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アギイ・アヒロピイトス聖堂
サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂とアギイ・アヒロピイトス聖堂のうち、より早く建設された聖堂はどちらか?
初期キリスト教建築としては、ローマに初めて建設されたローマ司教座教会堂であるコンスタンティヌスのバシリカや、450年頃にコンスタンティノポリスに建設されたストゥディオス修道院(英語版)のアギオス・ヨアンニス聖堂、同時代にテッサロニキに建設されたアギイ・アヒロピイトス聖堂、ラヴェンナに550年頃建されたサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂、エルサレムの聖墳墓聖堂などが挙げられる。これらは全てバシリカである。バシリカはキリスト教の儀礼空間としての必要性から採用されたというよりも、むしろ建設が容易で比較的自由に大きさを決めることができ、装飾によって神聖な空間を得やすく、儀礼空間として融通が利くという実際的な理由から大量生産されたと考えられている。初期キリスト教建築として特筆すべきもう一つの重要な建築は、聖地や殉教者の記念碑として建設されたマルティリウム(記念礼拝堂)である。324年頃に建設されたローマのサン・ピエトロ大聖堂は、典礼を行うための教会堂ではなく、ペテロの墓所を参拝するための記念礼拝堂として建設された。333年頃に起工されたベツレヘムの聖降誕教会や、キリストが弟子たちに説法を行ったとされる洞窟を収容したエレオナ教会礼拝堂、ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂、5世紀中期に建設されたテッサロニキのアギオス・ディミトリオス聖堂などの建築はすべてマルティリウムであるが、崇拝の対象物や敷地の形状に従わなければならなかったため、バシリカ、八角堂、十字型など、様々な形式で創られた。また、その多くは修道院や付属教会堂など、徐々に様々な用途の建築が建て増しされ、大規模な複合建築物となった。5世紀初期に建設された登塔者聖シメオンを崇敬するための宗教施設であるカラート・セマーン建築群や、ルザファ建築群、ゲラサ建築群などは、その好例である。
サン・ピエトロ大聖堂
ベツレヘムの聖降誕教会とサン・ピエトロ大聖堂のうち、より早期に建設された建物はどちらですか?
初期キリスト教建築としては、ローマに初めて建設されたローマ司教座教会堂であるコンスタンティヌスのバシリカや、450年頃にコンスタンティノポリスに建設されたストゥディオス修道院(英語版)のアギオス・ヨアンニス聖堂、同時代にテッサロニキに建設されたアギイ・アヒロピイトス聖堂、ラヴェンナに550年頃建されたサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂、エルサレムの聖墳墓聖堂などが挙げられる。これらは全てバシリカである。バシリカはキリスト教の儀礼空間としての必要性から採用されたというよりも、むしろ建設が容易で比較的自由に大きさを決めることができ、装飾によって神聖な空間を得やすく、儀礼空間として融通が利くという実際的な理由から大量生産されたと考えられている。初期キリスト教建築として特筆すべきもう一つの重要な建築は、聖地や殉教者の記念碑として建設されたマルティリウム(記念礼拝堂)である。324年頃に建設されたローマのサン・ピエトロ大聖堂は、典礼を行うための教会堂ではなく、ペテロの墓所を参拝するための記念礼拝堂として建設された。333年頃に起工されたベツレヘムの聖降誕教会や、キリストが弟子たちに説法を行ったとされる洞窟を収容したエレオナ教会礼拝堂、ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂、5世紀中期に建設されたテッサロニキのアギオス・ディミトリオス聖堂などの建築はすべてマルティリウムであるが、崇拝の対象物や敷地の形状に従わなければならなかったため、バシリカ、八角堂、十字型など、様々な形式で創られた。また、その多くは修道院や付属教会堂など、徐々に様々な用途の建築が建て増しされ、大規模な複合建築物となった。5世紀初期に建設された登塔者聖シメオンを崇敬するための宗教施設であるカラート・セマーン建築群や、ルザファ建築群、ゲラサ建築群などは、その好例である。
サンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂
この文書で紹介されている聖堂の中で、最も遅く建設されたのはどの聖堂か?
初期キリスト教建築としては、ローマに初めて建設されたローマ司教座教会堂であるコンスタンティヌスのバシリカや、450年頃にコンスタンティノポリスに建設されたストゥディオス修道院(英語版)のアギオス・ヨアンニス聖堂、同時代にテッサロニキに建設されたアギイ・アヒロピイトス聖堂、ラヴェンナに550年頃建されたサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂、エルサレムの聖墳墓聖堂などが挙げられる。これらは全てバシリカである。バシリカはキリスト教の儀礼空間としての必要性から採用されたというよりも、むしろ建設が容易で比較的自由に大きさを決めることができ、装飾によって神聖な空間を得やすく、儀礼空間として融通が利くという実際的な理由から大量生産されたと考えられている。初期キリスト教建築として特筆すべきもう一つの重要な建築は、聖地や殉教者の記念碑として建設されたマルティリウム(記念礼拝堂)である。324年頃に建設されたローマのサン・ピエトロ大聖堂は、典礼を行うための教会堂ではなく、ペテロの墓所を参拝するための記念礼拝堂として建設された。333年頃に起工されたベツレヘムの聖降誕教会や、キリストが弟子たちに説法を行ったとされる洞窟を収容したエレオナ教会礼拝堂、ラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂、5世紀中期に建設されたテッサロニキのアギオス・ディミトリオス聖堂などの建築はすべてマルティリウムであるが、崇拝の対象物や敷地の形状に従わなければならなかったため、バシリカ、八角堂、十字型など、様々な形式で創られた。また、その多くは修道院や付属教会堂など、徐々に様々な用途の建築が建て増しされ、大規模な複合建築物となった。5世紀初期に建設された登塔者聖シメオンを崇敬するための宗教施設であるカラート・セマーン建築群や、ルザファ建築群、ゲラサ建築群などは、その好例である。
聖地への巡礼運動
マルティリウムの建設と密接な関係であるのは、何ですか?
このようなマルティリウムの建設は、聖地への巡礼運動と密接な関係がある。6世紀末期まで、コンスタンティノポリスからシリアに至る東地中海沿岸部では活発な交易が行われており、港湾都市は貿易によって賑わった。これらの都市を経由する聖地への巡礼も大々的に行われており、人と金の大動脈が形成されていた。このため、沿岸部の港湾都市には聖堂や都市の遺跡が数多く残る。エフェソスやハリカルナッソス(現ボドルム)のほか、日本調査隊が発掘したリキア地方のゲミレル島、アンティオケイアなどに、その痕跡を見ることができる。アンティオケイアやカラート・セマーンなどの巨大宗教施設は、5世紀末から急速に繁栄した北シリアの経済発展がもたらしたものであるが、5世紀末から6世紀初頭のキリスト教建築は、地域の独自性というものも見過ごすことのできない大きな潮流となっていた。これは地域の経済活動と修道院主義の結びつきや、帝国の地政学的要因、あるいは神学論争と関連する(詳しくはキリスト教の歴史を参照)。特に、隔たりを大きくしたキリスト教各派の神学論争は地域性に深い影響を与えており、カラート・セマーンのように皇帝の経済援助を受ける修道院は別として、この当時のシリア、エジプトの教会建築はコンスタンティノポリスの影響をほとんど受けることがなかった。このような建築的特徴は、異端とされた単性論教会の活動と、シリア語・コプト語の成立とともに、民族主義的傾向の一端としてしばしば参照される。
北シリア
巨大宗教施設はどこの経済発展がもたらしたものか?
このようなマルティリウムの建設は、聖地への巡礼運動と密接な関係がある。6世紀末期まで、コンスタンティノポリスからシリアに至る東地中海沿岸部では活発な交易が行われており、港湾都市は貿易によって賑わった。これらの都市を経由する聖地への巡礼も大々的に行われており、人と金の大動脈が形成されていた。このため、沿岸部の港湾都市には聖堂や都市の遺跡が数多く残る。エフェソスやハリカルナッソス(現ボドルム)のほか、日本調査隊が発掘したリキア地方のゲミレル島、アンティオケイアなどに、その痕跡を見ることができる。アンティオケイアやカラート・セマーンなどの巨大宗教施設は、5世紀末から急速に繁栄した北シリアの経済発展がもたらしたものであるが、5世紀末から6世紀初頭のキリスト教建築は、地域の独自性というものも見過ごすことのできない大きな潮流となっていた。これは地域の経済活動と修道院主義の結びつきや、帝国の地政学的要因、あるいは神学論争と関連する(詳しくはキリスト教の歴史を参照)。特に、隔たりを大きくしたキリスト教各派の神学論争は地域性に深い影響を与えており、カラート・セマーンのように皇帝の経済援助を受ける修道院は別として、この当時のシリア、エジプトの教会建築はコンスタンティノポリスの影響をほとんど受けることがなかった。このような建築的特徴は、異端とされた単性論教会の活動と、シリア語・コプト語の成立とともに、民族主義的傾向の一端としてしばしば参照される。
港湾都市
聖地への巡礼が大々的に行われたことにより、人と金の大動脈が形成されたのは、どんな都市でのことなの?
このようなマルティリウムの建設は、聖地への巡礼運動と密接な関係がある。6世紀末期まで、コンスタンティノポリスからシリアに至る東地中海沿岸部では活発な交易が行われており、港湾都市は貿易によって賑わった。これらの都市を経由する聖地への巡礼も大々的に行われており、人と金の大動脈が形成されていた。このため、沿岸部の港湾都市には聖堂や都市の遺跡が数多く残る。エフェソスやハリカルナッソス(現ボドルム)のほか、日本調査隊が発掘したリキア地方のゲミレル島、アンティオケイアなどに、その痕跡を見ることができる。アンティオケイアやカラート・セマーンなどの巨大宗教施設は、5世紀末から急速に繁栄した北シリアの経済発展がもたらしたものであるが、5世紀末から6世紀初頭のキリスト教建築は、地域の独自性というものも見過ごすことのできない大きな潮流となっていた。これは地域の経済活動と修道院主義の結びつきや、帝国の地政学的要因、あるいは神学論争と関連する(詳しくはキリスト教の歴史を参照)。特に、隔たりを大きくしたキリスト教各派の神学論争は地域性に深い影響を与えており、カラート・セマーンのように皇帝の経済援助を受ける修道院は別として、この当時のシリア、エジプトの教会建築はコンスタンティノポリスの影響をほとんど受けることがなかった。このような建築的特徴は、異端とされた単性論教会の活動と、シリア語・コプト語の成立とともに、民族主義的傾向の一端としてしばしば参照される。
地域性
5世紀末から6世紀初頭にキリスト教建築で地域の独自性も考えるようになったのに関連のある論争とは、何に深い影響を与えていたか?
