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919485 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%B9%E3%83%94%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9 | ハイスピードカメラ | ハイスピードカメラ(High speed camera)とは、高速現象を撮影することを目的としたカメラ装置である。
古くは旧来のフィルムを記録媒体に用いたフィルム式ハイスピードカメラ(フィルムを高速回転しながら撮影)が主流であったが、現在では記録部に半導体デジタルメモリ(DRAM)を用い、記録速度を速めたものが主流となっている。デジタル記録方式のカメラ技術が進んだため、フィルム方式のハイスピードカメラはその取り扱いの煩雑さやコストの面からもほぼ終息した。ただし、フィルムが持つ情報量はデジタルのそれを遙かに凌駕しており、解像力を重視する映画やCMの現場、濃度情報を重要視するテーマ(燃焼など)を抱える研究・開発系の現場ではまだフィルムカメラが多用されている。こうした業界へもデジタル方式のハイスピードカメラは浸透し始めており、フィルム式ハイスピードカメラの稼働率は確実に低下している。
呼称
ハイスピードカメラとハイスピードシャッターカメラを混同するケースがあるが、ハイスピードカメラは1秒間に30フレーム(コマ)を超えるフレーム(コマ)を連続的に撮影できるカメラのことであり、シャッターカメラはあくまでも1フレーム(コマ)を撮影する間の露出時間が短いカメラのことを指す。また、ハイスピードカメラで撮影した映像を通常のコマ数(映画では秒速24コマ)で再生すると、通常の速度の現象がスローモーションとして見えるため、スーパースローカメラと称されることがある。
構造
フィルム式ハイスピードカメラ
フィルム式ハイスピードカメラには、書き落とし式とロータリープリズム方式がある。書き落とし式のハイスピードカメラは、35mmで300コマ程度までであるが、ロータリープリズム方式より高画質である。
カメラに収められたフィルムのロールを高速で回し(送り)、撮影を行う。書き落とし式のフィルムハイスピードカメラの撮影速度は、メカ駆動であることからも最大で1万コマ/秒程度が上限(2万コマの機器は存在する)とされている。フィルムをドラムに巻いて撮影する方法などを用い、少ないコマ数ながらも100万コマ/秒を超える機器も存在する。その機構上、目的とするコマ数にフィルムを送る速度が達するまでの立ち上がり時間が必要で、実質的に目的とする速度に達した後に定速撮影できる時間は数秒程度が一般的となる。また、フィルムを高速で送るため、その最後の部分がカメラ内で暴れて粉々に砕けるので、次の撮影を行う場合はカメラの機構部分を分解するなどの念入りな清掃作業が必要となり、繰り返し撮影を行う場合は相当な時間を要する。
デジタルハイスピードカメラ
デジタルハイスピードカメラの構成要素はビデオカメラと大差ないが、大別すると一体型と分離型が存在する。一体型はカメラのボディー内に記録用メモリーや処理系の回路を内蔵し、筐体としては1つのハードで構成される。分離型はセンサーとその周辺回路以外の機能を持たない小さなカメラヘッドと、専用のカメラケーブルで結ばれたメモリや処理系の回路を内蔵した本体部分で構成される。こうした外観の違いは使用される環境や目的を考慮した結果である。また、撮影後の画像データを保存する必要がある場合はさらにパソコンが必要になる。パソコンとの接続にはUSB、IEEE 1394、ファイバーチャネル、イーサネットなどさまざまな形式があるが、どの接続方式を採用するかはメーカーの考えに依存している。また、一部の分離型ハイスピードカメラの中には本体部分に専用のボディーを使用せず、直接パソコンにカメラを接続して使用する製品もある。
デジタル式の場合、撮影後すぐに映像を再生できるため、映像の評価をその場で簡単に行える。また、繰り返し撮影を行う場合は再度録画ボタンを押すだけで良いため、手軽に繰り返し撮影が行えるうえに消耗品も発生しないという特徴がある。この他、メモリ式カメラの最大の特徴としては、エンドレスループレコーディング機能が挙げられる。ビデオテープやフィルムを記録媒体に用いた場合は物理的に記録時間に限りがあるが、デジタルメモリーはその容量に応じた絶対記録時間内であれば、上書きを繰り返しエンドレス記録(リングバッファー)が行える。ただし、この場合は上書きされた映像が消えてしまう。
ハイスピードカメラに使用されるセンサーの多くはCMOSイメージセンサであり、CCDイメージセンサを使用したカメラは少ない。ハイスピードカメラに求められる最大の機能は、当然ながら高速で映像を撮影できることであるため、高速で電荷を読み出せるCMOSの特徴がマッチするためである。ただし、CMOSはCCDに比べて感度やノイズの点で不利な場合が多く、こうした問題点をいかに解決するかがセンサー開発の鍵となる。
通常のデジタルビデオカメラとは全く異なる方式でハイスピード撮影する物もある。撮影するコマ数と同じだけ光を分岐し、同一の映像を複数のセンサーに結像させる方式である。この方式では最高10億コマ/秒の撮影が可能であるが、撮影出来る長さはセンサの数までである(NAC社のULTRANAC Tau)。
最近では高画質・高感度なCMOSセンサーが開発され始め、少しずつハイスピードカメラに採用されるケースが増えつつある。しかし、こうしたハイスピードカメラに使用できるセンサーが手軽に入手できるようになったことから、ハイスピードカメラのメーカーが乱立しており、ユーザーの立場から見れば使用する場合に選択の幅が広がったとの利点もある代わりに、機能や性能・特徴を表示したカタログやWEB上での表現が分かりづらいため、目的とする機能・性能を得られない製品を誤って選択してしまうケースがあるので、注意が必要。現在ではカシオ・エクシリムPro EX-F1のように、デジタルカメラにも1200fpsの高速度撮影の機能を備えた機種がある。
用途
主には工業計測装置、自然現象の解析、エンターテイメント制作の用途が挙げられる。
工業計測
自動車の衝突安全性の試験、運転者や同乗者が衝突時にエアバッグで適切に保護されるかなどといった状況の撮影
半導体生産装置(マウンター、ワイヤーボンダーなど)の不良動作解析
各種製品や材料などの落下・衝撃試験
スポーツ選手のフォームチェックや用品開発のデータ収集、特にゴルフのスイングの解析や陸上選手の動作分析など。(野球/ピッチング、バッティングの瞬間、ゴルフ/インパクトの瞬間、テニス/サーブ、レシーブ、スマッシュの瞬間)。
自然現象の解析
爆発現象、燃焼現象の解析
昆虫や鳥の羽ばたきなど、動物の瞬間的な動作
ミルクの王冠(milk crown)は、フィルムカメラの時代には撮影が困難だったが、ハイスピードカメラを使用すれば難なく撮影できる。
ビデオ判定-試合時の異議申し立て(チャレンジ)の証拠として使う場合がある。
エンターテイメント制作
上記の工業計測や自然現象の解析での映像がそのままエンタテインメントとして使われる場合がある。
スポーツ中継でのスローモーションリプレイ。
ミニチュア撮影におけるスケール感の演出。
バラエティ番組での面白い瞬間の撮影用として。
関連項目
高速度撮影
SFX
映画用カメラ
外部リンク
高速度カメラ入門Q&A
高速度カメラ-操作の実際
主なカメラメーカー
株式会社キーエンス
株式会社ノビテック
株式会社ナックイメージテクノロジー
株式会社フォトロン
株式会社ディテクト
株式会社浅沼商会産業機材事業部
株式会社島津製作所
シナノケンシ株式会社
日本バイナリー株式会社
IDTジャパン株式会社
株式会社日西技研
撮影サンプル
高速動画・事例集
ハイスピード映像集
スローモーション映像集『未体験映像の世界』
おもしろ実験動画『高速度カメラの世界』
高速度撮影解析事例集
カメラ
撮影機 | 0.71102 |
663730 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9D%9E%E7%90%83%E9%9D%A2%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%BA | 非球面レンズ | 非球面レンズ(ひきゅうめんレンズ、Aspheric lens )は、平面でも球面でもない曲面を屈折面に含むレンズである。円筒面、トーリック面、対称非球面、非対称非球面等が使用される。
球面レンズに比べて、1つあるいはいくつかの収差を小さくすることができるような、球面より理想的な曲面を採用する。写真レンズでは、主に、大口径レンズにおける球面収差と、超広角レンズやズームレンズにおける歪曲収差の補正に大きな効果がある。また、写真レンズ以外にも様々な光学機器に採用されている(むしろ例えば「レーザー用で、ある特定の波長における球面収差を、1枚のレンズでゼロにする」といったように、特化した目的と性能のレンズを作れるということから、写真レンズ以外のほうが応用が大きい)。
一般に、ほとんどの非球面レンズでその中心部では球面に近く、周辺ほど球面から外れるわけであるから、その働きは周辺部ほど効果が大きく、複数のレンズから成る光学系では光束が広がる部分で効果が大きい。従って、写真レンズにおける非球面レンズの効果は開放絞りに近い時ほど大きい。絞り込んだ場合には球面レンズのみで製作されたレンズの方が性能が高くなる傾向にあるものの、最小絞りにしても目立って悪くなるようなことはなく、普通撮影に使用しても問題はない。
眼鏡では視界の歪みが少なく同じ度数でも薄く設計できるが価格が上昇するため、球面レンズを標準とし非球面レンズをオプションとする販売手法が多い。
前史
球面のみで構成されたレンズでは様々な収差が発生し、像がぼやけたり、像面が湾曲したりといった欠点となる。これを抑えるために、たとえば色収差を抑えるには相補的な形状の分散が異なるレンズを組み合わせるが、そういった工夫がなされてきた。
しかし、レンズ枚数の増加による重量化・高価格化などの問題もあり、球面レンズのみの組み合わせでは収差補正に実用上の限界があった。
研削非球面
非球面を用いれば複数枚のレンズを組み合わせたのと同等以上の大きな補正効果が得られることは17世紀にはデカルト、コンスタンティン・ホイヘンスらの研究によって明らかとなっていたものの、理論的に求められた曲線を正確に再現するための技術的・機械的な限界から大量生産は長らくなされなかった。1台ずつ生産される天体望遠鏡の分野では、非球面の補正板を採用し1931年に発明されたシュミット式望遠鏡など戦前からの実用化例があるが、設計者のベルンハルト・シュミットは非球面の研磨方法を生涯公表しなかったという。
20世紀後半になって加工技術が発展したことによりレンズ面の非球面加工が可能になり、一般的なガラス素材による非球面レンズが生産可能となった。一般撮影用レンズの初の非球面レンズ採用はエルンスト・ライツ(現ライカ)のウォルター・マンドラー設計で1966年フォトキナで発表され発売されたノクチルックス50ミリF1.2とされる。国産では1971年のキヤノンFD55ミリF1.2ALが初で1977年のノクトニッコール58ミリF1.2が続く。当初は研削加工により製造されていて、この方法で製造されたものを研削式非球面レンズという。当初はレンズ研磨職人の手作業、後には機械旋盤でも加工されるようになったものの、大量生産に向かず非常に高価なものであった。
新製法
近年では、あらかじめ非球面形状に超精密旋盤で加工した型で高温で軟化させたガラスを挟んで製造されたモールドレンズや、球面レンズ上に紫外線硬化樹脂などを重ねて複雑な複合レンズ様に成型した複合非球面レンズのような低コストの非球面レンズが製造可能となり、廉価なカメラレンズや眼鏡のレンズ、光ディスクのピックアップレンズなどに採用されるようになった。
ガラスモールド非球面レンズは、硝材の熱膨張・収縮からあまり肉厚で、大口径のレンズは成形困難とされていたが、トキナーが1997年にHOYAと共同開発したATX20-35mmF2.8では、アタッチメントφ77mmもある大口径レンズの最前玉にガラスモールド非球面を採用し、モールド非球面レンズの大口径化に貢献した。また、現在でも試作品などのための少量生産では型を使わず研削・研磨によって非球面とする創生法も用いられ、研究が重ねられている。
注釈
出典
参考文献
カメラ毎日別冊『カメラ・レンズ白書1980年版1交換レンズ読本』毎日新聞社
日本光学工業『新・ニコンの世界第9版』1983年2月1日発行
『クラシックカメラ専科No.23、名レンズを探せ!トプコン35mmレンズシャッター一眼レフの系譜』朝日ソノラマ
『クラシックカメラ専科No.50、ライカブック'99ライカのメカニズム』朝日ソノラマ
吉田正太郎『レンズとプリズム』第1版地人書館、1985年6月10日。
関連項目
幾何光学
収差
写真レンズ
対物レンズ
リンク
非球面レンズとは? -住田光学ガラス
ザ・ワークス:Vol.47ガラスモールド非球面レンズ- Enjoyニコン-ニコン
レンズ | 0.710787 |
517473 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9C%E3%83%8B%E3%83%BC | エボニー | エボニー(EBONY )は、木製大判カメラを製造する日本のカメラメーカー。木製部分は黒檀やマホガニー、金属部分はステンレスやチタンと高級材を使用して作られており、そのこだわりはブランド名(EBONY=黒檀の英語名)にも現れている。デザインは坂梨寛美。
木製大判カメラとしては珍しく組み立て不要で速写が可能。非使用時には全長が短くなりコンパクトに収納することができる。
製品に関してはエボニーのカメラ製品一覧を参照のこと。
外部リンク
公式ウェブサイト
日本のカメラメーカー・ブランド
かつて存在した日本のカメラメーカー
かつて存在した東京都の企業 | 0.710399 |
380522 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%AF%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9 | ディスクカメラ | ディスクカメラ
コダックが開発した、専用のディスクフィルムを用いたフィルムカメラ(Disc Camera)。本記事で後述。
記録媒体に、フロッピーディスクや光ディスク、ハードディスクなどのディスク状の媒体を用いる電子スチルビデオカメラやデジタルカメラ・デジタルビデオカメラのこと。
ディスクカメラ()とは、1982年にコダックが発表したディスク状のフィルムの新規格であるディスクフィルムを使用するコンパクトカメラ。
概要
ディスクフィルムとは、8.2×10.6mmのサイズのコマをディスクの縁に配置したもので、1枚撮影するごとにディスクが角度を変えていくという仕組みであった。1シート15枚撮りで、5インチや8インチのフロッピーディスクのようなスリーブに収納されている。
カメラ本体はコダック以外に、ミノルタ(当時)が日本国内向けに発売した。他に、富士フイルムとコニカ(当時)から輸出向けが製造されたが、参入はこれらを含め数社にとどまった。結局ディスクカメラは、一般的な35mmフィルムや、当時まだ一般的だった110フィルムを使ったカメラよりもさらに画質が悪いなど数々のデメリットがあり、これらを克服できないまま2~3年で店頭から姿を消した。フィルムはコダック・富士フイルム・コニカから販売されたものの1990年代前半には店頭から姿を消し、1998年12月に製造が中止された。現像・プリントも、2000年1月末に現像所でのサービスが終了し、現在、既に対応できないとのことである。
製品特徴
コダックの製品は当初、フィルム回転用モーターやストロボ発光用のバッテリーとして、通常では数年使用可能なリチウム電池を内蔵していた。ユーザーによる交換は不可能で、継続使用する場合にはメーカー対応となる。電池交換の手間を省こうとしたものだが、後に単3電池を使用するカメラも出した。他社もおおむねコダックにならっている。
ミノルタ製品の一部には、セルフポートレート、自分撮り撮影用の小型ミラーがついているモデルがあり、この機能を活かすため自撮り棒の元祖といえるオプションパーツが用意された。
富士フイルムは、現像技術を開発する中でディスクカートリッジのバーコードを読み取ってディスクフィルム上のバーコードに転写させる技術を開発している富士フイルムのあゆみ-ディスクカメラ,ディスクフィルムの開発富士フイルムホームページ2016年11月20日閲覧。
利点
フィルム交換が容易で素人でも失敗しにくい。
カメラを薄くでき、軽量化も図れる。
巻き取らない構造のため、フィルムの平面性を高く保てる。
フィルムがシート状のため、従来のロールフィルムと比べ、ラボ(現像所)での現像が容易である(ただし、対応する現像機を新規導入しなければならない点はデメリット)。
欠点
フィルムの面積が小さく、35mmフィルム等従来の一般的なフィルム規格に比べて画質が劣る。
一般的なカメラは軽量過ぎるため、一般的に手ぶれが起きやすい(ただし、フロントから押し込む形状のシャッターをもつカメラが多く、上下ブレはある程度防げる)。
撮影枚数が15枚までと少なく、構造上増やすことも出来ない。
カメラの内蔵バッテリーがメーカー対応(一部メーカーを除く)となり、ユーザーには交換できない。
他に、発足したばかりで普及していない規格にみられるものとして、以下のものが挙げられる。
フィルムのISO感度が1種類(ISO200)のみ。
フィルムの流通量が多くなかった。
現像、プリント料金も35mmフィルムに比べて高価だった(プリント料は10円/枚くらい違った)。
脚注
ていすくかめら | 0.710108 |
99940 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%BE%E4%BD%95%E5%85%89%E5%AD%A6 | 幾何光学 | 幾何光学(きかこうがく)とは、光の波動性や量子性その他を無視して、光の進む線の性質のみを幾何学的に研究する光学の分野である。
光学機器の設計に重要な位置を占める。光の波長が、(光学系のサイズに比べて)極端に小さい場合の現象を取り扱う。
歴史
古代ギリシアにおいては視覚に関する眼の役割に対し能動的な見方と受動的な見方とが対立していた。眼が受容器官に過ぎないとする見方は原子論者によって唱えられていたが、エンペドクレスやその後のプラトンは眼球から放射が出ているとする能動的な見方を主張した。この能動的な見方では、眼は穏やかな炎を持ち、そこから放たれた放射と外部の日光が接触することで視覚が得られるのだとする。エウクレイデス(ユークリッド)やプトレマイオスはこの眼の能動的な見方に基づいて、視線が直進と反射、屈折を行うとした幾何光学を作り出した。
こうした幾何光学を大きく発展させたのは、古代ギリシアの思想を受け継いだアラビアにおいてであった。10世紀のイブン・アル=ハイサム(アルハゼン)は『光学』を著し、徹底的な実験的検証によって光と眼の役割を明らかにした。例えば、光が直進することを明らかにするために、壁に注意深く計測したいくつもの穴を穿ち、反射してきた光や朝の赤い光などさまざまな光で検証を行った。また眼の解剖によって視覚像は外部の対象から発せられる光線によるものとし、レンズの特性も詳細に研究することによって、エウクレイデスの幾何学を正しく反転させて、反射や屈折の幾何学を明確にした。また現在でいうカメラ・オブスクーラの原理を用いて、日食の像を小さな穴を介して投影してみせた。
こうしたアル=ハイサムの業績は、その後のヨーロッパでの光学の発展に大きな影響を与えた。最も早期には13世紀ポーランドのヴィテロが典拠に触れることなくアル=ハイサムの議論を紹介している。同じころロジャー・ベーコンもその著作でこのアル=ハイサムの『光学』の成果を繰り返したが、それは能動的な眼の見方と受動的な見方が混在したものであった。ヨーロッパで『光学』の完全な翻訳が出版されたのは16世紀になってからである。
関連する原理・数式
幾何光学の三法則(直進、反射、屈折)は、「光は最短時間で進むことができる軌道をとる」という、フェルマーの原理に集約される。
後に、
光を波動として考える波動光学
粒子と波動の二重性をもつ量子光学
と発展していく。幾何光学と波動光学を併せて古典光学と呼び、量子光学と区別する。
幾何光学の完成は、波動光学の創始より遅れて、ハミルトンのアイコナール方程式を待たねばならない。
幾何光学は、光の波長が十分短い場合の極限として表すことができる。このとき等位相面が波面であり、等位相面の法線をつないだものが光線である。
関連項目
近軸近似-光線が光軸の近くのみを通る場合に成り立つ近似理論
-近軸近似が全空間で成り立つものとしたときの理論
薄レンズ近似-ガウス光学でレンズの厚みが無視できる場合
出典・注釈
参考文献
山本義隆:「幾何光学の正準理論」、数学書房、ISBN 978-4903342771(2014年9月15日)。
外部リンク
公益社団法人応用物理学会JSAP
一般社団法人日本光学会
ODG日本光学会光設計研究グループ
きかこうがく
きかこうがく | 0.709783 |
1251248 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%8B%E3%82%AB%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9%E8%A3%BD%E5%93%81%E4%B8%80%E8%A6%A7 | コニカのカメラ製品一覧 | コニカのカメラ製品一覧は、コニカ(現コニカミノルタ)とその前身である六桜社、小西六が発売してきたカメラ関係の製品の一覧。
銀塩カメラ
古い時代のカメラ
チェリー手提暗箱(1903年発売) -六櫻社が発売した国産初のカメラ。名刺判。
さくらフレックス・プラノ(1907年発売) -箱形一眼レフカメラ。
パール手提暗箱3号(1909年発売) -六櫻社時代の製品。乾板または118フィルムを使用し手札判。
アイデアフレックス(1910年発売) -箱形一眼レフカメラ。
アイデアフレックスII(1911年発売) -箱形一眼レフカメラ。
ニートフレックス(1926年発売) -レボルビングバック機構を採用した手札判一眼レフカメラ。1926年には大名刺判のバージョンが追加された。
120フィルム使用カメラ
パールシリーズ
6×4.5cm判スプリングカメラ。
セミパール戦前型(1938年1月発売) -レンズは3群3枚のオプター75mmF4.5または「和製テッサー」と高い評価を得た3群4枚のヘキサー75mmF4.5、シャッターはアバス(T、B、1/10-1/100秒)またはデュラックス(T、B、1-1/100秒)。ボディーは堅牢で故障が少なく信頼性が高かった。ミヤマ商会から距離計連動にするパーツ「ヤホー」が販売されていた。焦点調節は目測ヘリコイド式。
セミパール戦後型(1946年4月発売) -焦点調節は前玉回転式。
パールI(1949年1月発売) -セミパールに非連動距離計がつけられた。レンズはヘキサー75mmF4.5、シャッターはデュラックス(T、B、1-1/100秒)のみとなった。パールII並みの距離計連動に改造したものが中古市場に散見される。
パールIRS(1950年10月発売) -シャッターがコニラピッドS(B、1-1/500秒)になった。コダック式Fシンクロ接点。パールII並みの距離計連動に改造したものが中古市場に散見される。
パールII(1951年1月発売) -連動距離計。レンズはヘキサー75mmF4.5と同時にヘキサー75mmF3.5も並売。後期型からFシンクロ接点がドイツ式に変更された。
パールIIB(1951年1月発売) -廉価版だが調整困難だった焦点深度輪が手動になった程度で内容はあまり変わらない。連動距離計。シャッターがデュラックスS(B、1-1/400秒)に変更された。レンズはヘキサー75mmF3.5のみとなった。
パールIII(1955年発売) -セミオートマット、自動巻き留め式となり赤窓が廃止された。シャッターはコニラピッドS。
パールIIIMX -シャッターはセイコーシャMX(B、1-1/500秒)。シンクロ接点はドイツ式でM、F、Xの切り替え。
パールIIIMFX -セルフコッキング機構。シャッターはセイコーシャMFX(B、1-1/500秒)。シンクロ接点はドイツ式でM、F、Xの切り替え。
パールIIIL(1957年4月発売) -シャッターはセイコーシャMXL。ライトバリュー式になった。
パールIV(1958年12月発売) -アルミダイキャストボディーと採光式ブライトフレームファインダーで大型化し重くなった。アマチュアが35mmカメラに移行したため販売台数が少なく後に稀少品として高価になった。
コニフレックスシリーズ
さくらフレックス(1940年発売) - 6×6cm判。六桜社時代の製品。1937年輸出入等臨時措置法により外国カメラが輸入されなくなり発売されたカメラであるが、すでに淀橋工場日野工場等陸海軍の管理工場になりカメラのような民需品は原材料の入手に事欠き、製造台数は100台程度とも言われる。幻のカメラの1つ。レンズはデュラックスTB1-1/150秒。
コニフレックスI(1952年発売) - 6×6cm判。撮影レンズはフジカフレックスの83mmを凌駕する「望遠レンズ」ヘキサノン85mmF3.5でありポートレート写真家の注目を集めた。ファインダーレンズはヘキサー85mmF3。奥行きを押さえるため前板繰出は二段式であり非撮影時は無限遠撮影時よりさらに引き込むことでシャッターロックが掛かる。セミオートマット式。
コニフレックスI改良型(1954年発売) -前玉交換式となり、ファインダーレンズと撮影レンズの両方の前玉を交換することでテレヘキサノン135mmF4.5としても使えるアタッチメントレンズが発売されたが僅かな数しか売れなかった。
コニフレックスII(1955年発売) - 6×6cm判。シンクロ接点をFP級からX級に変更した。レンズはヘキサー85mmF3.5でコニフレックスI改良型用のコンバージョンレンズも使える。
コニカプレスシリーズ
オメガ引伸機で有名なシモン・ブラザーズがバーキー・フォトと合併の折りもう一つの代表的製品であった6×7cm判プレスカメラオメガ120の後継機の設計製造を依頼して来て発売されたシリーズ。
コニカプレスI(1965年発売)/コニオメガラピッド(1963年発売) -当初は輸出専用で「コニオメガラピッド」銘であったが1965年よりコニカプレスI型の名称で国内販売もされた。交換レンズはバヨネット式で4群6枚ヘキサノン60mmF5.6、3群4枚ヘキサノン90mmF3.5、4群5枚ヘキサノン180mmF4.5で、全て基線長90mm、有効基線長58.5mmの補色式一眼式距離計に連動する。ファインダー倍率は0.65倍で採光窓式ブライトフレームで、枠は90mmと180mmしかなく、65mm使用時はアクセサリーシューに外付けファインダーを装着して使用する。レンズ交換はエプロン部ノブで遮光板を閉じ、レンズ基部のロックを解除すると外部レンズが緩む。遮光板が閉まっている時はシャッターが切れず、開いている時はレンズが外れない。シャッターボタンと連動して撮影時のみ圧板がフィルムをゲートに圧着するのでフィルムの平面製は良いがシャッターが重い。シャッターのセットはプッシュプルレバーで行い迅速だがシャッターを切らなくてもレバーを引けば巻上されてしまう。フィルムはセミオートマット、取り外し可能な裏蓋に装填するので、複数の裏蓋を用意すれば迅速に交換できるが、撮影途中での日中交換はできない。10枚の撮影が終了したらレバーは自動的にストップして終了を知らせてくれるのでカメラ背面中央部の解除ボタンを下げて3回巻き上げるとフィルムが全て巻き取られている。
コニカプレスII(1968年発売)/コニオメガラピッドM(1967年発売) -グリップが大型化して上部にケーブルレリーズの留め金がついたためホールディングが楽になった。ブライトフレームに135mmの枠が加えられた。マガジン方式となり撮影途中でも自由に日中フィルム交換ができる。交換レンズはバヨネット式でヘキサノン58mmF5.6とヘキサノン135mmF3.5が新たに加わりヘキサノン90mmF3.5とヘキサノン180mmF4.5が継続販売された。ヘキサノン60mmF5.6は併売されなかったが使用できる。
126フィルム使用カメラ
さくらパック100とさくらパック300は、初めてプラスチックレンズが使用されたカメラである。他のインスタマチックカメラがかなり高価で普及機とは言えなかった中、非常に安価なカメラであった。「126フィルム」使用。
さくらパック100(1970年4月発売) -固定焦点、露出計なしで4,100円と手頃な価格で発売された。
さくらパック300(1970年4月発売) -露出計を装備しピント調整もできる中級機。
さくらパック100X(1972年発売) -電池不要のマジキューブを使用する。発売当初3,500円。小西六写真工業の創業100周年記念でホワイト/ゴールドのツートンカラーモデルがある。
127フィルム使用カメラ
パーレットシリーズ
大ヒットしたヴェスト・ポケット・コダックのコピーの1つ。127フィルムを使用し4×6.5cm(ベスト)判。
パーレット(Pearlette, 1925年発売) -一大ベストセラー。当初はウォレンサックから単玉色消レンズにウォコーシャッターを輸入して取り付けた。1929年前板にファインダーの金枠が付き、1931年にはその金枠が補強された。1932年にはレンズがヘキサー75mmF6.3または旭光学合資会社(現リコーイメージング)がOEM製造した単玉色消し75mmF8、シャッターが六櫻社ペガサス(Pegasus )シャッターと全自社製となった。1933年にはフィルム装填が側面蓋からだったのが開閉式裏蓋になった。細かい改良を続けて製造は戦後の1947年まで続いたと言われるが、この頃にはパーツが不足し色々な年代のパーツを掻き集めて製造したようで古いパーツが付いていたりする個体が多い。
ベビーパールシリーズ
ベビーパール(Baby Pearl、1934年発売) - 127フィルムを使用し3×4cm(ベスト半裁)判のスプリングカメラ。レンズはオプター50mmF6.3またはオプター50mmF4.5またはヘキサー50mmF4.5。シャッターはロックス(B、1/25-100秒)。戦後型はボディーレリーズになっている。女性向けの色違いモデルあり。
135フィルム使用カメラ
ライカ判レンズシャッター式カメラ
コニカスタンダードからIIIMまで
コニカスタンダード(1947年発売) -対米輸出および米軍PXでのみ発売された。レンズはヘキサー50mmF3.5。製造国名が「Made in Occupied Japan」になっている。
コニカI(1948年発売) -一般向けとしてはコニカブランドの初めてのカメラ。コニカスタンダードとほぼ同じカメラである。レンズはヘキサー50mmF3.5。1950年にヘキサノン50mmF2.8を搭載したモデルが追加され、距離計二重像が黄色く着色されたものに変更された。
コニカII(1951年発売) -ダブルヘリコイド式繰り出し機構、二重露出防止装置搭載。シャッターがコニラピッドSになり、アメリカ式シンクロソケットを装備しシンクロ撮影が可能になった。ヘキサノン50mmF2.8レンズ搭載。
コニカIIA(1955年発売) -コニカIIのシンクロソケットをドイツ式に、レンズをヘキサノン48mmF2に変更したもの。
コニカIIB(1955年発売) -コニカIIのタイム露出ダイヤルを廃止したもの。レンズはヘキサノン50mmF2.8。
コニカIII(1956年発売) -フロントレバーによるフィルム巻き上げ機構を装備し、シャッターも連動してチャージされるセルフコッキング方式。レンズはヘキサノン48mmF2。
コニカIIB-m(1957年発売) -コニカIIBのレンズをヘキサー45mmF3.5に変更したもの。
コニカIII L1(1957年発売) -コニカIIIのシャッターをライトバリュー方式露出合わせのセイコーシャMXLシャッターに変更したもの。
コニカIII L2(1957年発売) -コニカIII L1のシャッター速度や絞りなどの目盛りを鏡胴下部から視認性のよい鏡胴上部に移動した機種。新たにヘキサノン48mmF2.4レンズ付モデルが追加された。
コニカIIIA(1958年発売) -「生きているファインダー」と言われる、パララックス/画角自動修正機能付採光式等倍ブライトフレームファインダーを装備している。レンズはヘキサノン48mmF2と同50mmF1.8がある。
コニカIIIM(1959年発売) -コニカIIIAに折りたたみ式セレン光電池連動露出計を装備し、さらにハーフサイズマスクを使用可能とした機種で、レンズはヘキサノン50mmF1.8のみ。シャッターは露出計を取り付けたために外部セルフタイマーが搭載できなくなったため、セルフタイマー内蔵のセイコーSLVに変更され、シンクロ接点もボディ側に移動した。アクセサリーシューに専用フラッシュガンのみ対応する接点が付いている。
コニカSシリーズ
コニカS(1959年発売) -コニカIIIMまでのトップカバー形状から脱却しスマートな直線デザインのカメラになった最初の機種。定点合致式のセレン光電池連動露出計を内蔵し、コニカIIIと同じヘキサノン48mmF2レンズを装備する。シャッターはコパルSVEに変更された。
コニカSII(1961年発売) -コニカSのマイナーチェンジモデルで、ファインダー内に露出計指針が表示されるようになったほか、デザインも小変更された。
コニカSIII(1963年発売) -コニカオートSの発売に合わせ、部品の多くを共通化している。レンズもコニカオートSと同じヘキサノン47mmF1.9になった。
コニレット35/コニカスナップ
コニレット35(1959年発売) -コニレットの名称ではあるが一般のライカ判カメラ。輸出専用であり、フィルム入手の困難さを考えて一般的な135フィルムを採用したと思われる。レンズはコニター45mmF3.5。距離計のない目測式カメラである。
コニカスナップ(1959年発売) -ライバル富士フイルムが発売したフジペット35に対抗して発売されたライカ判普及カメラ。コニレット35をベースに開発された。少し高価ではあるが堅牢である。レンズはコニター45mmF3.5。距離計のない目測式カメラである。
コニカJ/コニカL
コニカJ(1960年発売) -コニカIIIAやコニカSで評判のよかった距離計連動、パララックス自動補正、採光式ブライトフレームファインダーを装備しつつ、当時10,000円の価格で発売された普及機。レンズはヘキサーK45mmF2.8。
コニカL(1961年発売) -セイコーの簡易シャッター「セイコーシャL」を用い、絞りとシャッター速度を連結して露出リングとし、定点合致セレン露出計の指針が中央に来るように露出リングを操作すると露出が合う仕組みを採用した簡単操作の普及機。マニュアル撮影は不可。距離計はなく目測ピント合わせ方式である。レンズはヘキサー40mmF2.8。
コニカオートSシリーズ
コニカオートS(1963年発売) -コニカSシリーズにシャッター速度優先AEを搭載すべく開発された。測光素子はセレンからCdSセンサーになり、シャッターはAE向け設計のコパルSVAに換装された。レンズはヘキサノン47mmF1.9。
コニカオートS2(1964年発売) -コニカオートSのCdS受光部をレンズ直上に移動し、レンズフィルターによる露光倍数を自動修正できるようになった。レンズはヘキサノン45mmF1.8になった。
コニカオートS2EL(1966年発売) -コニカオートS2にEEマチックSと同様のコニリールを搭載したもの。
コニカオートSE(1966年発売) -セイコーシャSE電子プログラムシャッターを搭載したプログラムEEカメラ。他社のセイコーシャSE搭載機種と同様、故障の多いカメラだった。スプリングモーターによる巻き上げ方式。ヘキサノン38mmF1.8搭載。
コニカオートS1.6(1967年発売) -コニカオートS2のレンズをヘキサノン45mmF1.6に変更したもの。
コニカエレクトロン(1969年発売) -コパルエレク電子シャッターを搭載して絞り優先AEを可能にした機種。またフラッシュ撮影専用の測光モードを持つ。レンズはヘキサノン45mmF1.8。
コニカEEマチックシリーズ
コニカEEマチック(1963年発売) -セレン露出計とセイコーシャLシャッターを使用して、コニカで最初の完全プログラム露出を実現した機種。レンズはヘキサノン40mmF2.8。
コニカEEマチックデラックス(1965年発売) -コニカEEマチックのファインダー内にシャッター速度表示指針を設け、シャッターをセルフタイマー付のセイコーシャLAに変更した機種。デザインも大きく変更された。
コニカEEマチックS(1965年発売) -コニカEEマチックのデザインはそのままでEEマチックデラックスと同様のファインダー内シャッター速度指針を装備。さらに簡単フィルム装填を実現するためコニリール方式を採用。
コニカEEマチックニューデラックス(1965年発売) -コニカEEマチックデラックスにコニリールを装備したもの。
コニカEEマチックデラックスF(1967年発売) -露出計をCdS素子タイプとし、カメラ上部にフラッシュキューブソケットを搭載。シャッターはシチズンUに変更された。
コニカEEマチックデラックス2(1967年発売) -コニカEEマチックデラックスFのフラッシュキューブソケットを一般的なホットシューに変更したもの。
コニカC35シリーズ
コニカC35(1968年発売) -コニカEEマチックデラックス2の機能を、ハーフサイズカメラのコニカアイのサイズに詰め込むことを目指して作られた。プログラムAEで距離計連動式、レンズはヘキサノン38mmF2.8。「じゃーに~コニカ」の愛称がつけられヒットしたが、この「じゃーに~」とは旅行時における携帯にぴったりということで名付けられた。井上順がCMキャラクターに採用された。
コニカC35フラッシュマチック(1971年発売) -コニカC35にフラッシュマチックを搭載した機種。輸出用にはC35オートマチックの名称で販売された。コニカC35E&L(1971年発売) -コニカC35から距離計とセルフタイマーを省略して、フラッシュ撮影時も専用フラッシュによる距離固定方式とした簡略型普及機。輸出向けにはコニカC35Vとして販売された。コニカC35FD(1973年発売) -コニカC35のレンズをヘキサノン38mmF1.8に変更し、シャッター速度優先AE方式とした上級機。C35シリーズ最後の距離計連動カメラである。輸出用名称はコニカオートS3。コニカC35EF(1975年発売) -世界初のエレクトロニックフラッシュ(ストロボ)内蔵カメラ。シャッター速度1/60秒・1/125秒自動切換の簡易プログラムAE方式でゾーンフォーカスピント合わせ、セルフタイマーなし、レンズはヘキサノン38mmF2.8。開発にあたって試作機を操作していたコニカの開発スタッフがストロボ用のコンデンサーで感電するという事故が発生したため、感電防止策としてプラスチック製ボディとなった。ストロボが光るコニカC35ということで、その名の通り「ピッカリコニカ」の愛称がつけられ大ヒットした。この機種以降のC35シリーズカメラはすべてエレクトロニックフラッシュを搭載している。コニカニューC35EF(1976年発売) -コニカC35EFにセルフタイマーを搭載し、シャッター速度に1/250秒を追加。コニカC35EFP(1977年発売) -コニカC35EFをベースに作られた、輸出専用の簡易カメラ。レンズはヘキサノン38mmF4でピント合わせ不要の固定焦点とし、シャッター速度1/125秒のみ、フィルム感度により絞りを変化させる方式。フラッシュ使用時絞り開放となる。コニカC35AF(1977年発売) -コニカニューC35EFをベースに、ハネウェルのビジトロニックモジュールを採用して世界初のオートフォーカスカメラとして発売された。ピントがいつでもちょうどぴったり合うコニカC35ということで、愛称は「ジャスピンコニカ」と名付けられた。レンズはヘキサノン38mmF2.8。フォーカスロック機能はない。コニカC35EFD(1978年発売) -コニカニューC35EFにデジタル時計を使用した日付写しこみ装置を搭載したもの。コニカC35AF2(1980年発売) -コニカC35AFの後継機種で、新型TCLモジュール採用によりフォーカス精度を向上させ、電池消耗時のシャッターロック機構も追加された。コニカC35EF3(1981年発売) -コニカニューC35EFの機能を維持しつつさらに小型にすることを目指して開発された。いくつものカラーバリエーションがある。レンズはヘキサノン35mmF2.8。若者層にターゲットを置くことを前提として発売に踏み切ったことから、近藤真彦をCMキャラクターに採用した。コニカC35EF3D(1981年発売) -コニカC35EF3にオートデートを搭載したもの。コニカC35AF2D(1982年発売) -コニカC35AF2にオートデートを搭載したもの。コニカC35EFJオートデート(1982年発売) -固定焦点の普及機。オートデートを搭載しシャッター速度は1/125秒単速。フィルム感度設定に応じて絞りが変化する。レンズはヘキサノン36mmF4。コニカポップ(1982年発売) -コニカC35EFJオートデートからオートデート機能を省いた輸出専用機。コニカC35MF(1982年発売) -電動モーターによるオートフィルムローディング・電動フィルム送り・電動巻き戻し方式を採用。レンズはヘキサノン38mmF2.8。「ジャスピンコニカ」をさらに進化させたことから、愛称は「ジャスピンSuper」。コニカC35MFD(1982年発売) -コニカC35MFにオートデートを搭載したもの。コニカAF3D(1983年発売) -コニカC35EF3Dをベースにオートフォーカス化した機種。パッシブ方式のハネウェルビジトロニックモジュールの使用をやめ赤外線発光ダイオードを使用したアクティブオートフォーカス方式として暗所での測距精度を大幅に向上させた。レンズはヘキサノン35mmF2.8。コニカAF3(1983年発売) -コニカC35AF3からオートデートを除いたもので輸出専用。
ライカ判一眼レフカメラ
コニカマウントシリーズ
コニカFSのSがスタンダードを名乗る通り、コニカFを覗いて大衆に焦点を当てた一眼レフカメラ。中でもコニカFSはコパルスクエアシャッターを採用した先駆けとなった。マウントは後のオートレックス以降のシリーズと互換性がない。コニカF(1960年9月発売) -ニコンFより高価であったため極少数で収集対象となっている。ペンタプリズムは着脱式。シャッタースピードや絞りと連動するセレン光電池式メーターを内蔵する。シャッターはコパルスクエアとの噂があるが実は全く異なる構造を持つ上下走行4枚メタルフォーカルプレーン式で、最高速は1/2000秒。標準装着されたレンズはヘキサノン52mmF1.4。コニカFS(1960年9月発売) -廉価版でコニカFと同時発売。ペンタプリズムは固定式。シャッタースピードと連動するセレン光電池式露出計を外付け可能。シャッター最高速は1/1000秒。Sはスタンダードの意。標準装着されたヘキサノン50mmF2。コニカFSW(1962年末発売) -コニカFSにタイムレジスターを組み込んだ。タイムレジスターとはデータバックの前身で、裏蓋にカレンダー付き機械式時計を組み込んであり撮影時にフラッシュが照射しフィルムに写し込むもの。コニカFP(1962年10月発売) - CdS式露出計を外付け可能。標準装着されたレンズはヘキサノン57mmF1.4、ヘキサノン52mmF1.8。コニカFM(1964年発売) -コニカFPをベースにシャッタースピードと連動するCdSの外光式露出計を内蔵した。標準装着されたレンズはヘキサノン57mmF1.4、ヘキサノン52mmF1.8。
コニカマウント用レンズヘキサノン35mmF2.8ヘキサノン35mmF2.8 -手動絞りヘキサノン50mmF2ヘキサノン52mmF1.4ヘキサノン52mmF1.8ヘキサノン57mmF1.4ヘキサノン100mmF2.8ヘキサノン135mmF3.2 -手動絞りヘキサノン135mmF3.5ヘキサノン200mmF3.5
コニカマウントIIシリーズ
他社に先駆けAE撮影を前提として開発された一眼レフカメラシリーズ。やがてレンズに刻まれるARの名はシリーズ初代の「オートレックス」(Autorex )の頭文字に由来する。前シリーズとのマウント互換性はない。純正でエクサクタマウントアダプター、M42マウントアダプター、ニコンFマウントアダプターが発売されていた。コニカオートレックス(1965年12月発売) -外光式のCdS式露出計を内蔵しEEを実現した。ASA感度設定に応じてシャッタースピードが連動範囲外にはロックが掛かるようになっており、設定したい場合はオーバーライドスイッチで解除する必要がある。ライカ判とハーフ判をフィルム途中で変更できる。ライカ判→ハーフ判の変更は巻き上げてからレバーで切り替え、ハーフ判→ライカ判の変更はレバーで切り替えてから巻き上げする。他のカメラと比較してシャッターレリーズストロークがかなり深く慣れが必要である。コニカオートレックスP(1966年3月発売) -コニカオートレックスからEEを省略した普及版。ライカ判とハーフ判をフィルム途中で変更できる機能はそのまま。CdS露出計を外付けできる。コニカFTA(1968年3月発売) - ARレンズと組み合わせてシャッター優先EEが可能。TTL露出計は装着するレンズにより測光エリアが自動で変更される(広角レンズでは中央部の8字型領域のみの部分測光、標準レンズでは中央重点測光、望遠レンズでは平均測光)。シャッターはコパルスクエアS。コニカFTAブラック(1969年発売)コニカニューFTA(1970年6月発売) -コニカFTAのマイナーチェンジモデルで、メインスイッチを背面からシャッターレリーズ元に移動した。コニカニューFTAブラック(1970年)コニカオートレフレックスT -コニカニューFTAの海外輸出モデルコニカオートレフレックスT3(1973年4月発売) -コニカFTAを元に多重露光、アイピースシャッター装備等の機能強化。従来のコニカシャッタースピード優先AE機の特徴である長いストロークを修正。後期型ではホットシューがペンタプリズム上に固定装着された。コニカオートレフレックスニューT3(1974年9月発売)コニカAcom-1(1976年発売) -呼び方は「エイコムワン」。愛称は「愛情コニカ」。家庭向けで曲線の多いデザイン、小型軽量。シャッターはコパルFC。広角レンズでは部分測光、標準レンズでは中央重点測光、望遠レンズでは平均測光になる。メインスイッチは巻き上げレバーと連動しており、予備角を引き出すと自動でメインスイッチが入り、メインスイッチを切ると巻き上げレバーが格納されシャッターロックが掛かる。西川きよし・ヘレン夫妻、山城新伍・花園ひろみ夫妻を起用したCMも話題になった。コニカオートレフレックスTC -コニカAcom-1の海外輸出モデルコニカAcom-1オートデート(1978年8月発売) -コニカAcom-1にオートデート機能を組み込んだ。カメラ背面のボタンを押すとデジタルLEDが点灯し1999年までのその日の日付が写し込まれる。コニカオートレフレックスT4 -輸出専売モデルで、コニカAcom-1にプレビュー機能、ワインダー装着対応等さまざまな機能を搭載したモデル。コニカFS-1(1979年発売) -一眼レフカメラとしては世界で初めてワインダーを内蔵したカメラ。従来のメカニカルシャッターではなく、電子式シャッター搭載。アクセサリーにも電子式の特徴を生かした専用レリーズやインターバルタイマーが用意された。発売と同時期に週刊プレイボーイ誌に連載された池沢さとし著のマンガ、シャッターシャワーの中で、主人公の愛機として登場する。コニカFC-1(1980年発売) -コニカFS-1のワインダーを外付けにした機種。コニカFT-1モーター(1983年発売) -コニカFS-1の内蔵ワインダー巻上げをシングル(S)とコンティニュアス(C)で切り替えられるよう改良し、露出補正とAEロック機能を追加した機種。コニカFT-1モータープロハーフ-コニカFT-1モーターをそのまま24×18mm(ハーフ)判にした特殊モデル。証明写真撮影用に製作された。コニカTC-X -ワインダーを内蔵しない。シャッター優先AEとマニュアル露光。
コニカマウントIIシリーズ用レンズ
ヘキサノンARはシャッタ-優先AEに対応するが、ヘキサノンARMとヘキサノンは対応しない。UCはウルトラコンパクト、ウルトラクローズアップ、ウルトラマルチコートレンズ。フィッシュアイヘキサノンAR15mmF2.8 -対角線魚眼レンズ。UCフィッシュアイヘキサノンAR15mmF2.8 -対角線魚眼レンズ。7群10枚。フィルター内蔵。ヘキサノンAR21mmF2.8 - 8群9枚。アタッチメントはφ55mmねじ込み。ヘキサノンAR21mmF4ヘキサノン21mmF4ヘキサノンAR24mmF2.8ニューヘキサノンAR24mmF2.8 - 8群8枚。アタッチメントはφ55mmねじ込み。UCヘキサノンAR28mmF1.8ヘキサノン28mmF3.5ヘキサノンAR28mmF3.5ニューヘキサノンAR28mmF3.5 - 5群5枚。アタッチメントはφ55mmねじ込み。ヘキサノン35mmF2ヘキサノンAR35mmF2 - 7群9枚。アタッチメントはφ55mmねじ込み。ヘキサノン35mmF2.8ヘキサノンAR35mmF2.8ニューヘキサノンAR35mmF2.8 - 5群5枚。アタッチメントはφ55mmねじ込み。ヘキサノンAR40mmF1.8 - 5群6枚。アタッチメントはφ55mmねじ込み。ヘキサノンAR50mmF1.4ニューヘキサノンAR50mmF1.4 - 6群7枚。アタッチメントはφ55mmねじ込み。ヘキサノンAR50mmF1.7ニューヘキサノンAR50mmF1.7ヘキサノンAR50mmF1.8 - 5群6枚。アタッチメントはφ55mmねじ込み。ヘキサノン52mm1.2ヘキサノン52mmF1.8ヘキサノンAR52mmF1.8マクロヘキサノン55mmF3.5マクロヘキサノンAR55mmF3.5 - 3群4枚。アタッチメントはφ55mmねじ込み。ヘキサノン57mmF1.4ヘキサノンAR57mmF1.2ヘキサノンAR57mmF1.4ヘキサノン85mmF1.8ヘキサノンAR85mmF1.8 - 5群6枚。アタッチメントはφ55mmねじ込み。ヘキサノン100mmF2.8ヘキサノンAR100mmF2.8マクロヘキサノンAR105mmF4 -ベローズ用。3群5枚。アタッチメントはφ55mmねじ込み。ヘキサノンAR135mmF2.5 - 4群4枚。アタッチメントはφ62mmねじ込み。ヘキサノン135mmF3.2ヘキサノンAR135mmF3.2ニューヘキサノンAR135mmF3.5ヘキサノンAR135mmF3.5 - 4群4枚。アタッチメントはφ55mmねじ込み。ヘキサノン200mmF3.5ヘキサノンAR200mmF3.5ニューヘキサノンAR200mmF4ヘキサノンAR200mmF4 - 5群5枚。アタッチメントはφ55mmねじ込み。ヘキサノン300mmF4.5ヘキサノンAR300mmF4.5 - 5群8枚。アタッチメントはφ72mmねじ込み。FLヘキサノンAR300mmF6.3 -螢石レンズ使用超コンパクトレンズ。ヘキサノン400mmF4.5ヘキサノンARM400mmF4.5UCヘキサノン400mmF5.6 - 5群9枚。アタッチメントはφ77mmねじ込み。ヘキサノン800mmF8ヘキサノンARM800mmF8ヘキサノン1000mmF8ヘキサノンレフレックスARM1000mmF8 -反射望遠レンズ。ズームヘキサノンAR28-135mmF4-4.6 - 12群18枚。アタッチメントはφ67mmねじ込み。ズームヘキサノンAR35-70mmF4 - 7群8枚。アタッチメントはφ55mmねじ込み。ヘキサノンバリフォーカルAR35-100mmF2.8UCズームヘキサノンAR45-100mmF3.5ズームヘキサノンAR65-135mmF4ズームヘキサノンAR75-150mmF4 - 12群15枚。アタッチメントはφ55mmねじ込み。ズームヘキサノンAR80-200mmF3.5UCズームヘキサノンAR80-200mmF4ズームヘキサノンAR80-200mmF4 - 9群12枚。アタッチメントはφ55mmねじ込み。
ライカ判レンズ交換式レンジファインダーカメラ
ライカMマウントと互換性のあるKMマウント。
ヘキサーRFシリーズヘキサーRFヘキサーRF2001リミテッドエディションモデル- 2001台限定、Mヘキサノン50mmF1.2とセット販売された。
レンズ交換式レンジファインダーカメラ用レンズ
ライカマウントレンズの一覧#コニカを参照
ハーフ判コンパクトカメラ
コニカアイシリーズコニカアイ(1964年7月発売) -サークルアイ型セレン光電池使用のプログラムEEカメラで、明るい変形ガウス型5群6枚ヘキサノン30mmF1.9レンズ搭載。1/30~1/800秒の広範囲な速度が出せるコパルB特殊プログラムシャッターを採用している。距離計はなくゾーンフォーカス方式。コニカアイII(1965年発売) -コニカアイの露出計をCdSセンサータイプに変更、レンズはヘキサノン32mmF1.8が搭載されている。コニカアイIII(1968年発売) -レンズがF1.7とさらに明るくなり、シャッターがセルフタイマーを内蔵した。
コニカレコーダーシリーズコニカレコーダー(1984年発売) -超薄型ボディ、スライドカバー方式でカバーを閉じると電源が切れシャッターもロックされる。フィルムを縦に給走しているので普通に構えて横位置画面が撮影できる。当初黒、金の2バージョンが発売され、後に赤バージョンが追加された。コニカレコーダーDD(1984年発売) -コニカレコーダーにオートデート機能を追加したもの。DXコードに対応した。
特殊フィルム使用カメラ
スナッピースナッピー(1950年発売) -当時ブームだった豆カメラで、フィルムは14×14mm裏紙付き10枚撮り。レンズは25mmF3.5であるが、40mmF5.6の望遠レンズも販売された。発売当初は輸出向けだったが後に国内販売もされた。Made in occupied japan(被占領日本製)の刻印がある。
コニレットシリーズ
初心者向けであるが安価な割には性能が良く一時かなり売れた。35mm幅、パーフォレーションなし、小型パトローネ入りのフィルムを使用する。しかしその後フィルム規格が特殊なため製造中止となり、1970年サクラパックカメラ発売の折りこのコニレットとの交換セールを行いかなりの数をメーカーが回収してしまったため現在市場で見られる数が少ない。なお、専用の小型パトローネは紛失しやすく、現存機でも失われている物が多い。「撮りっきりコニカ超MiNi」のパトローネがほぼ同サイズだったため、これを加工流用して撮影に用いる愛好家もいる。コニレットI(1953年発売) -特徴的なツートーンカラーのベークライト製。レンズはコニター50mmF4.5。シャッターはコニックス。コニレットII(1957年発売) -ファインダーカバーは金属製になった。レンズはコニター50mmF4.5。この頃チェリーフラッシュ、プリンター(手札判への拡大焼付機)、現像タンク、専用フッド、フィルター等の付属品が発売された。シャッターはコパル。コニレットIIM(1959年発売) -セレン光電池式露出計を内蔵。レンズはコニター55mmF4.5に変更。フィルム巻上ノブの小窓にカウンターが装備された。シャッターはコパル。
コニカインスタントプレスコニカインスタントプレス(1955年発売) -コニカプレスの名称ではあるが互換性等はない。高級インスタントカメラ。レンズはヘキサノン'''110mmF4でノンビグネッティング仕様。
出典
参考文献
『クラシックカメラ専科No.3、戦後国産カメラの歩み』朝日ソノラマ
カメラ製品の一覧
コニカミノルタ | 0.709375 |
2412288 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E7%90%86%E5%B7%A5%E5%AD%A6%E9%83%A8%E3%83%BB%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E9%99%A2%E7%90%86%E5%B7%A5%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%A7%91 | 日本大学理工学部・大学院理工学研究科 | 日本大学理工学部(にほんだいがくりこうがくぶ、College of Science and Technology, Nihon University)は、理工学を教育・研究する大学の学部である。また、日本大学大学院理工学研究科(にほんだいがくだいがくいんりこうがくけんきゅうか)は理工学の理論および応用を教育・研究する大学院の研究科である。略称は、日大理工(にちだいりこう)。
概要
1920年(大正9年)に日本大学高等工学校の設立に始まり、1928年(昭和3年)に私立大学のなかで2番目の理工系大学となる日本大学工学部に発展した。1958年(昭和33年)、理工学部に名称変更し、現在までに20万人にのぼる卒業生を輩出している。交通システム工学科はJABEE(日本技術者教育認定機構)認定学科であり、修了者は技術士一次試験が免除される。
理工学研究所および量子科学研究所など、高度な研究環境は国内はもとより世界も注目しており、公的な研究機関や企業との共同・委託研究の場として多数の成果を収めている。
「構造の日大」として実績がある理工学部建築学科は、学校が発足された当初に設置されていた学科である建築科を起源とし、培われた特徴ある建築教育を行っている。
土木工、建築、機械工、電気工、物質応用化、物理、数学各学科の1年次は船橋キャンパスで開講され、2年次以降は駿河台キャンパスで開講される。それ以外の学科は全学年を船橋キャンパスで開講している。
組織構成
学科・コース一覧
土木工学科
テクニカルデザインコース
プランニング・マネージメントコース
環境システムコース
交通システム工学科(2013年度社会交通工学科より名称変更)
エンジニアリングコース
マネジメントコース
建築学科-日本最大級の容量を持つ3,000tf(30MN)の大型構造物試験機がある
建築コース
企画経営コース
海洋建築工学科
まちづくり工学科(2013年度新設)
機械工学科
精密機械工学科
航空宇宙工学科
電気工学科
電子工学科(2013年度電子情報工学科より名称変更)
電子工学コース
情報科学コース
応用情報工学科(2013年度新設)
物質応用化学科
物理学科
数学科
大学院
理工学研究科
土木工学専攻
建築学専攻
社会交通工学専攻
海洋建築工学専攻
機械工学専攻
精密機械工学専攻
航空宇宙工学専攻
電気工学専攻
電子工学専攻
物質応用化学専攻
物理学専攻
数学専攻
地理学専攻
不動産科学専攻
医療・福祉工学専攻
情報科学専攻
量子理工学専攻
沿革
学部の変遷は、高等工学校→工学部→理工学部と改称している。
1920年(大正9年)6月-神田区三崎町に日本大学高等工学校を設置(土木科、建築科)。
1921年(大正10年)
4月-高等工学校に機械科設置。
12月-神田区駿河台北甲賀町に新校舎完成(翌年1月移転)。
1923年(大正12年)9月-関東大震災により駿河台校舎焼失。
1924年(大正13年)1月-駿河台仮校舎竣工。
1928年(昭和3年)
4月-日本大学工学部(土木、建築、機械、電気の4科)・同予科を開設。
7月-駿河台校舎再建。
1929年(昭和4年)3月-専門部工科(土木、建築、機械、電気の4科)を設置。
1938年(昭和13年)3月-工学部、専門部工科、高等工学校に工業化学科設置。
1947年(昭和22年)3月-専門部工科を福島県高瀬村および守山町へ移転(学制改革で第二工学部に、1966年に工学部へと改称)。習志野校舎での授業を開始。
1949年(昭和24年)
2月-学制改正により、新制大学に改編設置移行。工学部第一部(昼間部)土木、建築、機械、電気、工業化学を設置。
3月-工学部第二部(夜間部)土木、建築、機械、電気、工業化学を設置。
1951年(昭和26年)
3月-日本大学高等工学校閉校。
4月-新学制による大学院工学研究科(建設工学、機械工学、電気工学、応用化学)設置。
1952年(昭和27年)2月-工学部に薬学科・工業経営学科(薬学部・生産工学部の基礎となる)設置。
1953年(昭和28年)3月-大学院工学研究科博士課程(建設工学、機械工学、電気工学、有機応用化学)設置。
1957年(昭和32年) -工業経営学科を津田沼校舎で授業開始。
1958年(昭和33年)1月-日本大学工学部に物理学科を設置し、理工学部と名称変更。
1959年(昭和34年)1月-理工学部に数学科設置。
1961年(昭和36年)
3月-工業経営学科を経営工学科と改称
7月-理工学部に交通工学科(昭和54年9月に交通土木工学科と改称)・精密機械工学科を設置。
1963年(昭和38年)
3月-大学院工学研究科修士課程、博士課程に、物理学、数学、地理学専攻を増設して、理工学研究科と名称変更。
4月-理工学部に理工学研究所設置。
12月-日本大学原子力研究所設置。
1965年(昭和40年) -経営工学科が独立し第一工学部に(1966年に生産工学部と改称)。
1973年(昭和48年)3月-大学院理工学研究科修士課程・博士課程建設工学専攻を土木工学専攻と建築学専攻に分離。応用化学専攻と有機応用化学専攻を統合して工業化学専攻と改称。
1977年(昭和52年)12月-理工学部第一部に海洋建築工学科、航空宇宙工学科、電子工学科を設置、翌年4月より習志野校舎で授業開始。
1979年(昭和54年)3月-大学院理工学研究科博士前期、後期課程に、交通土木工学、海洋建築工学、精密機械工学、航空宇宙工学、電子工学の5専攻を増設。
1980年(昭和55年)10月-理工学部創設60周年記念式典挙行。
1983年(昭和58年)9月-理工学部土木工学科、建築学科、機械工学科、電気工学科、工業化学科、数学科の第二部を廃止。
1988年(昭和63年)4月-薬学科が分離独立し、薬学部に。
1990年(平成2年)6月-理工学部創設70周年。
1992年(平成4年)
3月-大学院理工学研究科博士前期課程に、不動産科学、医療・福祉工学、情報科学、量子理工学の4専攻を増設。
7月-新潟県六日町に「日本大学八海山セミナーハウス」開設。
1993年(平成5年)11月-薬学科廃止。
1994年(平成6年)3月-大学院理工学研究科の不動産科学、医療・福祉工学、情報科学、量子理工学の4専攻に博士後期課程を増設。
1996年(平成8年)4月-東葉高速線「船橋日大前駅」開設。習志野校舎を船橋校舎と名称変更。
1999年(平成11年)4月-理工学部工業化学科を物質応用化学科と改称。
2000年(平成12年)10月-理工学部創設80周年記念式典挙行。
2001年(平成13年)4月-理工学部交通土木工学科を社会交通工学科と、電子工学科を電子情報工学科と改称。大学院理工学研究科博士前期・後期課程とする。交通土木工学専攻を社会交通工学専攻と改称。
2001年(平成13年)8月-日本大学が主婦の友社からお茶の水スクエアの不動産施設を買収。
2002年(平成14年)3月-日本大学原子力研究所を日本大学量子科学研究所と名称変更。
2003年(平成15年)3月-駿河台新1号館竣工。
2003年(平成15年)4月-大学院理工学研究科工業化学専攻を物質応用化学専攻と名称変更。
2004年(平成16年)3月-船橋校舎14号館竣工。
2004年(平成16年)4月-日本大学理工学部科学技術資料センター(CST MUSEUM)設立。
2010年(平成22年)9月-理工学部創設90周年及び短期大学部(船橋校舎)創設60周年記念式典挙行。
2013年(平成25年) -応用情報工学科、まちづくり工学科新設。電子情報工学科を電子工学科に名称変更し電子工学コース、情報科学コースを設置。社会交通工学科を交通システム工学科に名称変更。
2015年(平成27年)3月-日本大学理工学部の駿河台図書館が旧お茶の水スクエアの建物に移転。
2017年(平成29年)
4月-大学院理工学研究科社会交通工学専攻を交通システム工学専攻と名称変更。
5月-大学院理工学研究科医療・福祉工学専攻を廃止。
2018年(平成30年)4月-大学院理工学研究科不動産科学専攻を募集停止。
2018年(平成30年)7月-駿河台キャンパスに新校舎タワー・スコラが竣工。
2020年(令和2年)6月-日本大学理工学部が創設100周年。
学部長
岡田章(2017年-2020年)
青木義男(2020年-)
学園祭
毎年、11月に船橋キャンパスで「桜理祭」が開催される。学生たちの企画したイベント、模擬店、トークショー、研究室の見学などがあり、子供から大人まで多くの来場者で賑わう。
所在地
駿河台キャンパスと船橋キャンパスは大手町駅乗り換えで60分弱で結ばれている。
駿河台キャンパス
東京都千代田区神田駿河台1-8-14
敷地面積:約1万㎡
JR中央・総武線「御茶ノ水」駅下車徒歩3分
東京メトロ千代田線「新御茶ノ水」駅下車徒歩3分
東京メトロ丸ノ内線「御茶ノ水」駅下車徒歩5分
船橋キャンパス
千葉県船橋市習志野台7-24-1
敷地面積:388,053㎡
東葉高速鉄道「船橋日大前」駅下車徒歩1分(東京メトロ東西線乗り入れ)
関係者
出身者
政治
森川薫-元摂津市長、一般社団法人地震予兆研究センター理事、地震予知研究者
石井由己雄
藤井富雄
梶山静六
近藤元次
河本三郎
近藤基彦
渡辺浩一郎
奥田建
鈴木義弘
加藤寛治-農林水産副大臣
福田富一-政治家栃木県知事、元宇都宮市長
福島弘芳-青森県つがる市長
菅原広二-秋田県男鹿市長、元秋田県議会議員
髙橋敏彦-岩手県北上市長
佐藤昭-宮城県塩竈市長
渡辺芳邦-千葉県木更津市長
頼重秀一-静岡県沼津市長
浜田一義-広島県安芸高田市長
久島正-元北海道北見市長、元北見工業大学教授
小田木真代-元茨城県高萩市長、元茨城県議会議員
横内公明-元山梨県韮崎市長
谷一之-北海道下川町長、元下川町議会議長、元下川町議会議員
経済
川上浩-実業家、ヤマハ社長
勝井祐輔-カツイ元社長
三澤千代治-ミサワホーム創業者
福嶋康博-スクウェア・エニックス名誉会長、エニックス創業者
工藤裕司(三遊亭あほまろ) -実業家、ハドソン創立者
大谷喜一-薬剤師、アインホールディングス社長
松本南海雄-薬剤師、マツモトキヨシホールディングス会長
月崎義幸-実業家、ジャパンディスプレイ社長
堀高明-実業家、スターフライヤー創業者・元社長、元エクセル航空社長
辻邦彦-実業家、サンリオの代表取締役副社長
角田雄二-実業家、スターバックスコーヒージャパン創業者・初代CEO
瀬川昌輝-実業家、昌平不動産総合研究所社長、東京ビルヂング協会理事
Dr.コパ-建築家、実業家、神主、作家、愛知工業大学客員教授
中村恒也-実業家、セイコーエプソン社長
宮原巍-ネパールの実業家、政治家
向浩一-実業家、コムチュア創業者・会長CEO、元全国ソフトウェア協同組合連合会会長、藍綬褒章
森栄樹-実業家、アノドス社長
松村厚久-実業家、DDホールディングス創業者、高知県観光特使
齊藤喜久蔵-大昭和製紙元社長
荻野勲-オムロンヘルスケア社長、元オムロンコーリン社長
行政
石塚貢-科学技術事務次官、海洋科学技術センター理事長
佐野克彦-東京都建設局長、東京都公園協会理事長、全日本建設技術協会副会長
御園良彦-東京都水道局長、東京都市開発社長
研究
青木通佳-安全工学、日本大学教授
釜井俊孝-地質学、京都大学教授
四戸哲-実業家
背戸一登-機械工学、日本大学教授、日本機械学会機械力学・計測制御部門長
高木勇夫-地理学、慶應義塾大学名誉教授、常磐大学学長
中野紘一-商品学、元日本大学商学部教授
永沼章-毒性学、東北大学名誉教授、元日本毒性学会理事長
東野定律-社会福祉学、静岡県立大学講師
内藤博敬-生物学、静岡県立大学助教
中村義作-数学、東海大学教授
渡部一二-環境デザイン、多摩美術大学教授
市川清志-都市計画学、日本大学名誉教授
内田祥文-建築防災学、元東京帝国大学・日本大学旧工学部助教授
大場正昭-東京工芸大学教授風工学、建築環境学、
大木幹雄-日本工業大学工学部情報工学科・大学院工学研究科教授ソフトウェア分析設計論
風見正三(大学院) -都市計画家、都市研究、宮城大学教授、事業構想学部長
小嶋勝衛-都市計画家、日本大学名誉教授
小島重次-都市計画家、都市研究、元日本大学、筑波大学教授
櫻井政経-元道都大学学長構造解析、
椎葉大和-福岡大学教授コンクリート工学
杉山知之-教育者、デジタルハリウッド創始者
飛坂基夫-建築技術、コンクリート構造、日本大学理工学部講師
藤森修-建築家、東海大学准教授
藤谷陽悦(大学院) -建築史家、日本大学生産工学部教授
本間俊雄(大学院) -建築構造解析、鹿児島大学#大学院教授
宮城弘-電気工学者、日本大学名誉教授
三浦光-音響学者、工学者、日本大学教授
宮崎均(大学院) -建築家、前橋工科大学大学院工学研究科教授
毛見虎雄-元足利工業大学教授建築構造、
望月照彦-多摩大学経営情報学部教授観光学、
矢野裕児(大学院) -流通経済大学教授都市物流・流通システム、
技術
大平貴之-プラネタリウムクリエイター
加藤眞-エンジン技術者、レーシングカーデザイナー
芝端康二-自動車技術者
角舘政英-照明デザイナー
建築
宇杉和夫-建築学者、元日本大学准教授
泉幸甫(大学院) -建築家、日本大学生産工学部教授
伊藤寛-建築論、道都大学教授
今川憲英-建築家、構造家、東京電機大学教授
今村雅樹-建築家、日本大学理工学部教授
泉田英雄-建築史家、豊橋技術科学大学建設工学系准教授
近江榮-建築史家、日本大学名誉教授
小林美夫-建築家、日本大学名誉教授
川口とし子-女性建築家
繁野繁造-建築家
新宮清志-構造家、日本大学名誉教授、元日本建築学会副会長
山本理顕-建築家、横浜国立大学大学院教授
山口廣-建築史、日本大学名誉教授
斎藤公男-構造家、日本大学名誉教授、元日本建築学会会長
金田勝徳-構造家、構造学者
中田捷夫-構造家、岡本太郎記念館理事
渡辺明-建築家
梅沢良三-構造家
横室隆(大学院) -建築学者、コンクリート工学、足利工業大学教授
佐藤光彦-建築家日本大学理工学部教授
三橋博巳-建築学者、日本大学理工学部教授、日本建築衛生管理教育センター会長、日本不動産学会会長、資産評価政策学会会長
吉田健治(大学院) -海洋建築学、元法政大学教授、電気通信大学教授
文化
金子隆博(中退) -サクソフォーン奏者
古賀祐三-映像作家,クリエイター
小泉貴之-アートディレクター、グラフィックデザイナー
武内伸-ラーメン評論家
富田隆-元オウム真理教信徒
御影瑛路-小説家、ライトノベル作家
広瀬正-作家
三野正洋-ノンフィクション作家、戦史研究家
オークラ(中退) -放送作家
峰隆一郎(中退) -小説家
小池潜-山岳写真家
高橋信次(中退) -宗教法人GLA創立者
両角岳彦-自動車評論家
舘内端-評論家、レーシングエンジニア
芸能
冨岡美希-女性モデル、フリーアナウンサー
さんきゅう倉田-お笑い芸人(ロカカカ)、ファイナンシャルプランナー
小代恵子-俳優
真弓田一夫(中退) -俳優
池田聡-シンガーソングライター、俳優
とおる-お笑い芸人(や団)
ティーチャ-お笑い芸人(めいどのみやげ)
alty(Bio 100%)
スポーツ
梅津宏治-プロボクサー
中村忠(空手家) -空手家
増田成幸-自転車選手
尾上昇-登山家、実業家、OMC株式会社代表取締役、日本食品機械工業会会長
その他
研究機関
交通総合試験路
材料創造研究センター(駿河台校舎)
空気力学研究センター
物理実験A棟・物理実験B棟
工作技術センター
測量実習センター
環境・防災都市共同研究センター
情報教育研究センター
日本で初めて3Dエクスペリエンス企業(Dassault Systèmes:ダッソー・システムズ株式会社)からダッソー・システムズテストセンターに認定された。
3D設計ソフトウェア、3Dデジタル・モックアップ、PLMソリューションにおける世界的リーダーであるダッソー・システムズは、2015年9月29日に国内で新たに学生向け認定プログラムを開始した。この日本初のテストセンターに情報教育研究センターが選定された。
科学技術資料センター(CST MUSEUM)
先端材料科学センター
物質の表面や内部を数十万倍に拡大し、原子の大きさで物質の構造と組成を知る電子顕微鏡や原子を順序よく積み重ねて新物質をつくる薄膜製造装置を備え、ナノテクノロジーを駆使した最先端の研究がおこなわれている。また、増え続ける動画と大量のデータは今後、コンピュータのハードディスクや記録メディアに、ますます大容量化が求められている。そのため、0か1かで記録されるディジタル情報、その記録密度を高めるためには、十億分の一メートルというナノスケールの研究が必要である。そのような原子レベルの世界を観察できるのは、国内でも有数の分解度をもつ電界放射型透過原子顕微鏡(日立ハイテクノロジーズ製FE-TEM)である。透過電子顕微鏡で見ると磁性材料の原子の並び方を正確に観察することができる。さらに、特殊なセンサーにより磁性材料の成分まで確認することができる。このナノレベル磁性微粒子の一粒一粒を記録の単位とすることで超大容量のハードディスクの実現が可能となる。現在、電界放出形走査電子顕微鏡(日立ハイテクノロジーズ製FE-SEM)で微粒子の大きさをサブナノメートルまで小さくすることに成功し、世界的注目を集めている。さらに、先端材料科学センターには最先端の物理分析機器等が一箇所にそろっており、理想的な研究環境が備わっている。薄膜作成スパッタリング装置では、超大容量ハードディスク用薄膜記録材料が作成される。ナノレベルで研究材料を加工できる収束イオンビーム(FIB)加工装置は、企業との共同研究で静電気力顕微鏡が開発された。フェムト秒パルスレーザは国際共同研究で活用され、新たな物理分野を切り開く世界的な成果を収めており、最先端の一貫した研究を効率的におこなう材料科学研究施設となっている。
マイクロ機能デバイス研究センター
空気中のホコリを極限まで抑制できるクリーンルームを備え、超微細なロボットや機械、電子回路の試作研究をおこなっている。国内では数少ない施設である。
テクノプレース15
交流の場を核とした創造性を育む施設、地域社会に開かれた施設、周辺環境との調和と地球環境への配慮をコンセプトに、バリヤフリーと環境、省エネルギーの貢献も考慮して設計された総合実験施設である。
環境水理実験室
土木工学の分野に必要な水の流れを科学的に解明するために設けられた実験施設で、実験室の規模は中学校の体育館くらいに相当する。流れの基礎から応用にいたるまでの多様なニーズに対応できるように水路や測定装置が完備され、いつでも実験が実施できるようになっている。ここで得られた研究成果は国内外の論文誌に掲載され、そのなかでも、世界の研究者が競い合って投稿するアメリカ土木学会論文集において多数掲載されている。水生生物の生態系保全が可能な河川環境の改善を科学的に解明し、その結果を実際の河川に適用して成果を収めている。
大型構造物試験センター
日本では最大級の圧縮力三十メガニュートンの大型構造物試験機や構造物の耐震性能を高い精度で確認することができるテストフロアーと水平火力装置、振動試験装置を備えた縮小模型試験体から実在試験体まで多様な実験が可能な実験施設である。
研究/課外活動
超小型人工衛星(SPROUT)打ち上げ記録
2014年5月24日、午後12時05分14秒にJAXAが開発した陸域観測技術衛星2号“だいち2号(ALOS-2)"を搭載したH2Aロケット24号機が打ちあがった。ロケットの中には本学製造のSPROUTを含め、4基の人工衛星が搭載されていた。打ち上げ後しばらく、宇宙へ分離された人工衛星の情報がJAXAに寄せられていた。しかし、独自分離機構造を採用していた為、SPROUTはすぐに確認できなかった。打ち上げから約37分、最初の無線信号が船橋キャンパスで確認され、打ち上げに成功した。打ち上げ後に、宇宙飛行士・若田光一から学生側にメッセージが届いている。
宇宙エレベーター技術競技会(宇宙エレベーター協会主催)
2013年8月に開催された第5回宇宙エレベーターチャレンジSPEC2013で、精密機械工学科の学生チームが製作したクライマー(ロボット昇降機)が世界初となるテザー(化学繊維製ロープ)到達高度1200m(垂直高度は1100m)を記録した。2009年の米国の社会人エンジニアチームが米航空宇宙局(NASA)の施設で達成した1000mの垂直高度公認世界記録を上回った。同大会は、理工学部の2研究室3チーム、静岡大学、社会人有志チームなど、13団体17チームが出場する中、6人からなる青木研究室が高度1200mの記録に到達した。競技は、先端をバルーンで高度1200m上空までつり上げたテザー上を、自走式クライマーを昇降させて到達高度を競った。同チームのクライマー(全長1.5m、重量11.6kg)は大会設定の高度1100mに達した後も上昇を続け、1200m地点に設置されたダンパー(緩衛装置)で停止し、到達を確認した。
SEEDS (人工衛星)
航空宇宙工学科は衛星設計コンテスト、50kg級の相乗り衛星の設計を競うコンテストで、1997年から連続入賞、2005年には設計大賞を受賞し、SEEDS(Space Engineering Education Satellite)と名付けられた大きさ10cm立方、質量1kgの衛星(CubeSat)を、2008年、インドのサティシュ・ダワン・スペースセンターから宇宙へ打ち上げに成功した。
鳥人間コンテスト選手権大会
1963年にスタートした日本初の人力飛行機大会。過去に9回優勝、未公認世界記録樹立、日本記録樹立(49.2km)がある。
円陣会
1952年に創設された機械工学科のサークルで、全日本学生フォーミュラ大会に毎年出場している。第1回大会から現在まで常に上位の成績を誇っている。過去には、同学科と他大学4校で共同設計製作した車で、フォーミュラSAE®(全米自動車技術会)に参加し、日本チームとして104チーム中28位に入る好成績を収めている。
グライダー部
日本大学グライダー部の創部はさだかではなく戦後前後と大学側で認識されている。その時期には動力機部門と滑空機部門があり、2部を総称して航空部と言われていた。1975年頃には動力機部門の機体が老朽化によって飛行できなくなり動力機部門は廃止となる。以降、滑空機部門だけが残った。
グライダー部に所属している部員数は2年生から4年生合わせて20名程度である。船橋校舎に拠点があり、妻沼滑空場で訓練が行われている。最新機からビンテージまで多種なグライダー機が揃っている。
2011年3月に行われた全日本学生グライダー競技選手権大会において個人優勝。過去にも2002年から2005年に個人優勝4連覇、2003年から2006年に団体優勝4連覇した実績を誇る。
脚注
注釈
出典
関連項目
学校法人日本大学-日本大学習志野高等学校-日本大学短期大学部
理工系大学
理工学部
理工学研究科
佐野利器
お茶の水スクエア
外部リンク
日本大学理工学部
理工学部土木工学科
理工学部交通システム工学科
理工学部建築学科
理工学部海洋建築工学科
理工学部まちづくり工学科
理工学部機械工学科
理工学部精密機械工学科
理工学部航空宇宙工学科
理工学部電気工学科
理工学部電子工学科
理工学部応用情報工学科
理工学部物質応用化学科
理工学部物理学科
理工学部数学科
日本大学大学院理工学研究科
日本大学理工学部理工学研究所
日本大学量子科学研究所
日本大学量子科学研究所電子線利用研究施設
日本大学理工学部宇宙構造物システム研究室
Nihon Univ. Glider Club
航空宇宙工学専攻リンク
100年の情熱を未来へつなぐ日本大学理工学部創設100周年-東洋経済ONLINE(2020年06月30日)
りこうかくけんきゆうか
東京都の大学
東京都の大学院
院
院
学校記事
院
神田 | 0.709326 |
1617868 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%AA%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC | コリメーター | コリメーター()とは、粒子や波(光など)を平行にする装置。
日本語では視準器とも呼ばれている。
光学用途
光学機器の製造、調整に使うためのもので、完全な平行光線、つまり、無限遠にある点光源が光源であるとみなせる光線群を作るものである。光学系を構成するレンズやミラーを正確に傾きなく組み付けたり、焦点の位置を調整するために使う。
焦点の調整とは、仕様通りの焦点距離となるように調整することであり、また、どのような対象物に対してもピントが合うように調整することともいえる。具体的には、一般的な望遠鏡やカメラのレンズでは、焦点距離は無限遠にピントを合わせた状態で表す、かつ、無限遠から近距離までにピントが合う必要があるために、そのような調整が必要となる。充分な精度で調整されていない場合、ピントが合わない場合があるだけでなく、望遠鏡の接眼レンズを交換したり、カメラのレンズを交換することができなくなる。
従来のコリメーターは、平行光線を作る光学系と、対物側に置かれた光源に書かれたパターンを肉眼で確認して調整するものが一般的であったが、はレーザー光線を使ったものも広く使われている。
原子力用途
原子核、または分子線などの実験、測定において、ビームを細く絞ることで、粒子の経路を平行にするもの。蛍光X線分析装置などに使う。
軍事用途
平行光線が得られることを利用して、銃や砲の直接照準器(ダットサイト等)として使われる場合がある。
小銃であれば、従来の照準器は照星(フロントサイト)、照門(リアサイト)、目標の三点を見通すことで照準していたが、コリメーターであればコリメーター内のレティクルを目標に合わせるだけでよく、また覗く位置が多少ずれても正確に狙えるという大きな利点がある。
間接射撃においても、火砲を設置する際に方向盤(Aiming Circle、方位磁針を使用して正確な方位角を測定する装置)等によって射向付与を行った後に砲側に設置して射撃の際の照準点として使用されている。
かつては標桿と呼ばれる棒を一点から見たときに重なるように遠近1本ずつ刺し、それをパノラマ眼鏡で照準していたが、コリメーターの発明により準備時間の短縮と精度の向上が可能となった。
一例として、火砲の砲身が方位角「0ミル」(ミルの円周は6400ミル)を指向した状態で、火砲に搭載されたパノラマ眼鏡を右真横の「1600ミル」に向ける。そのレティクルの中央線とコリメーターの中央線が合うようにコリメーターを設置しておけば、射撃で砲身を左右に動かしたとしても、パノラマ眼鏡を「1600ミル」に向けた状態で砲身を旋回させてコリメーターの中央線を再照準することで砲身を「0ミル」に戻すことができる。
射撃する際も同様であり、砲身を「0ミル」の状態から「50ミル」に向けて射撃したいならば、パノラマ眼鏡を定位の「1600ミル」から「1550ミル」(砲身を指向したい方向とは逆方向に向ける)に向けた状態で、砲身を動かしてパノラマ眼鏡のレティクルの中央線をコリメーターの中央線に導けば砲身は「50ミル」を指向する。
射撃の反動で火砲が後退してコリメーターの中央線が視認出来なくなったとしても、コリメーターは平行光線を出しているため、コリメーターのレティクルに振られた数字が見えていれば、その数字とパノラマ眼鏡のレティクルに振られた数字を一致させて正確な射撃が可能である。ただし後退の幅が大きくコリメーターの鏡胴内部が完全に見えなくなってしまった場合は再度火砲の射向付与とコリメーター設置が必要になる。またコリメーター内に振られた数字の左右を間違えると(たとえば右に「5ミル」なのか左に「5ミル」なのか)まったく別の方位角を砲身が指向してしまう危険がある。
なお、1km先の目標を射撃する際に方位角を1ミル誤ると弾着は1mずれ、10km先であれば10mずれることになる。コリメーターを火砲から見てどこ方向に立てるのかは、火砲の特性によって異なり、特に決まっていない。
出典
外部リンク
富士光電工業-光学機器の解説-コリメーターとは
アメテック株式会社テーラーホブソン事業部-光学機器-オートコリメータ
ニッテクリサーチ-エネルギー分散型蛍光X線分析装置
笠井トレーディング- GLATTER社製レーザーコリメーター(小型天体望遠鏡の光軸調整用)
計測機器
光学
軍事技術
砲兵 | 0.709319 |
3731178 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A1%95%E5%BE%AE%E5%88%86%E5%85%89%E6%B3%95 | 顕微分光法 | 顕微分光法(けんびぶんこうほう、)は吸光度や吸収スペクトルにより微小領域の定性的定量的測定を行う分光法。
概要
光学顕微鏡で特定の波長の光を試料に照射して吸光度や吸収スペクトル、散乱を測定することで微量物質の定性的定量的測定を行う。
蛍光顕微分光法
紫外線レーザーのような短波長の光を試料に照射して生じた蛍光を利用して定性的定量的測定を行う。
赤外・ラマン顕微分光法
ラマン効果を利用して定性的定量的測定を行う。
熱レンズ顕微分光法
熱レンズ顕微分光法では測定対象にレーザー光を照射して膨張によって密度が低くなり、屈折率が下がる現象を利用することで熱的変化をレーザービームで光学的に検出する。レーザー光を試料に集光すると光吸収により試料が局所的に温度が上昇して屈折率が変化するのでレーザー光が通過する部分にあたかも凹レンズが生じたかのような効果が発現する。この現象を利用して分析する。
非線形光学顕微分光法
非線形光学を利用して定性的定量的測定を行う。
近接場光学顕微分光法
近接場光を利用して定性的定量的測定を行う。
顕微分光測光法
顕微分光測光法(microspectrophotometry)とは光学顕微鏡で微小な試料に分光した単色光を細く絞って照射して吸光度や吸収スペクトルを測定することにより分光学的に微量物質の定性的定量的測定を行う方法。
赤外超解像顕微分光
赤外光と可視光を用いた2波長二重共鳴分光法の一つである過渡蛍光検出赤外分光法をレーザー走査型顕微鏡へ適用した手法で最初に赤外線レーザー光を照射することで特定の分子のみ赤外励起して次に可視レーザー光の照射により選択的に電子励起することで生じるS1状態からの蛍光(過渡蛍光)を検出する分光法。赤外吸収は紫外・可視吸収に比べて2桁から3桁も吸収係数が小さいので、微小空間での赤外吸収を測定する赤外顕微分光法では桁違いの高感度化が不可欠になる。
顕微X線分光
顕微X線分光ではX線を照射して生じた蛍光X線のスペクトルから定性的定量的測定を行う。
脚注
参考文献
顕微分光法:ナノ・マイクロの世界を見る分光法日本分光学会2009年ISBN 4061571087
進野勇,「顕微分光法による可視光と蛍光スペクトルの測定」『鉱物学雜誌』1993年22巻1号p.21-30,日本鉱物科学会,。
関連項目
赤外分光法
ラマン分光法
熱赤外分光法
近赤外線分光法
テラヘルツ分光法
電子線マイクロアナライザ
分析化学
分光学
光学
赤外線
物理化学
顕微鏡
生物学の研究技術 | 0.709244 |
2129554 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%80%E3%83%83%E3%82%AF%E3%81%AE%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%95%E3%82%A7%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%8A%E3%83%AB%E7%94%A8%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9%E8%A3%BD%E5%93%81%E4%B8%80%E8%A6%A7 | コダックのプロフェッショナル用デジタルカメラ製品一覧 | コダックのプロフェッショナル用デジタルカメラ製品一覧(コダックのプロフェッショナルようデジタルカメラせいひんいちらん)は、コダックが製造したプロフェッショナル用途のデジタルカメラ"Kodak Professional Digital Camera System(DCS)"の製品の一覧である。
デジタルカメラの原理・仕組みについてはデジタルカメラを参照
デジタル一眼レフカメラ
ニコンFマウント
DCS100(1991年5月発売)-日本未発売。世界初のデジタル一眼レフカメラ。ニコンF3がベース。専用のフォーカシングスクリーン、モータドライブ付き。秒2.5コマの連続撮影が可能。感度はISO100。20.5×16.4mm、1024×1280=1.3メガピクセルCCDを搭載。撮影画像はケーブル接続によりモノクロ液晶モニター画面付きのDigital Storage Unit ("DSU")に格納される。DSUは200メガバイトの容量で、150~600枚の画像が保存ができる。カラーとモノクロでの撮影が可能であった。
DCS200(1992年発売)-日本未発売。ニコンF801s (N8008s)がベース。カラー、モノクロ、赤外線での撮影が可能。
DCS420(1994年発売)-日本未発売。ニコンN90(ニコンF90の海外版)がベース。
DCS420M -日本未発売。モノクロ専用。150万画素。
DCS460(1994年発売)-日本未発売。
NC2000e(1994年8月発売)-ニコンF90/ N90とN90sがベース。記者用に設計された。
DCS315(1998年発売)- 150万画素。APSフォーマット一眼レフのニコンプロネア6i(日本名ニコンプロネア600i)をベースにしている。スピードライト内蔵型。1.8インチ液晶。電源は単3乾電池×6またはACアダプター。
DCS330(1999年10月20日発売)-価格は64万9000円。18.1×13.5mm、300万画素CCD。電源は単3乾電池×6またはACアダプター。アルカリ乾電池のほか、ニッカド、リチウム水素など充電池にも対応している。ニコンプロネア6iをベースとしており、ニコンFマウントの交換レンズを使用できるほか、ストロボなど各種アクセサリーも利用可能。前モデルDCS315からCCD画素数は2倍にアップし、同じくプロ向けのDCS660と同様ポリシリコンの代わりに酸化インジウム錫を使用して短波長域の感度を従来の2.5倍に改善したという“ITOセンサー"を採用した。感度はISO125~400の間で設定可能。画像は2008×1504ピクセルで出力され、コダック独自のTIFF/EP形式で保存される。APS用“IXニッコール"を含むニコンFマウントの交換レンズがそのまま使用できる。シャッタースピードは30~4000分の1秒とバルブ。連写は毎秒1コマ、最大8コマまで可能。ボディ背面に1.8インチTFT液晶ディスプレーを内蔵。ポップアップ式のスピードライトを内蔵した上、ホットシューを利用してニコンの外部スピードライトの使用も可能。
DCS620(1999年発売)- 200万画素。秒3.5コマ、12連写。ニコンF5にデジタルバックを装着しているモデルのためペンタ部と軍艦部にニコンF5の表記があり、またアクセサリーの互換性がある。1.8インチ液晶カラーモニターにおいて撮影データの露光状態をヒストグラムで確認できる。AC電源の他に専用バッテリーでの撮影が可能。感度設定はISO200から最高ISO1600相当まで設定可能。
DCS620x -日本未発売。ニコンF5がベース。
DCS660(1999年発売)- 600万画素。ニコンF5がベース。
DCS660M -日本未発売。モノクロ専用。
DCS720x(2001年発売)-日本未発売。2メガピクセルCMYのCCDセンサー機構搭載。ニコンF5がベース。
DCS760(2001年7月26日発売)-価格は89万円。APS-HサイズのITOCCDで600万画素。1.5コマ/秒の撮影間隔で最大24コマ連続撮影可能。ISO感度設定80~400相当。ニコンF5がベース。DCS660の後継機種。米国航空宇宙局のスペースシャトルSTS-108の装備品として正式に採用された。搭載されたDCS760は米国航空宇宙局向けの特別版ではなく、市販されている製品と同仕様。
DCS760M-(2003年発売)-日本未発売。DCS760のモノクロ版。ベースはニコンF5。ISO400~800。液晶表示にゾーンシステムのゾーンスケールを使ったヒストグラムが表示される。80台程度が販売された。
DCS Pro 14n(米国2003年1月発売、日本2003年5月27日発売) /プロ14n 512MB(2003年10月発売) -米国価格4995$、日本ではオープン価格であった。アメリカ製。フォトキナ2002にて発表。有効画素数1371万画素。2.0型TFT液晶カラーモニタ。本家ニコンを含め、Fマウントで初めてのフルサイズデジタル一眼レフカメラとなった。ニコンFマウントは他社に比べて径が小さく、Fマウントのままフルサイズ化は難しいと言われてきたが、ベルギーのフィルファクトリー社と「モディファイしたバイヤー配列」により、24×36mmサイズCOMSセンサーを共同開発した。バッファメモリーを増設した512MBモデルもラインナップし、発売済みの256MB標準モデルのバッファを512MBに増設することも可能であった。約1.7コマ/秒で最大18コマの連続撮影可能。撮影感度ISO80~800相当。RAW(DCR)、ERI-JPEG(またはJPEG)の2種類のファイル形式で同時記録が可能。効率的な撮影を実現するRAW3段階、ERI-JPEG(もしくはJpeg)4段階の記録画素数設定。ニコンF80ベースの新設計マグネシウム合金製ボディ。CFカードおよびSDカード/MMCのダブルスロットを採用。NTSC/PAL切替式ビデオ出力端子を装備。D-TTL調光に対応。縦位置シャッターボタン連動型オートオリエンテーション機能。ポップアップ式スピードライト内蔵。ノイズが出やすく、ISO80よりも高い感度設定では粒状感が顕著になる傾向が強かった。同じ理由で長時間露光の撮影は難しい。このため高いISO感度や長時間露光を選べないことがスタジオ撮影以外のプロの撮影シーンの領域を狭めてもいた。裾部が前後に張り出した独特なボディ形状のため、干渉により装着不可能なレンズがある。
DCS Pro SLR/n(2004年発売) -オープンプライス。アメリカ製。有効画素数1371万画素、24×36mmサイズCOMSセンサー搭載。DCSプロ14nの後継、高感度版として開発された。撮影感度ISO160~1600相当(RAWモード時のみ)。シャッタースピード2-1/4000秒(長時間露光モード時最長60秒)。ノイズを低減させるHPLNテクノロジーを採用。512MBバッファーメモリー標準搭載。13.5MPの高精細RAWデータを毎秒1.7コマで、最大19コマの連続撮影が可能。RAW(DCR)3段階、ERI-JPEGまたはJPEG4段階の記録画素数設定可能。CFカードおよびSDカード/MMCのダブルスロット装備。RAW現像ソフトが同梱。ポップアップ式スピードライト内蔵。高解像感とダイナミックレンジの拡大による高階調性がある。
キヤノンEFマウント
DCS520 - 200万画素。キヤノンEOS-1Nがベースなので同じ操作感で扱え、そのアクセサリーがそのまま使える。1秒間に3.5コマで連続最大12コマの連写が可能。1.8インチカラー液晶パネルを搭載。
DCS560 - 600万画素。1.8インチ液晶カラーモニター採用。感度設定はISO80から1/3段刻みで最高ISO200相当。電源はACまたは専用バッテリー。
DCSプロSLR/c -シグマ製ボディ。
中判カメラ用デジタルバック
DCSプロバック645 -フィルムマガジンの代わりに装着することで従来の6×4.5cm判一眼レフカメラがデジタルカメラになる、1,660万画素ポータブルデジタルバック。36.86×36.86mmCCD。ISO100から400。最大1コマ/約1.6秒、最大約8コマ連続撮影可能。
645M -マミヤ645AF/マミヤ645AFD専用モデル。
645C -コンタックス645専用モデル。
645H -ハッセルブラッドH1専用モデル。
DCSプロバック/プロバックプラス(1995年9月発売) -フィルムマガジンの代わりに装着することでハッセルブラッド555ELDがデジタルカメラになる。36.86×36.86mmCCD。別売インターフェースキット併用でマミヤRZ67プロIIにも対応する。
関連項目
ニコンのデジタル一眼レフカメラ製品一覧
ニコンのレンズ製品一覧
ニコンFマウントレンズの一覧
キヤノンのカメラ製品一覧
マミヤ・オーピーのカメラ製品一覧
コンタックス
ハッセルブラッドのカメラ製品一覧
外部リンク
-コダックプロフェッショナルデジタルカメラ
-Kodak DCS cameras based on Nikon(英文)
ふろふえしよなるようてしたるかめらせいひんいちらん
こたつくのふろふえしよなるようてしたるかめら | 0.708507 |
837547 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%81%E3%81%97%E6%92%AE%E3%82%8A | 流し撮り | 流し撮り(ながしどり)とは、動いている被写体のスチル写真をカメラ撮影する際、そのスピード感を効果的に撮影する技術である。
概要
作例のように、動いている被写体がブレず、背景がブレることにより被写体のスピード感を表現するのが流し撮りである。
その方法は、固定したい被写体にレンズを向け、シャッターが開いている間はその位置がずれないように、その被写体の動きに合わせてカメラを動かす。背景は露光中にカメラが動いた分だけぶれ、被写体は止まっているように写る。離着陸・低空飛行中の航空機や走行中の列車、サーキットの自動車・バイク、競技中のスポーツ選手、競走馬など、動きの速い被写体のスピードを強調するために欠かせない技法である。
問題点と解決策
問題点
流し撮りの効果を出すためには、通常より長いシャッター速度が必要である。露光時間を長くするため、露出制御においては絞りをより小さくし、感度の低いフィルムを用いる(デジタルカメラでは感度を落とす)という作業が求められる。被写体の速度・カメラ・レンズによってはシャッター速度以外の値を限界にしてもなお露光量が過大となるために、NDフィルター(減光フィルター)を使用する。(NDフィルターは濃さ=減光量のさまざまなものが発売されているので、カメラや被写体の特性に合わせて選ぶことができる。)
また、長い露光時間はしばしば通常の手持ち撮影の限界を超え、大きな手ぶれによって被写体までも不鮮明になってしまう。手持ち撮影は熟練した撮影者には可能であっても、初心者やレンズ保持力の弱い撮影者には困難な技法であるのが実情である。一脚あるいは三脚といった器具を用いても、三脚で完全な水平移動をするのでなければ、縦ぶれが発生する。
解決策
近年、手ぶれ補正機構を持ったカメラ・レンズが登場し、手ぶれの発生はある程度抑えられた。その一方で「被写体を追ってカメラを振る動作を、機構が手ぶれと認識して補正してしまう」という問題が生じた。
