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山田玲司
山田 玲司(やまだ れいじ、1966年1月8日 - )は、日本の漫画家。東京都出身、埼玉県越谷市在住。多摩美術大学美術学部絵画学科油絵専攻卒。 略歴. 東京都中央区日本橋生まれ。7歳から埼玉県越谷市にて育つ。10歳の頃に手塚治虫に憧れ、漫画家を志す。13歳で秋田書店に持ち込みを行い、高校では創作研究同好会に入って漫画漬けの日々を送る。高校在学中、父親に薦められた美術大学受験のために、放課後は予備校に通い、多摩美術大学に現役合格する。 大学では、たかはまこから漫画やその後についてのアドバイスを受けたという。漫画家の江川達也のアシスタントもしており、当時のチーフアシスタントは藤島康介だった。初期作品では、大学時代の後輩であるウエダハジメや冬目景、きらたかしなどがアシスタントを務めていた。在学中の1986年に『コミックモーニング』に掲載された『17番街の情景』で漫画家としてデビューする。 デビュー後は、連載した作品が4度も打ち切られるなど、しばらく不遇の時代を過ごす。1991年に『ヤングサンデー』で連載を開始した『Bバージン』がヒットし、その後は各界の著名人へのインタビュー漫画『絶望に効くクスリ』、自身の美大受験体験を基に『美大受験戦記アリエネ』などを連載した。多摩美術大学の漫研に在籍していた沙村広明は、大学祭のときに漫研OBである山田から持ち込みを勧められたことがデビューのきっかけであるとしている。 女性のための恋愛コミックエッセイ『モテない女は罪である』など、一般書籍も多数執筆している。 2014年10月から、ニコニコチャンネルで『山田玲司のヤングサンデー』を毎週水曜日に配信。番組名はヤングサンデー創刊から休刊まで関わったこと。休刊で喪失感を味わい、当時の何でもありの空気が好きだったことなどが由来。当初は小学館黙認であったが、小学館社員ゲスト出演以降は(会社として何かをするわけでないものの)番組名のみ認める形となっており、いずれは小学館と何らかの形でコラボしたいと述べている。番組のモットーは「ゴキゲン主義」。 2021年3月から、AuDeeで『山田玲司とバグラビッツ』を毎週日曜22時に配信中。 動画生配信などが話題になり、2022年5月頃よりYahoo! JAPANにおける検索数が徐々に伸びていることから、Yahoo!検索大賞 2022のネクストブレイクカテゴリーの3名のうちの1名に選出された。
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福田重男
福田 重男(ふくだ しげお、1957年5月8日 - )は、ジャズピアニスト。 群馬県前橋市出身。3~4歳からクラシック・ピアノを始める。明治大学在学中にジャズ・ピアノを志し、辛島文雄に師事。1980年、プロ・デビュー。 2010年 第一回 風のまち音楽祭(前橋市)をアドバイザーとして成功に導く。
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藤子不二雄
藤子 不二雄(ふじこ ふじお)は、日本の漫画家。藤本弘(ふじもと ひろし)と安孫子素雄(あびこ もとお)の共同ペンネーム。1951年に連名でプロデビュー。独立後の1988年以降はそれぞれ藤子・F・不二雄、藤子 不二雄と名乗った。代表作は『オバケのQ太郎』(合作)、『ドラえもん』(藤本)、『パーマン』(藤本、独立後はF名義となったが旧作は合作)、『忍者ハットリくん』(安孫子)、『怪物くん』(安孫子)、『まんが道』(安孫子)など多数。 1976年に執筆された『オバケのQ太郎』の読切作品(合作)を最後に、1987年に独立を表明するまでの約12年間は、ほぼ全作品をそれぞれ単独で描き、藤子不二雄名義で発表していた。 本稿ではコンビ活動中の仕事を中心に記述する。個別の経歴についてはそれぞれの項目を参照のこと。 来歴. 高校生でデビューし、19歳で伝説の単行本を上梓. 終戦前の1944年に10歳で出会った藤本と安孫子は、漫画が好きという共通点からすぐに意気投合。1946年に『マァチャンの日記帳』、1947年に『新宝島』と出会ったことで大の手塚治虫ファンになり、自らも漫画家を目指すようになる。雑誌や新聞への読者投稿でたびたび入選。やがて「1人でやるより2人でやった方が力になるだろう」と合作を決意。1951年12月、かつて手塚が連載していた新聞に投稿した『天使の玉ちゃん』が本人たちも気づかないうちに連載され、高校3年生でプロデビューを果たす。 1952年の高校卒業時にはあこがれの神様・手塚治虫と初対面。手塚の人気が700ページもの没原稿に支えられていることを知り、大きなショックを受ける。 新聞社に就職した安孫子と、家で漫画に専念する生活を選んだ藤本は、漫画の執筆を続け『西部のどこかで』で雑誌デビュー。1953年1月に初の雑誌連載『四万年漂流』を開始するも6回で打ち切られてしまう。 同年8月、依頼されて描き下ろした初の単行本『UTOPIA 最後の世界大戦』を19歳で刊行。これは後に日本で最もプレミアム価値がついた伝説の漫画単行本となる。 トキワ荘で売れっ子作家となり、オバQブームで社会に知られる漫画家に. 1954年6月に意を決して上京した2人は両国の2畳間の下宿を経て、後に伝説のアパートとなるトキワ荘の手塚治虫の部屋に入れ替わりで入居。仕事も順調に増えて多忙な生活を送るも、1955年の正月に連載を含む11本のうち5本を落とすという事件を起こしてしまう。 しばらく仕事が減ったものの干されることはなく、翌年には連載を獲得して復活。初の週刊連載『海の王子』(合作)もスタートし、ほどなく連載10本を抱える売れっ子漫画家となる。 1961年、トキワ荘を出た2人は川崎市に隣同士で家を新築して転居。 1963年には鈴木伸一、石森章太郎、つのだじろうらとアニメーション・スタジオ「スタジオ・ゼロ」を設立。1964年、その雑誌部の仕事として描かれた『オバケのQ太郎』(合作)が大ヒット。テレビアニメ化されたこともあり「オバQブーム」と呼ばれる社会現象になる。 これに続いて数年のうちに『忍者ハットリくん』(安孫子)、『怪物くん』(安孫子)、『パーマン』(この時代に描かれた旧作は藤本メインの合作)、『21エモン』(藤本)などの代表作が続々と新たに発表され、その多くがテレビアニメやテレビドラマになる。 大人漫画と少年漫画の両輪で活躍. 1968年には青年向け漫画誌が次々と創刊したことで大人漫画にも進出。安孫子は『黒イせぇるすまん』を皮切りに、70年代を中心にブラックユーモア短編の数々を執筆。他にも『ミス・ドラキュラ』(1975-1980)を長期連載するなど、多数の大人漫画を発表した。藤本も『ミノタウロスの皿』をはじめとしたSF短編を数多く執筆した。 1970年代に安孫子は少年向け作品も精力的に執筆。少年週刊誌にて、後に藤子漫画史上最長となる自伝的漫画『まんが道』シリーズ(1970-2013)を開始した他、怪奇漫画『魔太郎がくる!!』(1972-1975)、ギャグ漫画『オヤジ坊太郎』(1975-1976)等を次々と連載。趣味のゴルフを生かした大作『プロゴルファー猿』シリーズ(1974-2005)はゴルフ漫画の先駆けとなった。 ドラえもん、藤子不二雄が大ブームに. 一方で藤本は劇画の隆盛もあってヒットから遠のく。『ウメ星デンカ』(1968-1970)の後、合作『仙べえ』(1971-1972)を経て少年週刊誌の連載から撤退し、小学館の学習雑誌に注力。1969年に連載を開始した『ドラえもん』(1969-1996)が1973年のテレビアニメ化を経てじわじわと人気を高め、1977年にはドラえもんを大量に読める児童漫画誌としてコロコロコミックが創刊。1979年の2度目のアニメ化により空前のドラえもんブームを巻き起こした。その人気は一過性のブームのみに留まらず、1980年の映画化以来、毎年シリーズ作品の新作が公開されるなど、40年以上にわたって続いている。 ドラえもんに次いで1980年〜1987年にかけて『怪物くん』『忍者ハットリくん』『パーマン』『オバケのQ太郎』『プロゴルファー猿』『エスパー魔美』『ウルトラB』等の藤子漫画が立て続けにテレビアニメ・映画化。藤子のアニメだけを放送する『藤子不二雄ワイド』が毎週放送され、藤子の新作漫画が毎週掲載される週刊誌形式の漫画全集『藤子不二雄ランド』(1884-1991)が毎週刊行されるなど、藤子不二雄ブームと呼ばれる現象となった。 闘病と独立(コンビ解消). そんな中で1986年に安孫子は倒れた妻を介護する身となり、藤本は癌手術で休養。1987年末にそれぞれ1人の漫画家として独立することを発表し、1988年から「2人で2人の藤子不二雄」として新たなスタートを切る(最後の合作はドラえもんブーム直前の1976年に描かれた『オバケのQ太郎』の読切)。 独立後、安孫子は1990年公開の映画『少年時代』をプロデュース。数々の賞を受賞した。また、1989年にアニメ化された『笑ゥせぇるすまん』が大人気となり、新作の長期連載等、せぇるすまんシリーズ(1968-2004)の漫画執筆を行った。その他、『パラソルヘンべえ』(1989-1991)や『プリンスデモキン』(1991-1999)など、20世紀は児童漫画の執筆も一貫して行った。 1988年以降から1996年にかけて、藤本作では『キテレツ大百科』『チンプイ』『21エモン』『ポコニャン!』『モジャ公』等が、安孫子作では『ビリ犬』『笑ゥせぇるすまん』『さすらいくん』『夢魔子』『パラソルヘンべえ』等が次々とアニメ化された。 今なお吹きやまぬ2つの風. 藤本は1996年9月23日に死去するまで、毎年『大長編ドラえもん』の漫画連載を執筆。春休みの映画公開は2023年現在も続いている。 安孫子は2000年代以降もまんが道シリーズ『愛…しりそめし頃に…』等の連載を継続して執筆。『怪物くん』は嵐の大野智主演で連続ドラマ化、3D実写映画化された。 『忍者ハットリくん』は2004年にSMAPの香取慎吾主演で映画化された他、インドでアニメが放送され人気が爆発。2012年からは日本とインドで共同で新作アニメの制作を開始。2023年現在もYouTubeやテレビ放送で新作が公開される国際的人気作となっている。 2022年4月6日に安孫子が死去した後も、2人の藤子不二雄旋風は吹き続けている。 (以上は「年譜」の要約。詳細と注釈は「年譜」を参照のこと) 年譜. 高岡での少年時代〜高校生デビュー. 10歳で運命の出会い。2人で神様・手塚治虫を崇め続けた結果、高校3年で本人たちも知らない間にプロデビューを果たす。 神様との対面〜伝説を生み出した「まわり道」時代. あこがれの手塚治虫と初対面を果たし大きなショックを受ける。昼は高岡市と富山市に分かれ、夜と日曜日のみ共に執筆する「まわり道」時代。雑誌デビューを果たし、19歳で伝説の単行本を世に送り出す。 上京、両国からトキワ荘へ. 上京。2畳間で2人で暮らす両国下宿時代の4か月を経て、あこがれのトキワ荘へ入居。わずか2か月後に「大量原稿遅延・落とし事件」を起こすも、干されることなく1年で復活。順調に仕事を増やし、母たちを東京に呼び寄せる。合計3部屋を借りる、連載10本の売れっ子漫画家に。 スタジオ・ゼロとオバQブーム. 1962年に藤本、1966年に安孫子が結婚。 少年週刊誌の新連載が次々と増え、1964年には「週刊漫画誌3誌同時連載」を達成。 『オバQ』がアニメ化され大ヒット。オバQブームが起こり、社会的に知られる漫画家となる。 『忍者ハットリくん』(安孫子)、『怪物くん』(安孫子)、『パーマン』(この時代に描かれた旧作は藤本メインの合作)、『21エモン』(藤本)などの代表作が続々と発表され、その多くがテレビアニメやテレビドラマになる。 大人漫画で新路線開拓、そして原点回帰へ. 青年・大人漫画への傾倒. 1960年代中頃から、劇画が隆盛し、少年誌に掲載される漫画の対象年齢も高くなった。 1968年(S43)には青年向け漫画誌『ビッグコミック』が創刊され、安孫子は読切『黒イせぇるすまん』を発表した。安孫子はそれまでも風刺色の強い漫画をしばしば発表していたが、本作を機に大人向けの漫画に本格的に取り組むようになる。後にブラックユーモア短編と呼ばれる『マグリットの石』(1970)らの短編群の他、『毛沢東伝』(1971)、『愛ぬすびと』(1973)、『ミス・ドラキュラ』(1975-1980)等、多数の大人向け漫画が描かれた。 1969年(S44)に藤本も『ビッグコミック』に『ミノタウロスの皿』(1969)を発表。1970年代には多数の大人向け漫画を青年漫画雑誌、SF専門誌などで発表した。これらの短編は、少年向けのものとあわせてSF短編と呼ばれるようになった。 少年週刊誌をめぐる安孫子と藤本の明暗. 安孫子によると、青年漫画を描くようになった1973年頃、「少年雑誌にまた、たくさんおもしろいマンガをかいてください」というドラえもんファンの子供のファンレターを読み、少年漫画への回帰を決意したという。安孫子は1970年代、少年雑誌においても週刊連載を精力的に執筆する。後に藤子漫画史上最長となる自伝的漫画『まんが道』(少年チャンピオン連載は1970-1972)を開始した他、怪奇漫画『魔太郎がくる!!』(1972-1975)、『ブラック商会変奇郎』(1976-1977)、ギャグ漫画『オヤジ坊太郎』(1975-1976)等を次々と連載した。その中で趣味のゴルフを生かした大作『プロゴルファー猿』も生まれた。 一方、藤本は少年週刊誌で苦闘。劇画隆盛の中、藤本単独作の『ウメ星デンカ』(週刊少年サンデー連載は1969のみ)や『モジャ公』(1969-1970)の人気が伸び悩んでいたためだ。少年漫画誌が青年読者の獲得に力を入れる中、『週刊少年サンデー』編集部に、ゴンスケをサラリーマン化した新作を提案されたが、藤本は「私は最近の読者層の変質についていけません」と拒否している。『週刊少年サンデー』では『ウメ星デンカ』が終了。その後、合作『仙べえ』(1971-1972)を挟んで、次作は安孫子単独作の『プロゴルファー猿』(週刊少年サンデー連載は1974-1978)が連載となる。 少年週刊誌という舞台を失った藤本は小学館の学習雑誌に注力するが、学習雑誌での『ウメ星デンカ』(学習雑誌連載は1968-1970)の後継作『ドラえもん』(1969-1996)は、1973年にせっかく実現した初アニメ化(日本テレビ版)が制作サイドの問題で半年で打ち切りとなっていた。 ドラえもん人気爆発と藤子不二雄旋風. 1974年(S49)夏、単行本(てんとう虫コミックス)が発売されたことで『ドラえもん』(藤本単独作)の人気は徐々に高まっていく。 そんな中、1976年(S51)4月、『オバケのQ太郎』の読切作品(最後の合作)が『月刊少年ジャンプ』5月号に掲載される。 『ドラえもん』の人気と比例して藤子不二雄の人気も高まり、1977年(S52)には藤子不二雄作品を中心とした『コロコロコミック』が創刊。 『週刊少年キング』では藤子不二雄の自伝的漫画『まんが道』(キング連載は1977-1982。安孫子単独作)も開始した。 1979年(S54)には『ドラえもん』がテレビ朝日の製作により同系列で再アニメ化。全国放映され、不動の人気を決定づけた。 1980年(S55)には映画化され、現在まで続くシリーズ作品となる。 この30年後に安孫子は、『ドラえもん』が大ヒットしたのを見て「このままだと、藤本氏のマネジャーかアシスタントをやるしかないのでは」と内心悩んでいたというジョークであまりの過熱ぶりを振り返っている。 『ドラえもん』に続いて1980年〜1987年にかけて『怪物くん』『忍者ハットリくん』『パーマン』『オバケのQ太郎』『プロゴルファー猿』『エスパー魔美』『ウルトラB』が立て続けにテレビアニメ・映画化され、各メディアを席巻した。1985年(S60)にはこれらの藤子アニメを複数まとめて放送する番組枠『藤子不二雄ワイド』がレギュラー編成されるほどだった。 前年の1984年(S59)には、新作漫画が毎週掲載されるという異例の漫画全集『藤子不二雄ランド』(中央公論社)が創刊され、藤子不二雄は自身専用の週刊連載媒体を持つ漫画家となった。 1980年代の人気の過熱ぶりは藤子不二雄ブームと呼ばれる。 2つの闘病と独立(コンビ解消). 妻倒れ安孫子オロオロ、藤本は52歳で胃癌に。1987年末に2人は独立(コンビ解消)を発表する。 独立(コンビ解消)の真相. 1986年に藤本が胃癌になってからの経緯を見れば、独立(コンビ解消)の大きな原因が藤本の体調(自由に休み時間をとりつつ自分のペースで仕事ができる環境が必要だった)にあることが伺える。また、安孫子家も大変な状況だった。 その他の「作風の違い」等の理由は、病気のことにあまり触れないために語っている可能性もふまえたうえで真相を考える必要がある。 2人で2人の藤子不二雄時代. 1988年から「2人で2人の藤子不二雄」として新たにスタート。1996年9月までの9年弱の間に、2者2様の活動が行われた。映画での共演など、コンビ時代と変わらぬ関係も続いた。 藤子・F・不二雄 死去後. 2000年代. ランドとF大全集が刊行。藤子漫画の変わらぬ人気ぶりが続く。藤本と安孫子の合作作品の購入がかつてよりも容易に。日の目を見ていない作品のさらなる復刊が待たれる。 2010年代. 『藤子Ⓐデジタルセレクション』刊行。これによりF大全集とあわせて2人の作品の大部分が体系的に読めるようになった。藤子Ⓐは未収録作品がまだまだ膨大にあるので、さらなる復刊が期待されている。 藤子不二雄の合作. 藤子不二雄の合作作品. 藤本弘と安孫子素雄の2人の合作による主な漫画作品。それぞれが単独で執筆した作品は#作品一覧を参照。 藤子不二雄の合作一覧. ※上の「ピックアップ」で紹介した作品も含む。 読切など. 連載以外の作品。単行本、別冊等も含む。 作品一覧. 藤子不二雄の主な作品。 作品の共通点. 以下は、別作品同士の共通点や類似点。 中には藤本作品と安孫子作品の両方にまたがる共通点もある。コンビ時代は単独作でもすべて「自作」「合作」なので、アイデアや同一のネタも共有し、各自で自由に使用していた。単独作の中にも、相棒の影響下のもとに描かれているものがあることがわかる。 実写. テレビドラマや映画で実写映像となった主な藤子作品。 その他の作品はを参照。 音楽. 藤子作品に付随して作られた主な音楽。 その他の作品はを参照。 作詞. 1987年以前の「藤子不二雄」名義の楽曲。 ゲーム. 藤子作品を題材に作られた主なコンピュータゲーム。 その他の作品はを参照。 その他の情報. 入手困難作品. 2023年現在入手困難な作品、または未単行本化作品。 他多数。 Moマーク. 藤子不二雄のサインや、作品の最後のコマ等に記されていることがある「Mo」に似たマークはアルファベットではなく「富士山」と「湖」で、「富士+湖」→「フジコ」を表している。独立後、藤本弘は「M」の左下に「o」を描くようになった。 出演. 藤子不二雄本人によるメディア出演。 登場作品. 藤子不二雄(または藤子不二雄をモデルとした人物)が登場する作品。 関連人物. 共同制作者など. 藤子スタジオ(1988年以降は藤子プロも含む)にて作画に関わったスタッフまたは友人。 アシスタント(作画スタッフ). ※在籍順。 不明. ドラえもんの関連書籍の執筆者。
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安永航一郎
安永 航一郎(やすなが こういちろう、1962年(昭和37年)1月13日 - )は、日本の漫画家。パロディや下ネタを扱った作品を多く手掛ける。 また、同人サークル「沖縄体液軍人会」(おきなわたいえきぐんじんかい)を主宰しており、同人活動においては、自身の作風をより強めた形でアニメやゲーム作品などの二次創作作品を発行している。
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DVD
DVD(、デジタル多用途〈多目的〉ディスク)は、デジタルデータの記録媒体である第2世代光ディスクの一種である。 媒体の形状や記録・読取方式はCD(コンパクトディスク)とほぼ同じだが記録容量がCDの約6倍になるため、CDでは不可能だった長時間映像の記録が可能である。 開発にあたっては、ハリウッド映画業界からの要求で「現在のメディアを上回る高画質・高音質で、1枚につき片面133分以上の収録時間」を目指すこととされ、1枚あたりの記録容量は当時の技術水準との兼ね合いからVHSビデオテープ方式と同等画質で133分の録画が可能となる4.7GB(片面一層の場合)のディスクとして開発された。約2時間の映像の場合、DVD以前から映像記録媒体として使用されていたレーザーディスクでは両面に記録する必要があり、視聴途中でディスクを裏返す必要があったが、DVDでは片面で収録可能になったため、映画作品の大半を途切れることなく視聴できるようになった。またデジタル化されたため、安定した映像が再生できるようになった。 こうしてCDと同様の使い勝手で高画質な映像を視聴出来ることから、2000年代以降の映像記録の主要メディアに位置づけられ、VHSやレーザーディスクを置き換える形で普及した。従来の映像記録媒体と同様に映画やドキュメンタリー、ドラマなど、様々な映像ソフトが市販されている。さらに、民生用カムコーダやノンリニア編集対応パソコンなどの普及に伴い、自主編集した映像のDVD記録も可能で、また映像用途だけでなくコンピュータ用のデータ・ストレージ(保存媒体)としても使用される。 2000年代からは容量面でDVDを上回る、第3世代光ディスクと呼ばれるBlu-ray Discが登場し、2010年代以降はDVDと同時期に普及したUSBメモリなどのフラッシュメモリの容量もDVDを上回った。1メディアの容量当たり単価はフラッシュメモリが上回っているが、堅牢性、融通性から、PCなどでの単なるデータの受け渡し用途としては、フラッシュメモリにその座を明け渡している。 2020年代に入ると、ネットワークを経由して端末やクラウドの間で大容量データをやり取りすることが主流となり、映像用途としてもBlu-ray DiscおよびYouTubeやNetflixなどの動画配信サービスが普及したことで、その座を明け渡している。 登場から普及までの経緯. 第2世代光ディスクの開発と規格争い. DVD登場以前の1990年代初頭、CDより高密度の第2世代光ディスクには映画の情報量から考えると50倍の容量が必要でそれを実現するためには青色レーザーが必須と考えられており、研究が行われていた。ハリウッド映画業界から早期に商品化してほしいという要望があったが当時は青色レーザーによる光ディスクの実用化は困難であった。そのため当時急速に進歩していた動画圧縮技術で必要とする容量を大幅に減らし、青色レーザーを使わず大容量化を図った光ディスクを組み合わせる方向で開発が進められた。ソニーは青色と赤色レーザーの中間の波長となるSHGグリーンレーザーを用いた光ディスクを研究していたがCDと同じディスクの厚みに拘ったため他社の赤色レーザーを用いた改良型の光ディスクに容量で劣っていた。1994年末には東芝・タイム・ワーナー・松下電器産業(現・パナソニック)・日立・パイオニア(現・オンキヨーホームエンターテイメント)・トムソン・日本ビクター(現・JVCケンウッド)の連合による赤色レーザーを使ったSuper Density Disc (SD) の開発がされていた。一方で、フィリップス・ソニー陣営も赤色レーザーを使ったMultiMedia Compact Disc(MMCD)を同時期に開発しており、1980年代のVHS対ベータ戦争の再来が危惧されていた。 そこで、IBMのルー・ガースナーが仲介に入り、フィリップスとソニーはMMCD規格の採用を諦めることと引き替えに、SD規格のサーボトラッキング機構に関する2項目の修正を認めることで、フィリップスとソニーも東芝主導のSD規格につき、両陣営は合意に至った。 1つ目の項目は、フィリップス・ソニーの特許技術である「プッシュプル式トラッキング」技術を可能とするためのピットジオメトリーの採用だった。2つ目は、ケイス・スホウハメル・イミンクの設計によるフィリップスのEFMPlus採用だった。これは、東芝のSDコードよりも効率が6 %低かったため、SD規格自体の容量は5 GBだったが、結果的に4.7 GBの容量となった。EFMPlusは、ディスク面に対するひっかき傷や指紋等に対する耐障害性に大きく優れていた。結果としてが1995年に発表され、1996年9月に完成した。名称はDVDになったが、SDのロゴはSDメモリーカードのロゴに継承されている。 この統合により、規格の乱立は避けられると一旦は思われたが、その後各家電メーカーや映画会社から多数の注文をつけられ(ランダムアクセス、2時間収録、ドルビーデジタル収録など)、後述の「DVD-」「DVD+」「DVD-RAM」など、多数の派生規格が生まれた。また、2000年4月に入り、PlayStation 2やマトリックスのDVD版の発売の影響でワーナー・ブラザーズなどのDVD製造が本格化するまではDVDの普及率はマイナーな方に入る状態であった。その前までは、DVDを二層にせず、レーザーディスクのように両面1層にしたり、ディスクケースがVHSを参考にしたものでパンフレットの留め具がなかったりと、規格の理解に混乱が発生していた。DVD-ROM、DVD-VIDEOのロゴは2001年を境によりわかりやすいものに変更されている。 名称. DVDは上記の経緯により当初はデジタルビデオ映像を記録するためのメディアとして策定され、の略だと解釈されたが、その後コンピュータ補助記憶メディアとしても用いられることから、DVDフォーラムはDVDを の代わりに「多用途」の意味がある (ヴァーサタイル)を用いた「(デジタルヴァーサタイルディスク)」の略称とした。 またデジタルビデオ映像が記録されたDVDのことを世間的に総称で「DVDビデオ」と表現することが多いがそれとは別にDVDへのデジタルビデオ映像データの記録方法の1つに「DVD-Video」があり、両者は同義ではなく全く別のものである。「DVD-Video」は、DVDにデジタルビデオ映像のデータをDVD-Videoフォーマット (「DVD-VF」) で記録したものに限定される。 一方、「DVDビデオ」という総称はDVDにデジタルビデオ映像のデータが記録されたもの全て(DVD-Video、DVD-VR、AVCHD、AVCRECなどビデオ専用アプリケーションフォーマットで記録したもの、ビデオ専用フォーマットを用いずにMPEGファイルやAVIファイルを直接記録したものなど)が対象になる。ビデオカメラの撮影記録メディアとして記録されたものも一般的にここに包含される。 DVD-Videoメディア・プレイヤーの商用化. プレーヤーやドライブは、CD-DAやCD-ROMの再生にも兼用できるものが一般的であり、DVD-Videoメディア及びプレイヤーの初の商用化は日本では1996年10月、米国では1997年3月、欧州では1998年3月、豪州では1999年2月になされた。世界で初めての市販DVD-Videoソフトは『カストラート』であり、1996年10月1日に発売された。なお、初の2.1chサラウンド音響は『ツイスター』、5.1chサラウンドは『インデペンデンス・デイ』が初である。 その後日本では2000年3月4日にソニーコンピュータエンタテインメントから発売されたゲーム機、PlayStation 2にもDVD視聴機能が搭載されたことで普及が始まり、2004年にはDVDプレーヤーの国内出荷台数がVTRを上回った。 パソコン分野でも光学メディアの中心はCDからDVDに移行した。一方オーディオ分野では、一部愛好者向けに留まり、普及しなかった(DVD-Audio参照)。 メディア製造コストは、VHSの1巻120円程度に対し、DVDは1枚20円程度と安い。取扱いも容易なので、パブリッシャー側からすれば収益が上げやすい。このため、映像を取り扱う産業では、セルDVDを(副ではなく)主な収益源とする企業が増え、業界の状況を一変させた。 こうしてデジタルビデオといえばDVDと認知されるほど広く定着した。 ライセンス. DVDのフォーマットおよびロゴのライセンスは、 (DVD FLLC) が管理している。 仕様. ディスクには物理構造による違いとデータ書き込み方の形式(論理フォーマット)による違い、さらにはビデオ用途でのアプリケーションフォーマットによる違いもあり、それぞれの組み合わせでさらに多くの種類が存在する。 二層構造. DVDは、大容量の記録を目指したディスクであり、CDではレーベル面に当たる面にも記録できるよう、両面記録の規格が存在する。しかし、レーザーディスクのように一面の読み込みが終わった際に裏返すのは手間がかかる。そこで、片面に二層構造を持たせれば、一層構造より多くの容量を確保することができ、裏返す手間もなくなる。ユーザ記録型のDVD+R DLが市場に登場したのは2004年6月で、DVD-R DLが2005年5月である。光学ドライブによっては、相性や仕様で読み取れない場合もある。また、単層方式に比べレーベル面の取り扱いに注意しないと、CDのように記録層が破損する等のトラブルに見舞われる。 二層構造の場合、全反射をする層を2つ持たせると奥にある層の読み込みができなくなる。それゆえ、片面(両面)二層ディスクの第1層目(「レイヤー0」、あるいは略して「L0」と呼ぶ)が薄い金属膜でできており、第2層目(「レイヤー1」または「L1」と呼ぶ)は全反射をする構造になっている。レイヤー0は薄膜であるのでレイヤー1よりも読み取りのための反射光の検出率が悪くなるが、記録密度を下げることで読み取り性能を確保している。したがって、二層ディスクの容量は単層ディスクの2倍よりも少ない。 レイヤー0は(CDと同じで)内周側から外周側に向かって記録・読み込みを行う方式であるが、レイヤー1の記録方式には以下の二通りがある。 これらの情報は、DVDの管理情報としてレイヤー0の最内側に記録されている。ちなみに、DVD+R DLではオポジット方式のみとなっている。二層ディスクのDVDを再生していると、途中で読み込むレイヤーを切り替えるときが来る。DVD-Videoを再生している場合、一部の再生機ではレイヤーの切り替えの際に時間がかかってビデオ再生が一瞬停止したような状態になることがある。(連続再生時にレイヤーが切り替わる際の読み取りピックアップの移動はオポジット方式であればパラレル方式よりも少なくて済む利点がある。) 二層方式のDVDはDLと略して呼ばれることが多いが、正式名称はDVD-DLでは'、DVD+DLでは'と、それぞれ異なる。 記録方法. トラックに沿って、ピットと呼ばれる凹みを作ることで記録することができる。読みとる際はレーザー光線を当て、凹み有無による反射の違いを利用する。 DVDのトラック形状は同心円型ではなく、CDと同様の渦巻き型である。 トラック・フォーマットは物理規格ごとに異なっている。 ウォブル・ランドプリピット方式を採用したDVD-R/RWディスクには、グルーブ(溝)とランド(丘)があらかじめ刻まれており、グルーブは蛇行している。この蛇行をウォブルと呼ぶ。またランドにはあらかじめランドプレピットというランド部分の途切れている部分がある。ドライブは、ウォブルとランドプレピットにより、位置決め(アドレッシング)を行う。記録されるデータ(ピット)はグルーブに書き込まれる。 高周波ウォブル・グルーブ方式を採用したDVD+R/RWディスクでは、ランドプレピットがなく、ウォブルの蛇行周波数が高い。ピットはDVD-R/RWと同じくグルーブに書き込む。 ウォブル・ランドグルーブ方式を採用したDVD-RAMではグルーブとランドにピットを書き込む。 読み出し専用のDVD-ROMはピット方式を採用している。 なお、位置情報の記録方法はDVD-RW系とDVD+RW系で異なる。 転送速度. データの転送速度は等倍速で11.08 Mbps (=1385 kiB/s) である。これはCDの転送速度を1倍速 (150 kiB/s) として、9倍速程度に相当する。規格上定められている最大転送速度は16倍速(DVD-Rの場合)であるが、これは177.28 Mbps (=22.16 MiB/s) に相当する。 論理フォーマット. DVDに使用される論理フォーマットは主に以下の二つである。 CD時代から使用されているISO 9660に加えて、Optical Storage Technology Association(略:OSTA)が策定した、拡張性の高いUDFに対応している。映像用途ではDVD-VideoがUDF 1.02、デジタル放送の録画で使われるDVD-VRにはUDF 2.00が使用されている。 PC向けのデータDVDでは上記のどのフォーマットでも使用できるが、PCのDVDドライブとOSが対応していないければ読み込むことができない。ISO 9660は古い規格で拡張性に乏しいのでそれだけ互換性には優れているため、ISO 9660とUDF 1.02の両方に対応したUDF Bridgeも使用される。 実際のファイルシステムは使用するOSやドライバーソフトに依存する。 のパソコン用としてはほとんどUDF1.5かUDF2.01で使用される。このフォーマットで初期化することでHDD同様、自由に読み書きができる。 エラー画面. DVD-ROMでは「年齢制限」、「リージョンコード」により視聴制限をかけることが可能である。再生時にハードウェア側でこれらの制限をかけずに映像を視聴しようとした場合は、DVD側の画面で年齢制限やリージョンコードについて警告する画面が出る。これは付録などの一般販売されないものも含め、すべての映像用DVD-ROM作品に存在する。年齢制限は予め全年齢に設定すること、リージョンコードは「ALL」を採用することでこのエラー画面を省略することが可能である。 コピーガードはCSSが設定されているが、現在ではそのコピーガードを簡単に解除できるため、会社ごとに独自のコピーガードが追加される場合がある。また、VHSなどに記録されたマクロビジョン製コピーガードを無視して録画することも依然不可能である。 物理フォーマット. 規格はDVDフォーラムの他、Ecmaインターナショナルによっても標準化されている。 データを記録するには記録型DVDを使用する。記録型DVD規格としてDVD-R(1回だけ書き込み可能)とDVD-RW、DVD-RAM(複数回の書き込みが可能)がDVDフォーラムによって制定されている。これに対抗するものとして、DVD+RWアライアンスの策定したDVD+RやDVD+RWがある。 記録型DVDについて、一部海外メーカーのものに品質に重大な問題がある場合がある。品質の悪いディスクは動画の再生時にブロックノイズが入る、再生が止まる、保存したデータが消える、ドライブやレコーダの寿命が縮むといった問題を引き起こす可能性が高い。 しかし、ドライブの性能や相性によって書き込み品質が下がることもあるため、一概に国産メディアを使えば大丈夫という保証はない(国内ブランドでも海外製メディアを採用していることがある)。安心して使うためには、これから利用するメディアを1枚買って書き込みテストを行い、問題がないことを確認してから利用することが望ましい。また、発売当初は100年程度もつといわれていた書き込みメディア耐久性であるが、これはあくまで良質なメディアの加速試験(実際に100年間試験するのではなく、代わりに紫外線の照射強度などを変えて100年間相当の環境にするもの)における結果であって、現実には数年程度でデータが消えてしまう品質の悪いディスクも存在する(逆に言えば100年を超えても使えるメディアも存在する)。長持ちさせるためには、紫外線の当たる場所や高温多湿な場所を避けることが重要である。また、VHSと比較してテープが絡まって故障する心配は無いものの、ディスクが傷つくと読み込み不可能になる場合もある。 読み出し専用型. DVD-ROM. DVDにコンピュータ用の読み取りファイルを記録したもの。DVDフォーラムにより策定、ECMA-267・268により標準化されており、パソコンやゲーム機データ配布用媒体として定着している。 容量は一層タイプが片面4.7 GB・両面9.4 GB、2層タイプが片面8.5 GB・両面17 GB。論理フォーマットはUDF Ver.1.02である。 ゲーム機としてはPlayStation 2、Xbox、Xbox 360がソフト用の媒体に採用しており、パソコンではAppleのmacOSが媒体に採用しWindows 98 Second Edition以降のWindowsがサポートしている。アーケードゲーム基板ではFirebeat、System246あたりから採用された。 市販のDVDビデオソフトは、このDVD-ROMの物理フォーマットのディスクに映像データがDVD-Videoのアプリケーションフォーマットで記録されたもの。 ゲームやDVDビデオソフトなども含めたDVD-ROMは読み取り専用であるため、他の書き込み型DVDやレンタルも含む市販ビデオテープソフトなどのように、その作成時には記録媒体にデータを直接記録して作成されているわけではなく、データ記録面に読み取り用のピットを形成したマスター原盤(スタンパー)を作成後、それを元にしたプレスと張り合わせの工程による物理的な工法によって量産されている。そのため、書き込み型DVDに比べて経年化学変化の影響を受けにくく、物理的な形状破損や読み取りレーザー光反射層の金属素材の劣化がない限りは基本的に読み取り可能である。 書き込み可能型. 以下、全てのメディアに「データ用 ()」と「ビデオ録画用 ()」の2種類がある。後者は地上デジタル放送移行前は私的録音録画補償金制度により補償金が上乗せされていたが、移行後は、コピー制限があるという理由で補償金が上乗せずに販売されている("私的録音録画補償金制度#デジタル放送専用レコーダーの私的録画補償金に対する訴訟を参照")。なおCPRM非対応の録画用メディア(アナログ放送専用などと表示されている場合もある)にはコピーワンス、ダビング10のデジタル放送を記録できない。DVD-VRはすべてのDVD±R,DVD±RWで対応しているが、CRPMはすべてのDVD±R,DVD±RWで対応しているわけではなく、「for VIDEO」と書かれたDVD±R,DVD±RWを使用する必要がある。また、DVD-VR規格でフォーマットしたDVD-RWにコピーワンスの映像を録画し、そのままファイナライズしてしまった場合、その映像は強制的に視聴できなくなる。 DVDフォーラムが制定した正式規格. DVD-R/DVD-RWの「-」は本来ハイフンであるが、後述のDVD+R/DVD+RWが「+」を「プラス」と読むため、区別のために「マイナス」と読まれる場合も多い。一方、DVD-RAMの「-」もハイフンであるが、DVD+RAMが存在しないので「マイナス」とはほとんど読まれない。 VCPSを採用したDVD+と異なり、DVD-の録画用メディアはCPRM、HD Rec、AVCRECに対応している。 追記型. 一度だけの書き込みが可能(ファイナライズ前なら削除や追記も可能)なタイプとして以下のものがある。 DVD-R. DVD-RはDVD Recordable の略称。ライトワンス型の記録型DVDフォーマット。DVDフォーラムにより策定、ECMA-359により標準化されている。1997年9月にパイオニアによって開発された。 容量は片面で4.7GB、両面で9.4GBである。 CD-Rと同様、色素を使って記録されるがM-DISCには無機系が採用されている。記録層にはアゾ色素、シアニン色素、オキソライフ色素が用いられている。 データの記録は、ディスクの基板上に連続した線上に存在するランド(丘)に挟まれたグルーブ(溝)に強いレーザー光を当てることでピット(くぼみ)を焼付け形成することで行なわれる。ピットを形成する皮膜の記録材料には有機色素材料を使用しておりレーザー光照射による色素の分解という化学変化を利用しているため、素材コストの関係で比較的に価格を安価にできる一方で一度しかその場所にはデータを書き込めない。また、当初のVersion1.0規格では3.95GBだったが、Version2.0規格で4.7GBに容量を増加した。またVersion2.0規格では業務用の「」と一般向けの「」の2つに規格が分かれており、一般向けの「」にはコピー防止機能が組み込まれている。 量産効果により価格が最も低く、パーソナルコンピュータ用としてはDVD-RAM/RやDVD-RW/Rといった両対応ドライブが登場しCD-Rに代わるものとして広く普及している。家庭用DVDレコーダーにおいてもパナソニックとソニー以外の企業はDVD-R/-RWドライブを採用している。またパナソニックも2005年春以降のモデルはDVD-RWへの書き込みに対応している。 また、記録面皮膜材料に有機色素材料を使用していることで光の中でも特に紫外線の影響を受けやすく、太陽光を長時間当てた場合など記録情報が失われることがあることが実験で示されている。DVD-RAMやDVD-RWは皮膜材料に有機色素材料とは異なるものを用いているので光の影響による経年変化はほとんどないとされているが代わりに熱に弱いと言われ、アメリカ国立標準技術研究所 (NIST) では「書き換え可能なDVD-RAMやDVD-RWは熱に敏感に反応する素材を使っているためにDVD-Rより長期保存には使えない」としている。いずれにせよ、保存環境やディスクの質によって寿命は大きく変化する。 コピーワンスの制限がかかった地上デジタルテレビ放送・BS・CSデジタル放送の場合、DVD-Rへの録画は出来なかったが2004年に録画が可能なCPRM対応DVD-R(CPRMへの対応はDVD-VRフォーマット時のみ可能)が登場した。 DVD-Videoでの記録の場合、テレビ放送/DVD-VR/DVD-Videoの各音声方式の違いによる影響のためレコーダーでテレビ放送の二ヶ国語放送/解説放送が記録出来る市販レコーダーは2006年現在製造されていない(ステレオ放送は可能)。ただし後年はDVD-VRフォーマットでの記録が可能な製品も販売されており、DVD-VRの場合は二ヶ国語放送/解説放送の記録も可能。またDVD-Videoフォーマットでの記録の場合でも、マルチ音声トラック機能を用いて二ヶ国語以上の音声のDVD-Videoディスクを作成することは可能(DVD-VRでの記録も、DVD-Videoでの二ヶ国語切り替えディスクの作成もその可/不可は録画機器や作成ソフトなどのツール側の機能による)。また、東芝やパイオニア、シャープ等の一部メーカーのDVDレコーダーでは追記型VR記録が可能であるがファイナライズ処理を行わないと他のプレーヤー等で再生はできない。またDVD-Rメディアの初期状態はDVD-Videoフォーマットだが、DVD-VRでフォーマットをするとDVD-Videoフォーマットには戻せない。 DVD-R DL. DVD-R DL (Dual Layer) は1層タイプのDVD-Rを発展させたもので、片面に2層記録が可能。DVDフォーラムにより策定、ECMA-382により標準化されている。 容量は片面で8.5 GBである。両面のものは市販されていない。 初期は+DLに比べて記録速度が遅くシェアも低かったが、現在では速度では+DLに並びほとんどのドライブで対応している。2005年春に三菱化学メディアよりDVD-R DLが発売された。 繰り返し記録型. 削除や再フォーマットにより、繰り返し記録できるタイプとして以下のものがある。 DVD-RW. DVD-RWはパイオニアが開発したDVD ReWritable の略称。DVDフォーラムにより策定、ECMA-338により標準化されている。 容量は片面4.7 GB・両面9.4 GB。 データの記録は、基本的にはDVD-Rと同じ方式。ただし記録マークを形成する皮膜の記録材料にはDVD-Rのような有機色素材料ではなくアモルファス金属材料を使用しており、色素材料のように光による化学変化で分解するわけではなくレーザー光照射による加熱でのアモルファス金属の結晶化・非結晶化を利用している(結晶化することでその場所の反射率が変化する)。結晶化した場所に再びレーザーを当てて結晶状態を溶かして急激に冷やすことで非結晶化が可能であり、データの消去や再利用(同じ場所へのデータ書き込み)が可能となっている。 書き換え可能回数は1000回以上で10万回以上書き換え可能なDVD-RAMよりは少ない。他の書き込み型DVDとの違いは、ビデオ用途で使用する場合に買ってそのままではデータの書き込みができないことである。VideoモードとVRモード両方で使えるメリットがある一方でフォーマット形式が異なるため、どちらで使用するかを選択し、約1分程度かけてフォーマットする必要がある。 再生機との互換性を確保するためファイナライズ処理が可能で、ファイナライズを解除し再び追記することも基本的には可能である(レコーダーによっては不可)。 DVD-RW DL. 日本ビクター(現・JVCケンウッド)が2層のDVD-RW (DVD-RW DL; 容量8.5 GB)を開発し、2007年6月のDVDフォーラムの承認後、同8月に発売予定だったが、対応ドライブが製品化されないまま2008年3月に発売の凍結が発表された。 規格はECMA-384により標準化されている。 DVD-RAM. DVD-RAMはDigital Versatile Disc Random Access Memoryの略称。相変化記録方式の記録型DVDである。DVDフォーラムにより策定、1997年4月に2.6 GBのVersion1.0規格が制定され、2000年夏に片面4.7 GBのVersion2.0規格が制定された。またECMA-330により標準化されている。 PD規格を提案した松下電器産業(現・パナソニック)が中心となってPDの技術をもとに開発され、1998年4月にパナソニックと日立製作所から最初の製品が発売された。 DVD-RWとは異なりデータの記録面の材料にはアモルファス金属材料を用いているが、レーザー光照射による加熱での結晶化を利用している(結晶化することで反射率が変化する)点では同じである。 DVD規格の一つであるが、記録密度・ランダムアクセス性向上のために通常のDVDとは異なるアドレス方式やトラッキング方式をとっており(前述)、ディスクの回転制御の方式も大きく異なるなど他のディスク (DVD-ROM/DVD-R/DVD-RW) とは物理的記録方式に異なる点が多いため、特に対応したドライブでしか読み書きができない。他の書き換え型DVDであるDVD±R/RWが一般のDVD機器で読み書きができるのとは対照的である。また、初期のDVD-RAMドライブはPDも使用可能であったが、Version2.0対応のドライブからは互換性がなくなった。 記録面は、円周方向に他のDVDメディアには見られない細く短い線が微妙に角度を変えながら全面に分布している。これは埋め込みサーボ技術のサーボパターンであり、このパターンを検出することで瞬時にヘッドの位置を認識することが出来、ランダムアクセスの高速化に役立っている。同様の技術はMOやHDD(磁気情報なので肉眼では見ることが出来ない)にも使われている。 かつてはDVD-RAMへ書き込みを行うにはドライバ(UDF)のインストールが必要だったが、Mac OS XやWindows XP以降ではOS標準でサポートされるようになった(FAT32形式のみ)。また読み書きに専用のライティングソフトは必要とせず、通常のファイル操作で使用できるのも特徴である。Windows 95ではHDDだと1つのドライブにつき2 GB以下のパーティションしか扱えないというFAT16フォーマットの制限があったが、DVD-RAMの場合はUDFフォーマットが利用できるため、Windows 95であっても 当初はデータ用として普及したが後にビデオ録画用にも普及した。民生機では書き込みの高速性を利用して録画を行いながら別番組を再生することなども可能。また、DVD-RAMは不要な部分だけを簡単に消せるうえ、録画したDVD-RAMを別の機器で再生させる場合でもファイナライズ処理が不要である。 アナログ放送用のDVD-RAMレコーダーでは、DVD-VR方式で記録する。このため、パソコンを使って映像をDVD-VR方式で書き込めばレコーダーで再生することができる。逆に、レコーダーで録画したディスクをパソコン上で再生することもできる。これらを可能にするソフトウェアとしてはパナソニックのDVD-Movie album、UleadのDVD Diskrecorder(DVD MovieWriterにも実装)、ペガシス製のTMPGEncシリーズ等がある。これらは主にタイトル名編集、カット編集、DVD-Videoモード形式への変換などの機能がある。 ハイビジョン放送用のDVD-RAM対応レコーダーでは、AVCREC方式で記録する。これもパソコンで扱えるが、UDF2.5フォーマットに対応していること、アプリケーションがAVCRECに対応していることが前提となる。 なおDVD-Video方式でDVD-RAMに書き込むことも可能であり、対応するアプリケーションも存在するが、市販されているDVDプレーヤーの多くは最新機種も含めてDVD-RAMには未対応のまま現在に至っている。 ファイルシステムとして読み書きすることが前提となっているため、回転速度は各ドライブの設計に依存する。ただし実際には低速度メディアではZCLV、高速メディアではPCAVで制御しているドライブが大半である。 DVD±RWの1000回を上回る、10万回以上の書き換えが可能である。さらに不良セクタの代替機構の構築や、書き込み時のベリファイが自動的に行われる。ただしベリファイを行うため、たとえば2倍速の書き込みは1倍速の読み出しと同程度の時間を要する。 デメリットは構造上の特徴からDVD-Videoとの互換性が無い点であり、DVD再生専用プレイヤーやDVD再生対応ゲーム機などで対応機種が少ない点である。また、カートリッジ付メディアの挿入は出来ないドライブが多い。、カートリッジ型対応のドライブを生産しているのはパナソニックほか少数である。ただし後年は読み取りドライブのマルチ化が進んでおり、 当初規格統一に参加していたソニーやフィリップスなどはDVD-RAMがDVD-ROMとの互換性が比較的低いことなどを理由に、1997年5月になってDVD+RWを対抗する規格として提唱した。これは片面3 GB、両面6 GBの容量を持ちDVD-ROMと互換性があった。しかしDVD-RAM陣営は1999年6月、これを上回る片面4.7 GBのVersion 2.0規格の決定を発表した。ソニー、フィリップス、ヒューレット・パッカードの3社を中心とするDVD+RWアライアンスは、独自の対抗規格として同等の容量を持つDVD+RWを策定している。 DVD-RAM陣営はドライブの製造メーカーとしてはパナソニック、日立LGデータストレージ、東芝サムスンストレージ・テクノロジーなどが、テレビの録画用DVDレコーダーとしてはパナソニック、日立、東芝、日本ビクターなどがあった。2006年4月にはパイオニアも加わった。このうち日立・日本ビクター・パイオニアはカートリッジタイプのディスクは使用できなかった。 2003年の時点では記録型DVDとしての世界シェアは約10 %、日本国内ではレコーダーの普及により約60 %のシェアを持っていた。しかしその後日立と日本ビクターが民生用DVDレコーダー事業から事実上撤退し、2007年12月以降はパナソニック・東芝の2社のみとなった。 そもそも、東芝はDVD-RAM陣営であるにもかかわらず再生専用機ではDVD-RAMへの対応を行っていなかった。これは、同社のDVDプレーヤーの大半がオリオン電機(社名変更を経て清算済)などからOEM供給されたものであったためである。自社生産品であるHD DVDプレーヤー「HD-XA1」では対応していたものの、CPRMには対応していなかった。Blu-ray Discレコーダーでも再生のみの対応となっている。パナソニックも車載用機器では対応していなかった。。 の傾向としてパイオニア、NECなど今までDVD-RAMに対応していなかった複数のメーカーからDVD-RAM対応のドライブ(パイオニアの場合はDVD-RAM録再対応のDVDレコーダーも登場。ただし、2006年4月以降の新機種から)が発売された。ランダムアクセスが可能でありデータの書き込みに専用ライティングソフトが不要である。 パナソニックは市場規模の縮小を理由に、2019年5月末で録画用DVD-RAMの生産を完了した。 メディアの規格は基本的に他のDVD規格に準ずる。両面メディアが存在するなど仕様は複数あり、容量は片面1.46–4.7 GB、両面2.92–9.4 GB。2層タイプは製品化されていない。8 cmディスクはVersion2.1より設定された。 当初はディスク保護のためカートリッジ入りでそこからメディア円盤の取り外しができない規格のみだったが、後にメディア取り外しが可能なカートリッジ型が登場し、さらに記録面の耐久性が改善されたことによりカートリッジ無しタイプも販売されるようになった。ではドライブ、メディア共にカートリッジなしタイプで2倍速から5倍速に対応した製品が主流となっている。 DVD+RWアライアンスが制定した別規格. DVD+RWアライアンスが策定したこれらの規格はDVDフォーラムの規格外のため厳密にはDVDとは呼べず、DVDロゴは付いていない。また正式名称に「DVD」の文字はない。このように本来のDVDとは似て非なるものである。しかし2008年にはDVD関連ライセンス団体であるDVD6Cがこれらの規格のライセンスを管理するようになるなど。 DVD-R/-RW/-RAM陣営(以下、DVDフォーラム陣営)とDVD+R/+RW陣営(以下、+RWアライアンス陣営)がVHS対ベータマックスのような規格争いを行って消費者に混乱を招くことが懸念されたが、現在はDVDレコーダーではDVD-R/-RW/-RAMにほぼ落ち着き、パソコン向けドライブでは両対応のスーパーマルチドライブが普及したためそれほど混乱は生じていない。 Windows Vistaでは、Mount Rainier(DVD+MRW)と呼ばれる規格がサポートされている。これはパケットライト方式で書き込む際に有効でフォーマットを必要最小限の領域にとどめ、残りの領域のフォーマットは書き込みドライブが未使用のときに実行することでフォーマット時間を大幅に短縮できるというものである。 記録速度や2層メディアの登場など開発スピードがDVDフォーラム陣営に比べて速いことが特長だった。しかし、DVDフォーラム陣営も開発速度を上げ、DVD+R/+RWは著作権保護技術としてCPRMではなくVCPS ()を採用しているために日本のコピーガードに対応しておらず録画用メディアであってもデジタル放送を記録できない。日本では、DVD+R/+RWは廃れた存在となった。 追記型. 一度だけの書き込みが可能(ファイナライズ前なら削除や追記も可能)なタイプとして以下のものがある。 DVD+R. ライトワンス型の記録型DVDフォーマットで、正式名称は(プラス アール)。規格としてはECMA-349で標準化されている。DVD+Rで記録されたディスクは一般的なDVD-VideoやDVD-ROMドライブで再生が可能とされるが、実際にはメディアID(ブックタイプ)がDVD+Rであるため再生できないケースもまれにある。ただし、ファイルシステムの構造がDVD-Rに比べDVD-ROMに近いためROM化を行った場合、DVD-Rよりも互換性は高くなる。 記録面材料は、DVD-Rと同様に有機色素系材料である。 現在はソニーの「スゴ録」「PSX」(共に生産終了)ブルーレイディスクレコーダーに、DVD+Rでの録画に対応するDVDレコーダーが存在する。パイオニア等も対応レコーダー(デジタルチューナー非搭載機)を販売していたことがある。パソコンでもスーパーマルチドライブによりDVD-Rと全く同じように記録できる。 DVD-Rがたとえ1バイトのデータを記録する際でもダミーデータを上乗せして1.1 GBにしてしまうのに対しDVD+Rではダミーデータの上乗せを行わないこと(DVD-Rも後に制限が解除された)、高速化が容易なこと、メディアID(ブックタイプ)がDVD-ROMと同じものに変更可能であるため互換性が向上することなど DVD+R DL. DVD+R DL (Double Layer) はDVD+Rを発展させたもので、片面に2層記録が可能。規格としてはECMA-364で標準化されている。DVD-R DLよりも先行して一般市場に出回った。ディスクのメディアIDをROM化することによりDVDプレーヤーでの再生互換性が。 繰り返し記録型. 削除や再フォーマットにより、繰り返し記録できるタイプとして以下のものがある。 DVD+RW. パナソニックのDVD-RAMに対抗する規格として策定された規格で、正式名称はplus RW。規格としてはECMA-337で標準化されている。DVD-ROMとの互換性のある独自の書き換え可能方式を採用している。書き込み可能回数は1000回以上。記録面の使用材料はDVD-RWと同じようにアモルファス金属材料を用いている。 世界三大経済圏の有力電機メーカーである日本のソニー、オランダのフィリップス、アメリカのヒューレット・パッカードの3社が提唱しているだけに有力視されていたが、日本の大手電機メーカーでDVDレコーダーにこの方式を採用しているのはソニーのみである。一時は日立製作所とパイオニア(いずれもデジタルチューナー非搭載モデル)に対応機種があったが現在は生産終了している。 ただし、録画用メディアとしてはDVD+RWの仕様として「1つのファイルは連続した領域のみに記録される」仕様のため、DVD上での編集により生じた空き領域は使用できない。そのため、CMカットしても実質空き時間が増えないという欠点がある。いったんハードディスクドライブに移し変え、再記録することでは可能である。 DVD+Rよりも先に規格が制定され、当初はDVD+RWと記録型CDの書き込みのみに対応したドライブが発売された。 DVD+RW DL. 規格としてはECMA-374で標準化されているが製品化は中止。 特殊な物理規格. DualDisc. は、片面に音楽CD、もう片面にDVDを貼り合わせた両面の再生専用ディスク。2004年に米国の大手レコード会社が発売した。DVDフォーラムが定めた規格ではない。CD面は正式な音楽CD規格(レッドブック)に準拠していないためCDロゴは付いておらず、 ツインフォーマットディスク. 片面にDVD-ROMとHD DVD-ROMの両規格を収録した多層構造のディスク。映像ソフトで製品化されている。 48DVD. 2006年、日本出版販売から48DVDという、開封後約48時間の間のみ再生可能な使い捨てのDVDが販売されたが不調に終わった。酸素に触れると徐々に劣化する色素を記録に用いている。使い捨て式であるため環境面での批判があった。DVDフォーラムが定めた規格ではない。 アプリケーションフォーマット. ディスクに書き込むデータ形式の違いにより以下のものが存在する。 DVD-Video. DVDに複数の映像、音声、字幕を記録するフォーマット。マルチアングルでの記録も可能。複製防止技術(厳密には、再生技術である)として (CSS) という暗号化をすることが可能。論理フォーマットはUDF Ver.1.02。 本来は市販DVDビデオソフトの製作用(読み出し専用)に策定された規格であるが、家庭用DVDレコーダーや、パソコンで専用ソフトウェアを使っての記録・追記・書き込み前の編集などが可能になった。 DVDの規格上は両面2層まで可能(富士フイルムから両面式のDVD-Rが発売されている)であるが、パッケージソフトとして販売される性格から片面2層とし裏面に絵やロゴ等(レーベル)を印刷する場合がほとんどである。なおディスクを返すことなく、両面自動連続再生可能なプレーヤーが存在しない。そのため、2枚組でも両面2層でも入れ替える必要性がある点は同様なのでユーザの利便性にとっては大差がないと言える(ちなみに、LDでは両面再生対応機種が存在した)。 DVD-Videoプレーヤーのほか、LDとのコンパチブルプレーヤー(2008年1月現在、生産中)、VHSとの複合機などで再生できる。またディスクサイズが12 cmと小型であるためラジカセやカーオーディオ、LCD付ポータブルプレーヤーなど様々な対応機器が存在する。PC用のドライブでも利用可能であるため、DVD-ROMドライブを搭載したPCでは、DVD-Videoの視聴が可能であることが多い。 世界をいくつかの地域に分け、リージョンコード(地域コード)を割り当てることで地域限定のリリースやリリース日をずらすということができる。DVDプレーヤーとDVD-Videoディスクの地域コードが一致しないと再生できない。一致してもテレビ方式が合わないと再生できない。PCに海外のリージョンコードの入ったDVDを入れると勝手にリージョンが変更されることがある。 映像はMPEG-2で記録され音声は標準でPCM、ドルビーデジタル (AC-3)、オプションでDTS(デジタル・シアター・システムズ)が利用可能である。地域によって、その他の音声フォーマットにも対応する。 DVD-VR. 正式には、。一部ではDVD-VRFとも表記されているがいずれも同じものであり、登場時からの時間の経過と共にDVD-VRとしての記述に収束方向にある。論理フォーマットはUDF Ver.2.00。新たにシーンの編集機能やアングル機能、CRPMへの対応などが実装された。ファイナライズが必要なディスク規格では引き続きファイナライズが必要。 DVD-Videoフォーマット規格を元に、家庭用レコーダーで記録するためにより適した規格に改良したもの。技術的な内容は近似しているので、レコーダーの設計者が両方式間のコンバート機能を設計する際には便利ではあるが、記録されたディスクとしてはDVD-Videoフォーマットとの間に互換性があるわけではない。 HDD搭載のDVDレコーダーの多くは実質的にはDVD-VRレコーダーの性格で企画開発されたものが多いため、録画物をHDD内に記録する場合はDVD-VRの規格に応じた形式が用いられる場合が多い。ごく一部の機種ではHDDへの記録でもDVD-Videoフォーマットで行うものがある。 DVD-Audio. コンパクトディスク (CD) に比べ高音質で、著作権保護など複製されにくい特徴を備えた、通称「次世代CD」規格としてDVDフォーラムが1999年に策定を完了させたオーディオ専用のアプリケーションフォーマット。 リニアPCM 最大192 kHz/24 bit(2.0chステレオ時のみ)、最大96 kHz/24 bit(最大5.1chサラウンド)に対応する。可逆圧縮音声データを収録することも可能 (MLP)。論理フォーマットはUDF Ver.1.02。読み取り専用の音楽ソフトだけでなく、パーソナルコンピュータ用の音楽制作アプリケーションと記録型DVDを用いて作成することも可能。 「次世代CD」規格としては日本ビクター(現・JVCケンウッド)・パナソニック・東芝・パイオニア(現・オンキヨーホームエンターテイメント)等が推進したDVDオーディオ (DVD-Audio)と、ソニー・フィリップス等が推進するスーパーオーディオCD (SACD)の2つの規格がある。これらの間に互換性はない。 DVDオーディオの再生にはDVDオーディオ対応のプレーヤーが必要である。ただしソフト(録音媒体)によってはDVD-Videoに準拠したデータを併せて収録しており、その場合はDVDプレーヤーでも再生ができる(ただし音質はDVD-Video相当となる)。また、音楽コンテンツ向けの付加機能として映像コンテンツを収録することもできる。 ユーザーが録ったハイサンプリングレートによる音源を記録する用途にはDVDオーディオ方式の方がスーパーオーディオCDの方式よりも有利であると言える。ダイレクトストリームデジタルでは録音レベルを調整するためのイコライザですらかけられない上に、1bitレコーダーを用いた録音はファイル形式が異なるので市販のスーパーオーディオCDプレイヤーでは再生ができる対応機種はほとんど存在しないからである。DVDオーディオではその点、専用ソフトを用いればDVD書き込みに対応した光学ドライブを用いてDVDオーディオ規格のディスク媒体の作成が自由に可能であった。 スーパーオーディオCDの項目にあるように、高音質・サラウンドへの需要は盛り上がらず、それよりもむしろ利便性に優れているMP3や音楽配信などが普及し、2010年代に入るとDVDオーディオと同等のリニアPCM・FLAC音源やスーパーオーディオCDと同等以上のDSD音源も配信されているため、DVDオーディオもスーパーオーディオCDも共に普及のペースは非常に鈍いので将来が危ぶまれる。 スーパーオーディオCDはオーディオ愛好者から一定の支持を得てまだ専用プレーヤーも発売されているが、DVDオーディオの方は既に自然消滅に近い状態である。日本の業界団体・DVDオーディオ プロモーション協議会は2007年3月をもってホームページを事実上閉鎖した。2013年現在ではマルチ対応のユニバーサルプレーヤーが対応する。また、2008年以前まではパソコン用のDVDビデオ再生アプリケーションの一部もDVDオーディオの再生をサポートしていた。 DVD-AR. 正式には、。に対するに相当する規格である。2007年現在は規格として存在するのみで、適応製品としては開発されていない。 DVD-SR. 正式には、。論理フォーマットはUDF Ver.2.01。デジタル放送の放送信号(ストリーム信号)をそのまま丸ごと記録するための方式。ハイビジョンをDVDに録画できるが、可能記録容量の関係でDVDへの適応は2008年現在は行なわれていない。DVD-VRと一部共通性があるので、同一のディスクに記録して利用できるメリットもある。 BDの派生規格であるAVCRECの登場後はそちらが主流である。 HD Rec. HD DVDのアプリケーションフォーマットに準拠したハイビジョン映像を記録型DVDに記録する規格。DVDフォーラムが2007年に策定した。東芝が対応レコーダーを2007年末に発売。 既に対応機器の発売は終了しており、AVCRECに移行している。類似する規格としてHD DVD9がある。 DVDフォーラム以外で策定されたアプリケーションフォーマット. 各種デジタルデータの記録. 上記のDVDビデオとしてのアプリケーションフォーマット以外にも、PCのメモリ上で認識可能な各種データも書き込み可能である。ゲームソフトのプログラムやDVDビデオの規格では許容されていない各種画像・映像データファイルも書き込み可能で、読み取り機器側さえ対応していればそれらのデータファイルの表示・動作も可能となる。用語としての定義とは別に、DVDがではなくという名称であるのは。 DVD+VR. 正式には、。DVD+RWアライアンス陣営が策定したDVD+RW向けの フォーマット。論理フォーマットはUDF Ver.1.02。DVD-VRがDVD-Videoとの再生互換性が全くない一方で、DVD-Videoとの再生互換性を目指して策定された規格。論理的にはDVD-ROMドライブやDVD-Videoプレーヤーでの再生可能なフォーマット。DVD-RWと異なりCPRMは規格上存在しないため、「1回だけ録画可能」のデジタル放送を記録することはできない。 AVCHD. 前述した各種デジタルデータファイルの書き込みの延長線上にあるものでもあるが、既存のDVDビデオの各種規格とは別にハイビジョン動画ビデオの記録と再生を目的にした次世代規格として2006年にAVCHDの規格が登場した。ソニーとパナソニックが策定。書き込みも読み出しも専用対応機器が必要である。 AVCREC. が策定した、HD Recと同様のハイビジョン映像記録用規格。従来のDVDレコーダーで採用されているDVD-Video・DVD-VR規格はハイビジョン規格の映像信号をSD(標準画質)にダウンコンバートしなければならない。DVDメディアにハイビジョンを記録するにはDVDビデオ規格 (DVD-Video・DVD-VR) にハイビジョン規格の解像度を新たに加える規格変更が必要になるが規格変更の必要性の他にも大きな問題がありDVD-Video・DVD-VR規格で映像圧縮技術に採用されているMPEG-2ではDVDメディアには2層メディアでも1時間以下、1層メディアでは30分以下となり特にテレビ番組の録画を目的にした場合の実用性に乏しいためDVDメディアにハイビジョン映像をMPEG-2のままで記録するDVD規格は当初から考案・策定されていない。 ただし映像を記録する際の圧縮技術に従来のMPEG-2の約2倍の圧縮効率を持つMPEG4 AVC/H.264を採用したHD RecやAVCRECにより、ハイビジョンのままでDVD-VideoやDVD-VRと同程度の時間をDVDメディアに記録できる。2007年11月に松下(現:パナソニック)がAVCREC対応レコーダーを発売した。HD RecとAVCRECの間に互換性はないが、各社から発売されたAVCREC対応のレコーダー・BDプレイヤーが市場を席巻している。HD Recは事実上東芝のみで終焉を迎え、同社もAVCREC対応へとシフトした。また、類似したコンセプトでBD9も策定されたことがある。 3x DVD. ワーナー・ブラザースが提唱した規格。DVD-Videoの3倍の帯域幅を持っており、ハイビジョン規格映像をDVDに記録できる。 BD規格からアプローチしたBD9とHD DVD規格からアプローチしたHD DVD9に細分化されるが、いずれも製品化は実現していない。 類似した規格で製品化したものとして、既に対応機器の生産が終了しているHD Rec、ならびにデファクトスタンダード化したAVCRECがある。 DVDの後継規格. 2000年代後半、DVDで用いられる赤色レーザーに比べ、より波長の短い青紫色レーザーを使用した高密度な第3世代光ディスク規格としてBlu-ray Disc(以下BD)とAOD(後のHD DVD)が登場した。DVDと同じ12 cmサイズのディスクだが、既存のDVDプレーヤーでの再生互換はない。第3世代光ディスク機器の多くは主にユーザーに対する販売・普及戦略上の理由からDVDの再生機能も併載することでDVDの再生を可能として、機器としての互換性を確保している。このように、第3世代光ディスク機器でDVDが再生できるのは第3世代光ディスクの方式自体の互換性ではない。 主に映像ソフトやデジタルテレビ放送のHD映像記録用途を主眼としておりソニー・パナソニックなどのBD陣営と東芝・NECのHD DVD陣営は規格統一を模索していたが、2005年交渉が決裂。2006年に分裂した状態で製品化され、ハリウッドの映画産業などを巻き込んだ激しい規格争いが勃発した。しかし2008年2月、製品の発売から2年を経ずして東芝がHD DVD事業からの撤退を発表し第3世代光ディスクのデファクトスタンダードはBDに一本化された。これはBDがBD-RE ver1.0が登場したばかりの時から3年後に大幅に規格が改良されたことでBD-ROMが誕生し、東芝の見込みよりも早くディスクの耐久性に関する問題を克服したこと、BDはHDDVDよりも容量が多く、またディスクケースデザインの統一などで印象をDVDから大幅に変更できたこと、PS3のゲーム用ディスクがブルーレイになったことも一因である。 DVDの規格策定時にもソニーと東芝は、ソニーフィリップス陣営のMMCDと東芝・パナソニック陣営のSDのどちらを選ぶかで対立した。結果的にはCD規格延長を目論むMMCDより、CDと異なり2枚の板の貼り合せ構造を採用し大容量化を実現したSDを基にDVD規格は作られた。一方、同じBD陣営に属するソニーとパナソニックも書き換え可能型DVDで激しく対立した間柄だった。ソニーはDVDと似て非なるDVD+RWを作り出している。またパイオニア(現・オンキヨーホームエンターテイメント)やシャープもBD陣営だが、こちらも書き換え型DVDではDVD-RW陣営としてパナソニックと敵対関係である。 しかしデータ記録・搬送用途では従来型DVDがあり、大量のデータ容量が必要な場合でもハードディスクがある。映像分野でもDVDビデオの画像をBD並のHD映像画質に補正補完するアップスケール技術、逆にMPEG-4 AVC/H.264圧縮により記録型DVDにHD映像の長時間録画を可能にする技術などを搭載したレコーダーもある。そもそもインターネットを介して利用するオンラインストレージやコンテンツ配信サービスの普及で、一般消費者における物理メディアの需要は大幅に減少している。しかし、現在も日本製のアニメなどのレンタルビデオ、アダルトビデオに関しては流通量を海外の光ディスク市場よりも高速で行う必要があるため、未だにブルーレイを使用せずにDVDで発行されることが多い。
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藤原カムイ
藤原 カムイ(ふじわら カムイ、1959年9月23日 - )は、日本の漫画家。東京都荒川区出身。男性。 私立本郷高校デザイン科を経て、桑沢デザイン研究所卒業。竹熊健太郎は桑沢時代の友人。 幼少の頃からマンガを描き、1979年、第18回手塚賞佳作でデビュー(「いつもの朝に」(藤原領一名義)。同期受賞者に北条司、野部利雄がいる)。商業誌デビューは1981年に『マンガ宝島』(宝島社)に掲載された「バベルの楽園」(藤原神居名義)。以降、オリジナリティのある繊細な画風が話題となり、様々な雑誌で独自の世界観に基づく短編作品を多く発表する。 1987年より『月刊コミックバーガー』(スコラ)で寺島優原作の『雷火』、1991年には『月刊少年ガンガン』(スクウェア・エニックス)で川又千秋原作の『ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章』を連載し、人気となる。 代表作に『雷火』『ドラゴンクエスト列伝 ロトの紋章』『西遊記』『精霊の守り人』など。 大友克洋同様、メビウスより多大な影響を受けており、繊細な絵が特徴。ペンネームの由来は、アイヌ語で神や森羅万象を表す「カムイ」からで、高校時代より使い始める。 押井守原作『犬狼伝説』と『犬狼伝説 完結篇』で作画を担当。押井の作品『御先祖様万々歳!』が好きで久々にハマりましたと発言している。『アサルトガールズ』トリビュートコミック「アサルトガールズ・ボーナスステージ」も書いている。 阪神・淡路大震災の復興チャリティユニットとして声優の神谷明の呼びかけで結成されたWITH YOUのロゴデザインを務めている。 仕事一覧. 漫画作品. 各作品の詳細などについてはリンク先の各記事を参照。
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藤原芳秀
藤原 芳秀(ふじわら よしひで、男性、1966年6月13日 - )は、日本の漫画家。鳥取県八頭郡河原町(現・鳥取市河原町)出身(本籍地は八頭郡船岡町〈現・八頭町〉)。 河原第一小学校→河原中学校→鳥取県立鳥取西工業高等学校(現・鳥取県立鳥取湖稜高等学校)卒業。 1984年、高校在学中に『魔利巣(マリス)』で小学館新人コミック大賞に入選。卒業後、池上遼一・本宮ひろ志のアシスタントを経て、1986年に『私立終点高校』でデビューする。 代表作に『拳児』、『ジーザス』、『コンデ・コマ』、『闇のイージス』など。師匠譲りの劇画調タッチが特色である。 2019年からふじわら・よしひでの名義でさいとう・プロダクションに制作スタッフとして所属している。「作画チーフ」という肩書であるが、さいとう・たかをの没後は「実質的な作者」として活動している。同じくさいとう・プロダクション所属の藤原輝美は、芳秀の双子の兄である。 参加作品. 漫画. 以上、ふじわら・よしひで名義、作画の一員として(2019年から)
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羅川真里茂
羅川 真里茂(らがわ まりも、9月21日 - )は、日本の漫画家。青森県八戸市出身。血液型はB型。女性。 来歴. 青森県立南郷高等学校に通学していた。 デビュー以前は、月刊『JUNE』「ケーコたん(竹宮惠子)のお絵描き教室」に投稿。竹宮から「背景画がサッパリしすぎていてプロとしては通用しない」と酷評された。なお、このとき用いられた主人公たちは後に『赤ちゃんと僕』などに再登場している。 1990年、「タイムリミット」(『花とゆめ』(白泉社)11号)にてデビュー。翌1991年、同誌にてホームコメディ「赤ちゃんと僕」の連載を開始。同作品は6年間に渡って連載され、1996年にはアニメ化も行われるなど、羅川の代表作となった。 1995年、『花とゆめ』にてゲイをテーマにしたシリアスな作品「ニューヨーク・ニューヨーク」の連載を開始。同年、『赤ちゃんと僕』で第40回小学館漫画賞(少女部門)を受賞。 1998年、『花とゆめ』にて高校を舞台としたテニス漫画「しゃにむにGO」の連載を開始。同作品は約11年に渡る長期連載となった。 2010年、読み切りを経て『月刊少年マガジン』(講談社)5月号より「ましろのおと」の連載を開始。出身の青森県内の津軽地方における津軽三味線奏者をテーマとしている。 2011年4月2日、TV番組『王様のブランチ』に出演した。 2016年、『別冊花とゆめ』にて木原音瀬の同名BL小説を漫画化した「吸血鬼と愉快な仲間たち」の連載を開始。 人物. 父の勇男は過酷な遠洋漁業を16歳から50年に渡り戦い抜いた元イカ漁師。 元女子レスリング選手・吉田沙保里ははとこにあたる。羅川の父方の祖母の妹が吉田の父方の祖母である。2019年8月13日放送の「初めまして!遠い親戚さん」にて2人の関係が判明したが、その際に手紙と一緒に吉田沙保里の似顔絵を本人に送った。 書籍. 漫画単行本. 詳細は各リンク先および脚注を参照 。
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コヒーレントポテンシャル近似
コヒーレントポテンシャル近似(コヒーレントポテンシャルきんじ、、CPA) は1967年に P. Sovenが考案したバンド計算手法のことである。 ポテンシャルがランダムな系(例:不規則二元合金、原理上三元以上でも計算可能)の電子状態を計算するための手法であり、電子の散乱理論を基にして電子状態を求める KKR-CPA法が最もよく使われる。これは、KKR法をランダムな系に対応させるためCPAを導入したものである。 他に、タイトバインディング法によるCPA (TB-CPA) もある。
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陽気婢
陽気婢(ようきひ、1966年4月7日 - )は、日本の漫画家。男性。大阪府出身。大阪大学卒業。 来歴・人物. 大学卒業前に漫画家デビュー。卒業後は都銀に勤めていたが、1年で退社。『キャンディータイム』での連載などを経て、『週刊ヤングマガジン』、『快楽天』などに作品を発表している。男性の理想を具体化したような作品が多く、エロティックなシーンのある漫画が主である。代表作に『2×1』『えっちーず』『眠れる惑星』など。 趣味はフライ・フィッシング、好物はカレーライス。 好きな漫画家. 単行本「眠れる惑星」カバー折り返しに記載されている「好きな漫画家」一覧。 星里もちる、永野のりこ、ふくやまけいこ、黒田硫黄、福島聡、植芝理一、あさりよしとお、桜玉吉、うすた京介、伊藤潤二、松本次郎、岩明均、谷川史子、小畑健、渡辺多恵子、天竺浪人、SABE、古屋兎丸、桑田乃梨子、園田健一、藤島康介、士郎正宗、武富智、ウエダハジメ、山本直樹、櫻見弘樹、喜国雅彦、島本和彦、奥浩哉、藤田和日郎、細野不二彦、浦沢直樹、高橋留美子、諸星大二郎、外薗昌也、竹本泉、すぎむらしんいち、花見沢Q太郎、唐沢なをき、吉田戦車、ロクニシコージ、田丸浩史、吉田蛇作、末広雅里、森永みるく、福山庸治、こうの史代、松本剛、華倫変、坂口尚、手塚治虫 心に残るマッドサイエンティスト. 単行本「ドクター&ドーター」カバー折返しに記載。 作品リスト. 初版年代順。
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JR京都線
JR京都線(ジェイアールきょうとせん)は、西日本旅客鉄道(JR西日本)が管轄する東海道本線のうち、京都府京都市下京区の京都駅から大阪府大阪市北区の大阪駅までの区間に付けられた愛称である。 この愛称は1988年3月13日から使用されている。ほぼ全区間で阪急電鉄の京都線とも呼ばれる京都本線と並行し、近畿日本鉄道(近鉄)にも京都線があり、阪急とは大阪駅(大阪梅田駅)で、近鉄とは京都駅で接続しているため、それらと区別するために「JR」と付けている。 概要. JR西日本のアーバンネットワーク(京阪神エリア)の路線のひとつである。東海道新幹線や阪急京都本線に並行して淀川右岸を走り、京都市と大阪市を結ぶ都市間連絡輸送(インターアーバン)を担っている。大阪・京都への通勤・通学路線であるとともに、京都へ向かう観光路線でもある。 新快速を中心に多くの列車がJR神戸線・琵琶湖線・湖西線に直通運転を行なっている。京都駅 - 大阪駅間 (42.8km) を新快速が最短28分で結んでおり、表定速度は92km/hと特急列車に匹敵する。全区間が方向別複々線であり、緩急分離運転が行われている。大阪駅から日本海側を縦貫して青森駅まで結ぶ路線の総称「日本海縦貫線」の一部となっており、金沢駅まで至る特急「サンダーバード」など日本海縦貫線の列車が多く乗り入れる。 大阪駅から淀川を挟んで1駅北隣には東海道新幹線・山陽新幹線が乗り入れる新大阪駅が位置している。東海道新幹線、阪急京都本線と並行する区間が長く、また淀川を挟んで京阪本線が存在するが、それぞれターミナルの位置で棲み分けがなされており、直接的な競合は存在しないが、各線とも運営会社がサービス面で非常に力を入れている。大阪駅 - 京都駅間の1日平均利用者数は350,717人で、同区間では阪急京都本線の180,954人、京阪本線の162,479人と比べて圧倒的に多い。 ラインカラーは青()であり、JR神戸線とともにアーバンネットワークの主要路線という位置づけから、JR西日本のコーポレートカラー自体がそのままラインカラーとして使われている。路線記号は A 。 当該区間での旅客案内での路線表記も基本的には「東海道線」ではなく「JR京都線」で統一されているが、例外として新大阪駅では、高槻・京都方面のみ「JR京都線」と案内され、大阪方面は「JR神戸線」及び「JR宝塚線」といった、大阪駅以西の直通先の愛称で案内されている(JR神戸線の尼崎駅、琵琶湖線の山科駅でも同様の対応が取られている)。なお、駅備え付けの運賃表や一部の路線図では、括弧書きで(東海道線)と併記される。全区間がJR西日本近畿統括本部の管轄であり、IC乗車カード「ICOCA」のエリアに含まれているとともに、旅客営業規則の定める大都市近郊区間の「大阪近郊区間」および、電車特定区間に含まれ、区間外よりも割安な旅客運賃が適用されている。 沿線概況. 京都駅 - 向日町駅間は上下内外側線を構成する複々線と貨物線1線を加えた5線区間で、向日町駅 - 茨木駅は複々線となるが、茨木駅からは再び貨物線が分岐する。茨木駅 - 吹田貨物ターミナル駅間は5線(上下内外側線と貨物線)、吹田貨物ターミナル駅から新大阪駅にかけては上下内外側線に梅田貨物線と北方貨物線の複線を加えた8線区間となっている。 多数の欠円アーチやねじりまんぽを含む沿線の煉瓦造の鉄道橋及び隧道群(1875年 - 1876年造)は、2017年(平成29年)に「大阪京都間鉄道煉瓦拱渠群」として土木学会選奨土木遺産に選ばれている。 運行形態. 隣接する琵琶湖線やJR神戸線と一体的に運行されており、湖西線や福知山線(JR宝塚線)との直通列車も設定されている。乗車券のみで利用できる列車は停車駅の少ない順に新快速・快速・普通(緩行電車)の3種別があり、このほかに北陸・関西国際空港・南紀・山陰方面などへの特急列車が加わり、複々線を有効活用したパターンダイヤが組まれている。 ほぼ全線にわたり線形はきわめてよく、外側線は一部の曲線区間を除いて130km/h運転が可能である。内側線も120km/h運転に対応している。 ダイヤ. 基本的に15分サイクルで運転されており、22時(土曜・休日は21時)を過ぎると20分サイクルになる。 朝通勤時間帯下り(大阪方面)は10分サイクルが基本となっている。基本的に1サイクルに新快速が1本、快速が1本、京都駅あるいはそれ以遠始発の普通が1本、高槻駅発の普通が1本である。 昼間時間帯は、基本的に15分サイクルに新快速1本、快速1本、高槻駅発着の普通1本、京都駅発着の普通1本である。曜日・時間帯によって高槻駅 - 京都駅の普通列車の本数は変わる。 夕ラッシュ時間帯の上り(京都方面)は昼間時間帯と同様のダイヤであるが、平日の最ラッシュ時間帯において大阪駅始発の新快速が2本設定されており、その時間帯については新快速の運行が7.5分間隔となる。夜間は20分サイクルとなる。 優等列車. JR発足後、天王寺発着だった南紀方面の特急や、智頭急行線開業で運行を開始した山陰地方への特急「スーパーはくと」などが新たに京都駅まで直通運転されるようになり、この区間の特急の列車本数は増えた。特に関西国際空港開港と同時に運転を開始した特急「はるか」は、その1年後にはすべての列車が京都駅まで定期列車で入るようになり、新大阪駅 - 京都駅間は北陸方面との特急「サンダーバード」など、ほかの列車と合わせ1時間に4本程度が運転される特急街道になっている。 阪和線に直通する特急「はるか」や「くろしお」は、下り列車が吹田貨物ターミナル駅から大阪環状線の西九条駅まで、上り列車が西九条駅から新大阪駅まで、それぞれ梅田貨物線を走行する。以前は大阪駅を経由しなかったが、2023年2月13日から大阪駅の地下ホームを経由し、同年3月18日のダイヤ改正後から大阪駅の地下ホーム(うめきたエリア)に停車するようになった。 京都駅30番のりば発の下り列車は京都貨物駅構内を通り、向日町駅構内で下り外側線に合流するため、この区間を外側線で走る特急や新快速より若干所要時間が余計にかかる。 この区間を走行する優等列車は2021年3月13日改正時点では以下のとおり。 新快速. 特急・急行列車以外では最も停車駅の少ない速達列車である。JR京都線内の停車駅は、京都駅・高槻駅・新大阪駅・大阪駅。特に京都駅 - 高槻駅間 21.6 km は無停車となる。JR神戸線姫路駅、山陽本線網干駅・上郡駅、赤穂線播州赤穂駅からJR京都線を経由し琵琶湖線長浜駅、北陸本線近江塩津駅・敦賀駅まで直通運転している。 日中時間帯は大阪駅 - 京都駅間で1時間に4本運転されており、このうち3本が琵琶湖線野洲駅・米原駅発着および北陸本線経由近江塩津駅発着、1本は湖西線経由敦賀駅発着である。この時間帯の下り列車は京都駅を、また上り列車は大阪駅を、それぞれ毎時00・15・30・45分の15分間隔で発車し、京都駅 - 大阪駅間を28 - 29分で結んでいる。夕方ラッシュ時から21時台までは大阪駅 → 京都駅間で基本4本であるが、18時台は大阪始発の列車2本が入るため6本(最短で7分半間隔)で運行されている。大阪発18時台の敦賀行きが京都駅から湖西線経由の「快速」(おごと温泉駅にも停車)として運転する以外は、すべて琵琶湖線に直通する。このため、大阪発15 - 18時台の30分発は米原経由敦賀行きとして運転されている。 全列車が全区間で外側線を走行する。ただし、新大阪駅配線改良が行われるまでは、新大阪駅 - 大阪駅間のみ内側線を走行していた。 全列車網干総合車両所所属の225系0番台・100番台・223系1000番台・2000番台が使用されており、12両編成(平日夕方の大阪始発は8両編成)で運転されている。土曜・休日は2011年3月12日のダイヤ改正から、平日は2017年3月4日のダイヤ改正から一部を除いて、姫路駅 - 米原駅間を終日12両編成として混雑緩和を図っている。 快速. 快速は京都駅を越え琵琶湖線や一部は湖西線と直通し、大阪駅からは朝ラッシュ時の一部を除きJR神戸線へと直通している。JR宝塚線とは直通しない。JR京都線内の停車駅は京都駅・長岡京駅・高槻駅・茨木駅・新大阪駅・大阪駅。JR京都線の全区間を快速運転する列車は、下りは京都発基準で朝5時台から8時過ぎまでの15本(土曜・休日は5・6時台の6本)、上りは大阪発基準で朝5 - 7時台の6本(土曜・休日は5・6時台の4本)のみで、日中以降のJR京都線での快速運転区間は高槻駅 - 大阪駅間であり、京都駅 - 高槻駅間は各駅に停車する「普通」として運転している。2003年11月28日までは全区間で快速運転する列車に須磨駅・垂水駅・舞子駅を通過する設定があった。 平日朝は高槻駅→大阪駅間で外側線を走行しており、223系1000・2000番台と225系0番台・100番台を用いて130km/hで走行する。朝ラッシュ時間帯大阪方面行きはおおむね8分間隔の運転である。日中から夜21時台にかけては大阪駅 - 京都駅間で1時間に4本が運転されており、この時間帯の高槻駅 - 京都駅間の各駅での停車本数は4 - 8本(時間帯によって変動する)である。この時間帯の下り列車は京都駅を毎時09・24・39・54分、また上り列車は大阪駅を毎時08・23・38・53分の15分間隔で発車し、京都駅 - 大阪駅間を41分で結んでいる。 平日の日中以降および土曜・休日ダイヤでは内側線を走行する。2006年3月17日までは全区間で快速運転を行い、外側線を走行する大阪発17時台の快速野洲行きが運行されていた。2004年10月15日までは17 - 19時台の50分発で、野洲駅・草津線柘植駅・湖西線近江今津駅にそれぞれ直通していた。 車両は網干総合車両所所属の221系、223系1000番台・2000番台・6000番台および225系0番台・100番台が使用されており、6・8・10・12両編成で運転されている。 普通. 「普通」は各駅に停車する列車であるが、ここではJR京都線内の全区間で「普通」として運転される列車について解説する(高槻以東のみ各駅に停車する列車については前節を参照)。国鉄時代の通称である京阪神緩行線(緩行電車)と呼ばれることがある。全区間で内側線を走行する。 日中から21時台までは1時間に8本運転されている。日中は8本とも高槻駅発着であるが、夕方ラッシュ時から21時台までは高槻駅・京都駅発着が4本ずつ運転されている。土曜・休日ダイヤの11・12時台では高槻駅・京都駅発着が4本ずつの運行である。大阪駅以西は半数がJR神戸線須磨・西明石方面、半数がJR宝塚線新三田方面(2020年3月14日のダイヤ改正より、概ね下り10 - 14時台・上り12 - 16時台は宝塚駅発着に短縮された)と直通する。 朝ラッシュ時以外は大阪駅 - 京都駅間で後続の快速より先着し、朝ラッシュ時も高槻駅 - 京都駅間は後続の快速より先着する。 大阪発で平日ダイヤの朝7時台に琵琶湖線直通草津行きが1本設定されている。また、平日朝の高槻発2本はJR神戸線加古川行きとして運行されている。 区間列車として、高槻発4時と平日6時台に京都行きの設定がある。また、毎日朝には大阪駅 - 吹田駅間の列車が1往復設定されている。 車両は、網干総合車両所所属の207系・321系電車が使用され、すべて7両編成で運転されている。 1972年3月15日の新幹線の岡山駅までの開業に伴うダイヤ改正で、昼間15分パターンのダイヤが生まれた。当時の1時間の運行本数は大阪駅 - 吹田駅間で8本、吹田駅 - 京都駅間で4本であった。上り京都方面を例にすると、新快速・快速(大阪駅で新快速待避)・普通(甲子園口発京都行き)・普通(西明石発吹田行き)の順に大阪駅を発車するパターンが15分ごとに繰り返される。普通が西明石駅 - 吹田駅間と甲子園口駅 - 京都駅間に系統分割されたのは、西明石発京都行きで直通運転を行うと当時内側線を走行していた新快速に追いつかれるからである。さらに朝晩時間帯は高槻駅発着の列車も運転されていた。 1985年3月14日の改正で日中の快速が高槻駅 - 京都駅間で各駅に停車するようになり、この時間帯の運転区間は大阪駅 - 高槻駅間となった。201系が投入されたことによりスピードアップが図られ、大阪駅 - 吹田駅間で6本、吹田駅 - 高槻駅間が4本の運行パターンとなった。朝・夕方の一部列車は草津駅まで延長運転されるようになった。1986年11月1日改正では新快速が外側線運転に変更されたのに伴い、日中時間帯は高槻駅発着に統一され、運行本数も1時間に8本に増発された。 1994年3月1日に、207系が運用を開始するとともに、湖西線堅田始発の列車が運行されるようになった。京都駅ビル開業の1997年9月1日の改正で日中の高槻駅発着の半数が京都駅発着に延長され、2002年10月5日改正でJR神戸線直通系統が京都駅発着、JR宝塚線発着系統は高槻駅発着に統一された。2004年10月16日の改正で、琵琶湖線野洲駅と湖西線近江今津駅発着の列車が運行されるようになった。 2010年3月13日改正で日中の高槻駅 - 京都駅間の運行本数が1時間に2本に減便された。2011年3月12日改正で朝のJR宝塚線からの上りと下り尼崎行きの1往復が吹田駅発着に変更されたのち、2013年3月16日改正で現在の形態となっている。 2015年3月14日改正時点で、大阪発毎日21時台には湖西線近江舞子行きが設定されていたほか、湖西線堅田を毎日6時台に出発して大阪方面へ向かう列車が設定されていたが、2016年3月26日のダイヤ改正で湖西線と直通しJR京都線内全線を普通として運転される列車はなくなった。 女性専用車. 平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで、207系の加古川・西明石・須磨側から5両目と321系の5号車に女性専用車が設定されている。なお、ダイヤが乱れた際などに女性専用車の設定が解除されることがある。 JR京都線では2002年12月2日から女性専用車を導入し、始発から9時00分と17時00分から21時00分まで設定されていたが、2011年4月18日からは平日・休日にかかわらず毎日、始発から終電まで女性専用車が設定されるようになった。なお、京都駅を越えてJR京都線と琵琶湖線を直通および京都駅発の琵琶湖線内のみ運転する207系・321系による列車についても列車の運転全区間において女性専用車の設定は維持される。 大晦日終夜運転. 大晦日深夜から元旦にかけて、JR京都線では全線(運転区間は京都駅 - JR神戸線西明石駅間)で普通のみ約30分間隔で終夜運転が実施されている。かつては奈良線にも乗り入れ、奈良駅 - (奈良線経由) - 京都駅 - 大阪駅 - 西明石駅間で運転されていたこともあったが、奈良線への乗り入れは1999年度限りで終了している。 貨物列車. 貨物列車は全列車、茨木駅構内で分岐し、吹田貨物ターミナル駅を経由する貨物線で運転されている。 山陽本線と直通する貨物列車は、吹田貨物ターミナル駅 - 宮原操車場 - 尼崎駅間の通称北方貨物線を経由する。桜島線安治川口駅への貨物列車は吹田貨物ターミナル駅から大阪駅地下ホームを経て、大阪環状線西九条駅に至る梅田貨物線を通る。 使用車両. 国鉄分割民営化後の使用車両を記述する。 現在の車両. 優等列車. このほか、大阪駅 - 向日町操車場間では回送列車として「はまかぜ」や「サンダーバード」の一部列車が運転されている。「サンダーバード」は、大阪駅到着後そのまま神戸方面へ発車し、塚本駅から北方貨物線に入り、茨木駅構内でJR京都線(外側線)に合流する(出区のときはこの逆ルート)。この場合、JR京都線内は編成の向きが逆向きになる。 快速・普通列車. すべて電車で運転されている。 過去の車両. 普通・快速列車. 国鉄分割民営化以降は、すべて電車が使用されていた。 駅一覧. 以下では、JR京都線内にある各停車場(駅・信号場)の営業キロ、停車列車、接続路線を一覧表で示す。廃駅・廃止信号場については「東海道本線#廃駅」を参照。 新駅設置計画. 高槻市は、高槻駅 - 島本駅間の新駅設置を検討している。 連続立体交差事業. 摂津富田駅付近(区間は、JR総持寺駅東付近から川西中学校東付近まで)において、連続立体交差事業(鉄道高架化)の事業化を進める計画がある。
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塀内夏子
塀内 夏子(へいうち なつこ、1960年6月30日 - )は、日本の漫画家。神奈川県川崎市宮前区出身。女性。元ペンネームは、塀内真人(へいうち まさと)。 経歴. 神奈川県川崎市宮前区出身。中学時代はバスケットボール部に、神奈川県立多摩高等学校時代はワンダーフォーゲル部に所属した。 高校在学中に本格的に少女漫画を描き始め、処女作の『ボロクズ』が別マ少女まんがスクール銀賞を受賞し、『別冊マーガレット』(集英社)1979年2月増刊号に掲載されてデビューした。一方、担当編集と打ち合わせを続けるうちに少女誌的な表現方法やラブコメディは不向きだと認識し、次第に漫画を描かなくなった。 高校卒業後に武蔵野美術大学に進学するものの中退(塀内本人は学費未納で除籍と言っている)。アニメの背景画を手掛ける石垣プロダクションに就職し『六神合体ゴッドマーズ』などの作品に関わるも1年半ほどで退職した。その後、少年漫画を描き始めるようになり山をテーマにした『背負子と足音』が週刊少年マガジン新人漫画賞に入選(1982年11月入選)し、『週刊少年マガジン』(講談社)1983年1・2合併号に掲載されて、再デビューをした。 なお、デビュー当初は弟の名前を拝借して「塀内真人」というペンネームを使用していた。その理由については「女の子の書いたスポーツ漫画なんて、だれも読んでくれないんじゃないかって、思ったんです」としている。その後、読者にとっては面白ければ性別は特に関係ないと理解し、元号が平成に変わったのを機にペンネームの使用を止め本名に戻している。ただし、1986年に刊行した短編集『夢千代パラダイス』の著者名には塀内夏子を採用し、カバーを外した表紙には彼女の中学3年生のときの通知表を印刷していた。 以降、『おれたちの頂』(登山)、『フィフティーン・ラブ』(テニス)、『オフサイド』(サッカー)などのスポーツ漫画を多く発表していることから、スポーツ青春漫画の盟主とも評される。また『海よ、おまえは』や『勝利の朝』のような実在の社会問題を題材とした作品も発表している。 2004年からは三国志を題材としながらも戦争の悲惨さと平和の大切さをテーマとした『覇王の剣』を発表したが「虎牢関の戦い」の後に打ち切りとなり、2000年代半ば以降は青年誌や女性誌などに発表の場を広げている。 作風. 登場人物の激情的な心理描写や、熱血青春ものを得意としている。塀内自身は「私には男の子のDNAはない」「多少無理をして少年マンガのラインにいる」と発言しており、萩尾望都や樹村みのりといった少女漫画家の言葉の感覚に影響を受けているとしている。 先述のようにスポーツ青春漫画の盟主とも評されており、自身は「スポーツ漫画を描くならスポーツを好きでなくてはならないという信念を持っている」と発言している。その作風は正統的なスポーツ漫画ではなく、スポーツノンフィクションに近いものとも評される。 スポーツを題材として選んだ経緯については「80年代の『週刊少年マガジン』で流行っていたのは、不良マンガとバイクマンガとスポーツマンガ。そのほかに(中略)ラブコメディが出始めた頃で、おおざっぱに言うとその四つくらい。消去法で、ラブコメディはもう二度と描きたくない。バイクマンガはどうしても理解できない。不良マンガは『マガジン』にコンテまで出していたんですけど、やっぱりわからない」と消去していくうちに、スポーツマンガが残されたと語っている。ただし、当時からスポーツをテレビ観戦するのが好きで、ちばてつやや水島新司の作品にも親しんでいたという。 「取材力に定評がある」と評されるが、登場人物のキャラクター作りを最優先している。また競技特有の繊細な身体動作を良く理解できないまま連載に入るため、後から読み返して赤面することもあるという。こうした点について塀内は「半年くらい描いていると、なんとなく滑らかになってくる」「サッカーとかバレーボールみたいな、あまり道具を使わないものの方がつかみやすい。みんな自然の動きでしょ。だから、テニスとか野球とか、ああいう道具を使うものはなかなかわからなかった」と評している。 短編・読み切り等. 短編の大半は、『ダイヤモンド芸夢』『夢千代パラダイス』『サーカス★ドリーム』『塀内夏子短編集1』『塀内夏子短編集2』(いずれも単巻)及び、連載作品のコミックスに収められている。『週刊少年マガジン』、『週刊少年マガジン増刊』、『マガジンFRESH』、『マガジンSPECIAL』等で不定期に掲載された漫画家漫画は、『雲の上のドラゴン』(全1巻)として刊行されている。
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松苗あけみ
松苗 あけみ(まつなえ あけみ、1956年11月18日 - )は、日本の漫画家。コメディを多く手がける。内田善美の紹介で一条ゆかりのアシスタントをしていた。「有閑倶楽部」に登場するペットのニワトリ・アケミの名前のモデルである(詳しくは「有閑倶楽部」参照)。 概要・経歴. 1977年、『リリカ』4月号にて「約束」でデビュー。その後1978年3月号で『リリカ』が休刊となったため『ぶ〜け』他で活躍。代表作「純情クレイジーフルーツ」など。華やかな絵柄と脱力系のキャラクターのギャップが大きく、それがギャグともなっている。 1988年度(昭和63年)、第12回講談社漫画賞少女部門受賞(「純情クレイジーフルーツ」)。1988年から1991年にかけて『ビッグコミックスピリッツ』で連載された「原色恋愛図鑑」は、1989年に井森美幸が主演でTVドラマ化された。2005年には『COMIC MIU』で連載された「恋愛内科25時」が吉沢悠主演でTVドラマ化された。 2022年現在は、ぶんか社を中心に活動している。 影響を受けた画家として、松苗はアルフォンス・ミュシャを挙げている。2020年7月11日から9月6日まで静岡県立美術館で開催されている展覧会「みんなのミュシャ」において、「コマーシャリズムの要素もありながら、絵画的でもあり、装飾美にもあふれて、それを一幅の絵に収めているのはミュシャだけだった」(原文のまま)とコメントしている。
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星野めみ
星野 めみ(ほしの めみ)は、東京都大森出身。日本の漫画家であり薬剤師でもある。<br> 人物. 9月29日生まれのA型。1975年、『週刊マーガレット』(集英社)増刊号に掲載の「セントヘレナのケーキ屋さん」でデビュー。同誌や『BE・LOVE』(講談社)他のレディースコミック誌で活躍。代表作に『え~カミさんを一席』『新・夢ホテル』『アリス動物病院診察絵日記』など。趣味は観劇、落語、ミステリー読み。ファンクラブに入会するほど氷川きよしのファンであり、犬好きでもある。 薬剤師の経歴は共立薬科大学卒業。実家が薬局であり、薬剤師として店にいることもある。 作品リスト. 公式には表記されていないが、作品の題名が異なる同キャラクター登場の連載作品に関しては、分類別として「○○シリーズ」と記述する。 再版. 販売終了している作品が多い。
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コンピュータビジョン
コンピュータビジョン()はコンピュータがデジタルな画像、または動画をいかによく理解できるか、ということを扱う研究分野である。工学的には、人間の視覚システムが行うことができるタスクを自動化することを追求する分野である。 この分野はコンピュータが実世界の情報を取得する全ての過程を扱うため、画像センシングのためのハードウェアから情報を認識するための人工知能的理論まで幅広く研究されている。また、ではコンピュータグラフィックスとコンピュータビジョンの融合が注目を集めている。 研究対象を大別すると、 が挙げられる。 これらの技術はロボットビジョン、ウェアラブルコンピュータなどとも深く結びついている。 また、背景知識として信号処理、線型代数などが要求される。人間の目と脳に匹敵するコンピュータビジョンの開発はAI完全な問題とされている。
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横浜DeNAベイスターズ (ファーム)
横浜DeNAベイスターズ(よこはまディー・エヌ・エー・ベイスターズ、"Yokohama DeNA BayStars")のファームは、日本のプロ野球球団・横浜DeNAベイスターズの下部組織として設置されているファームチームである。イースタン・リーグの球団のひとつ。2000年から2010年のシーズン終了までは「湘南シーレックス」(しょうなんシーレックス、"Shonan Searex")という名称だった(詳細は後述)。 本拠地は横須賀スタジアム(神奈川県横須賀市)。イ・リーグ優勝歴は3度あるが、いずれもジュニア日本選手権及びファーム日本選手権が開催される前の優勝であるため、これらの大会に出場したことはない。これはイ・リーグ所属チームの中では唯一である。 準本拠地であるバッティングパレス相石スタジアムひらつか(神奈川県平塚市)で月2試合程度公式戦を行う。本拠地以外の主催試合に関しては横浜DeNAベイスターズ主催試合の地方球場一覧を参照。 歴史・概要. 元々は1949年暮れに発足した「大洋ホエールズ」(たいようホエールズ)の二軍として一軍の創設と同時に誕生したとみられ、1950年のプロ野球二軍選手権に参加している。 渡辺大陸総監督が退団した1951年5月に二軍組織が一時解散したことから、山陽電気鉄道傘下の独立二軍球団『山陽クラウンズ』に二軍の選手の育成を委託するという、今日のアメリカにおけるメジャーリーグ球団とマイナーリーグ球団のような方式をとっていた。 その後、山陽クラウンズが1952年10月に解散し、1953年1月に一軍が松竹ロビンスと合併したことに伴い、山陽から復帰した選手と松竹の二軍を合併する形で活動を再開。1954年に新日本リーグに「洋松ジュニアロビンス」(ようしょうジュニアロビンス)として参加、小倉市(現:北九州市)の小倉豊楽園球場を本拠地とする。しかし、松竹が同年末を以て球団経営から撤退したことから「大洋ジュニアホエールズ」に改称し、イースタン・リーグ(第1期)に参加。この際に川崎市へ移転し、長期間のリーグ中断を経て1961年よりイースタンリーグ(第2期)に参加した。 大洋多摩川グランド(1955年~1980年)、保土ヶ谷大洋球場(1980年~1986年、現:横浜FC東戸塚フットボールパーク in 横浜スポーツマンクラブ)を経て、1986年に平塚球場を本拠地として以来、湘南地域をフランチャイズと位置づけ(実際は二軍には保護地域はない)、1997年に横須賀スタジアムの改修工事が完了してからは横須賀と平塚の2球場を主に使用していた。 2000年1月1日、二軍の独立採算化と一軍との差別化を目的に、ファームに独自の球団名を採用することを決定。チーム名は「海」を表す“Sea”と、ラテン語で「王」を意味する“Rex”を組み合わせた造語から「湘南シーレックス」と命名。球団旗も独自のデザインに変更したが、ベイスターズのものと同様「REACH FOR THE STARS」のスローガンが入った。また、チームエンブレムは2本のバットに「三浦半島と相模湾を中心とした神奈川県湘南地域」を図案化したものとした。同時に、地元を中心に独自のスポンサーを募るなど独立採算の道を模索するための部署「シーレックス事業部」を開設。しかし毎年2億円前後の赤字を計上するなど採算割れを解消することができず、2004年に解散。その後は球団業務部内の一部署となった。 チーム名やユニフォームなどを一軍とは異なるものを使用することにより、若手選手の意識向上を促すとともに、観客へのサービス向上などを通じた地域密着を目指した。本拠地は引き続き横須賀スタジアムを使用(平塚球場は準本拠地と位置づけた)。 二軍としては異例だが、毎年11月には横須賀スタジアムで「ファン感謝デー」を行っている。 日本のプロ野球球団のユニフォームの多くは、背番号・背ネーム部分をユニフォームの生地に直付け(刺繍もしくはプリント)しているが、湘南のユニフォームの背ネーム部分は、アーチ状の生地にネームをプリントしたものをユニフォームの生地に縫い付けていた。これは「シーレックスに定着されては困る」という励ましの意味で、2020年現在、日本のプロ球団に於いては唯一の例である。 同じ横須賀市を本拠地とする社会人チームの日産自動車(2009年休部)とは密接な関係があり、柳川事件以後初めてとなるプロアマ交流戦を2001年8月15日に行ったほか、毎年交流戦を行っていた。また、「湘南」を冠しているプロサッカークラブの湘南ベルマーレとも交流を深めており、合同トレーニングなどを実施することもある。 相模原市の政令指定都市指定に向け、相模原球場の所有者が神奈川県から相模原市へ移譲されることに伴い、2009年のシーズンより同球場を準本拠地に加える。 2010年10月より「湘南シーレックス」のチーム名を廃止し「横浜ベイスターズ」に戻す。なお、ユニフォームは一軍と同じものを使用する。2011年12月1日、日本プロ野球オーナー会議並びに実行委員会にてDeNAによる横浜ベイスターズ買収とオーナー会社変更が承認され、翌2日に球団株式が譲渡され、商号変更により「横浜DeNAベイスターズ」として新たにスタートを切った。 1987年に竣工した同市長浦町のマルハニチロアセット社有地(旧:大洋漁業倉庫敷地跡地)に球団が借り受けて使用していた横浜DeNAベイスターズ総合練習場(ベイスターズ球場)の老朽化が進んでいることや、同練習場と試合会場の横須賀スタジアムのある追浜公園との距離が離れていることから、2016年4月、横須賀市とベイスターズ球団は、合宿所・練習用サブ球場などを追浜公園内に集約・一体化させることを目指した基本協定を締結、2019年7月に「DOCK OF BAYSTARS YOKOSUKA」として竣工した。 このファーム施設の一体化を受けて、横須賀市・ベイスターズ球団と、横須賀市・1軍本拠地の横浜市が沿線に入っている京浜急行電鉄(京急電鉄)と3社連携協定を結び、スポーツを中心とした魅力あふれる街づくりを進めることで合意した。 歴代監督. 一覧は、イースタン・リーグ再発足以降。 キャラクター(球団マスコット). 日本のプロ野球では1、2軍合わせて最多の16人。モチーフは海の生物(テントリーのみテントウムシ)。全員がベイスターズ二軍の一員という設定。ただし、試合に登場する着ぐるみはレックのみ。 横浜京急バス追浜営業所では、これらのキャラクターを起用した路線バス2台を「シーレックスバス」として、追浜地区路線と磯子駅 - 追浜車庫前線で運行。 漫画家のいけだたかしが横浜の情報誌「Beautiful Yokohama」(2004年シーズンで廃刊)で、球団マスコット達の活躍を描いた漫画を掲載していた。 2012年3月20日のイースタンリーグ公式戦にて全員引退した。
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山本おさむ
山本 おさむ(やまもと おさむ)は、日本の漫画家。血液型はA型。長崎県立大村工業高校卒業。妻(後に死別)は同業者の久木田律子。 来歴. 母子家庭に育ち、1973年に高校卒業後に上京して、運送助手などをしながら漫画修業した。1976年から巴里夫のアシスタントを数年間つとめて、その他に尾瀬あきらのアシスタントもつとめながら、作品を幾多かの出版社に持ち込むが、すべて断られて、唯一『漫画アクション』(双葉社)のみ認められて、本名の山本 収名義で1980年にデビューした。 その後『ぼくたちの疾走』などの青春漫画路線から、『遥かなる甲子園』以降、『漫画アクション』の編集長に掛け合った末に聴覚障害者などを取り上げた作品を多く描くようになる。こうしたテーマへの取り組みの意図は、エッセイ『どんぐりの家のスケッチ - 漫画で障害者を描く』(1998年刊行)で読むことができる。 『遥かなる甲子園』では聾学校の野球部の子供たちを、『わが指のオーケストラ』では日本のろう教育の歴史を描き、障害児教育へ一石を投じたものとして反響を呼んだ。聾学校での重複障害の子供たちを描いた。 『どんぐりの家』は第24回(1995年度)日本漫画家協会賞優秀賞を受賞した。同作品は1997年に映画化され、社会的にも話題になった。映画化にあたり、自ら脚本の執筆、総監督を行った。第1回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門優秀賞を受賞した。 夭折した非凡の棋士村山聖の人生を基にした『聖-天才・羽生が恐れた男』を描くことになったきっかけは、後に死別した妻の久木田が村山と同じ病気を患っていたことであり、間もなく久木田は連載中に亡くなった(後に福島県岩瀬郡天栄村出身の女性と再婚)。 ほかに日本共産党の機関紙『しんぶん赤旗 日曜版』でエッセイ漫画『今日もいい天気』を連載している(2008年 - 2009年パートI、2012年パートII、2017年パートIII)。福島県天栄村での作者の田舎暮らしをコミカルに描いたパートIが好評だったため、震災前の2010年にパートIIの連載が決まっていたが、その後の原発事故を受け、編集部は続編は無理ではないかと判断していた。作者自身の自主避難体験を描くことを決意していたことも連載の中で描かれている。パートIと対照的な連載になったが、パートIも含めたこの作品が、第42回 (2013年度)日本漫画家協会賞特別賞を受賞をした。 九条の会傘下の「九条の会・さいたま」呼びかけ人を務めている。
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山根和俊
山根 和俊(やまね かずとし、1970年8月10日 - )は、日本の漫画家。三重県出身、京都府育ち。
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堀江卓
堀江 卓(ほりえ たく、男性、1925年3月14日 - 2007年2月8日)は、日本の漫画家。山口県下関市出身。1956年から連載した『つばくろ頭巾』が人気となり、1957年から連載した『矢車剣之助』はテレビドラマ化されて代表作となった。他の代表作には、テレビドラマ化された『天馬天平』や、新東宝で映画化された『ハンマー・キット』などがある。 来歴. 太平洋戦争中は海軍に所属した。終戦後、日立製作所笠戸工場に入り、直営の映画館を任される。支配人を務めながら映画の看板を描く一方、1コマ漫画や4コマ漫画を週刊誌に投稿した。 映画のフィルムを借りに来た大阪でテレビを見て映画の時代は終わると感じ、片手間で描いたコマ漫画が採用されるなら本気で描けば漫画家になれると思い、1955年に漫画家を目指して上京した。1週間でダメなら戻ろうと思って最初に飛び込んだ出版社では、6回描き直させられた挙げ句、編集長に居留守を使われた。しかし、その帰り道に飛び込んだ芳文社で「絵は下手だしストーリーもつたない。しかし、変わっている」と言われ、依頼されるようになる。 1956年、痛快ブック増刊『剣豪ブック』陽春活劇号(3月1日発行)に「俺は藤吉郎だ」を発表してデビュー。以後、『痛快ブック』(芳文社)に時代物の読み切り短編を掲載していった。 『痛快ブック』1957年2月号に掲載された短編「飛燕一刀流」に登場した“つばくろ頭巾”が人気を得た。当時の『痛快ブック』編集者だった藤本七三夫は「西部劇を日本の時代劇に登場させては」と堀江に提案し、5月号より『つばくろ頭巾』の連載が始まった。白馬に乗って拳銃を放つ侍が主人公であるこの作品は3年間の長期連載となり、初期の代表作となるとともに作者を人気作家の地位に押し上げた。 また、『少年』(光文社)1957年8月号からは、後に代表作となる『矢車剣之助』の連載を始める。大岡越前守配下で、剣と銃の達人である少年剣士・矢車剣之助が、謎の黒覆面「夜の帝王」に扮し活躍するこの作品は、無限の弾数を持つ二丁拳銃による派手なアクションや、敵方の城が巨大戦車になるなどのSF的なからくりが全国の子どもたちを熱狂させ、同誌に連載されていた手塚治虫『鉄腕アトム』や横山光輝『鉄人28号』と人気を分けた。後に手塚茂夫主演でテレビドラマ化され、こちらもヒットした。 以後も頼まれた仕事は断らず、『ハンマー・キット』(『少年』)、『ブルージェット』(『おもしろブック』『少年ブック』)、『少年ハリマオ』(『少年クラブ』)、『天馬天平』(『少年画報』)、『隠密剣士』(『週刊少年マガジン』)、『赤い風車』(『ぼくら』)、『スパイキャッチャーJ3』(『ぼくら』)などを連載した。 1974年、短編「路地」を『ビッグコミック』(小学館)7月25日号に発表し、青年誌に進出する。以後、『リイドコミック』などに青年漫画、劇画を執筆する。 1980年からは、『オオカミ王ロボ シートン動物記』(学研)など、名作や伝記、歴史などの学習漫画を執筆。1996年まで漫画を描き続けた。 2007年2月8日、死去。。 作品リスト. その他、多数
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ほりのぶゆき
ほり のぶゆき(1964年10月16日 - )は、日本の漫画家。兵庫県神戸市出身。法政大学卒業。学生時代は漫画研究会で活動。同期に永野のりこがいるが、当時は面識が無かった。 1988年、『ビッグコミックスピリッツ』の第1回相原賞で「金のアイハラ賞」を受賞してデビュー。特撮と時代劇を中心に、テレビ周辺の雑多なネタのパロディギャグを得意としている。 1995年7月21日に代表作の『江戸むらさき特急』がオリジナルビデオ化されている。監督は俳優の山城新伍。脱力系の芸風から、近年は河崎実との仕事も多い。 兄は元『ビッグコミックスピリッツ』『ビッグコミックオリジナル』編集長の堀靖樹(サルまんのグラビアでは兄弟そろって顔出ししていた)。
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横須賀市
横須賀市(よこすかし)は、神奈川県南東部の三浦半島に位置する市。中核市に指定されている。 概要. 神奈川県南東部に位置する三浦半島の北半分を占め、市域の東側は東京湾(浦賀水道)、西側は相模湾に面する。東京湾唯一の自然島である猿島も行政区域に含まれる。行政区域内標高の最高点は大楠山の標高242mであり三浦半島の最高峰となっている。それほど標高が高い山はないが、中央部は山間部や急峻な丘陵部(三浦丘陵)が中心で平地は少ない。そのため、古くから海岸線の埋め立てが行われており、現在の中心市街地(京急の横須賀中央駅周辺)も大部分が埋立地にある。また、海岸沿いまで山が迫る地形のためトンネルが多いのも特徴で、神奈川県にある道路・鉄道トンネルのおよそ半数が市内に集中している。直下には三浦半島断層群が所在している。 市内の行政・経済的都市機能が集中する東京湾岸には大工場や住宅群がひしめきあうが、相模湾岸には自然が多く残され農業も盛んである。市内中心部から東京都心までは京急本線で約1時間の距離で、JR横須賀線では約1時間10分かかる。また横浜横須賀道路など地域高規格道路が整備されており、車では平日朝の通勤時間帯だと東京国際空港まで約1時間、東京都心へは1時間15分程度となっている。 東京湾の入口に位置するため江戸時代から国防の拠点とされ、大日本帝国海軍横須賀鎮守府を擁する軍港都市(軍都)として栄えた。幕末には市内東部の浦賀にペリーが来航したことでも有名である(黒船来航)。現在もアメリカ海軍第7艦隊・横須賀海軍施設および海上自衛隊自衛艦隊・横須賀地方隊および陸上自衛隊武山駐屯地・久里浜駐屯地や航空自衛隊武山分屯基地などの基地が置かれており、現在でもかつての軍都・軍港としての名残を多く残す。また自衛隊関係の教育施設(防衛大学校、陸上自衛隊高等工科学校)も置かれている。 三浦丘陵に位置するため地形が山がちという地理的要因から、今後大きな人口増加は望めないため、「国際海の手文化都市」をスローガンに「交流人口」(仕事やレジャーでの流入人口)の増加、そして「また来てもらえる街」をめざしている。施策として横須賀リサーチパーク (YRP) 開設やよこすか海辺ニュータウンの開発、高等教育機関(神奈川県立保健福祉大学、陽光小学校跡地への福祉系4年制大学)の誘致、海軍カレー、ヨコスカネイビーバーガー(ご当地バーガー)による街興し、異国情緒漂うどぶ板通り、映画撮影や市内が登場するアニメ作品の誘致やタイアップ企画、ヴェルニー公園(1万メートルプロムナード計画の起点)、三笠公園、くりはま花の国、長井海の手公園 ソレイユの丘、横須賀美術館等、観光施設の整備などが積極的に行われている。 また、基幹産業が景気に左右されやすい重厚長大産業であることが災いして、市民の所得水準が県内では三浦市についで低く(ただし、他都道府県の市町村と比べれば高めの方ではある)、多くの人口を抱えながら市民税の収入が県内でワースト3であり、市の財政は市債と地方交付税に頼らざるを得ない。市債償還が財政を圧迫しており、市の財政は非常に苦しいものとなっている。一時は年間数千人単位の人口減にもかかわらずYRP効果で法人市民税が増加していたが、ここ5年はほぼ頭打ちとなり横ばいである。 市では朝夕に音楽を流したりアナウンスを流すことによって町の防犯対策を講じているため犯罪への対策意識は高い。その反面、閑静な住宅街であっても毎日うるさくて困っていると言った市民からの苦情も存在しており、人口減少問題にも関わるのではないかと賛否両論されている。 歴史. 約3万年前(旧石器時代)に遡る石器や29000年以前に作られた長方形の落とし穴列が船久保遺跡で発見されている。縄文時代に入ると生活の跡である貝塚も市内に散見されるようになる。古墳時代には小規模ながら古墳がつくられ、奈良時代中ごろまでは相模国から上総国へと抜ける古東海道が通じていた。 市内公郷の宗元寺(曹源寺)は県内屈指の古刹であり、三浦郡の行政の中心地であったともいわれる。中世には三浦氏、後に相模三浦氏が一帯を支配するようになるが、戦国時代に北条氏により滅亡、その後徳川家康の領地となる。江戸時代に入ると海上からの首都の玄関口となり、燈明堂や奉行所がおかれた。1720年(享保5年)に浦賀奉行所が置かれて以降は浦賀が商業地として栄えた。 幕末には黒船来航の地となり、観音埼灯台の点灯、横須賀製鉄所や横須賀鎮守府設置、横須賀線の開通など、近代化や国防における要所として発展、県内では横浜市に次いで2番目に市制施行を果たした。昭和時代に入ると大日本帝国海軍の一大拠点となり、軍事施設を持つ周辺の町村を併合することでほぼ現在と同様の市域が形作られた(逗子町は後に分離)。このため横須賀市では昭和と平成の大合併に伴う市町村合併は行われていない。 戦後はアメリカ軍や自衛隊が駐留する一方、東京や横浜など首都圏のベッドタウンとして発展した。 人口. 1992年(平成4年)5月1日に43万7171人と最高値を記録した。その後は減少に転じ、2018年2月には推計人口が399,845人と発表され、1977年以来41年ぶりに40万の大台を割り込んだ。2021年の人口は約39万人。 地域. 横須賀市では、一部の区域で住居表示に関する法律に基づく住居表示が実施されている(実施率68.36パーセント)。また、1949年から1956年にかけて一部の区域で町界町名地番整理が実施された。住居表示実施前の町名等欄で下線がある町名はその全部、それ以外はその一部であり、町名の末尾に数字がある場合には丁目を表す。なお、町名欄に※印があるものについては、その町区域の一部に住居表示未実施の区域があることを示す。 行政. 市組織. 総務部、企画調整部、財政部、市民部、健康福祉部、こども育成部、病院管理部、環境部、経済部、都市部、土木みどり部、港湾部、上下水道局業務部、上下水道局施設部、消防局、市議会事務局、教育委員会事務局管理部、教育委員会事務局生涯学習部、選挙管理委員会事務局、監査委員事務局 経済. 産業. 東京湾・浦賀水道に面する市の東側では南部や北部で工業地が形成されている。横須賀港からは自動車が輸出され、ウランとマグロが輸入されている。また主要駅の周辺で商業機能の集積が見られる。市西部では農業や漁業が盛んである。 農業. 市内では都市部、工場地帯、山林が共存し、市の南部・西部を中心に農業活動が盛んに行われている。近年では減少傾向にあるものの、農地は市域の 4% 以上を占める。かつては水田も多く見られたが、平野部の低地は住宅地や工業地に転換し、近年では大部分が畑作地となっている。主な生産物はキャベツ、大根、カボチャ、メロンなど。農協業務は市全域に亘って JAよこすか葉山が執り行っている。 漁業. 市西部のほうが漁港が多い。東部の東京湾側は軍港や商港の占める割合が高い。 市内の漁協としては以下の3つがある: 商業. 近年横須賀市でも国道や主要地方道といった幹線沿いに多く立地するロードサイド店舗の進出が目立っている。そのため小規模小売店などは厳しい状態に追い込まれておりシャッター街状態の商店街が増え問題となっている。 一方で衰退に歯止めをかけるため斬新な活性化策を実施して効果をあげている商店街も少なくない。市内全体の人口は減少、高齢化が進んでおりロードサイド店舗、商店街関係なく対策が求められている。ちなみに市内で全蓋式アーケードを設置した商店街は市内3つ(船越、衣笠、久里浜)で県内でも3番目に数が多い自治体となっている。 姉妹都市・提携都市. 日本国外. 横須賀市は日本国外の以下の都市と姉妹都市協定を結んでいる。地名のカナ表記は横須賀市のサイトによる。 その他. 姉妹都市のほか、姉妹港提携を結んでいる港湾もある。 横須賀市は、以下のグループに所属している。 教育. 小学校. 2018年(平成30年)現在、市立46校、私立1校が存在。少子化の進展に伴い、近年市立校の再編が始まっている。 中学校. 2018年(平成30年)現在、市立23校、私立2校が存在。中学校についても市立校の再編が始まっている。 通信. 郵便. 市内の集配業務は以下の5集配局が管轄する。 郵便局. 下記のうち、集配局は横須賀郵便局、久里浜郵便局、長井郵便局、田浦郵便局である。なお、葉山町にある葉山郵便局の集配地域が存在する。 電話番号. 市内全域が横須賀MAに属する。市外局番および市内局番合わせての頭4桁は046-8xxであり、横須賀市・三浦市・逗子市・三浦郡葉山町で共通である。 交通. 鉄道. 中心となる駅:横須賀中央駅(京急)、横須賀駅(JR東日本) 港湾. 漁港については#漁業を参照。 関係者. 横須賀に縁の有る有名人. ※ 1989年のドブ板通り改修に際し、これら出身者およびゆかりある人物18名の手形のレリーフが路面に埋め込まれた。
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山田南平
山田 南平(やまだ なんぺい、本名:(旧姓:)山田 由夏、西山 由夏、1972年9月2日 - )は、日本の漫画家。神奈川県出身。血液型はB型。既婚。 1991年、『花とゆめプラネット増刊』春の号(白泉社)に掲載の「48ロマンス」でデビュー。以後、『花とゆめ』を中心とした白泉社の雑誌で活動。思春期の少年少女の成長を描いた『オトナになる方法』などを執筆した。 作品リスト. 漫画作品. 単行本は花とゆめコミックス(白泉社)、文庫版は白泉社文庫(白泉社)。 外部リンク.
