすることこそが社会福祉の目指すべき方向性である、という考え方のことをノーマライゼーション(normalization[3])という。 また、ノーマライゼーションのための手段として、歩道などを車いすの身体障害者でも移動しやすいように整備をしたりする必要がある。 たとえば、道に大きな段差があると、その場所は車いすの人が通行できない。同様に公共機関の入り口に大きな段差があると、その施設には車いすの人が入れなくなる。 一般に建物の床は、平地よりも、やや高い場所にあるのが普通なので、スロープ(なだらかな斜面)などが無いと、車いすの人は、その建物の入り口には入れなくなる。なので、公共施設などの入り口には、スロープなどがあるのが一般である。 このように、公道や公共施設などの整備をして、障害者が使えない施設をなくすことをバリア フリー(barrier free[4])という。 言葉の「バリア」の意味は、物をさえぎるバリアーのことで、入り口の段差が車いすの障害者にとっては、障害者を遠ざけるバリアーになっている、という意味である。 説明のために車いすの利用者に例えたが、べつに車いす利用者だけに限らず、ノーマライゼーションやバリアフリーは取り組まれている。 ほか、公共施設や店舗などは、盲導犬の使用を拒否できません(※ 東京書籍の見解[5])。 製品を設計する際に、利用者に障害者なども含み、身体に不自由のある人でも使えるように設計することをユニバーサルデザイン(英: universal design[6])という。べつに、利用対象を障害者に限定していない。 障害者基本法という法律があり、障害のある人の自立と社会参加を目的としています。 ぽか、2013年には障害者差別禁止法が制定されました。障害者差別禁止法は文字通り、障害のある人への差別を禁止する理念の法律です。 最近は「インクルージョン」という用語も提唱されてきている。(※ 東京書籍が公民教科書で紹介予定(東京書籍デジタルパンフレットによる確認)。) 「ノーマライゼーション」や「バリアフリー」など既存の用語だと意味を限定しすぎてしまうので(「バリアフリー」や「ユニバーサルデザイン」だと設計手法の用語)、もっと大まかに「障碍者でも、なるべく不自由がなく暮らせるようにしよう」という程度の漠然とした福祉思想のことを「インクルージョン」と言っている。 「インクルージョン」は比較的に新しい用語なので、本wiki当ページでは、これ以上の説明を省略する。「バリアフリー」や「ユニバーサルデザイン」などは1990年代頃から古く提唱されてきているが用語だが、インクルージョンはそうではない。 なお、英語でインクルージョン inclusion とは、「含む」(ふくむ)とかの意味の名詞。動詞インクルード include の名詞形。「障碍者でも、健常者でも、わけへだてなく」的な意味だと思われる。 インクルージョンなどを提唱している人たちには、障害児むけの特殊学級などを批判している人もいます。健常な児童と同じ学級で教育すべきだという意見です。 インクルージョンでは理想をいろいろと言っていますが、ただし当然ですが、インクルージョン化のためにそれだけ予算が掛かります[7]。地域によっては「養護学級」などという場合もあります[8]。「高福祉、高負担」と習う通りの現実です。 専門的なスタッフ(人員)の配置も本来なら必要です[9]。障害児の世話を健常者の生徒に押し付けて(少しなら人生経験として良いですが)、健常者の生徒の学ぶ権利などの機会を奪うような事態にならないように留意してもらいたいものです。 あいにく、日本の国家財政は21世紀は、平成のあいだに長く続いた不況により、財政難の傾向です。 予想になりますが、少子化も関連して学校の統廃合などよくしていますので、統廃合の際に障碍者支援の設備を見直すバリアフリー化をしたり、組織などの見直しをしてノーマライゼーションすることになるのでしょうか。 ともかく、予算の限りがありますので、障害者も権利の主張は大事ですが、しかし最終的には障害のある事実を受け入れる必要があります。 かつて、古代や中世のころ、人間の周囲には、きびしい自然の壁が立ちはだかっていました。科学技術や文明の発達により、人間のできる自由は増えましたが、しかしそれでも、人間のできることに、あいかわらず限度があるのも事実です。今後も限度があり続けるでしょう。健常者ですら、自分が男として生まれる、あるいは女として生まれる、あるいは性染色体XXYや性染色体XYYの人間として生まれる(※ 『性染色体』は高校理科の「生物」科目で習います)、などの現実は、変えることはできません[10]。戸籍上の性別をいくら変えようが、染色体は変わりません。 夢を見て挑戦するのが人間にとって大切なのと同じくらい、夢やぶれて涙する現実をみつめるという、挫折(ざせつ)することも大事なのです。あなたの好き嫌いに関係なく訪れる現実に対し、せいいっぱい楽しみ、せいいっぱい泣く、それが人間の生き方でしょう。 なお、別に「バリアフリー」がインクルージョンに変わるわけではない。たとえば、中学教科書の東京書籍の教科書でも、インクルージョンの理想を実現するための手段としてバリアフリー的な建築を行うべきといった主張などをしている[11]。 ※ 検定教科書ではありませんが、福祉系の話題を扱った学術書を見ても「ノーマライゼーション」という単語も引き続き使われており、インクルージョンを実現するための手段としてノーマライゼーションをすべきだと主張している学術書もあります[12]。 障害者に限らず、高齢者や在日外国人など、そういった、弱者とされる人々のことも、もちろん健康な人のことも考えて、尊重しようという「多様性」(ダイバーシティ)という概念も提唱されています。 女性の人権問題なども、ダイバーシティの問題として扱うこともできます[13]。 しかし、現実には、在日外国人の権利については国家主権などの理由で、国政選挙権などが制限されているのも事実です。 実現している外国人むけ政策としては、日本に住む外国人のための日本語学級などが、東京書籍の教科書で紹介されています。 障害者を雇う企業もあります(※ 東京書籍の教科書でも紹介されている)。 しかし、障害によっては、どうしてもつけない仕事もあります。たとえば、目の見えない障害の人は、どうやっても、物を見る仕事にはつけません。目の見えない人が仕事をしたい場合、物を見る以外の、他の仕事につく必要があります。 なお、東京書籍の教科書パンフレットに、「ダイバーシティを尊重するインクルージョン」という文章があります[14]。なんだか似た理念の語句です。 日本では高齢化にともなって年金などの国の支出が増えることが予想されており、また少子化にともなって労働力人口が減り、年金の納入者が減るので、福祉のための税負担が高まることが予想されている。日本の高齢者の割合は、約23%である。(2010年) 日本国の一般歳出の30%以上を、社会保障費が占めている。 スウェーデンは社会保障が充実しているが、税金も高い。スウェーデンの社会保障財政は、高福祉高負担(こうふくし こうふたん)と言われる。スウェーデンの消費税率は25%もある。(スウェーデンは、社会保障では、いわゆる「大きな政府」の方針を取っている。) いっぽうアメリカ合衆国は、低福祉低負担である。(アメリカ合衆国は、社会保障では、いわゆる「小さな政府」の方針を取っている。) 年金は、老齢の世代である定年退職した世代の受け取る年金を、若い労働力人口の世代が払っている、という制度に、なっている。 このような、年上の世代に年金を支給するために若い世代が年金を払う方式を 賦課方式(ふか ほうしき) という。日本の年金制度は、賦課方式である。 いっぽうで、貯金のように、若い世代が払った保険料を、その若い世代自身が老齢になったときに支給するという方式を積立方式(つみたて ほうしき)という。日本の年金制度は、積立方式では無い。 年金は若い世代に負担させる賦課方式の制度であるので、もし若い世代が減る時代になると、年金の財政が悪化することになる。 現在は、少子高齢化のため、年金財政が不安視されている。 いっぽうで、過去の若い世代が多い時代には、賦課方式は、財政にとって都合の良い制度であった。 財政の制度においては、短所の無い制度なんて、無いのである。長所は、短所の裏返しなのである。 たとえば年金の世代間の賦課方式の場合は、人口構成が若い時代には、財源確保をしやすい。だが、少子の時代には財源確保をしづらくなる。 積立方式も同様に、長所の裏返しとして、短所がある。 たとえば、もし、ある世代が、大恐慌や大災害や戦争などの被害により、その世代に失業者や低所得者が多くなり、特性世代に貧しい世代が出来ると、積立方式では、その貧しい世代の老後の年金収入を、そのままでは確保できなくなる。 年金の足りない財源を、税金などで補充する方法も考えられており、では、その分の税金をどこから取るのかが問題になる。 バブル崩壊後の不況や、国際競争の激化による、会社の倒産や事業撤退、または労働者の失業などがバブル崩壊後から長く続いたので、多くの労働者も企業も、そんなに収入や貯金に余裕は無い。 年金は職業によって加入する年金が違っている。たとえば自営業者や無職は国民年金だけに加入することになっており、一般の会社員は厚生年金(こうせいねんきん)に加入する。 (くわしく言うと、20歳以上60歳未満のすべての国民が、まず、国民年金に加入する(大学生で就職してなくも、20歳以上60歳未満なら、国民年金に加入しなければならない)。その上で、会社員は厚生年金に加入する。※ 左の図表を参考に。) 年金の種類によって支払う負担額や、老齢になったときに受けとる受給(じゅきゅう)額が違う。 会社員の加入する厚生年金は、給料の金額が大きいほど、保険料の金額も大きくなり、老齢になったときに受け取る年金額も大きくなります。 もし、自営業者と無職が、たとえ「厚生年金に入ろう」と思っても、加入できない。自営業者と無職は、国民年金にしか入れない。自営業者や無職が、どんなに収入や貯金に余裕があっても、厚生年金には加入できない。 このように、年金の種類によって支払う負担額や、老齢になったときに受けとる受給額が違うので、年金の制度に不公平や格差があり、問題にも、なっている。 このような加入する年金間の不公平の問題を解決するため、「年金の一元化」(ねんきん の いちげんか)という政策が主張されており、厚生年金と共済年金(きょうさいねんきん)の統合が進んでいる。 