このようなマルティリウムの建設は、聖地への巡礼運動と密接な関係がある。6世紀末期まで、コンスタンティノポリスからシリアに至る東地中海沿岸部では活発な交易が行われており、港湾都市は貿易によって賑わった。これらの都市を経由する聖地への巡礼も大々的に行われており、人と金の大動脈が形成されていた。このため、沿岸部の港湾都市には聖堂や都市の遺跡が数多く残る。エフェソスやハリカルナッソス(現ボドルム)のほか、日本調査隊が発掘したリキア地方のゲミレル島、アンティオケイアなどに、その痕跡を見ることができる。アンティオケイアやカラート・セマーンなどの巨大宗教施設は、5世紀末から急速に繁栄した北シリアの経済発展がもたらしたものであるが、5世紀末から6世紀初頭のキリスト教建築は、地域の独自性というものも見過ごすことのできない大きな潮流となっていた。これは地域の経済活動と修道院主義の結びつきや、帝国の地政学的要因、あるいは神学論争と関連する(詳しくはキリスト教の歴史を参照)。特に、隔たりを大きくしたキリスト教各派の神学論争は地域性に深い影響を与えており、カラート・セマーンのように皇帝の経済援助を受ける修道院は別として、この当時のシリア、エジプトの教会建築はコンスタンティノポリスの影響をほとんど受けることがなかった。このような建築的特徴は、異端とされた単性論教会の活動と、シリア語・コプト語の成立とともに、民族主義的傾向の一端としてしばしば参照される。
ユスティニアヌス帝
ハギア・ソフィア大聖堂とハギイ・セルギオス・ケ・バッコス聖堂、アギオス・ポリエウクトス聖堂は、誰の時代に建設されたの?
553年から始まるユスティニアヌス帝の時代は、初期ビザンティン建築の胚胎期でありコンスタンティノポリスのハギア・ソフィア大聖堂、その先駆的建築と伝えられているハギイ・セルギオス・ケ・バッコス聖堂、アギオス・ポリエウクトス聖堂といった偉大なキリスト教建築物が建設された。これら首都の教会堂は、皇帝による事業という境遇や、その大きさからいって各地で安易に模倣されるものではなく、プランについても当時としてはかなり大胆なもので、当時のビザンティン建築の一般解とよべるものではない。各地では、やはりバシリカ型の教会堂が継続して建設され続けていた。しかし、ユスティニアヌスの時代に建設された教会堂には、以下に挙げるような、後にビザンティン建築では一般的となる特徴が認められる。東ローマ帝国はギリシア世界であったが、ギリシア建築由来の独立柱・水平梁は構造的意味を失い、水平梁は6世紀末に全く消滅し、独立柱は副次的な要素でしかなくなった。コリント式とイオニア式の柱頭もインポスト柱頭にとって代わられた。ユスティニアヌスの時代には首都に限られた事象であるが、ドームを頂く集中型教会堂とバシリカ型教会堂を組み合わせた円蓋式バシリカ(ドーム・バシリカ)と呼ばれる形式の教会堂が建設された。ハギア・ソフィア大聖堂もその試みの一つで、より小型のものでは皇帝宮殿の側に建設されたハギア・エイレーネー聖堂がある。
バシリカ型
各地では、何型の教会堂が継続して建設され続けましたか?
553年から始まるユスティニアヌス帝の時代は、初期ビザンティン建築の胚胎期でありコンスタンティノポリスのハギア・ソフィア大聖堂、その先駆的建築と伝えられているハギイ・セルギオス・ケ・バッコス聖堂、アギオス・ポリエウクトス聖堂といった偉大なキリスト教建築物が建設された。これら首都の教会堂は、皇帝による事業という境遇や、その大きさからいって各地で安易に模倣されるものではなく、プランについても当時としてはかなり大胆なもので、当時のビザンティン建築の一般解とよべるものではない。各地では、やはりバシリカ型の教会堂が継続して建設され続けていた。しかし、ユスティニアヌスの時代に建設された教会堂には、以下に挙げるような、後にビザンティン建築では一般的となる特徴が認められる。東ローマ帝国はギリシア世界であったが、ギリシア建築由来の独立柱・水平梁は構造的意味を失い、水平梁は6世紀末に全く消滅し、独立柱は副次的な要素でしかなくなった。コリント式とイオニア式の柱頭もインポスト柱頭にとって代わられた。ユスティニアヌスの時代には首都に限られた事象であるが、ドームを頂く集中型教会堂とバシリカ型教会堂を組み合わせた円蓋式バシリカ(ドーム・バシリカ)と呼ばれる形式の教会堂が建設された。ハギア・ソフィア大聖堂もその試みの一つで、より小型のものでは皇帝宮殿の側に建設されたハギア・エイレーネー聖堂がある。
ギリシア建築
コリント式とイオニア式はどのような建築に属するものか?
553年から始まるユスティニアヌス帝の時代は、初期ビザンティン建築の胚胎期でありコンスタンティノポリスのハギア・ソフィア大聖堂、その先駆的建築と伝えられているハギイ・セルギオス・ケ・バッコス聖堂、アギオス・ポリエウクトス聖堂といった偉大なキリスト教建築物が建設された。これら首都の教会堂は、皇帝による事業という境遇や、その大きさからいって各地で安易に模倣されるものではなく、プランについても当時としてはかなり大胆なもので、当時のビザンティン建築の一般解とよべるものではない。各地では、やはりバシリカ型の教会堂が継続して建設され続けていた。しかし、ユスティニアヌスの時代に建設された教会堂には、以下に挙げるような、後にビザンティン建築では一般的となる特徴が認められる。東ローマ帝国はギリシア世界であったが、ギリシア建築由来の独立柱・水平梁は構造的意味を失い、水平梁は6世紀末に全く消滅し、独立柱は副次的な要素でしかなくなった。コリント式とイオニア式の柱頭もインポスト柱頭にとって代わられた。ユスティニアヌスの時代には首都に限られた事象であるが、ドームを頂く集中型教会堂とバシリカ型教会堂を組み合わせた円蓋式バシリカ(ドーム・バシリカ)と呼ばれる形式の教会堂が建設された。ハギア・ソフィア大聖堂もその試みの一つで、より小型のものでは皇帝宮殿の側に建設されたハギア・エイレーネー聖堂がある。
ハギア・エイレーネー聖堂
ユスティニアヌスの時代に登場した形式の教会堂で、皇帝宮殿の側に建設された聖堂は何か?
553年から始まるユスティニアヌス帝の時代は、初期ビザンティン建築の胚胎期でありコンスタンティノポリスのハギア・ソフィア大聖堂、その先駆的建築と伝えられているハギイ・セルギオス・ケ・バッコス聖堂、アギオス・ポリエウクトス聖堂といった偉大なキリスト教建築物が建設された。これら首都の教会堂は、皇帝による事業という境遇や、その大きさからいって各地で安易に模倣されるものではなく、プランについても当時としてはかなり大胆なもので、当時のビザンティン建築の一般解とよべるものではない。各地では、やはりバシリカ型の教会堂が継続して建設され続けていた。しかし、ユスティニアヌスの時代に建設された教会堂には、以下に挙げるような、後にビザンティン建築では一般的となる特徴が認められる。東ローマ帝国はギリシア世界であったが、ギリシア建築由来の独立柱・水平梁は構造的意味を失い、水平梁は6世紀末に全く消滅し、独立柱は副次的な要素でしかなくなった。コリント式とイオニア式の柱頭もインポスト柱頭にとって代わられた。ユスティニアヌスの時代には首都に限られた事象であるが、ドームを頂く集中型教会堂とバシリカ型教会堂を組み合わせた円蓋式バシリカ(ドーム・バシリカ)と呼ばれる形式の教会堂が建設された。ハギア・ソフィア大聖堂もその試みの一つで、より小型のものでは皇帝宮殿の側に建設されたハギア・エイレーネー聖堂がある。
プロコピオス
ユスティニアヌスの建築に対する主眼は、あらゆる意味での国家防衛政策にあったというのは、誰により後世に知られるようになったか?
ユスティニアヌスの時代は、ベリサリウスに仕えた歴史家プロコピオスの著作から、初期キリスト教建築以外の世俗建築についての情報が得られている。これによると、ユスティニアヌスの建築に対する主眼は、あらゆる意味での国家防衛政策にあり、アナスタシウス1世から引き継いだ国境線の防壁補強事業に注がれているという点が指摘されている。コンスタンティノポリスは、すでにテオドシウスの城壁によって十分に拡張されていたが、ユスティニアヌスは国境の防衛を図るため、地方都市の城壁を首都に倣って増強した。ユスティアナ・プリマ(現ツァリチン・グラード)やセルギオポリス(現ルザファ)、ゼノビア、アインタプ(現ガズィアンテプ)といった市街には難攻不落の城塞が建設され、意図的に破壊されていないものは、現在でもその姿を目にすることができる。ユスティニアヌスにより、シナイ山に燃える柴を記念して建設されたハギア・エカテリニ修道院も、帝国が異民族の侵入を防ぐための防衛屯所であり、防壁に囲まれた武装修道院として設立された。
ユスティニアヌス
防壁に囲まれた武装修道院として設立されたハギア・エカテリニ修道院は、誰により建設されたの?
ユスティニアヌスの時代は、ベリサリウスに仕えた歴史家プロコピオスの著作から、初期キリスト教建築以外の世俗建築についての情報が得られている。これによると、ユスティニアヌスの建築に対する主眼は、あらゆる意味での国家防衛政策にあり、アナスタシウス1世から引き継いだ国境線の防壁補強事業に注がれているという点が指摘されている。コンスタンティノポリスは、すでにテオドシウスの城壁によって十分に拡張されていたが、ユスティニアヌスは国境の防衛を図るため、地方都市の城壁を首都に倣って増強した。ユスティアナ・プリマ(現ツァリチン・グラード)やセルギオポリス(現ルザファ)、ゼノビア、アインタプ(現ガズィアンテプ)といった市街には難攻不落の城塞が建設され、意図的に破壊されていないものは、現在でもその姿を目にすることができる。ユスティニアヌスにより、シナイ山に燃える柴を記念して建設されたハギア・エカテリニ修道院も、帝国が異民族の侵入を防ぐための防衛屯所であり、防壁に囲まれた武装修道院として設立された。
アナスタシウス1世
ユスティニアヌスが注いでいた国境線の防壁補強事業は、誰から引き継ぎましたか?