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巻来功士
巻来 功士(まき こうじ、1958年7月21日 - )は、日本の漫画家。 略歴. 長崎県佐世保市出身。小学生時代から漫画家を目指し、1974年(16歳時)に投稿作品が『週刊少年ジャンプ』の新人漫画賞の最終候補作になった。それ以来、年5・6回応募して九州産業大学入学後も続けて1978年、20歳で小学館のマンガくん月間まん研新人杯の佳作を受賞する。その後も大賞をめざして『コロコロコミック』『少年サンデー』に応募したが、最終候補に止まった間の授業はさぼり続けて単位が取れず、留年する。本腰を入れて漫画家になるため、1979年に大学を中退して上京。少年画報社に持ち込んだ原稿が認められ、1981年に村田光介名義で同社の『少年キング』に連載された学園アクションコメディ『ジローハリケーン』でデビュー。それが終了した後は『ローリング17』を連載するが、同誌の休刊によって打ち切りとなる。 再び新人賞に応募する日々に戻り、1983年からは集英社へ移って『週刊少年ジャンプ増刊号』に読み切り作品を掲載。原哲夫の『北斗の拳』のアシスタントを経て『週刊少年ジャンプ』に『機械戦士ギルファー』を連載するが、13回で打ち切りとなる。1986年には心機一転し、ダークホラーアクションの『メタルK』を連載、ファンレターが何通も届くなど人気は出たが、10回で打ち切りとなる。その13か月後、代表作の1つとなる『ゴッドサイダー』を1年半連載し、単行本の増刷で印税収入が増える。しかし、その完結から10か月後に新連載した『ザ・グリーンアイズ』は人気が出ず、3か月で終了。その後、少年漫画に見切りをつけて作品発表の場を『スーパージャンプ』などの青年向け漫画誌に移し、『ミキストリ -太陽の死神-』は長期連載となった。 作風. 独特で安定した画力と構成力をデビュー時から持っていた。しかし、『週刊少年ジャンプ』での作品はグロテスクなシーンに抵抗を持つ子供も多く、『ゴッドサイダー』以外は1年未満の短期連載に終わった。巻来は、雑誌内のポジションで荒木飛呂彦とダークホラーアクション枠で競合していたことも原因だったと述べている。また、美少女の皮膚が溶ける、お腹で孵化したウジを吐き出す、美女が犯されながら締め殺されるなど、読者が生理的嫌悪感を催すような描写が多く、単に血しぶきの描写がある漫画とは異なっていた。しかし、善と悪の明瞭な分け方もあってか、青年向け漫画誌ではある程度の成功を収め、後に『ゴッドサイダーセカンド』『ニューカマー〜来るべき者達〜 (REVENGER METAL-K2)』など、少年誌時代のリメイク作品も描いている。 全ての漫画にエログロ、寝取られ、オカルトの3要素のいずれかが入っている。
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牧村久実
牧村 久実(まきむら くみ、6月13日 - )は日本の漫画家、イラストレーター。東京都出身。血液型はA型。 趣味は散歩とゴルフ。虫と長い魚が嫌い。 『おまじないコミック』(後に『ティーンズコミックパル』→『少女パル』と誌名変更、実業之日本社)で活動していた。『少女フレンド』(講談社)で執筆し、同誌の休刊後は『デザート』(同)でも作品を発表した。代表作は『ガラス色の瞳』『空においでよ』『毎日逢いたい』『天使の唄』など。 講談社X文庫ティーンズハートでは小林深雪の小説の挿絵としても活躍していた。小林深雪が講談社青い鳥文庫で執筆している現在も、引き続き挿絵を描いている。 また、自身の作品『ツインハート ツインゲーム』(実業之日本社)のイメージCDをリリースしたこともある。 作品リスト. MBコミックス. 実業之日本社のMBコミックスより刊行されたもの。 KCフレンド/KCデザート. 講談社の KCフレンド/KCデザートより刊行されたもの。
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月食
月食(げっしょく、)とは、地球が太陽と月の間に入り、地球の影が月にかかることによって月が欠けて見える現象のことである。月蝕と表記する場合がある(「食 (天文)#表記」参照)。 望(満月)の時に起こる。日食と違い、月が見える場所であれば地球上のどこからでも同時に観測・観察できる。 種類. 地球から見える月面が本影(地球によって太陽が完全に隠された部分)に入る場合を皆既月食()、一部分だけが本影に入る場合を部分月食()という。 月が半影(地球が太陽の一部を隠している部分)に入った状態は半影食(もしくは半影月食、)と呼ばれるが、半影に入った月面部分の減光の度合いは注意深く観察しなければ分からない程度であるため、事前の予告なしに肉眼で見ても気がつかない場合も多い。 月が地球の影によって隠される度合いを食分といい、「(本影の半径+月の視半径-本影の中心と月の中心の距離)÷(月の視直径)」という式で計算される。皆既月食の場合は1以上、部分月食は0 - 1、半影食ならマイナスの値となる。 太陽光のうち、波長の長い赤系の光が地球の大気によって屈折・散乱されて本影の中に入るため、皆既月食でも通常、月は真っ暗にはならず暗い赤色(赤銅色)に見える。しかし火山爆発等で大気中に特に多量の微粒子が浮遊している場合には、月が非常に暗くなり灰色かほとんど見えなくなる。月食時の明るさは後述の「ダンジョンの尺度」(後述)などで表される。 なお、月食の途中の欠け月が昇ってくることを月出帯食といい、その逆に欠けたままの月が沈むことを月没帯食(もしくは月入帯食)という。 頻度. 月食が起こるのは太陽・月が黄道・白道の交わる点(月の昇交点・降交点)付近にいる時に限られる。 月食は多くの場合1年間に2回起こるか起こらない年、3回起こる年もあり21世紀の100年間では合計142回(皆既月食85回、部分月食57回)起こる。一方、日食は最低でも年に2回、最多で5回起こる年もあり21世紀の100年間では合計224回(皆既日食68回、金環食72回、金環皆既食7回、部分日食77回)である。したがって月食の発生頻度は日食より低い。にもかかわらず普通、日食よりも月食の方が目にする機会は多い。これは月が見えてさえいれば月食は地球上のどこからでも観測が可能なのに対し、日食は月の影が地球表面を横切る帯状の限られた地域でしか見ることができないためである。 月食と日食の頻度に違いが生じる理由は次のように説明できる。地球と太陽がともに内接する巨大な円錐を想定する。月がこの円錐の太陽と反対の部(地球の本影)に入れば月食が生じ、太陽と同方向の部分に入れば日食が生じることになる。この円錐の月軌道付近における半径は月食側が約4460 - 4750km、日食側が約7990 - 8280kmと異なるため月食の発生頻度は日食のそれよりも低くなる。 日本の陸上(島嶼部を含む)でも見られた(見られる)日付を部分月食は斜体字、皆既月食は太文字にて記述している。 ダンジョンの尺度. 皆既月食の時の月面の様子は、地球の大気中の塵の量によって異なる。塵が少ないと、太陽の光が大気中を通過する際の散乱が少なくなり、月面は黄色っぽく明るく見える。逆に、塵が多いと、大気中の散乱が多くなり、月面は暗く見える(大規模な火山噴火があると、大気中の火山灰により、月面が暗くなることが知られている)。フランスの天文学者アンドレ・ダンジョンが20世紀初頃に、月食の明るさを分類するために独自に尺度を決めた。一般的に「ダンジョン・スケール」とも呼ばれる。 ターコイズフリンジ. 成層圏まで到達した太陽光の中で、波長の長い赤い光はオゾンに吸収されやすいため、波長の短い青い光だけがオゾン層を通過する。 その青い光が月面に投影され、青い帯として見える現象が観測されることがある。 この青い帯は「ターコイズフリンジ」(turquoise fringe)とも呼ばれ、月食の本影と半影の境目に現れる。2007年5月4日にドイツで観測された皆既月食時に、月に映る青い光の帯が撮影された。2008年2月13日にアメリカ航空宇宙局(NASA)のサイエンスニュースで、その光は「ターコイズフリンジ」と提唱された。2014年10月4日の月食時にも「ターコイズフリンジ」が見られ、日本で大きな話題となった。 月食時に月から見た太陽. 月食時に月から太陽を見ると、地球から見る日食のように、太陽が地球によって隠されるように見えるはずである。2009年2月19日、日本の月周回衛星「かぐや」が世界で初めてこの光景の撮影に成功した。半影からの撮影だったため太陽は完全に隠れなかったが、地球による「ダイヤモンドリング」が観察された。
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微分幾何学
数学における微分幾何学(びぶんきかがく、ドイツ語: Differentialgeometrie、英語:differential geometry)とは微分を用いた幾何学の研究である。また、可微分多様体上の微分可能な関数を取り扱う数学の分野は微分位相幾何学(びぶんいそうきかがく、ドイツ語: Differentialtopologie、英語: differential topology)とよばれることがある。微分方程式の研究から自然に発生したこれらの分野は互いに密接に関連しており、特に一般相対性理論をはじめとして物理学に多くの応用がある。これらは可微分多様体についての幾何学を構成しているが、力学系の視点からも直接に研究される。 微分幾何学の道具立て. 微分幾何学における基本的な問題意識は"多様体上の微分"である。これには多様体、接束、余接束、外微分、p-次元部分多様体上のp-形式の積分、ストークスの定理、ウェッジ積、リー微分などの研究が含まれることになる。これらはみな多変数の微積分と関連しているが、幾何学的な理論に応用するために特定の座標系によらずに意味を持つような形で定式化されなければならない。微分幾何学に特徴的な概念によって、二階の導関数の持つ幾何学的な性質、特に曲率の多くの側面が体現されるといえるだろう。 微分位相幾何学. 微分位相幾何学では多様体上の滑らかな構造のみに起因するような構造や性質が調べられる。滑らかな多様体は付加的な幾何構造を付与されてしまった多様体よりも柔軟な対象である。付加的な構造は微分位相幾何学的には可能な変形や同値関係の存在に対する障害になることがある。例えば体積やリーマン曲率は一つの滑らかな多様体上の異なった幾何構造を区別する不変量になりうる。つまり、多様体を滑らかに「引き延ばす」ことができるとしてもそれによって空間が変形されてしまい曲率や体積が影響を受けるということがありうる。 逆に、滑らかな多様体は位相多様体と比較すればより厳しい構造をもっている。ある種の位相多様体は滑らかな構造を持ち得ない(ドナルドソンの定理)し、ある種のものは相異なる複数の滑らかな構造を持ちうる(例えば異種球面)。滑らかな多様体から得られる構成のうち、接束のように(追加の考察をすることで)位相多様体に対しても実現可能なものもあるが、そうでないものもある。 内在的な定式化と外在的な定式化. 19世紀の初めから中頃まで、微分幾何は外在的な視点に立って研究されていた。外在的な視点とは、(曲面としてはじめから三次元の空間の中に実現されているものを考えるように)曲線や曲面を、より高い次元のユークリッド空間の中におかれたものとして見ることである。特に単純な部分は曲線の微分幾何学に関する結果である。 これに対し、リーマンによる研究を基点として、問題とする幾何学的対象を一個の自立したものとして考え、その「外に出る」ことを要請しない、内在的な視点が発展してきた。この内在的な視点は、外在的な視点に比べ、より柔軟なものである。例えば相対性理論においては、時空(その「外側」の意味は全く明らかではない)を外在的な方法によって自然に捉えられないため、内在的な方法は便利である。しかし内在的な視点のもとでは曲率や接続などの中心的な概念を定義することが見かけ上困難になるという代償を払わなければならない。 これら二つの視点は融和させることが可能であり、外在的な幾何とは、内在的に定められた幾何学的対象に付加的な構造を付与することだとも考えられる。ナッシュの埋め込み定理も参照のこと。 微分幾何学の分野. リーマン幾何学. リーマン幾何学では、滑らかな多様体に線素の長さの概念を付け加えてごく微小な範囲ではユークリッド空間のような構造をあたえられたリーマン多様体が主要な研究対象となる。リーマン多様体上では関数の勾配、ベクトル場の発散や曲線の長さなど様々なユークリッド幾何の概念が(大域的な対称性を落とすことによって)一般化される。リーマン曲率テンソルがリーマン多様体の各点に対して定まり、これによって多様体がどれだけ平坦かをはかることができる。 リーマン多様体の概念をさらに一般化し、各点での接ベクトル空間にノルムが定義されている状況を考えるフィンスラー幾何学が得られる。 シンプレクティック幾何学. シンプレクティック幾何学では、シンプレクティック形式(つまり、非退化で反対称な2次閉形式)があたえられたシンプレクティック多様体(偶数次元でなければならない)が主要な研究対象になる。リーマン幾何学と異なり、次元が同じシンプレクティック多様体の局所的な構造はすべて同じになり(ダルブーの定理)、したがって本質的に問題になるのは大域的な構造だということになる。 複素幾何学. 複素微分幾何では複素多様体が研究される。概複素構造とよばれる接ベクトル場準同型(つまり(1, 1) 型のテンソル)J: TM → TM でその自乗が -1 倍作用であるようなものを持つ実多様体 M は概複素多様体とよばれる。概複素多様体のうちで概複素構造 J の「ねじれ」を表すNijenhuisテンソル NJ が消えているようなものは複素多様体とよばれる。この条件は正則なアトラスの存在と同値になる。 複素多様体 (M, J) に対し、さらにリーマン計量g で概複素構造 J と両立するものを考え、g の「ねじれ」ω(X, Y) = g(JX, Y) が閉形式になっているならば (M, J, g) はケーラー多様体とよばれる。ケーラー多様体は特に複素多様体であり、またシンプレクティック多様体にもなっている。滑らかな複素代数多様体として様々なケーラー多様体の例があたえられる。 マキシム・コンツェビッチによるミラー対称性の定式化からはシンプレクティック幾何学と複素幾何学の間に対応がつくことが予想されている。
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槇村さとる
槇村 さとる(まきむら さとる、1956年10月3日 - )は、日本の漫画家。東京都葛飾区出身。東京都立工芸高等学校工芸デザイン科卒業。女性。 来歴・人物. 思春期に父親から性的虐待を受け、そのトラウマから逃れるために漫画を描き始める。1973年、高校1年で『別冊マーガレット』(集英社)に掲載の「白い追憶」でデビュー。1978年に同誌でフィギュアスケートを題材にした『愛のアランフェス』を連載。1980年代には、ジャズダンスを題材にした『ダンシング・ゼネレーション』、アイスダンスを題材にした『白のファルーカ』などを発表して活躍。 高校卒業後、メーカーに就職したが、漫画の原稿料が給料を上回ったので退職し専業作家になる。1990年代には『ヤングユー』(集英社)など、大人の女性向け漫画誌に活動の舞台を移す。他に代表作として、テレビドラマ化された『イマジン』『おいしい関係』『Real Clothes』など。 父親から受けた虐待のトラウマを35歳で克服し、その経験を綴った自伝的エッセイ『イマジンノート』を2002年に出版。選択的夫婦別姓制度導入がなされないため、42歳で性人類学者のキム・ミョンガンと事実婚。愛知淑徳大学にて非常勤講師として年1回教鞭をとっている。 作品リスト. 書籍. マーガレットコミックスから刊行されたものより、集英社にて順次漫画文庫化が進んでいる。
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やまだないと
やまだ ないと(1965年10月19日 - )は、日本の漫画家。佐賀県唐津市出身。女性。初期のペンネームは山田 朝子(やまだ あさこ)、別のペンネームに加賀 マヒル(かが マヒル)がある。 代表作に『東京座』、『コーデュロイ』、『西荻夫婦』、映画化もされた『フレンチドレッシング』、『L'amant ラマン』、『王様とボク』などがある。 来歴. 九州デザイナー学院放送映画学科卒業。山田朝子の名で少女漫画家として活動した後、青年誌に活動の場を移し、1987年、やまだないとのペンネームで『週刊ヤングマガジン』にて「キッス」でデビュー。1996年より、画材としてMacを使い始める。1990年代後半から『COMIC CUE』、『マンガ・エロティクス』、『FEEL YOUNG』などの雑誌で活動。 2021年5月8日から京都のトランスポップギャラリーにて個展「BAD GIRLS」が開催された。同年10月23日から東京都阿佐ヶ谷のギャラリーのVOIDにて、個展「放蕩娘」を開催。 作品リスト. 上記作品以外の単行本. 新装版・他社版などは省略した。
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まついなつき
まつい なつき(1960年7月1日 - 2020年1月21日)は、日本の漫画家、エッセイスト、占い師、占い講師。ライター、漫画家としての活動とともに、企画、編集といった出版の仕事にも携わった。 本名は松井なつき(読み;同じ)(結婚してから元夫と別れる迄は町田なつき) 来歴. 東京都新宿区生まれ、北海道育ち。16歳で東京に戻り、17歳より同人雑誌活動を始め漫画専門誌(旧)『ぱふ』にてデビュー。1979年にはエロ劇画誌の『漫画エロジェニカ』にH系のギャグ漫画を執筆、「かるめら姫」を名乗る本人がおかっぱにぶかぶかのパンツ一つの姿で描かれていた。 3児の母であり、出産や育児をテーマにした著書が多数ある。1994年に出版された「笑う出産」は60万部のベストセラーであり、代表作。 2002年頃より、西洋占星術・タロット・絵画心理分析・夢分析などの初心者向け講座を開講し、個人鑑定や占い記事の執筆・監修等の活動を行った。 2008年10月に、中野ブロードウェイ内に占い店舗「中野トナカイ」を開店させ、様々な占い師とフレキシブルな営業をした。 元夫はカメラマンの町田仁志。 2020年1月21日、脳梗塞のため東京都中野区内の病院で死去。翌22日に息子3人がまつい本人のTwitterで死去を公表した。59歳没。
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松井雪子
松井 雪子(まつい ゆきこ、1967年1月5日 - )は、東京都武蔵野市出身の漫画家、小説家。代表作に『おんなのこポコポン』『マヨネーズ姫』など。カー雑誌『ベストカー』誌上で連載の4コマ漫画では松井くるまりこ名義で執筆している。 『アックス』(青林工藝舎)誌上にて「マヨネーズ姫」を連載中。
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まつざきあけみ
まつざき あけみは、日本の漫画家。 経歴. 1970年、『週刊マーガレット』にて『リリー』でデビュー。以後講談社の漫画雑誌を皮切りに活動を開始、一時期は、ボーイズラブ雑誌『JUNE(ジュネ)』、『ALLAN(アラン)』(OUT別冊)では欠かせない作家であった。『ぼくらは青年探偵団』は、その系統の代表作で、ギャグのセンスも著しく冴えている。その後、『ハロウィン』などの少女ホラー雑誌を経て、現在も童話系レディースコミック雑誌『まんがグリム童話』で活躍中。 作風. 美少年、男色、スプラッタと3拍子揃った、耽美派系(少女)漫画家。白黒原稿では美麗な描線と緻密な描き込みを特徴とし、カラー原稿では日本画の影響を受けた優美な色彩を見せる。
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大島
大島(おおしま、おおじま、おしま) 異表記 : 大嶋・大嶌・大㠀・大隝・大嶹など 地名. 島嶼以外. "(かつて島であった地名も含む)" 人物. 該当者が複数名存在する場合はページを参照のこと。
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やまざき貴子
やまざき 貴子(やまざき たかこ、8月18日生)は、日本の少女漫画家。北海道別海町出身、女性。愛称はやまらき。 経歴. 1985年、白泉社の第10回アテナ新人大賞新人賞を受賞。1986年、『LaLa DX』掲載の「インセクター☆シンドローム」でデビュー。1987年、第12回アテナ新人大賞にてデビュー優秀者賞を受賞。代表作は「マリー・ブランシュに伝えて」、「ZERO」、「っポイ!」。 2001年、『LaLa』から同社の『MELODY』に移籍。『月刊フラワーズ』(小学館)でも漫画連載を行われている。
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まつもと泉
まつもと 泉(まつもと いずみ、1958年10月13日 - 2020年10月6日)は、日本の漫画家。男性。富山県高岡市生まれ。富山県立高岡工芸高等学校卒業。 経歴. デビューまで. 高校卒業後、ロックミュージシャンを目指して上京する。パートはドラムス。無類のロック好きで、シンガーソングライターの杉真理、ジェネシス、TOTOの大ファンである。しかし、楽譜が読めなかったこともあってミュージシャンは断念し、デザイン専門学校に入学する。 専門学校在学中、高校時代の友人と2人で漫画作品を描き、いくつかの出版社に持ち込みをした。「まつもと泉」のペンネームは、当初はユニットとして、高校時代の同級生の友人と2人で組んで活動を始めたため、それぞれが「松本」「いずみ」と語感の好きな名前を出し合い、そのままでは前者は硬すぎる印象で、後者は女性的な印象なので漢字とひらがなを逆にして決定した。その他の候補では、当時2人でよく打ち合わせに利用していた渋谷駅前の喫茶店名から取った「渋谷パテオ」というのもあったが、却下された。 持ち込みの結果、集英社『週刊少年ジャンプ』編集部の高橋俊昌に認められ、本格的にデビューへの道を歩み出す。1980年代当初、硬派・劇画・スポーツ・ギャグを主軸としていたジャンプでは、売り上げの減少を食い止めるために他誌で人気を博していたラブコメと美少女キャラの要素を取り入れる方向で模索していた。ちょうどその路線に合致するまつもとの絵柄を気に入り、初代担当編集者となった高橋とともに、連載に向けてコンセプトや企画の打ち合わせを重ねつつ、原稿が落ちた『ストップ!! ひばりくん!』(江口寿史)の穴埋め短編漫画や、懸賞ページのイラストなどを描いていた。なお、友人は連載デビューまでの年間のギャラが数万円という経済状況に耐えきれず脱落し、以降は1人で活動を続ける。 連載デビュー. 1984年から『きまぐれオレンジ☆ロード』の連載を開始する。それまでのジャンプにはあまり見られなかった絵柄、当時はまだ珍しかったカラースクリーントーンを多用したデザイン性の高いカラーページは注目を集め、瞬く間に人気作品となる。ちば拓や桂正和とともにジャンプでのラブコメ、美少女路線を開拓、読者アンケートでは作中のキャラクターと同年代の10代を中心に男女共にバランスの良い人気を集めた。 影響を受けたマンガ家は、永井豪、山上たつひこ、吾妻ひでお、田村信、江口寿史、高橋留美子など。漫画家の友人は、みやすのんきや清水としみつ、宮崎摩耶など。 また、まつもとの姉が雑誌を購入していた少女マンガにも影響を受けており、この分野では、多田かおる、よしまさこ、くらもちふさこなどの女流漫画家の画風とラブコメの要素の影響も受けている。 『きまぐれオレンジ☆ロード』の連載終了後、『せさみ☆すとりーと』を連載する。この作品は、江口寿史の影響が色濃く見られ、イラスト的な手法を取り入れるなど実験的な試行錯誤もなされていた。 闘病生活と死. 21世紀に入ってからは、脳脊髄液減少症(低髄液圧症候群)により漫画家活動ができなくなり、闘病に専念する。『スーパージャンプ』で数年ぶりの新連載の予定だったが、これにより延期となり、結果的には中止となった。また、闘病生活を基にした自伝的な書き下し漫画の計画もあったが、実現することはなかった。さらに、心房細動を発病し心臓の手術をしたことから、イラストや漫画の構想のみに活動が絞られた。 2020年10月6日、入院療養中の病院にて死去。享年61。
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松本零士
松本 零士(まつもと れいじ、"Leiji Matsumoto"、男性、1938年〈昭和13年〉1月25日 - 2023年〈令和5年〉2月13日)は、日本の漫画家。本名:松本 晟(まつもと あきら)。代表作に『男おいどん』『宇宙戦艦ヤマト』『銀河鉄道999』など。 福岡県久留米市生まれ、東京都練馬区在住。血液型はB型。宝塚大学特任教授、京都産業大学客員教授、デジタルハリウッド大学特任教授を歴任。正六位、旭日小綬章、紫綬褒章、フランス芸術文化勲章シュバリエ受章。称号は練馬区名誉区民。 妻は同じく漫画家の牧美也子。早稲田大学大学院名誉教授で元三菱重工業長崎研究所主管の松本將は実弟。 一般的にSF漫画作家として知られるが、少女漫画、戦争もの、動物ものなど様々なジャンルの漫画を描いている。アニメ製作にも積極的に関わり、1970年代半ばから1980年代にかけては『宇宙戦艦ヤマト』や『銀河鉄道999』が映画化されて大ヒットするなど、松本アニメブームを巻き起こした。 ペンネーム. デビューから1968年までは本名のひらがな表記である松本 あきらのペンネームを使用。松本零士名義は1965年から松本あきら名義と並行して使い始め、1968年に松本零士にペンネームを一本化した。ペンネームの由来は、“零歳児の感性をいつまでも忘れずに”というモットー、夜半―午前零時を過ぎないとアイデアが浮かばない事が度々あった事、“毎日夜零時まで働く士(サムライ)”から。 2008年5月に北九州で行われた『毎日フォーラム』では“零士の零は無限大の「れい」、士は「さむらい」、また本名である「あきら」とも読む”と語った。 零士をローマ字で表記する場合、Reijiとはせず、Leijiとする。RでなくLを使っているのは、少年時代に愛読していた山川惣治の絵物語『少年王者』に登場する悪役ライオン「ライオンL」が強くて逞しかったことから。 経歴. 生い立ち. 1938年(昭和13年)、福岡県久留米市に生まれる。 父親である松本強 は、一兵卒として大日本帝国陸軍に入営し、厳しい選抜を経て将校に抜擢された人であり(陸軍少尉候補者 第10期、最終階級は陸軍少佐)、また陸軍航空隊の古参の空中勤務者(パイロット)であった。 第二次世界大戦中、零士の父がテストパイロットをやっていた関係で、幼少期の一時期(1940年頃)、陸軍各務原飛行場がある現在の岐阜県各務原市に住み、4歳から6歳まで兵庫県明石市の川崎航空機の社宅に住んでいた。その後は、母親の実家がある愛媛県喜多郡新谷村(現在の大洲市新谷町)に疎開していた(両親共に大洲市の出身である)。このときアメリカ軍の戦闘機や、松山市へ空襲に向かうB-29などの軍用機を多数目撃、この体験が後の作品に影響を与えたという。当時10人家族で、バラックのような長屋で貧乏暮らしをしながら、本人は6歳頃から絵を描くのが好きになり、自宅で漫画を描いていた。 終戦後、小学校三年から福岡県小倉市(現・北九州市)に移る。小倉市立米町小学校(現・北九州市立小倉中央小学校)のときから漫画少年で、高井研一郎らと同人グループ「九州漫画研究会」を結成し、同人誌「九州漫画展」を主宰。 松本が漫画家を志した理由は彼が小学二・三年の頃にあった学級文庫である。それは手塚治虫の漫画『新宝島』『キングコング』『火星博士』『月世界紳士』であった。 小倉市立菊陵中学校(現・北九州市立菊陵中学校)に進学。 漫画家デビュー. 1954年(昭和29年)、福岡県立小倉南高等学校1年生(15歳)のときの投稿作「蜜蜂の冒険」が『漫画少年』(昭和29年2年号)に掲載されデビュー。そのときから中央でも既に知られる存在で、手塚治虫が出奔先の九州で原稿を描くときに高井、松本ら九州漫画研究会にアシスタントを頼んだというエピソードもある。またこの頃から1957年まで「毎日小学生新聞」に多数のマンガが掲載される。この時は、昆虫が主人公の短編作品などが連載された。 高校卒業後の1957年(昭和32年)、毎日新聞西部本社版で連載をするはずだったが急に担当者が代わりその話は反故にされる。しかし月刊少女雑誌『少女』での連載が決定して上京。本郷三丁目の四畳半の下宿で仕事を始め、しばらくは貧乏暮らしが続いたが、この飢餓感が漫画を描く上でのエネルギーになったという。『少女』と『少女クラブ』に不定期で描く少女漫画家で出発、少女漫画においてスランプに至った頃にはライターとしてタレントの取材などを手がけ、その後1960年前後から少年誌、青年誌にも進出。デビュー時は「松本あきら」名義を使用しており、「松本零士」を使うようになったのは1965年以降である(後述)。 上京後に漫画家の牧美也子と出会い、1962年(昭和37年)に結婚して翌年夫婦で練馬区に移り住んだ。 少年時代から海野十三やH・G・ウェルズのSF小説を愛読して育ったため、SF漫画などを好んで描いていたが、不人気で打ち切りも多く、出世作となったのは1971年(昭和46年)から『週刊少年マガジン』に連載した『男おいどん』である。同作は人気となり、1972年に講談社出版文化賞受賞。松本ならではの「四畳半もの」という独自のジャンルを開拓した。 アニメ作家として著名に. 1974年(昭和49年)秋から放送されたテレビアニメ『宇宙戦艦ヤマト』には企画途中から参加(詳細は宇宙戦艦ヤマト#制作の経緯を参照)。メカニックデザイナーとしての招聘だったが、かねてからアニメ作りを願望していた松本は全面的に携わった。本放送時には低視聴率に終わったものの、再放送によって人気を得、1977年(昭和52年)の劇場版アニメ公開時には社会現象を巻き起こした。 これがアニメブームのきっかけとなり、松本はアニメ制作会社の東映動画にイメージクリエイターとして起用され、テレビアニメ『惑星ロボ ダンガードA』『SF西遊記スタージンガー』にデザインを提供。また、自らも企画として温めていた『銀河鉄道999』『宇宙海賊キャプテンハーロック』がヤマト人気によりアニメ化が決定され、特に『銀河鉄道999』は大ヒットし、松本零士ブームが到来。以降数々の松本アニメが作られた。 松本アニメブームは1982年(昭和57年)の『わが青春のアルカディア』『わが青春のアルカディア 無限軌道SSX』の頃には下火となり、1983年夏の劇場アニメ映画として企画されていた『クイーン・エメラルダス』 は頓挫して、ブームは終焉。その後20年近く松本原作のテレビアニメは実現しなかった。 一方、1980年代後半からは、宇宙開発事業団などさまざまな団体の役職に就任。また、漫画の執筆では、自作の異なる作品に登場した人気キャラクターを同一の作品世界にまとめる作業を進める。往年の松本アニメブームで育ったクリエイターにより、1990年代後半以降、再び松本作品を原作としたアニメのリリースが活発となった。 1999年に『宇宙戦艦ヤマト』などの著作物の著作者が、松本零士であることの確認を求めて、松本が西崎義展を提訴したが、2003年に著作者人格権確認訴訟のそれぞれの控訴審は、法廷外で和解し西崎が著作者、著作者人格権者であることが確定した。 2000年代. 2003年(平成15年)には、画業50周年記念作品として『銀河鉄道999』から派生した『銀河鉄道物語』が発表された。 2006年(平成18年)に宝塚造形芸術大学(2010年、宝塚大学に名称変更)のメディア・コンテンツ学部の教授に就任。 2015年(平成27年)に妻の牧美也子と「松本零士×牧美也子 夫婦コラボ展」で話題となる。2018年(平成30年)に『銀河鉄道999』の新作を発表するなど、晩年まで創作意欲が衰えることはなかった。 2019年(令和元年)11月15日にイベント出席のため訪問中だったイタリア・トリノで体調を崩して倒れ、現地の病院へ緊急搬送されたが命に別状なく、12月4日に退院、翌5日に帰国した。 死去. 2023年(令和5年)2月13日、急性心不全のため東京都内の病院で死去したことが、同月20日に東映により発表された。。6月2日、生前の功績が評価され、日本国政府から松本に対し死没日付をもって正六位に叙されたことが零時社より発表された。同年6月3日に東京国際フォーラムでお別れの会が開かれた。7月10日発売のビッグコミック2023年第14号の表紙に追悼の言葉とともに松本の肖像イラストが掲載された。 漫画. ※おおむね発表順。 初期作品. ※ほぼ松本あきら名義 映像作品. 原作が映像化されたもの、企画に関わったものを記す。アニメと並行して描かれた漫画化作品は前項に記す。 創作・著作権に対するスタンス. 日本漫画家協会著作権部責任者やコンピュータソフトウェア著作権協会理事などの役職を持つ立場にあることもあって、著作権に対し敏感な面があり、過去に著作権関連のシンポジウムで「孫子の時代まで自分の著作権を守りたいというのが心情だ」と述べたこともあるほか、自らが過去に漫画の中で使用した台詞等の表現を「創作造語」と称し、それに似た表現を他者が無断で使うことに否定的な見解を示している。 松本が著作権に強硬なのは、『宇宙戦艦ヤマト』や戦争ものなどを描く際には戦没者や民族感情に細心の注意を払って配慮しているのに、自分のあずかり知らぬところで、第三者によって自分の創作が意図に反した使われ方をされるのが我慢できないことが一因だという。 2002年には自らが原作のテレビアニメ『SPACE PIRATE CAPTAIN HERLOCK』がダビデの星を敵のデザインに使ったことから、ユダヤ人感情に配慮して一時製作中止にさせたこともあった。 権利関係に非常にシビアである印象を持たれるが、作家に対する敬意があり無断で使うのでなければ他の漫画家やミュージックビデオ、広告等に自作のキャラクターを使うことには寛容である。自作を笑いのネタにしたパロディ的な引用にも、松本自身が「面白い」と思えば快く許諾する傾向にある。但し「面白くない」と感じたパロディ的な引用には非常に厳しく、名指しで非難したり、担当編集者や漫画家自身を呼びつけて説教することもあるという。 松本は『スター・ウォーズ』の企画書のレイア姫の初期設定は『宇宙海賊キャプテンハーロック』の有紀蛍と類似しており、同作品の初期企画に自作が影響を与えたと発言しているが、松本が「自身の作品の影響を受けた」とする作品の中には、本当に影響を受けたものかどうか不明なものも含まれている。 『銀河鉄道999』劇場版第2作『さよなら銀河鉄道999 アンドロメダ終着駅』に登場する星野鉄郎の父親・黒騎士ファウストに関しては、『スター・ウォーズ』旧3部作に登場するダース・ベイダーとでいくつかの共通点が見られる。また宝島社の『完全版 銀河鉄道999 PERFECT BOOK』では、その子ルーク・スカイウォーカーと鉄郎の設定上の類似点などについて言及されている。時期的には『スター・ウォーズ』のほうが制作開始・公開いずれも早い。 宇宙戦艦ヤマト裁判. 松本零士は1976年頃に、『宇宙戦艦ヤマト』の原作について、企画・原案はプロデューサーの西崎義展であり、自分は基本ストーリーやアイデアのほとんどを出したが共同作品でもあり、原作については判断できず曖昧であると述べていた。『宇宙戦艦ヤマト』のタイトルも西崎がつけたものと認めていたが、西崎が破産した1997年頃から、自らが『宇宙戦艦ヤマト』の著作権者であり、西崎はアニメ化の使用許諾権を得たプロデューサーに過ぎず、その使用許諾権も失効したと主張し始め、次いで西崎が逮捕された1998年には新潮社や産経新聞社のウェブページにおいて、西崎は『ヤマト』とは無関係で、『ヤマト』の全ての権利は自分が持っていると述べるようになった。そもそも『宇宙戦艦ヤマト』は自作『電光オズマ』の「宇宙戦艦大和の巻」が原型であるというのが松本の説明である。 そして、『ヤマト』の著作権を西崎から取得した東北新社との間で、1999年に「宇宙戦艦ヤマト等に関する合意書」を交わして、2000年からは『新宇宙戦艦ヤマト』という新作を連載し、そのアニメ版の制作発表もした。 1999年になって『宇宙戦艦ヤマト』を作ったのは誰かという著作者を巡って西崎義展と裁判が行われた。松本側が原作と主張した『電光オズマ』『光速エスパー』、『ヤマト』の「創作ノート」、そして『冒険王』連載の漫画『宇宙戦艦ヤマト』のいずれも原作ではないと否定され、なおかつ松本はアニメの製作過程においても部分的にしか関わっていないとして、東京地方裁判所は西崎を著作者と認定し、松本側の全面敗訴となった。控訴審中の2003年に法廷外和解して、松本と西崎の両者ともが著作者という合意を交わしたが、西崎が筆頭著作者であり代表して著作者人格権を有することになり、松本は西崎の同意なしに『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの新作を作れず、また、西﨑側が許諾したヤマト新作については松本は自分の権利を行使できないことになった。西崎側のヤマト新作で松本の名前がクレジットされる際は、従来主張してきた「原作」ではなく「設定・デザイン」であることを松本はこの和解書で認めている。ただしこの和解は、判決と同等の効力がある訴訟上の和解でなく裁判外の和解に過ぎず、その拘束力が及ぶのは和解の当事者のみであり、著作権者の東北新社はこの和解に縛られないとの見解を発表している。 なお、この裁判で西崎に敗訴した際、「私がいなかったら、作品の1コマも存在しない」とのコメントを一部マスコミに報道された。 裁判終結後のシリーズ続編『宇宙戦艦ヤマト 復活篇』にはスタッフとして参加せず、名前もクレジットされなかった。『宇宙戦艦ヤマト』シリーズの翻案にあたる実写映画『SPACE BATTLESHIP ヤマト』や第1作のリメイクである『宇宙戦艦ヤマト2199』『宇宙戦艦ヤマト2202』『宇宙戦艦ヤマト2205』でも、西崎が原作者としてクレジットされ、松本の名は表示されなかった。なお、リメイク版の総監督を務めた出渕裕は、松本と豊田有恒のクレジットを入れようと制作プロダクション側に掛け合っている。 製作スタッフの中では、SF設定を担当した豊田有恒は、著書(日本SFアニメ創世記)で松本零士を全面的に支持し、西崎義展を批判している。一方で作詞家として1作目から関わっていた阿久悠は。劇場版を監督した舛田利雄は実質的な原作者は西崎だとの見解を持っており、企画段階から携わった藤川桂介と山本暎一、松本を補佐した石黒昇も、松本の原作者だとの主張に対して、本作はオリジナル企画であるとして松本による原著作物は存在しないとの立場である。メカデザインのスタジオぬえのメンバーでも松本を原作者と認識するのは少数だという。第1作から絵コンテや作画で参加した安彦良和によれば、ヤマトをめぐる訴訟の際は大方の人が西崎の肩を持ったという。安彦本人は中立を宣言して、やって来た松本の弁護士にもヤマトは松本のものでなく松本と西崎両者のものだと伝え、松本敗訴の一審判決は当然のこととした。 絵コンテで参加した富野由悠季はそのときの経緯から、松本零士と山本暎一が並列でその上に西崎義展がいて全ての主導権を西崎が握った、西崎が主導する西崎の作品だったとインタビューで語っている。 銀河鉄道999裁判. 2006年、槇原敬之がCHEMISTRYに提供した楽曲『約束の場所』の歌詞の一部が、1996年から再開された新展開編『銀河鉄道999』の作中のセリフの盗用であると、松本零士は10月19日発売の『女性セブン』で槇原敬之を非難した。翌日20日の日本テレビ系『スッキリ!!』にも生出演し、同様に槇原を盗作したと非難した。 これに対して槇原は記者会見で否定し、同年11月7日付の公式ホームページにて「『銀河鉄道999』は個人的趣味で読んだことが無く、歌詞は全くのオリジナルであり、本当に盗作だと疑っているのなら(自分を告訴して)裁判で決着していただきたい」旨のコメントを発表している。 2007年3月22日、『スッキリ!!』における松本の発言をめぐり、槇原が松本に対して、盗作だと言っている部分に対して証拠を示して欲しいと著作権侵害不存在確認等請求を東京地方裁判所に起こした。裁判で松本側が盗作だという証拠が示せなかった場合は、CMソングの中止などにより、2,200万円の損害賠償請求も行った。これについて松本は3月26日のトークショーで「男たるもの、負けると判っていても戦わなければならない時がある、一連の訴訟について口頭弁論などに立つ気はない」とも語った。 2008年7月7日、東京地裁で口頭弁論のため、事件以降、両者が初めて顔を合わせた。槇原はニュースやマスコミなどで取り上げられ、「泥棒扱いされてもしていないものはしてない」「(問題の歌詞の部分は)仏教の因果応報の教えから」「謝れば許すつもりといっているが、それは罪を認める行為だ」と弁論、直後に松本の反論を聴くことなく退廷した。松本は「このセリフは私の座右の銘」で「長く使い、媒体でも講演会でも発表している」「一言、公の場で『すまん』と言ってほしかった」「偶然としても、あそこまで似てるのはありえない」と反論した。 同年12月26日、東京地裁は「原告表現が被告表現に依拠したものと断定することはできない」「2人の表現が酷似しているとは言えない」と依拠性と類似性という著作権侵害の2つの構成要件を認めず、槇原に対する名誉毀損を認め、松本に220万円の損害賠償支払いを命じる判決を下した。その後双方とも控訴している。 2009年11月26日、東京高裁で控訴審が開かれ、松本が「槇原さんの社会的な評価に相当な影響を与えた」と陳謝する内容を和解条項として、和解が成立した(金銭支払なし)。 2011年12月16日、『菊地成孔の粋な夜電波』に近田春夫がゲスト出演。話題がJ-POPのパクリ問題になると「マッキーがパクるわけないじゃん」「(松本が)自分のフレーズを知らないはずがない、というのは思い上がり」と槇原側を全面擁護した。 松本は2011年に槇原のCDの購入者に向けた描き下ろしクリスマスカードで槇原の似顔絵を描いたが、『SPA!』2012年3月27日号で「ひと言『ごめん』と言ってくれたら、それでよかったんです」と、謝罪すべきだったのは槇原側だったとの主張を再び行った。 槇原はその後、2022年3月2日にリリースしたアルバム『Bespoke』で「約束の場所」をセルフカバーしている。 零士メーター. 零士メーター(れいじメーター)とは、漫画やアニメ等のフィクション作品に登場する計器デザインの呼称、俗称。松本メーターとも呼ばれる。 主に未来を描いたSF作品に登場する。円形もしくは歯車形のガラスパネルの中に、目盛りと複数(最低でも3本)の指針が書き込まれたスタイル。クロノグラフに似るが、違いは全周型ではなく限界点があること。 『宇宙戦艦ヤマト』、『銀河鉄道999』を代表とする松本零士の作品に頻繁に登場する事から、同作品のファンを中心に「零士メーター」と呼ばれるようになった。 2009年には、日本のSEAHOPEがレイジメーターをモチーフとした腕時計「零士メーターウォッチ」を999本限定で製品化し、松本がデザイン監修を手掛けた。 板橋克己は『零士メーターから始めるSFメカの描き方』を2017年に玄光社より上梓している。 影響. 前述の通り松本零士作品の抽象的な存在ではあったが、他にも『タイムボカンシリーズ』など、1970年代後半から1980年代前半頃までの、日本のSFアニメ、SF漫画には、同種の意匠が多用されていた。 しかし、所謂「リアルロボット系」と呼ばれる『機動戦士ガンダム』シリーズでは、デザイン上のリアリティの追求から実在のOA機器を意識した意匠を多用した為、あまり見られなくなった。その為、同作品がブームを起こした1980年代以降は、他の作品でも徐々に姿を消していった。さらに、1990年代に入ると、パーソナルコンピュータにおいて普及したMicrosoft Windowsを意識したGUIによる統合環境モニターをデザインする事が多くなり、自動車用や、旧来の鉄道車両用・航空機用の単品計器を意識したこの意匠はほとんど使われなくなっている。 外部リンク. ※ 以下はファンによる準・非公式サイト
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真鍋譲治
真鍋 譲治(まなべ じょうじ、1964年12月18日 - )は、日本の漫画家。香川県高松市出身。代表作に『銀河戦国群雄伝ライ』および『アウトランダーズ』がある。アニメーターの真鍋譲二とは別人。 同人サークル「スタジオかつ丼」を主宰し、同人活動では男性向けの二次創作作品や雑誌連載時に未完のまま終わってしまった漫画作品の続編を発行している。 略歴・人物. 大阪にあるデザイン専門学校に在学していた頃、白泉社に作品を持ち込んだことがきっかけで漫画雑誌『月刊コミコミ』での連載を始める。1984年、「空白海域V-2」(『コミコミ特別編集 コミック読本SF大特集』)でデビュー。初期はSF漫画を描いていたが、90年代に入ってからは掲載誌の休刊や打ち切りが続き、成年漫画と同人誌で活動することが多くなったほか、専門学校で漫画家プロ養成科担当特別講師も務めている。 同人活動に関しても未だに積極的で、自身の作品のセルフパロディないし本編では描けなかった内容の同人誌化をよく行うことでも知られている。商業誌時には一般作品だったものを、同人誌では18禁化して発行することもある(該当するキャラクターは作品本編内でも結婚ないし子供を作っている場合が多い)。 2011年3月11日には、東京都内のマンションの8階に構えていた仕事場で東北地方太平洋沖地震に被災した。本人の怪我は無かったが、フィギュアやプラモデルのコレクションの入ったガラスケースや本棚が転倒し、多大な破損を被った。これらの被害を合わせると、1000万円を超えるだろうと語っている。また、当日は遅れていた原稿を進めるために起きて作業していたが、普段のように寝ていたら倒れてきたもので怪我していただろうと語っている。2021年現在は竹書房月刊キスカ誌で「パトラと鉄十字」、マイクロマガジン社コミックライドアドバンスにてコミカライズ「脱法テイマーの成り上がり冒険譚」を連載中。
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真船一雄
真船 一雄(まふね かずお、1964年8月24日 - )は、日本の漫画家。神奈川県南足柄市出身。O型。代表作に『スーパードクターK』、『Doctor K』、『K2』などがある。妻は同じく漫画家の伊藤実。 来歴. 神奈川県立小田原高等学校の学生時代から漫画を描き始める。卒業後、漫画家のアシスタントをしながら漫画賞などに作品を投稿する。その中の1作が入選し、1984年に「あいつは絶好調」(『フレッシュマガジン』)でプロデビュー。
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望月峯太郎
望月 峯太郎(もちづき みねたろう、1964年1月29日 - )は、日本の漫画家。神奈川県横浜市出身。男性。『東京怪童』以降、ペンネームを望月 ミネタロウと表記。 略歴. 東京デザイナー学院卒業後、グラフィックデザインの仕事を始める。 1985年に『週刊ヤングマガジン』で、望月峯太郎としてデビュー。同年、『バタアシ金魚』を連載。 この時期はニューウェーブ作家として注目される。その作風は後の漫画家にも大きな影響を与えた。『バタアシ金魚』、『ドラゴンヘッド』、『鮫肌男と桃尻女』は映画化され、「お茶の間」はテレビドラマ化されている。
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地質学
地質学(ちしつがく、)とは、地面より下(生物起源の土壌を除く)の地層・岩石を研究する、地球科学の学問分野である。広義には地球化学を含める場合もある。 1603年、イタリア語でgeologiaという言葉がはじめてつかわれた。当時はまれにしか使用されていなかったが、1795年以降一般に受け入れられた。 分野. 地質学は一般地質学()と地史学()の2つに大別される。さらに以下の分野に細分される(これらの分野に含まれない、または複数の分野にまたがる境界領域もある)。 歴史. 地球や山の成因に関しては、古代より多くの人々が考察を重ねてきた。1669年にはデンマークのニコラウス・ステノ(ニールス・ステンセン)が『固体の中に自然に含まれている固体についての論文への序文』を著し、この中で地層が水によって堆積したこと、このため地層は成立時は水平であり、横方向に連続しており、さらに下から上に向かって堆積する、いわゆる地層累重の法則を提唱した。これによりステノは層序学の祖とされている。18世紀後半には岩石や山岳の成因について、山岳は堆積によるものとする水成論と、アントン・モーロらが提唱した、山岳は火山活動によるものとする火成論の2つの説が生まれた。18世紀末にはアブラハム・ゴットロープ・ウェルナーらが水成論を、ジェームズ・ハットンらが火成論を提唱した。ハットンは過去に作用した過程は現在観察されている過程と同じだろうという斉一説を唱えたものの、フランスではジョルジュ・キュヴィエによって、地層や化石の変遷を天変地異によるものとする天変地異説が唱えられ、一時有力な学説となった。また、地球の成立時期についてはそれまでヨーロッパにおいては聖書に拠るものが主流であったが、ジョルジュ=ルイ・ルクレール・ド・ビュフォンは1778年に『自然の諸時期 Les Epoques la Nature』を刊行し、この中で地球の年齢をおよそ75000年と推定した。1815年にはウィリアム・スミスがイギリス全土の地質図を完成させた。18世紀末から19世紀初頭にかけてはこうした優れた学者たちによって重要な発見が相次ぎ、近代地質学が確立された。1830年から1833年にかけてはチャールズ・ライエルが『』を発行し、このなかで斉一説が唱えられたことでこの説が主流となった。 地質学の基礎はこうして確立されたものの、造山運動の原因や古生物の分布などいくつかの部分で不可解な部分が残されていた。造山運動の説明としては地向斜説、生物分布としてはかつてその地域に陸地があって離れた2点間をつないでいたとする陸橋説が唱えられていたものの、いずれも不備が多いものだった。これを説明するため、ドイツのアルフレート・ヴェーゲナーが1912年に大陸が移動したという、いわゆる大陸移動説を発表したものの、大陸移動の原因が説明できなかったため彼の生存中は有力説とはならなかった。しかしその後、1944年にアーサー・ホームズが発表したマントル対流説によって大陸移動の原動力を地球内部の熱対流に求めることが可能となり、さらに1950年代に入ると古地磁気学の研究がによって磁北移動の軌跡が導き出され、それが大陸移動説と合致したため、大陸移動説は復活した。さらにその後、1962年にハリー・ハモンド・ヘスやロバート・ディーツが海洋底拡大説を唱えるなど理論が出そろい、これらの理論を統合する形で1968年にプレートテクトニクス理論が完成した。
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携帯電話
携帯電話(けいたいでんわ、、)とは、無線通信により、携帯することが可能となった電話機である。また、電話機を携帯する形の移動体通信システム、電気通信役務。端末を「携帯」(けいたい)あるいは「ケータイ」(この場合は、スマートフォンではなくフィーチャーフォンを指すことが多い)と略称することがある。 携帯電話は無線機の一種であるため、その設計は各国の電波法により規制されている。日本国内で一般に流通している携帯電話は、電波法令により規定されている技術基準に適合していることを示すマーク(技適マーク)が刻印されている。 本稿では説明しないが、鉄道設備や構内で使う(鉄道電話)携帯可能な端末を「携帯電話」と呼ぶ。技術的には固定電話と全く同じ構造であり、設備内のモジュラージャックやロゼットに接続して通話をする。 定義. 世界的に狭義の「携帯電話」の範疇に入るものとしては、などの第二世代携帯電話以降の規格を使っているデジタルMCA無線などの移動体通信携帯端末や、無線免許を要しないUnlicensed Personal Communications Services(UPCS)やPHS、DECTなどのいわゆる小電力無線局の携帯端末などがある。 歴史. 構想時代. 携帯電話の構想は、電話機が考案されてまもないころからあった。電波を使用して無線で通信でき、かつ人間同士が音声にて会話することが夢として描かれていた。モールス符号を用いる無線電信機は携帯電話の元になる技術だが、実用化されても爆発的に普及するようになるものだとはこの時点では考えられていなかった。 また、携帯できる電話を開発する具体的な研究は古くから行われてきたが、電波のノイズの問題やバッテリーの問題、また通信速度などの多くの問題により電話機が非常に大型になってしまうため、実現は難しかった。 トランシーバーから車載電話機. 携帯電話の前身は、第二次世界大戦中にアメリカ軍が使用した、モトローラ製のトランシーバー「Walkie Talkie」(SCR-536)である。 戦後1946年には、アメリカのベル・システム(AT&Tの子会社)は無線の電話回線サービスであるを開始した。これは、トランシーバーなどの無線電話が専用の無線回線を用いるのに対し、公衆の電話回線を用いることで、無線通信を一般向けのサービスにまで広げた。こうして、民間でも固定通信に加えて移動体通信サービスが利用可能となった。ただし、当時は人が日常的に携帯できるサイズの電話は技術的に実用化されておらず、車載電話機として設置できるものが小型化の限界であった。アメリカに続いて、ヨーロッパ各国でも同様のサービスが次々と始まった。この無線電話回線サービスは後に、より新しい携帯電話回線サービス(1G - 5G)と対比して、と呼ばれるようになった(レトロニム)。 接続が完全自動化された無線電話回線サービスは、スウェーデンのと呼ばれるもので、1956年にサービスが開始された。これらのサービスは実用性の面で一般に広く普及することは難しかったが、1971年にフィンランドで開始されたという0Gサービスは、移動体通信ネットワークをはりめぐらせ、電波のカバレッジに途切れなく国中で使用でき、ユーザーに広く利用された最初の成功例となった。 1960年 - 1970年代:端末小型化への努力. それ以前は車やバイク、その他の乗り物へ設置できるが、人が持ち運ぶには非実用的なサイズであった。1960年代になると、両手で持ちながら会話できる程度まで小さくすることが可能となったが、短時間の通話でも疲れてしまうほどに重かった。1970年代になると頑張れば片手で持てる程度の大きさまで小型化した。 1970年に大阪府で開催された日本万国博覧会では、ワイヤレスホンとして後年で言うところのコードレスフォンが出展された。これは数メートル程度しか電波が飛ばず、会場内で端末同士が通話できる機器であり、厳密には公衆の電話回線を利用する電話とは異なるものであった。 1973年4月3日、モトローラのエンジニアであるは実際の無線電話回線につなげて電話をかけることのできる世界で初めての手持ち可能な携帯電話を試作し、デモンストレーションを行った。このとき、彼は携帯電話開発のライバルであったベル・システム社のへと電話をかけた。この電話はコードレスで、重さ1.1キロ、大きさ23×13×4.5センチであり、一度の充電で30分間会話ができたが、再充電には10時間が必要であった。 1970年代後半 - 1980年代前半:実用化時代(車載電話). 1979年には、日本において第1世代移動通信システム(1G)を採用したサービスが世界で初めて実用化された。これは上述の0Gよりも、速度やカバレッジが改良された新しい技術であった。ただし、これは0Gと同じく車載電話機を使った自動車電話サービスで、人が携帯するための携帯電話はまだ実現されていなかった。1981年にはバーレーンとスカンディナヴィア地域でもサービスを開始した。 なお、アメリカ合衆国では1978年にAT&Tとモトローラに対して1G実用化実験の許可が出ていたが、すぐには実現に至らなかった。遅れをとった同国はモトローラによる当時のロナルド・レーガン大統領への直訴も功を奏し、1981年に実用化がなされた。 1980年前後から事業として成立するようになり、一部の先進国で車載電話機(自動車電話)として携帯電話機の販売やサービスが開始された。当時は固定電話機と比較すると導入価格や通信費用はともに数十倍であるうえ、通信エリアも都市部に限定されていたため、ごく一部の限られたユーザーが導入するのみであった。 1980年代半ばごろ:実用化時代(ポータブルタイプ). 車載型ではないポータブルタイプとして、1983年にモトローラより発売されたMotorola DynaTACが世界初の市販の手持ちできる携帯電話である。 日本では、1985年にNTTが「ショルダーホン」を発売している。肩にかけて持ち運ぶもので、重量は3キロだった。携帯電話と称したものは1987年にNTTから発売されており、体積は500cc、重量は900グラムだった。 1990年代:デジタル化・多機能化. 1990年代になると端末の普及が進み、本体に液晶ディスプレイが搭載され始めた。また、1991年にフィンランドを皮切りに、日本でも1990年代半ばより第2世代移動通信システム(2G)サービスが始まり、通信方式がアナログからデジタルへと移行した。通信規格として、ヨーロッパのGSMとアメリカのCDMAがあった。これによって、着信音に好みの音楽が設定できる着信メロディや、ポケットベルと連帯したメッセージサービスを利用できるようになった。 1999年にはiモードが日本でスタートし、インターネット網への接続が可能となり、通信速度が向上し、画像やJavaを使用したゲームなどの利用が可能となった。 2001年以降:3G時代(インターネットとの融合). 2000年代に入ると第3世代携帯電話(3G)が登場する。2001年に世界に先駆け日本で3G(W-CDMA)の商用サービスが始まった。テレビ電話が可能となったほか、パソコンと接続して高速なデータ通信が行えるようになった。また、ラストワンマイルの問題が解決しやすいことから発展途上国でも爆発的に普及し始め、英調査会社 “Informa Telecoms & Media” の2007年11月29日(英国時間)の発表によれば、世界全体での普及率が5割に達した。ことアフリカにおいては、固定インフラの整備が停滞している一方で携帯電話の普及率や潜在市場は膨大なものが予測されており、市場の急成長が注目を集めているが、その一方で電力インフラの整備が追いついていない地域では、携帯電話の利用に必須な電源として自動車のバッテリーからや人力発電による「充電屋」のような商売も勃興している。 携帯電話は、その発展の歴史において、初期には小型化・軽量化に主眼が置かれていた。しかし、この頃にはある程度手軽な形状が実現したため、東アジアなどの地域では多機能化が進められた。こうした地域では、カメラやインターネット閲覧、モバイル決済、防水、太陽充電、ラジオ・テレビチューナーといった付加機能が製品差別化の要素となった(詳細については日本における携帯電話#端末も参照)。 携帯電話業界の競争激化とともに、ユーザーへの大きな吸引力となる端末のデザイン・機能開発について各メーカーがしのぎを削った。しかし、手に持つ・テンキーで電話をかけるといった機能を維持する共通条件のもとで、その差別化は容易ではなく、タッチパネルやジャイロセンサーの採用など現代最先端の技術を用いていった。こうした多機能化の動きは、後にスマートフォンに継承され世界的に一般化した。 フィーチャーフォンはおおむね「ストレート式」「折りたたみ式」「スライド式」の3種の形状に大別できる。主流ではないが、「フリップ式」「2軸ヒンジ式」「回転式」なども存在した。 2007年以降:スマートフォン時代. 2007年からは携帯情報端末(PDA)がさらに進化し、パソコンとの差異が処理能力などの差だけとなった、スマートフォンが普及している。 1999年の頃から、一定の処理機能を備えたPDAに移動体端末の機能を複合させた延長的な製品は散発的に発売されいくつか存在していた。そして2007年に発売されたiPhoneをきっかけに、スマートフォンに注目が集まった(日本では2008年発売のiPhone 3Gが初)。 その後、IPhone・iOSのApple、GoogleおよびOpen Handset Allianceが開発したAndroid系スマホメーカー各社、マイクロソフトが開発するWindows Mobile・Windows Phoneスマホメーカー各社、独自OSを採用するNokia等の勢力が一時入り乱れる。当初のスマートフォンは、通信費用がより多くかかり、バッテリーの持ちが悪い傾向にあったが、改良が進み、2010年代初頭からAndroidが世界的シェアを一気に広げ、スマホが世界中で急速に普及した。 2010年代には、3Gの発展形でさらに高速となった第4世代携帯電話(4G)サービスが始まった。WiMAX方式はアメリカで、LTE方式はスカンジナビアで最初に利用可能となった。 2018年から2019年には、第5世代携帯電話(5G)サービスの運用が局所的に始まった。 携帯電話端末. 端末本体は、一般社会や日常生活では単に「携帯(けいたい)」と呼ばれることが多く、「携帯」の語は携帯電話の端末を総称するような言葉のように使われており、完全に定着している。一方で同様に携帯端末であるポケベルやPHS、PDAは「ケータイ」と区別されがちであった。 また通称として「ケータイ」「ケイタイ」と表記されることも多い。NTTドコモや「電電ファミリー」の制作した技術文書では移動機(いどうき)と書かれることもしばしばある。スマートフォン時代になるとスマホと呼ばれる機会も増えた。 構成部位. 初期からスマホまで共通する部品としては、アンテナ、スピーカー、マイクと、これらを制御する電子回路と、電源などがある。 2000年代以降の端末の多くではディスプレイを搭載しており、液晶や無機EL、有機EL、発光ダイオードなどさまざまな素材が利用されている。初期型の製品にはアンテナがほとんど露出していたが、2000年代中ごろに内蔵の機種が増え、現在のアンテナはほとんどが内蔵型である(ワンセグ対応機種はテレビアンテナがついているが、このアンテナのみ本体から出して使用する機種が多かった)。ガラケー時代は各社オリジナルの工夫をしたデザインが特徴で、独自機能の増加が相次いでパーツは増える傾向にあった。スマホ時代初期はiPhoneの影響を強く受けたものが多かったが、技術革新とともに再び様々なスタイルが登場している。 電源. 電源は初期には一次電池が使われていたが、二次電池の発達により1990年代にはニカド電池およびニッケル・水素蓄電池が、2000年代からはリチウムイオン電池が主流である。携帯電話端末本体が充電器の役割も兼ねており、二次電池の充電回路を搭載している。一般に携帯電話の「充電器」と呼ばれる機器は、正確には携帯電話に内蔵された充電器に電源を供給する外部電源としてのACアダプタである。そのため外部電源を接続することで本体から電池を取り出さなくとも充電が可能である。機種によっては専用の充電用簡易スタンドが付属する。 外部電源としてはACアダプタによる直流電源、USB給電、Qiなどが用いられる。直接電源では家庭用電源を電源とし、3.7 - 5V程度に電圧を落として供給される。 演算・記憶装置. 端末のデジタル化により、通信処理を司るベースバンドLSIを利用してコンピュータ化が進み、電話帳機能や発着信履歴の保存のためにフラッシュメモリによる不揮発記憶装置による補助記憶領域も備えるようになった。このことで着信音にバリエーションを持たせることが可能となった。 さらに携帯電話でモバイルブラウザを動かしたり、画像や音楽といったマルチメディアデータを扱うようになると、ベースバンドLSIとは独立したCPUが搭載されるようになった。補助記憶装置の必要性はさらに増し、内蔵の補助記憶装置のみでは容量不足となった。そのため2000年代に入ると外部にメモリーカードのスロットを設け、外部メモリへの記録も可能とした。初期ではSDカードやメモリースティックが用いられていたが、端末に占める容積が大きかったため、miniSDカードやmicroSDカード、メモリースティックDuoなどの携帯電話に特化したメモリーカードが開発された。 技術の進化で大容量通信が可能となると、クラウドストレージへの保管という手段も登場した。 機能. 通常の通話機能とSMS程度の単機能のみの古典的な機種から、パソコンに匹敵する高性能スマートフォンまで、さまざまな製品が存在する。回線契約と端末の分離により端末の価格が機能に比例することや、コンテンツサービスが必要でなければ高機能な端末が必要とされないことなどから、安価で基本的な機能の端末にも根強い人気がある。 日本では、高機能(高価)な機種でもインセンティブ(販売報奨金)により安価に流通させるビジネスモデルがとられたため、高機能ガラケー機種が広く普及した。また韓国の携帯電話も高機能機種が多いことで知られる。 カメラ付き携帯電話が登場し、カメラ機能を利用した画像解析機能によりQRコードやJANコードが読み取れるようになった。特にQRコードは大容量の文字データを格納することができるため普及した(参考:携帯機器)。 オペレーティングシステム. 専用OS. 2000年代によく使われていたオペレーティングシステム(OS)としては、Symbian OS(シンビアン)、REX OS/BREW/Brew MP (クアルコム) 、ITRON/T-Kernel(TRONプロジェクト)がある。その他には、OS-9、Nucleus RTOS、China MobileSoft、MIZI、SavaJeがある。LinuxカーネルをベースとしたOS(MontaVista Linux、T-Linux)もある。 各メーカーがOS-9やNucleus RTOS、iTRONなどのRTOSから、Symbian OSやLinuxなど携帯電話向け汎用OSの採用に動いているのは、3Gの到来とともに、その開発コストが高騰しているからである。端末の高機能化が進み、ソフトウェア規模が巨大化してきているため、限られたハードウェアで動作させる組み込み用途を想定したRTOSでは、開発環境、ミドルウェア調達など、コスト面で不利な点が多くなってきている。「RTOSは通信制御を受け持ち、ユーザインターフェースやアプリケーションの動作は汎用OSが担当する」というハイブリッドOS実装もあるが、2つのOSを協調動作させることには難しい点も多く、リアルタイム性能を高めた汎用OSへ集約される傾向にある。 OSと、その上層のミドルウェアを端末メーカ各社で共通化したプラットフォームとして、NTTドコモは、MOAPやオペレータパックを開発した。OS部分にはSymbian OSかLinuxを用いる。それまで、端末メーカ各社が自社で携帯電話用のインターフェース、ミドルウェアなどを開発してきたが、共通プラットフォームによって開発コストの抑制、開発速度の向上が図れる。 同様にKDDIはクアルコムのREX OS、およびBREW、Brew MPをそれぞれ母体に、KCP(2005夏モデル - 2015年春モデルまで)、KCP+(2007年冬モデル - 2011年夏モデルまで)、KCP3.x(2010年夏モデル - 2014年冬モデルまで)という共通プラットフォームを開発した。 スマートフォン用OS. スマートフォン用OSとして、iOS、Android、BlackBerry、Windows Mobileなどがある。 特にGoogleのAndroidとAppleのiOSで市場シェアの98%が占められている(2019年現在、IDC調べ)。 ソフトウェア. 携帯電話は限られたメモリ空間である一方で、多くの機能を搭載する高性能な電子デバイスであることから、専用のソフトウェアが搭載される。WindowsやmacOSのようなパソコン用OSのサブセットが搭載されている場合もあるが、パソコンのアプリケーションがそのまま動作することはなかったため、chromebookなどパソコンとの互換性を目指す動きもある。 メーカー. 2019年の世界スマートフォンおよび携帯電話の販売台数は16億8,721万5,000台であった。そのうち、スマートフォン販売台数は13億7,259万台となり、携帯電話販売台数の84%を占めた(米国調査会社ガートナー調べ)。 国際的に端末を供給しているのは以下の企業である。国名は本社所在地であり、2019年の端末販売台数順に並べてある(米国調査会社ガートナー調べ)。上位10社で約87%のシェアを持つ。 サービス. 基地局の整備により、広いサービスエリアにおいて屋外で高速移動中でも安定した通話・通信が利用可能である。第三世代携帯電話は、高速パケット通信と高い周波数利用効率が特長である。なお、高速な無線アクセスとしても利用可能であるが、利用形態によっては高額な課金となり、この現象が俗にパケ死と呼ばれる。また、電話機端末単体による通話・通信の総トラフィック(データ量)に占める割合が高い傾向にある。また、デジタルツールとしての多機能化も関係している。 通話. 携帯電話での音声伝送方式は、当初はアナログ方式を採用しており途中からデジタル方式へと切り替えられた。当初サービスが開始された時点でのアナログ方式での通信は、暗号化されずにそのまま送信されていたため、ノイズが乗りやすいだけでなく、傍受が容易に行えるという欠点があった。そのため、強固な暗号化が可能なデジタル化が行われた。 国によってはそのころ、固定電話網もアナログ方式からデジタル方式(ISDN)への切り替えが進んでいたが、固定電話網のデジタル方式はパルス符号変調(PCM)であるのに対し、携帯電話網の方はより圧縮度の高い音声コーデック(おもにAMR形式)を使用している。両電話網の相互接続通話の際には、アナログ方式同士ならば単純だが、デジタル方式では(アナログ・デジタル併存の時期を含め)コーデック変換が、網関門交換機において必要である。 また、音声コーデックの方式は携帯電話事業者やサービス種別によって異なるため、事業者相互・方式相互の音声コーデック変換も必要となる。このため、コーデックの組み合わせによっては変換ロスにより、音声の品質が劣化してしまう。基本的には、同一事業者・同一方式の携帯電話同士の通話では変換によるロスは起こらないため、本来の通話品質を発揮できる。 通信. 当初の携帯電話には通話機能しかなかったが、音声通話のデジタル化により端末全体がデジタル化し、これによりパケット通信によるデジタルネットワークへの接続が可能となった。デジタルネットワークの中でも、世界的に普及しているインターネットへの接続が早くから行われ、携帯電話でインターネット網にアクセスできるようになった。クライアント化である。 これにより携帯電話を対象にしたウェブページ(モバイルサイト)が携帯電話会社から公式サイトとして設立されたり、また個人でインターネット上に携帯電話を対象にした勝手サイトと呼ばれるサイトが開設されるようになる。さらに携帯電話の高速通信化により、通信機能を利用して携帯電話で金銭の管理を行うモバイルバンキングやオンライントレードも行えるようになっただけでなく、動画コンテンツの閲覧も可能となった。 従来、携帯電話ではそれのみを対象にして作られた簡素なHTMLによるウェブページしか表示できなかったが、2000年代半ばからパソコン互換ブラウザを搭載した端末も実現し、パソコン向けに作成されたコンテンツの閲覧が可能となった。 通信規格. 各地域での携帯電話の通信規格(方式)はおおむね以下のようになっている。 第一世代携帯電話(1G)はアナログ方式。モトローラのTACSやNTTのHiCAPなどがある。 第二世代携帯電話(以下2G)はGSM方式が世界的に主流となっている。日本と韓国および北朝鮮では、GSMは採用されていない。日本では PDC(Personal Digital Cellular)という独自の方式が主流だったため、独自の端末やサービスが普及する一方、海外端末メーカーの参入や国際ローミングサービスが進まず鎖国的状態にあった。韓国では、アメリカのクアルコム(Qualcomm)社のcdmaOne(IS-95)という方式を全面的に採用し、サムスン電子やLG電子などが国際的に飛躍する基となった。北米はEUとは異なり、政府は携帯電話事業者に技術の選択について強制せず、各社の選択に委ねた。結果として、GSMとcdmaOneがほぼ拮抗しているのが現状である。 第三世代携帯電話(以下3G)は、2Gが各国・各地域で独自の方式、異なる周波数を採用し、全世界での同一方式の利用ができなかった反省を踏まえ、第三世代携帯電話の規格、IMT-2000の決定においては、携帯電話を全世界で利用できるようにするための指標が立てられた。しかし、規格策定の過程で、W-CDMAとCDMA2000が並行採用という形となり、GSM陣営はW-CDMAへ、cdmaOne陣営はCDMA2000へ移行することとなった(南北アメリカ・アジア地域の一部)。中国政府は、自己技術育成の観点から独自のTD-SCDMAを導入しようとしている。また3G技術の特許代に関し、「クアルコム」のライセンス価格が高すぎるとして、Qualcommと電話機ベンダー(販売会社)、チップセットベンダー数社の間で、現在係争中である。 日本ではNTTドコモ、ソフトバンクモバイルがW-CDMAを採用し、国際ローミングや海外メーカー参入が促進されている。KDDI(au)は2GはcdmaOne方式のためCDMA2000方式を採用している。ただし、日本のcdmaOneおよびCDMA2000は、UHFテレビ放送波との干渉回避のため、上りと下りの周波数が他国と逆転している。このためグローバルパスポートCDMA端末以外では国際ローミングができない。 先進国やcdmaOne陣営のほとんどは3Gの導入が済んでいるが、GSM陣営では、ユーザーがより安価なGSM端末を好む傾向もあるため、コストがかかるW-CDMAへの移行は進んでいない。安価なGSM端末は、高価なW-CDMA端末より人気がある。スマートフォンなどの高価なGSM端末でも、電池の軽量化を図って消費電力の多いW-CDMAやCDMA2000などの3Gには対応しない端末もある。またGSMでもEDGEやEDGE Evolutionを用いて3G並みの高速なデータ通信ができる。 このため、GSMのサービスの停止時期を打ち出しているGSM事業者は2008年現在、存在しない。 発展途上国では、固定電話網の未整備を補完し、低価格でデータ通信網込みで広域エリア化するために、最初からCDMA2000技術を400MHz帯に使ったCDMA450による3Gネットワークの導入なども行われている。 2006年の世界携帯電話販売台数における比率は、GSMがおおよそ7割弱、CDMA(cdmaOne + CDMA2000)がおおよそ2割強、W-CDMAは1割弱である。 第3.9世代移動通信システムでは、日本は4社ともLTE方式を採用する。 料金形態. 料金は音声通話の場合は通話時間、データ通信の場合は通信時間またはデータ量で算出されるのは国際的に共通である。プリペイド(前払い)、ネットワークを自前で持たない仮想移動体通信事業者(MVNO)によるサービスもある。 プリペイドの場合、基本料金はないが、最後に入金してからの経過日数によって有効期限が定められているため、使用頻度が低くても定期的に入金する必要はある。EUは、全般にプリペイド比率が高い。 アメリカなどでは、音声通話は一定時間まで定額であるのが一般的である。また、夜9時以降および週末の通話は無料になる契約が多い。その反面、一般的に、電話をかけた側だけでなく、受けた側も通話料が発生する。 ビジネスモデル. 技術的には、SIMカードを交換することにより、通信事業者を変えることが可能である。このため、端末メーカーは最初に世界共通モデルを開発して、必要な場合にだけ、小規模の特定事業者向けのカスタマイズをするのが主流である。 海外ではひとつの機種でもメーカーの出す業界標準の機能のみを搭載している「スタンダードバージョン」とキャリア独自のサービスを付加したものの2種類販売されている。前者はSIMロックがかかっていないため通信方式が同じなら世界中どこでも利用できる。後者はインセンティブ制度のもと、SIMロックがついて販売されている。この辺の事情は日本と同じであるが、インセンティブの額は、日本は突出して大きい。 マーケット規模の巨大な携帯電話は、世界規模での大量販売による価格競争が行われ、膨大な出荷台数を獲得している。 その他の用途. 携帯電話の多機能性を活用して通信以外の用途へ使用する研究が進みつつある。満足な医療が受けられない地域では可搬式の診断装置としての応用が進められる。
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日食
日食(にっしょく、solar eclipse)とは太陽が月によって覆われ、太陽が欠けて見えたり、あるいは全く見えなくなったりする現象である。 日蝕と表記する場合がある。 朔すなわち新月の時に起こる。 種類. 月と太陽の視直径はほとんど同じであるが、月の地球周回軌道および地球の公転軌道は楕円であるため、地上から見た太陽と月の視直径は常に変化する。月の視直径が太陽より大きく、太陽の全体が隠される場合を皆既日食(または皆既食。total eclipse)という。逆の場合は月の外側に太陽がはみ出して細い光輪状に見え、これを金環日食(または金環食。annular eclipse)と言う。場合によっては月と太陽の視直径が食の経路の途中でまったく同じになるため、正午に中心食となる付近で皆既日食、経路の両端では金環日食になることがあり、これを金環皆既日食(または金環皆既食。hybrid eclipse)と呼ぶが、頻度は少ない。皆既日食と金環日食および金環皆既日食を中心食と称する。 中心食では本影と金環食影が地球上に落ちて西から東に移動しその範囲内で中心食が見られ、そこから外れた地域では半影に入り太陽が部分的に隠される部分日食(または部分食)が見られる。半影だけが地球にかかって、地上のどこからも中心食が見られないこともある。 また日の出の際に太陽が欠けた状態で上る場合を特に日出帯食、逆に欠けた状態で日の入りを迎える場合を日入帯食(日没帯食)と呼ぶ。この場合、いずれも食の最大を迎える前と食の最大を過ぎた後に分類される。 原因. 直接の原因は、地球の周囲を公転する月が地球と太陽の間に来て、月の影が地球上に落ちる事による。月の影に入った地域では、太陽が欠け、あるいは全く見えなくなる。 地上から見た太陽は、毎日昇っては沈む「日周運動」とは別に、黄道と呼ばれる仮想の軌道を1年で1周している。太陽は明るいので目で見たのではわからないが、星座の間でゆっくり位置を変え、365.2422日で元の点に戻る。すなわち1日に角度で約1度動く事になる。同じく月は、白道と呼ばれる仮想の軌道を27.3217日で1周する。地上から見ると、月の方がおよそ13倍も速く天球上を動く事になる。ただし、月が太陽を追い越す時が朔すなわち新月であり、地球を挟んで月が太陽と180度の位置に来た時が望すなわち満月であるが、朔から次の朔までの時間、つまり満ち欠けの周期は29.5306日である。月の公転周期27.3217日は朔望月の周期29.5306日と一致しないが、これは公転周期が宇宙空間(恒星)を基準に置いているためである。一方、地球は太陽の周囲を円に近い軌道を描いて公転しているため、月が朔の日から1周公転しても地上から見る太陽が黄道上を先行してしまっており、月が太陽に追いついて次の朔になるには2.2089日余分にかかる事になる。もし黄道と白道とが一致していれば、29.5306日ごとに起こる朔においては必ず月が太陽を覆い隠す、つまり月の影が地球上に達して日食が起こり、望には必ず月は地球の影に入って月食が起こるはずである。しかし実際には黄道と白道とは約5.1度の傾きでずれているため、朔の時(日月の合と言う)でも月が太陽の上や下を通過する場合や、望(日月の衝と呼ぶ)に際しても地球の影の外を通る場合が多い。日食が起こるのは、月が黄道・白道の交わる点つまり交点(月の昇交点・降交点)付近で朔となる時に限られ、月食も交点付近で望になる時に限られる。太陽を基準にすれば、太陽が交点付近にいる時に月が来て朔になれば日食が起こる事になる。 太陽が交点付近にある期間を食の季節と言い、日食はこの期間以外には発生しない。交点は2ヶ所ある、つまり昇交点と降交点が相対しているので、太陽が黄道を1周する間に日食が起こる機会が2度ある。ただし、交点は太陽による月への摂動のため、1年に19度ずつ後退しており、太陽が交点を出て再び戻って来る周期は346.6201日となる。これを「食年」と称するが、実際の日食や月食は約346日から347日周期(交点は2ヶ所あるので、起こるとすれば半分の約173日周期になる)では起こっていない。日食は朔の時にしか起こらないから、食年に最も近い日数となる12朔望月すなわちおよそ354日周期(交点は2ヶ所あるので、半分の6朔望月、およそ177日周期になる)で見られる。表は、21世紀初頭の日食の一覧であるが、桃色・水色で区分したそれぞれの日食は、ほぼ354日周期で発生している事がわかる。 ※表のデータは、主として『理科年表 平成26年』(丸善 2013年)によった。 食年(346.6201日)と12朔望月(354.3672日)には7〜8日もの差があるが、それでうまく日月が重なり、日食が起こるであろうか。太陽と月は共に30分前後の視直径であるから、ちょうど交点でなくとも、その前後の場所で出会えば食が起こり得る。その範囲は、条件により多少異なるが、交点の前後15度から18度程度である。仮に交点から15度もしくは18度近く離れた所で月と太陽が最接近(日月の合)すれば、月は太陽の一部を隠して北極もしくは南極付近で食が見られる。その約354日後には日月は更に交点の近くで合となり(最接近し)、低緯度で中心食となる。しかしその後は月と太陽は離れる一方となり、4回程度で食は起こらなくなる。上の表で、例えば桃色の場合は南極での中心食で始まり、急速に北上して北半球で周期を終えており、水色で示した食は、北極に近い高緯度での中心食に始まり、南下して南極での部分食として終わっているのがわかる。すなわち、太陽が交点から反対側の交点に行くには173.3101日弱かかり、元の交点に戻るのには346.6201日を要する一方、6朔望月は177.1836日、12朔望月は354.3672日である。従って、月と太陽の位置のずれは回数を重ねるごとに大きくなる。それは、ある時点で日食が起きた場合、いつまでもその状況は続かず、4回ほどで途切れてしまう事を意味する。回を重ねるたびに日月の距離が大きくなり、ついには食を起こさなくなるのである。むろん、新たな周期が始まっては繰り返され、よって日食が途絶える事はないのは、表を見ても明らかである。 通常は交点での日月の合は1回であるが、太陽の移動速度は1日に1度というゆっくりしたものであるため、交点から離れた手前で合となって食を起こした場合、29.536日後に再び月が巡って来た時にもまだ食の起こる範囲内にいる場合がある。従ってこのような場合には1ヶ月足らずの間隔で日食が見られる。ただし、日月の位置の隔たりが大きいので、起きる食は高緯度での部分食がほとんどで、表の2011年がそれに当たる。まれに中心食になっても極地で辛うじて見られる程度である。 さて、黄道と白道は天球を取り巻く円(正確には楕円)で表わされる。これらが傾きを持って交差しているから、交点は円の中心をはさんで2ヶ所ある事はすでに何度も述べたとおりで、従って食の季節は通常は年2回であり、日食は1年に最低2回は必ず起こる。しかし、食の季節が3回になる年もある。これは、既に述べた如く、交点が太陽の動く方向と逆向きに動いている(前進している)ためである。もし交点が固定されていれば太陽は平均およそ365日周期で元の交点に戻り、これが食年となるが、実際には346.6201日でしかない。食年は1年より19日ほど短いので、年の初めに食の季節があれば、年末に3度目の食の季節が巡って来る事になる。一方、前述の通り1朔望月は29.5306日であるから、これを12倍すると約354日になり、やはり1年よりおよそ11日短い。従ってある年の1月初めに日食があれば、その年半ばと12月末の3回日食が発生する機会が訪れる。前述のように、食の季節には日食が少なくとも1回、多い時には2回起こる。よって日食は年によっては3回ないし4回、まれには5回起こる(1935年)。 ただし、日食が連続して起こるにはどうしても1朔望月つまり約29.5306日を隔てなければならないから、仮に3回の食の季節に全て2回ずつ日食が起きたとしても、その期間は365日を越えるため、最も多い年でも日食の回数は5回が限度である。また、食の季節であっても月食は起きないこともある。月食が全くない年が数年に1度あり、発生頻度で見れば日食は月食より多い。詳しくは月食を参照。しかし日食は月の影に入った地域でしか観測できないため、地球全体で見れば日食は頻繁に起きていてもある地域に限定すると日食が観測される事は少ないが、月食は起きている時に月が見えている所では必ず観測できるので、一般には月食の方が見られる頻度が多い。 上記の例から、日食に周期性があり、予報できる可能性がある事がわかる。 日食の予報. 前の章で記述した354日周期又は177日周期は、地球全体から見れば最も短く扱いやすい予報法であるが、古代人の予報手段には使えない。食が起こる地域が大きく変動する一方、古代の人々は自分たちの居住地から大きく移動する事はなかったし、遠く離れた地域からの情報を入手するのも不可能であったから、地球全体での食の発生を知る事はできず、日食を見る機会はもっぱら自分たちの住む地域とその周辺に限られる。そうした制限下では、日食はあたかも不規則に起こるように見えるため、現在のような天文学知識の無い古代の人々は、突然太陽が欠け、時には見えなくなる日食の発生を非常に恐れたが、やがてその発生に強い規則性があることが知られ、原因はわからないながらも予報できるようになった。 実際には、日食・月食は天球上の月と太陽の規則的な運行周期の一致により発生するもので、いわば日月の運行周期の公倍数として考え得る。その視点に立てば、地球上の1地点でも食はかなり規則的に起きるので、ある程度の期間にわたって食発生の統計が得られれば予報が可能となる。ただし、そうした周期は非常に長いので、人間の一生程度の時間では把握できない。食の予報は、人類が文字を発明して数百年もの長期にわたってデータを蓄積できるようになって初めて実現した。 予報の歴史. 日食や月食の予報は、まだ地動説はおろか地球が丸い事さえ知られていなかった時代に既に行われていた。長期にわたる記録を整理して、食の発生に周期性があるのを発見したためである。 古代において、日食は重大な関心を持たれていた。中国の日食予報として著名な逸話に、紀元前2000年頃の夏の時代に、羲氏と和氏という2名の司天官が酒に酔って日食の予報を怠ったため処刑された、と『書経』に記されている、いわゆる「」がある。 事実であれば当時既に日食の予報が行われていた事になって、世界最古の日食予報になる。唐代以降、東西の多くの天文学者がこの日食の比定を試みたが、この記事に完全に符合するものは見つかっていない。 中国においては1994年に存在が確認された「上博楚簡」と呼ばれる竹簡の中に『競建内之』と称される物があり、斉の桓公が皆既日食を恐れて鮑叔の諫言を聞いたという故事が載せられている。『史記』においては専横を敷いていた前漢の最高権力者呂后が日食を目の当たりにし「悪行を行ったせいだ」と恐れ、『晋書』天文志では太陽を君主の象徴として日食時に国家行事が行われれば君主の尊厳が傷つけられて、やがては臣下によって国が滅ぼされる前兆となると解説しており予め日食を予測してこれに備える必要性が説かれている。中国の日食予報は戦国時代から行われていたが、三国時代に編纂された景初暦において高度な予報が可能となった。 このため、日本の朝廷でも持統天皇の時代以後に暦博士が日食の予定日を計算し天文博士がこれを観測して密奏を行う規則が成立した。養老律令の儀制令・延喜式陰陽寮式には暦博士が毎年1月1日に陰陽寮に今年の日食の予想日を報告し、陰陽寮は予想日の8日前までに中務省に報告して当日は国家行事や一般政務を中止したとされている。六国史には多くの日食記事が掲載されているが、実際には起こらなかった日食も多い。ただしこれは日食が国政に重大な影響を与えるとする当時の為政者の考えから予め多めに予想したものがそのまま記事化されたためと考えられ、実際に日本の畿内(現在の近畿地方)で観測可能な日食(食分0.1以上)については比較的正確な暦が使われていた奈良時代・平安時代前期の日食予報とほぼ正確に合致している。 1183年の治承・寿永の乱の水島の戦いでは戦闘中に金環日食が発生し、源氏の兵が混乱して平氏が勝ったと源平盛衰記などの史料に記されている。当時、平氏は公家として暦を作成する仕事を行なっていたことから平氏は日食が起こることを予測しており、それを戦闘に利用したとの説がある。 江戸時代の1839年(天保10年)には、金環食が発生した。幕府の役人は従来の中国式の予測時刻と伝来したばかりの西洋式の金環食の予測時刻、2種類の計算を行い、築地の海岸で観測を行った。西洋の方法での予測が的中し見える位置、時刻ともに正確であった。以降、西洋の天文学が日本で急速に広まっていった。 西洋においては、トルコから西アジアにかけて領土があったメディア王国とリディア王国が長期にわたり戦争を続けていた紀元前6世紀始め頃、ギリシャの哲学者タレスが予言していた日食が実際に起き、両国は和を結んだという話が、ギリシャの歴史学者ヘロドトスの『歴史(ヒストリア)』に書かれている(日食の戦い)。これも多くの天文学者の興味をそそり、その日食を特定する試みが為され、紀元前585年5月28日の皆既日食と推定された。この日食は南アメリカ北端から北大西洋を通り、ヨーロッパを経てトルコ北部からカスピ海の南に達したものであるが、異説もある。タレスは、古代バビロニアで考案された予報術を用いたとヘロドトスは記し、これは次に述べるサロスであるとの説もあるが、サロスは当時のギリシャでは知られていなかったというのが天文学史の主導的見解であり、タレスは、それまでに伝えられていた大雑把な法則に基づいて日食発生の年を予言したが、月日までは言及できなかったと考えられる(タレスの日食)。 最も古くから知られていたのは前述の「サロス」と呼ばれるもので、紀元前6世紀頃にバビロニアで発見されていたとされ、またギリシャでは紀元前443年に数学者のメトンにより「メトン周期」が発見された。 サロス. 既に記したとおり、1朔望月は29.5306日であり、223朔望月は6585.3212日となる。月が交点を出て再び戻って来る(交点から始まる軌道を一周する)交点月は27.2122日であり、242交点月は6585.3575日で、前者にきわめて近い。また月が地球をめぐる公転軌道のうちで近地点に来た時を近点月と言うが、239近点月は6585.5375日で、やはり非常に近い。さらに1食年346.6201日を19倍する、すなわち19食年は6585.782日で、これも大差がない。そのため、223朔望月に当る18年と11日(閏年の配置によっては10日)と8時間ほどの周期でよく似た状況の日食(継続時間、食の種類等)が繰り返される。これがサロスと呼ばれる周期である。 ただ、余分の8時間が曲者で、次回の日食は経度でおよそ120度西にずれた所で起こる。その次はおよそ240度西方に動き、3回目で元の位置に戻る。そのため、実用上は3サロス、すなわち54年と約1ヶ月を用いるのがよい。下の表にサロスの実例を示す。3サロス毎にほぼ同じところで日食が起こっている事や、サロスは近点月や食年の倍数とよく一致しているので、毎回起こる食の状況も似ていることがわかる。 表を見ると、食により3サロスの間に経路が少し北上又は南下した事が分かる。サロスは不変ではなく、1000年程度の期間で、極地方の部分食から始まって少しずつ北上(あるいは南下)して赤道を越え、最後は反対側の極地方の部分食となって終わるという経過をたどる。また、サロス周期は約18年であるが、日食は毎年起こる。これは、複数のサロスが存在するためで、実際に18年間に40個ほどのサロスが食を繰り返しており、オランダの天文学者ゲオルグ・ファン・デン・ベルグがサロスに付けた通し番号が一般に使用されている。 メトン(章法). 1年は365.2422日であり、19年は6939.6018日となる。一方、235朔望月は6939.6675日で、非常に近い。さらに20食年(346.6201日×20=6932.402日)とも近似する。したがって、ある日食からちょうど19年後には再び日食が起こる。これをメトン周期と呼び、中国では「章」又は「章法」と言った。 ただし、19年及び235朔望月に対し20食年との差が7日余り出るのが問題で、回を重ねるごとにこれが大きくなるので、予報としては5 - 6回くらいで使えなくなる。下の表にメトンの例を示す。 他にも日食の周期性を用いた予報の種類は多い。 日食の経過. 月と太陽の位置関係に基づく日食の経過. 食の経過及び状況を示すために「食分」という数値が用いられる。 日食の継続時間. 皆既食や金環食などの中心食は、多くの場合数分、時には数秒以下しか見られない。皆既食の場合、月が地球に近い所(近地点)にあって地球から見た際の視直径が大きく、地球が太陽から遠い所(遠日点)にあって地球から見た太陽の視直径が小さい時には、月が太陽を隠す時間が長くなり、継続時間も長くなる。また、月の影は地球上を西から東へ秒速1km(時速3600km余り)ほどで進んで行くが、赤道に近い低緯度地方で正午頃に見られるなら、地球の自転により月の影の移動速度が相対的に遅くなり、やはり継続時間が延びる。さらに、白道は黄道から5.1度ずれているので、地球に落ちる月の影も地表面を斜走するため、地球の自転方向が食の中心線と平行になる地域から見れば継続時間が伸びる。 そうした好条件が重なれば、皆既日食の継続時間は、稀ではあるが7分を越える。紀元前4000年から紀元6000年までの間では、紀元(西暦)2186年7月16日に起きる皆既日食が最も長く、7分29秒に及ぶ。この日食はサロス番号139番に属しており、このサロスは皆既継続時間が非常に長く、前後併せて5回も7分以上の皆既が起こる。21世紀中は7分を越える皆既日食はない。 金環食では、皆既食と逆の条件があれば長くなる。太陽と月の平均視直径を比較すると、太陽が32分、月が31分で、前者がわずかに大きく見える。仮に月と地球の公転軌道が完全な円であったなら金環食しか見られなくなる。軌道が楕円であるため視直径が変動し、皆既日食も金環日食も見られるのであるが、このような条件もあって、金環食の方が継続時間の長いものが多い。皆既食は最長でも7分30秒程度であるのに対し、金環食は稀に12分以上継続する事がある。 観測. 皆既日食の際、普段は光球の輝きに妨げられて見ることができないコロナや紅炎の観測が可能になり太陽の構造・物理的性質を調べる絶好の機会となり、太陽のみならず恒星一般の研究にも大きな役割を果たす。 第2接触直前または第3接触直前には、月の表面にある起伏の谷間から太陽の光が点々と連なって見える状態になることがある。これを、原理を解明したフランシス・ベイリーの名を取ってベイリー・ビーズ(ベイリーの数珠)といい、古くから月に起伏がある証拠とされてきた。 また皆既食にて太陽がすべて隠れる直前と皆既が終わった直後、又は北限界線や南限界線から食を見る場合には、太陽の光が一ヵ所だけ漏れ出て輝く瞬間があり、黒い太陽(実際は月)の周囲に細く内部コロナが輪状に見えるのと併せて宝石の着いた指輪に似た形状となる。これをダイヤモンドリングと言い、皆既日食の見所の一つである。これも、月面にある起伏による現象である。 皆既日食が起こると空がかなり暗くなり星の観測も可能な状態になる。そのわずかな時間を利用して1919年、一般相対性理論の検証がアーサー・エディントンによって行なわれた。皆既日食中に太陽周辺の星を観測すると、星からの光は太陽の重力場を通るため屈曲することになり、位置がわずかにずれる。一般相対性理論で予想される数値と実際に観測された数値とを比較することで、一般相対性理論の確かさが確認された。 観測方法と注意点. 太陽光は光量が大きく有害な紫外線なども含まれるため、部分食や金環食のように太陽の光球が完全に隠されない日食を肉眼で直接観測すると日食網膜症を引き起こし、網膜のやけどや後遺症、ひどい場合には失明を引き起こすことがあるため一定の性能を満たした観測機器が必要となる。 日食観測の歴史. 人類にとって太陽はすべての生命の根源であり、世界全体を照らす最も重要な天体である事は古くから周知されており、世界各地の神話や宗教などで最高神として崇められてきた。その太陽が陰り、時には完全に隠れ、明るかった空が暗くなるということは、科学的な説明が浸透する以前の人々にとっては重大な出来事として認識された。そのため、彗星と共に天変地異を予告する凶兆として恐れられた。 近代天文学が確立する以前、多くの文明で日食や月食を説明する神話が長い間語り継がれてきた。これらの神話の多くでは、日月食は複数の神秘的な力の間の対立や争いによって起こるとされた。例えばヒンドゥー教の神話では、食が起こる月の昇交点がラーフ、降交点がケートゥという2人の魔神として擬人化され、この二神の働きによって食が起こると考えられた。この二神が象徴する二交点は後に古代中国で「羅睺星」「計斗星」の名で七曜に付け加えられ、九曜の一員を成している。 また北京天文台には日食神話を描いた石の彫刻があり、以下のような説明が添えられている。 ここで金烏とは金色(太陽)の中にいるという三本足の烏(八咫烏を参照のこと)であり、ヒキガエルは月のクレーターの形に由来するものである。この解説文からは、当時の文化において天文現象としての事実の認識と現象に対する愉快な見立てとが両立していたことが窺える。 ヴァイキングたちの伝承を記した『スノッリのエッダ』ではスコルと呼ばれる狼が太陽を常に追いかけており、狼が太陽に追いつくと日食になるという記述がある。そして、世界の終わりの日に狼はついに太陽を完全に飲み込んでしまうという。 日本においては、計算上は邪馬台国の時代、卑弥呼が死んだとされる247年と248年に日本列島で日食が起きた可能性が推測されている。国立天文台では「特定された日食は『日本書紀』推古天皇36年3月2日(628年4月10日)が最古であり、それより以前は途中の文献がないため地球の自転速度低下により特定できない」としている。
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プログラム
プログラム(、(公示する)から)
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コンパイラ