だが、自営業などの多い国民年金と、会社員の多い厚生年金との間の統合は、あまり、統合が進んでいない。 なお、厚生年金や共済年金の加入者が払う保険料の一部は国民年金に払われているので、厚生年金や共済年金の加入者も国民年金に払っていることになる。 老齢年金は、原則として25年以上の加入をしていないと、給付は1円も受け取れない。 国民年金と名前の似ている「国民年金基金」(こくみん ねんきん ききん)という公的年金があるが、国民年金基金の運営者は国では無く、特殊法人である。 国民年金基金を運営しているのは、「国民年金基金連合会」(こくみん ねんきん ききん れんごうかい)という厚生省の管理する特殊法人であり、運営者は厚生労働省そのものではない。 国民年金基金の制度は、厚生年金と国民年金との格差を少なくするために、1991年(平成3年)にできた制度である。 国民年金に任意(にんい)で負担額を上乗せして、かわりに老後に多くの年金を受け取るというのが、国民年金基金の制度である。 また、国民年金や厚生年金は、インフレの場合には受給額の増額をする「物価スライド」(ぶっかスライド)という保護制度があるが、国民年金基金には物価スライドなどの保護が無い。 会社員が加入する厚生年金は、不況による企業の倒産などで、財政が悪化している。 また、自営業者や無職などが対象の国民年金は、年金制度への不信などから、未加入者が増えており、悪化している。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E4%BF%9D%E9%9A%9C%E5%88%B6%E5%BA%A6
女性差別撤廃条約を受けて、日本では1986年(昭和61年)には 男女雇用機会均等法 が施行された。性別を限定した雇用の募集は原則的には禁止されている。男女の賃金は、同じ仕事内容なら、賃金も男女で同じである。 1999年には 育児・介護休業法 が施行された。 雇われている労働者も人間なので、もちろん人権がある。雇う側に比べ弱い立場にある労働者を守るため、労働者を保護し、集団で労働条件の改善を要求することなどを 労働基準法 並びに 労働組合法、労働関係調整法 などの法律で、保障している。代表的であるこの3つの法 (労働基準法・労働組合法・労働関係調整法) をまとめて 労働三法 と言う。 労働基準法は賃金や労働時間などの最低基準を決めている。労働時間は「1日8時間を基本とし、1週間で40時間まで」と決められている。もし時間外労働をさせる場合には、会社は割増で賃金を払う必要があり、制限もある。この時間外労働の割増賃金の割増率は25%〜50%である。休日に労働させると35%〜の割増がされる。 なお、当然のように思われる読者の方も多いだろうが、アルバイトもパートタイマーも法定の労働時間の制限は同じである。 そして、労働基準法の定める基準を守らせるため、労働基準監督署 という役所が、日本の各地に置かれている。 前述のように、労働者は雇う側 (以降、使用者) に比べ弱い立場にあり、本来なら労働者と使用者の間で契約として自由に取り決めることができる労働条件だが、各々が個々に交渉すれば、労働者にとって不利な条件になりやすい。それ故労働組合の結成をする権利が憲法や法律で認められており(団結権)、組合などがその会社の労働者の賃金を上げる賃上げ交渉など労働条件の交渉をする 団体交渉権 を認めている。そして、労働条件についての約束である労働協約を経営者と労働組合の間で結ぶことができる。 憲法28条 「勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。」 これら3つの権利 (団結権・団体交渉権・団体行動権) をまとめて 労働三権 と言う。 他に、ストライキなどの労働争議を起こす 団体行動権 が認められている。ストライキ(wikt)とは、労働者が団結して仕事を停止すること (それにより、使用者は労働条件を改善しなければならなくなる) である。労働争議の解決は、使用者と労働者が自主的に解決するのが原則であるが、どうしても当事者同士で解決しない場合には、労働委員会が間に入る。労働委員会の解決方法は、労働関係調整法に定められており、労使の話し合いをあっせんしたり、調停案を出したり、強行的に仲裁をする。 また、使用者が労働組合に加入している従業員に不当な扱いをすることは労働組合法 (第7条) で禁止されている。このような使用者が労働者に労働三権の行使を妨害することを「不当労働行為」)と言う。不当労働行為も労働組合法で禁止されている。 なお、賃上げの交渉の権利が認められているが、必ずしも労働者の要求が通るとは限らない。最終的に賃金を上げるかを決定する権限は、使用者にある。なお、労働者の労働組合への加入は義務では無い。 女性には男性と同様の給料をもらう権利もあるが、男性と同等の責任もある。かつて、男女雇用機会均等法などのできる前は、女性への福祉の観点から、女性の深夜労働が禁止されていた。しかし女性の深夜労働の禁止は削除された。 労働者が不正などを行った場合などを除き、使用者が労働者を解雇する場合には、解雇する日の30日よりも前に通知する義務があり、また30日分の給料を解雇予告手当として支払う義務がある。