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京急1000形電車 (2代)の今後の予定 2018年5月9日付けの京急ニュースリリースにおいて、2018年度安全対策関連のうち、新1000形の車両新造を42両・新1000形の車両更新を8両行うと発表された。
XS-1 (宇宙機)の歴史 XS-1計画の以前にも、複数の再使用型宇宙往還機が開発されてきたが、いずれも失敗に終わっている。1980年代のX-30ならびに1990年代のX-33/ベンチャースターは、技術不足により飛行することなく打ち切られた。DARPAが最後に試みたのは2000年代前半のRASCAL (Responsive Access, Small Cargo, Affordable Launch) 計画で、この計画では300 lb (140 kg) のペイロードを75万ドル以下で送り届けることが目標とされていた。XS-1計画は2013年11月のDARPA industry dayで初めて明らかにされた。DARPAはXS-1は現代のより発展した技術、より軽量で低コストな複合材料のエアフレームやタンク構造物、耐久性の高い熱保護、再使用可能で手ごろな推進機関、それに航空機のようなヘルスマネジメントシステムにより実現可能であると語った。XS-1計画のマネージャーJess Sponableは2014年2月5日のNASAのFuture In-Space Operations groupにおいて「この計画の目的は、極超音速機による頻繁な宇宙へのアクセスを実現することで、宇宙システムのコスト上昇のサイクルを打破することである」と述べている。2014年7月には3社との間で試作機の設計に関する契約が締結された。選考されたのはボーイングとブルーオリジン、マステン・スペース・システムズとXCORエアロスペース、それにノースロップ・グラマンとヴァージン・ギャラクティックの各企業連合である。機能を実証した後に軍本体に計画を引き渡す他のDARPAのプロジェクトとは異なり、この計画ではDARPAと企業の間に直接関係が結ばれている。2015年8月、ボーイング、ノースロップ・グラマン、マステン・スペース・システムズの3社ともが計画のフェーズ1Bに移行し追加の資金を受け取った。XS-1の最初の打ち上げは、2020年初頭に計画されている。DARPAは計画のフェーズ2を2016年4月7日に開始し、5月24日には3社の案のうちボーイングのPhantom Expressを選定したことを発表した。また、エンジンには当初報じられていたブルーオリジンのBE-4ではなくエアロジェット・ロケットダインのAR-22が採用された。
韓国国民党の経緯 1980年11月25日、旧・共和党と維新政友会国会議員18名による(仮称)「韓国国民党」結成決議を行い金鍾哲旧共和党党務委員を創党準備委員長に選出した。同年12月17日に創党準備会、81年1月27日に結成大会を開催、党総裁及び第12大統領選挙候補に金鍾哲創党準備委員長を推薦した。同年3月24日の第11代総選挙で民主正義党(151議席)、民主韓国党(81議席)に次ぐ、25議席を確保し、第3党となった。国民党はその結成発起趣旨文で「極限的な対立論理と政治不在の惰性を共に排撃し、・・(中略)・・健全な政策政党としての任務を尽くそうとする」と自らの役割を示したが、実際には「体制圏」(韓国の議会権限の枠内)野党としての活動に留まった。1985年の第12代総選挙では辛うじて院内交渉団体を構成できる20議席を獲得したが、1987年10月、旧共和党総裁の金鍾泌が政界復帰し新党(新民主共和党)を創党すると議員6名を含む党員34名が離党、その後も議員の離党が相次いだ。翌88年4月の総選挙では得票は1%にも満たず、当選者もいなかったため、直後に政党法の規定により解党された。
オメガモンの概要 ワンダースワンのゲーム『アノードテイマー&カソードテイマー』でガルルグレイモンという名前で初登場。劇場版アニメ『デジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム!』(2000年春の東映アニメフェアにて2000年3月4日公開)のために新規に制作されたデジモンであり、八神太一と石田ヤマトのパートナーデジモンであるウォーグレイモンとメタルガルルモンが合体したデジモン。肩の盾、ブレイブシールドに刻まれた紋章は『デジモンアドベンチャー』の作中で登場した勇気の紋章である。胸には勇気の紋章と友情の紋章を半分ずつ合わせた紋章が付いているが、『デジモンアドベンチャー』などの一部のオメガモン(登場人物として登場する場合は殆ど)には付いていない。グレイソードにはデジ文字の日本語で「オールデリート(All Delete)」と刻まれている。登場して数年は「正義のヒーロー」という一面が強調されていたが、『デジモンアドベンチャーVテイマー01』以降から「ヒール」としての活躍も多くなってきている。人気が非常に高いデジモンであり、アニメ作品では本編・劇場版の両方を含むと『デジモンフロンティア』以外の全作品で皆勤賞である。時として人気ナンバーワンのデジモンとして扱われるが、「デジタルモンスターカードゲーム」公式ページでの人気投票において1位こそ取っているものの、モード形態を含めた得票数の数ではインペリアルドラモンやデュークモンに敗北し、その人気は後続のデジモン達に抜かれ始めている面もある。だが、それでも1位を譲らない点は根強い人気の証と言える。なお、数多くのデジモンのデザインやイラストレーションを手掛けたイラストレーターのAs'まりあはオメガモンとデュークモンを「ロイヤルナイツの両翼」と位置づけている。
オメガモンの種族としてのオメガモン 遥か昔のデジタルクライシス時、ウィルスバスターズであるウォーグレイモンとメタルガルルモンが、善と平和を望む人々の強い意志と思いと願いによって融合し誕生したロイヤルナイツの一員である究極体の聖騎士型デジモン。『デジモンストーリー サイバースルゥース』などの一部媒体では超究極体であるとされている。左腕にはウォーグレイモンの形をした剣『グレイソード』と肩の盾『ブレイブシールド』が、右腕にはメタルガルルモンの形をした大砲『ガルルキャノン』とミサイルが装備され、その意匠を強く残している。背中のマントは、敵の攻撃を避ける時や飛行の際に自動的に装備される。二体のデジモンの特徴を合わせ持ち、優れたトータルバランスを誇る、如何なる状況でも遺憾なくその力を発揮できるハイレベルのオールラウンダーである。闇との戦いに終止符を打つ“最後”の聖騎士でもある(ギリシャ文字の「Ω」はギリシャ文字において最後の文字であるのが由縁)。