コンパイラ()は、高水準言語で書かれたコンピュータプログラムを、 コンピュータが実行や解釈できる形式に、一括して(※)変換するソフトウェア。 概説. コンパイラの技術書のバイブルとされるAlfred V.Aho(アルフレッド・エイホ)著 "Compilers, Principles, Techniques, and Tools"(通称「ドラゴンブック」)の第1章1節の冒頭に、コンパイラとはそもそも何かということについて説明が掲載されており、そこには「簡潔に言うと、コンパイラとは、ある言語(プログラミング言語)で書かれたプログラム(ソースプログラム)を読み、それを別の言語で書かれた等価のプログラム(ターゲットプログラム)へと翻訳(translate)するプログラムである。」と書かれており、さらに続けて「コンパイラは、ソースプログラムに含まれるエラーをユーザに報告するという重要なことを翻訳の1プロセスとして行う。」という説明も加えている。 英語の動詞で、あるプログラム言語で書かれたコードを別の言語で書かれたコードに変換することを""(コンパイル)といい、コンパイラとはその変換を一括して(※ )行なうコンピュータプログラムのことである。インタプリタとよく対比される。 (なお、上では「ソースプログラム」「ターゲットプログラム」という古典的用語を含む説明文を紹介したが、最近の技術用語では、変換される前のプログラムを「ソースコード」と呼び、変換後の機械語あるいは中間言語のプログラムなどを「オブジェクトコード」と呼ぶ傾向がある。また機械語は二進数で書かれているので近年では「バイナリコード」ということもある。) よくあるのは、高水準言語で書かれたプログラムを、コンピュータのプロセッサが直接実行できる機械語あるいはアセンブリ言語のような低水準言語あるいは元のプログラムよりも"低いレベル"のコード(例えばバイトコードなどの仮想機械向け中間言語あるいは中間表現)に変換するものである。 コンパイラを俯瞰してみると、この世には圧倒されるほど多種類のコンパイラがある。というのは、ソースコード(ソースプログラム)の記述に使われるプログラミング言語だけに着目しても、FORTRANなど歴史の古い言語から始まり近年勃興してきている言語まで含めると数千にもおよぶプログラミング言語があり、他方、オブジェクトコード(ターゲットプログラム)の記述に使われる言語のほうに着目しても、種類がやはり非常に多く、ソースコードの言語とは別の言語であるかも知れないし、(あるいは中間言語であるかも知れないし)、あるいは機械語であるかも知れないからであり、その機械語もマイクロプロセッサを用いたコンピュータのものからスーパーコンピュータのものまであり多種多様だからである。 またコンパイラの種類には、シングルパス(ワンパスとも。1回で変換作業を完了できるもの)、マルチパス(。複数回の作業が必要だが、主記憶が少なくても動くもの)、ロード・アンド・ゴー(変換してすぐに実行を開始するもの)、デバッグ用、最適化用などの種類もある。 →#分類の節で説明 またコンパイルを使ったコンパイル作業は、ひとつのプログラムとして動作する全てのコードをいっぺんにコンパイルするのではなく、モジュール毎などに分けてコンパイルし(「分割コンパイル」)、ライブラリなどはあらかじめコンパイルされているものと合わせて、実行するようにすることも多い。この場合、コンパイラはリロケータブルバイナリを出力し、実行可能ファイルの生成にはリンケージエディタが必要であり、さらに動的リンクで実行する場合はダイナミックリンカ/ローダ(ローダの一種)も必要である。 なお、「コンパイラ(言語) / インタプリタ(言語)」という2分法的な分類は、Java登場以前では一般的で適切だったが、近年では適切でないことも増えている。開発環境などでは、コンパイルした後に実行するというような手続きを1コマンドで行えるものも増えている。そして、Java以降はインタプリタでも実行時コンパイラなどの技術の利用がさかんになってきており、古典的な意味での「コンパイラ」と「インタプリタ」の中間的な性質のツール(プログラム)も増えてきているからである。 なお英語の「compile」はもともと「編集する」「編纂する」という意味の英語であり、「compiler」というのは「編集者」という意味の英語である。 歴史. 1940年代まで、コンピュータのプログラミングは機械語で直接行なわれていた。プログラムを指して「コード」(英語では暗号を意味する)と呼ぶのは、知らない人間には機械語は全く意味のわからない数値の羅列だからである。しかし、(人間にとって比較的理解のしやすい)十進法の数字で書かれたアドレスを内部表現の二進法に変換する、といったプログラムならばEDSAC(1940年代末に登場した、イギリスのマシン)において既に存在していた。(つまり、この段階で、アセンブラのごく一部の機能に限れば、実現していたことになる) 機械語でのプログラミングは言うに及ばず、アセンブリ言語を用いても、プログラミングというのは面倒な作業である。そういった低水準言語から、人間がより扱いやすい高水準言語が徐々に求められるようになった。また、機械の詳細が抽象化されることにより、高水準なプログラミング言語で書かれた同一のソースコードを元に、詳細仕様が異なる機械でも動くプログラムを生成できる、という利点もあった。1950年代末までに、プログラミング言語がいくつか提案され、実験的なコンパイラがいくつか開発された。 世界初のコンパイラについては、1952年にグレース・ホッパーが書いたA-0 Systemだとされることもある。だが一般的には1957年にIBMのジョン・バッカスのチームが開発したFORTRANコンパイラが世界初の完全なコンパイラであるとされている。一般的なコンパイラの開発では、まず動くものを作ってから最適化の機能が付け加えられるが、最初のFORTRANコンパイラでは、コンパイラが実用になることを示すために、最初から最適化に労力が向けられた。 1960年の、ホッパーらによるCOBOLは複数のアーキテクチャ上でコンパイル可能となった言語の最初期の1つである。 様々なアプリケーション領域で、高水準言語というアイデアは素早く浸透していった。機能が拡張されたプログラミング言語が次々と提案され、コンピュータのアーキテクチャそのものも複雑化していったため、コンパイラはどんどん複雑化していった。 初期のコンパイラはアセンブリ言語で書かれていた。世界初の「セルフホスティングコンパイラ」は、1962年にマサチューセッツ工科大学の Hart と Levin が開発したLISPである。1970年代には、特にPascalやC言語などにおいて、コンパイル対象言語でコンパイラを書くことが一般化した。さらにより高水準の言語のコンパイラは、PascalやC言語で実装することも多い。セルフホスティング・コンパイラの構築には、ブートストラップ問題がつきまとう。すなわち、コンパイル対象言語で書かれたコンパイラを最初にコンパイルするには、別の言語で書かれたコンパイラが必要になる。Hart と Levin の LISPコンパイラではコンパイラをインタプリタ上で動作させてコンパイルを行なった。 分類. 機械語にコンパイルするコンパイラもあれば、そうでないコンパイラ(後述)もある。機械語コードのことを、ハードウェアであるプロセッサの生のコード、というような意味でネイティブコードなどと言うことがあり、機械語にコンパイルするコンパイラのことをネイティブコンパイラと言うことがある。 コンパイラに限らず、入力と出力を持つあらゆる変換系は、入力の種類がm種類、出力の種類がn種類あるとすると、m×n種類があることになる。コンパイラの場合、プログラミング言語がm種類、コード生成の対象となる命令セットアーキテクチャがn種類、といったような感じになるわけであり、入力側をフロントエンド、出力側をバックエンドと言うが、中間表現の設計いかんでは、残りの中間処理の部分、特に重要な部分であるコンパイラ最適化を共有できるため、1980年代以降に基本設計が為されたGCCやCOINSやLLVMなどでは、そのようにして多言語・多ターゲットに対応している。 汎用OSなど、開発環境と同じ環境で目的プログラムも動作させるような開発を「セルフ開発」と言い、セルフ開発のコンパイラを「セルフコンパイラ」という。それに対し、開発環境とは別の環境で実行するような開発を「クロス開発」といい、そのためのコンパイラをクロスコンパイラという。OSカーネル自身のコンパイルなどは、カーネル自身の実行環境は、そのOSではなくベアメタルであるという意味ではある種のクロスコンパイルのようなものであるし、新しいコンピュータシステムのための環境を最初に作るにはクロス開発の必要がある。あるいは、組み込みシステムやPDAなど、それ自体が開発環境を動作させるだけの機能や性能を持たない場合、といったものもある。 いわゆるネイティブコードではなく中間コードを生成し、さらに別のコンパイラに処理を任せたり、別のインタプリタによって実行したりするものもある。これを中間コードコンパイラ、バイトコードコンパイラなどと呼ぶ。またそのバイトコードを解釈実行する処理系をバイトコードインタプリタなどと呼ぶ。 ワンパスとマルチパス. コンパイラは様々な処理の集合体であり、初期のコンピュータではメモリ容量が不十分であったため、一度に全ての処理を行うことができなかった。このためコンパイラを複数に分割し、ソースコードや何らかの中間的な表現に何度も処理を施すことで解析や変換を行っていた。 一回でコンパイルが可能なものをワンパスコンパイラと呼び、一般にマルチパスコンパイラよりも高速で扱いやすい。Pascalなど、多くの言語はワンパスでコンパイルできるよう意図して設計されている。 言語の設計によっては、コンパイラがソースコードを複数回読み込む必要がある。たとえば、20行目に出現する宣言文が10行目の文の変換に影響を与える場合がある。この場合、一回目のパス(読み込み)で影響を受ける文の後にある宣言に関する情報を集め、二回目のパスで実際の変換を行う。 ワンパスの欠点は、高品質のコードに欠かせない最適化を行いにくいという点が挙げられる。最適化コンパイラが何回読み込みを行うかというのは決まっていないが、最適化の各フェーズで同じ式や文を何度も解析することもあるし、一回しか解析しない箇所もある。 コンパイラを小さなプログラムに分割する手法は、研究レベルでよく行われる。プログラムの正当性の判定は、対象プログラムが小さいほど簡単なためである。 ネイティブコンパイラの他にも以下のような、「ネイティブの機械語」以外をターゲットとするコンパイラ(ないしトランスレータ)がある。 コンパイラ言語. もっぱらその言語の処理系がコンパイラとして実装される言語を「コンパイラ言語」などと言い、インタプリタとして実装される言語を「インタプリタ言語」などと言うこともあるが、実験的な実装まで含めればどちらもある言語も多い。Microsoft Visual Studioに付属するF#/C# Interactiveのように、対話環境で入力したプログラムを、コンパイラで共通中間言語(中間表現)にコンパイルし、さらに共通言語ランタイム(仮想機械)上でネイティブコードにJITコンパイルしてインタプリタ的に実行する、というような処理系もある。JavaやMicrosoft Visual Basicのように、登場当初はインタプリタ方式だったが、のちにネイティブコードへのJITコンパイルやAOTコンパイルをサポートするようになった言語もある。 Common Lispなど言語によっては、実装にコンパイル機能を含むことを義務とする仕様もある(ただし、Common Lisp仕様は解釈実行の処理系を禁止しているのではない)。また、インタプリタの実装が容易でコンパイラの実装が困難な言語もある(APL、SNOBOL4など)。メタプログラミングの利用、特に文字列をevalすることは、インタプリタ方式では造作ないことだが、コンパイラ方式では実行環境にコンパイラ自体が必要となる(動的プログラミング言語も参照)。 ハードウェア・コンパイラ. ハードウェア記述言語の処理系(合成系)を、ハードウェアコンパイラとかシリコンコンパイラなどと呼ぶことがある。 コンパイルのタイミング. コンパイルをアプリケーションの実行時に行うか、実行前に行うかで2つに分かれる。 教育用コンパイラ. コンパイラ構築とコンパイラ最適化は、大学での計算機科学や情報工学のカリキュラムの一部となっている。そのようなコースでは適当な言語のコンパイラを実際に作らせることが多い。文書が豊富な例としてはニクラウス・ヴィルトが1970年代に教育用に設計し、教科書中で示した PL/0 がある。PL/0 は単純だが、教育目的にかなった基本が学べるようになっている。PL/0 はPascalで書かれていた。ヴィルトによる教科書は何度か改訂されており、1996年の版ではOberonでOberonのサブセットOberon-0を実装している。 インタプリタとの違い. もともとは、コンパイラはしばしばインタプリタと対比されてきたものである。コンパイラは、生成された機械語プログラムなどの実行は行わないが、一度コンパイルすればコンパイラを使わずに何度も実行できるという利点がある。しかし、インタプリタは、バイナリの実行ファイルは生成せず、実行するときに常に必要だが、プログラムを作ったらすぐに実行できるという利点がある。 しくみと設計. コンパイラは、概念的に言うと、一般に次のようなフェーズ(phase(s)、段階)に従い処理を行う 通常、次のような入・出力図で説明される。 ↓ 字句解析器 構文解析器 セマンティック解析器 中間コード生成器 コード最適化器 コード生成器 太字で表記したものがコンパイラの中に含まれている部分(コンパイラの部品)である。つまり、まず字句解析器(字句解析部)がソースコードを読み込みトークンに分解し、次に構文解析器(構文解析部)がトークン列からプログラムの構文木を構築し、次にセマンティック解析器(意味解析器)が意味論的な解析を行い、次に中間コード作成器が中間コードを生成し、次に最適化器がコードの最適化を行い、最後にコード生成器が最終的なターゲットプログラム(オブジェクトコード)を生成する。 なお、コンパイラの作成に関することだが、字句規則から字句解析器を生成するlex、構文規則から構文解析器を生成するパーサジェネレータというプログラムがあり、広く実用的に使われている。つまりコンパイラのプログラムの一部分を自動的に書いてくれるようなプログラムがすでにあり、それのおかげで全部人力で書くようなことはしないで済む。(なお、コンパイラ全体を生成するコンパイラジェネレータも研究されているものの、広く実用に使われるには至っていない。) コンパイラ設計手法は処理の複雑さ、設計者の経験、利用可能なリソース(人間やツール)に影響される。 コンパイル処理の分割を採用したのはカーネギーメロン大学での Production Quality Compiler-Compiler Project であった。このプロジェクトでは、「フロントエンド」、「ミドルエンド」(今日では滅多に使われない)、「バックエンド」という用語が生み出された。 非常に小さなコンパイラ以外、今日では2段階(2フェーズ)以上に分割されている。しかし、どういったフェーズ分けをしようとも、それらフェーズはフロントエンドかバックエンドの一部と見なすことができる。フロントエンドとバックエンドの分割点はどこかというのは論争の種にもなっている。フロントエンドでは主に文法的な処理と意味論的な処理が行われ、ソースコードよりも低レベルな表現に変換する処理が行われる。 ミドルエンドはソースコードでも機械語でもない形式に対して最適化を施すフェーズとされる。ソースコードや機械語と独立しているため、汎用的な最適化が可能とされ、各種言語や各種プロセッサに共通の処理を行う。 バックエンドはミドルエンドの結果を受けて処理を行う。ここでさらなる解析・変換・最適化を特定のプラットフォーム向けに行う場合もある。そして、特定のプロセッサやOS向けにコードを生成する。 このフロントエンド/ミドルエンド/バックエンドという分割法を採用することにより、異なるプログラミング言語向けのフロントエンドを結合したり、異なるCPU向けのバックエンドを結合したりできる。この手法の具体例としてはGNUコンパイラコレクションや Amsterdam Compiler Kit、LLVM がある。これらは複数のフロントエンドと複数のバックエンドがあり、解析部を共有している。 フロントエンド. フロントエンドはソースコードを分析して、中間表現または "IR" と呼ばれるプログラムの内部表現を構築する。また、シンボルテーブルを管理し、ソースコード内の各シンボルに対応したデータ構造に位置情報、型情報、スコープなどの情報を格納する。このような処理はいくつかのフェーズで実施される。たとえば以下のようなフェーズがある。 バックエンド. 「バックエンド」という用語は「コード生成」という用語と混同されることが多い。アセンブリ言語コードを生成するという意味で機能的にも類似しているためである。書籍によっては、バックエンドの汎用解析フェーズと最適化フェーズを「ミドルエンド」と称してマシン依存のコード生成部と区別することがある。 バックエンドに含まれる主なフェーズは以下の通りである。 コンパイラ解析とは、コンパイラ最適化の前に行われる処理で、両者は密接な関係がある。たとえば依存関係解析はループ変換実施に重要な意味を持つ。 さらに、コンパイラ解析と最適化の範囲は様々であり、基本的なブロック単位の場合からプロシージャや関数レベル、さらにはプロシージャの垣根を超えてプログラム全体を対象とすることもある。広範囲を考慮するコンパイラほど最適化に用いることができる「ヒント」が増え、結果としてより良いコードを生成する可能性がある。しかし、広範囲を考慮する解析や最適化はコンパイル時間やメモリ消費のコストが大きい。これは特にプロシージャ間の解析や最適化を行う場合に顕著である。 最近の商用コンパイラはプロシージャ間解析/最適化を備えているのが普通である(IBM、SGI、インテル、マイクロソフト、サン・マイクロシステムズなど)。オープンソースのGCCはプロシージャ間最適化を持たない点が弱点だったが、これも改善されつつある。他のオープンソースのコンパイラで完全な最適化を行うものとしてOpen64がある。 コンパイラ解析と最適化には時間と空間が必要となるため、コンパイラによってはデフォルトでこれらのフェーズを省略するものもある。この場合、ユーザーはオプションを指定して明示的に最適化を指示しなければならない。 簡単な例. 以下のプログラムは中置記法で入力された四則演算を逆ポーランド記法を経て、独自の中間表現にコンパイルするC言語で書かれた非常に単純なワンパス・コンパイラである。このコンパイラは中置記法を逆ポーランド記法にコンパイルすると共に、ある種のアセンブリ言語にもコンパイルする。再帰下降型の戦略を採用している。このため、各関数が文法における各非終端記号に対応している。 char lookahead; int pos; int compile_mode; char expression[20+1]; void error() printf("Syntax error!\n"); void match( char t ) if( lookahead == t ) pos++; lookahead = expression[pos]; else error(); void digit() switch( lookahead ) case '0': case '1': case '2': case '3': case '4': case '5': case '6': case '7': case '8': case '9': if( compile_mode == MODE_POSTFIX ) printf("%c", lookahead); else printf("\tPUSH %c\n", lookahead); match( lookahead ); break; default: error(); break; void term() digit(); while(1) switch( lookahead ) case '*': match('*'); digit(); printf( "%s", compile_mode == MODE_POSTFIX ? "*" : "\tPOP B\n\tPOP A\n\tMUL A, B\n\tPUSH A\n"); break; case '/': match('/'); digit(); printf( "%s", compile_mode == MODE_POSTFIX ? "/" : "\tPOP B\n\tPOP A\n\tDIV A, B\n\tPUSH A\n"); break; default: return; void expr() term(); while(1) switch( lookahead ) case '+': match('+'); term(); printf( "%s", compile_mode == MODE_POSTFIX ? "+" : "\tPOP B\n\tPOP A\n\tADD A, B\n\tPUSH A\n"); break; case '-': match('-'); term(); printf( "%s", compile_mode == MODE_POSTFIX ? "-" : "\tPOP B\n\tPOP A\n\tSUB A, B\n\tPUSH A\n"); break; default: return; int main ( int argc, char** argv ) printf("Please enter an infix-notated expression with single digits:\n\n\t"); scanf("%20s", expression); printf("\nCompiling to postfix-notated expression:\n\n\t"); compile_mode = MODE_POSTFIX; pos = 0; lookahead = *expression; expr(); printf("\n\nCompiling to assembly-notated machine code:\n\n"); compile_mode = MODE_ASSEMBLY; pos = 0; lookahead = *expression; expr(); return 0; この単純なコンパイラの実行例を以下に示す。
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松本大洋
松本 大洋(まつもと たいよう、男性、1967年10月25日 - )は、日本の漫画家。東京都出身。和光大学人文学部芸術学科中退。 代表作に『鉄コン筋クリート』『ピンポン』など。スポーツや闘いを題材に、男の持つ美学や世界観を独特のタッチで表現している。初期には講談社『モーニング』で活動するも人気が出ず、小学館『ビッグコミックスピリッツ』に移って以降評価を受けるようになった。 実母は詩人の工藤直子。妻は漫画家の冬野さほで、冬野はしばしば松本のアシスタントもしている。従弟の井上三太も漫画家。 経歴. 小学校から高校までは、サッカー部に所属するスポーツ少年だった。小学校時代に、児童養護施設で過ごしている。高校2年のとき、漫画の愛読者だった母の勧めで大友克洋と吉田秋生を読み、特に大友の『童夢』に衝撃を受ける。大学から従弟の井上三太の影響もあり漫画研究会に所属し、18歳で初めて漫画を描く。当時『モーニング』に描いていた土田世紀に憧れ、2本目に描いた作品で講談社に持ち込みを行なう。 1987年、「それゆけファウルズ」が『モーニング パーティ増刊』に掲載。また、『STRAIGHT』が四季賞準入選を受賞し『月刊アフタヌーン』増刊号に掲載され、漫画家としてデビューを飾る。当時、自身を天才だと思っており、そのまま大学もバイトも辞めているが、後で自作品がほかと比べてお粗末なことに気付き、自分の勘違いを知ったという。 同時期のデビューで敵わないと思った漫画家に若林健次、山田芳裕、タナカカツキがいたという。受賞をきっかけにすぐに大学を辞め、『アフタヌーンシーズン増刊』他で短編作品を発表したのち、1988年より『モーニング』にて野球を題材にした作品『STRAIGHT』を連載。しかし単行本2巻までで打ち切りとなる。 その後、1年ほどの空白期間を経て小学館から声がかかり、担当編集者に話を通した後に移籍。『ビッグコミックスピリッツ』に1990年より『ZERO』、1991年より『花男』、1993年より『鉄コン筋クリート』、1997年より『ピンポン』を連載。また、『鉄コン筋クリート』終了後、劇団黒テントからの依頼で上演用の漫画作品「花」を執筆。2000年にも同劇団に戯曲「メザスヒカリノサキニアルモノ若しくはパラダイス」を提供、この作品は2001年の岸田國士戯曲賞候補となった。 『ピンポン』から3年を経た2001年、長編描き下ろし作品『GOGOモンスター』を刊行。1998年11月から2000年9月まで約2年を費やして450ページが描かれ、祖父江慎のデザインによる箱入りハードカバーで刊行された。この作品で2001年、第30回日本漫画家協会賞特別賞を受賞。 2001年11月より、小学館からの新雑誌『スピリッツ増刊 IKKI』(後に独立して『月刊IKKI』となる)の看板作家として『ナンバーファイブ 吾』を連載。のちの『IKKI』編集長江上英樹は『IKKI』に松本を起用したことについて、「『ガロ』が白土三平、『COM』が手塚治虫を擁したのと同じ意味合いで、彼の存在は、この増刊号に不可欠なものと言えた」と振り返っている。 2006年、和光大学漫画研究会の先輩であり、デビュー以来しばしば松本のアシスタントもしていた永福一成を原作者とする時代劇作品『竹光侍』を『ビッグコミックスピリッツ』にて連載開始。同作品で2007年に第11回文化庁メディア芸術祭マンガ部門優秀賞を、2011年に第15回手塚治虫文化賞マンガ大賞を受賞した。 2010年12月から、『月刊IKKI』にて最新作『Sunny』の連載が始まった。著者の実体験をベースに描かれており、「少年期の落とし前となるような大事な作品」と語られる1作である。 作品ではスポーツを扱った作品が多く、いずれゴルフ漫画を執筆したいと語っている。インタビュー以外でメディアに露出することは極めて稀であるが、『STRAIGHT』の帯や、画集『松本大洋+ニコラ・ド・クレシー』で本人の姿を確認することができ、谷川俊太郎との共作関連でテレビにも出演している。パソコンなどの電子機器は所有していないが、電子書籍には興味があると語っている。 絵柄. 絵柄は作品によって大胆に変えられており、初期の『STRAIGHT』や『点&面』では、顔を記号的に省略した人物が登場し、望月峯太郎に影響を受けたようなタッチが見られる。当時から線にはこだわりを持っていた。構図では魚眼レンズで写したような、空間の広がりを極端に強調したアングルが多かったが、『GOGOモンスター』以降の作品ではこのような手法は使われていない。 画面構成については、『ZERO』が明暗を強調しているのに対し、『花男』ではバンドデシネの影響を受けて明るいタッチのデフォルメされた絵柄が用いられ、『鉄コン筋クリート』では白黒のメリハリが利いたイラスト的なタッチ(フランク・ミラーの影響が強いという)、『ピンポン』では細い線を使った黒味の少ないタッチ、『花』ではトーンを使わない黒っぽいタッチ、『竹光侍』では時代劇の雰囲気に合わせて画用紙を使い、スクリーントーンの代わりに薄めた墨が用いられている。 なお、作品では女性キャラクターが登場することが極めて少ないが、これは女の子を描くことだけは苦手だからであり、それ以上の意味は特にないという。 しかしそれは過去の発言であって、Sunnyからは冬野さほの作画協力も得て多くの女性や少女が登場してる。 画材は一貫してミリペンを使用。絵は枠線などを除いてフリーハンドで描かれており、建物などを描く場合でも定規は使われていない。ただし、デビュー作の『STRAIGHT』の途中まではGペンで描かれている。ミリペンに替えた理由は使いこなせないからだったと話す。 作品リスト. 『STRAIGHT』『点&面』を除き、漫画作品はすべてA5判で刊行されている。
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ウサギ
ウサギ(兎、兔)は、最も広義には兎形目、狭義にはウサギ科、さらに狭義にはウサギ亜科もしくはノウサギ亜科 の総称である。 ここでは主にウサギ亜科について記述する。現在の分類では、ウサギ亜科には全ての現生ウサギ科を含めるが、かつては一部を含めない分類もあった。兎形目はウサギ科以外に、ナキウサギ科、サルデーニャウサギ科など。 形態. 他の獣と比しての特徴としては、耳介が大型なことが挙げられる。兎形目内では耳介があまり発達していない種でも、他の哺乳綱の分類群との比較においては耳介比率が大きいといえる。音や風のするほうへ耳の正面が向くよう、耳介を動かすことができる。また、毛細血管が透けて見えるこの大きな耳介を風にあてることで体温調節に役立てるともいう。 眼は頭部の上部側面にあり広い視野を確保することができ、夜間や薄明薄暮時の活動に適している。鼻には縦に割れ目があり、上部の皮膚を可動させることで鼻孔を開閉することができる。門歯は発達し、一生伸びつづける。かつてはこの門歯の特徴をもってネズミと同じ齧歯目の中に位置づけられていた。しかし、上顎の門歯の裏側に楔形の門歯があるものをウサギ目として独立した目分類がなされるようになった(齧歯目と近縁の仲間ではある)。歯列は formula_1(順に 門歯・犬歯・小臼歯・大臼歯、上下は上下顎)で、計28本の歯を持つ。 かつてネズミの仲間と分類されていたように、肉食であるネコやイヌとは異なる点が多く、多くの種のウサギの足の裏には肉球はなく、厚く柔らかい体毛が生えている。前肢よりも後肢が長く、跳躍走に適している。前肢の指は5本、後肢の趾は4本で、指趾には爪が発達する。体全体は丸みを帯び、尻尾は短い。ただ、盲腸は長い。 生態. 草原や半砂漠地帯、雪原、森林、湿原などに生息する。アナウサギは地中に複雑な巣穴を掘って集団で生活する。縄張り意識は比較的強く、顎下の臭腺をこすりつける事で臭いをつけてテリトリーを主張する。ノウサギは穴での生活はしない。 食性は植物食で、草や木の葉、樹皮、果実などを食べる。一部の野生種は昆虫なども食べるという。カイウサギであれば、屋外のアリなども舐めながら食べる。 胎生。ネコなどと同じく、交尾により排卵が誘発される交尾排卵動物。妊娠期間は最長がユキウサギの約50日で、多くの種は30・40日。一度の出産で1・6頭(ないしそれ以上)を出産する。 アナウサギは周年繁殖動物(繁殖期を持たない動物)に分類され、年中繁殖することが可能であり、多産で繁殖力が高い動物である。ノウサギは春先から秋まで、長期的なゆるい繁殖期を持っている。 天敵はヘビ、キツネ、カラスをはじめ小〜中型の肉食獣、猛禽類。 種類にもよるが、時速60-80kmで走ることができるという。 声帯を持たないため滅多に鳴く事はないが、代わりに非言語コミュニケーションを用いる。代表的なものは発達した後脚を地面に強く打ち付けるスタンピングで、その主な動機は天敵が接近した場合に仲間に警戒を促すためであるが、不快な感情を表す際にもこの行動をとる事がある。 ウサギの唾液には、衛生状態を保つ成分が含まれている。顔を前脚で覆うように撫でたり耳を撫でる仕草をみかけるが、前脚に予め付着させておいた自らの唾液を目的の部位全体に行き渡らせる事で衛生状態を保っているのである。 特徴的な長い耳に代表されるように秀でた聴力を持つ一方で、視力には劣り、食物を食べる時に安全性を確認する場合も、視覚より嗅覚を駆使する。 ストレスには非常に弱く、絶えず周囲を警戒している。 餌. ニンジンなどの根菜を食べるイメージがあるが、糖分が高く自然界では食べない。飼育環境下で少量与えられる程度である。主に食べるのはチモシー、アルファルファなどの牧草であるが、チモシーにアレルギーを起こす人が居るので、時々飼育で問題になる。 時折、背を丸めて直接肛門に口を持っていき、口をモグモグとする行動を観察できるが、これは「食糞行動」といい、未消化になった植物繊維等を含んだ糞を再度食べて消化と栄養の再吸収を促す行為であり、異常行動ではない。 ペット飼育. 捕食される側である草食動物のため、家飼いする場合もその本能が残存しており、部屋の目立った場所に出ず、カーテンの裏側、机の下、部屋の隅っこなどに陣取る事が多い。 ウサギはデリケートな生き物でもあり、ペット飼育されているウサギにはストレスを感じた時に稀に自分の体毛を毟り取る行動が見られるが、ほかのペット動物でもありうる事である。 前歯が伸び続ける事も手伝い、家飼いする時、屋内のコードというコードを片っ端からかじってしまうことも多い。畳、木材家具に至ってはそのものを食べてしまうこともある。特に家電製品のコード類は感電の恐れもあるので、なるべく手の届かないところに設置すべきである。 排泄場所は、きれい好きのため、きちんとしつければ、特定の場所で排泄を行うようになる。隅で隠れられる場所に排泄場所を置くべきである。 寿命 分布. 南極大陸や一部の離島を除く世界中の陸地に分布している。ペットとして持ち込まれたものも多く、オーストラリア大陸やマダガスカル島には元々は生息していなかった。特に、オーストラリア大陸に広く分布するようになったウサギは、入植者のトーマス・オースティンが狩猟用に持ち込んだ24匹のウサギが、オーストラリアの環境に適応して爆発的に増えたものであることが知られている。 日本では、各地の縄文時代の貝塚からウサギの骨が出土することや、古事記の「因幡の白兎」などに登場することなどから、そのころには既にかなりの数が棲息していたものと考えられる。灰色や褐色等の毛色を有し、積雪地帯では冬には白毛に生え変わる在来種ニホンノウサギは、日本の固有種として知られている。また、絶滅危惧種であり国の特別天然記念物アマミノクロウサギは、世界でも奄美群島の一部のみに生息する。 利用. 狩猟. 野ウサギは昔から食料や毛皮、遊興などの目的で狩猟の対象とされている。特に欧米では、ウサギのハンティングは文化的なスポーツとして扱われている。 狩猟の際にウサギを追いかけるときは必ず斜面の上から追いかけると有利、逆に斜面を登る形で追いかけると不利とされている。なぜならウサギの身体的特徴として後ろ足が長く前足が短いため、ウサギは上り坂では体の傾き具合が水平になるため坂を上るのに強く、下り坂では前かがみのようになってしまうため坂を下るのは苦手だからである。 上野公園にある西郷隆盛像は、愛犬「ツン」をつれて趣味の兎狩りをしているときの姿である。 食肉. 狩猟や養殖によって得られたウサギの肉は、食用として利用されてきた。古代、マンモスなどの大型の獲物が少なくなるにつれ、ウサギを始めとする小型ですばしっこい動物は、人類にとって重要な獲物となっていった。ネアンデルタール人は、このような小さな獲物を狩るための適応が出来なかったため、滅んだとの説がある。 ウサギは柔らかい食肉となる。ウサギのフィレ・ステーキという料理もあるが、1頭のフィレ部分はホタテ貝の貝柱程度の寸法しかなく数頭分のフィレ肉を使うことになる。挽肉にすると粘着性が高いので、ソーセージやプレスハムに結着剤として使われることがある。 日本でも、古来より狩猟対象であり、食用とされてきた。縄文時代の貝塚から骨が見つかることはそれを示唆するものであると考えられ、江戸時代徳川将軍家では、正月の三が日にウサギ汁を食べる風習があったという(日本の獣肉食の歴史#江戸時代および食のタブー#ウサギも参照)。秋田県の一部地域では「日の丸肉」と呼ばれ、旅館で料理として出されることがある。この日の丸肉という名称は、一説によると、明治期に日本で品種改良されて定着した白毛に赤目の日本白色種が、あたかも日の丸の色彩を具現化したような動物であったことによるともいわれる。明治期に入り、兎の輸入が始まる。兎の種類は肉用(ベルジアン、バタゴニアン)、毛用(アンゴラ)、毛皮用(ヒマラヤン、シベリヤン)、愛玩用(ロップイヤー、ポーリッシュ、ダッチ)がある。ロップイヤーの平均体重は9斤(5.4kg)である。また秋田県の一部のマタギには、ウサギの消化器を内容物と共に料理して食べる「スカ料理」が伝わっている。 20世紀に入り、一般消費者がスーパーマーケットなどで豚肉や牛肉が手軽に購入できるようになっても、ウサギ肉が単独で店頭に並ぶ例はほぼないが、1960年代には豚挽肉にウサギ肉を混入する事例が横行した。1969年には農林省が原材料を明記するよう業界を指導したことがある。 欧州各地でも古来より食用とされ、フランス料理では、伝統的に一般的な料理に使用するものは、カイウサギをラパン()、ノウサギをリエーヴル()という区別で食肉として愛好されてきた。ラパンはしばしば鶏などと同様に家禽類として扱われる。背肉から腿肉までが主要部位で、内臓肉としては腎臓、レバーなどを食べる。 北米では、ウサギ肉はフライ用()、ロースト用()、内臓()の3等級に分類されている。生後9週まで、体重4.5-5ポンドの肉はフライ用。体重5-8ポンド、月齢8ヵ月までの肉をロースト用と定めている。ロースト用はフライ用よりも肉が硬いとされている。肝臓や心臓なども食用にする。 ユダヤ教では、ウサギは「清くない動物」、すなわち非カーシェール(, )とされ、食べてはならない動物に定められている。日本でも一部の地域(埼玉県・群馬県など、後述)において、妊婦が兎肉を食べることを禁忌とする考え方がある。 毛皮. 狩猟や養殖によって得られたウサギの毛皮は、服飾品としても利用されてきた。 防寒用として世界各地でその毛皮が用いられてきたほか、一種の装飾用としても用いられる。 また、毛皮としてではなく毛足の長いウサギの毛を羊毛のように刈り取って織物用の繊維として利用することも行われてきた。アジア原産のアンゴラ山羊やアンゴラ兎をつかったモヘヤが知られているが、欧州ではアンゴラウサギという繊維利用専用の品種も作られた。日本でも、明治から太平洋戦争の時代にかけて軍需毛皮を生産する目的からウサギの飼育が盛んになり、日本アンゴラ種という品種が作られた。 西洋では、ウサギの足や尾は幸運のシンボルとして剥製化されて使用される。 膠. ウサギの革を煮込んで得られる膠は、テンペラ画の地塗りに用いられてきた。アクリル絵具が発達した21世紀初頭でもなお、古い絵画の修復に欠くことのできない材料である。 実験動物. 家畜化されたアナウサギ(カイウサギ)が、実験動物として広く使われる(ドレイズ試験)。 税金. 「明治時代のウサギブーム」「ウサギバブル」も参照。 日本では明治時代に入り、ウサギの売買や飼育が盛んになったことから、1873年(明治6年)に東京府より「兎取締ノ儀」が布達された。ウサギ一頭につき、1円を科せられ、無許可で飼育すると2円の罰金を科せられた。 家畜化. ウサギの一種であるアナウサギを家畜化したものはカイウサギと呼ばれ、広く利用されている。ペットとして人気の高いネザーランド・ドワーフやロップイヤー、毛皮用にも使われるレッキス、日本で実験用によく使われるジャパニーズホワイトなど多くの品種があるが、分類学的にはアナウサギと同種とみなされ、学名も同じである。 利用目的は毛用・肉用・愛玩用など多岐にわたる。ペット用に品種改良されたものはしばしばイエウサギと呼ばれ、一般家庭での飼育も可能である。実験動物としては、薬品や化粧品の安全性試験や、医学研究のモデル生物として使われるが動物実験の結果をそのまま人間には適用できない事例もあるだけでなく、倫理上の観点からも問題視されており、徐々に動物実験を廃止する動きが広まりつつある。 日本の大久野島・前島やニュージーランド、オーストラリアでは逸出したカイウサギの野生化が起こっている。オーストラリアでは、野生化したカイウサギが生態系や農業に与える悪影響が問題視されている。 明治時代、その愛くるしさからウサギを飼う事が大流行し、ウサギの価格が高騰。闇取引することが多く政府が取り締まるほどの一大ムーブメントが起きていた。 ARBA () は世界最大規模のウサギ協会。純血種を保護するため毎年ブリーダーや一般の飼い主が持ち寄ったウサギを品種ごとに基準を定め品評会を行っている。 文化. ウサギは生息域が広く昼行性で繁殖率も高く人の目にふれやすいため、親しみやすく、擬人化されて童話や説話のモチーフとして使われている。漫画やマスコット等のキャラクターとして登場する。ピーター・ラビットの作者ビアトリクス・ポターは、自らが飼っていたウサギを詳細にデッサン、スケッチして解剖学的にも研究して描いている。 西洋東洋を問わず、子ども向け用品を扱う企業のマスコットやシンボルマークにウサギを使用している。 シンボルとしてのウサギ. 昔から言われ続けて来た、月のシンボル. 日本から見た月面の模様は古くから餅つきをするウサギに見えていた事から、日本には古来、ウサギが月に棲むという説話が仏教・道教説話あるいは民間説話として伝わっている。 たとえば、仏教的説話を多く題材にとる『今昔物語集』第五巻第十三話「三の獣、菩薩の道を行じ、兎身を焼く語」には、次のような捨身慈悲、滅私献身の象徴としてウサギが描かれる。 以上が、「今は昔、天竺に兎・狐・猿、三(みつ)の獣ありて、共に誠の心を発(おこ)して菩薩の道(どう)を行ひけり」に始まり、「万(よろづ)の人、月を見むごとに此の兎の事思ひいづべし」で終わる説話のあらすじである。 平安時代末期ごろに原型が成立したとされ、江戸時代には広く読まれていた『今昔物語集』に採録されたこの仏教説話は、釈尊の前世エピソードを集めた古いインドの物語ジャータカや中国の『大唐西域記』などの影響をうけているとみられる。この仏教説話がいつごろ日本に伝わり各地に広まったかは定かではないが、奈良時代以前に作られた法隆寺玉虫厨子の台座絵背後の須弥山図では、帝釈天宮の右上に月(中におそらくウサギか蟾蜍(ひきがえる))と、左上に真っ赤な太陽(中に三本脚の烏)がすでに描かれている。また、そのころに作られたとされる中宮寺天寿国繍帳にも、月を意味する円の中に、不老不死の薬壺と月桂樹の枝とともにウサギが刺しゅうされている。なお、中国由来の道教の神仙思想において、月は西王母という仙女が治める世界であり、そこでは永久に枯れない木(月桂樹)のもとで不老不死の薬をウサギが作っているとされ、そこを訪れた美女がに変えられ月にとどめられているという説話がある。 平安時代の『延喜式』には、「三本足の烏、日之精也。白兎、月之精也」という記述がすでにみられ、ウサギは月の象徴として為政者や日本の寺社でも認識されていたことがうかがえる。他にも、「金烏玉兎(きんうぎょくと)」という言葉があるが、日本では江戸時代までは、太陽と月、すなわち全宇宙を天皇が統べるという意識のもと、朝廷のハレの儀式のときには日月を表す幟(のぼり)を必ず立てることとしていた。この幟には金烏と玉兎がそれぞれ太陽と月の象徴として描かれていたとされる。また、『続日本紀』天平4年(732年)正月の条に「御大極殿受朝。天皇始服冕服。」とある。この年の正月に聖武天皇は大極殿で朝賀を受けたが、天皇が「袞冕(こんべん)」という礼服を着用したのはこの時が初めてであるという内容であるが、以後、天皇の礼服となるこの袞冕(べん)には、赤地の衣の左肩の部分に金糸の円(その中に黒の烏)、右肩の部分に銀糸の円(その中にウサギと蟾蜍)を刺しゅうしてある。中国皇帝が黒地に左肩に月、右肩に太陽の礼服を用いていたことの影響と考えられる。 こうした月の象徴としてのウサギは、仏教・道教的背景を持つ意匠にとどまらず、日本の素朴な民間神事にもあらわれている。 日本、中国、インド、アイヌ、東南アジア、アフリカなど各地に伝わる「射日神話」と呼ばれるものがある。本来なら、一つであるはずの太陽の数が増えすぎて猛暑大旱魃となり、困った人間たちは知恵を絞り、増えすぎた偽の太陽を射落とすというものである。日本でも各地で奉射祭(オビシャ、オコナイなどともいう)と呼ばれる弓神事が民間で行われてきた。現在でも、滋賀県や利根川下流域の茨城南部から千葉県などで広く行われているが、太陽に擬した的と月に擬した的を用意し、太陽に擬した的だけを、弓矢で射抜く行事である。太陽の的には三本足の烏が描かれ、月の的にはウサギが描かれることが多い。 ウサギは月の化身であり神聖なシンボルとして広く用いられてきたのである。 山のシンボル. ウサギを「山の神」と同一視、あるいは「山の神の使い(神使)」や乗り物とする伝承も日本各地に広くみられる。 滋賀県高島郡では、山の神の祭日には山の神は白いウサギに乗って山を巡る、山の神は白ウサギの姿をしているとされ、京都府愛宕郡では氏神三輪神社境内に祭られる山の神の2月の祭日には白ウサギが稲の種を蒔き、11月の祭日には白ウサギが稲の落穂を拾うというので、白ウサギは決して獲ってはならないとされている。また、福井県三方郡ではウサギは山の神の使いとされ山の神の祭日に山に入ることの戒めとともに伝わっている。 また、福島県では吾妻山の斜面の雪解け模様(溶け残った雪が白くある部分)を白いウサギの形に見立て、「雪うさぎ 」あるいは「種まきウサギ」と呼んで、これを苗代の種まきの合図とした。福島市には「吾妻小富士の下の残雪がうさぎ形に見られる頃になると晩霜の心配がない」という天気ことわざもあり、また、日照りの際にトンビにさらわれたウサギが山の神となったという説話が伝わっている。 こうしてウサギが各地で山の神と同一視されてきたのは、人間の暮らす里と神や動物のいる山とを身軽に行き来することからの境界を超えるものとしての崇拝、多産で繁殖力に富むことから豊穣をつかさどる意味、そして東日本のノウサギは冬には毛皮が真っ白に変化することから白い動物を神聖視する考え方(白鳥などを神聖視する古来の白への信仰)、西日本のノウサギは白くはないのであるが突然変異で白くなった動物を瑞兆とした考え方(白蛇、白鹿、白亀などが朝廷に献上された例などにも見られる希少な白への信仰)などさまざまな背景があると考えられる。 また、月読命(豊産祈願)や大己貴命(大国主命)、御食津神(五穀豊穣)などを祭神とする寺社ではその祭神の性格からウサギを神の使いとするところも多い。『古事記』には大国主命に助けられるウサギの話として「因幡の素兎」の話が伝わっている。 ウサギは道教・陰陽思想の影響を受けた十二支の生肖の1つでもあり、「卯(う)」として暦時方角をもあらわしてきた(ただし東南アジアではネコが取って代わる)。 多産・豊穣・性のシンボル. アングロ・サクソンの多産と豊穣をつかさどる春の女神は、その化身あるいは使いがウサギである。 ウサギは、冬に失われた生命が復活し草木が芽吹き花々が咲く再生の春のシンボルである。卵は宇宙の根源のシンボルであり、宇宙は卵から生まれ、殻の上半分が天になり、下の部分が地になったことをあらわす。絵画等でも女神は必ずといっていいほどウサギを伴った姿で描かれ、このウサギが良い子に卵をもたらすとされる。卵のほうは絵画にはあらわれないが、ウサギと卵の関係について、このウサギは女神が冬に翼の凍ってしまった鳥をウサギに変えたものなので、特別に鳥のように卵を産めるのであるとする話や、ウサギが春色に塗り分けたきれいな卵をプレゼントしたところ女神が大変に喜び、皆にも配るよう命じたという話、ウサギが子どもたちを喜ばせるためにニワトリの卵を庭に隠して探させてみようとしたところ、そのうしろ姿を子どもたちにみられてしまった話などが伝わっている。欧米では現在も春の祭りの日の余興として、子供たちや招かれた客があらかじめ招待主の隠しておいた庭の卵探しをすることがあるという。 同様の話は、オスタラ (Ostera) アスタルテー (Astarte) イシュタル (Ischtar) イナンナ (Inanna) などの女神の名で欧州各地の神話伝説にあり、さかのぼれば、ギリシャのアフロディーテやローマのビーナスなどにも通じ、古代エジプト、ペルシャ、ローマなどでは春の祭りに卵に着色して食べる習慣が既にあったという。のちに、キリスト教が入ってきたときに、キリストの復活と春を祝う女神信仰が「生命への希望」という共通点で結びつき、エオストレ (Eostre) は復活祭 (Easter) の名前の由来となった。 こうした経緯から、キリスト教会で行われる復活祭(イースター)では、生命と復活の象徴を卵とウサギに求めて、イースターエッグやイースターバニーの名で行事にシンボルモチーフとして登場させる。ただし、正教会においてはイースターエッグのみであり、異教の女神と色濃く結びつくイースターバニーのほうは排除されてしまった。 こうした背景の中で、米英を中心とする西欧世界ではイソップ物語や不思議の国のアリスなどに登場するウサギのように、秩序からはずれた存在をあらわす役目をあてがわれ、あわて者、怠け者、異界へ誘う者、トリックスターとして描かれることも多い。 天敵の多いアナウサギは生き残りのために発情期をなくして年中生殖行為が可能である。 年中発情している獣はヒトとウサギ(アナウサギ)くらいであるというイメージから、性的誘惑のシンボルとしてウサギが選ばれ、大人の世界のディズニーランドというコンセプトを目指した米国の高級ナイトクラブであるプレイボーイクラブのウェイトレスの正式なコスチュームとして、「バニーガール」が、1960年に採用され、カジノやバーなどで女性コスチュームに広く採用されるようになった。成人誌『PLAYBOY』でも、連動して1960年からオスのウサギの頭をデザインした「ラビットヘッド」がキャラクターとして用いられている。 ラビットフット(兎の足)という魔除けのお守りが、1940-1960年代にアメリカのヒッチハイカーなどの間で局地的に流行したとされる。その起源はケルトの一族が身に付けていた幸運のお守りであり、ウサギの繁殖力を神聖視していた一族が、ウサギの男根を象徴しているウサギの足のミイラを身に付けて繁栄を願ったものであったとされている。 このように古来からウサギは多産豊穣・繁栄のシンボルとして、洋の東西を問わず女性や子どもと関わりの深い動物であり、1960年代ごろから男性成人向けのキャラクターとしても用いられるようになった。 今日の日本では、卯月が四月の春であること、月見をするのが現在は秋であることから、イメージとしては春とも秋とも結び付けられている。俳句においては、野兎や雪兔は冬の季語とされている。 速さのシンボル. 動きの速いものの象徴として使われることもままある。 種類によっても違うが、ノウサギは、天敵から逃げ切るために時速60-80キロほどのスピードで走ることができる。人間の場合、100m走の世界記録保持者であっても時速にすれば40キロにも達しない(しかも最高速が出るのは一瞬だけ)ことを考えると、いかにウサギが俊足であるかが分かる(アナウサギの場合には、隠れる穴を用意してあるためそこまで早い速度で逃げる能力が発達しておらず、時速35キロほどいわれている)。 ウサギは、機械や設備の高速動作を表すシンボルとして用いられている。"Henry Dreyfuss Symbols Sourcebook"(1972年)の時点ですでに乗り物の変速機構のデザインとして確立されていることが指摘されている。設備類に用いられる図象を定める ISO 7000 にしたがえば、動作速度を速い順にウサギ、カメ、カタツムリのシルエットを用いて表すことになる。JIS規格も同様で、たとえば建設機械の変速機構操作にはウサギとカメの絵が描かれるほか、ミシンの速度調節としてもウサギとカメが用いられている。 また日産自動車のブランド「ダットサン」の「ダット」の部分に関して、関係者のイニシャルとともに速く走ることのたとえである「脱兎」が由来になっているとされる。 献身のシンボル. 仏教世界においては献身のシンボルとされる。これは仏教説話集ジャータカ()の中に、ウサギが身を火に投じて仙人に布施する物語(ササジャータカ:)があるためである。ちなみに日本におけるモチーフとしてのウサギのところで前述したように、月面の模様をウサギに見立てることも、ここからきている。 宗教のシンボル. 神道世界においては神の使いとされることがある。大阪の住吉大社・埼玉の調神社・京都の岡崎神社などの神使として知られている。調神社や岡崎神社には狛犬ではなく狛ウサギがある。 組織のシンボル. 縁起の良い動物として、企業や団体のシンボルマークに用いられることも多い。 物語の中のウサギ. わらべうたとして「うさぎ うさぎ 何見て跳ねる 十五夜お月様 見て跳ねる」(成立年作詞作曲不詳)と古くから歌われてきたし、ウサギは昔話にもよく登場する身近な動物であった。日本の昔話としては、ウサギが機智を働かせて悪の象徴であるタヌキを懲らしめる「かちかち山」型の説話がよく知られており、そこではウサギは知恵のあるもの、あるいは悪を懲罰するものとして存在している。但し、ウサギの賢明さが時には狡猾と解されることもある。例えば「かちかち山」の後日譚というべき『親敵討腹皷』(おやのかたきうてやはらつづみ)(朋誠堂喜三二 作)では、ウサギはかつて己が手にかけたタヌキの子に仇としてつけ狙われている。 一方、「タヌキとウサギとキツネのぼた餅分け」という民話では、ウサギはタヌキとともに、狡猾なキツネに騙される役柄となっている。 西欧のイソップ物語を原型として明治以降に広められた「ウサギとカメ」の説話では、得意分野で相手を侮って敗れた愚か者として描かれる。 そのほか、月への民間信仰との関わりもあってか、その愛らしい姿をデザインしたものは古くから安産、女性や子供の守り神として広く受け入れられ、郷土玩具その他さまざまな道具の意匠に用いられてきた。他にも、謡曲(能)で『竹生島(ちくぶじま)』で「月海上に浮かんでは 兎も波を奔るか 面白の島の景色や」と謡われたことなどから、江戸時代には波の上を跳ねるウサギが瑞祥文様として庶民の着物文様や建築意匠に使われている。 言語. 漢字コード. 兎の異体字「兔」を表すShift_JISコードは0x995cであり、2バイトめが 0x5c、すなわち1バイト文字における「¥」(「円記号」あるいは「バックスラッシュ」)に該当する通称「ダメ文字」の一つである。1バイト文字0x5cには、しばしば特殊な機能が割り当てられているため、マルチバイト文字が入力されることを想定していない(または想定していても対応に不備がある)プログラムは、マルチバイト文字に含まれている0x5cを誤認識し適切に動作しない可能性がある。 日本語の助数詞「羽」. ウサギの日本語における助数詞は、かつて1羽、2羽と鳥と同様の「羽(わ)」を使用していた。この由来には諸説あるが、おもに以下のようなものがある。 『羽』は哺乳類ではなく鳥類を数えるときの助数詞であり、『頭』は人間よりも大きな動物、『匹』は人間よりも小さな動物に使うという傾向からすれば、うさぎは『匹』と数えるのが自然であり、『NHK放送のことばハンドブック』では、(文学や食肉として扱う場合を除き)生きたウサギは「匹」を用いるのがふさわしいとしている。愛玩用のウサギは日常的には「匹」または「羽」であるが、商取引では「頭」が使われる場合もある。なお、自然科学の分野では、動物全般について、動物の大きさで区別せず画一的に頭を使用するのが原則であり(鳥類や小さな昆虫でも、一頭二頭と数える)、NHKのニュースにおいても生物学的な話題として報道する場合には、「奄美大島に生息するクロウサギは~現在ではわずか600頭が確認されているに過ぎない」のように表現する場合がある。 動植物の名前にみるウサギ. ウサギを連想するような、白くて丸い形をした動植物に、ウサギの名前が冠せられることがある。 たとえば、貝の中でも丸くて白っぽい貝はウミウサギガイ科と名付けられており、ウサギを含んだ名がつけられている。ウミウサギ、マメウサギ、ウサギアシカワボタンガイなど。これらの貝殻はその外観の美しさから海のジュエリーとしてダイバーや貝殻愛好家からの人気も高い。 月兎耳(つきとじ)() という多肉植物の名は、白い毛で覆われた長楕円形の葉がウサギの耳を思わせることによる。 ウサギゴケという食虫植物の名は、その白い花が見事に耳をぴんとたてたウサギの形をしていることによる。ウサギギクの名は、長楕円形の葉がウサギの耳を思わせることによる。 また、兎馬(ウサギウマ)はロバを意味するが、これはロバの大きな耳がウサギを思わせることからきていると考えられる。
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ひらまつつとむ
ひらまつ つとむ(1959年 - )は、日本の漫画家。滋賀県出身。 来歴. 19歳の頃「汚された金庫」で第15回手塚賞佳作を受賞。21歳で「イダテン・ホーク」(平松梅造名義)が第19回手塚賞準入選を受賞し、週刊少年ジャンプ増刊号に掲載された。第20回手塚賞でも「闘士」が最終候補に残っている。 初の連載は武論尊原作の「マッド・ドッグ」(鷹沢圭名義)であったが、10回で打ち切りとなる。次作「飛ぶ教室」は、フレッシュジャンプ掲載の読み切りを経て、1985年に週刊少年ジャンプで連載された。連載自体は短期だったが、核と放射能という重いテーマを描いたことで当時の読者に強烈な印象を残した。 1986年の「ハッスル拳法つよし」、1991年の「ミアフィールドの少女アニー」を経て、集英社以外の出版社に活動の場を広げたが、単行本には恵まれず、2004年の「まぶちの右近」は1巻のみの発売で未完となった。 戦後70年の2015年に復刊ドットコムより「飛ぶ教室」が復刊され、また第2部が準備中であることが発表された。 2020年、潮出版社より既刊部分と新作第2部の180ページを合わせた「完全版 飛ぶ教室」が5月25日に発売されることが、作者のサイトで告知され発売。2022年12月20日には全編描きおろしの2巻が発売された。 元々は劇画系のハードな絵柄だが、ひらまつつとむ名義に変更した「飛ぶ教室」以降はラブコメを意識した柔らかい絵柄と使い分けている。
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彗星
彗星(すいせい、)は、太陽系小天体のうち、おもに氷や塵などでできており、太陽に近づいて一時的な大気であるコマや、コマの物質が流出した塵やイオンの尾(テイル)を生じるものを指す。 概要. 彗星は、尾が伸びた姿から日本語では箒星(ほうきぼし、彗星、帚星)とも呼ばれる。英語ではコメット(comet)と呼ばれる。天体写真が似るため流星と混同されがちであるが、天体観望における見かけの移動速度は大きく異なり、肉眼による彗星の見かけ移動は日周運動にほぼ等しいため、流星と違い尾を引いたまま天空に留まって見える。 彗星と小惑星とは、コマや尾の有無で形態的に区別するため、太陽から遠方にあるうちは、彗星は小惑星と区別がつかない。彗星は、太陽からおおよそ3AU(天文単位)以内の距離に近づいてから、コマや尾が観測されることが多い。その位置は火星軌道と木星軌道のほぼ中間にあたる。 太陽に近づく周期(公転周期)は、約3年から数百万年以上まで大きな幅があり、中には二度と近づかないものもある。軌道による分類の節を参照のこと。 彗星が太陽に近づいた時に放出された塵は流星の元となる塵の供給源となっている。<br>彗星の中には肉眼でもはっきり見えるほど明るくなるものもあり、数日間~数か月ほど観察できる期間がある、尾の形や大きさが様々であることなどから視認しやすく、古くから観察の対象とされ不吉なことの前兆と考えられるなど、人類の関心の的となってきた。いくつかの明るい彗星の出現の記録は古文献や壁画などに残るほど古代から残されているが、ほとんどの周期が数十年以上であるために、周期的に観察されていることに気づかれたのは「彗星観察の歴史」からすれば最近であると言える。古代ギリシアの時代から長い間、彗星は大気圏内の現象だと考えられてきたが、16世紀になって、宇宙空間にあることが証明された。彗星の性質などにはいまだに不明な点も多く、また近年は太陽系生成論の方面からも大きな関心が寄せられ、彗星の核に探査機が送り込まれるなど、研究・観測が活発に続けられている。 彗星には、発見報告順に最大3人まで発見者(個人またはチーム、プロジェクト)の名前がつけられる。彗星を熱心に捜索する「コメットハンター」と呼ばれる天文家もいるが、20世紀末以降は多くの彗星が自動捜索プロジェクトによって発見されるようになっている。 2006年8月にプラハで開かれた国際天文学連合(IAU)総会での決議により、彗星は小惑星とともに small solar system bodies(SSSB)のカテゴリーに包括することが決定された。これを受け、日本学術会議は2007年4月9日の対外報告(第一報告)において、2007年現在使われている「彗星」「小惑星」などの用語との関係については将来的に整理されることを前提としたうえで、small solar system bodies の訳語として「太陽系小天体」の使用を推奨した。 物理的特徴. 核. 彗星の本体は核と呼ばれる。核は純粋な氷ではなく、岩石質および有機質の塵を含んでいる。このことから、彗星の核はよく「汚れた雪玉」に例えられる。核の標準的な直径は1 - 10キロ程度で、小さく暗いものでは数十メートル、非常に大きいものでは稀に50キロほどに達する。質量は、大きさによってかなり異なってくるが、直径1キロ程度の彗星で数十億トン単位、10キロ程度の彗星で数兆トン単位であると考えられる。これは、地球の山1つ分ほどに相当する。自らの重力で球形になるには質量が足りないため、彗星の核は不規則な形をしている。 氷の構成成分を分子数で見ると、たとえばハレー彗星の場合、80%近くは水()で、以下量の多い順に一酸化炭素(CO)、二酸化炭素()、アンモニア()、メタン()と続き、微量成分としてメタノール()、シアン化水素(HCN)、ホルムアルデヒド()、エタノール()、エタン()などが含まれる。さらに鎖の長い炭化水素やアミノ酸などのより複雑な分子が含まれる可能性もある。双眼鏡や望遠鏡で見たときに青緑色に見えるのは、これらの微量成分が太陽光で解離してできる(炭素が2つつながったもの)やCNなどのラジカルの輝線スペクトルが強いためである。2009年には、NASAの探査機スターダストによるミッションで回収された彗星の塵から、アミノ酸のグリシンが発見されたことが確認された。 塵の成分はケイ酸塩や有機物を始めとする炭素質である。ケイ酸塩は結晶質と非晶質の両方を含む。通常、ケイ酸塩が結晶化するには数百度の高温が必要であり、彗星は、低温でできる氷と高温でできるケイ酸塩結晶が混じり合っている点で珍しい。 彗星の核は、太陽系に存在する物体の中でもっとも黒い天体である。探査機ジオットは1986年にハレー彗星の核に接近し、核の光のアルベド(反射能)が4%しかないことを発見した。また探査機ディープ・スペース1号も2001年にボレリー彗星に接近して観測を行い、核の表面のアルベドが2.4%から3%程度しかないことを発見した。これは、月やアスファルトの光のアルベドが7%なのと比較するとかなり小さい値である。複雑な有機化合物がこのような暗い表面を構成していると考えられている。太陽によって表面が熱せられると揮発性の化合物が、特に黒っぽい傾向のある長鎖の化合物を残して蒸発して飛び去ってしまい、石炭や原油のように黒くなる。彗星の表面が非常に黒いため、熱を吸収して外層のガスが流出する。 コマと尾. 太陽から遠いところでは、低温のため核はすべて凍りついており、地球上から見てもただの恒星状の天体にしか見えない。しかし、彗星が太陽に近づいていくと、太陽から放射される熱によってその表面が蒸発し始める。それにともなって発生したガスや塵は非常に大きく、きわめて希薄な大気となって核の周りを球状に覆う。これはコマと呼ばれる(これは「髪」という意味であり、実際に古くは日本語訳されて「髪」と呼ばれることもあった)。コマの最外層は水素のガス雲となっており、水素コロナと呼ばれる。 そして、太陽からの放射圧と太陽風により、太陽と反対側の方向に尾が形成される。尾には、ダストテイル(塵の尾)という、塵や金属から構成された白っぽい尾と、イオンテイル(イオンの尾)またはプラズマテイルという、イオン化されたガスで構成される青っぽい尾がある。ダストテイルは曲線状となる。これには、核から放出された塵が独自の軌道で公転するようになり、徐々に核本体から遅れていくため、また、太陽の自転により太陽風が渦巻いていたり、太陽の光の圧力(光圧)の影響なども受けていたりするためなどの理由がある。2007年のマックノート彗星や歴史上の大彗星のいくつかでは、何本もに枝分かれしたダストテイルが扇状に広がって見えた。これに対しイオンテイルは、ガスが塵より強く太陽風の影響を受け、太陽の引力よりも磁場に従って運動するため、太陽のほぼ反対側に直線状に伸びていく。ただし、太陽風の乱れによって、時には折れ曲がったりちぎれたりするなど、激しい変化を見せることもある。なお、地球が彗星の軌道面を通過するとき、彗星の曲がった塵の尾と地球との位置の関係で、尾の一部が見かけ上太陽の方向に伸びているように見えることがあり、アンチテイルと呼ばれる(アラン・ローラン彗星(C/1956 R1)のアンチテイルは殊に有名である)。実際には太陽に向かって尾が伸びているわけではなく、あくまでも視覚上の錯覚である。アンチテイルの観測は太陽風の発見に大きく貢献した。 コマや尾は、核に比べて非常に規模が大きくなる。コマは水素コロナを含めると、時には太陽(直径約139万キロ)よりも大きくなることがある。また、尾も1天文単位以上の長さになることがある。1996年春に明るくなり、観測史上もっとも尾が長く伸びた百武彗星では、尾の実長は実に3.8天文単位(5億7,000万キロ)にも達した。コマと尾はどちらも太陽に照らされ、太陽系の内側に入り込んでくると地球から肉眼で見えるようになることもある。塵は太陽の光を直接反射し、ガスはイオン化されるため明るく輝く。ほとんどの彗星は暗すぎて望遠鏡がなければ見ることができないが、10年に数個ほどは、肉眼でも充分見えるほどに明るくなる。 1996年、百武彗星の観測から彗星がX線を放射していることが初めて観測された。彗星がX線を放射していることはそれまで予測されていなかったため、この発見は研究者たちを驚かせた。このX線は彗星コマと太陽風との相互作用により生じると考えられている。イオンが急速に彗星の大気に突入すると、イオンと彗星の原子や分子が衝突する。この衝突により、イオンは1つか複数の電子を捕獲し、それがX線や遠紫外線の光子の放出につながると考えられている。 軌道による分類. 彗星は、太陽を焦点のひとつとする楕円、放物線あるいは双曲線の軌道をとり、軌道によって分類される。離心率が1より小さい楕円軌道を持つ彗星は、太陽を周期的に周回するもので、周期彗星と呼ばれる。周期彗星が太陽の近くへ戻ってくることを「回帰」という。離心率が1である放物線軌道、あるいは離心率が1より大きい双曲線軌道を持つ彗星は、二度と戻ってこないと考えられ、非周期彗星と呼ばれる。 ただ、惑星や近傍恒星の重力や、非重力効果により、実際の彗星の軌道は不安定である。特に、周期数百年以上の彗星の楕円軌道は、わずかな軌道の変化で周期が大きく変わるため、周期どおりに戻ってくるとは限らない。また後述する通り、起源や特性からも、周期の長い周期彗星は非周期彗星に近い。このような理由により、彗星を、周期彗星と非周期彗星ではなく、公転周期200年未満の短周期彗星と、200年以上の長周期彗星に分けることが多い。その場合、「周期彗星」という言葉は、短周期彗星と長周期彗星の両方を指す場合もあるが、特に短周期彗星のみを指して用いられる場合もある。周期彗星、長周期彗星、非周期彗星の3つに分けることもある。 21世紀初頭では別の種類として、小惑星帯上にありながら彗星として活動する彗星が発見されており、メインベルト彗星と呼ばれている。これは小惑星と彗星の分類に見直しを迫ることになるかもしれない。ほかにも、特徴的な軌道を持つ彗星として、近日点が太陽にきわめて近いサングレーザーがある(後述)。 軌道の特徴と起源. 短周期彗星はエッジワース・カイパーベルト、またはそれに隣接する散乱円盤天体を起源に持つと考えられ、ハレー彗星以外に大型の彗星は少ない。一方、長周期彗星の起源はオールトの雲にあると考えられ、大彗星になるものが多い。特に、以前の観測記録がない大型の彗星は、太陽系の起源を知る上で重要な手がかりとなると考えられている。 小惑星は比較的円に近い楕円軌道を描いているものが多いのに対して、彗星は非常に細長い楕円や放物線、双曲線の軌道をとるものが多い(軌道の離心率の値が大きい)。彗星がなぜ極端な楕円軌道になるような摂動を受けるのかを説明するために、さまざまな説が提唱されてきた。有名なものとして、銀河系の中の恒星が太陽の近くを通過したことにより、オールトの雲を含む太陽系外縁天体の軌道がかき乱され、その一部が太陽へと落下してくるとする説や、ネメシスという太陽の連星、あるいは未知の惑星Xの存在を仮定して、その重力的影響によるものだとする説などがある。 1950年、天文学者のヤン・オールトは、長周期彗星の軌道計算を行い、遠日点が太陽から1万天文単位 - 10万天文単位(約0.1光年 - 1光年)の距離のものが多いことを発見した。そこでオールトは、小天体が多く集まるオールトの雲と呼ばれる領域が太陽系の最外縁部に存在するという仮説を提唱した。この仮説は広く受け入れられ、それ以後彗星はオールトの雲に起源を持つと考えられるようになった。オールトの雲に存在する天体は、ときどきお互いに重力的相互作用(摂動)を起こし、一部が太陽の引力にとらえられて極端な楕円軌道を描くようになり、太陽に非常に接近するようになる。 オールトの雲とエッジワース・カイパーベルトはいずれも、太陽系の形成と進化の過程において原始惑星系円盤で形成された微惑星、または微惑星が集まった原始惑星が残っていると考えられている領域である。太陽から3AU以遠では比較的凝固点の高い物質がすべて凍り、岩石質の物質の総量を上回るため、微惑星の主成分は氷になる。オールトの雲は、主として木星や土星が形成される付近の軌道にあった氷小天体が、形成後の木星や土星に弾き飛ばされたものと考えられ、太陽系を球殻状に取り巻いている。エッジワース・カイパーベルトは太陽系外縁部の氷小天体が惑星にまで成長できずに残ったものと考えられており、黄道面を取り巻くようにして環状に広がっている。したがって、オールト雲起源の彗星の方がエッジワース・カイパーベルト起源のものより形成温度が高いと考えられている。 2009年11月の時点までで、3,648個の彗星が知られており、そのうち約1,500個がクロイツ群の彗星、約400個が短周期彗星である。この数は増え続けているが、本当に存在するはずの彗星のうちのごく一部である。太陽系外部に存在する彗星の元になる天体はおよそ1兆個存在するかもしれない。地上から肉眼で見えるようになる彗星の数はおおまかには1年に1個程度だが、その大部分は暗く目立たない。歴史上、非常に明るく肉眼でもはっきり見え、多くの人に目撃されたような彗星は大彗星と呼ばれることがある。 彗星は質量が小さく、軌道が楕円であるため、周期的に巨大な惑星に接近し、その度に彗星の軌道は摂動を受け変わる。短周期彗星は、遠日点までの距離が、巨大な惑星の軌道半径と同じになるような強い傾向が見られる。これらはその惑星の名を取って木星族、土星族、天王星族、海王星族の彗星などと呼ばれる。その中でも、木星の軌道付近に遠日点を持つ木星族の彗星が特に多い。オールトの雲からやってきた彗星は、しばしば巨大な惑星に接近し、重力の強い影響を受ける。特に木星は、ほかの惑星をすべて合計したより2倍以上大きな質量を持っているため、非常に大きな摂動を彗星に与える。なお、もし木星や土星のような巨大惑星がなければ、現実より多くの彗星が太陽系中心部に侵入し、一部は地球と衝突していただろうという説がある(惑星の居住可能性#グッド・ジュピターも参照)。 また、重力的な相互作用により軌道が変わったため、過去数十年や数世紀の間に発見された周期彗星のうち、その彗星が将来どこに現れるか予測できるほどよく軌道が定まっていなかったいくつかが見失われている。しかし時折、「新」彗星の過去の軌道をさかのぼることにより、古い「見失われた」彗星と同一だと判明することがある。その例として、テンペル・スイフト・LINEAR彗星(11P)が挙げられる。この彗星は1869年に発見され、「テンペル・スイフト彗星」と命名されたが、木星の摂動により軌道が変わり、1908年以降見失われていた。しかし2001年、LINEARが偶然発見した「LINEAR彗星(C/2001 X3)」が、発見後しばらくしてテンペル・スイフト彗星と同一の天体だと判明し、93年ぶりの再発見が認定されるとともに、名前がテンペル・スイフト・LINEAR彗星に変更されることとなった。 彗星の軌道に関する特徴のひとつとして、軌道面の傾き(軌道傾斜角)が非常に大きいものが多いということが挙げられる。太陽系の惑星は、軌道傾斜角はおおむね数度程度、大きくても10度以内に収まっている。また小惑星も、20度から30度程度まで傾いているものは多いが、軌道傾斜角がある程度小さいものが多い傾向はある。短周期彗星も、惑星の摂動により軌道を変えられた影響もあって、軌道傾斜角が小さいものが大半を占める。しかし、長周期彗星は、黄道面とほとんど垂直な軌道を持ったもの(軌道傾斜角が90度前後)や、惑星や大半の彗星、小惑星と逆向きに公転しているもの(軌道傾斜角が180度であるとも見なせる)も多く、ほとんどランダムに空のどこからでも現れるように見える。これは、オールトの雲の分布が球殻状であると推定する根拠になっている。 彗星の明るさとその予測. 彗星の明るさ、すなわち光度は、恒星と同じように等級を単位として表される。しかし、彗星は恒星と違って核、コマ、尾などの構造があり、それぞれ明るさがあるため、すべての部分を含んだ明るさを全光度、核だけの明るさを核光度と呼び区別する。したがって、コマや尾がほとんど発達していない状態の彗星では全光度と核光度は等しく、逆に大きく発達している場合は核光度より全光度のほうが明るくなることになる。彗星には、中心核が特に明るい、すなわち中央集光が強いものも、逆に特に明るい部分がなく非常に拡散しているものもある。 彗星の明るさを測定するには、近くにある恒星と比較することになる。コマや尾が発達していない恒星状の彗星では、変光星や小惑星の場合と同じように、比例法と光階法という方法を用いる。しかし、コマや尾が発達している場合、同じ明るさでも点光源と面光源では明るさが違って見えてくるため、単純に比較することはできない。このため、彗星の明るさを憶えてからピントをずらして基準星が同じ大きさに見えるようにし、明るさを比較するシジウィック法(Sidgwick法、S法)、わざとピントをずらし、彗星と比較星が同じ大きさに見えるようにしてから明るさを比較するボブロフニコフ法(Bobrovnikoff法、B法)、彗星が均一な明るさに見える程度にピントをずらしてから明るさと大きさを憶え、基準星が同じ大きさに見えるまでぼかしてから覚えた彗星の明るさと比較するモーリス法(Morris法、M法)などの方法が用いられる。核光度も、全光度と同様に測定する。測定された彗星の光度は、観測者の熟練の程度やその日の体調、観測器材の状態、観測状況、基準星の明るさの誤差など、さまざまな要因により、観測者によって0.5等級以上ばらつく場合がほとんどである。また、CCDカメラなどで写真を撮影し、近くの基準星を用いて専用ソフトで明るさを測定することもできる。肉眼で見た光度(眼視光度)と、写真で測定した光度(写真光度)は数等級ずれることもある。 彗星の光度を正確に予測するのは非常に難しい。小惑星などの天体は通常、地球までの距離(地心距離)と太陽までの距離(日心距離)の2乗に反比例して明るくなるが、彗星の場合は太陽に近づくと塵やガスが噴出し、コマができたり尾が伸びたりするため、太陽までの距離の5乗から、場合によっては10乗以上に反比例して明るくなっていく。彗星の光度の予測には、一般に以下のような式(光度式)が使用される。 ここで、"m" は彗星の光度である。"m" は標準光度、または絶対光度と呼ばれ、彗星が太陽からも地球からも1天文単位の距離にある時の明るさを表す。また、Δ は地心距離、"r" は日心距離をそれぞれ天文単位で表したものである。また、"k" は光度係数と呼ばれる値で、この値が大きいと光度変化は激しくなり、小さいと光度変化は穏やかになる。観測期間が長くなり観測データが多数集まってくると、専用ソフトウェアなどを用い、最小二乗法などの方法で標準光度と光度係数を求めることができる。 発見からまもないなど、観測期間が短くデータも少ない場合は、光度係数を10と仮定して明るさを予測することが一般的である。標準光度は彗星の規模によって大きく違うが、光度係数は5.0から30程度の間に収まるものが大半である。しかし、核が分裂するなどの要因で活動が活発化し急激な増光(アウトバースト)が起こった場合は光度係数が100を越える場合もあるし、アウトバーストが終わるなどで活動が衰えた場合や核が崩壊して消滅していく場合などは、光度係数が大きく負の値を取る場合もある。ある1本の光度式に常によく当てはまる光度変化をする彗星もあるが、活動の規模が途中で変化すれば当てはまる標準光度や光度係数の値も変化する。しかし、いつどのように活動が変化するかを予測することは非常に難しい。何回か回帰している彗星は、以前の記録を基にある程度予測が可能だが、初出現の彗星についてはほぼ不可能である。また初出現の彗星は、しばらく観測しないとどんな光度式が当てはまるのかも分からない。彗星の光度予想が難しいと言われるのはこのような理由による。 彗星の崩壊と消失. 太陽系からの離脱. 彗星の軌道速度が速い場合、太陽系の内部に入ってきてそのまま太陽系の外部へ出ていく場合がある。大部分の非周期彗星がこの例にあたる。また、木星など太陽系内のほかの天体による重力的摂動によって加速され、太陽系の外へ放出される場合もある。 揮発性物質の枯渇. 太陽への接近を繰り返すうちに徐々に揮発性の成分が脱落していくが、崩壊・消失に至ることなく小惑星のようになる場合があり、これを彗星・小惑星遷移天体や枯渇彗星核と呼ぶ。そのような過程を経たと思われる天体や、その過渡期にある天体もいくつか見つかっている。小惑星は彗星とは起源が異なり、太陽系の外側ではなく内側で形成されたと考えられているが、ヴィルト第2彗星からのサンプルリターンにより得られたサンプルが小惑星のものと似ていたことから、21世紀初頭では彗星と小惑星の境界はやや曖昧になっている。 分裂と崩壊. もっとも早期に発見された周期彗星のひとつであるビエラ彗星(3D)は1846年の回帰時に2つに分裂し、次の回帰である1852年には双子の彗星となって現れたが、その後は二度と出現しなかった。その代わり、本来彗星が回帰するはずであった1872年と1885年に、1時間あたりの出現数が数万個にも達する壮大な流星雨が観測された。この流星群はアンドロメダ座流星群と呼ばれ、毎年11月5日前後に地球がビエラ彗星の軌道に突入するために起こる。21世紀初頭ではほとんど出現はないが、稀に突発的な1時間あたり数十個の出現が観測されることがある。ビエラ彗星以降も、太陽からの輻射熱や物理的作用により、分裂あるいは崩壊、消失した彗星は、多数観測されている。 彗星のさまざまな様相変化の予想は難しく、彗星核の崩壊や消失に関する理論的な研究はあまりなされていない。しかし、国立天文台の福島英雄らの観測・研究グループによれば、近日点通過前の彗星頭部の崩壊前にきわめて特異なコマ形状を共通して示していることや、光度観測により色指数(V-I)の変化が特異であることが報告された(2003年春季天文学会)。実際には彗星の頭部がY字やT字型からおむすびのような形に変化していき、集光も薄れ消失するのだという。このモデルに合致した彗星としては、たとえばSWAN彗星(C/2002 O6)が挙げられ、普通の彗星のコマと違い三角形の形状をしているという報告がなされた。また、ヘーニッヒ彗星(C/2002 O4)も同様な消滅過程だと報告された。また、2020年のアトラス彗星も3月下旬に分裂したと考えられる。分裂以前に考えられていた、月より明るい光度は、可能性としてはほぼ無に等しい。 衝突. 彗星の中には、太陽に飛び込む、あるいは惑星やその他の天体に衝突するなど、より劇的な最後を迎えるものもある。彗星と惑星や衛星との衝突は太陽系の形成と進化の初期にはありふれた出来事だったと考えられている。たとえば地球の衛星である月の膨大なクレーターの一部は、彗星が衝突したことで形成されたと考えられている。 1993年に発見されたシューメーカー・レヴィ第9彗星は、1992年に木星に非常に接近した際にその重力に捕らえられ、木星の周りを回る軌道をとっていた。この接近ですでに彗星の核は分裂し、少なくとも21個の破片に分かれていた。そして分裂した核は1994年7月16日から7月22日までに相次いで木星の大気に突入、巨大な噴煙や衝突痕は地球からも観測された。2009年、2010年にも木星表面に彗星が衝突した痕跡らしきものが観測された。パリ天文台に残されているジョヴァンニ・カッシーニの観測記録によると、1690年にも木星に彗星が衝突した可能性が高い。さらに、2010年に土星と海王星の大気組成の分析が行われ、それぞれ約300年前と約200年前に彗星が衝突したことを示す結果が得られている。 地球にも約40億年前の後期重爆撃期には数多くの彗星や小惑星が衝突した。多くの科学者は、後期重爆撃期に地球に衝突した彗星によって、地球の海を満たしている膨大な量の水のほとんど、少なくともかなりの割合がもたらされたと考えている。しかし、その理論を疑う研究者もいる。彗星に含まれる有機分子を探すことで、彗星や隕石が生命の前駆物質、あるいは生命自体さえも運んできたのではないかと推測されてきた。 彗星の名前と符号. 彗星の名前. 彗星の名前は、過去2世紀にわたって、いくつかの異なる慣習に従って決められてきた。系統的な慣習が採用されていなかった時代には、彗星の命名はさまざまな方法によってされていた。最初の周期彗星(1P)であるハレー彗星は、彗星の軌道を決定したエドモンド・ハレーの名前からとられた。同じように、2番目の周期彗星(2P)として知られているエンケ彗星は、最初の彗星の発見者ピエール・メシャンではなく、軌道を決定した天文学者であるヨハン・フランツ・エンケの名前がつけられている。クロンメリン彗星(27P)も、同様に軌道計算をしたアンドリュー・クロンメリンの名がつけられている。 18世紀末から20世紀初頭の明るい彗星の中には、3月の大彗星(Great March comet)などと名付けられたものもある。いくつかは単に大彗星(Great comet)で区別がつかないので、「1811年の大彗星」(トルストイの『戦争と平和』に登場する彗星)などとも呼ばれる。 20世紀初頭、彗星の命名として、発見者の名前をつけるという慣習が一般的になった。これは現在まで続いている。彗星にはその彗星を独立発見した人の名前が先着順で3名までつけられる。1990年代に入ると、人工衛星(IRASやSOHOなど)や、国際規模の彗星および小惑星の掃天プロジェクトチーム(LINEAR、NEATなど)による彗星の発見が相次ぐようになり、数多くの彗星に、これらの自動捜索プロジェクト名がつくようになった。たとえば、IRAS・荒貴・オルコック彗星は、赤外線衛星IRASと、日本のアマチュア天文家の荒貴源一、イギリスのジョージ・オルコックによって、独立に発見された。現在では、自動捜索プロジェクト名でない彗星のほうが少ない。 同じ発見者が複数の彗星を発見しても、名前で区別はされない。そのため、たとえば「SOHO彗星」という名前の彗星は1,000を超える。彗星を一意に示すには、後述する符号を使う必要がある。ただし、- 第1彗星、- 第2彗星などを末尾につけて区別することもある。 また、過去に出現した彗星が再発見された場合、彗星自体の発見が公表されたあとに過去の彗星と同定された場合には過去の彗星の名に再発見者の名前がつけられることもある。例としては、バーナード・ボアッティーニ彗星(206P = D/1892 T1 = P/2008 T3)などがある。なお、発見の公表前に過去の彗星と同定された場合には再発見者の名前はつかない。例としては、2008年に板垣公一と金田宏が再発見し、発見の公表前に同定されたジャコビニ彗星 (205P = D/1896 R2)(前述のようにジャコビニ彗星の名のある彗星は10個あり、そのうちのひとつ)がある。 なお、キロン(95P/2060)など少数の彗星が、小惑星として発見され、小惑星の命名規則に基づいて命名されたあとに彗星であることが判明している。逆に見失われていた彗星が小惑星として再発見された例もあり、彗星としての名前のまま小惑星としても登録されている(彗星・小惑星遷移天体を参照)。 旧方式符号. 1994年までの彗星の系統的な符号のつけ方としては、まず最初にその彗星が発見された年と、その年内の発見順を示す文字からなる仮符号が与えられた。たとえばベネット彗星の仮符号は「1969i」で、1969年の9番目に発見された彗星であることを意味する。彗星の軌道が確定すると、彗星には、近日点通過の年とローマ数字からなる確定符号が与えられた。ベネット彗星の確定符号は「1970 II」となる。確定符号は、日本語に訳して、1970年第2彗星などとも呼んだ。確定符号がつくと、仮符号は使われなくなった。 彗星の発見数が増加してくると、この方法の運用に綻びが生じてきた。観測技術の進歩により1年の発見数が25を超え、仮符号に使うアルファベットが足りなくなり、また近日点通過から1年以上経って発見されるものも出てきて、確定符号の近日点通過順という原則も崩れてきた。そこで1994年に国際天文学連合は新しい命名方法を採用し、1995年から実施された。 新方式符号. 符号は発見が報告された年、月、発見報告順を元にしてつけられる。たとえば、ヘール・ボップ彗星の場合は「C/1995 O1」(シー/1995 オー1)と記載される。 なお、従来は発見者が発見した順に「テンペル第1彗星」「ヴィルト第2彗星」というように番号(接尾数字)がつけられていた(接尾数字と、公式通し番号の順とは一致しない)が、1995年頭より新発見の彗星には接尾数字がつけられなくなり、2000年には過去の彗星からも接尾数字が廃止された。 彗星観測の歴史. 古代・中世の記録と信仰. 望遠鏡が発明される以前、彗星は夜空の何もないところから突然現れ、ゆっくりと消えていくように観測された。そのため、流星群や日食と同様に、君主の死や国の滅亡、災害、疫病といった出来事を予告する凶兆と信じられ、果ては地球の住人に対する天からの攻撃であると解釈されることすらあり、人々はその出現を恐れた。 世界各地で古代より彗星についての記録が残っている。紀元前2320年のバビロニアや、『ギルガメシュ叙事詩』、『ヨハネの黙示録』、『エノク書』といった書物で「落ちる星」として言及されているが、これらは彗星もしくは火球について言及したものだと解釈されている。中国では特に多くの記録が残っており、紀元前よりハレー彗星の回帰が4度記録されている。紀元前1059年ごろ、殷代末期の甲骨文に彗星と思われる記述が残されているが、確実な最古と言える記録は紀元前613年の『春秋』に記されたものとされている。ほか紀元前240年、秦の始皇帝がハレー彗星を見たとする記録が『史記』に残されている。ヨーロッパでは彗星は気象現象の一種だと考えられていたため、古い記録は中国ほど多くはないが、有名な例として1066年、イングランド王国のハロルド2世が即位して間もない頃に「火の星」が現れ、従臣たちを怯えさせたことが『アングロサクソン年代記』やバイユーのタペストリーに記録されており、その直後に戦役が発生、王は戦死し国は征服された。日本では、684年のハレー彗星の回帰に関する記述が『日本書紀』にみられる。13世紀に災厄が多発した際には、末法の時代に現れるという「星宿変怪難」として恐れられた。 観察と考察. アリストテレスは、彼が著した最初の気象学の本『気象論』("Meteorologica")で彗星に対する見解を示し、それが西洋の思想を2000年近くにわたって支配することになった。彼は、彗星は惑星であるか少なくとも惑星に関係する現象であるという、それまでの学者の説を否定し天文現象ではなく気象現象と考えた。その根拠は、惑星の動く範囲は黄道帯の中に限られるが、彗星は空のあらゆるところに現れるというものであった。その代わり、彼は彗星を大気の上層部で起こる現象だととらえ、そこは温度が高く、乾いた蒸気が集まり時々勢いよく炎が燃え上がるのだと考えた。彼はこの仕組みは彗星だけでなく、流星や、オーロラ、そして天の川の成因にさえなっていると考えた。 その後、この彗星に対する見方に反論する古代の学者が少数だがいた。ルキウス・アンナエウス・セネカは、彼の著書『自然研究』("Quaestiones naturales")において、彗星は空を規則的に動き、風に邪魔されることがなく、大気中の現象よりは天体に典型的な運動をすることを述べていた。彼はほかの惑星が黄道帯の外に現れることがないことを認めつつも、天球上のものに関する人間の知識は限られているため、惑星のような物体が空のあらゆるところに現れる可能性を否定する理由はないとした。しかし、アリストテレスの立場のほうが影響力が大きく、彗星が地球の大気圏外にあるということが証明されたのは16世紀のことであった。 1577年に明るい彗星が現れ、数か月間肉眼で観察できた。デンマークの天文学者ティコ・ブラーエは、彗星に測定可能な視差がないことを確かめるため、彗星の位置を自分で測定するとともに、遠く離れた場所の観測者にも測定させた。正確な測定をしたところ、その測定結果は、彗星が少なくとも月より4倍以上遠くにあるということを示していた。 18世紀にもなると、多くの天文学者たちが彗星の発見と研究を競ったが、中には彗星と紛らわしい天体があることも知られるようになった。1764年にロンドン王立協会の外国人会員になったフランスのシャルル・メシエは、自らも彗星の捜索を行うかたわら、彗星と紛らわしい天体が多いことに閉口していた。そこでメシエは彗星ではない天体のリストを作り始めた。これが天体カタログの『メシエカタログ』である。メシエ自身も1760年に最初の彗星を発見している(C/1760 B)。 軌道の研究. 彗星が宇宙空間にあるということは証明されたが、彗星がどうやって空を移動しているのかという疑問は、その後、数世紀にわたって議論の中心になるように思われた。ヨハネス・ケプラーが1609年に、惑星の軌道は楕円軌道であると決着をつけたあとでさえ、彼は惑星の運動を支配している法則(ケプラーの法則)がほかの天体にも影響を与えていると信じるのを躊躇した。彼は彗星は惑星の間を直線軌道で運行していると信じていた。ガリレオ・ガリレイは、地動説を唱えたニコラウス・コペルニクスの擁護者であったにもかかわらず、ティコによる彗星の視差の測定結果を受け入れず、彗星は地球大気の上層を直線状に動くというアリストテレスの考えを支持し続けた。ただし、ケプラーの師ミヒャエル・メストリンは彗星の軌道が直線からわずかにずれることを観測で確認しており、ケプラーも自身の説を発表するにあたって師のデータを改竄せず、その理由について「地球の運動のため」との(誤った)考察を与えている。 ケプラーの惑星の運動の法則が彗星にも適用されるべきだと初めて提案したのはウィリアム・ローワーで、1610年のことであった。その後、数十年間、ピエール・プティ、ジョヴァンニ・ボレリ、アドリアン・オーズー、ロバート・フック、そしてジョヴァンニ・カッシーニなどを含むほかの天文学者たちは、彗星は太陽の周りを曲線状の軌道、楕円軌道か放物線軌道を描いて運行しているという説を唱えたが、その一方、クリスティアーン・ホイヘンスやヨハネス・ヘヴェリウスは、彗星は直線運動をしているという説を支持した。 この問題は、1680年11月14日にゴットフリート・キルヒが発見したキルヒ彗星によって解決された。ヨーロッパのいたるところで、天文学者たちはこの彗星の位置を観測し続けた。1687年、アイザック・ニュートンは彼の著書『自然哲学の数学的諸原理』(プリンキピア)において、万有引力の逆2乗の法則の影響下で運動する物体は、軌道の形が円錐曲線の一種になるということを証明し、天空における彗星の運動が放物線軌道とどのように適合するかを、1680年の彗星を例にして具体的に説明した。 1705年、エドモンド・ハレーは、1337年から1698年までの24個の彗星の出現に対して、ニュートンの手法を応用した。するとハレーは、1531年、1607年、1682年に現れた3つの彗星の軌道要素が、きわめて似通っていることに気づいた。しかも、軌道要素のわずかな違いは、木星と土星による重力的な摂動によって説明することができた。彼はこの3つの彗星の出現は、同じ彗星が3回出現したものだと確信し、この彗星は1758年か1759年に再び戻ってくるだろうと予言した(ハレー以前に、ロバート・フックがすでに1664年に出現した彗星と1618年の彗星を同定し、また同じころカッシーニも1577年、1665年、1680年の彗星は同じものではないかと推測していたが、これらはどちらも間違っていた)。ハレーが予言した彗星の戻ってくる期日は、のちに3人のフランスの数学者によって改良された。アレクシス・クレロー、ジェローム・ラランド、ニコル=レーヌ・ルポートである。彼らは彗星の1759年の近日点通過日時を1か月以内の誤差で予言した。彗星は予言通りに回帰し、その彗星はハレー彗星として知られることとなった(公式な符号は1P/Halley)。 短い周期を持ち、歴史上の記録に何度も登場するような彗星の中で、ハレー彗星はどの出現でも肉眼で見えるほどの明るさになったという点で特異である。ハレー彗星の出現の周期性が確立して以降、数多くの周期彗星が望遠鏡を使って発見されてきた。2番目に発見された周期彗星はエンケ彗星(公式な符号は2P/Encke)である。1819年から1821年までの期間中、ドイツの数学者・物理学者のヨハン・フランツ・エンケは、1786年、1795年、1805年、1818年に観測された一連の彗星の出現から軌道を計算し、これらは同一の彗星であるという結論を下し、1822年の出現を予言するのに成功した。1900年までに、17個の彗星について1回以上の近日点通過が観測され、周期彗星として確認された。2010年までに、240個以上の彗星について周期彗星としての識別に成功しているが、そのうちのいくつかは消滅したり見失われたりしている。 物理的特徴の研究. アイザック・ニュートンは、彗星を固く締まった頑丈な固体だとした。つまり非常に長い楕円軌道を描き、その軌道と方向がかなり自由な惑星の1種であって、その尾は、太陽熱で着火または加熱された頭部、つまり彗星の核から放出された非常に希薄な蒸気だと考えていたのである。また、ニュートンにとっては彗星は、惑星の水分と湿気を維持するために不可欠なものだと思われた。つまり、彗星の蒸気と放出ガスが凝縮したものから、植物が生まれ腐敗し乾燥した土になるために使われるすべての水分が再供給、補充されるとした。ニュートンは、すべての植物は液体から増え、それが腐敗して土になると考えていたためである。だとすると乾いた土の量は絶えず増加するため、その惑星の水分は絶えず供給されていない限り絶えず減っていき、ついにはなくなるはずだと考えたのである。ニュートンは、われわれの空気のもっとも精妙で最上の部分を構成する、生命とすべての存在に絶対不可欠な精気が、彗星によってもたらされるのではないかと考えた。また、彼の推測によると、彗星は太陽に新しい燃料を補充しており、その発光体からすべての方向に絶えず送られる流れによって太陽の光を回復させているとした。 18世紀以前に、彗星の物理的構造について正しい仮説を立てていた科学者もいた。1755年、イマヌエル・カントは、彗星は揮発性の物質で構成されており、それが蒸発することが原因で近日点付近で彗星が明るくなるのだという仮説を立てた。1836年には、ドイツの数学者フリードリッヒ・ベッセルが、1835年のハレー彗星の回帰で蒸気の流れを観察したことから、彗星から蒸発した物質の反動は、彗星の軌道に大きな影響を与えるのに十分なほど大きい可能性があると指摘し、エンケ彗星の非重力的な運動はこの仕組みによるという説を唱えた。 しかし、彗星に関連したほかの発見により、1世紀近くこれらの説はほとんど忘れ去られていた。1864年から1866年の期間中、イタリアの天文学者ジョヴァンニ・スキアパレッリはペルセウス座流星群の軌道を計算し、軌道の類似性から、スイフト・タットル彗星の塵がペルセウス座流星群の原因であるという仮説を立てた。彗星と流星群との関連は、1872年に劇的な形で示されることとなった。ビエラ彗星を原因とする、激しい流星群の活動が観察されたのである。ビエラ彗星は、1846年の回帰で2つに分裂したのが観察され、次の1852年の回帰以降はまったく観測されなくなっていた彗星である。これを基にして、彗星は表面を覆う氷の層と、緩く堆積した小さな岩石のような物体から構成されているとする、彗星の構成の「砂利の堆積」モデルが現れた。 20世紀半ばまで、このモデルは数々の欠点に悩まされてきた。特に、わずかな氷しか含んでいない物体が、何回かの近日点通過を経たあとも蒸気が蒸発することで明るく見え続けるということがなぜ可能なのかを説明できなかった。1950年、フレッド・ホイップルが、「彗星は氷と塵からなる」という「汚れた雪玉」を提唱した。岩石主体の天体にわずかに氷が混じっているのではなく、氷が主体の天体に塵や岩石が混じっているというのである。この「汚れた雪球」モデルはすぐに受け入れられた。 彗星探査機による観測. アメリカ航空宇宙局(NASA)の打ち上げたISEE-3は、当初のミッションを終えたあとにICEと改名されて地球の重力圏を離れ、1985年にジャコビニ・ツィナー彗星に接近し、彗星への近接探査を行った最初の宇宙探査機となった。翌1986年には、日本の宇宙科学研究所(ISAS)、欧州宇宙機関(ESA)、ソ連・東欧宇宙連合(IKI)が打ち上げた計5機の探査機にICEを加えた6機、通称ハレー艦隊が連携してハレー彗星の核を観測した。ESAのジオットが核を撮影したところ、蒸発する物質の流れが観測され、ハレー彗星は氷と塵の集まりであることが確かめられ、ホイップルの説が実証された。ジオットは1992年にもグリッグ・シェレルップ彗星に接近、観測を行った。 1998年に打ち上げられたNASAの工学実験探査機ディープ・スペース1号は、2001年7月21日にボレリー彗星の核に接近して詳細な写真を撮影し、ハレー彗星の特徴はほかの彗星にも同様に当てはまることを立証した。 その後の宇宙飛行ミッションは、彗星を構成している物質についての詳細を明らかにすることを目標に進められている。1999年2月7日に打ち上げられた探査機スターダストは、2004年1月2日にはヴィルト第2彗星に接近して核を撮影するとともにコマの粒子を採取し、2006年1月15日に標本を入れたカプセルを地球に投下した。標本の分析により、彗星を構成する主要元素の構成比から、彗星は太陽や惑星などの原材料物質であることを示すとともに、高温下で形成されるカンラン石などが発見された。高温下で形成される物質は従来の説で彗星が生まれたとされる領域で形成されたとは考えにくく、太陽に近い場所で形成された物質が彗星が形成された太陽系外縁部まで運ばれてきた可能性や、従来の説よりも彗星が形成された場所が太陽に近い場所であった可能性など、彗星の形成理論の再構築が必要となる可能性がある。 2005年1月12日に打ち上げられた探査機ディープ・インパクトは、同年7月4日に、核内部の構造の研究のためにテンペル第1彗星にインパクターを衝突させた。この結果、短周期彗星であるテンペル第1彗星の成分は長周期彗星のものとほぼ同じであることが判明した。さらに、塵の量が氷よりも多かったことから、彗星の核は「汚れた雪玉」というよりも「凍った泥団子」であると見られている。またテンペル第1彗星の内部物質からも、かつて高温下の条件を経験したと考えられる物質が検出されたため、ヴィルト第2彗星からの物質とともに彗星の形成理論や太陽系初期の状況を考える上で貴重な情報となった。 彗星の探索と発見の歴史. 望遠鏡がなかった時代、彗星の発見はもっぱら肉眼によるものであった。1608年に望遠鏡が発明されると、それによって、肉眼では見えないような暗い彗星を発見することができるようになった。やがて、望遠鏡や双眼鏡を駆使して、彗星の捜索を精力的に行う、コメットハンター(comet hunter)と呼ばれる天文家が現れた。 後述のような自動探査プロジェクトが、電子機器の発達などによって、技術的に可能になった20世紀最末期に至るまで、彗星や小惑星の新発見はこうしたアマチュア天文家に深く依存していた。 主なコメットハンター. 20世紀以降に活躍したものを挙げる。より詳細や過去のコメットハンターについては当該項目を参照のこと。 1990年代後半になると、このような状況に劇的な変化が生じた。LINEARやNEATなどといった地球近傍小惑星の強力な自動捜索プロジェクトが相次いで始動し、冷却CCDカメラによって18等や20等などといったきわめて暗い彗星が根こそぎ発見されるようになったのである。北半球で太陽から比較的離れた区域の空は自動捜索プロジェクトによってほとんどの彗星が発見されるようになり、アマチュア天文家などが彗星を発見することは非常に困難になった。また、1996年には太陽観測衛星SOHOが観測を始め、その副産物として、クロイツ群に属する彗星がきわめて多数発見されるようになった。 自動捜索プロジェクトなど. 地球近傍天体捜索プロジェクトなど。以下のプロジェクト名の中には定訳がないものもあるのに注意。 大彗星. 毎年数百個の小彗星が太陽系の内側を通過していくが、そのうち世間一般の話題となるような彗星はきわめて少数である。大体10年に1個前後、あまり夜空に関心がない人でも気づくほど明るくなるような彗星が現れる。そのような彗星はよく大彗星と呼ばれる。 過去には、明るい彗星はしばしば一般市民にパニックやヒステリーを引き起こし、何か悪いことの前兆と考えられた。20世紀に入ってからも、ハレー彗星の1910年の回帰の際に、彗星が地球と太陽の間を通ることから「彗星の尾によって人類は滅亡する」というような風説が広まった。 この当時、すでにスペクトル分析によって(先述の通り)彗星の尾には猛毒の青酸が含まれていることが知られており、また天文学者でSF作家でもあったカミーユ・フラマリオンは、尾に含まれる水素が地球の大気中の酸素と結合して地上の人々が窒息死する可能性があると発表した。これらが世界各国の新聞で報道され、さらに尾ひれがついて一般人がパニックに陥ったと言われる。日本では、空気がなくなっても大丈夫なようにと、自転車のタイヤのチューブが高値でも飛ぶように売れ、貧しくて買えないものは水に頭を突っ込んで息を止める練習をするなどの騒動が起きたとされているが、世界の終わりを信じた人はごく一部だったと受け取れるような記録もある(いずれにせよ、実際には彗星の尾は地球の大気に影響を及ぼすにはあまりに希薄だった)。 その後も、1990年にはオウム真理教の麻原彰晃がオースチン彗星(C/1989 X1)の地球接近によって天変地異が起ると喧伝したり(石垣島セミナー)、1997年のヘール・ボップ彗星(C/1995 O1)の出現時にはカルト団体ヘヴンズ・ゲートが集団自殺事件を起こした。しかし、ほとんどの人にとっては、大彗星の出現は単に素晴らしい天体ショーである。 さまざまな要素により、彗星の明るさは予測から大きく外れるため、彗星が大彗星になるか否かを予測するのは難しいということはよく知られている。大まかに言うと、もし彗星の核が大きく活発で、太陽の近くを通る軌道で、もっとも明るいときに地球から見て太陽により不鮮明になっていなければ、大彗星になる可能性が高い。しかし1973年のコホーテク彗星 (C/1973 E1) は、これらすべての条件を満たしており、壮大な彗星になると期待されたにもかかわらず、実際はあまり明るくならなかった。その3年後に現れたウェスト彗星(C/1975 V1)は、ほとんど期待されていなかった(コホーテク彗星の予報が大きく外れたあとだったため、科学者が慎重になっていた可能性もある)が、実際は非常に印象的な大彗星となった。 20世紀後半には大彗星が出現しない長い空白期間があったが、20世紀も終わりに近づいたころ、2つの彗星が相次いで大彗星となった。1996年に発見され明るくなった百武彗星 (C/1996 B2) と、1995年に発見され、1997年に最大光度となったヘール・ボップ彗星である。21世紀初頭には大彗星が、それも2個も同時に見ることができるというニュースが入った。2001年に発見されたNEAT彗星 (C/2001 Q4) と2002年に発見されたLINEAR彗星 (C/2002 T7) である。しかしどちらも最大光度は3等に留まり、大彗星とはならなかった。2006年に発見され、2007年1月に近日点を通過したマックノート彗星 (C/2006 P1) は予想を上回る増光を起こし、昼間でも見えるほどの大彗星となった。近日点通過後は南半球でのみ観測されたが、尾が大きく広がった印象的な姿を見せた。 変わった彗星. 知られている数千もの彗星の中には、とても変わったものもある。エンケ彗星は木星の内側から水星の内側にまで入る軌道を回っているし、シュワスマン・ワハマン第1彗星(29P)は木星と土星の軌道の間に収まった軌道を回っている。土星と天王星の間を不安定な軌道で回っているキロンは、最初は小惑星に分類されていたが、のちに希薄なコマが発見されたため、現在では彗星と小惑星の両方に分類されている。同様に、シューメーカー・レヴィ第2彗星(137P)も小惑星として発見された。近日点、遠日点がともに小惑星帯内にある彗星も複数見つかっており、メインベルト彗星と呼ばれている。 上記のキロンやシューメーカー・レヴィ第2彗星のように、最初は小惑星として発見された天体がのちに彗星だと判明する例が20世紀末以降は増えている。逆に、発見時はわずかながらコマや尾が観測されたが、のちの回帰の際は尾がまったく見られなくなっているアラン・リゴー彗星(49P)やウィルソン・ハリントン彗星(107P/4015)、彗星としての活動が観測されたことはまったくないが、流星群の母天体となっている小惑星ファエトンやオルヤトなどのような例もあり、これらは揮発成分を使い果たした枯渇彗星核だと見られている。その他の小惑星や、惑星の衛星の中にも、軌道や成分などから元は彗星だったと考えられるものがある。 彗星によっては、短時間の間に急激な増光(アウトバースト)を起こすことがある。特にホームズ彗星が2007年10月下旬に起こした大増光は印象深い。2日足らずの間に17等から2等級まで(約40万倍)明るくなり、肉眼でも「明るい星」として容易に見ることができた。その後、この増光で放出されたと思われるダストが球状に広がり、その直径は太陽よりも大きく広がった。ホームズ彗星は一時的に太陽系最大の天体となったのである。1986年に接近したハレー彗星も、後に突然増光が確認されている。これもアウトバーストが原因ではないかと言われている。 記録に残されたもの、残されていないもの問わず、多くの彗星の核が分裂するのが観測されてきた。1846年の回帰の際に2つに分裂し、のちに流星群だけを残して消滅したビエラ彗星(参照)が有名な例である。また、シュワスマン・ワハマン第3彗星(73P)は1995年の回帰時に4個に分裂し、その後さらに分裂(いくつかは消滅)して2006年には30個以上の破片になっていた。このほかにもウェスト彗星、池谷・関彗星、ブルックス第2彗星(16P)など、彗星核の分裂が観測された彗星は数多い。 崩壊・消滅した彗星としては、1994年7月に木星に衝突したシューメーカー・レヴィ第9彗星も有名である(参照)。 1908年のツングースカ大爆発はエンケ彗星の破片が地球に衝突したのではないかとする仮説がある。隕石の落下によって生じるクレーターがまったく見られなかったことから、大気圏に突入した彗星の破片が上空で爆発、蒸発したことによって甚大な被害を及ぼしたのではという見解がある。 1979年、かつての大彗星から分裂したクロイツ群の彗星が太陽面に接近し、蒸発、雲散霧消する姿がのコロナグラフ:SOLWIND(ソルウィンド)によって観測された。この彗星(C/1979 Q1)は観測した天文学者らの名前からハワード・クーメン・ミッチェル彗星と命名されたが、同衛星がその後も彗星を発見したためソルウィンド第1彗星として広まる。このような事例は数多く起こっており、1995年に打ち上げられた太陽探査機SOHOは、毎年数十個の彗星が太陽に突入するのを観測している。十分に大きな彗星は、近日点通過後も生き延びるという予測があったが、初の事例となったのは2011年のラヴジョイ彗星 (C/2011 W3)である。 彗星自体が変わった性質を持っているものも多い。1961年に観測されたヒューメイソン彗星(C/1961 R1)は、近日点が約2天文単位と遠かったため、それほど明るい彗星ではなかったが、。また核の直径自体もおよそ30キロと、当時としてはかなり大きい部類に入る彗星でもあった。 フィクションの中の彗星. 彗星はSF作家や映画製作者には人気のある題材であるが、氷の天体と言うよりも燃えている天体のように誤って描写されることも多い。フィクションの中のハレー彗星については、「ハレー彗星」の項を参照。 また、彗星が地球へ衝突する(または衝突しそうになる)という状況を描いた作品も多数存在する。