ところが、この法律を無視する会社も存在する。もちろん、通知義務違反や解雇予告手当の未払いは会社側の違法行為であるため、労働基準監督署など[1]に相談するべきだ。 公共職業安定所 (ハローワーク) では、失業者などに仕事を紹介しているほか、職業訓練を受けたい人のための公共の職業訓練施設なども紹介している。 障碍者の雇用を促進するため、企業には規模に応じて一定の割合の障碍者数の雇用をする法的義務が、障害者雇用促進法(ws)で定められている。しかし、競争の厳しい昨今の経済では、達成が難しい企業もあるほか、職種によっては、障碍者を雇い入れるのが難しい場合もある一方、障碍者を雇い入れている数の水増しが発覚した企業も存在する。 中学校社会 公民/労働問題 を参照。 一般に、収入を得るための働き先を失うことを失業といいます。「失業者」とは、収入のための仕事先 (会社など) を探しているが、雇用先の無い状態の人のを指します。そのため、主婦や学生は失業者には含めません。厳密には、失業者のうち「完全失業者」とは、働く意思をもって求職活動をしていながら、就職先の見つからない人のことを言います。 一般に、景気が悪くなった時に、失業者は増えると考えられています。また、産業構造が大幅に変化した時にも、失業者が増える場合があります。 かつて、日本では使用者が労働者を定年まで同じ企業で勤め上げさせるように雇う、終身雇用が大企業では一般的であったという。この頃の日本は「世界の工場」と呼ばれ、製造業が好景気だった。そのため、安定して労働者を雇い続けることができた。日本は、アメリカやイギリスなどとの製造業の競争に勝ち、これらの国の製造業を衰退に導いた。 しかし、次第に中国や韓国などの国々が工業力をつけてきた。それから日本の企業は、それらの国との厳しい競争にさらされることになった。外国との市場の奪い合いになるため、日本の企業の売り上げが減っていった。この減った分の売り上げは給料などの費用を減らすことにつながり、労働者の解雇や給料の見直しが行われた。今度は日本が外国から仕事をうばわれる側に回っていった。いつしか中国が「世界の工場」[2]と言われるようになっていった。こうして、多くの日本企業で、終身雇用は無くなっていった。 昔の会社では、その会社への勤務年数が長くなるほど賃金や役職が上がるという、年功序列が取られていた。しかし、今では少なくなった。 企業によっては、大企業などを中心に年功序列を続けている場合もあるが、景気の悪化などによって、実質的には長年勤めていても人員解雇の対象になる場合も多い。また、景気の悪化で高い賃金を払えなくなった企業が、自社の給与体系を見直すこともある。給与体系をすぐに変えられない会社の場合には、一旦社員には形式上退職させ同じ会社に再雇用するという形で、新人社員と同じくらいの程度の給料にするという方法を取る場合もある。 前述のように、終身雇用や年功序列の終わりにより、労働者が定年までに受けとる給料の合計額 (生涯賃金) は、これからも低下する。高度経済成長期やバブル期などの頃は生涯賃金が3億円と言われてた時代もあったが、これからは低下する企業が多い。 上記のように、終身雇用が減少した今 (2020年) では、労働者のおよそ3人に1人が、アルバイトやパート、派遣労働などの 非正規雇用 の状態で働いている労働者 (非正規労働者) である。これらの非正規の労働は、不況になると人件費の削減対象として解雇されやすいという特徴があります。また、一般に非正規は賃金が低い。昭和の時代は少なかった非正規労働者が増えつつあることは、企業が雇用の調整をしやすくしたことも意味する。派遣労働者 (非正規労働者に含まれる) の所属は、人材派遣会社に所属している労働者であり、派遣先の正社員 (正規労働者) ではない。このように労働者の中でも特に弱い立場にある非正規労働者が正規労働者になれるよう、失業しても生活に困らないよう、生活保護や職業訓練などを社会全体で支えていく必要がある。 日本では、少子高齢化や人口減少、ニート(wp)の増加などが進みつつあり、外国人労働者を受け入れなければならなくなっている。外国人は日本人と同じ労働をしても給与を安く抑えられる、深夜労働をしてくれるなどの理由で、外国人を使いたがる企業がある。 かつての日本は外国人労働者の就役を一部の分野に限定してきた。1990年代から南アメリカ大陸の国々の日系人(wp)の受け入れを始め、外国人労働者の数は増加傾向にある。しかし、前述のように近年まで外国人労働者の数が少なかったため、日本社会や日本の人々に多い外国人に対する差別的思想が蔓延っている。 ※ 労働者の権利保護とは別のことなのですが、最近の2020年代の中学公民の教科書には、中学生に向けて、「働く」とか「就職」とかはどういうことなのか、説明しています。 とりあえず、東京書籍と帝国書院の教科書では、経済は「分業」で成り立っている、と説明しています。 教科書ではあまり理由をきちんと説明していなおですが、wiki側で分業の理由をきちんと説明すると、一人の労働者の人生の時間には限りがあるので、分業しないと、仕事を身に着けるためのトレーニングの時間だけで人生が終わってしまい、ろくに仕事ができなくなってしまいます。