ユスティニアヌスの時代は、ベリサリウスに仕えた歴史家プロコピオスの著作から、初期キリスト教建築以外の世俗建築についての情報が得られている。これによると、ユスティニアヌスの建築に対する主眼は、あらゆる意味での国家防衛政策にあり、アナスタシウス1世から引き継いだ国境線の防壁補強事業に注がれているという点が指摘されている。コンスタンティノポリスは、すでにテオドシウスの城壁によって十分に拡張されていたが、ユスティニアヌスは国境の防衛を図るため、地方都市の城壁を首都に倣って増強した。ユスティアナ・プリマ(現ツァリチン・グラード)やセルギオポリス(現ルザファ)、ゼノビア、アインタプ(現ガズィアンテプ)といった市街には難攻不落の城塞が建設され、意図的に破壊されていないものは、現在でもその姿を目にすることができる。ユスティニアヌスにより、シナイ山に燃える柴を記念して建設されたハギア・エカテリニ修道院も、帝国が異民族の侵入を防ぐための防衛屯所であり、防壁に囲まれた武装修道院として設立された。
燃える柴
ハギア・エカテリニ修道院は何を記念して建設されたか?
ユスティニアヌスの時代は、ベリサリウスに仕えた歴史家プロコピオスの著作から、初期キリスト教建築以外の世俗建築についての情報が得られている。これによると、ユスティニアヌスの建築に対する主眼は、あらゆる意味での国家防衛政策にあり、アナスタシウス1世から引き継いだ国境線の防壁補強事業に注がれているという点が指摘されている。コンスタンティノポリスは、すでにテオドシウスの城壁によって十分に拡張されていたが、ユスティニアヌスは国境の防衛を図るため、地方都市の城壁を首都に倣って増強した。ユスティアナ・プリマ(現ツァリチン・グラード)やセルギオポリス(現ルザファ)、ゼノビア、アインタプ(現ガズィアンテプ)といった市街には難攻不落の城塞が建設され、意図的に破壊されていないものは、現在でもその姿を目にすることができる。ユスティニアヌスにより、シナイ山に燃える柴を記念して建設されたハギア・エカテリニ修道院も、帝国が異民族の侵入を防ぐための防衛屯所であり、防壁に囲まれた武装修道院として設立された。
地下宮殿
ユスティニアヌスの時代に造られた2つの大貯水槽のうち、より大きいのはどれだ?
東ローマ帝国の給水設備についてはあまりよく分かっていないが、ユスティニアヌスの時代に2つの大貯水槽が造られたことが知られている。一つは今日、地下宮殿(イェレバタン・サラユ)と呼ばれる138m×65mにも及ぶシステルナ・バシリカで、1列12本の列柱を28列備えたものである。柱はアカンサス柱頭を備えた一見豪華なものもあるが、これは5世紀に流行した型で、当時石工がもっていた在庫品を処分したものであるとの見方が有力である。もう一つは、千一本の円柱宮殿(ビンビルディレク)と呼ばれるフィロクセノス貯水槽である。こちらはインポスト柱頭を用いた64m×56m貯槽であるが、構造は2本の円柱を上下に連結した大胆なもので、天井から床までの高さは15mにも達する。このような危険な構造を採用したのは、15m近い柱を調達するよりもコストと手間が省けるからである。ユスティニアヌス時代の建築はビザンティン建築の始まりであるとともに、世界帝国ローマの、そしてローマ建築の技術的可能性の最終局面であるといえる。以後のビザンティン建築は、この時代の技術革新によってもたらされた要素を継承していくが、工学的な面において、これを発展させていくことはなかった。
15m
地下宮殿のほかに、ユスティニアヌスの時代に造られた大貯水槽の高さは?
東ローマ帝国の給水設備についてはあまりよく分かっていないが、ユスティニアヌスの時代に2つの大貯水槽が造られたことが知られている。一つは今日、地下宮殿(イェレバタン・サラユ)と呼ばれる138m×65mにも及ぶシステルナ・バシリカで、1列12本の列柱を28列備えたものである。柱はアカンサス柱頭を備えた一見豪華なものもあるが、これは5世紀に流行した型で、当時石工がもっていた在庫品を処分したものであるとの見方が有力である。もう一つは、千一本の円柱宮殿(ビンビルディレク)と呼ばれるフィロクセノス貯水槽である。こちらはインポスト柱頭を用いた64m×56m貯槽であるが、構造は2本の円柱を上下に連結した大胆なもので、天井から床までの高さは15mにも達する。このような危険な構造を採用したのは、15m近い柱を調達するよりもコストと手間が省けるからである。ユスティニアヌス時代の建築はビザンティン建築の始まりであるとともに、世界帝国ローマの、そしてローマ建築の技術的可能性の最終局面であるといえる。以後のビザンティン建築は、この時代の技術革新によってもたらされた要素を継承していくが、工学的な面において、これを発展させていくことはなかった。
ユスティニアヌス
ビザンティン建築において始まりであるのは、誰の時代の建築ですか?
東ローマ帝国の給水設備についてはあまりよく分かっていないが、ユスティニアヌスの時代に2つの大貯水槽が造られたことが知られている。一つは今日、地下宮殿(イェレバタン・サラユ)と呼ばれる138m×65mにも及ぶシステルナ・バシリカで、1列12本の列柱を28列備えたものである。柱はアカンサス柱頭を備えた一見豪華なものもあるが、これは5世紀に流行した型で、当時石工がもっていた在庫品を処分したものであるとの見方が有力である。もう一つは、千一本の円柱宮殿(ビンビルディレク)と呼ばれるフィロクセノス貯水槽である。こちらはインポスト柱頭を用いた64m×56m貯槽であるが、構造は2本の円柱を上下に連結した大胆なもので、天井から床までの高さは15mにも達する。このような危険な構造を採用したのは、15m近い柱を調達するよりもコストと手間が省けるからである。ユスティニアヌス時代の建築はビザンティン建築の始まりであるとともに、世界帝国ローマの、そしてローマ建築の技術的可能性の最終局面であるといえる。以後のビザンティン建築は、この時代の技術革新によってもたらされた要素を継承していくが、工学的な面において、これを発展させていくことはなかった。
インポスト柱頭
地下宮殿のほかに、ユスティニアヌスの時代に造られた大貯水槽は、どのような柱頭を使ったか?
東ローマ帝国の給水設備についてはあまりよく分かっていないが、ユスティニアヌスの時代に2つの大貯水槽が造られたことが知られている。一つは今日、地下宮殿(イェレバタン・サラユ)と呼ばれる138m×65mにも及ぶシステルナ・バシリカで、1列12本の列柱を28列備えたものである。柱はアカンサス柱頭を備えた一見豪華なものもあるが、これは5世紀に流行した型で、当時石工がもっていた在庫品を処分したものであるとの見方が有力である。もう一つは、千一本の円柱宮殿(ビンビルディレク)と呼ばれるフィロクセノス貯水槽である。こちらはインポスト柱頭を用いた64m×56m貯槽であるが、構造は2本の円柱を上下に連結した大胆なもので、天井から床までの高さは15mにも達する。このような危険な構造を採用したのは、15m近い柱を調達するよりもコストと手間が省けるからである。ユスティニアヌス時代の建築はビザンティン建築の始まりであるとともに、世界帝国ローマの、そしてローマ建築の技術的可能性の最終局面であるといえる。以後のビザンティン建築は、この時代の技術革新によってもたらされた要素を継承していくが、工学的な面において、これを発展させていくことはなかった。
ヘレニスティック・タイプ
ラヴェンナのサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂やサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂は、どんなタイプのバシリカなの?
すでに初期ビザンティン建築の項で説明した通り、初期のキリスト教徒は礼拝用建築物の雛形としてローマ建築のバシリカを採用した。このタイプの教会堂は、長期間に渡って広い地域で建設され続けた。いくつかの種類が認められ、代表的なものとして、身廊に高窓を持ち、木造小屋組みの屋根が架けられる「ヘレニスティック・タイプ」と呼ばれるバシリカがある。ラヴェンナのサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂やサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂などがこれに当たる。大規模なものになると、旧サン・ピエトロ大聖堂、ルーマニアのトロパエウム(6世紀)、アギオス・デメトリオス聖堂、ピリッポイのバシリカBなどのように、トランセプトを構成するものもある。ビザンティン建築のバシリカ式として最も一般的なタイプは、身廊部分にトンネル・ヴォールトを架けた側廊のない、いわゆる単廊式バシリカで、「オリエンタル・タイプ」と呼ばれ、12世紀に至るまで建設され続けた。これはアルメニアの初期キリスト教建築などを起源とし、カッパドキアの岩窟修道院はこの流れを汲んでいる。
トロパエウム
ルーマニアにあるヘレニスティック・タイプのものは何か?
すでに初期ビザンティン建築の項で説明した通り、初期のキリスト教徒は礼拝用建築物の雛形としてローマ建築のバシリカを採用した。このタイプの教会堂は、長期間に渡って広い地域で建設され続けた。いくつかの種類が認められ、代表的なものとして、身廊に高窓を持ち、木造小屋組みの屋根が架けられる「ヘレニスティック・タイプ」と呼ばれるバシリカがある。ラヴェンナのサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂やサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂などがこれに当たる。大規模なものになると、旧サン・ピエトロ大聖堂、ルーマニアのトロパエウム(6世紀)、アギオス・デメトリオス聖堂、ピリッポイのバシリカBなどのように、トランセプトを構成するものもある。ビザンティン建築のバシリカ式として最も一般的なタイプは、身廊部分にトンネル・ヴォールトを架けた側廊のない、いわゆる単廊式バシリカで、「オリエンタル・タイプ」と呼ばれ、12世紀に至るまで建設され続けた。これはアルメニアの初期キリスト教建築などを起源とし、カッパドキアの岩窟修道院はこの流れを汲んでいる。
アルメニアの初期キリスト教建築
ビザンティン建築のバシリカ式として最も一般的なタイプは、何を起源としていますか?
すでに初期ビザンティン建築の項で説明した通り、初期のキリスト教徒は礼拝用建築物の雛形としてローマ建築のバシリカを採用した。このタイプの教会堂は、長期間に渡って広い地域で建設され続けた。いくつかの種類が認められ、代表的なものとして、身廊に高窓を持ち、木造小屋組みの屋根が架けられる「ヘレニスティック・タイプ」と呼ばれるバシリカがある。ラヴェンナのサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂やサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂などがこれに当たる。大規模なものになると、旧サン・ピエトロ大聖堂、ルーマニアのトロパエウム(6世紀)、アギオス・デメトリオス聖堂、ピリッポイのバシリカBなどのように、トランセプトを構成するものもある。ビザンティン建築のバシリカ式として最も一般的なタイプは、身廊部分にトンネル・ヴォールトを架けた側廊のない、いわゆる単廊式バシリカで、「オリエンタル・タイプ」と呼ばれ、12世紀に至るまで建設され続けた。これはアルメニアの初期キリスト教建築などを起源とし、カッパドキアの岩窟修道院はこの流れを汲んでいる。
岩窟修道院
カッパドキアにあるオリエンタル・タイプのものは何か?