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自由ソフトウェア
自由ソフトウェア(じゆうソフトウェア、)とは、ユーザーがどのような目的に対しても実行することを許可し、また、プログラムについて研究したり、変更したり、それを配布したりする自由も認めることを条件として配布されるコンピュータソフトウェアのことである。自由ソフトウェアには、プログラムの対価として支払った価格とは無関係に、ユーザーが(個人で、あるいは、コンピュータプログラマーと協力して)ソフトウェアのコピーを用いて、自身が望むことを(自由ソフトウェアを用いて利益を獲得することを含めて)する自由が存在するということである。コンピュータプログラムが自由であるとみなされる必要十分条件は、本質的には(開発者のみではなく)すべてのユーザーに第一にプログラムをコントロールする権利があるということであるとされる。したがって、ユーザーが所有する装置が「自由」であるためには、プログラムによって何が行われるのかを、ユーザーが本質的にはコントロールできなければならない。 コンピュータプログラムを研究したり変更したりする権利を保証するためには、ユーザーがプログラムのソースコード(これがプログラムの変更を行うために適した形式である)を読むことが可能である必要がある。このことは「ソースコードにアクセスできる」(access to source code)とか「パブリックに利用できる」(public availability)という言葉で言い表されることがよくあるが、フリーソフトウェア財団は、単純にこのような表現を使ってプログラムを考えることに反対している。その理由として、このような表現を使うと、プログラムのコピーを他者に与えなければならないという義務(義務とは権利とは正反対のものである)がユーザーにある、という印象を与える恐れがあることを挙げている。 "free software"という言葉は、自由ソフトウェアの概念が生まれる以前からゆるく使われていたが、リチャード・ストールマンは、彼がGNUプロジェクトを立ち上げたのと同じ1983年から、この言葉を上記で述べたような意味で使うことを促す自由ソフトウェア運動を開始した。GNUプロジェクトは、自由の精神を尊重したオペレーティングシステムを協力して製作するプロジェクトであり、コンピュータの黎明期にハッカーたちの間に存在していた、互いに協力する精神をよみがえらせることを目的としている。 自由ソフトウェアの定義. フリーソフトウェア財団は自由ソフトウェアの定義を提示している。ソフトウェアライセンスについては自由ソフトウェアライセンスを参照。 定義に照らして自由ではない、すなわち改造や再配布などに制限が掛かっていたり、ソースコードが開示されていない、無償で利用できるソフトウェアとは異なる概念であり、この場合はフリーウェアもしくは無料ソフトと呼ぶことが望ましいとフリーソフトウェア財団はしている。 逆に定義に従ったソフトウェアであれば、一次的な配布が有償であっても自由ソフトウェアと呼ぶことができる。ただし、前述したように配布が自由であるため、ほとんどの自由ソフトウェアは無償で配布されている。 また、現状強い影響力を持つ定義として、フリーソフトウェア財団の定義の他に、DebianフリーソフトウェアガイドラインとそれをベースにしたOpen Source Initiativeのオープンソースの定義がある。 自由なソフトウェアと、無償のソフトウェア. そもそも、英単語であるフリー (free) は、「自由」と「無料」、双方の意味をもっていて、たんに"free"といっただけでは区別が付かない。これに対し、Free Softwareの概念においては、「自由」と「無料」の違いが大きな意味を持つ。このため、英語圏では、自由のfreeと、無料のfreeを区別するため、無料を示すのに「free as in "free beer"(無料のビール)」、また、自由であることを示すのに「free as in "free speech"(言論の自由)」などという表現がよく使われる。 熟語として記述する際には、"free software"、"Free Software"と区別している。前者がよく言われる"無料のソフトウェア"であり、後者は固有名詞で、リチャード・ストールマンが自由なソフトウェアに対して名づけた"自由なソフトウェア"のことである。最近では本来英語の単語でないものの、「自由」を意味する単語としてラテン語の "libre" を使い "Software libre" のように表すこともある。 無償のソフトウェア. フリーウェアを参照のこと。 自由なソフトウェア. コンパイルした成果物だけでなく、ソースコードが入手可能であり、さらに、その改変と再配付も自由である必要がある。 フリーソフトウェア財団(FSF)の創始者リチャード・ストールマン(RMS)が、"自由に"利用し、改変し、再配布することができるという意味でFree Softwareという語を1980年代初頭に作った。この場合、単に無料であるソフトウェアは、"フリーウェア"と呼んで区別する。 ソフトウェアが自由であることを重視するリチャード・ストールマンの立場からは「無料」との混同は避けたいところである。そのため、彼は折に触れてこの区別を強調し、また「日本語にはせっかく2つの意味を区別する言葉があるのだから、Free Softwareではなく自由なソフトウェアと呼んで欲しい」と述べている。 自由ソフトウェアは、著作権を放棄した「パブリックドメインソフトウェア」とは異なる。一見矛盾しているように見えるかも知れないが、自由ソフトウェアは(自身が自由であるための手段として)著作権を明確に主張し、そのライセンスの文中で自由を規定するという方法を取っている。 このため、あるソフトウェアが、自由なソフトウェアである場合には、自由であることを、ライセンスで明確に示しており、確認することができる。ライセンスが、例えばGPL、LGPL、GFDL、BSDライセンス、X11ライセンスなどであれば、自由なソフトウェアである。 現在、GNU/Linuxとして知られる自由ソフトウェアのオペレーティングシステムのプロジェクト:GNUを始めるに当たって、作られるソフトウェアの自由を保証するために、自由ソフトウェアの概念を定義した。GNUは自由ソフトウェアのみで構成されるというわけである。 自由ソフトウェアとして認められるライセンスには、二通りある。 自由と無料の比較. ソースコードが公開されなければ、自由なソフトウェアではない。ソフトウェアを自由に変更・配布することはソースコード無しには極めて困難だからである。 しかし、ソースコードが付属していても、ソースコードを改変したり配布したりする自由が制限されていれば自由なソフトウェアとは言えない。 自由なソフトウェアは、そのソフトウェアが仮に有料で取得されたとしても、それを無料でコピーすることを制限しない。また、同時に、自由なソフトウェアは、それを有料で販売することも制限していない。「自由」には有料で販売する自由、無料でコピーする自由が含まれている。したがって、「有料なので自由なソフトウェアではない」という判断は間違いである。例えばLinuxディストリビューションに有償のものも多いように、自由なソフトウェアを集めてそれらを有償で販売する製品形態は定着してきている。 自由なソフトウェアは、有用なものであれば大抵はそれを無料で配布しようとする者が現れる。勿論、無料で配布することは自由である。その意味では自由なソフトウェアには無料という意味でもフリーなものが多い。 関連する概念. コピーレフト. 自由なソフトウェアが、永続的に自由であるための概念としてコピーレフトがある。 コピーレフトとは、配布にあたって「配布される人にソースコードを自由に取得・変更・再配布する権利を提供せずにプログラムの再配布をしてはいけない」という制約をつけることで一旦自由ソフトウェアになったソフトウェアは他人の手を経て再配布されても自由ソフトウェアであり続けることを保証する。 この制約の有効性はプログラム著作者の著作権(コピーライト)によって保証されている。rightをleftに置き換えてコピーレフトという語が作られた。 日本においては、コピーレフトの観念を"永久に無料で更新され続ける"かのようなイメージで語られることがあるが、コピーレフトは、ソフトウェアを"永続的に使う機会を保証する"ために、そのソフトウェアのもとになるソースコードの利用の自由を保証する(させる)だけである。エンドユーザが常に改良されたソフトウェアを使えるかどうかとは無関係である点に注意が必要である。 要するに、私有ソフトウェアは、なんらかの事情で権利主が更新が停止した場合、そのソフトウェアの命脈は文字通りそれまでであるが、コピーレフトであれば、ソースコードを改良する人がいる限り、ソフトウェアの更新も継続される、ということである。逆にいえば、コピーレフトであっても、誰もメンテナンスしなければそのソフトウェアはそのままであるし、実際にそういうソフトウェアは多い。 コピーレフトもまたGNUを始めるに当たって、より自由なソフトウェアを定義するための概念である。GPL/LGPLは、コピーレフトを実現する法的に有効なライセンスで、弁護士の協力の元に作られた。 ソフトウェアに例えて言えば、コピーレフトは「アーキテクチャ」であり、GPLはその「実装」ということになる。つまり、コピーレフトを実現するライセンスにはGPL以外にもあり得る。 コピーレフトやGPL自身が、実社会で動作するコンピュータプログラムのようなもので、天才プログラマのストールマンならではの作品だと言える。自由な社会を作り出すプログラムである。「GPLをあなたのソフトウェア/作品に組み込めばそれは、自由な社会を作り出すために自動的に働き始めますよ」というわけだ。 GNUなどの考え方としては、コピーレフトなライセンスが「自由な世界のソフトウェアは自由を失うことが難しい」という意味で、より自由ということになる。 これに対して、BSDを始めとしたコピーレフトではないライセンスは、「自由なソフトウェアが将来自由を失う可能性があり得る」という意味で、コピーレフトに比べて自由さに欠けるとされる。例えば、BSDライセンスで公開されているソフトウェアを改良して公開するとき、必ずしもソースコードを公開しなくても良い。コピーレフトの考え方によれば、このとき「改良されたバージョンは自由が失われている」とされる。 一方、コピーレフトは「自由であること」が失われないために「自由でなければならない」という制約を付けていると見ることもできる。例えば、コピーレフトなソフトウェアを改造して公開する場合、ソースコードの公開を拒むことはできない。コピーレフトなソフトウェアをBSDライセンスで公開することもできない。この意味で、「コピーレフトは制約が強く、BSDライセンスなどに比べて自由でない」と考える人もいる。 詳しくはGNUプロジェクトの「さまざまなライセンスとそれらについての解説」に自由ソフトウェアとして認められるライセンスの一覧があり、必要に応じて更新されている(日本語版は英語版に比べて更新が遅れるので、最新の情報を得る必要があるときは、英語版を参照のこと)。 オープンソース. Free softwareという言葉は「無料」を連想させるため、一般企業には採用されにくい考えかたであった。この状況を改善させるため、エリック・レイモンドらによって近年オープンソースという語が提案され、広く使われるようになった。オープンソースという言葉には"自由"の思想が含まれておらず(前述の状況を回避するため意図的に避けられている)、あくまでビジネス上の企業戦略の一つとして紹介された。「ソースコードを公開するとどういうメリットがあるか」が関心の中心である。 オープンソースはソースを取得、変更、再配布できることに注目し、ソフトウェアの自由を維持するためのコピーレフトの概念は含まれていない。 このような違いから、自由ソフトウェアとオープンソースの立場は別の物として扱われている。形としては、オープンソースは自由ソフトウェアの一部のように見えるが、意味としては全く違うと、リチャード・ストールマンは主張している。逆にオープンソースは、自由ソフトウェアをその一部として含む。 各ライセンスはオープンソースの概念を発表・定義し、推進する団体であるOpen Source Initiativeによる認証を受けることで「オープンソース・ライセンス」を名乗ることができる。しかしオープンソースは流行語になったため独自の解釈による自称オープンソースが複数存在するため問題となっている。 産業としての自由ソフトウェア. 自由ソフトウェアが提唱された当初は批判意見もあり、利用者は研究者や個人に限られていた。 1990年代になると、インターネットの爆発的普及により、自由ソフトウェアに携わる技術者が世界的に増大した。また、ダウンサイジングとオープンシステムの普及により、情報システムにおける標準化とコストの劇的な低下が起こり、相対的にシステム構築や、保守運用のコストの比重が増加した。 このため、自由ソフトウェアを使用し、情報システムの構築、保守運用を行うことで利益を上げるベンチャービジネスが勃興した。 このような企業において独自に行われた、バク修正や機能の追加は、インターネットを通じ公開され、自由ソフトウェアの信頼性向上や高機能化に貢献した。企業も、社会貢献によるイメージアップと、技術力を示すことによる広告効果を期待することよりも、特定の高価な独占ソフトウェアでは利益が独占企業に集中するだけであり、対抗して作られてきた自由ソフトウェアに積極的に開発に携わることにより、利益確保の道を模索している。あるいは、開発、保守の費用負担ができなさそうなソフトウェアを自由ソフトウェアとしてソースコードを公開することより、固定的な費用負担を削減することを目的としている場合もある。 2000年代になると、自由ソフトウェア産業はエコシステムとして機能するようになり、多くの人から産業としての価値を認められるようになった。また、従来からの大企業が自由ソフトウェアに関わることも珍しくなくなった。 一方、現在でも自由ソフトウェア開発では、特許などの知的所有権の保護が十分検証されておらず、企業での利用にはリスクがあると批判されることがある。しかし、国際規格などの公開の規格類に適合していれば、特許・知的所有権は規格制定とその後の所定の期間で検証済みとなるため、企業での利用にリスクがあるとは限らない。保守運用で利益を上げることが難しい個人向けソフトウェアでは、有償の自由ソフトウェアの運用は進んでおらず、個人の自己責任での利用が広がっている。また、自由ソフトウェアが入っていることを知らずに利用している場合の方が多くなっている。
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西洋美術史
西洋美術史(せいようびじゅつし)では、西洋における美術の歴史について概説する。 古代. 原始美術. 旧石器時代後期に入った頃より、実生活において有用に機能するとは考えにくい遺物・遺構が見られるようになり、これらを総称して一般的に原始美術/先史美術などと呼称し、西洋美術史においては洞窟絵画や、、獣骨などに刻まれた刻線画などがこれに該当する。また、実用品からも動物や魚の骨などを原材料とした器物や石器類などに動物や魚類、木の葉などを写実的に模様化したものが残されており、美術の目覚めを感じさせる。ただし、これらを原始美術と分類し、その地位が確立されたのは20世紀に入ってからである。 古いものはオーリニャック期に生み出されたとされ、フランスの に描かれた山羊の洞窟絵画、スペインのに描かれた鹿の洞窟絵画などが知られている。 動産美術としてはブラッサンプイで出土した象牙彫りの女性頭部像がある。人間を表した作品はたいていの場合裸体女性であり、子孫繁殖を祈念した宗教的意味合いが込められていたと推察される。この時代の美術的特徴としては、単純な輪郭線による写実的な表現や生殖機能を強調した表現が挙げられる。ソリュトレ期の洞窟絵画は発見されていないが、マドレーヌ期 に入ると動物の体毛に応じた明暗の使い分けや、肥痩のある輪郭線を使用した表現力の増した洞窟絵画が出現するようになっている。有名なものとしてはラスコー洞窟やアルタミラ洞窟のものが挙げられる。これらの洞窟絵画では野牛、トナカイ、馬、マンモス、鹿などの狩猟対象となった動物のモチーフが主となっていた。 このため、これらの遺例はヨーロッパ大陸を拠点に生活を営んでいた狩猟採集民族の手によって作成されたものであり、彼らにとって重要・貴重なものを対象として造形的に再現したに過ぎず、後年の美術が獲得していった社会的機能は持っていなかったのではないか、あるいは誰かに見せるために描いたものでは無いのではないかと考えられている。 中石器時代には東スペインで興った様々な動物と人間を描いた岩陰絵画(レバント美術)やスカンジナビア半島からロシアにかけて発達した岩陰線刻画(極北美術)が登場した。初期のものには写実的な表現でもって実物大に近い大きさを有しているものも見られるが、時代を追うごとに形像は小型化し、簡略化・形式化が進んでいる。 新石器時代に入ると人類は土器の製作を始め、線状模様が土器表面に描かれるようになった。この時代に洞窟絵画に見られるような絵画的美術が創出されたのかどうかは今となっては不明であるが、『西洋美術史要説』では制作そのものが少なかったのではないかと推察している。また、土地土地によって建設されたであろう木造住居は残されておらず、美術史的な立場からこの時代の建築遺物としては、メンヒル、ドルメン、ストーンヘンジなどといった宗教的な意味を持っていたと考えられる石製構造物のみである。 後世、20世紀あたりになって、原始美術に影響されに繋がる。 メソポタミア美術. ティグリス・ユーフラテス川水域で開花したメソポタミア文明では、原始農耕社会の中で様々な器形とユーモアな装飾モチーフを特徴とする彩文土器の出現が見られた。特にサーマッラー期やハラフ期の彩文土器は従来の幾何学文様に加えて特徴を極端に誇張した動物文様や人物文様などが加わり、社会の広がりと異なる文化との交流を示している。地域的な事情から石材が乏しかったことから大型の彫刻は制作されず、建築文化も煉瓦の使用やアーチ式建築の技法発達が見られた。ここで誕生したメソポタミア美術は、エジプト美術と並んで西洋美術史における始祖とも言える。 紀元前4000年期に入る頃にはシュメール人たちによって神殿を中心とした都市が形成されるようになり、商業の活発化とともに絵文字などの伝達手段が登場するようになった。特にウルク期の中心的役割を担ったエアンナでは陶片によって壁面や柱がモザイク装飾された神殿が登場し、大理石を素材にした丸彫彫刻が数多く制作された。大理石が持つ白い肌触りと柔らかな質感は人間の肉感を表現するのにうってつけであり、素材に大理石を使用するという手段はギリシア美術へと継承された。 に入ると礼拝者や聖職者を象ったと思われる立像が制作されるようになり、同時に、政治的指導者の出現によって都市国家としての発展が見られるようになった。制作される美術品は写実的な表現が大きく発達し、素材も多様化して金、銀、ラピスラズリ、貝殻などが用いられるようになった。また、叙述的な表現技法も見られ、戦争などの国家的な出来事も作品モチーフとして取り入れられるようになっている。この時代の彫刻は『エビー・イルの像』に代表されるように、強調された大きな目を有していることに特徴があり、エジプト美術にも影響を与えている。 セム人の侵攻によってアッカド王朝が樹立すると、自然主義的な傾向を有した作品が制作されるようになり、同時に、権力者を称えるような王権美術とでも形容すべき様式の確立がなされた。アッカド王朝滅亡後、ウルクによるシュメール都市国家の統合がなされた頃には都市の再建に伴ってジッグラト(聖塔)が各地に建設され、宗教観の発展とともに建築分野の美術が大きく発達した。ジッグラトは後に続くエジプト美術で建設されたピラミッドの原形となった。 一方、メソポタミア北部のアッシリアでは、バビロニアの占領支配によって固有の文化的発展を遂げ、美術作品においても他の地域にない独自性を有するようになった。トゥクルティ・ニヌルタ1世の時代に入った頃から丸彫彫刻や浮彫彫刻などが数多く制作されるようになり、躍動感のある表現が見られるようになった。 また、地理的な環境と版図の拡がりから不透明ながらもアッシリアの美術はフェニキア美術やギリシア美術に一定の影響を与えたと考えられている。アッシリア帝国滅亡後に誕生した新バビロニア帝国ではネブカドネザル2世の手によって都市整備が進展し、イシュタル門に代表される彩釉煉瓦で装飾された建造物が登場した。 その後、アカイメネス朝によって各地が統治されるようになるとメソポタミア、エジプト、ウラルトゥなどの美術様式を統合したが開花した。特に工芸の分野でその特質は顕著で、金銀象嵌などを駆使した精微な作品が数多く制作されている。 エジプト美術. ナイル川流域で興ったエジプト文明は肥沃な大地を背景に大いに発展し、初期王朝時代には古代エジプト美術の原型が誕生した。エジプト美術の初期は の影響を受けたと考えられている。初期は蛇王の碑などに代表される浮彫彫刻や丸彫彫刻がさかんに制作され、既に技術、様式においてエジプト美術の独自性の原形が垣間見える。 ファラオの神権的権力が確立する古王国時代には葬祭複合体として古代史においても重要な建築物であるピラミッドがギザなどに建立された。なお、従来の墳墓(マスタバ)の概念を取り払い、ピラミッドとして確立を見たのはジェセル王の時代であり、宰相イムヘテプによってサッカラに建立された階段ピラミッドがその嚆矢とされている。壁画においてはなど、動植物には写実的で精微な表現を有したものが数多く制作されているのに対し、人像表現は極めて形式的かつ概念的で、上半身は正面向き、下半身は真横からといった形態で表現されていることが多い。 これは、魚や鳥は死者の食料としての役割を担っており、生きの良さが重要だったのに対し、表された人々は王侯に奉仕する労働力として永遠不動の形を要求するというエジプト独特の信仰から来る表現の違いであると推察されている。 中央集権が瓦解し、中王国時代に入るとアメンエムハト3世の時代に入るまで巨大建造物の造営は見られなくなり、代わってオシリス柱やハトホル柱など、独創的な形式を有する葬祭殿や神殿が出現した。彫刻においては第11王朝期ごろから個性を写実的に捉える傾向を持った新しいテーベ様式が出現し、従来の伝統的なメンフィス様式とともに二大潮流を形成した。しかしながら経済の停滞とともに制作傾向は大型石像彫刻から木製の小像へと変化している。 新王国時代に入ると王権の強化とともにエジプト美術は絶頂期を迎え、アモン大神殿やルクソール神殿など、テーベを中心に各地で大型の造営事業が推進された。とりわけ、第18王朝期には従来の二大潮流の中に豪華な装飾性と色彩主義が加えられ、宮廷美術の新境地を切り開いた。 また、アマルナの地に都を移したアメンホテプ4世が唯一神アトンへの信仰に没頭したことから、この時代に制作された美術作品は自然主義的な傾向が色濃く反映されており、エジプト美術のなかでは異彩を放っている。宮廷美術として型にはめられ、厳格な形式性から解放されたことから、リアリズム表現の技法が大いに伸張した。王女に口付けをするアメンホテプ4世の彫刻画など、人間の感情や情愛をモチーフとした構図が採用され、表情や姿態に誇張的な表現がとられた。 この時代の美術をそれ以外の時代のエジプト美術と区別し、アマルナ美術と呼称する。アマルナ美術は後世のエジプト美術にも大きな影響を与え、ツタンカーメンの黄金マスクなどにおいても、アマルナ美術の内観的な表現様式の名残が見て取れる。 エジプト美術の最大の特徴はその様式の不変性で、三千年に及ぶ悠久の時を経てもほぼ変わることなく一貫していることが挙げられる。こうして連綿と継承された技術はその洗練性を高め、後期には沈浮彫りなどの高度に発達した特殊な技法が誕生している。一方でこうした不変性は社会的・歴史的基盤があって初めて成立する特殊な美術であったこともまた事実であり、ギリシア美術のような影響力を他の美術に与えることはなかった。しかし、末期王朝時代に入ると王国の衰退とともにエジプト美術も因襲的な模倣に終始し、他国からの影響を受けながらその独自性すら失っていった。紀元前332年、アレクサンドロス3世によってエジプト征服がなされると、エジプト美術は形骸化し、ギリシア美術の影響の中に消えていった。 ギリシア美術. アーサー・エヴァンズのクノッソス発掘によって、地中海域で最初に開花したとされるクレタ美術()の解明がなされた。新石器時代末期から青銅器時代初頭にかけて、キュクラデス諸島などで人体の特徴を簡潔に捉えた石偶や彩色土器、金属器などが制作されている。旧宮殿時代に入ると農業と海上貿易によって都市は経済的に大きく発展し、マリア、クノッソス、アヤ・トリアダなど各地に荘厳な宮殿が造営された。工芸品も数多く制作され、カマレス陶器のような豪華なものも出現している。 紀元前1700年頃に発生した大地震により一時は壊滅の危機に陥るが、新宮殿時代に入るとより複雑で豪華な装飾を持つ宮殿や離宮が建立された。自然と人類を見事に調和させ、自由闊達に描いた壁画が残されており、こうした作風はペロポネソス半島で隆昌したミュケナイ美術へ受容、継承された。紀元前1400年頃に入ってミュケナイ人がクレタ島を征服すると、ミュケナイ美術は最盛期を迎え、後のギリシア建築に大きな影響を与える建造物が複数建築された。 ミュケナイ美術は時代を経るに従って豊かな自然主義的作品から簡素化された装飾モチーフを用いた形式主義的作品へと変遷しており、その理由については明らかになっていない。その後、紀元前12世紀頃のドーリス人大移動を境に衰退期へと移行し、ミュケナイ美術はその幕を閉じることとなった。 紀元前11世紀中ごろ、アテネのケラメイコスからミュケナイ陶器とは異なる特徴を持った陶器が出現した。黒線や水平帯によって区分した装飾帯に波状線や同心円文を配した構築的な装飾を持ったこれらの様式は原幾何学様式と呼ばれ、ミュケナイ美術とは明確に区別されるようになった。 紀元前925年頃になるとこの傾向はより顕著に現れるようになり、紀元前8世紀前半に登場したディピュロン式陶器はメアンダー文、ジグザグ文、鋸歯文、菱形文などを複雑に組み合わせた装飾が配されている。 こうした幾何学的な構想は陶器の文様に限らず、テラコッタや青銅小彫刻などにおいても同様の傾向が見られ、動物や人間などの各部位を幾何学的形態に置き換えた後に全体を再構築するという過程を経て制作されており、有機的形態の分析による認識法や、部分均衡と全体調和によるギリシア美術固有の造形理念が見られる。以上のような経緯を経てギリシア美術は確立に至るが、ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンが記した『古代美術史』に代表されるように、ギリシア美術こそが西洋美術のはじまりであるとする言説も存在している。 その後、エジプト、アッシリア、シリアの東方から持ち込まれた工芸品を通じて、ギリシア美術における装飾モチーフの表現領域が大きく拡大し、、ロータス、ロゼットなどの植物文やスフィンクスなどの空想動物が用いられるようになった。プロト・コリントス式陶器やコリントス式陶器など、こうした装飾モチーフを利用して制作された作品はギリシア美術の中でも特に東方化様式と呼称し、区別されている。 一方、アテネでは叙事詩や物語への関心が高まったことによりこれらをモチーフとした陶器や彫刻が制作され、これらはやがて神話表現へと昇華していくこととなった。紀元前7世紀に入るとエジプト彫刻の影響で大掛かりな彫刻が制作されるようになり、この頃作られた男性裸体像()は既に両足を前後させて体重を均等に支えるポーズをとっており、ギリシア彫刻としての特徴が見て取れる。 ここまでに培われた表現基盤と技術的要素を背景として紀元前7世紀中盤ごろよりギリシア美術において最も創造力に満ちたアルカイック美術が展開された。人体彫刻はより自然な骨格と筋肉をまとったものへと発展し、神殿建築分野ではこれまでの日干煉瓦や材木に代わって石材が使用されるようになり、に代表される周柱式神殿が誕生した。紀元前6世紀にはサモスのヘラ神殿やエフェソスのアルテミス神殿など、イオニア式オーダーによるより巨大な神殿が建立されるに至り、これに伴う建築装飾技法が大いに発達した。 浮彫彫刻では静止像に動性を、運動像に瞬間の静止を表現できるよう試行錯誤が繰り返されるようになり、その過程でアルカイックスマイルなどの立体表現が生み出された。なお、ギリシア美術で好んで使用された素材である大理石の色によってギリシア彫刻の特徴としてその「白さ」が取り上げられることがあるが、制作当時はエジプトから輸入された顔料などを用いて鮮やかな彩色が施されていたことが近年の研究によって明らかになっている。 陶器画の分野ではアッティカがコリントス式陶器の技法を吸収して黒絵式技法を確立し、フランソワの壺に代表されるような、神々や英雄の神話的場面を描出した作品が制作された。アマシスやエクセキアスはこの技法をさらに洗練させ、前者は人間味溢れる神々の姿を、後者は重厚な筆致で崇高な神々の姿を描き出し、神人同形(アントロポモルフィズム)という観念を確かなものとしている。その後、黒絵式陶器画は赤絵式陶器画へと転換していき、より細部にこだわった絵画的な表現がなされるようになった。こうした技法発展の背景は、板絵や壁画といった新しい芸術表現に対する絵画的探究の表れだったのではないかと考えられている。 紀元前5世紀初頭に入ると、ポリュグノトス () やといった画家によって「トロイアの陥落」「マラトンの戦い」などの神話歴史画が描かれ、大絵画というジャンルが確立するに至った。四色主義(テトラクロミズム)という制約の下、形像の重複や短縮法といった技法を駆使することによって絵画上に奥行きのある空間表現を試みており、絵画、彫刻におけるギリシア美術の進むべき方向性を示したという意味で特筆すべき存在となった。彫刻分野の作品においては、それまでの直立不動の姿態から支脚/遊脚の概念を取り入れたコントラポストへと変化しており、やなどが制作された。 この時代、ペルシアを撃退し、ギリシア世界の覇権を獲得したアテネは最盛期を迎え、ギリシア美術もそれにあわせてクラシック時代という新しい領域へと突入することとなった。ペリクレスによってアクロポリスの整備が推進され、オリンピアのゼウス神殿やパエストゥムのポセイドン神殿で培った技術にイオニア的な優美さを付加したパルテノン神殿が建立される。彫刻分野ではパルテノン神殿の造営を指揮したフェイディアスによってアテナ・パルテノスの黄金象牙像が制作された他、ポリュクレイトスによって体中線をS字に湾曲させるなどの技法が生み出され、コントラポストの極致が確立された。絵画の分野ではアポロドロスによって空間表現に不可欠な幾何学的遠近法、空気遠近法の融合化を図った作品が制作された。その他、明暗技法に優れた才能を発揮したゼウクシス、性格表現と寓意的表現に優れていたパラシオスなどがギリシア美術における絵画の発展を牽引している。 クラシック時代後期に入ると個人主義が台頭し、美術界においても多大な影響を与えた。彫刻分野ではプラクシテレス、スコパス、リュシッポスが静像に内面性を付加させた表現技法を生み出すとともに、裸体女性像の価値を大きく引き上げることに貢献した。アレクサンドロス3世の宮廷彫刻家としても知られるリュシッポスは肖像彫刻の分野でも優れた作品を残しており、後世やローマ美術の彫刻家達に大きな影響を与えた。同じく宮廷画家であったアペレスは明暗法、ハイライト、遠近法を駆使した大絵画を創出し、古代最大の画家と評価されている。 アレクサンドロス3世の死後、ヘレニズム諸王国が出現し経済活動、人口流動が活発化すると美術の産業化が顕著となった。富裕層の市民が住宅を壁画で装飾して彫刻で彩ることが流行化し、古典主義美術の伝統が一時的に途絶えることとなった。こうした現象についてローマ時代の文筆家大プリニウスは「美術は紀元前3世紀第2四半期に滅亡し、紀元前2世紀中頃に復興した」としている。 ローマ美術. 一方、イタリア中部に定着したエトルリア人は、ギリシア美術の影響を受けつつも、独自の宗教観や社会制度を背景に独特の美術文化を形成した。一般にエトルリア美術は東方化様式期、アルカイック期、古典期(中間期)、ヘレニズム期の4つに分類されるが、もっとも繁栄を見たのが紀元前6世紀初頭から紀元前5世紀前半にかけてのアルカイック期130年間である。 都市や建築の遺構は少ないが、ギリシア美術で頻繁にモチーフとされた神話を描いた陶器などが出土している他、墓室壁画においては葬儀宴会、舞踏、競技、狩猟など日常生活に密着したモチーフが好んで選択されており、エトルリア人独自の来世観を保持していたことが伺える。紀元前7世紀から顕現したこうした兆候はヘレニズム期まで継続していた。彫刻分野も遺例が少ないものの、紀元前6世紀末に活躍したはエトルリア人彫刻家として名が知られている特筆すべき人物で、ヴェイオから出土した「アポロン」など、イオニア彫刻の影響を強く受けたテラコッタ像を制作している。 紀元前5世紀初頭の古典期に突入すると政治、経済の衰退と共に美術的活動も新鮮味と活力が失われ、様式的にも停滞した。しかし、ヘレニズム期に入ると来世観に進展が見られ、やといった魔神が墓室壁画のモチーフとして選択されることが多くなった。肖像彫刻においては写実性溢れる作品が好んで制作されるようになった。 紀元前509年、エトルリアに従属していた都市国家のひとつであったローマは、共和制を樹立し、周辺都市国家を征服しつつ紀元前4世紀にはエトルリアをもその支配下に置いた。その過程でエトルリア美術の影響は次第に薄れてはいったが、独自の美術を生み出すには至っていなかった。 紀元前3世紀に入るとサムニウム戦争や第一次ポエニ戦争などの影響により、戦利品として南イタリアのギリシア植民都市から大量の美術品が持ち込まれると、その成熟された美しさに魅了され、第二次ポエニ戦争以降、ローマ下においてギリシア美術ブームが起こった。これによりローマでは従来の伝統的なエトルリア美術と、「外来」のギリシア美術がそれぞれ潮流を成し、社会に氾濫することとなった。ローマ人の需要に応えるべく、創造性には欠けるが様々な様式の彫刻を注文に合わせて制作すると呼ばれる一派が形成され、アウグストゥスの庇護を受けて伸張した。この影響で「アウグストゥスの平和の祭壇」や「プリマポルタのアウグストゥス」といった高度な写実性を有する、洗練された古典主義的な美術品が数多く制作されている。 建築分野では紀元前1世紀前半ごろより、ヘレニズム期のエトルリア美術を基盤としてローマ固有の建築様式を生み出していった。厳格な左右対称性やコリントス式柱頭の多用、内部空間の重視などがローマ建築の特徴として挙げられる。紀元前2世紀前半に建設されたバシリカや紀元前1世紀前半に建築されたコロッセウムなどは、新しい建築ジャンルとしてローマ美術における代表的な建造物としてしばしば取り上げられる。 また、建造物の壁面に描かれた装飾物についてもヘレニズム期の影響を受けるポンペイ第一様式からポンペイ第二様式と呼ばれる装飾法へ移行を果たし、神話的風景画などがさかんに制作された。帝政期に入ると歴代皇帝の事跡を誇示するかのような歴史浮彫が多数制作され、現代ではトラヤヌス帝の記念柱やコンスタンティヌス帝の凱旋門などがその遺構として知られている。 同時に神話的な情景を主たるモチーフとしていた古典主義は衰退し、現実の情景を記した写実主義がもてはやされるようになった。さらに、2世紀中ごろからは主要人物をより強調して表現する傾向が顕著となり、その影響は肖像彫刻などの他ジャンルへも波及した。こうした自然主義の放棄と表現主義の台頭という変遷は、この後のローマ美術がキリスト教美術へと変質化していく過程における重要な転換点として挙げられる。 中世. 初期キリスト教美術. 紀元2世紀末から3世紀はじめにかけて地中海沿岸の各地にローマ美術の流れを汲んだキリスト教美術が誕生した。以降キリスト教美術は1500年以上に渡って東西ヨーロッパにおける美術の中核を担っていったが、キリスト教の誕生から5世紀後半までの美術を初期キリスト教美術と呼称している。313年に公布されたミラノ寛容令まではキリスト教に対して弾圧が繰り返されていたこともあり遺跡、遺品ともに残されているものが少ないが、カタコンベ(地下墓所)の壁画や石棺彫刻といった葬礼美術にその特徴を垣間見ることが出来る。火葬と土葬が併用されていた古代ローマ時代からヘレニズム文化の影響を受けて土葬へと急激に転換したことが、こうした葬礼美術が制作されるようになった要因の一つとされている。キリスト教では偶像崇拝が禁じられていたことから、死後の魂の救済を願って描かれた初期の壁画は、構図やモチーフに異教美術からの積極的な借用が見られるものの、十字架の形を象徴する物やイエス・キリストを意味する魚、よき羊飼いや祈る人といった寓意的な人物など、間接的または暗示的な信仰の表明が示されている。教義が出来上がり、教会体制が整うにつれて新約聖書や旧約聖書に語られている物語がモチーフとして選択されるようになった。 380年に、テオドシウス1世によってキリスト教が国教として定められると、帝都コンスタンティノポリス、ローマ、アンティオキアなどの各地で大規模な教会堂の建築が実施された。建築様式としてはローマ美術のバシリカから派生したもの(バシリカ式)、ヘレニズム美術の廟墓建築やユダヤ教の記念堂建築の流れを汲むもの(集中式)に大別されるが、いずれも煉瓦造りの質素な外観に対してモザイク装飾を用いた豪華な内観という特徴を持っており、現実的な地上世界と神秘的な死後世界の対照化を試みている。バシリカ式の教会堂としてはローマのサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂が、集中式の教会堂ではラヴェンナのガッラ・プラキディア廟堂が、それぞれこの時代に建築された代表的な例として挙げられる。5世紀に入るとキリスト教美術はローマ美術の古典的な様式から豪華な金地や多様な装飾が施された東方的な荘厳美術へと傾倒していった。 ビザンティン美術. 330年、コンスタンティヌス1世により帝都がコンスタンティノポリス(現イスタンブール)へ移されたことがきっかけで美術活動の重心も東方へと移っていった。これによって初期キリスト教美術に古代アジアやサーサーン朝ペルシアの美術的要素が融合し、ビザンティン美術が確立された。ビザンティン美術は15世紀までの長きに渡り、大きな変質なく脈々と一貫性を保ち続け、その特徴は荘厳な様式の中に散りばめられた豪華絢爛な装飾性と、精神性や神秘性を追求した理知的な傾向が挙げられる。ユスティニアヌス1世の第一次黄金時代と呼ばれる時期に建築されたハギア・ソフィア大聖堂は、それまでのバシリカ式と集中式の建築様式を統合し、新しい建築類型を確立させた。また、近東の民族美術の影響で装飾モチーフにも変化が見られ、聖樹や獅子、幾何学文様などの象徴的あるいは抽象的な浮彫装飾が好んで選択されており、人像の表現は激減している。さらに、8世紀に入って聖像論争が勃発して聖像否定派が優勢に立ったことで、こうした傾向はますます顕著となり、造形美術分野は一時的な衰退を余儀なくされた。 9世紀後半に興ったマケドニア王朝はその版図を拡大し続け、11世紀にはイタリア南部からスラブ諸国にまで及ぶ大帝国となった。この時代に始まった美術界における栄華をビザンティン美術における第二次黄金時代と呼ぶ。ヘレニズム期の古典的な伝統美術が影響力を強め、教会堂建築もオシオス・ルカス修道院などに代表される、集中式を基盤とした装いへと立ち返っている。工芸美術の分野では「」や「ナジアンゾスのグレゴリウス説教集」といった擬古典的な様式を採用した写本装飾などが制作された。その後、マケドニア王朝の滅亡とともにコムネノス王朝が興ると華やかな宮廷美術と、人文主義的な伝統美術が融合した独特の美術が開花した。代表的な教会堂建築としてはダフニ修道院、などがある。13世紀前半には十字軍の略奪と占領などによって再び停滞期に突入するが、パレオロゴス王朝の時代に入るとコーラ修道院に代表される写実的で繊細典雅な様式が花開いた。 11世紀中葉以降、西方における帝国拠点都市を通じて、ビザンティン美術は西欧美術に大きな影響を与え続け、大構図モザイク装飾を採用した教会堂が各地に建立された。 初期中世美術. 476年の西ローマ帝国滅亡後、ゲルマン諸族の国家が次々と誕生した。ガリアの地においてもゲルマン民族の手によってブルグント王国が成立したが、5世紀後半にクローヴィス1世率いるフランク王国によって滅ぼされた。クロヴィス1世は都をソワッソンへ移し、ローマ文化を積極的に取り入れ、ローマ帝国の継承者としてメロヴィング朝を興した。こうした経緯によって培われたメロヴィング朝の美術は工芸品分野において優れた技術を見せており、ゲルマン民族特有の豪華な装飾と、ガリア土着の伝統が融合した独特の様式を呈していた。また、近東の修道院制度がイタリアやアイルランドを経てもたらされ、大小様々な僧院が建立されている。写本装飾の分野ではメロヴィング朝特有のの書体との「鳥魚文」が多用されると同時に、花や鳥を幾何学的に組み合わせた文様なども確認でき、古代の自然主義的表現様式とは一線を画すものが制作されている。7世紀にはケルズの書に代表されるような、サクソン、オリエント、コプトからの影響を受けた複雑な装飾が施されるようになった。 カロリング朝の時代に入るとカール大帝の手によって学問や芸術の奨励が始まり、美術史的観点において大きな躍進を遂げた。特に彫刻分野においては、北イタリアを中心に発達した組紐文を象徴的に用いた浮彫が各地へ伝播し、後のロマネスク美術の基礎を築いた。写本装飾の分野においてはメロヴィング朝時代に一時衰退した古典的な人像表現が復活し、装飾モチーフとして積極的に使用された。その後、オットー1世によって神聖ローマ帝国が築かれると、西欧文化の主導権を掌握し、文化的傾向の方向性を確たるものとした。 ロマネスク美術. 9世紀から10世紀にかけて、ノルマン人やサラセン人などの異教徒の脅威により、カロリング朝はユーグ・カペーへその王権が引き継がれ、フランク王国は事実上の解体をみた。激動する社会情勢の影響を強く受けた西欧美術も同様に再び大きな変革を迫られることとなった。ロマネスク美術は、そうした社会的変動を背景として初期中世美術という基盤を発展させ開花した、11世紀後半から12世紀にかけての西欧美術を指す。 建築分野におけるロマネスク美術の特徴は、重厚な石壁と暗い内部空間に表され、古代バシリカ式建築を基本に添えつつ、東西への方向軸を持った建造物が増加した。これは、聖地巡礼を行う礼拝客の動線を配慮した結果発展した形態であると考えられている。こうした形態を保持する教会堂を巡礼路聖堂と呼び、トゥールーズのなどがその代表的建造物として挙げられる。この時代、修道院は学問と美術の中心的存在を担っており、各会派は信仰の普及手段として教会堂の建設を推進した。その表現手段は多様で、シトー会派が図像を否定し、質素な美術を奨励したのに対し、ベネディクト会派は豪華な素材を用いて美術の荘厳化に注力した。地方によって同じロマネスク美術建築でも特徴が大きく異なるのは、地域に対する会派の影響度の違いを示している。 また、後年のゴシック美術の建築と比較して壁面が多く、教会堂の天井や側壁には聖書や聖人伝を題材とした説話的な壁画が描かれた。地方によって細微な違いがあり、もっとも西方的な様式を確立したのはフランスで、その他の地域は大なり小なり東方的なビザンティン美術の要素を取り込んだ壁画が制作されている。イタリアではカロリング朝の伝統を継承しつつも、ビザンティン美術の範例を手本としながら力強い筆致で描かれているのが特徴で、イタロ=ビザンティン様式と呼ばれるこうした大構図壁画は、やなどに残されている。スペインでは東方的な色彩との影響によって、カタルーニャ地方に独特のロマネスク美術が開花した。また、オットー朝の写本工房の影響力がドイツ南部、オーストリア、スイス北部などではイタリア経由でもたらされたビザンティン美術の要素と融合を果たしたロマネスク美術が確立されている。 工芸分野では十字架、装幀板、燭台、聖遺物箱、祭具といった宗教用具がさかんに作成され、古代の浮彫や彫刻技法を復活させたことに大きな意義を見出すことが出来る。こうした丸彫像ではコンクの聖女フォワの遺物像がその先駆けとなった。その他オットー朝の伝統を汲むドイツや北イタリアの諸工房では、象牙や金を素材とした工芸細工が数多く制作され、フランスのリムーザン地方ではエマイユ工芸が発達し、聖遺物箱や装幀などが制作された。また、バイユーのタペストリーに代表される刺繍工芸が盛んになったのもロマネスク美術の特徴といえる。 ゴシック美術. ロマネスク美術の延長線上に位置付けられるゴシック美術は12世紀半ばごろより始まり、人間的・写実的な表現を特徴とし、ロマネスク美術の象徴的・抽象的な表現とは対照的な様相を呈している。この変革の背景には社会環境の変化が大きな影響を与えたと考えられている。前時代は修道士や聖職者など、限られた人々が文化の担い手であったのに対し、裕福な市民層や大学を拠点とする知識人などの台頭によってその範囲が拡大していったことが、美術の性格を変革させた一つの要因となっている。 こうした精神を如実に物語っているのが建築分野であり、その先鞭はシュジェールによって行われた1144年のサン=ドニ大聖堂改修工事である。シュジェールは信仰を導く手段として「光」の重要性を謳い、尖頭アーチを用いた肋骨交差穹窿とステンドグラスを嵌め込んだ大窓を組織的に活用することで、新しい建築意匠を創出した。この動きはすぐにサンス、サンリス、パリ、ランなどフランスの周辺都市へ伝播し、同様の意匠を保持する大聖堂が相次いで建立された。さらにはフランス人工匠の手によって国外へも波及し、イギリスのカンタベリー大聖堂など、新規建築や改修時にゴシック建築の様式を取り入れたものが登場している。また、ロマネスク建築の重厚な石造天井は重量的な問題から、自ずと「高さ」に対して限界が見えるようになり、これを解消することを目的とした建築方式が誕生し、広く受け入れられることは必然であったとも言える。 装飾彫刻もこうした動きと連動し、円柱人像などの新しい要素が誕生した。これによって古来以降途絶していた塑像性が復活し、自然な丸みを帯びた人像表現へと発展していく嚆矢となった。また、個々の彫像が採用したモチーフを連関させ、全体としての合理性を持たせるといったことも試行されている。こうした特徴もつ装飾彫刻の代表的なものとしては、シャルトル大聖堂の「王の扉口」(西側正門)などが挙げられる。連関思想は、次第に金属細工や彩色写本といった小型の美術品にも傾向として現出するようになった。 12世紀に入るとゴシック建築を採用した聖堂の建立が本格化しはじめ、内部空間構成と建造物の見事な調和が見られるようになった。ブルージュ、シャルトル、ランス、アミアン、ボーヴェといったフランス各地の大聖堂やイギリスのソールズベリー大聖堂、ケルンのザンクト・ペーター大聖堂など壮大な聖堂が各地に建設されている。特に、世界遺産にも指定されているアミアンのノートルダム大聖堂は、その全長が145メートルにも及ぶ巨大な聖堂である。また、物理的制約から解放されたことで、塔や穹窿は高さに対しても追求がなされるようになった。 並行して円柱人像の技法も発展し、13世紀に入ると扉口浮彫から丸彫像への移行が見られるようになった。同時にゴシック彫刻の特長とも言えるS字型に捻った姿態、柔和な相貌、流麗な衣襞といった表現が確立し、古典主義的な思想を孕んだ作品が数多く制作された。さらには14世紀初頭にドイツで制作されたピエタの彫像のような凄惨な場面を主題とした彫刻作品も登場し、表現領域の拡張に大きな足跡を残した。 また、色彩芸術の分野ではステンドグラスによる主題表現が代表的で、シャルトル大聖堂の「美しきステンドグラスの聖母」など、12世紀から13世紀にかけて制作された傑作が多数残されている。写本絵画では個人向けの聖書・詩篇集の制作がフランスやイギリスで活発化し、多くの写本画家がパリを拠点に活動を行っている。中でも『ベルヴィル家の聖務日課書』を制作したは、フランスの優雅な人物表現とイタリアの空間表現を融合させ、パリ派写本と呼ばれる写本の新しい基準様式を確立させたことで知られる。 イタリアではビザンティン美術の影響が根強く、ゴシック美術の浸透が遅れていたが、やピエトロ・カヴァリーニといった大構図壁画家によってビザンティン美術からの脱却が図られるようになり、これを継承したチマブーエやジョット・ディ・ボンドーネ、シモーネ・マルティーニといった画家たちによって段階的に成し遂げられ、後世におけるルネサンスの礎が築かれた。こうした画家の登場した時代を切り出してプロト・ルネッサンス時代と呼称する場合もある。 14世紀に入ると教会の分裂や黒死病の大流行に加えて、百年戦争の影響によって大規模な建築造営が見られなくなった。取って代わるように王侯貴族の邸宅や都市の公共施設といった世俗的な実用建築が行われるようになり、用途や地域に即した分極化が進行した。14世紀後半には骨組の構造が複雑化し、装飾的に入り組んだ肋骨構造や曲線を絡み合わせた狭間造りといった特徴が見られるようになる。ルーアンのノートルダム大聖堂はこの時代の代表的な作例と言える。 また、絵画は14世紀の後半から芸術において主導的な立場へ昇華した。西欧各地の宮廷に展開された絵画芸術は国際ゴシック様式と呼ばれ、アヴィニョンで興ったシエナ派の流れを汲む、自然観察に基づく正確な細部の描写と豪奢な宮廷趣味を特徴としている。イタリアのピサネロは国際ゴシック様式の代表的な画家であり、『エステ家の姫君の肖像』など、幻想性豊かな作品を制作している。フランスではパリ、ブルージュ、アンジェ、ディジョンなどで国際ゴシック様式が開花し、1355年頃に描かれたとされる『フランス国王ジャン善良王の肖像』は俗人を描いた単身肖像画としては最古のものとして知られている。ディジョンにはフランドル出身の画家や工人が多く住み着き、メルキオール・ブルーデルラム、ジャン・マヌエル、アンリ・ベルショーズといった宮廷画家がフランコ=フラマン派の作品を数多く生み出した。 その他、装飾写本の分野ではネーデルラント出身で写実的な自然描写と精妙な装飾性を有した写本の制作を得意とするランブール兄弟が知られており、『ベリー公のいとも豪華なる時祷書』はこの時代の写本芸術の最高峰とされている。ランブール兄弟の作品は15世紀のパリ派写本工房へ大きな影響を与えた。 近世. イタリア初期ルネサンス美術. ルネサンスは「再生」を意味するイタリア語 "rinascita" から派生した呼称であり、古典古代文化の復興という思想のもと、ギリシア美術やローマ美術の復活と自然の美や現実世界の価値が再発見され、人間の尊厳が再認識された時代を指す言葉となった。イタリアの建築家で人文主義者であったレオン・バッティスタ・アルベルティは「意思さえあれば人間は何事も為し得る」という、人間の可能性に絶大な信頼をよせた言葉を残しており、ルネサンス美術の根底に流れる人間中心主義という世界観を見事に表現している。こうした思想は15世紀前半、市民階級がいち早く台頭した都市フィレンツェで芽生えた。 建築分野ではサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の円蓋設計を手がけたフィリッポ・ブルネレスキの名が挙げられる。ブルネレスキの設計した聖堂は、ゴシック様式の建築からの明確な離脱を示し、バシリカ式聖堂のエッセンスを取り入れつつも調和と秩序を重要視した人間中心的世界観を体現しており、15世紀にフィレンツェで確立されたルネサンス建築の代表的な作例となった。こうした理念はアルベルティへ継承され、その理念を元に執筆された三大著作(『絵画論』『彫像論』『建築論』)は同時代を含む後世の芸術家たちに絶大な影響を与えることとなった。また、古代ローマ建築の実測を行うことで、科学的遠近法を発見したことでも後世に大きな影響を残している。 ブルネレスキの死後はアルベルティが台頭することとなる。フィレンツェから追放された商人の息子であったアルベルティはローマ教皇庁や諸侯の顧問として西欧各地を歴訪しており、こうしたルネサンス様式がヨーロッパ全土に伝播する間接的な貢献をしていたとも言える。15世紀半ばに入り、共和制の理想が鳴りを潜め、豪商が町の政治を取り仕切るようになると、大富豪の市内邸宅(パラッツォ)の建築が相次ぐようになった。ミケロッツォ・ミケロッツィが建設したメディチ家の市内邸宅(パラッツォ・メディチ・リッカルディ)は秩序と安定を志向するルネサンス建築の思想が表現されたパラッツォの代表的な作例である。 彫刻分野は古代思想の復活という理念が色濃く示された分野であり、ブルネレスキの『アブラハムの犠牲』など、優雅なゴシック彫刻の伝統を打破する力強い人体の把握や細微な写実性を有した作品が数多く登場した。この分野において、国際ゴシック様式からの脱却を試みた最初の彫刻家はの『4人の聖者』などで知られるであると言われている。古代ローマ以降で初めてコントラポストを採用し、オルサンミケーレ聖堂の『聖ゲオルギウス』を発表して頭角を現したドナテッロは、『預言者ハバクク』『ダヴィデ』など古代ローマの作風の復活に心血を注ぎ、ルネサンス彫刻の方向性を決定付けた。特に『ダヴィデ』は二本足で立つ孤立像というジャンルで裸体表現を取り入れたという点において特筆すべき作品となっている。ドナテッロの確立したルネサンス彫刻の様式はその後ヴェロッキオやミケランジェロへ受け継がれていくこととなる。その他、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の『カントリア』を制作したルカ・デッラ・ロッビア、後期ゴシック様式を学びながらも『天国の扉』に見られる透視図法を確立したロレンツォ・ギベルティ、墓碑彫刻や写実的な胸像で新境地を開拓したロッセリーノ兄弟(ベルナルド・ロッセリーノ、)などが代表的な彫刻家として知られている。 建築や彫刻分野と比較して絵画分野における革新性の確立は若干遅く1420年代前半ごろであり、これは古典古代における手本とすべき遺品がこの当時ほとんど知られていなかったことが影響していると考えられている。1421年にフィレンツェへ移住してきた国際ゴシック様式の画家ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノが制作した『マギの礼拝』に僅かながらその片鱗を見ることができるものの、空間に対する配慮は乏しく、目新しさはあまり無い状態であった。しかし、マサッチオの登場により、情勢は一変した。ジョット・ディ・ボンドーネがかつて確立した僅かばかりの空間表現に、光の明暗によって量感を表現する手法が融合され、より奥深い空間を手に入れることに成功したのである。 さらに、ブルネレスキやアルベルティによって合理的な透視図法の理論が構築されると、多くの画家がその刺激を受けて次々と実験的な作品が誕生した。彩色や光の扱い方が拙いながらも透視図法の研究に没頭し、『ジョン・ホークウッド騎馬像』や『サン・ロマーノの戦い』などの作品を発表した国際ゴシック様式の画家パオロ・ウッチェロはその最たる例である。その後、修道僧画家のフィリッポ・リッピ、フラ・アンジェリコらによってマサッチオの様式が取り入れられる。リッピは日常的室内に聖母子を配置したネーデルラント風の絵画を制作した他、人間中心主義を根底に世俗的かつ官能的な聖母や肉感的なイエスなどを描き出している。『受胎告知』などの作品で知られるフラ・アンジェリコは1430年代以降においてマサッチオの空間表現や明暗描写を積極的に取り入れた宗教画を多数制作した。正確な一点透視図法を採用し、聖会話形式(サクラ・コンヴェルティオーネ)の表題を確立したドメニコ・ヴェネツィアーノもマサッチオの影響を受けた画家の一人である。 15世紀後半に入るとフィレンツェで熟成されたルネサンスはイタリアの各都市へ波及していくこととなった。そして、フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロやイザベラ・デステといった人文主義的な君主の治世によって、各都市で豊かな文化活動が育まれた。南トスカーナのアレッツォ、およびトスカーナ公国で精力的に作品制作に没頭した数学者で画家のピエロ・デラ・フランチェスカは、15世紀中期における最大の巨匠として知られ、『聖十字架伝説』に代表されるフレスコ壁画の分野では、一切の無駄を排除し、幾何学的とも言える明晰で秩序立った画面を構築している。 一方、絵画・彫刻双方の主題に「動勢」が取り入れられるようになり、アントニオ・デル・ポッライオーロによる力を孕んだ写実的な筋肉の描写や、ヴェロッキオの『キリストの洗礼』に代表される解剖学的知識を導入した生々しい人体表現を持った作品が登場するようになったのも15世紀後半の出来事であった。また、富の蓄積とこれに伴う趣味の贅沢化によって優美で装飾的な様式を持った作品が流行を来し、サンドロ・ボッティチェッリの『ヴィーナスの誕生』に代表される恥美的世界観を表現した作品が生まれている。その他、アンドレア・マンテーニャやジョヴァンニ・ベリーニもフィレンツェ以外に活動の拠点を置いた同時代の画家として知られ、ルネサンスの波及を象徴している。 15世紀末期には教皇分立時代以降沈滞していたローマにおいても、ボッティチェッリ、ギルランダイオ、ペルジーノらによってシスティーナ礼拝堂の壁面装飾事業が行われるなど、ローマ法王主導の下、旺盛な芸術活動が展開された。1492年にロレンツォ・デ・メディチが没し、フィレンツェが禁欲的なジロラモ・サヴォナローラの支配下に置かれたことによってローマの芸術活動はさらに盛り上がりを見せ、16世紀にはイタリア美術の中心地へと発展していくこととなる。 15世紀の北方美術. ブルゴーニュ公国に属していた15世紀のネーデルラントでは、毛織物工業の発展と国際貿易の振興によって市民階級の台頭目覚しく、豊かな経済と文化が形成された。特に、フランドル地方で発祥した油彩技法は発色に優れ、精緻な質感描写や視覚的世界のリアルな再現を可能とし、西欧全土へと伝播して今日までの揺ぎ無い地位を確立した。ネーデルラントではこうした背景から初期の北方ルネサンスに該当するものは15世紀の絵画に限定され、建築分野や彫刻分野はあくまでゴシック美術の枠内に留まっていたと考えられている。 さて、この新しい油彩技法が採用された最初の作品として挙げられるのは、兄フーベルトが着手し、弟ヤンが完成させたファン・エイク兄弟による『ヘントの祭壇画』である。ヤンはフィリップ3世の宮廷画家としてその後も精力的な活動を続け、数々の宗教画や肖像画を制作している。中でも『ニコラ・ロランの聖母』は、室内に視点を設定しつつもテラスの向こう側に透視図法に従った精微な風景を描くことによって、不自然さを感じさせること無く室内と外景の統合に成功した画期的な作品として特筆される。ヤンの空気遠近法を駆使した奥行き感の描写は以後のネーデルラント画派へ受け継がれていき、北方ルネサンスの大きな特徴として取り上げられるまでになった。 同じ頃、トゥルネーで活躍していたロベルト・カンピンは写実的な技法で描かれた日用品の多くにキリスト教の象徴的意味を秘めさせた作品を制作し、こうしたテクニックがカンピンを師事したロヒール・ファン・デル・ウェイデンによって継承された。ウェイデンは肖像画においても卓越した手腕を見せ、1450年に訪れたイタリアでも賞賛を受けている。 その後はヤンやロヒールの技法様式に色濃く影響を受けたディルク・ボウツ、フーゴー・ファン・デル・グース、ハンス・メムリンクらがルーヴァン、ヘント、ブルッヘなどを中心に活躍した。特にファン・デル・グースが作成した羊飼いたちの写実的表現と細微な風景の装飾的な配置が施された『ポルティナーリ祭壇画』は、後にフィレンツェに持ち込まれ、フィレンツェの画家たちに大きな影響を与えた。一方、ヒエロニムス・ボスは同時代の異色の画家として知られ、人間の悪徳とその懲罰という中世的な思想背景をもとに生み出された数多くの怪物や地獄の描写は、やがて到来するシュールレアリスムを予告しているかのように見られている。 同時代のフランスは百年戦争終結後も市民階級の台頭が見られず、宮廷周辺のごく限られた範囲での芸術活動に留まっていた。そのような中、シャルル7世の宮廷画家をしていたジャン・フーケが『聖母子』など、イタリア初期ルネサンスの影響を受けた作品を制作している。しかし、など、少数の例外を除いてこうした作品は浸透せず、ミニアチュールの制作が主流を占めていた。 対してドイツの美術はネーデルラント絵画の影響下にあり、シュテファン・ロッホナーやコンラート・ヴィッツなどが活躍した。特に、ヴィッツの『奇蹟の漁獲』は特定可能な現実の景観を描いた最初の作例として良く知られている。15世紀後半に入ると、によって雄渾な絵画や細微な彫刻祭壇が制作された。また、新しい分野として版画美術が伸張し、マルティン・ションガウアーの登場で技法はさらに洗練され、後世の巨匠アルブレヒト・デューラーの芸術を育んだ土壌を形成している。 イタリア盛期ルネサンス美術. イタリアルネサンスのうち、15世紀末から16世紀初頭にかけての約30年間は特に盛期ルネサンスと呼称し、区別される。これは19世紀に定まった芸術観を背景として、この時代を古代ギリシア・ローマと並ぶ西洋美術の完成期と見做し、それ以前を完成に至る準備段階として軽視していた考え方が根付いたためである。しかし、今日では「初期ルネサンス」「盛期ルネサンス」を比較し、どちらが優れているかといった考え方は改められ、それぞれに特質や魅力が備わっている別個の美術として理解されてきており、その違いを区別するための名称として使用されるようになっている。主たる舞台はユリウス2世の庇護のもとで活気を取り戻したローマと、東方とヨーロッパ諸国を結ぶ貿易で巨万の富を築いたヴェネツィアである。 1470年代から活動をはじめたレオナルド・ダ・ヴィンチは、新しい芸術様式の創始者として活動当時から認識されており、巨匠と呼ぶにふさわしい功績を数多く獲得した。ヴェロッキオを師としてフィレンツェで修行を積んだ後、軍事技師、画家、彫刻家、建築家としてミラノ公の宮廷に仕えたレオナルドは、その多才ぶりを遺憾なく発揮し、多数の作品を後世に伝え、現代に至るまでの芸術家に大きなインパクトを残している。 絵画では『最後の晩餐』や『モナ・リザ』などを制作しており、特に『モナ・リザ』に使用された新しい技法であるスフマート(ぼかし)は、画面に新たな統一感をもたらし、人物に精気と神秘的雰囲気を与える技法として西洋絵画の様相を一変させるほどの影響を与えた。また、自然科学の分野では、鋭い観察力と的確な描画力で解剖学や水力学などの研究に先駆的な業績を残したことも特筆すべき事項である。 一方、ギルランダイオに師事したミケランジェロ・ブオナローティは人体における新しい表現様式を確立させ、彫刻、絵画の分野において突出した作品を生み出した。ミケランジェロが制作した『ダヴィデ』はルネサンス全体を通して代表的な作品として知られている。ローマに赴いた後、ミケランジェロはシスティーナ礼拝堂の天井画を手がけ、『創世記』の諸場面やキリストの祖先たちの姿を描き出している。特に『アダムの創造』では超越者と人間アダムの邂逅が印象的なタッチで描かれ、アダムの姿は盛期ルネサンスにおける理想的人間像として高い評価を獲得した。従来、ミケランジェロは色彩の乏しい画家との評価がなされてきたが、『アダムの創造』が洗浄され、その色使いが露になったことで、その評価を覆した作品としても名高い。 また、同じシスティーナ礼拝堂に描かれた『最後の審判』では、悲劇的な装いの中にもヘレニズム彫刻的な逞しさを身に纏ったキリストらの肉体を描き出している。1546年にドナト・ブラマンテの後を継いでサン・ピエトロ大聖堂建築の総監督に任じられるとブラマンテの構想を継承しつつ、新たに円蓋および建物後方部の設計を行っており、古代建築の本質を体現させた。 ペルジーノに師事したラファエロ・サンティは、レオナルドやミケランジェロの業績を巧みに取り入れ、20代半ばの若さで独自の人物表現と画面構成の形式美を確立させ、『アテナイの学堂』に代表されるバチカン宮殿の壁画を制作している。ラファエロが確立した形式美は盛期ルネサンス以降の代表的規範として17世紀から19世紀にかけての多くの画家に影響を与え続けた。 この時代、教会や公共施設による注文以外にも富裕層からの注文による美術品の制作が盛んに行われ、ジョルジョーネの『嵐』に代表されるような周知の物語主題から逸脱した、絵画の感覚的魅力を優先する作品が数多く登場したのも、盛期ルネサンスの特色のひとつと言える。 こうした市場ニーズに呼応してヴェネツィアでは色彩と絵具の塗り方が重要な地位を占めるようになり、デッサンに彩色するフィレンツェの技法に対して色彩で造形するという新しい技法が誕生した。レオナルドのスフマートを取り入れつつ、この技法を確立させたのがジョルジョーネであり、早世したジョルジョーネの後を受け継いで油彩技法のあらゆる可能性を探究したティツィアーノ・ヴェチェッリオであった。 宗教画家・肖像画家としても絶大な人気を誇っていたティツィアーノであるが、『芸術家列伝』を著したジョルジョ・ヴァザーリは、ティツィアーノが描いた『エウロペの掠奪』について「近くから見るとわけがわからないが、離れて見ると完璧な絵が浮かび上がってくる」と評しており、近代油彩画の創始者としてしばしば名が挙げられるようになっている。同時に、静的な伝統を持つヴェネツィア絵画にダイナミズムを導入したこともティツィアーノの功績として知られている。 マニエリスム美術. マニエリスムという言葉は「様式」や「手法」を意味するイタリア語 "maniera" から来た言葉で、ヴァザーリはこれを「自然を凌駕する高度の芸術的手法」と定義付けた。しかし、17世紀に入った頃より、生み出される芸術は創造性を失い、盛期ルネサンス時代の巨匠たちの模倣に過ぎないと見做されるようになり、否定的呼称として用いられるようになる。その後、21世紀に入って対比評価と切り離され、盛期ルネサンスの特徴であった自然らしさと自然ばなれの調和が崩れ、自然を超えた洗練、芸術的技巧、観念性が存在する作品が登場した盛期ルネサンス後の芸術的動向を指し示す時代様式名として用いられるようになった。 最初にマニエリスムの名が冠されたのは、ルネサンスの古典的調和への意識的反逆と解釈されたヤコポ・ダ・ポントルモやロッソ・フィオレンティーノの作品であった。しかしながら、ミケランジェロの後半期作品をマニエリスムに含める見方や、アーニョロ・ブロンズィーノ、ベンヴェヌート・チェッリーニ、ジャンボローニャのような社会に享受された奇想を指してマニエリスムと呼称する解釈もあり、その範囲や定義は今日なお流動的である。 16世紀初頭は盛期ルネサンスの様式とマニエリスム美術が混ざり合った混沌とした時代であったが、アルプス以北の諸国では比較的早くからマニエリスム美術が受容され、フォンテーヌブロー派による作品が複数残されている。ヴェネツィアでは盛期ルネサンスが他地域よりも持続するが、16世紀後半に入るとティントレットが登場し、その画風にマニエリスムの特徴が見て取れるようになる。その後、ティントレットの影響を受けたクレタ島出身のエル・グレコが、ローマでミケランジェロの芸術に感化され、スペインのトレドでマニエリスム的特徴とヴェネツィア絵画的筆致を融合させた宗教画を作成している。 一方、パルマではコレッジョがマンテーニャの試みを発展させた、感覚的魅力に溢れた作品を制作しており、その中で導入された明暗対比の強調や、天井画におけるダイナミックな上昇表現などは、後世のバロック美術の到来を予告しているかのような雰囲気を醸している。その他、盛期ルネサンスとバロック美術の橋渡し的な存在となった画家としてはパオロ・ヴェロネーゼがいる。ヴェロネーゼが制作した『レヴィ家の饗宴』は当初、『最後の晩餐』と題していたが、主題と無関係な人物を多数描き込んだ事で異端尋問にかけられ、「美しい絵を作る画家の自由」を主張し、タイトルの変更を余儀なくされた作品として知られている。 建築分野では『建築四書』を著したアンドレーア・パッラーディオの名が挙げられる。パッラーディオが設計したヴィラ・アルメリコ・カプラは古典主義建築の規範を示す作品として19世紀に至るまで国際的影響力を固持した。16世紀後半にはジャコモ・バロッツィ・ダ・ヴィニョーラ、ジャコモ・デッラ・ポルタによってイエズス会の母教会『イル・ジェズ聖堂』が建てられ、外観正面のデザインや身廊と円蓋下の明暗対比などの構成要素が、バロック美術における聖堂建築の原形となった。 北方ルネサンス美術. ドイツのデューラーは、15世紀末から16世紀初頭にかけて行った二度のイタリア旅行を通してルネサンス美術の様式と理念を習得し、人体表現、空間表現において理想とされる技法様式をドイツ絵画へ移入しようと試みた。この成果は木版画の分野において、ドイツの伝統的な表出性とイタリアの記念碑性を融合させて制作された『黙示録連作』で体現されている。銅版画の分野ではエングレービング技法を極め、『メランコリア I』や『アダムとエヴァ』といった人文主義的内容の作品、理想的裸体像を持った作品を制作し、ルネサンスの母国イタリアへも大きな影響を与えた。また、油彩画では『4人の使徒』が代表的な作品として知られている。その他、『人体均衡論』などの著述にも注力し、後世の芸術家に大きな影響を与えた。 線描主体であったデューラーとは対照的に、色彩表現に長けていたマティアス・グリューネヴァルトは『イーゼンハイム祭壇画』などを制作し、ゴシック末期美術の幻想性を継承した特徴を内包している。また、クラーナハ(父)はドイツの森を舞台として古代神話の主題を表現したことで知られている。『ドナウ風景』は西洋美術史上初めて具体的な実景を人間存在抜きで描いた画期的な作品として特筆される。 1517年、マルティン・ルターによって宗教改革の機運が高まると美術活動にも深刻な影響を与え、宗教美術が否定的に見られるようになる。ホルバイン(子)ら宗教画家として活動していた者は次第に肖像画家や宮廷画家へと転向していった。 フランスでは1494年のイタリア遠征でルネサンスの美術に触れたシャルル8世によって多くの建築家が招聘され、王室主導の下建築を中心としたフランスルネサンスが開花する。フランソワ1世の時代にはロワール川流域の城館改修が実施され、ゴシック建築の伝統とイタリアルネサンスの特色が融合された建築物が多数登場した。また、1520年代末にはフォンテーヌブロー城館の改装が始められ、ロッソ・フィオレンティーノ、フランチェスコ・プリマティッチオらを招いて内部装飾を手がけさせた。ここから誕生したイタリアのマニエリスムを体現したロッソらの作品は、フォンテーヌブロー派と呼ばれる宮廷美術様式を生み出す契機になった。その他、ドイツのホルバイン(子)に共通する精緻な様式を確立させた、フランソワ・クルーエ父子や、チェッリーニの影響を受けつつもフランス独自のルネサンス彫刻を誕生させたジャン・グージョンなどがいる。 他方、ネーデルラントの絵画美術は15世紀の段階で成熟し、油彩技法や写実的表現においてイタリアに影響を与える側であったが、盛期ルネサンスを迎えて以降は立場が逆転し、イタリアの美術や古典古代の美術を手本として仰ぐようになった。16世紀初頭に活動したクエンティン・マサイスの画風にはレオナルドのスフマートの影響が見て取れ、ヤン・ホッサールトは古代彫刻風裸体像を描き出している。また、ベルナールト・ファン・オルレイは数学的遠近法、短縮法、複雑な運動表現をネーデルラント美術に取り入れた画家として重要である。こうした、15世紀ネーデルラントの精緻な様式からの脱却と、ルネサンスの壮大な様式への推進を行う者を総じて「ロマニスト」と呼び、こうした傾向自体が16世紀ネーデルラント絵画の特徴のひとつとして挙げられる。 肖像画においてはアントニス・モルが国際的な活躍を果たしたと同時に、ネーデルラント北部の美術活動の活性化に大きく貢献した。デューラーの影響を受けつつも精緻な銅版画を制作したルーカス・ファン・レイデンなどは北部で活躍した代表的な美術家の一人である。さらに、1524年にローマからユトレヒトに戻ったヤン・ファン・スコーレルの影響によってロマニストの活動は北部へも浸透していった。16世紀後半にはプロテスタントの聖像破壊運動などによる宗教的、政治的騒乱が美術活動の発展を妨げたが、16世紀末に登場したコルネリス・ファン・ハールレム、ヘンドリック・ホルツィウスらの活躍により、プラハと並んでハールレムが国際マニエリスムの中心地として栄えた。 16世紀ネーデルラント絵画のもう一つの特徴としては風俗画、風景画、静物画の自立が挙げられる。カタリナ・ファン・ヘメッセンおよびピーテル・アールツェンを嚆矢とするこの傾向は、16世紀初頭のヨアヒム・パティニールによって大きく前進を見る。パティニールは観察と空想から合成された俯瞰図の中に宗教主題の人物を点景として描き表し、人物と背景の関係性の逆転に成功している。その後、ピーテル・ブリューゲルによってこの様式は完成され、後世に多大な影響を残した。『雪中の狩人』はその代表的な作品のひとつである。 バロック美術. 異論はあるものの17世紀の西洋美術時代様式を一般にバロック美術と称する。バロックという言葉の意味については諸説あるが、「規範からの逸脱」を示す形容詞として18世紀末ごろより使用されはじめ、建築を中心とした17世紀の美術に対して否定的な意味で適用された。また、狭義には17世紀美術の傾向の一つという意味で使用され、劇的で奔放な特徴を持つ17世紀の作品に対してのみ適用される場合もある。 この時代、盛期ルネサンスの伝統を受け継ぎつつも、より現実に即した表現が強調されるようになり、時間の概念を取り入れた風俗画、風景画、静物画など、実社会により密着したテーマを選定する様式が確立する。活動の舞台はローマを中心に展開されていたが、18世紀初頭にかけてルイ14世の治世には、フランスが政治面とともに文化面でも中心的役割を果たすようになる。 16世紀後半、イタリアの美術活動はそのほとんどをヴェネツィアに依拠していたが、この状況を打破しようとアンニーバレ・カラッチによって1580年代のボローニャにアカデミア(画塾)が設立される。古代美術と盛期ルネサンス美術の理想性とモデルの写生素描という現実性の融合を試みた追究は広く支持され、ボローニャ派と呼ばれる新しい作風の体現に成功した。また、カラッチは理想化されたローマ近郊の風景の中に聖書の人物を描き込む「古典主義的風景画」を創始したことでも知られている。 カラッチの影響を受け、宗教画の人物を現実的な庶民の姿で描き出したミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオの作品は、その斬新な主題の描き方で大きな議論を巻き起こした。冒涜的とみなされ、『聖母の死』の例のように教会に引き取りを拒否される場合もあれば、カラヴァジェスキと呼ばれる狂信的な追従者を生み出す結果にも繋がっており、西欧絵画全体に大きな影響を及ぼした人物の一人であったことは疑いが無い。 彫刻および建築の分野ではジャン・ロレンツォ・ベルニーニがこの時代の代表的な美術家として名が挙げられる。若くして名声を確立したベリニーニは『聖テレジアの法悦』で現実の光を巧みに取り入れた彫刻と建築を組み合わせた作品を制作している。その他、多くの噴水彫刻の設計にも携わり、ローマの景観を作り変えたと言われるほどの影響を残した。ベルニーニに師事し、終生のライバルでもあったフランチェスコ・ボッロミーニも、独創的な建築表現で名を残した一人である。代表的な建築物としてはサン・カルロ・アッレ・クワトロ・フォンターネ聖堂があり、絵画や浮彫による装飾を必要最低限に抑え、波打つようなカーブや圧力で歪んでいる様な緊張を感じさせる、特異な壁面構成の効果を引き出すことに成功している。 フランドルではリュベンスの登場により新しい絵画の様式が確立される。10年近くの間イタリアに滞在し、盛期ルネサンスの美術を習得したリュベンスは、ネーデルラントに帰国した後に制作した『キリスト昇架』によって、ヘレニズム彫刻やミケランジェロを想起させる人体表現とカラヴァッジオに見られる明暗法を見事に融合させ、壮麗で活力漲る独自の方式を完成させた。リュベンスはカトリック復興の気運高まる当時の社会背景から多数の祭壇画を制作する一方で各国宮廷に向けた大規模な建築装飾画を創出し、国際的な評価を獲得した。また、晩年にはブリューゲルの伝統を発展させたフランドルの自然を描き出し、風景画の新たな局面を生み出した。 その他、フランドルを代表する画家としてはアンソニー・ヴァン・ダイク、ヤーコブ・ヨルダーンスなどがいる。リュベンスの助手として出発し、チャールズ1世の宮廷画家として半生をイングランドで全うしたヴァン・ダイクは、優雅で細線な自身の特徴を活かして肖像画の分野において独自性を発揮し、貴族的肖像画の規範を築き上げた。ヨルダーンスは宗教画や神話画を風俗画的観点で描き出すことを得意とし、庶民的な活力溢れる作品を残している。また、17世紀の美術愛好家の蒐集を描き出した「画廊画」という画種も、フランドルの特徴のひとつとして取り上げられる。 16世紀末にオランダ共和国として独立したネーデルラント北部では、国際貿易による経済発展を背景として市民層に向けた作品が大いに発達した。市場競争での勝ち残りをかけた熾烈な技巧発達が見られ、卓越した技術を持った画家を数多く輩出した点は特筆に価する。アムステルダムを活動の拠点においたレンブラント・ファン・レインはその最たる例である。その他集団肖像画や半身像の風俗画を得意としたフランス・ハルス、寓意や諺、民間行事を主題とした作品を描き続けたヤン・ステーン、日常行為に携わる人物を静物画のタッチで捉えて風俗画の新たな境地を開拓したヨハネス・フェルメールなどが代表的な画家として挙げられる。とりわけ、フェルメールは19世紀に入ってその近代性が大いに注目を集め、17世紀最大の画家として評価されるに至った。 他方、写実的傾向が強まった17世紀のスペインでは黄金時代と呼ばれるほどの美術繁栄がもたらされ、ディエゴ・ベラスケスやフランシスコ・デ・スルバラン、バルトロメ・エステバン・ムリーリョといった巨匠が登場した。ベラスケスはカラヴァッジオの影響著しい活動初期を経てヴェネツィア絵画やリュベンスとの接触によって自身の技法と様式を洗練させ、視覚的印象を的確に捉える新しい描法を編み出し、『ラス・メニーナス』を始めとする多くの作品を誕生させた。スルバランも同じくカラヴァッジオに強く影響を受けたセビーリャの画家であるが、素朴で神秘主義的な様式を確立させ、静物画や宗教画を厳格な筆致で描き上げた。ムリーリョはフランドル絵画に影響を受けた画家で、華麗な色彩で甘美な宗教画を制作するとともに、風俗画においても人気を博した。写実的傾向の推進は下地となったイスラム美術の影響と相俟ってバロック美術が内包する装飾性の強化に繋がり、この時代のスペイン美術の特徴として表されるようになった。スペイン黄金時代美術 フランス絵画では終生をローマで活動したニコラ・プッサン、クロード・ロランが代表的な画家として取り上げられる。ラファエロとカラッチの影響を強く受け、厳格な古典主義様式を確立させたプッサンは『アルカディアの牧人』を筆頭に、古典や神話、聖書の主題を考古学的時代考証を交えて描き出すという理知的な作品の創出に注力した。また、ロランは古典主義的風景画の展開に大きな足跡を残した人物として知られ、ローマ郊外の田園やナポリ湾の風景を理想化して古代の情景として登場させ、過去への郷愁を想起させる詩的風景画を誕生させた。両名の芸術はイタリア、フランスの上流階級層に広く受け入れられ、ルイ14世が設立した王立アカデミーにおいてはラファエロやカラッチとともに規範として仰がれるまでの影響を与えた。一方で建築分野においてはイタリア起源のバロック建築に対して古典主義建築がフランスの様式であるとする考えが広まり、クロード・ペローのルーヴル宮殿を筆頭に古代風様式に基づく建設が各地で行われた。また、ジュール・アルドゥアン=マンサール、ルイ・ル・ヴォー、アンドレ・ル・ノートルらによって造営されたヴェルサイユ宮殿は宮殿建築の範例として大きな影響を与えた。 ロココ美術. 1710年代から60年頃までのフランスの美術様式を中心とした時代様式を一般にロココ美術と呼称する。ロココという言葉は、後世の新古典主義時代にルイ15世時代の美術を軽視して呼び始めた事を嚆矢とし、バロック建築における庭園装飾で使用されたロカイユと呼ばれるデザインに端を発する。現代においては該当する時代の美術を判然とロココ美術と呼ぶようになったため、性質や指向の相反する文化現象が同様の名の下に冠されることが美術史的観点から問題となっている。 この時代の美術史を概観すると、建築、絵画において特徴的な発展が見られる。らによって建造されたは、白地に金の装飾が施された壮麗な室内はロココ建築の特徴を現す代表的な作例である。17世紀後半にはギリシア美術、ローマ美術への関心が高まり、アンジュ=ジャック・ガブリエルによって古代風の柱を採用した小トリアノン宮殿が建設された。その他、イタリアの建築家ジョヴァンニ・バッティスタ・ピラネージはローマ古代遺跡の壮大さを現し、後世新古典主義やロマン主義に大きな影響を与えたことで知られている。 工芸分野が黄金時代に達したのはロココ美術の大きな特徴で、家具、金工、服飾、陶器などの各分野で質の高い作品が生み出された。ドイツのマイセンが飛躍的進歩を遂げたのもこの時代である。彫刻分野では、、ジャン=アントワーヌ・ウードンらが活躍したが、主要な領域たりえるには至らなかった。 絵画におけるロココ美術の始祖はアントワーヌ・ヴァトーであると言われている。フランドル地方出身のヴァトーは、パリでの修行過程において様々なテーマ、様式の美術と接触することで才能が開花した。中期の代表作『キュテラ島の巡礼』に示された戸外での男女の戯れを表現する画題は「雅な宴(フェート・ギャラント)」と呼ばれ、ロココ美術を語る際に不可欠な要素へと昇華し、ニコラ・ランクレやジャン=バティスト・パテルなどによって追随する形で同様の画題作品が発表されるなど、同年代を含む後世の画家に多大な影響を与えた。フェート・ギャラントはポンパドゥール夫人の庇護を受けたフランソワ・ブーシェによって官能性を帯びた雰囲気を醸し出すようになり、ヨーロッパ中へ広まった。こうした画風はロココ美術最期の画家とされたジャン・オノレ・フラゴナールへと受け継がれていくこととなる。一方で市民的な感性では家族的テーマが好まれる時代となり、ジャン・シメオン・シャルダンやジャン=バティスト・グルーズに代表されるような市井の人々の様子を描いた人物画や、中産階級の家庭の一端を描いた静物画などが数多く生み出された。 また、18世紀中ごろより定期的にサロンが開かれるようになり、芸術品が不特定多数の目に触れる機会を持つようになった。これによってドゥニ・ディドロに代表される美術批評の誕生、画商の増加といった社会的傾向が発生し、芸術家とパトロンの関係性に変化が見られるようになったのも時代の特徴を示す出来事として挙げられる。 一方、イタリアではアレッサンドロ・マニャスコ、ジュゼッペ・マリア・クレスピらによって新しい方向性を持った絵画が生み出された。18世紀に入るとジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロが登場し、白を基調とした明るい天井画や壁画を制作し、重量感を取り去った自由な装飾作品が生まれている。また、イギリスでは大陸美術の輸入により絵画技法が飛躍的に向上したのが18世紀で、19世紀に到来する黄金期の準備段階のような時代となった。代表的な画家としてはトマス・ゲインズバラ、ジョシュア・レノルズなどがいる。 近代. 18世紀から19世紀の美術. フランス革命から第二帝政期に至る18世紀から19世紀にかけてのフランスを中心とした美術様式は、一般に新古典主義、ロマン主義、写実主義の3期に分けて考えられている。18世紀前半に火山噴火によって埋没したローマの古代都市ヘルクラネウム、ポンペイが発見されたことにより、古典・古代の美術を自身の規範としようという機運が高まり、ヨハン・ヨアヒム・ヴィンケルマンの思想的支柱を得たことでギリシア美術の模倣を尊ぶ志向がヨーロッパ中を席巻する。これは、享楽主義的なロココ美術に反感思想を持つ人々の運動であったとも言われている。その後、ナポレオンの帝政期を経ることでフランスでは帝国の栄光を誇示する美術様式へと変容していき、各国に対する影響力を衰退させる事となった。ナポレオンは絵画を重要なプロパガンダ手段として捉えていたこともあり、皇族の儀式を描いた作品や家族や側近の肖像がなどが大量に制作された。しかし、こうした動きは若い芸術家を中心に焦燥感をもたらす結果となり、主観的な激情に溢れ、社会的矛盾を糾弾するリアリスティックな作品が登場する素地を形成した。同時に、フランス美術の影響力から脱却した周辺各国は国々の歴史や風土に根ざした美術の開花を促進させ、普遍的な古典・古代美術の模倣から国々の特殊性へと関心が移行することとなった。これにより、古典的様式が最良とする考え方は捨て去られ、時と場合に応じた適切な美術様式が選択される折衷主義とも呼べる様式が到来することになった。19世紀中ごろには支配層への不満を募らせた市民社会に対応するかのごとく、社会の現実に目を向け、身の回りの自然を描いた風景画が制作されるようになり、フランス文学とも連動して近代芸術の基調を形成する一大潮流が形作られた。 建築分野では古代建築遺構の本格的な調査によって建築部位の比例や柱式の決定が討議され、18世紀後半に入ると古代建築を規範とした建物の造営が本格化した。パリのサント=ジュヌヴィエーヴ修道院を建設したは、コリント式の列柱廊を採用し、古代美術の端正で素朴な様式を取り込むことに成功している。また、古典古代建築への関心から幾何学的比例を重視し、やアル=ケ=スナンの王立製塩所を創出したクロード・ニコラ・ルドゥーやアイザック・ニュートン記念碑を設計したエティエンヌ・ルイ・ブーレーは、空想的建築という新境地を開拓した。考古学的関心が薄れ、帝国の威信表現が横行するようになると特定の建築様式が重視されることが無くなり、過去の様々な様式の応用によって建築がなされた。マドレーヌ聖堂 、カルーゼル凱旋門、マルメゾン城、ウェストミンスター宮殿などが代表的な建築物として知られている。 新古典主義時代の彫刻分野は規範とする古典古代の作例が充実していたこともあり、重要な美術分野として位置付けられた。イタリアのアントニオ・カノーヴァは代表的な彫刻家のひとりで、古代志向の特徴を忠実に再現した上で近代彫刻の複雑な構成を融合させることに成功し、『アモールとプシケー』などを制作した。カノーヴァと双璧をなしたデンマークのベルテル・トルバルセンはヘレニズム時代の彫刻に強い影響を受け、端正で典雅な作品を発表した。その他、イギリスのジョン・フラックスマンは形態把握と構成を古代彫刻に倣いつつもゴシック美術を彷彿とさせる流麗な作品を発表している。新古典主義以降は材質の変化があらわれ、大理石以外の石材や青銅が好んで用いられるようになった。また、表題も裸体に代わって時代考証を経た服装を纏うようになった。しかし、美術全体で見ると新古典主義以降は絵画の影響強く低調に推移し、エトワール凱旋門の浮彫装飾を制作したフランソワ・リュード、肖像彫刻を数多く制作したダヴィッド・ダンジェ、動物彫刻という異質性が話題となったら若干名の活躍に留まった。 絵画分野において、フランスでは1760年代に登場したジョゼフ=マリー・ヴィアンがロココ風のテーマの絵に古代の構図やポーズを借用した作品を発表して人気を博し、新古典主義時代の口火を切った。その後、ドゥニ・ディドロの影響を受けたジャン=バティスト・グルーズによってローマ史を主題とした作品が制作され、1780年代に入るとヴィアンに師事したジャック=ルイ・ダヴィッドが登場して、新古典主義の栄華は頂点に達する。ナポレオン革命期において、「皇帝の主席画家」の称号を得たダヴィッドが残した数多くの作品は後世の多方面に大きな影響を与えた。『ホラティウス兄弟の誓い』『ソクラテスの死』といった物語画はプッサンの影響が強く表われた作品に仕上がっており、『テニスコートの誓い』『マラーの死』などは革命期の視覚的記録として重要な意味を持つ作品として位置付けられている。 次代には優美なタッチで古代の叙情を再現したピエール=ポール・プリュードン、劇的な表現描法を特徴としたピエール=ナルシス・ゲランらが登場し、新古典主義の作風に影響を受けつつもその変容を見ることが出来る。また、フランソワ=ルネ・ド・シャトーブリアンの小説挿絵を担当したアンヌ=ルイ・ジロデ=トリオゾンは、古典的な形態に強い明暗を加えたことでロマン主義的な要素の萌芽を示した。一方、同時代のナポレオンの肖像画や遠征絵画を制作していたアントワーヌ=ジャン・グロ、ドミニク・アングルらは新古典主義の正当後継者として、色彩に対する線の優位性、静的な構図といった新古典主義の綱領を最後まで保持した画家として知られている。その他、アングルの弟子からはテオドール・シャセリオーが頭角を現し、東洋的主題の作品を制作してロマン主義的資質を示した。 1819年にはテオドール・ジェリコーが1816年に起きたフリゲート艦メデューズ号の難破事件という時事的テーマを取り上げて『メデューズ号の筏』を発表したことで大きな議論が巻き起こる。ジェリコーの作品は激しいタッチと運動感の描写によって表現され、その非古典主義的なテーマの開拓はロマン主義絵画の先駆者として名が上げられる一因となった。その後、『ダンテの小舟』を描いたウジェーヌ・ドラクロワによって粗いタッチによる動的表現、東洋的主題の採用、色彩の乱舞といったロマン主義絵画の作風が示され、近代絵画の成立に多大なる影響を残した。一方、同世代のポール・ドラローシュはロマン主義的主題を完璧な新古典主義様式で描き出すという移行期ならではの作風で一世を風靡した。エコール・デ・ボザールの講堂壁画はその代表的な作品のひとつである。 以上に挙げたように、19世紀前半のフランスでは文学的、歴史的テーマを描き出した作品が主流となっていたが、バルビゾン派の画家によって自然を的確に捉えた風景画作品が登場したのもこの時代であった。古典主義的端正さを保ちつつ、ロマン主義的な自然愛好的な心情に溢れたテオドール・ルソー、ジャン=バティスト・カミーユ・コローらの風景画は1830年代ごろより写実主義絵画として新たな局面を開くこととなった。1850年前後に入るとオノレ・ドーミエ、ジャン=フランソワ・ミレー、ギュスターヴ・クールベが登場し、写実主義絵画を代表する画家として知られるようになった。1855年、パリの万国博覧会において、私費で個展を開いたクールベは世間に対して攻撃的に写実主義絵画の存在を知らしめ、19世紀後半に誕生する印象主義への潮流を築いた。 他方、イギリスのロンドンでは、1760年代にベンジャミン・ウエストによって新古典主義的絵画が持ち込まれると、ロイヤル・アカデミーの設立やフラックスマンの活躍などもあり、ローマやパリと並ぶ新古典主義絵画の中心地として栄えた。しかし、古典絵画を規範としつつも伝統に縛られない表現は比較的早くから実践され、ヨハン・ハインリヒ・フュースリー、ウィリアム・ブレイクといった、個性豊かな画家の輩出に成功している。そういった意味では、主題面における絵画の近代化はフランスに先駆けてイギリスで起こったと言って良い。19世紀前半に入るとジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーの登場によってイギリス絵画は風景画黄金時代を迎えることとなった。18世紀に流行した地誌的水彩画から出発したターナーは光の表現を追究して油彩、水彩、素描を問わず多数の幻想的な風景画を世に送り出した。ターナーとは対照的に、空と雲の移り変わりを気象学に基づいた知識で精緻に描き出したジョン・コンスタブルの作品は風景画の進むべき方向性を決定的なものとし、19世紀後半の印象主義絵画に大きな影響を与えた。 ドイツにおける新古典主義は1761年、アントン・ラファエル・メングスによって制作された『パルナッソス』にその影響を見ることができるものの、その後は代表的といえる程の画家は輩出されなかった。19世紀初頭に入るとラテン的な形態把握とゲルマン的な内省性を融合させた作品が登場し、他国に無い特異な美術運動が展開された。この運動はカスパー・ダーヴィト・フリードリヒ、フィリップ・オットー・ルンゲらによる風景画の発展とフランツ・プフォル、ヨハン・フリードリヒ・オーファーベックらによる人間表現の深化に大別することができる。特にローマに移住した後、ラファエロやデューラーを規範としてキリスト教的作品の創出に注力したオーファーベックらの活動はナザレ派と呼ばれ、後のラファエロ前派に大きな影響を与えた。 その他、スペインに登場したフランシスコ・デ・ゴヤもこの時代を代表する画家の一人である。1799年に主席宮廷画家の地位に着いたゴヤは、その卓越した画力で戦争や侵略への憎悪を訴えた作品を多数発表した。主観的な情熱を画題とし、作品に託したという点ではロマン主義美術の先駆者であると言える一方、人生の課題を作品に反映させたという点では近代芸術のあり方を示した最初の一人であると言える。 19世紀から20世紀の美術. 19世紀後半に入ると産業革命の浸透、資本主義社会の発達、科学技術の進歩により都市人口の大幅な増加と階級対立の激化が見られるようになり、社会全体が大きく変動した時代でもあった。このため、美術活動も大きな変革を伴ったのは必然といえる。 建築分野では、シャルル・ガルニエによるパリのオペラ座に見られるような、古典主義を軸としながらも各種建築様式を折衷した建物の造営が主流となり、フランスを中心として高い芸術性を持った建物が各地に作られた。ウジェーヌ・エマニュエル・ヴィオレ・ル・デュクはこの奔流に抗い、機能主義理論を唱えたが、19世紀中には受け入れられず、アール・ヌーヴォーの建築分野において部分的に取り入れられたにすぎなかった。19世紀後半に入ると鉄、ガラス、コンクリート、鉄筋コンクリートといった新しい建材が柱や壁などに大掛かりに用いられるようになった。ジョセフ・パクストンの水晶宮は、初めて大量にガラスを用いた建造物として知られている。また、シカゴ派と呼ばれるアメリカ高層建築の流入も、西洋の建築に大きな影響を与えた。シカゴ派を代表する建築家としてはシュレジンガー・マイヤー百貨店などを設計したルイス・サリヴァンが挙げられる。 彫刻分野では19世紀後半に入り、民族統一や自由を称える記念碑が公共記念物という形で数多く制作された。特に有名なものとしてはフレデリク・バルトルディの『自由の女神像』、ジュール・ダルーの『共和国の勝利』、の『死者の記念碑』などが挙げられる。第二帝政期に入るとジャン=バティスト・カルポーが登場し、『ウゴリーノと息子』『ダンス』『フローラの勝利』など、ロココ美術から受け継いだ優雅な形態とカルポー独自の動態表現を見事に融合させた作品を多数制作し、近代彫刻の父と言われるオーギュスト・ロダンに大きな影響を与えた。