そこで、一眼レフカメラ用交換レンズにおいては縦方向の手ぶれのみを抑えるモードを加えることで解決を図った。キヤノンISレンズの鏡筒横のスイッチにより設定する「手ぶれ補正モード2」等がそれに相当する。またニコン製VRレンズには、極端に大きいぶれを意図的なぶれ、つまり流し撮りによるぶれと判断して、その方向に対するぶれ補正のみを自動的に停止させる機能が組み込まれている。
この他、パナソニックのレンズ一体型デジタルカメラの一部には、流し撮りモードが搭載されている。
関連項目
モーションブラー
ボケ(写真)
シャッター速度
なかしとり | 0.708468 |
3145394 | https://ja.wikipedia.org/wiki/Undergraduate%20Texts%20in%20Mathematics | Undergraduate Texts in Mathematics | Undergraduate Texts in Mathematics (UTM)とは、シュプリンガーにより出版されている数学の学部レベル(undergraduate)の教科書のシリーズである。「概して北アメリカの大学において数学を学ぶ学部3、4年生に向けて」書かれており、いくつかの書籍については訳書も出版されている。
抜粋
素朴集合論
題名における「素朴」(naive)は、数理論理学を用いた厳密な公理化が行われる以前のものという意味合いであり、その意味でカントールらによる初期の集合論としての素朴集合論とは異なる。
原著は1960年にD. Van Nostrandから出版されており、以降シュプリンガー(1974年)を含めて何度か再版されている。日本語版は富川滋の訳で1975年に出版されている。
グレブナ基底と代数多様体入門
原題は「Ideals, Varieties, and Algorithms」(イデアル・多様体・アルゴリズム)である。「平易な英語とわかりやすい語り口で書かれたすぐれた教科書」「とても読み易く書かれており,学び始めてすぐにグレブナー基底や代数幾何学の面白さを味わえる素晴らしい教科書」と評価されている。
一覧
脚注
注釈
出典
関連項目
:en:Naive Set Theory (book)
:en:Geometric Constructions
:en:Computing the Continuous Discretely
外部リンク
Springer-Verlag's Summary of Undergraduate Texts in Mathematics
数学に関する記事
数学書
長大な項目名 | 0.707865 |
1914045 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A7%92%E6%9D%91%E5%95%86%E4%BC%9A%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9%E8%A3%BD%E5%93%81%E4%B8%80%E8%A6%A7 | 駒村商会のカメラ製品一覧 | 駒村商会のカメラ製品一覧は駒村商会が自社ブランドで販売したカメラ製品の一覧である。
120フィルム使用カメラ
ホースマンシリーズ
PC-101(1948年完成) -トプコンホースマンシリーズの原型となるキャビネ判暗箱。
ホースマン102(1950年完成) -警察用鑑識用プレスカメラ。
ホースマン104(1958年完成) -警察用鑑識用カメラ。東京光学機械(現トプコン)の協力を得て開発された。
トプコンホースマンシリーズに関しては「トプコンのカメラ製品一覧」を参照
コンバーチブルホースマンシリーズ
コンバーチブルホースマン(1970年発売)
目測式システムカメラ。ロールフィルムホルダーはグラフロック互換方式を採用しており、バッグ交換により6x4.5。6x6。6x7。6x9など多彩なフォーマットで撮影が可能。
また、フィルムホルダーの代わりにオプションのピントグラスを用いることでピント及び構図の確認が可能。
付属のレンズは
ホースマン62mmF5.6 - 4群6枚。最短撮影距離1.0m。アタッチメントはφ43mmねじ込み。
交換レンズは
シュナイダー・クロイツナッハ製
スーパーアンギュロン47mmF5.6 - 4群8枚。最短撮影距離0.5m。アタッチメントはφ49mmねじ込み。シュナイダー純正ヘリカル・フォーカシング・マウントと組み合わせた専用ボードで提供された。受注生産品。
ホースマンSW69シリーズ
ホースマンSW6x9プロ(2000年発売)
ホースマンSW612シリーズ
6x12cm判超広角カメラ。
ホースマンSW612(1995年9月発売)
ホースマンSW612プロフェッショナル(1998年発売) -ホースマンSW612にプロシフトフレームを装備しライズ/フォール上下各17mm、シフト左右各15mmが可能。
交換レンズは
ローデンシュトック製
アポグランダゴン35mmF4.5 - 4群8枚。最短撮影距離0.3m。アタッチメントはφ67mmねじ込み。
アポグランダゴン45mmF4.5 - 4群8枚。最短撮影距離0.4m。アタッチメントはφ67mmねじ込み。
アポグランダゴン55mmF4.5 - 4群8枚。最短撮影距離0.6m。アタッチメントはφ67mmねじ込み。
グランダゴンN65mmF4.5 - 4群8枚。最短撮影距離0.7m。アタッチメントはφ58mmねじ込み。
グランダゴンN90mmF6.8 - 4群6枚。最短撮影距離1.3m。アタッチメントはφ67mmねじ込み。
アポシロナーS135mmF6.8 - 4群6枚。最短撮影距離3m。アタッチメントはφ49mmねじ込み。
シュナイダー・クロイツナッハ製
スーパーアンギュロンXL38mmF5.6 - 4群8枚。最短撮影距離0.4m。アタッチメントはφ72mmねじ込み。
スーパーアンギュロンXL47mmF5.6 - 4群8枚。最短撮影距離0.5m。アタッチメントはφ67mmねじ込み。
スーパーアンギュロンXL58mmF5.6 - 4群8枚。最短撮影距離0.8m。アタッチメントはφ67mmねじ込み。
スーパージンマーXL80mmF4.5 - 4群6枚。最短撮影距離1m。アタッチメントはφ67mmねじ込み。
がある。
ホースマンSW617シリーズ
6x17cm判超広角カメラ。
ホースマンSW617プロフェッショナル-ライズ/フォール上下各17mm可能。ホルダー交換により6x12cm判での撮影も可能。
交換レンズは
ローデンシュトック製
グランダゴンN90mmF6.8 - 4群6枚。最短撮影距離1.1m。アタッチメントはφ67mmねじ込み。
アポシロナーS180mmF5.6 - 4群6枚。最短撮影距離4.5m。アタッチメントはφ67mmねじ込み。
シュナイダー・クロイツナッハ製
スーパーアンギュロンXL72mmF5.6 - 4群8枚。最短撮影距離0.8m。アタッチメントはφ95mmねじ込み。
スーパーアンギュロンXL90mmF5.6 - 4群8枚。最短撮影距離1.1m。アタッチメントはφ95mmねじ込み。
スーパージンマーXL110mmF5.6 - 4群6枚。最短撮影距離1.6m。アタッチメントはφ67mmねじ込み。
アポジンマー180mmF5.6 - 4群6枚。最短撮影距離4.5m。アタッチメントはφ72mmねじ込み。
テレクスナー250mmF5.6 - 5群5枚。最短撮影距離8m。アタッチメントはφ82mmねじ込み。
富士フイルム製
フジノンT400mmF8 - 5群5枚。最短撮影距離22m。アタッチメントはφ67mmねじ込み。
がある。
シートフィルム使用カメラ
ホースマンLシリーズ
モノレールカメラ。レンズボードは140×140mm。名称はそれまで一般的だったU型でなくL型の枠を使用したことに由来する。
ホースマンL45(1978年8月発売) - 4×5in判。
ホースマンL57(1983年6月発売) - 5×7in判。460-700mmの延長モノレールが装備された。
ホースマンL810(1983年6月発売) - 8×10in判。460-700mmの延長モノレールが装備された。
ホースマンL45EM(1983年9月発売) -ホースマンL45に460-700mmの延長モノレールが装備された。
ホースマンLXシリーズ
モノレールカメラ。レンズボードは140×140mm。ヨーフリーベースティルト、メインフレームドライブ機構を備える。LX-Cはフォーカスコンピューターで被写界深度を表示する機能を搭載している。LXはフォーカスコンピューターを省略したもの。カメラバックと蛇腹を交換することで5×7in判へ、さらに後部L型アームの交換により8×10in判へとフォーマット変更が可能。フロントライズ30mm、フォール30mm、シフト左右各30mm、センターティルト360°、ヨーフリーベースティルト前後各40°、スイング360°。フランジバック標準蛇腹で80-600mm、袋蛇腹で60-280mm、長尺蛇腹で88-810mm。
ホースマンLX-C45(1989年6月発売) - 4×5in判。
ホースマンLX-C57(1991年3月発売) - 5×7in判。
ホースマンLX-C810(1991年3月発売) - 8×10in判。
ホースマンLX45(1989年6月発売) - 4×5in判。
ホースマンLX57(1991年3月発売) - 5×7in判。
ホースマンLX810(1991年3月発売) - 8×10in判。
ホースマンLSシリーズ
モノレールカメラ。レンズボードは140×140mm。ホースマンLにヨーフリーベースティルト機構などを追加したもの。フロントライズ30mm、フォール30mm、シフト左右各30mm、センターティルト360°、ヨーフリーベースティルト前後各40°、スイング360°。リアライズ30mm、フォール30mm、シフト左右各30mm、センターティルト360°、ヨーフリーベースティルト前後各40°、スイング360°。フランジバック標準蛇腹で80-600mm、袋蛇腹で60-280mm、長尺蛇腹で88-810mm。
ホースマンLS45(1990年12月発売) - 4×5in判。
ホースマンLS57(1990年12月発売) -ホースマンLS45を5×7in判に変更したもの。
ホースマンLS810(1990年12月発売) -ホースマンLS45を8×10in判に変更したもの。
ホースマンLE45(1997年発売) - 4×5in判。ホースマンLS45の機能を簡略化した普及モデル。
ホースマン45Hシリーズ
VHシリーズをそのまま大きくしたようなテクニカルカメラ。レンズボードは80×80mm。バックは縦横差替式の国際規格。
トプコンホースマン45HF(1983年5月発売) - 4×5in判。
ホースマン45FA(1985年10月発売) - 4×5in判。FAはファインアートの意。フロントライズ28mm、シフト左右各30mm、ティルト前15°後10°、スイング左右各15°。リアティルト前後各10°、スイング左右各11°。ベッドダウン15°。
ホースマン45HD(1995年9月発売) - 4×5in判。ボディーはラバーで保護されている。フロントはホースマン45FAと同様、リアのあおりは省略されている。
ホースマンワイドシリーズ
ハンディタイプの広角カメラ。ピントは目測によりヘリコイド。
ホースマンワイド65(1982年8月発売) - 4×5in判。レンズはスーパートプコール65mmF7。
ホースマンワイド90(1982年8月発売) - 4×5in判。レンズはスーパートプコール90mmF5.6。
その他のカメラ
ウッドマン45(1994年発売) - 4×5in判。朱利桜材の木製暗箱。レンズボードはリンホフ規格。バックは縦横差替式の国際規格。フロントライズ35mm、フォール25mm、シフト左右各10mm、スイング左右各10°、ティルト前20°後30°。リアスイング左右各10°、ティルト前25°後15°。フランジバック45-315mm。
デジタルカメラ
ホースマンSWシリーズ
超広角カメラ。
ホースマンSW-Dプロ(2005年発売)
ホースマンLDシリーズ
フロントライズ30mm、フォール30mm、シフト左右各30mm、センターティルト360°、ヨーフリーベースティルト前後各40°、スイング360°。リアライズ30mm、フォール30mm、シフト左右各30mm、センターティルト360°、ヨーフリーベースティルト前後各40°、スイング360°。
ホースマンLD(2005年発売) -ホースマンLXのデジタルバック対応型。
ホースマンLDプロ(2007年発売) -ホースマンLDに「LDプロスライドアダプター」を装着し高性能デジタルバックを装着できるようにしたもの。
出典
日本カメラ社「カメラ年鑑'86」
日本カメラ社「カメラ年鑑'98」
カメラ製品の一覧 | 0.707169 |
117671 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%85%E5%A0%B1%E6%A9%9F%E5%99%A8 | 情報機器 | 情報機器(じょうほうきき)とは、情報にアクセスするための機器・機械(情報用ハードウェアなど)のことを指す。
概要
広義では、情報に触れることができる機器はすべて情報機器であり、狭義では、通信の機能を持っている機器を指す。通信の機能を持っているものは、特に情報端末(じょうほうたんまつ)ということもある。情報機器のうち、家庭で用いられるものを情報家電(じょうほうかでん・後述)、企業などで用いられるものをOA機器(オーエイきき)ということもある。OAとは「Office Automation」の略である。法人向けの情報機器は販社により、リース物件として流通するケースが多い。
情報機器は、情報やデータを扱うため、それを記録しておく情報メディアと密接なかかわりを持つ。
単に情報機器というと、現代ではコンピュータ、特にパーソナルコンピュータ(PC)や携帯電話・PDAを指していうことが多い。このほかにも、固定電話やファクシミリなども含まれる。また、通信の機能は持たないが、複写機(コピー機)やCDプレーヤーなども広義の情報機器に含めることもできる。
家庭用
一般の家庭にも、これら機器は普及を見せている。これらは家庭用電気機械器具(家電)の一種として、情報家電ないしデジタル家電(→デジタル家庭電化製品)とも呼ばれ、家庭用には機能を限定するなどしてやや安価な廉価版が主に普及する傾向が見られる。
また近年では娯楽に供するための家電とする娯楽家電の中にも、情報処理技術を応用した物も見られ、それらを含めて娯楽家電ないし情報娯楽家電やデジタル娯楽家電と呼ばれている。
情報機器の一覧
エニグマ(暗号機)
印鑑
スマートグラス
スマートウォッチ
サイクルコンピュータ
タイムレコーダー
GPS端末
カーナビゲーション
POS端末
マルチメディアステーション
現金自動預け払い機(ATM)
ストックティッカー
テレックス(テレタイプ端末)
ポケットベル
コンピュータ(スーパーコンピューター、サーバー、パソコン、ゲーム機、携帯情報端末など)
腕木信号機
信号旗
伝声管
気送管
自走式台車
電信機
電話機(固定電話・携帯電話・テレカンファレンス端末)
FMトランスミッター
トランシーバー、業務無線端末(警察無線、消防無線、防災無線、鉄道無線、船舶無線、航空無線、タクシー無線、MCA無線など)
ファクシミリ
ルーター(ネットワーク間の接続)
データ回線終端装置(ネットワークとデータ端末装置の接続)
音響カプラ
変調復調装置(モデム)
光回線終端装置(ONU)
ターミナルアダプタ(TA)
ラジオ受信機(チューナー)
テレビ受像機
RFIDダク、RFID端末
バーコードリーダー、二次元コードリーダー
イメージスキャナ
カメラ(写真機)
ビデオカメラ
マイクロフィルムリーダー
電子式卓上計算機(電卓)
翻訳機
電子辞書
プリンター
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関連項目
情報
通信
メディア
電子媒体
デジタル家庭電化製品
通信機器
映像機器
音響機器
家電機器
国際エネルギースタープログラム
日本事務機新聞
情報
コンピュータの形態 | 0.707151 |
46102 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E7%90%86%E7%A7%91%E5%AD%A6 | 物理科学 | 物理科学(ぶつりかがく、physical science)は、自然のうち生命以外を研究対象とする学問のことである。自然科学(natural science)の中で、生命科学(life science)と対をなす。物理学(physics)を物理科学と言うこともあるが、本項で言う物理科学は物理学や化学を含む上位概念であることに注意を要する。
分野
物理科学には以下のような学問分野が属する。
物理学
宇宙科学(天文学)
惑星科学(地球科学)
化学
脚注
関連項目
自然科学
生命科学
自然科学 | 0.706801 |
3348078 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%A4%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%82%B9%E5%BC%8F%E6%8E%A5%E7%9C%BC%E9%8F%A1 | ハイゲンス式接眼鏡 | ハイゲンス式接眼鏡(ハイゲンスしきせつがんきょう)もしくはホイヘンス式接眼鏡(ホイヘンスしきせつがんきょう)は接眼レンズの一形式である。1703年にクリスティアーン・ホイヘンスにより発明されたとされている。望遠鏡ではハイゲンもしくはハイゲンス、顕微鏡ではホイヘンスと呼ぶのが慣例になっている。
構造
大小の平凸レンズ2枚を、どちらも凸面を対物側に向けて組み合わせた2群2枚。レンズの硝材は2枚ともBK7を使うのが普通である。対物側のレンズを視野レンズ、接眼側のレンズを眼レンズという。視野レンズの焦点距離f1と、レンズ間隔dと、眼レンズの焦点距離f2の比が、3:2:1または4:3:2の時に倍率色収差が補正される。
視野レンズをメニスカスとしたものをミッテンゼーハイゲンス式接眼鏡またはミッテンゼーホイヘンス式接眼鏡と呼び、天体望遠鏡に広く使われた。ミッテンゼーの場合、像面湾曲はやや軽減される。
特徴
見かけ視界は⌀約50度。構造が簡単で安価に製造でき、像も明るいので有用である。しかし瞳距離が0.241 fと短いので高倍率にすると見辛い。
欠点としては軸上色収差が出ること、像面湾曲が大きいことが挙げられる。反射望遠鏡や、ケプラー式望遠鏡でもF10以下の短焦点鏡筒に使用する場合はアッベ式接眼鏡かケルナー式接眼鏡を使用した方が良い。
接着面がないため、レンズ接着剤の耐熱性が悪かった時代には、ラムスデン式接眼鏡とともに太陽観測用接眼鏡として推奨された。
出典
参考文献
天文と気象別冊『天体望遠鏡のすべて'75年版』地人書館
天文と気象別冊『天体望遠鏡のすべて'83年版』地人書館
吉田正太郎『天文アマチュアのための望遠鏡光学・屈折編』誠文堂新光社ISBN 4-416-28908-1
吉持健『天体望遠鏡の作り方』日本放送出版協会
接眼鏡
天文学に関する記事
エポニム | 0.706302 |
1585202 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%A7%91 | 理学研究科 | 理学研究科(りがくけんきゅうか、英称:The Graduate School of Science)は、日本の大学院研究科のうち、理学に関する高度な教育・研究を行う機構の1つである。
概要
主に、理学部の上位に連続した形で設置され、博士前期課程(修士課程)および博士後期課程(博士課程)あるいはそれに相当する課程で構成される。構成は研究科によって多少異なるが、主に数学、物理学、化学、生物学、地球科学などに関する専攻が設置されている。学位は、修士課程は修士(理学)を、博士課程は博士(理学)を修めることができ、他は、それに相当する専攻名称等に応じた学位を修める。
また、理学部を基礎とする大学院研究科が自然科学研究科など「理学」を含まない名称になっている大学もある。
理学研究科を置く大学
国立
東日本
北海道大学大学院理学研究科
山形大学
東北大学大学院理学研究科
茨城大学
埼玉大学
千葉大学大学院理学研究科
お茶の水女子大学
静岡大学
新潟大学
信州大学
西日本
富山大学
名古屋大学大学院理学研究科
京都大学大学院理学研究科
奈良女子大学
大阪大学大学院理学研究科
神戸大学大学院理学研究科
岡山大学
愛媛大学
高知大学
広島大学
山口大学
九州大学大学院理学研究科
熊本大学
鹿児島大学
琉球大学
公立
東京都立大学
名古屋市立大学
大阪公立大学
兵庫県立大学
私立
城西大学
立教大学
日本女子大学
東京理科大学
東邦大学
北里大学
東海大学
神奈川大学
京都産業大学
関西学院大学
岡山理科大学
福岡大学
理学系研究科と冠する名称を置く大学
東京大学大学院理学系研究科
理学を専攻できる他の研究科名称
国際基督教大学大学院アーツ・サイエンス研究科理学専攻
日本大学大学院総合基礎科学研究科
関連項目
研究科の一覧、修士論文、研究
寄附講座
自然科学研究科、理工学研究科、工学研究科
理学部、理工学部、工学部
国際公務員-応募資格は、応募するポストに関連する分野での修士号以上の学位を保有していることが求められる。
研究科
研究科 | 0.705872 |
2820824 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%AB%E3%81%AE%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%AF%E3%83%88%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9%E8%A3%BD%E5%93%81%E4%B8%80%E8%A6%A7 | ライカのコンパクトカメラ製品一覧 | ライカのコンパクトカメラ製品一覧はライカが製造販売してきたコンパクトカメラの一覧である。
135フィルム使用カメラ
C1(リコー製)
C3(リコー製)
CM
minilux(松下電器産業製)
minilux zoom(松下電器産業製)
APSフィルム使用カメラ
C11
デジタルカメラ
digilux(1998年) -富士フイルムFinePix 700ベース
digilux zoom(1999年) -富士フイルムFinePix 1700zベース
DIGILUX 4.3(2000年) -富士フイルムFinePix 4700Zベース
デジルックスシリーズ
DIGILUX1(2002年) -パナソニックLUMIX DMC-LC5ベース
DIGILUX2(2004年) -パナソニックLUMIX DMC-LC1ベース
DIGILUX 3(2006年) -パナソニックLUMIX DMC-L1ベース
D-LUXシリーズ
D-LUX(2003年) -パナソニックLUMIX DMC-F1ベース
D-LUX2(2005年) -パナソニックLUMIX DMC-LX1ベース
D-LUX3(2006年) -パナソニックLUMIX DMC-LX2ベース
D-LUX4(2008年) -パナソニックLUMIX DMC-LX3ベース-1010万画素光学2.5倍ズーム
D-LUX5-ブラック(2010年) -パナソニックLUMIX DMC-LX5ベース
D-LUX5-チタン(2011年) -日本では1,000セットを限定販売
D-LUX6(2012年) -パナソニックLUMIX DMC-LX7ベース
D-LUX6(2012年) -G-STAR RAWエディション
D-LUX(Typ 109) (2014)
D-LUX7(2018年)-パナソニックLUMIX DC-LX100M2ベース
C-LUXシリーズ
C-LUX1(2006年) -パナソニックLUMIX DMC-FX01ベース
C-LUX2(2007年) -パナソニックLUMIX DMC-FX30ベース
C-LUX3(2008年) -パナソニックLUMIX DMC-FX37ベース
C-LUX3ちびまる子ちゃんモデル(2010年7月21日) -日本で50台のみ限定販売。
V-LUXシリーズ
V-LUX1(2006年) -パナソニックLUMIX DMC-FZ50ベース
V-LUX2(2008年) -パナソニックLUMIX DMC-FZ100ベース
V-LUX 20(2010年) -パナソニックLUMIX DMC-TZ10ベース-光学12倍ズームレンズとGPSを搭載
V-LUX3(2011年) -パナソニックLUMIX DMC-FZ150ベース
V-LUX 30(2012年) -パナソニックLUMIX DMC-TZ20ベース
V-LUX4(2012年) -パナソニックLUMIX DMC-FZ200ベース
V-LUX 40 (2012年) -パナソニックLUMIX DMC-TZ30ベース
V-LUX Typ 114(2014年) -パナソニックLUMIX DMC-FZ1000ベース
ライカX1(2009年) -ライカ初の自社開発デジタルコンパクトカメラ。APS-Cサイズの大型センサーを搭載した単焦点機。
Q(2015)
Q2(2019)
関連記事
ライカ
ライカのカメラ製品一覧
ライカのレンジファインダーカメラ製品一覧
ライカマウントレンズの一覧#ライカカメラAG
ライカの一眼レフカメラ製品一覧
ライカRマウントレンズの一覧#ライカカメラAG/エルンスト・ライツ
脚注
参考文献
『1990ライカ写真製品価格表』日本シイベルヘグナー
『1992ライカ写真製品価格表』日本シイベルヘグナー
『1999ライカ写真製品価格表』日本シイベルヘグナー消費物資事業部門写真営業本部
『フォトニュース1997年VOL.1』日本シイベルヘグナーライカバルナッククラブ事務局
『フォトニュース1997年VOL.3』日本シイベルヘグナーライカバルナッククラブ事務局
こんはくとかめらせいひんいちらん
カメラ製品の一覧 | 0.705309 |
1973713 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%90%E8%97%A4%E6%99%82%E5%95%93 | 佐藤時啓 | 佐藤時啓(さとうときひろ、1957年9月13日- )日本の美術家、写真家。東京藝術大学美術学部教授。
彫刻家を経て写真に転向し、〈光ー呼吸〉と題された長時間露光の写真作品及び〈Gleaning Light〉と題されたピンホール写真作品を制作する。また最近では写真装置の仕組みをもちいたプロジェクトなどで知られる。〈光ー呼吸シリーズ〉は大型カメラによって風景を長時間露光撮影する。露光中にペンライトや手鏡を用い、被写体となった風景の中で自らカメラに向けて発光させた光は、自身の移動した痕跡となる。しかし長い露光の結果画面上に自身の姿は写らない。このことにより四角に切り取られた光景の中に移動やその時間という概念が取り込まれ、またその連続により画面上に現れた光と、消え去った主体(不在)によって普遍的な「存在」について言及しようとする。
略年譜
1957年(昭和32年) -山形県酒田市下台町で出生
1969年(昭和44年) -酒田市立琢成小学校卒業
1972年(昭和47年) -酒田市立第一中学校卒業
1976年(昭和51年) -山形県立酒田東高等学校卒業
1981年(昭和56年) -東京藝術大学美術学部彫刻科卒業
1983年(昭和58年) -東京藝術大学大学院美術研究科修了
1989年(平成01年) -〈日本写真家協会展〉にて銀賞受賞
1990年(平成02年) -〈第18回日本国際美術展〉にて次点である美術文化振興協会賞受賞、その他に埼玉県立近代美術館賞、いわき市立美術館賞受賞東京都美術館、京都市美術館
〈第6回東川町国際写真フェスティバル〉第6回東川賞・新人作家賞受賞
1993年(平成05年) -ダイムラ-ア-トスコ-プグランプリ受賞によりフランス滞在
1994年(平成06年) -文化庁在外研修員としてイギリス滞在
1996年(平成08年) -〈第6回ハバナビエンナーレ〉に日本人で初めて参加(ハバナ、キューバ)
1999年(平成11年) -〈第9回バングラデシュ・アジア・アートビエンナーレ〉(ダッカ)にて優秀賞受賞
2003年(平成15年) -〈第20回現代日本彫刻展〉宇部市野外彫刻美術館,にて次点である宇部興産賞受賞(山口県宇部市)
2005年(平成17年) -文科省先進教育研究実践支援プログラムで米国滞在
2015年(平成27年) -芸術選奨文部科学大臣賞受賞。第31回東川賞国内作家賞受賞。
展覧会歴
主な個展
1989「呼吸の陰影」ルナミ画廊(東京)
1991「Breath-Graph」ルナミ画廊(東京)
1992「Breath-Graph」細見画廊(東京)
1993「Photos-Respirations」アジャン美術館・ジャコバン(アジャン、フランス)、スパイラルガーデン(東京)
1995「光ー呼吸Photo-Respiration」ギャラリー日鉱(東京)
1996「光ー呼吸Photo-Respiration」ギャラリーGAN(東京)
1997「光ー呼吸ハバナより」ギャラリーGAN(東京)
1998「Photo-Respiration」Leslie Tonkonow Gallery(ニューヨーク)
「光ー呼吸Photo-Respiration」ニコン・サロン(東京・大阪)
1999「光ー呼吸海から」ギャラリーGAN(東京)
「光ー呼吸佐藤時啓の眼差し」酒田市美術館(山形)
2000「Photo-Respiration」Leslie Tonkonow Gallery(ニューヨーク)
2001「佐藤時啓プロジェクト」ギャラリーGAN(東京)
2002「マジカルカメラ佐藤時啓+WanderingCamera」浜田市世界こども美術館(島根)
2003「Photo-Respiration」Leslie Tonkonow Gallery(ニューヨーク)
「Photo-Respiration」クリーブランド美術館(オハイオ)
2004「Camera Obscura Project」山口情報芸術センター(山口)
「光のキャラバン」埼玉県立近代美術館(さいたま市)
2005「pin-holes」ギャラリーGAN(東京)
「pin-holes 光の間ー」山口情報芸術センター(山口)
「Tokihiro Sato: Photographic Light Panels」HAINES GALLERY(サンフランシスコ)
「"Photo-Respiration:Tokihiro Sato Photographic」シカゴ美術館(シカゴ)
「Gleaning light」Leslie Tonkonow Gallery(ニューヨーク)
2006「Tokihiro Sato-Contemporary Japanese Photography」Tai Gallery (サンタフェ)
2007「Gleaning Light」Gallery Raku(京都)
「Tokihiro Sato: Photographic Light Panels」HAINES GALLERY(サンフランシスコ)
「Tokihiro Sato」LIPF連州国際写真祭(中国広東省)
2008「光ー呼吸:yama」佐藤時啓展福島市写真美術館(福島)
2009「マジック・ランタン」東京ミルキィウェイ・百万人のキャンドルナイトSpicaアートギャラリー(東京)
「佐藤時啓撮影展光ー呼吸」1839現代画廊(台北)
「佐藤時啓撮影展光ー呼吸」丹徳力アートスペース(北京)
「佐藤時啓ーTreeー」ツアイトフォトサロン(東京)
2010 「Trees」Leslie Tonkonow Gallery(ニューヨーク) 「Trees」HAINES GALLERY(サンフランシスコ 「PRESENCE OR ABSENCE」Frist Center for the Visual Arts(ナッシュビル)個展「ツリーハウスカメラ」森のちから滞在制作(和歌山)
2011 「光ー呼吸」ルネスホールギャラリー(岡山)「リヤカーメラ」宮城県立美術館公開制作
2012 「マジックランタン」岡山芸術回廊天神MAM(岡山)「電車カメラ」岡山芸術回廊「リヤカーメラ」森のちから滞在制作(和歌山)
2014 「光ー呼吸そこにいる、そこにいない」東京都写真美術館(東京)
2015 「TSURUOKA」鶴岡アートフォーラム(山形)「Gleaning Lights」Piet Hein Eek (Netherlands)
2017〈光ー呼吸〉Micheko Gallery (ミュンヘン)
パブリックコレクション
日本国内美術館
埼玉県立近代美術館(埼玉)
いわき市立美術館(福島)
東京都写真美術館(東京)
原美術館(東京)
千葉市美術館(千葉) -「Breath graph 105」
山形美術館(山形)
東京富士美術館(東京)
国際交流基金(東京)
夕張市立美術館(北海道)
板橋区立美術館(東京)
宇都宮美術館(栃木)
山梨県立美術館(山梨)
広島市現代美術館(広島)
栃木県立美術館(栃木)
和歌山県立近代美術館(和歌山)
日本国内自治体・企業など
長野県東御市(長野)
東御市梅野記念絵画館(長野)
山口県宇部市(山口)
東川町(北海道)
日本鉱業(ジャパンエナジー)(東京)
富士ゼロックス(東京)
メルセデス・ベンツ日本(東京)
Press Kit Corporation, (東京)
海外美術館
上海美術館(上海)
"Solomon R. Guggenheim Museum(グッゲンハイム美術館), New York"
Museum of Fine Arts, Houston(ヒューストン美術館)
The Art Institute of Chicago, Chicago
"Los Angeles County Museum of Art, Los Angeles"
The Cleveland Museum of Art(クリーブランド美術館)
The Middlebury College Museum of Art, Middlebury, Vt.
Queensland Art Gallery, Brisbane, Australia
Victoria and Albert Museum
海外企業など
The Capital Group, Los Angeles
The Cleveland Clinic, Cleveland, Ohio
The School of Business, Harvard University, Cambridge, Mass.
Merrill Lynch, New York
Pfizer, Inc., New York
Progressive Corporation, Mayfield Village, Ohio
Goldman Sachs & Co., (New York,東京)
The Rand Corporation
Citigroup (Citibank)
The La Salle Bank, Chicago
Microsoft Corporation, Redmond, Wa.
Bering Securities, Ltd.
Deutsche Real Estate Consulting
Deutsche Bank(New York,東京,London)
Bank of America
JGS Foundation
Neuberger Berman, New York
Weil, Gotschal, Washington, DC
Sullivan & Cromwell, New York
The West Collection, Oaks, PA
The Capital Group Companies, Inc., Los Angeles
脚注
外部リンク
芸大研究室
20世紀日本の写真家
21世紀日本の写真家
日本の現代美術家
ライトアーティスト
東京芸術大学の教員
東京芸術大学出身の人物
山形県立酒田東高等学校出身の人物
山形県出身の人物
1957年生
存命人物 | 0.705235 |
4486437 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%B1%E9%99%BA%E5%9B%9E%E9%81%BF%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9 | 危険回避カメラ | 危険回避カメラ(きけんかいひカメラ、(Hazcams))は、NASAのスピリット、オポチュニティ、キュリオシティとパーサヴィアランスの火星ミッションローバーの前面と背面、および中国のの月ミッションローバーの前部下部に搭載された写真カメラである。
概要
キュリオシティローバーのHazcamsは、可視光に敏感で、解像度1024×1024ピクセルの白黒画像を提供。これらの画像は、ローバーの内部コンピューターが危険を自律的にナビゲートするために使用される。ローバーの両側に配置されているため、フロントカメラとリアカメラの両方で同時に撮影した画像を使用して、周囲の3Dマップを作成する。カメラは固定されている(ローバーから独立して移動することはできない)。広い視野(水平方向と垂直方向の両方で約120°)があり、広範囲の地形を見ることができる。
それらは科学実験に使用するように設計されていないため、エンジニアリングカメラと見なされ、ローバー上のエンジニアリングカメラの他のセットはNavcamである。
マーズ・サイエンス・ラボラトリーの安全な着陸は、最初に車両のHazcamsを使用して確認されました。
パーサヴィアランスのカメラは、火星の極の温度で動作し、100 °C(180 F)の温度範囲で正確に画像化することができる。
関連項目
アストロニクス
マーズ・ローバー
ナビカム
パンカム
脚注
外部リンク
ローバーの「感覚」を詳述するNASAページ
火星探査ローバーの技術データ
マーズ・エクスプロレーション・ローバー
火星探査 | 0.705049 |
296434 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9 | モーション・コントロール・カメラ | モーションコントロールカメラ()は、コンピューターによりフレーム単位で制御される主としてSFXなどに使われる合成素材を撮影するために使われる特殊な映画用カメラ、あるいはそのシステムの総称。
概要
モーションコントロール撮影は、数値制御装置の一種で、コンピュータでコントロールパルスを出力しサーボモーター(高価だが、フィードバックにより位置ずれは起こりにくい。高速回転できるので素早い動きに向いている)やステッピングモーター(比較的安価だが制御パルスにモーターが追いつかない場合等、脱調によりずれる可能性がある。ゆっくりした回転に向いており、無理に高速回転をさせようとすると脱調する)を動かし、カメラや被写体の位置をプログラムして撮影を行う。
基本的にはコンピューターでカメラのシャッター軸と移動するカメラと被写体の位置が撮影フレームごとに制御されており、何度やっても同じ場所に来るものをモーションコントロールカメラという。
世界中で使われている最も有名なモーションコントロールシステム(モーションコントロールプログラムとPCに挿入するカードとジョグボックスのみ)はクーパーコントロール社である。
カメラボディのシャッター軸制御まで及ばないものは、たとえキャメラを動かしていても、モーションコントロールカメラではなく、モーションコントロール(で動く仕掛け)と呼ぶべきである。
理由はカメラのフィルムを動かすシャッター軸と他のモーションコントロールされた部分が無関係に動けば、撮影条件を変えて何度も反復撮影しても、フレーム単位での完全に正確な位置合わせなど不可能(たとえ、頭合わせのクラッパーランプを入れたとしても)だからである。(日本の撮影現場ではC-CAMやMILO等を除いて、このスタイルが非常に多い)
モーションコントロールカメラによる撮影では、人間の手による操作と違い、動きに再現性があるため、精密な合成素材を得ることができる。たとえば、ぴったり一致する「宇宙船」と「宇宙船の輪郭を切り出したマスク」を得るなどのことが可能となる。そのため、モーションコントロールカメラの導入によって合成を前提とした映像作品のクォリティが格段にあがった。
日本の場合、たいていはその都度、要求に応じて部品から組み立てて使われる。クレーン(長いアームの先にカメラを取り付け、アームの角度やカメラの角度などを制御する)・移動車(レールに沿ってカメラが動き、その移動位置やカメラの角度などを制御する)などがある。また、カメラの側ではなく被写体の側の動きを制御することや、カメラと被写体の両方を制御することなども含まれるが、ほとんどの場合カメラのシャッター軸は制御されない。
カメラのタイプ
撮影する被写体によってモーションコントロールカメラのタイプは大きく二つに分かれる。
ミニチュア用モーションコントロールカメラ
撮影中に形を変える事のないミニチュア等を例えば1コマ当たり1秒の露光時間で撮影する。ミニチュアに熱変形等の無い低光量で、深い被写界深度を得る為に絞り込み撮影すると必然的にシャッタースピードは遅くせざるを得ないし、ゆっくり動かす事により振動などの問題からも回避する事が出来た。
このタイプには、ダイクストラフレックス、ムースフレックス、C-CAM等がある。
リアルタイムモーションコントロールカメラ
人が芝居をする中、通常のカメラのように撮影出来る。いわゆるクレーン/移動撮影がモーションコントロールで可能なもの。もちろんフレームレート(撮影コマ数)を変えて撮影し1つの画面に納める事も出来る(例えば、移動するカメラワークに人の芝居とコマ撮りアニメを合成するなど。ミニチュア用のそれと比べて早く動かす事で格段に高度な設計、組み立て技術が要求される。動きのプログラミングも従来のキーフレーム入力後、補間する方法に加えキャメラマンがエンコーダー(センサー)を内蔵した専用のパン棒を操作してリアルタイムにカメラの動きを入力できるようになっている。
このタイプには、MILO、ビスタグライドシステム等がある。
ビスタグライドシムテムはカメラにまったく同じ動きをさせる原理を利用し、同じ役者を1画面に複数登場させることを可能とした。フィルムの境目をぼかしつつ、マスク処理を施すことで自然な合成が可能であった。以前から1つの画面に同じ役者を登場させる技術はあった(1961年公開『罠にかかったパパとママ』で効果的に使用)がカメラは固定しなければならず、フォーカス送りもできず、境目も直線であった。この技術ではカメラを動かせるようになり、演出の幅が広がった。
利用
この様に高度に発達してきた技術ではあるがマッチムーブ技術が一般的になった現在、このリアルタイムモーションコントロール撮影はCG技術に取って代わる局面が圧倒的に増えてきている。
一般にモーションコントロール/モーションコントロールカメラはセットアップ、撤収、動きのプログラムに時間が掛かる為、一般撮影よりも余裕を持ったスケジュールを組まなければならない。ミニチュアなどは専門のスタジオが用意されていた。従って日本では劇映画ではあまり使用される事はなく、主に比較的予算のあるコマーシャル等に利用されている。
モーションコントロール技術は日米では大きな開きが最初からあった。『未知との遭遇』『スター・ウォーズ』に初めて開発、採用されたモーションコントロールカメラの刺激を受けて日本国内のいくつかの劇場映画作品で模倣したが、その本質まで模倣しきれずに不完全な結果に終わった。。
日本での利用実績は、1984年公開の東宝映画『さよならジュピター』に始まると言われる。ここではアマダのティーチングプレイバックロボットが流用された。
数年後にIMAGICA等のラボやアニメーションスタッフルーム、白組等が自社でモーションコントロールカメラシステムを開発し、少しずつ問題を解決していった。
ストップモーション・アニメーションは、ひとコマごとに撮影位置を決め、静止した被写体を撮影するというスタイルのものであった。これは、被写体ブレが生じないため、特に速い動きのアニメーションでは不自然な映像となってしまう。そこでシャッターが開いている時間にもカメラと被写体を動かす事が出来るモーションコントロールカメラを使うアイデアが登場した。これを「ゴー・モーション」という(『ドラゴンスレイヤー』、『ロボコップ2』等に使われている)。しかし、その効果の割に大変なセットアップの手間と被写体の全ての動きをゴーモーション化出来るわけではないので、すぐに廃れてしまった。
外部リンク
株式会社IMAGICAモーションコントロールカメラシステム「MILO」サービス終了のお知らせ-「MILO」の業務を2010年6月末日をもって終了
カメラ | 0.704965 |
71186 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9 | コンタックス | コンタックス(Contax、CONTAX )は、カメラのブランドとカメラの一つ。ドイツツァイス・イコンのレンジファインダーカメラのブランドおよびカメラならびにカール・ツァイスと日本のカメラメーカーヤシカとの共同事業として1975年に販売が開始されたカメラのブランドおよびそのカメラ。前者の用法では頭文字のみ大文字で表記され、後者の用法では全て大文字で表記される。
概要
ツァイス・イコンのブランド
このブランド名は1932年3月コンタックスI発売に際してツァイス・イコン社内の公募で1位となり定められた。ちなみに当時自動車用アクセサリーの製造も行なっており、その回転計の名称がコンタックスだったという。ツァイス・イコンの母体となった4社から少なくとも1文字を採って組み合わせたという説もあるが、竹田正一郎は「コンテッサ・ネッテル社に分が良すぎる」として否定している。
戦後ドイツ分割に伴いツァイス・イコンも分割され、コンタックス銘で西側のツァイスはレンジファインダーカメラを引き続き製造し、東側のツァイス・イコンはM42マウントの一眼レフカメラを製造した。
東西ツァイス間のブランド使用権を巡る訴訟を経て従来の商標につき東のツァイスは東側のみ、西のツァイスは西側のみでしか使用しないことで妥結した結果、東側のツァイス・イコンが製造したコンタックスは西側世界で販売される分につきペンタコンブランドに変更され、さらには全てプラクチカに変更された。西側のツァイス・イコンが製造したコンタックスは最終型であるコンタックスIIIaが1961年に製造中止になった後、ツァイス・イコンのフラッグシップは1960年に発売された一眼レフカメラのコンタレックスシリーズに引き継がれ、コンタックスは一時休眠ブランドとなった。
ヤシカ・京セラのブランドとして復活
西側のツァイス・イコンが1971年にカメラ事業を中止した後、カール・ツァイスは日本のカメラメーカーヤシカとブランド等に関するライセンス契約を締結し、以後コンタックス(CONTAX )はヤシカが製造・販売するカメラのうちカール・ツァイスブランドのレンズを採用した高級機種に付けられるブランド名となって復活した。1983年ヤシカは京セラに吸収合併され、コンタックスブランドも同社へ引き継がれた。
2004年京セラはカメラ事業を縮小し、併用していた「京セラ」ブランドのデジタルカメラを廃して「コンタックス」(CONTAX)に統一すると発表した。しかし直後の2005年に京セラはコンタックスを含むカメラ事業から撤退することとなり、4月11日には同年9月のコンタックス事業終了が発表され、コンタックスは再び休眠ブランドとなっている。アフターサポートは継続していたが、2015年4月30日の受付をもって補修サービスを終了した。
ツァイス・イコンの製品
レンジファインダーのコンタックス
ライカ判レンジファインダーカメラ。外装デザインは角型を基調とする。連綿と製造改良を続け、カメラのトップブランドの一つとしてライカに比肩するシステムを持つようになった。
ボディ
当時の新素材であるジルミン系アルミ合金ダイカストを採用し、レンズマウントを取り付けてから基準面に合わせてフィルムレールを研削する最新の工法が採用され、ゾナー5cmF1.5のような大口径レンズであっても必要充分な精度が保証されていた。シャッターは当初最高速1/1000秒、後に1/1250秒を誇る縦走り金属製フォーカルプレーン式で、シャッター幕上に強い光線が焦点を結んでも焼けて穴が開く心配がない。スリット幅を厳密にセットした状態で巻き上げ軸に巻き上げられておりシャッターボタンを押すとそのままの幅でフィルムゲート面を通過する方式で、後幕にストッパーなりガバナーなりを噛ませて制御するライカ方式と比較して正確なシャッター速度が出しやすい。縦走りを採用したのは、短辺を走ることでシャッター作動を短時間で完了させ移動している被写体の変形を少なくするため。幕は当時の新素材であり破断に強いジュラルミンに銅を少量加えアルミニウム皮膜を施して使用され、ジュラルミンでは軽すぎて充分な慣性重量が得られなかったため後に真鍮に変更された。シャッター作動時にもシャッターダイヤルが回転しないためカメラマンが触っていて設定よりスローシャッターになってしまう事故が起こらない。レンズマウントは標準レンズ用の内バヨネットとその他のレンズ用の外バヨネットの二重バヨネットであり、迅速なレンズ交換が可能である。裏蓋下側両端にあるノブを起こして回転させると裏蓋を外すことができ、フィルム装填が容易。巻上スプールは最後までボディーに固定されなかったので紛失の可能性がある。もし紛失したり購入した中古に付属しなかったりした場合は、フィルム冒頭部のカットは必要になるものの、DPE店で廃棄されている現代パトローネを分解すれば中に存在する巻戻スプールを若干小改造することで代用できる。ただしIIa/IIIa型では、スプールに挿入される巻き上げ軸の外側に板バネが付けられたため、多少の振動ではスプールが脱落しないようになった。
コンタックスI(Contax I、1932年3月発売) -発売時の名称は単にコンタックスで、コンタックスII発売に伴いコンタックスIとされた。エマヌエル・ゴルトベルク主導のもとハインツ・キュッペンベンダー博士を中心にフラッグシップ機として設計された。長大な基線長の高精度な連動距離計を持ち、テッサー2.8cmF8を除きすべての交換レンズに連動する。距離計可動鏡は精密なギアシステムにより駆動されているが、小さい体積に詰め込んだためシャッター巻き上げドラムの体積が小さくなってしまい、完全主義による複雑な設計と相まって故障発生確率を高くしている。ファインダー倍率は約0.5倍で50mmに対応する他、新品購入時に引き出し式の85mmか135mmのマスクがついて来た。距離計の視野が135mmに近いので、ファインダーマスクが85mmの個体を購入すれば3種類の焦点距離に対応できる。その外装色からブラック・コンタックスと俗称された。コンタックスはその設計コンセプトが「作画意図の高忠実再現」であり、ツァイス・イコンが持てる技術力を投入して開発し、そのため撮影結果は当時の24×36mm(ライカ)判カメラの中で最高である一方、非常に高価だった。初期型以降改良を重ね、研究者にも数えきれない程多数のバージョン違いがあり、また、コンタックスのシリアルナンバーはライカのような通し番号ではなく頭にアルファベット2文字がつきその順番が分からないこと、本社が第二次世界大戦で甚大な被害を受け資料が残っていないことから製造時期の確定が困難なこともあり、研究者により見解の相違がある。ハンス・ユルゲン・クッツは以下のI-1~I-7に分類している。
I-1型-シャッター速度はZ、1/25秒、1/50秒、1/100秒、1/200秒、1/500秒、1/1000秒。クリックストップがあるが中間シャッター速度も使用できる。距離計の鏡は可動鏡と固定半透明鏡ともに銀メッキで基線長101.7mm。
I-2型(1932年10月発売) -距離計の固定半透明鏡が金メッキとなり、これによりピントがずれている時のコントラストが高くなり見やすくなった。
I-3型(1933年6月頃発売) -従来スリット幅だけで行なっていた露光時間制御を、幕速も変更して行なうようになった。長時間グループZ、1/2秒、夜間撮影グループが1/5秒、1/10秒の2グループに別れたスローシャッターが追加され、通常撮影グループ1/25秒、1/50秒、1/100秒と高速撮影グループ1/100秒、1/200秒、1/500秒、1/1000秒の全部で4グループとなった。1/100秒が通常撮影グループと高速撮影グループの2グループに含まれているのは、よく使用する速度でありグループ変更の面倒を少しでも減らすためである。シャッター速度を決定する場合は巻き上げノブ基部にあるローレットを回して幕速=グループを決め、その後巻き上げノブを持ち上げて回し最外部に現れるスピードの場所に落とし込むことになる。
I-4型(1933年後期) -三脚取り付け金具がコンタックスIIと同様の折り畳み式となった。
I-5型(1934年中期) - ZをBと表示するようになった。ライカのパテントを避けるため「距離計外側ファインダー内側」を「距離計内側ファインダ-外側」に変更し基線長が93mmに短縮されたが、距離計が回転楔型プリズムを使用するドレーカイル(Drehkeil )式となり、精度が格段に向上した。またダイキャストが変更され、板金だったアクセサリーシューが切削加工品になっている。
I-6型(1935年初期) -無限遠ロック解除レバーが無限遠以外では下がったままになった。
I-7型(1935年後期) -シャッター最高速が1/1250秒となった。ただし本当に実在するか議論があり、1988年現在実在説が有力ではあるものの確認されていない。
これだけでも製造期間を考えると半年に一度は改良されていたことになり、また内部構造を見ると少なくとも3ヶ月に1度改良されているという。販売部門から開発部門に苦情が殺到したと言われ、あるカメラ研究家は「開発の子宮から無理に引っぱり出されたような」カメラであると評している。
短所は巻上げノブがボディ前面にあるため速写性に欠けて回しにくいこと、巻き上げ・巻き戻しがライカと比べ重いこと、またシャッター速度設定時に誤ると故障の原因になる事がある。1936年まで製造され1938年まで販売された。総生産台数約36,700台。
コンタックスII(Contax II、1936年発売) -フーベルト・ネルヴィンが主になって設計した。その外装色からクローム・コンタックスと俗称される。コンタックスIと比較すれば短くなったものの基線長38mmのライカに比して格段に精度の高い基線長89.5mm、ファインダー倍率0.7倍、有効基線長約63mmで半円型プリズムを使用するシュヴェンクカイル(Schwenkkeil )式連動距離計を組み込んだメスズハー(ドイツ語Meßsucher )ファインダーを採用し速写性に優れる。シャッター速度は初期型の約2000台がB、1/2秒、1/5秒、1/10秒、1/25秒、1/50秒、1/100秒、1/200秒、1/500秒、1/1000秒で、間もなく1/100秒の代わりに1/125秒、1/200秒の代わりに1/250秒となった。この他シャッターダイヤルにはないがBにセルフタイマーを併用することで1秒が得られる。シャッター速度全域に渡り一つのダイヤルで設定可能となり、シャッターチャージ前後を問わずシャッター速度の変更可能。セルフタイマーも装備した。これを実現するためコンタックスIと比較しても内部構造は格段に複雑になった。これは耐久性を犠牲にせず実現しており、例えば「40万回以上シャッターを切っても補修の必要がない」を品質検査基準としていた。第二次世界大戦までの間に約59,500台が生産された。巻き戻しノブはφ22mm。
イエナ・コンタックス(1947年製造) -ほぼコンタックスIIそのままで、戦後ツァイス・イコンではなくカール・ツァイス・イエナ(Carl Zeiss Jena )で製作されその銘が入っている。
アイボリー・コンタックス-通常クローム仕上げである部分がアイボリー仕上げ、黒モロッコ革張りの部分がトカゲ革張りというコンタックスIIが戦後5台製作された。1988年現在本物として認定されボディーナンバーとレンズナンバーが判明していたのは4台である。
コンタックスIII(Contax III、1936年発売) -コンタックスIIにセレン光電池式電気露出計を搭載したモデルでその他は同一仕様。電気露出計内蔵カメラとして戦前の二眼レフカメラコンタフレックスに続きわずか1年遅れ、世界で2番目の採用である。その万能性からユニバーサル・コンタックスと呼ばれる。露出計の使用法は、まず巻き戻しノブ基部にあるフィルム感度を合わせ、露光計の蓋を閉めたまま巻き戻しノブの下のダイヤルを反時計方向に回しきり、目盛が▲に合っているかを確認して露光計の蓋を開き、巻き戻しノブの基部にあるリングを回して上面のメーターの針を定点に合わせ、その時調節リングが示す絞りとシャッターを読み取ることにより測光する。巻き戻しノブがφ27mmと大径化されている。生産台数は約38,000台。
コンタックスIV(Contax IV、1936年6月特許取得、試作のみ) -セレン露出計とシャッター速度を連動させるAE機能を搭載している。
コンタックスIIa(Contax IIa ) -新生ツァイス・イコンの本拠地、西ドイツのシュトゥットガルトで製造したモデルで、戦前のコンタックスIIが機能はほぼそのままに小型化され、手を触れると不安定だったコマ数計、中指で塞ぎやすかった連動距離計窓を移動する等改良がされている。しかし基線長が74mm、倍率0.65×と測距精度が下がったことなどから「改悪品」と評する人もいる。
コンタックスIIaブラックダイヤル(1950年発売) -シャッターダイヤルの数字が前期型ではすべて黒文字で記されていたため『ブラックダイヤル』と呼ばれる。シンクロ接点は軍艦部背面にあり、発光器との同調のために専用エレクトロニックフラッシュ用No.1366、フラッシュバルブ用No.1360のアクセサリーケーブルが必要である。
コンタックスIIaカラーダイヤル(1954年発売) -後期型ではシャッター速度の1/50秒がX接点を示す黄、それより高速スピードが赤に色分けされたため『カラーダイヤル』と称される。シンクロ接点は一般的なDIN規格となった。1960年まで製造・販売された。
コンタックスIIIa(Contax IIIa ) -コンタックスIIaにセレン式電池露出計を搭載したモデルで、その他は同一仕様。
コンタックスIIIaブラックダイヤル(1951年発売) -シャッターダイヤルの数字が前期型ではすべて黒文字で記されていたため『ブラックダイヤル』と呼ばれる。シンクロ接点は軍艦部背面にあり、発光器との同調のために専用エレクトロニックフラッシュ用No.1366、フラッシュバルブ用No.1360のアクセサリーケーブルが必要である。
コンタックスIIIaカラーダイヤル(1954年発売) -後期型ではシャッター速度の1/50秒がX接点を示す黄、それより高速スピードが赤に色分けされたため『カラーダイヤル』と称される。シンクロ接点は一般的なDIN規格となった。1961年まで製造・販売された最後のツァイス・イコン製「コンタックス」である。
VK-21 -コンタックスIIa/コンタックスIIIaの後継機の試作で、市販されなかった。
VK-22 -コンタックスIIa/コンタックスIIIaの後継機の試作で、市販されなかった。
VK-27 -コンタックスIIa/コンタックスIIIaの後継機の試作で、市販されなかった。
ノーネームコンタックス(No Name Contax、1963年頃発売) -コンタックスの銘がないためこう呼ばれる。以前は「コンタックスIIを製造していたイエナの工場にて戦後ソビエト連邦占領下で製造され、コンタックスとキエフの過渡的存在」とされていたが、現在は旧ソビエト連邦で1963年頃アメリカ向けに出荷された製品であることが判明しノーネームキエフと呼ばれている。機種表示がない他はキエフ4aそのもの。ボディー底部はコンタックスIIaに酷似している。初歩的ながらシンクロ接点を装備している。
純正レンズ
戦前・戦後を通じて非常に多くの卓越した交換レンズが供給された。戦前はイエナのカール・ツアイス製、戦後は東ドイツのツァイスから供給されたいくつかを除き西ドイツのオーバーコッヘン工場製である。戦前型と戦後型でマウント互換性はあるが、戦後型ボディーでは距離計の基線長が72mmに短くなったため18cmの直接マウント式レンズはピント精度が足らず使用できず、またシャッターユニット小型化のためレンズ尾部の大きい旧ビオゴン3.5cmF2.8は干渉し装着できない。また戦前型ボディーと戦後型ボディーでは距離計の焦点調節ギアの回転方向が逆になり、右へ回すと無限遠に移動するように変更され二重像の見かけの移動も逆になった。アタッチメントはφ40.5mmねじ込みが基本サイズである。日沖宗弘はビオゴン21mmF4.5について「開放から相当シャープで少し絞るとクリアーでたいへんシャープな描写をする。色再現もよい。」、戦後のビオゴン35mmF2.8について「よりナチュラルな、すっきりした描写力を持ち、画面内での奥行感・空気感ではプラナーを凌ぐといってよい」「ボケ味も柔らかく素直だからどんな状況でも安心して使える」、プラナー35mmF3.5について「開放からコントラスト、シャープネスともにハイレヴェルで、時によってはうっとうしいくらい彫りの深い写り方をする。特筆すべきは木立の茂みや木の葉の描写で、樹木がより元気に、生き生きと写る。」、ゾナー85mmF2について「開放付近からかなり解像力があり、一段絞るとたいへんシャープになる、しかし研ぎすまされた感じはなく、穏やかさを失わない。ゾナーというよりはプラナーという感じの写りで、ボケがたいへん美しい。世界中の85ミリ級レンズの中でも傑作の一つかもしれない。最近のプラナーほど華やかすぎるところがなく、ひかえめであるのがさすが。」ゾナ-135mmF4について「開放付近ではややソフトだが、ポートレートには使えるソフトさだ。二段ほど絞ると鋭さが出てくる。描写には癖が少なく、シャープでコントラストが高いが素直である」と高く評価している。
コンタックスI時代はニッケル仕上げで「カール・ツァイス・イエナ」(Carl Zeiss Jena )銘。
テッサー2.8cmF8(1933年発売) -距離計非連動。
ビオター4cmF2(1933年発売) - 4群6枚。実焦点距離42.5mm。「4 1/4cm」標記の製品もある。
ゾナー5cmF1.5(1932年発売) -発売当時から長らく世界最高速でありつづけ、ライバルであったエルンスト・ライツ(現ライカ)が同スペックのズマリット50mmF1.5を出すのは10年以上後になった。3群7枚。アタッチメント初期はφ42mmカブセ、後φ40.5mmねじ込み。
ゾナー5cmF2(1932年発売) -固定鏡胴。アタッチメント初期はφ42mmカブセ、後φ40.5mmねじ込み。
テッサー5cmF2.8(1932年発売) -沈胴式。3群4枚。
テッサー5cmF3.5(1932年発売) -沈胴式。3群4枚。
ゾナー8.5cmF2(1933年発売) - 3群6枚。アタッチメントはφ49mmねじ込み。
トリオター8.5cmF4(1932年発売) - 3群3枚。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
ゾナー13.5cmF4(1932年発売) -戦前製は凄まじく重量がある。3群4枚。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
テレテッサーK18cmF6.3(1933年発売) -直接マウント方式で生産された。3群4枚。
テレテッサーK30cmF8(1934年発売) - 3群4枚。
フェルンオブジェクティブ50cmF8(1934年発売) -フレクトスコープを併用する。1群2枚。
コンタックスII時代以降はクローム仕上げで「カール・ツァイス・イエナ」(Carl Zeiss Jena )銘、コートされたものは「カール・ツァイス・イエナT」(Carl Zeiss Jena T )銘。一部のレンズは同スペックのまま光学系が変更された。
テッサー2.8cmF8 -戦前のみの生産。距離計非連動。
ビオゴン3.5cmF2.8(1937年発売) -ルートヴィッヒ・ベルテレ設計。戦前発売されたビオゴンはビオゴン銘ではあるがレンズ構成はいわゆるビオゴン型ではなくゾナー型4群6枚。後玉が大きくコンタックスIIa/コンタックスIIIaには使用できない。明るく周辺まで画質が優れているが、歪曲収差が大きい欠点がある。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
ヘラー3.5cmF3.5(1938年発売) -ジルヴェスター・フーバー設計。元来はビオゴン3.5cmF2.8の普及版として企画されたという。試作のみとも500-1000本の生産とも言われる珍品。2群5枚。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
オルソメター3.5cmF4.5(1937年発売) - 4群6枚。
ステレオターC3.5cmF4(1940年発売) -ステレオ写真用レンズ。
ビオター4cmF2 -実焦点距離42.5mm。「4 1/4cm」標記の製品もある。
ゾナー5cmF1.5 -アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
ゾナー5cmF2 -沈胴式になった。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
テッサー5cmF2.8 -沈胴式。
テッサー5cmF3.5 -沈胴式。
ゾナー8.5cmF2 -その大きさ太さから当時「樽」と俗称された。アタッチメントはφ49mmねじ込み。
トリオター8.5cmF4 - 3群3枚。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
ゾナー13.5cmF4 -戦前製は凄まじく重量がある。3群4枚。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
ゾナー18cmF2.8(1936年発売) -コンタックスIIとともにベルリンオリンピックに合わせ、ドイツ民族とその産業があらゆる分野で卓越していることを示そうとしてアドルフ・ヒトラーから開発するよう圧力があったと言われオリンピア・ゾナーと俗称される。ベルリンオリンピックの記録映画「美の祭典」を撮影したレニ・リーフェンシュタールは後に「ツァイスが開発した新型レンズが強力な武器になった」と語っている。最初期型は距離計連動式で300台を越えないと想像されている。1938年に倒立逆像の「フレクトスコープ」というミラーボックス併用となり、その後「フレクトスコープ」が正立逆像に改良された。
テレテッサーK18cmF6.3 -直接マウント方式。
ゾナー30cmF4(1940年発売) -フレクトスコープを併用する。3群5枚。
フェルンオブジェクティブ50cmF8 -フレクトスコープを併用する。
戦後すぐは西ドイツカール・ツァイスのレンズ製造能力が充分でなく、東ドイツのツァイスからレンズが供給され、戦後しばらくは東西ドイツ間で交流があった証左とされる。西側の生産体制が整うに連れ順次切り替えたものの、135mmより長いレンズはその後もずっとイエナ製だった。
トポゴン25mmF4(1950年発売) -トポゴン型4群4枚。このレンズに合わせ西ドイツのツァイスはビオゴン21mmF4.5を出すまでそのファインダーターレットに25mmを入れていた。コンタックスIには使用できない。距離計非連動。
ビオゴン3.5cmF2.8 -ビオゴン銘ではあるがレンズ構成はいわゆるビオゴン型ではなくゾナー型。後玉が大きくコンタックスIIa/コンタックスIIIaには使用できない。明るく周辺まで画質が優れている一方、歪曲収差が大きい欠点がある。後にデッドコピーとして旧ソビエト連邦製ジュピター12(Jupiter-12 )が多数製造された。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
ビオメター35mmF2.8(1950年発売) -ハリー・ツェルナー設計。4群5枚。コンタックスIIa/コンタックスIIIaにも使用できる。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
ゾナー5cmF1.5 -アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。後にデッドコピーとして旧ソビエト連邦製ジュピター3(Jupiter-3 )が多数製造された。初期のニッコール5cmF1.5も同様のデッドコピーである。
ゾナー5cmF2 -沈胴式。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。後にデッドコピーとして旧ソビエト連邦製ジュピター8(Jupiter-8 )が多数製造された。
テッサー5cmF2.8 -沈胴式。
テッサー5cmF3.5 -沈胴式。
ビオター75mmF1.5(1951年発売) - 4群6枚。
ゾナー8.5cmF2 -後にデッドコピーとして旧ソビエト連邦製ジュピター9(Jupiter-9 )が多数製造された。アタッチメントはφ49mmねじ込み。
トリオター8.5cmF4 - 3群3枚。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
ゾナー13.5cmF4 -後にデッドコピーとして旧ソビエト連邦製ジュピター11(Jupiter-11 )が多数製造された。3群4枚。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
ゾナー18cmF2.8
ゾナー30cmF4 -フレクトスコープを併用する。
フェルンオブジェクティブ50cmF8 -フレクトスコープを併用する。
戦後西ドイツでは「ツァイス・オプトンT」(Zeiss Opton T )銘で、コートが当然になったのか後には「ツァイス・オプトン」(Zeiss Opton )銘となった。
ビオゴン21mmF4.5(1954年発売) -ルートヴィッヒ・ベルテレ設計。5群8枚。最短撮影距離0.9m。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
ビオゴン35mmF2.8(1950年発売) -戦後西ドイツで生産された。いわゆるビオゴン型4群7枚のレンズ構成。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。コンタックスIIa/コンタックスIIIaにも使用できる。
プラナー35mmF3.5(1954年発売) -アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。コンタックスIIa/コンタックスIIIaにも使用できる。当時はビオゴン35mmF2.8の普及版という設定であり、性能は互角である。
ゾナー50mmF1.5(1950年発売) -アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
ゾナー50mmF2(1950年発売) -非沈胴式になった。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
テッサー50mmF3.5(1954年発売) -非沈胴式になった。3群4枚。
ゾナー85mmF2(1950年発売) - 3群7枚(1950年発売)。アタッチメントはφ49mmねじ込み。
トリオター85mmF4(1950年発売) - 3群3枚。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
ゾナー135mmF4 -アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
さらに後には「カール・ツァイス」(Carl Zeiss )銘で生産された。
ビオゴン21mmF4.5 -ルートヴィッヒ・ベルテレ設計。5群8枚。最短撮影距離0.9m。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
ビオゴン35mmF2.8 -いわゆるビオゴン型のレンズ構成。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
プラナー35mmF3.5 -アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。コンタックスIIa/コンタックスIIIaにも使用できる。当時はビオゴン35mmF2.8の普及版という設定であり、性能は互角である。
ステレオターC35mmF3.5(1952年発売) -戦後に生産されたステレオ写真用レンズ。
ゾナー50mmF1.5 -アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
ゾナー50mmF2 -非沈胴式。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。
テッサー50mmF3.5 -非沈胴式。
テッサー115mmF3.5 -パンフレックスを併用する。
ゾナー180mmF2.8 - 1950年代初めレンズの設計が変更されるとともに正立正像でスプリットイメージを持つ「フレクトメーター」というミラーボックス併用となった。フレクトメーターマウントの製品は適当なアダプターにより他のカメラにも転用できるようになっている。
非純正レンズ
ここに挙げた他、キエフ(カメラ)#レンジファインダーカメラ用レンズはキエフV内爪マウント用を除き互換性があるとされている。また広角レンズに関しては被写界深度が深いためニコンSマウント用を流用できる。ニコンSマウントレンズの一覧やコシナ・フォクトレンダーのカメラ製品一覧#SC&Sレンズ参照のこと。
キヤノン28mmF3.5(1950年代中盤発売) -キヤノン製。アタッチメントはφ40mmねじ込み。
タイプX1 35mmF3.5 -アンジェニュー製。3群4枚。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。最短撮影距離1m。
マクロプラズマート35mmF2.7(1934年発売) -メイヤー製。
ソリゴール35mmF2.8 -ミランダカメラ製。
ミノール35mmF3.5 -オールドデルフト製。
ズノー50mmF1.1(1953年発売) -ズノー光学工業製。
フジノン5cmF1.2(1954年発売) -富士写真フイルム(現富士フイルム)製。
ズノー50mmF1.3
ノクトン50mmF1.5(1955年頃発売?) -フォクトレンダー製。「コンタックスIIaの後継機として1955年頃試作されたVK-22に装着されている写真があり、VK-27の標準レンズとしても装着されていたことがありその後わずかな数が市販されたという説があり、中古市場でも特別扱いされず流通している。
プリモプラン5cmF1.5 -メイヤー製。
プリモプラン5cmF1.9(1935年発売) -メイヤー製。
ヘリゴン50mmF2 -ローデンシュトック製。
ウルトロン50mmF2(1950年発売) -フォクトレンダー製。
マクロ・プラズマート5cmF2.7 -メイヤー製。
メオプタ53mmF1.8 -メオプタ製。
キノ・プラズマート75mmF1.5(1934年発売) -メイヤー製。
コムラー80mmF1.8(1957年発売) -三協光機製。
ニッコールS8.5cmF1.5(1951年発売) -日本光学工業(現ニコン)製。ゾナー型3群7枚。最短撮影距離1m。アタッチメントはφ60mmねじ込み。
ニッコールP8.5cmF2(1948年発売) -日本光学工業(現ニコン)製。ゾナー型3群5枚。アタッチメントはφ48mmねじ込み。最短撮影距離1m。ピントリングに「C」のマークが入っていることでニコンSマウントと区別されている。
デフィネクス89mmF3.5 -ロッス製。
タイプY1 90mmF2.5 -アンジェニュー製。
フロール90mmF3.5 -ベルチオ光学機械社製。
キヤノン100mmF3.5(1950年代中盤発売) -キヤノン製。
ニッコールP10.5cmF2.5(1954年発売) -日本光学工業(現ニコン)製。ゾナー型3群5枚。アタッチメントはφ52mmねじ込み。最短撮影距離1.2m。ピントリングに「C」のマークが入っていることでニコンSマウントと区別されている。
トリオプラン105mmF2.8 -メイヤー製。
コムラー105mmF2.8 -三協光機製。
パン・タッカー125mmF2.3 -アストロ・ベルリン製。
キヤノン135mmF3.5(1950年代中盤発売) -キヤノン製。
ニッコールQ13.5cm/135mmF3.5(1950年3月発売) -日本光学工業(現ニコン)製。ニッコールQ13.5cmF4を改良したゾナー型3群4枚。アタッチメントはφ43mmねじ込み。最短撮影距離1.5m。ピントリングに「C」のマークが入っていることでニコンSマウントと区別されている。三脚座がある。
オイリゴン13.5cmF3.5 -ローデンシュトック製。
テレタナー135mmF3.5 -田中光学製。
ニッコールQ13.5cmF4(1947年発売) -日本光学工業(現ニコン)製。ゾナー型3群4枚。アタッチメントはφ40.5mmねじ込み。最短撮影距離1.5m。ピントリングに「C」のマークが入っていることでニコンSマウントと区別されている。三脚座はない。
オイリゴン135mmF3.5 -ローデンシュトック製。
オイリナー13.5cmF4 -ローデンシュトック製。
ピエスケール135mmF4 -アストロ・ベルリン製。
テレ・オブジェクティフ145mmF4.5 -メイヤー製。
オイリナー150mmF3.5 -ローデンシュトック製。
テレ・メゴール150mmF5.5 -メイヤー製。
ドグマー18cmF4.5 -ゲルツ製。
テレ・クセナー180mmF5.5 -シュナイダー・クロイツナッハ製。
デルファー400mmF5.6 -オールドデルフト製ミラーレンズ。
一眼レフカメラのコンタックス/ペンタコンシリーズ
東ドイツのツァイスイコンが発売した、135フィルムを使用する24×36mm(ライカ)判一眼レフカメラ。東西ツァイス間の訴訟を経て、従来の商標につき東のツァイスは東側のみ、西のツァイスは西側のみでしか使用しないことで妥結し、この結果として東側のツァイス・イコンが製造したコンタックスは西側世界で販売される分につきペンタコンブランドを使用することとなり、さらに後にプラクチカ(PRAKTICA )と名称を変更し、東西ドイツ併合後はシュナイダー・クロイツナッハが販売を引き継いだ。
ボディ
ジンタックス(Syntax、1938年モックアップ作成、1940年試作品完成) -コンタックスIIから基本設計を流用し、フーベルト・ネルヴィンが主になって1936年から開発された。1940年9月2日ドイツで実用新案登録され、1941年9月1日ドイツ占領下のフランスで特許出願され1942年6月29日交付されている。ペンタプリズムを備え、正立正像アイレベルファインダー、バヨネットマウント、セレン式露出計、金属幕シャッターと最新鋭の技術を盛り込んだ製品だった。レンズはゾナー85mmF2が用意された。ペンタプリズムは上側シャッタードラムとの干渉を防ぐため前のめりに設置されている。正立正像のアイレベルファインダーを装備した一眼レフカメラとしてデュフレックスより開発自体は先行していたが、戦争激化により開発は中止された。この試作品は戦後ソヴィエトに没収され、終戦直後のある時ソヴィエト軍兵士がドレスデンのツァイス・イコン工場に修理のため持参したが、応対に出た社員がその歴史的価値を知らず修理を断って返却してしまい、そのまま行方不明になっている。
コンタックスS(Contax S、1945年8月11日第一次図面完成、1946年9月完全動作の試作品完成、1949年発売) -戦後ツァイス・イコンの設計部長となったウィルヘルム・ヴィンツェンブルク(Wilhelm Winzenburg )が中心となって設計した。コンタックスブランドで初めて市販された一眼レフカメラ。ペンタプリズムを採用した量産一眼レフカメラとして世界初。レンズマウントにはパウル・ヒルマン(Paul Hillmann )の主張によりM42マウントが採用された。縦走りシャッターでは上側シャッタードラムとペンタプリズムやミラーとの干渉が問題になることから、1943年ジンタックスの開発チームに加わったジークフリート・ベーム(Siegfried Boehm )により横走り布幕シャッターが採用された。
コンタックスD(Contax D、1952年発売)/ペンタコンD(Pentacon D、1952年発売) -コンタックスSの後継機でシャッターが改良されている。東西のツアイスが商標権で争い、結果として西側に販売される分についてはペンタコンを名乗ることになったが内容は同一。コンタックスFBMより後はプラクチカシリーズに統合された。
コンタックスE(Contax E、1956年発売)/ペンタコンE(Pentacon E、1956年発売) -コンタックスDに露出計を装備した派生型。
コンタックスF(Contax F、1956年発売)/ペンタコンF(Pentacon F、1956年発売) -コンタックスDの後継機で、スプリング絞りを採用している。シャッター速度が倍数系列となった。
コンタックスFB(Contax FB、1957年)/ペンタコンFB(Pentacon FB、1957年発売) -コンタックスFに露出計を装備した派生型。
コンタックスFM(Contax FM、1957年発売)/ペンタコンFM(Pentacon FM、1957年発売) -コンタックスFにスプリットイメージスクリーンを採用した派生型。東ドイツのカメラ生産がKWに集中され、コンタックスもこの機種からKW製となった。
コンタックスFBM(Contax FBM、1957年発売)/ペンタコンFBM(Pentacon FBM、1957年発売) -コンタックスFMに露出計を装備した派生型。
レンズ
試作に終わったジンタックスを除きM42マウントであるため世界中のレンズが使える。
ヤシカ・京セラの製品
1972年コンタレックスシリーズのスーパーエレクトリックを最後にツァイス・イコンがカメラ生産を打ち切った後、レンズを供給していたカール・ツァイスは新しい供給先を探していた。1972年6月に旭光学工業(現リコーイメージング)とカール・ツァイスが合弁でペンタックス・カール・ツァイスを設立し眼鏡事業を推進する旨発表している一方、この頃カール・ツァイスから旭光学にカメラ事業でも提携の提案があった。旭光学は社内でペンタックスとコンタックスのブランドが衝突することを恐れて断わったが、この時の名残として幻のペンタックス・コンタックスマウントはペンタックスKマウントとなり、ディスタゴン15mmF3.5の光学系はタクマー15mmF3.5に使用されている。カール・ツァイスは1974年にヤシカと提携してコンタックスRTSを発売し、コンタックスは復活した。正式名称は単にコンタックス(CONTAX )だがツアイス・イコンのコンタックス(Contax )と区別するためヤシカ・コンタックスと通称され、さらにしばしばヤシコン、Y/Cと略称される。1983年ヤシカは京セラの傘下となり、マニュアルフォーカス・オートフォーカス一眼レフカメラやオートフォーカスレンジファインダーカメラを製造し、京セラ・コンタックスと通称される。2005年京セラはコンタックス事業の終了を発表した。2020年現在コンタックスブランドは使用されていない。
コンタックス・ヤシカマウントカメラ
ボディ
コンタックスRTSを始めとする、いわゆるコンタックスマウントを採用したライカ判マニュアルフォーカス一眼レフカメラをここに分類する。
コンタックスRTS(1975年11月発売) -新生コンタックス初の一眼レフカメラでフラッグシップ機。ボディをヤシカが、レンズ設計をカール・ツァイスが、レンズ製造をヤシカとカール・ツァイス、ボディデザインをポルシェデザインの三社がそれぞれ担当した。ボディーのベースモデルはヤシカエレクトロAXでありヤシカFR-Iと姉妹機である。RTSとはリアルタイムシステム(Real Time System)の略で、電源スイッチを持たずストローク0.7mmのシャッターボタンを押せば即座にシャッターが切れる造りで「フェザータッチ」と称され、賛否両論をもたらした。ツァイスレンズは高い評価を受けた一方、内部の複雑な電子機構は稼動の不安定要因となり脆弱との評もある。故障の多くは巻き上げられなくなる、ミラーが引っかかる、シャッターが切れなくなる、というもので、これはカメラ底部にある電磁レリーズを有効にする電気接点をセットするカムが作動不良を起こすためである。このカムが設置されている三脚のメネジを保持する鉄板がオートワインダーや重量のあるレンズによって曲がるためにカムが噛みこんで故障する。故障を避けるためには三脚ネジを使用しないことが推奨される。ポルシェデザインのフォルムは当時の国産一眼レフカメラとは異なった趣で、バウハウス以来のドイツ工業デザイン的である。先幕後幕同位置スタート方式という横走行布幕フォーカルプレーンシャッター故にフラッシュ同調1/60秒に留まる。電磁レリーズを採用し、シャッターレリーズの位置が自由に設定できるようになりモータードライブやリモートコントロール等の連動も自由となった。ワインダーにより高速連写可能。コンタックスRTS IIクォーツ発売後はコンタックスRTS Iとも通称された。秒速5コマのモータードライブPMD、秒速2コマのワインダーRTW、グリップ型フラッシュのRTF540、クリップオンフラッシュのTLA30やTLA20、250枚撮りフィルムバック等のオプションが用意された。
コンタックス139クォーツ(1979年4月発売) - 1978年のフォトキナでコンタックス137MDクォーツと同時に発表された。シャッター速度1/1000秒とスペックダウンされているが、シャッター速度とタイマー動作がクォーツ制御化され精度が上がっている。水晶発振でシャッター速度を制御するカメラとして世界初であり、国立科学博物館入りを果たしている。AEロック、電子セルフタイマーが装備された。またシャッター速度に無理がないのか耐久性は高く、小さくかわいらしいことと携行性の良さから人気が高い。ヤシカFX-Dクォーツは姉妹機。
コンタックス137MDクォーツ(1980年5月発売) -フォトキナ発表はコンタックス139クォーツと同時だったが発売はほぼ1年遅れた。コンタックスRTSと変わらない大きさのボディーに秒速2コマのワインダーが組み込まれ、巻き上げの自動化が行われた。絞り優先AE専用機。
コンタックスプレビュー(1982年4月発売) -コンタックスRTSと共通マウントのインスタントカメラ(ポラロイドフィルム対応)。シャッター速度はB、X、1-1/1000秒。X接点は1/125秒以下で同調。一眼レフカメラを使うのとほぼ同一条件で試写ができるためプロカメラマンに重宝され、ニコンFマウントに改造して使用する人もいた。撮影される画面の大きさは24mm×36mm。
コンタックスRTS IIクォーツ(1982年4月発売) -性能・外観をコンタックスRTSから引継ぎながら精度・信頼性向上のため電気部分をフレキシブル基板化。シャッター素材を布からチタン幕に変更しコンタックス139クォーツ同様に水晶発振制御やAEロックを導入した。横走行式シャッター故にフラッシュ同調は1/60秒に留まる。電源スイッチ、アイピースシャッターが付き、セルフタイマーは電子化された。ワインダーにより高速連写可能。緊急時(寒冷地での電池切れなど)所定の動作を行うことによって1/60秒の機械式シャッターが使える。
コンタックス137MAクォーツ(1982年10月発売) -ユーザーの声に応え、コンタックス137MDクォーツにマニュアル露出を追加した。また665g→610gに軽量化され、ワインダー機能も秒3コマにスピードアップしている。
コンタックスAF一眼レフカメラ(1982年発表、市販なし) -コンタックス137MDクォーツを元に試作されたオートフォーカス機。スリット式パターンミラーとサブミラーでミラーボックス底にあるハネウェル製TCL素子に光を送って測距、グリップに内蔵されたコンピューターにより演算、フォーカス制御モーターをカメラボディ側に搭載し、レンズマウント部からシャフトを介して専用レンズのヘリコイドを制御する。試作された専用レンズは35mmF2.8、50mmF1.7、135mmF2.8があった。
コンタックス159MM(1985年2月発売) -外付けのオプションワインダーW-7が用意されたが手動巻き上げも可能。シャッター速度は60-1/4000秒、X接点同調1/250秒。対応するMMレンズを使用するとプログラム、シャッター速度優先AEが可能になるマルチモード機。旧来のAEレンズを使用した場合は絞り優先AE、マニュアル露出のみとなる。
コンタックス167MT(1987年発売) -世界で初めて自動多段階露出機能(Automatic Bracketing Control、略称ABC機構)を搭載し、性能は以後のコンタックス中堅機と比肩できるモデル。シャッター速度調整はスライドスイッチである。ファインダー視野率は95%。コンタックスRTS II製造終了からコンタックスRTS III製造開始までは、唯一のコンタックスブランドの一眼レフカメラだった。フィルム巻戻もモーターで行うようになったため巻戻クランクが廃止されている。
コンタックスRTS III(1990年発売) -秒間5コマ連写のモータードライブを一体化、フィルムを圧板に吸着させ平面性を確保するRTVシステム、プレフラッシュTTLスポット測光、コマ間デート表示など各種の最新技術を導入した新設計でコンタックスRTS/コンタックスRTS IIと機構やサイズなどは大きく異なり、視野率も92%から100%に、外装素材にマグネシウムやチタンを採用し、最高速シャッター速度も1/2000秒から1/8000秒に引き上げられた。難点はファインダー倍率の低さから来るピンボケ乱造であり後に個人によって最初のマグニファイングアイピースのMagP1.1倍が開発された。フォーカシングスクリーンのTalbergもこのカメラを使うには必須アイテムである。
コンタックスS2(1992年9月発売) -機械式縦走りシャッターを搭載したマニュアル露出制御専用カメラ。名称は1949年に発売された旧シリーズコンタックスSに由来するが、「機械式シャッター」「135フィルムを使用し24×36mm(ライカ)判」「一眼レフカメラ」以外にほとんど共通点はない。このシリーズの他のカメラと異なり、他社の多くのカメラのようにシャッター速度設定ダイアルが右手側に設置されている。チタン外装を採用、外装がチタンカラーでスポット測光。シャッターはコパルの縦走り式でそれまでのこのシリーズのイメージとは程遠いシャッター音、シャッターショックを発する。巻き上げレバーは分割巻き上げができない。ワインダーの設定はない。純正で中央部重点平均測光に改造された個体がある。
コンタックスS2b(1993年10月発売) -コンタックスS2の外装をブラックとし、中央部重点平均測光にした製品。他の仕様はS2と同様。
コンタックスST(1992年10月発売) -暗いところで液晶部分が点灯するイルミネーション機能搭載。外付けの縦位置レリーズ付きバッテリーケースもラインナップされていた。他の中級機と違いコンタックス167MTから引き継いだメタルフォーカルプレーンシャッターを採用しているためシャッター音は大きめである。シャッター最高速度1/6000秒。フラッグシップ機で重厚長大なコンタックスRTS IIIと別路線をゆく、コンパクトな高級機。
コンタックスRX(1994年発売) -コンタックスSTにフォーカスエイド機構を加え、価格は大幅に下回り割安感があった機種。オートフォーカス移行への実験機的性格が強い。このモデルを基本にコンタックスAXが設計された。シャッター最高速1/4000秒。信頼性が上がったもののコンタックスSTほどの好評は得られなかった。
コンタックスRX II(2002年発売) -コンタックスRXの部品が払底したため製造されたマイナーチェンジ機種。ファインダーが明るくなったがフォーカスエイド機構が省略された。
コンタックスAX(1996年4月発売) -オートフォーカス一眼レフカメラ。レンズ系を駆動するのではなくフィルム面を前後させることによるフォーカシングを何よりの特徴とする。マミヤシックス等、前例・類例が無いわけでもないが、珍しい機構である。また、マミヤシックスではフィルム面の平面性について指摘があったのに対し、AXはフィルム軸ごと移動するためその点は解決されている。駆動は超音波モーターにより静粛であり、フィルム面は最大10mm移動する。従来のレンズをそのままにオートフォーカスを実現、装着レンズのヘリコイドを繰り出すことでレンズ単体の最短撮影距離を上回る接写も可能、マウントアダプターによって他種のレンズを利用してもオートフォーカスが可能、といった利点はあるものの、当時のレンズにおいて既に当然のように使われていたフローティング(撮影距離の調節に対応して一部のエレメントの位置を微調整し、無限遠だけではなく、特に近接時の収差を最適化する機構。特に一眼レフで広角のために使われる逆望遠方式には多い)に対応できないという弱点は、発売当時のカメラとして疑問点とされた。発表直前にカメラ雑誌で「現時点の一眼レフでそういう(注:バックフォーカシング方式を採用する)可能性のないことは、ちょっと考えれば明らかである。」と書かれている。「辞書のようだ」と評された極端なボディの厚みなども難点である。「AX」という名称はヤシカ時代のオートフォーカス一眼レフカメラの開発コードが由来で、ヤシカAXは後に京セラ230AFに姿を変えて発売された。これらの問題はあったもののことAF精度においては他社製カメラを大きく上回る合焦精度を有していたことはあまり知られていない。また発売最後期において機構が改良され合焦速度が大幅に向上したこともあまり知られていない。
コンタックスアリア(1998年発売) -入門機的存在でヤシカ・コンタックスシリーズの最終機種。誰もが使いやすいようにマルチモードAEを採用し、絞り値、シャッター速度などの撮影データを記録することができるデータバックをオプションで用意していた。コンタックス167MTの操作レイアウトを改善し、多重露出を加えコンタックスのマニュアルフォーカス機としては唯一評価測光を採用している。軽量を重視して外装にプラスチックを多用、メインフレームすら非金属化され460gとなった。このため扱いやすい反面、重量の嵩むレンズを装着すると重心が偏るため、本機販売に際して軽量レンズ2本が同時発売された。
AEレンズ
当初からのシリーズである。1975年のラインアップは17本。プログラムAE/シャッター速度優先AEには対応しない。MMシリーズレンズが主力となってからも特殊レンズに関しては生産が継続された。
F-ディスタゴン16mmF2.8AE(1975年発売) -対角線魚眼レンズ。7群8枚。最短撮影距離0.3m。フィルターは4種内蔵。
ディスタゴン15mmF3.5AE(1975年発売) - 12群13枚。近距離補正機構を備え最短撮影距離0.16m。フィルターは4種内蔵。
ディスタゴン18mmF4AE(1975年発売) - 9群10枚。近距離補正機構を備え最短撮影距離0.3m。アタッチメントは70-86リングを併用しφ86mmねじ込み。
ディスタゴン25mmF2.8AE(1975年発売) - 7群8枚。最短撮影距離0.25m。アタッチメントはφ55mmねじ込み。レトロフォーカス型としては歪曲収差が少なく画面周辺まで良好な画質を保つ。
ディスタゴン28mmF2AE(1975年発売) - 8群9枚。近距離補正機構を備え最短撮影距離0.24m。アタッチメントはφ55mmねじ込み。
ディスタゴン28mmF2.8AE(1978年発売) - 7群7枚。最短撮影距離0.25m。アタッチメントはφ55mmねじ込み。
ディスタゴン35mmF1.4AE(1972年発表、1975年発売) -第6枚目の第1面に当時としては珍しい研削非球面レンズを導入した、8群9枚構成。近距離補正機構を備え近接撮影でも画質低下を押さえている。最短撮影距離0.3m。アタッチメントはφ67mmねじ込み。日沖宗弘は「F2.8あたりからかなりの鮮鋭度を発揮し、コントラストもきわめて良好」と高く評価している。ただし、プラナー85mmF1.4AEとほぼ同じ大きさのレンズである。
ディスタゴン35mmF2.8AE(1975年発売) - 6群6枚。最短撮影距離0.4m。アタッチメントはφ55mmねじ込み。日沖宗弘は「性能の割に安価。人物描写に意外な実力を発揮する。」と高く評価している。
テッサー45mmF2.8AE(1982年発売) - 3群4枚。最短撮影距離0.6m。アタッチメントはφ49mmねじ込みまたは49-55リングを併用しφ55mmねじ込み。早々に製造中止されたが後に人気が出てMMシリーズで再生産されるまで高値を呼んだ。実写では焦点移動が激しいので熟練を要する。
プラナー50mmF1.4AE(1975年発売) - 6群7枚。最短撮影距離0.45m。アタッチメントはφ55mmねじ込み。現行当時最高の標準レンズ(カメラ毎日)と評価された。6枚角型絞り。日本製。初期物とMMJの重さの違いが取りざたされたことで有名だが実際は鏡胴構造の違いによるもの。鉛の含有量によるというのは信憑性が無い。
プラナー50mmF1.7AE(1979年発売) -通常このクラスの普及レンズは6枚構成であるが、このレンズは6群7枚構成で贅沢な設計。最短撮影距離0.6m。アタッチメントはφ55mmねじ込み。
S-プラナー60mmF2.8AE(1978年発売) - 4群6枚。最短撮影距離0.24m。アタッチメントはφ67mmねじ込み。内面反射を抑えるためレンズ後部からマウント部にかけて非常に複雑な構造を持っていた。最大撮影倍率は等倍。西ドイツ製。日沖宗弘は「世界の最先端をゆくドイツ光学技術が生んだ現代の傑作の一つ」と絶賛している。
マクロプラナー60mmF2.8AE - 4群6枚。最短撮影距離0.24m(等倍)。アタッチメントはφ67mmねじ込み。S-プラナー60mmF2.8の製造が日本に移管されるとともに名称変更された。遠景の描写も極めてシャープで美しい。
プラナー85mmF1.2AE(1982年限定発売) -コンタックス発売50周年の記念で限定販売された。近距離補正機構を備える。アタッチメントはφ77mmねじ込み。
プラナー85mmF1.4AE(1975年発売) - 5群6枚。最短撮影距離1m。アタッチメントはφ67mmねじ込み。コンタレックス用とはレンズ構成が異なる。絞り枚数は増やされている。発売当初(前期型)は西ドイツ製で、絞りの形状がF5.6まで風車型をしていた。後に日本国内生産(後期型)に移管したときに絞りの形状が改善された。絞り開放だと甘く合焦しづらい上に、絞り値の変化に起因する焦点移動が激しく、撮影には熟練が必要とされた。
ゾナー85mmF2.8AE(1975年発売) - 4群5枚。最短撮影距離1m。アタッチメントはφ55mmねじ込み。日沖宗弘は「開放からクセがなく素直でシャープな描写。もちろん色再現も良い。CPが高い。」と高く評価している。
プラナー100mmF2AE(1980年発表) - 5群6枚。最短撮影距離1m。アタッチメントはφ67mmねじ込み。