(たとえば、4年ていどの勉強で身につく仕事でも、もし30個の仕事を分業せずにぜんぶ仕事しようとすると、30×4年=120年 で、人間の平均寿命オーバーになってしまい、仕事しないまま人生が終わります。) なので、分業が必要なのです。 また、分業のさいには、それぞれの人が、得意なことを活用できる職場に勤める必要があります[3]。たとえばパン屋だったら、当然ですが、パン屋さんはパンを作るのが得意でないと、お客さんは困ります[4]。 パン屋さんは、パンの原料の 小麦や さとうきび の生産なんて、していません[5]。 。小麦をつくるのは小麦農家です。これが分業です。 まず、将来の希望の仕事を決めるさいの、暗黙(あんもく)の前提として、会社名ではなく職業で決める、という進路相談や就職活動などでの常識があります。東京書籍の教科書も、日本文教出版の教科書も、「会社」ではなく「職業」の志望を考えさせています。 中学の検定教科書では、「仕事をとおして夢をかなえたり」みたいに言います。高校の教科書だと「自己実現」みたいに言います。 基本的には、自分の好きな分野を事を目指すとよいでしょう。(東京書籍なども明言してないですが、そんな感じです。) なぜなら、本当に好きなら、練習を長々とたくさん出来るので、得意になるからです(帝国書院の中学教科書の言うように、得意な仕事でないと、せっかくの分業の意味がありません)。 ただし、その仕事につくための練習や仕事が「好き」でないと困ります。「パンを食べるのは好きだけど、パン作りは好きでない」みたいな人がパン屋に就職活動されても、就職は難しいでしょう。 社会の貢献と関係なく、やみくもに「好き」と言っても限度もあります。「年収1000億円が欲しい。お金が好き」とか言っても、そんな夢はほとんどの人は、かないません。もっと現実的な夢をみましょう。 東京書籍の教科書に「キャリアデザイン」という言葉があります。進路や経歴(職歴・学歴など)をデザインする、みたいな意味です。(日本文教出版の教科書では「キャリア教育」という用語を使っています[6]。) たとえば、スポーツが好きなら、「僕はオリンピックで金メダルをとる!」は、決してキャリアデザインとは言いません。たとえば現実的なキャリアデザインは、スポーツ志望の場合なら最低限、「できれば、社会人スポーツのある実業団のある企業かに入る。もし高校卒業・大学卒業でプロ団体には入れれば、なお良い」とかでしょうか。 帝国書院のパン屋の例のように、まず、ふつうの人が、頑張れば出来そうなことを、着実に身につけましょう。 ふつうのパン屋と同じ練習をしても成功できるかどうかは不明です。しかし、ふつうのパン屋の人なら皆が練習しているパン作りの基礎テクニックすら無理な人は、絶対にパン屋としては成功できないでしょう。だからまず、ふつうの人ができることを、着実に出来るように練習すべきです。 「競争に敗れるなどして希望の仕事につけなかったら、どう修正するの?」というのがキャリアデザインでしょう。「弁護士になるなら、べつに東京大学じゃなくてもいいよね?」とか、「法律の知識で仕事したいなら、司法書士とか行政書士でも良いはずだよね?」とか、そういうツッコミです。 さて、色々なことを勉強するのは大切ですが、しかし人生の時間にも限りがあります。教科書会社がインタビューしている作家とか有名人とか、若者の好きそうな人も、インタビューでは色々と勉強しろと若者に言いますが、実際には彼ら自身は、なんでもは勉強できていません。 たとえばインタビューされているのが小説家なら、彼はマンガも書けなければ、曲も作れないし、スポーツも苦手だったりするかもしれません。 代わりに必要なのは、自分が勉強できてない分野への経緯や想像力を持つことが重要でしょうか。そういった想像力をもつためにも、中学・高校・大学などを卒業したあとの勉強は、日々の仕事の勉強も大切ですが、しかし時々は国語・数学・理科・社会・英語など仕事以外のことも勉強する必要があるでしょう。 東京書籍の教科書には、分業によって「社会で必要な財やサービスを提供していく」と目的があります。 目的を忘れてはいけません。あくまで、社会に必要な財やサービスといったものを生産するのが、分業の目的です。決して、この目的を忘れて、形式的に、単に難しいだけで社会に役立たない技術のトレーニングばかりをしないようにしましょう。たとえば、中学卒業以上の社会科(地歴公民 科)では、時代遅れになった五十年や百年年も前の古い教科書の内容を、理解せずに言葉を断片的に丸暗記しても、社会では何の役に立ちませんし、それでは就職も難しいでしょう。 だいたい、どのお店の客を見ても、どの消費者も、その消費者じしんにとって役に立たない商品を買いたくありません。 視点を、企業の経営者の目線に、変えてみましょう。どの会社の社長も、その会社に役立たない志望者を、雇用したくありません。役立とうとする気のない人を雇うほど、一般の企業も役所も、お人よしではありません。 何よりも、経営者から見れば、社会を無視するワガママな就職志望者は、自分はお店では好き勝手に商品を消費してるのに、なのに企業に向かっては「経営者は好き嫌いを無視して、私を雇え」というような自分勝手な考え方をする人を、絶対に経営者は雇いたくありません。