アルベール=エルネスト・カリエ=ベルーズに師事したロダンは、イタリアでドナテッロやミケランジェロの作品に触れた後、1877年に『青銅時代』を発表した。『青銅時代』は発表当時、あまりの自然的形態から、モデルから直接型取りしたのではないかと批判を浴びるほどであった。注文彫刻として制作した『カレーの市民たち』では、注文という型にはめられた表現からの脱却を試みている。ロダンは写実表現と劇的な内面表現を融合させることを追究し、終生の大作として『地獄の門』を制作した。その他、19世紀末に活動したドイツのマックス・クリンガーは、1902年のウィーン分離派展で素材の多様性を追求した作品『ベートーヴェン』を発表して大きな成功を収めている。 19世紀に入ると絵画分野では、新古典主義の美学を維持しつつも社会情勢にあわせるかのように、新しい市民社会に適応する様々な表現の獲得をはじめた。ブルジョワジーの趣味を作品に反映させたアレクサンドル・カバネルは、1863年にサロンに出品した『ヴィーナスの誕生』によって絶大な人気を博し、ジャン=レオン・ジェロームは『カエサルの死』に代表されるような、迫真の細部描写と瞬間映像的な場面設定で古代の主題を描きあげた。また、ジュール・バスティアン=ルパージュは印象派の色彩や筆致を取り込んだ自然主義的傾向の作品『干し草』を創出し、第三共和国政府の支持を獲得している。 ドイツのアドルフ・フォン・メンツェルによって写実的に描かれた『圧延工場』はきわめて珍しい工場労働者を主題とした作品として知られている。メンツェルの例にあるように、農民や労働者といった現実的主題を優れた絵画才能によって描き出す画家が登場し始める。『草上の昼食』で一大騒動を巻き起こした後も、明るい色調と軽快なタッチで現代生活を主題にした数々の名作を生み出したエドゥアール・マネはそうした若い画家たちの中心的存在として躍動し、1865年にサロンへ出品した『オランピア』で、古典的伝統を近代絵画へリンクさせる役割を担った。こうしたマネの姿勢や表現方法は印象派の画家に重要な指針を与えることとなった。また、エドガー・ドガは、オペラ座に集う貴族から底辺社会で生活を営む洗濯女まであらゆる階層の人々の現代生活を深く広く探求して得た主題を、知的な構図と優れたデッサン力で描き出した。特に、引き締まった肉体を持つ女性たちが様々な姿態を提供してくれるバレエの世界に共感を覚え、バレエを主題とした多くの作品を残している。その他、日本の芸術がジャポニスムと呼ばれ、西洋絵画に影響を与えたのも19世紀の出来事のひとつであった。 19世紀後半に入ると、印象派と呼ばれる人々の描いた印象主義絵画が世を賑わすようになった。「印象派」という呼称が誕生したのは1874年のことで、展覧会に出品していたクロード・モネ、ピエール=オーギュスト・ルノワール、ポール・セザンヌ、ドガ、カミーユ・ピサロ、アルフレッド・シスレーらのスケッチ的な作品の性格をジャーナリストらが揶揄してつけたものに端を発する。中でもモネは印象派グループを作り上げた最も偉大な画家として知られている。印象派の「印象」はモネの作品「印象・日の出」から批評家が揶揄したことから定着した。 印象派画家は、絵具を用いて光を表現することを追究し、筆触分割や視覚混合といった科学的技法を作品に導入し、日本の浮世絵や写真などからヒントを得た構図の切り取りや大胆な俯瞰といった斬新な発想を取り入れた。こうして制作された多くの作品は西洋絵画を新たな局面へ誘う重要な革新として後年高く評価される一因となった。また、印象派の活動を受けて、その理論をさらに発展させようと1880年代から1890年代にかけて活躍したポール・ゴーギャン、フィンセント・ファン・ゴッホらは後期印象派と呼ばれ、こちらも美術史における重要な働きを残した。 他方、芸術の卑俗化を嫌悪した芸術家たちによって内的な思考や精神世界、夢の世界を表現することが追究されるようになり、印象主義と並んで19世紀後半における芸術の重要な流れを形作ったのが象徴主義であった。その嚆矢とも言えるのがイギリスで起こったラファエル前派の運動である。ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティ、ジョン・エヴァレット・ミレー、ウィリアム・ホルマン・ハントらによって結成された「ラファエル前派兄弟団」は、ラファエロ以後の絵画を退廃芸術とみなし、それ以前の誠実で理想的な芸術への回帰を主張し、初期ルネサンス時代の絵画に倣った画風で神秘と象徴の世界を描き上げた。その他、象徴主義を代表する画家としてはアルノルト・ベックリン、ピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌ、ギュスターヴ・モロー、オディロン・ルドンなどが挙げられる。 こうした動きは19世紀末にはベルギー、オランダ、スイス、オーストリアなど全ヨーロッパに拡充し、ユーゲント・シュティール、アール・ヌーヴォーといった世紀末運動と密接な関係を保ちながら20世紀の芸術へと受け継がれていった。 現代. ベル・エポック. ベル・エポック(良き時代)とは、1900年から第一次世界大戦までの華やかで享楽的な時代を指すフランス語で、静かに忍び寄る戦乱の気配に耳を塞ぎ、束の間の繁栄と平和を享受した時代であった。芸術分野においてはアール・ヌーヴォー(新しい時代)、ユーゲント・シュティール(青春様式)、モダニズム・スタイル(近代様式)といった多彩な芸術運動がヨーロッパ中を席巻し、広い分野で相互交流による美術の追究が行われた。世紀末芸術運動とも称されるこの運動は広範囲に及び、それぞれが独自色を保ちつつも新しさを求めようという共通認識の下に活動を展開していた。代表的な活動グループとしてはウィリアム・モリスを中心としたアーツ・アンド・クラフツ運動、『ルヴュ・ブランシュ』を中心としたフランス芸術家たち、ベルギーの前衛芸術グループ自由美学、『ユーゲント』『パン』を舞台としたドイツ画家グループ、ミュンヘン、ベルリン、ウィーンで相次いで結成された分離派グループなどが挙げられる。中でもグスタフ・クリムトを中心としたウィーン分離派の影響力は強く、オスカー・ココシュカ、エゴン・シーレといった表現主義的傾向を強烈に表した尖鋭画家や、アドルフ・ロースのような「装飾は犯罪である」といった思想を持った芸術家の誕生を促す結果となった。また、表現主義の原点とも言えるエドヴァルド・ムンクやジェームズ・アンソール、フェルディナント・ホドラーといった画家が躍動したのもこの時代である。現代美術のはじまりは、こうした豊かで多様な世紀末芸術の成果を受け継ぎ、乗り越えることによって展開されていった。 現代建築. オーギュスト・ペレによる鉄筋コンクリートを用いた建築技法の導入は、構造体としての抵抗力の強さを獲得するとともに自由な造形性を得ることに成功し、20世紀の建築美術は新たな局面を迎えることとなった。新しい建材の特性理解が浸透していくとともに、コンクリートの持つ可能性を引き出した自由な造形性を持った建築物が誕生した。ゆるやかな局面と巨大な屋根を持ったル・コルビュジエのロンシャンの礼拝堂、何の支えも無い部屋が空中に突出しているかのようなフランク・ロイド・ライトの落水荘などは、その代表的な作例として取り上げられる。 建築家の社会的役割が変化したのも20世紀の特色のひとつで、建物の完成のみならず、都市社会における機能性や存在意義についてこれまで以上に配慮が必要となった。ヴァルター・グロピウスが幅広いデザイン教育の機関としてバウハウスを設立したのも、こうした社会的要請を背景にしたものであった。ル・コルビュジエはそうした機能主義を追究した建築家の一人でもあり、こうした流れがミース・ファン・デル・ローエやヴァルター・グロピウスといった機能主義を標榜する建築家の誕生を促した。機能主義建築は合理的形態、規格化、プレファブリケーションを推進し、大量生産と結びつくことで現代的な性格を持つに至った。一方でこうした機能主義建築に機械的な冷徹さを感じ取った建築家は有機的建築を推進した。先に挙げたサリヴァンやライトの他、世紀末建築の巨匠アントニ・ガウディなどもこの流れに含むことができる。 第二次世界大戦によって芸術活動は空白の時間を迎えるが、多くの芸術家がアメリカに亡命したこともあり、戦後はアメリカを中心とした建築活動が展開された。グロピウスやローエをはじめとするバウハウス系の建築家がアメリカで建築教育や設計活動に従事し、現代建築の実験場と揶揄されるほど様々な建築物がアメリカに誕生した。1950年代までは、画一的な建築の普及を目指すバウハウス系建築家がアメリカで大きく活動することによって、彼らの国際様式(モダニズム建築)が世界的なスタンダードとされていたが、次第にこれに反発する動向が見られるようになり、CIAM(近代建築国際会議)の解散も相俟って地域や用途、建築家の感性によってふさわしい造形を決定する個性化の流れが生まれ、大胆な形態の組み合わせを見せるポストモダン建築が登場した。 現代彫刻. 20世紀の彫刻は、ロダンの影響を甘受し、脱却するところから始めねばならなかった。画家から彫刻家へ転身し、ダルーのアトリエを通じてロダンと出会ったことでロダンに大きく影響を受けたは、石材からの解放を目論み、素材に蝋や石膏といった伸びのあるものを採用した。蝋を素材とした『この子を見よ』では素材の流動性を生かした表現が見られ、その表面には印象派絵画にも似た光と影の絶妙なコントラストを生み出すことに成功している。ロダンの助手でもあったアントワーヌ・ブールデルは、ロダンの表現力と構想力を受け継ぎつつ、自己の様式確立を追及し、『弓を引くヘラクレス』によって男性的力強さを表現することに成功している。女性像をモチーフとし、健康的で調和の取れた作品を創出したアリスティド・マイヨールは、ブールデルを通じてロダンに高く評価された彫刻家のひとりであるが、その作風はロダンのそれとは明らかに異なった性格を持ち、地中海的伝統を作品に刻みつける事で自己の確立を試みている。初期の作品『地中海』は、古典主義的な落ち着きと調和が見られるマイヨールの代表作のひとつである。マイヨールの作品は後世の彫刻家にも影響を与え、マリノ・マリーニ、アメデオ・モディリアーニといった芸術家の登場を促した。 一方でキュビスムの彫刻は人体の統一性からの脱却を図り、自由奔放な新しい造形表現の獲得に成功している。代表的な彫刻家としてはパブロ・ピカソ、、、オシップ・ザッキンなどが挙げられる。こうした流れを受けてさらにダイナミックな形態のリズムを追究したレイモン・デュシャン=ヴィヨン、ウンベルト・ボッチョーニらが登場し、根源的な形態を追い求めたコンスタンティン・ブランクーシがその後に続いた。ブランクーシはロダンからその才能を見初められ、助手へと誘われた彫刻家のひとりであったが、自身の追い求める表現を実現させるため、あえてその誘いを断っている。 他方で、マックス・エルンスト、ジャン・アルプ、アルベルト・ジャコメッティらによって生み出された作品は、後のダダイスムやシュルレアリスムや幻想絵画(幻想的表現主義)へとつながっていくこととなった。ブールデルから彫刻を学んだジャコメッティはその後、自身もシュルレアリストのグループに参加し、『シュルレアリスム的なテーブル』などの作品を発表した。第二次大戦後、現実との乖離に挫折を覚えたジャコメッティはその作風を大きく変え、戦後のフランス彫刻界において、もっとも高い評価を受けた彫刻家のひとりとなった。 現代絵画. 1905年、当時の批評家からフォーヴ(野獣)と呼称された、サロン・ドートンヌに出品された鮮烈な色彩表現を持った一連の作品を創出した画家たちが興した運動であるフォーヴィスムは、20世紀最初の絵画革命と言われている。『ジル・ブラス』紙でに「原色の狂宴の中にいる野獣たちの集まり」と批判されたように、フォービスムは酷評でもって迎えられたが、多くの画家が伝統に縛られない色彩の自立と感情の解放を求める態度に共感を覚え、この新しい様式に共鳴した。主要なメンバーとしてはアンリ・マティス、ジョルジュ・ルオー、アルベール・マルケ、モーリス・ド・ヴラマンク、アンドレ・ドラン、キース・ヴァン・ドンゲン、ラウル・デュフィ、ジョルジュ・ブラックらが挙げられる。スーラら後期印象主義絵画が持つ色彩理論や、ゴッホの原色表現の影響を受けた彼らの共通点は、独自の色彩表現を探究し、色彩の写実的役割からの解放を目指したことにある。しかしながらこの傾向は明確な声明に支えられていなかったこともあり大きな流行には至らず、1905年をピークとして減衰していくこととなった。フォーヴィスムを体現し、体験した画家たちはその後色調や技法を変えつつ、独自の美学を追究しそれぞれの方向性を見出していくこととなった。 フォーヴィスムが誕生した同じ年にエルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー、、マックス・ペヒシュタイン、エミール・ノルデらを中心として前衛絵画グループブリュッケがドレスデンで結成された。ドイツ表現主義の第一波とされるこのグループは、強烈な色彩表現を特徴とする点においてはフォーヴィスムと共通していたが、より濃密な絵画を発表している。その他、1909年にミュンヘンで結成された新芸術家同盟は、初期メンバーのフランツ・マルク、アウグスト・マッケ、ワシリー・カンディンスキーらにパウル・クレーが加わることで青騎士へと発展を遂げ、戦後の抽象表現主義につながる大胆な絵画表現を試みる活動を実施している。 その後、ピカソやブラックによって形態と構成における絵画革命キュビスムが推進され、フアン・グリスを加えてモンマルトルを中心に活動を展開した。特にピカソは、90年に渡る長い生涯のなかで絶え間なく絵画の革新と実験を試み、20世紀芸術の方向性に大きな影響を与え続けた。1907年に発表したキュビスムの出発点とも言うべき『アビニヨンの娘たち』では、アフリカの仮面彫刻のようなプリミティブ芸術に影響を受けた大胆なデフォルメと、セザンヌに学んだ知的構成が融合し、それまでになかった新しい絵画世界の実現に成功している。キュビスムは対象を解体して、画面上で再構成するというピカソやブラックが推進した手法もさることながら、同時に創出された新聞などの実物を直接画面に貼付するコラージュという技法が生み出された点も、絵画のあり方を一変させたという点において、後世の芸術家に多大な影響を与えている。ピカソ、ブラック、グリスの他、キュビスムの代表的な画家としてはフェルナン・レジェ、ロベール・ドローネーらがいる。 キュビスムよりやや遅れて結成された未来派は、詩人フィリッポ・トンマーゾ・マリネッティを中心に活動を展開し、機械文明におけるダイナミズムとスピード感を賛美し、積極的な運動表現を作品に取り入れることを探究した。主なメンバーとしてはジャコモ・バッラ、ジーノ・セヴェリーニ、カルロ・カッラなどがいる。未来派の活動は絵画のみならず、音楽、建築、彫刻など多方面に及び、先に紹介したボッチョーニもその影響を受けた彫刻家として知られている。また、マリネッティがロシアを訪れたことでロシアの前衛芸術の形成にも大きな影響を与えた。ミハイル・ラリオーノフ、ナタリア・ゴンチャロワらによるレイヨニスム、カジミール・マレーヴィチらによるシュプレマティスムといった抽象主義的絵画は、こうした影響の中で誕生していった。シュプレマティスムを推進していたウラディミール・タトリン、アントワーヌ・ペヴスネル、ナウム・ガボらはその後、シュプレマティスムが見出した幾何学的形態の極地から、さらに推し進めた構成主義を推進している。 オランダのピエト・モンドリアンが創始した新造形主義も幾何学的な抽象表現を極めた様式のひとつで、モンドリアンはキュビスムの影響を受け、自然風景を垂直と水平の要素にまで還元し、この単純な構図に色の三原色を組み合わせるという美学に到達せしめた。またモンドリアンは、テオ・ファン・ドースブルフとともにデ・ステイル運動を推進し、絵画にとどまらない幅広い芸術分野に新造形主義の様式を拡大していった。 他方、現代絵画のもうひとつの大きな流れとして、人間の心、未知の世界を探究し表現する幻想絵画がある。形而上絵画はその代表的様式で、中心的人物のジョルジョ・デ・キリコは、長く伸びた影や人気の無い町並みを主題として白昼夢のような郷愁を誘う神秘的かつ不気味な不安を感じさせる作品を生み出している。その不安が現実となるかのように第一次世界大戦が勃発すると、厄災を生み出す社会や文化に対して強い批判を表明する芸術運動が同時多発的に持ち上がった。こうした動きはやがてひとつの大きなうねりとなり、あらゆる既成価値を否定するダダイスムが誕生した。マルセル・デュシャンが展覧会に出品した『泉』と称する便器やひげのあるモナ・リザを描いた『L.H.O.O.Q.』はその最たる例である。彼らはあらゆる方法で価値の転換を試み、過去の芸術や文化の徹底的な破壊と否定を推し進めた。代表的なメンバーとしてはハンス・アルプ、フランシス・ピカビア、マン・レイなどがいる。 第一次世界大戦後にはシュルレアリスムが登場し、ダダイスムによる否定を受けて、非合理の世界を解放することによって新しい価値の創造を目論む動きが始まった。シュルレアリスム運動は詩人アンドレア・ブルトンが1924年に『シュルレアリスム宣言』を発表したことによって定義の明確化が図られた。芸術分野においてマックス・エルンスト、サルバドール・ダリ、ルネ・マグリット、イヴ・タンギーらを中心として展開されたシュルレアリスム運動は、各々の想像力を糧に、夢と現実が矛盾無く世界を構築するような世界(超現実)の実現を目指した。作品制作にあたり、彼らはデペイズマン、オートマティスム、フロッタージュ、デカルコマニーといった新しい技法を次々と考案し、後世に無視できない多大な影響を残した。 こうした新しい芸術運動が様々に展開される一方で、アンリ・ルソー、ルイ・ヴィヴァン、アンドレ・ボーシャン、セラフィーヌ・ルイといったいわゆる素朴派と呼ばれる素人画家が多く登場してきたことも、現代絵画の変革を伝える重要な要素のひとつである。また、エコール・ド・パリ(例:シャガール、ユトリロ、キスリング、スーティン、藤田嗣治)に代表されるように、特定の運動に加わることなく、自己の世界を表現し続けた画家も数多く存在していたことは忘れてはならない。 1945年、第二次世界大戦が終了すると、戦争の影響を強く伺わせるいわゆる戦後美術が登場した。作品としてはフランシス・ベーコンが描いた『風景の中の人物』、ジャン・フォートリエの『人質』に代表されるような、戦争の悲劇がもたらした人間そのものへの問いかけを含有する悲劇的な様相を表現する傾向にあった。アメーバのような不定形なフォルムと血を連想させる生々しい色彩を用いたヴォルスや、幼児や精神障害者の描く原生芸術を追求し、アールブリュットを提唱したジャン・デュビュッフェなども代表的な画家として挙げられる。フォートリエが表現した厚塗りの具象的な作品はその後、アンフォルメルと呼ばれる表現主義的抽象絵画として1950年以降もてはやされることとなる。こうした作品は、保守派ジャーナリズムや一般観衆から「子供の悪戯描き」と揶揄されながらも感覚に直接訴えかける新鮮な迫力を持った表現形式としてその地位を確立させた。他方で、こうした表現主義的抽象絵画が採った具象的モチーフの拒否を否定することで、現実への復帰を試みたネオダダやポップアートが誕生したのもこの時代であった。 多様化する表現形式. 1980年代以降、美術を表現する新しい方法が次々と生み出され、それらが互いに影響を及ぼしあうことにより複雑な美術体系が構築された。ナムジュン・パイクによるビデオ・アート、映画を含めた映像作品も美術作品として定義することが可能であり、現代美術の主要部分を占めるようになったと言って良い。また、シンディ・シャーマンやロバート・メイプルソープなどの写真美術作品や、マリーナ・アブラモヴィッチのような自身の身体を用いたパフォーマンス的な美術作品に代表されるように、様々なメディアを使用した表現形式(メディアアート)が誕生している。 1960年代後半から1970年代にかけて誕生したロバート・スミッソンを嚆矢とするアースワーク(ランドアート)も、そうした多様化した表現形式の帰結のひとつである。自然派と呼ばれた彼らは地球をキャンバスとし、訪れることさえ容易ではない地に作品を直接制作することで、限られた空間からの解放と美術の商業主義からの脱却を試みた。代表的なものとしてはすでにグレートソルト湖の湖中に水没したスミッソンの『螺旋状の突堤』、落雷を呼ぶ金属ポール400本を等間隔に設置し、落雷現象そのものを美術作品として発表したウォルター・デ・マリアの『ライトニング・フィールド』、ストーンヘンジやストーンサークルといった原初的な造形を追及したリチャード・ロングの環状列石作品群などがある。 関連文献(全体に関わるもの). 【概説・入門書】 【画集・辞典】
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ピンポン (漫画)
『ピンポン』()は、松本大洋によるスポーツ漫画。『週刊ビッグコミックスピリッツ』(小学館刊)1996年第14号より連載が開始、1997年第29号の第55話を以て完結した。神奈川県藤沢市を舞台に、卓球に魅了された5人の高校生によるスポーツアクションや才能を巡る青春が描かれている。単行本は1996年9月に第1巻初版が発売、翌年10月までに全5巻が発売された。2002年に曽利文彦監督、窪塚洋介主演で劇場映画化、2014年に湯浅政明監督によるTVアニメが制作された。 制作背景. 松本大洋は1987年に講談社の『モーニング パーティ増刊』にて漫画家として商業デビューを果たし、1988年より『モーニング』で『STRAIGHT』を発表し、長編連載デビューした。『ピンポン』は松本が小学館へ移籍してから制作され、小学館誌上では『ZERO』『花男』『鉄コン筋クリート』に次ぐ4作目の連載作品である。当初、松本の編集を担当していた人物は非常にスポーツを愛好しており、松本もまた小学生から高校生までずっとサッカーに励むスポーツ少年であった。その点で意気投合していた両者はスポーツ漫画として『ZERO』『花男』を発表した。『ピンポン』の制作以前にはサッカー漫画の構想が立てられていたが、松本は自身が長期の連載をしない性質にあり、試合毎に最低22人が登場するサッカーを描くことは困難と判断し、個人競技を描く方向へ転換した。卓球が題材となったのは、取材のために数多のスポーツを観賞した松本が、競技自体の認知度の割に卓球選手個々に戦型があったり、ラケットやラケットに貼るラバーの種類が多いことなど知られていない面が多く、魅力を感じたためであった。 絵柄. 松本は作品によって絵柄を大胆に変える傾向があり、前作『鉄コン筋クリート』ではフランク・ミラーの様な、白黒でメリハリが強いイラストレーション色の強いタッチであったが、『ピンポン』ではこのタッチは鳴りを潜め、細線を多様した黒味の薄いタッチが採用された。 あらすじ. 神奈川県藤沢市。星野裕(通称ペコ)と月本誠(通称スマイル)は、共にタムラ卓球場で小学生時代から卓球をやってきた幼馴染。ペコは確かな実力を持ちながら己の才能に自惚れ、誰に対しても不遜だった。一方のスマイルは、決して笑わず無愛想で、そんな態度からペコにスマイルと渾名されていた。共に片瀬高校の卓球部へ入ったふたりは、春、県内の辻堂学園学院卓球部へ、上海のジュニアチームから留学してきた孔文革(通称チャイナ)が留学生として雇われたと知る。ふたりは辻堂学院へ偵察に訪れ、チャイナとの対戦にこぎつける。しかしペコはチャイナ相手に1点も獲れず大敗した。続いてチャイナはスマイルへ勝負を持ちかけるが、スマイルはまるで興味を示さなかった。一見すると卓球で勝るのはペコであったが、チャイナはスマイルが抜群の素質を持っているのを見抜いていた。 スマイルの才覚を嗅ぎつけたのはチャイナだけではなかった。片瀬高校の卓球部顧問である小泉丈は、スマイルが才能とは裏腹に勝利への執念が全く無く、真剣勝負でも相手の心情を考慮し、特にペコと試合する際には無自覚に手を抜いていると看破し、彼をさらなる高みへと登らせるべく過酷な指導を試みる。同時期、県内最強と謳われる海王学園高校卓球部の風間竜一(通称ドラゴン)が片瀬へ偵察にやってくる。インターハイ優勝の実力者である風間ですらスマイルの実力を脅威に感じるほどであった。それでも、風間にとってスマイルはあくまでも脅威となりうる存在でしかなく、今度のインターハイでの優勝は確実であると公言する調子だった。 やがてインターハイ予選が開幕した。ペコ、スマイル、ドラゴン、チャイナ、それぞれ順当に勝ち上がっていく。3回戦でスマイルはチャイナと対戦した。留学生として注目を集めるチャイナの勝利が確実視される中、スマイルはチャイナの実力を初セットで見極め、次のセットからまるでロボットのように正確無比なプレーでチャイナを追い詰める。スマイルの勝利が目前になったところで、チャイナのコーチが「ここで負ければ中国代表への道は閉ざされる」と激昂した。その意味を察知したスマイルは途端に萎縮し、結局、チャイナが勝利を挙げた。その一方で、ペコは準々決勝まで順当に勝ち上がった。準々決勝の相手は、同じ道場出身のもうひとりの幼馴染、佐久間学(通称アクマ)であった。以前はアクマ相手に圧倒的な実力を見せつけていたペコだったが、この対戦では地道な努力を重ねたアクマに終始優勢を握られ、あえなく敗退した。さらに別の準々決勝戦では、チャイナとドラゴンが対戦する。実力者であるチャイナをもってしても、日本国内最高峰に立つドラゴンにはまったく歯が立たなかった。インターハイはベスト4をすべて海王の選手が独占してみせた。 インターハイ予選を終え、全国大会へ進出した海王学園は団体戦の序盤で敗退した。個人戦で優勝を果たした風間は、近年の海王の弱体化を憂い、インタビューにおいて「優勝には月本レベルの人間が必要だ」と失言するほどになっていた。そのスマイルは次の大会へ向けて小泉にさらなる指導を受け、練習試合で県内の実力者を次々倒して名を挙げていた。しかし小泉の過剰なスマイルへの入れ込み、スマイルの独善的な卓球への熱は他の卓球部員との軋轢を生んでいた。ペコはアクマに敗戦したのが堪え、すっかりやる気を失っていた。そんな中で、アクマはドラゴンの発言でスマイルへの敵意をむき出しにして単身片瀬へと乗り込み、スマイルへ試合を申し込む。かつてはアクマが常勝だったが、才能を開花させつつあるスマイルの前では為す術なく敗戦した。地道な努力と対戦相手の研究を重ねたアクマはそれらをもってしても勝てないことを嘆くが、スマイルに「それは卓球の才能がないからだ」と一蹴された。試合を終えて帰宅する途中、アクマは苛立ちから傷害事件を起こし、停学処分と、卓球部の強制退部を余儀なくされた。 一方で、スマイルの言葉はペコにも突き刺さり、ペコは学校の焼却炉で自身のラケットを燃やしてしまった。すっかり意気消沈した彼を、久々に道場へ訪れたアクマが激励した。ペコは誰よりも才能に恵まれ卓球を愛していると、才能に恵まれずも卓球を愛したアクマは知っていた。一念発起したペコは、道場で指導するオババへ懇願し再び卓球へ向き合う。オババもまた小泉と同時期に活躍していた卓球の名手であった。彼女の指導の元、堕落した基礎体力を取り戻したペコは、オババの息子が指導する大学の卓球部で指導を受ける。バックハンドの弱点をどうにも克服できなかったペコは、ペンラケットの裏へラバーを貼って繰り出す裏面打法を会得し、たちまち秘めていた才能を開花させ、誰もが驚く速度で進化した。 同時期、片瀬へ再びドラゴンがやってくる。今度は正式にスマイルを引き抜こうという魂胆であった。環境という意味では片瀬よりも海王が優れると踏んだ小泉は移籍を推奨した。精神を疲弊させたスマイルは普段のジョギングのコースを外れ途方も無い距離を走った。両親との距離が遠いスマイルが密かに他人との温もりを必要としていると理解した小泉、さらに卓球部の主将を務める大田は、スマイルへ卓球選手としてではなく、人間として歩み寄る。卓球部とスマイルとの間にあったわだかまりは一応は解消された。 そして、1年が経過し、再びインターハイの季節がやってきた。ペコの初戦の対戦相手は偶然にもチャイナであった。チャイナは1年間で日本に順応し、かつては馬鹿にしていたチームメイトとも打ち解け、実力も当然上昇していた。しかし、ペコは第1セットから前回の対戦との違いを見せつけ、接戦ながらストレート勝ちを決めた。一方、月本は2回戦で海王の副主将である真田と対戦する。ドラゴンには劣るものの国内でも規格外と評される実力者との対戦にもスマイルはまったく怯えず、圧勝してみせた。ドラゴンもまた元来の実力で順当に勝ち上がってゆく。そうしてベスト4へ勝ち上がったのはペコ、スマイル、ドラゴン、そして海王の猫田であった。準決勝で猫田と対戦したスマイルはこれまた圧倒的な結果で勝利して見せた。一方、ペコは急速な成長に比例したオーバーワークが災いし膝に爆弾を抱えていた。周囲から棄権を勧められながらも、ペコは「スマイルが上で呼んでいる」と言う。小学生のころから無愛想でいじめられっ子だったスマイルを助けたペコは、彼らの間でヒーローだった。ところが最近になって、ペコはすっかりやる気を失い、いつしかヒーローの存在感が消えてしまっていた。そのヒーローをスマイルがずっと待っていると、ペコは悟った。 準決勝。ペコはドラゴンにあえなく1セットを先取され、まったく打つ手がなく追い込まれる。しかし試合中、心中でスマイルと会話を交わしたのをきっかけに復活し、まるで遊ぶように大胆で自由な戦型へと変貌、セットを取り返して見せた。ペコのプレーは観客だけでなく、対戦相手であるドラゴンすら歓喜させる面白さだった。長らく強者の重圧、主将としての責任を背負い卓球を憎んですらいたドラゴンは、ペコとの対戦でやがて喜びをあらわにした。試合はペコが勝利した。 決勝戦はオババや小泉や道夫、アクマ・チャイナ・ドラゴンらがどこか嬉しそうに見守る中、共に片瀬高校同士、ペコとスマイルの対戦となった。膝を痛めたペコ相手にスマイルは一切手を抜かない。一方でペコも、傷をまるで感じさせない大胆なプレーで応戦した。その様はただ卓球を楽しむ少年でしかなかった。 5年が経過した。スマイルは小学校の教諭を目指しながら、道場でジュニアの指導をしていた。そこへ親しい仲となったドラゴンが顔を出し二人は昔を懐かしみながら語り合う。ドラゴンはプロの卓球選手となったが、日本代表から外れ、己を凡庸な選手で終わるかもしれないと憂いていた。アクマは高校生のころから交際していた女性と結婚を決めた。ペコは若くしてドイツのプロリーグへ進出し、人気を集めていた。 登場人物. ※声の記述はアニメ版、演の記述は映画版である 辻堂学院高校. かつては東日本に辻堂ありといわれた強豪校だが、近年は弱体化の一途。中国から選手兼コーチとしてチャイナを招き、起死回生を図る。 その他. その他に、『鉄コン筋クリート』の蛇が藤堂大学の卓球部員として、第32,34,36話でカメオ出演している。 評価. 「ピンポン」は1997年、1998年に手塚治虫文化賞の候補に挙げられ、受賞は逃したものの数多くの選考委員から高い評価を得た。 「ピンポン THE ANIMATION」を手がけた湯浅政明は連載当時から本作を愛好していたが、完成度の高さを見てアニメ化には当初後ろ向きだったとコメントしている。 中国出身の映画監督ビー・ガンはピンポンを始めとする松本の作品群から影響を受けたと公言している。 パチスロ. 2010年にSANYOから発売されたパチスロ5号機。 ART+ボーナスタイプの機種で、ゲーム数によるゾーン抽選で発動するART「ピンポンボーナス」が特徴。 映画. 漫画の連載終了から4年以上が経過した2002年初頭に映画の制作が発表され、同年7月に劇場公開された。 ストーリー. 片瀬高校一年の星野は、将来ヨーロッパに行って卓球で頂点を目指すという夢を持っている。その割には、卓球部の練習はさぼってばかりで、マイペースだ。星野の幼なじみの月本は、幼い頃虐められていたときに、いつも星野に助けてもらった。月本の中では、星野はヒーローであった。星野に卓球を習って、目立たないが卓球の才能を持っている月本は、インターハイチャンピオンの海王学園の風間や、中国のナショナルチームから落ちて日本で再起をはかる孔からも注目されている。しかし月本は卓球は人生の暇つぶしと考えてクールに取り組み、月本を鍛え上げようとする顧問の小泉にも反抗しがちだ。 そしてインターハイ県予選がはじまる。星野は、幼なじみで風間に憧れて海王学園に行った佐久間に破れる。月本は孔を追い詰めるが、情をかけ逆転負けをする。風間に認められたい佐久間は、月本に試合を挑むが完敗、退学し卓球を離れる。一方、卓球をやめようとしていた星野に会い、卓球を続けるように励ます。星野は再起を期して、タムラ卓球のオババのもとで鍛え直す。月本も、小泉と信頼関係を築いていき、特訓をはじめる。 そして翌年のインターハイ予選が始まる。月本は圧倒的な力で決勝に進んだ。星野は孔を下し準決勝に進む。そして膝痛のため、棄権をすすめるオババの忠告を蹴って、月本が待っているからと言って風間と戦う。風間は意地をかけて勝利を目指すが、星野は月本の友情に力を取り戻し風間を下す。死力を尽くした戦いに、風間は幸福を感じていた。月本はヒーローである星野との決勝に臨む。そして星野は月本に勝利し、優勝を果たした。 テレビアニメ. 『ピンポン THE ANIMATION』(ピンポン ジ・アニメーション)のタイトルで、2014年4月より6月まで、フジテレビ『ノイタミナ』枠にて放送された。原作の絵をほぼそのまま再現し、アニメーション化させるという試みが行われている。また、作中では、松本が連載時に着想したものの、描写できなかったエピソードが湯浅の手によって多数映像化されている。 また、本作にはあらかじめ脚本はなく、監督の湯浅政明自ら絵コンテから描き始め、そこでセリフ等を決めている。 2015年、東京アニメアワードフェスティバル 2015でアニメ オブ ザ イヤー部門テレビ部門グランプリ受賞。 BD-BOX / DVD-BOX. 2014年8月27日にアニメの全11話とサウンドトラックを収録したBOX仕様で発売された。規格品番はANZX-6281(Blu-ray)、ANZB-6281(DVD・完全生産限定版)、ANSB-6281(DVD・通常版)。 ブラウザゲーム. 『〜ピンポン THE ANIMATION〜 超高速!スマッシュパズル!!』というブラウザゲームが2014年4月11日から提供された。ジャンルは卓球パズル。基本プレイ無料のアイテム課金制。カルチャーによる制作で、Yahoo!モバゲーでの配信。
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衛星
衛星(えいせい、)は、惑星や準惑星・小惑星の周りを公転する天然の天体。ただし、惑星の環などを構成する氷や岩石などの小天体は、普通は衛星とは呼ばれない。 概要. 地球の衛星である月が先史時代から存在を知られていた唯一の衛星であるが、コペルニクス以前の天動説では惑星の一つと考えられていた。ガリレオ・ガリレイが木星に発見した4つの衛星いわゆるガリレオ衛星が有史以後発見された最初の衛星である。そしてヨハネス・ケプラーによって地動説が優勢になるなり、ラテン語で従者を意味するsatellesから「衛星」と呼ばれるようになった。 国際天文学連合(IAU)では、2006年に太陽系の惑星の定義を決議したが、衛星の定義に関しては「今後、天文学連合で検討されて決定する見込み」とするにとどまった。ただ、惑星の定義を単純に衛星に転用することは適切でないと考えられており、例えば惑星の定義に含まれる「重力平衡形状(ほぼ球状)を持つ」を条件にすると、これまで衛星と呼ばれていた天体が定義から外れるケースを生じると指摘されている。土星の衛星のヒペリオン(ハイペリオン)は、長軸径が約360km、短軸径が約225km(比は1.6)の太陽系最大の非球形天体である。また、冥王星とカロンのようにサイズが近く、天体間の共通重心が母惑星の表面よりも外側にある場合を、従来のように準惑星-衛星系と考えるか二重天体(二重準惑星)と考えるかも議論になっている。 人間が作った人工天体の場合には天然の衛星(自然衛星)と区別するために「人工衛星」() と呼ぶが、これを単に「衛星」と呼ぶことも少なくない。英語では、口語的に "moons" という言葉で、日本語でも「(惑星)の月」という呼び方で、月にかぎらず、各惑星等の衛星全般を指すこともある。 衛星の周りを公転する天体を孫衛星と呼ぶ。天然の孫衛星は現在のところ発見されておらず、一時的に存在できたとしても軌道が不安定であると考えられている。 安定する条件. また、衛星の形成原因は以下の4通りの説が出されている。 これらのうち惑星とともに形成された説は惑星に対し質量が相当大きな衛星も存在し得る(ガス惑星と地球サイズの衛星という組み合わせも可能)が、捕捉説は天体が大きくなると惑星の引力で捕捉が困難になるため成立しなくなる他、衝突説は岩石惑星の場合は良いが、ガス惑星の場合衝突で放出されるものの大半が水素やヘリウムといったガスなのですぐに散らばり、大きな衛星形成は困難になるといった違いがある。 また、逆行衛星の場合は捕捉説以外の成因はほぼ不可能で、海王星のトリトンはこうした逆行軌道であることから過去に海王星が捕捉した天体というのが定説となっている。 太陽系の惑星と準惑星の衛星. 2023年5月現在、太陽系の惑星を周回する衛星は284個発見されている。また2007年末時点で、そのうち144個に名前がついている。 組成. 太陽系の衛星には地球の衛星である月のように主に岩石のみで構成された岩石衛星(岩石型衛星)と、木星以遠の領域にある大部分の衛星のように二酸化炭素主体の氷と岩石あるいは氷のみで構成された氷衛星に分けられる。ただ、氷衛星は太陽系にごくありふれた存在であり、太陽系の衛星で氷をまとっていないのは地球の月と火星の2つの小衛星、木星の衛星イオだけである。 地球はやや特殊なパターンで、衛星が極めて大きいものが1つだけあるという構造であり、月の質量は地球の81分の1に及ぶ。他の惑星の衛星の場合は質量比がはるかに小さく、大きくてもそれが属する惑星の1万分の3程度が普通で、次に大きい海王星に対するトリトンの質量比が約5000分の1である。 比喩表現. 衛星の比喩として「衛星都市」、「衛星国家」などの表現も用いられる。
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DAPS
DAPSとは、データウエストが有する商標である。以下の2つの意味がある。 概要. CD-ROM黎明期の1990年に開発された。 それまでのFM TOWNS用ゲームでは、アニメーションや音楽再生中に同時並行でCD-ROMからのデータ読み込みが出来ない欠点があった。この欠点を克服することから開発された動画エンジンを核に、インタラクティブな機能を付け加えた独自のハイパーテキストのプレイヤーとその開発システム一式である。 割り込みの優先順位等が通常のTBIOSとは変更されたものが付加され、CD-ROMから実メモリ空間にバックグラウンドでDMA転送される様なシステムが構築されていた。また、音声再生や音楽再生もこのルーチン内で処理され、PCM楽器サウンドには非常に良質でコンパクトなデータが使われた。DAPSでは内蔵音源のみでBGMを実現していた。 同社制作の各種ゲームや学校教材で使用された。同社のゲーム『サイキック・ディティクティブ』シリーズや『第4のユニット』シリーズ等では、デジタルペイントされたセル画アニメーションが使用された。 同社独自のビデオキャプチャ機材も開発され、実写映像も利用可能となり、「平成一のファジイ男」という作品の制作を発表した。しかし諸般の事情で制作できず、NHKエデュケーショナル、トッパンが発売した銀河宇宙オデッセイの第2作目で使用された。その後石見銀山や大阪や神戸でロケハンを行ったミス・ディテクティブシリーズ2作品が制作された。 この動画エンジンは同社の手により、CD-ROMを搭載したSUPER CD-ROM2・メガCD・PC-9821などの各機種にゲームとともに移植された。なお、他社のソフトで使われることはほとんどなかった。 Windows 3.1や次世代機の時代になると、「Windows時代を見据えての『DAPS For Windows』を完成させつつある(※要約)」とパソコン誌などで表明していたものの、AVIとCinepak、MPEGなどのコーデックの登場により、独自の動画圧縮システムを使用しなくなった。ただし、同社のインタラクティブなゲームには全てDAPSの記載がある。 PC-9821での作品展開では、同一CD-ROMをFM TOWNSとPC-9821のどちらでも読める仕様であり、「キーディスク」と呼ばれる起動用のフロッピーディスクをそれぞれの機種用に添付しハイブリッド化させた。 ポリゴン画像をリアルタイム表示する「ポリゴンDAPS」なども存在した。これはセルアニメエンジンの流用である。
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シャルル・メシエ
シャルル・メシエ("Charles Messier" 、1730年6月26日 - 1817年4月12日)は、フランスの天文学者。星雲・星団・銀河に番号を振り、『メシエカタログ』を作った。 生涯. ロレーヌのバドンヴィレに生まれる。11歳の頃に父を亡くした。 パリのフランス海軍天文台で、1751年から天文官ジョゼフ=ニコラ・ドリルの助手として働き、航海天文台の事務員となって彗星の発見に没頭。1758年冬から、過去の観測から出現が予報されていたハレー彗星の捜索を始め、翌1759年1月21日に発見、ドリル天文官から表彰を受ける。しかし、それはヨハン・ゲオルク・パリッチュによる発見(1758年12月25日)の1か月後だった。マスコミが未発達のこの時代、1か月遅れの独立発見は仕方がないことではあるが、パリッチュがヨーロッパ中に一躍名を知られるのと対照的に、この発見によっていわれのない誹謗中傷を受けたことからその名を知られることとなる。しかし、この出来事の屈辱をばねとして、彼はより一層彗星探索に没頭するようになっていった。 1760年、ドリルの退官に伴い天文官に就任。彗星発見者としての名声は高まっていき、1764年ロンドン王立協会の外国人会員となる。このころ彗星の捜索の際、彗星と紛らわしい天体が多いことに閉口したメシエは、1764年初めからこうした天体のリストを作り始めた。そして、同年末、18個の自ら発見した天体にそれまで知られていたものを加えた40個 (M1-M40) の天体リストを作成。このとき加えた40番目の天体は二重星だった。その後、1765年におおいぬ座にM41を発見したため、45個にしようと思い立ったメシエは、リストにM42やプレセペ、プレアデスなどの有名な天体を追加した(詳しくは後述)。 1769年、おひつじ座のはずれに大彗星 (C/1769P1) を発見し、プロイセン科学アカデミーの外国人会員の資格を得た。フランス学士院は一介の事務官に学士院会員資格を与えることを渋っていたが、メシエが翌1770年にも彗星(レクセル彗星 (D/1770 L1) )を発見するとさすがに無視できず、同年に科学アカデミーの会員資格を与えた。生涯に発見した彗星は13個に上る(うち一つは助手のピエール・メシャンとの共同発見)。ルイ15世はメシエを「彗星の狩人」と呼んだ。ナポレオンはメシエに勲章を与えた。 1774年に『メシエ天体カタログ』第1巻 (M1-M45)、1781年に第2巻 (M46-M68)、1784年に第3巻 (M69-M103) をそれぞれ発表。 このカタログに掲載された天体をメシエ天体と呼ぶ。たとえば、M31はアンドロメダ銀河を表す。メシエは、カタログの体裁を(末尾の数字を0か5に)整えるため、二重星(M40、現在欠番)や彗星と間違えるはずのない星団(M45など)も入れていた。 後の観測でこれらのメシエ天体には星雲以外に、星団・銀河も多く含むことが判明した。 メシエが使用していた望遠鏡には口径9cmアクロマート屈折望遠鏡や口径15.2cmグレゴリー式反射望遠鏡、および口径19cmグレゴリー式反射望遠鏡などがある。 彼の名誉を称えて月のクレーター(メシエ)、小惑星7359番(メシエ)に彼の名が付けられている。1775年、ジェローム・ラランドによってかんししゃメシエ座(監視者メシエ座)という星座が設定されたことがあるが、現在は用いられていない。 メシエが発見した彗星. いずれも非周期彗星である。
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ブランコ
ブランコは、座板を支柱や樹木から鎖や紐などで水平に吊るした構造の遊具。揺動系遊具に分類される。 概説. ブランコはポピュラーな遊具の一つで、公園や小学校の運動場などに備え付けられていることが多い。 鞦韆(秋千、しゅうせん)ともいう。「鞦」「韆」はそれぞれ1文字でもブランコの意味を持つ。「鞦韆」は今でこそブランコの意味を持つが、古くは中国で宮女が使った遊び道具(性具)をさす。現代のブランコとは少し違い、飾りがたくさんついており、遊戯中、裾から足が見えて、皇帝が見ていて運よく夜伽に呼ばれる可能性から艶かしいイメージを持たれていた。北宋の文人、蘇軾の漢詩『春夜』にも鞦韆が出てくることから、性行為の過程を詠んだという解釈もある。唐の玄宗は、鞦韆に「半仙戯」の名を与えたという。 雅語は「ふらここ」。「ぶらんこ」の語源については擬態語「ぶらり」「ぶらん」などから来たとする説や、ポルトガル語の balanço (バランソ、英語のバランス、swing スイングの意もある)、もしくはBlanco(ブランコ、白色)から来たとする説などがある。なお、ポルトガル語版での対応項目タイトルは「Balanço」、フランス語版では「Balançoire」となっている。「ふらんど」「ゆさわり」ともいう。 日本へは古く中国から伝わったとされ、樹木や梁から吊り下げたものであった。嵯峨天皇の詩に詠まれ、『倭名類聚抄』にも記述がみられる。「ぶらんこ」と呼ばれるようになったのは江戸時代になってからとされる。なお、「鞦韆」が古くは性具を指したことから、日本でも「鞦韆に抱き乗せて沓に接吻す」(高浜虚子『五百句』)、「女優の鞦韆も下からのぞこう。沙翁劇も見よう。洋楽入りの長唄も聞こう。」(永井荷風「妾宅」)など、性的ニュアンスを込める場合などにあえてブランコではなく「鞦韆」が使用されている例が見られる。 サーカスなどの曲芸には空中ブランコという独特なブランコが使われる。非常に高い位置から2条の紐が降りていて、その先に細長い棒のようなものがあるだけである。一般のブランコの紐を長くし台を極限まで小さくしたものと解してよい。英語では、遊具のブランコは swing、空中ブランコは と呼ぶ。 種類. 一方向ブランコ. 座板を2本の鎖で支柱から吊り下げる構造を持つ最も一般的なもの。通常は単に「ブランコ」というが、関連文献などでは他の種類と区別するため「一方向ブランコ」として類型化されることがある。座板の材質・形状については、木製の板状のもの、金属製の椅子状のもの、ゴムやポリウレタン製で腰まですっぽり覆われるバケツ型のものなどがある。ただ、ブランコについては飛び降り時に他の遊具や安全柵と衝突するなどの原因による事故も報告されており、座面の改善や転落への対策等が必要という指摘がある。 全方向ブランコ. ゴム製のタイヤを3本の鎖で支柱から吊り下げる構造を持つもの。「タイヤブランコ」もしくは「全方向ブランコ」と呼ばれる。 箱ブランコ. 可動部に2人~3人が向かい合って座る構造の4人ないし6人乗りの大型のブランコ。「箱ブランコ」のほか「揺りかご型ブランコ」あるいは「丸ブランコ」などとも呼ばれる。 ただ、可動部の重さ、地面との隙間が狭いこと、指や足を挟む隙間が多いなどの問題点が指摘され、1960年代から頭蓋骨骨折や脳挫傷などによる死亡事故の報告例があった、このようなことから全国的に撤去される例が多くなっている。国土交通省管轄の公園においては、2001年には約13000台設置されていたが、2004年には約3600台にまで減少している。 遊動円木. 長い座板の両端を鎖で支柱から水平に吊り下げた構造を持つ遊具。遊動円木についても事故の報告があり、座面の材質や可動部の重さが問題点として指摘されている。 遊び方. 2本の鎖やロープによってぶら下げられた椅子(踏み台)に乗り、振り子の原理を利用して前後に揺らし、踏み台を漕ぐことによって振幅を徐々に大きくすることで振り子運動を楽しんだり高度感を味わったりする。物理学的には、パラメータ励振で説明できる。具体的に言うと、立ち乗りで漕ぐ時には、最下点付近の遠心力が最も大きくなるあたりで立ち上がり、最上点付近の遠心力が小さなところでしゃがむ運動を繰り返している。 乗り方の例. 以下は一般的なブランコにおける乗り方の例である。 韓国. 韓国ではブランコはクネ(그네)という。旧暦の5月5日に行われるでは、女性がブランコに乗る(クネティギ、그네뛰기)風習がある。
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主要国首脳会議
主要国首脳会議(しゅようこくしゅのうかいぎ)もしくは先進国首脳会議(せんしんこくしゅのうかいぎ)は、7か国による国際会議である。サミットとも呼ばれる。 日本、アメリカ、カナダ、フランス、イギリス、ドイツ、イタリア及びEUで構成され、メンバーは世界最大のIMFの先進国であり、“最も裕福な自由民主主義国であり、グループは多元主義と代議制政府という共通の価値観に基づいて公式に組織されている”(IMF談)。2018年の時点で、G7は世界の純資産(317兆ドル)の60%近くを占め、世界のGDPの32-46%を占める。また世界人口の10%に当たる約7億7000万人を占める。メンバーはいずれも世界的な大国であり、経済、軍事、外交面で緊密な関係を保っている。 法的・制度的な基盤を持たないものの、国際的に大きな影響力を持っていると考えられており、HIV/AIDS対策、途上国への資金援助、2015年のパリ協定による気候変動への対応など、いくつかの主要な世界的取り組みのきっかけとなったり、先導したりしている。一方で、古くて限られていることや、世界的な代表者が少ないこと、効果がないことなどが批判されている。また、反グローバリズム団体がサミットで抗議活動を行うこともある。 G7は、(グループ・オブ・セブン)の略で、主要7か国首脳会議、先進7か国首脳会議ともいう。 概要. 1998年サミットから2014年のロシアによるクリミア併合までは主要国首脳会議の構成メンバーは以下の8か国であり、G8、主要8か国首脳会議などと呼ばれていた。 上記の8か国の政府の長および欧州連合の欧州理事会議長と欧州委員会委員長が年に1度集まり、国際的な政治的・経済的課題について議論する会合である(その他の国の首脳や国際機関の代表も例外的に出席することがある)。また、それに合わせて数多くの下部会議や政策検討も行われる。ただし、2014年以降、ロシアはその参加資格を停止されている(後述)。 カナダとイタリアが加わる以前は日米仏英と西ドイツの5か国が参加するG5(ジーファイブ)と呼ばれていた。1975年にイタリアが参加し第1回先進国首脳会議が開催されG6(ジーシックス)となる。その後1976年にカナダが加わり第2回先進国首脳会議が開催されG7となった。現在では首脳や各閣僚による会合は全てG7の枠組みとなっている。カナダ以外の6か国は20世紀前半までの帝国主義時代における列強にあたる。中国はG7を北京に侵攻した八カ国連合軍と揶揄して批判した。 なおロシアの参加によって首脳会議や閣僚会合がG8という枠組みとなっていた時代においても、財務相・中央銀行総裁会議に関してはG7の枠組みで活動していた。そのため一時期は「G7=先進国財務相、中央銀行総裁会議」の略称として用いられていたとされる。 経緯. 発足時の名称は「先進国首脳会議」。 冷戦下の1973年のオイルショックと、それに続く世界不況に起源を持つ。1973年3月25日、この不況を憂慮したアメリカ財務長官ジョージ・シュルツは、将来の経済的課題を討議する会議を模索するため、西ドイツ・フランス・イギリスからそれぞれ財務大臣(ヘルムート・シュミット、ヴァレリー・ジスカールデスタン、)を招集し、ワシントンD.C.で非公式の会合を行った。この時、アメリカ大統領ニクソンは会場としてホワイトハウスを提供し、会合が地階の図書室で開催されたことから、この4か国は「ライブラリーグループ」と呼ばれた。その後、秋に開かれた国際通貨基金(IMF)と世界銀行の年次総会の際に行われた非公式会合の場で、シュルツは先の4か国に日本を加えることを提唱し、合意された。 1975年、フランスで大統領となったジスカールデスタンは、ライブラリーグループのメンバーに日本を加えた“工業化された4つの主要民主主義国”の首脳をフランスのランブイエに招待し、フランスを含めて5か国で初めての首脳会議を開き、定期的に首脳会議を持つことを提案した。このときの出席者は、主催国(議長国)を持ち回りで交代しつつ年に1回会議を持つことに合意した。こうしていわゆる「G5」が生まれた。しかし、これを不服としたイタリアの首相アルド・モロが第1回会議に乗り込んで来た為、イタリアを加えG6となる。しかし、これではヨーロッパに偏る為、翌年のプエルトリコの首都サンフアンでのサミットで米国のジェラルド・フォード大統領の要請によりカナダが参加し「G7」となる。 冷戦の終結に続く1991年の第17回先進国首脳会議(ロンドン・サミット)終了後、旧東側諸国の盟主で、かつてはG7諸国と対立していたソ連(現・ロシア)とサミットの枠外で会合を行うようになった。ロシアは1994年のナポリ会合以降は首脳会議のうち政治討議に参加するようになり、1997年のデンバー会議以降は「世界経済」「金融」などの一部セッションを除き基本的に全ての日程に参加することになった。1998年のバーミンガム会議以降は従来の「G7サミット」に代わり「G8サミット」という呼称が用いられるようになった。さらに2003年のエビアン・サミット以降、ロシアは「世界経済」に関するセッションを含め完全に全ての日程に参加するようになった。一方ロシアは経済力が大きくないなどの理由により、7か国財務大臣・中央銀行総裁会議には完全参加していなかった。 ロシアの参加には米大統領ビル・クリントンの示唆などもあった。これは当時のロシア大統領ボリス・エリツィンに経済改革を進めさせ、また北大西洋条約機構(NATO)の東方拡大政策に関して中立を保つようにさせるためのクリントンのジェスチャーだった。ロシアは加入当初は経済破綻で貧困状態であったために先進国とは言い難く、一人当たり名目GDPも1999年には1334ドルに過ぎない発展途上国状態であった。このころ、名称が「先進国首脳会議」から「主要国首脳会議」に変更された。 他方、2005年2月18日、米上院議員ジョー・リーバーマンとジョン・マケインがロシア大統領ウラジーミル・プーチンによって民主的、政治的自由が確保されるまではG8への参加を見合わせるようにロシアに呼びかけるなどの動きもあった。 当初においては様々な国際的な課題への強い影響力を有していたが、近年では新興諸国の政治的・経済的影響力の上昇に伴う相対的な影響力の低下とともに、形骸化や単なるセレモニー化が指摘されている。一方で、国連総会などの外交官レベルの会議に比べ、主要各国の首脳会議であるサミットは決断力・実行力に格段の優位性をもつほか、拒否権のような制度的問題がなく、国連を補完する意味で一定の役割を果たしているという指摘もある。 2014年3月25日にオランダのハーグで開かれた核セキュリティーサミットとあわせ、臨時のG7サミットが開かれた。その議場において、ロシアのウクライナに対する軍事介入やクリミア半島掌握などを非難したG7の首脳陣は、2014年6月にロシア・ソチで行われる予定だったG8サミットを中止し、会場をベルギーのブリュッセルに変更する決定をした。また同会議において、「ロシアが態度を改め、G8において意味ある議論を行う環境に戻るまで、G8への参加を停止する」という内容のハーグ宣言を発表した。これにより、G8としての活動は事実上停止し、冷戦当時のG7へと戻った。 メンバー国と招待国. 国際連合や世界銀行のような国際機関とは異なり、条約に基づくものではなく、常設の事務局やオフィスはなく、議長国は加盟国の間で毎年交代し、議長国はグループの優先事項を決定し、主要国首脳会議(サミット)を開催する。サミットの新たなメンバー国を増やすには、全参加国の支持が必要となる。一方、招待国は議長国に権限が与えられている。またメンバー国の間で毎年順番にグループの議長国が回り、新しい議長国は1月1日から担当が始まると考えられている。議長国は一連の大臣級会議を主催し、続いて年の中頃に3日間の首脳によるサミットを行う。また、出席者の安全を確保するのも議長国の役割である。 大臣級会議は健康、法務、労働を担当する大臣が集まり、相互のまたは全地球的な問題について議論する。これらのうち最もよく知られたものはG8外務大臣会合、G8財務大臣会合などがある。1994年にはG7の後援の下で、情報化社会の実現に関する特別プログラムが設立された。 G8サミット国や招待国以外でも、特定の分野で参加することができる。例えば2005年6月には、G8は幼児性愛者に関する国際的データベースを立ち上げることに同意され設置されたが、G8以外の国もこのデータベースに参加することができる。またG8は、各国のプライバシーと保安にかかる法律の範囲内でテロリズムに関するデータを集積することにも同意した。同時にG8構成国、およびブラジル、中国、インド(発展途上国で最大の地球温暖化ガスの排出国)の国際科学アカデミーが気候変動に関する共同声明に署名した。この声明は気候変動についての科学的理解はいまや各国が即座に対策を執るには十分に明らかになっており、IPCCの統一見解を明示的に支持するということを強調している。 G7(G8)への反発. G8への非難. G8で扱われる課題は議論のある国際的問題であるためG8は非公式な「世界政府」であり、何の関係もない第三世界にまで決定事項が強制されているという非難がアルテルモンディアリストによりしばしばなされる。ちなみにG8の「決議」「決定」「宣言」その他諸々は、国際法上の根拠を何ら持たず、すなわち非参加国に対する拘束力のない“仲間内での取り決め”に過ぎない。 年1回のサミットは、しばしば反グローバリゼーション活動の反対活動の的になる。特に2001年にジェノバで開かれた第27回主要国首脳会議では大規模なデモが行われるなど顕著だった。 G8参加国は現在、地球規模で深刻な問題となっている地球温暖化や発展途上国での貧困の原因となっていると非難があり、また主要国として問題解決に向けて対処すべきという非難もある。このようにG8諸国が作り出していると非難されている問題について責任を取って闘うよう、G8指導者へさまざまな団体から圧力がかかっている。例えば、ボブ・ゲルドフは2005年7月2日と7日にグローバル・アウェアネス・コンサートであるLive 8を組織しG8指導者に「Make Poverty History(貧困を歴史としよう)」を奨励した。また組織関係者は、G8メンバー国に1992年のリオデジャネイロ地球サミットの「アジェンダ21」で概説されたとおり国家予算の0.7%を海外援助に回すよう提案した。このコンサートは第31回G8サミットと同時になるように計画された。 G8とテロリズム. 2005年7月7日、スコットランドでのサミットの初日に50人以上が命を落とし数百人が負傷したと言われるロンドン地下鉄およびロンドン2階建てバス同時多発爆破事件が起こった。この攻撃は、直ちに「ヨーロッパ在住のアルカーイダ秘密グループによるジハード」によるものとされた。この攻撃は西側国家に対し、アフガニスタンおよびイラクでの軍事活動をした場合攻撃を行うとイスラム原理主義者によって犯行の予告が先立ってされていた中で英国が軍事行動に参加したことと関係があるものとされた。G8サミットへ集まった国際的な注目は、おそらく最大限の象徴的な効果のためにテロリストによって増幅された。この打撃は、IOCがロンドンを2012年オリンピック大会の開催地に決定した告知をした直後でもあった。 議論. 近年はインドや中国などの新興国の急速な経済発展の反面G7の経済力と影響力低下に伴い、世界経済に関してはG7にEUとロシアおよび新興経済国11ヶ国を加えたG20の枠組みで議論される事が多くなっている。 2010年2月5日から6日まで2日間の日程でカナダのイカルイトで開幕したG7の財務相・中央銀行総裁会議では、世界経済の現状について意見交換する夕食会の後、膝詰めで話し合う「炉端対話」が行われ、仏財務相のクリスティーヌ・ラガルドからG7の今後のあり方が提案されたが結論は出ず、継続議論となった。日本からは財務大臣の菅直人と日銀総裁の白川方明が出席した。 現在では、中国の海洋進出やロシアによるクリミア併合などを受けて、法の支配や普遍的価値を共有するG7の結束は高まっている。だが、2017年、国益を重視するドナルド・トランプの米大統領就任により、2019年は初の首脳宣言見送りとなった。 2016年5月31日、外務大臣の岸田文雄(当時)は、記者会見で「G20の台頭」に対して、「G7は特に、自由、民主主義、法の支配、人権と言った基本的な価値観を共有する主要国の枠組みだと思います。」「国際社会が経済も含めて不透明化する中にあって、この枠組の意義、存在感は益々高まっていくのではないか、このように認識しております。」(一部抜粋)と語っている。 2020年6月、同年の開催国にあたる米大統領のトランプは、G7の枠組みにオーストラリア、インド、ロシア、韓国を加えてG10またはG11に拡大する意向を示した。新型コロナウイルスの流行を背景に「対中包囲網」という意識もあると見られる。ただし、全G7諸国の承認が条件でカナダとイギリスはロシアの参加に反対し、ロシアも中国排除の仕組みに意味がないと難色を示した。韓国に関しては中国政府系メディアから「韓国は大した力のない国」と批判され、日本政府からも北朝鮮問題を理由に参加を拒否された。また、EU外相のジョセップ・ボレルは「トランプにG7の枠組みを変える権限など一切ない。」と痛烈に批判している。7月27日には、ドイツもG7の拡大を批判した。2021年、日本政府はG7の拡大に反対すると正式に表明した。 2022年は、ロシアによるウクライナ侵略への対応を目的とし、ウクライナへの支援とロシアに対する経済制裁の議論が活発化した。 先進国、主要国首脳会議の一覧. 以前は、サミット参加7か国の間でフランス、アメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、日本、イタリア、カナダの順で毎年持ち回り開催されてきた。ロシアが参加するようになってからはイギリスの次にロシアが入り、8か国持ち回りになった。前半3か国が国際連合安全保障理事会の常任理事国であり、後半4か国はそうではない。 1990年代までは開催国の首都などの大都市での開催が多かったが、1990年代末になると反グローバリズム、アルテルモンディアリスム団体の抵抗運動によるデモ活動が頻発。特に2001年のジェノヴァでは大規模なデモに見舞われたことから、以降、警備のしやすい地方都市、保養地での開催が多くなっている。 出席者. G7(G8)リーダー. 第1回はフランス、アメリカ、イギリス、西ドイツ、日本、イタリアの6か国首脳によるG6、第2回から第23回までは6か国にカナダを加えたG7、第24回から第39回までは7か国にロシアを加えたG8。西ドイツは1990年にドイツ再統一が起こったため、第17回からは統一ドイツとして出席している。 1998年から2013年まで、G8は以下の8名で構成された。 2014年のクリミア侵攻によってロシア大統領が参加資格停止となったので、それ以降はG7に戻って今日に至っている。 なお第6回のみ日本からは外務大臣大来佐武郎が出席した。サミット直前に内閣総理大臣大平正芳が急死し、大平の後継総理は第36回衆議院議員総選挙、第12回参議院議員通常選挙の衆参同日選挙が終了するまで決定されなかったためである。 歴代出席者の一覧. 太字は議長。 その他. 近年では、G8メンバー以外にも様々な政治のリーダーが会合に参加している。どの国家を招待するかについては、基本的にはそのときの議長国の判断による。 例えば中国共産党総書記(中国国家主席)、大韓民国大統領、オーストラリア首相、インド首相、ブラジル大統領、メキシコ大統領、南アフリカ大統領などが招待されたことがある。しかし議長国の一存次第なので彼らは必ず呼ばれるとは限らない。 このうち韓国大統領、インド首相、オーストラリア首相についてはサミットのメンバーに加えるべきという意見がある。2020年にはこの年のサミット(中止となった)の議長国だったアメリカ大統領ドナルド・トランプが韓国、オーストラリア、インド、ロシアをメンバーに加える構想を打ち出したが、ドイツ、イギリス、カナダ、日本が反対した。2021年のコーンウォールサミットの議長国のイギリス首相ボリス・ジョンソンも韓国、オーストラリア、インドの首脳を同年のサミットに招待するとともに、この3国をメンバーに加えることを提案したが、日本が反対した。 また国際機関の長として、国際連合事務総長や欧州連合の欧州理事会議長および欧州委員会委員長が出席する。このうち欧州理事会議長と欧州委員会委員長はEUを代表してG8の本会合にも参加する。これ以外に経済分野では国際通貨基金専務理事が参加する。 拡大会合参加国. 2010年6月25日の拡大会合が行われた。その参加国は次の通りである。 シェルパ. 側近達が集まって予備会合を持つことがあるが、こちらは「シェルパ会議」の別名で呼ばれる。サミットが首脳の地位を山頂にたとえることが発端となったことになぞらえ、同行者の意味で随員はシェルパと呼ばれる。シェルパは3名で構成されることが決まっており、日本においては首席シェルパは経済担当外務審議官が務める。 主要国首脳会議にまつわる事柄. 首脳の写真撮影の立ち位置. サミットにおいて恒例となった写真撮影では首脳の立ち位置は毎回変化しているが、この立ち位置にはルールがある。 中央に開催国(議長国)の首脳を配し、国家元首(大統領)か否(首相)かと在任期間の長い順に議長に近い順に左右に並ぶ(平成年間の日本は首相の交代が多かったため端に位置することが多い。一方で、比較的在任期間の長かった中曽根康弘や小泉純一郎、安倍晋三は中央付近に並ぶこともある)。また、アメリカ合衆国で開催される場合ではこのルールはあまりこだわることはなく、議長であるアメリカ大統領との関係で立ち位置が決まることもあった。 転語. 主要国首脳会議がサミットと呼ばれていることから、トップ同士の集まりのことを「サミット」と形容することがある(例:市町村サミット。首長会は普段は全国市長会と全国町村会に分かれている)。
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仮面ライダーV3
『仮面ライダーV3』(かめんライダーブイスリー)は、1973年2月17日から1974年2月9日まで、NET系列で毎週土曜19時30分から20時(JST)に全52話が放送された、毎日放送・東映制作の特撮テレビドラマ作品。 概要. 「仮面ライダーシリーズ」の第2作で、前作『仮面ライダー』の直接的な続編。テレビシリーズのほか、劇場版が「東映まんがまつり」の中で公開された。仮面ライダー1号・2号の後を継ぐライダー3号・V3と、ショッカーやゲルショッカーに続く第3の組織・デストロンの戦いを描く。前作の勢いを受け継ぎ、頂点を迎えていた変身ヒーローブームの大きな牽引役を果たした作品であり、主人公の強いキャラクター性とも相まって歴代シリーズ中でも知名度が高い。視聴率も平均で関東20.2パーセント、関西27パーセントを記録したほか、制作局である関西圏の毎日放送ではシリーズ最高視聴率である38パーセントを記録し、その記録はいまだにシリーズでは破られていない。 ストーリー. 仮面ライダー1号・2号の活躍によって悪の組織ゲルショッカーは壊滅し、世界に平和が戻ったかに見えた。しかし、生きていたゲルショッカー首領は密かに新組織・デストロンを結成して再び世界征服に乗り出すと、目撃者を容赦なく抹殺していた。 1号こと本郷猛の大学の後輩風見志郎はある夜、デストロンの悪事を目撃したため、命を狙われるようになる。また、そのアジトを見つけた珠純子を助けたため、怪人・ハサミジャガーが風見家を襲撃し、両親と妹は志郎の目の前で殺害される。怒りに燃えて復讐を誓った志郎はそのための力を得ようと1号・2号に自分の改造を願うが、改造人間の悲哀を誰よりも知る彼らに拒否される。しかしその後、志郎はデストロンの罠に落ちた1号・2号を助けようとして瀕死の重傷を負う。1号・2号は彼の命を救うために改造手術を施し、第3の仮面ライダー「V3」として復活させる。こうして、V3とデストロンとの死闘の幕が切って落とされた。 登場人物. 仮面ライダーとその協力者たち。個別に項目の存在するキャラクターの詳細は各項目を参照。 デストロン. ゲルショッカー壊滅後にショッカー・ゲルショッカーを支配していた首領が新たに結成させた秘密結社。ショッカー、ゲルショッカー以上の戦力と科学力で世界征服を企む。怪人は機械と動植物を融合させた機械合成怪人となり、幾度となくV3を苦しめた。後半はキバ一族・ツバサ軍団・ヨロイ軍団といった世界各地の部族と手を結び、V3と死闘を繰り広げた。各部族が操る怪人たちはショッカー怪人同様に動植物の怪人たちで構成されており、機械合成怪人とともにショッカーやゲルショッカーの怪人はもちろん、(第1話・第2話・第33話・第34話の客演状況から)仮面ライダー1号・2号でさえも苦戦させる能力を持つ。組織のマークはサソリをモチーフにしている。 最終決戦でプルトンロケットによる日本壊滅をたくらむもライダーマンの捨て身の行動で阻止され、さらに最終作戦であるD作戦もV3に阻止される。そして、デストロン本部を急襲したV3により首領は倒されて本部が大爆発を起こし、デストロンは壊滅した。 怪人. 機械合成怪人. 機械合成怪人とは、ゲルショッカーの合成怪人をさらに発展・改良させた怪人である。生物と道具・武器を掛け合わせた能力を持ち、そのパワーは生物同士を掛け合わせた能力を持つゲルショッカー怪人を大幅に上回っている。体の中に機械があるため、動きが鈍いのが弱点。第13話以降は幹部であるドクトルGの指揮のもと、活動する。 キバ一族. 「キバ族」とも。キバ男爵が率いる怪人軍団。全員がキバを持っているのが特徴で機械合成怪人を凌ぐパワーを持ち、V3や1号・2号を苦しめた。ドーブー教を行動原理としており、祈祷や魔術によって怪人たちに力を与える。 ツバサ一族. 「ツバサ族」「ツバサ軍団」とも。ツバサ大僧正が率いる怪人軍団。ほぼ全員が飛行能力を持っているのが特徴であり、空中戦に慣れていないV3を大いに苦しめた。チベットに伝わる密教「まんじ教」が行動原理。 ヨロイ一族. ヨロイ元帥が率いる怪人軍団。「ヨロイ族」や「ヨロイ軍団」とも称される。強固な防御力とパワーを併せ持った怪人が多いのが特徴であり、その多くが鎧のように硬い皮膚を持っている。これまでのデストロン怪人を上回る戦闘力を持ち、V3やライダーマンを苦しめた。 デストロン戦闘員. デストロンの主戦力である一般兵士。白いサソリ模様の黒い全身タイツ服と、ドクロをイメージした白い模様の黒いマスクを着用する。他人への変身能力もある。 3.0の視力、100メートルを9.8秒の走力、6倍のジャンプ力など常人の5倍の体力を持ち、ゲルショッカー戦闘員以上の戦力を誇る。 ショッカー時代と同様、デストロンバックルには自爆機能が内蔵されている。キバ男爵配下の戦闘員は上腕部に2本のキバが交差したマークが入っており、トーテムポールへの変身も可能。ツバサ大僧正配下の戦闘員はこの装束の袖に長いフリンジを装着しており、空を飛べる。 マスクの白い縁取りの目の部分が尖っていないタイプの戦闘員もいる。左肩の部分のデザインが通常と異なる戦闘員も存在する。腰にはカッターナイフなどや毒矢、銃などの飛び武器を装着している場合がある。 用済みとなった戦闘員は処刑されたり、怪人などの実験台にされたりする。年齢を問わず能力の高い者はごく普通の男性が改造され、デストロンに拉致された男性が戦闘員に改造・脳改造されるなどして洗脳されている。改造の際には改造液を体内に注射して戦闘員化させるほか、洗脳して戦闘員化させることでデストロンに服従させる。『仮面ライダーV3カード』では、悪の細胞を培養して作り上げた人造人間と記述している。 キャスト. 主なゲスト出演者. ※参考文献:『仮面ライダー大図鑑(3)』(バンダイ・1991年)、『仮面ライダーV3大全』(双葉社・2001年) スーツアクター. V3役は中屋敷鉄也が主に担当したが、第1話・第2話のみ前作から引き続き1号を演じた。 ライダーマン役はアクション以外の多くを変身前と同じく山口が演じ、アクションでは数名が担当した。 トランポリンは前作ではJACが担当したが、本作品以降は大野剣友会がトランポリンも担当することとなった。 スタッフ. 『V3』制作当時の生田スタジオは多数の作品を手がけるようになり、監督陣は流動的であった。メイン監督の山田稔は第31話・第32話と第41話・第42話も担当する予定であったが、実際には第27話・第28話を最後に『イナズマン』へと移動した。奥中惇夫は第3話・第4話を担当したのみで『ロボット刑事』へ、前半のローテーションを担った田口勝彦は『どっこい大作』へとそれぞれ移動している。後半は『ロボット刑事』を終えた内田一作と折田至がメインを務めた。 第9話・第10話の脚本は、映画『不良番長』シリーズの監督である内藤誠とその助監督である佐伯俊道が共同執筆した。内藤は息子が仮面ライダーのファンであったことや、テレビドラマ『ゴールドアイ』で宮内洋がゲスト出演した回の監督を務めていたことなどから、プロデューサーの平山亨や阿部征司に執筆を申し出た。 第49話の脚本は助監督の長石多可男が担当した。このストーリーは、長石が他の助監督らと生田スタジオに泊まりこんだ際に酒の席で挙がった話が基になっている。 音楽. 挿入歌. オープニングとエンディング同様、作・編曲はすべて菊池俊輔。「デストロン讃歌」、「V3のマーチ」、「V3アクション」、「仮面ライダー讃歌」の冒頭には効果音とセリフが入っている。ライダーマンのテーマ「ぼくのライダーマン」は本作品の劇中でも使用されたが、『仮面ライダーV3』のLPレコード(KKS-4076)はすでに発売されていたため、次作『仮面ライダーX』のLPに収録された。 制作. 企画経緯. 仮面ライダー3号の登場は元々、「少年仮面ライダー隊の発足」や「ショッカーに代わる新組織登場」と併せ、前作の2年目後半の番組強化策として検討されていたものであり、当初は前作で1号・2号に協力していたFBI捜査官・滝和也がライダー3号となる予定だった。だが、少年仮面ライダー隊が好評を得たことから3号登場案は温存され、次番組の主人公として違う人物がライダー3号として登場することとなり、次番組の第2話を『仮面ライダー』の第100話として捉えて前作を締めくくることとなった。 新番組として立ち上げられた『仮面ライダーV3』は、1号・2号の能力を併せ持つ仮面ライダーV3と動植物に機械を加えたデストロン怪人の対決という構図により番組の強化を体現し、「26の秘密」を巡る縦軸のストーリー展開や前後編形式の導入など、ドラマ性の拡大による前作との差別化にも重点が置かれた。その一方、前作に登場していた立花藤兵衛や少年仮面ライダー隊を継続して登場させることにより、前作からの連続性も維持している。 プロデューサーの平山亨による企画案では『マスクライダー』『ライダー仮面』『ライダーマン』、その後の制作会議では『仮面ライダー3』『仮面ライダーX』などのタイトルが検討されていた。 競合番組の多い4月の改編期より前に新ヒーローを登場させて視聴者の支持を獲得したいという毎日放送の戦略により、改編期とは関係のない2月半ばに番組が開始されることとなった。 撮影. 風見志郎を演じた宮内洋が後年にインタビューで語ったところによれば、撮影で使用した火薬の量は彼の要望もあって前作の3倍に及んだうえ、四国のとある島で使用した際には「爆発で島にヒビが入った」と観光協会から、神奈川県の海中で使用した際には「爆発のせいで魚がいなくなる」と漁業組合から、それぞれクレームがあった。そのため、スタッフは年中謝っていた。 他媒体展開. 各キャラクターの詳細などについては、登場人物の節や各登場人物の項目(仮面ライダーV3 (キャラクター)やライダーマンなど)を参照。 映像ソフト化. いずれも東映ビデオより発売。 コミカライズ. 本作品が制作されていた時点で、原作者石森章太郎による漫画版『仮面ライダー』の連載はすでに終了しており、原作者自身による本作品のコミカライズ作品は存在しない。他方で、放送当時から石森プロ所属の漫画家を中心に、多くの作家によるコミカライズは行われている。 ゲーム. 発売元は東映ビデオとバンダイナムコゲームス(旧バンダイレーベル、旧バンプレストレーベル)による。
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バンダイナムコエンターテインメント
株式会社バンダイナムコエンターテインメント()は、コンシューマーゲームなどのゲームソフトの制作および開発を行う日本の企業。バンダイナムコホールディングスの完全子会社であり、バンダイナムコグループにおける中核企業の一つ。略称は「BNEI」「バンナム」。 旧ナムコを母体としており、2006年3月31日にアミューズメント施設事業を新たに設立した株式会社ナムコ(後の株式会社バンダイナムコアミューズメント)に譲渡し、株式会社バンダイのゲーム部門を統合しバンダイナムコゲームス(→2014年4月1日より)に変更、そして2015年4月1日に現社名に変更した。 略称の「バンナム」は、バンダイナムコエンターテインメント発売のゲーム内にも登場している(一例として「ゲームセンターCX 有野の挑戦状2」内の「課長は名探偵」の「バンナムビル」など)。なお、過去にエンターブレインのゲーム雑誌『ファミ通PLAYSTATION+』内コーナーバンダイナムコスポーツにおいて、「バムコ」の名称が用いられていた。 概要. 1955年6月1日に中村雅哉が有限会社中村製作所(なかむらせいさくじょ)を設立。1971年に「」の略としてnamcoブランドの使用を開始し、1977年6月1日には社名もナムコと改めた(当時の英語名は「」)。 2005年6月25日の第50回定時株主総会でナムコとバンダイの経営統合の議案が可決承認され、上場会社としてのナムコは9月29日に幕を下ろし、以降は株式会社バンダイナムコホールディングスの子会社となった。 2006年3月31日、バンダイのゲーム部門を統合し、社名をバンダイナムコゲームス(NAMCO BANDAI Games Inc.)に変更した。バンダイナムコホールディングスにおいてゲーム部門を受け持つ企業としての立場を明確にした。 2008年4月1日、バンプレストのゲーム事業の譲受と共にバンプレストレーベルを新設。 それまではナムコから引き継いだものしかモバイルコンテンツを扱っていなかったが、2009年4月1日にバンダイネットワークスを吸収合併したため、バンダイナムコグループにおけるモバイルコンテンツは完全に自社管轄となった。同日、ナムコ・バンダイ・バンプレストの各レーベルごとの公式サイトと全レーベルの総合サイトの4つに分散していた公式サイトを統合し、「バンダイナムコゲームス公式サイト」としてリニューアルされた。サイト統合後は、全レーベルのタイトルを一貫して掲載しサイトへのレーベル表示も行わなくなった。このため、バンダイとバンプレストの統合前のゲームコンテンツの知的財産権が自社に移行され、それまでのバンダイレーベルのゲームソフトのコマーシャルはバンダイ本体に委託されていたが、それ以降から自社の管轄に移動された。 サイト統合以降もレーベル自体を統合した訳ではなく、パッケージ表面およびゲーム起動時に表示するロゴマークについては、各レーベルのものが使い分けられていた(ゲーム起動時に表示されるロゴマークは、2014年1月現在家庭用ゲームではバンダイナムコゲームスのロゴ、各レーベルのロゴの順。ただし「機動戦士ガンダム 戦場の絆」等の一部アーケード作品ではバンダイナムコゲームスレーベルのみ)。2014年4月1日以降に発売されるソフトについては各レーベル表記を廃し、バンダイナムコゲームスレーベルに完全統合された。 2014年4月1日より英文社名をNAMCO BANDAI Games Inc.からBANDAI NAMCO Games Inc.に変更した。 2015年4月1日に、社名をバンダイナムコゲームスからバンダイナムコエンターテインメント(BANDAI NAMCO Entertainment Inc.)に変更した。 2018年4月1日に、アーケードゲーム事業を同日付でナムコから商号変更したバンダイナムコアミューズメントへ移管し、バンダイナムコエンターテインメントはコンシューマーゲーム、携帯電話コンテンツの開発、販売の開発に専念することになった。 バンダイナムコグループの再編とロゴマークの変更に伴い、2022年4月1日に社名の英文表記とロゴマークが変更された。 旧ナムコのキャッチコピー. 上記2つは最初期のCMで、1984-85年頃のパックマン、ゼビウス等といったファミコンソフト発売時に放映されたもの。CM曲には細野晴臣の「Non Standard Mixture」の一部が使われており、細野自身もCMに出演していた。 最後のキャッチコピー「遊びをクリエイトするナムコ」は、以後もナムコブランドのゲームのパッケージのロゴ付近にあしらわれ、2014年のBNGIへのブランド統合まで長く親しまれた。 ゲームタイトル. バンダイ・ナムコ・バンプレストのゲーム部門を統合する前から各社でゲームソフトの開発が続けられていたため、2006年から2009年3月までは旧バンダイ・旧ナムコ・旧バンプレストのロゴをそれぞれバンダイレーベル、ナムコレーベル、バンプレストレーベルと称し、便宜的な名義(ブランド名)として使用していた。(アーケードゲームにおいては、2014年3月までナムコレーベル、およびバンダイナムコゲームスレーベルの二つが使用されていた)。公式サイトへのレーベル表示を廃止した、2009年4月以降も2013年までパッケージ表面・ゲームソフト起動時に表示するロゴマークについては、前述の戦場の絆等一部アーケード作品を除き、各レーベルのものを引き続き使い分けていたが、2014年以降は一部を除き家庭用作品も、バンダイナムコゲームスレーベル→2015年の社名変更以降はバンダイナムコエンターテインメントレーベルのみが用いられるようになった。 レーベルの変更. 一部のゲームは、移植版や続編が登場する際、レーベルが変更される場合がある。以下がその一例である。 著作権表記. 経営統合後の同社の各ゲーム作品の著作権表記は「©NBGI」(家庭用ゲーム機)または「©NAMCO BANDAI Games Inc.」(アーケードゲーム機)に統一されていた。また、2011年以降の旧ナムコレーベルの一部のゲームソフトでは、「©NAMCO BANDAI Games Inc.」が用いられることがあった(旧バンダイレーベル、旧バンプレストレーベルは引き続き「©NBGI」のまま用いられた)。2014年4月に社名表記が変更されてから「バンダイナムコエンターテインメント」に社名変更する前までは家庭用・アーケードを問わず「©BANDAI NAMCO Games Inc.」が用いられるようになり、「©BNGI」の方は省略形にとどまっている。 ただし、全ての『ガンダムシリーズ』系のゲーム作品には存在しない(『ガンダム』以外のサンライズ及びバンダイナムコピクチャーズ制作のゲーム作品を除く)。これは『コンパチヒーローシリーズ』、『スーパーロボット大戦シリーズ』、『Another Century's Episode』シリーズも同様であり、また、『IVY THE KIWI?』や3DS版『テトリス』、ディズニーのゲーム作品にも同様である。 その他. 同社が経営統合後の2008年4月以前は提供クレジットでは「バンダイ」と「ナムコ」であり、後者のレーベルのみ「バンダイナムコゲームス」の提供クレジットを使用することがあった。同年4月以降「バンプレスト」から移管され、正式に全てのレーベルで「バンダイナムコゲームス」の提供クレジットが表示されるようになった。なお、2009年3月まではバンダイナムコゲームスのロゴをCMで使用するのはごく稀であり、通常はバンダイ・ナムコ・バンプレストの各社のロゴで表示されていたが、同年4月以降はサイト統合により、前述の戦場の絆等一部のアーケード作品ではバンダイナムコゲームスレーベルを使用している。また、作品に対する登録商標または商標のマーク表示は、旧ナムコが1990年代から行うようになった。 合併以降レーベル統合後の2014年現在においても、旧ナムコおよびナムコレーベルの流れを汲むオリジナルタイトルにのみ慣例的に行われている。ただ、任天堂製ハード向けの作品に対してのみ、パッケージ裏面に「Produced by 株式会社バンダイナムコゲームス」とメーカー名が記載されているにもかかわらず、表面の下部に「発売元:株式会社バンダイナムコゲームス」と二重に記載している。また、Amazon.co.jpにおけるメーカー名表記は、2010年半ばまでは当該レーベル毎であったが、同年以降バンダイナムコゲームスで統一された。 2007年から2016年2月1日まで入居していた旧本社ビルの元になった旧品川パナソニックビルは、1992年に松下電器産業によって建設されたもので、周辺にビルの日陰を作らないように配慮された結果、台形の外観となった。2006年3月に地元の不動産業者に売却された。旧本社ビルは旧本社における営業最終日当日から解体工事が開始され、跡地にはマンションが建設される予定となっている。 サウンドロゴ. 2014年になって、TVCMの最後にサウンドロゴを導入した。内容は白バックで画面中央にメーカーロゴを表示し、「バンダイナムコ」というナレーションが入る。このナレーションの担当は通常のものでは声優の高橋信だが、CMによってはそのゲームの登場キャラクターが担当するものも多い。2022年3月まではこのパターンを使用し、2022年4月のコーポレートロゴの変更からサウンドロゴも変更になった。複数の色の枠が中央に集まって「バンダイナムコ♪」とも聞こえる5つの単音と共に新しいバンダイナムコグループのロゴを形成する。サウンドはバンダイナムコスタジオのサウンドチームが手がけ、当社以外のバンダイナムコを社名に冠するグループ会社の商品・サービス関連のプロモーション映像やCMでも使用する。
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芥川龍之介賞
芥川龍之介賞(あくたがわりゅうのすけしょう)、通称は、芸術性を踏まえた一篇の短編あるいは中編作品に与えられる文学賞である。文藝春秋社内の日本文学振興会によって選考が行われ、賞が授与される。掌編小説には授与されたことがない。 概要. 大正時代を代表する小説家の一人・芥川龍之介の業績を記念して、友人であった菊池寛が1935年に直木三十五賞(直木賞)とともに創設し以降年2回発表される。第二次世界大戦中の1945年から一時中断したが1949年に復活した。新人作家による発表済みの短編・中編作品が対象となり、選考委員の合議によって受賞作が決定される。受賞者には、正賞として懐中時計、副賞として100万円が授与され、受賞作は『文藝春秋』に掲載される。 現在の選考委員は、小川洋子・奥泉光・川上弘美・島田雅彦・平野啓一郎・堀江敏幸・松浦寿輝・山田詠美・吉田修一の9名(2020年上半期から)。選考会は、料亭『新喜楽』の1階で行われる(直木賞選考会は2階)。受賞者の記者会見と、その翌月の授賞式は、長く東京會舘で行われていたが、同館の建て替えに伴い、現在は帝国ホテルで行われている。 成立. 1934年、菊池寛は『文藝春秋』4月号(直木三十五追悼号)に掲載された連載コラム「話の屑籠」にてこの年の2月に死去した直木三十五、1927年に死去した芥川龍之介の名を冠した新人賞の構想を「まだ定まってはいない」としつつ明らかにした。1924年に菊池が『文藝春秋』を創刊して以来、芥川は毎号巻頭に「侏儒の言葉」を掲載し直木もまた文壇ゴシップを寄せるなどして『文藝春秋』の発展に大きく寄与しており両賞の設立は菊池のこれらの友人に対する思いに端を発している。また『文学界』の編集者であった川崎竹一の回想によれば、1934年に文藝春秋社が発行していた『文藝通信』において川崎がゴンクール賞やノーベル賞など海外の文学賞を紹介したついでに日本でも権威のある文学賞を設立するべきだと書いた文章を菊池が読んだことも動機となっている。このとき菊池は川崎に文藝春秋社内ですぐに準備委員会および選考委員会を作るよう要請し、川崎や永井龍男らによって準備が進められた。同年中、『文藝春秋』1935年1月号において「芥川・直木賞宣言」が発表され正式に両賞が設立された。 設立当時から正賞(賞牌)として記念時計が贈られるとされており、副賞は500円であった。芥川賞選考委員は芥川と親交があり、また文藝春秋とも関わりの深い作家として川端康成、佐藤春夫、山本有三、瀧井孝作ら11名があたることになった。 芥川賞・直木賞は今でこそジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となっているが設立当初は菊池が考えたほどには耳目を集めず、1935年の「話の屑籠」で菊池は「新聞などは、もっと大きく扱ってくれてもいいと思う」と不平をこぼしている。1954年に受賞した吉行淳之介は、自身の受賞当時の芥川賞について「社会的話題にはならず、受賞者がにわかに忙しくなることはなかった」と述べており、1955年に受賞した遠藤周作も、当時は「ショウではなくてほんとに賞だった」と話題性の低さを言い表している。遠藤によれば、授賞式も新聞関係と文藝春秋社内の人間が10人ほど集まるだけのごく小規模なものだったという。転機となったのは1956年の石原慎太郎「太陽の季節」の受賞である。作品のセンセーショナルな内容や学生作家であったことなどから大きな話題を呼び、受賞作がベストセラーとなっただけでなく「太陽族」という新語が生まれ石原の髪型を真似た「慎太郎カット」が流行するなど「慎太郎ブーム」と呼ばれる社会現象を巻き起こした。これ以降芥川賞・直木賞はジャーナリズムに大きく取り上げられる賞となり1957年下半期に開高健、1958年上半期に大江健三郎が受賞した頃には新聞社だけでなくテレビ、ラジオ局からも取材が押し寄せ、また新作の掲載権をめぐって雑誌社が争うほどになっていた。今日においても話題性の高さは変わらず特に受賞者が学生作家であるような場合にはジャーナリズムに大きく取り上げられ、受賞作はしばしばベストセラーとなっている。 選考過程. 上半期には前年の12月からその年の5月、下半期には6月から11月の間に発表された作品を対象とする。候補作の絞込みは日本文学振興会から委託される形で、文藝春秋社員20名で構成される選考スタッフによって行なわれる。選考スタッフは5人ずつ4つの班に別れ各班に10日に1回ほどのペースで毎回3、4作ずつ作品が割り当てられる。スタッフは作品を読み、班会議でその班が推薦する作品を選ぶ。それから各班の推薦作品が持ち寄られて本会議を行いさらに作品を絞り込む。この班会議→本会議が6~7回ずつ計12~14回繰り返され、最終的に候補作5、6作を決定する。班会議、本会議ともにメンバーは各作品に○、△、×による採点をあらかじめ行い会議に臨む。 最終候補作が決定した時点で候補者に受賞の意志があるか確認を行い、最終候補作を発表する。選考会は上半期は7月中旬、下半期は1月中旬に築地の料亭・新喜楽1階の座敷で行なわれる。選考会の司会は『文藝春秋』編集長が務める。選考委員はやはりあらかじめ候補作を○、△、×による採点で評価しておき、各委員が評価を披露した上で審議が行なわれる。 選考基準. 「新人」の基準. 芥川賞は対象となる作家を「無名あるいは新人作家」としており、特に初期には「その作家が新人と言えるかどうか」が選考委員の間でしばしば議論となった。戦中から戦後にかけて芥川賞が4年間中断していた時期に野間宏、中村真一郎、椎名麟三、梅崎春生、武田泰淳 、三島由紀夫ら「戦後派」と呼ばれる作家たちが登場して注目を浴びたが1949年の芥川賞復活後、彼らは新人ではないと見なされて候補に挙がることさえなかった。また島木健作や田宮虎彦、金達寿、後述する井上光晴のように候補に挙がっても「無名とはいえない」という理由で選考からはずされることもしばしばあった。第23回(1950年上半期)に田宮が候補となったとき、坂口安吾は「芥川賞復活の時に、三島君まではすでに既成作家と認めて授賞しない、というのが既定の方針であったが、田宮君が授賞するとなると、三島君はむろんのこと、梅崎君でも武田君でも(中略)かく云う私も、候補に入れてもらわなければならない」と述べて反対している。他方、第5回(1937年上半期)に受賞した尾崎一雄は受賞時すでに新人とは言えないキャリアを持っていたが、「一般的には埋もれている」(瀧井孝作)と見なされて受賞に至っている。第38回(1957年下半期)に開高健と競って僅差で落選した大江健三郎はその後の半年間にも次々と話題作を発表し、続く第39回(1958年上半期)でも候補となったが作品のレベルでは群を抜いていたにも関わらず新人といえるかどうかが議論の的となった。現在では、芥川賞は原稿用紙300枚以内の小説という括り以外では、説明のできない賞になってきている。 作品の長さ. 芥川賞は短編・中編作品を対象としており長さに明確な規定があるわけではないが、概ね原稿用紙100枚から200枚程度の作品が候補に選ばれている。第1回の受賞者でありその後選考委員も務めた石川達三は対象となる作品の長さについて「せいぜい百五十枚までの短編」であるという見解を示したことがあるが、第51回(1964年上半期)受賞の柴田翔「されどわれらが日々―」は150枚を大幅に超える280枚の作品であった。第50回(1963年下半期)芥川賞で井上光晴が「地の群れ」で候補に上がったときは、すでに無名作家でない上、作品が長すぎるという理由で選考からはずされたが、選考委員の石川淳は「いずれの理由も納得できない」と怒りを表明している。また国際的にも評価の高い村上春樹は芥川賞はおろか直木賞すら受賞していないが村上の場合は中篇作品で2度候補となった後、英語ほかに翻訳されて読まれることを想定した世界文学に移行したことが理由の一つに挙げられる。現在、芥川賞受賞作品が他国民のために翻訳されて読まれることは、決して多くはない。 なお「作品の短さ」は本になったときに読みやすくまた値段も安くなることから、直木賞に比べて作品の売り上げが伸びやすい理由となっている。300枚未満で連作ではないもの、何らかの雑誌で掲載済みのものならノミネートの対象になる。 直木賞との境界. 純文学の新人賞として設けられている芥川賞であるが、大衆文学の賞として設けられている直木三十五賞(直木賞)との境界があいまいになることがしばしばある。第6回(1937年下半期)直木賞には純文学の作家として名をなしていた井伏鱒二が受賞しており、直木賞選考委員の久米正雄は「純文学として書かれたものだが、このくらいの名文は当然大衆文学の世界に持ち込まれなくてはならぬ」と述べている。のちに社会派推理作家として一般に認知された松本清張は、「或る『小倉日記』伝」で1952年下半期に芥川賞を取っており、これはもともと直木賞の候補となっていたものだったが候補作の下読みをしていた永井龍男のアドヴァイスによって芥川賞に回されたものであった。第46回(1961年下半期)の両賞では宇能鴻一郎が芥川賞を、伊藤桂一が直木賞をとり、このとき文芸評論家の平野謙は「芥川賞と直木賞が逆になったのではないかと錯覚する」と述べている。同様の事態は第111回(1998年上半期)にも起こり、このときには私小説の作家であった車谷長吉が直木賞を、大衆文学の作家とみなされていた花村萬月、ハードボイルド調の作品を書いていた藤沢周が芥川賞を取ったことで話題となった。 芥川賞に比べて直木賞のほうはある程度キャリアのある作家を対象としていることもあり、檀一雄、柴田錬三郎、山田詠美、角田光代、島本理生などのように芥川賞の候補になりながらその後直木賞を受賞した作家もいる。1950年代までは柴田錬三郎「デスマスク」(第25回・1951年上半期)、北川荘平「水の壁」(第39回・1958年上半期)など芥川賞と直木賞の両方で候補に挙がった作品もあった。 批判. 賞のジャーナリスティックな性格はしばしば批判の的となるが、設立者の菊池自身は「むろん芥川賞・直木賞などは、半分は雑誌の宣伝にやっているのだ。そのことは最初から明言してある」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年10月号)とはっきりと商業的な性格があることを認めている。菊池は賞に公的な性格を与えるため1937年に財団法人日本文学振興会を創設し両賞をまかなわせるようになったが同会の財源は文藝春秋の寄付に拠っており、役員も主に文藝春秋の関係者が就任している(事務所も文藝春秋社内)。また設立当初には選考委員に選ばれている作家の偏りが批判されたが、これに対し菊池は「芥川賞の委員が偏しているという非難をした人があるが、あれはあれでいいと思う。芥川賞はある意味では、芥川の遺風をどことなくほのめかすような、少なくとも純芸術風な作品に与えられるのが当然である(中略)プロレタリア文学の傑作のためには、小林多喜二賞といったものが創設されてよいのである」(「話の屑籠」『文藝春秋』1935年2月号)という見方を示している。 文学賞に対する批判本『文学賞メッタ斬り!』を著した大森望、豊崎由美は現在の芥川賞の問題点として選考委員が「終身制」で顔ぶれがほとんど変わらないこと、選考委員が必ずしも現在の文学に通じている人物ではないこと、選考委員の数が多すぎて無難な作品が受賞しがちなこと、受賞作が文藝春秋の雑誌である『文学界』掲載作品に偏りがちであることなどを挙げている。また豊崎は改善策として選考委員の任期を4年程度に定め、選考委員の3分の1は文芸評論家にするなどの案を示している。 最年少・最年長受賞記録. 特に若年での受賞や学生作家の受賞は大きな話題となる。 太宰治の落選について. 第1回芥川賞では、デビューしたばかりの太宰治も候補となった。太宰は当時パビナール中毒症に悩んでおり薬品代の借金もあったため賞金500円を熱望していたが、結局受賞はしなかった。この時選考委員の一人だった川端康成は太宰について、「例へば、佐藤春夫氏は『逆行』よりも『道化の華』によつて作者太宰氏を代表したき意見であつた。(中略)そこに才華も見られ、なるほど『道化の華』の方が作者の生活や文学観を一杯に盛つてゐるが、私見によれば、作者目下の生活に嫌な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みがあつた」と言ったことに対し、太宰は『文藝通信』において以下のように反論した。 この批判に対し川端も翌月に、「太宰氏は委員会の様子など知らぬというかも知れない。知らないならば尚更根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい」と反駁して、石川達三の『蒼氓』と太宰の作の票が接近していたわけではなく、太宰を強く推す者もなかったとし、「さう分れば、私が〈世間〉や〈金銭関係〉のために、選評で故意と太宰氏の悪口を書いたといふ、太宰氏の邪推も晴れざるを得ないだらう」と述べているが、プライベートに関して人格攻撃をしたこと自体は後に謝罪した。その後、太宰は第3回の選考の前に、川端宛てに、「何卒私に与へて下さい」という書簡を出したり、選考委員のなかで太宰の理解者であった佐藤春夫に何度も嘆願の手紙を送り第2回、第3回の候補になるべく『文藝春秋』に新作を送り続けたが、前回候補に挙がった作家や投票2票以下の作家は候補としないという当時の条件のために太宰は候補とならなかった。川端はこの規定決定時に欠席しており、「この二つの条件には、多少問題がある」としている。佐藤はこれらの経緯を『小説 芥川賞』と題して詳しく描いている。また、このとき太宰は『新潮』の誌面で、あたかも佐藤との間で受賞の密約を交わしていたかのようなアピールをしているが、佐藤には即座に否定されている。 受賞者一覧. 1940年代. (第二次世界大戦のため中断) 歴代選考委員. 各回ごとの出席状況などは別項芥川賞の受賞者一覧を参照。 参考文献. 選評は『芥川賞全集』に収録されている。
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直木三十五賞