すでに初期ビザンティン建築の項で説明した通り、初期のキリスト教徒は礼拝用建築物の雛形としてローマ建築のバシリカを採用した。このタイプの教会堂は、長期間に渡って広い地域で建設され続けた。いくつかの種類が認められ、代表的なものとして、身廊に高窓を持ち、木造小屋組みの屋根が架けられる「ヘレニスティック・タイプ」と呼ばれるバシリカがある。ラヴェンナのサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂やサンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂などがこれに当たる。大規模なものになると、旧サン・ピエトロ大聖堂、ルーマニアのトロパエウム(6世紀)、アギオス・デメトリオス聖堂、ピリッポイのバシリカBなどのように、トランセプトを構成するものもある。ビザンティン建築のバシリカ式として最も一般的なタイプは、身廊部分にトンネル・ヴォールトを架けた側廊のない、いわゆる単廊式バシリカで、「オリエンタル・タイプ」と呼ばれ、12世紀に至るまで建設され続けた。これはアルメニアの初期キリスト教建築などを起源とし、カッパドキアの岩窟修道院はこの流れを汲んでいる。
ドーム・バシリカ
バシリカとドームを融合する形式の呼称で、全部カタカナになっているのは何?
ハギア・ソフィア大聖堂やハギア・エイレーネー聖堂で試みられたような、バシリカとドームを融合する形式は古代ローマの世俗建築においてすでに確立されていたが、ビザンティン建築の歴史の中で一般的形態として確立されるのは6世紀頃である。ドーム・バシリカあるいは円蓋式バシリカ(DomedBasilica)と呼ばれるこの形式は、トンネル・ヴォールトを架けた身廊中央部に、身廊幅と同じ直径のドームを頂く正方形か長方形平面の教会堂である。側廊に据えた大きな角柱にアーチを架け、教会堂の短手方向で、身廊を横断するアーチはそのまま滑らかにトンネル・ヴォールトに連続するか、アーチが突出する。長手方向(側廊側)のアーチ下部はティンパヌムを構成し、開口部が設けられる。平面は単廊式(身廊のみで構成されるもの)か3廊式(身廊とそれを取り囲む側廊から構成されるも)である。ハギア・ソフィア大聖堂、およびハギア・エイレーネー聖堂は基本的にこの形式である。
6世紀頃
ドーム・バシリカがビザンティン建築の歴史の中で一般的形態として確立されたのは、いつか?
ハギア・ソフィア大聖堂やハギア・エイレーネー聖堂で試みられたような、バシリカとドームを融合する形式は古代ローマの世俗建築においてすでに確立されていたが、ビザンティン建築の歴史の中で一般的形態として確立されるのは6世紀頃である。ドーム・バシリカあるいは円蓋式バシリカ(DomedBasilica)と呼ばれるこの形式は、トンネル・ヴォールトを架けた身廊中央部に、身廊幅と同じ直径のドームを頂く正方形か長方形平面の教会堂である。側廊に据えた大きな角柱にアーチを架け、教会堂の短手方向で、身廊を横断するアーチはそのまま滑らかにトンネル・ヴォールトに連続するか、アーチが突出する。長手方向(側廊側)のアーチ下部はティンパヌムを構成し、開口部が設けられる。平面は単廊式(身廊のみで構成されるもの)か3廊式(身廊とそれを取り囲む側廊から構成されるも)である。ハギア・ソフィア大聖堂、およびハギア・エイレーネー聖堂は基本的にこの形式である。
身廊
ドーム・バシリカは、何の幅と同じ直径のドームを頂くか?
ハギア・ソフィア大聖堂やハギア・エイレーネー聖堂で試みられたような、バシリカとドームを融合する形式は古代ローマの世俗建築においてすでに確立されていたが、ビザンティン建築の歴史の中で一般的形態として確立されるのは6世紀頃である。ドーム・バシリカあるいは円蓋式バシリカ(DomedBasilica)と呼ばれるこの形式は、トンネル・ヴォールトを架けた身廊中央部に、身廊幅と同じ直径のドームを頂く正方形か長方形平面の教会堂である。側廊に据えた大きな角柱にアーチを架け、教会堂の短手方向で、身廊を横断するアーチはそのまま滑らかにトンネル・ヴォールトに連続するか、アーチが突出する。長手方向(側廊側)のアーチ下部はティンパヌムを構成し、開口部が設けられる。平面は単廊式(身廊のみで構成されるもの)か3廊式(身廊とそれを取り囲む側廊から構成されるも)である。ハギア・ソフィア大聖堂、およびハギア・エイレーネー聖堂は基本的にこの形式である。
ハギア・エイレーネー聖堂
ドーム・バシリカの形式の代表的な建築物であるのは、ハギア・ソフィア大聖堂のほかに、何がありますか?
ハギア・ソフィア大聖堂やハギア・エイレーネー聖堂で試みられたような、バシリカとドームを融合する形式は古代ローマの世俗建築においてすでに確立されていたが、ビザンティン建築の歴史の中で一般的形態として確立されるのは6世紀頃である。ドーム・バシリカあるいは円蓋式バシリカ(DomedBasilica)と呼ばれるこの形式は、トンネル・ヴォールトを架けた身廊中央部に、身廊幅と同じ直径のドームを頂く正方形か長方形平面の教会堂である。側廊に据えた大きな角柱にアーチを架け、教会堂の短手方向で、身廊を横断するアーチはそのまま滑らかにトンネル・ヴォールトに連続するか、アーチが突出する。長手方向(側廊側)のアーチ下部はティンパヌムを構成し、開口部が設けられる。平面は単廊式(身廊のみで構成されるもの)か3廊式(身廊とそれを取り囲む側廊から構成されるも)である。ハギア・ソフィア大聖堂、およびハギア・エイレーネー聖堂は基本的にこの形式である。
中小規模
クロス=ドーム・バシリカの形式にすると、問題があるのは、どんな規模の教会堂なの?
円蓋式バシリカには、クロス=ドーム・バシリカ(Cross-DomedBasilica)と呼ばれる、身廊部分がギリシア十字平面に近い形式になったものもある。ハギア・ソフィア大聖堂では、身廊と側廊を分けるアーケードとティンパヌムが、四隅に設けられた角柱の内側に設けられているため、角柱は側廊に隠され、南北のアーチは内部には露出していない。しかし、中小規模の教会堂で同様の形状にすると、身廊がかなり狭苦しく、空間の広がりを保つことができない。クロス=ドーム・バシリカは、ティンパヌムとアーケードを角柱の外側に構成することによって、身廊内部に広がりを持たせたものである。この場合、やや奥行きの深いアーチを持つ空間が短手方向にも伸びるため、身廊は十字型の平面となる。円蓋式バシリカやクロス=ドーム・バシリカは、5世紀末から9世紀までビザンティン建築で採用されたが、内接十字型がビザンティン建築の主流として確立されると廃れてしまった。しかし、12世紀には一時的にリヴァイヴァルされている。現存する代表的な円蓋式バシリカは、上記に挙げた聖堂のほか、ミュラ(現デムレ)のアギオス・ニコラオス聖堂(8世紀頃か?)、デレアジの廃墟となっている聖堂(名称不明、9世紀初期?)、721年頃に創建されたテッサロニキのハギア・ソフィア聖堂などがある。特にテッサロニキのものはクロス=ドーム・バシリカの典型例として引用される。12世紀にリヴァイヴァルされたものでは、コーラ修道院中央聖堂(12世紀初期)やコンスタンティノポリスのカレンデルハネ・ジャーミイ(12世紀中期)が挙げられる。カレンデルハネでは側廊が失われ、集中性の高いギリシア十字型平面になっている。これらは、もはやバシリカとは言えないような形式となっているため、単にクロス=ドーム(Cross-DomedChurch)とも呼ばれる。
クロス=ドーム・バシリカ
円蓋式バシリカのほかに、内接十字型が主流となると廃れてしまったが、12世紀に一時的に復活したのは、何か?
円蓋式バシリカには、クロス=ドーム・バシリカ(Cross-DomedBasilica)と呼ばれる、身廊部分がギリシア十字平面に近い形式になったものもある。ハギア・ソフィア大聖堂では、身廊と側廊を分けるアーケードとティンパヌムが、四隅に設けられた角柱の内側に設けられているため、角柱は側廊に隠され、南北のアーチは内部には露出していない。しかし、中小規模の教会堂で同様の形状にすると、身廊がかなり狭苦しく、空間の広がりを保つことができない。クロス=ドーム・バシリカは、ティンパヌムとアーケードを角柱の外側に構成することによって、身廊内部に広がりを持たせたものである。この場合、やや奥行きの深いアーチを持つ空間が短手方向にも伸びるため、身廊は十字型の平面となる。円蓋式バシリカやクロス=ドーム・バシリカは、5世紀末から9世紀までビザンティン建築で採用されたが、内接十字型がビザンティン建築の主流として確立されると廃れてしまった。しかし、12世紀には一時的にリヴァイヴァルされている。現存する代表的な円蓋式バシリカは、上記に挙げた聖堂のほか、ミュラ(現デムレ)のアギオス・ニコラオス聖堂(8世紀頃か?)、デレアジの廃墟となっている聖堂(名称不明、9世紀初期?)、721年頃に創建されたテッサロニキのハギア・ソフィア聖堂などがある。特にテッサロニキのものはクロス=ドーム・バシリカの典型例として引用される。12世紀にリヴァイヴァルされたものでは、コーラ修道院中央聖堂(12世紀初期)やコンスタンティノポリスのカレンデルハネ・ジャーミイ(12世紀中期)が挙げられる。カレンデルハネでは側廊が失われ、集中性の高いギリシア十字型平面になっている。これらは、もはやバシリカとは言えないような形式となっているため、単にクロス=ドーム(Cross-DomedChurch)とも呼ばれる。
内接十字型
10世紀からビザンティン建築の主流となったのは、何か?