(知能が低いのはまだしも、性格までもワガママなのに「自分はマジメ!」だと思いあがっているいて性格が悪いのは、もう雇いたくないのです。) キャリアデザインとは、このように自分をみつめなおすことで、志望の進路やそのための勉強・努力や練習を、より適切なものに見直しておくことも含まれるでしょう。 なお、中学の段階で、あまり「やりたい職業」が決まってなくても、大丈夫です。日本文教出版の公民の検定教科書では、2015年の日本の中学生のアンケートで、50%近くの中学生が、まだ将来の希望の職業が決まっていません[7]。 社会の役に立つかどうかを考えずに、人気(にんき)や評判だけで進路を決めるのは、下記の理由から危険です。 これは高校の教科書の内容なのですが、「自分が社会に受け入れらている」という感覚が、青年期以降の健全な精神の発達には必要です。(※ 清水書院(高校の教科書会社)の『公共』教科書の見解です[8]。)「自分は社会に受け入れられている」という感覚が無くなると、自己嫌悪や無力感などの状態になります。 清水書院は具体的にはどうすべきかまでは指定していないですが、しかし上述の議論から常識的に考えて、なるべくなら、社会の役に立とうとする職業や仕事っぷりを目指すのが健全でしょう。 社会の役に立つことを目指している仕事のほうが「自分は社会に受け入れらている」という感覚を得やすいからです。 普通の人は、「自分が社会から受け入れてもらえてない」という孤独には耐えられず、そのため、その状態になると自己嫌悪で行動がおかしくなり、やることなすこと失敗だらけになります。 あくまで、社会に受け入れられるために、まずは他人になるべく負担をかけないようにする必要としての経済的自立であり、そのための仕事に必要だからという理由での進路志望やキャリアデザインです。あくまで最終目的が「社会に受け入れてもらう」であることを間違えないようにしましょう。 自分がよほどの才能にめぐまれた大天才でないかぎり、進路を考えるときは、少しは社会の役に立とうとする事も考慮したほうが、将来的には精神的に安全だろうと思われます。 たとえば子供時代にスポーツ志望で「将来はオリンピック選手になって金メダルをとる」を目標にしたが、金メダルどころか日本トップ3以内にすらなれない場合、それどころかプロになれない場合、またはプロの底辺にしかなれない場合など、どうやって自分の自信を保つか、です。 外部サイトですが、日本教育学会理事、日本教育政策学会理事がキャリアデザイン教育について似たような改革案をネットで言っていました[9] 最初の夢がかないそうにない場合、それに近い第二・第三の夢を考える必要があります。たとえば、「プロの漫画家とかゲーム作家とかになりたい」の夢がかなわなかった場合、その夢の根拠が「ものづくり」なら、べつに自動車業界とか食品業界とかの他の仕事に変えても構わないわけです[10]。 あるいは、「日本のマンガやアニメは『クールジャパン』と言われて海外の人々に受けているので、これを仕事にしたい」とかだったら、別にマンガなどに限らず海外と取引するビジネスマンでも良いわけですし、それに就職できなくても最悪、翻訳家などでも構わないわけです。 このように、第一の夢に向かって努力するだけでなく、加えて「『やりたい』の根っこを掘ること」もまた重要です。 憲法などの「職業選択の自由」があるので、中学・高校は一切、教えてくれません。ビジネス書などを読むと、こういった事が少しは書いてある場合もあります。「もし、事業の投資の選択肢に迷った場合は、社会の役に立つほうに投資しろ」みたいなノウハウとか、ビジネス書に書かれている場合もあります。 国語の教科書でも著作の紹介されている医学者・養老孟司さんは(たとえば養老孟司(ようろう たけし) 著、『かけがえのない未来』[11]、『考えるヒト』などが国語教科書に掲載)、就職・仕事に関するの評論では みたいなことを2010年以降はよく言っています[13]。 養老氏が言うには、 とのことです。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E5%8A%B4%E5%83%8D%E8%80%85%E3%81%AE%E6%A8%A9%E5%88%A9%E3%81%A8%E4%BF%9D%E8%AD%B7
労働基準法が守られていない場合が多い。たとえば残業(ざんぎょう)というのが合って、「サービス残業」(サービスざんぎょう)と言うのがある。「残業」そのものは違法ではなく合法である。「残業」とは本来は仕事が時間内に終わらなかった場合に、終業時間のあとも職場に残らせてもらって仕事をつづけることであり、労働者がスケジュール調整のため自発的に数時間の残業する場合がある。労働者自身が自発的に残業した場合は、会社は残業代を払う義務は無いし、会社も労働者も自発的な残業について報告の義務はない。 だが、それを悪い雇い主が悪用して、時間外の残業を労働者に命じているのに、自発的な残業として処理させている場合がある。これをサービス残業という。このようなサービス残業の強制は違法行為である。