直木三十五賞(なおきさんじゅうごしょう)は、大衆性を押さえた長編小説作品あるいは短編集に与えられる文学賞である。通称は直木賞。 上半期は前年12月1日~5月31日までに発表された作品が対象。候補作発表は6月中旬、選考会は7月中旬、贈呈式は8月中旬。 下半期は6月1日~11月30日までに発表された作品が対象。候補作発表は12月中旬、選考会は翌年1月中旬、贈呈式は2月中旬。 概要. かつては芥川賞と同じく無名・新人作家に対する賞であったといわれているが、1970年代あたりから中堅作家中心に移行、近年では長老クラスの大ベテランが受賞することも多々ある。(もっとも、直木賞は設定当初の時期も新人向けの賞であったとは言い難い面がある。第1回受賞の川口松太郎や第3回受賞の海音寺潮五郎からして既に新人とは言うには無理があったし、戦後第一回目である第21回受賞の富田常雄は『姿三四郎』発表後の受賞であり、既に文壇長者番付上位の人気作家であった。その他にも、候補者・受賞者の中には新人とは言い難い人物が少なくない) 沿革. 文藝春秋社社長の菊池寛が友人の直木三十五を記念して1935年に芥川龍之介賞(芥川賞)とともに創設し、以降年2回発表される。 授賞する作品は選考委員の合議によって決定される。第6回から、財団法人日本文学振興会により運営されている。第二次世界大戦中の1945年に紙の不足による出版点数の減少から一時中断したが、1949年に復活した。 2019年現在の選考委員は、浅田次郎、伊集院静、角田光代、北方謙三、桐野夏生、高村薫、林真理子、三浦しをん、宮部みゆきの9名(2020年上半期から)。選考会は、料亭・新喜楽の2階で行われる(芥川賞選考会は1階)。芥川賞と直木賞の受賞者記者会見とその翌月の授賞式は、ともに東京會舘で行われてきたが、同館の建て替えにともない現在は帝国ホテルで行われている。 受賞者には正賞として懐中時計、副賞として100万円が贈呈され、受賞作はオール讀物に掲載される。なお、複数の受賞者がいる場合でもそれぞれに賞品と100万円の賞金が贈呈され、分割授与にはならない。一方、受賞該当作なしとなった場合は次回受賞分に賞金を繰り越すキャリーオーバーは行われない。 傾向. 発足当初の対象は新人による大衆小説であり、芥川賞とは密接不可分の関係にある。また、運営者である日本文学振興会の事務所が社内に置かれている文藝春秋から刊行、あるいは同社の雑誌に掲載された小説に対して多く授賞している傾向があり、文藝春秋とも事実上不可分の関係となっている。 創設時、選考の対象は「無名若しくは新進作家の大衆文芸」(直木賞規定)であったが、戦後になり回を重ねるごとに芥川賞と比べて若手新人が受賞しにくい傾向となった。これは1つには各回の選評にしばしばあるように大衆文学を対象とする賞の性質上、受賞後作家として一本立ちするだけの筆力があるかどうかを選考委員が重視したためであり、背景には「大衆小説は作品を売ることで作家として生計を立ててゆく必要がある」という考え方があったものと推測される。また創設時にはまだ新進のジャンルであった大衆文学の分野における実質唯一の新人賞であった直木賞が、戦後多くの出版社によって後発の大衆文学の賞が創設されていく中にあって、当該分野の中でもっとも長い歴史と権威を持つ、大衆文学の進むべき方向を明らかにする重要な賞として位置づけられるようになったこととも関係があるだろう。 現在ではこのような状態が長く続いたため選考基準に中堅作家という一項が新たに加えられ、実質的には既に一定のキャリアを持つ人気実力派作家のための賞という設定となり、直木賞が当初に持たされていた「文学界の有望新人を発掘する」という機能はおのずから他の新人賞に振られることとなった。結果としてすでに中堅・ベテランの著名作家として名を成している人物に対していわゆる「遅すぎたノミネート」「遅すぎた受賞」を行うケースが多く、さらに既に人気作家となっている者にあっては選考(候補)を辞退する事例も起きておりこの点で文芸界・各種マスコミの内外で数多くの議論が巻き起こってきたことも事実である。 選考対象の「大衆小説」にまつわる問題としては、推理小説を主たる活動分野とする作家が受賞しにくい傾向が長く続いた点がある。受賞したのは多岐川恭の『落ちる』(第40回)、生島治郎『追いつめる』(第57回)、中村正䡄『元首の謀叛』(第84回)くらいで、笹沢左保、真保裕一、貫井徳郎、湊かなえは4度、北方謙三、志水辰夫、西村寿行は3度候補となりながら受賞に至らず、赤川次郎、小杉健治、折原一、島田荘司、福井晴敏ら推理作家として大成した作家も届かず、三好徹、陳舜臣、結城昌治、連城三紀彦、皆川博子らも非ミステリー分野の作品で受賞していた。しかし逢坂剛が『カディスの赤い星』で受賞(第96回)して以後は認められるようになり、笹倉明(第101回)、原尞(第102回)、髙村薫(第109回)、大沢在昌(第110回)、小池真理子、藤原伊織(第114回)、乃南アサ(第115回)、宮部みゆき(第120回)とコンスタントに受賞者が出た1989年から1999年は「ミステリーの隆盛」とも呼ばれる。北方、髙村、宮部は桐野夏生(第121回)、東野圭吾(第134回)と共に選考委員を務めることになり、第150回現在で選考委員9人のうち5人がミステリー畑出身者で占められた(東野圭吾は161回を最後に選考委員を退任し、後任には角田光代が就任した)。 同様に大衆小説内でも発展期以降の歴史が比較的浅いSFやファンタジーなども選考段階では幾度か俎上に上げられてはいるが、実際の受賞事例は景山民夫『遠い海から来たCOO』(第99回)が唯一である(半村良はSF小説で2回候補になった後、人情小説で受賞している)。昭和末期に勃興したライトノベルのレーベルから刊行された作品の中にも広義にいえば若年層向けの大衆文学ともいえる要素を内含している作品が一部見られるが、日本文学振興会と密接な関係にある文藝春秋がこのジャンルに対するノウハウを持ち合わせていないためか、ほぼ目が向けられていないに等しい(ライトノベル出身の受賞作家としては桜庭一樹がいるが、受賞作は一般文芸誌に掲載された作品であった)。この様に現在でも空想性が極端に高いSF・ファンタジー等のジャンルに対する評価が総じて低いのも直木賞選考の特徴である。古くより選考委員の席の大半を過去の本賞受賞者が占めていることもあってか、毎回行われる選評での高評価も伝奇小説・時代小説・歴史小説・人情小説などといった多くの受賞者が属する従来型の大衆文学に属する作品に偏りがちで、新規に開拓された後発ジャンルや選考委員たちが専門知識を持たないか興味の薄いジャンルに対してはジャンルそのものへの理解が乏しい、言い換えれば守旧的な選考を行う傾向が根強い一面がある。この様な風潮によって受賞を逃した作家には小松左京・星新一・筒井康隆・広瀬正・万城目学などがおり、中でも不利とされるSFを専門範囲とし三度にわたり落選の憂き目を見た筒井は、後に別冊文藝春秋において、直木賞をもじった「直廾賞」の選考委員たちが皆殺しにされるという、直木賞選考を批判的に風刺した小説『大いなる助走』を発表している。 近年では、大衆文学の延長線上で生み出された音楽小説なるものにも受賞されることがある。  テレビ. 『ルポルタージュにっぽん』 直木賞の決まる日(NHK 1980年1月26日)
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バオー来訪者
『バオー来訪者』(バオーらいほうしゃ)は、荒木飛呂彦による日本の漫画作品、およびそれを原作とするOVA作品。集英社の少年向け漫画雑誌『週刊少年ジャンプ』に1984年45号から1985年11号まで17話が連載された。単行本は全2巻。 主人公は、生物兵器「バオー」へと改造された青年「橋沢育朗」と予知能力を持つ少女「スミレ」の2人。バオーの超人的能力を狙う、政府系の秘密組織「ドレス」からの逃避行を中心に、2人の成長と相思を綴った物語。 バオー. 「バオー(BAOH)」とは変身した育朗を指す言葉ではなく、正確には彼の体内に寄生する40mmほどの寄生虫の名称である。バオーの宿主はヒトである必要はなく、作中では育朗以外にもバオーが寄生したイヌが登場している。この生物を生み出した霞の目博士の弁によれば、バオーを自由に利用することが可能になれば核爆弾級の戦力に匹敵し、「ドレス」は医学および軍事的な面で世界的優位に立てるという。バオーという名前は、作者によると当時話題となっていたバイオテクノロジーなどの「バイオ」から来ている。バオーは宿主の肉体へ進入したのち脳(動脈の中)に寄生し、寄生した日数にしたがって宿主に対する影響力を強めていく。百数十日で成虫になると宿主に産卵、孵った幼虫は宿主の身体をつき破り、新たな宿主へ寄生する(この設定はOVAでは排除されている)。また宿主の肺呼吸が停止すると仮死状態となり、その場合宿主の肉体は再び目覚めるまで老化することはない。 宿主が生命の危機に瀕すると、体内に分泌されたアドレナリンをバオーが感知し、宿主の精神を無力化させてその支配下におく(ただし、劇中では育朗が戦っている自分を次第に知覚していくようになる描写がある)。次に、血管を使い宿主の全身に分泌液をめぐらせ、宿主の骨・筋肉・腱を何倍にも強化し、強靭な肉体とさまざまな特殊能力を付与する。「ドレス」では、この変身を「バオー武装現象(アームド・フェノメノン)」と称している(詳細は後述)。寄生している日数が進むに従って、段階を踏んで徐々に武装現象を発現させていく。 武装現象中のバオーは、宿主の頭部に独自の「触角」を発現させ、これにより視覚・聴覚・嗅覚などの全感覚をまかなう。バオーは対象をすべて「におい」で感知しており、自身が嫌悪する敵意や悪意などの負の感情が持つ「におい」を放つ者を攻撃対象として認識している。また、これにより攻撃目標として認識された者を無力化することはバオーにとって「においを止める」行為に過ぎない。またそのにおいもいくつかにわけ理解しており「生きることを止められた者の悲しいにおい」、「邪悪なにおい」などを嗅ぎわけ、とりわけバオーが嫌いなのはドレスの刺客たちの「邪悪なにおい」である。また戦闘を通じて敵味方の区別をにおいから学ぶ学習能力も備え、味方を守ったりなどの行動をとり、生物としての進化を遂げていく。 また、武装現象の発現中は「バル」「バルバルバルバル」「ウォォォーーム」といった鳴き声(作中では主に咆吼として表現されている)のみを発し、宿主本来の音声・言語を発音することは基本的に無い。 なお、寄生虫バオーは霞の目博士が作り出した生物兵器であるが、劇中後半に変身もせずにバオーの能力が使えたり、攻撃を受け傷ついてもいないのに宿主の意思でバオーに変身したり、変身後に育朗の意識で行動し、しゃべったりと、人間である宿主の育朗がバオーを自在に操作できている。 劇中のこの寄生虫の描写は、夢枕獏による単行本のあとがきの批評にて、その姿を描いた「絵」の持つ説得力が高く評価されている。 バオー武装現象. バオーは宿主の危険を察知すると、宿主の意識・肉体を一時的に支配し、危険から身を守るため宿主に武装現象(バオー・アームド・フェノメノン)を発現させる。武装現象の表記は劇中で一定していない。これらは「高い格調・強烈な描写・長くて覚えにくい名前」ということで、連載当時よく他のマンガなどのネタに使われた。主な能力は以下の通りで、放たれれば防御された事例がほぼない、正しく必殺技である。 OVAではこうした武装現象名を育朗が叫ぶことはなく、その多くは字幕で処理されている。 その他、治癒能力・代謝能力の活性化や体液の変質などにより、宿主の体の一部が切断されても貼り合わせるだけで元通りに接合したり、瀕死の生物に血を飲ませることでその命を救うことができるようになる。 登場キャラクター. 声の項は特記ない限りOVA版のキャスト。 秘密組織ドレス. ドレスは作中に登場する秘密組織で、兵器として使える新生物を作り出すための人工進化などを研究している。もとは旧日本軍の化学細菌戦部隊であったが、第二次世界大戦後、その研究はアメリカ合衆国に引き継がれドレスが設立された。北上山地や三陸海岸に研究所を持つほか、独自の偵察衛星や特殊工作員や特殊部隊などの戦力を有し、国鉄に専用列車を自由に走らせる特権も有する。 ドレスの新生物. 霞の目による「人工進化」の実験を経て誕生した、過酷な環境にも適応した体を持った動物たちのこと。いずれも動物兵器として開発されたもので、寄生虫バオーやノッツォなどもドレスの新生物である。 ここでは、バオーの敵として登場した動物たちを挙げる。OVAにはいずれも未登場。 その他. OVAにはいずれも未登場。 OVA. 1989年に製作され、同年9月16日にテアトル池袋と大阪の2館のみであるが、OVAとして発売される前に東宝で劇場公開もされた。併映は『ザ・ボーグマン ラストバトル』。バオーの時限爆弾的な特性や育朗のトラウマなど、深く語られないで終わった設定は排除されている。 サウンドトラック. 1989年10月11日に、OVAで使用されたBGM全19曲を収録した音楽集がCDとテープで発売されている。 ゲームへの登場. 作品単独としてのゲームは製作されていないが、PS3用ソフト『ジョジョの奇妙な冒険 オールスターバトル』(2013年8月29日発売)にて、DLC追加キャラクターとして「橋沢育朗(バオー)」が配信されている。 担当声優はOVA版の堀秀行から内山昂輝に変更されている。OVA版では字幕で処理されていた技の名前は、ナレーションの大川透が叫び、育朗の心の声も同様にナレーションが担当している。
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野球
は、2つの(基本的には9人編成の)チームが攻撃と守備を交代しながら、各頂点に4つのベースを持つ菱形の区画において得点を競い合うである。「フィールド」や「野球場」、「スタジアム」と呼ばれる場所で行われる。アメリカ発祥のスポーツであり、1845年にアメリカで現在の形・ルールの基礎がつくられ、1869年には最初のプロチームが生まれ、アメリカで有数の人気スポーツとなり国民的娯楽となった。(もとはイギリスからの移民がアメリカに持ち込んだスポーツが元型・祖型になっている、とされる。#歴史) 概説. 野球は、2つのチームが攻撃と守備を交互に繰り返して得点を取り合い、得点数の多いか少ないかに基づいて勝敗を競う競技である。点数の多いチームが勝利を手に入れる。 1チーム9人ずつで構成された2チームが守備側と攻撃側に分かれ、守備側の投手が投げたボールを攻撃側の打者がバットで打ち、設置された4つのベース(塁)を反時計回りに進み、一周することで得点を得る。両チームは攻撃と守備をそれぞれ交互に9回ずつ(7回以下ずつの場合もある)行い、その間に挙げた得点の多さを競う。 4つのベースは、それぞれ一塁(ファースト・ベース)、二塁(セカンド・ベース)、三塁(サード・ベース)、本塁(ホーム・ベース)と言う。なお、大会やリーグによってルールの細部に相違点があり、たとえば予め定めた以上の一方的展開になった場合や気象条件等により途中で試合を打ち切るコールドゲームの規定、攻撃時に投手と呼ばれるポジションの選手の代わりに攻撃専門の選手を使う指名打者(DH)制度の有無、審判員の人数等細かな違いがあり、大会やリーグごとにそれぞれの環境に最適と考えられる制度を採用している。 アメリカが発祥の地および本場であり、アメリカのメジャーリーグベースボール(MLB)が主導している。他の国で行われる野球のルールも、基本的にはアメリカのベースボールのルールを模倣したり、アメリカでルールの修正・変更があれば、たいていはアメリカを「後追い」する形で修正・変更されている。国際大会が開催される場合も、基本的にアメリカのルールが基準になっている。 「baseball(ベースボール)」という名称は、4つのbase(ベース)を使用するという特性を由来としている。なお、日本語の「野球」という名称は、明治期に日本で中馬庚が作った和製漢語である(後述)。 本記事では、ベースボール(野球)と、亜種とはしっかり区別して説明する。 発祥地であり、一番盛んな国であるアメリカのメジャーリーグベースボール(MLB)によって行われているベースボールが世界の野球の基準になっている。 発祥地で本場のアメリカではボール(球)はあくまで硬式である。硬式以外のボールを使うものは「別物」、別種の競技とされている。 アメリカでの球が具体的どのようなものか説明すると、MLBは最高級のボールを使っている。最適な革でくるみ、縫い目もしっかり巻くように縫われている。MLBの選手は最高レベルの技術でプレーするからその質に合わせたボールが使われるのである。なお、MiLB( マイナーリーグベースボール)ではMLBと比べて少し材質が劣るボールが使われている。 アメリカの高校野球や大学野球ではMLBと同じサイズのボールを使うが、密度はわずかに低い(少しだけ軽い)。そこでは金属バットが使われるのでそれに合わせて設計されている。 本場アメリカでは少年野球の段階から硬式を使う。少年野球の段階からすでに柔らかいボールは絶対に使わない。少年野球でも革でくるんだボールを使うが、芯はウール巻のものを使う。 日本でも、プロ野球や社会人野球、大学野球、高校野球においては本来の硬式野球が行われているが、中学以下は軟式が多く、別物になってしまっている。 歴史. 野球の起源は明確にはされていないが、イギリスの球技である「」がイギリス系移民によってアメリカに持ち込まれた後に変化し、野球として形成されたと考える研究者が多い。1830年代から1840年代に原型が成立した後、主にアメリカの北部で盛んとなり、南北戦争(1861年 - 1865年)を機に南部にも伝えられたことでアメリカ全土において人気を博するようになった。19世紀後半を通じてルールに大幅な改良が加えられ、現在の形となった。 1869年には世界初のプロ球団であるシンシナティ・レッドストッキングスが設立され、1871年には世界初のプロ野球リーグであるナショナル・アソシエーションが設立された。このリーグ自体は5年で破綻したものの、1876年にはこれを引き継ぐ形でナショナルリーグが設立され、MLBが成立した。この頃、日本を訪問したアメリカ人によって日本に野球が伝えられた。 規則. 2つのチームが攻撃と守備を交互に繰り返して勝敗を競う。ルールは本場アメリカのMLBのOFFICIAL BASEBALL RULES(MLB公式ルール)が世界基準となっている。各国の国内ルールも原則それに沿った内容になるように整備されており、日本の公認野球規則も原則的にMLBルールに合致した内容になるようにMLB公式ルールを基本的には翻訳したものである。 試合形式. 攻撃側は、相手チームの投手が投げたボールを打って、一塁・二塁・三塁・本塁をまわることで得点を得る。守備側は相手チームの走者が本塁に到達しないように打者や走者をアウトにする。相手チームの選手を3人アウトにできれば、攻撃に移ることができる。攻撃と守備の一巡はイニングと呼ばれる。一試合は9イニングからなり、得点の合計が多いチームが勝者となる。両者の得点が等しい場合は、延長戦を行う、引き分けとするなどルール体系によって対応が分かれる。 各チームの目的は「より多くの得点を得て、勝つこと」であり、公認野球規則1.05には「各チームは、相手チームより多くの得点を記録して、勝つことを目的とする。」と明記されている。規則書に「勝つことを目的とする」と明確に表記されていることは、野球のルールの際立った特徴の一つでもある。 チーム編成. 1チームは選手9人(指名打者制を採る場合は10人)と監督、コーチなどで編成される。試合にはそれ以外にも控え選手がおり、日本のプロ野球では16人、日本の高校野球では9人まで控えとして途中からの試合出場ができる。しかし、一度交代により退いた選手は、その試合中は再び試合に出ることはできない。(交代させずに)守備位置を変えることは可能である。また、守備位置を交代しても再び交代する前の守備位置に戻ることは可能である。 用具. 野球を行うにあたっては、様々な用具が必要であるが、選手が野球を行う上で必要となる用具のうち、代表的なものについて述べる。詳しくは各項目を参照のこと。 バット. バットは滑らかな円い棒であり、打者が投球を打ち返すための用具である。 グラブ(グローブ)・ミット. グラブやミットは、投球、打球、送球を受けるための革で作られた用具である。形状によってミットは捕手用のキャッチャーミット・一塁手用のファーストミットの2種類があり、グラブには 投手用・二塁手用・三塁手用・遊撃手用・外野手用・満遍なく使えるオールラウンド向け等、数種類に分類することができる。そのそれぞれについて、右投げ用(左手に着用)・左投げ用(右手に着用)・両投げ用が存在する。グラブはどの形状でもすべてのポジションで使用できるが、ミットに関しては捕手と一塁手の使用についてのみ、公認野球規則の3.04、3.05にそれぞれ規定されている。投手が着用するグラブについては、グラブ全体が一色であり、商標・マーク類は白色・灰色以外であること、グラブにグラブの色と異なるものをつけてはならないことといった制限がある。 スパイクシューズ. 野球用の靴でスパイク部分は金属または樹脂を使用している。少年野球では危険なため、樹脂製スパイクを使用している場合が多い。スパイク部分が取り外し可能なものもある。また、ピッチャーが利き足のシューズの先端に、保護革(P革)をつけることがある。これは投球時、ピッチャーが後ろ足(利き手と同じ側の足)でマウンドを蹴りシューズがすり減る事を防ぐため。バッティングでも同じ現象が起きるためか、野手がこの保護革をつけることも多い。 ロージンバッグ(ロジンバッグ). 滑り止めの白い粉が入った袋。主にピッチャーが用い、マウンドに置いてある。打者が使用する場合もあり、ネクストバッタースボックスにも置いてある。 ユニフォーム. 同じチームの選手・監督・コーチなど競技に参加する者は、同色・同形・同意匠のユニフォームと野球帽を着用する。原則として全員(少なくとも選手)の背中には背番号をつける。アンダーシャツ、ストッキング、ベルトは同色での着用が必要。スパイクもユニフォームの一部に相当するため、チームで同色にそろえる必要がある。プロ野球においてはプレイングマネージャーやベースコーチに立つ場合を除き監督がユニフォームを着ない場合がある。ボールが胸部に当たると心臓に負担が掛かり倒れてしまう(死亡・重傷事故の例もある)ことがあるので、胸部の部分にパッドを付けることが推奨されている。 グラウンド. 野球に使われるグラウンドと付帯設備は野球場もしくは球場と称される。4つのベースを結ぶ正方形内は内野と呼ばれ、またその形状から「ダイヤモンド」とも呼ばれる。内野とランナーコーチボックス、ネクストバッターサークルの距離は公認野球規則で決められているが、グラウンドの大きさについては球場によって異なる。「内野」は規則上は正方形内と定められているが、慣習的には内野手が普通の守備行為を行う守備範囲も含める。 審判員. 構成. 野球における審判員は、試合の進行や、投手の投球、本塁における判定を主に担当する球審(英: umpire-in-chief; plate umpire)と、各塁における判定を行う塁審(英: base umpires)、必要に応じて外野に外審(英: outfield umpires)を配置する。 一般には球審1名と各塁の塁審3名の4人で審判団を作ることが多いが、重要な試合では外審2名を加えて6人で審判団を作ることもある。試合によっては塁審の人数が2名ないしは1名になることもあれば、球審だけ(塁審なし)で審判を行うこともある。 チャレンジシステム. MLBでは2014年度より審判員に加え、ニューヨークにある映像センターでのインスタントビデオ判定を採用している。監督は審判員の判定に異議がある場合、1試合で2回まで要求することができる。もし、リクエストが成功すると、残りのリクエスト数は減らされない。7回以降は審判も要求することができる。またNPBでも、2018年度よりMLBと同様にビデオ判定を行う「リクエスト制度」が導入されている。 試合の展開. 戦略と戦術. 野球には数多くの戦略と戦術が生み出された。その一部を以下に記す。詳細はそれぞれの項を参照のこと。 データと野球. 野球は、他のスポーツに比べて豊富な記録・統計が取られることから、数値化に適したスポーツであり、19世紀以来、有力選手の各種記録が試合結果と同様にファンに楽しみを提供してきた。 20世紀後半に入ると、それらの記録を統計学的見地から客観的に分析し、選手の評価やチームの運営・戦略を考察する「セイバーメトリクス」が提唱され、20世紀末以降、本格的に導入するチームが増加している。中でも、2000年代初め頃のオークランド・アスレチックスがビリー・ビーンGMの下でセイバーメトリクスを軸とした低予算でのチーム運営によって黄金期を築いたことで広く受け入れられるようになり、この際ビーンが提唱した画期的な戦術は、ビーンの活動の様子を描いたノンフィクション書籍の名をとって「マネー・ボール」として認知されている。 さらに、21世紀に入ると、軍事技術を応用したスタットキャストやトラックマンといった計測機材・システムが導入されたことにより、より詳細で精緻なデータ計測・分析の他、選手やボールの動きを数値化することで選手のプレーや能力そのものの改善に繋げることが可能となっており、特にMLBにおいてプレースタイルや戦術の傾向の変化に大きく影響を及ぼしている。 試合展開上の問題点. サイン盗み. 第二次世界大戦後、中堅の観客席から望遠鏡を用いて捕手のサインを盗み見し、それをバッターに伝達するという手法が定着した。その後、スコアボード(各チームの各得点などを表示する大きなボード)の裏に潜んだ職員がサインを盗み、何らかのシグナルを送り打者に伝える形が生まれ、1970年代のインディアンスでは球場に設置されたチームロゴである先住民の目が開けば直球、閉じればカーブ、という形で伝達が行われていた。MLB、NPB、日本の高校野球などでもサイン盗みでトラブルになることがしばしばある。最近では、メジャーリーグで、アストロズによるサイン盗みが大問題となっている。球団史上初の世界一に輝いた2017年から翌18年にかけてサイン盗みを行っていたとされており、すでにMLBが処分。球団はジェフ・ルーノー前GM(ゼネラルマネージャー)とAJ・ヒンチ前監督を解雇したものの、2021年もまだ不正行為を続けていたと他球団の選手が指摘するなど、騒動は収束する気配がない。 そのやっかいな問題を解決するために、MLBは、2021年夏には、キャッチャーがピッチャーへ指示を伝えるための電子機器のテストを開始し、2022年のシーズンからその電子機器を正式に導入した(それを使いたいバッテリーつまりキャッチャーとピッチャーが使う。従来通りのサインでいいと考えるバッテリーは使わなくてもよい)。キャッチャーの腕にボタンが多数配置された送信専用機を巻き、ピッチャーの帽子の中に小型受信機を配し帽子の小型スピーカーから小さな音量の音声が流れる(他の選手には聞こえないくらい、小さな音が流れる)。 本塁でのクロスプレー. 捕手と走者の本塁突入をめぐるクロスプレーでは選手の安全のためコリジョンルールが採用されるようになった。 野球組織. 国際野球連盟(IBAF)を中心として、特に野球が盛んなアジア、アメリカを始め、 ヨーロッパやアフリカにも地域単位での連盟・協会が存在する。さらにその傘下に各国の連盟・協会が設置されており、各国内のリーグ運営や活動を統括している。 各地域の野球. 世界では主に北米のアメリカ合衆国・カナダ、欧州ではオランダ・イタリア、中南米のキューバ・ドミニカ共和国・ベネズエラ・メキシコ・プエルトリコ・ニカラグア・パナマ・オランダ領アンティル、コロンビア、東アジアの日本、大韓民国、台湾などで盛んである。とりわけパナマ、キューバ、ドミニカ共和国、ベネズエラ、ニカラグア、台湾においては、事実上の国技として親しまれている。日本では、国技と呼ばれることは少ないものの非常に人気の高いスポーツであり、「日本の国民的スポーツ」のひとつである。 北米. アメリカ野球学会によると、ジャッキー・ロビンソンがデビューした1947年、アフリカ系米国人選手の割合は全体のわずか0.9%。徐々に比率は増し、62年には10.1%と初めて1割を超えた。81年には過去最高の18.7%に上った。だが、その後は伸び悩み、2005年には9.1%と1割を切り、昨季は6.7%と過去60年で最低に並ぶ数字となった、メジャーリーグでは、有望選手でも多くは高校卒業後にマイナー契約からメジャー昇格を目指すのが基本線。低所得者層のアフリカ系も少なくない中で、「アメリカンドリーム」をつかむには、安月給で移動も過酷な下積みを経験する道のりが待っている。 韓国. 近況. 韓国では青少年少女の人気スポーツとなっている。1982年のKBOリーグは総観客数143万人だったが、2012年には700万人を突破し、2016年には観客動員数800万人超えを記録。動員数は世界のプロスポーツリーグ上位10位内に入っている。また、プロアマともに数々の国際大会で好成績を残している。その一方で、競技人口自体はさほど多くないのが特徴であり、それはアマチュア野球の段階で行われる少数精鋭化が要因である。 ヨーロッパ. ヨーロッパでは各国でサッカー人気が根強いため野球がことさらに取り上げられることは少ないものの、欧州野球連盟には39か国が加盟しており、その中でイタリアとオランダ、ドイツの3か国ではプロリーグが存在している。 オランダ王立野球・ソフトボール協会は、野球の問題点を明らかにするためにアンケートを行い「他競技に比べ、運動量が少ない」「専用のグラウンドが必要である」「ルールが複雑である」「人数を集めるのが大変」など数多くの課題が上がり、これらの課題を解決するために野球をより簡略化したスポーツ「BeeBall」を考案した。 その他の地域. オーストラリアでは1850年代にアメリカ合衆国から金鉱に来た鉱夫により、野球がもたらされた。1989年に最初のオーストラリアン・ベースボールリーグ()が発足したが、11年で終了した。その後2010年からMLB機構も支援する形でオーストラリアン・ベースボールリーグが発足している。 アフリカでは、オーストラリアと類似した沿革を持つ南アフリカで比較的早く野球がある程度の広がりを見せたが、それ以外の地域については普及途上である。詳細はアフリカの野球を参照。 野球文化. 野球の人気度. アメリカ. アメリカでの野球人気は中長期的に低落傾向にある。ギャラップの世論調査によると、1960年には最も人気のあるスポーツであったが、1972年にはアメリカンフットボールに抜かれ、2番人気に転落した。2013年には1番人気のアメリカンフットボールに対し、3倍近いポイント差をつけられている。伝統的に「国民的娯楽」と見なされていたが、2015年のブルームバーグの世論調査によると、アメリカ人の67%がアメリカンフットボールを国民的娯楽と見なしている一方、野球は28%に甘んじている。 ワールドシリーズの全米視聴率は2012年には史上最低の平均視聴率を記録したが、2016年は第1戦から高視聴率を記録。第7戦では視聴率25.2%、総視聴者数4000万人に達しており、ここ25年間で最高を記録している。また、視聴率調査大手のニールセンによると、2015年時点での野球の視聴者は、55歳以上の割合が50%であったが、その10年前の2005年は41%であったことからも高齢化は顕著である。MLBのポストシーズン・ゲームの視聴者の6歳から17歳の若年層が占める割合はここ10年で7%から4%まで落ち込んでいる。ESPNの「若者が好きなスポーツ選手トップ30」にも、初めて野球選手が1人もランクインしなかった。SFIAの調査によれば2009年の6歳から17歳までの野球人口は701万2000人であるのに対し、2014年では671万1000人となっている。また、この調査によるとアメリカンフットボールやバスケットボールと言ったメジャースポーツも競技人口が減少しており、ラグビーやラクロスといった、今までアメリカではマイナーとされてきた競技が競技人口を増やしている。 MLBでは観客動員が特定の球団では激減し、MLB関係者は危機感を募らせている。近年は「北米4大スポーツ」の他の競技の人気向上・競技人口増加によって市場占有率を奪われつつある。そんな中で、MLBは2017年には約7316万人(1試合あたり3万0132人)を動員。競争が厳しい中、何とか横ばいの数字を維持してきた。 日本. 日本プロ野球の観客動員数は2015年途中時点で読売ジャイアンツ以外の11球団が前年比で増加した。また同年オリックス・バファローズ、広島東洋カープはシーズン途中時点で史上最多の観客動員数を記録した他、同年シーズンの総観客数がセ・リーグが1351万900人、パ・リーグが1072万6020人と、いずれもチケットの発券枚数を元にした発表となった2005年以降で最多を記録。2016年にも交流戦の観客動員数において過去最多となる1試合平均2万9447人を記録する。以降もNPBでは観客動員数の増加が見受けられており、地元密着を主眼とした各球団の企業努力の成果とする向きもある一方で、その実態はあくまで「各フランチャイズ地域内でのリピーター増加を意味するものであり、『球団がない地域』を含む全国的な野球人気向上には繋がっていない」「新規のファンは増えていない」とする調査・分析もある。 2010年には史上初めて日本シリーズの地上波中継が3試合無くなった。日本テレビ副社長の舛方勝宏は「割り切っていえば、BSの普及のためにはいい。野球はBSのソフトとしては強力になってきた」と話し、「働き盛りの人は午後7時台に家に帰っていない。そういう状況で地上波では数字(視聴率)がとれなくなってきている。試合開始からじっくり見る団塊世代の人は、BSで見ている」と見解を示している。 台湾. 台湾では1990年代後半から野球賭博や八百長が多発したことから、特にプロ野球(CPBL)の人気が大きく低下。チーム数も1997年の11球団をピークに減少し、2009年には創設時(1990年)と同じ4球団となったが、2019年6月24日に味全ドラゴンズが加盟し、5球団に拡大した。 韓国. 韓国では青少年少女の人気スポーツとなっている。1982年のKBOリーグは総観客数143万人だったが、2012年には700万人を突破し、2016年には観客動員数800万人超えを記録。動員数は世界のプロスポーツリーグ上位10位内に入っている。ただし、その人気・実力に対して国内の競技人口は比較的少なく、日本が高校硬式野球部加盟校4,021校、部員数168,898人であるのに対し、韓国の高校野球部は67校、部員数は約2,400人である。もっとも、この傾向は野球に限ったことではなく、韓国には日本のような趣味的要素を含む部活動がほぼ存在せず、アマチュアの段階で少数精鋭化が行われるのが要因であるとされる。少数精鋭によるエリート教育はいわば韓国の文化であり、実際にプロアマともに数々の国際大会で好成績を残しているなど一定の成果を上げていはいるものの、「裾野を狭める」「メダル至上主義である」といった批判もある。 試合観戦. 試合はイニング制を採用している。サッカーやバスケットボールのような時間制ではないため、試合の展開により試合時間に大きな幅があるが、概ね1試合2時間 - 3時間程度である(MLBでは決着が付くまで無制限の延長する)。2010年までの日本のプロ野球においては12回で決着がつかなければ引き分けにしていた。しかし、2011年に東日本大震災が発生しその影響により試合開始から3時間30分以内で決着がつかない場合は引き分けとなりこのルールは2012年シーズン終了まで採用された。なお、2013年シーズンより元の「12回で決着がつかなければ引き分ける」のルールに戻った。MLBやNPBなどのプロリーグでは年間140試合を超える多数の公式戦を行うことで大きなビジネスとなっている。 アメリカ. アメリカでは、ファウルボールが観客に直撃するアクシデントが立て続けに起こっている。「ファウルボール訴訟」が多発しているが、「危険があることを予め承知してスタジアムに来る」として、観客がケガしても球団側は免責されるケースが大半である。観客席以外でファウルボールによって負傷した場合は訴えが認められることがあるが、基本的には裁判しても勝ち目はない。 日本. 野球観戦における日本独自の文化としては、応援団主導の楽器や応援歌を用いたいわゆる「鳴り物応援」がプロアマ問わず定着していることが挙げられる。起源については様々な説があるが、プロ野球においては1970年代の広島東洋カープが選手に対する個別応援歌を用いての応援を始めたとされる。ただし、日本独自の文化として肯定的に取り上げられる一方で、「妨害行為・迷惑行為である」など否定的な意見も少なくない。 競技人口. 日本. 日本における野球は、実際に参加するスポーツというよりは、観戦スポーツとして楽しむ人が多い傾向にある。レジャー白書2005によると、2004年時点の「野球・ソフトボール用品」に対する出費は、990億円である。「球技スポーツ用品」に対する出費6640億円の15%を占めている。 「クラブ・同好会」の形で楽しむスポーツとしては一定の地位を占めている。内閣府による「体力・スポーツに関する世論調査」(2007年2月調査)では、クラブ・同好会に加入している男性のうち、22.7%が野球クラブ・同好会に加入しており、2位のゴルフ、5位テニスよりも多い。ただし、女性は5位までに含まれていなかった。 文部科学省の「我が国の体育・スポーツ施設」(平成16年3月)によると、「職場スポーツ施設」(8286カ所)においては全8286施設のうち13%(第2位)を「野球場・ソフトボール場」が占め、内閣府の統計と合致する。 日本では伝統的に野球が盛んだが、中学生の野球チームに所属する少年の数は2009年から14年までに28%減少したことが、公式統計で明らかになった。全日本軟式野球連盟の小学生の軟式野球登録チーム数を見ても、2010年に1万4824チームから、2014年には1万2663チームまで減少し、高校野球においても、硬式野球の全国の野球部員数は1997年の14万201人を底に一旦は増加に転じ2014年には史上最多となる17万312人に達するも、同年を頂点に再び漸減傾向にある。軟式に至っては、1990年度の1万9915人を頂点に右肩下がりの減少を続け、2016年度の部員総数は1990年度のほぼ半数の人数にまで減少している。 野球を題材にした玩具と作品. 1886年、アメリカではタバコのおまけとして野球選手の姿を画いたカード(シガレットカード)であるベースボールカードを付けることが流行した。以後、ベースボールカードはトレーディングカードの一分野として人気がある。 パチンコやスマートボールに野球の要素を取り入れたボードゲームに野球盤がある。日本ではエポック社が1958年より生産、販売し続けている。 1960年代の日本ではちばてつや『ちかいの魔球』や梶原一騎『巨人の星』が嚆矢となり、少年漫画の一ジャンルとして野球漫画が流行した。1970年代には水島新司『ドカベン』が、1980年代にはあだち充『タッチ』が、2000年代には森田まさのり『ROOKIES』などがそれぞれ人気を博し、アニメ化や実写映画化がなされている。女子が野球をする作品は、例えば『大正野球娘。』、『八月のシンデレラナイン』、『球詠』、『花鈴のマウンド』などがあり、少女の野球人口増加に一役買っている。 アメリカでは映画のジャンルとして野球映画が継続して制作されている。1942年公開の『打撃王』はアカデミー賞を受賞している。この他には1984年公開の『ナチュラル』と1989年公開の『フィールド・オブ・ドリームス』もそれぞれアカデミー賞にノミネートされている。アメリカン・フィルム・インスティチュート(AFI)が「AFIアメリカ映画100年シリーズ」の一環として選定したスポーツ分野のアメリカ映画トップ10では『打撃王』が3位、『さよならゲーム』が5位にそれぞれランクインしている。また、『がんばれ!ベアーズ』や『メジャーリーグ』などは何度も続編やリメイクが制作されている。 1983年に任天堂からファミリーコンピュータが発売されると、同年の内に野球を題材としたゲームソフト「ベースボール」が発売され人気を博した。以後、日米で「プロ野球ファミリースタジアム」シリーズや「実況パワフルプロ野球」シリーズ、「」シリーズなどの野球ゲームが継続して生産、販売されている。 野球界を取り巻く問題. 賭博と八百長. 野球の試合結果を利用した(日本においては非合法な)賭博が一部の人間の間で行われている。そのほとんどは野球界とは無関係な人間によるものだが、野球界自身の人間も関わっていることが判明した事件もある。その一部を以下に記す。
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2月3日
2月3日(にがつみっか)は、グレゴリオ暦で年始から34日目に当たり、年末まであと331日(閏年では332日)ある。
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近代オリンピック
は、 フランスの教育学者クーベルタン男爵の「スポーツによる青少年教育の振興と世界平和実現のために古代オリンピックを復興しよう」という呼びかけに応じて開催されるようになった、オリンピズムに基づき行われる祭典であり、オリンピズムを人々に広めるための祭典である。オリンピズム(オリンピック哲学)が目指しているのは、平和な世界を実現し人間の尊厳を護るためには人類の調和的な成長が必要なので、そのためにスポーツを役立てることである。近代オリンピックは平和の祭典であり、単なる総合スポーツ大会ではない。国際オリンピック委員会(略称: IOC)が開催する。各国語で短く「Olympics オリンピック」と呼ばれ、日本語ではオリンピックシンボルにちなんで五輪(ごりん)と呼ぶこともある。 概要. スポーツが備えている力を活用し、良き手本となる教育的価値、普遍的・基本的・倫理的諸原則の尊重などを人々に広め、人々の生き方を高めるための祭典であり、それによって平和な世界や人間の尊厳が護られた世界が実現することを目的としており、オリンピズムに基づいて開催され、そのオリンピズムを人々に広めるための祭典である。近代オリンピックの最重要の目的は人間の生き方を高め人類の平和や人間の尊厳を実現することであり、スポーツはそれのための手段である。 フランスのピエール・ド・クーベルタンが、古代ギリシアの人々の行動に着目して着想した。古代ギリシャ人たちも普段は互いに憎みあい、戦争を行い、殺しあっていたのだが、ゼウス神の聖地であるオリンピアの地でゼウス神にささげる祭典が開催される間だけは、考え方を一変させ、戦争を一時的に停止し(休戦。オリンピックの期間の停戦を特にオリンピック休戦と言う)、一か所に集い、「美にして善なること」を重んじ、つまり身体的な美しさだけでなく各人の心も道徳的であることを重んじた。クーベルタンは古代ギリシアの人々のようにスポーツの持つ力を活用することを着想し、19世紀末のパリ大学ソルボンヌ大における会議で提唱し、それが決議されたのである。 近代オリンピックは、人々の道徳性を高め世界平和や人間の尊厳を実現するためにオリンピズムを広めることが最重要の目的で開催される祭典であるので、それを明記したオリンピック憲章が制定されており、関係者が常に守るべき国際オリンピック委員会倫理規定も定めてある。 もともと近代オリンピックは夏季オリンピックと冬季オリンピックが同じ年に、4年ごとに行われており、このオリンピックによる4年間、4年ごとのピリオド(期間)はOlympiad オリンピアードと呼ばれている。1992年までは夏季と冬季が同じ年に行われていた(1992年バルセロナ夏季オリンピック、1992年アルベールビル冬季オリンピック)のであるが、IOCは1986年のローザンヌにおける総会で同じ年に開催するという点を変更することを決議し、その後も夏季オリンピックも冬季オリンピックもそれぞれ4年毎に開催されていることに変更は無いが、夏季オリンピックはオリンピアードの第一年に行い、冬季オリンピックはオリンピアードの第三年に行うようにされた。 夏季と冬季に大会があり、夏季オリンピック第1回は、1896年にアテネ(ギリシャ)で開催され、2度の世界大戦による中断を挟みながら継続されている。冬季オリンピックの第1回は、1924年にシャモニー・モンブラン(フランス)で開催された。 冬季オリンピックが始まった当初は夏季オリンピックの開催国の都市に優先的に開催権が与えられてきたが、降雪量の少ない国での開催に無理が生じることから1940年代前半に規約が改正され、同一開催の原則が廃止された(1928年アムステルダム大会時の際、オランダでは降雪量不足で雪山が無く、会場の確保困難であったことからこの年の冬季大会はサンモリッツ(スイス)で開催された)。 大会の公用語は、第一公用語がフランス語(近代オリンピック開催を提唱したピエール・ド・クーベルタンの母語がフランス語であった事に因む)、第二公用語が英語である。フランス語版と英語版の規定に相違がある場合はフランス語を優先する、としていることでフランス語を第1公用語とする事を明らかにしている。現在は、開催地の公用語のリストにフランス語も英語も含まれていない場合は、開閉会式等では開催地の公用語を第三の言語として加える場合がある。 1988年ソウル大会以降、パラリンピックとの連動が強化され、オリンピック終了後、同一国での開催がおこなわれている。 夏季オリンピックは開催されなかった場合も回数としてカウントされるが、冬季オリンピックは開催されなかった場合は回数としてカウントされない。 なお、夏季大会において第1回大会から全て参加しているのは、ギリシャ・イギリス・フランス・スイス・オーストラリアの5か国のみである。ギリシャによる開催は、1896年と2004年が正規のものとされている。第1回大会の十年後、1906年アテネ中間大会が唯一、例外的に開催され、開催事実も記録も公式に認めてメダル授与も行っている。しかし、4年に1度のサイクルから外れた開催であったため、後にこれはキャンセルとされ現在では正規の開催数に計上されておらず優勝者もメダリスト名簿から外され登録されてはいない。 歴史. 各期毎の概略は、以下を参照。 黎明期. 1896年、クーベルタンの提唱により、第1回オリンピックをギリシャ王国のアテネで開催することになった。資金集めに苦労し、会期も10日間と短かったが、バルカン半島の小国の一つという国際的地位をいっそう向上させたいというギリシャ王国の協力もあり大成功に終わった。しかし、1900年のパリ大会、1904年のセントルイス大会は同時期に開催された万国博覧会の附属大会に成り下がってしまい、賞金つきの競技(1900年)、キセルマラソンの発覚(1904年)など大会運営にも不手際が目立った。1908年のロンドン大会、1912年のストックホルム大会から本来のオリンピック大会としての体制が整いだした。1908年のロンドン大会ではマラソンの走行距離は42.195kmであったがこれが1924年パリ大会以降固定され採用されている。この時期には古代オリンピックに倣いスポーツ部門と芸術部門のふたつ競技会が開催されており、クーベルタン自身は1900年パリ大会において芸術部門で金メダルを獲得している。 発展期. 第一次世界大戦で1916年のベルリン大会は開催中止となったが、1920年のアントワープ大会から再開され初めてオリンピック旗が会場で披露された。この時期は、選手村・マイクロフォン(1924年)、冬季大会の開催(1924年)、16日前後の開催期間(1928年)、聖火リレー(1936年)など、現在の大会の基盤となる施策が採用された時期である。この時期からオリンピックは万博の添え物という扱いから国家の国力を比べる目安として国際社会から認知されるようになり「国を挙げてのメダル争い」が萌芽した。この様子は1924年のパリ大会を描いたイギリス映画『炎のランナー』に詳しい。開催国のほうもオリンピックを国際社会に国力を誇示する一大イベントだと認識するようになりオリンピックが盛大になり、それを国策に使おうとする指導者が現れ、1936年のベルリン大会では当時のナチス政権は巧みに国威発揚に利用した。聖火リレーやオリンピック記録映画の制作などの劇的な演出もこのとき始まった。その後、第二次世界大戦でオリンピックは2度も流会してしまうこととなる。 女性の参加. 近代オリンピックで初めて女性の参加が認められた競技は、1900年の第2回パリ大会でのテニスとゴルフである。その後セントルイス大会ではアーチェリー、ロンドン大会ではアーチェリー・フィギュアスケート・テニス、ストックホルム大会ではダイビング・水泳・テニス、アントワープ大会ではダイビング・フィギュアスケート・水泳・テニスと変わったが、これらはいずれも大会を運営する中産階級の男性が許容できる「女性らしい」競技であった。クーベルタンは「体力の劣る女性の参加はオリンピックの品位を下げることにつながる。」と女性の男性的競技の参加に否定的だった。アリス・ミリアは1919年に女子の陸上競技の参加を国際オリンピック委員会に拒否されると、1921年に国際女子スポーツ連盟を組織し、1928年アムステルダムオリンピックで5種目ではあったが陸上競技が採用された。 拡大期. 第二次世界大戦が終結し、1948年にロンドンでオリンピックが再開されたが、敗戦国の日本とドイツは招待されなかった。また1948年のロンドン大会から芸術部門が廃止され、スポーツ部門のみとなった。これによりオリンピックは「古代ギリシャの権威を身にまとった世界屈指の国際的なスポーツ競技大会」としての性格を確立することになった。1952年のヘルシンキ大会よりソビエト連邦が初めて参加し、オリンピックは名実と共に「世界の大会」と呼ばれ、同時に東西冷戦を象徴する場としてアメリカとソ連のメダル争いは話題となった。それに伴って二つの中国問題(中国と台湾)やドイツ問題(東ドイツと西ドイツ)などといった新たな問題点も浮かび上がってくることとなる。航空機の発達は、欧米に限られていたオリンピックの開催を世界各国で可能にした。1956年メルボルン大会(オーストラリア)は南半球初、1964年東京大会(日本)はアジア初の開催地として、大会が行われた。 オリンピック冬の時代. オリンピックが世界的大イベントに成長するに従って政治に左右されるようになると、1968年のメキシコシティ大会では黒人差別を訴える場と化し、1972年のミュンヘン大会ではアラブのゲリラによるイスラエル選手に対するテロ事件まで起きた(ミュンヘンオリンピック事件)。1976年のモントリオール大会になると、ニュージーランドのラグビーチームの南アフリカ遠征に反対してアフリカの諸国22ヶ国がボイコットを行った。そして、1980年のモスクワ大会ではソ連のアフガニスタン侵攻に反発したアメリカ・西ドイツ・日本などの西側諸国が相次いでボイコットを行った。1984年ロサンゼルス大会ではソ連と東側諸国が報復ボイコットを行ない、参加したのはソ連と対立していた中国とルーマニアだけだった。中でも、イラン革命後のイラン・イスラム共和国はモスクワとロサンゼルス双方のオリンピックをボイコットしている。 オリンピックが巨大化するに従って財政負担の増大が大きな問題となり、1976年の夏季大会では大幅な赤字を出し、その後夏季・冬季とも立候補都市が1〜2都市だけという状態が続いた。 商業主義. 1984年のロサンゼルス大会は画期的な大会で、大会組織委員長に就任したピーター・ユベロスの指揮のもとオリンピックをショービジネス化した。結果として2億1500万ドルの黒字を計上した。スポンサーを「一業種一社」に絞ることにより、スポンサー料を吊り上げ聖火リレー走者からも参加費を徴収することなどにより黒字化を達成したのである。その後「オリンピックは儲かる」との認識が広まり立候補都市が激増し、各国のオリンピック委員会とスポーツ業界の競技レベル・政治力・経済力などが問われる総力戦の様相を呈するようになり、誘致運動だけですら途方もない金銭が投入されるようになってゆく。 1989年12月のマルタ会談を以て冷戦が終結してからオリンピックへの冷戦の影響は減り、共産圏と旧共産圏のステート・アマも減ったがその反面ドーピングの問題や過度の招致合戦によるIOC委員に対する接待や賄賂など、オリンピックに内外で関与する人物・組織の倫理面にまつわる問題が度々表面化するようになった。招致活動や関連団体への政治家の参入も増えている。 北京大会(+約10億元)やロンドン大会(+約3000万ポンド)は、黒字となり商業的には成功した。 一方でIOC加盟、非加盟にかかわらず、ほとんどの国際競技連盟主催の大会で会場広告は許されておりパラリンピックでも許されるようになったが、オリンピックではかたくなに禁止されている。広告収入がないだけでなく、オリンピック開催時の会場常設広告費の補償や撤去費、復元費は開催都市の負担を増している。 アマチュアリズムの崩壊とプロ化. アマチュアリズムの根底には「スポーツは貴族のもの」という階級主義があると考える人も多くいて世界に反階級主義が広がる中、アマチュアリズムはだんだんと軽んじられてきた。アマチュアリズムを徹底するとオリンピックは働かないでもスポーツに専念できる資産家ほど活躍できる状況になってしまうのであった。 一方で共産圏、旧共産圏の国や日本がスポーツアスリートを公務員として雇ったり、日本ではスポーツに専念している実質のプロ選手を国・自治体・公共団体・企業が雇うステートアマチュア、企業アマチュアが横行しアマチュアリズムを進めるにはステートアマチュア、企業アマチュアをやっていない国からの不満が抑えられない状況になっていた。 1974年ウィーンでのIOC総会においてオリンピック憲章からアマチュア条項が削除されプロ選手の参加は各競技の国際競技連盟に任されることになった。 そののち、IOC内での「オリンピックを最高の選手が集う場にしたい」という意志と商業主義の台頭もあり、プロ選手の参加は促された。 アジェンダ2020. 21世紀に入ってから、オリンピックの開催地は2008年が北京(中華人民共和国)、2016年が南米初のリオデジャネイロ(ブラジル)といったBRICs各国に広まる。一方で、開催国の負担する費用の高騰化が敬遠され、立候補都市数は1997年入札の2004年大会時の12都市をピークに漸減しており、2010年代からは2~3都市で推移している。2017年入札の2024年大会では立候補都市がパリとロサンゼルスのみに留まり、IOCはオリンピック憲章の規約(開催の7年前に開催都市を選定する)に反し、2017年に2024年大会の開催地をパリに、2028年大会の開催地をロサンゼルスに割り振る決定を下した。 オリンピックが再び1980年代以前の冬の時代に戻ることを回避するための改革として、トーマス・バッハ第9代会長を中心に40項目の改革案「オリンピック・アジェンダ2020」が発案され、2014年12月のIOC臨時総会で採択された。その一つに参加選手数を夏季大会では約1万500人に抑えるポリシーがある(競技数28の現行上限を撤廃して種目数は約310に)。1984年のロサンゼルスが6,829人(221種目)だったが、2008年の北京では10,942人(302種目)まで増大していた。他にも、開催候補地の負担を減らすことや、八百長防止と反ドーピング活動のための資金提供を行うことなどが、盛り込まれた。 開催都市. 開催都市の多くが北半球の都市である。南半球では冬季大会の開催が皆無、夏季大会もオーストラリアのメルボルンで開かれたメルボルンオリンピック(1956年)、同じくオーストラリアのシドニーで開催されたシドニーオリンピック(2000年)、ブラジルのリオデジャネイロで開催されたリオデジャネイロオリンピック(2016年)の3大会のみである(2032年にオーストラリアのブリスベンで4回目の南半球での夏季大会が行われる予定)。また、これまでアフリカで開催されたことはない。 開催を行うに際しては、各国・地域でオリンピックの開催を希望する自治体からの審査・ヒヤリングを各国・地域オリンピック委員会が行い、まずその国・地域内でのオリンピック開催候補地1箇所を選ぶ。その候補地を国際オリンピック委員会に推薦し正式に立候補を行い、国際オリンピック委員会総会において、委員会理事による投票で過半数を得ることが必要である。ただし投票の過半数を満たしていない場合、その回の投票における最下位の候補地を次の投票から除外する仕組みで繰り返し過半数が出るまで投票を繰り返す(最終的に2箇所になったところで決選投票となる)。 開催都市一覧. 参考: 式典. 開会式. 開会式では、オリンピック賛歌を演奏することやオリンピック旗掲揚、開催国の国歌斉唱または演奏、走者達のリレーによる聖火点火、そして平和の象徴の鳩が解き放たれることがオリンピック憲章で規定されていた。しかし、聖火台で鳩を焼いてしまったソウル大会での一件や、外来生物への危惧や鳩の生息できる環境ではない場所(特に冬季オリンピック)でオリンピックが行われる事もあるなどの理由から動物愛護協会の反対もあり、1998年の長野大会からは風船やモニター映像、ダンスなどによる鳩飛ばし表現が恒例になった。2004年版以降のオリンピック憲章では、鳩の使用についての規定も削除された。ロンドン大会では、鳩のコスチュームをまとった人々が自転車に乗って登場し、そのうちの一人がワイヤーアクションで空中へ上昇した。 開会式の入場行進はオリンピックの発祥地であるギリシャの選手団が先導し、その後参加国は開催国の言語順に入場し、最後に開催国の選手団が入場する。ギリシャのアテネが開催地となった2004年は、まずギリシャの旗手のみが先導して入場し、最後にギリシャの選手団が入場していた。 開会宣言はオリンピック憲章55条3項により以下のとおり。 使用される言語は開催国の任意であるが、内容の改変、アドリブは認められない。2002年のソルトレークシティオリンピックではジョージ・W・ブッシュ大統領が「(オリンピック開催国に選ばれたことを)栄誉とし、(その成功に)専心しつつ、かつ(その機会を得たことに対する)感謝の念に満ちたこの国を代表し(On behalf of a proud, determined and grateful nation)」の一節を付け加えて開会宣言したが、これはオリンピック憲章違反である。 なお、2021年の東京オリンピックでは日本国天皇徳仁は「オリンピアードを祝し、」の代わりに「オリンピアードを記念する、」と述べ、開会宣言がなされた。これは、新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の世界的流行を踏まえ、IOCが和訳の一部を祝祭色の薄い言葉に変えるという判断をしたためである。 また、開催国国家元首による開会宣言の直後にその大会ごとのファンファーレが演奏されることが通例となっている。1984年のロサンゼルス大会のファンファーレ(ジョン・ウィリアムズ作曲)は世界的に有名となった。なお、あくまでその大会ごとのファンファーレであって、オリンピックの公式ファンファーレは存在しない。 なお、夏季大会では試合日程の関係で開会式の前に競技を開催するもの(例えばサッカーなど)がある。 大会の継続的運営と商業主義. 大会の大規模化とともに開催に伴う開催都市と地元政府の経済的負担が問題となったが、ユベロスが組織委員長を務めた1984年のロサンゼルス大会では商業活動と民間の寄付を本格的に導入することによって、地元の財政的負担を軽減しオリンピック大会の開催を継続することが可能になった。それを契機とし、アディダスや電通などを始めとした企業から一大ビジネスチャンスとして注目されるようになった。 元々、オリンピックは発足当初からアマ選手のみに参加資格を限って来たが、旧共産圏(ソ連やキューバなど)のステートアマ問題などもあり、1974年にオーストリア首都ウィーンで開催された第75回IOC総会で、オリンピック憲章からアマチュア条項を削除した。さらに観客や視聴者の期待にも応える形で、プロ選手の参加が段階的に解禁されるようになった(当初はテニスなど限られていたが、後にバスケットボール、サッカー、野球などに拡大)。 1984年ロサンゼルス大会の後、フアン・アントニオ・サマランチ主導で商業主義(利権の生成、放映権と提供料の高額化)が加速したと言われたことがあり、またかつて誘致活動としてIOC委員へ賄賂が提供された事などが問題になったことがある。さらには、年々巨大化する大会で開催費用負担が増額する傾向があったがジャック・ロゲ会長の代になり、これまで増え続けていた競技種目を減らし、大会規模を維持することで一定の理解を得るようになった。 なお、現在のIOCの収入構造は47%が世界各国での放送権料で、また45%がTOPスポンサーからの協賛金、5%が入場料収入、3%がオリンピックマークなどのライセンス収入となっており、このうち90%を大会組織委員会と各国オリンピック委員会、各競技団体に配布する形で大会の継続的運用を確保している。 開催費用. (費用:アメリカ合衆国ドル) 問題点. 平和の祭典という根本目的に反する出来事. オリンピックは平和の祭典であるが、その本来の目的とは逆に、IOC側の意図や予想を超えて、戦争遂行のための国威発揚やプロパガンダに利用されてしまったり、民族と民族の争い事の場にされてしまうということが起きている。 特にナチスドイツのヒトラー政権下による1936年ベルリンオリンピックは、オリンピックの持つ大きな影響力が、ヒトラーによって巧妙に利用されてしまい、ドイツ国民の心理操作の道具のひとつとして使われてしまった。ヒトラーが雇った監督によって大会中にフィルム撮影が行われたが、その後編集され出来上がった映画作品『オリンピア』は、オリンピックを本来の平和の祭典として扱うのではなく、ヒトラー好みの意味内容になるように勝手に「民族の祭典」という意味に見えるように編集してしまっており、ドイツ人の民族主義的感情を高揚させ戦争へと駆り立てるための道具のひとつとして映画館で繰り返し上映されたのであり、オリンピックが平和目的ではなく、真反対の、戦争目的で使われてしまった。また皮肉なことに、聖火リレーのルートも、後日ドイツ国防軍がそのまま逆進したとされる。 またオリンピックの間は戦争を止めるというオリンピック休戦の意義が人々に理解されず、1972年にはオリンピックの場そのものが、ミュンヘン大会におけるテロ事件の事件現場になってしまった。1996年のアトランタ大会でもオリンピック公園を標的としたテロが発生した。 冷戦期におけるモスクワ大会、ロサンゼルス大会の西側諸国・東側諸国による大規模ボイコット合戦、冷戦下、1970年代後半から1980年代にかけてのアフガニスタン紛争が起きていた時期には、東西の「ボイコット合戦」という、形を変えてはいるが、東西陣営の醜い争い事がオリンピックの場で起きてしまった。 また国際オリンピック委員会は世界平和の実現と、人権の尊重、差別の撲滅などを推進する「オリンピックムーヴメント」を推進することをかかげているが、オリンピックムーヴメントの理念にそぐわない国が開催することに異議を唱える運動もしばしば起こり、2008年の北京大会では大会に反対するデモが相次いだ。また2014年ソチ冬季大会ではロシアの「ゲイ・プロパガンダ禁止法」()に抗議してアメリカ、ドイツ、フランスなど欧米諸国の首脳が開会式を欠席した。このような政治問題を抱えてしまっているオリンピックは「平和の祭典」とは言えないとも指摘されている。 国威発揚のための悪用. 最初にオリンピックを政治的に利用し、国威の発揚、民族主義の高揚、戦争開始のためなどに悪用したのは1936年ベルリンオリンピックの際のアドルフ・ヒトラーであるが、戦後にオリンピックが世界的なイベントとして認知されると、国威発揚のために政治的に利用する国が多くなった。 オリンピック憲章ではオリンピックの政治的利用は禁止とされているが、金メダルをとった選手の表彰式の際、国歌が流れ、国旗が掲揚されてしまっている。オリンピックの場でこの儀式が行われてしまっていることに対して疑問を呈する人々はいる。1936年のベルリン大会のマラソン競技で日本統治時代の朝鮮から「日本代表」として出場し優勝した孫基禎も、強く疑問に思った。 共産主義時代のソ連や東欧諸国では国威発揚の為国家の元でオリンピック選手を育成し(いわゆる「ステート・アマ」)、メダルを量産してきた。共産主義が崩壊した今でもその傾向は続いており、2016年のリオデジャネイロ大会の前にはロシアが国家主導で過去の大会においてドーピング行為を行ったことが判明した(ドーピング問題については後述)。政治利用を防ぐため1968年メキシコ五輪時のIOC総会で表彰式での国旗・国歌を廃止する案が提出されたが、(国威発揚のための利用しつづけている)共産圏の反対により否決された。 冷戦後でも同様で、中露ではもちろんのこと、アメリカ合衆国でも2002年の冬季ソルトレークシティ大会の開会式の際は前年の米国同時多発テロで崩壊したニューヨーク世界貿易センタービルの跡地から発見された星条旗が入場させている。 過熱化する招致合戦と賄賂問題. 1988年大会は有利と言われていた名古屋を抑えてソウルが開催地に選ばれたが、その裏ではソウル関係者のIOC委員への過剰な接待がなされていたとされる。1998年には、ソルトレークシティ大会の組織委員会が、カメルーンのIOC委員の子どもの奨学金を肩代わりしていた贈賄事件が発覚。翌1999年には、オーストラリア大会の招致責任者がウガンダとケニアのIOC委員に金銭を支払っていたことも発覚した。これを受け、複数のIOC委員が除名された。2017年には、ブラジルオリンピック委員会のカルロス・ヌズマン会長が、リオデジャネイロ大会招致にあたりIOC委員に金銭を支払っていたとして逮捕され、ブラジル検察によって起訴されている。またブラジル検察は、東京大会招致委員会からIOC関係者への送金についても明らかにし、買収目的だったと指摘している。ただし、開催費の高騰から、近年は立候補都市が減少している。 莫大な開催費. 1976年のモントリオール大会では大幅な赤字を出し、モントリオールは2006年までの30年間にわたり特別税を徴収し、債務の返済を行った。また2004年のアテネ大会では施設建設費の多くを国債で賄った結果、2010年のギリシャ危機の一因ともなった。前述のとおり、こうした莫大な開催費用が敬遠され、近年は立候補都市が減少している。 スポンサーやテレビ局への優遇. 1984年のロサンゼルス大会からは、商業主義を取り入れることとなった。この方式は成功したが、一方でIOCが、競技者よりも、金銭を提供するテレビ局やスポンサーを優遇する問題が生じている。2008年の北京大会ではアメリカのテレビ局NBCの意向で、アメリカでの視聴率が取りやすいように(北京の午前はアメリカの夜のゴールデンタイムになるため)一部の競技の決勝が午前中に開催された。2018年の平昌大会ではその傾向が顕著になり、スキージャンプ競技は深夜の風の強いコンディションで行われ、更に普通夕方~夜に行われるフィギュアスケートは午前から競技開始と異例の競技時間となった。2020年の東京大会でも、NBAやメジャーリーグベースボールなどアメリカ国内の他プロスポーツとの兼ね合いから開催時期を7~8月に設定した結果、後に猛暑から選手の健康を守るという観点で開催9ヵ月前にも関わらず、男女マラソンや競歩の開催地を東京から札幌市に移す一因にもなった。しかし、一方でアメリカの地上波テレビ局は視聴者が少なくなる7~8月には人気番組を放送したがらない。後述の#アンブッシュマーケティング規制の問題は、スポンサーにのみオリンピックへの言及を許し、一般企業がオリンピックを応援することを規制しようとする試みである。 ボランティアという無給労働. 大会の運営には、数万人のボランティアが動員される。IOCも大会ボランティアの必要性を認めており、開会式あるいは閉会式には、ボランティアへの謝意が示される。しかしボランティアは無給であり、さらに開催地への滞在費などは自己負担であり、長期にわたって拘束される。そのため、2016年リオデジャネイロオリンピックでは、5万人のボランティアのうち1万5000人が欠勤した。その理由は過酷な労働条件が「参加するに値しない」と判断されたためであった。 著述家の本間龍は、現在の商業五輪において、様々な労働条件を付帯した無償ボランティアを募集することは、自発性、非営利性、公共性が求められるボランティアの本来の趣旨に反していると指摘し、「善意で集まってくるボランティアを徹底的に使役しようとしている」、「五輪という美名のもとにあらゆる資格の価値を無視し、すべて無償で調達しよう」としているとして批判している。また、2020年東京五輪組織委員会のボランティア募集の呼びかけに応じた教育機関や医療関係団体が、学生や加盟者にボランティア参加要請することについては、「思慮がない」「無責任」と批評している。 ドーピング問題. 1960年のローマ大会の自転車競技で競技後選手に死者がでたが、その選手は後に興奮剤のアンフェタミンを投与されていたことが判明した。これをきっかけにIOCはドーピング対策に本腰を上げる事になったが、ドーピング問題を世界に知らしめたのは1988年のソウル大会でベン・ジョンソンが100m走で世界新記録を出しながら、競技後のドーピング検査で禁止薬物のスタノゾロールが発見されて失格になってからである。その後1999年には世界アンチ・ドーピング機関(WADA)が設立されドーピングへの取り締まりが強化されたが、科学技術の進歩を背景にドーピング検査に引っかからない薬物等の開発とそれを取り締まる検査法の開発…といったイタチごっこの状態が続き、2016年のリオデジャネイロ大会の直前にはロシアが国家主導で過去の大会でドーピングを行ったとWADAより発表されてロシア選手団389人のうち118人が出場できないという事態となった。 アンブッシュマーケティング規制の問題. オリンピック委員会側が主張する問題. 国際オリンピック委員会は、無関係の会社や店舗などの組織が「オリンピックを応援する」などと言うことは、実際は応援では無くオリンピックの知名度等を不正に利用する「アンブッシュマーケティング」であると称し、禁止をしている。その理由としてオリンピックの公式スポンサー(、ゴールドパートナー、オフィシャルパートナー、オフィシャルサポーター。#The Olympic Partners programme)のみが排他的な商業的利用権が与えられていると述べている。 他組織の見解主張. 日本広告審査機構(JARO)は、「いかなる文言を使用しようとも、商業広告で2020年のオリンピック東京大会を想起させる表現をすることは、アンブッシュ・マーケティング(いわゆる便乗広告)として不正競争行為に該当するおそれがあり、JOC(日本オリンピック委員会)やIOC(国際オリンピック委員会)から使用の差し止め要請や損害賠償請求を受ける可能性がある」との見解を出しており、「東京オリンピック・パラリンピックを応援しています」という直接的な表現以外に「祝・夢の祭典」「2020円キャンペーン」など間接的に連想できる物もアンブッシュマーケティングである可能性であることを示唆している。 ライターで1級知的財産管理技能士の友利昴はオリンピック委員会の規制には根拠がないことが明らかにしている。過去の裁判やトラブル事例から「キャンペーンや抗議行動の態度からうかがえる、非常に旺盛な権利保護方針の割には、実際にはなんでもかんでも訴えているわけではない」と指摘し、アンブッシュマーケティングをめぐり訴訟になった数少ない裁判では、IOC側が敗訴していることを挙げている(オーストラリア、カナダ)。また上記のJAROの見解はIOCやJOCへの忖度に過ぎないとして、(JAROが正しい法的検討をせずに)「逃げを打つのは、広告業界の指針となるべき団体として、適切な姿勢といえるだろうか」と批判している。 日本の商標権に関する規則では登録商標は同一又は類似した商品・役務の登録商標にのみ独占権があるとしており、オリンピックそのもの(大会や委員会)を示すために使うことは合法であるとしている。飲食店の屋号や商品の表示として権利者に許可無く「オリンピックレストラン」、「オリンピック公式レストラン」、「オリンピック公式テレビ」、「オリンピックテレビ」などと表示するのは違法だが、本物のオリンピックに対して「オリンピックを見ながら飲食しましょう」、「本テレビでオリンピックを観ましょう」と宣伝するのは問題無いとしている(商標としての独占であり、言葉の独占では無い)。 著作権法上では公式のロゴやマークを許可無く利用する事は一般的に禁止されており、オリンピックも同様である。店内でのオリンピック競技の放映をオリンピック委員会の許可無く行う事は禁止されているが、誰でも見られる放送をそのまま店内の民生用機器で再生する事は一般的な権利として認められる。このため、テレビ放映されているオリンピックの映像を店内で流すことに関しては問題が無い。この場合は放送局がオリンピック委員会に放送するという事で利用料を払っている。 設備の維持管理. 開催に向けて土地を工面し巨額な建設費をかけて完成した競技会場及び関連施設が、大会終了後は維持管理先が決まらなかったり、再活用や運営が予定通りに進まず資金面などで維持管理が困難になる結果、レガシーとして残されずに撤去されたり廃墟化するケースがある。 The Olympic Partners programme. (略してTOP)programmeとは、特定カテゴリーを一社で独占できるようなグローバルなスポンサーシップのことである。元々、オリンピックマークの商業使用権は各国の国内オリンピック委員会(NOC)が各々で管理をしていたが、サマランチ会長がIOCの一括管理にした事から1988年の冬季カルガリー大会と夏季ソウル大会から始まったプログラムで、オリンピックの中でも全世界的に設けられた最高位のスポンサーである。基本的には4年単位の契約で1業種1社に限定されており、毎回計9〜11社ほどが契約を結んでいる。なお、TOPにパナソニック、サムスンと同業種の企業が名を連ねているが、これはパナソニックが音響・映像機器、サムスンは無線通信機器と細分化されており、その他の製品など上記と重ならないカテゴリーのスポンサーとなっているからである。また2019年、ノンアルコール飲料で長らくスポンサー契約を続けてきたザ コカ・コーラ カンパニーが蒙牛乳業と共同で2021年以降のスポンサー契約を結んだ。IOCは特例としてこれを認めている。 この他にも、各国のオリンピック委員会とオリンピック組織委員会が国内限定を対象とした「ゴールドスポンサー」(1社数十億円程度)、権利はゴールドスポンサーと同様だがTOPと競合しない事が条件の「オフィシャルサプライヤー/サポーター」(1社数億円程度)、グッズの商品化のみが可能な「オフィシャルライセンシー」がある。 2022年現在、 の14分野15社が名を連ねている。 The Olympic Partners(TOP)は指定された製品カテゴリーの中で独占的な世界規模でのマーケティング権利と機会を受ける事ができる。また、IOCやNOC、オリンピック組織委員会といった関係団体と共に商品開発などをする事も可能である。 スポンサーを巡るトラブル. 2012年に開催されたロンドンオリンピックにおいて、同オリンピック組織委員会の会長がBBCのラジオ番組において、「(公式スポンサーであるコカ・コーラの同業他社の)ペプシのロゴ入りTシャツを着ている観戦者は競技場に入れないだろう」と発言したために問題となり、ロンドン市などが火消しに追われた。 2021年にはカシマサッカースタジアム(茨城県鹿嶋市)で行われる予定の東京オリンピックサッカー競技の観戦を巡り、一部の学校において、児童生徒がペットボトルをスタジアムに持ち込む際に出来るだけ(公式スポンサーである)コカ・コーラ社製とするように保護者に対して文書で通知していることがTwitter上で拡散し、批判が出る事態となった。鹿嶋市の教育委員会によると、実際は混乱防止の観点から、メーカーを問わず、飲料のラベルを一律で剥がすように指示していた。また選手村では(公式クレジットカードの)VISAカード以外は使用出来ない。 日本との関わり. 日本が初めて参加したのは、1912年に開催されたストックホルム大会である。これはオリンピックの普及に腐心したクーベルタン男爵の強い勧めによるものであるが、嘉納治五郎を初めとする日本側関係者の努力も大きかった。最初は男子陸上のみによる参加であったが、アムステルダム大会からは女子選手も参加した。アムステルダム大会から日本国の予算で選手渡航費が計上された。それまでは自費で渡航していた。 なお、ストックホルム夏季大会で嘉納治五郎は日本人初のIOC委員として参加し、また男子陸上の選手として参加したのは短距離の三島弥彦とマラソン選手の金栗四三で、この2名が日本人初のオリンピック選手として大会に参加した。 日本選手のメダル獲得、ベルリン大会から始まったラジオ実況中継、聖火ランナーなどにより、日本での関心が増し、1940年の夏の大会を東京に、1940年の冬の大会を札幌に招致する事に成功したが、これらの大会は日中戦争(支那事変)の激化もあり自ら開催権を返上した。戦後のロンドン大会には戦争責任からドイツと共に日本は参加を許されず、ヘルシンキ大会より復帰している。 日本国内での開催は、夏季オリンピックを東京で2度(1964年、2021年)、冬季オリンピックを札幌(これらはそれぞれアジア地区で最初の開催でもある)および長野で行っている。なお、世界で初めて夏季・冬季両方のオリンピックの開催地となった都市は、長野県の軽井沢町である。 報奨金. 日本オリンピック委員会は、1992年アルベールビルオリンピック以降のオリンピック金メダリストに300万円(2016年リオデジャネイロオリンピックからは500万円)、銀メダリストに200万円、銅メダリストに100万円の報奨金を贈っている。 五輪という訳語. 五輪(ごりん)という訳語は、近代オリンピックのシンボルマークである5色で表現した5つの輪と宮本武蔵の『五輪書』の書名を由来として、読売新聞記者の川本信正が1936年に考案した。本人は「以前から五大陸を示すオリンピックマークからイメージしていた言葉と、剣豪宮本武蔵の著「五輪書」を思い出し、とっさに「五輪」とメモして見せたら、早速翌日の新聞に使われた」と述べている。
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オープンソース
オープンソース()は、専らを促進する目的で、コンピュータプログラムの著作権の一部を放棄し、ソースコードの自由な利用および頒布を万人に許可するソフトウェア開発モデル。この開発モデルでは、コンピュータで実行できるが人間が容易に理解・変更できないオブジェクトコードだけでなく、ソースコードも含めて自由な再頒布を許可するライセンスのもとで公開する。 オープンソースを推進するために設立されたオープンソース・イニシアティブは、ソフトウェアがオープンソースであるための要件を定めた「オープンソースの定義」を策定した。 歴史. 「オープンソース」という用語が作られる前年、1997年当時、「フリーソフトウェア」というものに対する経営者や投資家の印象は必ずしも良いものではなかった。1つには、「自由なソフトウェア」を意味する「フリーソフトウェア」という言葉が多くの場合に使われていた「無償のソフトウェア」という意味と紛らわしく、無償という考え方は営利目的主体のビジネスには馴染まなかったことがある。また1つには、フリーソフトウェア運動を進める中心的な存在であるフリーソフトウェア財団がフリー(自由)ではないソフトウェア(プロプライエタリソフトウェア)に対して攻撃的であったことがある。さらに1つには、フリーソフトウェア財団の「フリーソフトウェア」が掲げていた「コンピュータのプログラマとユーザは、何の制約も受けずにソフトウェア(のソースコード)を他人と共有できるべきなのである」という主張が共産主義的だとされた。そのような背景から、「フリーソフトウェア」は営利目的の企業としては関わりたくない対象であった。 1998年2月3日、パロアルトにおいて、マイクロソフトのInternet Explorerとの競争でシェアが低下したネットスケープコミュニケーションズのブラウザNetscape Navigatorの建て直しの戦略会議が開かれた。会議では製品の機能と品質の向上とシェア回復のために、技術者の参加を募集する方法、誰でも開発および供給に参加できる理念について議論していた。そこでソースコードの公開は有意義であるが、フリーソフトウェア運動の急進的な思想は非現実的であり、その極端な思想がビジネスの世界からは拒否されていると考えた人々は、「free software」に代わる用語と理念を検討した。そこで「オープンソース」という用語をが提案した。また、「オープンソース」では敢えて自由という点を強調はせず、むしろ「ソースコードを公開するとどういうメリットがあるか」を関心の中心とした。 「オープンソース」はフリーソフトウェア運動をしている、ジョン・ホール、サム・オックマン、マイケル・ティーマン、エリック・レイモンドなどの会議の参加者に受け入れられた。翌週、エリック・レイモンドたちは用語の展開を働きはじめた。リーナス・トーバルズは翌日、全ての重要な承認を実施した。フィル・ヒューズはLinux Journalへの投稿を提案した。フリーソフトウェア運動の先駆者であるリチャード・ストールマンはこの用語を受け入れることを考えたが、後に考えを改めている。 1998年4月7日、ティム・オライリーが開催した多くのフリーソフトウェアとオープンソースのプロジェクトリーダーが参加するフリーウェアサミット(後にオープンソースサミットに名称を変更)で大きく躍進を遂げた。会議には、リーナス・トーバルズ、ラリー・ウォール、、エリック・オールマン、グイド・ヴァンロッサム、マイケル・ティーマン、エリック・レイモンド、ポール・ヴィクシー、そしてネットスケープコミュニケーションズのが参加した。その会議では名称について混乱を引き起こし、マイケル・ティーマンは新しく「sourceware」を主張し、エリック・レイモンドは「open source」を主張した。集まった開発者たちは投票を行い、同日午後に勝者である「open source」が記者会見で公表された。5日後の4月12日、エリック・レイモンドはフリーソフトウェアコミュニティへ新しい用語の「open source」の受け入れの発表をした。その後すぐ、同月末にオープンソース・イニシアティブが設立された。 1999年6月、アメリカでオープンソース・イニシアティブが「Open Source」の商標登録を求めたが、「Open Source」は一般的な用語であり特定団体が権利を持つ商標にはならないと判断されている。これについて、オープンソース・イニシアティブは「Open Source」が一般的な用語として周知されたことを歓迎する立場を取っている。 2002年3月、日本ではオープンソースグループ・ジャパンが「オープンソース/Open Source」を商標登録(第4553488号)している。日本での用語の利用に際しては特に許諾や制限は求められないが、オープンソースの定義と同等の扱いで利用されることが望まれている。 オープンソースの定義. オープンソース・イニシアティブ(OSI)はオープンソース・ソフトウェア()の要件として、「オープンソースの定義」を掲げている。オープンソースの定義は、ソフトウェアのソースコードへのアクセスが開かれている(ソースコードが公開されている)ことを示すのではなく、オープンソース・ソフトウェアの配布条件として完全に従うべき事項を示している。オープンソースの定義では、ソースコードを商用、非商用の目的を問わず利用、修正、頒布することを許し、それを利用する個人や団体の努力や利益を遮ることがないことが求められている。 オープンソース・イニシアティブは、「Open Source」という用語の利用は、オープンソースの定義に準拠したものにおいて使用されることを求めている。2007年にはSugarCRMが自社のことを「Commercial Open Source」と表現して、オープンソースの定義に準拠していないソフトウェアライセンスをソフトウェアに課していたことを非難した。 オープンソース・ソフトウェア. オープンソース・ソフトウェア()とは、オープンソース・イニシアティブの掲げるオープンソースの定義に準拠したソフトウェアである。 オープンソース・イニシアティブはオープンソースライセンスというライセンスカテゴリを管理しており、そのオープンソースの定義に準拠したライセンスのみをオープンソースライセンスとして承認している。オープンソース・ソフトウェアはオープンソースライセンスが課せられたソフトウェアであると言い換えることが出来る。オープンソースライセンスはライセンスの氾濫を防ぐために虚栄心による独自ライセンスや複製ライセンスを承認していないため、オープンソースの定義に準拠しているがオープンソースライセンスと承認されていないライセンス、およびそのライセンスが課せられたオープンソース・ソフトウェアは存在している。基準はオープンソースの定義であり、その定義に準拠したソフトウェアはオープンソース・ソフトウェアである。 オープンソース・ハードウェア. オープンソースの概念はソフトウェアにとどまらず、集積回路やプリント基板、CADデータなどの設計情報を公開し共有するものはオープンソース・ハードウェアと呼ばれる。 その種類は多肢にわたり、ワンボードマイコン (Arduino)、CPU (OpenRISC、OpenSPARC)、3Dプリンター (RepRap、OpenSLS)、人型ロボット (iCub)、電気自動車 (Open Motors)などがある。 ライセンスはソフトウェア用のものやクリエイティブ・コモンズ・ライセンスも使用されるが、ハードウェア用としてはTAPR Open Hardware LicenseやCERN Open Hardware Licenceがある。 オープンソースライセンス. オープンソースライセンスは、一定の条件の下でソフトウェアの使用、複製、改変、(複製物または二次的著作物の)再頒布を認めている。次の2つの条件はほぼ共通している。 次の条件は、採用しているライセンスと、そうでないライセンスがある。 用語と概念への批判. オープンソースの概念は一定の成功を収め、オープンソースのソフトウェア開発の手法と意義の浸透をもたらしたが、自由を強調しないという点はフリーソフトウェア運動の支持者からの攻撃の標的となることがある。 1999年2月17日、オープンソース・イニシアティブの創始者の1人ブルース・ペレンスはオープンソースが既に成功を収めたこと、そしてオープンソースがフリーソフトウェアから離れすぎていることを挙げて「今こそフリーソフトウェアについて再び語るべきときだ」と述べた。 2007年、フリーソフトウェア財団の代表リチャード・ストールマンはオープンソースの概念はフリーソフトウェアが主な目的としている利用者にとって重要な自由を守るに足りえないとして、オープンソースはフリーソフトウェアの的を外していると批判した。 またストールマンは2013年に、フリーソフトウェア運動が問題視している利用者の自由に対する制限の不当性をオープンソースは問題視していないと述べ、フリーソフトウェアの理念を正しく伝えるため「OSS(Open Source Software)」ではなく、フリーソフトウェアとオープンソースを複合した用語の「FLOSS(Free/Libre and Open Source Software)」の利用を推奨した。
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龍安寺
龍安寺(りょうあんじ)は、京都市右京区龍安寺御陵ノ下町にある臨済宗妙心寺派の寺院。大本山妙心寺の境外塔頭。山号は大雲山。本尊は釈迦如来。開基(創建者)は細川勝元、開山(初代住職)は義天玄承である。有名な石庭で知られる。「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。 歴史. もともと衣笠山山麓に位置する龍安寺一帯は、永観元年(984年)に建立された円融天皇の御願寺である円融寺の境内地であった。円融寺は徐々に衰退し、平安時代末には藤原北家の流れを汲む徳大寺実能が同地を山荘とした。 この山荘を細川勝元が譲り受け、宝徳2年(1450年)敷地内に龍安寺を建立した。初代住職として妙心寺8世(5祖)住持の義天玄承(玄詔)を迎えた。義天玄承は師の日峰宗舜を開山に勧請し、自らは創建開山となった。創建当初の境内地は現在よりはるかに広く、京福電鉄の線路の辺りまでが境内であったという。 細川勝元らと山名宗全らが争った応仁の乱の際、細川勝元は東軍の総大将だったため、龍安寺は西軍の攻撃を真っ先に受け、応仁2年(1468年)に焼失した。勝元は寺基を洛中の邸内に一時避難させた後、旧地(現在地)に戻すが、勝元は文明5年(1473年)に没す。 長享2年(1488年)勝元の子・細川政元が龍安寺の再建に着手、政元と四世住持・特芳禅傑によって再興された。寺では特芳を中興開山と称している。明応8年(1499年)には方丈が上棟された。その後、織田信長、豊臣秀吉らが寺領を寄進している。 『都名所図会』(安永9年(1780年)刊行)によると、当時は龍安寺の鏡容池はオシドリの名所として紹介されており、今日有名な石庭よりも、池を中心とした池泉回遊式庭園の方が有名だったようである。 寛政9年(1797年)に京都町奉行へ提出された図面には23か寺の塔頭があったが、同年に起こった火災で食堂、方丈、開山堂、仏殿など主要伽藍が焼失した。そのため、塔頭の西源院(せいげんいん、現在は妙心寺の塔頭)の方丈を移築して龍安寺の方丈とし、現在に至っている。 その後、明治時代初期の廃仏毀釈によって衰退し、1895年(明治28年)には狩野派の手による方丈の襖絵90面が他の寺院に売却されている。 1929年(昭和4年)に火災により一部を焼失した。 1951年(昭和26年)7月11日、京都府一帯を襲った集中豪雨により裏山が崩壊。濁水が石庭に流れ込み赤土に覆われる被害が出た。 1975年(昭和50年)にイギリスの女王エリザベス2世とエディンバラ公フィリップが日本を公式訪問した折、5月10日午後、方丈庭園(石庭)に立ち寄った。 1994年(平成6年)ユネスコの世界遺産「古都京都の文化財」に登録された。 上記にある狩野派による方丈の襖絵90面であるが、他寺に売却された後、再び売りに出され、九州の炭坑王・伊藤伝右衛門により買い取られている。その後、第二次世界大戦後に流出してしまい、その多くは所在が分からなくなっている。現在はアメリカのメトロポリタン美術館やシアトル美術館に襖絵の一部が所蔵されているのが分かっている。 そんな中、所在不明となっていた襖絵のうち2010年(平成22年)に「群仙図」4面と「琴棋書画図」2面がアメリカのニューヨークでオークションに出品され、龍安寺が買い戻している。また、2018年(平成30年)には「芭蕉図」9面が、静岡県のコレクターを経て、龍安寺が買い戻している。 なお、鏡容池の周囲には西源院以外にもいくつか塔頭寺院があるが、それらは現在は龍安寺の塔頭ではなく、妙心寺の境外塔頭となっている。 石庭. 方丈庭園(国の史跡・特別名勝)、いわゆる「龍安寺の石庭」である。白砂の砂紋で波の重なりを表す枯山水庭園の特徴を有する。 幅25メートル、奥行10メートルほどの空間に白砂を敷き詰め、東から5個、2個、3個、2個、3個の合わせて15の大小の石を配置する。これらの石は3種類に大別できる。各所にある比較的大きな4石はチャートと呼ばれる龍安寺裏山から西山一帯に多い山石の地石。塀ぎわの細長い石他2石は京都府丹波あたりの山石。その他の9石は三波川変成帯で見られる緑色片岩である。 寺伝では、室町時代末期(1500年頃)特芳禅傑らの優れた禅僧によって作庭されたと伝えられるが、作庭者、作庭時期、意図ともに諸説あって定かではない。塀ぎわの細長い石には「小太郎・□二郎」と刻まれており、作庭に関わった人物と推測されるが、詳細は不明である。 この庭は石の配置から「虎の子渡しの庭」や「七五三の庭」の別称がある。「虎の子渡し」とは、虎は、3匹の子供がいると、そのうち1匹は必ずどう猛で、子虎だけで放っておくと、そのどう猛な子虎が他の子虎を食ってしまうという。そこで、母虎が3匹の虎を連れて大河を渡る時は次のようにする。母虎はまず、どう猛な子虎を先に向こう岸に渡してから、いったん引き返す。次に、残った2匹のうち1匹を連れて向こう岸に行くと、今度は、どう猛な子虎だけを連れて、ふたたび元の岸に戻る。その次に、3匹目の子虎を連れて向こう岸へ渡る。この時点で元の岸にはどう猛な子虎1匹だけが残っているので、母虎は最後にこれを連れて向こう岸へ渡る、という中国の説話(虎、彪を引いて水を渡る)に基づくものである。 また、「七五三の庭」とは、東から5、2、3、2、3の5群で構成される石組を、5と2で七石、3と2で五石、そして3で三石と、七・五・三の3群とも見られることによる。古来より奇数は陽数、すなわちおめでたい数とされ、その真ん中の数字をとったものである。 この石庭は、どの位置から眺めても必ずどこかの1つの石が見えないように配置されている。どこから鑑賞しても庭石が1個までしか見えないようになっているのは、ある石に別の石が重なるよう設計されているためで、日本庭園における「重なり志向」を表したものともいわれている。 境内. 寺の南側には広大な鏡容池があり、周囲は池泉回遊式庭園になっており、年間を通じて四季それぞれの花を楽しめる。境内北側には庫裡、方丈、仏殿などが建ち、これらの西側には「西の庭」がある。有名な石庭は方丈南側にある。
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マジックナンバー
マジックナンバー()
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魔少年ビーティー
『魔少年ビーティー』(ましょうねんビーティー)、サブタイトル「COOL SHOCK B.T.」は、荒木飛呂彦による日本の漫画作品。集英社の少年向け漫画雑誌『フレッシュジャンプ』1982年3号に読切として掲載された後、『週刊少年ジャンプ』1983年42号から51号に連載された。サブタイトルは「少年ピカレスク(悪漢小説)ロマン」。 荒木の連載作品としてのデビュー作。手品やトリックに長けた少年ビーティーと友人の公一が怪事件と遭遇する物語を展開する。 作風. 平凡な少年の麦刈公一を語り手として物語は進む。転校生として現れ、公一の親友となったビーティーに関するエピソードが、一話完結形式で綴られていく。全5話でコミックスは全1巻完結である。読切版は単行本『荒木飛呂彦短編集 ゴージャス☆アイリン』に収録されている(#既刊一覧参照)。 正義や熱血を重んじる当時の少年漫画界において、「魔少年」というタイトルと悪行を繰り返す主人公は、異色の存在であった。しかしながら一方で、主人公の精神的高潔さを貫く姿勢や、彼なりの正義に対する考え方、友情を重んじる精神なども、同時に描かれている。 あらすじ. 平凡な少年麦刈公一は、ある日、転校生のビーティーと出会う。科学や心理学などを巧みに使った奇術やトリックが得意なビーティーは、その好奇心から様々な悪事(単なる悪戯から犯罪まで)を実行していく。学校のキャンプでビーティーが不良達に絡まれた際、ただ一人彼を助けようとした公一は、やがてビーティーと親友になる(もちろん、後でビーティーは、その不良達には持ち前のトリックで制裁を与えた)。ビーティーと公一のコンビは、あるときは様々な事件に巻き込まれ、またあるときは積極的に悪事をはたらいていく。事件や悪事を通じて、2人は様々な悪漢達と対峙し、その中で彼らなりの正義を貫いていく。 制作. 荒木は当初連載を目指して読切を発表したが、作品のコンセプトが編集部に理解されず、理解のあった担当編集者が編集部を説得するのに時間がかかっている。雑誌連載がスタートしたものの人気は低迷し、第3回の掲載後のアンケートを見た担当編集者は既に打ち切りを予想しており、結局10回の連載で終了することになった。しかし最終回のアンケート結果だけが好評だった理由を担当編集者と検討した際、最終回だけにあった主人公と敵の頭脳戦が理由ではないかと推測し、自身が目指す『漫画の王道』や、後に連載するヒット作『ジョジョの奇妙な冒険』で注目された『頭脳バトル』についての理解が深まったという。 当時、荒木は故郷の仙台市に在住していたが、本作の連載終了を機に本格的な作家活動に入るため上京している。 2021年10月19日発売の『ウルトラジャンプ』11月号にて、本作の60年後の世界を舞台とする読切『魔老紳士ビーティー』が掲載。原作は西尾維新、作画は出水ぽすかによる。
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老子