オメガモンのデジモンアドベンチャー ぼくらのウォーゲーム! 大量増殖したディアボロモンに一斉攻撃され、瀕死のウォーグレイモン・メタルガルルモンのもとに太一・ヤマトが寄り添い、同時に世界中から送られた無数の応援メールが巨大な光のデジタマの様にウォーグレイモン達を包み、腕へと変化したウォーグレイモン・メタルガルルモンの中央に世界中の人々からの願いが集まり、ボディを形成したことでオメガモンが誕生した。圧倒的パワーで無数に分裂したディアボロモンをガルルキャノンで核ミサイルのタイマーを持った1体を残して全て一掃し、最後のその1体をグレイソードで倒した。後述の「ディアボロモンの逆襲」に登場するオメガモンと同一の個体であるが、台詞はない。
オメガモンのデジモンアドベンチャー02 ディアボロモンの逆襲 声優は坂本千夏と山口眞弓。再び現れたディアボロモンを倒すべく、太一・ヤマトと共に向かうアグモン・ガブモンがオメガモンの一部へとワープ進化後に合体し、誕生する。そしてエンジェモン・エンジェウーモンの協力のもと、ディアボロモンを倒すがそれは罠であり、倒すと同時に無数のクラモンが発動する。現実世界へ出現したクラモンの大群が東京湾にてアーマゲモンへと進化し、これを倒すべくオメガモンも東京湾に向かう。しかしアーマゲモンに敗北、両腕が千切れ落ち、瞳の光が消えてしまう。次いで、アーマゲモンと戦うインペリアルドラモンに千切れ落ちた腕であるアグモンとガブモンの意思がオメガモンのボディをホーリーリングへと変化させ、太一達の希望の詰まったホーリーリングから生まれたオメガブレードを託し、千切れ落ちた腕はアグモン・ガブモンへと戻る。ガルルキャノンの砲撃の色は紫色。
オメガモンのデジモンテイマーズ 冒険者たちの戦い 声優は坂本千夏と山口眞弓。無印・02の世界のオメガモンと同一の存在だが、一人称は「私」となっている。かつて倒されたアポカリモンのデータの残骸から生まれたメフィスモンと戦うが、別世界に逃げられてしまう。自分は別世界に干渉できないため、その世界のテイマーであるルキ、ジェンをタカトの元へ送り、メフィスモン撃退を託す。
オメガモンのデジモンアドベンチャーVテイマー01 エイリアスIIIの一人藤本秀人が育てたウォーグレイモンのオーグとメタルガルルモンのメルーガのジョグレス体として登場。最初は強大な敵として立ちはだかったが戦いを経て和解、強力な味方となる。基本的に人格はオメガモンとして統一されているが、ジョグレス中もオーグとメルーガの人格は存在し、絆を見せていた。
オメガモンのデジモンクロニクル ホストコンピュータ・イグドラシルからの刺客として旧デジタルワールドから脱出し、NEWデジタルワールドに来たX抗体を持つデジモン達を異分子と見なし粛清していた。ドルゴラモンと戦いその強さに圧倒されるが、忠義のために自ら異分子となることを知りつつもX抗体を取り込み、オメガモンXとなりドルゴラモンを倒す。しかしドルゴラモンは死のX進化でデクスドルゴラモンと化し、さらにそこから生体データが飛ばされデクスモンへと変貌してしまう。スクルドターミナルへ出現したデクスモンと戦うが、オメガインフォースやオールデリートさえもデクスモンには通用しなかった。その後、それでもデジモン粛清を断行しようとし、それを止めようとするアルファモンと戦う。
オメガモンのDIGITAL MONSTER X-evolution 声優は田中秀幸。ドルモンを表の主人公とするならば、裏の主人公と呼ぶべきデジモン。ロイヤルナイツの一員としてイグドラシルの命令、PROJECT ARKを実行。全デジモンの消去に乗り出す。イグドラシルの命令に忠実な動きをとっていたがデュークモンの行動やドルグレモン(アルファモン)の言葉に心を動かされ、イグドラシルへの不信感を抱き、真意を知るためにアルファモンと共にイグドラシルのもとへ。最後にはアルファモンからX抗体を譲り受け、オメガモンXへとX進化(ゼヴォリューション)。オールデリートの力を以てイグドラシルを抹消する。ガルルキャノンの砲撃の色は水色で、エネルギーの放出を続けて敵を複数抹消したりもした。
オメガモンのデジモンセイバーズ 声優は高橋広樹。ロイヤルナイツの一人として現れる。前述の『X-evolution』を除くとテレビアニメでは初登場となる。最後にイグドラシルに反発して、イグドラシルの攻撃から大たちを守った。声優の高橋は『アドベンチャー』から『テイマーズ』までにも敵や脇役として出演している。
オメガモンのデジモンクロスウォーズ 声優は島田敏。元々は、デジタルワールドの正義の意志を守護する騎士団の一員だったが、デジタルワールドの分裂を防ぎきれず、仲間と共にデジメモリとなって散らばってしまい、唯一人間界に落ち、そこでデジモン達のメロディを聞き取れる資質のある者を探し続け、主人公・工藤タイキと出会い、彼にクロスローダーを託し、デジタルワールドへと導いた。なお、前述の「騎士団」とはデジメモリのデジモン達のことであり、ロイヤルナイツのことを言っているのではない。また、3期の終盤には別の世界の過去から八神太一と石田ヤマトが客演し、ウォーグレイモンとメタルガルルモンを合体させて上記の『ウォーゲーム』及び『ディアボロモンの逆襲』と同一個体のオメガモンが登場。台詞は無かったが、デュークモンクリムゾンモードと共闘しグレイソードでベリアルヴァンデモンを瞬殺するなど圧倒的な強さを見せた。なお、ファンの間では長らく、「オメガモンはジョグレス進化なのでは?」という意見もあったが、今作でテントモンに、「あれはただの合体」と解説された。
ウォルトゥムナ (エトルリア神話)の略歴 1956年生まれ。東京都出身。千葉大学を卒業後、1980年に日産自動車へ入社。当初から輸出業務に携わり、1989年に欧州日産(オランダ)、1999年にルノー本社へアライアンス初期の人材交流プログラムでマーケティングダイレクターとして赴任。2001年にはスペイン日産。2009年、日産トレーディング株式会社ルノー・ジャポンCOOに就任。COOに就任後には成長を遂げて、2012年、ルノー・ジャポンとして独立、代表取締役社長に就任。
小林彗星の発見 群馬県大泉町のアマチュア天文家小林隆男 は、小惑星捜索において1997年1月30日夜(JST)に発見して31日に確認した24個の小惑星を、新発見の小惑星として兵庫県の中野主一(天文電報中央局・小惑星センターアソシエイツ)に報告した。その中のひとつ、レグルス付近で発見された18等級の天体(CP239=1997 BB₃)の初期軌道が彗星型であったため、小林はさらなる確認観測を行い、中野や中央局も国内外の観測者に追跡観測を依頼した。最終的に4日夜に愛媛県久万町(当時)の中村彰正によって明瞭なコマと35秒角の尾が確認され、彗星であることが確定した。このため、小惑星の仮符号1997 BB₃は彗星の認識符号P/1997 B1に差し替えられ 、同日7時58分(JST)に、天文電報中央局より新彗星の発見を告げるIAUC 6553~4が発行された。