円蓋式バシリカには、クロス=ドーム・バシリカ(Cross-DomedBasilica)と呼ばれる、身廊部分がギリシア十字平面に近い形式になったものもある。ハギア・ソフィア大聖堂では、身廊と側廊を分けるアーケードとティンパヌムが、四隅に設けられた角柱の内側に設けられているため、角柱は側廊に隠され、南北のアーチは内部には露出していない。しかし、中小規模の教会堂で同様の形状にすると、身廊がかなり狭苦しく、空間の広がりを保つことができない。クロス=ドーム・バシリカは、ティンパヌムとアーケードを角柱の外側に構成することによって、身廊内部に広がりを持たせたものである。この場合、やや奥行きの深いアーチを持つ空間が短手方向にも伸びるため、身廊は十字型の平面となる。円蓋式バシリカやクロス=ドーム・バシリカは、5世紀末から9世紀までビザンティン建築で採用されたが、内接十字型がビザンティン建築の主流として確立されると廃れてしまった。しかし、12世紀には一時的にリヴァイヴァルされている。現存する代表的な円蓋式バシリカは、上記に挙げた聖堂のほか、ミュラ(現デムレ)のアギオス・ニコラオス聖堂(8世紀頃か?)、デレアジの廃墟となっている聖堂(名称不明、9世紀初期?)、721年頃に創建されたテッサロニキのハギア・ソフィア聖堂などがある。特にテッサロニキのものはクロス=ドーム・バシリカの典型例として引用される。12世紀にリヴァイヴァルされたものでは、コーラ修道院中央聖堂(12世紀初期)やコンスタンティノポリスのカレンデルハネ・ジャーミイ(12世紀中期)が挙げられる。カレンデルハネでは側廊が失われ、集中性の高いギリシア十字型平面になっている。これらは、もはやバシリカとは言えないような形式となっているため、単にクロス=ドーム(Cross-DomedChurch)とも呼ばれる。
コーラ修道院中央聖堂
コーラ修道院中央聖堂とカレンデルハネ・ジャーミイのうち、より早く建設されたのはどちらですか?
円蓋式バシリカには、クロス=ドーム・バシリカ(Cross-DomedBasilica)と呼ばれる、身廊部分がギリシア十字平面に近い形式になったものもある。ハギア・ソフィア大聖堂では、身廊と側廊を分けるアーケードとティンパヌムが、四隅に設けられた角柱の内側に設けられているため、角柱は側廊に隠され、南北のアーチは内部には露出していない。しかし、中小規模の教会堂で同様の形状にすると、身廊がかなり狭苦しく、空間の広がりを保つことができない。クロス=ドーム・バシリカは、ティンパヌムとアーケードを角柱の外側に構成することによって、身廊内部に広がりを持たせたものである。この場合、やや奥行きの深いアーチを持つ空間が短手方向にも伸びるため、身廊は十字型の平面となる。円蓋式バシリカやクロス=ドーム・バシリカは、5世紀末から9世紀までビザンティン建築で採用されたが、内接十字型がビザンティン建築の主流として確立されると廃れてしまった。しかし、12世紀には一時的にリヴァイヴァルされている。現存する代表的な円蓋式バシリカは、上記に挙げた聖堂のほか、ミュラ(現デムレ)のアギオス・ニコラオス聖堂(8世紀頃か?)、デレアジの廃墟となっている聖堂(名称不明、9世紀初期?)、721年頃に創建されたテッサロニキのハギア・ソフィア聖堂などがある。特にテッサロニキのものはクロス=ドーム・バシリカの典型例として引用される。12世紀にリヴァイヴァルされたものでは、コーラ修道院中央聖堂(12世紀初期)やコンスタンティノポリスのカレンデルハネ・ジャーミイ(12世紀中期)が挙げられる。カレンデルハネでは側廊が失われ、集中性の高いギリシア十字型平面になっている。これらは、もはやバシリカとは言えないような形式となっているため、単にクロス=ドーム(Cross-DomedChurch)とも呼ばれる。
アメリカ
ニカラグア事件とは、ニカラグアがどの国を国際司法裁判所に提訴した事件であるの?
ニカラグア事件(ニカラグアじけん、英語:NicaraguaCase、フランス語:AffaireNicaragua)は、ニカラグアに対する軍事行動などの違法性を主張し、1984年4月9日にニカラグアが違法性の宣言や損害賠償などを求め、国際司法裁判所(ICJ)にアメリカを提訴した国際紛争である。1986年6月27日に本案判決が下されICJはアメリカの行動の違法性を認定したが、結局アメリカの賠償がないままニカラグアの請求取り下げを受けてICJは1991年9月26日に裁判終了を宣言した。
1984年4月9日
ニカラグア事件とは、ニカラグアがいつ、アメリカを国際司法裁判所に提訴した事件でありますか?
ニカラグア事件(ニカラグアじけん、英語:NicaraguaCase、フランス語:AffaireNicaragua)は、ニカラグアに対する軍事行動などの違法性を主張し、1984年4月9日にニカラグアが違法性の宣言や損害賠償などを求め、国際司法裁判所(ICJ)にアメリカを提訴した国際紛争である。1986年6月27日に本案判決が下されICJはアメリカの行動の違法性を認定したが、結局アメリカの賠償がないままニカラグアの請求取り下げを受けてICJは1991年9月26日に裁判終了を宣言した。
1986年6月27日
この案に対するICJの判決が下されたのは、いつのことか?
ニカラグア事件(ニカラグアじけん、英語:NicaraguaCase、フランス語:AffaireNicaragua)は、ニカラグアに対する軍事行動などの違法性を主張し、1984年4月9日にニカラグアが違法性の宣言や損害賠償などを求め、国際司法裁判所(ICJ)にアメリカを提訴した国際紛争である。1986年6月27日に本案判決が下されICJはアメリカの行動の違法性を認定したが、結局アメリカの賠償がないままニカラグアの請求取り下げを受けてICJは1991年9月26日に裁判終了を宣言した。
アメリカの行動の違法性を認定
この案に対し、ICJはどのような判決を下したか?
ニカラグア事件(ニカラグアじけん、英語:NicaraguaCase、フランス語:AffaireNicaragua)は、ニカラグアに対する軍事行動などの違法性を主張し、1984年4月9日にニカラグアが違法性の宣言や損害賠償などを求め、国際司法裁判所(ICJ)にアメリカを提訴した国際紛争である。1986年6月27日に本案判決が下されICJはアメリカの行動の違法性を認定したが、結局アメリカの賠償がないままニカラグアの請求取り下げを受けてICJは1991年9月26日に裁判終了を宣言した。
1959年
キューバ革命は、何年に終わった事件であるの?
1959年のキューバ革命の成功により中米地域は冷戦下の東西対立構造の中に組み込まれていくことになり、この地域においては親ソ勢力を排除することがアメリカの政策上の柱となった。特に反米的な勢力が政権の座についたり、そのような可能性がある場合にはアメリカはこの地域に対して軍事力を行使することすらためらわなかった。
成功
キューバ革命の結果は、どうでしたか?
1959年のキューバ革命の成功により中米地域は冷戦下の東西対立構造の中に組み込まれていくことになり、この地域においては親ソ勢力を排除することがアメリカの政策上の柱となった。特に反米的な勢力が政権の座についたり、そのような可能性がある場合にはアメリカはこの地域に対して軍事力を行使することすらためらわなかった。
軍事力を行使
冷戦下の東西対立構造が築かれた時代に、反米的勢力が政権を握った地域に対して、アメリカはどうやってまでその勢力を排除しようとしたか?
1959年のキューバ革命の成功により中米地域は冷戦下の東西対立構造の中に組み込まれていくことになり、この地域においては親ソ勢力を排除することがアメリカの政策上の柱となった。特に反米的な勢力が政権の座についたり、そのような可能性がある場合にはアメリカはこの地域に対して軍事力を行使することすらためらわなかった。
親ソ勢力
冷戦とは、アメリカを中心とする勢力とどの勢力の間の対立のことをいうか?
1959年のキューバ革命の成功により中米地域は冷戦下の東西対立構造の中に組み込まれていくことになり、この地域においては親ソ勢力を排除することがアメリカの政策上の柱となった。特に反米的な勢力が政権の座についたり、そのような可能性がある場合にはアメリカはこの地域に対して軍事力を行使することすらためらわなかった。
グレナダ
冷戦時代に、反米的勢力が政権を握った地域に対してアメリカが軍事力を行使した例として挙げられているのは、ドミニカ共和国占領とどこを侵攻した事件ですか?
こうしたアメリカの動きは、例えばソ連のキューバにおけるミサイル配備計画の発覚(キューバ危機)に続くキューバ敵視政策、1965年のドミニカ共和国占領、1983年のグレナダ侵攻などにみられる。ニカラグア革命後のニカラグアに対しても同様に、アメリカは親ソ勢力排除を目的とした介入をおこなった。
ドミニカ共和国占領
ドミニカ共和国占領とグレナダ侵攻のうち、より早く発生した事件は、どちらなの?
こうしたアメリカの動きは、例えばソ連のキューバにおけるミサイル配備計画の発覚(キューバ危機)に続くキューバ敵視政策、1965年のドミニカ共和国占領、1983年のグレナダ侵攻などにみられる。ニカラグア革命後のニカラグアに対しても同様に、アメリカは親ソ勢力排除を目的とした介入をおこなった。
親ソ勢力
ドミニカ共和国とグレナダ、ニカラグアの三つの地域に対し、アメリカが軍事力を行使したのは、どのような勢力の排除が目的であったか?
こうしたアメリカの動きは、例えばソ連のキューバにおけるミサイル配備計画の発覚(キューバ危機)に続くキューバ敵視政策、1965年のドミニカ共和国占領、1983年のグレナダ侵攻などにみられる。ニカラグア革命後のニカラグアに対しても同様に、アメリカは親ソ勢力排除を目的とした介入をおこなった。
43年間
1979年をもって、ソモサ政権による何年間の支配がようやく終わりましたか?
1979年、ニカラグアを43年間にわたり支配してきたソモサ政権が武力により反政府組織サンディニスタ民族解放戦線に打倒され、新たな左翼政権が樹立された(ニカラグア革命)。
1979年
何年をもって、ソモサ政権による支配がようやく幕を閉じたの?
1979年、ニカラグアを43年間にわたり支配してきたソモサ政権が武力により反政府組織サンディニスタ民族解放戦線に打倒され、新たな左翼政権が樹立された(ニカラグア革命)。
サンディニスタ民族解放戦線
ソモサ政権を崩した反政府勢力は、何と呼ばれたか?
1979年、ニカラグアを43年間にわたり支配してきたソモサ政権が武力により反政府組織サンディニスタ民族解放戦線に打倒され、新たな左翼政権が樹立された(ニカラグア革命)。
1979年
ニカラグア革命が起こったのは、何年のことか?
1979年、ニカラグアを43年間にわたり支配してきたソモサ政権が武力により反政府組織サンディニスタ民族解放戦線に打倒され、新たな左翼政権が樹立された(ニカラグア革命)。
共産圏
ニカラグアの新政権は、どの勢力圏との関係構築に力を入れていたの?