マクロプラナー100mmF2.8AE - 7群7枚。最短撮影距離0.41m(等倍)。アタッチメントはφ67mmねじ込み。Sプラナー100mmF4の後継。ベローズ仕様ではない一般的なヘリカル・マクロ・レンズ仕様で、自動絞りも装備する。前期型は西ドイツ製で、後に日本製になった。前期型、後期型共に、絞り値の刻印色入れタイプであり、マクロプラナー60mmF2.8C MMの簡略化とは異なった路線で有る。
ゾナー100mmF3.5AE(1982年発売) - 4群5枚。最短撮影距離1m。アタッチメントはφ55mmねじ込み。日沖宗弘は「開放からクセがなく素直でシャープな描写。もちろん色再現も良い。CPが高い。」と高く評価している。
プラナー135mmF2AE(1975年発売) - 5群5枚。最短撮影距離1.5m。アタッチメントはφ72mmねじ込み。日沖宗弘は「現在の最優秀レンズの一つ」と絶賛している。
ゾナー135mmF2.8AE(1975年発売) - 4群5枚。最短撮影距離1.6m。アタッチメントはφ55mmねじ込み。
ゾナー180mmF2.8AE(1982年発売) - 5群6枚。近距離補正機構を備え、最短撮影距離1.4m。アタッチメントはφ72mmねじ込み。コンタックスRTSの初期カタログでのみ「オリンピア・ゾナー」と表記されたことがあるが、この時もレンズリストでは単に「ゾナー」であり、以来「ゾナー」に統一されている。日沖宗弘は「カール・ツァイスの傑作の一つ」「180ミリでありながら厚みのある、まろやかさを残した描写、発色も良い」と高く評価している。
テレテッサー200mmF3.5AE(1975年発売、1985年生産終了) - 5群6枚。最短撮影距離1.8m。アタッチメントはφ67mmねじ込み。
テレアポテッサー300mmF2.8AE -限定販売。7群8枚。最短撮影距離3.5m。フィルターはスライド式。
テレテッサー300mmF4AE(1975年発売)- 5群5枚。最短撮影距離3.5m。アタッチメントはφ82mmねじ込み。
バリオゾナー40-80mmF3.5AE(1975年発売) - 9群13枚。最短撮影距離1.2m。アタッチメントはφ55mmねじ込み。
バリオゾナー70-210mmF3.5AE - 12群15枚。最短撮影距離1.8(0.3)m。アタッチメントはφ67mmねじ込み。
ムターI - 2xのリアテレコンバーター。5群6枚。主レンズの焦点距離を2倍にする。開放F値は2段暗くなる。
ムターII - 2xのリアテレコンバーター。超望遠用。4群7枚。主レンズの焦点距離を2倍にする。開放F値は2段暗くなる。
ムターIII - 1.4xのリアテレコンバーター。4群6枚。主レンズの焦点距離を1.4倍にする。開放F値は1段暗くなる。
MMレンズ
プログラムAE/シャッター速度優先AEに対応した。最小絞り値が緑色に着色されていることでAEシリーズと区別できる。
ディスタゴン18mmF4MM - 9群10枚。近距離補正機構を備え最短撮影距離0.3m。アタッチメント70-86リングを併用しφ86mmねじ込み。
ディスタゴン21mmF2.8MM - 13群15枚。最短撮影距離0.22m。アタッチメントはφ82mmねじ込み。
ディスタゴン25mmF2.8MM - 7群8枚。最短撮影距離0.25m。アタッチメントはφ55mmねじ込み。レトロフォーカス型としては歪曲収差が少なく画面周辺まで良好な画質を保つ。
ディスタゴン28mmF2MM - 8群9枚。近距離補正機構を備え最短撮影距離0.24m。アタッチメントはφ55mmねじ込み。
ディスタゴン28mmF2.8MM(1985年発売) - 7群7枚。最短撮影距離0.25m。アタッチメントはφ55mmねじ込み。
ディスタゴン35mmF1.4MM -第6枚目第1面を非球面とした8群9枚。近距離補正機構を備え最短撮影距離0.3m。アタッチメントはφ67mmねじ込み。日沖宗弘は「F2.8あたりからかなりの鮮鋭度を発揮し、コントラストもきわめて良好」と高く評価している。
ディスタゴン35mmF2.8MM(1985年発売) - 6群6枚。最短撮影距離0.4m。アタッチメントはφ55mmねじ込み。日沖宗弘は「性能の割に安価。人物描写に意外な実力を発揮する。」と高く評価している。
テッサー45mmF2.8MM - 3群4枚。最短撮影距離0.6m。アタッチメントはφ49mmねじ込みまたは49-55リングを併用しφ55mmねじ込み。AEシリーズのテッサー45mmF2.8が製造中止後人気が出たためMMシリーズで再生産された。
プラナー50mmF1.4MM(1985年発売) - 6群7枚。最短撮影距離0.45m。アタッチメントはφ55mmねじ込み。
プラナー50mmF1.7MM -通常このクラスの普及レンズは6枚構成であるが、このレンズは6群7枚構成で贅沢な設計。最短撮影距離0.6m。アタッチメントはφ55mmねじ込み。
プラナー55mmF1.2MM(1997年限定発売) -プラナー発明100周年記念で限定販売された。実焦点距離55.5mm。7群8枚。最短撮影距離0.6m。アタッチメントはφ77mmねじ込み。
マクロプラナー60mmF2.8C MM - 4群6枚。最短撮影距離0.27m、1/2倍。アタッチメントはφ55mmねじ込み。最大撮影倍率を1/2倍に抑え構造を簡素化し重量がおよそ1/2になった。光学系は変更されていないが、絞り表示は彫り込み色入れタイプではなく、プリント文字である。日本製。
プラナー85mmF1.2MM(1992年限定発売) -コンタックス発売60周年の記念で限定販売された。7群8枚。近距離補正機構を備え最短撮影距離1m。アタッチメントはφ77mmねじ込み。
プラナー85mmF1.4MM - 5群6枚。最短撮影距離1m。アタッチメントはφ67mmねじ込み。
ゾナー85mmF2.8MM(1985年発売) - 4群5枚。最短撮影距離1m。アタッチメントはφ55mmねじ込み。日沖宗弘は「開放からクセがなく素直でシャープな描写。もちろん色再現も良い。CPが高い。」と高く評価している。
プラナー100mmF2MM - 5群6枚。最短撮影距離1m。アタッチメントはφ67mmねじ込み。
ゾナー100mmF3.5MM(1985年発売) - 4群5枚。最短撮影距離1m。アタッチメントはφ55mmねじ込み。日沖宗弘は「開放からクセがなく素直でシャープな描写。もちろん色再現も良い。CPが高い。」と高く評価している。
プラナー135mmF2MM - 5群5枚。最短撮影距離1.5m。アタッチメントはφ72mmねじ込み。日沖宗弘は「現在の最優秀レンズの一つ」と絶賛している。
ゾナー135mmF2.8MM(1985年発売) - 4群5枚。最短撮影距離1.6m。アタッチメントはφ55mmねじ込み。
ゾナー180mmF2.8MM - 5群6枚。近距離補正機構を備え最短撮影距離1.4m。アタッチメントはφ72mmねじ込み。日沖宗弘は「180ミリでありながら厚みのある、まろやかさを残した描写、発色も良い」と高く評価している。
アポゾナー200mmF2MM - 9群11枚。最短撮影距離1.8m。フィルターは専用差し込み式。
テレテッサー200mmF4MM(1985年発売、1992年生産終了) - 5群6枚。最短撮影距離1.5m。アタッチメントはφ55mmねじ込み。
テレテッサー300mmF4MM - 5群5枚。最短撮影距離3.5m。アタッチメントはφ82mmねじ込み。
バリオゾナー28-70mmF3.5-4.5MM - 8群9枚。最短撮影距離0.3m。アタッチメントはφ67mmねじ込み。
バリオゾナー28-85mmF3.3-4MM - 13群16枚。最短撮影距離0.6m。アタッチメントはφ82mmねじ込み。
バリオゾナー35-70mmF3.4MM - 10群10枚。最短撮影距離0.7(0.25)m。アタッチメントはφ67mmねじ込み。
バリオゾナー35-135mmF3.3-4.5MM - 15群16枚。最短撮影距離1.3(0.26)m。アタッチメントはφ82mmねじ込み。
バリオゾナー80-200mmF4MM - 10群13枚。最短撮影距離1m。アタッチメントはφ55mmねじ込み。
バリオゾナー100-300mmF4.5-5.6MM - 7群12枚。最短撮影距離1.5m。アタッチメントはφ67mmねじ込み。
AE、MM以外のレンズ
PC-ディスタゴン35mmF2.8 -シフト機能を持つ。9群9枚。近距離補正機構を備え最短撮影距離0.3m。アタッチメントは70-86リングを併用しφ86mmねじ込み。
S-プラナー100mmF4(1978年発売) -ベローズ用。4群6枚。アタッチメントはφ55mmねじ込み。アオリ撮影が可能の設計でイメージサークルが広い。だが、当時としては非常に高額、かつ使い勝手や携行性の低さから販売本数は少ない。非常に曇りやすいレンズで、レンズの後群が外れ、クリーニングは容易いので修理は簡単である。6枚角型絞り。西ドイツ製。
N-ミロター210mm(1978年発売) -暗視用反射望遠レンズ。イメージインテンシファイアーを内蔵し実効F値0.03の特殊レンズ。当時としては非常に高額であり、特殊用途向けの設計から販売本数は極めて少ない。
ミロター500mmF4.5(1975年発売) -反射望遠レンズ。5群5枚。最短撮影距離3.5m。フィルターは専用差し込み式。当時としては非常に高額、かつ使い勝手や携行性の低さから販売本数は少ない。レンズとボディーの間に蛇腹機構があり、ベローズ(蛇腹機構)で合焦させる。
ミロター500mmF8 -反射望遠レンズ。4群6枚。最短撮影距離3.5m。アタッチメントはφ82mmねじ込み。
ミロター1000mmF5.6(1975年発売) -反射望遠レンズ。5群5枚。最短撮影距離12m。フィルターは専用差し込み式。当時としては非常に高額、かつ使い勝手や携行性の低さから販売本数は少ない。レンズとボディーの間に蛇腹機構があり、ベローズ(蛇腹機構)で合焦させる。
コンタックスNマウントカメラ
口径を広げ、完全電子制御化した新マウントの採用により従来のいわゆるヤシカ・コンタックスマウントとの互換性は放棄している。コンタックス645用のレンズはアダプターを介してNシステムのカメラに使用することが可能である。また、一部のレンズには超音波モーターが採用されており、静かなオートフォーカス駆動と常時マニュアルフォーカスが可能である。
新マウント化の意義は、デジタル時代に向け最高度の光学性能の追求から35mmフルサイズのデジタル素子を採用し、この素子に垂直に入射光を当てるためのものだった。デジタル素子は斜めからの入射に対応した構造ではなく、斜め入射はそのまま画質低下をもたらす。銀塩からのレンズマウントの場合、撮影素子全面に入射光を垂直に当てることは難しい。銀塩時代では斜めの入射もさしたる問題ではなく、設計時点でデジタル時代程の考慮はそもそも払われていない。従って銀塩からマウントを引き継ぎデジタル化したシステムは、厳密にはこの問題には対応しきっていないのが現状である(普通に撮影する範囲では目に付く弊害ではなく各社半ば無視した感がある)。フォーサーズ・システムも参照。
素子に垂直に入射光を当てる構造のため、レンズは大型化してしまい、携行性は大幅に損なわれた。さらにバッテリーの消耗度、オートフォーカス性能など完成度に問題があり、他社に比べ扱い難い機体となってしまった。また他メーカーのような普及型のデジタル機をついにラインナップできず、ズームレンズ主体のレンズラインナップは旧来のユーザーの失望を買い商業的に失敗に終わった。
Nシステムボディ
コンタックスN1(CONTAX N1 ) -フラッグシップ機。オートフォーカス測距点は5点で作画を重視しファインダーの対角線上に並んでいる。ダイアル操作中心のアナログ的な操作系をしている。最高速1/8000秒のシャッター。秒間最高約3.5コマの連続撮影が可能。合焦位置より前ピン・後ピンの画像も撮影するフォーカスABC機構を搭載。視野率95%。オプションで先頭コマ、およびコマ間に撮影データを記録できるデータバックが用意されていた。
コンタックスNX(CONTAX NX ) -普及機。オートフォーカス測距点はN1同様5点。最高速1/4000秒のシャッター。秒間最高2.3コマの連続撮影が可能。視野率93%。フラッシュ内蔵。オプションでデートバックが用意されていた。
コンタックスNデジタル(CONTAX N DIGITAL ) - 2002年発売。Nシステムを採用したデジタル一眼レフカメラ。600万画素クラスながら35mmフルサイズ相当のCCDを採用しており、コンタックスN1・コンタックスNXと同じ画角で撮影することが可能となっている。しかし高価でありながら機能面で他のプロ機よりも見劣りしていたこともあり、それほどの売れ行きを見せなかった。
Nシステム用レンズ
プラナーT*50mmF1.4(2001年2月発売) -京セラ製。フード別売。フィルター径67ミリ。最短撮影距離0.45m。レンズ構成:6群7枚。重量320g。価格68,000円。
プラナー85mmF1.4(2002年5月25日発売) -京セラ製。近距離補正方式を備え8群9枚。
テレアポテッサー400mmF4(2002年11月23日発売) -異常分散ガラスを2枚含む7群8枚。
バリオゾナーT*17-35mmF2.8(2002年1月発売) -京セラ製。フード別売。フィルター径95ミリ。最短撮影距離0.5m。レンズ構成:10群15枚。重量910g。価格250,000円。
バリオゾナーT*24-85mmF3.5-4.5(2000年10月発売) -京セラ製。フード付属。フィルター径82ミリ。最短撮影距離0.5m。レンズ構成:2枚の非球面レンズと2枚の異常分散ガラスを含む12群14枚。重量572g。価格125,000円。
バリオゾナーT*28-80mmF3.5-5.6(2001年11月発売) -京セラ製。フード付属。フィルター径55ミリ。最短撮影距離0.5m(0.25m)。レンズ構成:7群7枚。重量380g。価格65,000円。
バリオゾナーT*70-200mmF3.5-4.5(2002年2月発売) -京セラ製。フード別売。フィルター径67ミリ。最短撮影距離1.0m。レンズ構成:11群14枚。重量634g。価格85,000円。
バリオゾナーT*70-300mmF4.5-5.6(2000年10月発売) -京セラ製。フード別売。フィルター径72ミリ。最短撮影距離1.5m。レンズ構成:特殊低分散ガラス1枚を含む11群16枚。重量1065g。価格175,000円。
マクロゾナーT*100mmF2.8(2001年8月発売) -京セラ製。フード別売。フィルター径72ミリ。最短撮影距離0.32m。レンズ構成:8群12枚。重量960g。価格168,000円。
コンタックス645
コンタックス645マウントは、アダプターを介することでNシステムとの互換性がある。オートフォーカスを組み込んだシステムであるが、マニュアルフォーカスレンズが1本ある。
645ボディ
コンタックス645(CONTAX 645、1999年発売) - 1998年フォトキナで発表された。120フィルムまたは220フィルムを使用し6×4.5cm判。フォーカルプレーンシャッターを採用しており、シャッター速度は最高速1/4000秒、Xシンクロ接点も1/125秒、いずれも中判カメラとしては最速である。マニュアルフォーカス専用のアポマクロプラナー120mmF4を除きレンズには超音波モーターが採用されており、静かなオートフォーカス駆動と常時マニュアルフォーカスが可能である。またコンタックスRTS IIIと同じくRTVシステムを搭載し、オプションのRTVに対応する220フィルム中枠「バキュームインサートMFB-1B」を使用すればフィルムを圧板に吸着させ平面性を保てた。
645用レンズ
ハッセルブラッドやローライと比較すれば購入しやすい価格のツァイス中判レンズだった。別売の「マウントアダプターNAM-1」を併用することでコンタックスNシステムのボディーにも使用できる。
ディスタゴン35mmF3.5 - 8群11枚。最短撮影距離0.5m。アタッチメントはφ95mmねじ込み。
ディスタゴン45mmF2.8 - 7群9枚。最短撮影距離0.5m。アタッチメントはφ72mmねじ込み。
ディスタゴン55mmF3.5
プラナー80mmF2 - 5群6枚。最短撮影距離0.7m。アタッチメントはφ72mmねじ込み。
アポマクロプラナー120mmF4 - 5群8枚。マニュアルフォーカス専用。最短撮影距離0.425m。アタッチメントはφ72mmねじ込み。
ゾナー140mmF2.8 - 5群7枚。最短撮影距離1.3m。アタッチメントはφ72mmねじ込み。
ゾナー210mmF4 - 4群7枚。最短撮影距離1.4m。アタッチメントはφ72mmねじ込み。
テレアポテッサー350mmF4
バリオゾナー45-90mmF3.5-4.5(2002年8月2日発売)
ムター1.4x -リアテレコンバーター。
コンパクトフィルムカメラ
コンタックスGシリーズ
レンズ交換式オートフォーカスカメラ。
コンタックスTシリーズ
レンズにゾナーを搭載した単焦点コンパクト機シリーズ。高級コンパクトカメラという分野を築いた。名称は「小型の」を意味するTinyに由来する。
コンタックスT(CONTAX T、1984年発売) - Tシリーズ初代機、かつヤシカが京セラに吸収されて以後最初の製品。135フィルムを使用し24×36mm(ライカ)判。マニュアルフォーカスコンパクトレンジファインダーカメラ。フラットなフロントカバーを前に倒すとレンズが出てくるというギミックが特徴。レンズは4群5枚ゾナー38mmF2.8、距離計連動し最短撮影距離は1m。クオーツ制御の絞り優先AE式電子シャッターでシャッター最高速1/500秒。京セラ、カール・ツァイス、ポルシェデザインによる共同開発。チタン製ボディが検討されたが、加工技術的に時期尚早として見送られた。専用フラッシュ・T14オートを装着することでフラッシュ撮影可能。電源はSR44×2個またはLR44×2個。製品自体の写真を除きカタログの写真を全てコンタックスTで撮影しレンズの高性能をアピールした。
コンタックスT2(CONTAX T2、1990年11月発売) - Tシリーズ2代目、135フィルムを使用し24×36mm(ライカ)判オートフォーカスコンパクトカメラ。高級コンパクトカメラの代表的機種で他社の追随を生んだ。素材・デザイン・機能が有機的に統合された工業製品として長期にわたって好評を博し、コンタックスT3の発売以降も愛用するユーザーは多い。ボディーの素材にはチタンを、ファインダーカバーガラスにはサファイアガラスを、フィルム圧板には京セラのセラミックを新たに採用。レリーズボタンはTと同じく人工多結晶サファイア。レンズは沈胴式で、電源を入れるとチタンのカバーがスライドしてレンズがせり出す。レンズには絞りリング付き。電源ダイヤルはそのままフォーカスダイヤル(オートフォーカス/マニュアルフォーカス)として機能、また、露出補正には独立したダイヤルを採用するなど、操作性に優れる。レンズはゾナー38mmF2.8、最短撮影距離は0.7mに短縮された。最高シャッター速度1/500秒。AE絞り優先、及びプログラムモード。当時の定価120,000円。電源は本体CR123A×1個、デート用にCR2025×1個。
コンタックスT2チタンブラック(1991年10月発売)
コンタックスT2チタンゴールド(1991年10月発売)
コンタックスT2ゴールド(1992年3月発売) -コンタックス発売60周年記念モデル。ウォールナットの収納箱と本革牛革ケースが付属した。国内2000台、海外4000台限定。ボディ表面は強度向上のため窒化処理してある。上下カバーが金イオンプレーティングしてあり、それ以外の箇所は黒。
コンタックスT2プラチナ(1992年3月発売) -ウォールナットの収納箱と本革牛革ケースが付属した。ボディ表面はプラチナコーティング処理してある。グリップ部はオストリッチを使用している。受注限定生産され定価240,000円。
コンタックスT2ブラック(1998年発売) -通常モデルの生産終了後に、2000台限定で生産された。
コンタックスTix(CONTAX Tix、1997年10月発売) -シリーズ唯一のAPSカメラ。コンタックスブランドのフィルムカメラではボディサイズ最小。最短撮影距離、シャッター機構、大きさ、デザインなどの面でコンタックスT3の前身となった。コンタックスT3・コンタックスTVS IIIに搭載されたダブルビトウィーンシャッター機構を初めて採用した機種で、レンズシャッター機では異例の最高速1/1000秒を実現している。ゾナー28mmF2.8を搭載、ライカ判換算で35mmの画角となる。定価120,000円(税別)。
コンタックスT3(CONTAX T3、2001年3月発売) - Tシリーズ3代目。コンタックスブランドのコンパクトカメラ最後の機種となった。135フィルムを使用し24×36mm(ライカ)判。シリーズの高い描写性能はそのままに、コンタックスT2よりも小型化が図られている。当時の定価98,000円。レンズ画角を38mmからゾナー35mmF2.8に変更、最短撮影距離は0.35mに短縮、またその描写は鮮やかでコントラストが高いと評される。本体はオートフォーカスでの使用感を向上させた一方、露出補正やマニュアルフォーカスの操作はボタンの併用となった分、煩雑となった。シャッター最高速は1/1200秒に向上。
コンタックスTVSシリーズ
バリオゾナーレンズを搭載したズームコンパクト機シリーズ。
コンタックスTVS(CONTAX TVS、1993年9月発売) -バリオゾナー28-56mmF3.5-6.5を搭載したオートフォーカスコンパクトカメラ。チタンボディ、多結晶サファイヤのレリーズボタン、サファイヤガラスのファインダー、セラミックのフィルム圧板等、コンタックスT2と同様の素材を使っている。パララックスは、液晶画面をインポーズして補正しているためファインダーは暗めとなり、液晶のため若干黄色みがかった色合いになっている。コンパクトカメラではあるが、専用フィルターや専用フード、専用フード装着時のメタルレンズキャップ等のオプションが豊富に用意されていた。
コンタックスTVS II(CONTAX TVS II、1997年12月発売) -コンタックスTVSのマイナーチェンジ版。TVSとの違いは液晶を取り去りファインダーを明るくし、ズーム操作はレバー式からレンズ周囲のリングを回す方式に変更、パノラマ機能を廃止、収納時のレンズ保護用バリアーが内蔵された。
コンタックスTVS III(CONTAX TVS III、1999年11月発売) -仕様が一新された。オートフォーカスは5点のマルチ測距が可能になった。初代コンタックスTに倣ったフラットフロントカバーを電動式で開閉する仕様。電動式ズームは30mm・38mm・45mm・50mm・60mmの五段ステップになり、ボタン式の絞り設定やフィルター・フードの装着が不可になる等コンタックスTVSやコンタックスTVS IIと比較して使い勝手が低下した部分もある。搭載レンズはバリオゾナー30-60mmF3.7-6.7。
コンパクトデジタルカメラ
コンタックスTVSデジタル-コンタックスT3とほぼ同じサイズ、デザインを実現しながらも3倍ズームレンズを搭載したコンパクト機。ツァイスレンズならではのシャープかつハイコントラストな描写を記録できる。カメラの高級感を体感できる「モノ」としても数少ないデジタルカメラでもある。
コンタックスSL300R(CONTAX SL300R ) - FinecamブランドのSL300Rをベースに、T*レンズ、小型レンズフード、シボ革仕立ての外装を盛り込んだカメラ。単に外装を替えただけでなく、T*レンズを活かすように画像処理エンジンにも改良が加えられている。SL300R同様秒間3コマ連写にも対応可能。
コンタックスU4R(CONTAX U4R ) - FinecamブランドのSL400Rをベースに外装、レンズ、画像処理エンジンを改めたカメラ。
コンタックスi4R(CONTAX i4R ) -香水瓶のような形状、サイズでアクセサリーとしても存在感がある。レンズは単焦点のテッサー6.5mmF2.8。京セラコンタックスとしての最終機種。
注釈
出典
参考文献
小倉磐夫『国産カメラ開発物語』朝日新聞社ISBN 4-02-259784-4
小林孝久『カール・ツァイス創業・分断・統合の歴史』朝日新聞社ISBN 4-02-258480-7
久野幹雄『レンジファインダーニコンのすべて』朝日ソノラマISBN 4-257-04006-8
佐貫亦男『ドイツカメラのスタイリング』グリーンアロー出版社ISBN 4-7663-3189-3
竹田正一郎『ツァイス・イコン物語』光人社ISBN 978-4-7698-1455-9 C0095
日沖宗弘『プロ並みに撮る写真術I』勁草書房ISBN 4-326-85117-1
日沖宗弘『プロ並みに撮る写真術II』勁草書房ISBN 4-326-85127-9
『クラシックカメラ専科』朝日ソノラマ
『クラシックカメラ専科No.3、戦後国産カメラの歩み』朝日ソノラマ
『クラシックカメラ専科No.4、名機の系譜』朝日ソノラマ
『クラシックカメラ専科No.11、コレクターズ情報満載』朝日ソノラマ
『クラシックカメラ専科No.12、ミノルタカメラのすべて』朝日ソノラマ
『クラシックカメラ専科No.24、バルナック型ライカ図鑑』朝日ソノラマ
『クラシックカメラ専科No.29、モダンクラシック』朝日ソノラマ
日本光学工業『ニコンの世界第6版』1978年12月20日発行
『季刊クラシックカメラNo.5ツァイス』双葉社ISBN 4-575-47199-2
『プロフェッショナル中判カメラ』玄光社ISBN 4-7683-0100-2
『中判645カメラ完全攻略マニュアル』玄光社ISBN 4-7683-0200-9
関連項目
カール・ツァイス
カール・ツァイスのレンズ製品一覧
ツァイス・イコン
ポルシェデザイン
ヤシカ
京セラ
ヤシカのカメラ製品一覧-コンタックスブランド以外のヤシカ・京セラ製カメラについての記事
林忠彦
ツァイス・イコン
カメラ製品の一覧
ドイツのカメラメーカー・ブランド
日本のカメラメーカー・ブランド
京セラの歴史 | 0.704623 |
183232 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E5%86%99%E7%9C%9F | 科学写真 | 科学写真(かがくしゃしん)とは、自然科学の対象となるようなものを撮影した写真(自然写真(ネイチャーフォト)を含む)、又は、通常のカメラやその周辺機材だけでなく、それ以外の科学技術・機器を用いて撮影された写真のことをいう。自然科学写真と呼ばれることもある。
前者の例としては、昆虫、魚類、鳥類、哺乳類、植物などの生物、火山、地層、雲、昼間の空、星空などを撮影した写真が、後者の例としては、超高速度撮影による写真(高速度写真)、人工衛星から撮影された写真(衛星写真)、望遠鏡や顕微鏡による写真、航空写真・空中写真、X線写真・レントゲン写真・紫外線写真・赤外線写真などが挙げられる。天体写真は、両方の意味で、科学写真に該当する。医学写真と呼ばれるもの(患者や患部の写真)も含まれる。
科学写真は、科学技術や機材の発展とともに展開・拡大するという受身の位置にいつつ、逆に、科学写真の作品が科学の発展や普及を促すという能動的な働きも持ち合わせている。
参考文献
-伊知地国夫は「科学写真家」と呼ばれることがある。
関連項目
天文
気象
外部リンク
- 1978年に設立。400名以上の会員が存在する。主たるメンバー:海野和男(2010年現在の会長)、茶谷茂、伊知地国夫、坂本陽平(以上3名は2010年現在の副会長)、中村征夫など。1979年以降毎年SSP展を開催しており、2010年で第31回を迎えた。
写真のジャンル
科学啓蒙 | 0.704195 |
76131 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0 | プリズム | プリズム()とは、光を分散・屈折・全反射・複屈折させるための光学素子であり、ガラス・水晶などの透明な媒質でできた多面体で、その面のうち少なくとも一組が平行でないものである。三角柱の形状をしたものが一般的である。
もとは「角柱」という意味の言葉であり、日本語では三稜鏡(さんりょうきょう)とも呼ばれた。
概要
材質の屈折率は、光の波長によって異なるため、プリズムを出る光の方向は波長によって変わる。この現象を分散という。光を分散させることによって、スペクトルを得ることができる。
プリズムは、内部での全反射を利用して、光の進む方向を変える用途にも用いられる。この場合、プリズムにおける光の入射/出射面は光の進む方向に垂直であり、屈折による光の分散は起こらない。例としては、双眼鏡内で像を反転させて正立像にするものや(・)、一眼レフカメラのファインダー内で、光軸を3回曲げて、ファインダーに導くもの(ペンタダハプリズム)などを挙げることができる。
大型のリング状プリズムなどは、灯台のフレネルレンズを補う物として、フレネルレンズの周囲に配置される物もある。
プリズムの中には、偏光によって光の進む方向を分離する、あるいは一方向の偏光だけを透過するものもある。
プリズムの分類
分光用途
-表面に回折格子を施した分光プリズム
コーナーキューブ
光線の屈曲用途
ペンタプリズム
- 180度回転し、後方にずれて投影される。
- 180度回転し、前方にずれて投影される。
- 180度回転し、入射光と同一線上の前方に投影される。
- 180度回転し、入射光と同一線上の前方に投影される。
-上下反転し、前方にずれて投影される。
ダイクロイックプリズム
- 90度横に投影される。
偏光用途
全反射による分離
屈折による分離
フレネル菱面体
脚注
関連項目
光
虹
分散(光学)
屈折
全反射
複屈折
スペクトル
プリズムコンプレッサー
狂気-ジャケットにプリズムと分散する光が描かれている。
プロビデンスの目-三角形の中に人の目が描かれ、分散する光が描かれる。
光学
光学機器
ガラス
英語の語句 | 0.704055 |
144225 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A5%E5%AD%A6%E8%80%85 | 工学者 | 工学者(こうがくしゃ、)は、工学の研究開発的・理論的面を担う研究者。
脚注
注釈
出典
参考文献
その他
工学者と技術者-大橋秀雄
研究開発と工学者
関連項目
工学博士-工学修士
工学/エンジニアリング/技術
理工学-理学/自然科学
科学技術/テクノロジー
応用科学-研究開発
基礎科学-基礎研究
工学倫理
科学関連の職業 | 0.703842 |
661763 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E4%B8%AD%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9 | 水中カメラ | 水中カメラ(すいちゅうカメラ)とは、水中で使用できるカメラの総称。
解説
水中で使用するために作られたカメラ。カメラ自体が本格的な防水機能を持っている。日本光学工業/ニコンのニコノスが代表的で、水深50メートルまで対応する。しかし当該機種は135フィルムを使用するため、最大36枚を撮り切るたびに浮上してフィルムを交換する必要がある。
通常のカメラをウォータープルーフケースと呼ばれる防水ケースに入れたものも便宜上、水中カメラと呼ぶ。ケースの材質は強化プラスチック、厚手のビニールなど。陸上で使用する通常のカメラが使用できるため高性能、高機能のカメラも使用できる。原則としてカメラの機種に合った専用のケースが必要なため、注意深くカメラを選ぶ必要がある。専用ケースであるため主要な操作はケース外部から可能である。デジタルカメラ、35mm一眼レフカメラ、ビデオカメラなどに対応したケースが発売されている。また機種に依存しない汎用のものもあるが、専用のものと比べると使い勝手が良いとは言い難い。
最近のスマホには防水機能付きもあるが、それらは防水カメラであり、水中で撮影することは想定されていない。
カメラ | 0.703507 |
475223 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E7%89%A9%E7%90%86%E5%B7%A5%E5%AD%A6%E9%83%A8 | 生物理工学部 | 生物理工学部(せいぶつりこうがくぶ)は、バイオテクノロジーを教育研究するために日本の大学におかれている学部の名称である。
一般に理学部、工学部、農学部(食品科学)で個別に扱われてきた学問領域を統合した学部とされている。
近畿大学生物理工学部
概要
「生物に学ぶ工学」をテーマとして和歌山に開設された学部。
沿革
1993年開設
2010年学科改組
設置学科
2010年1年次入学生まで
生物工学科
遺伝子工学科
電子システム情報工学科
知能システム工学科
生体機械工学科
2010年1年次入学生から
生物工学科
遺伝子工学科
食品安全工学科(HACCP管理者養成)
生命情報工学科(2017年4月より)
人間環境デザイン工学科(2017年4月より)
医用工学科(臨床工学技士養成)
東海大学生物理工学部
概要
学部の英称を“The School of Biological, Science and Engineering"と称する。
沿革
1988年4月-北海道東海大学工学部(生物工学科、海洋環境学科、情報システム学科)が開設。
2008年4月-東海大学、九州東海大学、北海道東海大学を統合し、東海大学生物理工学部(生物工学科、海洋生物科学科、生体機能科学科)として、改組・開設。
2012年-学生の募集停止。
設置学科
生物工学科
海洋生物科学科
生体機能科学科
関連項目
生命科学部
生物資源学部
生物学部
外部リンク
近畿大学生物理工学部
東海大学生物理工学部
部せいふつりこうかくふ
生物学の学部・学科
部
部 | 0.703507 |
1596497 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A0%E3%83%BC%E3%83%93%E3%83%BC%E3%82%AB%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%AF%E3%83%88 | ムービーカム・コンパクト | ムービーカム・コンパクト(Moviecam Compact)は1990年にオーストリアの映像撮影機器製造企業のムービーカム社が開発・発売した35mmフィルム映画カメラシリーズである。音楽ビデオやコマーシャルや長編映画や特殊効果やモーションコントロール等、幅広い分野での使用を想定されている。
現在、使用されている35mmフィルムカメラでは最も多く使用されている。1993年に科学と技術分野でアカデミー賞を受賞した。
2004年にはムービーカムは駆動部を更新したコンパクトMK2を発売した。
脚注
外部リンク
ARRI Rental: Moviecam Compact MK2 -アーノルド&リヒター
カメラ製品の一覧
撮影機 | 0.703435 |
114975 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B5%A4%E5%A4%96%E5%88%86%E5%85%89%E6%B3%95 | 赤外分光法 | 赤外分光法(せきがいぶんこうほう、、略称IR)とは、測定対象の物質に赤外線を照射し、透過(あるいは反射)光を分光することでスペクトルを得て、対象物の特性を知る方法のことをいう。対象物の分子構造や状態を知るために使用される。
概要
物質は、赤外線を照射すると、それを構成している分子が光のエネルギーを吸収し、量子化された振動あるいは回転の状態が変化する。したがって、ある物質を透過(あるいはある物質で反射)させた赤外線は、照射した赤外線よりも、分子の運動の状態遷移に使われたエネルギー分だけ弱いものとなっている。この差を検出することで、分子に吸収されたエネルギー、言い換えれば対象分子の振動・回転の励起に必要なエネルギーが求まる。
分子の振動・回転の励起に必要なエネルギーは、分子の化学構造によって異なる。したがって、照射した赤外線の波数を横軸に、吸光度を縦軸にとることで得られる赤外吸収スペクトルは、分子に固有の形を示す。これにより、対象とする物質がどのような構造であるかを知ることができ、特に有機化合物の構造決定によく使われている。スペクトルのうち、波数が1500cm-1以上の部分を診断領域、それ以外の部分を指紋領域という。前者は二重結合、三重結合そして水素原子と結合するものの、後者は単結合の振動励起の結果が表される。
また、同じ分子であっても、温度や周囲の状況(自由に動いているか、何かの表面に吸着しているか、など)によって、赤外スペクトルは微妙に変化する。これより、物質の表面構造などについても知ることができる。
赤外分光法は、他の分光法に比べて感度が高いため、気体や微量の試料を対象とすることの多い物理化学の研究においてもよく使用されている。特に小さな分子の振動・回転スペクトルは非常に細かい構造まで観測できるため、理論化学によって得られた結果に実験的な裏付けを与えるものとしても利用されている。
理論
赤外線の吸収は、分子振動に伴って双極子モーメントが変化する場合に生じる。一方、ラマン効果は分子の振動により分極率が変化する場合に観測される。
一酸化炭素(CO)や塩化水素(HCl)などの振動は、赤外分光法でもラマン分光法でも観測される。一方、水素分子(H2)や窒素分子(N2)などの等核二原子分子では、振動が起こっても双極子モーメントは変化しないため、赤外吸収は示さない(分極率は変化するため、ラマン散乱は観測される)。
有機化学での利用
赤外線吸収スペクトルは、比較的簡単な装置で測定できるため、古くから化学物質の同定に用いられてきた。
赤外線の吸収される波長は、分子の官能基(金属錯体の場合は配位子)にだいたい固有なので、測定対象分子に含まれる官能基が分かる。特に特性基としてヒドロキシ基(O-H)、カルボニル基(C=O)あるいはニトロ基(NO2)などは特徴ある強い吸収を示すので、ニトロ化合物、ケトン、アルデヒド、カルボン酸、カルボン酸誘導体、アルコール、フェノール類の定性は容易である。
特に1300~650cm-1の領域(指紋領域)には細かい吸収が多数みられ、そのパターンは物質に固有のものとなる。したがって、この領域の吸収を既知試料やスペクトルデータベースと照合することで、その物質が何かを同定することが可能である。
吸収バンド
赤外分光法は構造を調べるために用いられる。それぞれの官能基は特徴的な吸収強度・吸収エネルギー(波数)を持っている。バンドのエネルギーは以下に示す相関表に要約されている。
装置構成
現在よく用いられている赤外分光装置は、フーリエ変換型赤外分光(FT-IR)のものである。この装置は、主に光源、試料設置部、分光部、および検出器からなる。ここでは、その構成の概要を示す。なお、FT-IR以外に回折格子を用いた分散型赤外分光光度計(モノクロメーターの原理を用いた分光光度計)もある。
光源
主な光源としては、12500~3800cm-1の領域はタングステン・ヨウ素ランプが、7800~240cm-1の領域では高輝度セラミック光源が用いられる。
試料部
試料の調製法には、測定対象に応じて以下の方法が用いられる。
透過測定
ヌジョール法
測定物質を赤外線を透過する溶媒に溶かし、岩塩板で挟む。溶媒は多くの場合、流動パラフィンが用いられる。
液膜法
測定物質が液体である場合に、測定物質を塩化ナトリウム(NaCl)や臭化カリウム(KBr)等の、赤外線を透過する窓板で挟む。
錠剤法
臭化カリウム(KBr)の粉末に測定物質を均一に混ぜ、プレスして錠剤に成型する。
これらの測定法は、窓板を左右に挟んだ筒型等の特殊なセルを用いた場合は、気体(ガス)を透過測定する事も可能である。
反射測定
反射吸収(Reflection absorption, RA)法
金属表面上の薄膜や分子吸着種の赤外スペクトルを、高感度に測定できる方法。通常、赤外線のp-偏光を大きな入射角()で入射し、その反射光を測定する。試料とバックグラウンドの反射率の比から吸光度を求めた反射吸光度()を縦軸とした表示をする。
外部反射法
非金属表面上の薄膜や分子吸着種の赤外スペクトルを測定する反射測定法。s偏光およびp偏光のいずれも利用できる。入射角に応じて、吸収スペクトルの形状や強度、さらには符号まで変化する、複雑なスペクトルを与える。特に符号は分子吸着種の官能基の配向を反映しているため、利用価値が大きい。しかし、一般に非金属上での反射率は非常に低く、MCT検知器を用いてもS/Nの良い測定は難しいことが多い。
減衰全反射(attenuated total reflection, ATR)法
内部反射法に分類される。試料を屈折率の大きい媒質結晶に密着させ、入射角を臨界角より大きくとり、試料とATR結晶間で全反射が起きるように設定する。全反射が生じるとき、界面で光は試料側に少しだけもぐりこんで反射されてくる(エバネッセント波)。試料に吸収のある領域では、吸収の強さに応じて反射光のエネルギーが減少する。この反射光を測定することによりスペクトルが得られる。反射回数は1回の単反射のものから7-21回程度の多重反射型まで選べる。単反射の場合は、半筒型プリズムによる入射角を変えた測定も可能だが、多重反射型の場合は固定入射角の台形(または平行四辺形)プリズムを用いる。全反射条件を守るため、プリズムと試料の屈折率をあらかじめ調べ、臨界角より十分大きな入射角に設定する必要がある。
分光部
FT-IRの分光部は、分光素子(プリズムや回折格子)の代わりに、主としてマイケルソン干渉計が用いられる。この干渉計は一枚のハーフミラーと二枚の反射鏡(固定鏡と移動鏡)より構成される。
干渉計に入射した光は、ハーフミラーによって反射光と透過光に分割される。一方の光は固定鏡で反射され、もう一方は移動鏡で反射されて、再びハーフミラーに戻り、合成されて検出器へと進行する。
ハーフミラーから2枚の反射鏡までの光路が等しい場合は、光の干渉は生じないため、強度は最大となる。一方、移動鏡が動いて光路に差が生じた場合、2つの反射光間で干渉が生じ、光の強度に変化が生じる。
簡単のため、光が単色(波長λ)とすると、光路差が波長の整数倍(nλ)のとき干渉によって強めあい、光の強度は極大となる。一方、光路差がnλ+ λ/2となるとき、光の強度はゼロとなる。移動鏡を連続的に動かすと、検出器で観測される光の強度はサインカーブを描く。
実際の測定では光は連続光であるから、観測される光の強度は各波長の描くサインカーブの重ね合わせとなり、干渉パターン(インターフェログラム)は波束の形を示す。この干渉パターンを高速フーリエ変換(FFT)することによって、各周波数成分を横軸としたスペクトルに変換できる。
この分光計では、FFT演算に堪えうる正確な干渉図形の測定を必要とするため、移動鏡の位置を精密に測定することが不可欠である。このため、He-Neレーザーを分光器内部に備え、赤外光のみならずレーザー光線の干渉図形も同時に測定されるように設計されている。この結果、波数ドメインのスペクトルに変換した後も、正確な横軸が再現性良く得られ、積算測定を理想的に行うことができる。すなわち、S/N比を大きく改善することができる。
検出部
FT-IRの検出器には、主として半導体型のテルル化カドミウム水銀(HgCdTe、通称MCT)検出器または焦電型の硫酸トリグリシン(Triglycine sulfate、通称TGS(あるいは水素イオンを重水素化したDTGS))検出器が用いられる。MCTは暗い赤外光(5000~650c m)を高感度に検出するのに適しており、液体窒素温度で動作する。一方、TGSは室温で動作し、明るい赤外光を大きなダイナミックレンジで測定(7800~350 cm)するのに適している。このため、透過率や反射率の高い試料を測定するにはTGSが向いており、逆に外部反射法や多重反射型ATRの測定にはMCTが適していることが多い。
また近赤外光にはInGaAsやPbSeなどの検出器が対応しており、12500~3800 cmを検出する。
関連項目
熱赤外分光法
近赤外線分光法
脚注
参考文献
分析化学
分光学
光学
赤外線 | 0.703367 |
4689798 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E7%94%A8%E7%89%A9%E7%90%86%E9%83%A8%E9%96%80%20%28%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%AD%A6%29 | 応用物理部門 (東京大学) | 応用物理部門(おうようぶつりぶもん)は、東京大学工学部物理工学科及び計数工学科の総称。同工学部応用物理学科を前身とする。応用物理学部門(おうようぶつりがくぶもん)とも。
概要
物理工学科、計数工学科の2学科は合わせて「応用物理(学)部門」と呼ばれており、物理学・数学を基礎とした工学分野の教育研究が行われている。進学振分けは学科ごとに行われ、計数工学科の2コースへの振分けはその後3年次進学までに行われる。
沿革
1945年-旧制東京帝国大学工学部計測工学科設置。
1946年-旧制東京帝国大学工学部応用数学科。
1949年-新制東京大学工学部計測工学科設置。両学科の前身。
1951年-計測工学科が応用物理学科に改組。物理工学コース、計測工学コース、数理工学コースの3コースからなる。
1962年-物理工学科と計数工学科に分離。このうち計数工学科には数理工学コース、計測工学コースの2コースが設置。
2001年-情報理工学系研究科設置に合わせて、数理工学コースが数理情報工学コース、計測工学コースがシステム情報工学コースに改称。
関連項目
基礎工学
応用物理学
東京大学 | 0.703321 |
1155420 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9 | ネットワークカメラ | ネットワークカメラ(Network camera)とは、有線LANや無線LANによる通信機能を持つビデオカメラの形態。Webカメラの一種。
なお、「ネットワークカメラ」は通称であり、英語圏における厳密な名称としては"Internet Protocol camera" (IP camera)が用いられる。
概要
ネットワークカメラは、映像配信、取り付け台の向きや可変焦点レンズのコントロール、その他オプション機能を動作させる仕組みをコンピュータネットワークに対応させたものである。映像取得・各種操作に専用の端末を使う機種や、パソコンやサーバと通信して使用する機種がある。通信に際しては、専用のアプリケーションソフトウェアを用いるものや、ウェブブラウザを使用するものがある。
最低限必要な機能として以下のものが必要となる。
動画撮影ができるカメラ機能
カメラ機能からNTSC-Jなどの映像信号に変換する回路
映像信号をLANのトランスポート層~アプリケーション層へ接続、データ通信を行う回路
オプション機能の例として、以下のようなものがある。
映像信号を圧縮するコーデック(エンコード)回路
取り付け台の向きの変更(水平回転・仰角調整など)
ズームや可変焦点レンズ・ピント合わせ(オートフォーカスなど)
フラッシュの発光・威嚇音や警告音などの発射
Webカメラでも家庭向けの製品では、パソコンに接続して使用する事が前提となるが、ネットワークカメラはサーバ機能を持ち、ネットワーク環境があれば単独で運用可能である。あとは同じネットワークに接続されたコンピュータから通信して画像を受信したり操作したりする。その多くでは、TCP/IPの通信プロトコルに準拠しているため、インターネットへの接続が可能となっている。
関連項目
監視カメラ
Webカメラ
ONVIF
ビデオカメラ
光学機器
通信機器 | 0.703015 |
965067 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A5%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%A7%91 | 工学研究科 | 工学研究科(こうがくけんきゅうか、英称:The Graduate School of Engineering)は、
日本の大学院研究科のうち、工学に関する高度な教育・研究を行う機構の1つである。
概要
主に、工学部の上位に連続した形で設置される。工学部における工学の基礎教育を踏まえた上で、より専門的で高度な教育研究を行う。博士前期課程(修士課程)および博士後期課程(博士課程)あるいはそれに相当する課程で構成される。学位は、修士課程は修士(工学)を、博士課程は博士(工学)を修めることができる。教育組織は、標準修業年限5年の博士課程で構成され、博士前期課程(修士課程として取り扱われる、標準修業年限: 2年)および博士後期課程(標準修業年限:3年)に区分されているものが多い。
工学系研究科という名称の研究科が設置されているが、講座や研究室の開設、分野や教育組織などの構成については工学研究科とほぼ同様である。
分野
工学研究科の取り扱う内容としては、機械・電気・化学・建築・土木・情報などの基礎分野ほか、生物学・医学・農学・音響・芸術などの分野にも関わることがある。
大学院大学
長岡技術科学大学大学院
豊橋技術科学大学大学院
長崎総合科学大学大学院
工学研究科を置く大学
国立
東日本
北見工業大学大学院
室蘭工業大学大学院
岩手大学大学院
東北大学大学院工学研究科
宇都宮大学大学院
群馬大学大学院
千葉大学大学院工学研究科
西日本
福井大学大学院
名古屋大学大学院工学研究科
名古屋工業大学大学院
三重大学大学院
京都大学大学院工学研究科
大阪大学大学院工学研究科
神戸大学大学院工学研究科
鳥取大学大学院
広島大学大学院
香川大学大学院
大分大学大学院
宮崎大学大学院
公立
前橋工科大学大学院
富山県立大学大学院
滋賀県立大学大学院
大阪公立大学大学院
兵庫県立大学大学院
高知工科大学大学院
山陽小野田市立山口東京理科大学大学院
私立
東日本
北海学園大学大学院
北海道科学大学大学院
八戸工業大学大学院
東北学院大学大学院
東北工業大学大学院
日本大学大学院
足利大学大学院
埼玉工業大学大学院
日本工業大学大学院
千葉工業大学大学院
工学院大学大学院
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東京電機大学大学院
東京理科大学大学院
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神奈川大学大学院
神奈川工科大学大学院
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湘南工科大学大学院
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新潟工科大学大学院
西日本
金沢工業大学大学院
福井工業大学大学院
愛知工科大学大学院
愛知工業大学大学院
大同大学大学院
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大阪工業大学大学院
大阪産業大学大学院
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岡山理科大学大学院
福山大学大学院
徳島文理大学大学院
九州産業大学大学院
久留米工業大学大学院
西日本工業大学大学院
福岡大学大学院
福岡工業大学大学院
崇城大学大学院
日本文理大学大学院
工学系研究科と冠する名称を置く大学
東京大学大学院工学系研究科
佐賀大学大学院
広島工業大学大学院
関連項目
研究科の一覧、修士論文、研究
講座制と学科目制、寄附講座
工学研究院、理工学研究科、基礎工学研究科、システム工学研究科
工学部、理工学部
国際公務員-応募資格は、応募するポストに関連する分野での修士号以上の学位を保有していることが求められる。
こうかく
院
院 | 0.702997 |
1953 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%85%B8%E5%8A%9B%E5%AD%A6 | 古典力学 | は、量子力学が出現する以前のニュートン力学や相対論的力学を指す。物理学における力学に関する研究のうち、量子論を含むものを「量子力学」とするのに対し、量子論を含まないものを指してそう呼ぶ。
古典力学はマクロな物質の運動、例えば弾道計算や機械動作、宇宙船、星、銀河などの天体の運動に関する研究に使われている。そして、それらの領域に対して、とても精度の高い結果をもたらす、最も古く最も広範な科学、工学における領域のうちの一つである。古典力学は光速に近い場合には特殊相対性理論を用いることによってより一般な形式を与えることとなる。同様に、一般相対性理論は、より深いレベルで重力を扱うこととなる。古典力学は現代でもさかんに研究されている分野である。
歴史
17世紀初頭、ティコ・ブラーエによる精密な測定をもとに、ヨハネス・ケプラーは天体が楕円軌道を描くと結論付けた。ガリレオは地上物体の落下の加速運動を研究した。それらを基にしてアイザック・ニュートンや同時代の多数の自然哲学者が数理物理の体系を創設した。
初期の古典力学はしばしば、ニュートン力学として引用される。物理的概念や、数学的方法論がニュートンによって用いられ創られたことによる。より抽象的で一般的な方法論としてラグランジェ力学やハミルトン力学が挙げられる。古典力学における多くの事項は、18世紀から19世紀にかけて作られ、それらはニュートンの仕事からかけ離れたものとなっている(特に解析力学等は)。
出典
関連項目
解析力学
古典物理学
外部リンク
こてんりきかく | 0.702982 |
4487323 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8A%E3%83%93%E3%82%AB%E3%83%A0 | ナビカム | ナビカム()は、ナビゲーションカメラ()の略で、科学機器に干渉することなくナビゲーションに使用される特定のロボットローバーまたは宇宙船に見られるタイプのカメラ。ナビカムは通常、車両の次の動きを計画するために使用される広角写真を撮影する。またはオブジェクトトラッキング。
概要
火星のキュリオシティローバーには、地上ナビゲーションをサポートするためにマストに取り付けられた2組の白黒ナビゲーションカメラがある。カメラの画角は45度で、可視光を使用して立体3D画像をキャプチャする。これらのカメラは、マーズ・パスファインダーミッションのカメラと同様に、画像圧縮形式の使用をサポートしている。
欧州宇宙機関のロゼッタ宇宙船は、5度の視野と12ビットの1024x1024pxの解像度を備えた単一のカメラを使用して、小惑星と最後に彗星への各宇宙船の接近を視覚的に追跡できるようにした。
ギャラリー
関連項目
アストロニクス
危険回避カメラ(Hazcam)
パンカム
マーズ・ローバー
脚注
マーズ・エクスプロレーション・ローバー | 0.702553 |
1677686 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%B9%20%CE%BC720 | オリンパス μ720 | オリンパスμ720(おりんぱすみゅー720)とは、オリンパス光学工業のデジタルスチルカメラ、μシリーズの一機種である。
コンパクトサイズで防水設計になっている。
仕様
形式:デジタルカメラ
記録方式(静止画) : JPEG(DCF準拠)、Exif 2.2対応、DPOF対応、PRINT Image Matching Ⅱ対応
記録方式(動画) : QuickTime Motion JPEG準拠
記録媒体: xDピクチャーカード(16MB-1GB)、内蔵メモリー(19MB)
有効画素数: 710万画素
最大画像サイズ: 3072×2304(px)
本体重量:149g
外部リンク
公式サイト
オリンパスイメージング
M0720 | 0.702352 |
99959 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%89%A9%E7%90%86%E6%95%B0%E5%AD%A6 | 物理数学 | 物理数学(ぶつりすうがく、)とは、物理学で用いられるいくつかの数学的手法を総称した呼び方であり、特定の数学分野を示すものではない。代表的な手法・分野は以下の通り。ある物理現象を扱う際にはこのうちいくつかの手法を複合的に用いることが多い。
日本の大学の理学部物理学科ではこれらの分野を物理数学という科目名で教育されている。専門基礎科目として教授される線形代数および微分積分学、確率統計学を除いた数学は物理数学という科目名で専門科目として教授される。物理学の教育において重要な柱の一つである。
線型代数
ベクトル解析
テンソル
微分方程式
フーリエ変換
ラプラス変換
微分幾何学
群論
特殊関数
複素解析
物理現象に対する適用例
物理数学が実際にどのように物理現象に適用されるか調べる初等的な例として、電磁気学における静電ポテンシャルの問題について述べる。ここでは用いた物理数学の手法を明示するため、意図的に詳しく解答を掲載している。
例題
無限に広がる真空中の誘電率を、電荷密度をとするとき、静電ポテンシャルはポアソン方程式を満たす。
ただしはベクトル解析における3次元ラプラシアンであり、である。
これを偏微分方程式とみなしてフーリエ変換を用いて解き、を求めよ。
解答
この偏微分方程式の解として積分方程式を仮定し、ポアソン方程式に代入すると次の方程式を得る。
ここでΔ関数の性質から直ちに次の式を得る。
このような方程式の解をグリーン関数と呼ぶ。のフーリエ変換をとして両辺をフーリエ変換すると次の式を得る。
これをについて解き、逆フーリエ変換するとグリーン関数について次の式を得る。
ただし、とした。積分部は複素積分を用いて計算することができるので次の式を得る。
これをはじめの積分方程式に代入するとポアソン方程式の解を得る。
脚注
参考文献
砂川重信『理論電磁気学』紀伊國屋書店;第3版(1999) ISBN 978-4314008549
福山秀敏・小形正男『物理数学Ⅰ』朝倉書店(2003) ISBN 978-4254137033
関連項目
数理物理学
応用数学
数理科学
数学に関する記事 | 0.702249 |
4769920 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%AC%E5%85%89 | 測光 | 光学における測光(そっこう、英:Photometry)とは、ヒトの眼に知覚される明度の観点から光を測定することである。
人間の感覚が基準となっている点で、光を含む電磁波の絶対的な量である放射エネルギーを測定する放射測定とは明確に区別される。しかし最新の測光では、放射エネルギーをそれぞれの波長において、人の明度感覚をモデル化した比視感度の光度関数で重み付けすることができる。通常この関数は明所視での感度分布であるが、同じ目的で暗所視での感度や他の関数を用いることもできる。この重みづけは国際照明委員会(CIE)や国際標準化機構(ISO)で標準化されている。
測光と眼
人間の眼は可視光の波長範囲内でも、全ての波長に対して全く同じ感度を持っているわけではない。測光では、測定された放射エネルギーをそれぞれの波長でその波長でのヒトの視覚の感度を表す係数で重み付けをすることでこの違いを表現する。人間の眼の光に対する応答を波長関数として標準化したモデルは、光度関数として与えられる。さらに、同じ人間の眼でも明るい場所に順応した状態(明所視)と暗い場所に順応した状態(暗所視)では、応答の度合いの波長関数はまた異なる。測光は通常明所視の状態に基づいて行われるため、月明かりや星明かりの下のような、色の違いを識別できない暗い環境下で測光を行っても知覚された光源の明るさが正確に表されないことがある。明所視は3.4 cd/m2を超える環境下での目の反応で、暗所視は2 × 10-5 cd/m2を下回る明るさで起こる。薄明視はこの制限値の中間で起こり、分光的な反応は特徴づけられていない。
測光量
電磁波の放射の効果を測定することが科学における1つの分野になったのは18世紀末である。測定技術は研究中の効果によって変化し、様々な名前が付いた。サーモメーターで測定された赤外線放射による熱の効果は、総エネルギーや仕事についての放射の単位を制定することにつながった。そして人間の眼を検出器として使う方法では、人間の目の応答特性に重み付けされた測光の単位が制定された。また、紫外線に対する化学的影響の研究から、単位時間当たりの光子の数で表される総線量・光量測定の単位が生まれた。
その結果、測光の測定分野では多くの異なる測定単位が使用されている。なぜこれだけ多くの単位が必要とされているのか、また変換できないとされている単位間(例えばカンデラとルーメンなど)でどうにか変換を行えないのか、ということはこの分野の初学者にとってよくある疑問である。これは、「重い」という形容詞は重量に対しても、そして密度に対しても使われうるが両者は根本的に違う概念であることと同じ考え方によって、「明るい」という形容詞が高い光束(ルーメンで表す)をもたらす光源についても、そして暗い背景に対して非常に狭い範囲のビームで光束を集中させる光源や光(カンデラで表す)についても使われるが、両者は違う概念であることで説明できる。
光が三次元空間を伝搬する方法のバリエーションの多さ(拡散、集中、反射、乱反射など)と、光が様々な波長を含んでいることから、行われている測光の種類も数多くあり、それと同じだけ異なる単位や量も存在している。
例えば、会社のオフィスなどでは多数の天井埋め込み式の蛍光灯によって合成された高い光束によって明るく照らされている一方で、そのオフィスで使われているレーザーポインターは光束は非常に小さく部屋を照らすことは到底できないが一方向に限れば眼が眩むほどの明るさを持つ。この違いを1つの単位で表せないので、多くの異なる量や単位が現存している。
測光量と放射量
光についての量には、測光量と放射量という2つの異なる体系が存在する。一方の単位体系に存在する全ての量は、もう一方の体系に対応する量が存在する。例として、
輝度(測光量)と放射輝度(放射量)
光束(測光量)と放射束(放射量)
光度(測光量)と放射強度(放射量)
測光量の体系においては全ての量が波長に応じて人間の眼の分光感度特性に重み付けされているが、放射量の体系では何にも重み付けされていない絶対的な光の量そのものを扱っている。例えば、サルや人間の眼は赤色光よりも緑色光に敏感なので、放射強度が同じ光源でも緑色の光源の方が赤色光源より測光量の光束は大きくなる。さらに眼の感度を持たない可視光以外の波長では、どんなに強い放射でも測光量は0になる。例えば赤外線ヒーターからの放射はわずかな赤色光の他はほとんどが赤外線であるため、1000 Wの暖房ヒーターは1000 Wの放射強度を実際に放っているが、測光するとわずかな値のルーメンしか示さない。この感度は人間特有のもので、たとえば昆虫は紫外線にも感度を持つ種がある。
ワットとルーメン
ワットは放射束の単位で、ルーメンは光束の単位である。ワットとルーメンを比較することは、放射単位と測光単位を比較するうえで役に立つ。
ワットは電力の単位であり、現代の人々は電球などの照明器具の明るさをワットで表記することに慣れている。この表記において電力は放出された光の量を計測しているのではなく、その照明器具が消費した電力の量を表している。それでも、一般家庭用の白熱電球はどれも似たような特性(同じエネルギースペクトル分布)を持っているため電力同士の比較は光量同士の比較と良く対応しており、一般消費者にとっては電球の絶対的な光量は問題ではなく電球間の明るさの相対比較しか行わないためこの違いは問題にならない。
ワットは出力量の直接的な尺度にもなる。放射測定の観点で測定すると、白熱電球のエネルギー効率は80%で、残りの20%は光以外の形で失われる(ランプのベース回路の抵抗など)。このため、60 Wの電球からの放射の総量は45 Wとなる。ここで注意すべきは、白熱電球の場合放射はほとんどが赤外線であることである。実際に白熱電球の用途としてほとんどは照明としてであるが、中にはひよこの孵化器のように熱源として使うこともある。照明の観点では白熱電球はほとんどを光源として役立たない赤外線として消費するので非効率である。実際、電球形蛍光灯は15 Wの消費電力で、60 W白熱電球と同じだけの可視光を放射できる。
一方でルーメンは測光における出力光の単位である。ほとんどの国の消費者は照明器具の明るさを電力ベースの単位で考えていたが、アメリカ合衆国では数十年にわたり、電球の出力表示はルーメンで表記することが流通の上で要求されている。60 Wの白熱電球や、15 Wの電球型蛍光灯はこのような国では900 lmと表記されて販売される。
ルーメンは1 Cdのが1ステラジアンの範囲に与える光の量として定義される。カンデラはSI基本単位の1つで、1/683 W/ srの放射強度(1/683という値は、この定義に改められる前にカンデラの定義として用いられていた標準ろうそくの光度と揃えるために設定された)になるような540THz(波長で555 nmの緑色光に相当し、人間の眼が最も感度のいい波長である)の単一波長の光源で定義される。これらの定義を組み合わせると、1/683 Wの波長555 nmの緑色光が1ルーメンの光を発する。
これらの関係は単純な倍率では変換できないが、おおよそ60 Wの白熱電球や15 Wの電球型蛍光灯が900 lmという目安で広く認識されている。この定義は1 Wの純粋な555 nmの光が683 lmに相当するというだけで、他の波長については言及していない。理由は、ルーメンはあくまで測光の単位なので、ワットとの関係はその波長が人間の眼にどのように見えるかに依存するからである。極端な例だと、紫外線や赤外線は目に見えないのでそもそもルーメンには数えられない。1 Wの赤外線は0 lmなのである。可視波長の中でも光の波長は前述の光度関数で重みづけされ、たとえば700 nmの赤色光は555 nmの緑色光に対して0.4%の感度しかないため、1 Wの赤色光はわずか2.7 lmにしか相当しない。この重みづけの一部である電磁スペクトルの可視部分を合計しただけであるので、ルーメンの単位からは色は分からない。
測光の技術
測光は、光に当たると種類によって様々なプロセスで電気信号を発する、光検出器と総称される装置を用いて行う。この検出器の応用先として簡単なものには、ある一点に入射する光の総量を測定する光度計や、周囲の明るさに応じて照明器具のスイッチを切り替える自動点灯装置などがある。
照明器具の業界などではさらに複雑な形態の測光が行われている。たとえば、測定対象の照明を中心に配置し、それを全方位から覆う大きなグローブ状の測定器で照明の光の指向性を測定する球面光度計(積分球)などがある。また、同様の測定が、照明の周囲を3軸で回転し照明からの光を全方位から測定するタイプのフォトセルも使われている。
照明器具をや回転ミラー式光度計で測定することで、測定する照明を点光源と近似して見なせる十分な距離を一定に保った状態で測定できる。ゴニオフォトメーターは回転する2軸テーブルでフォトセルに対する照明の向きを変化させ、回転ミラー式光度計はすべての方向における照明の光をモーターが内蔵された回転鏡でフォトセルに向けて反射させる。いずれの方法でも、集めたデータから得られた光度は照明設計に利用される。
非SI単位での測光の単位
輝度
ランバート(単位)(L)- 1 L= cd/m2(約3183.1 cd/m2)に相当する。
スチルブ(sb)- 1 sb=10-4cd/m2に相当する。
照度
(fc)- 1 fc=10.76 lxに相当する。
フォト(ph)- 1 ph=104lxに相当する。
関連項目
光源の一覧
測光_(天文)
放射計
反射率
分光器
カラリメトリー
脚注
外部リンク
Nist.govによるPhotometry
Radiometry and photometry FAQ
Visualization and calculation of photometric quantities
光学
照明
測定
分光学
電磁波 | 0.702033 |
4141099 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E4%B8%AD%E5%86%99%E7%9C%9F | 水中写真 | 水中写真(すいちゅうしゃしん、underwater photography)は水中カメラや防水機能・機構などを付与したカメラを用いて海・川・湖などの水面下を撮影した写真。水面下の撮影の試みは19世紀中ごろより行われており、当初はハウジングと呼ばれる専用の防水ケースに通常カメラを収めて撮影する手法が一般的であった。技術の進歩に伴う安価な水中撮影機材の登場や、レジャーとしてのスキューバダイビングやシュノーケリングの普及とともに広がりを見せ、写真の一分野の地位を築くに至っている。
概要
最初に水中写真が撮影されたのは1856年で、イギリスのウィリアム・トンプソンがその嚆矢とされている。1893年にはフランスのルイ・ブータンが地中海沿岸のバニュルス=シュル=メールにて水密カメラによる水中写真の撮影を成功させた。ドイツのスポーツダイバー協会(VDST)が主催する水中写真コンテストKamera Louis Boutanは、ルイ・ブータンにちなんで名づけられている。1914年にはイギリスのジョン・アーネスト・ウィリアムソンによって、バハマで撮影された最初の水中映画『Thirty Leagues Under the Sea』が公開された。また、1939年には水中ダイビングのパイオニアとしても知られるオーストリアのハンス・ハスによって、『Diving to Adventure』という初めての水中写真集と呼ばれる本が出版された。1961年にロン・チャーチ、チャック・ニックリンらによって設立されたSDUPS(サン・ディエゴ水中写真協会)は水中での写真・映像撮影に関わる最も古い組織とされている。
なお、日本においては、昭和初期ごろに大日本帝国海軍によってヘルメット潜水による初の水中写真の撮影が行われている。
技術的な側面としては、初の水陸両用カメラとして1957年にカリプソが開発されたことにより、ハウジングによる防水手段を施したカメラによる撮影以外の手段も水中写真の撮影に用いられるようになった。その後、カリプソの製造販売権を譲渡された日本光学工業(ニコン)によって1963年にニコノスという商品名で販売がなされた。とくに1984年に発売されたニコノスVは、水深50メールまで使用可能な耐圧構造を持っているにもかかわらず、カメラ本体が防水の役割を持つ防水ケースのないカメラとして小型化に成功している。1992年には水中専用一眼レフカメラとして世界で初めてのオートフォーカス機能を搭載したニコノスRSが発売され、水中写真の描画力の大幅な向上が見られた。
撮影手法
水中と空気中における光の屈折率が異なることから、陸上と同じ感覚で撮影を行うとピンぼけが発生しやすい。この屈折率の違いにより、陸上と比較すると焦点距離がより長く、画角が狭くなり、被写界深度が浅くなる。また、水面が太陽光を反射する影響で深度に比例して減光する。減光の度合いは撮影を行う水の透明度に依拠する。水中の太陽光は空気中よりも吸収されやすく、その色により吸収の度合いが異なるため、もっとも吸収されやすい赤色は水深10メートルを超えるとほとんど感じられなくなり、水深20メートルを超えると青一色となる。そして水深30メートルを超えると青い光も急激に減少していく。
透明度の関係から、被写体に接近して撮影を行う機会が多いためフィッシュアイレンズ(魚眼レンズ)のような広角レンズが頻繁に採用される。
スポーツとしての水中写真
1958年に設立されたCMAS(世界水中連盟)により、水中スポーツとして水中写真に関する活動が推進されている。
「Underwater photography」(水中写真)はそのまま競技名として用いられている。競技参加者は2日間にわたって同じ範囲内で、指定された題材カテゴリの水中写真をスキューバダイビングによる潜水撮影で撮影し、審判員にカメラを提出、現像された写真は撮影者が分からない状態で公開され、審査委員、一般審査員によって採点するという競技で、1985年にイタリアで第一回世界大会が開かれて以降2年に1度の頻度で開催されている。
水中写真の研究活用
近年の通信技術の発達とレジャーとしての人気の高まりを受け、WebサイトやSNS上には膨大な数の水中写真が日々アップロードされている。こうした何百万枚もの写真と、写真に組み込まれた位置情報などを活用し、水中生物の生態調査や新しい種の発見などの研究に役立てる取り組みが推進されている。
脚注
外部リンク
写真 | 0.702003 |
2771 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%95%E3%81%8D%E4%BC%B8%E3%81%B0%E3%81%97%E6%A9%9F | 引き伸ばし機 | 引き伸ばし機(ひきのばしき)とは、写真フィルムの像を拡大・投影し、印画紙に焼き付けるための機械である。
引き伸ばし機がいつ頃発明されたのかははっきりとはわかっていない。しかし一般的になったのはライカの発売によるとされている。それまでのカメラはフィルムないし乾板を印画紙に密着させポジ像を得ていたが、35mmフィルムはそのままでは鑑賞が難しい大きさなので、エルンスト・ライツはライカのシステムの一環として引き伸ばし機を用意していた。
引き伸ばし機の構成
光源
初期の引き伸ばし機は太陽光を使うものもあったが、現在では専用の電球やコールドライトを使うものが主流である。ただし、プラチナプリントなど露光に紫外線を使う場合、紫外線蛍光灯を使う場合もある。
引き伸ばし用電球は一見普通の電球に見えるが、点灯スイッチを入れてから明るくなるのが早い仕様である。普通の電球はスイッチを入れると最初暗く点灯し、だんだん明るくなり、しばらく経って一定の明るさとなる。それでは露光時間を倍にしても露光量が正確な倍にならず、一種の相反則不規が発生する。プリントさえできれば良いのであれば代用できると言えなくもないが、露出をコントロールするためには引き伸ばし用電球を使用する必要がある。
照明方式
集散光式、散光式などがある。
集散光式
光量が大きく、シャープなプリントを作ることができるというメリットがある反面、フィルムのホコリや傷が目立つというデメリットがある。モノクロでは散光式より0.5号程度硬調になる。
散光式
フィルムのホコリや傷が目立ちにくいというメリットがある反面、光量の大きな引き伸ばし機を作ることが難しいため露光時間が長めになるというデメリットがある。モノクロではネガによってはコントラストの低いプリントになることがある。
モノクロ引き伸ばし機では集散光式、カラー引き伸ばし機では散光式を採用していることが多い。機種によっては、ヘッドの部分を変えることにより集散光式、散光式のどちらでも使うことができるようになっている。
引き伸ばしレンズ
引き伸ばしレンズはフィルムの像を拡大・投影するために用いられる。
カメラレンズの互換性が低いのとは異なり、ほとんどの引き伸ばしレンズはマウントにライカスクリューマウントを使っているため、さまざまなレンズメーカーのレンズを使うことが可能である。
ブランドとしてはローデンシュトックのロダゴンやロゴナー、シュナイダー・クロイツナッハのコンポノンやコンポナー、ライカのフォコター、コダックのエンラージング・エクター、富士フイルムのフジノンEXやフジノンESやフジナーE、ニコンのELニッコール、ミノルタのCEロッコールやEロッコール等が知られる。ただしカラー化、さらにはデジタル化に伴い引き伸ばし市場は縮小しており、上に挙げた中でも撤退したメーカーが多い。
大きいプリントを作る際にはヘッドの位置を上げなければならず小さいプリントを作る際にはヘッドの位置を下げなければならない。あまりにヘッドの位置が高いとピント合わせが大変であり、あまりにヘッドの位置が低いとイーゼルの開閉や覆い焼き等に支障が出るので、作るプリントの大きさとネガの大きさに合った焦点距離のレンズを選択する必要がある。使用する引き伸ばしレンズの焦点距離は撮影時に標準レンズと呼ばれる焦点距離を基本とし、大きいプリントを作る際には短め、小さなプリントを作る際には長めの焦点距離のレンズを選ぶ。具体的には
24×36mm(ライカ)判40mm-63mm
6×4.5cm判75mm-80mm
6×6cm判75mm-80mm
6×7cm判80mm-90mm
6×9cm判90mm-105mm
4×5in判130mm-150mm
が目安である。
フィルムキャリア
フィルムキャリアとは、フィルムを挟んで引き伸ばし機にセットするためのホルダーである。
各種フォーマット専用のもの、ユニバーサルキャリアという様々なフォーマットに対応できるものまで様々である。ユニバーサルキャリアにはフィルムの四辺を囲む羽根がついており、これをスライドさせることにより開口部の面積を変えることができる。
またガラスなし、片面ガラス付、両面ガラス付などのタイプに分かれる。
ガラスなし
値段が手頃なうえ取り扱いが容易である。ただし面積の大きいフィルムを使う場合、フィルムの平面性が問題になることがある。
両面ガラス付き
フィルムの平面性を保つことができる。ただし、ガラス面にホコリが付着したりニュートンリングを生じることがある。また価格が高い。
片面ガラス付き
ガラスなし、両面ガラス付きの双方の利点を得ようとするものである。
簡易にはアンチニュートンガラス2枚でネガを挟むことで代用でき、面倒ではあるが平面性も高く保持できる。
フィルター
カラー引き伸ばし機は、色調整用CPフィルター(イエロー・マゼンタ・シアン)を入れることによって色補正ができるようになっている。現在はダイヤルを回すことによって値を簡単に変えることができるダイクロイックフィルターを装備する製品が大半である。作業は若干煩雑になるが、モノクロ引き伸ばし機であっても撮影用のCCフィルタをフィルターポケットや引き伸ばしレンズの下に挿入することでカラー引き伸ばし機として使うことが可能である。
多階調印画紙を使う場合は専用のフィルターをフィルターポケットに挿入するのが一般的であるが、カラー引き伸ばし機の色調整機能を使っても可能である。
その他オプション機材
引き伸ばし機とセットで使うことができるオプション機材としては以下のようなものがある。
タイマー
印画紙に露光する時間を調整するものである。×10秒、×1秒、×0.1秒などの桁に分かれた露光時間調整ダイヤルがついており、スタートボタンを押すとセットした合計時間だけ出力がオンになる。時間の表示形式はアナログ式の物とデジタル式の物がある。引き伸ばし機によってはタイマーを内蔵している機種もある。また、露光と連動してセーフライトを消灯・点灯できるものもある。
フットスイッチ
足で踏むことにより露光させることができる。セーフライトも制御できるものもある。
引き伸ばし機の分類
フィルムフォーマットによる分類
使うフィルムのフォーマットにより
135フィルム用-各社のラインナップで入門用として位置づけられていることが多い。
135フィルム~120フィルム用- 6×6cm判以下、6×7cm判以下、6×9cm判以下に対応する製品があり、使用する最大のフォーマットにより選択する。
4×5in判以上用-小さいフィルム用に使うと光量損失が大きく、引き伸ばし機自体が巨大であり取り回しがしづらいため、プロや写真学校、レンタル暗室などでは事実上そのフォーマット専用としていることが多い。
の大きく3つに分けられる。
またこれらの引き伸ばし機以外にもミノックス判専用、16mmフィルム専用の引き伸ばし機なども存在する。
大伸ばし
多くの引き伸ばし機ではヘッドの部分を支柱を中心に180度回転させて床面投影、もしくは90度回転させて壁面投影させることができる。こうすることで全紙やロール紙などの大サイズの印画紙への引き伸ばしが可能となる。この場合イーゼルマスクを使用することができないため、粘着テープなどで壁面もしくは床面に直接印画紙を固定して使用する。
デジタル化の影響
自動的に焼き増しをするミニラボ装置が普及したことに加え、デジタルカメラの普及でフィルムカメラの需要が少なくなったため、2010年現在、引き伸ばし機単体の需要は少なくなりつつある。
主な引き伸ばし機メーカー
富士フイルム-日本のメーカーで引き伸ばし機など暗室用品などを扱い、現在は引き伸ばし機については販売終了している。
LPL -日本のメーカーで引き伸ばし機など暗室用品などを扱う。
ラッキー(LUCKY ) -日本の引き伸ばし機メーカーで、現在は、藤本写真工業の事業を継承したケンコーが扱っている。
杉藤-日本の光学機器メーカーで、引き伸ばしレンズを製造している。
ダースト(DURST ) -イタリアの引き伸ばし機メーカーで小型、中型引き伸ばし機を得意とする。以前はペンタックスが輸入代理店をしていた。
チャールズベセラー(Charles Beseler ) -アメリカの引き伸ばし機メーカーで、大型引き伸ばし機を得意とする。
オメガ(Omega ) -アメリカの引き伸ばし機メーカーで、大型引き伸ばし機を得意とする。
関連項目
引き伸ばし
写真フィルム
モノクロフィルム
ライカ
フォコマート-ライツ(現ライカ)製の引き伸ばし機
富士フイルム
富士フイルム引き伸ばし用レンズの一覧
ローデンシュトック
ローデンシュトック引き伸ばし用レンズの一覧
シュナイダー・クロイツナッハ
シュナイダー・クロイツナッハ引き伸ばし用レンズの一覧
外部リンク
富士フイルム黒白フィルム・関連製品
LPL
ラッキー
ダースト
チャールズベセラー
チャールズベセラー
光学機器
暗室
カメラ
写真用品 | 0.701886 |
2323109 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%99%E7%9C%9F%E5%B7%A5%E5%AD%A6 | 写真工学 | 写真工学(しゃしんこうがく)とは、写真をレンズを通して光学器械に拠り撮影し、画像を可視化するための応用光学と精密機械工学の技術分野を経て画像処理により印写変換に係る操作を研究する工学の学的領域をいう。
概要
この学門領域は「画像工学」(Image science)の分野に属し、光学レンズ・光学器械・光電変換・伝送・画像形成・画像処理・現像処理・可視化の分野を取り扱う。伝統的には,光を結像・画像(潜像)を形成するまでの応用物理系の分野と、その結像された潜像面の光(hν)のエネルギーを化学反応を経て可視化させる電気化学(励起エネルギーの光化学反応)と現像処理・色彩画像形成処理の分野の写真化学の物理化学系の分野が主流であるが、デジタル画像処理に拠る、等価回路を経て結像した光電画像を液晶画像として論理回路により可視化変換する電子工学系の分野が加わった。
写真工学の現在
現在では、伝統的銀塩系とデジタル画像系の二系統が並存し、最終成果物も画像処理を経た印画と、電子媒体の(01...マトリックス・BGR色分解)の論理構成画像によるデジタル画像の二種があり、前者が応用化学に属し、後者は電子工学に属する。現在同名の講義を有する高等機関は東京工芸大学工学部のメディア画像学科中「写真工学」(犬井正男担当)の講義課目等が残るのみである。かつて、学校設立時から2005年までには、東京工芸大学工学部および千葉大学工学部に「工学部写真工学科」が存在して印刷工学科と比肩し、上記の講義・実験・卒業研究を行っていた。
写真
工学の分野 | 0.70184 |
1533 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%89%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%82%A2 | ハードウェア | ハードウェア()とは、コンピュータなどのシステムにおいて、機械、装置、設備、部品といった物理的な構成要素をいう。ソフトウェアとの対比語であり、単に「ハード」とも呼ばれる。
転じて、コンピュータとは無関係な分野においても、物理的な設備・施設・車両などを「ハードウェア」、物理的な形を持たない規則・運用・教育・技術・ノウハウなどを「ソフトウェア」と呼ぶことがある。
語源
英語でハードウェア(hardware)は、本来は「金物類、金属製品」の意味であり、かつては木材製品などとの対比語として用いられた。例えば英語で"hardware store"は、日本で言う「金物屋」を意味する。
パーソナルコンピュータのハードウェア
脚注
関連項目
コンピュータ・アーキテクチャ
オープンソースハードウェア
金物
仮想機械
はあとうえあ
コンピュータの仕組み | 0.701837 |
17050 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%BA | コンタクトレンズ | コンタクトレンズ()とは、角膜に接触(コンタクト)させて使用するレンズの形態をした器具である。文脈によっては単にコンタクトとも呼ばれる。
分類
性能、使用目的、効果により分類できる。日本の医薬品医療機器等法の類別に着目した場合、以下のようなものがある。
視力補正用レンズ
近視、遠視、乱視を補正するための医療機器である(クラスIIIに該当)。同じく視力補正のために用いられる眼鏡との最大の違いは、コンタクトレンズは角膜の上に直接乗せ接触させる点である。材質によりハードコンタクトレンズとソフトコンタクトレンズに区別することができる。
日本における医療機器のクラス分類告示によれば、中分類名としての視力補正用レンズには下記の治療用コンタクトレンズ等も含まれるが、一般的名称(細分類)としての視力補正用レンズには、次のものがある。
再使用可能な視力補正用コンタクトレンズ
再使用可能な視力補正用色付コンタクトレンズ
単回使用視力補正用コンタクトレンズ
単回使用視力補正用色付コンタクトレンズ
薄いブルーなどの色付きのレンズは、まぶしさを軽減させるためではなく、取り扱い時の視認性を向上させるためのものである。
コラーゲン使用眼防護具
角膜を保護するために眼にのせるコラーゲン製の角膜シールド
角膜矯正用コンタクトレンズ
オルソケラトロジー治療に用いられるコンタクトレンズ
網膜電位計用角膜電極
網膜電位の測定時に電位信号を伝達するため、角膜表面または角膜近傍の粘膜に接触して使用する電極である。
眼科手術用レーザーレンズ
眼科手術用レーザとともに使用するレンズをいう。通常透明の物質で、眼球、眼窩または周辺の皮膚の組織を凝固または切断するために用いるレーザ光を治療部位へ導光するために用いられるものである。
検査用コンタクトレンズ(単回使用)
特定の眼科疾患または状態の診断を支援するために用いる、眼の前面に装着するコンタクトレンズのうち、単回使用のもの。
治療用コンタクトレンズ
眼病の治療の目的で使用するものである。眼の保護、前房の封鎖、薬剤の送達、角膜曲率の変更、または網膜の治療での使用を目的とする。日本では、医療機器(クラスIII(高度管理医療機器))である。
検査用コンタクトレンズ(再使用可能)
単回使用のものは類別上「視力補正用」に位置づけられるが、再使用可能な検査用コンタクトレンズは、類別上は「検眼用器具」とされる。この「検眼用器具」には、検眼レンズや隅角鏡などが分類される。
非視力補正用色付コンタクトレンズ(ファッション用カラーコンタクトレンズ)
再使用可能な非視力補正用色付コンタクトレンズ
単回使用非視力補正用色付コンタクトレンズ
非視力補正用色付コンタクトレンズは、視力の補正や治療・検査を目的とせず、ファッションのために虹彩部分の外観上の色を変えることを目的とするコンタクトレンズである。
他の視力補正用のコンタクトレンズも完全に無色透明なものは少なく、着け外しや手入れといった取り扱いの際にコンタクトレンズ自体を見やすくするために薄く着色されたものが多い。その場合添付文書の品名表示は「色付ソフトコンタクトレンズ」などとなっているが、これらは取り扱いの便のための着色であって瞳の外見を変えることを目的としていないので、通常カラーコンタクトレンズには含めない。カラーコンタクトレンズと言った場合は、取り扱いのために着色されたレンズは含まず、外観上の色を変えることを目的に濃く着色されたコンタクトレンズを指す。日本では「カラコン」と略称される。
審美目的であるため、日本においては以前は医療機器に該当しなかったが、カラコンの品質に起因する角膜炎や失明の報告が多数あったことを受け、2009年11月以降「再使用可能な非視力補正用色付コンタクトレンズ」「単回使用非視力補正用色付コンタクトレンズ」として医薬品医療機器等法による医療機器になった。(規制の経緯については後述)。
視力補正用コンタクトレンズ
特徴
眼鏡による近視矯正では物が小さく見えるとよく言われるが、近視の多くを占める軸性近視の場合、これは厳密には正しくない。軸性近視では凸レンズである角膜や水晶体が正視の場合より網膜から離れてしまっている。凸レンズには目から離れるほど物を大きく見せる効果があるので、軸性近視の者が裸眼で物を見た場合、凸レンズである角膜や水晶体が網膜から離れてしまっている分、正視より網膜に物が大きく映っている。眼鏡で近視を矯正すると、軸性近視により網膜像が拡大される効果と凹レンズにより縮小される効果が相殺して正視に近い大きさの像が網膜に映る。それに対してコンタクトレンズによる矯正では、角膜との間の距離がゼロに近いため、軸性近視により拡大されたままに近い大きさで物を見ることになる。強度の軸性近視により網膜が委縮して視力が出にくくなっている場合、コンタクトレンズによる矯正として網膜像を拡大されたままとすることにより視力が出やすくなる。
また、強度の屈折異常や左右の視力が大きく異なる場合には眼鏡での矯正が難しいことがある。人によってはそれ以上の左右差があっても案外平気で眼鏡で矯正できることもあるが、一般に、目安として左右で2D以上の差があると眼鏡による矯正が難しいとされる。頭痛や眼精疲労を伴うために長時間装用できない者も多い。このような場合はコンタクトレンズが好適である。また、角膜に直接装着するため、裸眼と変わらない広範囲の視界を得られる上に、レンズ自体が小さいことから度数が強くても厚さはほとんど変わらない。他にも、眼鏡を装着した場合と比べて、容姿を変えることなく視力を矯正することができる、といった美容・美観上の利点を目的とする者もいる。
近視を眼鏡で矯正したときには凹レンズのプリズム効果によって輻輳が助けられて読書などで近くを見るときも目をあまり内向きにせずに済み、目が疲れにくいという効果が得られるが、コンタクトレンズではこうした効果は得られない。また、近視を眼鏡で矯正したときには見かけの調節により老眼になっても近くのものがある程度見やすい効果もあるが、コンタクトレンズではこの効果もほとんど得られない。
眼鏡は寒い屋外から暖房の効いた室内に入ったときなどに結露でレンズが曇ることがあるが、コンタクトレンズは空調の効いた室内にずっといただけでもレンズが乾燥して眼に不快感を生じたり、レンズ表面の涙の膜が破壊されることにより見え方が曇ったりすることがあり、その対策としてコンタクトレンズ用の目薬を使用する必要が生ずることさえある。
片眼鏡や鼻眼鏡のような古い形式の眼鏡は使用中に外れて落ちてしまうことがあったが、今日一般的な眼鏡は、ずれやすいものでも精々鼻先にずれてしまう程度で、地面まで落下してしまうことは考えにくい。それに対して、コンタクトレンズは白目までずれてしまって視力矯正の役を果たさなくなったり、地面まで落ちてしまったりすることがある。
コンタクトレンズは、機能の面で眼鏡よりも優れた点もある反面、装用に伴う眼への負担が大きく、手軽さに欠け、制限も多い。洗浄や消毒を適切に行う、装用時間を守る、使用期限を守る、装用したまま眠らない、自覚できる異常が無くても定期的に医師の検診を受けるなど、製品の使用説明や眼科医の指示を守って正しく使用することが重要である。1日使い捨て型のコンタクトレンズは、洗浄や消毒を行う代わりにレンズを毎回破棄する。洗浄や消毒の不備による眼障害を防ぐため、洗浄や消毒自体をしない一日使い捨てのコンタクトレンズしか処方しない方針の眼科医もある。
角膜には血管が無いため、酸素の供給は外気から涙液を介在して行なわれる。コンタクトレンズを装用した状態では、酸素が涙液へ容易に取り込まれないため、角膜へも酸素が供給されにくくなり角膜への負担になる。どんなに酸素透過性が高いレンズでも、裸眼に比べると装用状態では角膜への負担となる。
ハードコンタクトレンズ
従来は材料にPMMA(Polymethylmethacrylate,ポリメチルメタアクリレート)というアクリル樹脂の硬質プラスチックを使ったもので、純粋なPMMAは、加工しやすく耐久性に優れていたが、酸素を通さないため、装用時間に限界があり装用時の違和感が大きいもので、現在はほとんど使われていない。現在、ハードレンズとして広く使用されている酸素透過性レンズ(O2レンズ、RGPレンズ、Rigid Gas Permeable Lens)と呼ばれるものは、PMMAにケイ素を加えることで酸素を透過するようにしたものであり、これは同時にハードレンズとしては比較的柔らかくなり、そのために乱暴に扱うとレンズが傷付くことがある。
ハードレンズはソフトレンズと違って、装用中にも瞬きの度にレンズが動くことにより、涙が入れ替わって涙に含まれる酸素を取り入れることができるため、角膜に多くの酸素を供給することができる。一般にハードレンズはソフトレンズに比べて単価は高いが取り扱いも容易であり、レンズの寿命もより長いため、長く使えば使うほどソフトレンズより安価となる可能性がある。
角膜に異常が起これば痛くて装用できなくなるため、角膜障害が重度になることが少ない。ただし、装着時の違和感はソフトレンズに比べて依然大きく、また激しい運動などの際にずれやすい。症例によってはハードコンタクトレンズしか使用できない場合もある。
角膜矯正用コンタクトレンズ
オルソケラトロジー用のレンズである。睡眠中に装用し、起床時に外すハードコンタクトレンズ。角膜形状を変形させることにより視力を矯正。レンズ自体に度を入れ、普通のコンタクトレンズとしての装用も可能。
ソフトコンタクトレンズ
素材はPoly-HEMA (ポリヒドロキシエチルメタアクリレート)あるいはPVP (ポリビニルピロリドン)というゲル状の合成高分子化合物(ハイドロゲル)を使った、水分を比較的多く含む含水性ソフトコンタクトレンズと、ブチルアクリレートとブチルメタクリレートの共重合体を使用した、水分を含まない非含水性ソフトコンタクトレンズ(現在日本で入手可能な製品は存在しない)とがある。
弾力性に富むので装着時の違和感が小さい反面、損傷しやすく、乾くと特に脆弱となる。
長期間使用するものでは、細菌が繁殖しないよう頻繁な洗浄と定期的な消毒が必要である。
ソフトコンタクトレンズには、1日や1週間程度まで手入れを行わずに用いる使い捨てタイプ(ディスポーザブル)と、若干の手入れを行いながら2週間ほどだけ使用する頻回交換型(フリークエントリプレースメント)の他に、手入れを行いながら1ヶ月や3ヶ月程度使用する定期交換型(プランドリプレースメント)も存在する。日本では一般的に一定期間の使用後に破棄をすることから1日、1週間、2週間、1か月、3か月タイプのソフトレンズを総称して使い捨てレンズと呼んでいる。
使い捨てレンズは、目から分泌されるタンパク質などの汚れがレンズに蓄積して目に悪影響を及ぼす前に新しいレンズと交換することで安全性を高めるものなので、レンズケアの方法やレンズの交換期限を遵守するなど、正しい使用方法が求められる。
従来のソフトレンズ素材では、酸素透過率を高めるために含水率を高める必要があった。ところが、含水率が高いほど脂質やタンパク質がレンズに沈着しやすく、衛生状態を保つには洗浄や殺菌作業の頻度が増してしまうという問題があった。新素材のシリコーンハイドロゲルは、含水率に頼らず高い酸素透過性が得られるため、このような問題を解決するとして注目されている。
ソフトコンタクトレンズはハードコンタクトレンズよりも装用感で優れているが、そのために角膜に障害が起きても自覚しにくく、重症になるまで放置してしまう結果になることがある。
乱視用コンタクトレンズ
ハードコンタクトレンズはレンズ自体が硬質なため、特に乱視用を謳っていない製品でもある程度までの角膜乱視であればレンズと角膜間を涙が埋める涙液レンズと呼ばれる効果により乱視矯正効果があるが、それでは矯正できない乱視を矯正するための乱視用ハードコンタクトレンズも存在する。通常、矯正に用いる曲面の位置によってフロントトーリック、バックトーリック、バイトーリックと区別されている。乱視矯正に特化したハードレンズではバックトーリックを採用している場合が多く、一般的にソフトレンズよりも矯正効果が高いとされる。
円錐角膜患者のハードレンズにおける乱視矯正ではフィッティングが特に重要となるため、多くの経験を持つ医師による処方が望ましい。
ソフトコンタクトレンズではレンズが軟質であり、レンズが角膜の形状に合わせて変形してしまうので前述のような効果は得にくく矯正しにくい。故に乱視用ソフトレンズでは乱視の方向(軸角度)に対し、適切な矯正度数を追加する特殊形状となっている。
乱視用でないコンタクトレンズは瞬目時のレンズの回転は問題にならないが、乱視用のコンタクトレンズの場合は特定方向に追加度数が入っておりレンズが回転しては乱視度数を入れたがためにかえって見にくくなるという逆効果になるため、レンズの下部に厚みをつけ、重力や瞬目時の圧力に応じて厚みのある方向が必ず下に保持されるように作られているプリスムバラスト設計や、レンズの左右のみを楕円状に厚みをつけ、瞬目時の圧力により厚みのある部分が横方向に保持されるダブルスラブオフ設計などにより乱視軸とのずれを防ぐ工夫が施されている。また、一部のメーカーではこれらを組み合わせにより回転を抑える機構を持つものも存在する。
しかし、通常のソフトレンズと比べると
回転抑止の工夫によりレンズ径が大きく厚くなりがちで、涙液交換が起こりにくいため張り付き感やくもりなどの装用感の悪化を招きやすく意識的な瞬目や点眼が必要なこと。
回転を完全には防止できないため見え方の質が低下しやすいこと。
追加度数の存在のため使用できる製法が限定され単価が高価であること。
製品の規格にない乱視軸では近似して使用しなければならないこと
強度近視用、遠視用との組み合わせでの製品があまり存在しないこと。
遠近両用との組み合わせが存在しないこと。
などが問題点である。
このような問題点のためソフトコンタクトレンズでは強い乱視でなければあえて矯正せずに乱視用でないソフトコンタクトレンズとし、近視を強めにあるいは遠視を弱めに矯正することで視力を出すことも多い。
乱視用ソフトレンズには細隙灯顕微鏡による観察で使用するための通常目視では観察できないガイドマークが存在し、眼科医による処方の際のフィッティング評価指標として用いられている。また、装用時の目安となるガイドマークや刻印などが入っていることもあり、これに従い装用することで適切な軸角度保持を補助するものも存在する。
検査用コンタクトレンズ
色付コンタクトレンズ