小林彗星の話題 この発見は、アマチュアによる初めてのCCDカメラを使用した彗星発見であった。また、当時アマチュアによる最も微光の彗星の発見でもあった。発見時に使用された41cmf/4.3反射望遠鏡は、小惑星捜索のためにこの年の初めから追加された装備であった。
小林彗星の出現と軌道 1997年1月の発見当時、彗星はほぼ衝に位置していたが微光で、発見約1ヶ月後の近日点通過頃でも17等級にとどまった。観測は1997年5月まで続けられ、周期25.17年の軌道が求められた。次回近日点通過は2022年3月28日頃で、この回帰が検出されれば周期彗星番号が割り振られる。
フロリダ諸島の戦いの背景 日本軍は、1942年4月23日にニューギニア島東南岸のポートモレスビーを海路攻略する作戦命令(「MO作戦」)を発令した。この作戦には攻略部隊が乗船した船団の輸送路(珊瑚海等)を水上機で哨戒するために、ツラギに基地を設営することが含まれていた。ツラギ(フロリダ諸島)の攻略にあたったのは、呉第三特別陸戦隊を主力とした部隊であった。呉第三特別陸戦隊はトラック島で作戦準備を行い、志摩清英少将指揮する駆逐艦菊月、夕月、機雷敷設艦沖島、光栄丸、吾妻山丸から成る南洋部隊に輸送され、1942年(昭和17年)5月3日未明、ツラギ島、ガブツ島、タナンボゴ島に上陸し、同日中に三島を無血占領した。占領と同時に基地の設営作業が開始され、この日の夕方までにオーストラリア軍の設備を改修して九七式飛行艇(以下、「大艇」と記す)6機、零式水上偵察機6機分の基地設営を完了し、3機の大艇が同日中にツラギ地区に進出した。しかし、5月4日に米空母「ヨークタウン」を飛び立った艦上機がツラギ地区に来襲した。この攻撃により、駆逐艦菊月、第一、第二掃海特務艇、補給艦「玉丸」が撃沈され、日本軍の水上基地は破壊された。その後復旧作業が完了し、7月上旬に再びこの地域に進出した横浜海軍航空隊はタナンボゴ島を拠点に哨戒任務にあたった。1942年7月2日、米軍は対日反攻のため「ウォッチタワー作戦」を発動し、まずツラギの攻略とサンタクルーズ諸島(ガダルカナル島の東)への進出を8月1日に行うことにしてその準備を開始した。この準備中に、ガダルカナル島で日本軍が建設中の飛行場を発見したためガダルカナル島の攻略も同時に行うことになった。ガダルカナル島が追加となったので、その準備のため作戦の実施は少し遅らせて8月7日に決定された。
フロリダ諸島の戦いの戦闘経過 1942年(昭和17年)8月6日午後10時、ラバウルから異常電波傍受の報せを受けた横浜海軍航空隊は、大艇の発進時間をいつもより繰り上げ、その発進準備にかかった。そして翌7日午前4時10分、発進準備を終えた大艇はいよいよ離水を開始しようとする。しかし、その瞬間に米艦載機約10機が来襲。泊地の大艇は全滅し、フロリダ島の水上戦闘機隊も同じ頃全滅した。午前7時過ぎに第二波の空襲を行った米軍は、午前9時に上陸用舟艇約100隻をフロリダ島の湾に向け発進させたが、途中で引き返して午前10時にガブツの東岸に上陸した。ガブツの守備隊には武器がなく、タナンボゴからの援護を受けたものの、同日中に占領された。午後9時、米軍はタナンボゴの北側から6隻の上陸用舟艇で進撃を開始した。しかし、進撃の途中に陸岸から50m程先にあるリーフに先頭艇が座礁し、これを見ていた日本軍守備隊はこの舟艇を襲撃した。この攻撃に驚いた米兵は慌てて後続艇に乗り移り、撤退した。この攻撃により、米兵10数名が戦死し、日本軍は舟艇に置き去りにされた機銃を鹵獲した。翌8日午後3時、米軍はガブツとタナンボゴをつなぐ土手づたいに進撃を開始した。米軍は日本軍陣地の200m手前まで進撃するも、日本軍の抵抗にあい後退した。午後4時、米軍は兵員輸送用の水陸両用車輛(LVT)2両を以ってタナンボゴに上陸を試みた。これを見た日本軍守備隊約50名は、LVTに駆け寄ると、転輪とキャタピラの間に鉄棒や棍棒をこじ入れLVTの動きを止め、ガソリンをかけてトラクターに火を放った。これにより二輛のLVTは炎上したが、ガブツからの機銃弾により日本兵42名が戦死した。午後5時、米軍はタナンボゴ島の前面500mの至近距離に軽巡洋艦1隻(サンファン)、駆逐艦2隻(モンセン、ブキャナン)を進出させた。3隻は一列に並び左砲戦の隊形をとると、タナンボゴ島に対して艦砲射撃を開始した。この砲撃により日本軍守備隊は3名を残して全員玉砕し、司令の宮崎大佐は壕内で自決した。この砲撃の後、米軍は同島に上陸し、無血占領を果たした。
白バスのドイツ国内のスカンジナビア人収容者 デンマークとノルウェーは1940年4月9日にナチス・ドイツにより侵略された。すぐさま多数のノルウェー人が逮捕され、2カ月後には占領軍が最初の収容所をベルゲン郊外のウルヴェン(Ulven)に設立した。ナチス当局とノルウェーのレジスタンス(resistance)との間の緊張が高まると次第により多くのノルウェー人が逮捕され、最初はノルウェー国内の刑務所や収容所に拘留されたが逮捕者が増えるに連れドイツの収容所に移送された。1940年8月29日に最初のノルウェー人がザクセンハウゼン強制収容所に到着したが、釈放され1940年12月には家に送還された。1941年春にノルウェーからの定期移送が開始された。デンマークでの逮捕は、1943年8月29日に連立政府が辞職すると共に始まった。ドイツ国内のスカンジナビア人収容者は、個人としての生活とある程度の自由が認められた所謂抑留民間人から死ぬまで労働を強いられる運命にある「夜と霧」の囚人まで様々に分類されていた。スカンジナビア人収容者の数が増えると、彼らを援助する様々なグループが組織された。在ハンブルクのノルウェー船員の司祭のアルネ・ベルゲ(Arne Berge)とコンラート・フォクト=スヴェンソン(Conrad Vogt-Svendsen)は、収容者を見舞い食べ物を差し入れ、ノルウェーやデンマークに居る彼らの家族へ手紙を届けた。フォクト=スヴェンソンは「グロス・クロイツ」("Gross Kreutz")の抑留民間人のノルウェー人一家のヨルト(Hjort)やサイプ(Seip)とも連絡を取った。他のスカンジナビア人達と共にグロス・クロイツのグループは、収容者とその所在地の膨大なリストを作成し、その後そのリストはベルリンのスウェーデン大使館経由でロンドンのノルウェー亡命政府へ届けられた。ストックホルムではノルウェーの外交官ニールス・クリスティアン・ディトレフ(Niels Christian Ditleff)がスカンジナビア人の運命に濃密に関わっていた。