アメリカ合衆国は経済援助を行うなどニカラグアの新政権に対して当初友好的であったが、新政権は西側諸国との関係を築いていく一方でキューバをはじめとする共産圏との関係も緊密にしていった。
西側諸国
この文書では、共産圏国家を合わせた何と呼びましたか?
アメリカ合衆国は経済援助を行うなどニカラグアの新政権に対して当初友好的であったが、新政権は西側諸国との関係を築いていく一方でキューバをはじめとする共産圏との関係も緊密にしていった。
西側諸国
アメリカと敵対する勢力の国々を何と呼んだか?
アメリカ合衆国は経済援助を行うなどニカラグアの新政権に対して当初友好的であったが、新政権は西側諸国との関係を築いていく一方でキューバをはじめとする共産圏との関係も緊密にしていった。
共産圏
アメリカと敵対する勢力圏は、何か?
アメリカ合衆国は経済援助を行うなどニカラグアの新政権に対して当初友好的であったが、新政権は西側諸国との関係を築いていく一方でキューバをはじめとする共産圏との関係も緊密にしていった。
1981年
レーガンがアメリカ大統領に就任したのは、何年のことなの?
1981年に発足したアメリカのレーガン政権はサンディニスタ民族解放戦線が周辺諸国の反政府組織に武器弾薬などの供与し、ニカラグアがソ連の米州進出や麻薬取引・テロリズムの拠点になっているとの理由でこれを米州全体の脅威とし、経済援助を停止して次第にニカラグアの反政府武装組織コントラを支援するようになった。コントラはホンジュラスやコスタリカとの国境地帯に基地を設けて活動し、1980年代半ばには約1万5千人の兵力を有するほどまでに拡大した。
コントラ
レーガン政権は、反政府組織を敵とみなして経済援助を停止し、どの組織を支援しましたか?
1981年に発足したアメリカのレーガン政権はサンディニスタ民族解放戦線が周辺諸国の反政府組織に武器弾薬などの供与し、ニカラグアがソ連の米州進出や麻薬取引・テロリズムの拠点になっているとの理由でこれを米州全体の脅威とし、経済援助を停止して次第にニカラグアの反政府武装組織コントラを支援するようになった。コントラはホンジュラスやコスタリカとの国境地帯に基地を設けて活動し、1980年代半ばには約1万5千人の兵力を有するほどまでに拡大した。
サンディニスタ
コントラとサンディニスタのうち、どちらがソ連と同じ側の勢力だと予測できるか?
1981年に発足したアメリカのレーガン政権はサンディニスタ民族解放戦線が周辺諸国の反政府組織に武器弾薬などの供与し、ニカラグアがソ連の米州進出や麻薬取引・テロリズムの拠点になっているとの理由でこれを米州全体の脅威とし、経済援助を停止して次第にニカラグアの反政府武装組織コントラを支援するようになった。コントラはホンジュラスやコスタリカとの国境地帯に基地を設けて活動し、1980年代半ばには約1万5千人の兵力を有するほどまでに拡大した。
石油施設
ニカラグアの主張によると、アメリカはニカラグアの空港と、どんな施設を攻撃したの?
ニカラグアが後に国際司法裁判所に主張したところによると、アメリカはコントラの人員募集、武器供与、訓練など行いニカラグアを攻撃させてニカラグア市民に損害を与えたほか、中央情報局(CIA)の職員がニカラグアの港湾施設に機雷を敷設して第三国の船舶にまで損害を与えたり、空港や石油施設への攻撃、偵察飛行や領空侵犯を行ったという。1984年3月、ニカラグアはアメリカによる一連の行動を「侵略」であると主張し、国連安保理に提訴しアメリカを非難する決議案を提出したが、この決議案は4月4日の安保理理事会にてアメリカの拒否権行使によって否決された。この決議案に対しては反対票を投じたアメリカと投票を棄権したイギリスを除き、すべての理事国が賛成票を投じていた。
港湾施設
ニカラグアの主張によると、アメリカの中央情報局の職員はニカラグアのどのような施設に機雷を敷きましたか?
ニカラグアが後に国際司法裁判所に主張したところによると、アメリカはコントラの人員募集、武器供与、訓練など行いニカラグアを攻撃させてニカラグア市民に損害を与えたほか、中央情報局(CIA)の職員がニカラグアの港湾施設に機雷を敷設して第三国の船舶にまで損害を与えたり、空港や石油施設への攻撃、偵察飛行や領空侵犯を行ったという。1984年3月、ニカラグアはアメリカによる一連の行動を「侵略」であると主張し、国連安保理に提訴しアメリカを非難する決議案を提出したが、この決議案は4月4日の安保理理事会にてアメリカの拒否権行使によって否決された。この決議案に対しては反対票を投じたアメリカと投票を棄権したイギリスを除き、すべての理事国が賛成票を投じていた。
アメリカの拒否権行使
1984年3月、ニカラグアが国連安保理に提訴した決議案が否定されたのは、何によることだったか?
ニカラグアが後に国際司法裁判所に主張したところによると、アメリカはコントラの人員募集、武器供与、訓練など行いニカラグアを攻撃させてニカラグア市民に損害を与えたほか、中央情報局(CIA)の職員がニカラグアの港湾施設に機雷を敷設して第三国の船舶にまで損害を与えたり、空港や石油施設への攻撃、偵察飛行や領空侵犯を行ったという。1984年3月、ニカラグアはアメリカによる一連の行動を「侵略」であると主張し、国連安保理に提訴しアメリカを非難する決議案を提出したが、この決議案は4月4日の安保理理事会にてアメリカの拒否権行使によって否決された。この決議案に対しては反対票を投じたアメリカと投票を棄権したイギリスを除き、すべての理事国が賛成票を投じていた。
4月4日
1984年3月、ニカラグアが国連安保理に提出した決議案に対し、アメリカの対応が行われたのは、いつのことか?
ニカラグアが後に国際司法裁判所に主張したところによると、アメリカはコントラの人員募集、武器供与、訓練など行いニカラグアを攻撃させてニカラグア市民に損害を与えたほか、中央情報局(CIA)の職員がニカラグアの港湾施設に機雷を敷設して第三国の船舶にまで損害を与えたり、空港や石油施設への攻撃、偵察飛行や領空侵犯を行ったという。1984年3月、ニカラグアはアメリカによる一連の行動を「侵略」であると主張し、国連安保理に提訴しアメリカを非難する決議案を提出したが、この決議案は4月4日の安保理理事会にてアメリカの拒否権行使によって否決された。この決議案に対しては反対票を投じたアメリカと投票を棄権したイギリスを除き、すべての理事国が賛成票を投じていた。
1984年4月9日
ニカラグアがアメリカを国際司法裁判所に提訴したのは、いつのことなの?
ニカラグアは「アメリカがニカラグアに対し武力行使と内政干渉を行い、ニカラグアの主権、領土保全、政治的独立を侵害し、国際的に受け入れられた国際法の基本的原則に違反している」と主張し、1984年4月9日にアメリカを国際司法裁判所(ICJ)に一方的に提訴した。またニカラグアは提訴に際して仮保全措置を申請した。仮保全措置命令とはICJ規程第41条に基づき訴訟当事国の利益を保護するために裁判所が暫定的に指示する措置のことであり、当事国の権利が本案に関する判決を待っていたのでは回復不能なほどに侵害されるおそれがある場合になされる。
国際法の基本的原則
ニカラグアはアメリカが何に違反したと主張し、国際司法裁判所にアメリカを提訴しましたか?
ニカラグアは「アメリカがニカラグアに対し武力行使と内政干渉を行い、ニカラグアの主権、領土保全、政治的独立を侵害し、国際的に受け入れられた国際法の基本的原則に違反している」と主張し、1984年4月9日にアメリカを国際司法裁判所(ICJ)に一方的に提訴した。またニカラグアは提訴に際して仮保全措置を申請した。仮保全措置命令とはICJ規程第41条に基づき訴訟当事国の利益を保護するために裁判所が暫定的に指示する措置のことであり、当事国の権利が本案に関する判決を待っていたのでは回復不能なほどに侵害されるおそれがある場合になされる。
仮保全措置
ニカラグアがアメリカを提訴する際、申請したのは、何の措置か?
ニカラグアは「アメリカがニカラグアに対し武力行使と内政干渉を行い、ニカラグアの主権、領土保全、政治的独立を侵害し、国際的に受け入れられた国際法の基本的原則に違反している」と主張し、1984年4月9日にアメリカを国際司法裁判所(ICJ)に一方的に提訴した。またニカラグアは提訴に際して仮保全措置を申請した。仮保全措置命令とはICJ規程第41条に基づき訴訟当事国の利益を保護するために裁判所が暫定的に指示する措置のことであり、当事国の権利が本案に関する判決を待っていたのでは回復不能なほどに侵害されるおそれがある場合になされる。
ICJ規程第41条
ニカラグアがアメリカを提訴する際、申請したのは、ICJ規程第何条に基づく措置だったか?
ニカラグアは「アメリカがニカラグアに対し武力行使と内政干渉を行い、ニカラグアの主権、領土保全、政治的独立を侵害し、国際的に受け入れられた国際法の基本的原則に違反している」と主張し、1984年4月9日にアメリカを国際司法裁判所(ICJ)に一方的に提訴した。またニカラグアは提訴に際して仮保全措置を申請した。仮保全措置命令とはICJ規程第41条に基づき訴訟当事国の利益を保護するために裁判所が暫定的に指示する措置のことであり、当事国の権利が本案に関する判決を待っていたのでは回復不能なほどに侵害されるおそれがある場合になされる。
2億5000万ドル
1984年以降、コントラの活動は、何ドルにも至る物的損害を出したの?
1984年以降、コントラの活動によって生じた物的損害は2億5000万ドルにも上り、1万3000人の死傷者を出した。またこのような直接的損害だけでなくニカラグア国内では経済状況も悪化していった。
1万3000人
1984年以降、コントラの活動は、何人にも至る死傷者を出しましたか?
1984年以降、コントラの活動によって生じた物的損害は2億5000万ドルにも上り、1万3000人の死傷者を出した。またこのような直接的損害だけでなくニカラグア国内では経済状況も悪化していった。
直接的損害
この文書では、物的損害と死傷者を合わせて何と表現しているか?
1984年以降、コントラの活動によって生じた物的損害は2億5000万ドルにも上り、1万3000人の死傷者を出した。またこのような直接的損害だけでなくニカラグア国内では経済状況も悪化していった。
物的損害
直接的損害とは、死傷者と何を指しているか?