老子(ろうし)は、中国春秋時代における哲学者である。諸子百家のうちの道家は彼の思想を基礎とするものであり、また、後に生まれた道教は彼を始祖に置く。「老子」の呼び名は「偉大な人物」を意味する尊称と考えられている。書物『老子』(またの名を『老子道徳経』)を書いたとされるがその履歴については不明な部分が多く、実在が疑問視されたり、生きた時代について激しい議論が行われたりする。道教のほとんどの宗派にて老子は神格として崇拝され、三清の一人である太上老君の神名を持つ。 史記の記述によると、老子は紀元前6世紀の人物とされる。歴史家の評は様々で、彼は神話上の人物とする意見、複数の歴史上の人物を統合させたという説、在命時期を紀元前4世紀とし戦国時代の諸子百家と時期を同じくするという考えなど多様にある。 老子は中国文化の中心を為す人物のひとりで、貴族から平民まで彼の血筋を主張する者は多く李氏の多くが彼の末裔を称する。歴史上、彼は多くの反権威主義的な業績を残したと受け止められている。 老子の履歴. 史記の記述. 老子の履歴について論じられた最も古い言及は、歴史家・司馬遷(紀元前145年 - 紀元前86年)が紀元前100年頃に著した『史記』「老子韓非列伝」中にある、三つの話をまとめた箇所に見出される。 これによると老子は、姓は「李」、名は「耳」、字は「聃」(または「伯陽」)。楚の苦県(現在の河南省周口市鹿邑県)、厲郷の曲仁里という場所の出身で、周の守藏室之史(書庫の記録官)を勤めていた。孔子(紀元前551年 - 紀元前479年)が礼の教えを受けるために赴いた点から、彼と同時代の人間だったことになる。老子は道徳を修め、その思想から名が知られることを避けていた。しかし、長く周の国で過ごす中でその衰えを悟ると、この地を去ると決めた。老子が国境の関所(函谷関とも散関とも呼ばれる)に着くと、関所の役人であるが「先生はまさに隠棲なさろうとお見受けしましたが、何卒私に(教えを)書いて戴けませんか」と請い、老子は応じた。これが後世に伝わる『老子道徳経』(上下2編、約5000語)とされる。この書を残し、老子はいずことも知れない処へ去ったといい、その後の事は誰も知らない。(「老子」『列仙伝』においては大秦国すなわちローマへ向かった。) 「老子」という名は尊称と考えられ、「老」は立派もしくは古いことを意味し、「子」は達人に通じる。しかし老子の姓が「李」ならば、なぜ孔子や孟子のように「李子」と呼ばれないのかという点に疑問が残り、「老子」という呼称は他の諸子百家と比べ異質とも言える。 出身地についても疑問が提示されており、『荘子』天運篇で孔子は沛の地(現在の江蘇省徐州市沛県)に老子を訪ねている。また「苦い」県、「厲(癩=らい病)」の里と、意味的に不祥の字を当てて老子の反俗性を強調したとも言われる。曲仁についても、一説には「仁(儒教の思想)を曲げる(反対する)」という意味を含ませ「曲仁」という場所の出身と唐代の道家が書き換えたもので、元々は楚の半属国であった陳の相というところが出身と書かれていたとも言う。 『史記』には続けて、 とあり、「老來子」という楚の人物がやはり孔子とは同じ時代に生き、道家についての15章からなる書を著したと伝える。この説は「或曰」=「あるいは曰く」(一説によると)または「ある人曰く」(ある人物によると)で始められている通り、前説とは別な話として書かれている。 さらに『史記』は、三つ目の説を採録する。 ここでは、老子は周の「太史儋(太史聸)」という名の偉大な歴史家であり占星家とされ、秦の献公在位時(紀元前384年 - 紀元前362年)に生きていたとしている。彼は孔子の死後129年後に献公と面会し、かつて同じ国となった秦と周が500年後に分かれ、それから70年後に秦から覇者が出現すると預言したと司馬遷は述べ、それは不老長寿の秘術を会得した160歳とも200歳とも思われる老子本人かも知れず、その根拠のひとつに「儋(聸)」と老子の字「聃」が同音であることを挙げているが、間違いかも知れないともあやふやに言う。 これら『史記』の記述はにわかに信じられるものではなく、学問的にも事実ではないと否定されている。合理主義者であった歴史家・司馬遷自身も断定して述べていないためこれらを確たる説として採録したとは考えられず、記述も批判的である。逆に言えば、司馬遷が生きた紀元前100年頃の時代には、既に老子の経歴は謎に包まれはっきりとしなくなっていた事を示す。 『史記』は老子の子孫についても言及する。 老子の子は「宗」と言い、魏の将校となり、段干の地に封じられた。宗の子は「注」、注の子は「宮」、宮の玄孫(老子の七世の孫)「假」は漢の孝文帝に仕えた。假の子「解」は膠西王卬の太傅となって斉国に住んだという。 この膠西王卬(劉卬)とは、呉楚七国の乱(紀元前154年)で呉王・劉濞に連座し恵帝3年(紀元前154年)に殺害された。武内義雄(『老子の研究』)や小川環樹(『老子』)は、これを根拠に1代を30年と逆算し、老子を紀元前400年前後の人物と定めた。しかし、津田左右吉(『道家の思想と其の展開』)や楠山は、この系譜が事実ならば「解」は司馬遷のほぼ一世代前の人物となるため『史記』にはもっと具体的な叙述がされたのではと疑問視している。 諸子百家の著述. 荘子(紀元前369年 - 紀元前286年と推定される)が著したという『荘子』の中には老聃という人物が登場し(例えば「内篇、徳充符篇」や外雑篇)、『老子道徳経』にある思想や文章を述べる。荀子(紀元前313年? - 紀元前238年?)も『荀子』天論編17にて老子の思想に触れ、「老子有見於詘,無見於信」(老子の思想は屈曲したところは見るべき点もあるが、まっすぐなところが見られない。)と批判的に述べている。さらに秦の呂不韋(? - 紀元前235年)が編纂した『呂氏春秋』不二編で「老耽貴柔」(老耽は柔を貴ぶ)老耽という思想家に触れている。貴公編では孔子に勝る無為の思想を持つ思想家として老耽を挙げ、その思想は王者の思想(至公)としている。 このような記述から窺える点は、老子もしくは老子に仮託される思想は少なくとも戦国時代末期には存在し、諸子百家内に知られていた可能性が大きい。しかし、例えば現代に伝わる『荘子』は荘子本人の言に近いといわれる内篇7と彼を後継した荘周学派による後に加えられたと考えられる外編15、雑篇11の形式で纏められているが、これは晋代の郭象(252年? - 312年)が定めた形式であり、内篇で老子に触れられていてもそれが確実に荘子の言とは断定できない。このように、諸子百家の記述に出現するからといって老子が生きた時代を定めることは出来ず、学会でも結論は得られていない。 定まらない評価. このように、確かな伝記が伝わらず、真偽定かでない伝承が多く作られた老子の生涯は、現在でも定まったものは無く、多くの論説が試されて来た。老子の存在に疑問を呈した初期の思想家は、北魏の宰相・崔浩(381年 - 450年)だった。唐の韓愈(768年 - 824年)は、孔子が老子から教えを受けたという説を否定した。その後の宋代には陳師道、葉適、黄震らが老子の伝記を検証し、清代の汪中(『老子道徳経異序』『述学、補遺、老子考異』)と崔述(『崔東壁遺書・洙泗考信録』)は『史記』第三の説にある「太史捶」が老子を正しく伝え、孔子の後の人物だと主張した。 20世紀中ごろに至っても研究者による見解はまちまちのまま、その論調はいくつかのグループに分かれていた。大きくは、古代中国の文献類に信頼を置き老子像を捉える「信古」と、逆に批判的な「疑古」とに分類できる。老子の時代についてはさらに分かれ、胡適(『中国哲学史』、1926年)、唐蘭(『老聃的生命和時代考』)、郭沫若(『老聃・関尹・環淵』)、黄方剛(『老子年代之考察』)、(『辨「老子」非戦国後期之作品』他)、(『重訂老子正詁』、1957年)、詹剣峰(『老子其人書及其道論』、1982年)、(『老子注釈与評介』、1984年)らは孔子とほぼ同時代の春秋末期とする「早期説」と唱え、梁啓超(1873年 - 1929年、「評論胡適之中国哲学史大綱」『飲冰室合集』)、銭穆(『関干老子成書年代之一種考察』)、(『老子及老子書的問題』)、(『二老研究』)などは戦国末期と考える「晩期説」を主張した。老子の存在を否定する派では、孫次舟(『再評「古史辨」』)は老子を荘子学派が創作した架空の人物と主張し、1957年に刊行されたの『先秦諸子思想概要』では、中国思想の論理学派(孔子・荘子・墨子・荀子・韓非子など)を説明する中で老子に触れた項が無いだけでなく、一切老子に触れず道家の祖を荘子としている。 伝承. 生涯にまつわる伝説. 一般に知られた伝来の伝記では、老子は周王朝の王宮法廷で記録保管役として働いていたという。ここで彼は黄帝などいにしえの著作に触れる機会を多く得たと伝わる。伝記では、老子は正式な学派を開祖したわけではないが、彼は多くの学生や高貴な門弟へも教えを説いたとされている。また、儀礼に関する多くの助言を孔子に与えたという叙述も様々な形で残されている。 『神仙伝』など民間の伝承では、周の定王3年(紀元前603年)に母親(「真妙玉女」または「玄妙玉女」)が流星を見たとき(または、昼寝をしていた際に太陽の精が珠となって口に入ったとき)に老子を懐妊したが62年間(80年間? 、81年間? 、72年間または3700年間などの説も)も胎内におり、彼女が梅の木にもたれかかった時に左の脇から出産したという。それゆえ、老子は知恵の象徴である白髪混じりの顎鬚と長い耳たぶを持つ大人の姿で産まれたという。他の伝承では、老子は伏羲の時代から13度生まれ変わりを繰り返し、その最後の生でも990年間の生涯を過ごして、最後には道徳を解明するためにインドへ向かったと言われる。伝説の中にはさらに老子が仏陀に教えを説いたとも、または老子は後に仏陀自身となったという話(化胡説)もある。 中国の歴史上、老子の子孫を称する者は数多く現れた。唐朝帝室の李氏は祖先を老子に求め、「聖祖大道玄元皇帝」とおくり名され、ますます尊崇を受けた。これら系譜の正否は判断がつけられないが、老子が中国文化へ大きな影響を与えている証左にはなりうる。 字・伯陽. 現代に伝わる『史記』には記載されていないが、老子には「伯陽」という字があったとされる。伯陽とは元々西周第12代・幽王の時代に周が滅亡することを預言した人物の事である。これは『史記』に言う太史儋の覇王出現の預言が影響し、後漢の時代に「聃」を諡に変えて「伯陽」を字とする改竄が加えられた事の名残である。 老子など多くの歴史的人物を仙人視する風潮は前漢時代に起こり、これを批判し王充は『論衡』という書の「道虚篇」で老子不老不死説を取り上げ否定した。伯陽と老子を同一視する説は、このような時代の流行を反映したもので、逆にそれが『史記』の改竄にまで及んだことを示す。 尹喜. 伝統的記述では、老子は都市生活におけるモラルの低下にうんざりするようになり、王国の衰退を記したという。この言い伝えでは、彼は160歳の時に国境定まらぬ西方へ移住し、世捨て人として生きたとある。城西の門の衛兵・尹喜は、東の空に紫雲がたなびくのに気づき、4人の供を連れた老子を出迎え、知恵を書き残して欲しいと願った。この時書かれた書が『老子道徳経』だというところは『史記』と同じだが、一説には衛兵は職を辞して老子に供し、二度とその姿を見せなかったともある。 この尹喜は、『荘子』「天下篇」などで登場する「関尹(關尹)」ではないかとする説がある。「天下篇」で荘子は関尹を老子(老聃)と同じ道家の一派と分類している。「関」は文字通り関所であり、「尹」は役所の長官という意味を持つ。そのため、元々は役職名から転じた通称「関尹」なる人物が、尊敬する老子と出会い喜んだ様が『史記』に見られる「關令尹喜」という表現となり、人物名「尹喜」へ転じたという説がある。 郭沫若は、この関尹とは斉の稷下の学者の一人である「環淵」が訛ったものという説を述べた。これに基づけば、環淵の黄老思想が老子の思想体系化に影響を与えたと考えられる。 『老子道徳経』から推測される老子. 議論. 老子が著したと伝わる『老子道徳経』は、『老子』『道徳経』『道経』『徳道経』『五千言』など、様々な名称でも呼ばれる。この書籍の真偽、元々の形についても老子の実在や時代の判断に直結する事もあり、数多くの主張や議論が行われてきた。この『老子道徳経』成立期が判明すれば、それは老子が生きた時代の下限と考えられる。 『老子道徳経』(『老子』)がその書籍名を明示して引用された最初の例は、前漢の武帝代に淮南王劉安(紀元前179年 - 紀元前122年)が編纂した『淮南子』である。ここに注目し、『老子道徳経』は先人の金言が徐々に集積され、武帝の時代に形式が整えられて書名が与えられたという説がある。 「晩期説」を唱えた梁啓超は、1922年に新聞紙上に短い論説を発表し、『老子道徳経』は戦国末期に出来たものと唱え、4年後に武内義雄が『老子原始』にて独自にほぼ同じ説を述べた。梁啓超は自説を纏め、6項目の根拠を示した。 馮友蘭は文体論から『老子道徳経』を考察し、経典の形式である点は戦国時代の特徴で、春秋時代の対話形式ではない点から戦国期成立を主張。他にも、老子の「不尚賢」という概念は墨子の「尚賢」を否定したもので、それ故に老子は墨子以降の人という説も唱えられた。 一方で、春秋時代の成立とみなす学者も多く、例えば呂思勉(『先秦学術概論』)は『老子道徳経』内で用いられる語義が非常に古い点、その思想は女権優位が軸を成す点、また「男・女」ではなく「牡・牝」という後代とは異なる漢字が使われる点を根拠に挙げている。戦国期成立説への反証も行われ、時代考察の一派を占める。 また、もっと後世の作という説もあり、『呂氏春秋』と共通する箇所は引用ではないと主張した。顧頡剛らは呂不韋と同じ秦代、劉節は前漢の景帝時代という見解を述べた。 このような議論を通じ、少なくとも老子なる人物が生きたであろう時代と『老子道徳経』が作られた時代には開きがあり、同書は『孔子』(『論語』)や『墨子』同様にその系譜に当たる弟子が後年に纏めたものという考えが主流となり、「疑古」派もしくはこれに民俗学や文献学などを取り入れる「釈古」派の考えが定説として固まりつつあった。 馬王堆・郭店の発掘書. このような『老子道徳経』の成立に関わる考古学的発見が、20世紀後半に2件もたらされた。1973年、湖南省長沙市で漢代の紀元前168年に造営された馬王堆3号墓から帛書の写本(馬王堆帛書)が出土したが、これには二種の『老子道徳経』が含まれていた。さらに1993年、今度は湖北省荊門市郭店で、戦国時代の楚国の墓(郭店一号楚墓)から730枚の竹簡(郭店楚簡)が発見された。この中には三種類の『老子道徳経』が含まれていた。いずれも書名は記されておらず、また現在に伝わる『老子道徳経』とはそれぞれに差異こそあるが、この発見は老子研究に貢献する新たな物証となった。 1973年に発見された馬王堆帛書老子道徳経二種は、現在に伝わる『老子道徳経』とほぼ同じ内容ながら、二種共上・下篇の順序が逆転し、下篇が前上篇が後になっている。「甲本」「乙本」という名は、便宜上つけられたものである。甲本の字体は秦の小篆の流れを汲む隷書体であり、乙本は同じ隷書でも漢代の字体を持っていた。さらに、乙本では「邦」の字がすべて「国」に置き換えられていたのに対し、甲本は「邦」を使用している。これは、乙本には前漢の劉邦死(紀元前195年)後にこの字を避諱したことが反映され、甲本はそれ以前に写本制作されたことを示す。これによって、現本『老子道徳経』は少なくとも前漢・高祖時代には現在の形で完成していたと証明される。 さらに郭店一号楚墓は、副葬品の特徴を分析した結果などから戦国時代中期の紀元前300年頃のものと推定された。その中には君主が老齢の臣下に賜る鳩杖があったことから、正式発表は無いが被葬者は70歳以上で死亡したと考えられる。この墓から発見された竹簡は16種類あり、さらに『老子道徳経』に相当するものは「甲本」「乙本」「丙本」の3種類に分けられた。この甲・乙・丙本に共通する文章はわずかに甲と丙の一部にのみあるが、細かな文言などに差異があった。そして三本を合わせても31章にしかならず、現在の『老子道徳経』81章の にしか相当しない。 浅野裕一は郭店楚簡甲・乙・丙本について、『老子道徳経』に相当する原本が存在し、被葬者もしくは写本製作者が何らかの意図を持ってその都度部分的に写し取った三つの竹簡と推測した。その根拠は三本に共通部分がほとんど無い点を挙げ、これらが『老子道徳経』が形成される途上の3過程とは解釈できないとした。その一方で思想内容には整合性があることから、別々の作者とも考えにくいと述べた。さらに、甲・丙本の共通部分(現行本第64章後半に相当)にある差異は、原本『老子道徳経』には写本を繰り返す中で既に複数の系統に分かれたものが存在していたと推定した。 当時、書籍は簡単に作成・流通できるものではなく、郭店一号楚墓の被葬者も長命な人生の中で機会を得て郭店楚簡を得たと考えられ、もしそれが若い時分ならばそれだけで原本は紀元前300年から数十年単位で遡り存在したことになる。さらに甲・丙本の差に見られる複数の写本系統を考慮すれば、その時代はさらに古くなり、『老子道徳経』原本は戦国前期の紀元前403年 - 紀元前343年には成立していた可能性が高まり、数々の論議はかなり絞られてくる。郭店一号楚墓被葬者の年齢など科学的分析結果は全容が公表されていないが、それ如何によっては『老子道徳経』成立時期がさらに明らかになる可能性がある。 老子の思想の形成について. 中国の古い書物はそのほとんどが、一人の著者のみで書いたものではなく、時代を変遷して、多数の著者の手により追記編集されていったものであるとされている。その門流の人々は、次々にその原本に書き足していったものを、全体として構成し直し、それをその発端者の名前で呼んでいるようである。老子道徳経に編纂されている思想についても、多数の著者によって、いくつかの思想が述べられており、それを後代の人が書物としてまとめたものであるとみることができる。 老子の「道」について. 老子道徳経に述べられている「道」の区分については、①普遍的法則としての道、②根元的実在としての道、③処世術としての道、④政治思想としての道、の四通りの「道」の区分があると見ることができる。このうち、②根元的実在としての道について述べられた部分が、古い老子の思想であると見ることができる。 「建言」というのは、下編の最初のほうに出てくる『老子道徳経』よりも古くからあったとされる、諺などを記した書物であるとされている。この諺や名言は、老子本文を構成するのに引用されているところからすると、「老子下編」を編集した人物にとっての、最古の老子の伝説の書のようなものであったということができる。「建言」とは、永久に記憶されるべきことば、という意味を持つ。。 「建言」に見る、実在としての道. 「建言」によると、実在としての道は、循環運動を永遠に続けている。あらゆる存在は、「有」として、「無」から生まれている。「有」が「無」として、「無」が「有」として、運動して(生まれて)ゆく姿は、反(循環)である。(第40章)。 「道」は一を生み出す。一は二を生み出す。万物は陰(無為)を背負って、陽(有為)を抱える。沖気というのは、調和(均衡)の状態を維持することである。道は全体に対して、弱い力として働いている(42章)。 「道」は隠れたもので、名がない。大象(無限の象)は形がない。「道」こそは、何にもまして(すべてのものに)援助を与え、しかも(それらが目的を)成しとげるようにさせるものである。この援助は、徳とも、慈悲とも言えるものである。 思想から見る老子. 政治思想の源流. 政治において老子は「小国寡民」を理想とし(『老子道徳経』80章)、君主に求める政策は「無為の治」(同66章)を唱えた。このような考えは大国を志向した儒家や墨家とは大きく異なり、春秋戦国時代の争乱社会からすればどこか現実逃避の隠士思考とも読める。 しかし、このような思想は孔子の『論語』でも触れた箇所があり、「微子篇」には孔子一行が南方を旅した際に出会った百姓の長沮と桀溺という人物が子路を捕まえて「世間を避ける我々のようにならないか」と言う。同篇には楚の国で、隠者・接輿と名も知られぬ老人が孔子を会う話がある。このように、楚に代表される古代中国の南方は、特に春秋の末期には中原諸国との激しい戦争が繰り広げられ、それを嫌い隠遁する知識層が存在した。老子の思想は、このような逃避的・反社会情勢的な思想に源流を求めることができる。 柄谷行人によると、人間社会は、四つの交換様式の組み合わせから成り立ち、一つ目の交換様式Aは「互酬(贈与とお返し)」。人類史で見れば、原始社会や氏族社会は交換様式Aの原理から成り立つ。二つ目は、被支配者は支配者に対して税や年貢を支払い、その見返りとして、生命財産の保護を受け、公共事業や福祉などを通じて再分配を受ける交換様式B「略取と再分配」。三つ目の交換様式Cは、資本主義社会で最も支配的な交換様式である「商品交換」。四つ目の交換様式Dは、「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式である。「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式Dの実現を目指す社会運動が出現する条件は、非常に発展した交換様式A・交換様式B・交換様式Cが社会に浸透していることであり、交換様式A・交換様式B・交換様式Cが社会を包摂しているからこそ、それらを無化し、乗り越えようとする交換様式Dが出現する。交換様式Dは、まず崩壊していく交換様式Aを高次に回復する社会運動として現れる。具体的には、共同体的拘束から解き放たれた自由な個人のアソシエーションとして相互扶助的な共同体を創り出すことを目指す。したがって、交換様式Dは共同体的拘束や国家が強いる服従に抵抗する(交換様式Aと交換様式Bを批判し、否定する)。また、階級分化と貧富の格差を必然的にもたらす交換様式Cを批判し、否定する。これこそが交換様式Dは、「交換様式A・交換様式B・交換様式Cのいずれをも無化し、乗り越える」交換様式である、ということの意味であり、中国における老子もまた交換様式Dを開示したとみられる。 老子の社会階級. 老子が描く理想的な「小国寡民」国家は、とても牧歌的な社会である。 老子が言う小国寡民の国。そこでは兵器などあっても使われることは無く、死を賭して遠方へ向かわせる事も無い。船や車も用いられず、甲冑を着て戦う事もないと、戦乱の無い世界を描く。民衆の生活についても、文字を用いず縄の結び目を通信に使う程度で充分足り、今のままでもその食物を美味と思い、服装も立派だと考え、住まいに満足し、それらを自給自足で賄い、その素朴な習俗を楽しむという。隣の国との関係は、互いに望み合えてせいぜい鶏や犬の鳴き声がかすかに聞こえる程度の距離ながら、一生の中で往来する機会なども無いという。このような鮮明な農村の理想風景を描写しながら、老子は政治について説いてもおり、大国統治は小魚を調理するように上からの干渉を極力抑えて、民のあるがままにすべきと君主へその秘訣を述べ(60章)、要職者などに名声が高まったら返って謙虚にすべきと諭し(9章)、民に対する為政者へりくだりこそが天下に歓迎され、長期にわたり安泰を維持出来るとある(66章)。権力政治に対して、民が君主の圧政と重罰に慣れると、上の権力をものともしない状態になり(72章)、民が圧政に苦しみ、死を恐れなくなれば死罪による脅しも効かなくなり民の反乱、国家の崩壊を招くと警告している(74章)。また、法令をどんなに整備しても必ず法網をくぐる者が現れ、さらに犯罪者が増えるという趣旨から法律・政令の簡素化を説いている(57章)。 中国の共産主義革命以後、老子のイデオロギーがどんな社会階級から発せられたものか議論となり、范文瀾は春秋末期から戦国初期の没落領主層の思想に基づくと主張した。マルクス主義の呂振羽は、都市商人に対する農村の新興地主らの闘争理論だと述べた。侯外廬は戦国時代に疲弊する農業共同体の農民思想の代弁だと主張した。貝塚は、政治腐敗に嫌気が差し農村に逃れた知識層か、戦乱で逸民した学者階級などと推測する。しかし、この問題は解決を見ていない。 道教における老子. 伝統的に老子は道教を創立させた人物と評され、『老子道徳経』は道教の根本または源泉と関連づけられる。一般的な宗教である道教では最高の神格を玉皇大帝としているが、五斗米道など道教の知的集団では、老子は神名・太上老君にて神位の中でも最上位を占める三清の一柱とみなしている。 漢王朝以降、老子の伝記は強い宗教的意味合いを持ち、道教が一般に根付くとともに老子は神の一員に加わった。神聖なる老子が「道」を明らかにしたという信仰が、五斗米道という道教初となる教団の組織に繋がった。さらに後年の道教信奉者たちは老子こそ「道」が実態化した存在と考えるようになった。道教には、『老子道徳経』を執筆した後も老子は行方をくらまさず「老君」になったと考える一派もいるが、多くは「道」の深淵を明らかにするためにインドへ向かったと考える者が多い。 理想の師弟. 西門の守衛・尹喜と老子の関係についても、多様な伝説が残されている。『老子道徳経』の成立は、西へ去ろうとする老子を引き止めた尹喜が、迷い苦しむ人々を救う真実をもたらす神性なる老子の叡智を書き残して欲しいという懇願に応えたものが発端と言われる。民俗学的には、この老子と尹喜の出逢いは道教における理想的な師と弟子の関係を表したものと受け止められた。 7世紀の書『三洞珠嚢』は、老子と尹喜の関係についての記述がある。老子は、西の門を通ろうとした際に農民のふりをしていた。ところが門番の尹喜が見破り尊い師へ言葉を請いた。老子はただちに答えようとはせず、尹喜へ説明を求めた。彼は、己がいかに深く「道」を探求しているか、そして占星を長く学んで来たかを述べ、改めて老子の教えを願った。これを老子は認め、尹喜の弟子入りを許可したという。これは、門下に入る前に希望する者は試験を受けなければならないという道教における師弟の規範を反映している。信者には決意と能力を立証することが求められ、求めを明瞭に説明し、「道」を理解するために進む意思を示さなければならない。 『三洞珠嚢』によると師弟のやりとりは続く。老子が尹喜に『老子道徳経』を渡して弟子入りを許可した際、道教の一員が受けるべき数々の論理的手法、学説、聖典など他の教材や訓示も与えた。ただしこれらは道家としての初歩段階に過ぎず、尹喜は師に認められるために生活の全てを投じた三年間を過ごし、「道」の理解を完成させた。約束の時となり、尹喜は再び決意と責務を全うしたことを示すために黒い羊(青い羊?)を連れ、市場で師弟はまみえた。すると老子は、尹喜の名が不滅のものとして天上界に記されたことを告げ、不朽なる者の意匠を尹喜に与えるために天の行列を降臨させた。物語は続き、老子は尹喜に数多くの称号を与え、9つの天上界を含む宇宙を巡る漫遊へ連れて行ったという。この幻想的な旅を終えて戻った二人の賢人は、野蛮人どもが跋扈する西域へ出発した。この「修練」「再見」「漫遊」は、中世の道教における最高位への到達過程「三洞窟の教訓」に比される。この伝説では、老子は道教の最上位の師であり、尹喜は理想的な弟子である。老子は「道」を具現化した存在として描かれ、人類を救う教えを授けている。教えを受ける尹喜は試練と評価を経て、師事そして到達という正しい段階を踏んでいる。 老子八十一化説. 太上老君は、歴史の中で多くの「化身」または様々な受肉を経て多様な外観を備え、道の本質を説いたという。 これは、元の時代に再解釈され、仏教に対する道教の優位性を論拠付けるために『老子八十一化図』が作成された。老子の生涯を図で示し、その偉大さを示そうとした全眞教の道士・李志常が指示し令狐璋と史志経が作成した同書は、憲宗の近臣を通じて広く流布させようと画策された。 しかし、本書は一部を除き仏陀の伝承を剽窃したもので、これを祥邁は「採釋瑞而爲老瑞、(中略)改迦祥而作老祥」(仏陀の吉祥を書き換えて、老子の吉祥に仕立て直している)と批判した。事実これは、全真道の丘長春(長春真人)がチンギス・カンと面会して以来発展を続ける道教の宣伝活動に加えて「化胡説」を強調して仏教の相対的地位低下も狙っていた。仏教界の反発は強く、1255年8月には皇帝を前に仏教界と道教界の直接論争が行われた。その後同様の論争が開かれ、『老子八十一化図』が偽作と認定されるなど最終的に道教側が破れ、古典以外の道教の書や経は焚書された。 脚注. 出典2. 本脚注は、出典・脚注内で提示されている「出典」を示しています。
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プロトコル
プロトコルまたはプロトコール( , 、 )とは、複数の者が対象となる事項を確実に実行するための手順について定めたもの。 近年では、手順という意味だけにとどまらず,複数間における、コミュニケーション言語、ルール、考え方、などをまとめて示す言葉でもあり、ある特定のグループの中で、これらが一致すること、すなわち「プロトコルの一致」がいかなる場面でも重要視される。 もともとは「人間同士のやりとり」だけに関する用語であった。戦間期の学術的批判を経て、情報工学分野でマシンやソフトウェア同士のやりとりに関する取り決め(通信規約)を指すためにも用いられるようになった。 日本語に意訳した語としては、「仕様」「規定」「議定書」「儀典」などがある。 歴史と語源. 古代ギリシアでパピルスで作られた巻物の最初の1枚目を()と呼び、巻物の内容などを記すためのページとして使われていた。その後、草稿、議事録という意味を経て議定書、外交儀礼といった意味へと発展した。 プロトコルの「プロト」は「最初の」、「コル」は「糊」という意味で、表紙に糊付けした紙を表している。 ウィーン学団の一人、オットー・ノイラートの1932年の論文「プロトコル命題」において、「プロトコル」を含む用語が用いられている。 1968年に大型コンピュータを共有するために世界で最初に作られたインターネットであるARPANETが稼働し、これが「プロトコル」という用語および手順がインターネットで使われた最初となった。 その後、最初期のパケット交換技術の方式のひとつであるX.25が登場し、研究者のみの利用であったARPANETから成長し一般ユーザも利用出来るものを目指し作成された結果、世界中のパケット交換技術者間でプロトコルという用語が定着し、共通語となった。 政治. 政治、その中でも特に外交の用語として、複数の用法が存在する。プロトコルの成立当初よりも排他的な用語である。 外交儀礼. 外交儀礼としてのプロトコルとは、外交の場や国際的催しで、その実務や交流の場における公式な規則や手順などを、ひとつの典拠として利用できるようまとめた基本原則ともなるもの。歴史的外交事例に基づいた慣行や慣習を整理し成文化したものであり、法的な拘束力はもたない。 具体例としては、列席者の序列、国旗の取扱い、式例の進行手順、参列者の服装、物事の言い表し方などについて、その一般的な運用法をあらかじめ決めて明示するものだが、そもそも成文化されていない純粋な慣例も多く、その内容は時と必要に応じてさまざまに変化する。 また国際的に尊重されるべき大枠での合意ではあるものの、運用国の実情や慣習に応じてその内容が変化する場合もある。例えば国旗の取扱いでは、国際的には自国旗を他国旗よりも上位(左側)に掲揚または配置するのが一般的なプロトコルだが、日本では相手国に敬意を表する意味で逆に他国旗を日章旗の上位に持ってくる場合も多い。 なお外交関係者の中には、この外交儀礼の「プロトコル」を「プロトコール」と延ばして書いたり言ったりする者が多い。これはかつてのいわゆる「外交共通語」が英語ではなくフランス語だった時代の名残でもある。 世界共通の一般的マナーとして活用されることもあるが、あくまでも国家間の儀礼上のルールである。 批判表現のプロトコル. 外交上用いられる他国への批判表現は批判の度合いにより8段階が規定されており、レベルが上になるほど批判の度合いが強くなる。 国際法. 国際法における条約の一種である議定書は、英語の protocol の訳語であることから、外交関係者の間ではこれをプロトコルと呼ぶこともある。 情報工学. コンピュータにおける「プロトコル」とは通信規約を意味する。たとえ異なる企業どうしの装置であっても通信が行えるよう、用語を含めて厳密に規定されている。一度定められたプロトコルを変更することは容易ではないため、情報通信技術が今後どのように開発されるかを見据えながらプロトコルの作成が行われる。工学におけるシステムの設計は階層によって行われることが多く、コンピュータにおけるプロトコルも厳密な階層的設計が行われる。 国際標準化機構と国際電気通信連合がOSI基本参照モデルを定めていて、多くのプロトコルがこれをモデルとして作られている。インターネットにおけるプロトコルは RFC で技術仕様が公開されている。 実験プロトコル. 実験プロトコルは分子生物学や生化学などの実験において、実験の手順、及び条件等について記述したものである。
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絵画
絵画(かいが、)は、物体の形象を平面に描き出したもの。フランス語では "peinture"(パンチュール)、英語では "painting"(ペインティング)。子供の表現(幼児語)では単に「絵(え)」とも。 概説. 絵画は、基本的には、線や色彩を用いて、物の形や姿を平面上に描き出したものである。その起源は先史時代に遡り、スペインで6万5000年以上前にネアンデルタール人が描いたと推定される洞窟壁画が発見されている。また、「絵画は, ある物質の表面に故意に色をつけてつくり上げた「もの」にすぎない」との定義もある。 種類. さまざまな分類法がある。 ひとつの分類法は絵の具や鉛筆で分類する方法であり次のように分類する。 描く対象で分類する方法もあり、次のように分類する。 西洋美術の世界では、17〜18世紀ころの古典的な(そして、やや硬直した)分類としては次の3つの分類(絵画ジャンル)が主に扱われた。 また 聖書の物語をテーマにした宗教画 / 歴史画 も西洋絵画の主要なテーマであり(主要な分類であり)、 歴史上の戦争を描いた戦争画も主要なテーマであり分類であった。 近代・現代では次のようなジャンル(分類)も加わり多様化した。 ここ数十年ではイラストレーションやトリックアートなどもあり種類は多様である。 マチエール. 西洋美術の世界では絵画に使う材料を、フランス語を使い「マチエール」と言う。 定義の問題. 20世紀以降において、絵画の概念の設定にも困難がつきまとう。理由の一つは新しい素材や技法の登場による。切り絵や貼り絵、コラージュ等である。例えばパブロ・ピカソの1912年の作品『籘張りの椅子のある静物』には籘張り糢様の布が画布に直接貼り付けられている。また、イタリアのルーチョ・フォンタナの『空間概念』(1950年代)がある。これは画布に切り目が入った作品である。 彫刻に対比される絵画ではなく、「立体作品」に対比される「平面作品」という語が登場した。しかし、絵画、版画、イラストレーション、印刷物、映画、写真、2次元コンピュータグラフィックス(2DCG)等が「平面作品」であるかどうか判然とせず、曖昧である。加えて、絵画も立体であるという批判もある。 芸術認知科学的考察. 芸術認知科学を専門とする齋藤亜矢京都芸術大学教授は、実験で、顔の輪郭だけを描いた下絵と筆を与えても、高度な知能を持つチンパンジーは顔の絵を描けなかったのに対して、人間の幼児は2歳後半から眼や口を描き込めるようになる、という結果を得て、それを根拠にして「言語能力と密接に関連していると推定される」と齋藤亜矢は述べた。 他. 図画(ずが)は、小学校の教科に図画工作があり、「絵画」と同様の意味で使われることもあるが、絵画のほかに素描(デッサン、ドローイング)、イラスト、版画などを含んでいる。法律文書では「文書図画」のように文書と組み合わせて使われる。
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OSI参照モデル
OSI参照モデル(OSIさんしょうモデル、)は、コンピュータネットワークで利用されている多数のプロトコルについて、それぞれの役割を分類し、明確化するためのモデルである。国際標準化機構(ISO)によって策定された。OSI基本参照モデル、OSIモデルなどとも呼ばれ、通信機能(通信プロトコル)を7つの階層に分けて定義している。 いくつかの教科書や、以下の「#例」の節で「理解を助けるための参考資料」などとして、SNAの7階層や、TCP/IPモデルに沿っているプロトコルなどを、このOSIのモデルに対応付けした表などが見られる。これについてはIETFなどが、インターネット・プロトコル・スイートの開発はOSIに準拠する意図はないとしている。しかしながら、対応づけをすることはWTO/TBT協定の趣旨に沿って非関税障壁をなくすための行為である。 概要. OSI参照モデルは、1977年から1984年にかけて定義されたOSIのために策定された。OSI自体は普及せず、OSI参照モデルだけがネットワークの基礎知識として広まったものである。現在幅広くに利用されているEthernet、TCP/IPとは適合していないという主張や、ネットワークを理解するためのモデルとして不適切であるという意見がある。タネンバウムは、OSI参照モデルは参照モデルとしては仕様と実装の区別をしている点で有用だが、プレゼンテーション層とセッション層は不要だったとしている。 OSI参照モデルは ISO 7498 として規格化され、後にITU-Tでは X.200、JISでは JIS X5003 として、同一内容を定義している。ITU, JISともにネットで規格文書を公開しており、通信規約を規定する技術仕様を記述する上での出発点として用いることができる。 レイヤー構成. 国際標準化機構 (ISO) によって制定された、異機種間のデータ通信を実現するためのネットワーク構造の設計方針「開放型システム間相互接続 (、OSI)」に基づいて通信機能を以下の7階層(レイヤ)に分割する。 例. 下記は、OSIモデルの各層ごとのプロトコルやサービスの例である。ただし上述のようにOSIモデルはOSI準拠プロトコルのための参照モデルであり、OSIスイート以外はOSIモデルに沿って設計・開発される訳ではない。このため、下の例はあくまで「仮にOSIで言えばどの層に相当すると思われる」程度の参考である。 実際には、一部のプロトコルやサービスは、OSIモデルのどの層に属するかについて、いくつかの異なる見解が存在する。また複数層に跨っている物もある。図示の例はあくまでも一見解に過ぎない。 歴史. 1970年代中ごろ、ネットワーク機器各社独自のネットワークアーキテクチャーが次々に発表され始めた。IBMのSNA、DECのDNA、富士通のFNA、日立製作所のHNA、日本電気(NEC)のDINA、電電公社のDCNAなどである。機器を一つのメーカー製で揃えられるのであれば問題は無いが現実的には難しく、異なる機種同士を接続するための標準化が急がれていた。 ISO(国際標準化機構)の情報処理システム技術委員会は1977年3月にSC 16を設置、OSIの国際標準化を開始する。 しかし、CCITT(国際電信電話諮問委員会)がOSI参照モデル案を参考として独自の検討を開始。CCITTとSC 16での意見のすり合わせを行い、基本的な意見を合意。1982年にトランスポート層の標準、1983年にセッション層の標準の草稿が完成。 1984年、情報処理システム技術委員会はSC 16からSC 21にOSIの標準化を引き継がせ、1985年に応用層の新プロトコルを標準化項目に追加した。 その後、当初の予定では、OSI参照モデルを基に、準拠した通信機器やソフトウェアが開発・製品化していくはずであった。TCP/IPが1990年代中ごろから急速に普及したため、OSI準拠製品は普及しないまま、現在に至る。 回線速度と通信速度. ISDNやADSLやIEEE 802.3などで表記される回線速度は第2層のことであり、例えばファイル転送で計測する通信速度とは異なる。ファイル転送で計測する速度は実アプリケーションから見た速度であって、通常は第3層以上の各種制御情報が付記されるため、回線事業者の謳う回線速度より若干低い値となる。 比喩. 米国では、OSI参照モデルの7階層モデルを拡張して技術的でないことまで指し示してしまう、というジョークもある。良く知られているのは10階層モデルであり、「第8層ユーザ層」「第9層財務層」「第10層政治層」あるいは「第8層お金層」「第9層政治層」「第10層宗教層」などとなっている。 ネットワーク技術者が「第8層問題だよ」と言っていれば、それは「ネットワーク自体には問題は無くて、エンドユーザに問題があるんだよ」という意味である。同様に、財務層に問題があるとはコストの面で問題があるということ。お金で解決できることは決して少なくない。政治層は、社内政治や導入に関連するSI同士の競合によって導入できる技術仕様に制限がかかる、といった状況を指す。宗教層は「信ずるもの」の意味である。導入責任者の技術志向性や信念などに相当する。 OSIモデルをタコベルモデル(7段重ねのブリートで有名)と比喩することもある。 「第0層土建層」(有線ネットワークを敷設する建物の構造)という比喩もある。 OSIモデルを”あぷせとねでぶ”と頭文字を取って学習することがある。
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ISO 9660
ISO 9660:1988は、1988年にISOで標準化されたCD-ROMのファイルシステムである。 (High Sierra Format, HSF) が元になっている。Ecma InternationalのECMA-119に対応する。JISではJIS X 0606に対応する。ISO 9660に準拠することで、様々なオペレーティングシステム (OS) で同じCD-ROMを読み込むことができる。 ファイル名に制限が多かったため、後に様々な拡張フォーマットが登場した。 もともとはCD-ROM用であるが、DVDやBDでも用いられることがある。 水準. ファイル名やディレクトリ名に使える文字は数字、英大文字、“_”(アンダースコア)の37種類(規格ではこの文字群を d文字 または d1文字 と呼ぶ) ファイル名は以下の規則を持つ。 ディレクトリ名は31文字まで ディレクトリは8階層まで 「ファイル名の文字数 + そのファイルに関連するルートディレクトリまでの各親ディレクトリ名の文字数の総和 + 同親ディレクトリの数(ディレクトリ区切り)」は255まで 制限の厳しいシステムとのやり取りの為3つのレベルが規定され、上記に加えて制限がかかる。 ISO 9660:1988/Amd.1:2013. ISO 9660:1988/Amd.1:2013は、ISO 9660規格の最新の追補である。JISでは、ISOより先にJIS X 0606:1998として取り入れられている。 次のような特徴がある。 また、Joliet拡張(後述)と本規格の差異に関する情報がAnnex B.2に追加されている。 拡張規格. El Torito. El Toritoは、1995年にIBMとが提唱した規格である。CD-ROM上からのブートがサポートされている。 El Toritoの名は、日本でもつくば市・東京都などで展開しているココス系列のメキシカンレストランエルトリートから取られている。 Rock Ridge. Rock Ridge(ロックリッジ)は、IEEEによってIEEE P1282として制定されたISO 9660の拡張規格である。おもにUnix系OSで利用される。 次の機能をサポートしている。 ISO 9660と上位互換であり、Rock Ridgeを利用できないシステムでもISO 9660 Level 1として読み込めるようになっている。 Joliet. Joliet(ジョリエット)は、マイクロソフトが設計したISO 9660の拡張規格である。 次の機能をサポートしている。 ISO 9660と上位互換であり、Jolietを利用できないシステムでもISO 9660 Level 1として読み込めるようになっている。Windows 95から現在に至るまでのWindowsやその他のOSでもサポートされている。UCS-2の利用により、仮名や漢字、アラビア文字なども使用することができる。 Apple ISO 9660 Extensions. Apple ISO 9660 Extensionsは、AppleがISO 9660を拡張するために設計されたいくつかの規格である。CD-ROM上でのHFS (HFS+) を利用出来るように設計されてあるものもあり、HFSのメリットを利用することができる。 ほぼClassic Mac OSおよびmacOS専用の拡張規格であり、利用できないシステムではISO 9660 Level 2として読み込めるようになっている。 Romeo. Romeoは、アダプテックが設計したISO 9660の拡張規格である。 次の機能をサポートしている。 ISO 9660のディスクフォーマットを拡張しており、ISO 9660との互換性は無い。 規格の逸脱. 他の拡張規格のように規格化されたものではないが、多くのOSの実装において多少の規格違反は許容されており、それを逆手に取った意図的な規格違反をすることでISO 9660の厳しい制限を回避することができる。しかし互換性は下がることになる。 以下のようなものが存在する。
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白倉由美
白倉 由美(しらくら ゆみ、1965年3月8日 - )は、日本の小説家、漫画家、ラジオ番組などのプロデューサー。千葉県出身。武蔵野女子大学文学部日本語・日本文学科卒業。夫は作家、漫画原作者の大塚英志。作品によっていくつかのペンネームが存在する。 漫画家としての経歴. 漫画家時代. その後は小説『夢から、さめない』に漫画を描き下ろしたり、2001年に復刊された『白倉由美コレクション1 セーラー服物語』にて単行本未収録だった『短距離走者』を新たに書き下している。 漫画作品の復刊. 白倉由美は『グレーテルの記憶』の執筆を開始する前後に、自身の単行本を全て絶版にした。しかし、1996年にリーディングストーリィ『東京星に、いこう』のCD発売を契機に、少しずつ自身の作品を出版社は変えつつ復刊している。 プロデューサーとして. ラジオ番組の内容. 1995年10月、マダラプロジェクト(後の大塚英志事務所/物語環境開発)制作のラジオ番組「マダラプロジェクトアワー」がTBSラジオより放送を開始し、白倉はそのプロデューサーを務める。 番組終了後. 白倉がプロデュースしたCDは発売後ほとんどが廃盤となっていたが、2003年12月より『白倉由美ベストセレクションシリーズ』として復刻し始めている。2005年8月現在までに復活したのは、リーディングストーリー『東京星に、いこう』、音楽CD(白倉のラジオ番組のパーソナリティ、または一般の声優によるヴォーカル)である。また、併せて新作『グレーテルの記憶』も発売されている。 白倉は2004年に武蔵野大学を卒業し、2005年7月3日より始まったラジオ関西の「改め!ラジオ新現実」にて、再びリーディングストーリーを始めた。番組は同年12月25日に終了した。 小説家として. 白倉は元々大の文学好きで、文学者への憧れが昔からあったらしい。既に漫画家時代から大江健三郎などの小説家の影響が随所に見受けられた。1989年には既に『卒業、最後のセーラー服。』の3巻で『今はもう、いない』という、夕やけニャンニャンを題材にした短編小説を掲載していた。 2002年に創刊された、大塚英志が編集を務める思想誌『新現実』(角川書店)より『しっぽでごめんね』の連載を始めた。また2004年に『新現実』の姉妹誌として漫画専門誌『Comic 新現実』が創刊されると、同時に『しっぽでごめんね』の連載も移行した。同誌では新作『海の境界』も執筆している。 作品リスト. 漫画・画集. (絶版となった後で復刊された作品は、復刊された方のみ記述)
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ダイヤモンド
ダイヤモンド( )は、炭素のみからなる鉱物。炭素の同素体の一種でもある。モース硬度は10であり、鉱物中で最大の値を示す。一般的に無色透明で美しい光沢をもつ。ダイヤとも略される。和名は「金剛石(こんごうせき)」。 概要. 採掘によって得られるもの(「天然ダイヤモンド」)と、合成によって得られるもの(「合成ダイヤモンド」)がある。 ダイヤモンドの結晶は、等軸晶系であり、多くが八面体や十二面体をしている。地球内部の非常に高温高圧な環境で生成されるダイヤモンドは定まった形では産出されず、必ずしも角張っているわけではない。 炭素の同素体にはダイヤモンド、グラファイト(黒鉛)、フラーレンなどがあり、それぞれ結合に使われている価電子の数が異なっている。その中でダイヤモンドはと呼ばれる、炭素Cの価電子4個が全て結合に使われている構造の物質である。 性質. 屈折率. ダイヤモンドの屈折率は2.42と高く、内部での全反射が起こりやすい。またダイヤモンドのカットとしてよく用いられるブリリアントカットでは、光を当ててその反射を見る時、次の3種類の輝きの相乗効果となり、美しく見える。 硬度、割れる性質、安定性. ダイヤモンドの硬さは古くからよく知られ、工業的にも研磨や切削など多くの用途に利用されている。ダイヤモンドは「天然の物質の中」では最高クラスのモース硬度(摩擦やひっかき傷に対する強さ)10、ヌープ硬度でも飛び抜けて硬いことが知られている。ビッカース硬度は種類によって異なり、70 – 150 GPaである。ただし、ダイヤモンドより硬い物質はいくつか知られている。他の宝石や貴金属類と触れ合うような状態で持ち運んでいると、それらを傷つけてしまう事があるので配慮が必要となる。 宝石の耐久性の表し方は他にも靱性という割れや欠けに対する抵抗力などがある。靱性は水晶と同じ7.5であり、ルビーやサファイアの8よりも低い。ダイヤモンドの靱性は大きくないので、瞬時に与えられる力に対しては弱く、金鎚(ハンマー)で上から叩けば粉々に割れてしまう。 ここで言う安定性とは薬品や光線などによる変化に対する強さの事である。ダイヤモンドは硫酸や塩酸などにも変化せず、日光に長年さらされても変化は起きない。熱力学的には25 、105 Paの下でエンタルピーで1.895 kJ/mol、ギブス自由エネルギーで2.900 kJ/molそれぞれグラファイトより高く不安定であり、27 では約15,000気圧以上の高圧下で安定となる。ただし常温常圧において相互の転移速度は観測不能であるほど充分に遅く、常温常圧では準安定状態とされる。 また、3次元性の結晶構造なのでグラファイトなどに備わっている自己潤滑性はない。 ダイヤモンドより硬い物質. ダイヤモンドの炭素原子が一部窒素原子に置換された立方晶窒化炭素は、ダイヤモンド以上の硬度を持つ可能性があると予測されている。さらに、六方晶ダイヤモンドとの別名を持つロンズデーライトは、ダイヤモンドよりも58 %高い硬度を持つことが計算により予想されている。人工素材と含めると、2009年時点で存在するダイヤモンドより硬い物質は、ハイパーダイヤモンドで市販の多結晶質ダイヤモンドの3倍程度の硬さ。また同程度の硬さの物質は超硬度ナノチューブがある。 硬い理由. ダイヤモンドの硬さは、炭素原子同士が作る共有結合に由来する。ダイヤモンドでは1つの炭素原子が正四面体の中心にあるとすると、最近接の炭素原子はその四面体の頂点上に存在する。頂点上の炭素原子それぞれがsp3混成軌道によって結合しており、幾何的に理想的な角度であるため全く歪みが無い。その結合長は0.154 nmである。この結晶構造を持つダイヤを立方晶ダイヤとよぶ。一方で、炭素の同素体であるグラファイト(石墨)は、層状の六方晶構造で、層内の炭素同士の結合はsp2混成軌道を形成している。この層内では共有結合を有し結合力は比較的強いが、層間はファンデルワールス結合であるため弱い。六方晶の構造を持つダイヤ(ロンズデーライト)も存在するが、不安定で地球上には隕石痕など非常に限られた場所でしかみつかっておらず、0.1 mmを超える大きさの単結晶は存在しない。純粋なものはダイヤモンドよりも硬いことが予想されるが、その性質はまだ分かっていないことも多い。 劈開性. ダイヤモンドには一定の面に沿って割れやすい性質(劈開性)がある(4方向に完全)。ダイヤモンドは、普通の物質や道具では傷つけられないと思われているが、「結晶方向に対する角度を考慮して瞬間的に大きな力を加える」「燃焼などの化学反応を人為的に促進する」などの方法で容易に壊すことができる。また傷があれば、カッターナイフを当てて軽く手で叩くだけで割れてしまう(ダイヤの原石のカットはこの手法で行われる)。 熱伝導. ダイヤモンドは熱伝導性が非常に高い。これは原子の熱振動がフォノンとなって結晶中を伝わりやすいことによる。触ると冷たく感じるのはこのためである。ダイヤモンドテスターはこの性質を利用して考案され、ダイヤモンドの類似石から識別できる道具だが、合成モアッサナイトだけは識別できない。12Cと13Cではフォノンの振動数が異なり混在はフォノンを散乱させて熱伝導の妨げとなるため、12Cだけで合成された人工ダイヤモンドは天然ダイヤモンドより熱伝導が高くなる。 CVD人工ダイヤモンドの薄板を手で持って氷を切ると、すぱすぱと切れる。それほどダイヤモンドが熱伝導性に優れるという。 電気伝導. バンドギャップは室温で5.47 eVであり、真性半導体として絶縁体だが、不純物を添加することによる不純物半導体化の試みがなされ、ホウ素添加によりp形、リン添加によりn形が得られている。その物性により、現在よりもはるかに高周波・高出力で動作する半導体素子や、バンドギャップを反映した深紫外線LEDが実現できるのではないかと期待されてきた。現在、自由励起子による波長235 nmの発光がダイヤモンドpn接合LEDにより、物質・材料研究機構と産業技術総合研究所から報告されている。バンドギャップの温度依存性については報告があるが、半経験則による計算式で用いられているデバイ温度については、負の値があてがわれたり、式自体を意味のあるデバイ温度を用いるために修正したりして報告されており、未解決になっている。p形半導体ダイヤモンドでは、ホウ素添加濃度が1021 cm−3以上で極低温で超伝導となることが報告され、半導体による超伝導現象として現在盛んに研究されている。また、1019 cm−3以上では電気伝導がバンド伝導からホッピング伝導、そして濃度の上昇とともに活性化エネルギーがほとんどない金属的伝導になることが知られている。この不純物濃度と不純物準位との相関についても、不純物バンドやモットの金属・非金属転移と絡めて研究が進んでいる。このような半導体としての基礎的な議論が可能となってきた現在のダイヤモンドの半導体としての品質はシリコンと互角であると言えるが、制御性は今後の研究開発がさらに必要である。 親油性. ダイヤモンドは油になじみやすい性質(親油性)があり、この性質を利用してダイヤモンド原石とそうでないものを分ける作業もある。ジュエリーとして身に付けているうちに皮脂などの汚れがつくと、油の膜によって光がダイヤモンド内部に入らなくなり、輝きが鈍くなる。中性洗剤や洗顔料などで洗うと油が取れて、輝きが戻る。逆に水には全くなじまず、はじいてしまう。 カラーダイヤモンド. ダイヤモンドは無色透明のものよりも、黄色みを帯びたものや褐色の場合が多い。結晶構造の歪みや、窒素 (N)、ホウ素 (B) などの元素によって着色する場合もある。無色透明のものほど価値が高く、黄色や茶色など色のついたものは価値が落ちるとされるが、や、、グリーン などは稀少であり、無色のものよりも高価で取引される(緑はドレスデン・グリーンのように、放射線を長期にわたって受けたためである事が分かっている。ピンクは結晶構造のひずみによる)。また、低級とされるイエロー・ダイヤモンドでも、綺麗な黄色(カナリー・イエローと呼ばれる物など)であれば価値が高い。2010年に南アフリカで発見され、『サンドロップ (Sun-Drop)』と名付けられた110.03カラットのイエロー・ダイヤモンドに、サザビーズは「セイヨウナシの形をしており、装飾的で、光り輝くイエローダイヤとしては世界最大」と賞賛、最も希少で最も魅力的な「ファンシー・イエロー」の鑑定書を付けた。このダイヤは2011年11月、ジュネーブで行なわれた競売において、1000万スイス・フラン(約8億4000万円)で落札された。 20世紀末頃から、内包するグラファイトなどにより黒色不透明となったブラック・ダイヤモンド(ボルツ・ダイヤモンドとも呼ばれる)がアクセサリーとして評価され、高級宝飾店ティファニーなどの宝飾品に使用されている。 放射線処理により青や黒い色をつけた処理石も多い。最近ではアップルグリーン色のダイヤもあるがこれも高温高圧によって着色された処理石である。また、無色の(目立った色のない)ダイヤモンドに別の物質を蒸着することでコーティング処理した、安価な処理石もある。 天然ダイヤモンド. 採掘によって産出されるダイヤモンド。 産出地と地質構造. ダイヤモンドはマントル起源の火成岩であるキンバーライトに含まれる。キンバーライトの貫入とともにマントルにおける高温・高圧状態の炭素(ダイヤモンド)が地表近くまで一気に移動することでグラファイトへの相転移を起こさなかったと考えられている。このため、ダイヤモンドの産出地はキンバーライトの認められる地域、すなわち安定陸塊に偏っている。 ダイヤモンドの母岩であるキンバーライトは古い地質構造が保存されている場所にしか存在せず、地質構造の新しい日本においてダイヤモンドは産出されないというのが定説とされてきた。しかし2007年、1μm程度の極めて微小な結晶が日本の愛媛県四国中央市産出のかんらん岩から発見された。 産出量. 2004年時点の総産出量は1億5600万カラット(以下、USGS Minerals Yearbook 2004)であった。国別の生産量(単位カラット)を以下に示す(カラットは宝石の質量を表すのに良く用いられる単位で、1カラットは0.2グラムに等しい)。 上位6カ国、すなわちロシア (22.8 %)、ボツワナ (19.9 %)、コンゴ民主共和国 (18.0 %)、オーストラリア (13.2 %)、南アフリカ共和国 (9.3 %)、カナダ (8.1 %) だけで、世界シェアの90 %を占める。 採掘. ダイヤモンドの採掘は、古くは鉱床の近くの河原などの二次鉱床で母岩から流れ出した鉱石を探し出す方式が主流であった。1867年にオレンジ自由国と英領ケープ植民地との国境付近でダイヤモンドが発見され、その東隣にダイヤモンドの鉱床たる母岩があると地質学者が突き止めたことで方式が変わった。その母岩のある地域はキンバリーと名付けられ、母岩を粉砕して大量の岩石を処理し、その中からダイヤモンドの鉱石を探し出す方式が以後主流となった。キンバリーの最初の鉱床には、現在ビッグ・ホールと呼ばれる大穴が開いており、観光地となっている。このキンバリーの鉱床の中からデ・ビアス社が産声を上げ、ダイヤモンドの世界市場を支配することとなった。1967年には独立したばかりのボツワナ共和国北部のオラパ鉱山において大鉱床が発見され、その後も次々と鉱床が発見されたことでボツワナが世界2位のダイヤモンド生産国となり、その利益によってボツワナは「アフリカの奇跡」と呼ばれる経済成長を遂げることに成功した。 合成ダイヤモンド. 19世紀末のアンリ・モアッサンの実験など、ダイヤモンドを人工的に作ることは古くから試みられてきたが、実際に成功したのは20世紀後半になってからである。1955年3月に米国のゼネラルエレクトリック社(現ダイヤモンド・イノベーションズ社)が高温高圧合成により初めてダイヤモンド合成に成功した。上述の発表後、スウェーデンのASEA社がゼネラル・エレクトリック社よりも数年前にダイヤモンド合成に成功していたという発表がされたが、ASEA社では宝飾用ダイヤモンドの合成を狙っていたため、ダイヤモンドの小さな粒子が合成されていたことに気づいていなかった。現在では、ダイヤモンドを人工的に作成する方法は複数が存在する。 製造方法. 高温高圧法. 高温高圧法(High Pressure High Temperature, HPHT。静的高温高圧法と動的高圧高温法がある)は、炭素に1200 – 2400 、55,000 – 100,000気圧の高温高圧をかけてダイヤモンドを合成する。静的高温高圧法では、鉄、ニッケル、マンガン、コバルト、塩化ナトリウムなどの触媒や窒素などの不純物 の混入などで黄、緑、黒やこれらの混合した色等の結晶として生成され、主に工業用ダイヤモンドとして研磨や切削加工(ルータービットやヤスリ、ガラス切り)に利用されている。高温高圧法は1日程度の加圧加温で合成されるが、1週間程度に加圧加温を延長して結晶の成長を促せば、宝飾品レベルのダイヤモンドは人工的に合成可能である。技術的な面では何も問題は無く、単純な採算性の問題となっている。 化学気相成長法. 大気圧近傍で合成が可能な化学気相成長法(Chemical Vapor Deposition, CVD。熱CVD法、プラズマCVD法、光CVD法、燃焼炎法などがある)によりプラズマ状にしたガス(例えば、メタンと水素を混合させたもの、その他にメタン-酸素やアセチレン-酸素などがある)から結晶を基板上で成長させる方法などが知られている。化学気相成長法(CVD法)によって0.1 – 10 μm/hという低速度での人工ダイヤモンド合成が1990年代に行なわれていたが、1999年頃に米カーネギー研究所が開発した、窒素を加える方法で150 μm/hの速度になってからは、ボストンのアポロ社で宝飾用のダイヤモンドを製造して販売している。紫外線によるオレンジ色の発光や、レーザーを使用したフォトルミネッセンスによるCVD独特の吸収線、カソードルミネッセンスにおける成長模様などによってCVDと天然ダイヤモンドの違いが検出できるようになってきている。プラズマCVDなどの気相合成法により他物質へのダイヤモンドのコーティングは可能であり、一部のドリルや音響機器で実用化されている。 用途. 工業用途. 上述の高温高圧合成などによって合成された工業用ダイヤモンドはもはや高価な材料ではない。工業用ダイヤモンドにも多種あるが、金の10分の1程度の価格で取引されているものが多い。ダイヤモンドを工業用途として使用する最大の特徴はその硬さである。工業用ダイヤモンドや宝飾用途に適さない色の天然の結晶を用いることで、電子材料、超硬合金、セラミック・アルミニウム系合金・ガラスなどの高硬度材料・難削材料の研削(ダイヤモンドカッター)・研磨(ダイヤモンドやすり、ダイヤモンドペースト)をはじめとして、切削用バイト、木材加工などオールラウンドな加工が可能である。 工業用ダイヤモンドには用途により、数ナノメートルから数ミリメートルまでの粒径、形状、破砕性、表面状態などによる多くの品種がある。また、前述のバイトは超硬合金を基板にダイヤモンドをコバルトなどと共に焼結することによって得られるダイヤモンド焼結体を指すこともある。しかしながら、ダイヤモンドは高温下で鉄 (Fe)、コバルト (Co)、ニッケル (Ni) と容易に化学反応を起こす、などの性質のために、鋼など鉄基合金や耐熱合金の切削には適さない。ダイヤモンドが使用できない分野では、代わりに立方晶窒化ホウ素 (cubic Boron Nitride, cBN) の焼結体(「ボラゾン」)を用いる。 半導体. 大部分のダイヤモンドは不導体であるが、ホウ素が微量含まれたIIb型のダイヤモンド結晶はp型半導体の特性を持ち、燐が微量含まれるとn型半導体となる。これらを使用したMES(金属-半導体結合)型やMIS(金属-半導体の間に絶縁体を挟む結合)型のFET(電界効果トランジスタ)半導体素子が研究されている。 窒化ケイ素の基板上に微量ホウ素を含むp型半導体のダイヤモンドを作ると、−70 – 600 の広い温度範囲に対して直線的に抵抗値が変化する高精度の温度センサーができる。これは圧力センサーとしての利用も検討されている。 ダイヤモンドアンビルセル. ダイヤモンドアンビルセル (diamond anvil cell, DAC) は、天然または人工合成のダイヤモンドを使って超高圧を実現するための機械。小さなダイヤモンドを2つ用意し、その間に試料を挟み込んで圧縮する。小型(手のひらサイズ)で透明(リアルタイムで光学的な観測が可能)であり、サブテラパスカル(数百万気圧、数百GPa)までの加圧が可能である。鉱物学や物性物理学などで用いられる。一方、ダイヤモンドそのものが大型化できないので、試料は大変小さなものにしなければならない。ダイヤモンド以外に、サファイヤ、炭化ケイ素を使ったアンビルセルもあるが、加圧できる圧力はダイヤモンドよりも劣る。なお、アンビルとは金床のことである。 音響機器. レコードプレーヤーのレコード針に使われる他、スピーカーの高域ユニットの振動板としても使用される。チタンなどの軽金属で形成されたベースに化学気相成長法でダイヤモンドをコーティングした製品が多い。樹脂のベースに厚くダイヤ皮膜を形成し、その後ベースを熔解除去し、ダイヤモンドだけで形成される振動板も登場した。 宝石用の人工ダイヤモンド. 宝石用の人工ダイヤモンドも製造可能である。天然では貴重なカラーダイヤモンドも作製可能であるが、その鑑定書を作成する公的機関では、決められた手順に沿って評価され、その過程で天然・人工の区別も行われている。評価方法は、目視・顕微鏡観察から、赤外線および紫外線の吸収・反射・透過による測定、レーザーによるフォトルミネッセンス、ラマン分光法、電気伝導度測定などあらゆる角度で進められる。 天然ダイヤモンドを取扱う業界にとって、合成ダイヤモンドの宝石市場への進出は脅威になりつつある。天然ダイヤの流通企業らは、彼らが取得した全ての特許情報を開示し、宝石にシリアルナンバーをレーザーで刻む方法を行った。米国フロリダ州に本社を置くジェムシス社の公式サイトには、シリアルナンバー付きの宝石が紹介され、これらには "Gemesis created" とシリアルナンバーの前に "LG ("Laboratory grown")" という文字を付け加えている。 2012年3月時点、ジェムシス社は自社が開発した1.0 - 1.5カラットの無色や黄色の合成ダイヤモンド宝石を販売し、合成ダイヤモンドアクセサリーは、天然ダイヤモンドよりも低価格でウェブサイトで一般向けに販売している。 2018年、世界的ダイヤ大手企業のデビアスが合成ダイヤモンド専門ブランドを立ち上げた。合成ダイヤモンドの独自ブランドを設けた日本企業もある。価格が安いことと、紛争とは無縁であることが利点として挙げられる一方、天然ダイヤモンドと誤認して売買されるトラブルが起きている。日本ジュエリー協会は、希少性がないという理由で「宝石」と看做すことに否定的である。 宝飾用ダイヤモンド. 4C. ダイヤモンドの品質を知るための指標としてGIA(アメリカ宝石学協会)が考案したもの。色(Color)、透明度(Clarity(クラリティ))、重さ(Carat(カラット))、研磨(Cut)()によって品質を評価する。ラウンドブリリアントカット(58面体)に対してカット評価がされるので、他のカットの場合、カットの種類しか鑑定書に記載されない。詳しくは4Cを参照。 近年はダイヤモンド自体のスペックを測る4Cではなく、見た目の美しさによって価値を見出す指標を考えるなど、その存在価値が見直されている。(例:O.E.カット、Crown-K-Cut) メレダイヤモンド. 0.17カラット以下の小粒なダイヤモンド。宝飾品においては中石を引き立てるために周囲に散りばめられるなどの利用をされる。 有名なダイヤモンド. カリナンは1905年に南アフリカで発見され、カット前の原石は3106カラットもあり、これをカットすることで合計1063カラットの105個の宝石が得られた。これらは当時のイギリス国王であるエドワード7世に献上されている。105個のなかで最大のカリナンIは530.20カラットで「偉大なアフリカの星 (The Great Star of Africa)」の別名を持ち、カットされたダイヤモンドとしては長らく世界最大の大きさを誇っていた。カリナンIはロンドン塔内に展示されており、見学することができる。 現在、世界最大の研磨済みダイヤモンドは、ザ・ゴールデン・ジュビリーである。この石は545.67カラットあり、国王ラーマ9世の治世50周年を記念して1997年にタイ王室に献上された。 その他、写真に示す有名なダイヤモンドについて記す。 さらには有名な宝石の一覧#ダイヤモンドも参照。 紛争ダイヤモンド. 紛争ダイヤモンドは、紛争地で採掘され密売されるダイヤモンド。1990年代に冷戦構造の崩壊とともに各地の反政府組織への東西両陣営からの武器援助が途絶え、新たな財源を求めた反政府組織がダイヤモンド利権に目を付けたことから大きな問題となった。反政府組織の財源となり紛争の拡大、長期化の原因となる。シエラレオネ、リベリア、アンゴラ、コンゴ民主共和国などで採掘されたものが特に問題となった。これらの国で悲惨な内戦が激化するにしたがって国際的に取引を禁止する動きが起き、1998年のアンゴラからのダイヤモンド輸出を禁じる国連決議などを受け、2000年7月19日にはアントウェルペンで開催された世界ダイヤモンド会議によってダイヤモンド輸出入の認証制度が提案され、2001年1月17日から1月18日にはそのための新組織ワールド・ダイヤモンド・カウンシルが結成された。そして、2002年11月に、紛争地からのダイヤモンド輸出入の禁止を目的としたキンバリープロセス認証制度が制定された。 模造ダイヤモンド. 宝飾用のダイヤモンドの代用品(イミテーション)としては、ジルコニア(二酸化ジルコニウムの結晶)やガラスが用いられる。ダイヤモンドとそのイミテーション、模造ダイヤモンドの見分け方として、フェルトペンで結晶の上に線を書くというものがある。ダイヤモンドは親油性の物体であり、油脂を弾かない。一方、ジルコニアなどのイミテーションや模造ダイヤモンドは油を弾く性質を持っている。したがって、油性フェルトペンの筆跡が残らなければ偽物だと見分けることができる。その他の方法としてはラインテストがある。黒い線の上にダイヤモンドをテーブル面を下にして乗せると、下の黒い線は見えないが、キュービックジルコニアでは下の黒い線が透けて見える。また、本物のダイヤより硬度に劣るため磨耗しやすい。宝石商などがルーペでダイヤを見て真贋を判定するシーンが映画、ドラマ等でよく見られるが、あれはカットされた角の磨耗を見ており、本物のダイヤは当然磨耗で角が丸まることがない。 また水晶などダイヤモンドとは全く組成が異なる鉱物を指して「○○ダイヤモンド」(○○には産地名などが入る)などと呼ぶことがある。こうした名称はフォールス・ネーム (false name) またはフェイク・ジェムストーン (fake gemstone) といい、販売業者が値を吊り上げるなど、手前の都合良いよう勝手にこじつけただけのものである。紛らわしいので、現在はまともな宝石店、ジュエリー・ショップではその使用を避けている。 ナノダイヤモンド. 化粧品・口腔内用品での利用. ナノダイヤモンド(ND)は毒性がないので化粧品、口腔内用品に利用可能である。例えばローション、フェイスマスク、乳液、シャンプー、保湿クリーム、歯磨き粉、マウスウォッシュ液、皮膚の老廃細胞削剥、皮膚接合用テープ等。 比喩. ダイヤモンドは、その堅さと煌びやかさから、「貴重なもの」「高価なもの」「お金になるもの」の比喩としてよく使われる。また、色を冠して特定の商品を表すこともある。「野球場のダイヤモンド」など、単に菱形の物に対しても使われる。 記念祭では、60周年または75周年のシンボルをダイヤモンドとする。例えば、「ダイヤモンド婚式」は結婚60周年、「ダイヤモンド・ジュビリー」は60周年または75周年の記念祭を意味する語である。
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Hypertext Transfer Protocol
Hypertext Transfer Protocol(ハイパーテキスト・トランスファー・プロトコル、HTTP)はアプリ間コネクション上のリクエスト/レスポンス型・ステートレス・メッセージ指向通信プロトコルである。 概要. TCPやQUICはアプリケーション間のコネクション型通信を提供する。HTTPはこのコネクション上を、リソース要望と返答が、メッセージ単位で、1往復のクライアントリクエスト&サーバーレスポンスという形で通信される、と定めたプロトコルである。 HTTPの発明により、インターネット上でのリソース公開とアクセスが容易になった。クライアントがサーバーとコネクションを確立し1つのHTTPメッセージを書いて送るだけで、サーバー上のリソースがHTTPメッセージとして帰ってくる。ゆえにHTTPで公開されるあらゆるリソースにHTTPという単一の手法でアクセスできるようになった。 HTTPを開発した理由でありかつ現在も広く利用される用途はWorld Wide Webである。WebサーバとWebブラウザはHTTPで主に通信しており、ブラウザからのHTTPメッセージに応答してサーバーがHTMLテキストやJavaScriptコードを送り返し、これをブラウザで表示することでウェブが成立している。 またHTTPはメッセージ形式を定める。基本的な考え方は単純で「何を」「どうして」欲しいのかを伝える。例えばリクエストメッセージ codice_1 は「apple.jpg 画像を、手に入れたい」を意味する。URLが「何を」に、メソッドが「どうして」に当たる。 World Wide WebにおけるWebページなどのリソースは、Uniform Resource Identifierによって指定される。HTTP を使用してリソースにアクセスするときは、http: が先頭についた URL を使用する。下にURL の例を挙げる。 http://www.example.co.jp/~test/samples/index.html 最初の HTTP/0.9 ではURLを指定してコンテントをダウンロードするのみの簡単なやりとりだったが、HTTP/1.0 で改良された。 HTTP/1.1 では複数データを効率よく転送するための持続的接続や、プロキシの利用なども想定した仕様になった。さらに HTTP/2やHTTP/3が策定された。現在ではHTTPセマンティクスと各バージョンの手続きが分離して定義されている(#規格を参照)。 このほかの点を箇条書きで示す。 歴史. イギリスの物理学者ティム・バーナーズ=リーは1990年末、ロバート・カイリューと共に初のWebブラウザとWebサーバを作成した。ブラウザには通信をするためのプロトコルが必要だったので、二人はHTTPの最初期のバージョンを設計した。 以来インターネットの大部分をHTTP通信が占めるようになり、1998年にはインターネット上の通信の75%がHTTPによるものになった。 最初期のHTTP/0.9の仕様書は紙に印刷すれば1枚で済むような非常に簡素なドキュメントだったが、2度のバージョンアップを経たHTTP/1.1の仕様書は実に176ページ近くの分量に膨れあがった。 HTTP/0.9. 1991年に最初にドキュメント化されたバージョン。メソッドは GET しかなかった。レスポンスは単純にドキュメントの内容を返してコネクションを切断するだけで、レスポンスコードの規定もない。下記は、HTTP/0.9 のリクエストの例。 GET /index.html HTTP/1.0. 1996年5月に RFC 1945 として発表された。仕様が RFC で扱われるようになった。メソッドに POST など GET 以外のものが増えた。レスポンスはヘッダーがつくようになり、ステータスコードを含めるようになった。HTTP/0.9 と区別するため、リクエストプロトコルにバージョンを含めることになった。 HTTP/2. HTTP/2の目標はHTTP/1.1のトランザクション・セマンティクスとの完全な後方互換性を維持したまま非同期な接続の多重化、ヘッダ圧縮、リクエストとレスポンスのパイプライン化を実現することである。Googleによって立ち上げられ、GoogleのブラウザーであるChromeだけではなく、他にも、Opera、Firefox、Amazon Silkなどが対応しているHTTP互換のプロトコルSPDYの人気が高まっていることに対応するために開発された。 HTTP/3. HTTP-over-QUIC(hq)としてIETFが開発していた新たな通信プロトコルが、HTTP/3へと改名される。 IETFが策定を進めているQUICはトランスポート層におけるプロトコルの名称であり、アプリケーション層プロトコルであるHTTP-over-QUICとの区別を明確にするため、このような名称変更に至った。 HTTP/2と比べ、多重化するストリームの取り扱いが下位層のQUICへ移行したこと、を回避するためのヘッダ圧縮の変更(HTTP/3用にQPACKが開発されている)などの差異がある。 動作. 通信の開始. 他のプロトコル同様、クライアント側とサーバ側では役割が大きく異なる。HTTP通信を開始できるのはクライアント側のみである。 クライアント側がサーバにリクエストを送り、サーバがクライアントにレスポンスを返すのが最も典型的なHTTPのやりとりである。 接続. システム間でメッセージをやりとりするには接続を確立させる必要がある。HTTP/0.9~HTTP/1.1およびHTTP/2ではTCPを使用する。 HTTP/0.9ではクライアントのリクエストごとにTCP接続を確立させる必要があった。これは当時のWebサイトがシンプルなテキストベースであることが多かったためである。近年ではJavaScriptやアニメーション画像など、多数のオブジェクトが埋め込まれたWebサイトが一般的となってきており、これらのオブジェクトを取得するたびにTCP接続を確立するのはサーバやネットワークに大きな負担を強いるため、1回のTCP接続で、複数のHTTPリクエスト・レスポンスをやり取りする持続的接続がHTTP/1.0の拡張として導入された。その後、HTTP/1.1では、持続的接続がデフォルトとなった。すなわち、何も指定しなければ持続的接続となり、持続的接続を望まなければヘッダーフィールドにConnection: closeを追加する仕様となっている。 パイプライン. クライアントは前のリクエストに対するサーバの応答を待たずに別のリクエストを発行できる。 リクエストメソッド. HTTPでは8つのメソッドが定義されている。ただし、実際のHTTP通信ではGETとPOSTメソッドが大部分を占める。 HTTPの仕様以外で定義しているメソッドは、IANAのHypertext Transfer Protocol (HTTP) Method Registryで管理されている。WebDavで使用するものや、 RFC 5789 のなどがある。 サーバの連携. バーチャルホスト. 1つのサーバーで複数のホスト名に対するHTTPリクエストを受け付ける機能である。 インターネット人気に伴い多くの企業がWebサイトを持ち始めたが、当時はまだまだ企業が自前のWebサーバを運用するのは人員、効率の問題で難しく、ISPのサーバでホスティングをしていた。また、1社ごとに専用サーバを用意するほどのことでもないため、1台のサーバで複数のWebサイトを運用していた。 しかし、IPアドレスのみで相手を特定するHTTP/1.0はこれに対応できなかった。例えば、ある1台のサーバに foo.example.com と bar.example.com という2つの仮想Webサーバがあり、クライアントは http://foo.example.com/index.html にアクセスしたいとする。この場合はDNSサーバに foo.example.com のIPアドレスを問い合わせ、次にそのIPアドレスを使って該当サーバにアクセスし、GET index.html を要求することになる。しかし同じサーバ上にある bar.example.comもIPアドレスは同じであり、もし両方の仮想サーバに index.html というファイルが存在すれば、クライアントがどちらにアクセスしようとしているのか、判別できない。 対策としてはそれぞれにIPアドレスを付与する方法もあるが、IPv4の資源を無駄にすることになる。この問題を解決するため、HTTP/1.1でHostヘッダーフィールドが追加され、名前ベースバーチャルホストが用いられるようになった。 名前ベースバーチャルホストのため、以下のようにHTTPリクエストでホスト名を指定する。 リダイレクト. 別のURIに対して再度のメソッド実行を要求する機能である。301 Movedや303 See Otherなどのリダイレクトを指示するステータスコードとURIを受け取り、クライアントはこのURIに再度メソッドを実行する。 HTTPメッセージ. リクエストとレスポンスでやり取りされるデータは、HTTPメッセージと呼ばれる。クライアントからリクエストHTTPメッセージを送り、サーバーからレスポンスHTTPメッセージを返す。 HTTPメッセージは以下で構成される。 なおHTTP/1.1では、コントロールデータをリクエスト行・ステータス行として表現し、コンテントを格納する部分をメッセージボディまたは単にボディと呼ぶ。 ヘッダー・コンテント・トレイラーは空となる場合もある。 下にもっとも単純なクライアントとサーバ(www.google.co.jp:80)とのやり取りの例を挙げる。 クライアントのリクエスト: GET / HTTP/1.1 Host: www.google.co.jp この例では、リクエスト行とヘッダーにフィールドが1項目あるのみで、ボディは空でトレーラーも無い。 リクエスト行はメソッド、リクエストターゲット、HTTPバージョンの3つの要素から構成され、それぞれスペースで区切られる。 メソッドはcodice_2、リクエストターゲットは「/」、HTTPバージョンは1.1である。 codice_2はリソースを取得するためのメソッドであり、リクエストターゲットの「/」はURIのパス部分であってルートリソースを対象にしたリクエストであることを示している。 サーバのレスポンス: HTTP/1.1 200 OK Cache-Control: private Content-Type: text/html Set-Cookie: PREF=ID=72c1ca72230dea65:LD=ja:TM=1113132863:LM=1113132863:S=nNO7MIp W2o7Cqeu_; expires=Sun, 17-Jan-2038 19:14:07 GMT; path=/; domain=.google.co.jp Server: GWS/2.1 Date: Sun, 10 Apr 2005 11:34:23 GMT Connection: Close <html><head><meta http-equiv="content-type" content="text/html; charset=Shift_JI S"><title>Google</title><style><!--  ……以下省略 --> 先頭のステータス行はHTTPバージョン、ステータスコード、ステータスメッセージから構成される。 ステータスコードの「200」は処理の成功を表し、これを補足するメッセージが「OK」である。 2行目以降にヘッダフィールドが続く。 さらに空行を挟んで、レスポンスボディとなる。 このレスポンスにもトレーラーは無い。 HTTPヘッダフィールド. ヘッダの各要素はのペアで構成される。 ブラウザの情報を表すcodice_4、使用候補言語を表すcodice_5、他ページへのリンクを辿った場合にそのリンク元ページのURLを表すcodice_6などが代表的なフィールドである。 なお、リクエスト時のcodice_7ヘッダはHTTP/1.1では必須であるが、HTTP/1.0ではなくてもよい。 ただし、サーバがバーチャルホストを利用している場合は、codice_7ヘッダがないとリソース取得に失敗するので、たとえHTTP/1.0を使用していてもcodice_7ヘッダを付加しなければならない。 HTTPヘッダフィールドの一覧. Accept: text/plain; q=0.5, text/html, text/x-dvi; q=0.8, text/x-c HTTPステータスコード. ステータスコードはサーバからのレスポンスで、リクエストの結果を通知する。3桁の数字から成り、おおまかな分類として、1xxは「情報」、2xxは「成功」、3xxは「リダイレクト」、4xxは「クライアントエラー」、5xxは「サーバエラー」を示す。 セキュリティ技術. いくつかの観点でセキュリティに関する追加機能が存在する。 HTTPS. セキュアな通信路でHTTP通信を行うことを通常HTTPSと言う。 HTTP認証. HTTPの中で認証を行う仕組みが用意されている。 Basic認証. HTTP/1.1で定義されている最も単純なセキュリティ技術である。「基本認証を用いるくらいならなにも使わない方がまし」と主張する人もいる。平文で認証情報を送信する仕組みであるため、TLS (HTTPS)など安全を確保した通信路での利用が望ましい。通常サーバはステータスコード401で応答する。 規格. HTTPはIETFを始めとした標準化団体により規格化されている。以下はその一部である。 歴史的には各バージョンが独立して規格化されてきた。しかし現行の3バージョン(v1.1, v2, v3)が共通のセマンティクスを維持していたことから、これを独立した規格とする活動が推進され現在の形になっている。 派生・拡張プロトコル. HTTPSのほか、以下のようなHTTPのセマンティクスを利用するプロトコル、HTTPの構文を元とするプロトコルなどが存在する。以下はその一例である。 なお、このようなHTTPの利用に関する文書として RFC 9205 Building Protocols with HTTP (BCP 56)が存在する。 外部リンク. 以下は旧式であり非推奨となった仕様 その他
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File Transfer Protocol
File Transfer Protocol(ファイル・トランスファー・プロトコル、FTP、ファイル転送プロトコル)は、コンピュータネットワーク上のクライアントとサーバの間でファイル転送を行うための通信プロトコルの一つである。 概説. インターネットでSSL/TLSプロトコルを用いたHTTPS通信が主流になるまで使用されていた通信プロトコルの1つである。FTPはクライアントサーバモデルのアーキテクチャとして設計されており、クライアントとサーバの間で制御用とデータ転送用の2つの別のコネクションを使用する。 FTPでは、認証のためのユーザ名・パスワードや転送データは暗号化されず、平文でやり取りされる。そのため現在では、FTPの通信をSSL/TLSにより保護したFTPSや、SSHの仕組みを利用したSSH File Transfer Protocol(SFTP)などの代替のプロトコルに置き換えられている。 用途としては アップロードやダウンロードについては「FTPクライアントソフト」と呼ばれるソフトウェアで行う。多くのOSにはCUIコマンドで操作するクライアントが付属している。また、GUIで操作できるソフトウェアやホームページ作成ソフトに内蔵されている。 ダウンロードについては、かつて多くのブラウザソフトにダウンロードに特化したFTPクライアントソフトの機能が実装されていたが、2020年代初頭に多くのブラウザがサポートを打ち切った 。 初期のFTPクライアントは、OSがGUIを持っていなかった時期に開発されたコマンドラインプログラムであり、今でもほとんどのOSに同梱されている。多くのFTPクライアントや自動化ユーティリティが開発されており、また、HTMLエディタなどの生産性アプリケーションにも組み込まれてきた。 歴史. FTPの元の仕様はアバイ・ブーシャンによって書かれ、1971年4月16日にとして公開された。1980年まで、FTPはTCP/IPの前身であるNCPで実行されていた。(1980年6月)と(1985年10月)によりFTPはTCP/IP上で動くバージョンに修正され、これが現行のFTPの仕様の元となっている。その後、(1994年2月)でファイアウォール内からでも使用できるパッシブモードが追加され、(1997年6月)ではセキュリティ拡張が提案された。(1998年9月)ではIPv6に対応し、新しい種類のパッシブモードが定義された。 プロトコルの概要. 通信とデータ転送. FTPの動作モードには、データ転送用コネクションの確立方法の違いによりアクティブモード(active mode)とパッシブモード(passive mode)がある。どちらの場合でも、データ転送用コネクションとは別に制御用コネクションを使用する。制御用コネクションは、クライアント側が、特権付きでないランダムなポート番号Nから、サーバのポート21へのTCPのコネクションとして確立する。 1998年9月に、両方のモードはIPv6に対応するために更新され、パッシブモードには変更が加えられて拡張パッシブモード(extended passive mode)となった。 サーバは、制御用コネクションを介してASCIIの3桁の数字のステータスコードで応答する。ステータスコードにはテキストによるメッセージがつくことがある。例えば、"200"(または "200 OK")は、最後のコマンドが成功したことを意味する。数字は応答のコードを表し、追加のテキストは人間が読める説明または要求を表す。データ転送用コネクションを介したファイルデータの転送中、制御用コネクションを介して割り込みメッセージを送信することによって転送を中止することができる。 データ転送には以下の4つのデータ表現が利用できる。 データ転送は以下の3つのモードのいずれかで行うことができる。 FTPソフトウェアの中には、「モードZ」と呼ばれるDeflateを使用した圧縮モードを実装しているものがある。このモードはインターネットドラフトに記載されているが、標準化はされていない。 ログイン. FTPログインは、アクセスを許可するために通常のユーザ名とパスワードのスキームを使用する。ユーザ名はUSERコマンドを使用してサーバに送信され、パスワードはPASSコマンドを使用して送信される。この一連のやり取りは暗号化されていないため、に対して脆弱である。クライアントから提供された情報がサーバによって受け入れられた場合、サーバはクライアントにグリーティングを送信し、セッションが開始される。 Anonymous FTP. FTPサービスを提供するホストは、専らファイル(主に無償のフリーソフトなど)を配布する目的で、匿名でアクセスできるAnonymousアクセスを提供することができる。この場合でも形式上認証が必要であり、ユーザ名として"anonymous"または"ftp"を指定する。パスワードは通常何でもよいが、配布したソフトに瑕疵があった場合などにサーバ管理者が連絡をとることができるよう、ユーザの電子メールアドレスを指定するのがマナー(ネチケット)とされてきた(メールアドレスのドメインがクライアントのIPアドレスの逆引きなどから明らかな場合は、"foo@"のようにドメインを省略することも多い)。サーバによっては、パスワードがメールアドレスの形式を満たさないと利用できないこともある。しかし、近年ではスパム(迷惑メール)などの問題により、むやみにメールアドレスを公開しない風潮が高まっていることから、このマナーは廃れつつある。 NATやファイアウォールの通過. FTPは通常、クライアントがPORTコマンドを送信し、サーバがクライアントの通知されたポートに接続することによってデータを転送する。これは、インターネット側から内部ホストへの接続を許可しないNATやファイアウォールにおいて問題となる。NATの場合、PORTコマンドで通知するIPアドレスとポート番号は、NATによる変換後のものではなく、変換前のものとなる。 この問題を解決するには2つの方法がある。1つは、PASVコマンドを使用してパッシブモードに移行する方法である。これにより、FTPクライアント側からサーバへデータ転送用コネクションが確立される。これは現代のFTPクライアントにおいて広く使われている。もう1つは、NATがを使用してPORTコマンドの値を書き換える方法である。 HTTPとの違い. FTPでは、Webページでよく見られるような多くの小さな一時的な転送に使用するのが不便であり、HTTPではそれを修正している。 FTPには、現在の作業ディレクトリと他のフラグを保持するステートフルな制御用コネクションがあり、転送するファイルごとに、データを転送するための別のコネクションを必要とする。パッシブモードでは、この別のコネクションはクライアントからサーバへの接続であるが、デフォルトのアクティブモードでは、このコネクションはサーバからクライアントへの接続である。アクティブモードにおけるこの役割の逆転、および全ての転送において使用されるポート番号がランダムであることが、ファイアウォールやNATゲートウェイを通してFTPを使用することを困難にしている。HTTPはステートレスであり、クライアントからサーバへの、Well-knownなポート番号による単一のコネクションを介して、制御とデータを多重化する。これにより、NATゲートウェイやファイアウォールの通過が簡単になる。 FTPの制御用コネクションの設定は、必要な全てのコマンドを送信して応答を待つまでに往復遅延があるため、非常に遅くなる。そのため、毎回セッションを破棄して再確立するのではなく、制御用コネクションを確立した後、それを複数のファイル転送のために開いたままにするのが一般的である。これとは対照的に、HTTPはその方が安価であるため、元々転送ごとにコネクションを切断していた。その後、HTTPには複数の転送に1つのTCP接続を再利用する機能が追加されたが、概念モデルとしてはセッションではなく独立した要求である。 FTPがデータ用コネクションを介して転送している間、制御用コネクションはアイドル状態である。転送に時間がかかりすぎると、ファイアウォールやNATは制御用コネクションが無効であると判断してそれを追跡しなくなり、事実上接続が切断されてしまう。HTTP接続においてはアイドル状態となるのは要求と要求の間のみであり、タイムアウトした後にコネクションがドロップされるのは正常で、予期されたものである。 Webブラウザの対応. かつてはほとんどの一般的なWebブラウザは、FTPサーバに格納されているファイルを取得することができた。しかし2020年以降主要ブラウザはあいついでFTPサポートを廃止した。 セキュリティ. FTPは、インターネット初期から存在する古いプロトコルであり、セキュア(安全)なプロトコルとして設計されていない。ユーザ名やパスワードなどの認証情報を含むすべての通信内容を暗号化せずに転送するなどの問題の他、数多くのセキュリティ脆弱性が指摘されている。(1999年5月)では、以下の脆弱性が列挙されている。 FTPは通信内容を暗号化できない。全ての送信は平文で行われるため、通信経路上でパケットをキャプチャすることで、ユーザ名・パスワード・コマンド・データといった情報を容易に盗聴できる。この問題は、TLS/SSLなどの暗号化メカニズムが開発される前に設計された他のインターネットプロトコル仕様(SMTP、Telnet、POP、IMAPなど)でも同様である。 この問題に対する一般的な解決策は、次の通りである。 FTPは、Gumblarなどのコンピュータウイルスの標的にもされた。そのため、現在では、FTPではなく前述の FTPS (SSL/TLSを使ったFTP) や SFTP (SSH File Transfer Protocol)、SCP、SSH上でのrsync、など暗号化された手法を用いることが強く推奨される。 FTP over SSH. FTP over SSHは、Secure Shell接続を介して通常のFTPセッションをトンネリングする方法である。FTPは複数のTCP接続を使用するため、SSHを介してトンネリングすることは特に困難である。多くのSSHクライアントでは、制御チャネル(ポート21による最初のクライアントとサーバの間の接続)用にトンネルを設定しようとすると、そのチャネルだけが保護される。データを転送するときは新しいTCP接続(データチャネル)を確立するため、機密性や完全性の保護はない。 そのため、SSHクライアントソフトウェアがFTPプロトコルの情報を持ち、FTP制御チャネルのメッセージを監視して書き換え、FTPデータチャネルのための新しいパケット転送を自律的に開く必要がある。 派生プロトコル. FTPS. 明示的FTPS(Explicit FTPS)は、クライアントがFTPセッションの暗号化を要求できるようにするFTP標準の拡張である。これは、"AUTH TLS"コマンドを送ることによって行われる。サーバには、TLSを使用しない接続の許可・拒否のオプションがある。このプロトコル拡張は、で定義されている。 暗黙的FTPS(Implicit FTPS)は、SSL/TLS接続の使用を必要するFTPの古い標準であり、通常のFTPとは異なるポートを使用するように指定されていた。 SFTP. SSH File Transfer Protocol(SFTP)は、ファイル転送にSecure Shell(SSH)プロトコルを使用する。FTPとは異なり、コマンドとデータの両方を暗号化し、パスワードや機密情報がネットワークを介して公に送信されるのを防ぐ。FTPサーバやクライアントとは相互運用できない。 TFTP. Trivial File Transfer Protocol(TFTP)は、クライアントがリモートホストからファイルを取得したり、リモートホストにファイルを保存したりすることを可能にする単純なロックステップのFTPである。TFTPは認証を行わないため実装が非常に簡単であり、主にネットワークブートの初期段階で使用される。TFTPは1981年に最初に標準化された。TFTPの現在の仕様はである。 Simple File Transfer Protocol. Simple File Transfer Protocolは、TFTPとFTPの中間的なレベルの複雑さを持つ(セキュアではない)FTPとして提案された。で定義されている。このプロトコルもSSH File Transfer Protocolと同様"SFTP"と略称されるが、この略称を持つプロトコルの中ではSimple File Transfer Protocolの方が先に標準化されている。このプロトコルはインターネットで広く受け入れられず、このRFCはIETFによって"Historic"(歴史的文書)の状態とされている。 ポート115を介して実行され、多くの場合SFTPの初期設定を受信する。11のコマンドと、ASCII・バイナリ・連続の3つのデータ転送を持つ。 ワードサイズが8ビットの倍数であるシステムでは、バイナリモードと連続モードの実装は同じである。このプロトコルは、ユーザーIDとパスワードによるログイン、階層フォルダーとファイル管理(名前の変更、削除、アップロード、ダウンロード、上書きダウンロード、追加ダウンロード)に対応する。 FTPリターンコード. FTPサーバから返されるリターンコードはで標準化されている。リターンコードは3桁の数値である。 1桁目は、成功、失敗、エラー・不完全な応答のいずれかを示す。 2桁目は、エラーの種類を表す。 3桁目は、2桁目で定義されている各カテゴリの詳細情報を提供するために使用される。
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常用漢字
とは、「法令、公用文書、新聞、雑誌、放送など、一般の社会生活において、現代の国語を書き表す場合の漢字使用の目安」として、内閣告示「常用漢字表」で示された現代日本における日本語の漢字である。現行の常用漢字表は、2010年(平成22年)11月30日に平成22年内閣告示第2号として告示され、2,136字、4,388音訓(2,352音、2,036訓)から成る(一覧)。 常用漢字は、漢字使用の目安であって制限ではない。一方、日本の学習指導要領では、義務教育の国語で習う漢字は常用漢字のみと規定している。日本の主な報道機関は、日本新聞協会が発行する『新聞用語集』(新聞用語懇談会編)に掲載される新聞常用漢字表や共同通信社が発行する『記者ハンドブック』に基づき、各社で多少の手を加えて漢字使用の基準としている場合が多い。 歴史. なお、このページでは5.および6.について解説する。 1981年の制定時(当用漢字との違い). 昭和56年内閣告示第1号「常用漢字表」(1,945字/4,087音訓[2,187音・1,900訓])では、当用漢字表と比べて字数の上では、以下の95字が増加した。削除された字種はなかった。 2010年の改定. 文化審議会は2010年6月7日、改定常用漢字表(2,136字/4,388音訓[2,352音・2,036訓])を答申した。これは同年11月30日に平成22年内閣告示第2号「常用漢字表」として内閣告示された。その際、昭和56年内閣告示第1号「常用漢字表」は廃止された。 また音訓が以下の通り追加、変更、削除された。 備考欄などについて以下の通り変更された。 付表は以下の通り追加、変更された。 経緯. 2005年(平成17年)2月2日に国語分科会が「情報化時代に対応する漢字政策の在り方を検討することが必要」であるとした報告書を文化審議会に提出した。これを受けて、同年3月30日、中山成彬文部科学大臣は常用漢字表の見直しの検討などを文化審議会に諮問した。同年9月から文化審議会国語分科会の漢字小委員会が常用漢字見直しの審議に入った。 その後、第6回漢字小委員会では、「『常用漢字』と『準常用漢字(読めるだけでいい漢字)』に分けることの是非」という文言を含む資料が配付された。また答申時期については、第15回漢字小委員会で2010年2月の新常用漢字表答申を目指すと述べられている。なお、その後の漢字小委員会で表の煩雑化に疑問の声があり、「準常用漢字」などの区分は最終的に行われなかった。2008年(平成20年)1月9日、都道府県名に使われている漢字で常用漢字に現在含まれていない「」の11字を常用漢字に含めることを決めた。これは固有名詞については常用漢字表の対象としないのが原則であり、今後も維持するが、特に公共性が高い都道府県名について例外として扱ったものである。またその後、「」が追加候補に入ったが、これは都道府県名に準じる漢字としての位置付けである。 2008年(平成20年)5月12日の第21回漢字小委員会で、第1次字種候補素案218字が発表された(220字と明記され、主要新聞社もそのように発表したが、実際には「」がデザイン差で重複しており、また既に常用漢字表に入っている「」が誤って入っていたため218字が正しい)。この時点では特定の語に限って常用漢字と同様に認める熟語が「別表」として付記されていたが、「なるべく単純明快な漢字表を作成する」という考え方に基づき、その後の6月16日の第23回漢字小委員会では第2次字種候補案が「別表」を統合した形で発表され、同日の審議でもその旨了承された。なお、第2次字種候補案では「本表に入れる可能性のある候補漢字」は188字とされた。また「」が削除候補から外された。 同年7月15日の第24回漢字小委員会では、7月31日の第39回国語分科会に提出する資料について「最終的な扱いについては前田主査に一任する」ことが了承された。また、国語分科会で字種候補案が了承されたとしても、今後、行われる音訓の検討過程で字種の出し入れの可能性があることも確認された。実際にその後の9月22日の第25回漢字小委員会では、追加候補に「」の4字が追加され、「」が削除された。これにより追加候補は191字となった。2009年(平成21年)10月23日の第37回漢字小委員会および11月10日の第42回国語分科会で了承された修正案では「」の9字が追加、「」の4字が削除され、追加候補は196字となった。なお、漢字表の名称は現行と同じ「常用漢字表(改定常用漢字表)」とすることが確定した。 文化審議会は2010年6月7日の第51回文化審議会総会で、改定常用漢字表を答申した。 また、文化庁は「『新常用漢字表(仮称)』に関する試案」を公開、パブリックコメント募集を行い、2009年(平成21年)3月16日から行われたものの結果がニュースなどで報道された。これは第31回漢字小委員会以降で配付された資料に基づくものである。それによると、新たに302字の追加希望があったという。 最も追加要望が多かったのは「」の22件である。三鷹市、鷹栖町、白鷹町など名称に「」を含む自治体が意見書を出していた。三鷹市によれば、「鷹」は「都道府県名や動植物名等の固有名詞を中心とした使用例が多い」との理由で追加字種候補から除外されたが、市はこれに反論して四字熟語を含む熟語や故事・諺など多数の用例を挙げ「社会生活や日本の伝統文化を表す語が多数存在する」と主張した。またもう一つの根拠として和文書体データのフォント作成の際に、全ての漢字の構成要素が凝縮されているとして「鷹・東・永・国・室・道・機・識・闘・愛・警・酬」の12文字を基準に作成されていることを挙げて「鷹」の追加を強く要望した。この三鷹市の取り組みに対しては全国から多くの反響が寄せられたという。 続いて「」の20件は、一部の障害者団体が「」を「」と表記するよう主張していることが関係している。その他、6件以上意見があったのは「」であった。 一方、削除希望の漢字も挙げられ、最も多かったのは「」、次いで「」であった。そのほか「」などが挙がっており、「」など都道府県に用いられる漢字に対しても削除の要望があった。今回のパブリックコメントでは約220件の意見が寄せられ「敬語の指針(報告案)」の際の5倍に上った。文化庁は、このパブリックコメントを加味した上で、再度指針案を練り直すとしていた。 その後、2009年(平成21年)11月25日から12月24日まで再度、修正案を対象にしたパブリックコメントが実施され、272件の意見が寄せられた。追加希望が最も多かった字は「玻」の95件で、この字が人名用漢字でないことを理由に子供の出生届を不受理とされた処分の無効を求めていた愛知県在住の夫婦とその支援者による組織票により、前回の0件から一転して95件の追加希望が寄せられた。また、前回のパブリックコメントでは20件であった「」は86件と大幅に追加希望が増加。「」は前回より2件増の24件であった。 この結果に基づいて審議が行われた結果、2010年(平成22年)4月13日に開催された第41回漢字小委員会は「」のいずれも追加を見送り、2009年11月の試案通り字種を「196増5減」とする案が了承された。ただし「碍」については内閣府の障がい者制度改革推進本部で「障害」の表記の在り方について検討しているため、その結果によっては改めて検討することとした。 字体. 「改定常用漢字表」(文化審議会答申)では「現行の常用漢字表制定時に追加した95字については、表内の字体に合わせ、一部の字体を簡略化したが、今回は追加字種における字体が既に『印刷標準字体』及び『人名用漢字字体』として示され、社会的に極めて安定しつつある状況を重視し、そのような方針は採らなかった」ため、「現行の常用漢字表で示す『通用字体』と異なるものが一部採用される」ことになった。 都道府県名など. 「改定常用漢字表」(文化審議会答申)では「固有名詞を対象とするものではない。ただし、固有名詞の中でも特に公共性の高い都道府県名に用いる漢字及びそれに準じる漢字は例外として扱う。」とした。これにより、都道府県名に用いる漢字で常用漢字表になかった11字と、近畿の「」・韓国の「」の2字が常用漢字になった。この13字について整理すると以下の通り。 「都道府県名専用」および「地名専用」で示した8字が、固有名詞の例外として追加された「都道府県名に用いる漢字及びそれに準じる漢字」に該当する。 ※「都道府県名専用」は「1字下げで示した音訓のうち、備考欄に都道府県名を注記したものは、原則として、その都道府県名にのみ用いる音訓であることを示す」という記述に基づくものである。 なお、日本新聞協会新聞用語懇談会では「」は「都道府県名専用」とはせず、限定的な熟語(、、)には使用するよう決めている。 法令における使用. 法令では常用漢字のみを使用することを原則として、常用漢字外の字は、語そのものの言い換えが行われるか、その字のみ平仮名書きするか、常用漢字外の字を使用しつつ初出の箇所にのみ振り仮名(ルビ)をつける運用がなされる。 同音の漢字による書きかえは、第二次世界大戦後、当用漢字告示後から多用されている。「」を「」と表記するなどである。 平仮名書きは、機械的に行えるために多く使用されてきたが、同音異義語がある場合や、「」()「」()など語の一部のみ平仮名書き(交ぜ書き)される不自然さがあり、次第に避けられるようになりつつある。 初出箇所にのみ振り仮名を振る方式は、常用漢字使用の原則に沿いつつ、自然な記載をなしうるため、法令の条文の記載において、多く用いられるようになりつつある。平成に入って口語化された刑法・民事訴訟法などはいずれもこの方式によっている例である。 法令以外の公用文においても、「公用文作成の要領」「公用文における漢字使用等について」により、常用漢字のみを使用することを原則とするように定められている。 実際には使用されないもの. 日本国憲法に用いられている漢字は全て当用漢字表に採られ、常用漢字表にも引き継がれている。一般的に用いられない漢字が常用漢字である一因はこのためである。 字体・字形に関する指針(報告). 近年、手書き文字と印刷文字の表し方に習慣に基づく違いがあることが理解されにくくなっている。また、文字の細部に必要以上の注意が向けられ、正誤が決められる傾向が生じている。 文化庁では、平成26年度から文化審議会国語分科会漢字小委員会において、「手書き文字の字形」と「印刷文字の字形」に関する指針の作成」に関して検討を進めていたが、その検討結果が国語分科会で「常用漢字表の字体・字形に関する指針(報告)」(案)として示された。