医療機器のコンタクトレンズが、その製造販売にあたって承認を受ける必要があるのに対し、美観のための度無し色付コンタクトレンズ(おしゃれ用カラーコンタクトレンズ、「カラコン」)は雑貨として扱われ、公的な品質の審査手続きはなかった。このため、粗悪な作りのカラーコンタクトレンズは、着色剤が溶け出し炎症を起こしたり、時には失明したりと、その品質に起因する事例も報告されていたが、これを直接規制する方法がなかった。なお、度入りカラーコンタクトレンズは、以前から医療機器となっている。
また、使い捨てレンズの継続使用や、眼科医の検査を受けずに装着する連続使用等、コンタクトレンズの不適切な使用に起因すると思われる眼病の増加が、眼科医や日本眼科学会から指摘され、日本国政府は「おしゃれ用カラーコンタクトレンズ」の規制に乗り出した。2008年(平成20年)7月10日に、厚生労働省・経済産業省が、医薬品医療機器等法の枠内で規制を行う方針を固め、2009年(平成21年)4月28日に、医薬品医療機器等法および関連省令等を改正し、同年11月4日に施行されて、以降は医療機器となった。
一部の指定自動車教習所の校則(規約)においては、たとえ視力を適性試験基準以上に矯正できていても、カラーコンタクトそのものを視力矯正器具として使用するところを禁じている学校もある。しかし、運転免許証の新規取得や更新時の適性検査では、書面上そのような規定は書かれてない。ただし、裸眼により試験基準を満たしている者が、カラーコンタクトレンズを装着して適性検査を受けてしまうと、免許の条件欄に眼鏡等が記載されてしまう可能性がある。その状態で裸眼で自動車を運転すると、運転条件の交通違反となり、反則金の対象となるので注意が必要である。
歴史
1801年にトマス・ヤングが、1823年にイギリスの物理学者ジョン・ハーシェルがコンタクトレンズに関する実験を行っている。コンタクトレンズの語は、ドイツの生理学者アドルフ・ガストン・オイゲン・フィック(Adolf Gaston Eugen Fick)の名付けた"Kontaktbrille"に由来する。製品としては、カール・ツァイスが1892年に試作し、1911年に製品化しているが、全て度無しのレンズであった。
当時は原料がガラスであり、角膜すなわち黒目の曲率に合わせるためには多くの形を用意する必要があった。そこで1931年にレンズを強膜と接触させ、角膜とは間に液体を入れることで直接レンズに触れさせないタイプの「角鞏膜コンタクトレンズ」が発明され、ヨーロッパを中心に主流となった。一方、米国ではアクリル樹脂であるPMMAを使った角膜に触れさせる、正確にはわずかに隙間を設ける形式の「角膜コンタクトレンズ」が急速に普及し、後にはコンタクトレンズといえば角膜コンタクトレンズを意味するようになった。
日本では、佐藤勉が角鞏膜コンタクトレンズを、水谷豊が角膜コンタクトレンズの研究を進め、しばらくの間脱落防止性能や装着時間などを競い合った。この頃には角鞏膜コンタクトレンズもアルギン酸と石膏を使ったモールディングで眼球の型を取った接触型のものができるようになった。一方、角膜コンタクトレンズは、曲率半径7.33 - 8.59で20段階に設定された角膜レンズ検査セットを患者の目に装着させて角膜の型を測定するという方法であった。
1508年:レオナルド・ダ・ヴィンチが視力矯正器具としてのコンタクトレンズのアイデアを考案した。但し、俗説であるとの意見もある。
1887年:アドルフ・ガストン・オイゲン・フィックにより初のガラス製コンタクトレンズが製作された。
1932年:イギリスのインペリアル・ケミカル・インダストリーズ(ICI)社により透明度の高いPMMAが開発され、同年、アメリカ合衆国のロームアンドハース社によって市場に導入される。
1936年:米国のオブリッグとミュラーがPMMAをレンズに使用できることを実証した。
1937年:ウイリアム・ファインブルームによりガラスとプラスチックの半合成レンズが作られる。
1940年:オブリッグにより全プラスチックのレンズが作られた。
1948年:アメリカのトヒーがPMMAを用いてハードタイプのコンタクトレンズの原型を作り出す。
1949年:名古屋大学の水谷豊博士が日本で初めて臨床試験に着手した。
1951年:水谷、円錐角膜患者に対し、臨床的に成功を収めた。
1951年:株式会社メニコン創業者田中恭一が日本初の角膜コンタクトレンズの実用化に成功した。
1960年代:チェコスロバキア(当時)のオットー・ウィフテルレは自ら発明したアクリル系ハイドロゲル(HEMA)を使い、ソフトコンタクトレンズを開発した。
1970年頃: RGPが登場した。
1971年:米ボシュロム社によって初めて製品化されたソフトコンタクトレンズが発売された。
1988年:米国では、アメリカ食品医薬品局(FDA)が使い捨てコンタクトレンズを認可した。
製造方法
コンタクトレンズの製造方法には以下のものがある。
キャストモールド製法(鋳型法)
スピンキャスト製法(遠心成型法)
レースカット製法(切削研磨法)
使い捨てコンタクトレンズではキャストモールド製法が主流となっている。
検査
コンタクトレンズの選定にあたっては以下の検査が必要となる
Sphere(SPH)・Power(PWR):度数
「-」は近視矯正で、「+」は遠視矯正で、「0」は度数が入っていないレンズ。視力矯正用のコンタクトレンズでは、度数0ならばコンタクトレンズを着けなければよいことなので、度数0のレンズは製造されない。治療用コンタクトレンズやカラーコンタクトレンズなどは、視力矯正の必要のない人も装用することから度数0のレンズも含めて製造されるか、銘柄によっては度数0のものしか製造されないこともある。
Base Curve(BC):湾曲度合
レンズの湾曲(カーブ)度合いのことである。ハードコンタクトレンズでは、度数と並んで重要な事項である。BCが不適切だと、瞳の上で動かなくなってレンズの下の涙が交換されず角膜障害に繋がったり、逆に動きすぎて外れてしまったりする。実際には中心部と周辺部とでカーブが異なり、また端部の形状も影響するので、単一の数値で適否が確実に分かるものではない。ある銘柄でBCいくつのレンズを処方されたことがあるからといって、違う銘柄でもそのBCのレンズがよいとは限らない。最適なBCであるか否かは、角膜にレンズを乗せてみて眼科医がレンズの動きを観察しなければ判断できない。一方、ソフトコンタクトレンズでは、レンズのカーブが角膜のカーブに合わせて変形するので、一種類のBCで多くの人に適合する。最終的には角膜にレンズを乗せてみた状態を眼科医が観察して適否を判断するが、ソフトコンタクトレンズでは一種類のBCしか用意されない銘柄が多いので、不適合の場合は銘柄自体を変更することになる。
Diameter(DIA):直径
一般的に日本で販売されているものは定型である。
Cylinder(CYL):乱視度数
眼鏡レンズは乱視度数-0.25Dから0.25D単位で用意されるが、乱視用コンタクトレンズは一番弱い度数でも-0.75D程度からで、その後の度数の刻みも大雑把である。弱い乱視は矯正せず、ある程度以上強い乱視も実際よりも弱くしか矯正せず、その分近視を強めに矯正して視力を出す前提の商品構成である。
Axis(Ax):乱視軸
眼鏡では全く同じレンズを眼鏡枠に違う角度ではめることで乱視軸を合わせるが、乱視用コンタクトレンズではレンズ自体をその乱視軸用に作る必要がある。あらゆる乱視軸に対応しようとすると製造すべきレンズ種類が膨大になりコストが増すので、1種類から3種類程度の乱視軸しか用意されない銘柄が多い。乱視軸がぴったり合わなくても近い乱視軸のレンズで済ます前提の商品構成である。
購入
購入方法
医薬品医療機器等法上は、コンタクトレンズの購入にあたって医師の診療は必要なく、世界からのインターネット通販も含めて、消費者が自由に購入出来る。一般的に、販売店併設の眼科クリニックでの眼科検診・診察・処方箋が求められるが、これは販売店の自主規制である。販売店が「医師の診断が必要です」と言うのは、法的に必要だという意味でなく、購入者の眼の健康のために必要だという意味である。
診療報酬
コンタクトレンズの検診料については、診療報酬を適用することが健康保険財政の無駄遣いだとして問題視され、厚生労働省は個別検査料の点数加算方式を改め「コンタクトレンズ検査料」が新設されることとなった。コンタクトレンズの値下げ競争が激化し、レンズの販売では殆ど利益があがらず、診療所での保険診療による報酬で利益を補填する事例が目立ったためである。
平成18年(2006年)度から、初診は387点(コンタクトレンズ患者が70%以上の診療所では193点)、何らかの疾病を伴う再診は112点(同56点)とされ、さらに2008年度からは、コンタクトレンズ処方に係わる診療が全体の30%未満の医療機関では検査料200点、眼科の常勤医師(10年以上の経験年数を有する)が1名以上勤務する保健医療機関でコンタクトレンズ処方に係わる診療が全体の40%未満の医療機関では検査料56点へ、と大幅な削減が施行された。これにより、全額自己負担(自由診療)とするクリニックも出てきている。高額化した検診を嫌って検診を受けないままコンタクトレンズを使用する者が増加し、コンタクトレンズによる眼障害が増えることが予想されるとして反対する意見もある。
また、医療と販売の分離の原則より、保険適用の眼科施設にての販売および特定の販売店舗への利益誘導は行政指導の対象となり、さらには眼科医院と販売店の間の個人情報の不適切な取扱も問題である。しかしながら、多くの眼科施設においては装用指示文書の発行を拒否するなど、医販分離の理念は徹底されていない。これらの諸問題の解決を図る法制度の整備が求められている。なお2006年度から、乳幼児の弱視や先天性白内障手術後の治療用コンタクトレンズと眼鏡には、保険適用されるようになった。詳しくは弱視#保険機関の対応を参照。
製造販売元
サンコンタクトレンズ
メニコン
シード
アルコン(旧チバビジョン)
オフテクス
ボシュロム・ジャパン(Bausch&Lomb、BAUSCH&LOMB)
ジョンソン・エンド・ジョンソン(アキュビュー)
HOYA
日本オプティカル
クーパービジョン(旧セイコーオプティカル→オキュラー社傘下)
アイミー(旧旭化成アイミー→クーパービジョン傘下→日本コンタクトレンズ傘下→スーパーマックス傘下)
レインボーオプチカル研究所
Innova Vision
ロート製薬
東レ(東レインターナショナル)
シンシア
アイレ
撤退した会社
ファシル(旧クラレ)
日本コンタクトレンズ
脚注
注釈
出典
関連項目
眼鏡
カラーコンタクトレンズ
ドライアイ
レーシック
シリコーンハイドロゲル
スマートコンタクトレンズ
外部リンク
日本コンタクトレンズ協会
レンズによる視力矯正- MSDマニュアル家庭版
コンタクトレンズ- MSDマニュアルプロフェッショナル版
目とメガネ・コンタクトレンズのFAQ+
レンズ
眼科学
医療機器 | 0.701529 |
1094353 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96 | モータードライブ | モータードライブ
モータードライブ(カメラ) -電動巻き上げ機能の無いカメラに取り付け、フィルム巻上げ高速化、高速連写を可能にするアクセサリー。
モータードライブ(望遠鏡) -赤道儀に取り付け、星の日周運動をキャンセルする装置。 | 0.701123 |
642678 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%B3%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9 | ピンホールカメラ | ピンホールカメラ()は、写真レンズを使わない針穴(ピンホール)を利用したカメラである。針穴写真機ともいう。
構造が簡単で容易に製作できるため、理科の教材や工作の題材としてもよく使われ、また、夏休みの工作の題材としては、時期的に撮影対象として適した明るくかつコントラストが強い被写体を得やすいという利点もある。
概要
被写体の各点において乱反射(散乱)した光のうち、ピンホールの1点に到達する光線のみを通すことで、像面に被写体の像を得るという、最も単純なカメラの方式であり、実用的なレンズの開発以前からあったカメラである、初期のカメラ・オブスキュラの原理と全く同じものである。
このカメラを簡単に作るには、箱(遮光が目的なので、光を透さない材料で余計な孔などが無いことが必要。暗箱)の一面の中央にピンホールを開ければよい。箱の反対面に、トレーシングペーパーなどを張った窓を作れば直接観察できる。ただし得られる像が、レンズの場合と比べてかなり暗いので、最低でも簡単なバイザ風のフード、できれば大型カメラでピントグラスの確認の際に使うような被り布(冠布)があるとなお良い。理想としては箱の内側は反射防止加工をし、内部反射を抑えることが望ましい。
写真機として写真を得るには、写真フィルム等の感光材料や撮像素子などを置いて像を得る。しかしやはり像が暗いため、露光時間を十分にとる必要があり、三脚などしっかりと固定する手段を考える必要があるのが、レンズによって高速なシャッター速度が得られるカメラの工作との違いである。
インスタントカメラ用の感光材料(いわゆるインスタントフィルム)を使うと、その場で結果が得られるので露出時間を加減しての撮り直しもでき便利である。特に、従来のピールアパート方式のインスタントフィルムは照射面側に像が得られるため反転させる必要があったが、富士フイルムのinstax(いわゆる「チェキ」)は裏面照射なのでそのままで像が得られる。伝統的な写真材料としては印画紙を使うのだが、その場合、ネガの反転像が得られるので、密着焼き(コンタクトプリント)の要領で再度反転しネガを得れば、正立したポジ像となる。
レンズ交換式一眼レフなど、レンズ交換式のカメラがあれば、レンズ代わりの蓋に使うボディキャップを加工するなどすると簡単である。
(レンズによる)集光によって像を作るのではないため、通常のカメラにおいてレンズの焦点に関して議論されるようなパラメータは基本的には無い。しかし、画角などについては焦点距離と全く同じである。すなわち、写真レンズの議論における理想的な無限に薄いレンズの中央がピンホールの位置であり、ピンホールからフィルム面までの距離が焦点距離に相当する。なお後述するが、理想的なピンホール径に関して被写体までの距離への依存性があるため、その点ではピンホール写真にもピントがあるが、実際の写真ではまずわかるようなものではない。
はっきりした像を得るためには、ピンホールの大きさは、一般にかなり小さくする必要があり(普通の大きさのカメラでは0.数mm程度、詳細は後述)、像が暗いため通常のカメラと比較して非常に長い露出時間を必要とする。典型的露出時間は、1秒から数時間、場合によっては1日くらいまでも露出することがある(これは、フィルムではなく印画紙を直接使う場合には、像が大きいことで面積あたりの光量が下がるのに加え、印画紙の感度がフィルムと比べて数段低めだという理由もある)。あるいは大光量のフラッシュを使うといった技法もある。
ピンホール径
波動光学により、理想的な(径が無限に小さい)点状のピンホールであっても、それを通った光が作る像は点ではなく、光線の回折によりエアリーディスクになる。そのため、ピンホールカメラをはじめ各種の光学系では、理想的な場合でも解像度に限界がある。顕微鏡などの性能の検討においては各種の理論式があるが(分解能の記事を参照)、ここではピンホールカメラの工作の目安程度として議論する。なお前述のようにピンホールカメラでは、その画角についてピンホールからフィルム面までの距離が、レンズを使った場合の焦点距離に相当するので、以下では便宜上その距離を「焦点距離」と呼ぶことにする。
被写体は無限遠であるとし、光の波長をλ、ピンホールの半径をr、焦点距離をbとすると、
の関係にあるとき、最も鮮明な画像となる(この議論では省いているが、係数が存在するはずでその値については議論があると思われる。本当に理想的なピンホール径を実際に求めるのであれば、実験的に行うことになろう。しかし、ピンホール径と「焦点距離」の間には、このような2乗(逆側から見ると平方根)に比例するという関係がある、という点については確かと見てよい)。
次に、近距離の被写体に対しては、以下の公式となる。この公式での、「c」は、焦点距離、「u」は、ピンホールから被写体までの距離、とする。
λを400nmとすると(これはかなり短い。理論的には、視覚に与える影響が大きいとされ、両端である赤と紫の中間である緑の波長で計算することも考えられる)、ピンホールの直径(mm) -焦点距離の長さ(mm)は、0.2 - 25、0.3 - 56、0.4 - 100、0.5 - 156、0.6 - 225、0.7 - 306、0.8 - 400、0.9 - 506、1.0 - 625となる。
さらに前述のような、ピンホール径と「焦点距離」の関係があることから、次のような議論が成り立つ。幾何的に、イメージサークルの径は焦点距離に比例する。一方で理想的なピンホールの径は焦点距離の平方根に比例するのであるから、ピンホールの径が理想的であるとすると、
より大きなカメラで大きな像を得ようとするほど、像は暗くなるが解像度は上がる
小さなカメラで小さな像を得た場合、(撮像素子の解像度は相応程度には高い必要はあるが)像の解像度は下がるが明るい像が得られる
というトレードオフがある(得た像の引伸しは理想的にできるものとする)。前者の理由により、作品づくりを探求するピンホール写真家はブローニー判やシートフィルムなど大きな感光材料を使うが、その場合(コストや取扱いの面倒さは置くとして)代償として長い露光時間か明るい被写体を必要とする。その逆が超小型ビデオカメラの類で、(ピンホールレンズ等と俗称しているものはレンズを併用しているが)NTSCでは走査線は525本であるなど解像度はたいして必要なく、撮像素子もフィルムカメラのイメージサイズに比べて極めて小さい一方、1コマあたりの露光時間が限られるため明るい像が必要なわけであるが、そういった条件にうまく一致する。詳細は注のリンク先を参照のこと。
カメラを大型にした側の極北としては、太陽観測専用に、焦点距離4m・ピンホール直径2.6mmとした例が知られている。
収差と口径食
レンズを使用しないため、パンフォーカス描写とレンズの特性に由来する収差が無いことはピンホールカメラの大きな魅力のひとつである。むろん絶対的に理想的なわけではなく、ピンホール径に由来する甘い像となることは不可避であるし、前述のように回折による限界もある。また、長い露光時間のために、静止した被写体でなければ「被写体ブレ」もある。
収差が無いという特性のため、かなりの広角まで樽型などの歪曲なしに撮影できることも魅力だが、原理的にコサイン4乗則による周辺光量低下は理論通りに発生するので限度がある。さらに、ピンホール周辺に厚みがあると、そのために一種の口径食のようにしてさらに周辺光量が低下する。そのため「ピンホールらしい」超広角撮影を狙う場合は、ピンホールの円の綺麗さだけではなく、周辺の厚みについても気を払う必要がある。
脚注
注釈
出典
関連項目
ピンホール友の会
カメラ | 0.701058 |
68522 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%83%AA%E3%83%86%E3%83%A9%E3%82%B7%E3%83%BC | 情報リテラシー | とは、情報と識字(リテラシー)を合わせた言葉で、情報を自己の目的に適合するように使用できる能力のことである。「情報活用能力」や「情報活用力」とも表現するが、文部科学省が定義する「情報活用能力」とは意味合いが異なる。また「情報=IT」との連想やインターネットの利用時において情報リテラシーが要求される等の理由から、しばしばコンピュータ・リテラシーと混同される。しかし、以下に定義されるように、本来必ずしもコンピュータと直結するものではなく、情報モラルと大きく同じ意味だと認識されている。
概要
アメリカ図書館協会(ALA)が1989年に発表した最終報告書は、情報が必要とされるときに情報を効果的・効率的に(1)探し出し、(2)精査し、そして(3)使うことができる能力を保持する人のことを情報リテラシー能力を保持している人と定義する。また、Shapiro & Hughes (1996)によるInformation literacy as a liberal artは、現代におけるリベラルアーツと定義する。つまり、中世の大学における三科(文法・論理・修辞)のように、現在の情報化社会において、コンピューターをただ使用するだけではなく、情報にアクセス、精査し、社会的、文化的、そして哲学的な状況・影響を知ることができる能力としている。
ニューヨーク州立大学では、修士・博士課程では絶対にあってはならない盗用も、情報リテラシー教育に含まれている。
北米においては、アメリカ図書館協会(ALA)の一部門である(ACRL)が「高等教育のための情報リテラシー能力基準」(Information literacy competency standards for higher education)(ACRL, 2000)を作成した。これを基に、オーストラリア・ニュージーランドの環境を加え、改変したのがAustralian and New Zealand Institute for Information Literacy (ANZIIL)が2004年に発行したAustralian and New Zealand Information Literacy Frameworkである。Australian and New Zealand Information Literacy Frameworkは、情報リテラシーが備わっている人には次の6つの要素が備わっているとする。下記6項目は原資料では細目に展開され、その中には「複数の情報源を使用しての意思決定」「他者の著作権・知的財産権への配慮」「他者の文化的背景等の尊重」等が記される。
情報に対するニーズを認識し、必要とする情報の性質と範囲を決定できる。
効果的に、そして、能率的に必要な情報を見付けられる。
批判的に情報や情報探索過程を評価できる。
収集した情報や自らの研究などから生み出された情報を管理できる。
より重要で新しい情報を適用して新しい概念や新しい理解を生み出せる。
理解しながら情報を用い、情報を用いるということの周囲にある文化的・倫理的・経済的・社会的な問題を認識できる。
「財団法人社会経済生産性本部認定UBA能力試験」のウェブサイトにある「情報リテラシーとは」は以下の記述をする。
情報は様々な形式で表されるため、情報リテラシーは、これまでの文字に代表される印刷物以外の媒体についても対象となる。
文字の読み書き以外にも、視覚、聴覚、コンピュータ(携帯機器、ネットワークを含む)に関する能力などが含まれる。
大きくは、情報を収める媒体に注目したメディア・リテラシーと、情報の高速多量の処理が可能なコンピュータに注目したコンピュータ・リテラシーに分けられる。
これらのことを踏まえると、「激しく変化する社会の中で生き抜くためには生涯学習が必須となり、そしてその方法をそれぞれが身に付けるためには情報リテラシー能力の獲得が必須となっているということ」、情報リテラシーとは、「私たちが社会生活を行っていく上で、媒体を問わずあらゆる情報に対する(1)情報ニーズを認識する能力(2)情報を発見・獲得する能力(3)情報及び情報探索過程を評価する能力(4)情報管理能力(5)情報に基づいて新たな理解を生み出す能力(6)情報の背後にある問題を認識する能力」であることが言えよう(『私たちの暮らしにとって情報リテラシーとは何か』より)。
情報リテラシーの日本的概念
日本では情報リテラシー理解は特有のものであり、国際的な理解とは異なる点がある。
日本では、情報機器を活用して情報社会を生きていく能力といったニュアンスで使われているようである。
図書館情報学者の根本彰は「情報リテラシー」の日本での理解とACRLによる定義(ACRL,2000)を比較、分析している。根本によれば、日本で理解されている「情報リテラシー」は、コンピュータシステムを利用する方法の習得であり、定型的な学習スキルを重視している。対して、ACRLによる定義における「情報リテラシー」は、情報環境全体から情報を得るための能力全般を指す。また、情報利用の認知的・評価的側面が重視されている。つまり、アメリカでは、図書館も含めた一般的な情報利用環境における情報のありようが問題とされており、コンピュータを用いた情報システムという情報環境だけを想定しているわけではない。また、利用するだけでなく、探索し、評価することに重点が置かれている。
また、インターネット利用について、日本とアメリカの情報リテラシー教育の違いがどのように現れているかにも違いがある。日本では、インターネットの技術的な部分やサービスの仕組みとそれを使用する方法に加え、セキュリティの問題、倫理的な問題、個人情報、著作権の保護についての一般的な注意を行う。対して、アメリカでは、技術的な部分は軽く済ませて、個々のサービスが何を提供するか、利用するためにはどのような方法があるのか、どのような情報が引き出せるのか、さらに情報の特性や利用方法の検討、内容のあり方、利用の仕方、内容の評価にまで踏み込む。
情報リテラシーにかかわる取り組みの経緯
世界全体にまたがる取り組み
情報リテラシー(Information Literacy)という言葉は、アメリカの情報産業協会会長のポール・ザコウスキー(Paul Zurkowski)が1974年に全米図書館情報学会議(NCLIS)にて発表した"The Information services environment, relationship and priorities ED 100391"で初めて使われた。ザコウスキーの講演では、市民の情報リテラシー向上のために民間セクターと図書館とが協力すべきことが提言された。
情報リテラシーという言葉が登場すると、デジタル情報社会においても図書館が利用者の知的プロセスに貢献することをアピールする概念として、図書館関係者を中心に発展した。
2002年、情報リテラシーのための活動への関心が世界規模で広まったため、国際図書館連盟(International Federation of Library Associations and Institutions, IFLA)内に設置されていた利用者教育ラウンドテーブル(the User Education Roundtable)が情報リテラシー分科会(Information Literacy Section, InfoLit)に拡充された。
2004年9月から2005年3月までのパブリックレビュー期間を経て、2006年に「生涯学習のための情報リテラシーガイドライン("Guidelines on Information Literacy for Lifelong Learning")」の最終ドラフトが作成・公開された。これは、IFLAのInfoLitが、情報リテラシープログラムを必要としている、あるいはこれから始めようとしている専門家に、実用的な枠組みを提供することを目的として作成したものである。情報リテラシーの概念や生涯学習との関連から、国際標準、組織としてどのように関わるか、アクションプランといった方針・手続き、学習に関する理論や、評価といった実践的な部分まで、段階を踏んでまとめられてる。
米国国内での取り組み
アメリカ図書館協会(American Library Association, ALA)内に設置された「ALA Presidential Committee on Information Literacy」の第1次報告において大綱が示され、1989年に同委員会からFinal Reportが発表されたのち、アメリカでは図書館での取り組みが進められていった。
日本国内での取り組み
日本で「情報活用能力」が公的に述べられたのは1986年の臨時教育審議会による『教育改革に関する第二次答申』が最初であるといわれている。その後文部省で1990年に『情報教育に関する手引き』が発行されたり、1992年に全国学校図書館協議会で『資料・情報を活用する学び方の指導』体系表がまとめられたり、1998年の小中学校学習指導要領の改訂の中で「生きる力の育成」が目玉とされ、その一環として情報活用能力が重要視されたりするなど、様々な取り組みが進められた。また、1998年に日本図書館協会から『図書館利用教育ガイドライン』が出版されたり、同年に京都大学で始まった全学共通科目「情報探索入門」で図書館が情報リテラシー教育支援の取り組みを行い、それが日本全国の大学へと広まっていくなどの経緯があった。90年代後半からインターネットの商用利用が拡大するとともに、業務能力の一環として捉えられるようになり、従来までの学究的な意味合いと区別するために、経済産業省、商工会議所などが「情報活用力」を用いるなど、同義語が拡大する傾向にある。
文部科学省は2003年から実施の後期中等教育の学習指導要項において、情報活用能力を育む新科目「情報」を設置した。また、2008年に中央教育審議会は、「学士課程教育の構築に向けて(答申)」を発表した。その中で、学士力(大学4年間で身につける学習成果)の汎用的技能(知的活動でも職業生活や社会生活でも必要な技能)として情報リテラシーが挙げられた。
脚注
注釈
出典
参考文献
関連文献
-一般情報教育の内容を、第1部「情報リテラシー」、第2部「コンピュータとネットワーク」、第3部「データサイエンスの基礎」とで構成し、その「情報リテラシー」の部を、「情報とコミュニケーション」、「情報倫理」、「社会と情報システム」、「情報ネットワーク」の四つの章で構成している。そこでは情報リテラシーをコンピュータやネットワークとは区別するととともに、情報環境や社会について、倫理的な問題も含めて広く取り上げている。
-1993年頃から2000年にかけての情報リテラシー教育の全体動向のレビュー
-2000年から2009年にかけての情報リテラシー教育の全体動向のレビュー
関連項目
情報活用能力
情報(教科)
情報教育
情報格差
パブリック・アクセス
科学リテラシー
メディア・リテラシー
大学図書館#情報リテラシー教育
外部リンク
文科省:情報社会の光と影
情報教育
情報学
メディア・スタディーズ
情報社会
情報技術
リテラシー | 0.700936 |
3151807 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B0%E3%83%8B%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%96%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0 | コグニティブコンピューティング | コグニティブ・コンピューティング()とは、自然言語を理解し、学習し予測するコンピュータ・システム、またはその技術を指す。大まかに言うと人工知能と信号処理の科学的分野に基づいたテクノロジープラットフォーム。これらのプラットフォームには、機械学習、推論、自然言語処理、音声認識と視覚(オブジェクト認識)、人間とコンピューターの相互作用、対話、物語の生成などが含まれる。
定義
現在、学界でも産業界でもコグニティブコンピューティングの定義については広く合意されていない。
一般に、コグニティブコンピューティングという用語は、人間の脳の機能を模倣し、意思決定を向上させる新しいハードウェアやソフトウェアを指すために使用されている。この意味でコグニティブコンピューティングは人間の脳/心が刺激をどのように感知、理由付けし、応答するかをより正確にモデル化することを目的とした新しいタイプのコンピューティングである。アプリケーションは、データ分析結果とユーザーインターフェースとを関連付け、特定のユーザーに向けてコンテンツを調整する。コグニティブコンピューティングにおけるハードウェアとアプリケーションは、より感情的で影響力の高いデザインを目指している。
認知システムが表す可能性のある機能は次のとおり。
アダプティブ
情報が変化し、目標と要件が進化するにつれて学習する場合がある。それらはあいまいさを解決し、予測不可能性を許容する。リアルタイムまたはほぼリアルタイムで動的データをフィードするように設計されている場合がある。
インタラクティブ
ユーザーと簡単にやり取りできるため、これらのユーザーは快適にニーズを定義できる。また、他のプロセッサ、デバイス、クラウドサービスや人とやり取りすることもある。
反復的かつステートフル
問題文があいまいまたは不完全な場合、質問をしたり、追加のソース入力を見つけたりすることで、問題を定義するのに役立つ。プロセス内の以前の対話を「記憶」し、その時点で特定のアプリケーションに適した情報を返す場合がある。
コンテキスト
意味、構文、時間、場所、適切なドメイン、規制、ユーザーのプロファイル、プロセス、タスク、目標などのコンテキスト要素を理解、識別、抽出できる。構造化および非構造化デジタル情報の両方を含む複数の情報源、および感覚入力(視覚、身振り、聴覚、またはセンサー提供)を利用できる。
ユースケース
音声認識
感情分析
顔検出
リスクアセスメント
不正検出
行動の推奨事項
認知分析
コグニティブコンピューティングブランドのテクノロジープラットフォームは通常、大規模な非構造化データセットの処理と分析に特化している。
ワープロ文書、電子メール、ビデオ、画像、音声ファイル、プレゼンテーション、ウェブページ、ソーシャルメディア、その他の多くのデータ形式は、分析と洞察の生成のためにコンピューターにフィードする前に、多くの場合、メタデータで手動でタグ付けする必要がある。従来のビッグデータ分析よりも認知分析を利用する主な利点は、そのようなデータセットに事前にタグを付ける必要がないことである。
認知分析システムの他の特性には、次のものがある。
適応性:認知分析システムは、機械学習を使用して、最小限の人間の監督でさまざまなコンテキストに適応できる
自然言語の対話:認知分析システムには、クエリを理解し、データの洞察を説明し、自然言語で人間と対話するチャットボットまたは検索アシスタントを装備できる
用途
教育
コグニティブコンピューティングが教師に取って代わることができないとしても、それは学生の教育における大きな推進力となる。教室におけるコグニティブコンピューティングは、基本的に個々の生徒ごとにパーソナライズされたアシスタントを持つことにより実現される。このコグニティブアシスタントは、生徒に教える際に教師が直面するストレスを軽減し、同時に生徒の学習体験を全体的に向上させる。教師が生徒一人ひとりに注意を払うことができないかもしれない可能性をコグニティブコンピューターが穴埋めする。一部の生徒には特定の教科で支援が必要な場合があるが、
多くの生徒にとって生徒と教師の間のやりとりは不安や気まずさを呼ぶおそれがある。コグニティブコンピュータのチューターの助けを借りることで、生徒は不安に直面する必要がなくなり、教室で学び、うまくやる自信を得ることができる。学生がパーソナライズされたアシスタントと教室にいる間、このアシスタントは学課の計画作成など、さまざまなテクニックを活用して、学生とそのニーズを調整および支援ができる。
健康管理
多くのハイテク企業が、医療分野で使用できるコグニティブコンピューティングに関連する技術の開発を進めている。これらの認知デバイスの主な目標の1つは、分類と識別の機能。この特性は発がん物質を特定する研究で非常に役立つ。検出できるこの認知システムは、コグニティブコンピューティングテクノロジーを使用しなかった場合よりも短い時間で、検者が無数の文書を解釈するのを支援することができる。このテクノロジーは、患者に関する情報を評価し、すべての医療記録を詳細に調べ、問題の原因となる可能性のある兆候を検索することもできる。
業界の仕事
コグニティブコンピューティングは、顧客のニーズを理解するビッグデータおよびアルゴリズムと組み合わせて、経済的な意思決定において大きな利点となる。
コグニティブコンピューティングとAIの力は、人間が実行できるほぼすべてのタスクに影響を及ぼす可能性を秘めている。これは人間の労働のそのような必要性がもはやないため、人間の雇用に悪影響を与える可能性がある。また、富の不平等も拡大するであろう。コグニティブコンピューティング業界のトップの人々は著しく豊かになり、雇用されなくなった労働者は貧しくなる。
コグニティブコンピューティングを利用する業界が増えれば増えるほど、人間が競争することは難しくなる。テクノロジーの使用が増えると、AI駆動のロボットと機械が実行できる作業量も増える。並外れて才能があり、有能でやる気のある人間だけが機械に追いつくことができるようAI / CCと共に競争する個人の影響は、人類の進路を変える可能性がある。
脚注
参考文献
関連項目
分析
人工ニューラルネットワーク
脳コンピュータインターフェース
認知的推論
セマンティックWeb
社会神経科学
使いやすさ
人工知能
認知科学
コンピュータと社会
情報教育
情報技術
コンピューティング | 0.7006 |
84655 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%85%E5%A0%B1%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%A0%E5%AD%A6 | 情報システム学 | 情報システム学(じょうほうシステムがく)は、情報システムに関する学問である。
概要
情報システム(学)という語は、浦昭二らによって提唱され、2005年には情報システム学会が設立されている。情報システム学会によれば、情報システム学が対象とする情報システムは、「単なるコンピュータ応用システムではない」という意味付けがされている(詳細は情報システム学会#概要を参照)。
関連項目
情報システム-情報システム学会
情報学
工学-システム工学
経営学-経営情報学-経営科学-オペレーションズリサーチ
プロジェクトマネジメント
外部リンク
学会関係
一般社団法人プロジェクトマネジメント学会(SPM)
情報システム学会(ISSJ)
社団法人情報処理学会(IPSJ) -情報環境領域(IE) -情報システムと社会環境研究会(IS)
社団法人電子情報通信学会(IEICE) -情報・システムソサイティ(ISS)
社団法人電気学会(IEEJ) -電子・情報・システム部門(C) -情報システム技術委員会(IS)
教育機関
長崎県立大学情報システム学部
文教大学情報学部情報システム学科
大阪工業大学情報科学部情報システム学科
電気通信大学大学院情報システム学研究科
大阪産業大学デザイン工学部情報システム学科
参考資料
黒川利明、『情報システム学入門』、牧野書店・星雲社、2006年、ISBN 4-434-07952-2
飯島淳一、『入門情報システム学』、日科技連出版社、2005年、ISBN 4-8171-6310-0
大槻繁雄・平井由土、『21世紀の情報システム学:インターネット時代に向けて』、槙書店、1999年、ISBN 4-8375-0655-0
浦昭二・細野公男・神沼靖子・宮川裕之、『情報システム学へのいざない:人間活動と情報技術の調和を求めて』、培風館、1998年、ISBN 4-563-01402-8
浦昭二(監修)・神沼靖子・内木哲也、『基礎情報システム論ー情報空間とデザインー』、共立出版、1999年、ISBN 4-320-02916-X
情報学
情報技術
システム科学
システム工学 | 0.700598 |
206025 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E5%BA%A6 | 光度 | 光度
光度(光学) (luminous intensity):測光・分光の分野で光源の明るさを表す量。単位立体角当たりの光束で表される。SI基本単位におけるカンデラである。
光度(天文学) (luminosity):天体の明るさを表す量。単位時間当たりのエネルギーの次元を持ち、1.の光度とは異なる物理量である。
光の単位 | 0.700498 |
429905 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%8A%80%E8%A1%93%E5%A3%AB%E8%B3%87%E6%BA%90%E5%B7%A5%E5%AD%A6%E9%83%A8%E9%96%80 | 技術士資源工学部門 | 技術士資源工学部門(ぎじゅつししげんこうがくぶもん)は、技術士国家資格のうちの1つ。文部科学省管轄。
試験科目
一次試験
基礎科目
適性科目
共通科目
専門科目
資源工学-資源の開発及び生産、資源循環及び環境
二次試験
筆記試験
必須科目
資源工学一般
選択科目
固定資源の開発及び生産
流体資源の開発及び生産
資源循環及び環境
口述試験
関連項目
技術士
日本技術士会
しけんこうかく | 0.700429 |
9637 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%B0%E5%AD%A6%E5%AE%9A%E6%95%B0 | 数学定数 | 数学定数(すうがくていすう)とは、なんらかの性質を持った定数である。
数学定数は、ふつうは実数体か複素数体の元である。数学定数と呼ばれうるものは、一つの変項を持ち、ZFC集合論により証明可能な論理式により、それを満足するただ一つの数として決定可能(definable)であり、ほとんどの場合はその値が計算可能(computable)である。
変数を斜体で表すのに対し、定数であることを明示するために、立体を使うことがある。
数学定数でないもの
数学定数と同じく定数と呼ばれるものに「物理定数」があるが、物理定数は「数」というより「量」であり、単なる単位系の取り方によって数値が変わる。たとえば、光速度は物理定数だが、単位を変えれば、と、数値が変化する。
微細構造定数のような無次元量の物理定数は単位の取り方に依存しないが、他の物理定数同様、その値は物理的な計測で決定され、ある数式で数学的に決定される数学定数とは根本的に異なる。
物理定数の場合、計測の条件(重力の差による「重さ」の変化など)や結果により、数学定数より大きな誤差(不確かさ)も生じるが、将来、数学的に決定され数学定数であることが判明する可能性はある。
「1インチをセンチメートルで表した値(= 2.54)」や「円周率を3や3.14、3.1415などにした数学定数のおよその値」のような、人為的に決められた数や、特定の場所で測定され便宜上「標準重力加速度(9.80619920 m/s2)」とされた重力加速度などは数学定数ではない。
名前に定数とついていても数学定数ではないものもある。
例えば、チャイティンの定数は、計算模型を指定しなければ値が決まらず、数学定数ではない。
主な数学定数
記事がない定数の詳細は英語版を参照。
「分野」欄の略記は次の通り:一般-数学一般、数論-数論、カオス-カオス理論、組合せ-組合せ数学、情報-情報理論、解析-解析学。
「性質」欄の「有理数」は整数以外の有理数、「代数的数」は無理数の代数的数または虚数の代数的数、「無理数」は代数的数か超越数か不明の無理数を表す。
記号は重複がある。
脚注
参考文献
ー10万以上ある〈特殊値〉の小数部分を逆引き電話帳の要領で纏めた書籍。
外部リンク
数表(100万桁表) -暗黒通信団
数学に関する記事 | 0.700261 |
2806992 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9%E8%A3%BD%E5%93%81%E4%B8%80%E8%A6%A7 | フォクトレンダーのカメラ製品一覧 | フォクトレンダーのカメラ製品一覧(フォクトレンダーのカメラせいひんいちらん)は、フォクトレンダーが製造したカメラ製品の一覧である。
オーストリア・ドイツ時代のカメラ製品一覧
プレート使用カメラ
110フィルム使用カメラ
116フィルム使用カメラ
118フィルム使用カメラ
119フィルム使用カメラ
120フィルム使用カメラ
スプリングカメラ
二眼レフカメラ
126フィルム使用カメラ
135フィルム使用カメラ
スプリングカメラ
レンジファインダーカメラ
一眼レフカメラ
コンパクトカメラ
ラピッドフィルム使用カメラ
ドイツ・フォクトレンダー・レンズ
ファインダー
特徴的な製品として以下の2種がある。
ターニット3(Turnit 3 ) -ヴィテッサT、プロミネント35I用に販売された。35mm、50mm、100mmを切り替えられる他135mmのカブセ式枠がある。アクセサリーシューに取り付けて使用する。
コンツール(Kontur ) -覗くと真っ暗で、枠だけが見える。両目を開けたまま片目でファインダーを覗くと片目で見える景色にフレームが浮き出して見える。ライカ判35mm用、6×6判用がある。
コシナ時代のカメラ製品一覧
脚注
参考文献
『クラシックカメラ専科No.2、名機105の使い方』朝日ソノラマ
『クラシックカメラ専科No.17、フォクトレンダーのすべて』朝日ソノラマ
かめらせいひんいちらん
カメラ製品の一覧 | 0.700166 |
1375879 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%9C%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9%E8%A3%BD%E5%93%81%E4%B8%80%E8%A6%A7 | エボニーのカメラ製品一覧 | エボニーのカメラ製品一覧は日本の木製大判カメラメーカーエボニーの製品一覧である。
120フィルム使用カメラ
レンズはリンホフボードに取り付けられたものを使用する。フィルムバックはグラフレックス規格のホルダーを使用する。
GP69F
SV23
SW23
23S
フィネス(Finesse )
4×5inシートフィルム使用カメラ
レンズはリンホフボードに取り付けられたものを使用する。フィルムバックは国際式、縦横差し替え式。「縮小カメラバック45/69」を介してグラフレックス規格のホルダーも使用できる。
ワイド4×5(1981年11月発売) -フィールド用に携行性を重視して設計されたハンディータイプビューカメラ。木製部分は黒檀製、金属部分はステンレス製。広角用凹ボードで焦点距離47mmから、通常の平ボードで焦点距離65mmから135mmのレンズが使用できる。前枠ライズ55mm、フォール15mm、シフト左右各55mm、センターティルト前後各20度、スイング左右各45度、繰り出し104mm。後枠ティルト前後各12度、スイング左右各5度、引き出し22mm。カメラバックはカメラ本体上部には水準器が設けられ、高いカメラ位置でも水準器が見えるよう鏡がついている。左手側にハンドベルトがつき手持ち撮影にも対応する。重量1370g。
SV45Ti(1986年12月発売) -木製部分はマホガニー製、金属部分はステンレス製。前枠ライズ42mm、フォール30mm、シフト左右各32mm、ベースティルト上90度下30度、センターティルト各20度、スイング左右各20度。後枠ライズ45mm、シフト左右各58mm、ベースティルト上90度下30度、センターティルト各20度、スイング左右各20度。ベッドダウン30度。フランジバックは標準蛇腹または万能蛇腹で55-540mm、袋蛇腹で55-230mm。重量2100g。
ニューワイド45(1988年3月発売) -携帯性を重視した広角レンズ専用カメラ。木製部分は黒檀製、金属部分はチタン製。前枠ライズ55mm、フォール23mm、シフト左右各38mm、センターティルト上下各20度、スイング左右各45度。後枠センターティルト上下各12度、スイング左右各5度。フランジバックは65-148mm。重量1500g。
SV45TE(1989年4月発売) - SV45Tiの木製部分を黒檀製、金属部分をチタン製に変更したもの。重量2700g。
ニュー45S(1990年7月発売) -前枠ライズ50mm、フォール25mm、シフト左右各38mm、センターティルト上下各20度、スイング左右各45度。後枠ライズ50mm、シフト左右60mm、センターティルト上下各20度、スイング左右各20度。フランジバックは65-275mm。重量2100g。
SW45(1990年10月発売) -広角専用カメラで、焦点距離47mmのレンズを平ボードで使用できる。
SV45U(1996年11月発売) -木製部分は黒檀製、金属部分はチタン製。広角用凹ボードで焦点距離47mmから使用可能。テレタイプなら焦点距離800mmまでのレンズが使用可能。前枠ライズ42mm、フォール20mm、シフト左右各32mm、ベースティルト上90度下30度、センターティルト各30度、スイング左右各20度。後枠ライズ45mm、ベースティルト上30度下90度、センターティルト各20度、スイング左右各20度。ベッドダウン30度。重量2700g。
SV45U2
45SU
RW45
5×7inシートフィルム使用カメラ
レンズはジナーボードに取り付けられたものを使用する。
SV57(1990年3月発売) - SV45Tiをベースに設計されている。
SV57E
SV57U
8×10inシートフィルム使用カメラ
レンズはジナーボードに取り付けられたものを使用する。
SV810(1990年3月発売) - SV45Tiをベースに設計されている。前枠ライズ80mm、フォール30mm。後枠ライズ80mm。それ以外のアオリ性能はSV45Tiに準じる。
SV810E
SV810U
SW810E
SW810U
カメラ製品の一覧 | 0.700089 |
63171 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%89%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9 | サウンドカメラ | サウンドカメラは、映画フィルムに光学サウンドトラックを焼き付けて音ネガ(サウンドネガ)を作成するための装置。光学録音機とも呼ばれる。本項で詳述する。
サウンドカメラは、映画などで用いられるフィルムカメラで音声の同時収録が出来るもの。フィルムに塗布された磁性体に音声信号を磁気的に記録する方式や、外部の録音機と同期する方式などがある。
サウンドカメラ(サウンドバカチョン)は藤子・F・不二雄の漫画『ドラえもん』に登場するひみつ道具で、架空のカメラ。ドラえもんのひみつ道具(さ)#サウンドカメラを参照。
概要
映画の音声は、磁気テープなどに録音された音声からサウンドカメラによってフィルム上に録音(光学リレコ)されることで一つのフィルムに画とともに記録される。音声記録のためにはフィルムと同期した送り穴を持つシネテープを用いたりフィルムに磁性体を塗布して磁気的に録音することも可能であるが、映画の上映用フィルムなどには複製の容易さや可搬性などから光学方式が広く用いられた。サウンドカメラには、光学模様によって音声波形を記録するアナログ方式と、デジタル音響システムに対応した信号を記録するためのデジタル方式のものが存在する。
アナログ方式
アナログのサウンドカメラによる記録方式は、音声信号の強弱をサウンドトラック帯の濃淡で表現する可変濃度型と、模様の幅で表現する可変面積型の二つに大別できる。可変濃度型では僅かなコントラストの変化が音声の歪みとして直接影響するため、プリントによる音質への影響が小さい可変面積型が主流となった。通常、映画の上映用フィルムには2chのステレオ信号が2列の光学模様として記録される。広く採用されているドルビーステレオ方式やDTSステレオ方式などでは、サラウンドなどを含めた4chの音声をマトリックス回路で2chの信号にエンコードした上で記録する。
デジタル方式
映画館のデジタル音響システムに対応した情報量の大きいデジタル信号を上映用フィルムに記録するために、デジタル方式のサウンドカメラによって高精細な二次元の符号パターンがフィルム上に「撮影」される。ドルビーデジタル方式ではパーフォレーション(フィルムの送り穴)の隙間に、SDDS方式ではフィルムの両端にそれぞれプリントされる。
関連項目
サウンドトラック
オプティカル・サウンド
映画技法
録音技術 | 0.699308 |
35403 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E5%85%B8%E7%89%A9%E7%90%86%E5%AD%A6 | 古典物理学 | 古典物理学(こてんぶつりがく、classical physics)とは、物理学において量子力学を陽に扱わない理論・手法のことである。特殊相対性理論、一般相対性理論もこれに含まれる。古典論とも呼ばれる。
現代物理学の対義語では必ずしもないので注意を要する。
対象
古典物理学には以下の様な分野が含まれる。
古典力学
ニュートン力学
古典解析力学(ラグランジュ力学、ハミルトン力学)
古典場理論
古典電磁気学(マクスウェルの方程式)
特殊相対性理論、一般相対性理論
古典熱統計力学
古典熱力学
古典統計力学
古典的なカオス理論
概要
物理系は、ある条件を満たす場合には近似的に古典物理学によって記述できる。古典物理学の法則が通用する範囲は、宇宙の大きさから原子や分子の大きさのレベルまでである。原子内または原子間では古典物理学の法則は破れており、現象の正確な記述ができない。
現代物理学における基本理論の一つであるであり、物性物理学における問題のほとんどは原理的には量子力学によって完全に記述されると考えられる。量子力学的効果は、特に分子・原子レベルやより小さなスケールでは本質的な効果を持ち、量子力学を考慮しない場合は、例えば原子が安定に存在し得ない等、現実と大きく異なる結果となる。原子・分子レベルの現象の古典論的扱いと量子論的扱いによる結果の大きな差異は、量子論や自然の本質を理解する上で重要である。
ただし、現実の複雑な系を量子力学を用いて描くことは不可能な場合がほとんどである。一方で量子力学的な効果は、原子レベルでは本質的な効果を持つが、マクロな系に対する影響は、実用的な理論・手法としては、量子力学的効果を無視したり、古典力学の範囲内で取扱い可能な形に埋め込んだりすることが行われる。このように量子力学を陽に扱うことを回避した理論・手法も古典論と呼ばれる。
数学的には、古典物理学の方程式にはプランク定数が現れない。対応原理やエーレンフェストの定理によると、系をプランク定数に比べて十分大きく、重くすることにより、量子物理学から古典物理学が導かれる。これが、日常生活レベルの巨視的な系では量子的な効果を気にしなくてもよい理由である。
古典論の体系の大半は、ニュートンから始まり量子力学にはいたらない期間に構築された非相対論的な古典力学であるが、量子力学と同時期あるいはそれ以降に構築され現代物理学の一角をなす相対性理論も、量子力学を考慮に入れない限りでは古典論に含まれる。このように物理学における「古典論」という言葉は、あくまで「量子論」の対義語であり、伝統的・現代的の対比で用いることは一般的ではない。なお、現代物理学という用語は一般に、量子論と相対性理論を含む20世紀から21世紀の物理学を表す言葉である。
関連項目
量子論
半古典論
物理学の分野
物理学の哲学
ht:Dezyèm lwa Newton | 0.698761 |
203239 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%83%AC%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%BA | フレネルレンズ | フレネルレンズ( )は、通常のレンズを同心円状の領域に分割し厚みを減らしたレンズであり、のこぎり状の断面を持つ。分割数を多くすればするほど薄くなるため、材料を減らし軽量にできる一方、同心円状の線が入ってしまう欠点や、回折の影響による結像性能の悪化が顕著になる。そのため、薄型化が特に有利な用途や、回折の影響を無視できる照明用などに用いられることが多い。
フランスの物理学者オーギュスタン・ジャン・フレネルによって発明された。
用途
照明
灯台や投光器などの照明系レンズなどに用いられる。当初、フレネルは、灯台用にこのレンズを設計した。灯台用レンズは巨大であるため、通常の設計では厚みがかなり大きくなり原材料費が高いこと、重量が重くなりすぎること、製造に手間がかかることからこのレンズを考案したと考えられている。
大型の物では、フレネルレンズの周囲にリング状のプリズムをも配置した物がある。この場合、中央部のフレネルレンズだけでは屈折角が大きすぎ水平方向に向けられない外周部の光も、プリズムによる全反射も利用して曲げることにより利用できる。プリズムへの入射光は一旦光源側に屈折し、全反射したのち再度屈折し水平方向に出射することになる(プリズムの三角の向きがフレネルレンズと逆であることに注意)。
また、カメラのフラッシュ用照明レンズとしても使用される。光源(通常はキセノンフラッシュランプ)の直前に取り付けられ、光が画面内にまんべんなく行き渡るようにカメラレンズの画角に合わせたものが選ばれる。
光学機器
簡易な拡大鏡などに使用される。この種のものは無色透明なプラスチック(アクリル樹脂、ポリスチレン、ポリカーボネートなど)を同心円状の溝を持つ薄板に形成することにより、平板なカードの様な形状でありながらレンズの役割を果たすようになっていることが多い。近年は断面を非球面とすることで、同心円状の溝を目立たなく、像を明るくしている製品がある。
レフレックスカメラ(一眼レフや二眼レフ)のファインダーにおいてフォーカシングスクリーン(すりガラス面など)の付近に置かれるフィールドレンズとしても、厚さや重さを減らすためにフレネルレンズが用いられる事が多い。ただし、単純なフレネルレンズが用いられることは少なく、通常は同一面上に用途に合わせた他の光学部品も形成した複雑なパターンを持っている。例えば、オートフォーカスでない一眼レフカメラの典型的なものでは、目視でのピント合わせを容易にするため、スクリーン中央には一対のスプリットプリズムとそれを囲むマイクロプリズム面とが配置され、それ以外の画面周辺部はフレネルレンズ面とされる。オートフォーカスの場合にはプリズム面が無い場合が多い。
リニアフレネルレンズ
フレネルレンズの原理を円柱レンズに応用したものはリニアフレネルレンズと呼ばれる。フレネルレンズでは溝が同心円状であり、光は一点に集光する。一方、リニアフレネルレンズは溝が平行直線状であり、光は直線上に集光する。
脚注
関連項目
回折レンズ-フレネルレンズと形状はよく似ているものの、原理は全く異なる。
外部リンク
第三管区海上保安本部灯台ONEタップビュー
レンズ
エポニム
フランスの発明 | 0.698702 |
299895 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B6%E3%83%BC | レーザー | レーザー()とは、(誘導放出による光増幅放射)の頭字語(アクロニム)であり、指向性と収束性に優れた、ほぼ単一波長の電磁波(コヒーレント光)を発生させる装置である。レーザとも表記される。レザーとも表記される場合もある。
レーザーの発明により、非線形光学という学問が生まれた。発生する電磁波は、可視光とは限らない。紫外線やX線などのより短い波長、また赤外線のようなより長い波長の光を出す装置もある。ミリ波より波長の長い電磁波を放射するものはメーザーと呼ぶ。
原理
レーザー光は、コヒーレント光を発生させるレーザー発振器を用いて人工的に作られる光である。
レーザー発振器は、キャビティ(光共振器)と、その中に設置された媒質、および媒質をポンピング(電子をより高いエネルギー準位に持ち上げること)するための装置から構成される。キャビティは典型的には、2枚の鏡が向かい合った構造を持っている。半波長がキャビティ長さの整数分の一となるような光は、キャビティ内をくり返し往復し、定常波を形成する。媒質はポンピングにより、吸収よりも誘導放出の方が優勢な、いわゆる反転分布状態を形成する。すると、キャビティ内の光は媒質を通過するたびに誘導放出により増幅され、特に光がキャビティに共振し定常波を形成している場合には再帰的に増幅が行われる。
キャビティを形成する鏡のうち一枚を半透鏡にしておけば、そこから一部の光を外部に取り出すことができ、レーザー光が得られる。外部に取り出したり、キャビティ内での吸収・散乱などによりキャビティ内から失われる光量と、誘導放出により増加する光量とが釣り合っていれば、レーザー光はキャビティから継続的に発振される。
媒質は反転分布を形成するため、三準位モデルや四準位モデルなどの量子力学的エネルギー構造を持っている必要がある。媒質のポンピングは、光励起、放電、化学反応、電子衝突など、さまざまな方法で行われる。光励起を用いるものの中には他のレーザー光源を用いる方法もある。また、半導体レーザーでは、ポンピングは電流の注入により行われる。
1958年、C・H・タウンズとA・L・ショウロウによって理論的に実現の可能性が指摘され、1960年5月16日にT・H・メイマンがルビー結晶によるレーザー発振を初めて実現した。
特徴
可干渉性(コヒーレンス)
レーザー光を特徴づける性質のうち最も重要なのは、その高いコヒーレンス(可干渉性)である。レーザー光のコヒーレンスは、空間的コヒーレンスと時間的コヒーレンスに分けて考えることができる。
光の空間的コヒーレンスは、光の波面の一様さを計る尺度である。レーザー光はその高い空間的コヒーレンスのゆえに、ほぼ完全な平面波や球面波を作ることができる。このためレーザー光は長距離を拡散せずに伝播したり、非常に小さなスポットに収束したりすることが可能になる。この性質は、レーザーポインターや照準器、また光ディスクのピックアップ、加工用途、光通信など様々に応用する上で重要である。空間的にコヒーレントな光は、白熱灯などの通常光源と波長オーダーの大きさを持つピンホールを用いることでも作り出すことが出来る。しかし、この方法では光源から放たれた光のごく一部しか利用できないため、実用的な強度を得ることが難しい。空間的にコヒーレントな光を容易に実用的な強度で得られることがレーザーの最大の特長のひとつである。
一方、時間的コヒーレンスは、光電場の周期性がどれだけ長く保たれるかを表す尺度である。時間的コヒーレンスの高いレーザー光は、マイケルソン干渉計などで大きな光路差を与えて干渉させた場合でも、鮮明な干渉縞を得ることが出来る。干渉縞を得ることの出来る最大の光路差をコヒーレンス長と呼び、時間差をコヒーレンス時間と呼ぶ。レーザーの時間的コヒーレンスは、レーザーの単色性と密接な関係がある。一般に、時間的コヒーレンスの高い光ほど単色性が良い。特に、完全な単色光の電場は一定の周波数の三角関数であらわされるので、そのコヒーレント長は無限大である。高い時間的コヒーレンスを持つように配慮して設計されたレーザーは、ナトリウムランプなどよりもはるかに良い単色性を示す。レーザーの時間的コヒーレンスはレーザージャイロのように干渉を利用した応用において重要である。また、レーザーの単色性は、レーザー冷却などの用途に重要である。
パルス発振
レーザーのもうひとつ重要な特徴は、ナノ秒~フェムト秒程度の、時間幅の短いパルス光を得ることが可能な点である。チタンサファイヤレーザーの高次高調波発生などではアト秒の時間幅も実現されている。レーザー以外の光パルス光源としてフラッシュランプ(キセノンランプ)、LEDなどがあるが、レーザーに比べて出力が低い。
パルスレーザーは短い時間幅の中にエネルギーを集中させることが出来るため、高いピーク出力が得ることができる。レーザー核融合用途などの特に大がかりなものでは、ペタワットクラスのレーザーも使われる。また時間幅の短いレーザーパルスは、時間とエネルギーの不確定性関係のため広いスペクトル幅を持つ。パルスレーザーは、時間分解分光や非線形光学、またレーザー核融合などの分野で重要な道具である。レーザーを用いた応用物理研究分野などでは、ボーズアインシュタイン凝縮へパルスレーザーを使用することで、数論上の方程式を物理実験具現化することに成功している。フェムト秒のパルス光を発振させる為に連続光からパルス発振へ変換させるミラー(共振器内部の鏡)に半導体可飽和吸収ミラー(SESAM)を用いたレーザーも使用されている。
高分離解析時間、高分解性能の利得を応用しながら必要な出力を保つため、フィードバック制御機能が追加されないシンプルな媒質として欧米ではSESAMを用いたシンプルなレーザーへのさらなる応用と研究が期待されている。連続光を反射せず、ある程度保持して溜めてから出すというSESAMの特性はパルスレーザーに物理的消耗変化として現れる。この場合、放熱管理がレーザー自体の寿命と利得を左右する。
歴史
基盤となる理論
1917年、アルベルト・アインシュタインの論文Zur Quantentheorie der Strahlung(放射の量子論について)がレーザーとメーザーの理論的基礎を確立した。アインシュタインは、電磁放射の吸収、自然放出、誘導放出についての確率係数(アインシュタイン係数)に基づいて、マックス・プランクの輻射公式から新たな公式を導き出した。
1928年、Rudolf W. Ladenburgは誘導放出および負の吸収という現象が存在することを確認した。
1939年、Valentin A. Fabrikantは誘導放出を使って「短い」波長を増幅できる可能性を予言した。
1947年、ウィリス・ラムとR. C. Retherfordは水素スペクトルに明らかな誘導放出を発見し、誘導放出について世界初のデモンストレーションを行った。
1950年、アルフレッド・カストレル(1966年ノーベル物理学賞受賞)は光ポンピング法を提案し、数年後にBrossel、Winterと共に実験で確認した。
メーザー
1953年、チャールズ・タウンズは、大学院生のJames P. GordonとHerbert J. Zeigerと共に世界初のマイクロ波増幅器を開発し、メーザーと名付けた。この装置はレーザーと同様の原理に基づくが、赤外線や可視光線ではなくマイクロ波を増幅するものである。ただし、タウンズのメーザーは連続出力ができなかった。
同じ頃、ソビエト連邦のニコライ・バソフとアレクサンドル・プロホロフが独自に量子振動について研究し、2つのエネルギー準位を使って連続出力可能なメーザーを開発した。
これらのメーザーシステムは基底状態に落ちることなく誘導放出でき、したがって反転分布になっている。
1955年、プロホロフとバソフは反転分布を作り出す手段として多準位系の光ポンピング法を示唆し、それが後にレーザーポンピングの主な手法となった。
1964年、タウンズ、バソフ、プロホロフは「量子エレクトロニクスの分野に基本的な貢献をし、メーザー・レーザーの原理に基づく発振器と増幅器をもたらした」としてノーベル物理学賞を受賞した。
タウンズは、ニールス・ボーア、ジョン・フォン・ノイマン、イジドール・イザーク・ラービ、ポリカプ・クッシュらがメーザーは理論的に不可能だと反対していたことを明かしている。
レーザー
1957年、ベル研究所に勤めていたチャールズ・タウンズとアーサー・ショーローは、赤外線レーザーを真剣に研究し始めた。研究が進むと彼らは赤外線をやめ、可視光線に集中するようになった。当初この概念は「光学メーザー」と呼ばれていた。
1958年、ベル研究所は光学メーザーについての特許を出願。同年、ショーローとタウンズはフィジカル・レビュー誌に光学メーザーの理論計算の原稿を送り、それが掲載された(Volume 112, Issue No. 6)。このとき取得された特許が、レーザーに関する基本特許となっている。
1958年、プロホロフも独自に開放共振器の使用を提案し、ソ連国内でそれを発表した。
この頃、コロンビア大学の大学院生ゴードン・グールドは、励起したタリウムのエネルギー準位についての学位論文を書いていた。グールドはタウンズと会って電磁放射の放出について話し合い、1957年11月に、"laser"や開放共振器のアイデアについてノートに書いていた。
ベル研究所では、ショーローとタウンズが開放共振器を使ったレーザーの設計で合意に達していた。このとき、彼らはプロホロフの発表も、グールドの未発表のアイデアも知らなかった。
1959年の学会で、ゴードン・グールドは論文The LASER, Light Amplification by Stimulated Emission of Radiationの中で初めて"LASER"という言葉を公けにした。グールドは、マイクロ波が"maser"なら、同様の概念には全て"-aser"を後ろにつけ、光(light)なら"laser"、X線なら"xaser"(ゼーザー)、紫外線なら"uvaser" (ユヴェーザー)と呼ぶことを想定していた。しかし、レーザー(laser)以外の用語は定着しなかった。
グールドのノートにはレーザーの用途として、分光法、干渉法、レーダー、原子核融合などが書かれていた。彼はその考えを発展させ、1959年4月に特許を出願した。しかし米国特許商標庁はグールドの出願を却下し、1960年にベル研究所に特許を与えた。そのため、28年におよぶ訴訟となった。グールドは1977年にマイナーな特許で勝利を勝ち取ったが、光ポンピングとガス放電を使ったレーザー装置についての特許をグールドに与えることを法廷が特許庁に命令したのは1987年のことだった。
1960年5月16日、カリフォルニアのヒューズ研究所のセオドア・メイマンが、コロンビア大学のタウンズやベル研究所のショーローやTRG (Technical Research Group)のグールドに先駆けて、最初のレーザー発生装置を開発した。メイマンのレーザー装置は、ポンピング用の閃光放電管で合成ルビーを励起させるルビーレーザーであり、694ナノメートルの波長の赤い光を発生させる。しかし3準位レーザーであるため、パルス発振しかできなかった。
直後にイラン人物理学者Ali JavanとWilliam R. Bennett、Donald Herriotが、ヘリウムとネオンを使った初のガスレーザーを開発した。Javanは1993年にAlbert Einstein World Award of Scienceを受賞した。
また、ボソフとJavanは量子振動子による半導体レーザーの概念を提案した。
1962年、Robert N. Hallがヒ化ガリウムを使った半導体レーザー素子を開発し、850ナノメートルの近赤外線レーザー発生に成功した。直後にニック・ホロニアックが可視光の半導体レーザーの実験に成功した。初期のガスレーザーと同様、初期の半導体レーザーはパルス発振しかできず、液体窒素で冷却する必要があった。
1970年、ソ連のジョレス・アルフョーロフ、林厳雄、ベル研究所のMorton Panishがそれぞれ独自に常温で連続発振できるヘテロ接合構造を使った半導体レーザー素子を開発した。
1985年、チャープパルス増幅(Chirped Pulse Amplification ; CPA)法が提案された。これにより、原子、分子内の電子が核から受ける電場以上の高強度レーザーの発振が可能となった。
種類
媒質による分類
レーザーは媒質(誘導放出を起こす物質)によっていくつかの種類に分けられる。
固体レーザー
媒質が固体であるものを固体レーザーという。通常、結晶を構成する原子の一部が他の元素に置き換わった構造を持つ人工結晶が用いられ、代表的なものにクロムを添加したルビー結晶によるルビーレーザーや、YAG結晶中のイットリウムを他の希土類元素で置換した種々のYAGレーザーがある。ネオジム添加YAGを用いたNd:YAGレーザーは波長が1064nmの赤外線を発する。ただし非線形光学結晶を用いて高調波を発生させることによって、波長532nmの緑色の光(SHG)や355nmの紫外線(THG)なども出すことができる。また、サファイアにチタンを添加した結晶を媒質に使用したチタンサファイアレーザーがあり、超短パルス発振が可能である。
固体レーザーの励起光源としてレーザーダイオードを用いたものをDPSSL(Diode Pumped Solid State Laser、ダイオード励起固体レーザー)という。
液体レーザー
媒質が液体であるレーザーを液体レーザーといい、色素分子を有機溶媒(アルコールなど)に溶かした有機色素を媒質とした色素レーザーがよく利用されている。色素レーザーの利点は使用する色素や共振器の調節によって発振波長を自由に、かつ連続的に選択できることである。色素レーザーは1970年代以降超短パルスレーザーとしてよく用いられたが、より性能の良い固体レーザーに置き換えられていった。
ガスレーザー
媒質が気体のものはガスレーザー(気体レーザー)と呼ばれる。中性原子レーザー(ヘリウムネオンレーザー(He-Ne。赤色)など)、イオンレーザー(アルゴンイオンレーザー(Ar-ion。主に青色または緑色)など)、分子レーザー(炭酸ガスレーザー(赤外)、窒素レーザー(紫外)など)、エキシマレーザー(主に紫外)、金属蒸気レーザー(金属蒸気を電子線等で励起して誘導放出する。ヘリウムカドミニウムレーザーなど)などに分けることができる。化学レーザーを気体レーザーに含める時もある。
半導体レーザー
媒質が半導体である物は固体レーザーとは区別され、半導体レーザーあるいはレーザーダイオード(LD)と呼ばれている。レーザーポインターや光ディスクの読み書きなど低出力でもよいレーザーに主に使用されている。安価で小型なため、利用が広まっている。
自由電子レーザー
真空中で光速に近い自由電子に磁界を加え進路を変えるとき発生する放射光を利用するレーザーは、自由電子レーザーと呼ばれる。
化学レーザー
化学反応励起による誘導放出を利用するレーザーを化学レーザーと呼ぶ。酸素-ヨウ素化学レーザー(en)やフッ化水素レーザーなどがある。高出力のレーザーを発振できる。
ファイバーレーザー
希土類を添加して利得を広帯域化させたファイバーをレーザー媒質として用いる。安価でコンパクト・高出力。超短パルスを作成するには性能が制限されるが、レーザー加工によく用いられる。また、光通信用途としても利用される。
発振方式による分類
レーザーは光の強さの時間的な変化でも分けることができる。
断続的にレーザー光を出すパルスレーザーと、連続的にレーザー光を出すCWレーザー(Continuous wave laser)とに区別することができる。前者は、複数の波長で位相をそろえて同時に発振させるモード同期という手法を用いるか、またはQスイッチという原理を用いて、瞬間的に非常に強いパワーを出すことが可能である。後者はパルス動作と比べると瞬間的なパワーは低いが、高い時間的コヒーレンスを得ることが可能で、そのため干渉などの現象を観測しやすい。
波長による分類
レーザーは発振される光の波長によって分類することも出来る。
多くの場合、使用されるレーザー媒質によって、レーザーの発振波長はほぼ決まる。多くのレーザー媒質は、ごく限定された波長範囲でしか利得を持たないからである。ただし、色素レーザーやチタンサファイアレーザーなど、広い波長範囲で利得を持つ媒質も存在する。これらの場合は共振器長や、利得スペクトルの形状などにより発振波長が決まる。また自由電子レーザーでは、媒質となる電子ビームの利得波長を自由に選ぶことが出来るため、任意の波長で発振することができる。
赤外線レーザー
波長によっては、大気中での減衰が最も小さい
可視光線レーザー
当たった場所を視認することが出来るのでレーザーポインターなどに使用されている。
紫外線レーザー
X線レーザー
軌道電子の遷移を起源とするものをX線と呼ぶため、レーザーの原理上はガンマ線の領域であっても硬X線レーザーと呼ぶ。
大気中での伝送に適した波長
大気中に伝播するレーザー光は、気体分子による吸収や散乱により減衰される。気体分子による吸収の少ない波長は可視~赤外領域の一部に存在し、大気の窓と呼ばれる。一方、気体分子による散乱は波長が長い光ほど少なくてすむ。このため、大気中で長距離を伝送する用途には、大気の窓の中に発振波長をもつ赤外線レーザーが用いられる。たとえば炭酸ガスレーザーは、大気中の伝送させる用途によく用いられるレーザーのひとつである。
X線の高出力レーザーを空気中に照射すると、気体分子をプラズマ化させ、プラズマから放射される光を見ることができる。このとき、レーザーのエネルギーは、空気をプラズマ化させることに使われて激しく減衰してしまい、長距離を伝播させることは難しい。
アイセーフレーザー
1.4μmから2.6μmまでの波長のレーザー光は角膜で吸収され、網膜まで達しにくいため、マーケティング的にこのように呼称される事がある。ただし、これらの波長のレーザーを「アイセーフ」と呼称することは、実際に安全であるのは比較的弱い出力の連続光レーザーのみであるため、誤解を招く。これらの波長でも、出力が強かったり、ピーク出力が高いQスイッチレーザーなどでは、容易に角膜を焼き,深刻な肉眼への障害を招きうる。また、それほどの強度ではなくても、肉眼への損傷が想定され得る。
レーザー安全の規格においても、アイセーフレーザーはクラス1を表すと明記されており、特定の波長のレーザーをアイセーフと呼称することへの危険性への注意がなされている。
応用
レーザーは、多くの分野で利用されている。
医療分野
歯科用レーザー
レーシック(眼科)
光凝固術(眼科。初期の網膜剥離、網膜裂孔の治療に用いる)
ホクロ・メラニン斑の除去(皮膚科)
下鼻甲介粘膜焼灼治療(耳鼻科、鼻炎の治療手術に炭酸ガスレーザーを用いる)
LAUP(Laser assisted uvulopalatplasty、口蓋垂軟口蓋形成術)(耳鼻咽喉科、睡眠時無呼症候群やいびきの改善手術に用いる)
選択的前庭破壊術(耳鼻科、中重度のめまいの改善手術にアルゴンイオンレーザーを用いる)
レーザーメス
科学分野
測量計(光波測距儀)、粒径分析、非破壊検査
LIDAR(レーザーレーダー)
レーザー走査顕微鏡
レーザー送電
レーザー核融合
レーザー冷却
宇宙船の推進(レーザー推進)
レーザー同位体分離(レーザーウラン濃縮を含む)
レーザーガイド星
情報・家電分野
レーザーポインター
光ディスクドライブ(CD・DVD・MO・MD等)
光通信
ページプリンタの感光体への書き込み
バーコードスキャナ
レーザーマウス
工業分野
レーザー加工機(切断、穴あけ、彫刻など)
レーザー溶接
はんだ付け、ワイヤーストリッピング
半導体露光用光源
軍事
銃の照準器(レーザーサイト及び一部のドットサイト)
レーザー誘導(誘導爆弾)
目潰し用レーザー兵器(ZM-87、規制が議論されている兵器)
対空レーザー兵器(THEL)
弾道ミサイル迎撃用空中発射レーザー(AL-1A、A-60)
娯楽
レーザーライトショー
ホログラフィー
建築
避雷装置(レーザーで大気を電離して避雷針にする。レーザー誘雷)
安全基準とクラス分け
レーザーは出力の低いものでも、直視すると失明の危険があり注意が必要である。国際機関である国際電気標準会議(International Electro-technical Commission、略称IEC)の60825-1「レーザー機器及びその使用者のための安全指針」により、レーザー機器の出力、レーザー光線の波長などによる、クラス分けがなされており、クラス毎に労働衛生安全管理体制の整備が必要となる。
国内における安全基準
JIS(日本工業規格)
JIS C 6801「レーザー安全用語」(廃止規格)
JIS C 6802「レーザー製品の安全基準」
アメリカにおける安全基準
ANSI(米国規格協会)
ANSI Z 136.1「レーザーに関する安全な使用」
FDA(米国食品医薬品局)
FDA 21CFR PART1040_10and1040.11「保護と安全のための放射線規制法」
クラス分けと制約条件
上記JIS C 6802の平成17年改訂を元にしたクラス分け。
クラス1
合理的に予見可能な運転状況下で安全であるレーザー。どのような光学系(レンズや望遠鏡)で集光しても、眼に対して安全なレベルであり、クラス1であることを示すラベルを貼る以外は特に対策は要求されていない。
クラス2
可視光のみに規定され、眼の保護は「まばたき」などの嫌悪反応により行われることによりクラス1なみの安全が確保されるレーザー。
クラス1M
合理的に予見可能な運転状況下で安全である302.5 - 4000nmの波長範囲の光を放出するレーザー。光学系で覗かない限りは安全なレベルである。
クラス2M
可視光のみに規定され、眼の保護は「まばたき」などの嫌悪反応により安全が確保されるレーザー。光学系で覗かない限りは安全なレベルである。
クラス3R
直接のビーム内観察は潜在的に危険であるが、その危険性はクラス3Bレーザーに対するものよりも低いレーザー。製造者や使用者に対する規制対策がクラス3Bレーザーに対し緩和されている。クラス1あるいはクラス2のAELの5倍以内である。鍵やインタロックを取り付ける必要がない点で、その上のクラスとは異なっている。
クラス3B
連続発振レーザーで0.5W以下、パルスレーザーで10~5Jm/m~2以下のもの。直接見ることは危険なレーザー。直視をしなければ安全なレベル。鍵やインタロックを取り付ける必要がある。使用中の警報表示などが必要。
クラス4
散乱された光を見ても危険なレーザー。皮膚に当たると火傷を生じたり、物に当たると火災を生じたりする恐れのあるものを含む。出射したビームは必ずブロックするなどの対策が必要。鍵やインタロックを取り付けることや、使用中の警報表示などが必要。
脚注
注釈
出典
関連項目
量子エレクトロニクス
化学レーザー
戦術高エネルギーレーザー
AL-1
誘導放出
メーザー
航空レーザー測量
非線形光学
気体レーザー
発光
外部リンク
一般社団法人レーザー学会
一般社団法人日本光学会
電子工学
量子力学
光学
光源 | 0.698687 |
2278715 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%A4 | マイクロレンズアレイ | マイクロレンズアレイ()とは、ロッドレンズを束ねてアレイ状にしたもの。あるいはマトリックス状にレンズをアレイ状に面加工したもの。
用途
画像の結像系に使用されたり、デバイスの光利用開口率を上げるための光学系として用いられる。加工の形状によっては、3次元ディスプレイなどに用いられるレンチキュラーレンズとしても用いられる。
脚注
関連項目
バーチャルリアリティ
ライトフィールドカメラ
光学 | 0.697798 |
37018 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%8D%E5%8A%9B%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%BA | 重力レンズ | 重力レンズ(じゅうりょくレンズ、)とは、光源と観測者の間に分布する質量であり、特に銀河集団などといった、その重力の効果により光の進行を曲げる程度の質量規模のものをいう。恒星や銀河などが発する光の進行は、進路上にある天体等の重力場の影響で曲がるため、光学レンズに似た効果が生じる。
光源と観測者の位置関係および重力源の規模によっては、届いた光の像が如実に変形する。ひとつの光源から届く光が複数の像に分かれたり、球状の天体が弓状に歪んで見える。その効果を、英語では"gravitational lensing"、日本語で「重力レンズ効果」と呼ばれる。また、重力レンズによって生じるリング状の像は、特に"Einstein ring(アインシュタインリング、)"と呼ばれる。
原理
光が曲がることは一般相対性理論から導かれる現象で、一般相対性理論の正当性を証明した現象のひとつである。光は重力にひきつけられて曲がるわけではなく、重い物体によってゆがめられた時空を進むために曲がる。対象物と観測者の間に大きい重力源があると、この現象により光が曲がり、観測者に複数の経路を通った光が到達することがある。これにより、同一の対象物が複数の像となって見える。光が曲がる状態が光学レンズによる光の屈折と似ているため重力レンズといわれる。
その効果(重力レンズ効果)の概念図を右列に示した。1つの銀河から発せられた光(白い矢印)が、中央にある重い天体の影響によって曲げられ、それぞれ別の経路で地球へと届く。地球上の観測者からは、あたかも2つの同じ天体があるように見える。オレンジ色の矢印は見かけの光の経路である。
なお、複数の像はそれぞれ別々の経路を通ってきた光であるため、一般的に観測者(地球)までの到達時間が異なる。そのため、それぞれの像の光が対象物からでたのは異なる時刻である。
分類
3つの種類に分類される。
強い重力レンズ(strong lensing)
レンズ源の影響が強く、アインシュタインリング、弓状に変形した像(arc)、複数の像など、光の曲げられる現象が明らかに観測されるもの。
弱い重力レンズ(weak lensing)
レンズ源の影響が比較的弱く、多くの天体の光線データを集計することによって、統計的にレンズ効果と判定される現象。宇宙初期の背景マイクロ波が地球に届くまでに銀河形成によって揺らぐ統計などの研究がなされている。
マイクロレンズ(microlensing)
非常に小さいレンズ源のため、光の曲がりではなく、光の明るさの時間変化によってレンズ現象だと推定される現象。銀河内のダークハローを形成する小天体が、地球から遠方の天体との視線方向を横切るときなどに発生する例が知られている。
歴史
最初に重力レンズ効果を論文に発表したのは、(: )であり、それは1924年のことであった。しかし、フヴォリソンの論文はあまり注意を引かなかった。そのため、1936年にアルベルト・アインシュタインが対象物、重力源、観測者が一直線上にならんだ場合にはリング状の像が見えると発表したことによって、重力レンズ効果は有名になった。
このことから、リング状に見えるものを「アインシュタインリング」というが、最初に指摘したのはフヴォリソンであるから、「フヴォリソンリング(Khvolson ring)」あるいは「フヴォリソン-アインシュタイン・リング(Khvolson-Einstein ring)」と呼ぶべきとの議論がある。
位置関係が一直線上からズレたり、重力源が無視できない大きさを持つと、それらの程度により弓状の像やゆがんだ複数の像が見える。弓状の像のものが「アインシュタインリング」と呼ばれることも多い。
論文の発表当初、アインシュタインは、対象物、重力源、観測者が一直線上にならぶ現象は発生する可能性が低いため観測は不可能だろうと考えていた。しかし、1979年の3月に隣接するクエーサー像のスペクトルがまったく同じであることが発見され、8か月後には、これが銀河を重力源とする重力レンズによるものであることが分った。このクエーサーQSO B0957+561は、その形からツインクエーサーという固有名をもつ。以降多くの例が発見され、2005年現在で約100の重力レンズによる多重像クェーサー系が報告されている。
アインシュタインの発表の経緯
アインシュタインが重力レンズ効果を発表するまでの経緯で、風変わりな逸話がある。
1936年の春に、チェコの技術者でアマチュア科学者のルディ・マンドル(Rudi W. Mandl)が、米国ワシントンの米国科学アカデミーを訪ねてきた。彼は自分が考え出した重力レンズのアイディアを論文にしたいと切望していたのである。その熱心な依頼と、拒否するにはもったいないアイディアゆえに、木で鼻をくくったような返事もできず、彼を持てあましたアカデミーの担当者は、相対性理論にとってこれ以上ない権威者のアインシュタインに頼むように言い、おまけにプリンストン高等研究所までの旅費まで渡したのである。
1936年4月17日にマンドルは、プリンストン高等研究所にアインシュタインを訪ねた。意外なことに、アインシュタインは珍客にとても親切でマンドルの話を熱心に聞いてくれた。マンドルは自分のアイディアを熱く語り、大科学者の説得に成功したのであった。アインシュタインは、マンドルのアイディアを論文にして学術雑誌『サイエンス』1936年12月4日発売号に投稿したが、その論文"Lens-like action of a star by the deviation of light in the gravitational field "の冒頭に次のように書いている。「しばらく前に、ルディ・マンドルが訪ねてきて、ちょっとした計算結果を出版して欲しいと私に依頼した。本稿は彼の希望に応じたものである。」
アインシュタインは、論文発表後、『サイエンス』誌の編集者ジェームズ・マッキーン・キャッテルに宛てた1936年12月18日付の手紙の中で、「あの論文はマンドル氏をなだめるために書いたのです。マンドル氏が私に強いたあの小論を雑誌に載せていただいて感謝しています。ほとんど価値のない論文ですが、あの可哀想な男は喜んでいるでしょう。」と書いている。
観測と利用研究
測定に近似を必要とするX線観測による質量測定と異なり、重力源の質量を直接光学的観測により測定することができる点が特筆すべき特徴である。
銀河団による重力レンズ効果を観測することで、銀河団自体の質量を測定することが可能である。この結果とX線測定によって見積られた質量を比較すると、明らかに差がある。これは銀河団周辺に分布するダークマターによる質量が寄与しているためと考えられ、すなわち重力レンズ効果はダークマターの質量測定に用いることができる現象であると言える。
2003年(平成15年)12月18日に東京大学などの研究グループが、SDSS J1004+411にて、それまで知られていた重力レンズよりも2倍以上光が曲がる変化を発見した。
また、重力マイクロレンズを利用した太陽系外惑星の探索を、PLAN、OGLE、MOAなどのチームが行っている。
2015年には、超新星としては初めてSN Refsdalが重力レンズによる多重像として観測された。重力分布から今後別の場所で新たな像が観測されることが期待され、成功すれば超新星爆発をその出現前から観察できることになる。
重力レンズ効果の例
ツインクエーサー- 1979年発見。史上初めて発見された重力レンズ効果の実例。
アインシュタインの十字架- 1984年発見。中央の銀河による重力でクエーサーが四重の像になっている天体。
SDSS J0946+1006 -中央の銀河の重力で2個の銀河が二重のアインシュタインリングを形成している天体。
MOA-2007-BLG-192Lb - 2008年発見。重力マイクロレンズ効果によって発見された太陽系外惑星。
2015年発見。重力レンズ効果が生み出すアインシュタインリングが、楕円銀河などの絶妙な配置と相まって、観測地点から「チェシャ猫の顔」のように見える銀河団。cf.チェシャ猫#銀河団。
脚注
注釈
出典
参考文献
関連項目
重力
レンズ
ツインクエーサー
外部リンク
コトバンク
系外惑星の大陸の形まではっきり見える!NASAの太陽重力レンズ計画がすごい(講談社「現代」,2020年12月25日記事)
天文現象
物理現象
天体物理学
一般相対性理論
レンズ
光学
天文学に関する記事 | 0.697796 |
100751 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B4%E3%81%AE%E5%8F%A4%E5%85%B8%E8%AB%96 | 場の古典論 | 場の古典論、もしくは古典場の理論(classical field theory)は、(物理的な)場がどのように物質と相互作用するかについて研究する理論物理学の領域である。古典的という単語は、量子力学と協調する場の量子論(単に、場の理論とも言われる)と対比して使われる。
物理的な場は各々の空間と時間の点に物理量を対応させたとして考えることができる。例えば、天気図を考えると、ある国の一日を通じての風速は、空間の各々の点にベクトルを対応させることにより記述できる。各々のベクトルは、その点での大気の運動の方向を表現する。日が進むにつれて、ベクトルの指す方向はこの方向に応じて変化する。数学的な観点からは、古典場はファイバーバンドル((covariant classical field theory))の切断として記述される。古典場理論という用語は、電磁気と重力という自然界の基本的力のうちの2つを記述する物理理論に共通に使われる。
物理的な場の記述は、相対論の発見の前に行われており、相対論に照らして修正された。従って、古典場の理論は通常、非相対論的と相対論的なカテゴリ分けがなされる。
非相対論的場の理論
単純な物理的な場として、いくつかのベクトル力の場がある。歴史的には、初期に重要視された場は、電場を記述するマイケル・ファラデー(Michael Faraday)により電気力線が記述されたことであった。その後、重力場も同様な記述がなされた。
ニュートン重力
重力を記述する古典場の理論は、ニュートン重力であり、2つの質量の間の互いの相互作用としての重力を記述する。
任意の質量を持つ剛体Mは、他の質量を持つ剛体への影響を記述する重力場gも持っている。空間内のrにある点でのMの重力は、rに置かれた小さなテスト質量(test mass)へ及ぼす力Fをmで割ることで決まる
である。mはMよりはるかに小さいとすると、mの存在はMの振る舞いへの影響を無視できることが保証される。
ニュートンの万有引力の法則に従うと、F(r)は、
により与えられる。ここにはMからmへの線に沿ってmからMを指す方向の単位ベクトルとする。従って、Mの重力場は、
となる。
慣性質量と重力質量は前例のないレベルの正確さで等価であるという実験的観察は、重力場の強さと粒子に及ごす加速度による影響を同一視することへと導く。このことが等価原理の出発点であり、一般相対論が導かれる。
重力の力Fは(conservative)であるので、重力場gは、
として、重力ポテンシャルΦ(r)の勾配の項により書き表わすことができる。
電磁気学
静電場
電荷qで(charged test particle)は、電荷だけでちからFを持つ。このことを電場Eと書くことができ、となる。このクーロンの法則を使い、単独の帯電した粒子による電場を
と表すことができる。電場は(conservative field)であるので、スカラーポテンシャルV(r)により、
と書くことができる。
静磁場
経路ℓに沿って流れる固定したカレントIは、上記の電場の力とは異なる量の力を近くの帯電した粒子に及ぼす。速度vで運動する電荷qを持つ近くの帯電粒子にIの及ぼす力は、
である。ここにB(r)は磁場であり、ビオ・サバールの法則
によりIより決定される。磁場は一般には保存量の場ではないので、スカラーポテンシャルで書き表すことが普通はできない。しかしながら、(magnetic vector potential) A(r)を使い、
と書き表すことができる。
電磁気学
一般に、電荷密度ρ(r, t)とカレント密度J(r, t)の双方が存在すると、電場と磁場の双方が発生し、両方とも時間とともに変化する。これらを決定するのが、EとBをρとJとへ直接関係づける一連の微分方程式(系)であるマクスウェルの方程式である。
代わりに、スカラーポテンシャルVとベクトルポテンシャルAでこの系を記述することもできる。遅延ポテンシャルとして知られる一連の積分方程式(系)は、VとAをρとJから算出することができる、このことから、電場と磁場が関係式
を通して決定される。
流体力学
流体力学は、エネルギー運動量の保存則により関連付けられる圧力、密度、流速率を持っている。質量の連続方程式とニュートンの法則は、密度と圧力と速度場を結び付けている。
ここにベクトル場は、(velocity field)である。
相対論的場の理論
古典場理論の現代の定式化では、相対論的場の理論が自然の基本的側面として認識されていて、一般にローレンツ共変性が要求される。場の理論は数学的にはラグラジアンを使い表現される傾向を持つ。ラグランジアンは、作用原理を考えたときに場の方程式(field equations)や理論の保存則を発生させる機能を持っている。
単位として、真空中の光の速度は1に等しいとする。
ラグランジュ力学
場のテンソルが与えられると、ラグラジアン密度と呼ばれるスカラーを、場のテンソルとこのテンソルの微分から構成することができる。
汎函数の作用は、このラグランジアン密度を時空上の積分することにより、
として構成することができる。従って、ラグラジアン自体は、全空間でのラグラジアン密度の積分に等しい。
従って、作用原理を適用することにより、オイラー=ラグランジュ方程式は、
として得られる。
相対論的場
2つの最も有名なローレンツ共変な古典場理論を以下に記述する。
電磁気学
歴史的には、最初の(古典)場の理論は、電気的な場と磁気の場を分けて記述する場の理論であった。数々の実験の後で、これら2つの場が関係している、実際、同じ電磁場という場の2つの側面であることが判明した。マクスウェル(James Clerk Maxwell)の電磁場の理論は、電荷をもつ物質と電磁場の相互作用を記述する。この場の理論の最初の定式化は、電気的な場と磁気的な場を記述するためにベクトル場を使った。特殊相対論の出現により、テンソルを使ったより完全な定式化が発見された。電気な場と磁気的な場を使う2つのベクトル場の替わりに、これら2つの場を同時に表現するテンソル場が使われる。
既に、電磁ポテンシャルと電荷・電流密度(電磁4カレント)が知られているが、任意の時空の点での電磁場は、反対称(0,2)-階の電磁テンソル場
により記述される。
ラグランジアン
この場の力学を得るためには、場からスカラーを構成してみる。真空では、である。相互作用項を得るためにゲージ場理論を使うことができて、これから
を得る。
方程式
オイラー・ラグランジェ方程式は、
であることを言っているので、この式と組み合わせることで、求めている結果を得る。
となっていることは容易にわかる。左辺は、トリッキーであるが、の各要素に注意すると、計算の結果はとなる。と同時に、運動方程式は、
となる。これはベクトルの方程式で、真空での方程式がマックスウェル方程式となる。他の2つは、次式に示すFがAの4-curlであるという事実から得られる。
ここに、コンマは偏微分を表す。
重力
ニュートン重力が特殊相対論と整合性がないことが判明した後、アルベルト・アインシュタイン(Albert Einstein)は一般相対論と呼ばれる重力の新しい理論を定式化した。この理論は、重力を質量により時空が歪められるという幾何学的現象として扱い、重力場を数学的には計量テンソルと呼ばれるテンソル場により表現している。アインシュタインの場の方程式は、この曲率がどのように生成されるかを記述している。場の方程式はアインシュタイン・ヒルベルト作用を使い導出される。をリッチテンソルと計量テンソルの項で書き下したリッチスカラー曲率とすると、ラグラジアン
,
を変分することは、真空の場の方程式
を導出することを意味する。ここに、はアインシュタインテンソルである。
関連項目
場の量子論
(Classical unified field theories)
共変ハミルトン場の理論(Covariant Hamiltonian field theory)
(Variational methods in general relativity)
(Higgs field (classical))
脚注
参考文献
.