1984年以降、コントラの活動によって生じた物的損害は2億5000万ドルにも上り、1万3000人の死傷者を出した。またこのような直接的損害だけでなくニカラグア国内では経済状況も悪化していった。
GDPの成長率
失業率と反対の動きが見られたのは、何の数値なの?
ニカラグアのGDPの成長率は1984年以降マイナスに転じ失業率は20パーセントを超えた。
1984年
GDPの成長率が0より下の数値を見せたのは、何年以降のことですか?
ニカラグアのGDPの成長率は1984年以降マイナスに転じ失業率は20パーセントを超えた。
失業率
1984年以降、何の数値が20%を超え、新たな社会問題として指摘され始めたか?
ニカラグアのGDPの成長率は1984年以降マイナスに転じ失業率は20パーセントを超えた。
失業率
GDPの成長率と失業率のうち、1984年以降、急激な上昇を見せた数値は、どちらに該当する数値であるか?
ニカラグアのGDPの成長率は1984年以降マイナスに転じ失業率は20パーセントを超えた。
1987年
1984年から1987年までのニカラグアのインフラ率を見ると、数値の最も大きいのは、何年なの?
1985年にニカラグアではインフレ化が進み、1984年に35.4パーセントだったインフレ率は翌1985年には219.5パーセント、1986年には681.6パーセント、1987年には1,100パーセントと急激に上昇していった。
1984年
1984年から1987年までのニカラグアのインフラ率を見ると、数値の最も小さいのは、何年ですか?
1985年にニカラグアではインフレ化が進み、1984年に35.4パーセントだったインフレ率は翌1985年には219.5パーセント、1986年には681.6パーセント、1987年には1,100パーセントと急激に上昇していった。
1985年
ニカラグアのインフラ率が急増の様子を見せ始めたのは、何年からか?
1985年にニカラグアではインフレ化が進み、1984年に35.4パーセントだったインフレ率は翌1985年には219.5パーセント、1986年には681.6パーセント、1987年には1,100パーセントと急激に上昇していった。
1987年
アメリカ議会がコントラへの援助停止を決定したのは、何年のことなの?
一方でアメリカでは、中米における紛争への介入に反対するアメリカ国内世論をうけ、1987年に議会がコントラへの援助停止を決定した。こうしたニカラグア国内の疲弊やアメリカのコントラに対する態度の変換から、両国の対立関係は次第に変化していく。
1987年
アメリカとニカラグアの両国の対立関係が変化を見せ始めたのは、何年からですか?
一方でアメリカでは、中米における紛争への介入に反対するアメリカ国内世論をうけ、1987年に議会がコントラへの援助停止を決定した。こうしたニカラグア国内の疲弊やアメリカのコントラに対する態度の変換から、両国の対立関係は次第に変化していく。
中米
アメリカ国内では、どこにおける紛争に介入することに対する反対世論が強まっていたか?
一方でアメリカでは、中米における紛争への介入に反対するアメリカ国内世論をうけ、1987年に議会がコントラへの援助停止を決定した。こうしたニカラグア国内の疲弊やアメリカのコントラに対する態度の変換から、両国の対立関係は次第に変化していく。
中米における紛争への介入
何に反対する世論が台頭および増加し、議会も1987年にそれを受け入れたか?
一方でアメリカでは、中米における紛争への介入に反対するアメリカ国内世論をうけ、1987年に議会がコントラへの援助停止を決定した。こうしたニカラグア国内の疲弊やアメリカのコントラに対する態度の変換から、両国の対立関係は次第に変化していく。
1990年
ビオレタ・チャモロが大統領に選出されたのは、何年のことなの?
1990年にニカラグアで行われた総選挙ではアメリカが支持する反体制国民連合が圧勝して同年2月25日にビオレタ・チャモロが大統領に選出され、4月19日にはサンディニスタ民族解放戦線とコントラの間で停戦協定が成立し、コントラの武装解除や政府軍の兵力縮小が行われた。
1990年
この文章では、何年にニカラグアであった出来事について説明しているか?
1990年にニカラグアで行われた総選挙ではアメリカが支持する反体制国民連合が圧勝して同年2月25日にビオレタ・チャモロが大統領に選出され、4月19日にはサンディニスタ民族解放戦線とコントラの間で停戦協定が成立し、コントラの武装解除や政府軍の兵力縮小が行われた。
1821年
大日本沿海輿地全図が完成された年は?
大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)は、江戸時代後期の測量家伊能忠敬が中心となって作製した日本全土の実測地図である。 「伊能図(いのうず)」や「伊能大図」とも称される。 完成は文政4年(1821年)。
大日本沿海輿地全図
「伊能図」の正式名称は何?
大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)は、江戸時代後期の測量家伊能忠敬が中心となって作製した日本全土の実測地図である。 「伊能図(いのうず)」や「伊能大図」とも称される。 完成は文政4年(1821年)。
伊能忠敬
大日本沿海輿地全図の作製にあたり中心にいた人物とは?
大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)は、江戸時代後期の測量家伊能忠敬が中心となって作製した日本全土の実測地図である。 「伊能図(いのうず)」や「伊能大図」とも称される。 完成は文政4年(1821年)。
江戸時代
大日本沿海輿地全図が完成されたのは何時代でしたか?
大日本沿海輿地全図(だいにほんえんかいよちぜんず)は、江戸時代後期の測量家伊能忠敬が中心となって作製した日本全土の実測地図である。 「伊能図(いのうず)」や「伊能大図」とも称される。 完成は文政4年(1821年)。
高橋至時
江戸幕府に伊能を推薦した人物のフルネームは何?
本図は、寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)にかけて江戸幕府の事業として測量・作成が行われたものである。 上総国出身で商人だった伊能忠敬(1745年-1818年)は隠居後に学問を本格的に開始し、江戸にて幕府天文方の高橋至時(1764年-1804年)に師事し、測量・天体観測などについて修めていた。 当時、地球の緯度1度に相当する子午線弧長について、30里、32里あるいは25里などと諸説があったなか、高橋・伊能師弟はこれを正確に測定するという目標を有していた。 そこで高橋は幕府に伊能を推薦し、当時ロシア南下の脅威に備えて海岸線防備を増強する必要があった蝦夷地(現在の北海道)の測量を兼ねて、その往復の北関東・東北地方を測量することで子午線1度の測定を行わせるよう願い出た。 こうして幕府の許可を得た伊能は寛政12年(1800年)、私財を投じて第1次測量として蝦夷地および東北・北関東の測量を開始した。 各地の測量には幕府の許可を要したが、幕府は測量を許可したばかりか全国各藩に伊能への協力を命じた。 これは、その時点で西洋列強の艦船が頻繁に日本近海に現れるようになっており、国防上の観点から幕府も全国沿岸地図を必要とし、伊能の事業を有益と判断したためである。
蝦夷地
当時、海岸線の防備を強める必要があった地はどこでしたか?
本図は、寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)にかけて江戸幕府の事業として測量・作成が行われたものである。 上総国出身で商人だった伊能忠敬(1745年-1818年)は隠居後に学問を本格的に開始し、江戸にて幕府天文方の高橋至時(1764年-1804年)に師事し、測量・天体観測などについて修めていた。 当時、地球の緯度1度に相当する子午線弧長について、30里、32里あるいは25里などと諸説があったなか、高橋・伊能師弟はこれを正確に測定するという目標を有していた。 そこで高橋は幕府に伊能を推薦し、当時ロシア南下の脅威に備えて海岸線防備を増強する必要があった蝦夷地(現在の北海道)の測量を兼ねて、その往復の北関東・東北地方を測量することで子午線1度の測定を行わせるよう願い出た。 こうして幕府の許可を得た伊能は寛政12年(1800年)、私財を投じて第1次測量として蝦夷地および東北・北関東の測量を開始した。 各地の測量には幕府の許可を要したが、幕府は測量を許可したばかりか全国各藩に伊能への協力を命じた。 これは、その時点で西洋列強の艦船が頻繁に日本近海に現れるようになっており、国防上の観点から幕府も全国沿岸地図を必要とし、伊能の事業を有益と判断したためである。
高橋至時
伊能忠敬と高橋至時はどちらが先に亡くなりましたか?
本図は、寛政12年(1800年)から文化13年(1816年)にかけて江戸幕府の事業として測量・作成が行われたものである。 上総国出身で商人だった伊能忠敬(1745年-1818年)は隠居後に学問を本格的に開始し、江戸にて幕府天文方の高橋至時(1764年-1804年)に師事し、測量・天体観測などについて修めていた。 当時、地球の緯度1度に相当する子午線弧長について、30里、32里あるいは25里などと諸説があったなか、高橋・伊能師弟はこれを正確に測定するという目標を有していた。 そこで高橋は幕府に伊能を推薦し、当時ロシア南下の脅威に備えて海岸線防備を増強する必要があった蝦夷地(現在の北海道)の測量を兼ねて、その往復の北関東・東北地方を測量することで子午線1度の測定を行わせるよう願い出た。 こうして幕府の許可を得た伊能は寛政12年(1800年)、私財を投じて第1次測量として蝦夷地および東北・北関東の測量を開始した。 各地の測量には幕府の許可を要したが、幕府は測量を許可したばかりか全国各藩に伊能への協力を命じた。 これは、その時点で西洋列強の艦船が頻繁に日本近海に現れるようになっており、国防上の観点から幕府も全国沿岸地図を必要とし、伊能の事業を有益と判断したためである。
中図
大図、中図、小図の中で2番目に枚数が多かったのは何でしたか?
蝦夷地測量の翌年の享和元年(1801年)には、本州東海岸、東北西海岸、東海・北陸地方沿岸の測量を完了。 文化元年(1804年)には、それまでの測量の結果をいったんまとめ、大図69枚・中図3枚・小図1枚(大中小図については後述)からなる東日本の地図を幕府に提出、将軍徳川家斉の上覧に供した。 なお、子午線1度の長さについては28.2里(約110.74キロメートル)と算出し、今日の計測値と較べても極めて誤差の小さい(0.2%程度)数値となっている。 従来の日本地図とは異なり、実測による正確・精密な地図の質の高さに幕府上層部も驚愕し、伊能の測量事業への支援をいっそう強化することとなった。 伊能は正式に幕府天文方の役人として雇用され、翌文化2年(1805年)の第5次測量からは、幕府直轄事業として行われることとなった。
小図
大図、中図、小図の中で最も枚数が少ないのはどれ?