1944年末の時点でドイツ国内には約8,000名のノルウェー人収容者とそれに加えて1,125名のノルウェー兵戦争捕虜がいた。デンマーク側ではカール・ハンメリク(Carl Hammerich)提督がドイツの収容所からデンマーク人とノルウェー人を救い出す「ユランズ軍団」(Jyllandskorps)というコードネームを与えられた秘密の遠征計画に長い期間携わっていた。ハンメリクはノルウェー船員の司祭、グロス・クロイツのグループとストックホルムのニールス・クリスティアン・ディトレフの何れとも良好な関係を築いていた。1945年初めの時点でドイツには約6,000名のデンマーク人収容者がいた。1944年中にデンマーク人達は収容者達がデンマークに無事たどり着いた場合に備えて、収容者の登録、輸送手段の手配、食料品や避難所の用意、収容者のための検疫といった広範囲な計画を練っていた。ハンメリクは、1944年2月、4月と7月にストックホルムを訪問しディトレフと計画について討議した。
白バスの出発 遠征隊の最初の部隊は3月8日にヘスレホルム(Hässleholm)を出発し、マルメからコペンハーゲンへフェリーで渡った。安全のためデンマークのレジスタンス活動家たちには事前に通知されていたが、心配されたようなことは何も起こらなかったどころかスウェーデン赤十字社の遠征隊は歓迎された。3月12日に遠征隊の最初の一陣はハンブルクの南東30 kmにある本部となるフリードリヒスルー(Friedrichsruh)城に到着した。この城はデンマーク国境に近接しておりスカンジナビア人収容者が集められているはずのノイエンガンメ強制収容所の近くであった。フリードリヒスルー城の所有者のオットー・フォン・ビスマルクはフォルケ・ベルナドッテの友人であり、その妻はスウェーデン人であった。遠征隊の要員は城周辺の庭にテント張りのキャンプを設営する間、城や近隣のパブに宿泊した。遠征隊にはドイツ側の連絡将校が帯同しており、その中で最も著名なのはヒムラーの連絡将校である親衛隊中佐カール・レンナウ(Karl Rennau)で、フランツ・ゲーリング(Franz Göring)はゲシュタポの連絡将校であった。遠征隊には親衛隊とゲシュタポから約40名の連絡将校が付いていて、ドイツ側は車両1台おきに連絡将校を乗せるように要求した。ナチス体制下のドイツは警察国家であったため「白バス」遠征隊は全面的にドイツ側の協力に頼っており、ゲシュタポや親衛隊の連絡員を帯同することでのみ制限を受けずに移動することができた。ベルナドッテはシェレンベルクに遠征隊は3月3日にヴァーネミュンデに到着するはずだと約束していたが、これは1週間以上遅れた。この遅延の主な理由は、遠征隊を攻撃しないという保証を連合国軍側から取り付けることが困難なためであった。戦争のこの時点で連合国軍の航空機が全面的に制空権を握っており、日常的にドイツ国内の道路上の輸送手段を攻撃していた。「白バス」遠征隊は、英空軍が制空権を保持している地域を主に移動した。3月8日に英国政府はスウェーデン外務省に遠征隊の件は了解したが、スウェーデンの遠征隊はドイツ国内では自力で行動するのであって攻撃をしないという点に関しては如何なる保証も請合いかねるという通告をした。輸送車輌の中には道路に機銃掃射を掛けてきた連合国軍機の弾に当たったものもあり、1名のスウェーデン人運転手と25名の強制収容所の収容者が死亡した。
白バスの再交渉 1945年3月6日にフォルケ・ベルナドッテはストックホルムから空路ベルリンに到着し、ドイツ当局と交渉を続けた。ハインリヒ・ヒムラーのお抱えマッサージ師のフェリックス・ケルステンは既に到着しており、スウェーデン外務省はスウェーデン大使のアルヴィッド・リッケルト(Arvid Richert)にヒムラーに影響力を行使できるようにケルステンを援助することを指示した。これと並行してデンマーク当局 - 特にベルリンのデンマーク大使のオットー・カール・モール(Otto Carl Mohr) - は、より多くのデンマーク収容者の釈放を確約させようとしていた。スウェーデンとデンマークの目的は幾分異なっており、スウェーデンはヒムラー/シェレンベルクと収容者をノイエンガンメに集めることに焦点を当てて交渉し、デンマークはカルテンブルンナーと収容者の釈放と可能ならばデンマークへ連れ帰ることの許可を確約させようと交渉していた。3月12日にデンマークは3回分の輸送許可を取り付け、3月21日までに様々な種類のデンマーク人収容者を合計262名デンマークの車輌で故国へ送り返した。3月21日はデンマークの輸送は中断し、スウェーデンが引き継いだ。
白バスの輸送の開始 フリードリヒスルーの遠征隊は2つのグループに分けられ、最初のグループは収容者をザクセンハウゼン(ベルリンの北部)からノイエンガンメに輸送する任務に充てられた。輸送は3月15日に始まり、輸送距離は約540 kmに及んだ。7回の輸送で約2,200名のデンマーク人とノルウェー人がノイエンガンメに運ばれてきた。輸送隊の指揮官の一人であったスヴェン・フリクマン(Sven Frykmann)は収容者と輸送行程についてこう記している。"全般的に彼らは私がそれまで見てきた他の収容者に比べて比較的体格も良く、誰も個人の衛生状態について文句を言う者はいなかった。彼らはノルウェーとデンマークから送られた食料品により勇気づけられ、最近は待遇も顕著に改善されていた。彼らは皆、感謝と幸福に触れていた。(They were all touching [sic] thankful and happy.)ドイツにいるこの可哀想な人々を助ける選択肢を持っていた我々の全員が残りの人生で受けるに値するには十分なほど圧倒的な感謝を経験したと確信している。"収容者をザクセンハウゼンで引き取るときに一人も漏れが無いように「グロス・クロイツ」グループにより氏名が確認された。遠征隊のもう一つのグループは、ドイツの南部から収容者を回収してくる任務に充てられた。これらの中にはミュンヘン北部のダッハウ、シェーンベルク(Schönberg:シュトゥットガルトの南約80 km)やマウトハウゼン(リンツの東12 km)が含まれていた。この任務の行程は長く、ミュンヘンだけでも800 kmの彼方であった。困難さに追い討ちをかけたのが燃料不足に直面したための遅れであった。ビョルク大佐指揮の35台で構成される最初の輸送隊は3月19日に出発し、3月24日にノイエンガンメに戻ってきた。ほとんどの収容者が衰弱しきっていたので復路は大変であった。スウェーデン人看護婦のマルガレータ・ビョルケ(Margaretha Björcke)はこう記録している。"12年間の看護婦生活でここで目撃したほどの悲惨さを見たことはありませんでした。脚、背中、首は、平均的なスウェーデン人であればその一つでも負っていれば病気休暇をとるほどの傷であふれていました。私は20もの傷を負った一人の収容者を見つけましたが、彼は文句一つ言いませんでした。"この最初の輸送で550名の収容者を収容したが67名の重症者は残してきた。この輸送中の最大の問題は収容者の慢性的な下痢であった。暫く後にこの状況はデンマークが供給した輸送中でも使用できる携帯用トイレにより解消された。スウェーデンの輸送によりノイエンガンメはこれまで以上の収容者を受け入れることになったが、スカンジナビア人収容者を集結させるというヒムラーの約束は実現しなかった。スウェーデン側の医療関係者は収容所に立ち入ることを許可されなかった。ドイツ側はバスを預かってスウェーデン側に収容所内を見せようとしなかったので、最初の輸送ではバスは収容所内に乗り込ませられず連れてこられた収容者は最後の道のりを自ら行進しなければならなかった。