サービス残業は長時間労働を招くため、過労死などを招く。 これと似たような例で「名ばかり管理職」(なばかり かんりしょく)というのも、あります。 管理職には残業代を払う必要がないので、これを悪用し、従業員を名目上の管理職に指名して、長時間労働をさせる仕組みです。 女性差別撤廃条約(じょしさべつ てっぱい じょうやく)を受けて、日本では1986年(昭和61年)には男女雇用機会均等法(だんじょこようきかい きんとうほう)が施行され、1999年には育児・介護休業法(いくじ・かいご きゅうぎょうほう)が施行された。男女の性別を限定した雇用の募集は原則的には禁止されている。 しかし、現実的な問題として女性は賃金の低いパートタイムの労働などの仕事につきやすい。パートにつきやすいのは、育児との両立のために、育児の時間を確保するためである 不況の場合は、これらパート・アルバイトなどの従業員が解雇されやすく、このため不況の場合に女性が解雇されやすいという現実がある。 産業の業界によっては、時期や季節ごとなどに労働力の需要が大きく変わる産業がある。そのような業界では、人材派遣会社から労働者を派遣してもらうことがある。 このような時期によって大きく労働需要の変わる業界では、アルバイトなどの採用活動をしていると採用に手間がかかるので、派遣会社で調整しているのである。 この派遣労働者の派遣先での労働は、もともと期間契約であり、また派遣先の正社員では無いのでなので、不況になると派遣労働者は契約の更新を打ち切られやすく失業しやすい。 休日以外にも給料をもらって年に数日ほど会社を休める有給休暇(ゆうきゅう きゅうか)という制度があり、労働基準法(39条)で定められています。たとえば6ヶ月間働いて、全労働日の8割以上に出勤した場合は、10日の有給休暇があります。 ですが、現実的には、有給を全部は取らせなかったり、有給を取りづらい雰囲気の企業もあります。もちろん、有給休暇の禁止は違法です。 また、アルバイトであろうがパートタイマーであろうが有給休暇はあります。 法律では、たとえアルバイトやパートタイムなどでも、労働時間の制限や、有給の日数などは同じに与えなければいけませんが、この法律を無視する会社もあります。もちろん、会社側の違法行為なので、役所の労働基準監督署( ろうどうきじゅんかんとくしょ、略称は労基(ろうき) )などに相談するべきでしょう。 どの役所に相談に行くべきか、分からなくても、住んでる地元の市役所などに相談に行けば、市役所の職員が担当の役所を紹介してくれます。 また、2017~2019年に日本政府の主導する働き方改革として「同一労働同一賃金」(どういつろうどう どういつちんぎん)とする原則にもとづく関連法が国会で可決され、最終的にその内容の法律が制定されました。(※ 検定教科書の範囲です。自由社の市販本で確認。なお、検定合格版(検定不合格になったのは(公民ではなく)歴史分野のほう)。) 2020年の時点では、段階的に同一労働同一賃金のための改革が導入されていく予定であり、すでに一部の改革は実施されています。 (※ 範囲外: )次に述べるのは労働者の権利の問題というよりも、「労働組合が問題」であるが、第二次大戦後の昭和期の日本では一時期、かつて労働組合が、労働以外の政治団体の かくれみの になっている場合があって、本来なら労働組合は労働者の権利問題に取りかかるべきなのに、そうするのでなく、労働組合の団体がたとえば米軍基地問題や原発問題、外交問題などに口出しをしようとする労働組合やそのような問題のデモ行為をする労働組合も、少なくなかった。 労働者の権利としては、米軍基地問題デモや原発問題デモなどの政治運動に参加しなくても、労働組合に加入する権利はあるハズだ。 将来の仕事を考えるにしても、まったく働いたことのない人には、どういう仕事が自分にあってそうか、わかりません。 そこで「インターンシップ」と言って、学生が企業で体験的に実際に働いてみるという方法があります。アルバイトと異なるのは、インターンシップは原則、無報酬である点です。 中学生ではまだ本格的には働けないかもしれませんが、高校生や大学生・専門学校生などになると、もしかしたら読者のなかには将来的にインターンシップを経験する人もいるかもしれません。 さて、日本では「サービス残業」など労働時間の長さが問題視されています。 会社仕事というのは、あくまで生きるための手段です。会社などでの仕事と私生活とのバランスのことを「ワーク・ライフ・バランス」(英: work-life balance[2])と言います。こういったバランスも考えて、あるいはバランスを目指して、人生を過ごしていく必要があるでしょう。
https://ja.wikibooks.org/wiki/%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E7%A4%BE%E4%BC%9A_%E5%85%AC%E6%B0%91/%E5%8A%B4%E5%83%8D%E5%95%8F%E9%A1%8C