蝦夷地測量の翌年の享和元年(1801年)には、本州東海岸、東北西海岸、東海・北陸地方沿岸の測量を完了。 文化元年(1804年)には、それまでの測量の結果をいったんまとめ、大図69枚・中図3枚・小図1枚(大中小図については後述)からなる東日本の地図を幕府に提出、将軍徳川家斉の上覧に供した。 なお、子午線1度の長さについては28.2里(約110.74キロメートル)と算出し、今日の計測値と較べても極めて誤差の小さい(0.2%程度)数値となっている。 従来の日本地図とは異なり、実測による正確・精密な地図の質の高さに幕府上層部も驚愕し、伊能の測量事業への支援をいっそう強化することとなった。 伊能は正式に幕府天文方の役人として雇用され、翌文化2年(1805年)の第5次測量からは、幕府直轄事業として行われることとなった。
1805年
第5次測量は何年から行われましたか?
蝦夷地測量の翌年の享和元年(1801年)には、本州東海岸、東北西海岸、東海・北陸地方沿岸の測量を完了。 文化元年(1804年)には、それまでの測量の結果をいったんまとめ、大図69枚・中図3枚・小図1枚(大中小図については後述)からなる東日本の地図を幕府に提出、将軍徳川家斉の上覧に供した。 なお、子午線1度の長さについては28.2里(約110.74キロメートル)と算出し、今日の計測値と較べても極めて誤差の小さい(0.2%程度)数値となっている。 従来の日本地図とは異なり、実測による正確・精密な地図の質の高さに幕府上層部も驚愕し、伊能の測量事業への支援をいっそう強化することとなった。 伊能は正式に幕府天文方の役人として雇用され、翌文化2年(1805年)の第5次測量からは、幕府直轄事業として行われることとなった。
徳川家斉
1804年に東日本の地図を見せた将軍とは誰?
蝦夷地測量の翌年の享和元年(1801年)には、本州東海岸、東北西海岸、東海・北陸地方沿岸の測量を完了。 文化元年(1804年)には、それまでの測量の結果をいったんまとめ、大図69枚・中図3枚・小図1枚(大中小図については後述)からなる東日本の地図を幕府に提出、将軍徳川家斉の上覧に供した。 なお、子午線1度の長さについては28.2里(約110.74キロメートル)と算出し、今日の計測値と較べても極めて誤差の小さい(0.2%程度)数値となっている。 従来の日本地図とは異なり、実測による正確・精密な地図の質の高さに幕府上層部も驚愕し、伊能の測量事業への支援をいっそう強化することとなった。 伊能は正式に幕府天文方の役人として雇用され、翌文化2年(1805年)の第5次測量からは、幕府直轄事業として行われることとなった。
第9次
第10次測量までの中で、唯一伊能が参加しなかったのは第何次だったの?
以後、伊能らは文化13年(1816年)の第10次測量まで(第9次測量のみ伊能は不参加)日本全土を歩測した。 また蝦夷地北部宗谷附近に関しては、測量術の弟子である間宮林蔵(1780年-1844年)の観測結果を採り入れている。 伊能は文化15年(1818年)に完成を待たずに死去するが、その喪は伏せられ、師・高橋至時の子である高橋景保(1785年-1829年)が仕上げ作業を監督し、文政4年7月10日(1821年8月7日)「大日本沿海輿地全図」が完成した。 そして同図は全国に渡る緯度・測量結果を収録した「大日本沿海実測録」とともに幕府若年寄に提出された。
間宮林蔵
間宮林蔵と高橋景保はどちらが先に生まれたの?
以後、伊能らは文化13年(1816年)の第10次測量まで(第9次測量のみ伊能は不参加)日本全土を歩測した。 また蝦夷地北部宗谷附近に関しては、測量術の弟子である間宮林蔵(1780年-1844年)の観測結果を採り入れている。 伊能は文化15年(1818年)に完成を待たずに死去するが、その喪は伏せられ、師・高橋至時の子である高橋景保(1785年-1829年)が仕上げ作業を監督し、文政4年7月10日(1821年8月7日)「大日本沿海輿地全図」が完成した。 そして同図は全国に渡る緯度・測量結果を収録した「大日本沿海実測録」とともに幕府若年寄に提出された。
高橋至時
高橋景保の師匠は誰?
以後、伊能らは文化13年(1816年)の第10次測量まで(第9次測量のみ伊能は不参加)日本全土を歩測した。 また蝦夷地北部宗谷附近に関しては、測量術の弟子である間宮林蔵(1780年-1844年)の観測結果を採り入れている。 伊能は文化15年(1818年)に完成を待たずに死去するが、その喪は伏せられ、師・高橋至時の子である高橋景保(1785年-1829年)が仕上げ作業を監督し、文政4年7月10日(1821年8月7日)「大日本沿海輿地全図」が完成した。 そして同図は全国に渡る緯度・測量結果を収録した「大日本沿海実測録」とともに幕府若年寄に提出された。
1821年8月7日
「大日本沿海輿地全図」が完成した西暦の年月日は?
以後、伊能らは文化13年(1816年)の第10次測量まで(第9次測量のみ伊能は不参加)日本全土を歩測した。 また蝦夷地北部宗谷附近に関しては、測量術の弟子である間宮林蔵(1780年-1844年)の観測結果を採り入れている。 伊能は文化15年(1818年)に完成を待たずに死去するが、その喪は伏せられ、師・高橋至時の子である高橋景保(1785年-1829年)が仕上げ作業を監督し、文政4年7月10日(1821年8月7日)「大日本沿海輿地全図」が完成した。 そして同図は全国に渡る緯度・測量結果を収録した「大日本沿海実測録」とともに幕府若年寄に提出された。
1/36,000
大図の縮尺は何ですか?
測量結果を基に、江戸で伊能らが作図作業を行った。 すべて手書きの彩色地図で、利用上の便宜のため以下の3種類の縮尺の地図が作製された。 大図は、1里=3寸6分(縮尺1/36,000、全214枚)で最も詳細に描かれた地図である。 北は宗谷岬、南は屋久島、東は国後島、西は五島列島までの海岸線および内陸河川の形状をつぶさに描く。 その他、地図内には国郡名、境界線、領主名、村落、寺社名、河川名、磯・浜の種類、田畑、塩田なども記入し、海岸線のみならず、詳細な地図情報が記載されている。 なお、大図には緯線・経線は記入されていない。
214枚
大図は全部で何枚ですか?
測量結果を基に、江戸で伊能らが作図作業を行った。 すべて手書きの彩色地図で、利用上の便宜のため以下の3種類の縮尺の地図が作製された。 大図は、1里=3寸6分(縮尺1/36,000、全214枚)で最も詳細に描かれた地図である。 北は宗谷岬、南は屋久島、東は国後島、西は五島列島までの海岸線および内陸河川の形状をつぶさに描く。 その他、地図内には国郡名、境界線、領主名、村落、寺社名、河川名、磯・浜の種類、田畑、塩田なども記入し、海岸線のみならず、詳細な地図情報が記載されている。 なお、大図には緯線・経線は記入されていない。
宗谷岬
大図での最北の地はどこですか?
測量結果を基に、江戸で伊能らが作図作業を行った。 すべて手書きの彩色地図で、利用上の便宜のため以下の3種類の縮尺の地図が作製された。 大図は、1里=3寸6分(縮尺1/36,000、全214枚)で最も詳細に描かれた地図である。 北は宗谷岬、南は屋久島、東は国後島、西は五島列島までの海岸線および内陸河川の形状をつぶさに描く。 その他、地図内には国郡名、境界線、領主名、村落、寺社名、河川名、磯・浜の種類、田畑、塩田なども記入し、海岸線のみならず、詳細な地図情報が記載されている。 なお、大図には緯線・経線は記入されていない。
屋久島
大図での最何の地はどこですか?
測量結果を基に、江戸で伊能らが作図作業を行った。 すべて手書きの彩色地図で、利用上の便宜のため以下の3種類の縮尺の地図が作製された。 大図は、1里=3寸6分(縮尺1/36,000、全214枚)で最も詳細に描かれた地図である。 北は宗谷岬、南は屋久島、東は国後島、西は五島列島までの海岸線および内陸河川の形状をつぶさに描く。 その他、地図内には国郡名、境界線、領主名、村落、寺社名、河川名、磯・浜の種類、田畑、塩田なども記入し、海岸線のみならず、詳細な地図情報が記載されている。 なお、大図には緯線・経線は記入されていない。
中図
緯線・経線のある地図は何ですか?
中図は、1里=6分(縮尺1/216,000、全8枚)で縮尺の都合上、大図と較べて地名などの記載内容は若干簡略化されているが、代わりに緯線・経線が引かれている。 京都西三条改暦所を通る子午線を本初子午線として経度の基準とし、実測値を元に経度・緯度1度ごとに直交する度線を引いてある(西洋のサンソン図法に近いとされるが異説もある)。 ただし、伊能は地球を球体として考えていた(実際には地球は完全な球ではなく赤道方向に長い回転楕円体(扁球)に近い)ため、緯度・経度ともに若干の誤差が生じている。 また緯度については天体観測からほぼ正確に測定できているものの、経度については測定に必要なクロノメーターの未発達などの理由により若干精度が劣り、北海道や九州南部などの辺縁部では実際の位置よりもやや東方向にずれている。
8枚
中図は全部で何枚ですか?
中図は、1里=6分(縮尺1/216,000、全8枚)で縮尺の都合上、大図と較べて地名などの記載内容は若干簡略化されているが、代わりに緯線・経線が引かれている。 京都西三条改暦所を通る子午線を本初子午線として経度の基準とし、実測値を元に経度・緯度1度ごとに直交する度線を引いてある(西洋のサンソン図法に近いとされるが異説もある)。 ただし、伊能は地球を球体として考えていた(実際には地球は完全な球ではなく赤道方向に長い回転楕円体(扁球)に近い)ため、緯度・経度ともに若干の誤差が生じている。 また緯度については天体観測からほぼ正確に測定できているものの、経度については測定に必要なクロノメーターの未発達などの理由により若干精度が劣り、北海道や九州南部などの辺縁部では実際の位置よりもやや東方向にずれている。
球体
伊能は地球の形は何だと考えいましたか?
中図は、1里=6分(縮尺1/216,000、全8枚)で縮尺の都合上、大図と較べて地名などの記載内容は若干簡略化されているが、代わりに緯線・経線が引かれている。 京都西三条改暦所を通る子午線を本初子午線として経度の基準とし、実測値を元に経度・緯度1度ごとに直交する度線を引いてある(西洋のサンソン図法に近いとされるが異説もある)。 ただし、伊能は地球を球体として考えていた(実際には地球は完全な球ではなく赤道方向に長い回転楕円体(扁球)に近い)ため、緯度・経度ともに若干の誤差が生じている。 また緯度については天体観測からほぼ正確に測定できているものの、経度については測定に必要なクロノメーターの未発達などの理由により若干精度が劣り、北海道や九州南部などの辺縁部では実際の位置よりもやや東方向にずれている。