白バスのスウェーデンへ向かうスウェーデン人 2月の初めにフルトグレン(Hultgren)大尉指揮の6名のスウェーデン赤十字社の小さな分遣隊が2台のバスと1台の乗用車でベルリンに到着した。この部隊の任務はドイツ人と結婚したスウェーデン生まれのスウェーデン人女性の輸送であったが、ドイツの崩壊が切迫していたため脱出は緊急を要した。3月26日から始まった輸送は4月20日まで続き、1,400名のスウェーデン系の女性と子供がリューベックとデンマークを経由してマルメに到着した。
白バスのデンマーク人の合流 4月5日にスウェーデン人要員半数の帰国が近づくとデンマーク人がこれを引き継いだが、これはドイツ側とスウェーデン外務省の了解事項であった。デンマーク人はバス33台、救急車14台、トラック7台、乗用車4台を持ち込み、デンマーク外務省のフランツ・ファス(Frants Hvass)に率いられていた。デンマークの派遣団はスウェーデン遠征隊と協力し、4月8日から「白バス」はスウェーデン=デンマーク混成遠征隊となりスウェーデン人が指揮を執った。デンマークの車両も白く塗装されていたが、赤十字の代わりにデンマーク国旗のダンネブロを描いていた。普通の刑務所に収監されている収容者は別に分類され、「白バス」は4月の間はこれらの収容者のみを収容することが許されていた。4月9日にフォルケ大尉が率いるスウェーデン=デンマーク混成遠征隊の輸送隊は様々な刑務所から200名を収容するためベルリンへ向かった。彼らの居所はフォクト=スヴェンソンの調査で判明していた。ヴァルトハイム(Waldheim、ドレスデンの東)、ドレスデン、コトブス、ルッケイ(Luckay)、ツィーティン(Zeithin)、グロイチェ(Groitsch)といった20箇所の刑務所から合計211名の収容者が収容された。4月11日のノイエンガンメへの復路の途中で輸送隊は、「白バス」と似た白く塗装され赤十字の標識を付けたドイツ側の車両を初めて目撃した。4月15日に遠征隊はメクレンブルク(Mecklenburg)の刑務所から524名の収容者を収容した。
白バスのテレージエンシュタット 1943年の逮捕から逃れられなかったデンマーク系ユダヤ人は、現在のチェコ共和国のテレジーン近くにあったテレージエンシュタット(Theresienstadt)へ送られていた。ドイツ側が移送の許可を出すまで時間がかかったが、連合国軍が接近していたため残された時間は短かった。最後には親衛隊の連絡将校のレンナウが何とかゲシュタポから許可を取り付けてきて、4月12日にフォルケ大尉指揮のバス23台、乗用車12台、オートバイとデンマーク人医師と看護婦を乗せたデンマーク側の救急車数台の輸送隊が出発した。ドイツ国内の状況は今や危機的なものとなり、スウェーデン人運転手は行程が非常に危険なものとなるであろうと知らされていた。ソ連軍が道路を閉鎖しているという情報を知らされたスウェーデン外務省が最後の最後になって出発を止めようとしたが、輸送隊は出発していた。4月15日に輸送隊は423名のスカジナビア系ユダヤ人をテレージエンシュタットから収容し、デンマークへの危険な帰路につくことができた。帰路に爆撃を受けたばかりのドレスデンを通過したが、輸送隊は同じ日の夜に爆撃を受けたポツダムで一晩足止めを食った。輸送隊は4月17日に全員無事にパドボー(Padborg)に到着し、救出されたユダヤ人は翌日にフェリーでスウェーデンのマルメへ運ばれた。「白バス」に対する最初の攻撃は4月18日に起こった。フリードリヒスルーのデンマーク人収容所が連合国軍機の攻撃を受けたことにより10台の車両が破壊され、運転手4名と看護婦1名が軽傷を負った。その後、このような上空からの攻撃が何度かあり、数人の死傷者がでた。
白バスの「いざ、スウェーデンへ。」 新たな交渉を通じてフォルケ・ベルナドッテは重病の収容者を避難させる許可を取り付け、4月9日にスウェーデンのバス12台とデンマークの救急車8台を使用してノイエンガンメからの最初の輸送が始まった。ほとんどがベッドに寝たきりの153名の収容者はデンマーク国境まで連れて行かれ、デンマークの検疫所があるパドボーで降ろされた。収容者はデンマークのバスや列車でデンマーク国内を移動する前に更なる休養と治療を与えられてからフェリーでスウェーデンのマルメへ運ばれた。4月18日までに合計1,216名の病気のデンマーク人とノルウェー人収容者がスウェーデンへ輸送された。2日後の4月20日、ノイエンガンメのスカンジナビア人収容者全員の引き揚げが開始された。4月19日の夜にフリードリヒスルー城でスカンジナビア人収容者のノイエンガンメからの引き揚げについての会議が開かれた。スウェーデン側からはベルナドッテ、フリクマンとリッケルトが、ドイツ側からはレンナウが、デンマーク側はフォスとホルムが代表して出席した。状況は危機的であり、フリードリヒスルーにあるスウェーデンとデンマークの車両の輸送能力は収容者を急いで引き揚げさせるには不十分であった。デンマーク側は「ユランズ軍団」が提供する追加の車両提供を申し出て、これが受け入れられた。合計4,255名のデンマーク人とノルウェー人収容者がデンマークの100台とスウェーデンの20台のバスで引き揚げ、デンマークで数日を過ごした後フェリーでスウェーデンのマルメへ送られた。