外部リンク
物理学
時空 | 0.697252 |
1277851 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%BA | カラーコンタクトレンズ | カラーコンタクトレンズ()とは、角膜(黒目)に直接接触させて使用するコンタクトレンズに茶や青などの色彩やデザインを施した器具である。
特徴
カラーコンタクトレンズには、視力矯正用カラーコンタクトレンズと視力矯正を目的としないカラーコンタクトレンズ(おしゃれ用カラーコンタクトレンズ)がある。おしゃれ用カラーコンタクトレンズは、ソフトコンタクトレンズしか存在せず、材料としてHEMA(2-ヒドロキシエチルメタクリレート2-Hydroxyethylmethacrylate)が使用されている。着色方法は、環状着色が行われており、着色を薄くHEMAに溶かし込んだもの、表面(眼球側に接する側、まぶたに接する側のいずれか)に着色剤を印刷したもの、着色剤をHEMA材料の間にはさみサンドイッチ構造にして包み込んでいるもの、などがある。
これまでおしゃれ用カラーコンタクトレンズは「雑貨」の扱いであったが、目の障害が多発したために、おしゃれ用カラーコンタクトレンズも視力補正用カラーコンタクトレンズと同じように、高度管理医療機器として薬事法の規制対象となった(2009年11月4日施行)。
使用目的
カラーコンタクトレンズは特に10代~20代の若い女性に人気である。その最大の魅力は、さまざまな色やデザインを楽しみながら自分好みのお洒落な目元を演出できることにあり、近年は色やデザインのバリエーションが充実している。これまでコンタクトレンズは視力補正用がメインだったが、おしゃれ用カラーコンタクトレンズの登場で、視力が悪くない人もファッションの一部として楽しむことができるようになった。
読者に高い支持を得ているカリスマモデルや読者モデルの多くがカラーコンタクトレンズを使用しており、モデルやタレントとタイアップしたカラーコンタクトレンズも多数販売されている。
その他の使用例として、テレビドラマや映画・演劇などで特殊メイクなどとともに俳優が使用する場合や、コスプレにおいてコスプレイヤーが使用する、などが挙げられる。
メリット&デメリット
メリット
カラーコンタクトレンズの急速な普及と発展により、いろいろなバリエーション(色・デザイン)を気軽に楽しめるようになった。カラーやデザインによって目元や顔の印象は大きく変わり、その変化をTPOに合わせて自由に楽しむことができる。
デメリット
角膜に直接触れる器具なので十分なケアが必要だが、レンズを簡単に入手できるようになった反面、レンズを使用するために知識やケアを怠りがちで、誤った使用方法で目のトラブルへと発展する危険がある。
調査
製品評価技術基盤機構が眼科医への聞き取り調査によって平成20年7月にまとめた「視力補正を目的としないカラーコンタクトレンズに関する調査報告書」によれば、おしゃれ用カラーコンタクトレンズの使用により生じた眼障害報告は167件で、眼障害を引き起こす原因の多くは、誤ったお手入れの仕方や装用時間などの使い方に関する理解が不十分であることも明らかになった。
■報告された眼障害(167件)
「角膜炎」46件(27%)…(症状)角膜の炎症。目痛、充血、かすみ、異物感など
「角膜びらん」45件(27%)…(症状)角膜の剥がれ。目痛、充血、かすみ、異物感など。
「角膜潰瘍」24件(14%)…(症状)角膜に発生する潰瘍。目痛、充血、流涙など。
「角膜浸潤」21件(13%)…(症状)角膜の炎症。目痛、充血、異物感など。
「結膜炎」17件(10%)…(症状)結膜の炎症。かゆみ、目脂、充血など。
「角膜浮腫」08件(5%) …(症状)角膜のむくみ。かすみ、視力低下など。
「角膜上皮剥離」05件(3%) …(症状)角膜の剥がれ。目痛、充血、流涙など。
「その他」01件(1%)
これら障害の原因について、
「不明」51件(30%)が最も多いが、原因と考えられる要因が報告された障害のうち、
「手入れ不足」42件(25%)
「長時間装用」16件(10%)
「使用方法を理解していない」16件(10%)
「装用したまま就寝」6件(3%)
「無理な装用」6件(3%)
これらのように、その多くは使用方法の問題により生じたものであった。
その一方で、
「品質が悪い」21件(13%)
「着色剤の剥げ落ち・漏出」7件(4%)
といった、いわゆる品質の問題と考えられる原因もあった。
おしゃれ用カラーコンタクトレンズが眼障害を生じた要因として、使用者が視力補正用コンタクトレンズの使用経験が少なく、また、おしゃれ用カラーコンタクトレンズの購入時にコンタクトレンズが有する危険性(ハザード)の説明が行われていない実態が明らかとなっている。そのため仕様前には専門医の指示をあおいだり、使用上の注意をよく読んで、適切なケアをすることが重要になる。
雑貨から医療機器へ
おしゃれ用カラーコンタクトレンズは、これまでつけまつげやかつらなどと同じ雑貨品扱いとされ、品質について国の基準が設けられていなかったため、安価な商品が量販店やECサイトで販売され、失明にも繋がる重大な目の障害が発生していた。こうした状況を受け、経済産業省と厚生労働省は、おしゃれ用カラーコンタクトレンズも一般のコンタクトレンズと同じように、2009年に薬事法で品質や販売方法を規制された。
規制後は、一般のコンタクトレンズと同じように、材質やレンズ面のカーブの度合いなどについて、厚生労働省が定める安全基準を満たすことが求められている。また2011年2月4日以降は、厚生労働省が承認した品目のみが流通している。
2009年11月4日以降
カラーコンタクトレンズは、薬事法上の高度管理医療機器販売業許可業者においてのみ販売。
2010年2月4日以降
許可を取得している販売店であっても、その製品については一定の安全性を確保した経過措置期間届出品、薬事法第42条に基づくコンタクトレンズ基準に適合したもののみが流通。
2011年2月4日以降
厚生労働省から製造販売承認を受けたもののみが流通。
参考文献
独立行政法人製品評価技術基盤機構「視力補正を目的としないカラーコンタクトレンズに関する調査報告書」(平成20年7月)
「」および「」
厚生労働省医薬食品局審査管理課医療機器審査管理室「重要なお知らせ・カラーコンタクトレンズを使用されている皆様へ」(平成21年9月)
「」
独立行政法人国民生活センター「ソフトコンタクトレンズ用消毒剤のアカントアメーバに対する消毒性能」(平成21年12月16日)
「」
共同通信『レンズ消毒液6商品「効果低い」角膜感染症の恐れ』-共同通信2009/12/16
朝日新聞『一体タイプのコンタクト消毒液、6製品「殺菌力不十分』-朝日新聞2009/12/16
朝日新聞『おしゃれ用カラーコンタクト、規制へ事故多発受け』-朝日新聞2008/7/10
関連項目
眼鏡
眼科学
外部リンク
おしゃれ用カラーコンタクトレンズについて-厚生労働省
カラーコンタクトレンズについて-日本眼科医会
カラーコンタクトレンズの問題点-日本コンタクトレンズ学会
「おしゃれ用カラーコンタクトレンズ」の規制の概要-医療機器センター
コンタクトレンズ | 0.697145 |
3091612 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9 | アクションカメラ | アクションカメラ
ウェアラブルカメラの別名。
ビックアクションカメラの地方ネット時における番組名。
アクションカメラ(雑誌) -ワニマガジン社のグラビア雑誌。 | 0.696842 |
4483183 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%87%BA%E5%8A%9B%E6%A9%9F%E5%99%A8 | 出力機器 | 出力機器(しゅつりょくきき、)は、情報を人間が読める形式に変換するコンピュータハードウェア機器。テキスト、グラフィック、ハプティクス、、ビデオのいずれです。例としては、モニター、プリンター、スピーカー、ヘッドホン、プロジェクター、GPSデバイス、サウンドカード、ビデオカード、光学マークリーダー、点字リーダーなどがある。
一部の出力デバイスは、ビジュアルディスプレイユニット(VDU)、つまりモニター、プリンターグラフィック出力デバイス、プロッター、など。最近、音声合成として知られる新しいタイプの出力デバイスが開発されており、コンピュータに接続されたメカニズムで、人間のスピーチのように聞こえる音声出力を生成する。
出力デバイスを使用する理由
コンピュータは、出力デバイスがなくても機能するが、出力デバイスがないと、コンピュータが何をしているかを判断する方法がない。エラーの兆候、追加の入力の必要性の兆候も判らない。たとえば、モニターをコンピューターから取り外しても、コンピュータは機能するが、あまり役に立たない。
モニター
ディスプレイデバイスは、出力デバイスの最も一般的な形式である。コンピュータ画面に視覚的に出力を表示。出力は画面に一時的に表示され、簡単に変更または消去できる。ソフトコピーとも呼ばれ、デスクトップPCのディスプレイデバイスはモニターと呼ばれる。
オールインワンPC、ノートブックコンピュータ、ハンドヘルドPC、その他のデバイス。ディスプレイ画面という用語は、ディスプレイデバイスに使用される。ディスプレイデバイスは、ホームエンターテインメントシステム、モバイルシステム、カメラ、ビデオゲームでも使用されている。
ディスプレイデバイスは、ピクセルの適切な構成を照らすことによって画像を形成する。ディスプレイデバイスはピクセルの形で編成され、ピクセルはマトリックスの形で配置される。これは、行と列として編成された2次元マトリックス。
ディスプレイの種類(モニター)
モニターには、モノクロモニターとカラーモニターの2種類がある。モノクロモニターは、実際には前景用と背景用の2色を表示。色は、黒と白、緑と黒、または琥珀と黒にすることもできる。カラーモニターは、多くの色を表示できるディスプレイデバイスで、16色から100万色以上の色を表示する。
モノクロディスプレイ
モノクロモニターは、カラーモニターが普及する前の、1960年代から1980年代にかけて、コンピューティングの初期に非常に一般的だったCRTコンピューターディスプレイの一種。モニターの最も重要なコンポーネントは受像管。CRTは基本的にブラウン管を意味する。CRTはブラウン管技術を使用して画像を表示。古いテレビもCRT技術を使用してテレビのフィルムやテレビ画像を表示するため、従来のテレビや古いテレビと同じように大きくてかさばり、重くなる。画面上に画像を形成するために、大きなガラス管内に密封された電子銃がリンでコーティングされた画面に電子を発射し、画像を表示するために適切な色で適切なピクセルを照らす。リン光物質は、電子の露出後、限られた時間だけ発光する。モニター画像は、継続的に再描画/更新する必要があり、通常のリフレッシュ率は、1秒間に60~85回である。
それらは、コンピュータ化されたレジシステムなどのアプリケーションで今でも広く使用されている。緑の画面は、緑の「P1」リン光スクリーンを使用するモノクロモニターの一般名であった。
カラーディスプレイ
カラーモニターは、3つの別々の信号(赤、緑、青)を受け入れるため、RGBモニターと呼ばれることもある。対照的に、モノクロモニターは、背景用と前景用の2色しか表示しない。カラーモニターは、アクティブ化されると赤、緑、青で表示される3つの異なるリン光物質を使用してRGBカラーモデルを実装する。リン光物質を直接隣り合わせに配置し、異なる強度でそれらをアクティブ化することにより、カラーモニターは無制限の数の色を作成する。ただし、実際には、モニターが表示できる実際の色数は、ビデオアダプターによって制御される。
モニターの表示タイプは次のとおり。
CRTディスプレイモニター
TFT(薄膜トランジスタ)、
フラットパネル
LCD(液晶ディスプレイ)
OLED
LED
関連項目
入力機器
CPU
脚注
出力機器
情報機器
ハードウェア
コンピュータのユーザインタフェース | 0.69673 |
238464 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%B1%E3%83%83%E3%83%88%E6%A9%9F%E6%A7%8B | オートブラケット機構 | オートブラケット機構(オートブラケットきこう、)とはカメラおよびデジタルカメラにおいて、基準値およびその基準値を変えて複数のカットを撮影する機能のこと。元々は自動露出上で使われることから、狭義では露出ブラケットのことを指すが、現在は露出以外でもオートブラケット機構が利用されることが多い。なお、以下では特記しない限り、用語を「オートブラケット」で統一する。
露出ブラケット
AEB(、キヤノン製カメラで用いられる)、ABC(、京セラ製コンタックスカメラで用いられる)とも言われる。
基本的に自動露出で撮影する場合は、カメラ内蔵のプロセッサで適正露出値を割り出すが、実際に撮影してみると撮影者の想定した写りにならない場合がある。こうした場合は露出補正を行う必要があるが、実際の撮影状況では判断しづらい例も多い。
そうした場合、自動露出で得られた露出値・そこから露出を下げた場合・露出を上げた場合とを一度に撮影することで、撮影して得られた画像の比較が可能になる。これがブラケッティングであり、この一連の動作を自動で行う機構をオートブラケット機構という。
こうした撮影法は、ラティチュードが狭く厳密な露出が要求されるリバーサルフィルムにおいて、特に有効だと言える。
なお、オートブラケットでの撮影は撮影の順序、撮影枚数(3枚ないし5枚が多い)、露出ステップ(1段、1/2段、1/3段のいずれか)、露出の大きさ(基準値±1段など)などを変更することが可能である。またシャッタースピードを変えるand/or絞りを変える、の選択あるいは組合せもある。
その他のオートブラケット
フラッシュブラケット
キヤノンがE-TTL撮影機能の一つとして、FEB()として搭載している機能。専用外部フラッシュを用いた撮影で、基準となる調光量とそれを変動させたものを同時に撮影する。これによって、フラッシュ光が強めのものと弱めのものを撮影することができる。
フォーカスブラケット
オートフォーカスでピントが合った状態に加え、若干量前方・および後方にピントが合った状態でも撮影を行なう。コンタックスの一部のカメラなどに搭載されている。
ホワイトバランスブラケット
デジタルカメラ特有の機能で、デジタル一眼レフカメラの上位機に搭載されている。基準となる色温度設定に加え、アンバー側/ブルー側もしくはマゼンタ側/グリーン側に変更した画像も撮影を行なう。
ISO感度ブラケット
デジタルカメラ特有の機能で、デジタル一眼レフカメラの上位機に搭載されている。設定した感度だけではなく、それよりも低感度および高感度側でも撮影を行なう。絞りやシャッター速度を変えずに撮影するため、被写界深度や動感を変えることなく、明るさを変えて撮影することができる。
カメラ | 0.696658 |
2434 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%AF%E3%83%88 | コンパクト | コンパクト
compact
ぎっしり詰める、圧縮する。転じて、小さくまとめること。また、その状態。例としてコンパクト・カー、コンパクトデジタルカメラ。
数学における概念。
コンパクトな埋め込み
コンパクト-コンパクト空間の略称。
コンパクト化
コンパクト化(物理学)
コンパクト(化粧品) -化粧品の道具。掌サイズの、手鏡(コンパクトミラー)が付いた携帯用ファンデーションケースのこと。
盟約
コンパクト-自由連合盟約(:en:Compact Of Free Association)の略称。
Kompakt
コンパクト(レコードレーベル) -ドイツのレコードレーベル。
関連項目 | 0.696639 |
8434 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B7%9A%E5%9E%8B%E4%BB%A3%E6%95%B0%E5%AD%A6 | 線型代数学 | 線型代数学(せんけいだいすうがく、)とは、線形空間と線形変換を中心とした理論を研究する代数学の一分野である。現代数学において基礎的な役割を果たし、幅広い分野に応用されている。また、これは特に行列・行列式・連立一次方程式に関する理論を含む。線形などの用字・表記の揺れについては線型性を参照。
日本の大学においては、多くの理系学部学科(特に理学部・工学部)で解析学(微分積分学)とともに初学年から履修する。高校教育においては平成27年度からの新課程では数学Cの廃止に伴い行列の分野が除外されている。但し、2022年(令和4年度)からは数学Cが復活しベクトルと共に行列の分野が高校教育に再導入される。
概要
行列は多変数の一次の関係式で表される関係を簡潔に記述するために用いられ、連立一次方程式の解法の研究の過程で見出された。行列の記法は、ケイリー、シルヴェスター、フロベニウス、アイゼンシュタイン、エルミートがそれぞれ同時期に提唱した。最も早くこの理論を提唱したのはアイゼンシュタインであるが、学会からはなかなか注目されず、ケイリーが取り組んでいたものが30年後にシルヴェスターによって再発見されたことで評価され始めるようになった(シルヴェスターが個別に発見したのか、ケイリーの理論を知っていたのかは詳しくは分かっていない)。
連立方程式を一次変換と捉える立場からは、線型代数学は、高次元の真っ直ぐな空間(現代的にいえばベクトル空間)の幾何について研究する学問であると言うことができる。このようにベクトル空間とその変換の理論として見るとき、線型代数学は高々有限次元のベクトル空間の理論である。これを無限次元のベクトル空間で対象とするためには、多分に空間の位相とそれに基づく解析学が必要となる。無限次元の線型代数学は関数解析学と呼ばれる。これは、無限次元のベクトル空間がある空間上の関数全体の集合として典型的に現れるからである。応用は多岐に渡るが、経済学に登場する産業連関表や、量子力学において物理量を行列として表現する手法など、20世紀以降の社会科学、自然科学において、行列が果たす役割は大きい。
和算家の関孝和も現代でいう行列式に当たるものを独自に開発・研究していた。
線型代数学においては、連立1次方程式の各式は空間内に張られた平面を表しており、その平面同士の交わる領域が連立方程式の解であると説明される。各平面の交わる領域が1点となる場合のみ解が一意に定まり、交わる領域が線の場合に解は無数に存在し、交わる領域が無い場合(例:全ての平面が平行である場合)には解は存在しない。どのように解が存在するかは線型独立な生成元の数を示す拡大係数行列の階数で判定可能である。
歴史
線型代数の歴史は線型方程式系を行列式を用いて解くという研究からはじまった。歴史的には行列式は行列より以前に現れている。西洋の数学史において、行列式はライプニッツが1693年により用いられたのが最初であり、その後、ガブリエル・クラメルがいわゆる「クラメルの公式」で線型方程式系を解く方法を1750年に編み出した。更に後年になってガウスが測地学の研究から「ガウスの消去法」を用いて線型方程式系を解く方法を開発した。おそらく1860年代には行列式の公理的な定義がワイエルシュトラスとクロネッカーによって与えられていた。
最初に行列代数(matrix algebra)の研究が現れたのは1800年代半ばのイングランドであるとされる。1844年、グラスマンは著書「Theory of Extension(拡大の理論)」を出版し、この本には今日の線型代数学の基本概念に相当する(当時としては)新しい内容が含まれていた。1848年、シルベスターがラテン語で子宮を意味するmatrix(行列)という用語を導入した。線型変換の構成に関する研究全体で、ケイリーは行列の積と逆行列の概念定義した。重要なのは、ケイリーが一つの文字で行列を表記する方法を使ったため、行列が文字を縦横に並べた集合体として扱われたことである。ケイリーはまた行列と行列式との関係を認識しており、「行列の理論はいろいろあるが、私に言わせれば、行列式の理論よりも重要である」と述べている。
1882年、トルコのフセイン・テフフィグ・パシャは"Linear Algebra"(線型代数)と名付けられた本を出版した。公理的な(実数体上の)線型空間の定義や線型変換の定義はペアノによって1888年に与えられ、1900年までには有限次元ベクトル空間の理論が現れた。線型代数が最初に現代化されるのは20世紀の初めの四半世紀であり、ここで多くのアイデアと前世紀に誕生した抽象代数学の概念が導入されていくこととなる。量子力学における行列の使用、特殊相対論、統計学における利用の広がりなど、純粋数学を超えて応用されていった。コンピュータの登場でガウスの消去法の効率的アルゴリズムの研究や、モデルの定式化やシミュレーションなどにも線型代数は必須の道具となっている。
これらの概念の起源に関する議論については:en:determinants (「行列式」英語版)、及び:en:Gaussian elimination(「ガウスの消去法」英語版)を参照のこと。
なお、日本の和算においては、上述のライプニッツより10年早い時期に同様の研究がによって行われている。
用語
ベクトル空間(線型空間)-ベクトル-線型部分空間
数ベクトル空間
ユークリッド空間-アフィン空間
内積空間
内積-エルミート内積-直交補空間-直交射影
線型結合(一次結合)
線型従属(一次従属)-線型独立(一次独立)
基底-標準基底-次元-グラム・シュミットの正規直交化法
行列
実行列-複素行列
正方行列-正則行列() -逆行列-単位行列(スカラー行列) -零行列-冪零行列
対角行列-三角行列(上三角行列、下三角行列)
転置行列-随伴行列
直交行列() -特殊直交行列() -ユニタリ行列() -特殊ユニタリー行列() -シンプレクティック行列() -行列指数関数
対称行列-反対称行列(歪対称行列) -エルミート行列-歪エルミート行列(反エルミート行列) -正規行列
置換行列-隣接行列
行列式
置換-小行列式-余因子展開-ヤコビアン-関数行列
線型方程式系(連立一次方程式)
行列の基本変形-クラメールの公式-シルベスター行列
線型変換(一次変換)
線型写像(線型変換) -相似-成分行列
階数-像-核(核空間)
対角化-スペクトル分解-ジョルダン標準形-特異値分解
固有空間
固有値-固有ベクトル-フロベニウスの定理-固有多項式(固有方程式) -最小多項式-ケイリー・ハミルトンの定理-縮退
テンソル
双対空間-双線型形式-対称形式-エルミート形式-テンソル代数-グラスマン代数
脚注
注釈
出典
参考文献
齋藤正彦:「線型代数入門」、東京大学出版会、ISBN 978-4-13-062001-7、(1966)。
関連項目
代数学
抽象代数学
環(数学)
可換体
加群
リー群
リー代数
関数解析学
線型微分方程式
解析幾何学
幾何ベクトル
ベクトル解析
数値線形代数
BLAS (線型代数の計算を行うための数値解析ライブラリの規格)
行列値関数
行列解析
外部リンク
数学に関する記事 | 0.696561 |
266135 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%85%A7%E5%BA%A6 | 照度 | 照度(しょうど、)とは、物体の表面を照らす光の明るさを表す物理量である。
照度は人間の感じる量を表す心理物理量のひとつである。
国際単位系(SI)における単位はルクス(記号: lx)またはルーメン毎平方メートル(記号: lm m)が用いられる。照度は光束発散度と同じ次元を持つが、光束発散度は平面状の光源の指標であり、照度は照射された側の指標を表す。
定義
物体表面の微小な面積を考え、微小面積に入射する光束をとするとき、照度は
で定義される。
特徴
文字通り、どれだけ対象物を「照らしている」かを表す指標であり、机の上や部屋などの明るさを示すのに利用される。照度は右図のように照らされる物体が光線に対して垂直でなく斜めであった場合、照射される物体は暗くなってしまうので、法線ベクトルnをかけることによってそれを加味する。照度と光束の違いは、照射している物体の面積を考慮するかしないかである。例えば、同じ光束を放つ電灯でも近くにある本よりも、離れた場所にある本の方が暗くなる。これを照度が低いと呼ぶ。光源となる電灯が単位カンデラで表されるのに対し、机の上がどれだけ照らされているかを示すときにルクスが用いられるのはこのためである。
目で感じる物体の単位視面積あたりの明るさは、距離には依存せず、物体の照度に正比例する。しかし、物体の視面積が極めて小さい場合は、同じ面積と照度の物体でも、目で感じる単位視面積あたりの明るさは、距離の増加にしたがって減衰していく。
JIS規格
照度に関連する日本工業規格(JIS)の規格。
JIS C 1609:1993「照度計」
JIS C 7612:1985「照度測定方法」
JIS E 4016:1992「鉄道車両の照度ー基準及び測定方法」
JIS F 8041:1986「船舶の照度基準及び照度測定方法」
JIS Z 9110:1979「照度基準」
関連項目
照度計-光電池照度計など。
照度基準
物理量
光学 | 0.696127 |
26800 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%BC%E9%8F%A1 | 眼鏡 | 眼鏡(めがね、メガネ、がんきょう)とは、ヒトの眼(目)に装着して、レンズにより、屈折異常や視力の補正、目の保護あるいは装身具として使う器具。コンタクトレンズと違い、角膜など眼球には直接触れさせずかける。
歴史
前史
拡大鏡などのレンズを使って物を拡大して見ることに関しては、紀元前8世紀の古代エジプトのヒエログリフに「単純なガラス製レンズ」を表す絵文字がある。文字をレンズで拡大して見ることについての具体的な記録としては、紀元1世紀、ローマ皇帝ネロの家庭教師だった小セネカが「文字がどんなに小さくて不明瞭でも、水を満たした球形のガラス器やグラスを通せば、拡大してはっきり見ることができる」と書いている。ネロ自身もエメラルドを使用して剣闘士の戦いを観戦したと言われている。
矯正レンズは9世紀のアッバース・イブン・フィルナスが使っていたと言われており、彼は非常に透明なガラスの製造方法を考案した。そのようなガラスを半球形にして磨き、文字を拡大して見るのに用いたものをリーディングストーン(reading stone)といった。凸レンズを使った拡大鏡が初めて記録されたのは、1021年にイブン・アル・ハイサムが出版した『Kitab al-Manazir』(光学の書、en)である。これが12世紀にラテン語に翻訳され、それに基づいて13世紀のイタリアで眼鏡が発明されることになった。
ロバート・グロステストが1235年より前に書いたとされる論文De iride("On the Rainbow")には「遠距離から小さな文字を読む」ために光学を用いることへの言及がある。1262年、ロジャー・ベーコンもレンズが物を拡大して見せる特性があることを記述している。
なおサングラスとしては、12世紀かそれ以前の中国大陸で裁判官が視線を隠すために煙水晶の平らな板を使ったものがある。ただし、レンズにして矯正する機能はなかった。
眼鏡の発明
一対のレンズを連結した構造の、眼前で使うタイプの眼鏡( / , )の発明者が誰なのかは諸説あり、精力的に研究されてきたが未解明である。
発明の時期については、1286年頃であると推定されている。これは1306年2月23日水曜日朝にドミニコ会の修道士フラ・ジョルダーノ・ダ・リヴァルトがフィレンツェのサンタ・マリア・ノヴェーラ教会において行なった説教で、眼鏡について「この20年以内の発明である」「発明者と話をしたことがある」と述べたという記録からの逆算である。しかし肝心の発明者の名前は言及されていない。
いっぽう、ジョルダーノと同じ修道院の同僚であったドミニコ会修道士のフラ・アレッサンドロ・デッラ・スピナ(、没年は推定1313年頃)に関して、「スピナは一度見たものはなんでも複製して作る技能を持っていた。眼鏡は別の誰かの発明したものだが、その人物はそれを秘密にした。いっぽうスピナは眼鏡を製造して皆に分け与えた」という記録がある。このスピナ本人が眼鏡の発明者であるとする説をピサ大学の医学の教授だったフランチェスコ・レディが1678年に提唱したが、後にレディによる捏造であるとして否定された。
フィレンツェのが眼鏡の発明者だとする説が1684年から現れた。18世紀には異論も出たが、Salvinoの実在を信じる者も多く、19世紀になって「Salvinoの墓地跡地」に碑文や胸像が据えられた。20世紀になって本説は捏造であり、発明者とされる人物は実在しないとして否定された。
スピナに眼鏡を見せた者は、ヘンリーというロジャーベーコンの友人であったという説も出たが、これも否定されている。
マルコポーロの『東方見聞録』に、中国で老人が書物を読むのにレンズを使用することが一般化していると書かれていると主張されることがあるが、そのような記述は実際の『東方見聞録』には存在しない。
初期の眼鏡は凸レンズを使っており、遠視と老視を矯正できたが、もっぱら老眼に使われた。近視を凹レンズで矯正できることを発見したのは、ニコラウス・クザーヌス(1401年- 1464年)とされている。理論的に凸レンズや凹レンズによる視力矯正を説明したのはヨハネス・ケプラーの光学や天文学の論文であり、1604年のことである。
ちなみに絵に眼鏡が描かれたのは、1352年にTomaso da Modenaの作品が最初で、枢機卿Hugues de Saint-Cherが写字室で書物を読んでいる姿の肖像画である。また、1403年にドイツでつくられたバート・ヴィルドゥンゲンの教会の祭壇飾りに眼鏡が描かれている。中世ヨーロッパにおいて、眼鏡は知識と教養の象徴であり、聖人の肖像には、たとえ眼鏡発明以前の人物であっても、眼鏡がしばしば描き入れられた(アウグスティヌスなど)。
東洋への伝来
明では張寧『方洲雑録』に「僾逮」と記され、また別の書では「眼鏡」とも書かれる、田藝蘅『留青日札』では『方洲雑録』を引用して「靉靆」(あいたい)の名で言及されている。(ʿuwaynāt)あるいは(eynak)の借用といわれる。
日本に眼鏡を伝えたのは、宣教師フランシスコ・ザビエルで、周防国の守護大名・大内義隆に謁見した際に献上したのが最初といわれている。ただし、これは現存しておらず、現物で残っている日本最古の眼鏡は、室町幕府第12代将軍の足利義晴が所持していたと伝わるものがある。一説には、義隆の物より、義晴が所持していたものの方が古いとも言われる。また徳川家康が使用したと伝わる眼鏡も久能山東照宮に現存している。日本でも、眼鏡はやがて国内で作られるようになり、江戸時代の半ばほどにもなると、江戸や大坂の大都市では、眼鏡を販売する店が出るようになった。
同時に日本独自の改良も施されるようになり、中でもメガネの鼻パッドは日本独自の発明であるとされる。
その後の改良
アメリカ合衆国の科学者ベンジャミン・フランクリンは近視と老視に悩まされ、1784年に眼鏡をいちいち交換しなくて済むように多重焦点レンズを発明した。1825年、イギリスの天文学者ジョージ・ビドル・エアリーが世界初の乱視用レンズを製作した。
眼鏡のフレームも進化してきた。初期の眼鏡は、手で押さえるか、現代の鼻梁を挟む鼻眼鏡とは異なり鼻翼の部分に乗せて使う形状だった。ジロラモ・サヴォナローラが、眼鏡にリボンをつけて頭に巻いて縛り帽子をかぶれば外れないという提案をした。現在のようにつるを耳にかける形のフレームは、1727年にイギリスの眼鏡屋エドワード・スカーレットが開発した。そのデザインはすぐに広まったわけではなく、18世紀から19世紀初期にかけて柄付眼鏡などもファッションとして使われ続けた。
20世紀に入ると、カール・ツァイスのMoritz von Rohr(およびH. BoegeholdとA. Sonnefeld)がZeiss Punktalという球面レンズを開発し、その後これが眼鏡用レンズとして広く使われるようになった。
構成
眼鏡は、ほとんど全てのものにおいて、右目・左目の計2枚のレンズで構成されている。視力矯正が目的の場合、多くは両目ともに視力低下をきたしているため、両目ともレンズが必要となるためである。また、保護メガネやサングラスなどにおいても、ほぼ全ての製品が両目を守ることを目的としている。片目だけの使用を想定した片眼鏡も存在するが、視力矯正よりも装飾の意味合いの大きいものである。
今日の眼鏡は以下のような部品から構成される。眼鏡の種類によっては、一部の部品を欠く。
レンズ
眼鏡の機能として働く部分である。レンズ以外の眼鏡部品は、今日では装飾目的もあるが、もともとはレンズを目の前に固定するためにあるものである。
フレーム(縁、枠)
レンズを眼前に固定するための構造全体を称してフレームという。英語で枠または縁という意味である。フチなし眼鏡のレンズ以外の部分を指してフレームというのは、枠のないものを枠と呼んでいるわけで矛盾した語法である。一部の文献や日本の商標法では、フチなし眼鏡のいわゆるフレームをマウントまたはマウンティングと呼ぶ。フレームは、さらに下記のような部品に分けられる。
テンプル(腕、ツル、アーム)
テンプルとは英語でこめかみという意味である。古くはその名のとおり、こめかみに当てて固定するものだったが、今日では蝶番とイヤーピースを繫ぐ棒状の部分を称してこう呼ぶ。鼻眼鏡には存在しない。伸縮性のあるスライドテンプルがあり老眼鏡に用いられることもある。
テンプルエンド(バチ先)
テンプルの先端。
先セル(モダン)
テンプルの末端の部品。プラスチック製が多く、かつてはセルロイド製だった。メタルフレームの一部は先端を丸くし、プラスチックを被せない物は先セルレスやモダンレスと呼ばれる。
ブリッジ(山)
両のレンズを繫ぐ部品である。英語で鼻梁を意味する。テンプルやブリッジのように眼鏡部品の名前は顔の部位に由来するものが多い。古くはレンズのことをアイ、すなわち目とも呼んだ。二本あるブリッジはダブルブリッジやツーブリッジという。
リム
レンズの周りを囲う縁。リムのないフレームはリムレス、縁無しと呼ばれる。
智(ち)、乳
リムから丁番に繋がる部分の総称。女性の乳に形状が似ていることからいう。
リムロック
智のうち、レンズを締め付けるためのネジのついた部分。
ヨロイ(鎧、エンドピース)
智のうち、リムロックを外側から覆う部分。
丁番(蝶番、ヒンジ)
智とテンプルを繫ぐ部分。これによって収納に便利なように眼鏡を折りたたむことができる。一部には軽量化のために丁番を廃した眼鏡もある(ヒンジレス)。
鼻パッド
鼻に当たる部分。鼻当てとも。一山には鼻パッドはない。パッドは主にプラスチック、シリコン、金属(チタン)がある。
クリングス
リムと鼻パッドを繫ぐ針金状の部品。箱足とも。一山にはクリングスはない。
レンズ
眼科での度数検査に用いる物などを除き、通常の眼鏡には凸レンズでも凹レンズでもメニスカスレンズが用いられる。これはレンズの外面(眼球から遠い面)が凸面に、内面(眼球に近い面)が凹面になっているもので、概念的には外面の弱い凸レンズと内面の強い凹レンズを差し引きして目的の度数の凹レンズを形成したり、外面の強い凸レンズと内面の弱い凹レンズを差し引きして目的の凸レンズを形成したりするものである。反対面の度数を打ち消すために面の曲率を余計に強くしなくてはならず、両凸レンズや平凸レンズ、両凹レンズ、平凹レンズより薄さの点では不利だが、メスニカスレンズでないと、回旋する眼球に対してレンズ周辺部を通して見たときの光学性能が極端に落ちてしまう。
製造技術はカメラ用と同じであるため、ニコン、ペンタックス、コダック、ローデンシュトック、カール・ツァイスなどのカメラメーカーが製造している。他にもHOYAやオハラなどのガラスメーカー、セイコーなどのガラス加工技術を有する時計メーカー、東海光学やエシロールのような眼鏡用レンズの専業メーカーが供給している。
屈折作用による分類
眼の屈折異常によって異なる種類のレンズが使われる。
近視
近視は遠方から眼に入った光線が網膜ではなくもっと手前で焦点を結んでしまうものであるから、光線が眼に入る前に予め凹レンズによって分散させてしまえば網膜上で焦点を結ぶようになり、近視が矯正される。これが近視の眼鏡の原理である。
近視の眼鏡によって物が小さく見えるとよく言われるが、近視の多くを占める軸性近視の場合、これはある意味では正しく、ある意味では間違いである。凹レンズには眼から離れれば離れるほど物を小さく見せる効果がある。眼鏡レンズは眼から多少なりとも離れた位置に掛けられるので、その人の現在の裸眼での見え方に比べれば、なるほど近視の眼鏡をかけると物が小さく見える。しかし、その人が正視だった頃の見え方に比べれば、ほぼ同じ大きさか、むしろやや大きく見えているのである。
軸性近視では凸レンズである角膜や水晶体が正視の場合より網膜から離れてしまっている。凸レンズには目から離れるほど物を大きく見せる効果があるので、軸性近視の者が裸眼で物を見た場合、凸レンズである角膜や水晶体が網膜から離れてしまっている分、正視より網膜に物が大きく映っている。凸レンズが網膜から離れると網膜像が大きくなることは、凸レンズの老眼鏡を通常の位置に掛けた場合と離して掛けた場合とを比べれば容易に理解されよう。
近視の眼鏡によって網膜像が縮小されるといっても、それは現在の裸眼での見え方と比べての話である。近視になる前の見え方と比較するならば、裸眼の時点て正視よりも網膜像が拡大されてしまっていることを考慮する必要がある。角膜頂点からおよそ15mm離れたところへ凹レンズの眼鏡をかけると、正視と同じ大きさの網膜像になる。軸性近視により網膜像が拡大される効果と凹レンズにより縮小される効果がちょうど打ち消しあうのである。しかし現実には眼鏡レンズは角膜頂点から10mmから12mmまで近づけるように調整されるので、軸性近視によって網膜像が拡大される効果が完全には打ち消されず、眼鏡をかけても正視だった頃より網膜像はやや拡大されたままである。
近視を眼鏡で矯正する際は度を弱めにすることがある。弱めに矯正することを低矯正という。これに対して一番よく見えるように矯正することを完全矯正という。
近視を低矯正することについては、近年の実験結果から、近視を低矯正していると完全矯正しているより近視の進行が激しくなる恐れがあるとの批判もある。日本眼科医会の2010年度調査報告書では、近視を完全矯正するか低矯正するかについて臨床現場では判断が分かれていると報告している。
遠視
遠視は遠方から眼に入った光線が無調節状態で網膜ではなくもっと奥で焦点を結ぶものであるから、光線が眼に入る前に予め凸レンズで屈折させれば無調節で網膜上に焦点を結ぶようになる。これが遠視の眼鏡の原理である。
しかし、眼には調節力があるので、遠視の程度の軽い場合や、年齢が若く調節力の強い場合は眼鏡をかけなくても差し支えないことも多い。理論上は遠視は眼精疲労を招きやすいものではあるが、だからといって本人が眼精疲労を訴えているわけでもないのに徒に遠視の眼鏡をかけさせても良い結果を招かない。本人が苦痛を訴えているわけでもない遠視をむやみに矯正すると、なるほど調節は休まるかもしれないが、調節が休まったことに釣られて両目が離れようとする、つまり開散しようとする。これを離れないようにする、つまり輻湊することに余分な輻湊力を使うことになって苦痛は一向に軽くならないのである。
遠視を眼鏡で矯正する際は完全矯正されるのが通例である。
乱視
トロイダルレンズ(近視や遠視を全く含まない乱視の場合は円柱レンズとなる)
近視や遠視の有る無しに関わらず、ほとんどの人は乱視をもっている。近視や遠視で眼鏡を作成する場合は、軽い乱視でもついでに矯正する場合が多い一方で、軽い乱視ならば矯正しないほうが眼鏡に慣れやすくてよいとする意見もある。
老視
単焦点レンズ
眼には元来近距離に焦点を合わせる機能があり、これを調節力という。老視とは、調節力が加齢とともに弱くなり、遠距離(一般に5m以上)が明視(焦点が合ってはっきり見える状態)できる状態のままでは、より近くの目的距離(はっきり見たい距離)に焦点を合わせることが困難となった状態を言う。補正は遠距離用度数に目的距離の物を楽に長時間明視できる凸レンズ度数を加えたレンズを使用する。加齢によって狭くなった明視域(焦点を合わせ明視することができる奥行き幅)を凸レンズ度数の加入によって移動し、より近くの目的距離に合わせている状態にする為、老視の眼鏡レンズを装用した状態で、近くの目的距離は明視できるが遠方は明視できなくなる。
老視の近距離用レンズは凸レンズとは限らない。ある程度以上の度数の近視眼の場合は遠距離用度数が強い凹レンズの為、近距離用に凸レンズ度数を加えても凹レンズ度数が残り、近距離用レンズが凹レンズになることもある。近視の目でも一般に40歳程度の年齢を過ぎれば調節力が落ち、遠距離が明視できる眼鏡やコンタクトレンズを装用したままでは、徐々に近距離の細かい字や小物などの細部が見づらくなってくる。老視は屈折異常ではなく老化現象のため、老視にならない人はいない。
ただし、次の理由により近視を眼鏡で矯正している者は老眼を自覚する時期が正視や遠視の者より遅くなる。近視の目は老眼にならないなどと言われることがあるがそれは誤りで、近視でも老眼にはなるが、近視を眼鏡で矯正していると老眼になっても自覚しにくいというのが正確なところである。コンタクトレンズやレーシックで矯正している場合は、正視と同じ時期に老眼を自覚する。
近視の眼鏡を外せば裸眼で近くを明視できる。軽度の近視でも老眼の軽いうちは裸眼になれば読書できるし、-4Dより強い近視ならば終生読書に凸レンズを要しない。
近視の眼鏡を外さなくても、近視の眼鏡には見かけの調節があるので老眼を自覚するのが遅くなる。近視の眼球とそれから12mm離れた近視眼鏡とで構成された光学系は、正視の眼球だけの光学系や遠視の眼球と遠視眼鏡とで構成された光学系より少ない調節で近くにピントを合わせることができるので、その分高齢になるまで単焦点の近視の眼鏡をかけたままで近くを明視することができる。強度の近視眼鏡であるほど見かけの調節が強い。
中程度以上の近視の眼鏡は弱めに作るのが通例なのでその分調節力への負担が軽く、正視の人よりは高齢になるまで近視の眼鏡をかけたままで近くを明視することができる。正視のつもりでいる者の中には軽い遠視の者が多く含まれるので、そうした遠視の者に比べればさらに高齢になるまで近視の眼鏡をかけたままで近くを明視することができる。
強度近視の者が近視を弱めに矯正した眼鏡をかけていれば、2.と3.の効果が相まって正視や遠視の者よりかなり高齢になるまで近視の眼鏡をかけたままで済ませられ、老眼を自覚しにくい。
-10Dを超えるような最強度近視の場合、眼自体は老眼になっていても、マイナスレンズの見かけの調節により遠用眼鏡をかけたまま近くを明視できる場合があるので、そもそも遠近両用眼鏡が必要であるか否かから考える必要がある。
両用レンズ
老視の人が一つの目的距離のみを見たい場合であれば、適正に調整された単一度数のレンズ(単焦点レンズ)の近距離用眼鏡のみで問題はない。ただ、眼鏡によって明視域が広がったわけではないので、複数の目的距離(書類とプロジェクター画面等)を切り替えて見たい場合は単焦点レンズだと眼鏡の掛け外しや複数の眼鏡の掛け換えが必要で、実用上煩雑になる。また、老視の程度が進むと、書類とPC画面の距離の差でさえ自然な作業姿勢のままではひとつの近距離用単焦点レンズの眼鏡で両方を楽にはっきり見ることが難しくなる。
このような不自由を解消するため、一つのレンズに異なる度数の部分を作ったレンズが多種類作られており、総称して両用レンズと呼ばれる。通常はレンズ上部が下部より遠い距離用で、レンズ下部が上部より近い距離にピントが合うように作られている。
両用レンズには大きく分けると下記の累進レンズと多重焦点レンズがある。
累進レンズ
1枚のレンズ上で、異なる目的距離にあわせた異なる度数を持った部分を作り、その間を徐々に度数が変化する面(累進帯)で結んだレンズの総称。度数の変化が下記の多重焦点のような段階的ではなく累進的に変化するので累進レンズと呼ばれる。一般には「境目のない両用レンズ」などと呼ばれることが多い。
累進レンズの種類はいくつかあり、使用目的に合わせて遠近レンズ、中近レンズ、近々レンズと呼ばれる事が一般的で、各個人のニーズや目の使い方、年齢に合わせて種類・度数を選択する。またレンズのグレードも一般的なものから上級グレードまで存在する。一般向けではレンズの表側で度数変化の曲面を付けた外面累進が多いが、上級グレードは累進レンズの特性上の問題を軽減するため、レンズの裏側で度数を変化させる曲面を付けた内面累進や非球面累進が多く、高加入度数の場合は上級グレードの選択が強く推奨される。
遠近レンズは遠くを見ている時間が長い目の使い方に適したレンズで、近距離用(通常30cm~50cm前後)・中間距離用(通常50cm~1m前後)の視野が比較的狭い代わりに、常用して屋外の歩行や運転等でも使用できるよう、レンズ上部の遠距離用度数の視野が広く作られている。
中近レンズは室内でのデスクワークや読書、手作業等の近距離作業の時間が長い目の使い方に適したレンズで、遠距離用の視野はレンズ最上部の狭い範囲に限定される代わり、手元やパソコン等の近距離用から中間距離用の視野が遠近レンズよりも広く作られている。一般的な中近レンズは、会議・打ち合わせなどに必要な最低限の遠距離用視野はあるが、レンズの上下の真ん中付近は中間距離にピントが合う様に作られているため、屋外での使用には適さない。ただ、装用に慣れれば掛けたままで階段以外での屋内での歩行もある程度は可能である。
近年、中近レンズに分類される物の中でも、装用に慣れれば運転を除いた屋外使用が可能とされたレンズがあり、いわば遠近レンズと中近レンズの中間的な性格のレンズもある。
近々レンズは近距離作業を主目的としたレンズで、レンズ下部が大きく近距離用度数になっており、レンズ上部が中間距離用の度数になっている。中近レンズと違い遠距離用度数の部分はない。特に近距離用の視野が中近レンズよりもさらに広く、座った状態での遠距離を見ない長時間のデスクワーク・読書・手作業等に適している。近距離用単焦点レンズ、すなわち一般に言う老眼鏡の奥行き方向の明視域の狭さを、ある程度改善したものと言える。歩行には適さない。
累進レンズはその特性上、レンズの中央でない周辺部では像の歪み、ぼやけを伴い、明視できる視野が普通のレンズに比べて狭く、また下部が累進的かつ段階的に老視用の度数になっているため、視野が揺れて感じたり、遠近感などが狂いやすい、足下がぼやけるなどの現象もある。加入度数が強いほどこの特性はより顕著になる。そのため、自然体の姿勢でいると、階段や段差のある場所では踏み外しやよろめきなどで転倒・転落などのおそれや、人通りの多い箇所では歩行中、他の歩行者との接触・衝突なども起きやすいなど、特有のリスクもあるため、使用時にはレンズの周辺部に視線が入らないようにする、視線の使い分けを十分に行えるようにするなどの注意が必要である。
また遠部と近部はあごの上下などで最適な明視域を調整する必要があるため、不自然な姿勢になりやすく身体的負担も増大する、食事などのように俯き加減の姿勢で近用部がほしい場合などには視線が合わないなど、姿勢や角度によっては非常に見づらくなるなどの問題点もあるので、状況によっては遠用時には普通レンズの眼鏡に掛け替える、あるいは近用の頻度が多い、または近用時の時間が比較的長い場合は一時的に眼鏡を外すか、より近距離に特化した累進レンズや単焦点の老眼鏡に掛け替えるなどの必要がある場合もある。
さらに自動車などの運転時には直接目視の時などに肝心な方向がぼやけやすく、そのため顎を大きく引く、あるいは眼鏡をやや下向きに掛けて近用部に視線が入らないようにするなどの工夫が必要な場合もあり、特に夜間はミラーや後退時の安全確認で見づらい場合もあるので注意が必要であり、このため軽自動車や普通乗用車など、普通免許で運転可能な範囲のものであればそう大きな問題はないが、中型・大型免許の適用範囲である大型の四輪車の運転や、重被牽引車を牽引して運転する場合では遠近両用などの累進レンズの使用はなるべく避け、普通レンズの近視用などに処方された眼鏡の装用が望ましい。
そうした事からそれらの特性への「慣れ」が必要である。遠用度数に加えられる老眼用の度数を加入度数といい、正視の老眼鏡でいう適正な度数に相当するが、遠近両用の累進レンズの場合は老眼の初期症状が出る40歳代前半のうちから掛け始めると、加入度数が概ね1.5D以下程度とそれほど大きくない場合が多いので累進レンズの特性に比較的慣れやすいが、ある程度老眼が進行する40歳代終わりから50歳代以降から掛け始めると、加入度数が概ね2.0D以上と大きくなる場合が多いので累進レンズの特性に慣れにくくなり、むしろ使いづらい場合も出てくる。レンズを処方される場合は生活様式などを配慮して慎重に度数などを決める、中近もしくは近々などのレンズを場面に応じて使い分けるなどの必要が出てくる場合もある。また加入度数が2.0Dを超える場合は内面累進などの上級グレードのレンズの選択が推奨され、小さめのフレームは避けた方がよい。どうしても累進レンズの特性に慣れない場合は累進レンズの使用を断念し、後述の多重焦点レンズの使用を考えるか、単焦点の遠用と近用、中距離用などの眼鏡を作り、面倒ではあるが掛け替える方法以外選択肢はない。元の近視・遠視・乱視などの度数が相当強い場合や、左右の度数差が概ね2.0D以上ある不同視の場合も同様である。
ただし、元の近視や遠視が強いほうがむしろ遠近両用レンズに慣れやすいとする見解もある。理由としては、元の近視が強い場合にはレンズを通した像の大きさの違いや歪みに慣れていることが挙げられる。元の遠視が強い場合には、遠近両用眼鏡によって得られる利便性が高いことが挙げられる。つまり、遠視が弱ければ遠くは裸眼で見ることにして必要時のみ単焦点の老眼鏡をかけることでも老眼に対処できるが、遠視が強い人が単焦点の眼鏡だけで老眼に対処するとしたら2本の眼鏡を持ち歩いてかけ替える必要がある。遠視の強い人は単焦点から遠近両用レンズにすることで持ち歩く眼鏡を1本にできるので遠近両用レンズの利点が大きいというわけである。
多重焦点レンズ
遠距離用補正レンズ(台玉)の中に、小玉と呼ばれるより近距離用の度数の窓を作ったレンズ。上下で半分に分かれている物もある。一般には「窓のある両用レンズ」などと呼ばれる事が多い。
このタイプのレンズでは、遠距離と近距離の二つの目的距離にそれぞれの度をあわせた二重焦点(バイフォーカル)がよく使われる。老視の程度が進むと、パソコンや囲碁・将棋などの時に必要な中間距離が、遠距離用度数部分と近距離用度数部分のどちらから見てもはっきり見えない状態になるため、使用する人のニーズによっては、遠距離用部分と近距離用部分の間に中間距離用部分を挟んだ三重焦点レンズ(トライフォーカル)を選択する場合もある。
慣れれば、常用して屋外での歩行・運転は不可能ではない。累進遠近レンズに比べて近距離用視野が広い、視野の揺れ、歪みも少ないなどの長所もあるが、遠用部から近用部の境目で急に遠近感などが狂ったり、像の大きさなどが異なって見える場合もあるので、累進レンズの場合ほどではないが、ある程度慣れが必要である。また近年は外観上の理由から使用する人が少なくなっているが、加入度数がかなり強めの場合は累進レンズに比べて使いやすい面もあることから、一部では需要もある。
面形状による分類
球面レンズ
表面・裏面とも球体の一部を切り取った曲面に研磨されたレンズを球面レンズという。レンズの性能からいえば球面が最良であるとはいえないが、レンズ曲面を球面とすることで研磨が非常に容易になり、それほど精密でない研磨機でも高精度な研摩ができる利点がある。
縦方向と横方向とで度数を変えて乱視矯正を含めたものは面形状が球面ではなく、正確な光学上の分類では球面レンズではない。しかし、眼鏡レンズでは慣習として、球面レンズと同じラインアップ上の製品であれば「球面レンズ」と呼んでいる。
非球面レンズ
非球面レンズは片面または両面を平面でも球面でもない曲面としたレンズである。そのため断面を見ると外周と内周とでカーブの曲率がなだらかに変化している。
球面でなくする意図には次のようなものがある。
レンズを薄くする。
度数誤差の低減。すなわち、球面レンズではレンズの周辺部で度数が強くなっていたのを、周辺部まで一定の度数にする。
非点収差の低減。球面レンズではレンズの周辺部で物がぼやけて見えていたのを、はっきりさせる。
歪曲収差の低減。レンズ周辺部で物が歪んで見えるのを緩和する。
第三者から見てメガネのレンズによる装用者の顔の輪郭の途切れを最小限にする。
遠視用レンズは球面設計では十分な光学性能の実現が難しく、大きな光学的歪みを生じるが、非球面設計によって改善される。昭和7年(1932年)の書籍にも非球面レンズへの言及があるが、当時の非球面レンズはもっぱら高度遠視に用いるものとされていた。今日では近視用の非球面レンズも販売されているが、近視用レンズでは球面設計でもそこそこ良好な光学性能が達成可能なので、非球面設計にする目的は1の薄型化が主である。非球面形状を採用することにより、球面レンズと比較して緩い外面カーブでも必要な光学性能を満たすことができ、薄く仕上げることができる。4の点は、近視用では球面でも非球面でもほとんど差がない。眼鏡店では近視の客にも非球面レンズのほうが歪みが少ないと言って勧めることがあるが、その際の歪みとは、2や3にある度数誤差や非点収差といった光学上の歪みを指す。
また、4と5は相反する性能であり、歪曲の補正を重視して設計すると輪郭の途切れが大きくなり、輪郭の途切れを少なくしようとすると歪曲は大きくなる。どちらを重視して補正し他方を犠牲にするかを選べるレンズ銘柄もある。
歪曲収差は慣れの要素も大きい。光学技術者は、光学機器の設計に当たって複数の硝材を使い分けて収差を補正した経験から、人間の眼球においても同様の補正が行われていると思いがちだが、実際にはなんら補正されていないというのが結論である。網膜に映っている像は裸眼でももともと歪曲しており、外界の直線は網膜には直線として映っていない。それが本人に直線に見えるのは、歪曲込みの像を中枢レベルで直線として学習した結果である。歪曲収差のある眼鏡をかけると当初は見え方の歪みを感じるが、3日もすれば順応しまい、むしろその眼鏡を外して裸眼になったときに裸眼での見え方が歪んでいるように感じるものである。
度数誤差が小さく周辺部まで度数が一定であることも、近視用レンズではクレームに繋がることがある。近視は弱めに矯正されることが多いので、球面レンズでレンズ周辺部の度が中心部より強いことで結果的によく見える度になることがある。そのような状態に慣れた人が同度数の非球面レンズに変更すると、球面レンズより周辺部の見え方が悪いと感じることがある。
さらに細かく分類すればレンズの外面のみを非球面にした外面非球面と、内面を非球面にした内面非球面、両面を非球面にした両面非球面とがある。それぞれの性能は、理論的にはどれでも大差ないが、現実には製造工程の都合で外面非球面の性能が劣る。
外面非球面は、ある度数範囲を同じ非球面形状で兼用し、内面を目的の度数に合わせて球面研磨することでそれぞれの度数のレンズとして仕上げられる。用意すべき非球面形状が少なくて済むので安価に量産できる。使用する人の度数がたまたま兼用する度数範囲の中央に当たればよいが、範囲の境界に当たれば性能が劣るかもしれない。それに対して内面および両面非球は度数一段階ごとに別の非球面形状を用意するので、どの度数でも理想的な非球面形状が使用される。その代わり生産コストが嵩む。
材質による分類
主なレンズの材質はプラスチックとガラスである。また、極めて高価なため使用する人は稀だが、人工水晶や人工サファイアを使用したレンズもある。現在では販売量の9割近くがプラスチックレンズである。
プラスチックレンズ
利点としては、「割れにくい」「軽い」「染色によってカラーの選択が自由」がある。欠点としては、傷が付きやすい。
通常はハードコート(後述)がなされているものの、ガラスレンズには及ばない。ただし、耐擦傷性向上によるガラスレンズ並みの傷つきにくさを謳う製品もある。また、プラスチックレンズは同度数のガラスレンズに比較して厚い。屈折率の高いプラスチックが開発され薄くなってきているが、同時に屈折率の高いガラスも開発されており、レンズの薄さについては依然としてガラスの方が優位である。また、日常生活では特に問題にはならないことが多いが、ガラスレンズに比較して熱に弱い。
アクリル樹脂やポリカーボネートの様な有機ガラスが使用される。光学面では素材そのものの性能はガラスより劣るが、設計と製造の自由度が高いため、ガラスでは難しいハイカープレンズや累進焦点レンズでは、光学面においてもプラスチックに優位性がある。
ガラスレンズ
プラスチックに比べ、光学的性能が高く、傷が付きにくく、熱に強い。また、レンズはプラスチックより薄くすることが可能で外観に優れる。一方で、衝撃に弱く(ヒビが入ったり割れたりすることがある)、薄いにもかかわらず重い。
プラスチックレンズが主流になり、ガラスレンズは少なくなっているが、調理場や工場・焼却施設など、化学薬品や油分・火気の使用が多い場面での使用では、ガラスレンズに優位性があり、一部では根強い需要もある。
高屈折レンズ
通常の眼鏡レンズより屈折率の高い材質を用いたものを高屈折レンズという。ガラス・プラスチックともに商品がある。高屈折率プラスチックレンズの素材としては、三井化学のMRシリーズに代表されるチオウレタン系の樹脂が広く採用されている。
利点
薄い。
通常は軽くなる。
屈折率の高さによるキラキラした外観が人によっては高級に感じられる。
欠点
高価である。
アッベ数が低いため、レンズ周辺部で色収差が感じられる。
割れやすい場合や、コーティングが剥がれやすい場合がある。
比重が高く、体積の割に重い。この欠点は通常は薄くなることによって打ち消されるが、弱度では打ち消されないこともある。
屈折率の高さによるキラキラした外観が人によっては品なく感じられる。
高屈折レンズの極端な例としてはサファイアレンズがある。このレンズの利点は、
強度に優れ、ガラスよりも傷がつきにくく、割れにくい。
屈折率は1.77アッベ数が共に高い。特にアッベ数は72と極めて高い(通常のレンズは32~58)。
強度が高いため非常に薄くできる。
といったものであり、特性は極めて優れている。ただし1枚100万円以上と極めて高価である。
ローマ皇帝ネロは、サファイアのサングラスを愛用していた(サファイアの反射鏡とする説もある)。
コーティング・機能
レンズ表面に施されるコーティングや素材により機能を持たせたレンズも存在する。カタログ等に表記される名称はメーカーによって異なる。現代ではコーティングや機能をオプションとすることで標準価格を抑える販売手法が主流となっている。
紫外線カットコート
プラスチックはそれ自体に紫外線を通しにくい性質を有するが、よりカット率を高めるためコーティングが施される。
紫外線カットの眼鏡レンズは、バイオレットライト(波長が360~400nm)もカットするが、バイオレットライトに近視の進行を抑制する効果があるとして、メガネによる紫外線カットが近視を増加させているという報告もある。これに対応してバイオレットライトを選択的に透過するレンズも登場している。さらには、紫外線そのものに近視抑制効果があるとする説もある。
ハードコート
レンズに傷がつくのを防止する。ハードコートの技術が開発される前のプラスチックレンズは極めて傷つきやすいため販売量が伸びなかったが、ハードコートが施されるようになってからは実用上問題ない傷つきにくさを得、販売量でガラスレンズを凌駕するに至った。現在ではハードコートの施されていないプラスチックレンズは生産されていない。
汚れ防止
水や皮脂を弾きやすくすることで、汚れにくく拭き取りやすくなる撥水コート、湯気で曇らない防曇コート、埃が付きにくい帯電防止コートなど。防曇コートは付属の液体(界面活性剤)を定期的につけるタイプが主流だったが、不要なコーティングも登場している。
反射防止コート
光の反射を防止する。これが施されていないと、装用者自身にとってはレンズ裏面に自分の目が映って見えたり、背後から来る光が反射したりする。写真撮影の際、カメラのフラッシュ光が反射して目が透けず真っ白に写り、運転免許証やパスポートや個人番号カードの申請では、差し替えや撮り直しを指示される。
現代ではキズ防止、紫外線カット、撥水、反射防止は標準コートであるため、より性能を高めたコーティングをオプションとして設定しているレンズが多い。
耐熱レンズ
レンズの各コーティングは、膨張率が異なるため、熱が加わるとコート層の境目から剥がれやすい。対策として、各コーティングの膨張率を揃えることで剥がれを抑えたレンズ。熱に弱いプラスチックレンズの耐熱性を高めるものではない。
衝撃吸収(プライマー)
強度を高めるコーティング。レンズに衝撃がかかった際に割れにくくなる。縁なしやナイロールフレームに有用である。
偏光
水面や雪面からの表面反射光をカットする偏光板を使用する。
ミラー加工
レンズ前面に光を反射するコートを施す。
カラーレンズ
プラスチックが着色しやすいことを利用し、素材自体が着色されたプラスチックレンズ。ファッション用の他、眩しさの軽減や視力矯正機能のあるサングラスとしても利用できる。
調光レンズ
紫外線量や温度により、透過率が変わるレンズ。眼鏡兼サングラスとて利用出来る。
ブルーライトカット
高エネルギー可視光線(波長が380~500nm)を軽減するレンズ。ガラスではコーティングとなるが、プラスチックでは添加剤や薄茶色の着色により、レンズ自体でカットするものがある。カット率が高いレンズは、視界が黄色がかって見えるものもある。デジタル機器による睡眠障害や眼精疲労、眼の障害の防止を謳って販売されている。日本眼科医会は2021年4月、睡眠障害の防止については効果を期待できる可能性があるとしながらも、それ以外の効果は期待できないとし、さらに小児にブルーライトカット眼鏡を装用させては自然のままの太陽光を浴びる機会を奪い近視進行のリスクを高めるとして、小児の装用に対して慎重意見を表明した。米国眼科学会も、ブルーライトが眼に悪いとする科学的根拠はなく、ブルーライトカット眼鏡の使用を推奨しないとしている。
視力矯正以外
サングラス、色覚補正眼鏡、防塵眼鏡、3D眼鏡、伊達眼鏡、PCグラス(ブルーライトカット)などがある。
フレーム
眼鏡のレンズを眼前に固定するための構造をフレームまたは枠という。眼鏡フレームの世界三大産地はイタリア、日本、中華人民共和国。日本での生産地は福井県鯖江市や福井市であるが、低価格品は割安な中国製に代替されつつある。
眼の前に固定する方法による分類
フレームの第一の目的は、眼の前の適切な位置にレンズを固定することである。固定する方法は、以下のように様々なものが試みられてきた。
柄付眼鏡
眼鏡に持ち手がついていて、それを持って使用する。最初期の眼鏡はこの形態だったが、現在では日常的に使われることは少ない。現在では、虫眼鏡や一時的な老眼鏡として、また、眼鏡店などで現用眼鏡の上にかざして、今より少し強い度や弱い度、あるいは色付きレンズの見え方を試すときに使われる。
片眼鏡
片方の眼窩にレンズをはめ込むようにして使う。過去に何度か流行したが、現在では一般的でない。モノクルとも。
鼻眼鏡
テンプルがなく、鼻をばねで挟むような形で装用する。現代では一般的でない。目立たず、審美上の利点があるが、顔の形によっては掛けるのがほとんど不可能である。レンズの位置角度が狂いやすく、光学的にも好ましくない。フィンチ、パンスネ、鼻掛眼鏡とも。英語のeyeglassesはかつてはこの形式のものをのみ指した。詳細は別項を参照。
一山(いちやま)
テンプルはあるが鼻当てがなくブリッジが直接鼻に当たって眼鏡を支えるもの。現代では少数派である。今日では両者は眼鏡を指す同義語となっているが、英語のspectaclesはかつてはこの形式のものをのみ指し、鼻眼鏡を指すeyeglassesと区別された。鼻当てつきのものと違って鼻の高さに合わせて調整することができないので、同一デザインでブリッジ高さを変えたフレームが多数用意された中から、鼻の高さだけでなく出目奥目の具合をも考慮して適切なブリッジ高さのものを選ばなければ正しくかけられない。鼻が高さが同じでも、出目であれば張り出したブリッジを選択すべきではないし、奥目であれば張り出したブリッジが必要になる。一山フレームが一般的だった時代の眼鏡処方箋には、ブリッジの高さ、幅、深さの記入欄があった。落下防止のため、縄手や長手が持ちられることが多い。1912年のアメリカン・オプティカル・カンパニーの一山フレームには、瞳孔間距離、ブリッジの鼻に接する部分の幅、高さ、そしてレンズに対してブリッジが張り出しているか同一平面上か引っ込んでいるかの順列組み合わせで180種のブリッジが用意されていた。店頭に一山フレームが一つあるいは数個しか在庫されていないようでは、そのフレームがたまたま自分の顔に合っているのは幸運な場合のみである。
つる付き眼鏡
鼻当てとテンプルによって支える形式。英語では当初、eyeglassesにspectaclesのテンプルを取り付けたものであることからspectaclettesスペクタクレッツと呼ばれた。1913年の書籍では鼻の斜面が垂直に近かったり肌が敏感だったりで一山をかけられない人に勧められるフレームとして位置づけられていたが、現代では多くの人に勧められる最も一般的な形式である。鼻眼鏡と対比しては耳掛眼鏡とも。
素材による分類
メタルフレーム
金属製のフレーム。古くから存在し、鉄や真鍮が用いられてきた。近代ではステンレスの導入例が見られるが、強度が高い一方で可塑性に難がある。また材質の性質から重量がかさむため、レンズ周囲は細いワイヤー状、テンプルもワイヤー状かテーパー状の薄板で極力軽量に形成することが一般的である。金属アレルギーの者には不適な場合がある。
金無垢
メタルフレームのうち、材質に金を使ったものをいう。実際には純金(24金)は軟らかすぎるので適さず、実用的な硬度が得られる合金の18金や14金の合金が使われる。表記は18K、14K。柔軟性がある、腐食しにくい、金属アレルギーを起こしにくい、などの長所がある一方、貴金属だけあって高価である。
チタンフレーム
チタンで作られたフレーム。加工が難しいため、鉄やステンレスよりも高価であるが、腐食が起こりにくく丈夫で軽いことから、シニア向けフレームに用いられることが多くなった。表記はTi-PまたはTi-C。なお、-Pは純チタン、-Cはクラットチタン。後者はチタンを芯材(ベースメタル)とし、その周囲をニッケル合金等で覆ったもので、ニッケルめっきの表面処理を、通常合金と同様に行うことができる。
フレームカラーの種類を限定されないことから、多様なニーズに合わせることができる。また、パッド足等のパーツがろう離れした際にも、店頭で修理を行えるので、βチタンはチタン合金の中でも通常合金に近い扱いが可能である。チタンフレームは「タイタニウムフレーム」「チタニウムフレーム」とも称される。
チタンは、素材の軽さや丈夫さにより数多くのスポーツブランドも製造している。
銀縁
メタルフレームのうち、銀で作られたもの。銀は眼鏡フレームには適さないので、商品としてはあまり流通していない。銀色をした、銀でないめっき加工されたフレームをいうこともあるが、眼鏡店の店頭では誤解を避けるため、この意味では使われず、俗称である。
形状記憶合金製フレーム
メタルフレームのうち、現代におけるスポーツフレームに多く用いられるもので、激しい運動でずれにくく、運動での衝撃で曲がったり折れたりする事が殆ど無い合金素材を用いた物。反面、衝撃で曲がらないとは裏を返せばフィッティングのために意図的に曲げようとしても曲げられないことでもあるので、レンズの位置角度が正しく合っておらず頭痛や眼精疲労を起こしかねない状態でも、フレームをフッティングで修正することができない。この種のフレームを選ぶ際は、鏡の前で色々掛け比べて、フッティングするまでもなく初めからレンズが瞳に対して正しい位置角度に来ているものを選ぶ必要がある。
軽量チタン合金製フレーム
チタンフレームを極限まで軽量化した物。フレームの重さでずり落ちにくいと宣伝されているが、その一方でフレームが軽すぎるとレンズの重さにより眼鏡全体の重心が前に偏りかえって重さが気になるとする主張もある。変わり種としてリムからブリッジ部分を軽量樹脂製にした物もある。
但し、フレームを極限まで細くした為に、金属疲労を起こしやすく、通常のフレームに比べて耐久性や寿命は劣る。
セルフレーム
ある程度の厚みないし太さを持った、合成樹脂で成形されたフレーム。20世紀に入って出現した。かつて初期の合成樹脂であるセルロイドで作られたことからこのように呼ばれるが、実際の材質は素材の進化によりアセテートが殆どである。安価な眼鏡量販店で売られるフレームはプラスチック製である。プラスチックは金型を用いた射出製造が可能で生産性が良く、着用者のニーズにおいても軽量性を保ちつつ多様なデザイン・色彩に対応できる特長がある。一方、少量多品種生産の高価格品は、射出成形では高価な金型のコストが回収できずかえって高く付くので、アセテートの厚板からの削り出しで作られる。
顔の印象を大きく変えるファッション性が魅力だが、掛け心地の調整に余地が少ないのが欠点である。テンプルの先は、熱で柔らかくして調整できる。しかし、鼻当て部分をこの方法で調整しようとすればリムまで変形してしまう。メタルフレームには智の部分を曲げることでレンズをやや下向きの光学的に望ましい向きに調整できるものが少なからずあるのに対して、セルフレームは通常そのような調整ができない。ただし、メタルフレームでも智に装飾のあるものはレンズの向きが調整できないし、セルフレームでも鼻当てをメタルフレーム同様としたり合い口に初めから大きな隙間のあるデザインとしたりしてそれぞれの部分を調整可能としたものもあるので、あくまでも典型的なセルフレームと典型的なメタルフレームとを比べた場合の話である。
鼈甲縁
鼈甲で作られたフレーム。英語圏ではホーンリム()と呼称される。現在ではワシントン条約により輸出入が禁止されているため、非常に高価である(象牙の印章同様、規制施行前に輸入された材料で作った製品しかない)。化学合成で作られた鼈甲風のセルフレームをいうこともあるが、眼鏡店の店頭でこの意味で使われないのは「銀縁」と同じである。
黒縁・赤縁など
メタルフレームやセルフレームにおいて黒や赤などに着色されたもの。主にセルフレームで用いられる。メタルフレームの黒縁では、特に丸眼鏡ではハリー・ポッターのような印象になり若干の人気がある。
メタルフレームではフレーム素材に焼き付け塗装、セルフレームでは型入れ・型抜き段階でアセテート原料に着色を行われる。
特殊樹脂製フレーム
弾力性があり軽量な特殊樹脂が使われ、スポーツフレームに多用されている。弾力性があり、しなるのでフィット感が高い。また、スポーツや遊戯中の事故でボールなどが当たった場合に、衝撃吸収もしくはフレームが一定の衝撃強度で割れるようになっており、衝撃が集中しない構造になっている。
反面、弾力があるとは裏を返せば調整が効かないことでもあるので、レンズの位置角度が正しく合っておらず、頭痛や眼精疲労を起こしかねない状態でも、フレームをフッティングで修正することができない。この種のフレームを選ぶ際は、鏡の前で色々掛け比べて、フッティングするまでもなく初めからレンズが瞳に対して正しい位置角度に来ているものを選ぶ必要がある。
リムの有無による分類
フルリム
金属製やアセテート繊維製の縁で、眼鏡レンズの全周を覆ったもの。
縁無し
レンズの外周を覆う縁のないもの。リムレス()、フレームレス()、レンズが二点で留められていることからツーポイント(和製英語)、金属部分が三つあることからスリーピース()とも。セイコーによれば、眼鏡のフレームとは絵画の額縁のようにレンズを囲っていることから来た呼び名である。その語源から考えれば、レンズを囲っていない縁無し眼鏡の金属部分をフレームと呼ぶのは誤りであり、マウンティングmountingと呼ぶべきだとセイコーでは主張している。古い書籍にも、縁のある眼鏡の金属部分をフレーム、縁無し眼鏡の金属部分をマウンティングmountingまたはクラスプclaspと呼び分けているものがある。
レンズに直接ねじ止めを施し、強度のあるフレームを持たないことから、破損したりレンズのガタつきを生じたりしやすく、実用上の利点はない。フレームがないため眼鏡の存在が目立たず、顔に明るい雰囲気を与え、聡明そうに見える装飾上の利点がある。一見すると縁が無く視界の邪魔にならないように思われるが、実際にはレンズを固定するネジが縁よりよほど視界の中心に近いところに入る上にレンズの端がフレームで覆われていないためそこに光が反射して視界の邪魔になる。
明治期より2000年代初期に至るまで何度か流行しており、眼鏡を強調させたくない人が好んで使用する。昭和3年の書籍にも、社交界の婦人の間にひどく流行して、中には度のない素通しの縁無し眼鏡をかける者もいたとの記述が見える。
現存する世界最古のふちなしメガネは、1825年にオーストリア帝国ウイーンのフォークレンダー・アンド・サン社で作られた製品で、左右のレンズがつながった一枚のガラスで出来ており、つるだけが金属で出来ている。
サーモント(sirmon glasses、別称ブロー・グラス、コンビネーションフレームB)
リムの上部はナイロン、下部は金属のフレームで構成されている。1940年代以降普及。著名な装着者は、カーネル・サンダースやマルコムX。日本では俗に「眉毛めがね」等の通称がある。
ナイロール(Nyroll)
ハーフリム、セミ・リムレスとも。レンズの上半分のみを金属やアセテート製などの縁で覆い、下半分はナイロン糸で固定したものである。ナイロン糸の調整が必要で、ナイロン糸が経年劣化で緩んだり切れたりするとレンズが抜け落ちてしまう欠点がある。眼鏡店では半年ごとの確認・張り直しを勧めている。1990年代後半より流行し、現在でもかなりの需要がある。
逆ナイロール
アンダーリムとも。ナイロールとは逆に、レンズの下半分のみを金属やアセテート製などの枠で覆ったもの。眉毛周りやまつげ周りが強調される。2000年代にやや流行し、現在でも若干需要はある。
横ナイロール(サイドナイロール)
センターリムとも。レンズに対して、フレームの中央側を金属やアセテート製などの枠で覆い、フレームの両端側をナイロン糸などで固定したもの。フレーム両端側の固定に余裕が生まれているため、曲面的なデザインなど、フレームデザインの自由度が高い。最近出回ったばかりの新しいカテゴリー。
フルナイロール
レンズの大部分を糸(ナイロール)で固定する。
従来のナイロールはレンズの半周近くにフレームが必要だが、「フレーム」に3点で接する以外は、全てテグスでレンズを囲ったものを、考案者がフルナイロールと名づけた。
試験枠
検査のときに仮の眼鏡を組み立てるのに使うフレーム。仮枠とも。定形のレンズを簡単に抜き差しできるようになっている。オートレフトラクトメーターおよびフォロプターによって導いた度数を試験枠によって実際の使用に近い状態で体験し、最終的な度数を決定する。眼鏡レンズには近視・遠視度数、乱視度数、乱視軸などによって非常に多くの種類があり、全てについて試験用のレンズを用意するのは不可能に近い。そこで仮枠では近視・遠視用レンズ、乱視用レンズ、さらに必要ならば遠近両用レンズを重ね合わせて装着し、乱視用レンズを乱視軸に合わせて回転させることで体験すべき矯正状態を再現する。レンズの形は真円かつ小径である。真円でないと乱視用レンズを回転させることができないし、小径でないと厚みが増し複数枚重ねることが困難になるためである。
レンズの形状による分類
ラウンド
円形を模したもの。いわゆる「丸眼鏡」。ただし真円では眼の錯覚により、縦長の楕円に見えるため、若干横長になっているものが多い。
オーバル
楕円。
ボストン
逆三角形。
ウェリントン
逆台形。
フォックス
つり目。「教育ママ」のカリカチュアに描かれるような型。1950年代のアメリカ合衆国で女性用として流行。
日本では、1950年代に一世を風靡した男性コメディアンのトニー谷がステージや映画で着用していたことで知られる。トニー谷がフォックス眼鏡を使ったのも「アメリカかぶれの毒舌芸人」というカリカチュア的イメージの強調が目的であった。
スクエア
長方形や正方形
カニ目
天地(上下の高さ)の極端に浅いもの。
オクタゴン
八角形。
ティアドロップ
茄子型とも。tear dropは和製英語であり、英語圏ではアビエイター()といい、1930年代に開発されたレイバンのアビエイター型がその由来。ダグラス・マッカーサーが使っていたサングラスとして有名である。
著名人にちなむ分類
ロイド眼鏡
セルフレーム、フルリムで、ラウンドタイプのもの。黒縁のものが多い。
テンプルの形状による分類
半掛け
一般的な形状。平仮名のへの字状になっている。
縄手
巻きつる、ケーブルテンプル、スポーツフレームとも。別名のとおり、テンプルが耳たぶのまわりをぐるりと巻きつくように作られたもの。元々は眼鏡の必要な人が乗馬中に眼鏡を落とすことがないよう開発されたものだが、最近は眼鏡の常用が必要な子どもが激しい遊戯の最中に落とすことがないよう使用される場合が多い。中度以下の近視は見えれば掛けなくてもいいが、遠視の子どもは正常な視力の発育のために眼鏡を常用することが多く、縄手フレームが使用されるのが普通である。眼鏡は衝撃が加わったとき外れることによりショックを吸収できるとする考えから、遊戯中の事故などの際に外れないと衝撃が耳や鼻に直接加わり怪我を負いやすくなるとして縄手フレームの使用に否定的な見解もある。ボールなどが当たった場合広い面積に圧力が加わることになるが、逆に繩手の蔓のメガネを掛けていた場合、狭い面積に力が集中し、特に蝶形骨を傷めた場合これが視神経にまで及び、最悪の場合は失明に到る恐れがあると報告されている。落下防止のために一山に多く用いられた。半掛けと比べると細身に作られている。
長手(ストレートテンプル)
落下防止のために一山に多く用いられた。
フィッティング
眼鏡フレームを使用者に合わせて調整することを、日本では「フィッティング」という。英語圏で眼鏡の「フィッティング()」といえばフレーム調整よりも顔に合った眼鏡フレームを選択することに主眼があり、日本語でいうフィッティングはむしろ「アジャストメント()」というが、ここでは日本語でいうフィッティング、つまり英語の「アジャストメント」について述べる。
フィッティングは、次の三つの要素を満たすべく行われる。
光学的要素
光学的要素とは、レンズを正しい位置に、適切な頂間距離、前傾角で固定することである。これを満たしていないと、検査結果のとおりの見え方にならなかったり、不要なプリズムにより頭痛や眼精疲労を生じたりする。
力学的要素
力学的要素とは、眼鏡がずり落ちたり側頭部が痛くなったりせず、快適にかけ続けられることである。
美的要素
美的要素とは、見た目に美しく、顔に調和していることである。
フィッティングは、三要素をバランスよく満たすことを念頭に置いて行うべきである。いずれかの要素ばかり気にして、他の要素を無視するようでは良くない。
眼鏡店にあるどのフレームを選んでもフィッティングさえすれば三要素を満たすことができるわけではない。使用者の顔に合わないフレームを選んでは、どうフィッティングをしても三要素を満たすことができない。フレーム選択の段階からフィッティングが始まっているとも言われ、先にも述べたが、英語で眼鏡のフィッティングといえばむしろフレーム選択のことである。前述の鼻眼鏡は、少なくとも流行していた当時には美的に優れたものと見なされていたが、光学的にはレンズが斜めになりやすい問題点があり、力学的にも顔つきによっては掛けることが不可能で、光学的・力学的には必ずしも好ましくないことが当時から知られていた。弾力ある素材で作られたフレームは、なるほど力学的要素を満たしやすいが、光学的要素には疑問が残る。弾力があり曲げても元に戻るとは、逆にいえば意図的に曲げようとしても曲げられないことでもあるので、レンズが正しい位置に来ていなくてもフレームを曲げて修正することができないからである。
フレームの種類によっては、フィッティングに制限のあるものや、ほとんどフィッティングのできないものもある。そのようなフレームでは、眼鏡デザインではなくフレーム選択が特に重要であり、フィッティングするまでもなく、初めから三要素を満たすものを選ばなくてはならない。
なお、オーダーメイドやセミオーダーメイドのフレームもあり、オーダーメイドは顔の輪郭のデータを測定して、その人にフィットするように納品され、セミオーダーメイドはパーツの組み合わせで見た目が顔に調和するように最適なパーツを組み合わせて納品される(その為のサンプルフレームも展示されている)。いずれにせよ少数生産になる為コスト高になる。また、オーダーメイドフレームの場合は第三者に譲渡した場合は顔の輪郭が合わずにフィットしない事もある。
フレームサイズ
眼鏡の大きさは「46□18-135」のような形で表記されることが多い。この場合、レンズ横幅46mm、鼻幅(山幅)18mm、つる長さ(テンプルをまっすぐ伸ばした長さ)135mmを表記している。この表記法は□マークからボクシング・システムと呼ばれる。
この三つの数字のうち前二者を足し合わせたものをFPDと呼ぶ。Fはフレーム、PDはpupil distanceつまり瞳孔間距離、装用者の両目の瞳の間隔であり、FPDは元々の意味ではそのフレームが対象とするPDを意味する。つまり、FPD64mmとは、元々の意味ではPD64mmの人のためのフレームサイズという意味であった。
かつて第二次世界大戦前から終戦後しばらくまでは工場で予め定型に仕上げられたレンズで眼鏡を作る場合があり、その場合フレームの選択によってレンズ中心の間隔を瞳の間隔に合わせていた。
当時の眼鏡レンズは、レンズの見た目の中心がそのまま光学上の中心であることが原則だったので、光学中心の間隔=右レンズの幅/2+鼻幅+左レンズの幅/2である。当時も現在も右レンズと左レンズの幅はよほど奇をてらったフレームでないかぎり同一なので、右レンズの幅/2+左レンズの幅/2=レンズ幅である。つまり、光学中心の間隔=レンズ幅+鼻幅=FPDとなり、PDと同じFPDのフレームを選べば定型のレンズをフレームにはめるだけで左右の光学中心の間隔が瞳の間隔に合う仕組みであった。今日でも眼科や眼鏡店で検査の際に仮に組み立てる眼鏡は同じ仕組みである。その意味で、当時はこの表記にはフレームを選択する上で重要な意味があった。あえてPDと異なるFPDのフレームを選ぶならば、PDのズレにより頭痛や眼精疲労を起こさぬように見た目の中心と光学中心とをずらしたレンズを作る必要があった。
今日では、工場で大きく作られたレンズを、店頭でフレームに合わせて小さく削りなおして眼鏡を組み立てており、眼鏡として完成した時点ではレンズの光学中心と見た目の中心とは異なるのが普通である。光学中心とPDとはレンズの削り方で合わせるので、FPDとPDとが合っていなくても光学上の問題は出ない。そうすることで多様なレンズの形を実現でき、また装用者のPDに合わせて複数のFPDのフレームを生産・在庫する必要もなくなった。その意味で、この表記には今日かつてほどの重要性はなく、中にはこの表記のないフレームもある。とはいえ、FPD<PDでは他人から斜視のように見えて違和感が生じる。FPD>PDならば見た目はおかしくないが、極端にFPD>>PDでは厚く重い眼鏡になってしまう。今日でも、FPDがPDと同じか大きいフレームを選択したほうが良く、強度数ならばFPD<PDにならない範囲でできるだけFPD=PDに近いものが良いとは言える。
フレームサイズが大きいほうが、レンズを通して見られる視野が広くなるという利点がある。ただし、それは上述のフィッティングを理想的に行うことができた場合である。現実には、大きなフレームの眼鏡はフィッティングが難しくなるので、顔との適合を考えずにむやみに大きなフレームを選ぶと、次のような理由によりレンズ面積のわりにはレンズを通して見られる視野が広くならないことがある。以下、レンズを通して見られる視野を単に視野という。
大きなフレームで作成した眼鏡は重量が増す。レンズが大きくなるにつれて厚みも増すので、フレームのサイズを少し大きくしただけでも、重量は大きく増す。重い眼鏡を無理にずり落ちないようにフィッティングすると耳や鼻が痛くなりやすいので、完全にはずり落ちを防止できないことがある。眼鏡がずり落ちると、上方向の視野が狭くなる。
眼鏡より小さなコンタクトレンズのほうが視野が広いことからも分かるように、同じ大きさのレンズでも眼に近いところに固定されれば視野が広くなり、眼から遠ければ視野が狭くなる。眼鏡がずり落ちると、鼻の斜面に沿って移動し眼から離れてしまうので、横方向の視野もずり落ちない場合より狭くなる。
フレームが大きいと、顔立ちによってはレンズ上部が眉に当たったりレンズ下部が頬に当たったりしてしまい、このことによってもずり落ちやすくなることがある。この問題を鼻パッドを高く調整することで解決したとしても、眉や頬に当たらないところまでレンズを遠ざけていることに他ならないので、眼とレンズとの距離が離れてしまい、レンズ面積の割には広い視野が得られない。
大きなフレームでも、鼻方向には鼻が邪魔をしてほとんどレンズを大きくできないので、理想的なフィッティングができたとしても鼻方向の視野はほとんど広くならない。眼からレンズが離れてしまえば、眼に近づけてフィッティングされた小さなフレームよりも、鼻方向の視野はむしろ狭くなる。
眼鏡がずり落ちてレンズが眼から離れてしまうことには、他にも次のような不利益がある。
外見上みっともない。
近視用では意図したより矯正効果が弱くなり、遠視用では強くなってしまう。
自分からの見え方の歪みが大きくなる。
他人から見ても、レンズを通して見える顔の輪郭とレンズを通さない輪郭とのズレが大きくなる。
1833年に、イギリスロンドンの眼鏡商が著した本では、レンズの大きさは直径にして、3/4インチから1インチ(メートル法換算で、19ミリから25.4ミリメートル)もあれば実用上十分であり、フレームが視界に入って気になるという例の十中九までは、眼鏡が顔に適切にかかっていないか眼から離れすぎているのが原因であるとしている。昭和3年に日本の眼科医が著した本では、眼鏡レンズが大きくても小さくても結局その中心しか鮮明に見えないのだからレンズの大小は光学的には問題にならないとし、もっぱら顔に似合うかどうかでレンズの大きさを決めるように勧めている。
また、表記には総寸法の提示が無く、丁番部などがレンズから横に張り出したデザインやテンプルの曲げられてからのサイズは分からないため、同表記であっても横幅寸法はデザインによって違うため、実際に試着装用してみたり専門家による調整が必要である。
眼鏡は、横幅は眉毛の長さに合わせ、縦幅は鼻の上部にかかる程度が丁度良いサイズだが、あくまで目安とし、店員と相談をして合わせるのが望ましい。
装身具としての眼鏡
眼鏡は装身具としての側面も持っている。視力の改善でなく見た目の改善を目的として眼鏡が使われることは古くからあり、失明により見苦しくなった眼を隠すためにサングラスを使うことは19世紀から一般的であったし、適切に調整された大きなレンズの眼鏡には顔を陽気に見せる効果がある。顔面の中でも目立つ場所である目の周りに装着する眼鏡の装身具としての可能性は高い。
上記のように眼鏡のフレームには多種多様なものがあるが、実用品としてみればサイズ違いだけで十分である。壊れやすい縁無しなどは実用品としての性能は劣っているともいえる。多種多様なフレームが開発されてきたのは眼鏡が昔から装身具としての側面をもっていたことの証左である。
レンズの改良においても外観の改善つまり厚みの低減には大きな努力が払われてきた。高価な高屈折レンズも、利点は外観の良さが主であり、光学性能ではむしろ劣ってさえいる。
視力に問題がなくても装身目的で眼鏡を装用する者もいる。このような視力矯正作用を持たない眼鏡を伊達眼鏡という。昭和16年に著された本にも、伊達眼鏡をかける者は案外少なくないものだとの指摘が見られ、伊達眼鏡をかけることによって眼に病気が起こるわけでもないのでかけても差し支えないとして、伊達眼鏡が眼に悪いのではないかとの懸念を否定している。
特にまぶしいわけでもないのにサングラスを用いるのも装身目的といえる。サングラスを掛けると眼球に入る光量が減って瞳孔が開くが、紫外線(UV)カット性能が適切なレベルでない製品は、紫外線を余計に眼球に浴び、却って目を傷めることになるので注意が必要だとされる。また、レンズの小さなサングラスをかけていると、瞳孔が開いたところへ顔とレンズとの隙間から紫外線が射し込むので良くないともされる。
このような言説に対しては、
日本では、サングラスでない普通の眼鏡レンズでも紫外線カットが常識になっている程で、紫外線カットされていないサングラスはほとんど流通していない。
紫外線カット機能のないレンズでも、太陽光を素通しする訳ではなく、7割以上の紫外線がレンズで吸収され減衰する。
日中の屋外は屋内の何百倍も明るく、それだけ明るければ、濃いサングラスによって可視光線の9割が遮断されたとしても、依然として瞳孔を閉じさせるに十分な可視光線が残る。
顔とレンズとの隙間から紫外線が入るならば、同じ隙間から可視光線も入って瞳孔が閉じる。
とする反論があり、テレビや雑誌で大げさに誇張されて広まっている言説であり、理屈としてはそうでも、現実には殆ど心配する必要がない。
文化・芸術と眼鏡
絵画や映画、漫画の中に描かれる眼鏡は描かれる人物の性格を表す象徴であることがあるが、その表す性格は、時代や場所によって異なる。
眼鏡が描かれた最も古い絵画は、トマッソ・デ・モデナが1352年に描いたヒュー・オブ・サン・シェールの肖像画である。ヒューの死後一世紀も経ってから描かれた絵画である(「歴史」を参照)。ヒューの生前には眼鏡は発明されていないが、尊敬のしるしとして描かれたものである。眼鏡が発明される以前に没した人物の肖像画に当時存在していなかったはずの眼鏡を描き入れる慣行はその後、数世紀にわたって続く。学識とか識字能力の持ち主、あるいは当代の実力者であることの証と考えられていたのであろう。眼鏡が日本国内で一般化したのは江戸時代、元禄・享保期頃である。日本の江戸時代の浮世絵や黄表紙本の挿絵に描かれる眼鏡は、知性よりもむしろ職人的な細かい手仕事の象徴であり、年配の職人が眼鏡をかける姿が多く描かれた。
近現代の創作を含めた、眼鏡をかけた登場人物の描写については「眼鏡キャラクター」を参照。また装用者を「メガネ」(片仮名表記が多い)と渾名で呼ぶこともある。
このうち片眼鏡は、今日の映画や漫画では悪人や盗人の象徴として描かれる。ドイツでは、第一次世界大戦時の軍作戦本部で地図を見るときに目が悪い者は片眼鏡を用いるという習慣があった。他国で片眼鏡が廃れた後も、ドイツでは第二次世界大戦までその習慣を続けた者が多く居たため、ナチスの軍人と片眼鏡のイメージとが重ね合わされたのかもしれない。今日では悪人の象徴として描かれる片眼鏡だが、かつては事情が異なった。P・G・ウッドハウスが1930年に示した小説家向けの眼鏡装用基準では、眼鏡の種類ごとにそれを掛ける人物を列挙しており、当時で言うスペクタルズ、現在でいう一山を掛ける者の筆頭に善良なおじさん(good uncle)、鼻眼鏡を掛ける筆頭に善良な教師、片眼鏡を掛ける筆頭に善良な公爵と、多くの種類で善良な人物を筆頭に挙げていた。鼻眼鏡と片眼鏡については悪人はこれを掛けないとも述べている。手塚治虫のスター・システムの最古参である花丸博士も多くの役柄で片眼鏡をかけているが、専ら善人を演じた「スター」である。
近年の漫画・アニメでは、逆ナイロール形式の眼鏡が、キャラクターの外観を大きく変えることなく、眼鏡キャラクターとしての個性も表現するための漫画的デフォルメ描写に好んで使われる。キャラクターの瞳の印象が見た者に素直に伝わるため、瞳を大きく描く萌え絵においてはこの表現が用いられることがある。また、キャラクターの造形もしくは絵柄によってはフルリムの眼鏡を掛けさせる事が困難な(あるいは、掛けさせると不恰好となる)ため、それを回避するためにこの表現を用いることもある。現代のアニメは眉の形状によって表情を表現することが多く、上半分のないフレームとすることで表情を容易に表現できるというメリットもある。一方、『涼宮ハルヒシリーズ』に登場する長門有希が使用しているのは、逆ナイロールでない、普通のナイロールである。また、テンプルが描かれないこともあるが、その場合、鼻眼鏡をかけた人物という設定なのか、通常の眼鏡をかけた人物のテンプルの描写が省略された結果なのか、判別しがたい。
日本では、10月1日が「メガネの日」とされている(1001すなわち一〇〇一が、眼鏡のツルとレンズの並びに似ているため)。徳島県鳴門市の葛城神社は眼病の治癒にご利益があるとされ、眼鏡を供養する「めがね塚」が1998年に建立されている。
2019年12月3日、女性グループは外見・服装について不要なルール強制はパワーハラスメントにあたると明記するよう緊急要望書を出した。美容部員や企業受付の女性だけに課せられているメガネ禁止などがこれに当たる。
治療用眼鏡等の保険適用
日本では2006年4月より乳幼児の弱視や先天性白内障手術後の治療用眼鏡(コンタクトレンズも含む)に対して、健康保険の療養費が支給(保険適用)されるようになった。詳しくは「弱視」の項目を参照のこと。
検眼
日本国外ではオプトメトリスト(Optometrist)のような国家資格を設けて、眼科医(Ophthalmologist)と区別している国家が多い。日本では2022年4月より職業能力開発促進法第47条第1項の規定に基づき眼鏡作製職種が設けられ、眼鏡作製技能士(1・2級)という国家資格が成立した。検定合格者は眼鏡作製技能士を名乗ることができる。他の技能士と同じく名称独占資格であり、合格せず名乗った者は法律で罰せられる。(職業能力開発促進法第五十条4→第百二条八)
メガネ小売チェーンの一覧
愛眼
パリミキ
富士メガネ
メガネサロンルック
メガネのプリンス
ドクターアイズ
弐萬圓堂
J!NS
Zoff
メガネスーパー
眼鏡市場
レンズカート(:en:Lenskart)
スマートグラスなど眼鏡型デバイス
微細な加工技術の発達により、眼鏡にディスプレイやカメラ、マイクなどの機能を兼ね備え、インターネットに接続することが可能になっている。こうした眼鏡型ウェアラブル端末を「スマートグラス」と呼ぶ。
脚注
注釈
出典
関連項目
ゴーグル
ミーカガン
時計・宝石-高価な装身具として、日本ではしばしば眼鏡と同一の店舗にて取り扱われる。
眼鏡橋
蒸着(IAD) -メガネの反射防止コーティング
バイザー
暗視装置
双眼鏡
外部リンク
めがねの匠と技|【公式】福井・鯖江めがね総合案内サイトJAPAN GLASSES FACTORY
日本医用光学機器工業会メガネ・ポータル
日本眼鏡販売店連合会(JAOS)公式ホームページQ&A
眼鏡・コンタクトレンズの市場動向を調べる資料を紹介してほしい。|レファレンス協同データベース
目とメガネ・コンタクトレンズのFAQ+
医療機器
レンズ
目
装身具
熟字訓 | 0.695781 |
1442683 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E7%A7%91%E6%95%99%E8%82%B2 | 理科教育 | 理科教育(りかきょういく)とは、教科「理科」についての教育活動・内容などの総称。広義には、日本での学校教育(小学校・中学校・高等学校)における科学教育全般を指している(日本以外の類似する教育分野は主として「科学教育」と呼ばれる)。自然科学に関する教育活動全般の他、環境教育や食育なども理科教育に含められることがある。また、理科教育振興法で規定される「理科教育」には学校教育の「理科」に加え「数学」の分野も含まれている。
しかし、日本の小学校・中学校・高等学校における理科教育活動を狭義にとらえた場合、日本以外の科学教育を参考にしながら科学教育の望むべきあり方を目指してはいるものの、その内容は、純粋な科学教育とは少し異なる日本独自の変遷をたどっている(詳細は後述)。具体的な学習内容は学年により大きく異なるが、主として「理科に関する知識の習得およびその活用」がその目標となっている。
なお、理科教育のなかで特定の領域について考えるときには、「物理教育」「化学教育」などと細分化される場合がある。また、理科教育全般を取り扱う研究分野は「理科教育学」と呼ばれ、教育学(教科教育学)の一分野として位置づけられる。
歴史
「理科」以前
江戸時代の初期より、渋川春海が中国や西洋の知識を取り入れて改暦を行ったり、関孝和が独自にベルヌーイ数を発見するなど、日本でも近代的な科学の知見を有する優秀な学者が登場するようになっていた。しかし、彼らは独自に師を得て、知識を得ていった学者たちである。明治時代になるまで、日本にはそもそも国家が全国民に「制度として」行う教育がなく、庶民は寺子屋で学ぶことが多かった。その寺子屋では「読み・書き・そろばん」が主な内容であったが、地域の要求によって、他の分野(産業など)も教育内容に加えられていた。
一方、1720年(享保5年)の八代将軍徳川吉宗による享保の改革により、「洋書輸入の禁」が緩和された頃から蘭学が成立し、個人的にではあったものの、近代科学が蘭学塾で伝承され始めた。書物の翻訳が主目的であったが、輪読にとどまらず、そこからさらに深く科学を追究する者も現れた。
そして、1854年(安政元年)の開国をきっかけに、江戸幕府は、国防上の必要性から、欧米の科学技術を積極的に取り入れる方針をとった。長崎海軍伝習所・蕃書調所など、科学技術を教える藩校が設けられた。明治維新後は西洋文明を積極的に取り入れるようになり、福沢諭吉の『窮理図解』など、先進的な洋学者の手によって科学啓蒙書が相次いで出版された。
日本の歴史において、「理科」という単語が登場したのは、青地林宗が文政10年(1827年)に著した「氣海観瀾」などがある。青地は、オランダ語の「Natuurkunde(物理学)」の訳語として「理科」という単語を使っており、「理科は物則の学なり。其の効用を察し、諸を器数に徴し、諸を測験にしらぶ」と書いている。これを端緒とし、以後、宇田川榕庵の「舎密開宗」や赤坂圭斉の「理学初歩」など、日本の科学書において、「理科」という単語が受け継がれていく事となる。
「学制」頒布と、科学教育への試行錯誤
1872年(明治5年)の学制頒布時に、はじめて、理科の前身に当たる科目が設けられた。そこでは、近代科学の合理的な自然観が内容として取り上げられるようになった。これは科学的な考え方を養うことに重点を置いたもので、「当時、どの国にも科学教育に大きな比重をかけたものはなかったであろう」という評価もある。
しかしながら、当時、科学教育を受ける段階に進んだ子どもも少なかった上、教師自身も科学について学びながら指導している状態であった。
また、この時期の師範学校などでの教師教育は、科学教育に関連することも含め、外国の教育法の直輸入が図られるようになっていた。これに対し、「明治初年の科学啓蒙の精神を忘れ、欧米の技術教育の取り入れに懸命になってしまった。」と、科学教育の理想的な側面から次第に離れていったことを指摘する者もいる。
さらに、カリキュラム・教科書の編成が徐々に文部省主導で進むようになり、1877年(明治10年)頃に取り上げられた科学の教科書には、『物理階梯』『具氏博物学』など、文部省が洋書を翻訳したものが多くなった。そして、学校の現場では、教科書と黒板によって知識注入・暗記する方法が主にとられていた。
「理科」の成立
1886年(明治19年)の学校令で、いままで複数の学科に分かれていたものが「理科」という1つの科目にまとめられ、実質的な理科の内容が決定づけられた。1891年(明治24年)の「小学校教則大綱」には、「第八条理科ハ通常ノ天然物及現象ノ観察ヲ精密ニシ其相互及人生ニ対スル関係ノ大要ヲ理会セシメ兼ネテ天然物ヲ愛スルノ心ヲ養フヲ以テ要旨トス」と記され、このとき、「科学的な考え方の初歩」を教えるのではなく、自然の事物・人工物(道具類)・自然現象について教えるように方針転換された。つまり「目に見えるものの実験・観察」に重点が置かれることになった。
この流れを受け、1904年(明治37年)の国定教科書制定当初、理科については定められなかった。これは、「教師が教科書に頼って、実験を行わないのでは」という危惧があったためである。その後、1910年(明治43年)に国定教科書が制定されたが、その教科書も「要点を記述するにとどめ、ノート代わりにする」という意図で編纂されていた。
明治40年、高等小学校の1~2年が尋常小学校に統合され、尋常小学校の年数が6年となった結果、明治41年からは尋常小学校の5年、6年のすべての児童が義務教育として学ぶようになった。
第一次世界大戦後の理科教育革新運動
「第一次世界大戦後の理科教育革新運動(理科教育改革運動と称すこともある)」には、子ども自身で行う実験の増加、国定教科書による画一的な理科教育へのアンチテーゼも含まれていた。また、低学年理科への要求も、一部の間で強くなっていた。
しかし、この時代の実験・観察には、「教師たちが実験のもつ意味を十分に理解していたとはいえ」ず、講義の補完程度の認識しかなかったという指摘や、「教師自身の中に科学教育についての正しい考え方を着実に伸ばしていくことなしには、立派な設備も訓令も逆効果をもたらしかねないということを教えることになった」という指摘もある。
また、治安維持法の制定、満州事変・日中戦争と戦時色が強くなるにつれ、科学的な考え方自体が政府の方針にそぐわないものになり、次第に理科教育は沈滞期を迎えることとなった。この結果、戦局が進むにつれ産業技術者が不足することになり、大きな問題になったが、その対応には、国民学校の発足まで時間がかかった。
国民学校の発足と、理科教育の変遷
1941年(昭和16年)の国民学校発足により、「理科」は「理数科」という教科の中の「理科」(理数科理科)という科目で教えられることとなった。その「国民学校令施行規則」で、理数科理科の要旨は下記の通り定められた。
第七条理数科ハ通常ノ事物現象ヲ正確ニ考察シ処理スル能ヲ得シメ之ヲ生活上ノ実践ニ導キ合理創造ノ精神ヲ涵養シ国運ノ発展ニ貢献スルノ素地ニ培フヲ以テ要旨トス
第九条理数科理科ハ自然界ノ事物現象及自然ノ理法ト其ノ応用ニ関シ国民生活ニ須要ナル普通ノ知識技能ヲ得シメ科学的処理ノ方法ヲ会得セシメ科学的精神ヲ涵養スルモノトス
初等科ニ於テハ児童ノ環境ニ於ケル自然ノ観察ヨリ始メ日常ノ自然物、自然現象、其ノ相互並ニ人生トノ関係、人体生理及自然ノ理法ト其ノ応用ニ関スル事項ヲ授クベシ
高等科ニ於テハ其ノ程度ヲ進メ産業、国防、災害防止、家事ニ関スル事項ヲモ授クベシ
このとき、「自然の観察」という科目として理科が低学年(1 - 3年)から課されることになったほか、「科学的処理の方法を会得せしめ」という記述にもあるとおり、科学的な合理主義に基づいた内容に近づくこととなった。しかし、国粋主義的な文化理念と矛盾しない「日本的科学」の指導にならざるを得なかった。
これについては「『科学教育の立場に一歩踏み出していることを意味する』一方で、『科学のもっとも原理的・一般的な法則・教育の概念』は意図されていない」いう評価や、かえって「実証主義的色彩が強いものである」という評価もある。
第二次世界大戦後の理科教育
戦後、1947年(昭和22年)に発足した新制中学校・高等学校も含めて、生活単元学習や問題解決学習という、身近な生活から問題を見つけて解決する形の授業形態が中心になった。神崎夏子は、当時の中学・高等学校で使用されていた理科教科書の目次をとりあげ、「科学を学ぶ意義が学問の体系知識を学習すること、研究者を育てることを目的としたものではないことを」示しているという意見を述べた上で、「なぜ理科を学ぶのかに答えてくれるものであった」としている。
しかし、子どもの個々の経験から科学の本質・系統的な自然科学の知識を身につけさせることは難しい上、無理があることでもあった。そのため、次第に「這い回る経験主義」という批判や、基礎学力の低下を憂う声が強くなった。
そこで、1958年(昭和33年)告示の学習指導要領では系統学習中心に揺り戻され、その傾向は1968年(昭和43年)告示の学習指導要領改訂でいっそう強くなった。しかし、今度は系統性を重視する余り内容が知的理解中心・論理主義的になり、落ちこぼれの子どもが増えることとなった。
ゆとり教育と呼ばれる教育と、その結果
いわゆる「ゆとり教育」の始まりとなる1977年(昭和52年)告示の学習指導要領改訂では、再び直接経験を重視する形になり、授業時間数が減らされ始めた。そして、1992年度(平成4年度)に、小学校1・2年の理科が廃止され、生活科が新設された。これにより、小学校低学年での理科単独の授業は姿を消した。その後、1998年(平成10年)告示の学習指導要領で、さらに理科の指導時間数が減らされた。
この学習指導要領の実施後、子どもの学力低下が世論で取り上げられるようになった。2003年(平成15年)に文部科学省が「指導要領に示していない内容を加えて指導も出来る」ように学習指導要領を一部改正し、教科書にも発展的な内容が入った。これに対し、「『学習深度は深く』なったものの、『内容が断片的になり、現場の教員は、かなりの試行錯誤をしている』」との意見もある。
理論および実践
代表的な教授理論
理科教育学では、科学的な認識を軸として認知心理学や発達心理学を学ぶことが多い。これは、子どもの素朴な認識を踏まえ、科学的な認識ができるように授業に取り組むことが重要な姿勢とされているからである。
そして、「なぜだろう?」「何だろう?」「どうなっているんだろう?」「どうすればよいだろう?」という疑問や、事物に対する子ども自身の認識のずれ・矛盾を子どもに持たせ、それらを子ども自身で解決する手助けをすることで、より理解を深めさせる実践が行われている(弁証法的なアプローチ)。
なお、日本で発達した理科の教授理論には、板倉聖宣らの「仮説実験授業」、玉田泰太郎らの「課題方式」などがある。どちらも「問題→予想(仮説)→討論→実験」が基本線の、科学的認識の成立過程を再現していく授業で、科学の基礎的事実・法則・概念の認識を目標にしている。
具体的な授業の方法
上記を踏まえた上で、子どもに「おもしろい」と思わせるとともに、子どもが目的を持ち、子ども自身の手で「科学的な考え方を身につける」ことを狙った授業が模索されてきた。
理科の授業は、その性質上、「実験」「観察」が多いという特徴がある。板倉聖宣・左巻健男・米村でんじろう達や、現場の理科教諭らの手で、子どもに動機づけをさせやすい、実験を交えた授業実践・指導方法が考えられてきた。その他、科学史への理解も同時に狙った授業実践も、一部で行われている。
以下、実験・観察について述べる。
実験
実験には、教師が行い、子どもにその過程を見せる演示実験と、子ども自体に行わせる実験がある。なお、実験ではアルコールランプ・ガスバーナー等の火気、毒物・劇物・危険物などの危険を伴うものを扱うことが多い。これらを安全に取り扱うことを含めて、授業時に注意する必要がある。
観察
生物の成長・地表・大気圏・天体を題材にする場合などに、子どもに観察を行わせることもある。この場合も、疑問を子どもに持たせて観察させることで、より理解を深めさせる授業実践が行われている。
主な学習論
探究学習
探究学習論とは、子どもたちが主体的に探究活動に取り組むことを通して、知識の獲得だけでなく、探究する能力や態度を獲得することを目的とした学習論である。具体的には観察や実験といった探究活動を通して、「問題を見出し、仮説を立てる」「実験計画の立案・実行」「データの分析・解釈」「結果の考察」といった探究する能力(プロセス・スキル)を身につける。日本においては発見学習や問題解決学習と同一視されがちで明確に区別するのはできない。起源となるのはアメリカの教育学者シュワブ(Joseph J Schwab)の学習論で、日本では教育の現代化運動の影響を受けたときに探究学習論の考え方が持ち込まれた。その結果、昭和44年における中学校学習指導要領の改訂の際に探究学習の考えが多く取り込まれた。現在の理科教育においても知識の獲得だけでなく、それを獲得するためのプロセスを重視する「探究の過程重視」という考え方は受け継がれている。
問題解決学習
児童生徒が当面している問題の解決への努力を通して、経験や知識を再構成し、発展させて子どもの自主的、創造的、批判的な思考能力を高めようとする学習形態。問題解決学習の授業においては、自分の考えや気持ちを、自分の言葉でしっかりと仲間に語ることと、仲間の話をしっかりと受け止めて聞き、それに誠実に応えることに重点が置かれている。そのため、子どもたちは、大切なことはしっかりと友だちに伝え、また、友だちが言った大切なことはしっかりと聞いて覚えている。その結果、教師が「説明したつもり」の授業と比べて、知識や技能の定着が高い。教師は子どもたちの動きを見つつ、教えることが必要な知識や技能を、「どの子どもから、どの場面で出させるか」を考え、その場面でうまく出させて、そこで立ち止まって、子どもたちがそれに注目するように確認している。
有意味受容学習
オーズベルらによって1960年代に提唱された学習理論。有意味受容学習とは、有意味学習と受容学習を統合した学習のことをいう。有意味学習とは、学習者が学習内容の意味を理解して学ぶことをいう。一方、学習内容を理解せずただ暗記する学習を機械的学習という。受容学習とは教師によって提示された学習内容を学習者が受け入れて学ぶことをいう。一方、発見学習は学習内容を教師から与えられず学習者自らが発見していくことをいう。ここから、学習を大きく次の4つに分類できる。(1)有意味受容学習(2)機械的受容学習(3)機械的発見学習(4)有意味発見学習受容学習=機械的学習、発見学習=有意味学習ではない。むしろ、発見学習は、おうおうにして機械的学習におちいり、有意味発見学習が成立するのは、かなり困難である。さらに、現実の学校教育を見ると主流は有意味受容学習であることがわかる。この有意味受容学習を、より効果的なものにするために、オーズベルは、「先行オーガナイザー」を考案した。「先行オーガナイザー」とは、学習内容に入るに前に学習者に提示され、学習者の現在の認知構造とこれからの学習内容とのギャップをうめこれからの学習を先導できる材料のことをいう。
総合学習
教育カリキュラムは一般的に,教科中心主義,児童中心主義,社会中心主義の3つに分かれる。しかし,より望ましいカリキュラムというものは,この3つの主義を「総合」と言う概念で把握するものである。その形態は,その時代の社会の要求や児童・生徒観によって様々である。代表的なものには,1920年代のドイツで成立した郷土科や合科教授,その後の事実教授。1930年代のアメリカのコース・オブ・スタディーの中のヴァージニアプログラムやカリフォルニアプログラム,日本においては,生活科や総合的な学習の時間がある。
課題
「科学教育」としての課題
日本の理科教育は、広義にとらえるならば科学教育のひとつである。しかし、狭義に「学校での理科教育」としてとらえた場合、前述のとおり(特に、明治以降、)純粋な科学教育とは若干違う方向の発展をしてきた。
このことに対し、森一夫は、日本の伝統的な自然観に下記の特徴があり、今の理科教育にも影響していることを指摘している。
「見える」物事の知覚的経験を重視するが、その背後にある「見えない」法則性・成立根拠を問い直そうとしない即物性(実証主義)がある。
自然をとらえるとき、「学」の対象ではなく、役に立つための「術」の対象と見る実用性(・技術主義)がある。
自然と人間の不可分・一体化を強調する全体性(全体論)がある。
また、限られた時間で「科学的な法則を体系的に理解させること」と「実体験から科学的な考え方を身につけさせること」を両立させることは難しく、問題解決学習と系統学習、すなわち、「自然に対する観察・体験」と「科学技術体系の注入」のどちらを重視するかで揺れ動いている。
教員養成に関する課題
中学校・高等学校
日本で中学校および高等学校「理科」の教員免許を取得する際には、教育職員免許法施行規則第四条および第五条に基づき、次の内容を含む科目を規定単位数以上履修する必要がある。
物理学
化学
生物学
地学
このほか、第六条第四欄に規定されている「各教科の指導法」として、「理科」の指導法(理科教育法などと呼ばれる。基本的には、理科教育学を含む)を履修する必要がある。また、中学校の免許取得のためには、物理学、化学、生物学、地学のそれぞれについて実験を伴う授業を、高等学校の場合はこれらのうち少なくとも1つの授業を履修する必要がある。
2010年2月現在、中学校・高等学校「理科」教員免許は教員養成系や自然科学系の多くの大学で取得可能であるが、五教科(国・社・数・理・英)の中では唯一、2010年4月に明星大学通信教育部の教育学科が課程認定を受けるまで、通信教育によって教員免許を取得することができなかった。
小学校
小学校教員免許を取得する場合は、教育職員免許法施行規則第六条第四欄「各教科の指導法」で「理科」の指導法を履修する必要がある。
また、第三条の「教科に関する科目」に「理科」の単位がふくまれている。この科目は1993年の時点には一種免許状などで必修であったが、2010年2月現在「一以上の科目について修得」すればよいと規定されている。そのため、2010年現在では、「理科」の科目を履修しないで小学校教員免許を取得する場合もありうる。もし受講している場合も、授業時間や担当教員の専門などの理由から、必ずしも理科に関するすべての分野が取り扱われるわけではない。
小学校教員志望者には理科への苦手意識が強い人・文系出身者が多く、理科の基礎教養が身についていない者もいる。また、現職の小学校教員にも「理科(特に物理・地学)の指導について苦手意識が強い」人が多く、「理科の指導法についての知識・技能を大学時代にもっと学んでおいた方がよかったと思っている」という統計もある。このことなどは、初等教育段階での理科教育において大きな課題を抱えているといえる。
脚注
参考文献
関連項目
板倉聖宣、川勝博、左巻健男、清水誠、庄司和晃、滝川洋二、森一夫、米村でんじろうなど。
日本物理教育学会
日本生物教育学会
日本化学会・化学教育協議会
日本理科学検定
国際科学オリンピック
理科-科学教育-環境教育-食育-医学教育- STEM教育-哲学教育
自然科学-物理学-化学-生物学-地学-科学史
学力低下-理科離れ
文系と理系
理科教育振興法
教科-教科教育学-教科の一覧
外部リンク
学制百年史-文部科学省
学制百年史資料編-文部科学省
学制百二十年史-文部科学省
小学校学習指導要領解説-文部科学省
中学校学習指導要領解説-文部科学省
高等学校学習指導要領解説-文部科学省
教科教育学
りかきよういく
初等教育
中等教育
りかきよういく | 0.695721 |
2310645 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%99%E7%9C%9F%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%B3%E3%82%B7%E3%83%BC | 写真エージェンシー | 写真エージェンシー(しゃしんエージェンシー、Photo Agency、フォト・エージェンシー)とは、外部(社外)に写真作品を有償で提供することを目的とした企業または集団のことである。写真家が中心となっている場合もあり、写真家以外の者が中心となっている場合もある。
当初、写真エージェンシーは、報道写真を新聞社・出版社等に提供することを主たる業務として始まったことから、その起こりは、フォトジャーナリズムが勃興した、20世紀初頭にさかのぼる。
1920年代から1930年代にかけて、フランスのキーストーン(Keystone。1920年設立)、ドイツのデフォト(Dephot、1928年から1934年まで)やヴェルトルントシャウ(Weltrundschau、1920年代初頭に設立)などの設立が相次ぎ、特に一部の写真エージェンシーなどは有名な写真家を擁しつつ、高品質のニュース写真や注目されるような内容のニュース写真を新聞社等へ提供した。このような写真エージェンシーの活躍により、この時期に、写真エージェンシーの地位が非常に高まることとなる。
アメリカでも、1930年代末にはブラックスター(Blackstar)という写真エージェンシーがユーヨークで設立されている。
日本でも、名取洋之助の日本工房(1933年設立)を嚆矢として、1945年以前にも、多くの写真エージェンシーが設立されている。
第二次世界大戦後も、このようなエージェンシーの設立は相次ぎ、特に写真家による写真エージェンシーであるマグナム・フォトの設立(1947年)は特筆に値する。日本においては、マグナムと同様の「写真家による写真エージェンシー」としては、VIVO(1959年-1961年)を挙げることができる。
その他にも、数多くの写真エージェンシーが設立され、現在も盛んに活動を行っている。
なお、報道写真系の写真エージェンシーばかりではなく、ストック写真・ストックフォトを提供するための写真エージェンシーも多く設立されており、特に近年は広告写真の分野でも、写真エージェンシーが活躍している。
なお、写真エージェンシーが、新聞社等への写真提供のみならず、自社で管理する写真を用いて、雑誌・年鑑などの定期刊行物や写真集等を発行する場合も多い。
参考文献
写真史において、写真エージェンシーが果たしてきた役割は重要であるが、現在までのところ、写真エージェンシーについてのまとまった研究または文献はほとんど存在しない。
関連項目
プロパガンダ
ファッション写真
著作権エージェント
外部リンク
写真史
エージェント業
フォトジャーナリズム | 0.695647 |
3718663 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%88 | タリーライト | タリーライト(、タリーランプ、オンエアランプ、キューライトとも)とは、テレビカメラやモニタ等に取り付けられた赤・緑の表示灯のこと。取付位置はカメラの前と後ろ、もしくは上部となる。スタジオにおける番組収録などには、複数台のカメラが用いられるが、これが赤く点灯すると、その機器がスイッチャーにおいて選択され、放送や収録用に使われていることを示す。出演者やカメラマン・フロアディレクターなどのスタッフは、プレビューモニターと合わせ、このライトでどのカメラが動作中なのかを確認することができ、不用意な画角の変更などを防ぐことが出来る。スイッチャーからカメラへ送るタリーライト用の信号は、タリー信号と呼ばれ、D-sub15ピンや、近年では無線が使われている。