工場などからでる排水や排煙などの処理が不十分だと、排水・排煙にふくまれる有害物質により、周辺の環境が汚染され、近隣の住民など多くの人の健康に被害が出る場合がある。このように、産業活動による多くの人への健康への悪影響を 公害(こうがい) という。 日本でも、かつて、大きな公害をおこしたことがある。公害は第二次大戦よりも前の昔からあるが(明治時代の足尾銅山の鉱毒事件なども公害であろう)、第二次大戦以降は以下の4つの公害および公害による病気が、とくに被害が大きい公害として有名である。 この4つの公害を四大公害病(よんだい こうがいびょう)と言います。 上記の4つの公害が、1950年〜1960年ごろに起きました。高度経済成長のときに重化学工業が成長しましたが、公害をふせぐための環境対策が遅れたことが、この4大公害の原因の一つです。 四大公害の裁判は別々に行われましたが、判決は4つとも患者側の全面勝訴です。 1964年ごろに新潟県の阿賀野川(あがのがわ)の流域で起きた、水銀および水銀化合物による公害です。 化学工場の排水中の水銀化合物が原因です。 被告は、昭和電工(しょうわでんこう)です。(※ 検定教科書にも被告企業名が記載されています。) 症状は、熊本県の水俣病と同じです。 三重県の四日市市は石油化学工業で、1940年ごろから、さかえていました。多くの石油化学工場があつまった石油化学コンビナートといわれる工場のあつまりが、あります。 被告は、三菱油化などの石油コンビナート6社です。(※ 検定教科書にも被告企業名が記載されています。) 1950年ごろから、この周辺では、ぜんそくや気管支炎(きかんしえん)など、のどをいためる病気の人が、ふえてきました。また、この近くの海でとれた魚は油くさい、と言われたりもしました。 四日市ぜんそくの原因の物質は 亜硫酸ガス(ありゅうさんガス) だということが、今では分かっています。 どうも、石油化学コンビナートから出る、けむりや排水(はいすい)が、環境に悪い影響をあたえているらしいと言うことが1960年ころから言われはじめ、社会問題になりました。 このうち、とくに ぜんそく の被害が有名なので、この四日市(よっかいち)でおきた公害を 四日市ぜんそく というのです。 四日市ぜんそくの、ぜんそくの原因は、今ではわかっており、けむりにふくまれる亜硫酸ガス(ありゅうさんガス)や窒素酸化物(ちっそ さんかぶつ)が、おもな原因だと分かっています。 1955年ごろ富山県の神通川(じんづうがわ)の周辺で起きた病気であり、体の ふしぶし が痛くなり、骨が折れやすくなる病気です。 カドミウム が原因です。カドミウムは猛毒です。 被告は三井金属工業です。(※ 検定教科書にも被告企業名が記載されています。) 川の上流にある鉱山から流れ出る廃水にカドミウムがふくまれており、その廃水を飲んだ人や、廃水に汚染された米などの農産物などを食べた人に、被害が出ました。 化学工場の排水にふくまれていた水銀および水銀化合物(有機水銀、メチル水銀)が原因でおきた病気です。被告は「チッソ」という企業です。(※ 検定教科書にも被告企業名が記載されています。) 水銀は猛毒(もうどく)なので、この水銀に汚染された水を飲んだり、水銀に汚染された海水で育った魚や貝を食べたりすると、病気になります。体が水銀におかされると、神経細胞が破壊され、手足がしびれたり、うごかなくなります。 熊本県の水俣(みなまた)という地域や、水俣湾(みなまたわん)の周辺で、1953年ごろに新聞報道などで有名になった公害なので、水俣病(みなまたびょう)と言います。 なお、有名になったのは1953年ごろからだが、それ以前の1940年代ごろから、水俣病とおぼしき症例が知られている。 人間以外にも、猫や鳥など、水銀に汚染された魚を食べたり水を飲んだりしたと思われる動物の不審死がいくつもあり、当初は、水俣病の原因もよく分かっていなかったので、しびれている猫が踊って(おどって)るようにも見えたことから、当初は「猫おどり病」(ねこおどりびょう)とも言われた。 これらの公害病の原因の物質を排出した会社や工場に対し、住民らが国に裁判を、訴え(うったえ)でます。 四大公害の裁判は別々に行われましたが、判決は4つとも患者側の全面勝訴です。 裁判は1960年代の後半に起こされ、1970年代の前半の1971年〜1973年ごろに判決が出ます。 判決は、企業側の責任を認め、企業側は被害住民に 賠償金(ばいしょうきん) を支払うように命じた判決が出ます。 四大公害などの発生を受け、公害対策の気運が高まります。 近年では、焼却処理施設などから出るダイオキシンなど、新たな公害問題が社会問題に。 企業の活動による健康被害だが、工場の中の従業員だけに健康被害がある場合については、「公害」と呼ぶ場合もあるが、ふつうは「職業病」(しょくぎょうびょう)などと呼ぶ。 近年では、「アスベスト」という素材をあつかう労働者の健康被害が問題になった。アスベストは、断熱材などとして長い間、使われていたが、2009年に禁止になった。 家庭からの排水や、自動車などの排煙によって環境が汚染されることも、公害である。 公害とは、主に、以下の7つの公害が典型的である。 環境基本法では、この7つの種類の公害を、典型七公害(てんけい ななこうがい)としている。
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