白バスのラーフェンスブリュックからの引き揚げ ラーフェンスブリュックは、ベルリンの北約90kmにある1938年に開設された女性収容者用の強制収容所であった。4月8日に約100名のスカンジナビア人女性収容者(2名のフランス人女性を含む)が収容所から収容され、直接デンマークのパドボーへ移送された。この段階でフォルケ・ベルナドッテは病気の収容者全員を収容する許可を取っていた。4月22日にアーノルドソン(Arnoldson)大尉率いるデンマークの救急車15台の輸送隊がラーフェンスブリュックから病気の女性収容者を収容するためにフリードリヒスルーを出発した。輸送隊が収容所に到着したとき、そこは前進してくるソ連軍のため撤収する予定であり混沌とした状況であり、アーノルドソンは、全てのフランス人、ベルギー人、オランダ人、ポーランド人女性の合計1万5,000名を収容するように言われていた。これはその時点で手持ちの「白バス」全てを動員しても3回分に当たる人数であったが、アーノルドソンはこれを了承していた。救急車は112名の病気の女性を収容してリューベックに到着した。アーノルドソンは何とかフォルケ・ベルナドッテに更なる輸送能力が必要なことを知らせ、利用できる全ての資源を動員することが約束された。新たな2つの輸送隊がラーフェンスブリュックに到着し、1つの輸送隊は4月23日にほぼ全員がフランス人の786名の女性収容者を直接パドボーへ輸送し、2番目の輸送隊は360名の女性収容者を収容した。最後の輸送隊は4月25日にラーフェンスブリュックに到着したが、ドイツ国内の状況は急速に悪化しつつあり連合国軍が前進するにつれ輸送隊は頻繁に銃撃されるようになった。収容所のフランス人、ベルギー人、オランダ人、ポーランド人女性の合計706名がデンマークの救急車と国際赤十字のトラックで構成される輸送隊に乗せられた。この輸送隊がパドボーへ向かう途中で連合国軍の戦闘機に攻撃され、少なくとも11名が死亡、26名が重傷を負い、最終的に死亡者は25名に達したと思われる。スヴェンソン中尉に率いられたバス20台の最後の輸送隊が収容した934名の女性収容者のほとんどはポーランド人であったが、フランス人、アメリカ人、英国人も含まれていた。夜間は休息をとった輸送隊は戦闘機の攻撃を受けたが1945年4月26日に全員無事にパドボーに到着した。これはドイツが降伏する前の最後のスウェーデン輸送隊であった。スウェーデン側は幸運なことに輸送列車を使用することができ、50両の貨物列車の1両当たりに80名の女性収容者を乗せた。列車は4月25日にラーフェンスブリュックを出発し、4月29日にリューベックに到着した。食事が提供された後、列車はデンマークへと向かい、この列車輸送で合計3,989名の女性収容者が救出された。数日間で約7,000名の女性収容者がラーフェンスブリュックからデンマークへ引き揚げ、その後中立国のスウェーデンへ運ばれた。
白バスの最後の引き揚げ者 4月28日に国際赤十字から派遣された輸送隊がアンカークローナ(Ankarcrona)大尉に率いられノイブランデンブルクの収容所へやってきた。この輸送隊は前進してくるソ連軍をやり過ごし、200名の行進させられていた女性収容者を収容しリューベックへ連れ帰った。ドイツ側のゲシュタポ連絡将校のフランツ・ゲーリングは、2,000名(ユダヤ人960名、ポーランド人790名、フランス人250名)の女性収容者を移送するためにハンブルク発の輸送列車を調達し、この列車は5月2日にパドボーに到着した。この列車輸送はスウェーデン赤十字社の救出した収容者には勘定されていないが、この輸送は「白バス」と関連付けて言及されることが適切であるかもしれない。4月30日に223名の女性収容者を乗せた「マグダレーナ」と225名の女性収容者を乗せた「リリー・マティエッセン」の2隻のスウェーデン船がリューベックを出港した。この輸送はスウェーデン人医師のハンス・アーノルドション(Hans Arnoldsson)がビョルン・ヘガー(Bjørn Heger)の協力で手配したものであった。彼らは数隻の船に分乗した数千の収容者を後に残していかねばならず、これらは5月3日に英軍機に攻撃されカップ・アルコナの惨事となった。コペンハーゲンからマルメへのフェリーによる女性収容者グループの最後の輸送は5月4日に行われた。
ロータリーエアーサービスの概要 「ホープツアー」の名称で独自のパッケージツアーを販売していたほか、ジャルパック等のパッケージツアーの受託販売を行っていた。1999年3月期には年売上高約115億円を計上したが、2000年代からは各航空会社の直販体制強化や他社との競争激化からツアー商品の売上が減少したため、高速ツアーバス(募集型企画旅行)「キラキラ号」「ホープ号」の催行を開始した。「キラキラ号」を利用したツアー商品「キラキラパック」を催行した(以前はキラキラツアーというグループ会社による催行と称するツアーが催行されていた)。「キラキラ号」の受託運行を行う貸切バス事業者の旅バス、ツアーの募集を行う旅行業者代理業者のケーケーエアー、「キラキラ号」を利用したツアーを催行する旅行業者のホットドックを設立し、グループを構成していた。他の交通機関より安い価格を売り物に、若者を中心とした利用客を囲い込んだ。高速ツアーバスは2013年7月31日の夜行便より旅バスが運行する新高速乗合バスに移行している。だが甘い収益見通しで始めたいくつかの路線が不採算となり、東日本大震災の影響で東北の路線が運行できない事態に見舞われた。2012年(平成24年)6月25日、航空会社スカイマークがロータリーエアーサービスに対して売掛金の未払いに関する支払督促の申立を東京簡易裁判所に行った。関係者によると、当時スカイマークの社長であった西久保愼一は見通しの立たない売掛金回収に業を煮やし、公表を直接指示したという。スカイマークとロータリーエアーサービスは航空券販売に関する代理店契約を締結していたが、売掛金4006万0550円(支払期限2012年6月8日)、および売掛金2496万9632円(支払期限同年6月20日)のいずれについても入金がなかったという。その後、株式会社スカイマークは、ロータリーエアーサービスに対し、2013年(平成25年)3月1日付で債権者破産を申し立てたと発表した。このほかに燃料費高騰や関越自動車道高速バス居眠り運転事故の影響もあり資金繰りが悪化したため、2014年(平成26年)7月に高速バス事業を桜交通に譲渡し、同年8月11日に関連会社のケーケーエアー、旅バスとともに東京地方裁判所に破産を申請し、破産手続き開始決定を受けた。そして2015年(平成27年)12月16日に法人格が消滅した。
金沢近江町郵便局の概要 かつては、日本郵政グループ金沢ビル(旧日本郵政公社北陸支社社屋、旧郵政省(郵政事業庁)北陸郵政局庁舎)1階に設置されていた。入居していた建物は2007年(平成19年)10月1日の民営化後、郵便局株式会社(現日本郵便株式会社)が「日本郵政グループ金沢ビル」として所有、当局のほか日本郵便株式会社北陸支社、ゆうちょ銀行北陸エリア本部・石川地域センター、かんぽ生命保険金沢支店が入居していた。なお、ゆうちょ銀行金沢支店窓口は金沢中央郵便局に併設されている。2014年(平成26年)、入居していた建物の老朽化に伴なって日本郵便株式会社北陸支社、ゆうちょ銀行北陸エリア本部・石川地域センター、かんぽ生命保険金沢支店が金沢上堤町ビル(清水建設株式会社が所有)に移転。当局は旧日本郵政グループ金沢ビルの敷地内に新築移転し、同ビルは閉鎖・解体され、駐車場となった。