脚注
関連項目
スイッチャー(映像製作)
スタジオ(映像撮影)
放送番組
テレビ技術 | 0.694908 |
23473 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A0%B1%E9%81%93%E5%86%99%E7%9C%9F | 報道写真 | 報道写真(ほうどうしゃしん)とは、主として印刷媒体での報道に際して、報道内容を視覚的に伝えるために用いられる写真のことをいう。報道写真を撮影する写真家はフォトジャーナリスト()と呼ばれる。
概説
カテゴライズの仕方として、報道写真の場合特別であるのは、それが写された内容や様式に基づくのではなく、その用いられ方による、という点である。
例えば、ある火事の写真を撮影した場合でも、家の持ち主が何らかの個人的な記録のために撮影したものであった場合や、警察が検証や捜査のために撮影したものであった場合には、報道写真とはいえない。しかし、まったく同じ写真であっても、新聞社のカメラマンが、報道目的で撮影したものであれば、結果的に、新聞等の印刷物で採用されなかったとしても、報道写真といえる。さらに、同じ写真を、たまたま通りかかった人が撮影した場合に、それを、個人的に持っている限りは報道写真とはいえないが、ある新聞記者が火事の写真を撮影した人がいるという話を聞きつけて、その写真を借りて新聞に掲載したら、その時点で報道写真と呼ばれることになる。
報道写真には、古くから次の2つの問題がある。
(1)報道写真の真実性の問題(報道写真をどのように使用するかという問題、撮影する場合に誇張はどこまで許されるのかという問題、「やらせ」の問題、報道写真に撮影された内容をどこまで信用できるのかという問題など)
(2)報道写真にまつわる権利(者)の問題(報道写真の使用の仕方を誰が決めるのかという問題、撮影者の意図と利用のされ方の乖離の問題、報道写真には撮影者を必ず明記すべきかという問題、撮影者の著作権・著作者人格権の問題など)
また、最近では、新たな問題として
(3)報道写真の終焉に関する問題(テレビやインターネットといった媒体が印刷媒体に対して持つ優位性(迅速性、臨場性などにおける優位性)から、報道写真は動画に対して副次的・補助的な資料(動画よりも取り扱いの容易な副次的・補助的な資料でしかない)となる、ひいては、駆逐されるのではないか、「報道写真」の存在意義がすでに失われているのではないか、といった問題)
も生じている。
諸概念
日本語の「報道写真」にあたるような使い方をされている外国語はいくつかあるが、おおむね、次のような使い分けがなされている。
(1)フォトジャーナリズム(フォトジャーナリスト) (photojournalism)
「報道写真」と対照すべき最も一般的な用語であるが、「写真」ではなく「報道」の一規定と捉える点に大きな違いがある。(2)以下と比較して、新聞や雑誌などに掲載される、ある事実の瞬間を捕らえた、ニュース性(事件性・スクープ性)のある1枚ものの写真を意味することが多い。
なお、報道写真家にあたる言葉は、フォトジャーナリストである。また、「ジャーナリズムフォト」とはいわない。
(2)ドキュメンタリーフォト・フォトドキュメンタリー(documentary photo/photo documentary)
上記(1)に比べて、ある程度の枚数の写真によって、ある種のストーリーを語らせるような、作品を意味することが多い。ニュース性(事件性・スクープ性)がある場合も、ない場合もある。ある種の主張を含んでいる場合も、淡々と事実のみを伝える場合もある。
最近はほとんど使われないが、日本語では、以下の(3)(4)も含めて、「組写真」と呼ばれることもある。
(3)フォト・ルポルタージュ、ルポルタージュ・フォト(photo reportage/reportage photo)
そもそも「報道写真」という日本語は、この「フォト・ルポルタージュ」が分かりにくいと写真家の名取洋之助に言われて、写真評論家の伊奈信男が作った訳語である。上記(2)と近い意味もあるが、より、現地報告的な色彩(記録性)が強い作品(探訪記のようなもの)を意味する。ニュース性(事件性・スクープ性)はうすまり、一方で、主張よりも事実を前面に押し出す傾向が強いかもしれない。
(4)フォト・エッセイ(photo essay)
上記(2)を、より厚く、深くしたような作品を意味することが多い。したがって、事件性が欠けることが多く、むしろ、社会的な問題を浮き彫りにしているような作品やある種の主張を含んでいる作品が多いと思われる。写真の枚数も、上記(2)(3)よりも多くなることが予想され、新聞では、到底対応しきれないと予想される。
例えば、Life誌に掲載された、ユージン・スミスの「カントリー・ドクター」のような作品は、フォト・エッセイと呼ばれることが多い。
報道写真の歴史
報道写真の始まり
報道写真は、一般には、ヨーロッパにおいてはクリミア戦争(1853年- 1856年)、アメリカにおいては南北戦争(1861年- 1865年)、によって始まったといわれる。ちなみに、日本においては、日露戦争(1904年- 1905年)により始まったともいわれる。
他にも考え方はあるが、「戦争」が報道写真の始まりであるとするこのような考え方は極めて一般的である。しかし、このような考え方を、むしろ、戦争に翻弄された報道写真のその後の状況から、遡って始まりを見つけようとする姿勢から来ていると批判する考え方もある。
ただ、戦争が、人々の興味をそそり、19世紀の昔から、多くの写真の対象になっていた、ということは事実である。
メディアの発達とフォトドキュメンタリーの始まり
20世紀に入ると、新聞(や雑誌)の発展と印刷技術の発達にともない、(ファッション写真と同様に)報道写真は著しく発展していった。具体的な新聞としては、『ニューヨーク・タイムズ』()、『ベルリナー・イルストリエルテ・ツァイトゥング』()、『ミュンヒナー・イルストリエルテ・プレス』()など、具体的な雑誌としては、『ヴュ』()などを挙げることができる。
一方で、必ずしも「特ダネ」(スクープ)的ではない「報道写真」が、すでに19世紀末から始まっている。具体的には、街角の貧しい人々の生活や工場労働(特に子どもの労働)の様子を写した、ジェイコブ・オーガスト・リース(; 1849年- 1914年)やルイス・ウイックス・ハイン(; 1874年- 1940年)による、ドキュメンタリー的な作品である。この2人を、フォト・ドキュメンタリーの創始者とする考え方もある。
ライカとストロボ(フラッシュ)
1920年代から1930年代にかけて、報道写真黄金期の幕開けの時期となっていく。まず、そのきっかけをつくるのは、上述のメディアの発達の継続とともに、写真をめぐる技術の発達である。短時間で露光できるフィルム開発を始めとして、手に持って自在に撮影できる小型カメラ「ライカ」の出現、ストロボやフラッシュの普及などにより、スナップ的手法・暗い被写体の撮影・高速写真・連続写真など、写真の幅が飛躍的に拡大し、質も向上した。
特に、ライカの愛用者が多く登場し、このような中でも、エーリッヒ・ザロモン(; 1886年- 1944年)、アルフレッド・アイゼンスタット(; 1898年- 1995年)、マーティン・ムンカッチ(; 1896年- 1963年)といった、時代の寵児とも言えるような報道写真家が活躍し始めている。また、必ずしも、「報道写真家」という枠に収まりきらない、アンドレ・ケルテス(; 1894年- 1985年)、アンリ・カルティエ=ブレッソン(; 1908年- 2004年)というような写真家たちも、街角を切り取り、報道写真的なスナップを数多く残すようになった。
LIFE創刊とFSAーアメリカフォトジャーナリズムの2つの方向
報道写真黄金期を体現するかのように1936年に出現したのが、アメリカの『LIFE』誌である。写真を主体に、写真によりニュースを伝えるという雑誌は今では特段目新しくないが、当時としては画期的なグラフ誌であった。創刊号の表紙写真は、マーガレット・バーク=ホワイト(; 1904年- 1971年)が撮影したTVAダムの発電所の写真で、女性が写真家として大きく活躍できるということを、如実に示すことになった。
LIFEに象徴されるように、報道写真を徹底して「商品」としてとらえるような傾向が強まっていくのとは対照的に、一方で、FSAの写真家たち、すなわち、ウォーカー・エヴァンズ(; 1903年- 1975年)、ドロシア・ラング(; 1895年- 1965年)、ラッセル・リー(; 1903年- 1986年)、カール・マイダンス(; 1907年- 2004年、アーサー・ロススタイン(; 1915年- 1986年)らが登場し、淡々と、大恐慌時のアメリカの農村の惨状を切り取っていく。戦前ドキュメンタリーの1つの到達点であり、その輝きは、50年以上たった現在でも、色あせていない。
このように、戦前の報道写真は、2つの傾向に分化し、それぞれが発展していくように見えた。しかし、後者のドキュメンタリー的な報道写真は、第二次世界大戦により、一時的とはいえ、なりを潜めざるをえなくなる。
なお、上記2つの傾向のうち、後者が、写真家個人の視点を残した報道写真であったのに対して、前者は、写真家個人の目を通して、読者の視線(読者の欲望(見たいという欲望))を示した作品群であったといえるため、前者が成立したその時点で、報道写真における写真家の個性の希薄化や写真家名の欠落は、当然に予想されていたといってもいいかもしれない。
第二次世界大戦とプロパガンダーヨーロッパ報道写真の終焉
ヨーロッパでの政治的緊張が高まっていく中で、ダダの流れから、写真を政治的に用いる傾向がドイツで起こっている。雑誌AIZにおけるジョン・ハートフィールドの反ナチ的なフォトモンタージュ作品群である。
このような手法はプロパガンダの走りであるが、一方で、体制側のプロパガンダにも、写真が多用され、特に戦後にかけて、社会主義諸国において、盛んに用いられた。その典型例が、ソ連の『USSR Construction』(建設のソ連邦・ソ連邦建設)である。この中で、フォトモンタージュ技法が著しく発展したことは、一種の皮肉であろう。この流れの中で、日本戦前の『FRONT』も考えることができる。
そして、第二次世界大戦開始により、初めて本格的な戦争写真が登場することになる。ロバート・キャパ(; 1913年- 1954年)の崩れ落ちる兵士やユージン・スミス(; 1918年- 1978年)などである。LIFEは、この分野でも、破竹の勢いを示し、数多くの作品を「モノにしている」。しかし、その割に、そのような作品を撮影した写真家の名前は広まっていない。上述の「写真家名の欠如」の現われといってよい。
なお、この時期について、戦後の写真を予感させる写真家として、ウィージー(; , , ; 1899年- 1968年)を挙げることができる。ウィージーの作品のポイントは、「個人の視線」である。他の誰の作品でもなく、「ウィージーの作品である」と、作品が自己主張している、行儀が悪いという点に特徴がある。
第二次世界大戦を通じてヨーロッパの多くの写真家がアメリカへ移住し、大戦の終結により、美術の各分野と同様に、写真の中心は、荒廃したヨーロッパからアメリカに完全に移ることになる。
戦争写真の時代
第二次世界大戦終了後、戦争に関する報道写真は、冷戦構造の中の地域紛争多発にともない、隆盛を見せた。そのことは、マグナム、ピューリッツァー賞、ロバート・キャパ賞などが、戦争に関する写真を多く発信し続けたことからもうかがえる。
しかし、この中で、戦前からその傾向が見られる、報道写真家の視線の欠如がより明確となっていく。スクープを求め、写真家の個性が失われていく。別な言い方をすれば、一部を除き、報道写真が報道写真家を飲み込んでいく時代といってもいいかもしれない。
その大きな例外は、フォト・リーグ、ユージン・スミスなどの、ドキュメンタリー写真である。ここでは、大前提として、写真家に自分の主張があり、その主張を示すために、写真が使われていくのである。見られるために写真作品が提示されるのではなく、自己の主張を理解してもらうために写真作品が提示されるのである。写真が社会を変えられるかもしれないという、理想主義的といってもいいような考え(それは、前述の、リースやハインの考えを起源とするといってもいい)がそこにはある。
LIFE休刊と報道写真(家)の凋落
1972年に週刊誌としての『LIFE』は休刊する(1978年には月刊誌として復刊したが2000年には再休刊)。テレビというメディアがグラフ誌の必要性(速報性など)や魅力を奪い尽くしたということが、一般にはその原因といわれているが、別な側面からみると、スクープを追い求めすぎたことの失敗といってもいい。読者が刺激に飽きたのか、刺激に嫌気がさしたのか、その両方なのかは明確ではない。いずれにしろ、報道写真の凋落であり、かつ、報道写真家の凋落でもある。
そのような中で、世界各地の生身の人間を撮影しつづけるセバスチャン・サルガドの写真作品は突出しており、今後の報道写真の方向性の1つを指し示しているといえるかも知れない。彼の視線は冷静であり、理想に燃えた熱気は感じられない。
総括と報道写真の今後
以上見てきたところから伺われるように、報道写真は、技術とメディアに突き動かされつづけてきたとも、翻弄されているともいえる。すなわち、前者に関しては、フラッシュなり、ライカなりの登場が、それぞれ報道写真の隆盛をもたらしたといったことであり、後者に関しては、新聞なり、グラフ雑誌なり、プロパガンダなりの登場が、それぞれ報道写真の隆盛をもたらしたといったことである。さらには、政治、それも、特に戦争が、写真を振り回していると考えられる。
LIFEの休刊で、報道写真は終わったとする見方もある。確かにスクープのみを追うという形の報道写真は、この時点で終わったという考え方もあるかもしれない。しかし、報道写真は、依然として様々な問題をはらんだままであり、今後とも、各種の写真の中でも最も多くの考察を要求される分野である。決して、「報道写真は死んだ」わけではない。
各国の主な報道写真家
(生年順)
日本
朝日新聞
大久保好六(1900-1936)
島田謹介(1900-1994)
田中幸太郎(1901-1995)
影山光洋(1907-1981)
小久保善吉(1910-1993)
浜野嘉夫(1911?-1937)
大束元(1912-1992)
松本栄一(1915-2004)
吉岡専造(1916-2005)
船山克(1923-2012)
秋元啓一(1930-1979)
富山治夫(1935-2016)(嘱託)
石川文洋(1938-)
秋山亮二(1942-)
山根敏郎(1953-)
千葉新聞
笹本恒子(1914-2022)
中日新聞
(東京新聞を含む)
石井幸之助(1916-1997):東京新聞
白川義員(1935-2022)(特派員)
木之下晃(1936-2015)
毎日新聞
岩合徳光(1915?-2007)
長尾靖(1930-2009)
江成常夫(1936-)
読売新聞
中村正也(1926-2001)
ハンガリー
ロバート・キャパ
アメリカ
ドロシア・ラング
アルフレッド・アイゼンスタット
マーガレット・バーク=ホワイト
アン・カリー
フランス
クリスチャン・ポヴェダ
マルク・リブー
ドイツ
ゲルダ・タロー
南アフリカ
ケビン・カーター
関連項目
写真
報道
ピューリッツァー賞写真部門
ロバート・キャパ(ロバート・キャパ賞)
ユージン・スミス(ユージン・スミス賞)
写真週刊誌
戦争写真
戦場カメラマン
写真エージェンシー
写真編集#報道写真の編集
写真史#報道写真の時代
外部リンク
「ケータイ・ジャーナリスト・コンテスト」(Yahoo!みんなの政治主催)
写真のジャンル
報道 | 0.694589 |
1262873 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%80%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9%E8%A3%BD%E5%93%81%E4%B8%80%E8%A6%A7 | ミランダのカメラ製品一覧 | ミランダのカメラ製品一覧はミランダカメラ株式会社、及びその前身であるオリオン精機産業有限会社、オリオンカメラ株式会社のカメラ製品の一覧である。
レンズアダプター
コンタックス-ライカアダプター-最初の製品で、コンタックス用レンズをライカのボディ-に装着し距離計連動させるアダプター。レンズカプラー。
ミラーボックス
レンズマウントは後にミランダシリーズに流用された。
ミラックスA型(1951年発売) -ライカ・キヤノン用ミラーボックス。ベローズのフォーカベルと組み合わせて使用する。
ミラックスB型(1951年発売) -コンタックス・ニコンS用ミラーボックス。ベローズのフォーカベルと組み合わせて使用する。
フォーカベル(1953年?) -ピント合わせ(Focunsing )と蛇腹(Bellows )からの造語。ミラックスA型、ミラックスB型用のベローズ。専用レンズスープリーム(Supreme )105mmF2.8と組み合わせると無限遠から撮影できる。古いカタログには「スプリューム」「スュプリューム」「スュープリューム」等の表記もある。
プリズムファインダー(1953年発売) -ミラックスのオプションとして販売された。
ライカLマウント交換レンズ
ワイドアングルアルファ(Wide Angle Alfa、1952年発売)35mmF2.8
ミランダマウント一眼レフカメラ
レンズマウントは外側バヨネット、内側ネジマウントのダブルマウントでミラックスと共通のミランダマウント。フランジバックが短いため各種アダプターが用意された。生産型のミランダカメラにはほとんどのモデルに銀(クローム)と黒(ブラック)の商品があった。
ミランダマウント一眼レフカメラボディー
フェニックス(Phoenix、1954年6月試作、1954年9月発表) -基本思想は「万能カメラ」を念頭に、「ライカのように手に馴染む形状」「コンタックスSの大きさ」を目指したもので、設計からわずか半年で完成された。シャッタ-部分にはニッポンカメラの熊谷源二からスローダイヤル、ガバナー、ドラムの提供を受け、シャッター幕は貫井提吉から提供されている。このほかアイピースと裏ブタをアサヒフレックスから流用したがボディーともども設計は完全なオリジナルであった。語源は不死鳥であるが、最初の「Pho」には写真(Photograph )、末の「x」にはレフレックス(Reflex )の意を込めている。だが、「フェニックス」はポピュラーな名称であるため、輸出されたさい意匠登録で衝突が予想されたため生産型では採用されなかった。また、当初の計画にあったクイックリターンミラー(1947年萩原彰が出願した特許願第903号「レフレックス・カメラ」にあったクイックリターンミラーの機構)、自動絞りは技術的に時期尚早と判断され搭載されなかった。レンズは銘板にはカール・ツァイス・イエナ製テッサー(Tessar )50mmF2.8とあるが、マウントはミラックスと共通のバヨネットマウントに変更され、鏡胴はオリジナルデザインである。ミランダカメラが1976年倒産する直前にアメリカ人のカメラマンが借り出して以来一時行方不明になっていたが、1986年2月に荻原彰の手元に戻った。
ミランダT(Miranda T、1955年8月発売) -日本製35mm一眼レフカメラでは旭光学(現リコーイメージング)のアサヒフレックスに次ぐ市販であり、アイレベルファインダーを備えるものとしては世界でも極めて早い時期に当たる。フェニックスはドイツの商標登録に触れるため市販カメラは鏡(Mirror )の意からミランダとされた。シャッターは倍数系列化、一軸化されたが2段式。シャッターボタンはボディー上部から前面に移された。フィルムカウンター採用。ペンタプリズムは当初より交換式で、後方に引き抜く方式。フィルム巻き上げ、巻き戻しともノブ式。砕氷船宗谷による第一次南極地域観測隊によって2台が使用され、故障もなく任務を果たしたことで有名。「T」はテクノロジー(Technology )の意。
ミランダT2(Miranda T2、1956年10月発売-シャッター最高速が1/1000秒となった。X接点追加。シャッター連動式自動絞りのレンズが同時発売されている。
ミランダA(Miranda A、1957年発売) -輸出専用。シャッター連動式自動絞りのレンズ、フィルム巻き上げがレバー、巻き戻しがクランクとなった。シャッター最高速は1/500秒。
ミランダA2(Miranda A2、1958年4月発売) -輸出専用。シャッター最高速は1/1000秒。
ミランダB(Miranda B、1958年5月発売) -クイックリターンミラーを装備。
ミランダC(Miranda C、1959年発売) -輸出専用。ミランダBにセルフタイマーを装備したモデル。ブラック仕上げも少数製造された。
ミランダS(Miranda S、1959年3月発売) -スローシャッターとミラークイックリターンを省略、ウェストレベルファインダー、テッサータイプの廉価版レンズを標準装備とした普及版。ミランダTのようにフィルム巻き上げ巻き戻しもノブになっている。
ミランダST(Miranda ST、1959年発売) -輸出専用。ミランダSにスローシャッターが装着された。
ミランダD(Miranda D、1960年発売) -輸出専用。巻き上げ軸はシャッターからオフセットされた独特のレイアウトとなり小刻み巻き上げ可。12角形のボディー形状はこのモデルが最後。
ミランダオートメックス(MIRANDA Automex、1960年発売) -輸出専用。外光式セレンメーター内蔵、ファインダー内で露出を確認できる追針式で、これは写真工業誌において国内初との記述がある。
ミランダD2(Miranda D2、1961年発売) -輸出専用このモデルからボディー形状が流線型に変わった。
ミランダDR(Miranda DR /MIRANDA DR、1962年発売) -輸出専用。途中からペンタプリズム部のメーカー表記が全て大文字となった。
ミランダオートメックスII(MIRANDA Automex II、1962年発売) -輸出専用。ISO(ASA)感度などをアップグレードしたマイナーチェンジモデル。
ミランダF(MIRANDA F、1964年10月国内発売) -レンズマウント内に絞り込みレバーを装備、自動絞りレンズでプレビューが可能になった。フィルムカウンターが自動復元になった。小刻み巻き上げは不可となった。
ミランダオートメックスIII(MIRANDA Automex III、1964年10月発売) -メーター受光部がカメラ前面向かって右上部に移され、素子もセレン光電池からCdSに変更となった。
ミランダFM(MIRANDA FM、1964年10月) -ペンタプリズム一体型でシャッター非連動の外光式CdS露出計搭載。
ミランダG(MIRANDA G、1965年10月発売) -ピントグラスが交換式になった。超望遠レンズなどでミラー切れが起きないようミラーが後退しながら跳ね上がる機構が採用され、ミラーアップ可。シャッターダイヤルに取り付けシャッタースピードに連動する着脱式で小型のCdS露出計が用意された。
ミランダセンソレックス(MIRANDA SENSOREX、1966年8月発売) -ミラーにスリットを切りミラー裏のCdSで受光するミラーメーターによるTTL開放測光。
ミランダFv(MIRANDA Fv、1966年発売) -ミランダGと同様のシャッターダイヤルを外して取り付けシャッタースピードに連動する着脱式露出計が用意された。
ミランダFvT(MIRANDA FvT、1966年10月発売) -ペンタプリズム一体型のシャッター非連動だが、ミランダ初のTTLファインダー、Tファインダーを搭載。
ミランダGT(MIRANDA GT、1966年10月発売) -ミランダGにTファインダーTTL露出計搭載。銀は国内販売用、黒は輸出用。
ミランダセンソマートRE(MIRANDA SENSOMAT RE ) -ミラーメーターによる絞り込み測光TTLメーター、ラピッドローディング採用。
ミランダセンソマートRS(MIRANDA SENSOMAT RS ) -露出計を装備しないモデル、シャッターボタンが上部に移された。
ミランダセンソレックスC(MIRANDA SENSOREX C ) -ミランダセンソレックスにアクセサリーシューがついたモデル。
ミランダセンソレックスII(MIRANDA SENSOREX II、1972年2月) -ミランダセンソレックスの外観をモデルチェンジしたもの。
ミランダセンソレックスEE(MIRANDA SENSOREX EE、1972年3月) -露出の自動化が図られたEE機構採用モデル。
ミランダRE-2(MIRANDA RE-2、1975年2月発売) -センソマートREの後継機ではあるがセンソマートの文字はない。中央下部重点TTL測光。スクリーンは新開発でミランダ独自のスーパーマイクロスプリット。ペンタプリズム上部にホットシュー装備。
ミランダEE-2(MIRANDA EE-2、1975年) -センソレックスEEの後継機ではあるがセンソレックスの文字はない。ファインダーアイピースの横にシャッタースピードを表示する小窓がある。T露出を兼ねるシャッターボタンロックが装着された。
ミランダdx-3(MIRANDA dx-3、1975年4月発売) -電子制御式シャッターを採用。セルフタイマーの動作を赤LEDの点滅で知らせる。モータードライブが無調整で取り付け可能だが通常販売されたのかは不明で、輸出のみという記述もある。ミランダでは唯一ファインダー固定。
ミランダマウント一眼レフカメラ用レンズ
オートミランダは自動絞り。ネジマウントとバヨネットマウントを併設する。
ズノー50mmF1.9 -帝国光学製。ネジマウント。5群7枚。
アルコ50mmF2.4
マクロンミランダ52mmF2.8
ソリゴールミランダ85mmF1.8
ソリゴールミランダ105mmF2.8
ソリゴールミランダ135mmF2.8
ソリゴールミランダ135mmF3.5
ソリゴールミランダ250mmF4.5
ソリゴールミランダ400mmF5.5
オートミランダ50mmF1.8
オートミランダ50mmF1.9
オートミランダ50mmF2.8
オートミランダマクロン55mmF3.5
オートミランダ105mmF2.8
オートミランダ135mmF3.5
オートミランダ200mmF3.5
ミランダマウント一眼レフカメラ用アダプター
ミランダマウントはフランジバックが短く、純正で各種アダプターが用意された。
PMアダプター- M42マウントのレンズを装着し無限遠撮影可。
XMアダプター-エクサクタマウントのレンズを装着し無限遠撮影可。
NMアダプター-ニコンFマウントのレンズを装着し無限遠撮影可。
LFアダプター-ライカLマウントのレンズを装着し近接撮影のみ可。
CSFアダプター-コンタックスマウントやニコンSマウントのレンズを装着を装着し近接撮影のみ可。
MLアダプター-ミランダ用レンズをライカLマウントのボディー、または引伸し機に装着する。
AUアダプター-名称はアダプターであるが、ミランダマウントの接写リング。
ラボレックマウント一眼レフカメラ
天体写真、顕微鏡写真等用に製造された。マウントはこの系列専用のラボレックマウント。
ミランダラボレック(MIRANDA LABOREC ) -輸出された他に国内では内田洋行より供給された。
ミランダラボレックII(MIRANDA LABOREC II、1966年発売) -輸出された他に国内では内田洋行より供給された。
ミランダラボレックIII(MIRANDA LABOREC III、1975年発売) -天体写真専用カメラ。
M42マウント一眼レフカメラ
ソリゴールブランドで販売された。
M42マウント一眼レフカメラボディー
ソリゴールTM(Soligor TM、1974年3月発売) - TTL部分測光。ファインダー交換可能。
ソリゴールTM-2(Soligor TM-2、輸出専用)
M42マウント一眼レフカメラ用レンズ
レンジファインダ-カメラ
ミランダセンソレット(MIRANDA SENSORET、1972年7月発売) -距離計連動式、プログラムEEコンパクトカメラ。黒、赤、黄、緑、青、灰の革を張った銀(クローム)モデルに、黒革/黒(ブラック)ボディーがあった。レンズはソリゴール38mmF2.8固定だが広角0.8倍と望遠1.3倍のフロントコンバージョンレンズがある。
脚注
参考文献
『クラシックカメラ専科No.3、戦後国産カメラの歩み』朝日ソノラマ
『クラシックカメラ専科No.9、35mm一眼レフカメラ』朝日ソノラマ
田中長徳『銘機礼賛』日本カメラISBN 4-8179-0004-0
カメラ製品の一覧 | 0.693995 |
3840543 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB%E3%83%9F%E3%83%A9%E3%83%BC | デジタルミラー | デジタルミラー(電子ミラー)とは、デジタルカメラの分類のひとつで、カメラと液晶ディスプレイ(モニター)で鏡(鏡像)のように像をデジタルデータとして映像化するシステム。
自動車分野では、室内室外ごとに
室内後写鏡(インナーリアビューミラー)
カメラモニタリングシステム(CMS)・スマート・ルームミラー
外部後写鏡(アウターリアビューミラー)
デジタルアウターミラー
とも呼ばれ、モニターで映像や情報を映し出す。ミラーレス車とも呼ばれる。
リハビリ分野では、デジタルミラーで運動や動作の撮影、測定する機器がある。
脚注
関連項目
先進運転支援システム
デジタルカメラ
ミラーレス一眼カメラ
スマート・ルームミラー-カメラモニタリングシステム(CMS)
バックミラー-後方モニター
ドアミラー
電子サイドミラー
外部リンク
Youtube.
自動運転車
自動車安全技術
先進運転支援システム
リハビリテーション | 0.693802 |
2101312 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%8A%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9 | ダイアナカメラ | ダイアナ(Diana )は低機能で安価なカメラ製品である。
オリジナルは1960年代に香港・九龍の企業によって製作されたものであり、現在はロモグラフィー(Lomography )によって製造・販売されている。
近年ではロモ、ホルガ等と共にトイカメラとして認知されている。
概要
シンプルな機構を持つプラスチックケースのボックスカメラである。レンズはプラスチック製で簡素なレンジ・シャッタースピードの切り替え機構を備えている。120フィルムを使用し、4.2x4.2cm判の16枚撮り。巻き上げ機構にはシャッター連動機構がないので、多重露光を行うことが可能である。
復刻版となるダイアナプラス(Diana+ )は上記に加え、5.2x5.2cm判撮影やレンズを外したピンホール撮影やレンズ交換によるワイドレンジ撮影などが可能となっている。
元々は贈呈用や企業プロモーション用の安価なカメラとして企画されたもので、製品品質は安定しておらず個体差が大きいのが特徴でもある。そのため撮影画像はロモやホルガなどと同様にケラレや光量落ちによるトンネル効果、ゆがみが生まれ、通常の製品と比較すると著しく品質は劣るが、時折発生する予測できない撮影効果からアーティストやフォトグラファーたちの支持を受けている。
歴史
オリジナルのダイアナは1960年代初頭に香港・九龍の「長城塑膠工廠」(グレートウォール・プラスチック・カンパニー)で生まれた。
当初からシンプルな贈答用カメラとして生産され、そのほとんどがアメリカ、イギリスなどへ輸出された。
アメリカではペンシルベニア州ウィローグローブにある電力販売会社によって輸入され、一台50セントと非常に安価な価格で大型スーパーやディスカウントストア、広告会社などへ卸された。
安価かつシンプルで取り回しのよい機構がそれなりに受け、またカーニバルや企業のプロモーション製品、あるいはステッカーを貼り替えてオリジナルブランド製品として市場へ大量に出回ったが、安定しない品質であったため、フラッシュ付きモデル(ダイアナF)などを投入してテコ入れを計ってはいたものの、より品質に勝る類似したコンセプトのコダック製品などに押され徐々に市場から姿を消していき、1970年代には生産を終了した。
ダイアナはそのシンプルな構造から数多くの亜種やクローン製品が生まれた。後に販売された「ホルガ」もダイアナのコンセプトを受け入れているといわれる。
その後長らくオリジナルは絶版状態であったが、2007年にロモグラフィーにより当時の姿そのままに多彩な拡張機能を備え使い勝手を向上させた復刻版が「ダイアナプラス」として発売されている。
関連項目
トイカメラ
ロモ
ホルガ
外部リンク
ロモグラフィー・ジャパン
ロモグラフィーオンラインショップ
Diana+について
カメラ製品の一覧
カメラメーカー・ブランド | 0.693471 |
1089171 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%99%E7%9C%9F%E6%B8%AC%E9%87%8F%E6%B3%95 | 写真測量法 | 写真測量法(しゃしんそくりょうほう)とは、写真画像から対象物の幾何学特性を得る方法である。写真測量法の歴史は現代写真技術と同じくらい古く、起源は19世紀半ばに遡る。フォトグラメトリとも呼ばれるが、こちらは狭義に、デジタルカメラ等で多面的に撮影した複数のデジタル写真をコンピュータで画像解析し、3次元コンピュータグラフィックス等を得るプロセスを指す言葉として用いられる。
写真測量の最も単純な例として、写真画像面に平行な平面上に存在する2点間の距離を求める場合があげられる。写真画像の縮尺が分かっていれば、画像上の距離を測定し、実際の距離を縮尺から逆算して求めることができる。
この技術の高度な応用例であるステレオ写真測量を使うと、対象物体上に存在する任意の点の三次元座標を得られる。この場合は、2つ以上の異なる位置から撮影した画像を利用して測定が行われる。まず、別々の位置から撮影した写真に写っている共通の点を識別する。次に、それぞれの写真の撮影時のカメラ位置から共通点への視線(または光線)が交わる点を求め、それを頼りに対象点の3次元座標を算出する。さらに高度な例として、測定対象に関する先験的な情報(例えば対象が対称図形であるなど)を利用して、1箇所からの撮影だけで三次元座標を得る手法もある。
写真測量は、地形図、建築、工学、製造、品質管理、警察の捜査、地質学など、さまざまな分野で利用されている。写真測量を使えば、考古学者は大規模で複雑な遺跡の全体図を容易に作成することができ、気象学者は実際の気象データを測定できなくとも竜巻の風速を算出することができる。また、実写とコンピュータ生成画像を組み合わせた映画のポストプロダクションにも写真測量が利用されている。この技術を利用した映画の例には『ファイト・クラブ』(DVDの特典映像で詳細な説明がある)がある。
通常、写真測量のアルゴリズムには、問題の解法として誤差の二乗和を最小化する最小二乗法が用いられる。この最小化をともいい、を使用して計算することが多い。
写真測量法における手法
写真測量は、光学や投影幾何学など多分野にわたる手法を応用する。右図は、どのような情報が写真測量で使用され、また写真測量から得られるかを示したデータモデルである。
3次元座標(3-D co-ordinates)は、3次元空間内における対象点の位置を定義する。画像座標(image co-ordinates)は、フィルムまたは撮影用の電子機器上の対象点の位置を定義する。また、カメラの外部標定(exterior orientation)は空間におけるカメラの位置と撮影方法を、内部標定(inner orientation)は画像処理における幾何学的パラメータを定義します。最も重要なパラメータはレンズの焦点距離であるが、レンズの歪みを含めることもある。さらに、追加測定情報(additional observations)が重要な役割を果たす。空間上の既知の2点間距離、すなわち既知の固定点を示すスケールバーによって、基準尺との座標関係が定められる。
このデータモデルに示されている4つの主要変数はいずれも写真測量法の入力にも出力にもなりうる。
関連項目
測量
航空測量
地球情報学
地理情報システム
エピポーラ幾何
コンピュータビジョン
コンピュータステレオビジョン
ステレオグラム
リモートセンシング
レンジファインダー
潜望鏡
英語版Wikipedia
:en:Panoscan
:en:Socet set
:en:Comparison of photogrammetry software
参考文献
外部リンク
空中写真による2万5千分1地形図の作成方法(国土地理院)
University College London Department of Geomatic Engineering
国際写真測量法・リモートセンシング学会
アメリカ写真測量法・リモートセンシング学会
写真測量法序論-ウィーン大学
Aerial Photogrammetry and Close Range Photogrammetryオランダ
MATIS LABORATORY,IGNフランス
測量
地理技術
測地学
コンピュータビジョン | 0.693159 |
333447 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%85%E5%A0%B1%E5%B7%A5%E5%AD%A6%E9%83%A8 | 情報工学部 | 情報工学部(じょうほうこうがくぶ)は、情報工学を教育研究するために大学におかれる学部の1つである。
概要
情報工学を専攻分野とする工学部であり、工学を基盤としていることが強調され、教育や研究の進め方に工学部と同様な特色があるとされている(名前に従った定義上は)。実態としては個々の研究者の個性などに依る所が、名前の違いによる違いなどより大きいであろう。
情報工学部をおく大学
国立大学
九州工業大学
公立大学
岡山県立大学
私立大学
福岡工業大学
東京都市大学
名城大学
金沢学院大学(2024年開設構想中)
注
関連項目
情報工学-工学-情報学
工学部-情報学部-情報科学部-情報理工学部
学部
学部の一覧
しようほうこうかくふ | 0.693052 |
4356577 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%83%86%E3%83%AC%E3%82%AA%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%BC%E3%83%97 | ステレオスコープ | ステレオスコープ(立体鏡、実体鏡)は、ある光景の左眼と右眼それぞれからの見え方を再現する画像ペア(stereoscopic pair)を、単一の3次元画像として見るための装置である。
一般的なステレオスコープは、それを通して見る画像をより大きくかつ遠くに見せ、さらに通常はその見かけの水平位置も移動させるレンズを各眼に提供する。これにより、通常の両眼奥行き知覚を持つ人からは、2枚の画像の縁が1つの「ステレオ窓」に融合して見えるようになる。現在の慣行では、対象物がこの仮想の窓を越えて見えるように画像が作成され、物体が飛び出して見えることもある。通常仕切りや視界を制限する機能を備え、一方の眼が他方の眼用の画像に目移りすることを防ぐ。
多くの人は、練習次第でステレオスコープを使用せずに立体画像ペアを3次元画像として見ることができるようになる。しかし、不自然な眼球の輻輳と焦点調節の組み合わせによって得られる奥行き手がかりは、現実で立体を見る場合とは異なるため、自然な視覚を正確に模倣することは不可能であり、眼精疲労や疲れを起こす傾向がある。
ステレオスコープという単語は、1850年代から1930年代にかけて家庭用娯楽として数回ブームになった標準フォーマットのステレオカード用ビューアーを指すことが多い。また、リアリスト・サイズの3Dスライドビューアーやなどの最近の装置もステレオスコープである。
離れた2枚の画像ではなく、重なった2枚の画像を見るために使用される偏光方式やアナグリフ方式、シャッター方式メガネなどの装置は、ステレオスコープとしては分類されない。
歴史
ホイートストンのステレオスコープ
反射鏡および屈折プリズムを備えた最初のステレオスコープは、1832年にチャールズ・ホイートストーンによって発明され、彼の下で働いていたロバート・マレーにより制作された。1833年に生理学者が自身の著書『Outlines of Human Physiology(人類生物学概要)』においてホイートストンの発明に触れ、ステレオスコープについての論文を発表しようとしていると記述しているが、実際に発表が行われたのは1838年6月21日だった。ホイートストンは、使用者の目に対し45度の角度で配置され、各側方に置かれた絵をそれぞれ反射する2枚の鏡を備えるミラーステレオスコープを使い、両眼奥行き知覚の重要性を示した。同じ物体に対する左目と右目それぞれからの見え方を模した2枚の絵を、各目がそれぞれに対応した絵のみを見るようにしつつ見かけ上は同じ位置にあるように配置すると、脳は2枚の絵を融合させ単一の3次元物体として知覚する。発表当時は、最初の実用的写真撮影法が登場するよりも前であったため(ダゲレオタイプの発表は1839年)、手描きの絵が使用された。ミラーステレオスコープは、必要に応じて非常に大きな画像を使用できるという利点を有している。
ブリュースターのステレオスコープ
しばしば誤解されてきたが、デイヴィッド・ブリュースター自身がステレオスコープを発明したわけではない。ホイートストンのライバルであったブリュースターは、ステレオスコープの発明者はエディンバラの「数学の教師」であるジェームズ・エリオット(James Elliot)であるとした。ブリュースターによると、エリオットは1823年にアイデアを考案し、1839年には風景を描いたスライドを見るための、長さ18インチ(46cm)、幅7インチ(18cm)、高さ4インチ(10cm)の木箱で構成される「レンズや鏡の持たないシンプルなステレオスコープ」を制作した。ブリュースター自身による貢献は、1849年に小型で手で持つことができるレンズ式ステレオスコープを発明したことである。これはブリュースター・ステレオスコープとして知られるようになり、1851年の万国博覧会で展示された際にはビクトリア女王に大いに賞賛された。
ブリュースターは、彼の発明を取り扱える機器メーカーを英国で見つけることができなかったため、フランスのに製造を依頼した。デュボスクはステレオスコープおよび立体ダゲレオタイプを製造し、また万国博覧会で展示されたビクトリア女王の有名な写真も作成した。3D産業は瞬く間に発展し、短期間のうちに25万台のステレオスコープが製造され、多数のステレオビュー、ステレオカード、ステレオペア、またはステレオグラフが販売された。3D画像への需要に応えるため、ステレオグラファー達が新しいメディア用の撮影のために世界中に派遣された。
1861年、オリバー・ウェンデル・ホームズは、手持ちで簡素化されたより安価な機器を作成した。特許は意図的に取得されなかった。このステレオスコープは、2つのプリズムレンズとステレオカードを保持するための木製スタンドで構成される。このタイプのステレオスコープは1世紀にわたって生産され続け、現在でも限定生産で製造を行っている企業がある。
現代における使用
20世紀半ば、画像ペアを含む回転する厚紙円盤を備えた(1939年特許取得)が、初めは「ヴァーチャル・ツーリズム」として、その後は玩具として人気になった。2010年に米ハスブロ社が、iPhoneまたはiPod Touchを保持するように設計されたステレオスコープ「My3D」の製造を開始した。2014年、GoogleがGoogle Cardboardと呼ばれるペーパークラフトのステレオスコープの設計図を公開した。Google Cardboardは、ステレオカードの代わりに、回転を感知し本格的なバーチャルリアリティ端末としての使用を可能にするモバイルアプリを使用する。しかし、基本となる技術は初期のステレオスコープと同じである。
美術写真家やグラフィックアーティストの中には、ステレオスコープを使用して鑑賞する独自の作品制作を続けている人々もいる。
原理
シンプルなステレオスコープでは、使用できる画像のサイズに制限がある。一方、より複雑なステレオスコープでは、1対の水平の潜望鏡のような装置を使用するため、より広範囲かつ詳細な、大きな画像を使用することができる。ステレオスコープは、同じ対象物をわずかに異なる角度から撮影した2枚の写真を、左右の眼からそれぞれ同時に見えるようにする装置である。これは、自然な人間の視覚を再現している。左右の眼は、数cmの間隔があるためにわずかに異なる角度で対象物を見ており、それにより人間の自然な奥行き知覚が可能になっている。各写真は異なるレンズで焦点を合わされており、数cm間隔を空けて撮影し同じ点に焦点を合わせた写真を各眼から見ることで、物体の自然な立体視を再現する。
動画向けのステレオスコープは、動画を形成する一連のステレオカードが取り付けられたホイールを含む、垂直に取り付けられた大きな円筒を備える。カードはゲート部において固定され、カードを曲げるのに十分な力がかかると、カードはゲート部を通過して視界窓に滑り込み、前の画像を隠す。こうしたステレオスコープはコイン挿入式装置として、19世紀後半から20世紀初頭にかけてアーケードに設置され、手動ハンドルで操作された。現在でも、アーケードを専門とする美術館で鑑賞および体験することができる。
ステレオスコープには以下のような利点がある。
正の曲率(拡大)レンズを使用しており、画像の焦点を短距離(約30~40cm)から無限大の仮想距離まで変更できる。これにより、目の焦点が視界の平行線と一致するため、目の疲れを大幅に軽減できる。
カードの画像を拡大することにより、より広い視界と細部観察を可能にする。
画像間を仕切ることにより、他の画像への目移りを防ぐ。
ビューマスターなどのステレオ透明写真ビューアーも、同様の利点を有している。
ステレオカードやスライド、その他のハードコピーやプリントの欠点は、2枚の画像がそれぞれ異なる摩耗や傷、劣化を受ける可能性があることである。これにより立体視にノイズが発生し、3D効果を妨害したり、眼精疲労や頭痛を引き起こしたりする。
出典
関連項目
ステレオグラム
立体視
立体映画
外部リンク
University of Washington Libraries Digital Collections Stereocard Collection
New York Public Library Robert N. Dennis Collection of Stereoscopic Views
20th Century Stereo Viewer Reference site
Volkan Yuksel's Extraordinary Cross Eyed 3D Stereo Pair Collection from Planet Earth
American University in Cairo Rare Books and Special Collections Digital Library Underwood & Underwood Egypt Stereoviews Collection
Panama Canal Stereographs
Rees Stereograph Collection from the
イギリス人の発明
3次元映像
写真用品
錯視
光学機器 | 0.692864 |
959135 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%81%AE%E3%83%87%E3%82%B8%E3%82%BF%E3%83%AB%E4%B8%80%E7%9C%BC%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9%E8%A3%BD%E5%93%81%E4%B8%80%E8%A6%A7 | ニコンのデジタル一眼レフカメラ製品一覧 | ニコンのデジタル一眼レフカメラ製品一覧は、ニコンの発売してきたデジタル一眼レフカメラの一覧である。便宜上アナログ電子カメラニコンQV-1000Cも含める。
アナログ電子カメラ
ニコンQV-1000C(1988年12月発売) - 0.38メガピクセルの2/3inCCDでアナログ撮影する電子スチルビデオカメラ。従前のスチルビデオカメラは画質が荒かったが、このカメラは白黒専用とすることで新聞紙面用には充分な画質を得た。マウントは10個の電気接点で信号のやりとりをする専用電子マウントでQVニッコール10-40mmF1.4とQVニッコールED11-120mmF2.0の2本の専用レンズが用意された。アダプター「QM-100」を介せばFマウントの交換レンズもマニュアルフォーカスで使用できる。記録媒体は2inフロッピーディスク。ISOは400、800、1600相当。このカメラ以前はニコンF4などで撮影したフィルムを現像して電送機にかけていたが、このカメラでは専用電送機ニコンQV-1010Tに内蔵されるCRTモニターで確認し現像なしで写真を電送できるため大幅な時間短縮を実現した。
デジタル一眼レフカメラ
デジタルカメラの原理・仕組みについてはデジタルカメラを参照
ニコンのデジタル一眼レフカメラは、銀塩フィルムを使うFシリーズと同様のマーケティング方法を取った。まず、市場の開拓時に無理に廉価な製品を販売すると機能、性能に問題のある製品となってしまい、ブランドイメージが落ちかねない。そこで高価でもプロの使用に耐える高級機を販売し、量産効果に合わせて少しずつ普及価格帯に下りていくのである(D1⇒D100⇒D70⇒D50⇒D40⇒D60)。この戦略は成功し、デジタル一眼レフカメラの市場はニコンとキヤノンでほぼ二分している。
ニコンの一眼レフカメラは、FシリーズやEシリーズ、Dシリーズなど、ほとんどのカメラがFマウントと呼ばれるバヨネットタイプのマウントを採用している。1959年のニコンF発売以来、もっとも長寿命のマウントであり、ニコンだけでなく多くのサードパーティからFマウント用レンズ、アクセサリが発売されており、実際にユーザが所有している。これらの資産をニコンが捨てなかったことは、ユーザがニコンを信頼する理由の一つである。
ニコンEシリーズ
富士写真フイルム(現・富士フイルムホールディングス)と共同開発された、ニコン初のデジタル一眼レフカメラのシリーズ。縮小光学系をボディ内に備えることで24×36mm(ライカ)判使用時と同じ焦点距離/画角感覚で使用できるが、その反面ボディの大型化を招いた。D1発売以降はその役目を譲った。
E2(1995年9月発売) -富士からもフジックスDS-505として販売された。1.3メガピクセル。110万円。
E2s(1995年9月発売) -富士からもフジックスDS-515として販売された。140万円。
E2N(1996年9月発売) -富士からもフジックスDS-505Aとして販売された。1.3メガピクセル。記録媒体はPCMCIA/ATAタイプI/II準拠のPCカードで撮影可能枚数は15MBカード装着時ハイモード5枚、ファインモード21枚、ノーマルモード43枚、ベーシックモード84枚。89万円。
E2Ns(1996年11月発売) -富士からもフジックスDS-515Aとして販売された。E2Nに秒3コマ、最大5コマの連写機能を追加した。130万円。
E3(1998年6月発売)-富士からもフジックスDS-560として販売された。1.4メガピクセル。記録媒体はPCMCIA/ATAタイプI/II準拠のPCカードで撮影可能枚数は15MBカード装着時ハイモード5枚、ファインモード21枚、ノーマルモード43枚、ベーシックモード84枚。ISO800、1600、3200相当。77万円。
E3s(1998年6月発売)-富士からもフジックスDS-565として販売された。E3に秒3コマ、最大12コマの連写機能を追加した。98万円。
Dシリーズ
デジタル一眼レフカメラ。
センサーサイズによって機種タイプが異なり、ニコンでは24×36mm(ライカ)判フルサイズのイメージセンサを採用しているものをFXフォーマット、24×36mm(ライカ)判フルサイズより小さいAPS-Cサイズのイメージセンサを採用しているものをDXフォーマットと呼んでいる。
Dシリーズにもノイズリダクション機能を搭載しているが、COOLPIXシリーズとは異なる方式のため、COOLPIXシリーズのようなノイズキャンセルの差分を得るための時間はほとんどない。
D1桁シリーズ
D1桁シリーズはカメラマン、報道、デザイン事務所などのプロ用途向けモデルである。
フラッグシップであるD1桁シリーズは仙台ニコンで製造される「Made in Japan」であったが、2021年にタイ工場への生産移管を表明した。
D1(1999年9月29日発売、DXフォーマット) -キヤノンのデジタル一眼レフカメラEOS D2000が198万円、EOS D6000が360万円という非常に高価な機材であったのに対し、65万円という当時としては極めて低価格で販売されたことで、プロを中心としたデジタル一眼レフカメラ普及の基礎を作った。搭載CCD自体は10.8メガピクセルを備えていたが、感度や画質や速度を優先し4画素を1画素として出力していたため有効画素数は2.6メガピクセルと低くなっていた。しかし新聞に掲載するには必要十分な解像度だったこと、ISO1600という高感度撮影が可能だったことから報道機関を中心に普及した。カメラボディはニコンF100・ニコンF5をベースに作られたため、比較的堅牢性が高い。
D1X(2001年5月31日発売、DXフォーマット) -有効画素数5.3メガピクセルでありながら、RAWのデフォルトサイズを6メガピクセルか10メガピクセルに選択できる。10.8メガピクセルCCDを備え、縦の2画素を1画素として扱っている。2.0型液晶モニタ。
D1H(2001年7月25日発売、DXフォーマット) - D1Xの連写性能を向上したモデルで5コマ/秒、最大40コマの連続撮影、最高1/16,000秒のシャッタースピード、1/500秒のシンクロスピードを実現した。有効画素数は2.7メガピクセルで電子シャッターと機械式シャッターを併用。
D2H(2003年11月29日発売、DXフォーマット) -ニコンが開発したJFET式センサ「LBCAST」を採用し、37msのレリーズタイムラグ、8コマ/秒、最大40コマの連続撮影が可能となっている。有効画素数は4.1メガピクセル。2.5型液晶モニタ。オートフォーカスセンサーも11点に増え、より激しい動きの被写体にも対応できるようになった。この機種よりデジタル一眼レフカメラを主体としたボディワークを利用するようになった。後に発売されたニコンF6はD2Hのボディーワークの一部デザインのほか、オートフォーカスセンサーなどを流用している。ボディ構造材にマグネシウム合金を採用。電源はリチウムイオン二次電池。ディスプレイを中心として左右にボタンを配したシンメトリーデザインで操作性に寄与。
D2X(2005年2月25日発売、DXフォーマット) -新画像処理システムで色再現力と階調性を徹底的に追求したモデル。センサーは12.4メガピクセルのCMOSを採用。センサの中央部6.8メガピクセルだけを使うことで、ニコンD2H並の秒間8コマの連写ができるクロップ高速の機能を備える。
D2Hs(2005年3月25日発売、DXフォーマット) - D2Xの発売に伴い、D2Hの細かなボタン位置などをD2Xと共通化したマイナーチェンジモデル。
D2Xs(2006年6月29日発売、DXフォーマット) - D2Xにより大容量のバッテリーや高視野角液晶モニターを採用し、クロップ高速時のファインダー表示などを改良したマイナーチェンジモデル。2007年8月アメリカ航空宇宙局によりスペースシャトルでの記録撮影用カメラとして採用された。ニコンはレンズ、スピードライトと共にボディー76台を受注した。実際に宇宙で使用されるものは潤滑剤がアメリカ航空宇宙局指定のものに変更される以外は市販品と同じである。
D3(2007年11月30日発売、FXフォーマット) - D2Xsの後継機。これまでDシリーズが採用して来た「DXフォーマット」でなく「FXフォーマット」と呼ばれる12.1メガピクセル24×36mmCMOSを採用。クロップモードを搭載しFXフォーマット以外に5:4フォーマットやDXフォーマットでの撮影も可能。また従来機では対象ユーザー層に合わせて機種ごとで画像生成設定を変えていたため異なる機種を併有したり新機種に買い換え場合に発色傾向をそろえることができず不便というユーザーの声に応え、色彩統一システム「ピクチャーコントロールシステム」を初採用。設定はスタンダード、ビビッド、ニュートラル、モノクロームの4設定が用意され、ピクチャーコントロールシステム搭載機では機種が異なっても同じ設定をセットすればまったく同じ発色傾向が得られるようになった。画像処理コンセプト「EXPEED」も初採用。また、ニコンのデジタル一眼レフカメラの1桁機としては初めてライブビュー機能を実装した。
D3X(2008年12月19日発売、FXフォーマット) -ニコンD3と共通のボディに,24.5メガピクセルのFXフォーマットCMOSを採用。常用感度はD3のISO200~6400相当に対して、よりスタジオ撮影に重点を置いた本機はISO100~1600相当となっている。
D3S(2009年11月27日発売、FXフォーマット) -有効画素数が12.1メガピクセルのFXフォーマットCMOS。感度ISO200~12800相当まで拡大。「Dムービー」と呼ばれる動画撮影機能を搭載。カメラ内で完結できる、動画からの静止画の切り出しが可能。2009年12月、ニコンはアメリカ航空宇宙局からスペースシャトルでの記録撮影用カメラに11台を交換レンズ「AF-Sニッコール14-24mmF2.8G ED」とともに受注した。D一桁シリーズの中ではD3Sで初めて超音波によるイメージセンサーのホコリを落とす機能が追加された。
D4(2012年3月15日発売、FXフォーマット)-有効画素数が16.2メガピクセルのFXフォーマットCMOS。画像処理エンジンは「EXPEED3」を採用。常用感度は100~12800、増減感領域を含めると50~204800まで対応。測光システムでは91000分割RGBセンサーを搭載し、光学ファインダー撮影時での顔認識も可能。フォーカスポイントはD3同様51点だが、11点はf/8対応である。約40万回のレリーズテストをクリアする高い耐久性を有する。有線LANコネクタを搭載し、ワークフローの効率化が図られた。
D4S(2014年3月6日発売、FXフォーマット)- - D4のブラッシュアップモデル。2014年1月7日に開発発表。有効画素数は16.2メガピクセルとD4と同等ながら、新センサーとなり画像処理エンジンは「EXPEED4」を採用。常用感度は100~25600、増減感により50~409600までの対応となった。AF性能などの機能向上が図られた。
D5(2016年3月26日発売、FXフォーマット)-有効画素数が20.8メガピクセルのFXフォーマットCMOS。常用感度はISO100~102400。拡張感度は最低側がISO50相当、最高がISO328000相当。画像処理エンジンは、新しいノイズ低減機能を搭載した「EXPEED5」を搭載。AF測距点は153点へと増加し、さらにその配置エリア全体の面積が、D4Sより130%以上と広くなっている。プロ機としては珍しく、背面モニターにタッチパネルを採用した。
D6(2020年6月5日発売、FXフォーマット)-有効画素数が20.8メガピクセルのFXフォーマットCMOS。常用感度はISO100~102400。拡張感度は最低側がISO50相当、最高がISO328000相当。画像処理エンジンは「EXPEED6」を搭載。新開発AF専用エンジンを搭載。AF測距点は105点ですべてがクロスセンサー。-4.5EVの低輝度にもAFが可能になった。記録メディアがCFexpress(TypeB)に対応。Bluetooth、GPS(みちびき対応)を内蔵。
Df
Dfは従来のDシリーズとは別に開発されたモデル。
Df(2013年11月28日発売、FXフォーマット)-ニコンFM/FE系のデザインを汲む、レトロ外観のデジタル一眼レフカメラ。往年のニコン銀塩カメラを彷彿とさせる直線的デザインと機械式ダイヤルの採用、同社デジタル一眼レフカメラで初、標準装備ではF4以来となるレンズマウント部への可倒式露出計連動レバーを採用による非Aiニッコールレンズの使用可、レリーズケーブルAR-3が使用可など、他のニコン製デジタル一眼レフカメラとは一線を画す存在となっている。撮像素子、画像処理エンジンはD4と同じデバイス(有効画素数が16.2メガピクセルのFXフォーマットCMOS、EXPEED3)を採用。常用最大ISO感度は12800、増減感を含む設定可能ISO感度範囲は50-204800もD4と同じである。AF関係は39点AF(7点f/8対応)、2016分割測光センサー搭載、レリーズテストは約15万回をクリアなどはD600/D610と同等である。ただし動画撮影機能は搭載していない。名称は、デジタルカメラを表す「D」と最先端技術であるD4画質と往年のニコンの精密機械技術が「融合(fusion)」を果たしたという意の「f」から採られている。名称を「DF」にしなかったのは、「F」はニコンFのイメージが強すぎるため(本来、ニコンでの大文字Fは、フィルムカメラを表す記号)。なお、試作段階ではマニュアル操作、機械式シャッター搭載機を意味する「M」を付けた「DM」も検討されていた(本機は機械式シャッターは搭載されていない)。軍艦部のロゴは旧ニコンのロゴマークに似たゴシック書体正体の「Nikon」となっている。これは、現行の斜体ロゴでは、デザイン上マッチしなかったため開発側が決めたもの。しかし、ニコンには社内規定として、製品に斜体の現行ロゴを配さなければならない、とあるため、開発した後藤研究所と会社との交渉の結果、軍艦部のロゴは製品出所を表すロゴではなくあくまでデザインの一つ、軍艦部のみの特例、製品出所を表す斜体ロゴは背面液晶下部と本体底部に配する、という条件にて、ゴシック体のロゴが採用されている。D1桁シリーと同じく仙台ニコンの工場で生産されているため、あえてダイヤル付近の目立つ位置に「Made in Japan」をプリントしている。「長い歴史のあるFマウントの昔のレンズが使える、ニコンにしかできないカメラ」として、2014年のカメラグランプリ大賞と「あなたが選ぶベストカメラ賞」をダブル受賞した。
D3桁シリーズ
ハイアマチュア、およびプロのサブ機向けモデル。
DXフォーマット
D100(2002年6月22日発売、DXフォーマット) -当時の小売価格は30万円。ニコンD1シリーズでは利用できたAiニッコールレンズに対して、露出計が動作せずマルチパターン測光も利用できなくなっている。有効画素数はニコンD1シリーズよりも多い6.1メガピクセルで、サイズもミドルクラスのフィルム一眼レフカメラ並みの大きさまでコンパクトにすることができた。ボディはプラスチック製。カメラとしての性能は、名前の似ているニコンF100よりも、むしろニコンF80に近く、まさにF80のデジタル版、とも言える商品であった。キヤノンEOS D60とともにアマチュア層へのデジタル一眼レフカメラ普及の礎を作り、2005年に生産を終了した。
D200(2005年12月16日発売、DXフォーマット) -カメラグランプリ2006受賞。発売から3年半経ち機能面の陳腐化が進んだD100の後継機。CCDは10.2メガピクセルへと向上し、連写能力も5コマ/秒、最大54コマのバッファリングが可能となり、レスポンス面でも向上している。1/8000秒の高速シャッターを備え、シンクロスピードも1/250秒である。ファインダー倍率が高く、マニュアル撮影時の基本性能が格段に良くなった。ボディにマグネシウムを使用し、接合部分にシーリングを施すことで防塵防滴性能を持たせている。またシャッターはフラッグシップ機並みの10万回の耐用を実現しており、プロカメラマンでもサブ機として利用できる仕様へと向上している。オートフォーカス用の測距センサはニコンD2シリーズ同様の11点へと拡大し、さらに左右3点ずつを1点として利用するワイドオートフォーカスへの切り替えも可能。測光もD2Xと同等へと進化している。さらにニコンF6同様に、AiニッコールなどCPUを内蔵しない旧型のニッコールレンズでも露出計が動作する。Ai対応レンズであれば自動絞りで、それ以外の普通絞りやプリセット絞りのレンズでは絞り込み測光でAE撮影ができる。さらにレンズ情報を手動で入力すればRGBマルチパターン測光も利用できる。全体的にデジタルにおけるニコンF100のような、アマチュアもプロも愛用できるカメラとして仕上げられている。発売直後、特定条件において撮影画像に縞状のノイズが発生するという欠陥がインターネット上で話題となったが、今日では正式に対応が表明されている。
D300(2007年11月23日発売、DXフォーマット) -ニコンD1桁シリーズの最新機種D3と同時発表。DXフォーマット採用機種の最上位機種。ニコンのデジタル一眼初となるほこり除去機構(ピエゾ素子駆動)を搭載する。D3と同様に画像処理コンセプト「EXPEED」と色彩統一システム「ピクチャーコントロール」や3D-トラッキングオートフォーカスを初採用。また、ニコンのデジタル一眼レフカメラとしては初めてライブビュー機能を実装した。DXフォーマット最高の連写性能と描写性を持ち、多くのプロに支持されている。
D300S(2009年8月28日発売、DXフォーマット) - D300のマイナーチェンジ版。ボディ本体のみでも7コマ/秒の高速撮影を可能とした。外部ステレオマイク対応の「Dムービー」と呼ばれる動画撮影機能を搭載。
D500(2016年4月28日発売、DXフォーマット) -ニコンD1桁シリーズの最新機種D5と同時発表。DXフォーマット採用機種の最上位機種。D5と同様に153点AFシステムを採用し、Bluetoothによるスマートフォンなどとの常時接続機能を初めて搭載した。内蔵フラッシュ無し
FXフォーマット
D700(2008年7月25日発売、FXフォーマット) - D3と同様の「FXフォーマット」と呼ばれる12.1メガピクセル24×36mmCMOSを採用。ファインダー視野率95%、連写スピードは5コマ/秒(バッテリーグリップ装着時は8コマ/秒)であるが、スペック上の多くの部分でD3に匹敵した能力を備えており、それでいて小型化(D300に近いサイズだが重さは160g程度重い)と低価格化を実現している。マグネシウム製ボディ。
D800(2012年3月22日発売、FXフォーマット)- D700のフルモデルチェンジ版(後継機ではない)。登場時現在では世界最高画素数となる「FXフォーマット」36.3メガピクセル24×35.9mmCMOSセンサーを採用。測光センサーやフォーカスポイント等の機能は一部D4と同等である。コンパクトフラッシュのほか、SDメモリーカードにも対応。
D800E(2012年4月12日発売、FXフォーマット) - D800に搭載されている光学ローパスフィルターを除去し、レンズからの光をより直接的に撮像素子へと導き、解像感を高めた派生モデル。偽色やモアレが発生しやすい場面はあるが、D800と比較しより解像力の高い画像とすることが可能。それ以外の機能・性能はD800と同一。
D600(2012年9月27日発売、FXフォーマット) -「FXフォーマット」の廉価版モデル。登場時点ではFXフォーマット機種で最小・最軽量。24.3メガピクセル24×35.9mmCMOSを採用。カードスロットはSDメモリーカードのダブルスロット。連写スピードは5.5コマ/秒。別売ワイヤレスモバイルアダプターを用いた、スマートデバイスとの双方向通信可能。
発売後、黒い粒が吹き出るという不具合が多数報告されたため、改良版のD610が発売される。しかし、D600ユーザーからの苦情は止まらず、ニコンの対応も後手後手に回る。
2014年2月には、アメリカ合衆国では集団訴訟を起こされ、結局この問題に対しては、無償で無期限の保証を行うことになった。事実上、製品の欠陥を認めた形ではあるが、リコールは行っていない。
さらに、2014年3月15日の世界消費者権利デーには、中華人民共和国の国営放送である中国中央電視台で暴露され(3・15晩会)、中華人民共和国政府より回収命令が出され、中華人民共和国での販売停止に追い込まれる。
なお、黒い粒が出る現象が起きていない機種でも、サービスセンターに持って行けば、メーカー保証期間外でも、無償で改良を施してもらえる。
D610(2013年10月19日発売、FXフォーマット)- D600のマイナーチェンジモデル。24.3メガピクセル24×35.9mmCMOSを採用。連写スピードは6コマ/秒にアップ、さらに静音モードでの連写も3コマ/秒で可能。別売ワイヤレスモバイルアダプターを用いた、スマートデバイスとの双方向通信可能。
D810(2014年7月17日発売、FXフォーマット)- D800の後継機種。3635万画素24×35.9mmCMOSを採用。ローパスフィルターは非搭載のため光学的には実質的にD800Eの後継機となる。画像処理エンジンはEXPEED 4を使用、先に同エンジンを搭載したモデル同様最大常用ISO感度が12800にアップするだけでなく、撮像素子の各画素が蓄積可能な光の情報量を2/3段分増やすことで、階調性を損なうことなくベース感度ISO 64を達成した。D800/D800E同等の高画素ゆえに発生する機構ブレの影響を低減するために、駆動機構、ミラーバランサーを新設計。また、レリーズモードをMUP(ミラーアップ撮影)に設定しているときには、メカニカル先幕シャッターを電子先幕シャッターに切り換え、先幕の働きを撮像素子で代用する撮影を可能とした。
D750(2014年9月25日発売、FXフォーマット)- D610とD810の中間にあたる新モデル。2432万画素24×35.9mmCMOSを採用、ローパスフィルターは搭載。画像処理エンジンはEXPEED 4を使用、先に同エンジンを搭載したモデル同様最大常用ISO感度が12800にアップ。重量と基本的なインターフェースはD610に準ずるが、測光(91000分割RGBセンサー)とAF機能(51点AF)はD810に準ずるだけでなく、AFセンサーは-3EVの暗さでも対応し上位機種を凌駕する性能も有する。マグネシウム合金の面と、炭素繊維複合材の面を併用したモノコック構造の採用と、内部構造のレイアウトからゼロベースで刷新することにより、ボディーの大幅な薄型化を実現し、深いグリップによる確実なホールド感を確保した。FXフォーマットモデルでは初となるチルト式液晶、Wi-Fi機能、スペシャルエフェクト機能も搭載している。
D850(2017年9月8日発売、FXフォーマット)- D810の後継機種。4689万画素35.9×23.9mmサイズの裏面照射型CMOSセンサーを採用。画像処理エンジンはD5と同じEXPEED 5を使用。裏面照射型とすることで高画素化しながらも最高感度ISO 25600としている。またベース感度ISO 64としている。連写はボディ単体で7コマ/秒、D5と同じマルチパワーバッテリーパックMB-D18を使用することで9コマ/秒とする。D5を超える倍率約0.75倍の光学ファインダーを新搭載した。内蔵フラッシュは廃止。発売開始以来世界的な品薄が続いており、DLシリーズの発売中止や1000人以上の希望退職者などで経営が危ぶまれていたニコンの業績の回復に寄与した。「総合的なバランスの良い、完成度の高いカメラ」として、2018年のカメラグランプリ「カメラ記者クラブ賞」と「あなたが選ぶベストカメラ賞」をダブル受賞した。
D780(2020年1月24日発売、FXフォーマット)- D750の後継機種。2450万画素・画像処理エンジンEXPEED 6採用。1/8000秒シャッター・Wi-Fi(無線LAN)・Bluetooth内蔵。内蔵フラッシュは廃止。裏面照射型CMOSセンサーを採用し、最大常用ISO感度が51200にアップした。また、ファインダー撮影ではD5のAFアルゴリズムを最適化したというオートエリアAFの被写体検出性能が高められ、ライブビュー撮影時においてはニコンの一眼レフカメラとして初となる273点像面位相差AFを搭載したコントラストAFとの自動切換によるハイブリッドAFシステムや、タッチパネルモニターを採用し、特にライブビュー撮影時の使い勝手やAF性能の向上が図られた。動画撮影は、フルフレームでの4K UHD、フルHD、HD動画に対応。音元出版が主催する「デジタルカメラグランプリ2020 SUMMER」「デジタルカメラグランプリ2021」において「総合金賞」を受賞した。
D2桁シリーズ
初心者向け~プロのサブカメラとして幅広いラインナップを有する、DXフォーマットのデジタル一眼レフカメラ群である。このシリーズは初心者にも扱いやすいよう撮影モードダイヤルなどが設定され、初めてでも一眼レフの設定に悩まされることなく使えるように工夫されている。また機械的な特徴として、D90を除く全ての機種がCCDセンサーを採用し、D40 D40x D60の3機種がカメラ本体側のオートフォーカス用モーター(以降AFモーター)を廃止している点が挙げられる。そのためD40 D40x D60の同3機種は、AFモーターを有しないレンズでのAF(オートフォーカス)が不可能となってしまった。しかし互換性は保たれており手動操作でレンズを使用する事が可能である。番号枯渇のため、2009年にD4桁シリーズへ移行した。
D70(2004年3月19日発売、DXフォーマット) -有効画素数6.1メガピクセルDXフォーマットCCDセンサーを搭載するエントリー一眼レフカメラ。最大144コマ連写可能であることや1/8000秒高速シャッター、1/500秒のシンクロスピードの採用などD100を上回る機能を備えている。アマチュアからハイアマチュアまでの広いユーザー層に支持された。反面ファインダーにペンタミラーを採用し、撮影モードダイヤルにオートモードとデジタルイメージプログラムを採用するなどu2に相当するエントリーユーザに対する配慮や、D100との差別化を行っている。ファームウェアをアップグレードすることで、内蔵ストロボや背面モニタを除く部分でD70sに相当する機能を利用でき、さらに有償改造を行うことでD70sと同様にリモートコードの使用ができるようになる。
その他、初めてレンズキットが設定され、AF-S DXズームニッコールED18-70mmF3.5-4.5Gが付属された。これはEDレンズを3枚も使用した非常に贅沢な設計でコストパフォーマンスに優れ、デジタル時代のスタンダードレンズの先駆けとなった。2004年カメラグランプリ受賞。デジタル一眼レフカメラの普及に大きく貢献し、ユーザーの裾野を広げた。
D70s(2005年4月27日発売、DXフォーマット) -好評だったD70の基本的な部分はそのままに、細部の改良を施したマイナーチェンジモデル。主な変更点は、背面の液晶を1.8インチから2インチに拡大、レリーズ用リモートコードの接続端子をボディーに増設、内蔵スピードライトの照射角度を18mmに拡大、標準バッテリー容量の増加などがある。これらの改良によりさらに使い勝手の良いデジタル一眼レフカメラとなっている。アルゴリズムの向上によりオートフォーカスの精度もアップした。レンズキットにはD70同様、AF-S DXズームニッコールED18-70mmF3.5-4.5Gが付属されている。
D50(2005年6月29日発売、DXフォーマット) - D70のエントリーモデル、よりエントリーユーザーを意識し新たに開発されたデジタル一眼レフカメラ。撮影モードダイヤルに「こどもスナップ」モードを加え、よりファミリー向けカメラとしての色合いが濃い機種となっている。D70sと比較すると、AE測光パターンに420分割RGBセンサーを採用。シャッタースピードが1/4000秒に、連写速度が3コマ/秒から2.5コマ/秒に制限された。また記憶媒体がコンパクトフラッシュからSDカード(SDHC非対応)に改められた。その他、サブ液晶にバックライトが付いていないことなどが挙げられる。標準レンズキットに付属するレンズはAF-S DXズームニッコールED18-55mmF3.5-5.6Gとなった。ボディカラーとしてブラックモデルの他にシルバーモデルが用意された。これはニコン製デジタル一眼レフカメラとしては初である。
D80(2006年9月1日発売、DXフォーマット) - D70sがフルモデルチェンジしたもの。CCDの有効画素数は10.2メガピクセル、オートフォーカスは11点センサー、バッテリーはEN-EL3eを採用とD200の流れをくむ。本機のファインダーは軽量化・コストダウンのためにペンタミラーを採用していた前機種D70sと異なり、D200と同等のガラスペンタプリズムを採用し視認性が向上した。ファインダー視野率もD200と同等である。相違点としてAE測光は1005から420分割RGBセンサーに改められ、シャッタースピードは1/4000秒に留まった。記憶媒体がSDHC対応のSDメモリーカードに変更され、D80以降の標準仕様となる。当機種よりカメラ内で画像が編集できるDライティングなどの機能が追加された。またレンズキットとしてD70と同じ18-70mmをセットにしたもののほかに、新たに開発された18-135mmをセットにしたものも発売されていた。さらに、2008年1月25日には手ぶれ補正機能搭載のVR18-200mmとのレンズキットが発売された。
D40(2006年12月1日発売、DXフォーマット) - D50がフルモデルチェンジしたもの。D50に続くエントリーモデルの位置付けで、コンパクトカメラからの乗り換えやファミリーまでもターゲットにしている。CCDはD50同様で、フォーカスエリアは5点から3点測距に変更して採用している。外観も大きく変化、カメラ上面に装備されていたモノクロ表示パネルを廃止して撮影モードダイヤルの配置に変更。液晶画面も2.5インチに大型化され新開発の画像処理エンジン搭載、画像編集が容易になった。また、ニコン一眼レフで初めてAFの使用に制限が生じる機種にもなった。
D40より続くエントリーモデルの特徴として、ボディ内のオートフォーカス用モーターを廃止。オートフォーカスを鏡筒内にモーターを搭載したレンズAF-SニッコールとAF-Iニッコールに限定にしている点である。これは従来のAFニッコールのAF互換を切り捨て、普及が進んだAF-Sニッコールに特化し徹底的にコストダウンした結果である。
その徹底した割り切りより、ニコンが苦手だといわれていた軽量コンパクト化に成功。D40は本体のみで475gに達し、販売価格も非常にこなれたものとなった。
レンズキットにはAF-S DXズームニッコールED18-55mmF3.5-5.6GIIが含まれ、ダブルズームキットではAF-S DXズームニッコールED55-200mmF4-5.6Gも含まれる。2007年7月には望遠側のレンズをAF-S DX VRズームニッコールED55-200mmF4-5.6G(IF)に変更した「ダブルズームキットII」が新たに設定された。ボディカラーはD50と同様にブラックとシルバーの2色が用意されている。出荷台数は2007年3月期で約209万台へ2008年3月期には約309万台に達し、一眼レフカメラの草の根的な地位を確立した。
ボディ内にオートフォーカス用モーターが搭載されていないため、ボディのモーターを使用するレンズ(AF-S・AF-I以外)ではオートフォーカスは使用できない。
D40x(2007年3月29日発売、DXフォーマット) - D40のマイナーチェンジモデル。10.2メガピクセルのCCDを採用している他はD40と同じ仕様。D40から20gの重量増に留まり、軽量な10メガピクセルのデジタル一眼レフカメラとなった。CCDと同時にD80の内部処理を引き継ぎ連写速度も向上、シャッターの耐久性も高められた。ダブルズームキットはAF-S DXズームニッコールED18-55mmF3.5-5.6GIIとAF-S DX VRズームニッコールED55-200mmF4-5.6G(IF)。ボディカラーはブラックのみ。本機の発売後、後継のD60が非常に早いタイミングで登場したことによりわずか11か月で販売が終了された。
ボディ内にAFモーターが搭載されていないため、AFが使用できるレンズに制限があるのはD40と同様。
D60(2008年2月22日発売、DXフォーマット) - D40xがフルモデルチェンジしたもの。振動によるほこり除去機構のほか、新搭載のミラーのアップダウンで発生する空気流によりほこりを除去する「エアフローコントロールシステム」を搭載する。またレンズキットおよびダブルズームキットに付属の標準ズームレンズが手振れ補正付きのAF-S DXニッコール18-55mmF3.5-5.6G VRに変更となるが望遠レンズはAF-S DX VRズームニッコールED55-200mmF4-5.6G(IF)から変更なし。ぱっと見た目はD40やD40xと変わりないが、画像処理エンジンが画像処理コンセプト「EXPEED」搭載のものに変更になったほか、ボディの作りやダイヤル周りに変化が見られ、さらにファインダー付近にセンサーを搭載することにより、顔を近づけると液晶表示が消灯するなど、細かい変更点がある。
AFモーターが搭載されていないためAFに制限があるのはD40と同様だが、新機能のフォーカスエイドインジケーターの使用を設定する事で、従来より厳密なMF(マニュアルフォーカス)が可能になった。
D90(2008年9月19日発売、DXフォーマット) - D80がフルモデルチェンジしたもの。CMOSセンサは新開発の模様でD300よりもわずかに高感度特性が向上している。CMOSセンサは12.3メガピクセル、フォーカスポイントは11点となる。世界初の動画撮影、3Dトラッキング等を搭載。ダストリダクション、画像処理コンセプト「EXPEED」。本機よりライブビュー機能が追加され背面液晶の右に専用ボタンで利用可能になった。3型92万ドット液晶、視野率は96%。記録媒体はSDメモリーカードを採用する。本体単体の発売の他、レンズキットとしてAF-S DXニッコール18-105mmF3.5-5.6G ED VR、AF-S DXニッコール18-55mmF3.5-5.6G VR、AF-S DX VRズームニッコールED18-200mmF3.5-5.6G(IF)の3種類が発売される。ダブルズームキットはない。また発売当初に限り「D90アニバーサリーキット(限定品)」が発売された。キット内容は「AF-S DXニッコール18-105mmF3.5-5.6G ED VR、SB-400、限定ストラップ」である。2009年9月4日には、レンズのマイナーチェンジに伴い、AF-S DX 18-200mmG VR IIとのレンズキットが発売される。
D4桁シリーズ
D2桁シリーズの番号枯渇に伴い2009年より登場。初心者向け~プロのサブカメラとして幅広いラインナップを有する。
D3000番台シリーズ
D4桁シリーズのうち、最も下位に位置する初心者向けモデル。シャッター優先オートや絞り優先オートなどをガイド付き設定可能な「ガイドモード」を搭載しているのが特徴。
D3000(2009年8月28日発売、DXフォーマット) - D60のマイナーチェンジモデル。デジタル一眼レフカメラとして初となる「ガイドモード」を搭載。センサーは10.2メガピクセル。背面液晶は3型23万ドット。ライブビューや動画撮影機能は搭載しない。シャッター横のアクティブDライティングボタンがInfoボタンに変わっており、上面部の配置はD5000とほぼ同じになった。背面に関してはD60を踏襲。液晶が大型化しているが、重量はむしろわずかに軽くなっている。ボディ内にオートフォーカス用モーターが搭載されていないため、ボディのモーターを使用するレンズ(AF-S・AF-I以外)ではオートフォーカスは使用できない。
D3100(2010年9月16日発売、DXフォーマット) - D3000の後継モデル。14.2メガピクセルの新型CMOSセンサーを搭載。背面液晶は3型23万ドット。映像処理エンジンに新型のEXPEED2を搭載。ニコンの一眼レフでは初めて、フルHD(1920×1080、30p)動画撮影機能Dムービーを搭載した。また、D5000にも搭載されたライブビュー機能も搭載したことにより、エントリー機としての完成度を高めた。ボディ内にオートフォーカス用モーターが搭載されていないため、ボディのモーターを使用するレンズ(AF-S・AF-I以外)ではオートフォーカスは使用できない。
D3200(2012年4月19日発売、DXフォーマット) - D3100の後継機。2420万画素(有効画素)のAPS-Cサイズ23.2mm×15.4mmのCMOSセンサーを搭載。モニターには3インチ92万ドットの液晶ディスプレイを採用。画像処理エンジンはEXPEED3。D3100では数量限定だったレッドボディが標準でラインナップされた。また、別売ワイヤレスモバイルアダプターによるスマートデバイスとの双方向通信機能がニコンDシリーズで初めて搭載された。
D3300(2014年2月6日発売、DXフォーマット) - D3200の後継機。光学ローパスフィルターを非搭載とした2410万画素のCMOSセンサーを採用、一層の解像感向上を図っている。画像処理エンジンはEXPEED 4を使用、先に同エンジンを搭載したD5300同様最大常用ISO感度が12800にアップした。炭素繊維素材を使用したモノコック構造を採用し、小型化・軽量化を実現。さらに、レンズキットに使用される標準レンズのリニューアル(AF-S DX NIKKOR 18-55mm f/3.5-5.6 VR II採用)により、レンズを含めたトータルシステムが小型化されている。2016年の『映画聲の形』では、ニコンの協力によりD3300が緻密な描画で登場し、ストーリー上で重要な役割を果たす。
D3400(2016年9月16日発売、DXフォーマット)- D3300の後継機。ローパスレスの2416万画素のAPS-CサイズのCMOSセンサーを採用。最大常用感度がISO 25600にアップした他、SnapBridgeと呼ばれるBluetoothを用いたスマートフォンとの同時接続機能が追加された代わりに、Wi-fi機能は搭載していない。また、レンズキットとして付属する標準レンズの改良が行われ、AFにステッピングモーターを採用するレンズ(AF-P DX NIKKOR 18-55mm f/3.5-5.6G VR)へとリニューアルされた。従来なかった制約事項としてAF-SレンズDタイプはオートフォーカスできずマニュアルフォーカスで使用、モーターを内蔵しないAFレンズは露出モードMで使用可能だが露出計は使用できないということが生じた。
D3500(2018年9月28日発売、DXフォーマット)- D3400のマイナーチェンジ機。高さ1mm奥行き6mm質量30gだけ小型軽量化され365g(本体のみ)。撮影可能コマ数は1200コマから1550コマに向上した。
D5000番台シリーズ
D3000番台より上位に位置するモデル。ガイドモードは搭載しないが、バリアングル液晶モニターを搭載するのが特徴。
D5000(2009年5月1日発売、DXフォーマット) - D60をフルモデルチェンジしたモデル。センサーはD90と同等の12.3メガピクセル。動画撮影機能を搭載し、また背面液晶は2.7型23万ドット液晶のバリアングル液晶を搭載するなど、D60とは全く別物のデジタル一眼レフカメラに仕上がっている。D90とは違い、ボディ内にオートフォーカス用モーターが搭載されていないため、ボディのモーターを使用するレンズ(AF-S・AF-I以外)ではオートフォーカスは使用できない。なお、この機種は2009年7月下旬まで、突然電源が入らなくなる不具合を抱えている個体があったため注意が必要。対象の個体には無償修理が実施された。不具合を抱えた個体かどうかは、ニコンのホームページで確認することができる。
D5100(2011年4月21日発売、DXフォーマット) - D5000の後継機。バリアングル液晶モニターをD5000の2.7型23万ドットから3型92万ドットに大型高精細化し、横開き方式を採用。さらに、フルHD(1920×1080)動画撮影機能「Dムービー」もステレオ対応(別売り)、フレーム数もD5000、D7000の24pから30pとそれぞれ強化された。また静止画、動画にかかわらず、カメラ本体で演出効果を選択、設定できる「スペシャルエフェクトモード」を搭載。特にナイトビジョンモードは最高ISO 102400までの超高感度撮影が可能となっている。AFポイントは11点。連写4コマ/秒。撮像素子に上位機種D7000と同じソニー製16.2メガピクセルのCMOSセンサーを採用。画像処理エンジンにEXPEED 2を搭載。ISO 100~6400(最大ISO 25600まで増感可能)の広いISO感度を実現している。D5000にはなかったレリーズ優先モードの搭載、HDR(ハイダイナミックレンジ)機能追加、D7000と同等の14ビット圧縮RAW(16枚の連続撮影可能)、SDメモリーカードの高速書き込み/読み出し規格UHS-I対応など細かい点でも改良が行われている。
D5200(2012年12月15日発売、DXフォーマット) - D5100の後継機。2410万画素(有効画素)のAPS-Cサイズ23.5mm×15.6mmのCMOSセンサーを搭載。画素処理エンジンはEXPEED3。AFポイントは39点。連写は最高約5コマ/秒。レンズキット、ダブルズームキット限定でレッドとブラウンのボディが発売される。測光センサーやAFポイントなどで上位機種であるD7000に匹敵する部分も多くみられる。D3200同様、別売ワイヤレスモバイルアダプターによるスマートデバイスとの双方向通信機能可能。
D5300(2013年11月14日発売、DXフォーマット) - D5200の後継機。有効画素は2416万画素とほぼ同等ながら、D7100同様光学ローパスフィルターを非搭載とした2410万画素のCMOSセンサーを採用、一層の解像感向上を図っている。画像処理エンジンはEXPEED 4を初採用し、常用最大ISO感度を従来の6400から12800へ1段アップした(増感設定含めた最大感度は25600で変更なし)。液晶モニターはD5200の92万ドット3.0型(アスペクト比4:3)から108万ドット3.2型(アスペクト比3:2)に変更。従来機では外付けオプション対応であったWi-Fi機能とGPS機能の内蔵化、炭素繊維素材を使用したモノコック構造採用によるボディの小型軽量化など操作・携帯性の改善もなされている。
D5500(2015年2月5日発売、DXフォーマット) - D5300の後継機。有効画素は2416万画素(光学ローパスフィルター非搭載)はD5300と同等。画像処理エンジンはD5300と同じEXPEED 4ながら、常用最大ISO感度が12800から25600へ1段アップした(増感設定が無いため、設定可能な最大感度は変更なし)。液晶モニターは108万ドット3.2型(アスペクト比3:2)でD5300と同じだが、ニコンデジタル一眼レフカメラで初めてタッチパネルを採用。内部機器配置の見直しなどによりD750同様にボディの薄型化、ならびにD5300比較で60g軽量化(D3300と比較しても10g増にとどまる)も実現した。Wi-Fi機能は内蔵だが、GPS機能はD5500では外されている。
D5600(2016年11月25日発売、DXフォーマット) - D5500の後継機。D5500からローパスレス2416万画素CMOSセンサーを引き継ぎ、常用最大ISO感度にも変更はないものの、先に発売されたD3400同様にSnapBridgeと呼ばれるBluetoothを使用したスマートフォンとの同時接続を採用している。またレンズキットに採用されるレンズにも改良が行われ、AFにステッピングモーターを使用する新型(AF-P DX NIKKOR 18-55mm f/3.5-5.6G VR)へとモデルチェンジした。
D7000番台シリーズ
2012年11月現在、D4桁シリーズでは最上位モデル。主に中級者向けではあるが、オートモードやシーンモードも搭載しており初心者でも使用可能。
D3000/5000系ではオミットされたAF駆動カップリングを装備しているため、古いレンズや社外レンズでもAFを稼働させることが出来る。
D7000(2010年10月29日発売、DXフォーマット) - D90とD300sの中間に位置づけられているハイアマチュア向けの新モデル。ソニー製16.2メガピクセルの新型CMOSセンサーを搭載。背面液晶は3型92万ドット。映像処理エンジンは先行して発売されたD3100と同様EXPEED2を搭載。SDカードスロット(SDXC対応)を2つ設けダブルスロット化、モードダイヤルの下に新たにドライブモードダイヤルを新設、AFポイントが11点から39点(うち9点クロスセンサー)に増加、2016分割RGBセンサーによるTTL開放測光、連写6コマ/秒、水準器表示、防塵防滴、ボディの一部にマグネシウム合金の採用などD90から大幅に改良が加えられている。またD300s同様ガラス製ペンタプリズムの採用によりファインダー視野率100%を達成、1920×1080フルHDでの動画記録可能、新型センサーの採用で常用ISO感度6400を達成など、D300sとも同等か部分的にはそれ以上の機能・性能を盛り込むことにより競合他社製品との差別化を図った。
D7100(2013年3月14日発売、DXフォーマット) - D7000のモデルチェンジ版。光学ローパスフィルターを非搭載とした2410万画素のCMOSセンサーを採用、一層の解像感向上を図っている。新たに「対DX1.3xクロップ」モードを搭載し、DXフォーマット比で1.3倍の焦点距離相当(FXフォーマット比で約2倍相当)での撮影が可能になった。映像処理エンジンはEXPEED3を採用。オートフォーカスも強化され、AFアルゴリズムはD4と同じとなった。AFポイントは上位機種と同じく51点に増加。中央1点はf/8でのAFにも対応し、1.3xクロップ時にはAFポイントが画面全体をカバーする。内蔵マイクがステレオになり、1920x1080/30p (1.3xクロップ時は60iも選択可)での撮影が可能になるなど動画機能も改良された。モードダイヤルがロック付きとなり、ライブビューの操作もレバーからボタンに、iボタンの新設など操作系に関しても若干の変更が見られる。
D7200(2015年3月19日発売) - D7100のモデルチェンジ版。ボディはほとんどD7100を踏襲しつつも、細部でリファインが施された(外観上の違いは、ペンタ部カバーの形状が若干異なることや、側面端子カバーの配置が異なる程度)。CMOSセンサーは2416万画素でほとんど変わりはないが、映像処理エンジンにEXPEED4を搭載したことで発色やホワイトバランスの精度が向上、感度上限もISO 25600(拡張時ISO 102400)へとアップした。AFセンサーはD750に搭載された"アドバンストマルチCAM3500IIを採用、-3EVの低照度でのオートフォーカスが可能となり、レンズも開放F値8まで対応している(それぞれ中央の一点のみ)。動画機能も強化され、フルHD撮影時でも60fpsプログレッシブ記録が可能となった。さらにWi-FiやNFCをサポートしスマートフォンなどとの連携が容易になった。なお連写速度は6コマ/秒で従来と変わらないが内蔵バッファが強化されたことで泣き所であった連続撮影枚数が大幅に伸び(6コマ→29コマ)バッファフルからの回復も向上している。
D7500(2017年6月9日発売)- D7200の後継機であるが、大胆なモデルチェンジとなった。D500の高画質と高速性能を軽量・薄型ボディーに凝縮。プロ・ハイアマチュア向けのD500に対する、より一般ユーザー向けのD7500のコンセプトは、過去のD300に対するD90のコンセプトに近いと言える。D500と同等のDXフォーマット2088万画素のCMOSセンサーと映像処理エンジンEXPEED 5を搭載し、高感度性能は常用ISO51200に達する。連写については、14ビットロスレス圧縮RAWでも、最高約8コマ/秒で50コマまでの高速連続撮影としている。動画では、4K UHD(3840×2160)/30pで、最長29分59秒の動画を記録できるようになった他、従来は動画の保存形式がMOVしか選べなかったところをMP4にも対応した。また、スマートフォンとの連携が強化されるなど、時代を反映した機能が盛り込まれた(従来のWi-Fi機能に加え、Bluetoothによるスマートフォンとの常時接続、画像の自動転送も可能になった)。高感度・連写・動画の性能アップ、新機能の追加、ボディの薄型軽量化及びグリップの大型化と、大幅なスペックアップを達成した一方、それまでD7000シリーズで踏襲されていた特徴の一部がダウングレードされており、市場の反応は未知数である(SDカードダブルスロットはシングルスロットに変更、ボディの素材はマグネシウム合金を廃止し炭素繊維素材のモノコック構造に変更、ストラップ取付部の三角環廃止、メーカー純正バッテリーグリップの廃止など)。露出計連動レバーが廃止され、MFレンズは露出モードMで使用可能だが露出計は使用できない仕様になり、7000番台シリーズのメリットが失われた。
備考
富士フイルムのデジタル一眼レフカメラ「FinePix S」シリーズのボディはニコンからの供給であり、特に2006年発売のS5ProはD200のボディをベースに作られている。撮像素子は富士独自のスーパーCCDハニカムだが、その他一部性能はニコンのものに準ずる。
2003年4月1日、サポート業務はニコンカメラ販売株式会社に移管されている。そのため、カタログでは同社が表に出るようになった。なお、2008年2月にニコンイメージングジャパンへと社名変更となっている。
D3200・D5100・D3100・D7000・D300・D90・D80・D60・D40/D40x・COOLPIX(2007年春~2014年春モデル)・Nikon 1(J1、V1、J2、J3)のイメージキャラクターに木村拓哉を起用している。
D5500・D5600のイメージキャラクターに小栗旬を起用している。
関連項目
ニコンの銀塩一眼レフカメラ製品一覧
Nikon 1
ニコンZシリーズ
COOLPIX
ニコンのレンズ製品一覧
脚注
外部リンク
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概要
デジタルフォトフレームは、デジタルカメラや携帯電話などで撮影した画像データ(デジタル写真)を表示する専用の情報機器の一つで、基本的にはそれ単体で完結した製品ではあるが、前提として内蔵された記憶装置(おおむねフラッシュメモリ)かメモリカードなどに画像データを記録する必要があり、その意味では他の情報機器と連携して使用することになる。その多くでは液晶ディスプレイを前面に備えており、ここに画像データを表示する。
JPEG画像などパーソナルコンピュータで扱える画像データ形式(コンテナフォーマット)に対応することから、撮影機器からだけではなく、インターネット経由などでパソコンに取り込んだ画像データも扱うことが可能である。基本的には複数の画像データをスライドショーの形で一定時間ごとに切り替えることが可能であることから、従来のフォトフレーム(写真立て)にはない利便性を具える。
これらの機器は「デジタル写真用のフォトフレーム」という位置付けから、写真立てのような外観を持つ製品が一般的であるが、携帯機器としての製品も販売されている。内部的には情報処理機能を持つコンピュータとしての機能を持ち、これを駆動させる電源を必要とし、多くの据え置き型製品ではACアダプターから、携帯型のものでは充電式内蔵電源や乾電池などから電源を得ている。
画像データを蓄えている内部記憶装置かメモリーカードからのデータを呼び出して、前面の表示装置に映し出すが、メモリカードを使用する機種ではそれらに対応したメモリーカードスロットを持ち、またそれ以外でもUSBソケットを持ち、USBメモリなど他の形態の記憶媒体に対応した製品も販売されている。また、Bluetoothに対応して無線通信でデータをやり取りできる製品や、無線LANでコンピュータネットワークに対応した製品、さらには移動体通信端末(主に携帯電話用無線回線を利用する)としての機能を持つ製品など、様々な製品が出回っており、多機能化も目覚ましい。
こういった多機能化の一方では、静止画像のみならずMP3などの音声データ(BGM用など)や動画(Motion JPEGやMPEG-2など)やアニメーション(Adobe Flash Lite)に対応する機種もあり、またデジタル写真以外にも時計やカレンダーを表示する機能など、様々な付加価値の付与が行われている。こういった傾向ではデジタルメディアプレーヤーと曖昧化する製品も見られるが、携帯型DVDプレーヤーやデジタルメディアプレーヤ・デジタルオーディオプレーヤー・携帯電話など様々なジャンルの製品のうちにも、デジタルフォトフレーム的な機能を備える製品も少なくない。
製品群の動向
日本
デジタルカメラの普及に合わせて登場したものの、当初はあまり普及しなかった。しかし、1999年に撤退したソニーが2008年に再参入したことなどから急速に普及が進んでいる。ソニーの他には富士フイルムなどが参入している。
2009年以降、携帯電話キャリアがデジタルフォトフレームと専用の通信サービスを提供している。NTTドコモの「お便りフォトサービス」、ソフトバンクモバイルの「PhotoVision」、au(KDDI・沖縄セルラー電話連合)の「PHOTO-U SP01」がある。これらはデジタルフォトフレームに3G無線通信モジュールを内蔵しており、携帯電話とは別に回線契約が必要となっている。専用のメールアドレスで受信した画像ファイルを表示するなどの仕組み。回線を解約しても通常のデジタルフォトフレームとして使用することは可能である。また、キャリア契約は不要で無線LAN機能を用いた同様のサービスもある。
多くのベンチャー企業による商品が混在しているが、その他携帯電話を利用できるサービスに、MagicSyncを用いて基本料金なしでの通信サービスも提供されている。トランステクノロジーの「TGP-701MG」は基本料無料で携帯電話を用いた無線データ受信が可能である。これは回線契約が不要であるが、通信量に応じた受信料金が別途必要となる。
主な発売業者
ここでは店頭向け市販品を主体(もしくは専門)とした商品を発売・販売している企業について挙げる。
国内
富士フイルム-国内後発組の一社で同市場大手。写真系企業では唯一、同社が参入している。ディスプレイサイズは一般的なスチルカメラの写真サイズのものが多く、商品ラインナップもJPEG画像のみ再生のものが大勢を占める。
ソニー-古参メーカー。前述の通り一時期撤退を余儀なくされたが10年近くのブランクの後に再参入。現在ではPSPでも標準となったメモリースティックやUSBメモリ対応商品を続々投入。2015年2月に再度撤退した。
加賀ハイテック-加賀電子グループ。コダック製のものを英語版のまま輸入発売。当初が、ため、急遽Duoシリーズ対応商品に切り替えている。
日本サムスン-三星電子(サムスン電子)ほか三星(サムスン)グループの日本法人(韓国財閥系総合商社)(詳細は後述参照)。
パイオニア-オーディオ・車載関連機器の国内大手で、同分野では後発メーカー。機能はおおむね最小限に抑えられている。
バッファロー-パソコン周辺機器関連メーカーの持株会社・メルコホールディングスの事業子会社。パソコンの部品や周辺機器(USB関連デバイス等)がメインであるが、同分野にも進出している。
海外
比較的機能重視である日本のメーカーのものとは異なり、日本では標準搭載となりつつある縦横自動調整機能がないのが特徴である。
Kodak -同市場で世界トップ級の解像度技術やシェアを擁する世界的メーカーの一社。国内では加賀ハイテック内のコダック推進部から企画発売(詳細は前述参照)。
三星電子(サムスン電子) -韓国最大手の電機メーカーにして同国における代表的なメーカー。
脚注
関連項目
フォトフレーム
光iフレーム
画面解像度
ppi
写真用品
ディスプレイ技術
デジタル写真 | 0.692501 |
1677691 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%B9%20%CE%BC760 | オリンパス μ760 | オリンパスμ760(おりんぱすみゅー760)とは、オリンパス光学工業のデジタルスチルカメラ、μシリーズの一機種である。
コンパクトサイズで防水設計になっている。
仕様
形式:デジタルカメラ
記録方式(静止画) : JPEG(DCF準拠)、Exif 2.2対応、DPOF対応、PRINT Image Matching Ⅱ対応
記録方式(動画) : AVI Motion JPEG準拠
記録媒体: xDピクチャーカード(16MB-1GB)、内蔵メモリー(18MB)
有効画素数:710万画素
最大画像サイズ: 3072×2304(px)
本体重量:120g
外部リンク
公式サイト
オリンパスイメージング
M0760 | 0.692024 |
1788981 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%83%85%E5%A0%B1%E6%8A%80%E8%A1%93%E7%A7%91 | 情報技術科 | 情報技術科(じょうほうぎじゅつか)は、プログラミングやソフトウェアなどの知識や技術を習得させる学科である。工業科の専門科目のうちプログラミング技術、ハードウェア技術、ソフトウェア技術を中心に学ぶ。
関連項目
専門教育を主とする学科
主な科目は、情報技術基礎・ハードウェア技術・ソフトウェア技術・プログラミング技術•工業技術基礎・実習・課題研究である。
近年の急速な情報技術の発達や、人工知能(英名:ArtificalInterigence)の技術が身近になりつつある現代社会において、実習、課題研究にあっては人工知能、IoT(モノのインターネット)の基礎、基本を学ぶことができる学校もある
電気基礎・通信技術・電子回路・電子計測制御・生産システム・電子製図などの科目を学習する学校もある。
外部リンク
兵庫県立兵庫工業高等学校情報技術科
工業に関する学科
情報技術 | 0.69201 |
4127009 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E9%99%A2%E5%85%88%E9%80%B2%E7%90%86%E5%B7%A5%E7%B3%BB%E7%A7%91%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%A7%91 | 広島大学大学院先進理工系科学研究科 | 広島大学大学院先進理工系科学研究科(ひろしまだいがくだいがくいんせんしんりこうけいかがくけんきゅうか、英称:Graduate School of Advanced Science and Engineering)は、広島大学に設置される大学院研究科の一つであり、既存の理学・工学系の研究科・専攻を再編・統合した理学・工学系の研究科である。
既存の理学・工学系の専攻を有機的に統合して多様な社会的要求に応えるために、柔軟な教育研究組織として新たな研究科に再編した。
研究科の構成
柔軟な教育研究組織として、専攻は先進理工系科学専攻(Division of Advanced Science and Engineering)ひとつにし、既存の、総合科学研究科、理学研究科、先端物質科学研究科、工学研究科、国際協力研究科の5研究科に17あった専攻を、一部を含め再編して、1専攻14プログラム(旧専攻)及び広島大学・ライプツィヒ大学国際連携サステイナビリティ学専攻(ジョイント・ディグリー・プログラム)の、合計15学位プログラムで構成。
幅広い分野の専門基盤を確立できる学位プログラムとして、理学研究科の(1)数学専攻,(2)物理学専攻,(3)地球惑星システム学専攻,(4)基礎化学専攻,を理学系としてつぎのように再編。
(1)数学プログラム,(2)物理学プログラム,(3)地球惑星システム学プログラム,(4)基礎化学プログラム、
工学研究科の(5)応用化学専攻, (6)化学工学専攻, (7)システムサイバネティクス専攻, (8)機械システム工学機械物理工学専攻, (9)輸送・環境システム専攻, (10)社会基盤環境工学専攻, (11)建築学専攻を工学系としてとしてつぎのように再編。
(5)応用化学プログラム,(6)化学工学プログラム,(7)電気システム制御プログラム,(8)機械工学プログラム,(9)輸送・環境システムプログラム,(10)建築学プログラム,(11)社会基盤環境工学
工学研究科の(12)情報工学専攻を、理学・工学を含む様々な専門領域において必要とされるデータ・情報の処理分析能力他、社会的要請に応える学位プログラムとしてつぎのように再編。
(12)情報科学プログラム
先端物質科学研究科からは、量子物質科学専攻を、物質基礎科学,物性物理学と電子工学を横断的に学ぶことも可能な学位プログラムとしてつぎのように再編。
(13)量子物質科学プログラム
また、日本人学生と留学生が分野の垣根を越えてアプローチできる2つのプログラムとして、総合科学研究科理工学融合プログラム(環境自然科学分野)を理学・工学領域における専門分野を基盤としながら,国内外で顕在化する複合的に絡み合う社会的ニーズや課題に対して,自然指向型,人間指向型の俯瞰的視野に立って既存の学問体系を横断・融合する教育研究を実践しする学位プログラムとしてつぎのように再編。
(14)理工学融合プログラム
国際協力研究科理工学融合プログラム(開発科学分野))を大学院人間社会科学研究科の広島大学・グラーツ大学国際連携サステイナビリティ学専攻と共に広島大学にとって初めて開設した国際連携専攻(ジョイント・ディグリープログラム)へとしてつぎのように再編。
(15)広島大学・ライプツィヒ大学国際連携サステイナビリティ学専攻
沿革
理学系の経緯
1953年(昭和28年)広島大学大学院理学研究科を設置。すべての専攻に修士課程・博士課程がおかれる。構成は、(1)数学専攻(2)物理学専攻(3)化学専攻(4)動物学専攻(5)植物学専攻(6)地質学鉱物学専攻
1968年(昭和43年)理学研究科物性学専攻修士課程設置。
1970年(昭和45年)理学研究科物性学専攻博士課程設置。
1991年(平成3年)9月、一部の附属施設を除き理学教室が東広島市統合移転地に移転完了。
1993年(平成5年)4月、大学院理学研究科の動物学専攻及び植物学専攻を生物科学専攻に改称。
1996年(平成8年)4月、大学院理学研究科の地質学鉱物学専攻が地球惑星システム学専攻に改称。
1998年(平成10年)4月、大学院理学研究科の物理学専攻と物性学専攻を物理科学専攻に改組。
1999年(平成11年)~2000年(平成12年)、大学院重点化により理学研究科も改組。数理分子生命理学専攻を設置。
(1)数学専攻、(2)物理科学専攻、(3)化学専攻、(4)生物科学専攻、(5)数理分子生命理学専攻、(6)地球惑星システム学専攻に。
2000年(平成12年)学部附属施設の研究科附属施設への移行(臨海実験所、宮島自然植物実験所、両生類研究施設、植物遺伝子保管実験施設)
2004年(平成16年)国立大学法人に移行。
2019年(平成31年)4月、附属臨海実験所、附属宮島自然植物実験所及び附属植物遺伝子保管実験施設を統合生命科学研究科へ移行。
2020年(令和2年)4月、数学専攻、物理科学専攻、化学専攻及び地球惑星システム学専攻を先進理工系科学研究科へ移行
工学系の経緯
1954年(昭和29年)広島大学工学部に工学専攻科を設置。(1)機械工学専攻, (2)電気工学専攻, (3)工業化学専攻, (4)醗酵工学専攻がおかれる。
1960年(昭和35年)工学専攻科に(5)船舶工学専攻, (6)土木建築工学専攻, (7)工業経営学専攻を設置。
1963年(昭和38年)大学院工学研究科修士課程を設置。(1)機械工学専攻, (2)電気工学専攻, (3)応用化学専攻, (4)醗酵工学専攻, (5)船舶工学専攻, (6)土木工学専攻, (7)建築学専攻, (8)工業経営学専攻, (9)化学工学専攻がおかれる。
1965年(昭和40年)(8)工業経営学専攻を経営工学専攻と名称変更。修士課程(9)精密工学専攻を設置。
1977年(昭和52年)大学院工学研究科博士課程を開設。(1)材料工学専攻, (2)システム工学専攻, (3)移動現象工学専攻, (4)設計工学専攻, (5)工業化学専攻, (6)構造工学専攻, (7)環境工学専攻がおかれる。
1982年(昭和57年)広島市中区から東広島市に移転。
1986年(昭和61年)(8)情報工学専攻博士課程を設置。
1997年(平成9年)(9)分子生命機能科学専攻を設置。
1998年(平成10年)(9)分子生命機能科学専攻を大学院先端物質科学研究科へ移行。
2001年(平成13年)大学院講座化(大学院重点化)により既存の組織専攻(修士・博士)を(1)機械システム工学講座, (2)複雑システム工学講座, (3)情報工学講座, (4)物質化学システム講座, (5)社会環境システム講座と5つの専攻へ改組。
2004年(平成16年)国立大学法人に移行。
2010年(平成22年)大学院工学研究科を教育組織と教員組織に分離。教育組織として大学院工学研究科博士課程,教員組織として大学院工学研究院に再編。
大学院工学研究科博士課程を(1)機械システム工学専攻、(2)機械物理工学専攻、(3)システムサイバネティクス専攻, (4)情報工学専攻, (5)化学工学専攻, (6)応用化学専攻, (7)社会基盤環境工学専攻, (8)輸送・環境システム専攻, (9)建築学専攻、の9専攻に改組。
大学院工学研究院に7部門がおかれる。(1)機械システム・応用力学部門, (2)エネルギー・環境部門, (3)材料・生産加工部門, (4)電気電子システム数理部門, (5)情報部門, (6)物質化学工学部門, (7)社会環境空間部門
2017年(平成29年)大学院工学研究院廃止。
2020年(令和2年)大学院を研究科に再移行、大学院先進理工系科学研究科発足。工学系各専攻と大学院先端物質科学研究科から量子物質科学専攻を先進理工系科学研究科へ移行。
関連項目
広島大学大学院統合生命科学研究科
広島大学工学部
脚注
外部リンク
公式サイト
せんしん
院
院
院
日本の国立大学の大学院 | 0.691609 |
3626559 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E3%83%98%E3%83%86%E3%83%AD%E3%83%80%E3%82%A4%E3%83%B3 | 光ヘテロダイン | 光ヘテロダインとは、波長の異なる光線を干渉計で干渉させてうなり(ビート)に相当する干渉縞を検出する手法。
概要
光は周波数の高い電磁波であり、直接、"波"として扱うには周波数が高すぎるので周波数を扱いやすい帯域に移す用途などで使用される。そのためには干渉計が使用され、光源には位相の揃った光である通常レーザーが使用される。
外乱に強く、精度の高い計測が実現される。
用途
微小変位の測定。
脚注
参考文献
吉沢徹"光ヘテロダイン技術"、新技術コミュニケーションズ、ISBN 4-915851-11-7
"Handbook of OPTICAL METROLOGY", Chapter 10, "Optical Heterodyne Measurement Method",CRC Press, ISBN 978-0-8493-3760-4
三品博達,朝倉利光、光ヘテロダイン検出法の計測への応用『応用物理』1973年42巻6号p.560-573,
戸井田昌宏,近藤真,市村勉ほか、新しいレーザー生体計測法としての光ヘテロダイン方式CT法の研究開発『日本レーザー医学会誌』1989年10巻3号p.51-54,
戸井田昌宏,稲場文男、光断層画像法による生体計測『応用物理』1993年62巻1号p.10-17,
稲場文男、コヒーレント検出イメージング法によるレーザー光CT『BME』1994年8巻8号p.21-30,
関連項目
うなり
乗算器
混合器(ヘテロダイン)
外部リンク
光ヘテロダイン干渉法による高精度計測について
光ヘテロダイン干渉法
光学 | 0.691554 |
916423 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%88%E3%83%AC%E3%82%B8%E3%82%B9%E3%83%88 | フォトレジスト | フォトレジスト(英語:photoresist)とは、フォトリソグラフィにおいて使用される、光や電子線等によって溶解性などの物性が変化する組成物である。物質の表面に塗布され、後に続くエッチングなどの処理から物質表面を保護することから、「レジスト」(resist)の名がある。しかしながら、現在では、感光性を有し、画像様露光・現像によりパターニングを行って表面に画像層を形成することができる物質であればフォトレジストと呼ばれ、必ずしも保護の働きがあるとは限らない。
ネガ型とポジ型
フォトレジストは、光・電子線との反応方法から大きく分けてポジとネガに分けられる。
ネガ型
ネガ型は露光された箇所が現像液に対して溶解性が低下し、現像によって露光した部分が残る。現像液には多くが有機溶剤を使用しており、扱いや環境の面でポジ型に対して不利がある。また現像時に溶剤がレジストを膨潤させることから微細配線への対応が難しくなる。これらの事情から現在、半導体向けでは利用が減少傾向にあり、製造元も限られてきている。
ポジ型
ポジ型は露光された箇所が現像液に対して溶解性が増大し、現像によって露光されなかった部分が残る。現像は金属イオンを含まない有機アルカリ溶液で行う。現像液の具体例としてTMAH(テトラメチルアンモニウムハイドロオキサイド)が最も良く用いられる。
ネガ型のマスクを用いると、露光された部分の溶解性が低下し、版上に残って画線部となる。ポジ型のマスクを用いると、露光されなかった部分が版上に残り、画線部となる。注意点として、ある種の水なし平版印刷版では露光された部分にシリコーンゴムが残り非画線部となるため、フォトリソグラフィにより印刷版を作成する際には原版作成プロセスに留意してネガまたはポジを選択する必要がある。
露光波長による分類
フォトレジストは光反応を利用してパターニングするが、その光の種類(光源の種類)によっても分類される。
半導体レーザー(波長830nm、532nm、488nm、405nm etc.)