千曲川左岸広域農道の来歴・人物 小学3年で野球を始め、日光市立東中学校では県大会に出場。日光高校(現・栃木県立日光明峰高等学校)では2年夏にレギュラーとなり、3年夏は1番を打つ傍ら投手も務め、公式戦でも登板した。県大会4回戦まで進出したが、甲子園出場はかなわなかった。1986年ドラフト6位でヤクルトに入団。1989年は1A・サリナス・スパーズに野球留学した。1992年8月、イースタン・リーグの対ロッテ戦で2試合連続本塁打を打ったが、一軍出場には恵まれないまま1993年を最後に引退した。
脳性麻痺の概要 運動障害・肢体不自由者の発症要因の約7割が、当症候群だとされ、遺伝子異常によるものや、生後4週以降に発症したもの、暫定的なもの、進行性のものは含まれない。
脳性麻痺の対策 日本においては日本医療機能評価機構が実施する産科医療補償制度により分娩に関連して発症した重度脳性麻痺児に対する補償と原因分析をし将来の再発防止を行う制度がある。
グリーンランドみずほの概要 旧瑞穂町が、国道9号から国道173号を南に進入して車で数分の山あいに設置した公園。グリーンランドみずほ株式会社が運営している。
プライミクスの『夢舞台リビング』コンセプト 300年先を見据えた職住共存の次世代型ワークライフスタイルを実現するため、本社及び工場を大阪、埼玉から淡路島の夢舞台ニュータウンに移転した。本社、工場に隣接した社員住宅は地域の環境や自然と調和できるサスティナブルな建造物をコンセプトにデザイン・建設されている。
神田久太郎の得意技 前述の通り、神田は寝技を得意としたほか立技では特異な技を多用し、とりわけ肩車や自身の案出した双手刈においては他の追随を許さない程の使い手として名を馳せた。技の開発に熱心だった神田は後に研究・工夫した技や得意技として、肩車や双手刈、巴投、崩上四方固のほか、寝技で「崩横四方帯固」や「地獄攻」、「脇固絞」、立技では「腕挫横分」といった聞き慣れない技も挙げている。このうち肩車については、かねてより柔術修行時代に培った寝技を得意とした神田が、講道館では立技から寝技にいかなければならない(最初から寝技での勝負はできない)規程になっていたため、止むを得ず立技の稽古を始めたのが発端であったという。巴投か肩車を研究する事としたが、そのうち肩車をやる試合人がいないのに気付き、この時はさればと肩車を選択する事に。嘉納治五郎がよく肩車を練習したと知った神田がそれを直に問うと、嘉納は「己が発明した」と語って種々とその要領を指導してくれたという。また、同じく肩車に長じた師の三船久蔵からも指導を仰ぎ、これに自身の研究・工夫を重ね、学び始めてから約3年で自身の得意技に加える事ができた。また双手刈については、柔術修行時代の神田が自分より大きい相手に対して、組む前に投げる技が無いかと各流派の文献を読み漁り、また古流の先生に聞いて回ったりした事から始まった。戸塚揚心流に朽木倒という技が存ずるのを聞き付け、1917年の大日本武徳会千葉県支部大会の折にこれを関口孝五郎に尋ねると、「君の先生である山本欣作範士がよくご存知の筈だから、お伺いしてみるが良い」とのアドバイスを受け、早速翌日に師の山本に教えを請うと直ちに実技を見せて貰えたという。この技に没頭して2カ年ばかり鍛錬を重ねると、試合では稽古以上に効果がある事に気付いて、得意技の1つとする事に決めた。嘉納治五郎にこの技を聞けば嘉納もよく知っており、神田が「“朽木倒”という技は柔道技として相応しくないから、“双手刈”としたいが如何でしょう」と提案すると、嘉納は「今日道場で稽古してみろ」「自分が見てその名に相応しかったら講道館の技として認めよう」と返答した。稽古で神田は数名の練習生と実質的な試合を行い、その威力を存分に発揮すると、嘉納は共に見ていた本田在(ありや)に対し講道館技として採用するよう指示し、名称を含めて神田の意見がそのまま通る事となった。
サンドリンガム時間の歴史 ディキシー郡は1921年にラファイエット郡の南部が分離して設立された。「ディキシー」はアメリカ合衆国南部に共通するニックネームである。
ポール・ヴィラールの地理 アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、郡域全面積は863.66平方マイル (2,236.9 km²)であり、このうち陸地704.01平方マイル (1,823.4 km²)、水域は159.65平方マイル (413.5 km²)で水域率は18.49%である。
寺内崇幸のプロ入り前 ポール・ヴィラール(Paul Ulrich Villard,1860年9月28日 -1934年1月13日)はフランスの化学者、物理学者である。1900年にウランから放出される放射線の中のガンマ線を発見した。物理化学の分野の研究者であった。ガンマ線を発見した時はパリの高等師範学校の化学部門で働いていた。1896年のアンリ・ベクレルのウランからの放射線の発見は当時の物理学の最先端の研究分野となり、ベクレルやラザフォードやキュリー夫妻らによって、放射線の正体が何であるかの研究がすすめられていた。放射線に正電荷をもつアルファ線と、負電荷をもつベータ線があって、それらの粒子線の質量と電荷の比などが研究されていた。ヴィラールは放射線の飛跡の写真から、電荷を持たず、透過力の高い3番目の種類の放射線の存在を発見し、1900年に発表した。当時はアルファ線、ベータ線の正体が物理学者たちのもっとも興味のある対象であったため、ヴィラールの発見は注目されなかった。ヴィラール自身もガンマ線の研究を続けなかった。なお、この放射線がガンマ線と名づけられるのは1903年、ラザフォードによってである。
デストロイ オール ヒューマンズ!の備考 遠投120メートル、50メートル走5.9秒を誇る俊足強肩の選手。守備力や小技に定評がある一方、打撃に課題がある。巨人の監督の原辰徳からは「スーパーサブという面では、セ・リーグを代表する選手」と評される。ユーティリティーの高さを見込まれ、2010年から定期的に捕手の守備練習も行っている。
長谷川昇 (歴史学者)の概要 2010年6月29日に開業した。ショッピングモールOne Centralに隣接する。高さは165m。客室はスイート27室含む186室。標準的な客室で40〜43m²であり、最も広いプレジデンシャルスイートは337m²である。3つのレストラン&バーに宴会・会議施設、スパ、フィットネスセンター、プール等が設けられている。