メタルハライドランプ
高圧水銀灯
g線(波長436nm)
h線(波長405nm)
i線(波長365nm)
ブロード(g,h,i線の3波長)
エキシマレーザー
KrFエキシマレーザー(波長248nm)
ArFエキシマレーザー(波長193nm)
F2エキシマレーザー(波長157nm)
極端紫外線;EUV(波長13.6nm)
電子線
エキシマレーザーおよびEUVは、もっぱら半導体素子の製造に用いられる。
電子線は主に、半導体素子の製造の露光の際に用いられるマスクの製造に用いられる。
半導体レーザーは、例えば平版印刷版(830nm、532nm、488nm、405nm etc.)やプリント基板(405nm)のためのデジタルイメージングの走査露光用に用いられる。
フォトレジストと国際関係
2019年7月、日本は安全保障上の理由をあげて大韓民国向けの半導体素材の輸出管理を強化。この対象品目に日本製が市場を寡占しているフォトレジストが含まれた(詳細は日韓貿易紛争を参照)。韓国の需要家は日本以外のメーカーを捜し、ベルギーの企業と契約。翌年以降の対日輸入依存度を低下させたことから、韓国政府は「日本への依存度を抑えた成果だ」と発表した。なお、肝心のベルギーの企業については、日本のJSRベルギー工場であったことが日本経済新聞の報道で明らかにされている。
注釈
関連項目
フォトリソグラフィ
プリント基板
アッシング-フォトレジストを除去する工程
SU-8 photoresist
ニセフォール・ニエプス-フォトレジストとしてアスファルトを用いた初の写真法を開発した。
光学
半導体
印刷
フォトリソグラフィ | 0.691377 |
4595 | https://ja.wikipedia.org/wiki/AE%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9 | AEカメラ | AEカメラ(エーイーカメラ)は、露出を自動で行なう機能()をもつ写真機である。絞りやシャッター速度(シャッタースピード)を自動的に制御し、被写体の明度に応じた露光が得られるようにする機能をAE機能(エーイーきのう)と呼ぶ。この種の写真機については、ほかにも、自動露光調節式カメラ(じどうろこうちょうせつしきカメラ)、自動露出カメラ(じどうろしゅつカメラ)とも呼ぶ。当初は、EEカメラ(の略、「電気の眼」の意)と呼ばれた。
AEは、大別して、
シャッター速度優先AE ⇒概要、略歴
絞り優先AE ⇒概要、略歴
プログラムAE ⇒概要、略歴
がある。
種類別分類
AEの方式は、露出の2大要素である「絞り」と「シャッター速度」のうちどれをカメラに自動制御させるかによっていくつかの方式に分かれており、これを「露出モード」という。
一般的に採用されている露出モードは以下の通りのものがある。
シャッター速度優先自動露出
S/Tvモード、あるいはシャッター優先オート、シャッター速度優先AEとも言われる。設定したシャッター速度を基準とし、そのシャッター速度に応じて絞りを自動的に変える事で適正な露出値を得る。被写界深度よりも露光時間による効果を重視する場合、あるいは手ブレを防止したい場合に有効である。
一般的な使用例
高速シャッターを使用し、動体を止めて撮影する場合-スポーツ、自動車・航空機、動物・野鳥、水しぶきなどの撮影。
高速シャッターを使用し、手ぶれを防止する場合-自動車の車内、艦船の船内、不安定な岩石の上、揺れの激しい場所などでの撮影、望遠レンズによる手持ち撮影、撮影者が激しく動きながらの撮影など。
低速シャッターを使用し、流感・軌跡などの表現をする場合-噴水・川・滝などの流れ、自動車・列車・艦船・航空機・遊園地のアトラクションなどの移動照明による軌跡、歩いている人の動感表現など。
低速シャッターを使用し、流し撮りをする場合。
絞り値優先自動露出
A/Avモード、あるいは絞り優先オート、絞り優先AEとも言われる。設定した絞りを基準とし、その絞りに応じてシャッター速度をAE機能が自動的に変える事で適正な露出値を得る。絞り値を調節し、被写界深度を意識した撮影をする場合に有効である。
一般的な使用例
絞りを開けてポートレート撮影-被写界深度を浅くすることで背景をぼかして被写体を浮き立たせる効果がある。
絞りを開けて暗所での手持ち撮影-シャッター速度が速くなるため手ブレしにくくなる。
適切な絞り調節による接写
絞りを絞ってパンフォーカス撮影-被写界深度を深くすることで画面全部にピントが合っている状態にする。
プログラム自動露出
Pモード、プログラムオートとも言われる。シャッター速度・絞りの両方を一定のプログラムを元にして割り振ることで、適正な露出値を得る。あらかじめ決められた絞り・シャッター速度の組み合わせをグラフにしたものをプログラムライン図という。絞り・シャッター速度の中間的な露出をすばやく決めたいときに有効である。
一般的な使用例
スナップ撮影
プログラム露出の方式は2種類存在する。一つは、あるEV(フィルムに対する明るさ)に対して1つのシャッター速度と1つの絞りが決まっている方式で、もう一つはEVが同じになる絞りとシャッターの組み合わせを自由に変更できる方式である。前者はシャッター機構を簡単に作ることができ、複雑な操作も不要になるため現在のコンパクトカメラなど初心者向けのカメラではもっとも一般的な露出機能である。後者は高度な写真表現を可能とするが、機構はほかの露出モードやマニュアル露出と同様のものを必要とするため、他の露出方式とともに一眼レフカメラに搭載されることが多い。後者の方式において、絞りとシャッター速度の組み合わせを変えることをプログラムシフトと呼ぶ。
なおプログラム自動露出機構は、24×36mm(ライカ)判コンパクトカメラ、24×36mm(ライカ)判一眼レフカメラ、110フィルム用カメラ、デジタルカメラ以外にはほとんど搭載されない。
現在の24×36mm(ライカ)判マルチモードAF一眼レフカメラやデジタルカメラでは、このプログラム露出の発展型として、多数の露出プログラムを用意し、カメラが撮影シーンや使用するレンズなどに合わせて最適な露出プログラムを自動選択するマルチプログラム、撮影シーン(スポーツモードや夜景モードなど)に合わせ最適化したシーン別全自動プログラム露出、さらに通常のプログラム露出モードとシーン別プログラム露出を自動選択する自動シーンセレクターを搭載する機種も多い。
シャッター速度&絞り値優先AE
デジタルカメラはフィルムカメラと異なりISO感度を自由に設定できる特徴を持つ。そこで、撮影者がシャッター速度と絞り値の両方を任意に設定し、ISOのみをAE機能が自動的に変える事で適正な露出値を得る。
TAvモードとも呼ばれる。
感度自動設定
近年のデジタルカメラでは、シャッター速度と絞り値をマニュアルで設定すると、感度が適正露出になるよう自動設定される、というモードを備えるものが現れている。従来プログラムオートモードのみで有効だった自動感度調節(主に暗い場所で自動的に感度を上げる目的)がマニュアルモードでも有効にできる、別の新しいモードが追加されている、など今のところ方式はメーカー・モデルによりまちまちである。
TTLフラッシュ自動露出
それまで機械式フラッシュ自動露出機能として使われていたフラッシュマチックに替わり、フラッシュ撮影を完全自動化するために開発されたフラッシュ撮影専用の露出モードである。このモードを使用するにはフラッシュ側もTTLフラッシュ自動露出に対応している必要がある。
このAEでは、撮影前に一度フラッシュを発光して、実際のフラッシュ使用時の明るさを測り(プリ発光)、その後実際の発光・撮影が行われる。
深度優先AE
深度優先AE(しんどゆうせんエーイー)は、被写体との任意の2点を測ることで、被写界深度を優先させて、絞り・シャッター速度を自動調節するAE機能である。任意の2点、最遠部と至近部の距離の浅さ・深さで、被写界深度を決められる。1987年(昭和62年)3月1日にキヤノンが発売したキヤノンEOS 650で、初めて採用した。その後、自動的に深度が深くなる自動深度優先AE(じどうしんどゆうせんエーイー)が開発され、同社が製造販売するデジタル一眼レフカメラに搭載している。被写界深度優先AE(ひしゃかいしんどゆうせんエーイー)とも。
自動露出に関連する機能
AEロック
TTL露出計内蔵式のAEカメラにおいて、各AE機能によって得た適正露出値、つまりシャッター速度と絞り値を一定時間中固定(ロック・記憶状態)させる機能である。「メモリー・ロック(Mロック)」、「像面光量ロック」とも呼ばれる。
この機能を使った主なテクニックの一例として、絞り値優先自動露出モードにおいて、適正露出を得るのに厳しい撮影環境、つまり撮影フレーム内にて光量差の大きな被写体が混在するような状況などで、スポット測光で被写体の中の適正露出を得やすい、光の反射率の色(緑、青など)や経験にて適正補正値を把握している箇所を測光し、AEロックによって一時的に露出値を固定させて撮影者がその間に記憶し、再フレーミングしてからスポット測光によって得た露出値を加味して撮影する、などの使用法が考えられる。カメラの機種によって、専用ボタンが設けられているもの、シャッターボタン半押し状態でロックされるものや、またAEロックされた状態を機能解除するまで続行可能なものなどがある。
露出補正機能
自動露出で得た露出値が、必ずしも適正な露出値ではない場合がある。また、意図的に露出を外す撮影をする場合もある。そうした場合に、専用のダイヤル、あるいはボタン操作によって、より撮影者の意図に沿った露出を容易に実現する機能である。
オートブラケット機構
歴史
レンズシャッターカメラのAE
基本的な自動露出の3方式
シャッター速度優先AE
絞り優先AE
プログラムAE
のうち、最も早く実用化されたのがシャッター速度優先AEである。これは、機械式のシャッターの速度を露出計に連動させて変更することはほとんど不可能だったからである。この時代に自動露出のことをEEと呼んでいたのは、当時の自動露出カメラが人間の目で虹彩に当たる絞りを制御して適正露出を得ることから、「電気仕掛けの目=ElectricEye」と呼んだからであった。
最初にAEが普及したのは、当時一般ユーザー向けとして最も普及していた24×36mm(ライカ)判や24×18mm(ハーフ)判のレンズシャッター式距離計連動カメラあるいは目測カメラであった。
シャッター速度優先AE
世界で初めて実用的なAEを搭載したカメラは1960年(昭和35年)に発売されたオリンパスの24×36mm(ライカ)判レンズシャッター式距離計連動カメラ「オートアイ」である。このカメラはセレン光電池を使用した受光部とシャッター速度リング、フィルム感度ダイヤルに連動した擦動可変抵抗によって露出計を駆動する。レリーズボタンを半押しすると、その力で露出計の針を針押さえと鋸刃状の段カムで挟み込んでメーターの針の位置を読み取る。さらにレリーズボタンを押し込むと絞りが絞り込まれていくが、このとき先述の段カムの位置によって制御される絞りストッパーが動き、適正露出になったところで絞込みにストップをかけ適正露出を得るという仕組みである。
1961年(昭和36年)に圧倒的な低価格で販売され一大ブームを巻き起こしたキヤノンの「キヤノネット」も同じ仕組みのシャッター速度優先AEを装備しており、この方式は一般ユーザーの間で瞬く間に普及した。
この方式は全機械式連動でシャッター速度優先AEを可能にするほぼ唯一の方法であり、その後あらゆるカメラメーカーで10年以上に渡ってAEカメラ設計の常套手段であり続けた。
シャッターの半押しで自動制御の状態がロック、というユーザインタフェースはまさにこのメカニズムにより自然発生したものであるが、こんにちまで使われている。
後にプログラムAEが普及していくと、シャッター速度優先AEはレンズシャッターカメラ用AEの主役を明け渡したが、いくつかのシャッター速度優先AEのコンパクトカメラが、仕組みもほとんど1960年当時から変えないまま販売され続けた。しかし、1980年代後半に入るとコンパクトカメラのシャッターは電子プログラムAEが常識となり、シャッター速度優先AEはコストや小型化の競争についていけなくなりほぼ姿を消した。
プログラムAE
シャッター速度優先AEに数ヶ月遅れて実用化され出したのが、プログラムAEである。
プログラムAEは、絞りもシャッター速度もカメラ側が調整しなくてはならない。しかしこの段階ではまだシャッター速度を露出計で制御する手立ては無かった。そこで、シャッター速度は固定して絞りのみを制御する方式が開発された。簡単なものは富士写真フイルムから発売された簡易カメラ「フジペットEE」に採用された方式で、露出計指針に直接絞りプレートを取り付けるものである。しかしこれでは暗い場所では一切撮影不可であり、フィルム感度も固定になるなど撮影条件において大幅な制約を受けるため、より本格的な仕組みが考案された。絞りはシャッター速度優先AEのような段カム制御方式で制御し、シャッター速度はフィルム感度に連動させるというものである。この方式はリコーのオート35などに採用された。
またオリンパスは1961年(昭和36年)に発売した24×18mm(ハーフ)判カメラの「ペンEE」に絞りに加え二速ながらシャッター速度も自動切換えできるシャッターを自社開発して搭載した。
ミノルタの「ユニオマット」、キヤノン「デミ」、コニカ「コニカL」などはひとまず絞りリングとシャッター速度リングをつないでプログラムシャッターとしながらも、AEとするのは諦め追針式として適正EVを合わせる方式とした。
翌1962年(昭和37年)にはコパルが機械式マルチプログラムシャッター「コパルマジック」を発明し、これを搭載する唯一のカメラ「フジカ35オートM」が富士写真フイルムから発売された。複雑なギア連動機構を用いて、絞りでの制御限界時にはシャッター速度も変化させるという特殊なシャッターであった。このシャッターは極めてコスト高となったためこのカメラ以外には採用されなかった。
一方シチズンからは羽根を半開させることで絞り兼用とした5枚羽根シャッターを持つ、プログラムAE専用シャッターのシチズンユニEが製品化され、このシャッターとセレン光電池駆動のメーターを段カムの代わりに針押さえと回転カムで検出・制御する機構を搭載した「ハイマチック」がミノルタから発売された。このカメラは画期的な全自動カメラとして高い評価を受け、世界で初めて宇宙で使用されたカメラにもなった。
1963年(昭和38年)にはコパルから2枚の絞り兼用シャッター羽根の開角度をフライホイルで制御する「コパルユニーク」シャッターが製品化され、ヤシカより発売された「ミニマチックS」に搭載された。この方式が現在一般的なプログラムシャッターの、露出計と絞り兼用のシャッター羽の開角度を連動させて適正露出を得る仕掛けの直接の元祖である。
後にシャッター速度優先AEとプログラムAEを兼ね備える「セイコーALA」シャッターがセイコーから発売され、このシャッターを用いていわゆるマルチモード自動露出を装備した数少ない距離計連動カメラ「ハイマチック11」がミノルタから発売された。
また、セイコーからは安定して動作する電子プログラムシャッターである「セイコーESF」が登場し、電磁作動という特徴からさまざまな形状・大きさのものが製作可能とあって多くのカメラに搭載された。このシャッターは後にオートフォーカスモジュールにも組み込まれた。同社が以前製造していた「セイコーシャSE電子プログラムシャッター」は非常に作動安定性が悪いという欠陥を抱えており普及しなかった(⇒#絞り優先AE)。
後年、家庭用にはよりコンパクトで簡単操作のコンパクトカメラが求められるようになると、これらのカメラにはプログラムAEが搭載されることが当たり前となった。2000年代を過ぎても、コンパクトカメラに搭載されているのはプログラムAEがほとんどだが、一部高級志向のコンパクトカメラではプログラムAEのほかに絞り優先AEを搭載するものもある。これらのシャッターは小型化を追求し、羽根の駆動に必要なバネ、ソレノイド以外は全てマイコンによるデジタル制御になっていることがほとんどである。
しかし、現在のコンパクトデジタルカメラにおいてはもはや機械的なシャッターを廃してしまったものが多くを占めており、文字通りシャッターはプログラムそのものとなった。このためプログラム露出専用としてもコストの優位性はなくなり、一眼レフ同様のマルチモード露出を搭載するものが増えているが、それらも依然として基本は操作の易しいプログラム露出で使用するように設計されている。
絞り優先AE
シャッター速度優先AEに遅れること5年の1965年(昭和40年)、コパルから従来のシャッターの調速機構をソレノイド使用の制御装置に置き換えた電子制御シャッター「コパルエレク」が世に出された。電子制御シャッターはシャッター速度を電気信号で制御できるため、今まで不可能だった露出計によるシャッター速度の制御がついに実現できるようになった。また精工舎からはプログラムAEの電子シャッターであるセイコーシャSEが発売された。
前者のコパルエレクをいち早く採用し絞り優先AEのカメラを実現したのがヤシカの24×18mm(ハーフ)判カメラ「エレクトロハーフ」である。この後24×36mm(ライカ)判の「エレクトロ35」が発売されると、明るいレンズと電子制御ならではの超長時間露出が極めて高い評価を受けブームとなった。
一方、他のカメラメーカーはそろってプログラム電子シャッターのセイコーシャSEを採用した。新しい方式である絞り優先AEによってカメラに詳しくない一般ユーザーを戸惑わせることを懸念してのことだったが、セイコーシャSEはまだ性能の低かったゲルマニウムトランジスタを多数使用し、羽根の作動も2つのソレノイドの電磁力で行う設計で、しかも電源は水銀電池一つだけとしたため、動作が不安定で故障が多発した。このためヤシカ以外のカメラメーカーは電子シャッターそのものの信頼性に懐疑的になり、コパルの絞り優先式にも乗り換えることはなく機械式のシャッターに戻してしまった。
一方のコパルエレクはセイコーシャSEよりも高電圧を必要とする代わりに、安定したシリコントランジスタと抵抗器による制御で、羽根の作動そのものは機械式だったため安定して動作したが、セイコーシャSEでの失敗に懲りたヤシカ以外のメーカーにはなかなか理解されなかった。
この後、絞り優先AEは一眼レフカメラに搭載されて発達し、コンパクトカメラにはプログラムAEが普及することになる。
一眼レフカメラのAE
一眼レフはレンズ交換をするため、AE特にシャッター速度優先方式を搭載するにはレンズとカメラの間に複雑かつ精密な連動機構を搭載しなければならず、連動機構を備えていないそれまでのマウントではそのためにマウントを変更しなければならなかったこともあり、AEの搭載は遅れた。1963年(昭和38年)、東京光学(現トプコン)が外光式露出計とそれに連動するシャッター速度優先AEを搭載したレンズ交換可能なレンズシャッター搭載一眼レフカメラ「ウインクミラーS」を発売、さらに1964年にはTTL開放測光を採用した「トプコンユニ」を発売する。同機は、ウインクミラーS発売時に採用されたレンズマウントはレンズの全群を交換するもので、AE機構を前提に設計されたため、絞り制御のための連動機構を搭載しており、マニュアル撮影時も絞りはボディ側で設定するようになっていた。さらに1965年(昭和40年)12月、コニカがフォーカルプレーンシャッター搭載機としては世界初のシャッター速度優先AEを実用化した一眼レフカメラ「オートレックス」を開発した。同機の開発にあたってコニカは、一眼レフのレンズマウントを変更している。この後もトプコンレンズシャッター機とコニカ以外はコーワ(レンズシャッター方式)、キヤノン(フォーカルプレーンシャッター方式)などが前群レンズ交換方式の一眼レフでシャッター速度優先AEやプログラムAEを実現した程度で、長きに渡って一眼レフのAE化は距離計連動カメラに対して遅れていた。
1971年(昭和46年)、旭光学が電子シャッターによる絞り優先AEを搭載した一眼レフカメラ「アサヒペンタックスES」を発売した。この後旭光学・日本光学・ミノルタ・ヤシカが絞り優先AE陣営になり、キヤノン・コニカ・ペトリがシャッター速度優先AE陣営となった。
このころ、ユーザー側ではシャッター速度優先AEと絞り優先AEのどちらが優れているかという論争があった。一眼レフカメラの場合、レンズ交換機構を持たないレンズシャッター機とは逆に露出計によって絞りを制御することが困難であった。レンズ交換をする一眼レフカメラは、レンズの開放絞り値が一定ではなく、さらに当時のAE撮影を想定していないレンズは、絞りを開閉するピンを同じ距離動かしても絞りが絞られる量はレンズの設計によってまちまちだったためである。このため、絞り優先AE陣営のメーカーは電子シャッターを用いてシャッター速度を自動制御する方式のカメラを作り、シャッター速度優先AE陣営のメーカーはマウントに何らかの変更を加えて絞りの自動制御を実現した。
1977年(昭和52年)、ついにミノルタからシャッター速度優先AEと絞り優先AEを兼ね備える世界初のマルチモード一眼レフカメラ「XD」が発売され、1978年(昭和53年)にはキヤノンから絞り優先AEとシャッター速度優先AEに加え、プログラムAEも搭載したマルチモード一眼レフ「A-1」が発売された。ミノルタは結局上位互換ながらレンズマウントを変更したが、「XD」では瞬間絞込み測光を採用して旧式レンズや絞りを最小絞りにしていない状態のレンズでも代わりにシャッター速度を再調整することで適正露出を可能にしていた。また、キヤノンの「A-1」は積極的にコンピューターを搭載して多彩な露出モードを備えた。こうして一眼レフの自動露出システムもほぼ完成を見ることとなった。
現在では高度な電子技術と各社の適正露出を算出するノウハウの蓄積によって、カメラに内蔵されたプロセッサで各測光タイプに基づいて露出を測定、自動的に適正な露出値を割り出す方式の完全自動露出が実現された。さらにフラッシュにも連動したTTLフラッシュ自動露出なども可能になった。その後は複数の完全自動露出パターン(マルチプログラム)を実装し、自動選択されるまでに昇華した。現在はごく一部のマニュアルカメラを除く、オートフォーカスカメラ、そしてデジタルカメラにはほぼ必ず完全自動露出機能が実装されており、もはや一般的には「カメラ= AEカメラ」という構図が成り立ったため、使われることのない呼称である。
一方、中判一眼レフカメラでは基本的に速写性を求められることが少なく、また露出に関する知識の豊富なユーザーが使用することがほとんどだったため、近年まで自動露出はほとんど搭載されなかった。しかし、24×36mm(ライカ)判のプロ用一眼レフカメラなど、露出がわかっているユーザー向けのカメラでもAEが装備されるのは当たり前になっているため、1990年代~2000年代以降は中判一眼レフカメラにもAEを搭載するものが現れるようになった。
脚注
関連項目
TTL露出計
オートフォーカス
外部リンク
カメラ | 0.69131 |
965000 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B9%E5%AD%A6%E9%83%A8 | コンピュータサイエンス学部 | コンピュータサイエンス学部(コンピュータサイエンスがくぶ)は、コンピュータサイエンス(計算機科学)を教育研究する学部である。
概要
コンピュータサイエンスすなわち計算機科学が関わる広範な分野を学問対象とする。コンピュータを基盤にシステムの構築やある対象の制御などを研究し、人の生活に役立てるための応用的研究を行う学部である。2003年、東京工科大学により初めて設置された。
コンピュータサイエンス学部をおく日本の大学
東京工科大学-工学部機械制御工学科、電子工学科、情報工学科、情報通信工学科からの発展的改組により誕生した。
参考として、会津大学が「コンピュータ理工学部」内に「コンピュータサイエンス部門」を置いている。
関連項目
工学
計算機科学
計算機工学
情報工学
制御工学
通信工学
電子工学
学部
学部の一覧
学部 | 0.69109 |
2568647 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%88%E6%9B%B2%E5%85%89%E5%AD%A6%E7%B3%BB | 屈曲光学系 | 屈曲光学系(くっきょく-こうがくけい、)は、広義には潜望鏡など、平面反射鏡やプリズムにより光路を60度や90度折り曲げている光学系のことだが、特に、プリズム式双眼鏡や、望遠ズームレンズをカメラボディ内の幅方向や高さ方向に収めたカメラ等、全体を小型にまとめているものを指して使われることが多い。
35mmフィルムカメラを屈曲光学系を利用し超小型にした例ではテッシナがあるが、テッシナでは反射が一回のためフィルム面の像が通常のカメラと左右逆で、プリントの際に裏焼きしなければならない。
注
外部リンク
光学 | 0.691036 |
1039584 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A5%E5%AD%A6%E7%B3%BB%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%A7%91 | 工学系研究科 | 工学系研究科(こうがくけいけんきゅうか)
大学院に設置されている研究科の名称。→工学研究科を参照。
理工学研究科、工学研究科、工学資源科学研究科、システム工学研究科、未来科学研究科、科学技術研究科などの工学に関する大学院研究科の総称。
院
研究科 | 0.690964 |
514878 | https://ja.wikipedia.org/wiki/PENTAX%E3%81%AE%E9%8A%80%E5%A1%A9%E4%B8%80%E7%9C%BC%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9%E8%A3%BD%E5%93%81%E4%B8%80%E8%A6%A7%3A35mm%E5%88%A4%20%28K%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%88MF%E6%A9%9F%E7%A8%AE%29 | PENTAXの銀塩一眼レフカメラ製品一覧:35mm判 (KマウントMF機種) | この項目では、旭光学工業(現リコーイメージング)が発売したカメラのうち、レンズマウントにKマウントを採用し、35mm判フィルムを使用するマニュアル一眼レフカメラ製品の一覧記事である。
概要
旭光学工業はシステムのバヨネット式Kマウント化によって標準仕様としての開放測光を実現し、現在の一眼レフカメラの完成を見ることになる。そこで生まれた次なる課題は自動露出(自動露出を以降はAEと記述する)であった。すでにPSマウント機である『アサヒペンタックスES』で実装されていた「絞り優先式AE」が『アサヒペンタックスK2』にも採用され、当時は「シャッター速度優先式AE」と2種類の方向性があったAEを"写真を決めるのはレンズ"という考えのもとに旭光学は絞り優先式を選択している。ただし、KマウントにおいてはESのような複雑な連動機構を設けなくともAE化が可能であり、続くペンタックスMシリーズにおいては驚異的ともいえる小型軽量化を実現しつつ絞り優先AE専用機という大胆な仕様の『アサヒペンタックスME』を製品化している。やがてこの2種の方式は1977年に発売された『ミノルタXD』によって統合され、『キヤノンA-1』とともに「マルチモードAE」の時代に突入する。その間、旭光学工業は世界初のオートフォーカスカメラ製品である『ペンタックスME-F』を発売するものの商業的には失敗に終わってしまい、ペンタックスAシリーズにて再びマニュアルフォーカスカメラに回帰し業界の流れに追従し、他社よりやや遅れて完全自動露出(プログラムAE)を実現する。続くペンタックスPシリーズにおいては複数のプログラムAEを選択できる「マルチプログラムAE」を達成したものの『ミノルタα7000』とともに訪れたオートフォーカス時代の大波によってマニュアルフォーカスカメラにおけるAE化路線は大幅に縮小され、新たに生まれたオートフォーカス機シリーズであるペンタックスSFシリーズにたすきを渡すこととなった。
アサヒペンタックスKシリーズ
アサヒペンタックスKシリーズとは、新規のバヨネット式のKマウントを採用した一眼レフカメラの初代シリーズ製品である。1975年6月に『K2』、『KX』、『KM』の3機種が同時発売された。アサヒペンタックスの名称は踏襲したもののロゴデザインやボディ外装デザインは一新され、新しいカメラであることを印象付ける配慮がなされた。あわせて登場したKマウントレンズ『SMCペンタックスレンズ』は基本フィルター枠を52mm径と、Sマウントのタクマーで一般的だった49mm径から拡大し、その大口径化を印象付けるような明るい新設計のレンズ製品の登場や、コストをかけた鏡胴の造りがなされ、従来のSマウントシリーズ機よりも高級感をもたせたものとなった。一方、従来のM42マウント機のユーザーからの移行を考慮し、M42マウントのレンズを装着するためのマウントアダプター(マウントアダプターK)が安価に供給された。これは、Kマウント時にフランジバック長が変更されず、単にマウント形状の変換にとどまっているためである。
しかし、見た目の印象は異なるものの、K2以外の普及型機種はカメラの内部構造、各部レイアウトは従来のSP系シリーズを踏襲している。同じく、Kシリーズの各種アクセサリーの多くが従来のSP系のものと互換性をもっている。その一方で、旭光学工業のペンタプリズムへの銀蒸着ペンタプリズムが社内基準に達したことにより実装され、従来のPSマウント機シリーズでは暗いと指摘されていたファインダーが明るくなったことや、内蔵露出計がCdSからSPDに変更され応答速度が速まっている。
翌年(1976年)、小型軽量一眼レフカメラの需要が高まる中、大幅に小型軽量化されたペンタックスMシリーズが登場すると主力はそちらに移り、シリーズとしては短命に終わった。
K2
1975年6月発売。Kシリーズの中で唯一の、完全新規設計されたシリーズ最上級機(発売当時)である。デザインの意匠がシリーズで統一されているために『KX』、『KM』と酷似するものの、細部の操作系レイアウトやデザインが異なる。先代のAPシリーズ初の高級機であった『アサヒペンタックスK』のネーミングを引き継いだところから、旭光学工業のKマウント機にかける意気込みがうかがえる。ステンレス製マウントの採用(他のペンタックスカメラでは『ペンタックスLX』のみ)など、最高級機にふさわしい贅沢な仕様の機種であった。
新機軸として、セイコー光機と共同開発された電子制御式の金属縦走行式フォーカルプレーンシャッターユニット『セイコーMF』が搭載され、オート時だけでなくマニュアル撮影時でも電子制御式になったことにより露出の精度がより高められた。また、『アサヒペンタックスESII』でも遅いと指摘されていた「絞り優先AE機能」も、受光素子を従来の「CdSセル」から「SPD(シリコン・フォト・ダイオード)」に変更されたことによって応答速度、省電力性が大幅に向上された。操作系レイアウトは機械的構造上、露出倍数設定、ASA感度設定ダイヤルがマウント部に集約されている。これら数々の新機軸を盛り込みながら、サイズは従来機とほぼ同じに抑えられた。ESIIで残された課題をマウント変更と新技術によって克服し、より実用性を高めた最新高級機に相応しい機種となっている。
KX
1975年6月発売。Kシリーズの中級機に位置する機種である。主な機械構造はSP系機種がベースとなっており、従来の「布幕横走り型シャッターユニット」を採用した"機械式フルマニュアル機"である。
しかしその一方では最新のSPDによる露出計や、ファインダー内情報表示の変更、銀蒸着のペンタプリズム、ミラーアップ機構など、K2の新機軸も新たに取り入れられており、さらには「絞り値の直読み窓」が設けられ、機械式フルマニュアル機ながらも「絞り優先AE機」のような使い勝手を実現した新しい一面がある。なお、特注品としてモータードライブ対応型が存在する。
KM
1975年6月発売。Kシリーズの普及機に位置する機種である。KXと同様にSP系機種がベースとなっているものの、Kシリーズで唯一ペンタプリズムが従来のアルミ蒸着のままであるほか、「フォトスイッチ」までもが継承されており、操作系レイアウト、内部構造ともに従来のPSマウント機である『アサヒペンタックスSPF』をほぼそのままKマウント化したような機種である。従来ユーザーの乗換えを配慮した製品であることがうかがえる。こちらも特注品としてモータードライブ対応型が存在する。
K2
1976年9月発売。K2の後継機であり、結果的にKシリーズの最高級機となった。名称の"DMD"の由来となった「データバック(D)」、「モータードライブ(MD)」への対応など高級機に相応しいシステム面が強化された。また機能面では「メモリーロック機能(一般的にはAEロックと呼ばれる)」や、KXで採用された「絞り値直読み窓」の追加。ESIIに実装されたもののK2では省かれた逆入光防止のための「アイピースシャッター機能」の復活などの改良が加えられ、ここにてAPをルーツとする一連の流れのカメラの完成を見ることとなった。
しかし発売された時期には『オリンパスOM-2』を端緒とする、小型軽量で普及型一眼レフ機の時代に入っており、発売後間もなく次世代の小型軽量化されたMシリーズが登場しそちらが主力製品となったため少数が生産されるにとどまった。プロなどの上級者向け機種ということを意識したためブラックボディを中心に販売されたが、極少数クロームボディのものも存在する。
K1000
1986年6月発売。もともと1976年から輸出専用機種として、KMの「セルフタイマー機能」と「プレビュー機能」を省いた廉価機種として生産されていた機種。しかし、マルチモードAEカメラの全盛期であった1980年代後半、天文撮影や写真・美術系学生など一部に残っていた、要最低限の機能しかない機械式フルマニュアルカメラの需要に応えるべく、国内発売が開始された。
名称の"1000"は輸出版の名称でよく使われていた最高シャッター速度(1/1000秒)の数値より由来するものと思われる。1995年までの長期間に渡って国内外にて販売されたため数度のマイナーチェンジがあり、一例として国外にて発売された初期型の金属外装機やプラスチック外装機(国内発売された最後期型)などがある。国内発売時期の関係から、Kシリーズではこの機種のみが"AOCOマーク"と"ASAHI"銘の存在しないペンタックスブランドの機種となる。
なおペンタックスがM42マウントからKマウントに切り替えた時期は、ニコンが旧ニッコール(いわゆるガチャガチャ)からAi化し、キヤノンはFLからFD化、ミノルタは旧SRからMC化、オリンパスはOMシリーズをリリースするなど、国内大手メーカーが新世代に移行する時期でもあった。
ペンタックスMシリーズ
新たな時代と実質的な需要である「小型軽量化」、「電子化によるAE化」、「システムの充実」を目指し、特に当時の小型軽量一眼レフカメラの代表格であったオリンパスのOMシリーズへの対抗製品として、特に小型軽量化に重点を置いて開発されたシリーズである。高性能化を志向していたOMとは異なり機能のスリム化を重視しており、旭光学独自の小型軽量化路線への考え方が現れている。筐体の小型軽量化に合わせてボディ設計も従来のK(SP)シリーズから一新された。当初は継続して"アサヒペンタックス"の名称が使われていたが、MV1より"アサヒ"が外れ、"ペンタックス"ブランドとなった。
このMシリーズより各部の電子化がより進められ、ファインダー内の露出計表示が従来までの「アナログ式の指針」による追針式露出計から「LED」を採用した定点式のものとなった。電子回路も大幅な進歩をとげ、K2のものよりも更なる小型化が実現した。またTTL露出計もカメラ専用露出計として開発され、かつ中央重点測光に適しているGPD(ガリウム・ヒ素・リン・フォト・ダイオード)が従来のSPDに替わって採用された。ファインダースクリーンの合焦補助機構も従来の「マイクロプリズム」に加えて「スプリット・イメージ」が追加され、よりピント合わせがしやすくなった。あわせて電子制御による縦走行式シャッターユニットの実装や、外装のプラスチック化、アナログ式ではなく電子ボタン式の入力操作系が採用されている。
アクセサリは従来のK(SP)シリーズから一新され、新規の様々なアクセサリー群が用意された。ファインダー系アクセサリー用のアイピースのスリット幅はこのシリーズから変更され、現行のKマウントデジタル一眼レフまで変更されていない。
MX
1976年11月発売。Mシリーズ1号機であるが、シリーズ唯一のフルマニュアル操作方式のみの「布幕横走行式の機械式シャッター搭載機」である。よって、同時に開発されたMEとは基本設計レベルから異なり、ワインダーなどのオプション品も他のME派生型機との互換性もなく、独自のシステム展開がなされているのが特徴である。8年にわたって製造されたが後継機種は存在せず、電子制御カメラ一色のMシリーズのアクセントとなっている。全高を抑えるためにシャッター幕の巻き取りリボンをより細くするために紐(ひも)を採用するなど、小型化への執念は凄まじいものがあり、同じ超小型軽量の機械式カメラである『オリンパスOM-1』と寸法を比較すると、幅・高さ・厚さともすべて0.5mmずつ小さくなっているのも興味深い。
その一方で、他のMシリーズ機同様、TTL露出計はMEと同様にGPDが採用されているほか、ファインダー内の露出表示も追針式からLED表示の定点式に変更されている。
ME
1976年12月発売。MXとは対照的に、シリーズのコンセプトに忠実に機能のスリム化と電子制御化を図った、絞り優先AE専用機という大胆な仕様の機種である。小型化のために超小型の専用シャッターユニットが採用されたが、MXとは異なり電子制御式の金属縦走行式シャッターユニット、『セイコーMFC-E』を採用している。このシャッターユニットは、サイズもK2で採用された『セイコーMF』と比較して縦横5mmずつ小型化され、重量も半分となっている(ME以降の電子シャッター搭載機種はすべて縦走行式シャッターユニットになった)。またTTL測光用の受光素子もMXと同様にGPDが実装された。他にもK2ではICを採用していた電子制御回路には、従来よりも大幅に集積度を向上させた、当時最新の「Bi-MOSLSI」が搭載され、応答速度の更なる向上と省電力性の両立のため、当時の最先端技術が投入されたため、MXより更なる小型軽量化が実現し、サイズは131mm×82.5mm×49.5mm、重量は460gとMXよりも35gほど軽くなった。
従来よりペンタプリズム部分に刻印され続けてきた"AOCOマーク"の刻印はこの機種以降なくなり、"ASAHI PENTAX"ブランドとしての最後の機種となった。
MV1
1979年9月発売。MEベースの普及機種。各部のパーツを共有しつつ、大幅なコストダウンとスリム化が図られた。軍艦部の素材も従来の真鍮からプラスチックに変更され、更なる軽量化を実現している。またファインダー内部のインジケーター表示も簡素化(「シグナルファインダー」と呼ばれ、露出の適正(グリーン)、アンダー(オレンジ)、オーバー(レッド)、しかない)され、より普及機としての位置付けが鮮明になった。
シリーズ中、やや違和感のあるネーミングである"MV1"は、当時の大ヒット商品であった『キヤノンAE-1』の影響があったといわれている。発売当時旭光学は、その簡易な操作方法を、「撮影者がズームレンズの操作と画作りに専念出来る様に」として『ズームシステムカメラ』と呼んでいたが、実際のところシステム的にズームとの連動性は無い。smcPENTAX-M50mm f2とのセットで\49,500と廉価であった為、かなり普及したカメラであったと言えるだろう。
この機種より"PENTAX"ブランドとして展開されることとなる。
MEスーパー(Super)
1979年12月発売。絞り優先オート撮影に特化したMEにマニュアル撮影機能を追加し、最高シャッター速度を1/2000秒に向上させるなどのスペックアップがなされた高級機種である。シャッターユニットも従来の改良型である『セイコーMFC-E2』が搭載されている。この機種よりファインダースクリーンに新規開発された『クリアーブライトマットスクリーン』が採用され、より明るくピントの山がつかみやすくなった。
マニュアル露出時におけるシャッター速度の設定方式は、「アップ」・「ダウン」の機能をあてがわれた「プッシュ式の2ボタン」であるのが特徴であり、電子シャッターを採用したことから実現した方式である。この操作方法は後の『ペンタックススーパーA』などの他、セミ判一眼レフである『645』にも採用された。
ME F
1981年11月発売。MEスーパーをベースとしたペンタックス初のオートフォーカスカメラであり、世界初の製品化されたオートフォーカス一眼レフカメラである。ペンタックス一眼レフ開発史においては第4世代のカメラと位置付けられている。旭光学工業独自のTTL電子合焦装置(TTL-EFC=TTL-Electronic Focus Control)と命名され、高精度の合焦性能を持った「コントラスト検出方式」を採用し、マウントも新たに専用のKマウントが開発され採用された。ただし、オートフォーカス駆動用のモーターは、当時のAFカメラでも見られたレンズに搭載される方式のため、対応レンズはモーターの他、電源となる電池も内蔵しており、ボデイよりも下に張り出す大柄なタイプのものであった。肝心のオートフォーカス機能も、合焦精度が高すぎたために被写体のごく微妙な動きすら検知してしまい、なかなかピントが決まらないという致命的な欠陥があった。これらの欠点により、Kマウント採用機種はこの1機種に終わり、対応レンズであるSMCペンタックスAFレンズも、ズームレンズ1種のみのリリースとなった。
現在のペンタックスのオートフォーカスレンズ(F・FA・FAJ・DFA・DA)とは測距方式も異なるなど機能の互換性はなく、オートフォーカス機能は使用できない。だが、従来のマニュアルフォーカスレンズや現行のレンズを使用した場合でも合焦検知機能は働くため「フォーカスエイド機能」は利用できる。
MG
1982年1月発売。Mシリーズ最終機種。位置付けとしてはMV1の後継機に相当するも、MV1では簡素だったファインダー内情報表示はMEと同等以上となり、そのベース機は併売されているME Fである。スペック面でも時代の変遷にあわせてほぼME相当にまで引き上げられ、ファインダー内情報表示には新たにストロボ充電完了表示が追加されており、初代のME登場から大幅な電子技術の進歩があったことを示している。
CMキャラクターは歌手デビュー前の早見優であり、当機のCMはがテレビCMデビュー作だった。オリンパスOM10(1979年)の大場久美子、ミノルタX-7(1980年)の宮崎美子と当時はよく比較された。
ペンタックスLX
1980年6月、5年もの開発期間を経て発売されたペンタックスの35mm判一眼レフにおいて、唯一のプロ用高級機である。旭光学創立60周年を記念してローマ数字の60を意味する『LX』と名付けられた。
ファインダー交換式。マウントはステンレス製。視野率縦98%・横95%。低速側(4秒~1/60)を電子式、高速側(X=1/75~1/2000)、バルブをメカで制御するハイブリッドシャッター搭載の絞り優先AE機。モータードライブは当然ながら、長尺フィルムバックなども用意され、システム面も抜かりなく、21年に亘る製造期間中最末期まで改良が続けられ、各種改造サービスもあり、まさにプロのための機体だった。そのためカメラマンのみならず警察の鑑識にも用いられた。
一般的に、製造番号等で「初期型」「前期型」「後期型」に分かれると言われる。初期型から前期型への主な変更点は、フィルムガイドローラーを裏ぶたに設置、スプロケット部の使用感の向上、ファインダー脱着ボタンを利用したファインダー内LED点灯機能の新設であり、前期型から後期型への主な変更点は、シャッターボタン部の指受皿の変更、IDM機能用のためにシャッター幕に印刷されていたドットパターンの小変更がある。様々な改良が加えられた後期型の完成度が高いとされ、中古市場でも高値で取引されているが、一方でコスト面でも改良されていることは否めない。初期型に関して言えば、ボディ底部の電池蓋のモールドのきめ細かさや、後期型とはシャッター音や感触などが明らかに異なる。
独自のダイレクト測光システムである、IDMシステム(ファインダー側に受光素子を持たず、常時ボディ側で測光する)や、封入にシリコンコーキングを用いた世界初の防塵・防滴構造など非常に特殊な機構、構造をもつカメラであり、特に防塵・防滴構造などは他社のプロ機も倣うようになった。
LXゴールド(1981年)、LXチタン(1994年)、LXLIMITED(1995年)、LX2000(2000年)と、4種類の限定版が存在する。そのひとつである『LX2000』登場時には、当時の主力製品であったMZシリーズで採用されている透過率の高い「ナチュラルブライトマットスクリーン」が採用されたが、IDMシステムを採用しているため、以前のモデルにも露出計の調整無しで使用可能である。
ペンタックスAシリーズ
ペンタックス初の「マルチモードAE機」シリーズである。
複数のAE機能を持つマルチモードAEカメラとして、まず1977年発売の『ミノルタXD』によって「絞り優先AE」と「シャッター速度優先自動露出(以降はシャッター速度優先AEと記述する)」の両AE機能が実装され、さらにその翌年(1978年)発売の『キヤノンA-1』によって「完全自動露出(=プログラム自動露出:以降はプログラムAEと記述する)」が実現した。そのような時代背景の中で旭光学は依然として絞り優先AE機であるMシリーズに重点を置いていたが、他社が続々とマルチモード化、プログラムAEの実装などのエレクトロニクス面での開発競争に入ったため、遅れを取った旭光学はより精度の高いマルチモード機を実現すべく開発に取り組んだ。
機能的には外観がMシリーズに酷似していることから、同シリーズの延長上に位置するように思われがちであるが、実際は旭光学工業初の電磁レリーズ、電子セルフタイマーの実装など大幅なエレクトロニクス化が行われており、ペンタックス独自のより高精度な「絞り位置制御方式」によるマルチモードAE対応が行われ、これの実現のため新たな絞り値伝達用の電子接点つきのKマウントが採用され、「シャッター速度優先AE」と、「プログラムAE」が可能となった。またこのシリーズよりすべての機種がポリカーボネートなどのプラスチック系素材による外装となり(『LX』、『MZ-S』を除く)、更なる軽量化と電子カメラとしての耐ショック性の向上、ボディ外装デザインの自由度が増すことになる。
マウント対応レンズとして開発されたSMCペンタックスAレンズ(以下「Aレンズ」)も同時に用意され、絞り環に最小絞り値のとなりに新たに自動露出を意味するA位置が設けられており、この位置に設定しておけば、カメラ側から自動的に絞り込まれる。
スーパーA (super A)
1983年3月発売。ペンタックスカメラ初のマルチモードAE機種である。発売当時はマルチモードカメラとしては最多のモード数である「プログラムAE」、「絞り優先AE」、「シャッター速度優先AE」、「マニュアル」、「TTLオートストロボ(ダイレクト測光式)」、「外光オートストロボ」の6種の露出モードを実装。それ以外にも新機軸を盛り込んだ時代の最先端を行く機種であった。外装デザインは従来のMEシリーズを踏襲しつつ、LXのイメージを取り入れられ、ファインダーの採光窓、取り外し式のグリップ、メモホルダー兼用グリップ付きの裏蓋など、斬新なものになった。内部機構は大幅な電子化が進められ、初の電磁レリーズの実装、電子式セルフタイマー、ファインダー内表示の液晶(LCD)化、新規開発のモータードライブ装着により秒3.2コマ実現など、目立たないところで大幅に進化している。Aレンズとの組み合わせによって、より正確な絞り制御が可能となった。その技術が高く評価され、同年「ヨーロピアン・カメラ・オブ・ザ・イヤー'83」を受賞。1984年4月には受賞記念限定モデルも発売された。海外では『SUPER PROGRAM』の名称でクロームボディのみ発売された。
プログラムA (program A)
1984年3月発売。Aシリーズの普及機種である。スーパーAで6種あった露出モードから「シャッタースピード優先AE」、「TTLオートストロボ」を省略し、最高シャッタースピードも1/2000秒から1/1000秒へとスペックダウンされている。外見はほぼ差がないものの液晶表示によるシャッター速度パネルがなくなっており、内部構造もコストダウンのために大幅に簡略化されている。一方、誤作動しやすいと不評だった電子セルフタイマー機構の位置が改められるなどの改良点は、続く『ペンタックスA3デート』にも受け継がれている。逆説的にはMEスーパーにプログラム機能を追加した機種であると言える。ブラックボディ、クロームボディがある。海外では『PROGRAM PLUS』の名称で発売された。
A3デート(A3 DATE)
1985年3月発売。ペンタックス初のワインダー機構内蔵機種であり、データバック(裏蓋交換によるデート印字機能)を標準実装した機種である。ワインダー内蔵に伴い「オートローディング機構」もあわせて実現し、規定位置までフィルムを伸ばしてフィルムカバーを閉じると自動的に1コマ目まで巻き上げられるようになった。ただし、巻き戻し操作は"そのほうが速い"といった理由から手動となっている。
装填フィルム確認用の"覗き窓"と、パトローネのDX情報により自動でISO感度を設定する機能も設けられ、背面フィルム室蓋にあったメモホルダーが廃止された。プログラムAをベースとしながらも「マニュアルモード」が省略されるなど更なる自動化が図られている。ワインダー搭載によって横幅が広がり、軍艦部が広くなったぶん「モード選択ダイヤルが大型化」され操作性は向上している。ただし露出補正機能は簡略化され、逆光補正用の+1.5のボタンが設けられるにとどまっている。
A3デートS
1986年6月発売。A3デートの改良機種。グリップ部の貼り革(グッタペルカ)のデザインと素材が変更されホールディング性と、ファインダースクリーンの変更による合焦性能の向上などのマイナーチェンジが施されている。発売時期がPシリーズと重なったためかデザインの意匠は当時の流行が取り入れられたためPシリーズやSFシリーズに近く、クラシカルな風味を残していたAシリーズの中でも異彩を放つ機種。
ペンタックスPシリーズ
最後のマニュアルフォーカスカメラシリーズである。Aシリーズからの変更点として全機種がDXコードに対応した他、イージーローディング機構が実装されている。外装デザインも当時の流行にあわせて鋭角的なものとなり、従来のシリーズ機とは一線を画したものとなっている。本来はP(Program)の名称通り、Aシリーズをより進化させた「マルチプログラムAE」、「ワインダー」実装機種を中心としたシリーズ展開を構想していたと思われるが、実際には機能を基本的なシンプルなものに抑え、かつワインダー内蔵はやめてコストを抑え、ボタン式であったシャッター速度設定をダイヤル式に戻す(『ペンタックスP30』)など、見た目で分かりやすい操作性を目指したシンプルな機種のみのシリーズとなった。
その背景としては、発売直後に業界を揺るがした"αショック"により、その結果ペンタックスも開発ロードマップの大幅な変更を迫られ、社運を賭けた新世代のオートフォーカスシリーズ機である『ペンタックスSFX』の開発に会社が重点を置かざるを得なくなったことではないかと思われる。そのSFシリーズに「マルチプログラムAE」や「ワインダー」が標準で実装されることとなったため、Pシリーズは本来の構想から方向転換することとなり、SFシリーズのマルチモードAE機能に特化されてしまった感のある操作性に馴染めない層をフォローする下位機種的な役割と、旧来のマニュアルフォーカスカメラから新世代のオートフォーカスカメラへの橋渡し的な役割を担うシリーズに方向転換されてしまったのが真相かと思われる。
マニュアル撮影と必要最低限のプログラムAE機能による撮影のみの、マルチプログラムAEカメラ全盛期にあってあえて機能を絞り込んだ廉価機中心のシリーズ展開であったが、数々の新機軸を実装したためある一面においては走りすぎた感のあったSFシリーズの影で『ペンタックスK1000』とともにシンプルな機能を求める層に訴求したシリーズであったといえる。『ペンタックスP30』の派生型である『P30T』はオートフォーカス化後も『ペンタックスMZ-M』の登場まで発売されている。
P30 /デート
1985年10月発売(『デート』は1986年6月発売)。「マニュアル露出モード」と「プログラム全自動露出モード」のみの、きわめてシンプルかつ白黒のはっきりとした大胆な仕様のカメラである。外部ケーブルレリーズ用ソケットも省略され、またデザイン面ではシャッター速度設定がダイヤル式操作に戻ったことから、一見するとAシリーズよりも退化したようにも見えるが『K2DMD』以来の「メモリーロック機構(AEロック)」が実装されているほか、内部の電子回路もより進化しており、実用的な機能に絞り込まれた堅実な機種であるといえる。発売当時は『α-7000』による"αショック"の真っ只中にあり、各社も総力を挙げてオートフォーカスカメラ製品の開発に重点を置いていたため普及機とはいえスペック的に物足りない感が否めないものの、必要最低限の機能は抑えてある機種となっている。
P50デート
1986年9月発売。Pシリーズ最高級機である。スーパーAの後継機種的な色合いが強く、モータードライブなどのアクセサリーは共通である。プログラムモードは「シャッター速度優先ライン」と「被写界深度優先ライン」の複数を持ち、ペンタックス初のマルチプログラムAE機となった。またボディに大型の液晶情報パネルが実装され、従来機種と比較して設定情報がより分かりやすくなった。モードボタンやEFボタンと上下ボタンを組み合わせて設定する方式は、1984年に発売されたペンタックス645と非常に近いものとなっている。普及機種としてはペンタックスで初めて露出補正機能が1段単位から1/2段単位になり、よりAEカメラとしての使い勝手が向上している(これ以降の機種では1/2段単位が標準となった)。ただ翌年発売されることとなる『ペンタックスSFX』を考慮した販売戦略の影響もあってか、スペック面ではスーパーAよりも抑えられている。
P30
1989年4月発売。P30に「絞り優先AE」と「外部ケーブルレリーズ用ソケット」が追加された派生機種である。これによってシンプルすぎてむしろ初心者には使いづらい点が改善されている。デザイン面では、モデル名は前面から軍艦部上面に移動し、グリップ部に「P30」とモデル名が大きく彫りこまれている。これは同時期に発売されていたSFシリーズと共通のデザインである。
P30
1991年6月発売。P30Nの外装をチタンカラー化(チタン製ではない)し、ファインダースクリーンのスプリットイメージを斜めに切り、縦位置でのピント合わせの向上が図られている派生機種である。時期的にはすでに2世代目のオートフォーカス機シリーズ製品であるZシリーズの1号機である『ペンタックスZ-10』とともに発売され、希少なマニュアルフォーカス機としてK1000とともに『ペンタックスMZ-M』が発売されるまで販売された。
ペンタックスMZシリーズ
オートフォーカス機が主体であるMZシリーズであるが、マニュアル専用機としてMZ-Mが発売された。なおMZシリーズ全般及びMZ-M以外の各機種については、ペンタックスの銀塩一眼レフカメラ製品一覧:35mm判(KマウントAF機種)を参照されたい。
MZ-M
1997年11月発売。MZ-3とMZ-5をベースとし、マニュアルフォーカスカメラを必要とする層に向けて販売すべく登場した、シリーズ唯一のマニュアルフォーカス機である。コストダウンのためにプラスチック製マウント、ペンタミラーの採用、内蔵ストロボの省略がなされたが、ファインダースクリーンはスプリット・マイクロプリズム式を採用し、電子プレビュー機能、ワインダーの搭載など、最新マニュアルフォーカス機として必要最低限の機能は確保されている。マニュアル機ながらKマウントが採用されており、Fレンズ群以降の情報伝達機能が装備されている。
当機種の登場にあわせ、Aレンズのズームが2種類発売された。外見は当時主流のFAレンズに酷似している。
脚注
関連項目
PENTAX
PENTAXのカメラ製品一覧
PENTAXの銀塩一眼レフカメラ製品一覧:35mm判(KマウントAF機種)
PENTAXの銀塩一眼レフカメラ製品一覧:中判・110フィルム用
PENTAXの銀塩コンパクト・APSカメラ製品一覧
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参考文献
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きんえんいちかんれふかめらせいひんいちらん35みりはんけーまうんとえむえふきしゆ
カメラ製品の一覧 | 0.690737 |
4658277 | https://ja.wikipedia.org/wiki/PENTAX%E3%81%AE%E3%83%95%E3%82%A3%E3%83%AB%E3%83%A0%E4%B8%80%E7%9C%BC%E3%83%AC%E3%83%95%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9%E8%A3%BD%E5%93%81%E4%B8%80%E8%A6%A7%3A35mm%E5%88%A4%20%28K%E3%83%9E%E3%82%A6%E3%83%B3%E3%83%88MF%E6%A9%9F%E7%A8%AE%29 | PENTAXのフィルム一眼レフカメラ製品一覧:35mm判 (KマウントMF機種) | この項目では、旭光学工業(現リコーイメージング)が発売したカメラのうち、レンズマウントにKマウントを採用し、35mm判フィルムを使用するマニュアル一眼レフカメラ製品の一覧記事である。
概要
旭光学工業はシステムのバヨネット式Kマウント化によって標準仕様としての開放測光を実現し、現在の一眼レフカメラの完成を見ることになる。そこで生まれた次なる課題は自動露出(自動露出を以降はAEと記述する)であった。すでにPSマウント機である『アサヒペンタックスES』で実装されていた「絞り優先式AE」が『アサヒペンタックスK2』にも採用され、当時は「シャッター速度優先式AE」と2種類の方向性があったAEを"写真を決めるのはレンズ"という考えのもとに旭光学は絞り優先式を選択している。ただし、KマウントにおいてはESのような複雑な連動機構を設けなくともAE化が可能であり、続くペンタックスMシリーズにおいては驚異的ともいえる小型軽量化を実現しつつ絞り優先AE専用機という大胆な仕様の『アサヒペンタックスME』を製品化している。やがてこの2種の方式は1977年に発売された『ミノルタXD』によって統合され、『キヤノンA-1』とともに「マルチモードAE」の時代に突入する。その間、旭光学工業は世界初のオートフォーカスカメラ製品である『ペンタックスME-F』を発売するものの商業的には失敗に終わってしまい、ペンタックスAシリーズにて再びマニュアルフォーカスカメラに回帰し業界の流れに追従し、他社よりやや遅れて完全自動露出(プログラムAE)を実現する。続くペンタックスPシリーズにおいては複数のプログラムAEを選択できる「マルチプログラムAE」を達成したものの『ミノルタα7000』とともに訪れたオートフォーカス時代の大波によってマニュアルフォーカスカメラにおけるAE化路線は大幅に縮小され、新たに生まれたオートフォーカス機シリーズであるペンタックスSFシリーズにたすきを渡すこととなった。
アサヒペンタックスKシリーズ
アサヒペンタックスKシリーズとは、新規のバヨネット式のKマウントを採用した一眼レフカメラの初代シリーズ製品である。1975年6月に『K2』、『KX』、『KM』の3機種が同時発売された。アサヒペンタックスの名称は踏襲したもののロゴデザインやボディ外装デザインは一新され、新しいカメラであることを印象付ける配慮がなされた。あわせて登場したKマウントレンズ『SMCペンタックスレンズ』は基本フィルター枠を52mm径と、Sマウントのタクマーで一般的だった49mm径から拡大し、その大口径化を印象付けるような明るい新設計のレンズ製品の登場や、コストをかけた鏡胴の造りがなされ、従来のSマウントシリーズ機よりも高級感をもたせたものとなった。一方、従来のM42マウント機のユーザーからの移行を考慮し、M42マウントのレンズを装着するためのマウントアダプター(マウントアダプターK)が安価に供給された。これは、Kマウント時にフランジバック長が変更されず、単にマウント形状の変換にとどまっているためである。
しかし、見た目の印象は異なるものの、K2以外の普及型機種はカメラの内部構造、各部レイアウトは従来のSP系シリーズを踏襲している。同じく、Kシリーズの各種アクセサリーの多くが従来のSP系のものと互換性をもっている。その一方で、旭光学工業のペンタプリズムへの銀蒸着ペンタプリズムが社内基準に達したことにより実装され、従来のPSマウント機シリーズでは暗いと指摘されていたファインダーが明るくなったことや、内蔵露出計がCdSからSPDに変更され応答速度が速まっている。
翌年(1976年)、小型軽量一眼レフカメラの需要が高まる中、大幅に小型軽量化されたペンタックスMシリーズが登場すると主力はそちらに移り、シリーズとしては短命に終わった。
K2
1975年6月発売。Kシリーズの中で唯一の、完全新規設計されたシリーズ最上級機(発売当時)である。デザインの意匠がシリーズで統一されているために『KX』、『KM』と酷似するものの、細部の操作系レイアウトやデザインが異なる。先代のAPシリーズ初の高級機であった『アサヒペンタックスK』のネーミングを引き継いだところから、旭光学工業のKマウント機にかける意気込みがうかがえる。ステンレス製マウントの採用(他のペンタックスカメラでは『ペンタックスLX』のみ)など、最高級機にふさわしい贅沢な仕様の機種であった。
新機軸として、セイコー光機と共同開発された電子制御式の金属縦走行式フォーカルプレーンシャッターユニット『セイコーMF』が搭載され、オート時だけでなくマニュアル撮影時でも電子制御式になったことにより露出の精度がより高められた。また、『アサヒペンタックスESII』でも遅いと指摘されていた「絞り優先AE機能」も、受光素子を従来の「CdSセル」から「SPD(シリコン・フォト・ダイオード)」に変更されたことによって応答速度、省電力性が大幅に向上された。操作系レイアウトは機械的構造上、露出倍数設定、ASA感度設定ダイヤルがマウント部に集約されている。これら数々の新機軸を盛り込みながら、サイズは従来機とほぼ同じに抑えられた。ESIIで残された課題をマウント変更と新技術によって克服し、より実用性を高めた最新高級機に相応しい機種となっている。
KX
1975年6月発売。Kシリーズの中級機に位置する機種である。主な機械構造はSP系機種がベースとなっており、従来の「布幕横走り型シャッターユニット」を採用した"機械式フルマニュアル機"である。
しかしその一方では最新のSPDによる露出計や、ファインダー内情報表示の変更、銀蒸着のペンタプリズム、ミラーアップ機構など、K2の新機軸も新たに取り入れられており、さらには「絞り値の直読み窓」が設けられ、機械式フルマニュアル機ながらも「絞り優先AE機」のような使い勝手を実現した新しい一面がある。なお、特注品としてモータードライブ対応型が存在する。
KM
1975年6月発売。Kシリーズの普及機に位置する機種である。KXと同様にSP系機種がベースとなっているものの、Kシリーズで唯一ペンタプリズムが従来のアルミ蒸着のままであるほか、「フォトスイッチ」までもが継承されており、操作系レイアウト、内部構造ともに従来のPSマウント機である『アサヒペンタックスSPF』をほぼそのままKマウント化したような機種である。従来ユーザーの乗換えを配慮した製品であることがうかがえる。こちらも特注品としてモータードライブ対応型が存在する。
K2
1976年9月発売。K2の後継機であり、結果的にKシリーズの最高級機となった。名称の"DMD"の由来となった「データバック(D)」、「モータードライブ(MD)」への対応など高級機に相応しいシステム面が強化された。また機能面では「メモリーロック機能(一般的にはAEロックと呼ばれる)」や、KXで採用された「絞り値直読み窓」の追加。ESIIに実装されたもののK2では省かれた逆入光防止のための「アイピースシャッター機能」の復活などの改良が加えられ、ここにてAPをルーツとする一連の流れのカメラの完成を見ることとなった。
しかし発売された時期には『オリンパスOM-2』を端緒とする、小型軽量で普及型一眼レフ機の時代に入っており、発売後間もなく次世代の小型軽量化されたMシリーズが登場しそちらが主力製品となったため少数が生産されるにとどまった。プロなどの上級者向け機種ということを意識したためブラックボディを中心に販売されたが、極少数クロームボディのものも存在する。
K1000
1986年6月発売。もともと1976年から輸出専用機種として、KMの「セルフタイマー機能」と「プレビュー機能」を省いた廉価機種として生産されていた機種。しかし、マルチモードAEカメラの全盛期であった1980年代後半、天文撮影や写真・美術系学生など一部に残っていた、要最低限の機能しかない機械式フルマニュアルカメラの需要に応えるべく、国内発売が開始された。
名称の"1000"は輸出版の名称でよく使われていた最高シャッター速度(1/1000秒)の数値より由来するものと思われる。1995年までの長期間に渡って国内外にて販売されたため数度のマイナーチェンジがあり、一例として国外にて発売された初期型の金属外装機やプラスチック外装機(国内発売された最後期型)などがある。国内発売時期の関係から、Kシリーズではこの機種のみが"AOCOマーク"と"ASAHI"銘の存在しないペンタックスブランドの機種となる。
なおペンタックスがM42マウントからKマウントに切り替えた時期は、ニコンが旧ニッコール(いわゆるガチャガチャ)からAi化し、キヤノンはFLからFD化、ミノルタは旧SRからMC化、オリンパスはOMシリーズをリリースするなど、国内大手メーカーが新世代に移行する時期でもあった。
ペンタックスMシリーズ
新たな時代と実質的な需要である「小型軽量化」、「電子化によるAE化」、「システムの充実」を目指し、特に当時の小型軽量一眼レフカメラの代表格であったオリンパスのOMシリーズへの対抗製品として、特に小型軽量化に重点を置いて開発されたシリーズである。高性能化を志向していたOMとは異なり機能のスリム化を重視しており、旭光学独自の小型軽量化路線への考え方が現れている。筐体の小型軽量化に合わせてボディ設計も従来のK(SP)シリーズから一新された。当初は継続して"アサヒペンタックス"の名称が使われていたが、MV1より"アサヒ"が外れ、"ペンタックス"ブランドとなった。
このMシリーズより各部の電子化がより進められ、ファインダー内の露出計表示が従来までの「アナログ式の指針」による追針式露出計から「LED」を採用した定点式のものとなった。電子回路も大幅な進歩をとげ、K2のものよりも更なる小型化が実現した。またTTL露出計もカメラ専用露出計として開発され、かつ中央重点測光に適しているGPD(ガリウム・ヒ素・リン・フォト・ダイオード)が従来のSPDに替わって採用された。ファインダースクリーンの合焦補助機構も従来の「マイクロプリズム」に加えて「スプリット・イメージ」が追加され、よりピント合わせがしやすくなった。あわせて電子制御による縦走行式シャッターユニットの実装や、外装のプラスチック化、アナログ式ではなく電子ボタン式の入力操作系が採用されている。
アクセサリは従来のK(SP)シリーズから一新され、新規の様々なアクセサリー群が用意された。ファインダー系アクセサリー用のアイピースのスリット幅はこのシリーズから変更され、現行のKマウントデジタル一眼レフまで変更されていない。
MX
1976年11月発売。Mシリーズ1号機であるが、シリーズ唯一のフルマニュアル操作方式のみの「布幕横走行式の機械式シャッター搭載機」である。よって、同時に開発されたMEとは基本設計レベルから異なり、ワインダーなどのオプション品も他のME派生型機との互換性もなく、独自のシステム展開がなされているのが特徴である。8年にわたって製造されたが後継機種は存在せず、電子制御カメラ一色のMシリーズのアクセントとなっている。全高を抑えるためにシャッター幕の巻き取りリボンをより細くするために紐(ひも)を採用するなど、小型化への執念は凄まじいものがあり、同じ超小型軽量の機械式カメラである『オリンパスOM-1』と寸法を比較すると、幅・高さ・厚さともすべて0.5mmずつ小さくなっているのも興味深い。
その一方で、他のMシリーズ機同様、TTL露出計はMEと同様にGPDが採用されているほか、ファインダー内の露出表示も追針式からLED表示の定点式に変更されている。
ME
1976年12月発売。MXとは対照的に、シリーズのコンセプトに忠実に機能のスリム化と電子制御化を図った、絞り優先AE専用機という大胆な仕様の機種である。小型化のために超小型の専用シャッターユニットが採用されたが、MXとは異なり電子制御式の金属縦走行式シャッターユニット、『セイコーMFC-E』を採用している。このシャッターユニットは、サイズもK2で採用された『セイコーMF』と比較して縦横5mmずつ小型化され、重量も半分となっている(ME以降の電子シャッター搭載機種はすべて縦走行式シャッターユニットになった)。またTTL測光用の受光素子もMXと同様にGPDが実装された。他にもK2ではICを採用していた電子制御回路には、従来よりも大幅に集積度を向上させた、当時最新の「Bi-MOSLSI」が搭載され、応答速度の更なる向上と省電力性の両立のため、当時の最先端技術が投入されたため、MXより更なる小型軽量化が実現し、サイズは131mm×82.5mm×49.5mm、重量は460gとMXよりも35gほど軽くなった。
従来よりペンタプリズム部分に刻印され続けてきた"AOCOマーク"の刻印はこの機種以降なくなり、"ASAHI PENTAX"ブランドとしての最後の機種となった。
MV1
1979年9月発売。MEベースの普及機種。各部のパーツを共有しつつ、大幅なコストダウンとスリム化が図られた。軍艦部の素材も従来の真鍮からプラスチックに変更され、更なる軽量化を実現している。またファインダー内部のインジケーター表示も簡素化(「シグナルファインダー」と呼ばれ、露出の適正(グリーン)、アンダー(オレンジ)、オーバー(レッド)、しかない)され、より普及機としての位置付けが鮮明になった。
シリーズ中、やや違和感のあるネーミングである"MV1"は、当時の大ヒット商品であった『キヤノンAE-1』の影響があったといわれている。発売当時旭光学は、その簡易な操作方法を、「撮影者がズームレンズの操作と画作りに専念出来る様に」として『ズームシステムカメラ』と呼んでいたが、実際のところシステム的にズームとの連動性は無い。smcPENTAX-M50mm f2とのセットで\49,500と廉価であった為、かなり普及したカメラであったと言えるだろう。
この機種より"PENTAX"ブランドとして展開されることとなる。
MEスーパー(Super)
1979年12月発売。絞り優先オート撮影に特化したMEにマニュアル撮影機能を追加し、最高シャッター速度を1/2000秒に向上させるなどのスペックアップがなされた高級機種である。シャッターユニットも従来の改良型である『セイコーMFC-E2』が搭載されている。この機種よりファインダースクリーンに新規開発された『クリアーブライトマットスクリーン』が採用され、より明るくピントの山がつかみやすくなった。
マニュアル露出時におけるシャッター速度の設定方式は、「アップ」・「ダウン」の機能をあてがわれた「プッシュ式の2ボタン」であるのが特徴であり、電子シャッターを採用したことから実現した方式である。この操作方法は後の『ペンタックススーパーA』などの他、セミ判一眼レフである『645』にも採用された。
ME F
1981年11月発売。MEスーパーをベースとしたペンタックス初のオートフォーカスカメラであり、世界初の製品化されたオートフォーカス一眼レフカメラである。ペンタックス一眼レフ開発史においては第4世代のカメラと位置付けられている。旭光学工業独自のTTL電子合焦装置(TTL-EFC=TTL-Electronic Focus Control)と命名され、高精度の合焦性能を持った「コントラスト検出方式」を採用し、マウントも新たに専用のKマウントが開発され採用された。ただし、オートフォーカス駆動用のモーターは、当時のAFカメラでも見られたレンズに搭載される方式のため、対応レンズはモーターの他、電源となる電池も内蔵しており、ボデイよりも下に張り出す大柄なタイプのものであった。肝心のオートフォーカス機能も、合焦精度が高すぎたために被写体のごく微妙な動きすら検知してしまい、なかなかピントが決まらないという致命的な欠陥があった。これらの欠点により、Kマウント採用機種はこの1機種に終わり、対応レンズであるSMCペンタックスAFレンズも、ズームレンズ1種のみのリリースとなった。
現在のペンタックスのオートフォーカスレンズ(F・FA・FAJ・DFA・DA)とは測距方式も異なるなど機能の互換性はなく、オートフォーカス機能は使用できない。だが、従来のマニュアルフォーカスレンズや現行のレンズを使用した場合でも合焦検知機能は働くため「フォーカスエイド機能」は利用できる。
MG
1982年1月発売。Mシリーズ最終機種。位置付けとしてはMV1の後継機に相当するも、MV1では簡素だったファインダー内情報表示はMEと同等以上となり、そのベース機は併売されているME Fである。スペック面でも時代の変遷にあわせてほぼME相当にまで引き上げられ、ファインダー内情報表示には新たにストロボ充電完了表示が追加されており、初代のME登場から大幅な電子技術の進歩があったことを示している。
CMキャラクターは歌手デビュー前の早見優であり、当機のCMはがテレビCMデビュー作だった。オリンパスOM10(1979年)の大場久美子、ミノルタX-7(1980年)の宮崎美子と当時はよく比較された。
ペンタックスLX
1980年6月、5年もの開発期間を経て発売されたペンタックスの35mm判一眼レフにおいて、唯一のプロ用高級機である。旭光学創立60周年を記念してローマ数字の60を意味する『LX』と名付けられた。
ファインダー交換式。マウントはステンレス製。視野率縦98%・横95%。低速側(4秒~1/60)を電子式、高速側(X=1/75~1/2000)、バルブをメカで制御するハイブリッドシャッター搭載の絞り優先AE機。モータードライブは当然ながら、長尺フィルムバックなども用意され、システム面も抜かりなく、21年に亘る製造期間中最末期まで改良が続けられ、各種改造サービスもあり、まさにプロのための機体だった。そのためカメラマンのみならず警察の鑑識にも用いられた。
一般的に、製造番号等で「初期型」「前期型」「後期型」に分かれると言われる。初期型から前期型への主な変更点は、フィルムガイドローラーを裏ぶたに設置、スプロケット部の使用感の向上、ファインダー脱着ボタンを利用したファインダー内LED点灯機能の新設であり、前期型から後期型への主な変更点は、シャッターボタン部の指受皿の変更、IDM機能用のためにシャッター幕に印刷されていたドットパターンの小変更がある。様々な改良が加えられた後期型の完成度が高いとされ、中古市場でも高値で取引されているが、一方でコスト面でも改良されていることは否めない。初期型に関して言えば、ボディ底部の電池蓋のモールドのきめ細かさや、後期型とはシャッター音や感触などが明らかに異なる。
独自のダイレクト測光システムである、IDMシステム(ファインダー側に受光素子を持たず、常時ボディ側で測光する)や、封入にシリコンコーキングを用いた世界初の防塵・防滴構造など非常に特殊な機構、構造をもつカメラであり、特に防塵・防滴構造などは他社のプロ機も倣うようになった。
LXゴールド(1981年)、LXチタン(1994年)、LXLIMITED(1995年)、LX2000(2000年)と、4種類の限定版が存在する。そのひとつである『LX2000』登場時には、当時の主力製品であったMZシリーズで採用されている透過率の高い「ナチュラルブライトマットスクリーン」が採用されたが、IDMシステムを採用しているため、以前のモデルにも露出計の調整無しで使用可能である。
ペンタックスAシリーズ
ペンタックス初の「マルチモードAE機」シリーズである。
複数のAE機能を持つマルチモードAEカメラとして、まず1977年発売の『ミノルタXD』によって「絞り優先AE」と「シャッター速度優先自動露出(以降はシャッター速度優先AEと記述する)」の両AE機能が実装され、さらにその翌年(1978年)発売の『キヤノンA-1』によって「完全自動露出(=プログラム自動露出:以降はプログラムAEと記述する)」が実現した。そのような時代背景の中で旭光学は依然として絞り優先AE機であるMシリーズに重点を置いていたが、他社が続々とマルチモード化、プログラムAEの実装などのエレクトロニクス面での開発競争に入ったため、遅れを取った旭光学はより精度の高いマルチモード機を実現すべく開発に取り組んだ。
機能的には外観がMシリーズに酷似していることから、同シリーズの延長上に位置するように思われがちであるが、実際は旭光学工業初の電磁レリーズ、電子セルフタイマーの実装など大幅なエレクトロニクス化が行われており、ペンタックス独自のより高精度な「絞り位置制御方式」によるマルチモードAE対応が行われ、これの実現のため新たな絞り値伝達用の電子接点つきのKマウントが採用され、「シャッター速度優先AE」と、「プログラムAE」が可能となった。またこのシリーズよりすべての機種がポリカーボネートなどのプラスチック系素材による外装となり(『LX』、『MZ-S』を除く)、更なる軽量化と電子カメラとしての耐ショック性の向上、ボディ外装デザインの自由度が増すことになる。
マウント対応レンズとして開発されたSMCペンタックスAレンズ(以下「Aレンズ」)も同時に用意され、絞り環に最小絞り値のとなりに新たに自動露出を意味するA位置が設けられており、この位置に設定しておけば、カメラ側から自動的に絞り込まれる。
スーパーA (super A)
1983年3月発売。ペンタックスカメラ初のマルチモードAE機種である。発売当時はマルチモードカメラとしては最多のモード数である「プログラムAE」、「絞り優先AE」、「シャッター速度優先AE」、「マニュアル」、「TTLオートストロボ(ダイレクト測光式)」、「外光オートストロボ」の6種の露出モードを実装。それ以外にも新機軸を盛り込んだ時代の最先端を行く機種であった。外装デザインは従来のMEシリーズを踏襲しつつ、LXのイメージを取り入れられ、ファインダーの採光窓、取り外し式のグリップ、メモホルダー兼用グリップ付きの裏蓋など、斬新なものになった。内部機構は大幅な電子化が進められ、初の電磁レリーズの実装、電子式セルフタイマー、ファインダー内表示の液晶(LCD)化、新規開発のモータードライブ装着により秒3.2コマ実現など、目立たないところで大幅に進化している。Aレンズとの組み合わせによって、より正確な絞り制御が可能となった。その技術が高く評価され、同年「ヨーロピアン・カメラ・オブ・ザ・イヤー'83」を受賞。1984年4月には受賞記念限定モデルも発売された。海外では『SUPER PROGRAM』の名称でクロームボディのみ発売された。
プログラムA (program A)
1984年3月発売。Aシリーズの普及機種である。スーパーAで6種あった露出モードから「シャッタースピード優先AE」、「TTLオートストロボ」を省略し、最高シャッタースピードも1/2000秒から1/1000秒へとスペックダウンされている。外見はほぼ差がないものの液晶表示によるシャッター速度パネルがなくなっており、内部構造もコストダウンのために大幅に簡略化されている。一方、誤作動しやすいと不評だった電子セルフタイマー機構の位置が改められるなどの改良点は、続く『ペンタックスA3デート』にも受け継がれている。逆説的にはMEスーパーにプログラム機能を追加した機種であると言える。ブラックボディ、クロームボディがある。海外では『PROGRAM PLUS』の名称で発売された。
A3デート(A3 DATE)
1985年3月発売。ペンタックス初のワインダー機構内蔵機種であり、データバック(裏蓋交換によるデート印字機能)を標準実装した機種である。ワインダー内蔵に伴い「オートローディング機構」もあわせて実現し、規定位置までフィルムを伸ばしてフィルムカバーを閉じると自動的に1コマ目まで巻き上げられるようになった。ただし、巻き戻し操作は"そのほうが速い"といった理由から手動となっている。
装填フィルム確認用の"覗き窓"と、パトローネのDX情報により自動でISO感度を設定する機能も設けられ、背面フィルム室蓋にあったメモホルダーが廃止された。プログラムAをベースとしながらも「マニュアルモード」が省略されるなど更なる自動化が図られている。ワインダー搭載によって横幅が広がり、軍艦部が広くなったぶん「モード選択ダイヤルが大型化」され操作性は向上している。ただし露出補正機能は簡略化され、逆光補正用の+1.5のボタンが設けられるにとどまっている。
A3デートS
1986年6月発売。A3デートの改良機種。グリップ部の貼り革(グッタペルカ)のデザインと素材が変更されホールディング性と、ファインダースクリーンの変更による合焦性能の向上などのマイナーチェンジが施されている。発売時期がPシリーズと重なったためかデザインの意匠は当時の流行が取り入れられたためPシリーズやSFシリーズに近く、クラシカルな風味を残していたAシリーズの中でも異彩を放つ機種。
ペンタックスPシリーズ
最後のマニュアルフォーカスカメラシリーズである。Aシリーズからの変更点として全機種がDXコードに対応した他、イージーローディング機構が実装されている。外装デザインも当時の流行にあわせて鋭角的なものとなり、従来のシリーズ機とは一線を画したものとなっている。本来はP(Program)の名称通り、Aシリーズをより進化させた「マルチプログラムAE」、「ワインダー」実装機種を中心としたシリーズ展開を構想していたと思われるが、実際には機能を基本的なシンプルなものに抑え、かつワインダー内蔵はやめてコストを抑え、ボタン式であったシャッター速度設定をダイヤル式に戻す(『ペンタックスP30』)など、見た目で分かりやすい操作性を目指したシンプルな機種のみのシリーズとなった。
その背景としては、発売直後に業界を揺るがした"αショック"により、その結果ペンタックスも開発ロードマップの大幅な変更を迫られ、社運を賭けた新世代のオートフォーカスシリーズ機である『ペンタックスSFX』の開発に会社が重点を置かざるを得なくなったことではないかと思われる。そのSFシリーズに「マルチプログラムAE」や「ワインダー」が標準で実装されることとなったため、Pシリーズは本来の構想から方向転換することとなり、SFシリーズのマルチモードAE機能に特化されてしまった感のある操作性に馴染めない層をフォローする下位機種的な役割と、旧来のマニュアルフォーカスカメラから新世代のオートフォーカスカメラへの橋渡し的な役割を担うシリーズに方向転換されてしまったのが真相かと思われる。
マニュアル撮影と必要最低限のプログラムAE機能による撮影のみの、マルチプログラムAEカメラ全盛期にあってあえて機能を絞り込んだ廉価機中心のシリーズ展開であったが、数々の新機軸を実装したためある一面においては走りすぎた感のあったSFシリーズの影で『ペンタックスK1000』とともにシンプルな機能を求める層に訴求したシリーズであったといえる。『ペンタックスP30』の派生型である『P30T』はオートフォーカス化後も『ペンタックスMZ-M』の登場まで発売されている。
P30 /デート
1985年10月発売(『デート』は1986年6月発売)。「マニュアル露出モード」と「プログラム全自動露出モード」のみの、きわめてシンプルかつ白黒のはっきりとした大胆な仕様のカメラである。外部ケーブルレリーズ用ソケットも省略され、またデザイン面ではシャッター速度設定がダイヤル式操作に戻ったことから、一見するとAシリーズよりも退化したようにも見えるが『K2DMD』以来の「メモリーロック機構(AEロック)」が実装されているほか、内部の電子回路もより進化しており、実用的な機能に絞り込まれた堅実な機種であるといえる。発売当時は『α-7000』による"αショック"の真っ只中にあり、各社も総力を挙げてオートフォーカスカメラ製品の開発に重点を置いていたため普及機とはいえスペック的に物足りない感が否めないものの、必要最低限の機能は抑えてある機種となっている。
P50デート
1986年9月発売。Pシリーズ最高級機である。スーパーAの後継機種的な色合いが強く、モータードライブなどのアクセサリーは共通である。プログラムモードは「シャッター速度優先ライン」と「被写界深度優先ライン」の複数を持ち、ペンタックス初のマルチプログラムAE機となった。またボディに大型の液晶情報パネルが実装され、従来機種と比較して設定情報がより分かりやすくなった。モードボタンやEFボタンと上下ボタンを組み合わせて設定する方式は、1984年に発売されたペンタックス645と非常に近いものとなっている。普及機種としてはペンタックスで初めて露出補正機能が1段単位から1/2段単位になり、よりAEカメラとしての使い勝手が向上している(これ以降の機種では1/2段単位が標準となった)。ただ翌年発売されることとなる『ペンタックスSFX』を考慮した販売戦略の影響もあってか、スペック面ではスーパーAよりも抑えられている。
P30
1989年4月発売。P30に「絞り優先AE」と「外部ケーブルレリーズ用ソケット」が追加された派生機種である。これによってシンプルすぎてむしろ初心者には使いづらい点が改善されている。デザイン面では、モデル名は前面から軍艦部上面に移動し、グリップ部に「P30」とモデル名が大きく彫りこまれている。これは同時期に発売されていたSFシリーズと共通のデザインである。