マジェランアイナメの呼称 標準和名の第一要素「マジェラン」は南極海域に属する「マゼラン海峡」に由来しつつ、その英語読みに準じたものである。よって、日本での慣習読みである「マゼラン(-アイナメ)」の名で呼ばれることも多い。第二要素「アイナメ」は、カサゴ目の魚「アイナメ」のことである。ただし、姿は似ていても分類は全く異なる。また本種は、同様の利用のされ方をするムツ、ギンダラ、メルルーサなどとも混同されることがある。日本国内では、流通名(市場名)としてメロが用いられている(後述)。主要な漁獲国であるアルゼンチンなどリオプラテンセ・スペイン語圏では、「メルルーサ・ネグラ("Merluza negra": 黒メルルーサの意)」や、「バカラオ・デ・プロフンディダ("Bacalao de profundidad": 深海タラの意)」等と呼ばれる。アメリカやカナダでの流通名(市場名)は、チリアンシーバス(Chilean sea bass)が用いられている(後述)。
マジェランアイナメの形態・生態・分布 成魚は全長1mを超える大型魚であり、最大の記録は全長約238cm、体重約130kgという(水産庁水産総合研究センター発行『平成20年度国際漁業資源の現況』)。寿命は十数年から50年程度と考えられている。南極周辺の水深50- 3,850mの深海に生息し、小魚や頭足類などを捕食する。
マジェランアイナメの利用 1980年代からギンダラの代用魚として日本に輸入されている。主な消費国は日本とアメリカ合衆国で、漁獲高の90%程度はこの2国で消費されていると思われる。漁獲国はチリ、アルゼンチン、オーストラリア、フランス、イギリスなどである。脂肪が多い白身魚で、日本では照り焼き、焼き魚、煮付けなどにして食される。また、ソースやハーブを用いた洋風料理にも利用されている。
マジェランアイナメの流通名等の問題 日本では「メロ」という流通名(市場名)で、食用白身魚として広く利用されている。2003年以前には「銀ムツ」という名前で流通することが多かった。しかし、ムツやアカムツなどとは分類が異なる魚で、「消費者に混乱をもたらしている」との判断から、2003年にJAS法が改訂され、「銀ムツ」という名前での販売が禁止された(ただし「銀ムツ(メロ)」などの表記は可)。しかし、現在でもマジェランアイナメを「ムツ」と称して出す料理店などは多いといわれる。また、1990年頃には、みりん漬などに加工した切り身を「クエ」と詐称し、市場や量販店へ卸していた水産加工業者もあった。「メロ」という名称で流通している魚の多くはマジェランアイナメであるが、一部マジェランアイナメの近縁種であるライギョダマシ(en、学名:Dissostichus mawsoni、英語名:Antarctic Toothfish)も含まれている。「メロ」という言葉はスペイン語で、ハタ類の総称を指す。昔、チリ沿岸の漁業において、当該種はハタ類の一種としてみなされていたようで、チリの北部では当該種のことをメロと呼んでいた(ちなみに、南部ではSeabassと呼ぶ)。20-25年ほど前に当該種が日本に流通した際に、日本ではその呼称をメロとしたようだ。一方、アメリカではSeabassという呼称が採用されたようで、現在でもChilean Seabassと呼ばれている。
Hunting!!!!の概要 2005年7月6日にthree mountain recordsより発表された。THE PREDATORSの初の作品である。初回限定盤にはステッカーが付属。
ダイアモンド D-Jetの概要 単発式超軽量ジェット機でガーミン製のG1000グラスコックピットを備え、計器飛行や着陸訓練用のオプションが用意されている。2006年4月18日に初飛行に成功した。その後、何度か資金難により計画が中止されそうになったがどうにか開発は継続している。
梅津政景日記の持ち駒制度のない将棋類 中将棋や大将棋などの持ち駒制度のない将棋類(主に古将棋の多く)では相手の駒を取っても持ち駒として使う事ができないため、ステイルメイトが成立する事がある。中将棋では、ステイルメイトになった方が負けと、明確にルールとして定められている。持ち駒制度のない他の将棋でもそれに準ずるものと思われる。
九州横断道路の当時の周辺交通事情 フェアリー詰将棋では、自玉をステイルメイトの状態にすることを目的とした物も存在している。「ばか自殺ステイルメイト」または「協力自殺ステイルメイト」などと呼ばれている。
金沢弁護士会の金沢弁護士会館 フェリー廃止区間の迂回路として、三角から天草五橋を渡り五和町の鬼池港から口之津港、熊本港から島原港のルートなどがある。
小櫃駅の駅構造 2016年(平成28年)1月に完成し、同年1月18日より業務を開始した。金沢家庭裁判所の跡地に建設され、隣接する金沢地方裁判所庁舎と調和したガラス張りの建物となっている。同年7月に「法テラス石川」が会館内に移転する予定である。
金子晴勇の来歴 静岡県出身。京都大学卒。1962年同大学院博士課程中退。立教大学助教授、岡山大学教授、75年「ルターの人間学」で京大文学博士、76年同書で日本学士院賞受賞。1990年静岡大学教授。96年定年退官、聖学院大学教授。
シーダー郡 (アイオワ州)の歴史 シーダー郡は1837年12月21日に、ダビューク郡から分離して設立された。郡名はシーダー川に因んで名付けられた。1840年、現在の郡庁所在地であるティプトンの町が設立された。南北戦争以前、ウェストブランチ周辺の地域は、南部州から奴隷を逃亡させるネットワークだった地下鉄道の活動中心だった。奴隷制度廃止運動家のジョン・ブラウンが、ハーパーズ・フェリー襲撃を計画しているときに、シーダー郡の小さな町スプリングデール近くにあったウィリアム・マクソンの家を本部に使っていた。スプリングデールのエドウィンとバークレイ・コポックが襲撃に参加した。第31代アメリカ合衆国大統領ハーバート・フーバー(1874年-1964年)は郡内ウェストブランチ市で生まれ、11歳までを過ごした。1931年、牛の結核の試験に関して持ち上がった紛争、いわゆるアイオワ牛戦争は、シーダー郡が農民決起の中心になった。シーダー郡保安官事務所と監獄は、監獄と住居が組み合わされた建物として使われていることでは最後のものだったが、2001年に閉鎖された。この建物は2003年にアメリカ合衆国国定歴史建造物に指定された。
シーダー郡 (アイオワ州)の地理 アメリカ合衆国国勢調査局に拠れば、郡域全面積は581.96平方マイル (1,507.3 km²)であり、このうち陸地579.52平方マイル (1,500.9 km²)、水域は2.44平方マイル (6.3 km²)で水域率は0.42%である。