P30
1991年6月発売。P30Nの外装をチタンカラー化(チタン製ではない)し、ファインダースクリーンのスプリットイメージを斜めに切り、縦位置でのピント合わせの向上が図られている派生機種である。時期的にはすでに2世代目のオートフォーカス機シリーズ製品であるZシリーズの1号機である『ペンタックスZ-10』とともに発売され、希少なマニュアルフォーカス機としてK1000とともに『ペンタックスMZ-M』が発売されるまで販売された。
ペンタックスMZシリーズ
オートフォーカス機が主体であるMZシリーズであるが、マニュアル専用機としてMZ-Mが発売された。なおMZシリーズ全般及びMZ-M以外の各機種については、ペンタックスのフィルム一眼レフカメラ製品一覧:35mm判(KマウントAF機種)を参照されたい。
MZ-M
1997年11月発売。MZ-3とMZ-5をベースとし、マニュアルフォーカスカメラを必要とする層に向けて販売すべく登場した、シリーズ唯一のマニュアルフォーカス機である。コストダウンのためにプラスチック製マウント、ペンタミラーの採用、内蔵ストロボの省略がなされたが、ファインダースクリーンはスプリット・マイクロプリズム式を採用し、電子プレビュー機能、ワインダーの搭載など、最新マニュアルフォーカス機として必要最低限の機能は確保されている。マニュアル機ながらKマウントが採用されており、Fレンズ群以降の情報伝達機能が装備されている。
当機種の登場にあわせ、Aレンズのズームが2種類発売された。外見は当時主流のFAレンズに酷似している。
脚注
関連項目
PENTAX
PENTAXのカメラ製品一覧
PENTAXのフィルム一眼レフカメラ製品一覧:35mm判(KマウントAF機種)
PENTAXのフィルム一眼レフカメラ製品一覧:中判・110フィルム用
PENTAXのフィルムコンパクト・APSカメラ製品一覧
PENTAXのデジタルカメラ製品一覧
PENTAXの写真レンズ製品一覧
一眼レフカメラ
レンズマウント
写真レンズ
写真フィルム
デジタルカメラ
参考文献
豊田堅二『入門・金属カメラオールガイド』カメラGET!-スーパームック第11巻、CAPA編集部、学習研究社、2003年7月20日、ISBN 4-05-603101-0
中村文夫『使うペンタックス』クラシックカメラ-MiniBook第10巻、高沢賢治・當麻妙(良心堂)編、双葉社、2001年5月1日、ISBN 4-575-29229-X
那和秀峻『名機を訪ねて-戦後国産カメラ秘話』日本カメラ社、2003年11月25日、ISBN 4-8179-0011-3
『アサヒカメラニューフェース診断室-ペンタックスの軌跡』アサヒカメラ編集部、朝日新聞社、2000年12月1日、ISBN 4-02-272140-5
『往年のペンタックスカメラ図鑑』マニュアルカメラ編集部、枻文庫、2004年2月20日、ISBN 4-7779-0019-3
『ペンタックスのすべて』エイムック456-マニュアルカメラシリーズ10、枻出版社、2002年1月30日、ISBN 4-87099-580-8
きんえんいちかんれふかめらせいひんいちらん35みりはんけーまうんとえむえふきしゆ
カメラ製品の一覧 | 0.690737 |
1598217 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%B7%A5%E5%AD%A6%E7%A7%91 | 社会工学科 | は、日本の大学の学科のひとつ。
学科に所属する教授陣は、工学者として事象や現象を定量的に解明する分野、経営工学・管理工学などや、政策学、経済学、経営学、社会学などの社会科学、さらに観光学・都市工学・建築学・景観学などまで、その専攻や専門分野はさまざまである。
設置大学
東京工業大学工学部に社会工学科、大学院社会理工学研究科に社会工学専攻が設置されていたが、東京工業大学環境・社会理工学院開設にともない、現在は改組し消滅。
名古屋工業大学工学部では建設系学科の名称に都市社会工学科と社会開発工学科、大学院工学研究科の建設系専攻の名称を社会工学専攻としていたが、2016年度から学部も社会工学科とし、建築・デザイン、環境都市、経営システムの各分野を開設。
筑波大学は、1977年に第三学群を開設の際、社会工学類を創設。1978年には大学院博士課程社会工学研究科を開設し、現在筑波大学理工学群に社会経済システム学、経営工学、都市計画学を主専攻にする社会工学類を設置している(通称は社工)。
豊橋技術科学大学では学術専攻分野を9つの系に分類、九系として人文、社会工学系(人文・社会工学課程)を設置。この系に計画・経営科学と社会文化学の各講座を開設している。
北海道大学工学部では建設系学科の名称を環境社会工学科としている。崇城大学大学院工学研究科では、建設系専攻の博士後期課程を環境社会工学専攻という名称にしている。
九州工業大学工学部も建設社会工学科、また大学院工学研究科も建設社会工学専攻という名称にしている。
京都大学大学院工学研究科では、建設系専攻の一部に、ライフライン工学講座などを開設している都市社会工学専攻という名称を使用している。
なお専攻によって所定の課程と実務経験を経て、建築士や施工管理技士などの建設系資格の受験資格を得ることができるほか、すべての専攻で技術士一次試験の受験科目のうち、共通試験は免除対象となる。
関係人物
(分野の研究者)
楠本捷一朗-元筑波大学社会工学類長・大学院社会工学研究科長。専門は、数理経済学。
佐藤英夫-元筑波大学社会工学系教授。専門は、国際関係論や対外政策論など。
斯波恒正-経済学者で筑波大学大学院社会工学研究科長、一橋大学教授を歴任。専門は計量経済学、計量ファイナンス。
坂下昇-経済学者。筑波大学名誉教授。筑波大学社会工学類長を歴任。
安田八十五-環境政策学者。工学博士。関東学院大学経済学部教授。東京工業大学理工学部数学科卒。筑波大学大学院社会工学系助教授を歴任。
金子守-経済学者で専門は情報科学・ゲーム理論。理学博士。東京工業大学出身。早稲田大学教授。筑波大学社会工学系などを経て現職。
坂野達郎-東京工業大学教授。元日本計画行政学会会長。
鈴木賢一-専門は金融工学。2008年現在、東北大学大学院経済学研究科准教授。東京工業大学大学院社会理工学研究科社会工学専攻出身。
蒲島郁夫-元熊本県知事。東京大学名誉教授。筑波大学社会工学系講師を歴任。
北川啓介-建築家で名古屋工業大学大学大学院工学研究科つくり領域社会工学専攻講師をへて創成シミュレーション工学専攻准教授。
宇野公子-専門は地域経済学で、東京外国語大学教授。東京工業大学大学院社会工学研究科博士課程単位取得退学。
熊田禎宣-計画理論などが専門。東京工業大学名誉教授。日本計画行政学会会長、日本地域学会会長など歴任。
橋本俊哉-観光学者で東京工業大学理工学研究科社会工学専攻博士課程修了。著書に「観光回遊論ー観光行動の社会工学的研究(風間書房)など。
海野道郎-専門は社会学、数理社会学、環境社会学で東北大学大学院文学研究科教授。東京工業大学大学院理工学研究科出身。関西学院大学などで研究と教育に従事してきた。
梶井厚志-経済学者で専門はゲーム理論・数理経済学。京都大学教授。筑波大学社会工学系などを経て現職。
戸田裕之-経済学者で筑波大学社会工学系教授も歴任。
赤根谷達雄-政治学者で専門は、国際政治経済学、安全保障論。筑波大学社会工学系教授も歴任。
根本敏則-専門は交通経済学で一橋大学名誉教授。東京工業大学工学部社会工学科出身。
中村英夫-土木工学系の工学者。東京工業大学工学部教員時代、社会工学科の助教授を歴任。
佐藤俊樹-現在東京大学大学院総合文化研究科教授。東京工業大学工学部社会工学科助教授を歴任。
中妻照雄-慶應義塾大学経済学部教授。筑波大学大学院社会工学研究科修了。
松井彰彦-筑波大学社会工学系助教授等を経て、東京大学教授。経済学者で、ゲーム理論を専門とする。
小野善康-東京工業大学工学部社会工学科卒。武蔵大学助教授、大阪大学教授、東京工業大学教授を歴任し、1999年から大阪大学社会経済研究所教授。
福地崇生-経済学者。朝日大学経営学部・同大学院経営学研究科教授で筑波大学社会工学系教授歴任。
片田敏孝-防災学者。群馬大学工学部で防災災害社会工学研究室を主宰。
山田奨治-情報学者。工学博士。国際日本文化研究センター准教授。筑波大学第三学群社会工学類卒。
大野健一-筑波大学社会工学系助教授、埼玉大学大学院政策科学研究科教授を歴任。
宮川公男-経営学者。一橋大学名誉教授。麗澤大学名誉教授。商学博士。筑波大学社会工学系教授を歴任。
山田真裕-博士(法学)。筑波大学社会工学系助手などを経て、現職。
瀬尾佳美-青山学院大学国際政治経済学部国際経済学科准教授。筑波大学社会工学研究科博士修了。
大橋勇雄-専門は労働経済学で現在は中央大学ビジネススクール教授。一橋大学名誉教授。経済学博士。筑波大学社会工学系助教授を歴任。
中山幹夫-経済学者。専門はゲーム理論。慶應義塾大学経済学部教授、理学博士。東京工業大学工学部社会工学科出身。
高橋伸夫-東京大学教授。筑波大学大学院社会工学研究科博士課程出身。
柴川林也-経営学者で一橋大学名誉教授。筑波大学社会工学系長、一橋大学商学部教授を歴任。
古川俊一-筑波大学社会工学系教授、慶應義塾大学法学部・学習院大学法学部。
黒川紀章-シンクタンク・株式会社社会工学研究所の設立者。
牛尾治朗-株式会社社会工学研究所の設立者。
楠田實-元・株式会社社会工学研究所理事長。
木暮剛平-元・株式会社社会工学研究所取締役
松崎哲久-元・株式会社社会工学研究所政治分析センター主幹。
古田隆彦-社会学者。元・株式会社社会工学研究所取締役研究部長。未来予測の諸手法を社会工学的に研究。
香山健一-政治学者。学習院大学時代は社会工学の授業を担当。
翁邦雄-専門は金融論で現在は中央大学研究開発機構教授。前日本銀行金融研究所長。筑波大学社会工学系助教授を歴任。
二階堂副包-経済学者で、一橋大学、東京国際大学名誉教授。専攻は数理経済学。理学博士筑波大学社会工学系教授を歴任。
山本拓-専門は数量経済学・計量経済学。一橋大学教授。筑波大学社会工学系教授を歴任。
林雄二郎-社会工学者。東京工業大学に社会工学科が新設される際教授に。
中村良夫-土木工学系の景観学者。東京工業大学工学部社会工学科、京都大学工学部教授を歴任。
(出身者)
岩井克行-アナウンサー。筑波大学社会工学類卒。
梶並伸博-ベクター創業者・社長。東京工業大学社会工学科卒。
小早川智明-東京電力ホールディングス社長。東京工業大学社会工学科卒。
杉田浩章-元ボストン・コンサルティング・グループ日本代表、早稲田大学教授。東京工業大学社会工学科卒。
竹原均-経済学者。早稲田大学教授。元日本ファイナンス学会会長。筑波大学社会工学類卒。
田中秀明-財務官僚で、財務総合政策研究所総括主任研究官等を経て、明治大学教授。東京工業大学大学院社会工学研究科修士課程修了。
土岐大介-元ゴールドマン・サックス・アセット・マネジメント社長、元日本証券投資顧問業協会副会長。筑波大学社会工学類卒。
中井検裕-都市計画研究者で、東京工業大学教授。日本都市計画学会元会長。東京工業大学社会工学科卒。
中田浩二-日本代表選手の経験もある元サッカー選手。2014年に選手を引退し、2018年4月から筑波大学大学院で社会工学を学ぶ。
兵頭二十八-軍事評論家だが、東京工業大学大学院理工学研究科社会工学専攻博士前期課程修了。
松島法明-経済学者。大阪大学栄誉教授、公正取引委員会競争政策研究センター所長。東京工業大学社会工学科卒。
山下徹- NTTデータ社長や内閣府公益認定等委員会委員長を歴任。東京工業大学社会工学科卒。
山本忠通-国連事務総長特別代表。東京工業大学社会工学科卒。
脚注
関連項目
社会工学
社会科学
経営工学
データサイエンス
社会環境工学科、社会交通工学科、社会基盤工学科-建設系学科のひとつ。
建設学科(建設社会工学科、社会開発工学科等)
社会理工学研究科-経済政策や公共政策を数理的・定量的に分析、理論解明する研究専攻、社会工学専攻などが設けられている。
インフラストラクチャー
都市計画-都市工学
総合政策学
参加型デザイン-アクションリサーチや社会工学設計(Sociotechnical Design)をともなう。
ELIZA効果
大学の学科
科
科
科
日本の社会科学
日本のインフラ | 0.690729 |
1513972 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E5%9F%BA%E7%9B%A4%E5%B7%A5%E5%AD%A6%E7%A7%91 | 社会基盤工学科 | 社会基盤工学科(しゃかいきばんこうがくか)は、大学の学科の一つ。一般的に土木工学科の学科名称が改称したものであり、土木技術の教育、研究がなされる。
社会基盤工学を持つ日本の大学
北海道工業大学
東京大学(社会基盤学科)
岐阜大学
室蘭工業大学は、工学部建築社会基盤系学科建築と土木工学コース→理工学部創造工学科昼間コース建築土木工学コースに。
大阪大学工学部には地球総合工学科に社会基盤工学科目がある。
名城大学理工学部には社会基盤デザイン工学科
関連項目
土木
土木工学科
社会環境工学科
都市工学
環境都市工学
土木工学
大学の学科
日本のインフラ | 0.690516 |
976034 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%81%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%BC | レンチキュラー | レンチキュラー(lenticular)とは、シート状のを用いて、見る角度によって絵柄が変化したり、立体感が得られたりする印刷物のことである。数cm角の小型のものから、建物の壁面に取り付けられている広告板などの大型のものまである。裸眼式の3次元ディスプレイにも用いられる。
構造
レンチキュラーの構造は、レンチキュラー画像と呼ばれる画像の上に、表面に微細な細長いカマボコ状の凸レンズが無数に並んだシート(レンチキュラーレンズ)が配置されている。シートは透明なプラスチック製のものが使われている。画像を印刷した印刷物の上にシートを貼り合わせるか、シートの裏面に直接画像を印刷して作られる。レンチキュラー画像は、2つ以上の画像を細長く短冊状に切り、切った画像をインターレース状に順番に並べて1枚の画像にする。画像の1つの細片ごとに1つの凸レンズが載るように貼り合わせる(または印刷する)必要がある。位置がずれてしまうときれいに見ることができない。3次元ディスプレイでは、ピクセルの列とレンチキュラーの並びを一致させ、一列置きに異なる画像を表示させる。
使用例
レンチキュラーにより以下の3種類の効果を得ることができる。
見る角度によって絵柄が変わるもの。全く異なる複数の画像を組み合わせて使う。
アニメーション効果のあるもの。少しずつ異なる画像を多数枚組み合わせる。目を動かしていくと動画を見ることができる。
3D効果のあるもの。左目用と右目用の、視差が生じる2枚の画像を組み合わせる(ステレオペア)。上の2つとは違い目を動かしてみるのではなく1点から見るだけで立体感を得られる。
日本では1960年に発売されたダッコちゃん人形の目に使われ、角度によってウインクして見えるようにした。
作成
画像(複数枚必要)からレンチキュラーを作成するサービスが各社から提供されているほか、レンチキュラーを作成するキットが発売されているので、パソコンを用いて自分で作成することもできる。
関連項目
両眼視差
ステレオグラム
ホログラフィー
脚注
印刷
光学 | 0.690481 |
99007 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%83%E9%9D%A2%E9%8F%A1 | 球面鏡 | 球面鏡(きゅうめんきょう、)とは、球面の一部を切り取った面を反射面とする鏡。その内面を反射面とした凹面鏡と、外面を反射面とした凸面鏡とがある。
原理
球の中心を球心、鏡の中心と球心を結ぶ軸を光軸という。球面鏡の焦点距離は光軸上の極と球心との距離の半分である。
凹面鏡には光を集める性質(懐中電灯の集光鏡など)や物を大きく見せる性質(拡大鏡など)がある。凸面鏡は平面鏡に比べて広い範囲を映す性質(自動車のバックミラーなど)がある。
なお、球面収差を除去したい場合などに用いる完全な球面でない鏡が非球面鏡であり、反射望遠鏡に用いる放物面鏡などがある。
脚注
関連項目
凸面鏡
凹面鏡
鏡 | 0.690457 |
2267950 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A8%88%E7%AE%97%E6%A9%9F%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2 | 計算機の歴史 | 計算機の歴史(けいさんきのれきし)の記事では、計算機(計算機械)やコンピュータの歴史について述べる。また、コンピュータは計算機械であるばかりでなく、同時に情報処理機械でもあるので、本項でも計算機械に限らずデータ処理機械にも触れる。あまり一般的な語ではないが「コンピューティング」の歴史だと捉えるとよいであろう。
概要
計算の歴史の中での位置づけ
人間がおこなう暗算以外の計算は、小石などをカウントしたことにはじまり、数字を書き記す技法が発展し、やがて手動操作をおこなう器具が生まれた。ネイピアの骨や算木、計算尺など、数学を応用した器具も作られた。一方、機械により器具のけた上がりなどを自動化するアイディアも生まれ、これが計算機械の原点である。より大がかりな計算を機械により自動化することが試みられるようになり、またアナログコンピュータも発達した。やがて電気工学が、次いで電子工学が計算のために応用されるようになり、また数学においても計算というものを機械的に定義するといったことがおこなわれた(計算模型)。そして今日につながるプログラム内蔵方式のコンピュータとなった。
コンピュータの歴史概略
コンピュータの歴史において一体何が行われてきたのかについて、もしもほんの一行ほどで要約するならば、計算機の高機能化、高速化、低価格化、大容量化が行われてきたのだ、ということは言えるであろう。
計算機械の歴史とは、まず第一にコンピュータアーキテクチャ(入出力、データ格納、演算や制御を行うシステムの構成)の歴史である。また、それはシステムの各装置を構成する電子部品や機械の歴史でもある。また、ある機種から次の機種への更新の際に、それが高速化や記憶容量の増大である場合もあれば、同じ能力でコストや大きさが小さくなったという場合もある(両方、という場合もある)。
自動計算機が開発される以前、ほとんどの計算は人間が手で行っていた。人間の計算を補助する器具は「計算器」、機械は「計算機」と呼ばれる。計算器を使って計算することを生業とする人間を計算手(英語でコンピュータ)などと呼んだ。計算手(19世紀末に女性が採用されるようになり、第二次大戦前には女性が多数採用された)が大勢並んで大きな部屋で計算器または計算機を使って計算を行っている写真がいくつも残っている。例えば、航空機設計に必要な航空力学的計算などをそのようにして行った。
ENIACなど、1950年頃のコンピュータのいくつかに見られる「A」は「自動計算機」の「自動」の意味である。「自動でない計算機」の例としては、そろばんや電卓をイメージすればよい。後者では四則演算までは機械がやってくれるが、条件判断をともなう繰り返しが必要な複雑な計算は人間の操作として行う必要がある。ここで、それまでの計算機と「コンピュータ」の大きく異なる点は、条件判断を含むプログラムを実行できることと、そのプログラムを内蔵できる、ある程度大きな記憶容量を持つという点である。コンピュータは、数値計算の自動化を可能にし、また数値計算に限られない一般的な様々な記号操作の自動化を可能にした。
コンピュータは単に計算用プラットフォームというだけでなく、製造工程の自動化、電気通信、装置制御、娯楽、教育などに使われてきた。様々な分野からの要求で新たなハードウェアが発展してきた。例えば、より直感的で自然なユーザインタフェースのためにタッチパネルが考案された。
紙に数字を書いて計算するのは別として、最初の計算補助器具は四則演算の対象となる数値を人間の手で設定し、手で操作して演算を行う簡単な器具だった。比較的最近の洗練された例として計算尺がある。計算尺では対数尺上の目盛りで数値を表し、カーソル線を合わせて滑尺を滑らせ演算を行う。数値はこのように連続な「アナログ」値として表すことができ、数値に対応して電圧などの何らかの物理量を設定することで表すことがある。ヴァネヴァー・ブッシュが第二次世界大戦前に開発した微分解析機などは、そのようなアナログ計算機の一種である。また数値は数字の並び(ディジタル)という形でも表現でき、機械によって自動処理できる。前者は物理量に対応させているためにダイナミックレンジが物理に制限されるのに対し、後者は数で表現しているため必要なだけ桁数を増やすことで精度の要求に対応できる。
アナログとデジタルの機械式計算技法はどちらも発展していき、多くの実用的計算機が生まれた。電気的技法は当初機械式計算装置の動力源として使われ、後に数値を直接に電気で表現することで、計算機の速度と精度が急激に改善されていった。数値を離散的な二進または十進の数字の並びで電気的に表し、継電器による組み合わせ回路を使って演算することができる。電子工学により、数値を電圧や電流値で表し、それらを増幅回路で操作することもできるようになった。
電子工学の発展によって、機械式や電気機械式の従来の計算機よりも高速な電子式計算機が可能となった。真空管はその後半導体を使ったトランジスタに置き換えられ、さらにすぐさま集積回路へと高度化した。集積回路はいくつかの半導体技術の世代交代と、絶え間ない指数的な微細化の向上で、手指の爪ほどの大きさの半導体チップ上に数百万個の電子的な論理素子が作られるようになった。これにより、高速かつ低価格のディジタル・コンピュータが広く普及することになった。
計算器具
計算を補助する器具の使用は数千年前から始まり、多くはふつうに指で数を数えるのと同様のやりかたである、1対1に対応させて使うものだった。最初期の計数器具としてはtally stickと呼ばれる原始的な割符のようなものがあった。肥沃な三日月地帯で広く使われた記録保管法としては、小石(粘土球、粘土錐など)を家畜や穀物の数のぶんだけ容器に入れて封印しておく方法があった。同様の例として算木がある。
最初期の算術器具としてそろばん(アバカス)がある。「ローマそろばん」(en)は紀元前2400年ごろバビロニアで使われ始めた。その後、様々な計算用の盤や卓が発明されてきた。中世ヨーロッパではテーブルにチェック柄の布を広げ、その上でマーカーをある規則に従って動かし、金額を計算するということが行われていた。
機械式計算機は古代から中世にかけて、天文学に関する計算を行う目的で何度か考案されてきた。古代ギリシア(紀元前150年から100年ごろ)ではアンティキティラ島の機械やアストロラーベが作られており、既知の最古のアナログコンピュータとされている。似たような初期の器具として星座早見盤やアブー・ライハーン・アル・ビールーニー(紀元1000年ごろ)の発明した計算機械、アッ=ザルカーリー(紀元1015年ごろ)の発明したどの緯度でも使えるアストロラーベなどがある。他にも中世イスラムでは天文学者や技術者が様々な天文用アナログコンピュータを作っており、中国では宋代の蘇頌(en、紀元1090年ごろ)が天文時計の塔を作った。
1206年、アル=ジャザリが「城時計」という天文時計を発明。世界初のプログラム可能なアナログコンピュータとされている。黄道十二星座、太陽と月の軌道、月相を示すことができる。月相を表した針が門の上を移動し、門が1時間おきに自動的に開く。そして、5体のロボット楽団が音楽を演奏する。その動力源は水車で駆動されたカムシャフトでてこを操作することで得られていた。昼と夜の長さをプログラムの変更で変えられるようになっていた。
スコットランドの数学者で物理学者のジョン・ネイピア(1550-1617)は、乗算と除算がそれぞれ元の数の対数の加算または減算で実現できることに気づいた。世界初の対数表を作る過程で多数の乗算を行う必要があったため、ネイピアは乗算と除算ができるそろばんのような器具「ネイピアの骨」を考案した。実数は直線上の距離または間隔として表現できることから、1620年代に計算尺が発明され、乗算や除算がそれまでより格段に素早く行えるようになった。計算尺は技術者や仕事上で数学的な計算を必要とする人々が数世紀に渡って使い続け、最終的に電卓の登場で役目を終えた。
機械式計算機
ドイツの博学者ヴィルヘルム・シッカートは1623年にcalculating clockを設計したが、製作中の1624年に火事で破壊され、シッカートは完成をあきらめた。1957年に2枚のスケッチが発見されたが、既に計算機の歴史に影響を及ぼすには遅かった。
1642年、まだ十代だったブレーズ・パスカルが計算機の先駆的研究を始め、3年後に完成させて50台の試作機を作った。このため一般にパスカルが機械式計算機の発明者とされている。その後10年間に20台の(Pascalineと称した)計算機を作った。
ゴットフリート・ライプニッツは1672年、Pascalineを改良して乗除算を直接計算できるようにしたStepped Reckonerを発明。重要な点は段付歯車(en)機構である。ライプニッツは「立派な人間が労働者のように計算などという誰でもできることに時間をとられるのは無駄だ。機械が使えたら誰か他の者にやらせるのに」と言ったという。ライプニッツは二進法の提唱者でもあり、今日のコンピュータは全て二進法に基づいて動作している。しかし1940年代ごろまで、計算機は十進法を使っていることが多かった。ENIACのリングカウンタは機械式計算機の数字歯車の動きをエミュレートしたものだった。
1820年ごろ、チャールズ・ザビエ・トーマスが世界初の量産された機械式計算機アリスモメーターを作った。これは四則演算が可能だった。ライプニッツの計算機を元にしている。
バベッジの機関については別に述べる。
日本では矢頭良一が1903年に自働算盤という機械式計算機の特許を取得。歯車式で1個の円筒と22枚の歯車などで構成されている。乗算の桁送りと計算終了を自働判定する機能もある、とされている。200台以上が主に軍や政府に売れた。
手回し式の機械式計算機は1970年代ごろ、電卓にとってかわられる直前までさかんに使われ続けた。addiator、コンプトメーター(en)、モンロー計算機(en)、クルタ計算機、Addo-X、などがある。日本では「タイガー計算器」が代名詞となった。
20世紀になると、機械式計算機、キャッシュレジスター、会計機などは電動機で駆動されるようになった。「コンピュータ(計算手)」という言葉は、そういった計算機械を使って計算を行う職業を意味していた。1920年代、ルイス・フライ・リチャードソンは天気予報に興味を持ち、多数の計算手を集めて気象モデルの数値解析を行うことを提案した。今日でもナビエ-ストークス方程式を使った気象データの数値解析には強力なコンピュータが必要である。
1930年代ごろからフリーデン計算機、マーチャント計算機、モンロー計算機といった企業が四則演算のできる機械式計算機を製造販売し始めた。マンハッタン計画において、後にノーベル賞を受賞したリチャード・P・ファインマンの指揮で多数の女性数学者を計算手として集め、微分方程式の数値解の計算を行った。真空管を使った初期のコンピュータは信頼性が低かったため、マーチャント計算機では八進法版の機械式計算機を発売。コンピュータの計算結果の検算に使った。
1948年、クルタ計算機が登場。小型で携帯可能な機械式計算機である。1950年代から1960年代にかけて、様々な機械式計算機が登場した。
こういった計算機は電卓によっておきかえられた。
世界初の完全電子式の卓上計算機はイギリスのANITA Mk.VII (1961)で、表示にはニキシー管を使い、177本の小型サイラトロン管を使っていた。1963年6月にはフリーデンがEC-130を発売。こちらはトランジスタを使い、5インチのブラウン管に13桁の数値を表示し、逆ポーランド記法を採用していた(価格は2200ドル)。後継のEC-132では、平方根と逆数を計算する機能も追加されている。1965年にワング・ラボラトリーズが発売したLOCI-2は10桁のトランジスタ卓上計算機で、ニキシー管で表示し、対数も計算できた。
パンチカード機械
1801年、ジョゼフ・マリー・ジャカールが開発したジャカード織機は織りのパターンをパンチカードで制御するようになっていた。パンチカードを差し替えるだけで織機自体は変更せずに様々なデザインの布を織ることができる。これはプログラミングの観点で画期的な業績である。
チャールズ・バベッジは機械式の自動計算機としては非常に大規模なものを作り、また設計している。1833年、バベッジは数表作成用の階差機関の開発からより汎用的な解析機関へと興味を移した。これは、ジャカールのパンチカードをプログラムの表現に使った(ジャカード織機では、カードの穴は経糸の上げ下げを直接示すだけだが、これはコード化である)。1835年にその解析機関について記述を残している。汎用のプログラム可能なコンピュータであり、入力にはパンチカード、動力源には蒸気機関を採用し、歯車や軸の位置で数値を表すものである。元々は、ないし、階差機関は、数表を高精度で作成することを目的としていたが、より発展した構想である解析機関は、より汎用でプログラム可能な、ある種のコンピュータと言えるかもしれないものであった。設計は正しく、計画も間違っていなかった(あるいは修正可能だった)が、機械製作を担当した職人との不和など様々な要因が重なって製作が頓挫した。バベッジは気難しい男で、誰とでも論争を起こした。部品は全て手作業で作る必要があり、個々の部品の小さな誤差が積み重なって全体としてはうまく動かない可能性もあった(そもそも「必要な精度」というものは当時わかりえなかった)。したがって、部品の精度に口うるさくても仕方のない面もあった。結果として中断したプロジェクトへのイギリス政府の出資中止が決まった。ジョージ・ゴードン・バイロンの娘エイダ・ラブレスはFederico Luigi, Conte Menabreaの著した"Sketch of the Analytical Engine"を英訳し、大量の注釈を付記している。これが世界初のプログラミングについての出版物とされている。
階差機関の初期の限定的設計のものを再現する計画が1991年、サイエンス・ミュージアムで実施された。いくつかの瑣末な修正を施し、バベッジの設計通りに動くことが確認され、時代を遥かに先行していたバベッジの設計が正しかったことが証明された。部品製作にはコンピュータ制御の工作機械を使ったが、当時の職人のレベルに合わせて誤差を生じるようにしている。
ダブリン出身の会計士Percy Ludgateはバベッジの業績を知らなかったが、独自にプログラム可能なコンピュータを設計し、1909年に出版した著作にそれを記している。
以下は計算に使うこともできる(実際、おこなわれている)が、主としてデータ処理をおこなう機械、タビュレーティングマシンの話である。
1880年代末、アメリカのハーマン・ホレリスは機械で読み取り可能な形で媒体にデータを記録する方法を発明した。それまで、機械が読み取り可能な形で媒体に記録されるのは制御情報であって(ピアノロールやジャカード織機)、データではなかった。当初紙テープを試したが、最終的にパンチカードに到達した。鉄道の車掌が切符に鋏を入れる様を見て、パンチカードを思いついたという。パンチカードに穴を開けるキーパンチ機とそれを処理するタビュレーティングマシンを発明。それらの発明が現代の情報処理発展の基盤となった。機械式カウンタとして、リレー(とソレノイド)を使っている。ホレリスの発明はアメリカでの1890年の国勢調査に使われ、予定の数カ月前に集計を終え、予算も抑えることに貢献した。前回の国勢調査よりも数年短い期間で集計を終えている。ホレリスの創業した会社は後にIBMの中核となった。IBMはパンチカード技術を発展させて一連の商用データ処理機器(パンチカードシステム)を開発した。1950年ごろまでにIBMのシステムが産業界や政府で広く使われるようになっている。文書として一般人が手にするようになったカード(小切手や公共料金の明細など)には"Do not fold, spindle or mutilate"(折ったり穴を開けたり破いたりしないでください)という警告が印刷され、第二次世界大戦後の時代を表すキャッチフレーズとなった。
Leslie Comrieのパンチカード技術に関する記事やウォーレス・ジョン・エッカートの著書Punched Card Methods in Scientific Computation (1940)によれば、パンチカードシステムとパンチカードを使って微分方程式を解いたり、浮動小数点数の乗除算を行うこともできた。このような機械は第二次世界大戦中には暗号の統計処理にも使われた。左上のタビュレーティングマシンの写真には、機械の右端にパッチパネルが写っている。パッチパネルの上端には一連のトグルスイッチがある。コロンビア大学のThomas J. Watson Astronomical Computing Bureau(後のトーマス・J・ワトソン研究所)では、最先端のコンピューティングとしてパンチカードシステムを使った天文学の計算が行われていた。
パンチカードは、初期のコンピュータでも入力メディアとして鑽孔テープとともに使われた。
IBMなどパンチカードマシンのメーカーがコンピュータに乗り出してきて、コンピュータが設置された「計算センター」というものが設置されると、そこでは以下のような光景が見られた。ユーザーはプログラムをパンチカードの束の形で計算センターに提出する(プログラムの1行がパンチカード1枚に対応)。カードが読み取られて処理のキューに入れられ、順番がくるとコンパイルされて実行される。結果は提出者の何らかの識別と共にプリンターで印字され、計算センターのロビーなどに置かれる。多くの場合、その結果はコンパイルエラーや実行エラーの羅列であり、さらなるデバッグと再試行を必要とする。パンチカードは今でも使われており、その寸法(および80桁の容量)が様々な面で影響を及ぼしている。その寸法はホレリスのころのアメリカ合衆国の紙幣と同じで、紙幣を数える機械が流用できるためその寸法を採用した。
アナログ計算機
ディジタルな機械式計算機も存在はしていたが、第二次世界大戦以前、アナログ計算機が「最先端」であった。未来の計算機の発展はこの方向であると考える者も多かった。アナログ計算機は、歯車の位置や動き、あるいは電子部品における電圧や電流といった小規模の物理現象の数学的特性が、例えば弾道運動、慣性運動、共鳴現象、エネルギー伝達といった物理現象の数学的特性と極めてよく似ていることを利用する。つまり、アナログ量として電圧や電流といった電気的な量を使い、物理現象をモデル化する。
アナログ系は他の系の電気的相似物として形成されるもので、その電気的相似物を観測することで対象の系の振る舞いを予測する。特に積分方程式や微分方程式を表すのが得意であり、そういった方程式を解くのに使える。例えば、1928年に作られたwater integratorはアナログ量として水を使っている。電気を使った例としては、1941年のMallock machineがある。プラニメータは地図上の距離をアナログ量として積分を行う(面積を求める)機器である。現代のコンピュータがアルゴリズムとして定式化可能であればどんな情報処理にも対応できるのとは異なり、アナログ計算機には柔軟性がなく、解こうとする問題ごとに配線やスイッチなどで設定を切り替える必要などもあった。一方で、アナログ計算機は複雑な問題について相似物を構成してそのまま解くことができ、当時のディジタルな計算機の能力では及ばない問題にも対応することができた。
最も多く量産され使われたアナログ計算機に類する機器としては、ノルデン爆撃照準器や軍艦に搭載されたArthur Pollenのアルゴシステムのような射撃管制装置といった軍事用途があった。第二次世界大戦後も使われ続けたものもある。Mark I Fire Control Computerはアメリカ海軍が駆逐艦や戦艦に配備し1969年まで使っていた。他にもヒースキットのEC-1、水を使って経済をモデル化したMONIAC Computerといったアナログ計算機があった。
機械式アナログ計算機の技術的頂点といえるのが微分解析機で、マサチューセッツ工科大学でヴァネヴァー・ブッシュらが1927年頃から研究開発を進めたのが始まりとされる。微分解析機の要素技術としては、ジェームズ・トムソンが1876年に発明した機械式積分器や、H・W・ニーマンが発明したトルク増幅器などがある。後にENIACの製作が行われたペンシルベニア大学の電気工学科で製作したものが最も高性能だったともされる。日本でも3例が知られており、1組が保存され動作可能に復元された。
電子式アナログ計算機をアナログコンピュータと呼ぶことがある(詳しくは→アナログコンピュータ)。
電子化されたディジタルな計算機であるが、ENIACの最初の設計は微分解析機に影響を受けており、後にディジタル微分解析機(:en:Digital differential analyzer)と呼ばれる計算方式に近い所がある。しかしその後に引き続いて現れたコンピュータはプログラム内蔵方式でありアナログ計算機との関連は薄くなる。そしてあらゆる面で有利なことから、それまでアナログ計算機で解かれていたような問題の解決は、電子的でディジタルな計算機であるコンピュータによって置き換えられた。
しかし、アナログ計算機の遠い子孫は現在でも多用されている。電子式アナログ計算機では多数の真空管を使った電子回路によって実現されていた、入力の差分を極めて大きく増幅して出力するオペアンプは、こんにちではIC化され、簡単なオーディオアンプから精密電子機器に至るまで、便利に使われている。
ディジタル装置はアナログ装置に比べて精度(算術)に限界があるが、逆にアナログ装置では正確度に限界がある。20世紀の間電子工学は進歩し、高いSN比を保持しつつ低電圧で操作するという問題にも着実に対処してきた。それにより、オペアンプをはじめとする過去であればアナログコンピュータに使われたであろうアナログ電子回路は、測定器などの精密電子機器の内部で、こんにち必要とされる性能まで高められている。
コンピュータ
第二次世界大戦前およびその最中、機械装置が電子回路で代替され、アナログ式の計算がデジタル式の計算に取って代わられると現代的コンピューティングの時代が始まった。Zuse Z3、アタナソフ&ベリー・コンピュータ、Colossus、ENIACといったマシンは、リレーや真空管などを使った回路で構成され、パンチカードやさん孔テープを入力および不揮発性記憶媒体に利用した。これらの中の1つを世界初のコンピュータと定義することは、多くの微妙な点(後に掲載した表を参照)を見逃すことになる。
アラン・チューリングの1936年の論文は、コンピューティングと計算機科学に重大な影響を与えた。チューリングは機械的なプロセスで解くことが出来ない問題(停止性問題)があることを証明したわけなのだが、その過程でチューリングは、無制限のテープと有限状態オートマトンから成る計算モデル「チューリングマシン」を提示し、さらに、「任意のチューリングマシンを模擬できるチューリングマシン」である「万能チューリングマシン」を提示した。さらにチューリングはその応用としてチューリング=チャーチのテーゼで、チューリングマシンや当時他にいくつも提案されていた計算モデルは全て同等のアルゴリズム実行能力があることから、それらのモデルで実行可能ということを「計算可能」の定義とすることを提案した。そして、それらのモデルのように形式的でないため厳密ではないのだが、実際のコンピュータも全て同様に、計算可能性の理論の観点からは、「計算可能」な計算ができるものである、という点では同等だということになっている。
理論から実際に話を移すと、プログラム内蔵方式と、いわゆるノイマン型アーキテクチャが、いくつかの観点から重要とされている。後者はそのように呼ばれてはいるが、発案はジョン・フォン・ノイマンによるものではないとされているが、ノイマンは前述したチューリングらの仕事を熟知していたため、「ノイマン型」と呼ばれる元となった草稿の執筆の際にはそのことは当然意識していたであろう、とする見方がある。
第二次世界大戦のころのコンピュータ開発の流れは3つあった。第一の流れはほとんど無視され、第二の流れは秘密にされた。第一の流れはコンラート・ツーゼによるドイツでの開発、第二の流れはイギリスでのColossusの開発である。これらはアメリカ合衆国での様々なコンピュータ開発プロジェクトにはほとんど影響を及ぼしていない。第三の流れはエッカートとモークリーによりENIACとEDVACの開発であり、こちらは広く公開されていた。
ジョージ・スティビッツは、一般にデジタルコンピュータの父とされている。ベル研究所で働いていた1937年11月、"Model K"と名付けたリレー式計算機を発明し製作。これが二進法を計算機に使った最初の例となった。
Zuse
1936年、コンラート・ツーゼはドイツで単独でZシリーズという一連の計算機の製作を開始した。記憶装置と(当初は限定的な)プログラム能力を備えた計算機である。完全機械式で二進法を採用したZ1は1938年に完成したが、部品の精度が悪く継続的に動作することはなかった。
1941年、Z3が完成。電話機用のリレーを使い安定的に動作した。Z3は世界初のプログラム制御式の汎用デジタルコンピュータである。多くの点で現代のコンピュータと似ており、様々な点で革新的だった。例えば、浮動小数点数を採用している。実装が複雑になる十進法(バベッジの解析機関は十進法だった)ではなく単純な二進法を採用したため、ツーゼの計算機は当時の技術レベルでの製作が容易になり信頼性も高かった。
Z3ではさん孔フィルムの形でプログラムを供給した。条件分岐命令がなかったが、1990年代になってZ3がチューリングマシンと等価だったことが証明された(記憶容量が有限だという差異は除く)。ツーゼは1936年に申請した2つの特許で、機械への命令(プログラム)をデータと同じ記憶装置に格納する可能性も示唆している。いわゆるノイマン型アーキテクチャを予期していたことになるが、実際にそれが実装されたのは1948年にイギリスで開発されたSSEMが最初である。また、世界初の高級プログラミング言語プランカルキュールを1945年に設計した(発表は1948年)とされているが、この言語が実装されたのはツーゼの死後5年経った2000年になってからで、ベルリン自由大学のラウル・ロハスのチームが開発した。
第二次世界大戦中にツーゼの計算機は連合国の爆撃で破壊された。彼の業績がイギリスやアメリカの技術者に知られるようになるのはずっと後のことだが、IBMだけは1946年にツーゼの研究再開に資金援助して特許使用権を得ており、かなり早くからツーゼの業績を知っていたと見られる。
Colossus
第二次世界大戦中、ロンドンから北に40マイルほどの位置にあるブレッチリー・パークで、ドイツ軍が通信に使っていた暗号の解読が行われていた。ドイツの暗号機エニグマの解読には、電気機械式のbombeという機械を補助的に使用した。bombeの設計は1938年にアラン・チューリングとGordon Welchmanが行ったが、それはポーランドのマリアン・レイェフスキの暗号解読法に基づくもので、1941年から実際に使用され始めた。エニグマのとりうる設定を除外していくために、一連の論理的推論を電気を使って行った。多くの設定は矛盾を生じるため除外でき、残った少数の設定について人手で調べることができた。
ドイツ軍はエニグマとは全く異なる一連のテレタイプ端末型の暗号機も開発した。Lorenz SZ 40/42は特に重要な通信に使われ、イギリスではそれを"Tunny"と呼んでいた。Lorenzによる暗号通信をイギリスが傍受し始めたのは1941年のことである。Tunny解読作業の一部として、マックス・ニューマンらがColossusを開発した。Colossus Mk Iは1943年3月から12月に英国中央郵便本局研究所のトミー・フラワーズらがロンドンで製作し、1944年1月にブレッチリー・パークに移された。
Colossusは世界初の完全電子式のプログラム可能計算機である。多数の真空管を使い、紙テープでデータを入力し、データに対して様々なブール論理操作を行うよう設定変更可能である。ただしチューリング完全ではない。Colossus Mk IIは9台(Mk IもMk IIに改修されたので全部で10台)製作された。それらの存在、設計、利用は1970年代まで機密とされていた。ウィンストン・チャーチルは戦後、直々にそれらを細かく分解して廃棄するよう命じていた。Lorenzの暗号がイギリスで解読されていたという事実も冷戦中は機密扱いだった。このように徹底的に秘匿されたため、Colossusは計算機の歴史に全く登場しなかった。今ではColossusを復元したものがブレッチリー・パークの国立コンピューティング博物館に展示されている。
アメリカ合衆国での開発
1937年、クロード・シャノンはブール論理の概念と1対1に対応する電気回路が存在することを示した。そういった回路は後に論理回路と呼ばれるようになり、今ではデジタルコンピュータで必ず使用している。このMITでの修士論文で、リレーやスイッチを使ってブール論理の論理式を具現化できることを示した(同様の研究は日本においても1936年に中嶋章と榛沢正男により発表されている)。この論文が実用的なデジタル回路設計の基礎を築いた。ジョージ・スティビッツは1937年11月、ベル研究所で"Model K"と名付けたリレー式計算機を完成。ベル研究所は1938年後半にスティビッツによる計算機の研究開発プロジェクトを正式に始めさせた。1940年1月8日に完成したComplex Number Calculatorは複素数の計算が可能だった。1940年9月11日、ダートマス大学で開催されたアメリカ数学会の学会で、テレタイプ端末をベル研究所にある計算機と電話回線でつなぎ、コマンドを送って計算結果を得るというデモンストレーションを行った。電話回線経由で遠隔から計算機を使った史上初の例である。ジョン・フォン・ノイマン、ジョン・モークリー、ノーバート・ウィーナーといった人々がこのデモンストレーションを目にしており、特にウィーナーはその思い出を後に文章にしている。
1939年、アイオワ州立大学のジョン・アタナソフとクリフォード・E・ベリーがアタナソフ&ベリー・コンピュータ(ABC)を開発した。ABCは世界初の電子式デジタルコンピュータとされている。300個以上の真空管を使い、記憶装置として機械的に回転させたキャパシタを使っている。プログラムは不可能(単一機能)だが、真空管で加算器を構成したのはABCが世界初である。ENIACの発明者の1人ジョン・モークリーは1941年6月にABCに触れている。そのことが後のENIACの設計に影響したかどうかについては歴史家の間でも様々な意見がある。ABCは長らく忘れ去られていたが、ENIACなどの特許の有効性を争ったハネウェルとスペリーランドの裁判で、先行例として注目されるようになった。
1939年、IBMではHarvard Mark Iの開発が始まった。正式名称はAutomatic Sequence Controlled Calculator。Mark Iは汎用電気機械式計算機で、IBMが資金提供し、ハーバード大学のハワード・エイケンの指揮の下でIBMの技術者らが設計や製作を助けた。バベッジの解析機関の影響を受けた設計で、十進法を採用し、リレーのほかに歯車やロータリースイッチを記憶装置や演算装置に使っている。さん孔テープでプログラム可能で、並列に動作する演算装置を複数備えていた。後のバージョンでは複数のテープ読取装置を備え、条件によってどのテープを読み取って実行するかを制御できた。チューリング完全ではない。Mark Iは1944年5月にハーバード大学に移され、運用を開始した。
ENIAC
アメリカで製作されたENIAC (Electronic Numerical Integrator and Computer)は世界初の電子式汎用コンピュータとされている。エレクトロニクスの高速性と複雑な問題を解くためにプログラミング可能な能力を初めて併せ持った計算機である。1秒間に加算または減算を5000回実行可能な性能で、従来の計算機に比べて千倍ほども高速だった(Colossusは論理演算のみで加算はできない)。また、乗算、除算、平方根を計算する装置を備えていた。高速メモリはわずか20ワード分しか備えていない(バイト数にして約80バイト)。ジョン・モークリーとジョン・プレスパー・エッカートの指揮でペンシルベニア大学で行われたENIAC開発・製作は、1943年から1945年末までかかった。30トンの重量のある巨大なマシンであり、18,000個以上の真空管を使っている。そのため真空管の故障を最小化することが技術的な最重要課題となった。完成後は約10年間継続的に使われた。
当初のENIACはそれぞれの機能を備えた装置の間の配線をつなぎかえることでプログラミングされていた。これは現代の感覚で言うならCPUのLSIチップ中の配線を違うものに変えているようなものであり、現代のコンピュータとはまだ大きく違っている。ENIACは当初の完成の後も、記憶装置を拡張したり、その拡張された記憶装置を利用してプログラムできるようになったりと構成が変わっているため、その能力についてはその時代によって異なる。よって次の節にあるような一覧表を他の資料などでも見るかもしれないが、一般的に言って絶対にそのことを注意しなければならない。
初期のコンピュータの比較
第一世代
よく使われる分類では、真空管を主として使ったコンピュータを第一世代とする。
ENIACの完成前からエッカートとモークリーはその限界を悟り、プログラム内蔵式のコンピュータEDVACの設計を開始した。ジョン・フォン・ノイマンがEDVACの設計について記した文書(EDVACに関する報告書の第一草稿)が広く流布することになったため、そのアーキテクチャをノイマン型アーキテクチャと呼ぶようになり、ENIAC以後のコンピュータ開発は世界的にそれに基づいて行われるようになった。ノイマン型アーキテクチャはプログラムとデータを単一の記憶装置に格納することを特徴とする。当時、一次記憶装置として利用可能な装置としては音響遅延線(水銀遅延線)があった。液体の水銀(あるいは針金)中を音波が伝播する時間を利用してデータを格納する。一連の音波の形でデータが管の中を伝播し、管の端に音波が到達するとそれを1と0を表す電気のパルス波に戻し、再び水銀遅延線のもう一方の端から音波に変換して送り出す。もう1つはウィリアムス管である。こちらは小型のブラウン管で、画面部分の蛍光体に電子ビームが当たった部分だけ一時的に帯電する現象を利用する。1954年ごろには磁気コアメモリが急激に一次記憶装置として従来の装置に取って代わっていき、1970年代中ごろまでその地位を独占した。
プログラム内蔵式として設計された最初のコンピュータはEDVACだが、実際に最初に稼働したのはEDVACではない。エッカートとモークリーがプロジェクトを離れ、製作が停滞したためである。最初のノイマン型(プログラム内蔵式)コンピュータは1948年のマンチェスター大学の通称"Baby"、正式名Small-Scale Experimental Machineである。同大学のフレデリック・C・ウィリアムスとトム・キルバーンが開発を指揮した。これはウィリアムスが発明したウィリアムス管の実用性を評価するために開発された試験機だった。その成功を受けて1949年、実用的なコンピュータManchester Mark Iを開発。ウィリアムス管と磁気ドラムメモリを使い、インデックスレジスタという概念を初めて導入している。「世界初のプログラム内蔵式デジタルコンピュータ」の他の候補としては、ケンブリッジ大学で設計・開発されたEDSACがある。マンチェスターの"Baby"の一年以内に稼働開始しているが、実際に問題を解くプログラムを実行可能なレベルだった。EDSACはEDVACの計画に触発されて始まったもので、EDVACもEDSACもENIACが稼働開始する以前から計画が始まっている。並列処理を行うENIACよりも単純な単一演算装置を採用している。それはコンピュータ小型化の最初の波でもあり、信頼性向上のための対策でもあった。Manchester Mark I、EDSAC、EDVACは現代のコンピュータ・アーキテクチャの原点ともいえる。マンチェスター大学のManchester Mark Iは初の商用コンピュータFerranti Mark 1のプロトタイプとなった。Ferranti Mark 1の1号機はマンチェスター大学に1951年2月に納入された。他に少なくとも9台が1951年から1957年にかけて販売されている。
ソビエト連邦での最初のプログラム内蔵式汎用電子計算機は、キエフ電気技術研究所(en、現ウクライナ)のセルゲイ・アレクセイヴィチ・レベデフのチームが製作したMESM(МЭСМ, Small Electronic Calculating Machine)で、1950年に稼働した。6000本の真空管を使い、25kWの電力を消費する。1秒間に約3000命令を実行できた。オーストラリア初の電子計算機としては、1949年に稼働したCSIRACがある。CSIRACは当時のまま保存されている世界最古の電子計算機でもあり、デジタル音楽を奏でた世界初の電子計算機である。
商用コンピュータの始まり
世界初の商用コンピュータは、1951年2月にマンチェスター大学に納入されたFerranti Mark 1である。Manchester Mark Iを元に設計された。Manchester Mark Iからの主な改良点は、記憶装置の容量増、乗算器の高速化、命令の追加である。基本サイクル時間は1.2ミリ秒で、乗算を約2.16ミリ秒で実行した。真空管を4050本使っており、その4分の1が乗算器に使われている。2号機がトロント大学に売れ、その後さらに改良を施したMark 1 Starが完成した。Mark 1 Starは少なくとも7台が1953年から1957年までに売れており、シェルのアムステルダムにある研究所にその1つが納入された。
1947年10月、イギリスの外食・ホテル産業大手J. Lyons & Companyの経営陣は新たな経営技法に興味を持っており、商用コンピュータ開発を推進する役割を果たすことを決めた。それによって1951年4月、LEO I (Lyons Electronic Office)が稼働開始し、世界初の会社の通常業務を処理するジョブを実行した。1951年11月17日、J. Lyonsでは傘下のパン屋の毎週の売り上げ集計をLEO上で行い始めた。これが世界初のビジネスアプリケーションであり、ここからプログラム内蔵式コンピュータの商用利用が始まった。
1951年6月、UNIVAC I (Universal Automatic Computer)がアメリカ合衆国国勢調査局に納入された。レミントンランドは46台を売り上げ、1台の価格は100万ドル以上だった(現在の価値に換算するとドル)。UNIVACは世界で初めて量産されたコンピュータである。5200本の真空管を使い、125kWの電力を消費した。一次記憶装置は逐次アクセス型の水銀遅延線で、11桁の数字と符号(72ビット)を1ワードとして1000ワードを格納可能である。最大の特徴は新たに発明された金属磁気テープと高速磁気テープ装置を備えたことで、それを不揮発性の記憶装置として使っていた。磁気媒体は今も多くのコンピュータで使われている。
1952年、IBMはIBM 701を発表。700/7000シリーズの最初の機種であり、IBMのメインフレームの始まりである。1954年のIBM 704では磁気コアメモリを採用し、その後の大型コンピュータで標準的に使われるようになった。世界初の高級汎用プログラミング言語FORTRANも、IBMが704向けに1955年から開発したもので、1957年初めにリリースされた。高級言語としてはコンラート・ツーゼが1945年に設計したプランカルキュールが先だが、こちらは実装されなかった。IBM 701に対しては、1955年に世界初のコンピュータのユーザーグループが誕生し、ソフトウェアや経験を共有するようになった。
1954年、IBMはより小型で低価格のコンピュータIBM 650を発売し、人気を博した。650は重量が900kg以上あり、付属の電源装置は約1350kgである。それぞれ別々の筐体となっていて、寸法はそれぞれおおよそ1.5m×0.9m×1.8mである。価格は50万ドル(現在の価値に換算するとドル)で、リースの場合は月額3500ドル(現在の価値に換算するとドル)だった。磁気ドラムメモリに当初は2000ワード(1ワードは10桁の数字)、その後拡張されて4000ワードを格納。このようにメモリ容量が小さく、その後数十年間のプログラミング技法に重大な影響を与えた。プログラムは回転する磁気ドラムに格納されており、実行時はそこから命令を読み取る。磁気ドラムメモリでの効率的なプログラム実行には、ハードウェアのアーキテクチャ、次に実行すべき命令のアドレスを含めた命令フォーマット、ソフトウェア、すなわちSOAPというアセンブリ言語が協調し、次の命令を磁気ドラムがその位置まで回転するのを待つことなく読み取れるよう、(ソースプログラムの静的解析でできる範囲で)うまく配置した。
1955年、モーリス・ウィルクスがマイクロプログラム方式を発明し、基本命令セットを組み込みのプログラム(ファームウェアあるいはマイクロコード)で定義し拡張できるようになった。この方式はメインフレームなどのコンピュータのCPUやFPUで広く採用された。例えばマンチェスター大学のAtlasやIBMのSystem/360シリーズがある。
1956年、IBMは初の磁気ディスク装置RAMAC (Random Access Method of Accounting and Control)を発表。50枚の直径24インチ(610mm)の金属円盤を使い、片面に100トラックで5メガバイトのデータを格納できる。コストは1メガバイト当たり1万ドル(現在の価値に換算するとドル)だった。
第二世代:トランジスタ式
1947年、バイポーラトランジスタが発明された。1955年ごろからコンピュータの素子は真空管からトランジスタに移っていった。個別部品のトランジスタで作られた世代を指してコンピュータの「第二世代」と呼ぶ。
最初のトランジスタはゲルマニウムの点接触型トランジスタしかなく、真空管よりも信頼性が低くて、利点は低消費電力だけだった。点接触型トランジスタで作られたコンピュータは、日本のETL Mark IIIなど、わずかしかない。すぐに信頼性の高い、合金型や成長型の接合型トランジスタにとって代わられたが、速度の点では当初は点接触型のほうが上であった。
世界初のトランジスタ式コンピュータはマンチェスター大学が開発したもので、1953年に稼働開始した。2号機も同大学で1955年4月に完成している。2号機は200個のトランジスタと1300個の半導体ダイオードを使い、消費電力は150Wだった。ただし、125kHzのクロック波形の発生や磁気ドラムメモリの読み書きに真空管を必要とした。1955年2月に稼働開始したHarwell CADETは動作周波数を58kHzと低く設定したため、真空管を使わずに構成されている。初期のトランジスタは故障しやすく、コンピュータの平均故障間隔は約90分だったが、トランジスタの信頼性はどんどん向上していった。初期の商用機としては、フィルコTransac S-2000(1957)がある。
真空管と比較としたとき、トランジスタには様々な長所がある。まず小さく、消費電力が少なく、結果として発熱量も少ない。シリコンの接合型トランジスタが登場すると真空管よりも信頼性が高く、長寿命になった(ただしその最初期は点接触型より速度は遅かった)。トランジスタ式コンピュータでは、より小さな空間に数十倍、数千倍の論理回路を詰め込むことが可能になった。トランジスタによってコンピュータの小型化・低価格化が進んだ。第二世代のトランジスタ式コンピュータは一般に多数のプリント基板で構成されている。例えば、IBM Standard Modular Systemでは1枚の基板に4つの論理ゲートやフリップフロップを実装している。
第二世代コンピュータの1つIBM 1401は全世界のコンピュータ市場の3分の1を占めたことがある。IBMは1960年から1964年までに10万台以上の1401(正確にはIBM 1400シリーズ)を販売した。
トランジスタを使った電子工学はCPU(中央処理装置)を改善しただけでなく、周辺機器の改善にも寄与した。世界初の磁気ディスク記憶装置は、IBMが1956年に発表したIBM 350だが、第二世代の磁気ディスク装置は数千万の文字や数字を記録できるようになった。CPUと高速データ転送可能な固定磁気ディスク記憶装置に加えて、着脱可能な磁気ディスクパックも登場。記憶容量は固定磁気ディスク装置より小さいが、磁気ディスクパックは短時間(数秒から数十秒)で交換可能で、データを大量に保管し必要に応じて即座に使えるようになった。さらにデータの長期保管用には、より安価な磁気テープが使われるようになった。
第二世代のCPUは、周辺機器との通信処理を補助プロセッサに任せるようになった。例えば、パンチカード読み取り装置やさん孔装置との通信を補助プロセッサに任せ、CPUはプログラムを実行した。また、第二世代のころバスがCPUと主記憶装置を結ぶ高速なバスと周辺機器を接続するバスに分離している。これによって演算性能が向上した。例えばPDP-1では磁気コアメモリのサイクル時間は5マイクロ秒で、CPUは演算命令を2サイクル(命令読み取りに1サイクル、データ読み取りに1サイクル)で実行できるため、10マイクロ秒で1命令を実行できた(1秒間に10万命令)。
第二世代では、遠隔端末(テレタイプ端末が多かった)の利用が急激に増加した。当時の端末との通信は電話回線で十分であり、数百km離れた場所にある端末と計算センターを結ぶことができた。そういった個別のコンピュータネットワークを相互接続し始めたことをきっかけとしてインターネットの誕生に繋がった。
1960年代以降:第三世代とその後
ジャック・キルビーとロバート・ノイスがそれぞれ独自に集積回路を発明し、さらに爆発的に多数のコンピュータが使われるようになっていった。1970年代には、MOS集積回路により、インテルのテッド・ホフやフェデリコ・ファジンらによってマイクロプロセッサが発明されることになる。右の集積回路の写真はIntel 8742という8ビットマイクロコントローラで、12MHzで動作するCPU、128バイトのRAM、2048バイトのEPROM、入出力部などを1つのチップに集積している。
利用する素子のテクノロジによるコンピュータの世代分けでは、集積回路を主として使ったコンピュータを第三世代とする。しかしIBM System/360があれこれと画期的であったために、SLTという高度なモジュール技術ではあったがモノリシックな集積回路ではない点には目をつぶって初の第三世代機とされることもあり、はっきりと分類するのは難しい。主記憶がコアから半導体になったのはIBMではSystem/370であった。
1960年代は第二世代と第三世代の技術が混在していた。IBMはIBM Solid Logic Technologyによるモジュールを1964年のSystem/360で開発、採用した。UNIVACでは、UNIVAC 494のように1975年ごろまで第二世代の技術を採用した機種が製造され続けた。バロースの大型機(バロースB5000、1961年設計開始)ではスタックマシンアーキテクチャを採用し、プログラミングを単純化しようとした。スタックマシンはプッシュダウン・オートマトンを実装したもので、後にミニコンピュータやマイクロプロセッサでも採用されたことがある。B5000の設計はプログラミング言語に影響されているが、逆にスタックマシンの考え方はプログラミング言語の設計や処理系の実装に影響を及ぼしもしている。1960年代にはミニコンピュータも生まれ発展している。ミニコンピュータは安価な計算センター用コンピュータとして産業界や大学で使われた。
1971年、ミニコンピュータ上でアナログ回路をシミュレーションできるSPICE (simulation program with integrated circuit emphasis)が登場。電子回路設計の自動化(EDA)が始まった。マイクロプロセッサの登場によってマイクロコンピュータと呼ばれる小型で低価格なコンピュータが登場し、コンピュータを個人で所有できる時代が到来。1970年代に登場したマイクロコンピュータは、1980年代にはパーソナルコンピュータと呼ばれるようになり、広く普及することになる。
1975年4月に開催されたハノーバー・フェアで、オリベッティがパーソナルコンピュータP6060を出展。フロッピーディスク装置とサーマルプリンターと小さなプラズマディスプレイを内蔵したオールインワン型だが、CPUはマイクロプロセッサではなく2枚の基板で構成されていた。48kバイトのRAMを搭載し、BASIC言語が利用可能、重量は40kgだった。発売は1977年で、そのころには既にマイクロプロセッサを採用したパーソナルコンピュータ(ホームコンピュータ)がいくつも登場していた。
Apple Computerの創業者の1人スティーブ・ウォズニアックは世界初の大量生産されたホームコンピュータの開発者とされることがある。細かいところを言うと、Apple Iより前にモステクノロジーのKIM-1やAltair 8800があり、また、グラフィックスやサウンド機能という面でもApple IIより、PET 2001の方がわずかに先行している(がPETはモノクロ)。
一般的に、従来の大型なマシンの機能と性能が、より小型のマシンで実現される、ということが、コンピュータの歴史では繰り返された。それによって、メインフレームの大半はやがてミニコンピュータに置き換えられ、ミニコンピュータの大半はやがてワークステーションに置き換えられ、ワークステーションの大半はやがてパーソナルコンピュータに置き換えられた。そして、パーソナルコンピュータの役割も相当な部分がタブレットやスマートフォンに奪われつつある。ただし、この歴史は必ずしも一本道ではない。置き換えられなかったメインフレーム、あるいはワークステーション、に相当するコンピュータは残っているし、ワークステーションとパーソナルコンピュータの歴史が並列していた時期は20年程度には及ぶ。
コンピュータのような複雑なシステムには高い信頼性が求められる。ENIACは1947年から1955年まで連続稼働し、退役となるまで8年間動作し続けた。真空管は故障するものだが、システムダウンを引き起こす前に交換されていた。電源を切ったり入れたりするのはトラブルの元であるが、ENIACは電源を切らないという単純な戦略で、障害を劇的に低減していた(真空管のせいでよく壊れていたなどと言われるのは、実際にはこのことを理解しない運用機関が電源を入れっぱなしにするのを許さなかった時期の話である)。SAGEでは真空管そのものも選別によって高信頼なものだけを使ったが、2台のコンピュータをホットスタンバイ構成とし、診断機能によって故障しそうな真空管を識別することでさらに信頼性と可用性を高めていた。半導体メモリは一般にほとんど故障しないが、UNIXなどは電源投入時にメモリをテストしてハードウェア故障を検出するようになっていた。今日ではサーバファーム上で電子商取引が行われているため、信頼性を求める声は強くなっている。Googleはサーバファームの管理にフォールトトレラントソフトウェアを使ってハードウェア故障に対処しており、サーバファーム全体をサービスを停止せずに切り替えるという概念にも挑戦している。
21世紀に入ると、マルチコアCPUが一般に流通するようになった。連想メモリ(CAM)はネットワークにも使われるなど低価格化しているが、ハードウェアのCAMをプログラミング言語から使うという動きはまだない。半導体メモリは非常に規則的な構造であり、製造業者は最新プロセスを採用している。そのためメモリは急激に価格が低下していった。1980年代、CMOS論理回路が実用化され、他の回路と性能面でも遜色ないものになっていった。それによって電力消費が劇的に低減された。他の回路構成では電流が常に流れ続けるが、CMOSでは状態遷移のときだけ電流が流れる(リーク電流を除く)。
そういった技術革新によってコンピュータはどこにでもある商品となり、グリーティングカードから衛星電話まで様々な形で組み込まれている。コンピュータのハードウェアとソフトウェアは、宇宙の運行を表す隠喩にもなっている。DNAコンピュータや量子コンピュータが実現するのはまだ先だが、既にDNA折り紙のような基盤技術が登場している。ナノスケール超伝導体の発見によりジョセフソン素子や単一磁束量子といった技術を使った高速デジタル回路が先に実現すると予測されている。
光ファイバーや関連する素子は既に長距離のデータ伝送に使われているが、CPUとメモリの接続にそれを使う研究がなされている。
コンピュータの急激な発展は、主要な論文の歴史からも推定できる。誰かが何かを書き終わったとき、既に時代遅れになっているという勢いである。フォン・ノイマンのFirst Draft of a Report on the EDVACを多くの研究者が読んだ1945年、それぞれのシステム実装がすぐさま始まった。この開発のペースが今も世界的に続いている。
脚注
注釈
出典
参考文献
.訳者(エイダ・ラブレス)による注釈付き
.
. Pages 220-226 are annotated references and guide for further reading.
(and )他のオンライン版: Proceedings of the London Mathematical Society別のオンライン版
関連文献
. Translated from the French by David Bellos, E.F. Harding, Sophie Wood and Ian Monk. Ifrah supports his thesis by quoting idiomatic phrases from languages across the entire world.
. German to English translation, M.I.T., 1969.
Rojas, Raul; Hashagen, Ulf (eds., 2000). The First Computers: History and Architectures. Cambridge: MIT Press. ISBN 0-262-68137-4.
清水辰次郎:「統計機数値計算法」、東海書房(1952年9月20日)。※これはIBM社パンチカード会計システムを用いた数値計算法。
関連項目
CPU年表
スーパーコンピュータ技術史
パーソナルコンピュータ史
情報化時代
プログラミング言語年表
オペレーティングシステムの歴史
ザ・エンジン
外部リンク
Obsolete Technology ーOld Computers
コンピュータ博物館情報処理学会
Computer History ボブ・バーマーの文章集
25 Microchips that shook the world ーIEEEの文章集
History of Computers and Calculators
Ceruzzi, Paul E., A History of Modern Computing, MIT Press, 1998
ITO Tomoyoshi's Lab BRAINSのページ | 0.690088 |
993142 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%8F%E8%A6%96%E6%8A%95%E5%BD%B1 | 透視投影 | 透視投影(とうしとうえい、)は3次元物体を2次元平面に描画する図法(投影法)の一種である。中心投影ともいう。視点を設定して投影図を得るため、対象物を目で見た像と近い表現が得られるという特徴をもつ。透視投影で得られた図は「透視図」あるいは英語のperspectiveから「パース」などと呼ばれる。
視点たるカメラで撮影する写真では透視投影が行われている。絵画芸術では遠近感を感じさせたり写実性の高い表現をするために透視投影がしばしば取り入れられる(詳細は遠近法を参照)。また写実的な3次元コンピュータグラフィックスでもレンダリングの一環として透視投影が利用される(詳細は3次元コンピュータグラフィックス#原理を参照)。
脚注
関連項目
投影図
平行投影
遠近法
作図
射影幾何学
絵画技術
設計
建築
射影幾何学
図 | 0.689655 |
4052408 | https://ja.wikipedia.org/wiki/PhotoScape | PhotoScape | PhotoScape(フォトスケープ)は、大韓民国のMOOII Techが開発したグラフィック編集プログラム。PhotoScapeの基本概念は「簡単で楽しい」であり、ユーザーはデジタルカメラや携帯電話から撮影した写真を簡単に編集することができる。PhotoScapeは、色調整、切り取り、サイズ変更、印刷、GIFアニメーションなどの一般的な写真の強化を実行するためのシンプルなユーザーインターフェイスをもつ。Photoscapeは、Microsoft WindowsとMacで動作するが、Linuxでは動作できない。デフォルトの言語は英語と韓国語で、追加の言語パッケージがダウンロード可能。日本語も対応している。
バージョン3.7は、Windows XP、7、Vista、または8の現在の安定リリースで、現在のバージョンのPhotoscape XはWindows 10用であり、プロ版は有料で利用できる。Windows 98またはMEユーザーは古いバージョンを引き続き使用できる。商業団体を含むすべてのユーザーに無料で配布される。
特徴
PhotoScapeは次のタスクを実行することができる。
(名称は日本語版の記述に準ずる)
画像閲覧:写真を参照して整理する。
画像編集:カラーの強化とバランス調整、サイズ変更、エフェクトとクリップアートの追加などを行う。
一括編集:複数の写真を一度に編集する。
ページ:複数の写真をポスターのような単一ページ、または単一の写真に結合する。
結合:上下左右に写真を結合し、一枚の写真を作成する。
GIFアニメ:複数の画像を処理し、GIFアニメーションを作成する。
印刷:写真を複数枚選択し、印刷する。
分割:画像をパーツごとに複数の画像へ分割する。
スクリーンキャプチャ:モニター画面を画像ファイルとして保存する。
カラーピッカ:画面ピクセルから色を選択する。
RAW変換:RAW形式の画像をJPEG形式に変換する。
リネーム:複数の画像を一括してリネームする。
用紙印刷:方眼紙、カレンダー、楽譜など特別な用途の用紙を印刷する。
主だったリリース
参照資料
外部リンク
PhotoScapeレビュー
グラフィックソフトウェア | 0.689397 |
1585130 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E9%99%A2%E6%83%85%E5%A0%B1%E7%90%86%E5%B7%A5%E5%AD%A6%E7%B3%BB%E7%A0%94%E7%A9%B6%E7%A7%91 | 東京大学大学院情報理工学系研究科 | 東京大学大学院情報理工学系研究科(とうきょうだいがくだいがくいんじょうほうりこうがくけいけんきゅうか、英称:Graduate School of Information Science and Technology)は、東京大学に設置される大学院研究科の一つである。情報理工学系研究科という名称の研究科は東京大学にのみ設置されている。
概要
情報理工学系研究科は理学系研究科情報科学専攻と工学系研究科計数工学専攻・情報工学専攻・電子情報工学専攻・機械情報工学専攻を改組・統合して、2001年4月に設置された。設置当初は5専攻で構成されていたが、2005年4月に創造情報学専攻が新設された。初代研究科長は田中英彦(東京大学名誉教授、現:情報セキュリティ大学院大学情報セキュリティ研究科長)。
前年に設置された情報学環が人文・社会系分野も含む学際的な情報学を研究対象としているのに対し、情報理工学系研究科は情報学の科学技術的な側面を研究対象としている。
機械工学・情報工学等の従来から存在する学問分野に囚われない幅広い研究を行っている。
専攻
コンピュータ科学専攻
1975年、東京大学理学部情報科学科設立。2001年、東京大学大学院理学系研究科情報科学専攻が情報理工学系研究科に移行し、コンピュータ科学専攻となる。
数理情報学専攻
システム情報学専攻
電子情報学専攻
知能機械情報学専攻
創造情報学専攻
2005年、情報理工学系研究科設立。
附属施設
ソーシャルICT研究センター
教育
情報技術創造の実践的教育を推進するプログラム「創造情報実践教育プログラム」は、2005年度に文部科学省の「魅力ある大学院教育」イニシアティブに採択された。
外部リンク
東京大学大学院情報理工学系研究科
りかくけいけんきゆうかりかくふ
院
院
院
2001年設立の教育機関
学校記事 | 0.689318 |
37754 | https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%88%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%A5 | フォトモンタージュ | フォトモンタージュ()とは、写真を部分的な要素として引用し平面に切り貼りする写真作品や、多重露光などの方法により合成し制作された写真作品。初期には独自の表現運動として存在した。
現在では写真作品だけでなく、絵画の一部や印刷された活字や文字などの一部を含む場合も、基本的に写真がある程度のボリュームで作品中に含まれていればそのように呼ばれる。また、断片的に使われる写真は要素であることが許容される為、自ら撮影した写真でなく既存の写真でも構わないとされる。
概要
いわば、写真のコラージュであるから、「フォトコラージュ」()とも呼ばれる。「合成写真」と呼ばれることもある。「モンタージュ写真」という言葉もあるが、こちらは通常、警察などにより事件の捜索のため、既存の複数の写真を合成し、犯人などに似せてつくられた顔写真を意味することが多い。
19世紀後期には、すでに写真を切り貼りした作品が散見されるが、系統的に創作した表現運動という意味では、1919年のロシアでマレーヴィチの弟子であるグスタフ・クルーツィスが、ドイツのベルリンではダダに属するジョージ・グロス、ラウル・ハウスマン、ジョン・ハートフィールドが、それぞれのフォトモンタージュ作品を制作しはじめたといわれる。この頃のヨーロッパにおいては、新奇な意外性、批判性、幻想性などの表現における観点から、主にダダイズムの作家やシュルレアリスムの作家などが手がけた。1931年にはドイツのベルリンで大々的な写真展『フォト・モンタージュ展』が開催され、バウハウスの芸術家らにも影響を与えた。
この時代のフォトモンタージュは、例外的にロシアにおいて独自の発展を遂げる。ボルシェビキ革命後は構成主義が極度に推し進められた「生産主義」宣言が相次ぎ、芸術家らには『社会のための芸術・有用性のための芸術』が国家より求められた。1922年にはマヤコフスキーが上記のハートフィールドやグロッスの作品を滞在先のドイツで目にし、帰国後に国内のロシア構成主義の芸術家らに紹介したことも大きな影響を与えたといえる。先行してフォトモンタージュを手掛けていたグスタフ・クルシスは翌年の1923年にプロパガンダの為の「フォトモンタージュ研究所」をモスクワに設立。クルシスは同国における同運動の中心となったこの研究所で、視覚言語としてのフォトモンタージュを政治的プロパガンダとして利用するための方法を急速に確立した。結果、フォトモンタージュはソビエトでは政治改革を遂げるための集団的革命表現運動としてとらえられた。
フォトモンタージュは現在では単なる美術表現作品である場合も多いが、その出自をみればきわめて前衛的な美術表現であり、政治的に応用できる視覚言語としての強度を持っていた。社会批判・政治批判・体制批判(例、ハートフィールドの作品)、プロパガンダ(例、日本における第二次世界大戦下の「FRONT」、ソ連や中国などの社会主義諸国における政府主導報道写真)社会風刺やパロディ等にも用いられ、現在においては広告用の作品などに一般的な手法となっている。
フォトモンタージュは、意識的に切り貼りや合成であることが一目瞭然であるようにされている作品(例、ハンナ・ヘッヒの作品)がある一方で、エアブラシなどを用い、切り貼りや合成であることが一見わからないようにした作品(例、ジョン・ハートフィールドの作品)もあり、その表現には幅がある。近年ではコンピュータにより、実際に撮影された写真と判別がつかぬよう処理された作品も制作されている。
日本におけるフォトモンタージュ
日本において、フォトモンタージュ作品を制作した美術家(写真家)としては、戦前では、中山岩太、小石清、平井輝七、花和銀吾、坂田稔、山本悍右、高橋渡、大久保好六、古川成俊、瑛九、永田一脩など、戦後では、木村恒久(作品例:1979年「都市はさわやかな朝をむかえる」(のち、パイオニアの広告でも使用された)、1980年「ツィゴイネルワイゼン」)、カズキヒロなどがいる。
しかし、日本においてはまとまった形でフォトモンタージュを紹介した展覧会はまだ少ない。関連性がある展覧会は次である。
日本近代写真の成立と展開
1995年、東京都写真美術館
コラージュとフォトモンタージュ展
2006年11月3日(金曜日)から12月17日(日曜日)、東京都写真美術館
フォトモンタージュの権利問題
フォトモンタージュにおいては、材料となる写真に存在する権利が問題になることがある。
米国においては、米国憲法修正第1条(いわゆる「言論の自由」条項)により、製作者の意志が肖像権よりも優先されるとし、2002年4月17日に連邦最高裁によって、「コラージュを禁止することはパロディを認めないことであり、思想・言論の自由を侵すものである」「著作権法の引用に適合する」との判断が下された。
このため現在アメリカでは、有名人のみならず政治家などのコラージュが作られている。特に反戦を訴えるアメリカの人々により、アフガン戦争やイラク戦争の際に作成された、ブッシュ大統領とオサマ・ビンラディンやサッダーム・フセインとの卑猥シーンなどをコラージュで造った反戦目的のものが有名である。
日本では、昭和天皇コラージュ訴訟事件の1審判決(1998年12月16日、富山地裁)で示されたように、表現の自由による肖像権侵害を無条件に認める考えは少なく、一定の要件を求めることが多い(上述判例では(1)本人の同意(2)公的存在の法理の2つを例として挙げている他、作成された作品の材料となった人物について名誉毀損など不利益がないかを検討している)。そのため、アメリカに比べて、表現の自由より肖像権を優先する傾向があるのではという指摘がある。
また、作品の著作権侵害問題ではマッド・アマノと写真家白川義員の間で裁判で争われた「パロディ・モンタージュ写真事件」(1980年(昭和55年) 3月28日最高裁判決、民集34巻3号244頁)などがある。
近年では、フリー写真素材サイト「ぱくたそ」上で写真作家のカズキヒロが権利関係に問題の生じないオリジナルかつアート性の高いフォトモンタージュ作品を大量にリリースしており、そのフォトモンタージュ作品のみでビジュアルが構成された書籍が講談社から出版されるなど社会的な反響を呼んでいる。
インターネットにみられる合成画像
インターネットでは様々な、大衆的フォトモンタージュが多く流布されている。その代表的な物にアイドルコラージュ(アイコラ)がある。他に、笑いを取るため(たとえば面白画像・バカ画像として)や(送られた相手の気分を害する、敵性勢力を侮蔑する意味などでの)嫌がらせをするためなど低俗な目的で作成された物もある。不特定多数の参加者が画像を投稿できる掲示板においても、フォトモンタージュが散見されることがある。
嫌がらせの例としては、2003年に日本で作成されて流行した、俗に「蓮コラ(はすコラ)」と称されるものがある。これは、蓮の実(花托といわれる部分)の凹凸を人体にコラージュして斑状表現にした画像で、自らの身体に穴が開いているかのような嫌悪感や、皮膚表面の生理的不快感(悪寒や鳥肌)を催す、いわゆる「精神的ブラクラ」である。最初に投稿された女性の姿に蓮の実を合成した画像がリンクを通して電子掲示板に広まり、さらに数多くの亜種や、これに準ずるアスキーアートも作成された。この画像が伝播した韓国では、友人に悪戯半分でメールに添付して送りつけた者が逮捕される騒ぎになった(スポーツソウル2003年6月5日付け)。また、人によってはハニカムや不定形の網目模様を顔部分に貼り付けたものでも同様の生理的拒否反応を起こすことがある。
上記のような嫌悪を感ずる生理反応は、病から身を守るための本能という説もある。
鉄道趣味の世界では、画像を加工して実在しない(もしくは計画があったが実現しなかった)鉄道車両の画像を作成することがあり(塗装などは別の車両で実在したものを組み合わせることも多い)、これは俗に「ウソ電」とよばれている。この名称は元々個人向けHPのタイトルであったが、HPの運営者が鉄道模型雑誌『RM MODELS』で同名の連載を持つようになって以降、この名前が一挙に広まった。
脚注
関連項目
コラージュ
グラフィックデザイン
グラフィックデザイナー
面白画像
プロパガンダ
写真編集
アイドルコラージュ
ぱくたそ
ふおと
グラフィックデザイン
写真のジャンル
美術の技法
写真の技法 | 0.689089 |