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ノーベル賞
は、ダイナマイトの発明者として知られるアルフレッド・ノーベルの遺言に従って1901年から始まった世界的な賞である。物理学、化学、生理学・医学、文学、平和および経済学の「5分野+1分野」で顕著な功績を残した人物に贈られる。 経済学賞だけはノーベルの遺言にはなく、スウェーデン国立銀行の設立300周年祝賀の一環として、ノーベルの死後70年後にあたる1968年に設立されたものであり、ノーベル財団は「ノーベル賞ではない」としている。 沿革. ノーベル賞は、スウェーデン語では (ノベルプリース/ノベルプリーセット)、ノルウェー語では(ノベルプリース(ン))という。1895年に創設され、1901年に初めて授与式が行われた。一方、ノーベル経済学賞は1968年に設立され、1969年に初めての授与が行われた。 賞設立の遺言を残したアルフレッド・ノーベル(1833年10月21日 - 1896年12月10日)は、スウェーデンの発明家・企業家であり、ダイナマイトをはじめとするさまざまな爆薬の開発・生産によって巨万の富を築いた。しかし、爆薬や兵器を元に富を築いたノーベルには一部から批判の声が上がっていた。1888年、兄のルードヴィがカンヌにて死去するが、このときフランスのある新聞がアルフレッドが死去したと取り違え、「死の商人、死す」との見出しとともに報道した。自分の死亡記事を読む羽目になったノーベルは困惑し、死後自分がどのように記憶されるかを考えるようになった。1896年12月10日に63歳でノーベルは死去するが、遺言は死の1年以上前の1895年11月27日にパリのスウェーデン人・ノルウェー人クラブにおいて署名されていた。 この遺言においてノーベルは、「私のすべての換金可能な財は、次の方法で処理されなくてはならない。私の遺言執行者が安全な有価証券に投資し継続される基金を設立し、その毎年の利子について、前年に人類のために最大たる貢献をした人々に分配されるものとする」と残している。彼がこの遺言のために残した金額は彼の総資産の94パーセント、3100万スウェーデン・クローナに及んだ。周辺の人々はこの遺言に疑いを持ったため、1897年4月26日までこの遺言はノルウェー国会において承認されなかった。その後、彼の遺志を継ぐためにラグナル・ソールマンとルドルフ・リリェクイストがノーベル財団設立委員会を結成し、賞設立の準備を行った。賞の名前はノーベルを記念してノーベル賞とされた。1897年4月には平和賞を授与するためのノルウェー・ノーベル委員会が設立され、6月7日にはカロリンスカ研究所(スウェーデン)が、6月9日にはスウェーデン・アカデミーが、6月11日にはスウェーデン王立科学アカデミーが授与機関に選定されて選考体制は整った。賞の授与体制が整うと、1900年にノーベル財団の設立法令がスウェーデン国王オスカル2世(1905年まで兼ノルウェー国王)によって公布された。同年、科学者のスヴァンテ・アレニウスもノーベル賞の創設に関わり、1901年、スウェーデン王立科学アカデミーの会員に選ばれたが、これには反対の声もあった。その後はノーベル委員会の物理学部門の委員となり、化学部門でも事実上の委員として活動した。彼はその立場を利用して友人(ヤコブス・ヘンリクス・ファント・ホッフ、ヴィルヘルム・オストヴァルト、セオドア・リチャーズ)にノーベル賞を受賞させるよう誘導し、敵対する科学者(パウル・エールリヒ、ヴァルター・ネルンスト)には受賞させないよう画策した(画策は成功しなかった)。1903年、アレニウス自身もスウェーデン人初のノーベル化学賞を受賞した。1905年にノルウェーとスウェーデンは同君連合を解消したが、両国分離後も授与機関は変更されなかった。 ノーベル賞はその歴史と伝統などから権威が高く、ノーベル賞に部門のない分野における権威のある賞が「〇〇のノーベル賞」と呼ばれたり(ある分野のノーベル賞として知られる賞の一覧を参照)、不可能に近いことやきわめて困難なことの例えに比喩的にノーベル賞が使われたりする(「それができたらノーベル賞を取れる」など)。 部門. 以下の部門から構成される。 特に自然科学部門のノーベル物理学賞、化学賞、生理学・医学賞の3部門における受賞は、科学分野における世界最高の栄誉であると考えられている。近年は生理学・医学賞と化学賞、物理学賞との境界が曖昧な分野が増えてきている。また世界的に関心の高い分野への受賞など社会的なメッセージともとれる例がある。 経済学賞について、ノーベル財団は同賞をノーベル賞とは認めておらず、この賞を正式名称(「アルフレッド・ノーベル記念スウェーデン国立銀行経済学賞」)または「ノーベル」を冠しない「経済学賞」と呼ぶ。なお、経済学賞の創設後、環境、数学、建築、音楽など様々な分野の関係者から経済学賞と同様に費用を負担するので「ノーベル記念賞」を創設してほしいとの申し出があったが、新設されていない。 複数人による共同研究や、共同ではないが複数人による業績が受賞理由になる場合は、一度に3人まで同時受賞することができる。ただし、同時受賞者の立場は対等とは限らず、受賞者の貢献度(Prize share)に応じて賞金が分割される。なお、性質上「複数人による業績」が考えづらい文学賞は例外で、定数は一度に1人と定められている。また、基本的に個人にのみ与えられる賞であるが、平和賞のみ団体の受賞が認められており、過去に国境なき医師団やICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)などが受賞している。 選考. 選考は「物理学賞」「化学賞」「経済学賞」の3部門についてはスウェーデン王立科学アカデミーが、「生理学・医学賞」はカロリンスカ研究所(スウェーデン)が、「平和賞」はノルウェー・ノーベル委員会が、「文学賞」はスウェーデン・アカデミーがそれぞれ行う。 ノーベル賞の選考は秘密裏に行われ、その過程は受賞の50年後に公表される。よって「ノーベル賞の候補」というものは公的には存在しないことになるが、「いつか受賞するだろう」と目される人物が各分野に存在するのも事実である。トムソン・ロイター社は旧トムソン時代から毎年独自にノーベル賞候補を選定発表しており、2017年以降は同事業を引き継いだクラリベイト・アナリティクスがクラリベイト・アナリティクス引用栄誉賞としてノーベル賞候補を選定発表している。これは近年の論文の引用数などから算出したものである。ただし、ノーベル賞はアカデミズムにおいて業績の評価がある程度定着してから決定されることが多いため、必ずしもこの基準で賞が決まるわけではない。最終選考は発表日当日に行われることが慣例になっており、マスコミの事前予測が難しい所以である。 資格. 1973年までは、受賞者の候補に挙げられた時点で本人が生存していれば、故人に対して授賞が行われることもあった。例としては、1931年の文学賞を受賞したエリク・アクセル・カールフェルト、1961年の平和賞を受賞したダグ・ハマーショルドが授賞決定発表時に故人であった。 1974年以降は、授賞決定発表の時点で本人が生存していることが授賞の条件とされている。2011年には、医学生理学賞に選ばれたラルフ・スタインマンが授賞決定発表の3日前に死去していたことがのちに判明し、問題となった。ただし、授賞決定発表のあとに本人が死去した場合には、その授賞が取り消されることはない。スタインマンの場合はこの規定に準ずる扱いを受けることになり、特別に故人でありながらも正式な受賞者として認定されることが決まった。 授賞式. 授賞式は、ノーベルの命日である12月10日に、「平和賞」を除く5部門はストックホルム(スウェーデン)のコンサートホール、「平和賞」はオスロ(ノルウェー)の市庁舎で行われ(古くはオスロ大学の講堂で行われた)、受賞者には、賞金の小切手、賞状、メダルがそれぞれ贈られる。 晩餐会・舞踏会. 授賞式終了後、平和賞以外はストックホルム市庁舎(1930年まではストックホルムのグランドホテルの舞踏室)にて、スウェーデン王室および約1,300人のゲストが参加する晩餐会が行われる。王室、受賞者などが階段を上がり、2階の別室へと退場したあと晩餐会はお開きとなり、そのまま2階のゴールデンホールという大きな部屋で舞踏会が始まる。平和賞の晩餐会はオスロのグランドホテルで行われ、こちらにはノルウェーの国会、首相および2006年以降はノルウェーの国王夫妻を含めた約250人が招かれている。1979年の平和賞の晩餐会は、受賞者のマザー・テレサが「貧しい人にお金を使ってください」として出席を辞退、開催を中止させ、晩餐会に使うはずだった7,000USドルの費用はインドのコルカタ(旧名:カルカッタ)の2,000人のホームレスへのクリスマスの夕食に使われた。これは現時点で唯一の晩餐会が中止になった例である。 1991年にノーベル賞90周年事業の一環として、晩餐会に使う食器類をすべてスウェーデン製に置き換えようとしたが、カトラリーだけはその複雑なデザインゆえに仕上げ研磨ができる技術が国内になく、カトラリーのデザインを担当したゴナ・セリンが懇意にしていた新潟県燕市の山崎金属工業に依頼した。食器類など授賞式に使う調度品は、普段は厳重に鍵のかかった倉庫に保管されており、ノーベル賞の晩餐会にのみ使用される。晩餐会で使用されるカトラリーセットは「ノーベルデザインカトラリー」として一般向けにも販売されている。 ドレスコードは燕尾服もしくはナショナルドレス(民族衣装)であるため、川端康成や本庶佑は紋付羽織袴で出席している。 その他のイベント. 受賞者は受賞後にノーベル・レクチャーと呼ばれる記念講演を行うのが通例になっている。その後、受賞者はストックホルム大学やストックホルム経済大学などの大学の学生有志団体が毎年持ち回りで行うパーティーに出席し、そこで大学生らと希望する受賞者はさらなる躍進を願って一斉に「蛙跳び」をするのが慣例となっている。 授与. 受賞者へは賞状とメダルと賞金が与えられる。受賞者に与えられる賞金は、ノーベルの遺言に基づき、彼の遺産をノーベル財団が運用して得た利益を原資としている。ただし「経済学賞」は1968年に創設され1969年から授与されたが、その原資はスウェーデン国立銀行の基金による。 ノーベル賞の賞金は、過去幾度も変動してきた。ノーベルは遺産を安全な有価証券にすることを指定しており、このため得られる利子額は長年にわたって低いものであり、賞金もそれに連動して設立当初より相対的に低い額にとどまっていた。こうした状況は1946年にノーベル財団が免税となったことと、1950年代に株式への投資が解禁されたことによって改善され、1990年代には設立当初の賞金レベルを回復した。2001年から現在まで賞金額は1000万スウェーデン・クローナ(約1億円)である。しかしスウェーデンのノーベル財団は2012年6月11日の理事会で、過去10年間にわたって運用益が予想を下回ったことなどを理由として、2012年のノーベル賞受賞者に贈る賞金を2割少ない800万スウェーデン・クローナ(約8900万円)とすることを決めた。 なお、日本においてはノーベル賞の賞金は所得税法第9条第1項第13号ホにあるように、所得税は非課税となっている。これは、1949年に湯川秀樹が日本人として初のノーベル賞を受賞した際に、賞金への課税について論争が起こったのを受けて改正されたものである。 メダル. 受賞時に渡されるメダルは1902年から使用され、ノーベル財団によって商標登録されている。1901年の第1回受賞時にはメダルが間に合わなかったため、第2回からの授与となっている。 メダルには表面にアルフレッド・ノーベルの肖像(横顔)と生没年が記されている。表面のデザインは物理学賞、化学賞、生理学・医学賞、文学賞では同じであるが、平和賞と経済学賞では若干異なる。裏面のデザインは賞によって異なるが、物理学賞と化学賞では共通のデザインで、自然の女神のベールを科学の女神がそっと外して横顔を覗いているデザインとなっている。1980年以前のメダルは24Kの純金であったが、落としただけで曲がってしまったり、傷がつきやすいということもあり、現在では18Kを基材として、24Kでメッキした金メダルが使用されている。重量は約200グラム、直径約6.6センチ。 メダルのレプリカは、受賞者本人が上限を3個として作成してもらうことが許可されている。 2010年までは、スウェーデン政府の機関が制作していたが、予算削減のため2011年からノルウェーの企業に委託されることになった。しかし国内での製造を望む国民の要望が多かったため、2012年からスウェーデンの民間企業で製造されることが決定した。 ガムラスタンにあるノーベル博物館には、ノーベル賞のメダルを模した「メダルチョコ」が売られており、観光客だけではなく授賞式に訪れた受賞者本人も土産として購入するという。益川敏英はこのチョコレートを600個も買い込んで話題となった。 受賞者がメダルを売却する事例もあり、1962年に生理学・医学賞を受賞しフランシス・クリックは死後の2013年、共同受賞者のジェームズ・ワトソンは経済的な理由から2014年、2021年に平和賞を受賞したドミトリー・ムラトフ所有のメダルが2022年、それぞれオークションを通じて第三者に譲渡された。 科学史としてのノーベル賞. 前述のようにノーベル賞の自然科学分野における受賞者は欧米の研究者を中心としており、1920年代に日本人の山極勝三郎がノミネートされた際には、選考委員会で「東洋人にはノーベル賞は早すぎる」との発言があったことも明らかになっている。また、元国連大使の松平康東は、1930年代に呉建がノミネートされた際には日本が枢軸国であったことで受賞に至らなかったとしている。欧米以外の国で研究活動を行った非欧米人では、1930年にインド人のチャンドラセカール・ラマンが物理学賞を受賞したのが最初である。日本人である湯川秀樹(1949年受賞)、朝永振一郎(1965年受賞)らがやはり物理学賞で受賞している。 受賞条件と辞退. ノーベル賞は受賞者が自然人の場合、「本人が生存中」が受賞条件だが、かつてはノミネート時点で生存していれば受賞決定時に死亡していてもよいこととされており、そのケースに当てはまる受賞者には、1931年文学賞のエリク・アクセル・カールフェルトと、1961年平和賞のダグ・ハマーショルドがいる。1973年から、10月の各賞受賞者発表時点で生存している必要があるが、その後死亡しても取り消されないことになり、その規定により1996年経済学賞のウィリアム・ヴィックリーは授賞式前に亡くなっても受賞が取り消されなかった。2011年生理学・医学賞のラルフ・スタインマンは受賞者発表の直後に当人が3日前に死亡していたことが判明したが、これには受賞決定後に本人が死去した場合と同様の扱いをし、変更なく賞が贈られることになった。 これまでにノーベル賞の受賞を辞退したのは、以下のとおりである。 ドーマクは戦後の1947年、クーン、ブーテナントは1949年、パステルナークは没後に遺族が賞を受け取ったとされているため、最終的に受け取らなかったのは前者2名である。 評価と論争. ノーベルの遺言により、平和賞の選定はスウェーデンの機関ではなくノルウェー国会に委任されている。理由は諸説ありはっきりしないが、当時のスウェーデンとノルウェーは同君連合を組んでいたこと、そして当時のノルウェーには自主的外交権がなかったために平和賞の選考には常に中立性が期待できたことなどが理由と考えられている。 1929年の生理学・医学賞はビタミンBの発見によりオランダのクリスティアーン・エイクマンに贈られているが、エイクマンは米ぬかの中に脚気の治癒に効果のある栄養素(ビタミン)が存在することを示唆したにすぎず、実際にその栄養素をオリザニンとして分離・抽出したのは日本の鈴木梅太郎である。 1926年の生理学・医学賞は寄生虫によるガン発生を唱えたデンマークのヨハネス・フィビゲルに贈られ、同時期に刺激説を唱えていた山極勝三郎が受賞を逃している。後年、フィビゲルの説は限定的なものであるとして覆されている。 ポルトガルのエガス・モニスはロボトミー手術を確立したことで1949年の生理学・医学賞を受賞しているが、ロボトミーは効果が限定的であるにもかかわらず副作用や事故が多く、またその後向精神薬が発達したこともあり、現在では臨床で使われることはない。モニス自身も実験的な手術を行っただけで、臨床に導入してはいなかった。 文学賞は、過去には歴史書や哲学書の著者にも贈られたことがあったが、1953年にイギリス首相のウィンストン・チャーチルが自著『第二次世界大戦回顧録』を理由に文学賞を受賞したことで選考対象の定義をめぐる論争が起こった。結局これ以降、2016年にアメリカのシンガーソングライター・ミュージシャンのボブ・ディランが受賞するまで純文学の著者による受賞が続くことになる。 戦争を起こした当事者が平和賞を受賞したこともある。キャンプ・デービッド合意によりエジプトとイスラエルの間に和平をもたらしたことが評価され、1978年の平和賞はエジプトのアンワル・サダト大統領とイスラエル首相のメナヘム・ベギン首相に贈られたが、そもそもその仲介役としてアメリカの重い腰を上げさせるために第四次中東戦争を企画し、イスラエルへの奇襲作戦を主導したのはそのサダト自身だった。結果的にサダトの狙いは的中したが、これは外交手段の一環として引き起こした戦争を恒久的平和にまで持ち込むことに成功した稀な例となった。一方、サダトとベギン両首脳に実に12日間にもわたってワシントンD.C.郊外の大統領保養地キャンプ・デービッドを自由に使わせ、難航する和平会談の成功に奔走したアメリカのジミー・カーター大統領が、この両首脳とともに平和賞を受賞しなかったことに対しては疑問を唱える声が各方面から上がった。そのカーターには2002年になって「数十年間にわたり国際紛争の平和的解決への努力を続けた」ことなどを理由に、遅ればせながらの平和賞が贈られている。 平和賞は圧政下における反体制派のリーダーに贈られることがあることから、受賞者の国の政府から反発を受けることがよくある。その例として、ナチス・ドイツの再軍備を批判したカール・フォン・オシエツキー、ソ連の際限ない核武装を批判したアンドレイ・サハロフ、中国に軍事占領されたチベットの亡命政権を代表するダライ・ラマ14世、ポーランド民主化運動を主導した「連帯」のレフ・ワレサ、南アフリカの人種隔離政策を批判したデズモンド・ツツ主教、ミャンマー軍事政権の圧政とビルマ民主化を訴えたアウンサンスーチー、中国の人権侵害を批判し民主化を訴えた劉暁波などが挙げられる。 1958年に文学賞を受賞したボリス・パステルナークは、ソ連政府の圧力により授賞辞退を余儀なくされた。それでもノーベル委員会は彼に一方的に賞を贈っている。 1925年に文学賞を受賞したバーナード・ショーは、ノーベル賞について「ダイナマイトを発明したのは、まだ許せるとしても、ノーベル文学賞を考え出すなんて言語道断だ」「殺生と破壊の手段であるダイナマイトを発明して金を儲けたノーベルの罪も大きいが、世界の人材を序列化するノーベル賞を作ったのは最もゆるせない罪だ」などと皮肉し、受賞するまでに何度も受賞を拒んだことがある。 3通の遺言. ノーベルの遺言は3通ある。書かれた年次は、順に1889年、1893年、1895年である。1889年の初めて書かれた遺言は破棄されている。 1893年に書かれた2通目は、もっとも形式が整ったものである。具体的な金額が盛り込まれておらず、遺産分配の割合が記されていた。親類・仕事仲間・友人らへ20パーセントを与え、協会や研究所などに16パーセントを寄付し、残りの64パーセントを基金の設立のためにストックホルムの科学アカデミーに移譲するという内容であった。 1895年に書かれた3通目は、ノーベルが翌年夏、ストックホルム・エンシルダ銀行に保管した。2通目以前を無効とする旨が明記されているが、2通目との違いは大きく分けて2点ある。1つは個人相続分が具体的な金額で示され、結果として2通目と比べた総額は実質的に3分の1程度に縮小された点である。内訳は次の通り。なお、兄ロベルトの子供たち4人その他には生前にそれぞれ2万クローナが振り込まれた。 2通目との相違における第2点は、文学賞、医学賞、平和賞の選考主体を新たに指定した点である。これらの選考がスウェーデン王立科学アカデミーには難しいとノーベルが考えていたことが推測されている。 なお、3通目の終わりで指名された遺言執行人は、ラグナル・ソールマンとルドルフ・リリェクイストの2人である。 候補者の予想. 2017年以降、クラリベイト・アナリテイクスは、同社が運営する代表的なサイテーションインデックス(学術文献引用データベース)のWeb of Scienceの情報に基づいて、ノーベル賞の有力候補者の予想としてクラリベイト・アナリティクス引用栄誉賞を発表している。2011年のノーベル賞においては、自然科学系の3賞と経済学賞の受賞者9人全員が、過去にトムソン・ロイター引用栄誉賞(現・クラリベイト・アナリティクス引用栄誉賞)で候補に挙げられていた。 ノーベル数学賞がない理由. ノーベル賞に数学部門が存在しない理由として、スウェーデンの著名な数学者ヨースタ・ミッタク=レフラーがノーベルの妻を奪ったことを根に持ったためだとする俗説があるが、そもそもノーベルは生涯独身であった。 しかし、数学賞がない原因がミッタク=レフラーとの確執にあるという噂は、文献による証拠がないものの事実である可能性がある。 実際、1890年にミッタク=レフラーがソーニャ・コワレフスカヤへの資金的援助をノーベルに頼んだとき、ノーベルはこれを断っている。またノーベルの1883年の遺書には自身の遺産の一部をミッタク=レフラーのいたStockholms Högskola(のちのストックホルム大学)にも渡すように書いていたが、1896年に最終版の遺書を書いたときにはこの記述を削除した。Högskolaの学長を勤めたオットー・ペテルソンとスヴァンテ・アレニウスの推測によれば、ノーベルの遺書からこの記述が削除されたのは、ノーベルがミッタク=レフラーを嫌っていたためである。 当時の人々によるミッタク=レフラーの性格に関する評価は肯定的なものではない。 数学者のフィールズも2人の確執はありそうな話だとしているが、フィールズ自身はミッタク=レフラーと親しく、このことがフィールズ賞の設立につながったのではないかとする意見もある。 このような経緯があったにもかかわらず、ミッタク=レフラーはマリ・キュリーのノーベル物理学賞受賞に貢献している。女性への偏見が強かったフランス科学アカデミーは彼女のノーベル賞への推薦を意図的に削除したが、ミッタク=レフラーが彼女を強く推したため、彼女はノーベル賞を受賞する運びとなったのである。詳細はマリ・キュリー#女性としてを参照。
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小柴昌俊
小柴 昌俊(こしば まさとし、1926年〈大正15年〉9月19日 - 2020年〈令和2年〉11月12日)は、日本の物理学者、天文学者。勲等は勲一等。正三位。学位はDoctor of Philosophy(ロチェスター大学・1955年)、理学博士(東京大学・1967年)。東京大学特別栄誉教授・名誉教授、東海大学特別栄誉教授、杉並区立桃井第五小学校名誉校長、日本学術会議栄誉会員、日本学士院会員、文化功労者。 血液型はA型。 シカゴ大学研究員、東京大学原子核研究所助教授、東京大学理学部教授、東京大学高エネルギー物理学実験施設施設長、東海大学理学部教授、財団法人平成基礎科学財団理事長などを歴任した。 概要. 愛知県生まれの物理学者であり、ニュートリノ天文学を開拓した天文学者でもある。東京大学や東海大学において教鞭を執った。1987年、自らが設計を指導・監督したカミオカンデによって史上初めて太陽系外で発生したニュートリノの観測に成功した。この業績により、1989年に日本学士院賞を受賞し、2002年にはノーベル物理学賞を受賞した。また、1997年に文化勲章を受章しており、日本学士院会員にも選任されている。晩年は、ノーベル物理学賞の賞金などを基にして平成基礎科学財団を設立し、科学の啓蒙活動に取り組んだ。 小柴賞. 財団法人高エネルギー加速器科学研究会では、小柴の業績を記念してその「奨励賞」に2003年度から「小柴賞」を設けた。 人物. 幼少期は軍人か音楽家を目指していた。12歳の時に罹患した小児麻痺により、二つの夢を諦めることになったが、その入院中に担任から贈られたアインシュタインの本が物理学者を目指すきっかけとなった。 一高時代は落ちこぼれで成績が悪かった。寮(当時の旧制高校は全寮制)の風呂場裏で彼を貶める教師の雑談を聞いてしまい一念発起、寮の同室の同級生(朽津耕三(現・東京大学化学科名誉教授))を家庭教師に物理の猛勉強を始め東大物理学科へ入学。小柴が「やれば、できる」と言う由縁は自らの体験から生まれたものである。 天体力学を専門とする天文学者の古在由秀は大学時代からの友人である。そのためSN 1987Aからのニュートリノの検出に成功した時古在が編集委員を務めていた天文雑誌『星の手帖』編集長の阿部昭と『星の手帖』編集委員で天体写真家の藤井旭が小柴と古在の対談を企画した。この対談はニュートリノ検出の翌年である1988年に実現したが、結果的には、ニュートリノ検出の話よりも小柴と古在の学生時代の思い出話で盛り上がった。 自らを「変人学者」「東大物理学科をビリで卒業した落ちこぼれ」と称し、「現場主義の研究者」としての立場を貫いている。東京大学卒業時の成績証明書を公開したことがあり、16教科のうち「優」は2(物理学実験第1と第2のみ)、「良」は10、「可」は4(原子物理学ほか)であった。また、後進の教育・指導にも当たり、「私の研究を受け継いだ者の中からノーベル賞を受賞する研究を成し遂げる者があと2人は出るであろう」と発言した。実際にも彼の愛弟子の一人であった戸塚洋二はノーベル物理学賞の有力候補として注目されていたが、戸塚は2008年にがんで亡くなり、受賞は叶わなかった。しかし、同じく愛弟子の一人である梶田隆章が2015年にノーベル物理学賞を受賞し、戸塚が果たせなかった悲願を実現させている。 東大物理学科でも成績は悪かったが朝永振一郎に推薦状を書いてもらい、フルブライト奨学生としてアメリカ合衆国・ロチェスター大学博士課程へ留学。ロチェスター大学では留学生手当てが少なく生活が苦しかったが、博士号 (Ph.D.) を取得し博士研究員として大学に在籍すると給与が倍増されると聞き、1年8ヵ月で博士号を取得した。1年8ヵ月での博士号取得はロチェスター大学での最短記録であり、この記録は現在でも破られていない。 大学院生時代に、当時、神奈川県横須賀市にあった栄光学園にて物理の臨時講師を担当した。「この世に摩擦がなければどうなるのか」との質問を生徒に出題。摩擦がないと鉛筆の先が滑って答案は書けない、それ故に正答は「白紙答案」。解答を記入すると不正解になる奇問・難問を出題した。 逸話. アメリカでの研究生活が長く、アメリカと日本の大学における研究の環境について「アメリカでは偉い先生が間違ったことを言っても、それはおかしいと言える環境がある。しかし日本では偉い先生が間違ったこと言っても、学生は萎縮してしまい何も言えない。」と答えている。 東京大学本郷キャンパスの理学部1号館には小柴昌俊のノーベル賞受賞を記念して「小柴ホール」が設置された。 研究室の学生たちからは、『親分』と呼ばれる。 趣味・嗜好. 趣味はクラシック音楽で、モーツァルト愛好家である。また、ゲームソフトの『ファイナルファンタジー』を好んでプレイしている。
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徳田ザウルス
徳田 ザウルス(とくだ ザウルス、本名: 徳田 肇(とくだ はじめ)、1958年12月1日 - 2006年3月23日)は、日本の漫画家、3DCGイラストレーター。神奈川県横浜市出身。J-Mac理事。 人物・略歴. 大のマシン好きが高じて自動車販売業者に勤務していたが、漫画家を志し退職。愛車もチョッパーバイクやシボレーのコルベット、フリートラインなどを好んで乗っていた。 1980年代、桜多吾作のアシスタントを務めた後、当時の月刊コロコロコミック編集部が用意した漫画家用執筆室を利用する常連漫画家志望者の1人として、様々な作家の原稿を手伝っていた。またコロコロ内の特集記事ページでイラストカットを手掛けることもあった。 1987年には以下の出来事が集中する。 1992年1月28日に急病で倒れ、35日間の意識不明、20日間の危篤状態になり、左足に麻痺が残る。連載中だった『四駆郎』も休載。同年5月5日に復帰。発病前は野菜嫌いの偏食家で、牛丼の具のタマネギすら残すほどだったという。 その後も通院や養生をしながら様々な漫画やイラストを執筆し続けていたが、2006年3月23日未明に再び倒れ、同日午前3時5分、急性心不全のため横浜市内の病院で死去。享年47。葬儀は日本キリスト教会鶴見教会で行われた。 妻はイラストレーターの徳田じざべ。
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アントシアニン
アントシアニン()は、植物界において広く存在する色素である。果実や花に見られる、赤や青や紫などを呈する水溶性の色素群として知られるアントシアン()に分類される化合物の中で、アントシアニジン()がアグリコンとして糖や糖鎖と結びついた配糖体が、アントシアニンである。植物の抗酸化物質としても知られる。 色素. 植物の代表的な色素としては、比較的水溶性の高いフラボノイドとベタレイン、逆に親油性のカロチノイドとクロロフィル、合わせて4つの化合物群が挙げられる。これらの中でフラボノイドの中に、アントシアニンは分類される。高等植物では普遍的に見られる物質であり、花や果実の色の表現に役立っている。 構造. アグリコンであるアントシアニジン部位の B環(構造式右側のベンゼン環部分)のヒドロキシ基の数によりペラルゴジニン、シアニジン、デルフィニジンの3系統(表参照)に分類され、糖鎖の構成により様々な種類がある。B環上のヒドロキシ基がメトキシ化 (−OCH3) された物(ペオニジン、マルビジン、ペチュニジンなど)も存在する。糖鎖の結合位置は、A 環(構造式左側の二環構造)の3位(荷電酸素原子から時計回りで数える。B環結合部位の下)と5位(同じくA環左半下側)のヒドロキシ基が主である。 発色団. 発色団とは、分子の化学構造の中で、光が当たった際に、特定の波長を強く吸収して、色を出す部分を指す。アントシアニンの発色団は、共役系が広がるアントシアニジンの部分であり、ここがヒトの可視光線の波長域の一部を吸収するため、ヒトの視覚では色が付いて見える。 pHの影響. アントシアニンの色はpH によって著しく変化し、一般に、酸性では赤っぽくなり、塩基性では青っぽくなる。したがって、ある種の酸塩基指示薬として機能する。中性溶液の色はペラルゴニジンは鮮赤色、シアニジンは紫色、デルフィニジンは紫赤色である。これが、例えばシアニジンの場合は、酸性条件下で赤色に変化し、塩基性条件下で青色ないしは青緑色に変化する。また、pH 11を超えた場合には、カルコン型への開環が起こる。 糖鎖の影響. アントシアニンの発色団は、基本的にアントシアニジンの部分である。しかし、それに結合した糖鎖も色に影響を与える場合がある。例えば、アグリコンであるアントシアニジンの、3位のみに糖鎖が付いた物よりも、3位と5位の両方に糖鎖の付いた物の方が、色の濃い傾向が見られる。 また、これはキキョウやトリカブトなどの花の例だが、これらの青や青紫の色は、アントシアニジンに結合している糖に、フェノール性の有機酸などが結合しており、この結合した有機酸が自身の色調を調整して出している色である。 共存する金属イオンの影響. アントシアニンの色は、共存する金属イオンの影響も受ける。これは、アルミニウム、マグネシウム、鉄などの様々な金属イオンとキレート錯体を形成し、その色調が変化するためである。 これはアジサイの例だが、アジサイの花はアントシアニンの色だけでなく、植物体中のアルミニウムの量によって影響を受ける事が知られている。酸性の土壌では、土壌中のアルミニウムが溶出し易く、結果として植物中のアルミニウムイオンの濃度が増すため、花は青味が強くなる傾向にあるのに対して、植物中のアルミニウムの濃度が低いと赤味が強くなる傾向が見られる。 生合成. アントシアニジンは、複数の段階を経て植物体内において生合成される。チロシンおよびフェニルアラニンを原料として、4-ヒドロキシケイヒ酸(4-クマル酸)を作る。つまり、ここまでは植物で行われるフェニルプロパノイドの生合成経路である。なお、4-ヒドロキシケイヒ酸が持つベンゼン環の部分が、アントシアニジンのB環である。4-ヒドロキシケイヒ酸にCoAを結合させて4-クマロイルCoAを作る。 これとは別に、マロニルCoAを3分子も併せて、フラバノン(ナリンゲニン)を合成する。ここで、アントシアニンの生合成経路は、他のフラボノイドの分岐する。ここからは、ロイコアントシアニジンを経由して、アントシアニジンは生合成される。さらに、必要に応じて、糖が結合される。 利用. 色を利用して(主に布の)染料や食品の着色料として利用されてきた。アントシアニンは食用植物に普遍的に存在する物質であり、飲食した場合でも比較的安全性は高いと考えられる。 アントシアニン類を研究する上で、分離には主に高速液体クロマトグラフィーが用いられ、個々のアントシアニン類の特定には主に分光光度計が用いられる。 健康食品. フレンチパラドックスにより赤ワイン中のプロシアニジンが注目され、幾つかの研究が実施された。その1つ、有賀ら(2000)の報告によると、動物実験では抗酸化性に由来すると考えられる薬理作用が見出され、ヒトでは筋疲労を抑制し、運動による過酸化脂質の増加を抑制したとの実験結果が得られた。薬理作用は完全には解明されておらず、日本ではアントシアニンを薬効成分とした医薬品も認可されていない。ただし、欧米では代替医療が伝統的に認められているという社会背景から、医薬品として利用される物もある。 国立健康・栄養研究所によれば、俗に「視力回復に良い」「動脈硬化や老化を防ぐ」「炎症を抑える」などと言われているが、ヒトでの有効性・安全性については、信頼できるデータが十分ではない」とされている。その内訳は、血圧に影響がなしとの2016年のメタ分析、コレステロール値を改善するとの2016年のメタ分析、心血管リスク低下との2014年のメタ分析、食事由来の場合食道がんリスク低下との2017年のメタ分析、食事由来で上気道消化管がんと大腸がんのリスク低下したものの、その他は関連なしとの2017年のメタ分析、乳がんとの関連がないという2013年のメタ分析、その他個別のランダム化比較試験である。 72人と59人での偽薬対照クロスオーバー試験2研究では、暗順応と夜間視力の改善は見られず、光退縮後の視力の回復は早くなっていた。 2018年のメタ分析は、サプリメントでインスリン抵抗性の指標(糖尿病の指標)を改善することを発見した。2018年のメタ分析は、サプリメントで脂質プロファイル(脂質異常症の指標)を改善することを発見した。 ブルーベリー中のアントシアニンは、微生物を利用した醗酵処理を行うと29パーセント減少し、殺菌処理を行うと46パーセント減少した。 育種的利用. 植物育種学において、これまで存在していなかった花色の品種を育成する目的の基礎研究としてアントシアニンが研究されている。これらの研究の応用では、青いキクや青いバラや青いカーネーションが作出された。これらはデルフィニジン生合成に関与する酵素 flavonoid 3',5'-hydroxylase の cDNA をカンパニュラやペチュニアやパンジーから単離して、遺伝子組換えによって組み込み、発現させて達成された。
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近鉄
近鉄
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池澤夏樹
池澤 夏樹(いけざわ なつき、1945年7月7日 - )は、日本の小説家・詩人。翻訳、書評も手がける。日本芸術院会員。 文明や日本についての考察を基調にした小説や随筆を発表している。翻訳は、ギリシア現代詩からアメリカ現代小説など幅広く手がけている。 各地へ旅をしたことが大学時代に専攻した物理学と併せて、池澤の作品の特徴となる。また、詩が小説に先行していることも、その文章に大きな影響を与えている。 声優の池澤春菜は娘。 来歴. 北海道帯広市出身。マチネ・ポエティクで同人だった原條あき子(山下澄、1923年 - 2004年)と福永武彦の間に、疎開先の帯広で誕生した。1950年、両親が離婚し、1951年母に連れられて東京に移る。母はその後再婚して池澤姓を名乗ったため、池澤は実父について高校時代まで知らなかったという。父方の大伯父に天文学者で理学博士でもあった海軍少将(水路部員)の秋吉利雄、又従兄に立教大学名誉教授の秋吉輝雄がいる。 都立富士高校卒業後、1964年に埼玉大学理工学部物理学科に入学。1968年中退。ハヤカワミステリの短編やテレビ台本、『リーダーズダイジェスト』の記事などを翻訳。 ロレンス・ダレルの弟のナチュラリストであるジェラルド・ダレルが少年時代を回顧した、ギリシアを舞台にした『虫とけものと家族たち』『鳥とけものと親類たち』『風とけものと友人たち』を1974年から翻訳。これがきっかけで、1975年にギリシアに移住、3年間同地で過ごす。 『ユリイカ』の当時の編集長・三浦雅士の誘いがきっかけで、『ユリイカ』に詩を掲載。帰国後、初の詩集『塩の道』を出版。1979年より『旅芸人の記録』(監督テオ・アンゲロプロス)の字幕を担当、これがきっかけでアンゲロプロスの作品の字幕を担当する。 1984年5月号『海』に長編小説「夏の朝の成層圏」を発表、1987年中央公論新人賞を受賞した小説「スティル・ライフ」で、1988年に第98回芥川賞を受賞。 1993年に沖縄に移住。2005年にフランスのフォンテヌブローに移住。2009年に北海道札幌に移住。「ぼくが生まれて育ったのは北海道である。梅雨がないことで知られるとおり、最も乾燥した土地だ。フランスを離れて日本に帰ろうかと思った時、同じ空気の中に住みたいと思って、札幌に決めた。ここの今日の湿度は六八パーセント。やっぱり乾いている。」と『週刊文春』にて述べている。 小説では『マシアス・ギリの失脚』で谷崎潤一郎賞、『花を運ぶ妹』で毎日出版文化賞、『すばらしい新世界』で芸術選奨、『静かな大地』で親鸞賞などを受賞。また、随筆では『母なる自然のおっぱい』で読売文学賞(随筆・紀行部門)、評論では『楽しい終末』で伊藤整文学賞(評論部門)を受賞。2007年紫綬褒章受章。 『むくどり通信』シリーズなどの随筆もある。2010年、北海道新聞や中日新聞、東京新聞、北陸中日新聞、西日本新聞及び中国新聞に、小説「氷山の南」を連載。 2001年9月11日アメリカでのアメリカ同時多発テロ事件の直後から『新世紀へようこそ』というメールコラムを100回にわたって発信し、その後メールコラムは『パンドラの時代』、『異国の客』へと移っている。2002年11月にはイラクを訪れ、現地の普通の人々の暮らしを伝える『イラクの小さな橋を渡って』(写真・本橋成一)を緊急出版した。 池澤の個人編集の河出書房新社の『池澤夏樹=個人編集 世界文学全集』全30巻が2007年11月より刊行された。 小説や評論が国語の教科書など教育現場において採用されることも多く、『スティル・ライフ』は2002年度の大学入試センター試験国語I・国語IIの追試験問題で出題された(過去問題集では池澤の意向で文章は省略されている)。 2011年第145回をもって、1995年第114回から務めた芥川賞の選考委員を辞任。 2012年現在、谷崎潤一郎賞、読売文学賞選考委員。 2014年8月1日より、北海道立文学館館長に就任。同年10月、過去に元従軍慰安婦の偽証言を報じた北星学園大学非常勤講師植村隆の解雇に反対する「負けるな北星!の会(マケルナ会)」を結成。「たくさんの人が一人の人を非難している。その非難に根拠がないとしたら、もっとたくさんの人が立ち上がってその人を守らなければならない。」と発言した。 2020年8月から2022年1月まで、大伯父・秋吉利雄の伝記小説『また会う日まで』を朝日新聞に連載。 現代世界の十大小説. 『現代世界の十大小説』(NHK出版新書 2014年)でサマセット・モームの『世界の十大小説』から60年後に、十作を選んでいる。
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GC
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FTP
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12月6日
12月6日(じゅうにがつむいか)は、グレゴリオ暦で年始から340日目(閏年では341日目)にあたり、年末まであと25日ある。
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2チャンネル
2チャンネル(英語:2 (two) channel/2ch、にチャンネル、ツーチャンネル)
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1877年
他の紀年法. ※檀紀は、大韓民国で1948年に法的根拠を与えられたが、1962年からは公式な場では使用されていない。
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ラオス
ラオス人民民主共和国(ラオスじんみんみんしゅきょうわこく、、)、通称ラオスは、東南アジアのインドシナ半島に位置する共和制国家。ASEAN加盟国、通貨はキープ、人口約733万人、首都はヴィエンチャン。 ASEAN加盟10カ国中、唯一の内陸国。面積は日本の約63%に相当し、国土の約70%は高原や山岳地帯である。北は中国、東はベトナム、南はカンボジア、南西はタイ、西はミャンマーと国境を接する。マルクス・レーニン主義から市場経済に移行したが、ラオス人民革命党による一党独裁が続いている。 概要. 1353年にラオ人最初の統一国家であるランサン王国が成立。18世紀初めに3王国に分裂。1770年代末に3王国はタイに支配されたが、1893年にフランスがタイにラオスへの宗主権を放棄させて植民地化し、1899年にフランス領インドシナ(仏印)に編入された。この時に現在の領域がほぼ定まった。第二次世界大戦中の日本軍による仏印進駐や第一次インドシナ戦争などを経てインドシナ半島におけるフランス植民地体制が崩壊過程に入る中で1949年にフランス連合内でラオス王国として独立、ついで1953年に完全独立した。その後パテト・ラオなどの左派と王政を支持する右派、中立派に分かれてラオス内戦が発生したが、ベトナム戦争後に右派が没落し、1975年に王政は廃され、社会主義体制のラオス人民民主共和国が成立した。 その政治体制はラオス人民革命党(パテト・ラオの政党)による一党独裁体制である。『エコノミスト』誌傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる民主主義指数は世界155位と後順位で、「独裁政治体制」に分類されている(2019年度)。また国境なき記者団による世界報道自由度ランキングも172位と後順位であり、最も深刻な国の一つに分類されている(2020年度)。 人権状況についてヒューマン・ライツ・ウォッチは、人民の基本的自由が著しく制約されていること、労働権が不在であること、薬物使用の疑いがある個人を起訴しないまま人権侵害が横行する薬物常用者拘留センターに拘禁していること、活動家を強制失踪させていることなどを問題視している。 経済面では1975年以降、社会主義計画経済のもとにあったが、ソビエト連邦のペレストロイカやベトナムのドイモイの影響を受けて1986年から「新思考」(チンタナカーン・マイ)政策と呼ぶ国営企業の独立採算制、民営企業の復活など市場経済化への経済改革を行っている。しかし経済状態は厳しく、国連が定める世界最貧国の一つである。また、中華人民共和国が主導する経済圏「一帯一路」に参加しており、中国ラオス鉄道に代表されるインフラ建設などが進んでいるが、債務を返済できなくなる「債務のワナ」に陥ることも懸念されている。 外交面では王政時代の1955年に国連に加盟し、1997年に東南アジア諸国連合(ASEAN)に加盟。1975年に社会主義体制になって以降ベトナムとの外交を軸にしてきたが、2009年以降中華人民共和国との外交を強化している。 軍事面では徴兵制度が敷かれており、ラオス人民軍の兵力は2.9万人(2020年)ほどであり、軍事費は日本円にて約30億円(2016年)ほどである。正規軍の他にも、地方防衛用の民兵である自衛隊が10万人いると言われる。 人口は、2018年のラオス計画投資省の発表によれば701万人。住民はタイ諸族の一つであるラオ人が半数以上を占め、最も多いが、他にも少数民族が多数暮らしており、ベトナム人や中国人なども住んでいる。 地理としてはASEAN加盟10か国中唯一の内陸国で、面積は日本の約63%に相当し、国土の約70%は高原や山岳地帯である。その間をメコン川とその支流が流れている。国土は南北に細長く、北は中国、東はベトナム、南はカンボジア、南西はタイ、北西はミャンマーと国境を接する。 国名. 正式名称はラーオ語でສາທາລະນະລັດ ປະຊາທິປະໄຕ ປະຊາຊົນລາວ,(ラテン文字転写: "Sathalanalat Paxathipatai Paxaxon Lao" 読み: サーターラナラット・パサーティパタイ・パサーソン・ラーオ)。サーターラナラットが「共和国」、パサーティパタイが「民主主義」、パサーソンが「人民」、ラーオが「ラーオ族」を意味する。 公式の英語表記は (ラウ・ピープルズ・デモクラティック・リパブリック)。ビザなどでは「Lao P.D.R」と略される。通称は Laos(ラウス、または、ラオス)。 日本語表記はラオス人民民主共和国。通称はラオス。日本での漢字表記は羅宇、老檛。一方、中国国内では「老撾(, )」と表記し「老」と省略するが、台湾、香港、マレーシア、シンガポールでは「寮國(, )」と称し、「寮」と省略する。ラオス華人の間では「寮」が広く使われており、ヴィエンチャン市内には中国語学校の名門「寮都学校」がある。また、日寮や寮華などの略称を冠する団体・企業は、ラオス国内外を問わず多数存在する。 歴史. ラーンサーン王国. ラオスの歴史は、中国南西部(現在の雲南省中心)にあったナンチャオ王国(南詔)の支配領域が南下し、この地に定住者が現れた時代に始まる。王国滅亡後の1353年に、ラーオ族による統一王朝ランサン王国がにより建国。1551年に即位したセタティラート王の時代には、首都をヴィエンチャンに移し、その勢力は現在のタイ北東部やカンボジア北部にまで及んだ。ラーンサーンとは「100万のゾウ」という意味である。昔、ゾウは戦争の際に戦車のように戦象として使われていたので、この国名は国の強大さを示し、近隣諸国を警戒させた。 17世紀には西欧との交易も開始し、ヴィエンチャンは東南アジアでも有数の繁栄を誇った。しかし18世紀にはヴィエンチャン王国、ルアンパバーン王国、チャンパーサック王国の3国に分裂。それぞれタイやカンボジアの影響下に置かれ、両国の争いに巻き込まれる形で戦乱が続いた。 フランス植民地支配. 19世紀半ばにフランス人がインドシナ半島に進出し始めた頃には、ラオスの3国はタイの支配下にあった。が、ラオスの王族はフランスの力を借りて隣国に対抗しようとし、1893年に仏泰戦争が起こる。その結果、ラオスはフランスの保護国となり、1899年にフランス領インドシナに編入された。ルアンパバーン王国は保護国、それ以外の地域は直轄植民地とされた。 第二次世界大戦中は日本が仏ヴィシー政権との協定によりフランス領インドシナを占領した(仏印進駐)。大戦末期の1945年3月には日本がラオスの地に軍を入れてフランスの植民地支配を排除し、ラオスは1945年4月8日に日本の協力下で、独立を宣言をした。 だが大戦後、フランスは仏領インドシナ連邦を復活させようとしたことが原因で、1946年に第一次インドシナ戦争が勃発。1949年、ラオスはフランス連合内のラオス王国として名目上独立した。 独立と内戦. 1953年10月22日、フランス・ラオス条約により完全独立を達成した。独立後、ラオスでは右派、中立派、左派(パテート・ラーオ)によるラオス内戦が長期にわたり続いた。ベトナム戦争にも巻き込まれ、北ベトナム(ベトナム民主共和国)による南ベトナム解放民族戦線への補給路(いわゆるホーチミン・ルート)に使われた。1973年にベトナム戦争の一方の当事者であったアメリカ合衆国がベトナムから撤退。1974年、三派連合によるラオス民族連合政府が成立したが、1975年に南ベトナム(ベトナム共和国)の首都サイゴンが北ベトナム軍により陥落すると、同年12月に連合政府が王政の廃止を宣言。社会主義国のラオス人民民主共和国を樹立した。 東西冷戦と中ソ対立という国際情勢下で、ラオス人民民主共和国は内政・外交両面でベトナムと、それを支援するソ連の影響下に置かれた。 政治. 憲法の前文で「人民民主主義」を謳い、第3条では「ラオス人民革命党を主軸とする政治制度」と規定されているなど、マルクス・レーニン主義を掲げるラオス人民革命党による社会主義国型の一党制が敷かれている。政府の政策決定は、9人で構成される党の政治局と、49人で構成される党の中央委員会において決定される。特に重要な政策に関しては、さらに大臣の会議で審議される。 元首. 国家主席を元首とする社会主義共和制国家であり、国家主席は国民議会で選出され、任期は5年。職務の補佐・代行のために国家副主席がいる。 行政. 行政府の長は首相である。国家主席に指名され、国民議会で承認を受ける。任期は5年。副首相が3人。各省大臣、省と同格の機関の長により構成される。首相は、副大臣、県副知事、中央直轄市副市長、郡長を任免する権限を持つ。2006年7月、首相と政府を補佐し、閣議を準備し、政府に資料を提供する機関として、政府書記局が設けられた。 立法. 立法府は一院制の国民議会。132議席で、民選、任期5年。休会期間中には国民議会常務委員会が国政監視などの権限を代行する。議席数は、1992年選挙では85、1997年選挙では99、2002年選挙では109と増やされてきた。 2018年12月6日、日本の国際協力機構(JICA)の法整備支援を受けて起案された民法が成立し、2020年に施行した。 司法. ラオスは宗主国であったフランスから民事法制度を継承している。司法権は最高人民法院長官に委ねられている。 最高人民法院長官は常務委員会の勧告に基づき、国会によって選出されることとなっている。 軍事. 国防の中心はラオス人民軍が担う。他には民兵組織がある。2006年の国防予算は1,330万ドル。徴兵制で陸軍25,600人、空軍3,500人から成る。車輌・航空機等の装備は旧ソ連製のものを多く保有している。歴史的にベトナム人民軍と関係が深いが、中国人民解放軍との交流が活発化してきている。 地理. ラオスは、海と接しない内陸国である。国土の多くが山岳で占められており、隣国に比べて比較的森林資源が多く残っていた地域であるが、急激な森林破壊が問題となっている。国土面積の61%は二次林(2006年)。そして、この森林地帯でも多くの人々が生活している。原生林は、国土面積の6%である。 ビア山(標高2817メートル)が最高峰である。 メコン川. メコン川周辺には小さく平地が広がっている。メコン川はラオスを貫いて流れており、ミャンマーと、またタイとの国境をなしている。タイとの国境線の3分の2はメコン川である。また、国境として隔てるだけでなく、人や物が行き来する河川舟運にも利用されている。1866年にフランスは、雲南とサイゴンを結ぶ通商路としてメコン川を利用しようと探検隊を派遣した。探検隊は中国まで到達はしたが、カンボジアとラオスとの国境にあるコーンパペンの滝が越えがたかったので、通商路としての可能性は否定された。それでも今日(2000年代)、ヴィエンチャンと雲南・景洪(中国とラオスの国境にある)との間で物産を満載した船が行き来し、大切な交通路となっている。 メコン川の乾季と雨季の水位の差は、ヴィエンチャンで10メートルを超えることもある。乾季の終わりの4月頃には最低の水位になり、小さな支流では水がほとんどなくなってしまい、メコン川本流でも驚くほど水位が下がってしまう。しかし、5月の雨季とともに水量が増し、8 - 9月には自然堤防を越えるほどの水量になり、低地を水で覆うほどになる。 メコン川は栄養塩類が少ないが、雨季に洪水となる後背地・氾濫原の底土からの栄養塩類を受けられる。そのため藻類やプランクトンなどが多く発生し、草食性・プランクトン食性の魚類の藻場になっている。このようなことから川には魚が多く、周囲の人たちの漁場になっている。 環境. ラオスは森林破壊による環境の悪化が懸念されている国の一つに数え上げられる。 気候. ラオスは熱帯地域の一つであり、モンスーン(季節風)の影響により、同国には明瞭な雨季と乾季がある。気候は基本としてサバナ気候である。 地方行政区分. 地方に議会を設置しないで、県知事は国家主席が、郡長は首相が、それぞれを任命するという中央集権的地方行政制度をとっている。 首都ヴィエンチャンを含む、広域ヴィエンチャン行政区であるヴィエンチャン都(ナコーンルアン・ヴィエンチャン/Prefecture)と17県(クウェーン/Province)から構成される。以前はサイソムブーン特別区(ケートピセート・サイソムブーン)が治安上の理由から首相府の直轄下に設けられていたが、2006年に廃止された。その後、サイソムブーン特別区は県に昇格して復活した。 ヴィエンチャン都と県の下には100前後の村(バーン)から成る郡(ムアン)がある。ムアンにはラーオ語で「郡」の他に「街」という意味もあり、日本の市町村に相当するものだと考えられる。ヴィエンチャン都を除き、全ての県には県庁所在地となる郡があり、そこが県都とされている。 県都とされる郡の名称は「ポンサーリー郡」や「ルアンナムター郡」のように県の名前と合致する場合、「サイ郡」や「サマッキーサイ郡」のように県の名前とは全く異なる場合があるが、ラオス人の多くは他県のことであれば県の名称=県都(チャンパーサック県など一部例外はあるものの)であり、一般人で県都の名称を全て正確に覚えている人は少ない。 主要都市. ラオスの首都はヴィエンチャンで、主要都市にルアンパバーン、サワンナケート、パークセー(パクセー)などがある。 交通. 道路. 都市部以外の地域においては、幹線道路の多くが舗装されていない。 空運. 首都ヴィエンチャンにあるワットタイ国際空港には、タイ国際航空や中国南方航空などが国外から乗り入れている。国内の航空会社では、ラオス国営航空がワットタイ国際空港を拠点に国際線と国内線を運航している。過去にはラオス初の民間航空会社としてラオ・セントラル航空も事業に参入していたが、2014年に運航を停止した。 経済. 主要産業は、国内総生産(GDP)の34%を占める農業である。 2021年のラオスのGDPは190億ドル。一人当たりのGDPは2,595ドル。 国際連合による基準に基づき、後発開発途上国と位置づけられている。2018年時点で1日2ドル未満で暮らす貧困層は国民の18.3%。 1975年12月にラオス人民民主共和国が樹立され、急速な社会主義化を行ったものの、タイからの国境封鎖や、1975年と1976年の旱魃などにより、激しいインフレと農産物・日用品の不足を引き起こし、1979年には社会主義建設のスピードが緩和された。 1983年に再び社会主義化を目指すが、ソ連のペレストロイカの動きと呼応して1986年には市場原理の導入、対外経済開放を基本とする新経済メカニズムが導入された。 この間、ソ連やベトナムを中心とする東側諸国からの多大な援助に依存する経済構造であった。そのため、1989年から1991年にかけて東欧諸国で起こった共産政権の瓦解は、ラオスにとっても危機であった。この時期に価格の自由化を行ったことによって、激しいインフレと通貨キープが大幅に下落するなど経済は混乱した。 ラオス政府はIMFのアドバイスの下、経済引き締め政策を実施した。また、西側先進国との関係を改善し、国際機関や西側先進国からの援助が増大した結果、1992年には経済が安定した。 1997年7月に隣国タイで始まったアジア通貨危機はラオスにも大きな影響を与え、キープは対ドルだけでなく、対バーツでも大幅に減価した。 国内ではタイバーツが自国通貨のキープと同じように流通し、バーツ経済圏に取り込まれている。米ドルも通用するので、ホテルやレストランから市場や街の雑貨屋まで、この3つのどの通貨でも支払いができる。中国国境近くでは、人民元も通用する。 1997年にルアン・パバンの町が、2001年にはチャンパサック県の文化的景観にあるワット・プーと関連古代遺産群がそれぞれ世界遺産に公式登録されたほか、政府が1999年から2000年にかけてをラオス観光年として観光産業の育成に努力した結果、観光産業が急速に発達した。 観光のほか、国土の約半分を占める森林から得られる木材、ナムグム・ダムを始めとする水力発電の隣国タイへの売電、対外援助などが主な外貨源となっている。この中でも特に水力発電によってラオスは東南アジアのバッテリーと呼ばれている。 21世紀に入り、外国企業の投資促進のため、国内に経済特別区が設けられ、2012年には10か所となった。南部パークセー郡には日系中小企業向けの特区も開設されている。中国やタイなどの賃金水準が上昇する中、安い労働力を求める企業の注目を集めている。海外からの援助や投資により、2008年には7.8%の経済成長を実現している。 とりわけ隣の大国である中国の進出は目覚ましく、官民挙げて中国から業者や労働者がラオスに流入している。2007年には、ヴィエンチャンに中国系の店舗が集まるショッピングモールが出来た。また、首都には中国が建設した公園が完成し、ダム工事など主に日本が行ってきたインフラ整備にも進出している。 2012年の世界貿易機関(WTO)加盟により関税引き下げの動きが進んでおり、また、2015年にはASEAN経済共同体のメンバーとして域内の貿易が自由化することで、物流リンクの拠点としての位置づけを高める政策がとられている。 農業. 少ない人口が満遍なく分散して暮らすラオスでは、大部分の人は稲作を基盤とする農業を営んでいる。まず、自給米を確保して余剰分を販売し、現金収入とする。ラオス人の主食はもち米である。自給農業を基盤とした分散型社会である。ラオスでは、毎年約220万 - 250万トンの米が生産されている。雨季には稲作を、乾季には野菜等の栽培を行っている農家が多い。2005年の生産高は、米57万トン、野菜類77.5万トンである。労働人口の約8割が農業に従事しており、GDPは低いが食料は豊富で、飢餓に陥ったり物乞いが増えたりするといった状況にはない。「貧しい国の豊かさ」と言われるゆえんである。 稲作は、平野部で行われる水田水稲作と山地の斜面を利用した焼畑陸稲作とに大きく分けられる。水田は、小規模な井堰で灌漑し、親から子へと相続し、人々はそこに定着している。焼畑は太陽エネルギーと水循環がもたらす森林植生回復力に依存した農業であるため、土地への執着は少なく、集落内外での移住を人々はいとわない。、現金収入を得やすいパラゴムノキの栽培をする地域が現れている。 メコン川流域は降雨量に恵まれて土壌が肥沃なため、葉菜類の栽培も多い。パクセー市郊外のボーラウェン高原は良質なコーヒー、キャベツ、ジャガイモの産地であり、コーヒーはラオス最大の輸出農作物となっている。また、農薬や肥料の使用がされてこなかったことから、無農薬栽培の作物を育てて輸出する動きもある。 林業. ラオスの山林にはマホガニーやチークなどの木材が豊富だが、19世紀からフランスが徹底的に伐採した。マツが主に日本に輸出されている。ラオス高地のマツは樹齢数百年という巨大で良質なものが多く、年間3万立方メートルの山林が伐採されて日本へ送られる。2, 3級のクズ材は、ラオス国内とベトナムのバイヤーに売られる。マツとともに常緑森林が根こそぎ伐採されるため、保水機能が大きく損なわれて大きな問題となっている。 鉱業・エネルギー. ラオスの鉱業資源は未開発な段階にある。例えば、肥料の原料などに利用できるカリ岩塩の大規模な鉱床が発見されており、面積は30km2に及ぶ。スズ鉱床の埋蔵量は100億トンに及ぶと見積もられている。アンチモン、硫黄、金、タングステン、鉄、銅、鉛、マグネシウム、マンガンの鉱床も発見されている。 しかしながら、険しい山脈が縦横に広がる国土、未整備な交通インフラなどのため、2003年時点では、石炭(29万トン)、スズ(300トン)、塩(5000トン)に留まっている。唯一開発が進んでいるのは宝石であり、1991年にはサファイアの生産量が3万5000カラットに達した。 ラオスは落差が大きい河川が多い割には人口が少なく、工業の発展が遅れている。このため水力発電所の建設が相次ぎ、タイなどに電力を輸出している。ただ国内の送電網整備が遅れているため、売り先のタイから電力を輸入する矛盾も抱えている。 製造業. 内陸国であり、外洋に面した港を持っていない。メコン川は大型船も航行できる川幅はあるが、ラオス南部にコーンパペンの滝群があるため、外海から遡上できない。こうした物流面でのハンディは、外海に面した港湾を持つ周辺諸国との道路・鉄道整備により克服されつつある。このため、賃金上昇や人手不足に直面しているタイに比べて労働力が豊富で人件費が安い「タイ+1(プラスワン)」の対象国として、カンボジアやミャンマーともに注目されている。ただ現状では製造業は発展途上で、市場に並ぶ工業製品の大半はタイ製か中国製である。 かつて近代的な設備を備えた大きな工場は、ビールや清涼飲料水などを生産する国営のメーカー「ビア・ラオ」が目立つ程度であった。ラオスの酒と言えば米を原料とする焼酎ラオ・ラーオがあるが、生産は家内制手工業レベルにとどまる。伝統的な織物も名高いが、多くは農家の女性たちの副業として手作業により作られている。 観光業. 1986年のソ連のペレストロイカの影響を受け、ラオスでもチンタナカーン・マイ(新思考)と呼ばれる市場経済導入が図られた。これは、中国の改革開放、ベトナムのドイモイ(刷新)と同様の、社会主義体制の中に資本主義のシステムを取り入れようという試みである。共産主義政権樹立以降ほぼ鎖国状態にあったラオスであったが、チンタナカーン・マイ以降自由化と開放が進み、上記の経済の項目にある通り、政府がラオス観光年を設定しプロモーションを行って観光産業の育成に努力した結果、観光産業が急速に発達した。ルアン・パバンの町とワット・プーなどの2つの世界文化遺産や、ジャール平原、多くの仏教寺院などが年間300万人を超える外国観光客を呼び、外貨獲得の大きな産業となっている。プロモーションのため、日本では2007年9月23日-24日、東京の代々木公園でラオスの魅力を紹介する第1回ラオスフェスティバル2007が開催された。 国民. 2021年時点での人口は733万人であり、2000年以降は年10万人ペースで右肩上がりに着実に増加している。 人口密度は、1km2辺り24人。ちなみに、ベトナムは256人、タイは132人、中国・雲南省は114人、カンボジアは82人、ミャンマーは74人であり、ラオスは人口が少ないことが分かる。ラオスには、大きい人口を抱える広大な地域がない。たとえばベトナムの紅河デルタ、メコンデルタ、タイのデルタ、ミャンマーののような政治・経済の中心地になる地域がない。最大の人口を抱える首都ヴィエンチャンでも人口71万人である。 民族. 一番多いのは人口の半分以上を占めるラオ族(ラーオ族)であり、それに50程度の少数民族が続く。しかし、ラオス政府はラオス国籍を持つ者を一様にラオス人として定義しているため、公式には少数民族は存在しない。 1950年以降は次のように大きく3つに分けられており、それぞれの人口比率は60対25対15である。その区分の有効性は疑わしいが、この区分が国民の間に広まっている。 ラオス政府の定義するラオス人は住む地域の高度により、低地ラーオ族(ラーオルム、国民の約7割、ラオス北部の山間盆地)、丘陵地ラーオ族(ラーオトゥン、国民の約2割、山麓部に居住、水田水稲作と焼畑の両者を組み合わせ)、高地ラーオ族(ラーオスーン、国民の約1割、山深くに居住、陸稲・トウモロコシを焼畑で栽培)に分けられる。 実際には、フアパン県にカム族、タイデン族、タイダム族、モン族、青モン族、黒モン族、ヤオ族が、ウドムサイ県にはモン族が、 ポンサーリー県にはアカ族とタイダム族が、ルアンナムター県にはランテン族、黒タイ族、タイルー族、タイダム族、アカ族、イゴー族、ヤオ族、モン族が住んでいる。 このような標高による住み分け分布ができたのは、紀元前からモン・クメール系の人々がこの地域に暮らしていたが、9世紀頃からタイ系の人々が南下してきたことに端を発する。その後、清代末期の19世紀後半からモン・ミエン系やチベット・ビルマ系の人々が中国南部から移住してきた。漢人の支配・干渉を嫌い移住してきたと言われている。 言語. 各民族語が話されているが、公用語に定められているのはラオス語(ラーオ語)である。ラーオ語とタイ語は同一言語に属する個別の地域変種の関係(平たく言えば、ラーオ語とタイ語はそれぞれが互いに方言関係)にあるが、ラオスではタイからの影響力を遮断するため、ラーオ語の独立性を強調する傾向にある。 英語は、ホテルや旅行者向けのレストランなどではほぼ通じる。また、フランス式教育を受けた者や政府幹部、エリートなどにはフランス語も通用する。 婚姻. ほとんどの女性が夫の姓に改姓する(夫婦同姓)が、改姓しない女性もいる(夫婦別姓)。また、一夫多妻制が事実上公認されている。ラオスでは憲法と家族法では一夫多妻制の法的承認を禁止しており、一夫一婦制がこの国の主要な結婚形態であると規定している。しかし、一夫多妻制自体は違法とされているものの、一部のモン族の間では一夫多妻制が今でも慣習として残っていることから、罰則は軽いものとなっている。 宗教. 宗教は上座部仏教が60%、アニミズムやその他の宗教が40%であるが、しばしば仏教とアニミズムが混同されて信仰されていることがある。その他ラオス南部ではキリスト教も信仰されている。 19世紀まで続いていたラーンサーン王朝では仏教が国教とされていた。しかし、ラオス人民民主共和国成立後、仏教は特別な保護を受けなくなった。ただし、農村の地域コミュニティーと仏教寺院は密接な関係を保ち続けている。そのため、ラオス人民革命党も「党の理念・思想と一致する」と明言するなど、仏教との関係を意識している。 保健. 衛生環境. ラオスの人口の大部分は農村部であることから、衛生への投資が困難となっている。 1990年には、改善された衛生設備を利用できる農村人口が僅か 8% にしか満たなかった。2014年に実施された世界銀行調査のデータによると、ラオスはユニセフとWHOの共同監視プログラムに基づく『水と衛生に関する「ミレニアム開発目標(MDG)」』の目標数値を達成しているが、2018年の時点では、同国人口の内 約190万人が改善された給水を利用できず、240万人が改善された衛生設備を利用できない状態となっている。 社会. 黄金の三角地帯の一ヶ所である点から、に絡む問題が根深い面を遺している。 治安. 2023年04月17日時点で外務省は、「近年、首都ビエンチャン等の都市部を中心に、ひったくり、強盗、置き引き、侵入盗等の一般犯罪が多発しています。また、日本人が被害者となる空き巣、昏睡強盗、夜道でのひったくり事案も発生しています。また、2022年5月に、新型コロナウイルス防止対策によるラオスの入国制限が大幅に緩和されてから、日本人旅行者が被害者となるひったくりや睡眠薬強盗も発生していますので、注意が必要です。」としている。また、ラオスでは汚職が問題となっており、政府は汚職の抑制に努めて来ているものの、2012年におけるトランスペアレンシー・インターナショナル(TI)の腐敗認識指数によれば、合計 176ヶ国中160位にランクされている。 法執行機関. が主体となっている。公安省の管轄下にあるラオス国家警察は、かつての王国時代に設立されたが前身となっている。 人権. ラオス政府は、同国の少数民族であるモン族へ対し大量虐殺を行なったとして非難されている実情がある 。 NGOや人権活動家の報告によると、現地では個別の人権侵害事件が多数発生しているという。 一例としては、反体制的な政治的見解を表明したことによる投獄が国際人権団体によって大々的に報道されていた2人の元政府高官の不当な扱いを巡る事件が知られる。この人物らは3名で政府の政策に懸念を表明し、経済・政治改革を主張したとして1990年に逮捕されていた。 なお、元政府高官2人は2004年10月に釈放されているが、彼らと共に有罪判決を受けた3人目の反体制派の人物は1998年に獄中で死亡した。 また、1999年10月時点では、ラオス国内で平和的な経済、政治、社会の変革を求めるポスターを掲示しようとしたとして30人の若者が拘束された。その内5人は逮捕され、後に反逆罪で最長10年の懲役刑を言い渡されている。その後、1人は看守らの暴行により死亡し、1人は釈放された。生き残った3人は2009年10月までに釈放される筈であったが、行方不明の侭となっている。 人身売買. 2017年2月20日、裕福な中国人との偽りの結婚話で騙され、売春をさせられる女子高校生が増加していると地元メディアが報じた。以前より結婚や就職を隠れ蓑にしてタイへ少女を売る被害が報告されていたが、このタイルートに加え、中国ルートが増加していることが人身売買を調査しているNGO団体職員により判明している。被害少女の多くは高校2、3年生が主体で、結婚のために学校を中退する。中国人は首都ヴィエンチャンを含むラオス全土で少女らに声をかけており、ラオス政府も事態を把握している。旧来から存在するタイルートでは役人への賄賂が常習化し、一つのビジネスとなっているが、中国ルートも同様になっている可能性が高い。ラオス国内の人身売買の実態は公式の調査が行われず、正確な被害数すら把握されておらず、人権団体の調査も政府機関の不透明な対応で妨害されがちであるという。 メディア. ラオスの新聞は、英語新聞『ヴィエンチャン・タイムズ』("Vientiane Times") およびフランス語新聞『ル・レノヴァテュール』("Le Rénovateur") を含めて全て政府機関発行である。更に、公認通信社カオサン・パテート・ラオ (Khaosan Pathet Lao, Lao News Agency) が同名の英仏語版新聞を発行している。主なラーオ語新聞としては『パサション』("Pasaxon")、『ヴィエンチャン・マイ』("Vientiane Mai Newspaper") がある。 ラオスでは、ラオス国営ラジオ (Lao National Radio, LNR) の放送が中波、短波、FMにて行われている。テレビは、ラオス国営テレビ (Lao National Television, LNTV) が2つのチャンネルで放送されている。また、タイのテレビ放送を視聴している人も多い。 一方で国境なき記者団が発表している世界報道自由度ランキングの2009年版では、中華人民共和国に次いで低い169位に選ばれている。 インターネット. メッセージのやり取りにはWhatsAppやLINEといった外国製アプリの利用者が多いが、ラオスの通信会社シリチャルーンサイと政府が共同開発した「LoudChat」(ラウドチャット)のサービスが2022年4月に始まった。言論への監視・統制が行なわれているが、SNSでは政府批判が投稿されることもある。 文化. 音楽. ラオスの音楽文化は、カンボジア音楽やベトナム音楽など近隣諸国の音楽文化と多くの類似点が存在する。特にタイ音楽との類似点が多いことが知られる。 被服・服飾. 一般的な伝統衣装にはと呼ばれるものが存在する。シュアウト・ラオはラーオ語で「ラオスの衣装」を意味する、文字通りの名称である。他にはという漢服に似通った形状の衣装があり、この衣装は長袖の仕様となっている。 建築. ラオスを代表する歴史的建築物には仏教寺院であるワット・シェントーンが知られている。 世界遺産. ラオス国内には、ユネスコの世界遺産リストに登録された文化遺産が3件存在する。 スポーツ. ラオスには「」と呼ばれる伝統的な格闘技が存在する。 ムエラオはタイのムエタイやカンボジアのクン・クメールの原型とされている。 サッカー. ラオス国内ではサッカーが圧倒的に1番人気のスポーツとなっている。1990年にサッカーリーグのラオス・リーグが創設され、2013年にプロ化された。ペプシコーラがリーグに協賛しており、「ペプシ・ラオ・リーグ1」と呼ばれている。ラオスサッカー連盟(LFF)によって構成されるサッカーラオス代表は、これまでFIFAワールドカップやAFCアジアカップには未出場である。東南アジアサッカー選手権には12度出場しているが、全大会でグループリーグ敗退となっている。
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Garnet OS
Garnet OS(ガーネットOS)は、ACCESS Systems(旧PalmSource)が開発・ライセンス提供するPDA用オペレーティングシステム (OS)。旧称Palm OS。 製品シリーズの一覧. Palmデバイスを提供している(いた)メーカーと、製品ブランドの一覧。
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OCaml
OCaml( 、オーキャムル、オーキャメル)は、フランスの が開発したプログラミング言語MLの方言とその実装である。MLの各要素に加え、オブジェクト指向的要素の追加が特長である。かつては Objective Caml という名前で、その略として OCaml と広く呼ばれていたが、正式に OCaml に改名された。 概要. もとはCamlという名前の、MLの方言の処理系実装、および言語であった。この名前はcategorical abstract machine languageの頭字語に由来する(も参照)。やがて、categorical abstract machineよりも効率の良い抽象機械ベースに書き直され、クラスや継承などクラスベースオブジェクト指向の言語機能が追加され Objective Camlという名前になり、その後、略称だったOCamlを正式な名前とした。ウェブサイトの概要説明では「OCamlはCaml派生の言語の中で最も知られたものである」としている。もとの処理系も配布され続けており、Caml Lightという名前になっている。英語ではCamlはcamel(ラクダ)と同様に発音されており、アイコン等にもラクダを使っている。 MLの特徴の他に、関数型とオブジェクト指向の両方を併せもつことが特徴的である。ただしそのため、オブジェクト指向を利用した破壊的操作を伴うプログラムがかなり容易に書けてしまう。また、多相バリアント型という特殊なバリアント型により(通常のバリアント型については代数的データ型を参照のこと)、サブセットとスーパーセットの関係になっているバリアント型などを記述できるなどといった特徴もある。 処理系としての特徴は、関数型言語としてはかなり高速に動作することが挙げられ、gccでコンパイルされたC言語と互角かやや遅い程度と言われる。 関数型言語としては比較的アプリケーションの数が多く、例えばMediaWikiにおいてTeXの記述からHTML、MathMLおよび画像の数式を生成するプログラムもOCamlで記述されている。 Caml. Caml は OCaml の前身であるMLの方言とその実装である。現在も Caml Light という名前で配布され続けている。 MinCaml. MinCamlは、ペンシルベニア大学(当時)の住井英二郎がOCamlで実装した、Caml似のMLの小型版である。同作者により、コンパイラが OCaml 自身で書かれている。MinCaml は、2004年度の未踏ソフトウェア創造事業に採択された。 MinCaml コンパイラは教育目的での利用を主眼としている。わずか2000行前後のコードで書かれており、実装されている機能はMLのサブセットである。バックエンドはSPARCとx86に対応しており、ある程度の学習をすれば比較的容易に改造を行うことができる(実際、有志によってPowerPC用に出力できるバージョンも提供されている。バックエンドをLLVMに置き換えた例も報告されている。)。実際に東京大学理学部情報科学科などで教育目的に利用され、国内における OCaml および関数型言語の普及と理解に一定の役割を果たしている。 Moscow ML. CamlやOCamlのような方言ではなく、SML(Standard ML)の処理系の実装にCaml Light利用している。完全なSMLを実装する。 その他. OchaCaml など、研究用の改造のベースとして、規模の大きくなった OCaml ではなく Caml(Caml Light)を利用する例がみられる。 プログラム例. 以下の例は、プログラム自体としてはMLと比べ特別なものでもないし、オブジェクト指向を活用したものでもないが、OCaml を含む Caml では旧来のMLや Standard ML からの記法や演算子や名前の変更が多く、簡単なプログラムでもそのままではエラーになるものが多いので、ここでは OCaml のコードを示す。 特徴として、型推論の活用により、多くの場合に型の宣言が必要なく、一部の静的型付き言語にありがちな煩雑さがないことが挙げられる。 Hello World. Hello world の例を示す。以下のプログラム codice_2 は、 print_endline "Hello world!";; 以下のようにしてバイトコードにコンパイルされる。 $ ocamlc hello.ml -o hello 以下が実行結果である。 $ ./hello Hello world! クイックソート. クイックソートのコード例を示す。MLは多くの関数型言語と同様、再帰処理に秀でる。また、Haskell などにも見られるパターンマッチの機能がここでも使われている。 let rec quicksort = function | pivot :: rest -> let is_less x = x < pivot in let left, right = List.partition is_less rest in quicksort left @ [pivot] @ quicksort right チャーチ数. 以下は、ラムダ計算の教科書などに見られる、自然数ののコード例である。 let zero f x = x let succ n f x = f (n f x) let one = succ zero let two = succ (succ zero) let add n1 n2 f x = n1 f (n2 f x) let to_int n = n (fun k -> k+1) 0 let _ = print (add (succ two) two) チャーチ数"n"は、高階関数として表され、関数fと値xを受け取りxにn回fを適用する関数として定義されている。チャーチ数"n"を自然数"n"に変換するには、チャーチ数(実体は関数)に、インクリメントする関数と初期値0を渡せばよい。MLは関数型言語であるため、数学的なプログラミングの理論そのままに、記述することができる。
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Eiffel
Eiffel(アイフェル、エッフェル)は頑健なソフトウェアの生産に注力したオブジェクト指向プログラミング言語である。 概要. 1985年にバートランド・メイヤー()によって考案された。その文法はPascalを連想させるものである。Eiffelは静的な型指定を強く指向しており、かつ動的なメモリ管理(一般的にガベージコレクションにより実装される)を備えている。 少し前、オブジェクト指向の教科書的言語といえば、SmalltalkかEiffelか、という状況で、手続き型言語でのPascalのような存在であった。多重継承、ガベージコレクションといった特徴があるが、設計者によってライブラリのメンテナンスが重視されており、契約による設計("")の概念が全面に打ち出されている。同じくオブジェクト指向を取り入れた言語であるJavaほどは普及していない。Assertionなど、Javaが追いかけているところもあるが、インタフェースによる継承、GCあり、とかぶるところが多い。 また、C/C++のようにネイティブコードを直接生成するのではなく、C言語やJavaのコードを生成する、という特徴ももっている。 言語名の由来は、エッフェル塔ではなく、その設計者ギュスターヴ・エッフェルである。 基本構成. Eiffel のソースは以下のように記述する。 -- コメント class クラス名 inherit 継承元のクラス(継承しない場合は省略可) creation コンストラクタの宣言(コンストラクタが必要ない場合は省略可) メンバ変数、メンバ関数の記述 end Eiffel は「クラスとはオブジェクトの生成機である」という考え方が徹底しており、このため両者の概念を混同するようなクラス変数やクラスメソッドの機能は存在しない。このことは「クラスもオブジェクトの一種である」と考える Smalltalk とは対照的である。 また「クラス」に対する考え方も独特で、例えば Java ではソースファイルをコンパイルすると「クラスファイル」というファイルを作るのを見てわかるように、一般的には「ソースコード」は「クラスの設計図」という概念であるのに対し、Eiffel では「クラス」とは「ソースコードそのものである」という考え方である。コンパイルして生成されるファイルは「クラス(ソースコード)によって作られたインスタンス」という考え方であり、このため Eiffel ではメインルーチンに相当する処理をコンストラクタで行う。 コンストラクタはcodice_1下で宣言されたメンバ関数が使用される、このメンバ関数はどんな名称でも構わないが慣例的にcodice_2とする場合が多い。作成したクラスを使用する場合は x :(クラス名) !!x.(コンストラクタ名) でインスタンスを作成する(コンストラクタが指定されているクラスは上記の構文中で必ずコンストラクタを呼び出さなければならない)。 クラスの継承を省略した場合は ANY というクラスの継承クラスとして扱われる。入出力などのグローバルな機能は ANY クラス内で定義されており、各 Eiffel のクラスではこれらの機能の実装に関して考慮をする必要性がないようになっている。 なお、Eiffelはクラス名は全て大文字で書かなければならないという命名規則がある。 rename と redefine. Eiffel の特徴の一つとして、継承における細かい指定が可能ということが挙げられる。例えば class A feature method1 is io.put_string("Hello from A") io.new_line end end class B inherit A feature method1 is io.put_string("Hello from B") io.new_line end end というコードがあるとする(ioは標準入出力を扱うインスタンスで、ANYクラスのメンバである)。これは A というクラスを継承した B というクラスに同じ名前のメソッドがある場合である。このとき class C creation make feature a : A b : B make is do !!b a := b b.method1 a.method1 end end というコードを実行したとき。b.method1 はおそらく B で定義されたメソッドが動くと誰もが期待するだろうが、a.method1 で実行されるメソッドは A と B どちらで定義されたものだろうか?この場合の処理は言語によって異なっており例えばC++の場合は A で定義されたメソッドが実行され、Javaの場合は B のメソッドが実行される。すなわち言語によって動作が違うため作成者の勘違いなどによって混乱を招くおそれがある。 Eiffelでは実のところ、どちらが実行されるか以前に上記のような例ではコンパイルすることができないことになっている。すなわち Eiffelのメソッドは全てデフォルトでは継承不可である。しかしこれでは、あまりに制約が強すぎるため、同名のメソッドを定義する必要性があるときは、継承クラスの作成者がどちらを実行するかを指定することが出来る。 具体的には rename と redefine という機能があり、上記の例では A で定義されたメソッドを実行したい場合は class B inherit A rename method1 as method2 end とする。この場合クラス B では A のメソッドを method2 という名前に改名させて、名前の衝突を防いでいる。B のインスタンスでも、クラス A のインスタンスとして扱われた場合(上記の例のような場合)は A の method1 が実行され、クラス B のインスタンスとして扱われた場合は B のmethod1 が実行される。B のインスタンスとして扱われた状態で A の method1 を実行するには上記の例では b.method2 とすればよい。これらの改名による効果は継承先と継承元の他、多重継承時のメソッド同士の衝突にも使用できる。 逆に A のインスタンスとして扱われる場合でも B の method1 を実行したい場合は以下のようにする。 class B inherit A redefine method1 end この場合、クラス B はクラス A の method1 を継承時に破棄しクラス B で再定義することを示している。クラス B のインスタンスは A、B どちらで扱われても method1 はクラス B のものが実行され、クラス A の method1 はもはや実行されることは無い。なお再定義を宣言された method1 は必ずクラス B で再定義しなければならず、再定義していない場合はコンパイルエラーとなる。 このように、Eiffel ではクラスの継承時に継承クラスの作成者がメソッドの扱いを自由に設定することができる。 コンストラクタの非継承. Eiffel の特徴の一つとして多重継承をサポートしていることが挙げられる。 多重継承時に問題となるものの一つとして、継承した二つの(あるいはそれ以上)のクラスのどちらにもコンストラクタが定義されている場合、二つのクラスのどちらのコンストラクタが実行されるか?というものがある。Eiffel の他に多重定義をサポートしている C++や Python では継承元のコンストラクタの実行順に複雑な規則が導入されている。 Eiffelではコンストラクタは継承されないことになっている。このためコンストラクタの実行手順といったものは原理的に存在しない。どうしても継承元のコンストラクタを使用する必要がある場合は、継承時に rename でコンストラクタとして宣言されているメソッドを改名し、改名したメソッドをコンストラクタ内で実行することで実装できる。
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Sather
Satherはカリフォルニア大学バークレー校(UCB) と提携し、ICSI(International Computer Science Institute)によって開発されたオブジェクト指向プログラミング言語である。 言語仕様は、初期にはEiffelのサブセットであり、言語の基本的な枠組みや構文や表記もEiffelから大きく影響を受けている。Satherの名称もEiffel Towerに対し、カリフォルニア大学バークレイ校の構内にある、同校のシンボル的存在「Sather Tower」からとっている(塔つながり)。しかし、後には独自の拡張・工夫が、特に効率の面で多くなされている。 特徴. Satherは、ガベージコレクションを持ち、強く型付けされた、多重継承をベースにしたオブジェクト指向言語である。パラメータ化されたクラス、インタフェースの継承と実装の継承(include)の分離、動的ディスパッチ、イテレータ、高階手続き、例外処理、契約プログラミングなどの機能を持つ。 SatherはEiffelと同様にC言語にコンパイルされる。 pSatherはSatherの並行処理拡張版であり、分散処理にも対応する。
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Prolog
(プロログ)は論理プログラミング言語の一つであり、該当分野で最もよく知られている論理型言語の代表格である。主に人工知能研究や計算言語学との関連性を持つ。定理証明、エキスパートシステム、自動計画、自然言語処理とも繋がりが深い。一階述語論理と形式論理を基礎にして、事実群と規則群の表現および関係の観点に立った宣言型パラダイムに準拠しており、その関係に則った質問によって計算が開始されるという性質を持つ。 Prologは、1972年にマルセイユ大学のアラン・カルメラウアーとフィリップ・ラッセルによって開発された。フランス語の「""」がその名の由来である。Prologの誕生にはエディンバラ大学のロバート・コワルスキが考案したホーン節が大きく寄与している。カルメラウアーによる元祖版はマルセイユPrologと呼ばれている。その後、コワルスキの門弟のデヴィッド・ワーレンが1977年に改訂開発したエディンバラProlog(DEC-10 Prolog)が標準になってPrologは広く普及した。 概要. 1972年ごろにフランスのアラン・カルメラウアーとフィリップ・ルーセルによって考案された。 成立の事情から、 プログラムは論理式とみなされ、その実行は述語論理によって述語が定義された環境における定理証明に擬して解釈されることが多い。利用者は論理プログラミングの枠組みを、取り分け述語論理を学習することで、この枠組みに極めて忠実なこの言語の基礎的な構造のほとんどを理解できる。その言語仕様はこの枠組み以外には考案者たちも含めてそれ以上の拡張をほとんど行っていないため、他のプログラム言語とは異なり、学習しなくてはならない概念や用語もまた、述語論理のものだけでこと足りる。基本的に計算機科学の新しい概念や新しい手法とは無縁である。ただし、SWI-Prolog等の処理系では様々な機能拡張の試みが行われている。一階述語論理は型理論や操作的意味論の研究論文で多数用いられており、今後、再注目される可能性がある。 述語論理と論理プログラミング. のプログラムは一階述語論理に基づいてデータ間の関係を示す命題として記述され、処理系がそれらに単一化(ユニフィケーション)と呼ばれるパターンマッチングを施しながら、与えられた命題が成立するか再帰的手続きによって探索している。 プログラムの実行は述語集合が定義された環境の元で、質問することによってなされるが、これは反駁という述語論理的な証明過程を模して、処理系が用意する導出木と呼ばれるグラフをたどって解を得る過程である。 のもととなるこの演繹手法は導出と呼ばれ、自動定理証明の研究において 開発以前からよく知られていた。 は、導出において節を頭部が一つの命題からのみなるホーン節に限定したもので、この場合の導出をSLD導出(Selective Linear resolution for Definite clause)と呼ぶ。ホーン節に限定しているということは、つまり、Prolog は任意の述語をそのまま扱えるわけではない。Prolog が述語の形式をホーン節に限定した理由は、もし頭部に項の連言を認めるならば、導出時の計算量が爆発的に増大して、全ての解を得ることの保証が難しくなることが必至だからである。 述語論理を論理的な背景に持つことによって、Prolog のプログラムはその正しさを確認することが比較的容易である。同時に、プログラマは でプログラミングすることが何を意味するかを明確に理解した上で、プログラムを書いていくことができる。 非述語論理的な立場. 上記は の一つの解釈である。一方、 というプログラム言語を述語論理という枠にはめないで捉える立場もある。導出、単一化、非決定性、双方向性、関係データベースといったこの言語に独特の機能とその表現力、記述力に着目し、そのプログラム言語としての可能性を率直に評価しようとするものだ。 新たに を学びたいと思う人は、他のプログラム言語を全く知らなくても、ソフトウェア科学的な予備知識や概念に不通であっても、単一化という単純なルールをほとんど唯一の基軸として、パズル的な、あるいはゲーム的な感覚にだけ導かれて、プログラムを簡単に書き進むことができる。さらに、どの言語にも比して平坦で、平明な言語構造を持つ はラベル名(アトム、関数名、述語名)に適切な意味性を付与することにより、自然言語の領域にも接近したプログラミングが期待できるほとんど唯一の言語でもある。 十分述語論理的な教養を持った上で を学び、そのプログラムを書くならば、短期間で高度で安定したプログラムを書くことができる。しかし、それを前提としないでも、 は冒険的で、未知の領域に満ちたプログラム言語なのである。 実はこれらの主張は、述語論理的な主張に隠れて、これまであまり強調されたことがなかった。 このような立場や主張が生まれる背景には、 が期待されたほどにはソフトウェア革新の担い手になり得ていない理由が、その後の数理論理学の学問的な評価をもって、プログラム言語としての可能性を十分検証することを放棄して、定理証明といった狭い目的へ封じ込めようとする風潮を生んだことにある、という反省がある。そのことを踏まえて、 が述語論理から成立したことにこだわらず、実在するプログラム言語として自由な視点からこの言語を見直そうとするものである。 記号処理用言語・人工知能言語. は の資産の多くを継承して間違いなく記号処理用の言語であるが、人工知能言語として分類されることも多い。これは、人工知能の世界では述語論理が古くから理論的な柱の一つとなっているからである。述語論理を基礎とするトップ・ダウン式の問題解決と同じく述語論理を基礎とする の駆動機構の相性は当然良いため、人工知能研究に広く利用されてきた。特にエキスパートシステムで多用されるプロダクションシステムにおいては、ルールを自然に自ら動的に変更できる能力を持つことと、後ろ向き推論と呼ばれる推論が の導出過程そのものであることから、その最も主要な記述言語の位置を占めてきた。 宣言型言語. は一階の述語論理に対応することから論理型言語に分類される汎用言語であるが、その主張の一行一行を独立して論理式とほとんど等価な表現で行うことから、最も代表的な宣言型言語と見なされている。 のプログラム単位である述語の各節の本体に現れる質問単位である副目標数は平均5個以内と極めて少ない。この副目標と各節の頭部に現れる引数の組み合わせによって得られる関係が述語の意味を構成している考えられる。これが宣言型とされるゆえんである。 <頭部> :- <本体>. % Prologの節は頭部と本体によって構成される。 % 述語定義は複数の節からなる。本体は幾つかの副目標からなる。 % 副目標の全てが真となった時に節の宣言は成立する(節は真となる)。 述語名(引数_1,引数_2) :- <副目標_1>,<副目標_2>. 述語名(引数_1,引数_2) :- <副目標_3> 単一化. 単一化は1960年代の述語論理理論の発展の鍵となった概念であるが、 が述語論理に導かれて機械による自動証明を実現するためのプログラム言語として成立したことから、必然的にこの言語の必須の最も重要な機構となった。単一化は副目標(質問)と対応する定義節の頭部のパターンが完全に一致するか、調べることで、節の選択を可能にする。さらに、 の実行順序等の制御は単一化のからくりを利用してプログラミングされる。 簡単なからくりでかつ極めて強力な単一化であるが実行コストも大きい、すなわち実行速度が遅くなる原因となる。さらに、パターンとして認識することと引き換えに、引数での関数評価は不可能になった。独立して節の本体で式評価を記述しなくてはならないため、数値計算ではやや冗長になる。 これらの点は、単一化の強力さとのトレードオフの関係になっている。 動的型付け. 型付けは動的型付けに分類できるが、言語仕様の中に型概念は登場しない。上記の単一化、バックトラッキング、と論理変数の束縛においては独特のものがあり、その実行は型推論の実行過程に酷似している。既に はその引数の引渡し時に単一化という厳密なパターンマッチングを施すことに多大なコストを掛けた。単一化だけでプログラムをコントロールできる言語が であるといっても過言ではない。この単一化のみによる簡素で強力なプログラムコントロールの足を引っ張ることに成り兼ねない、型付けの強化は、 言語とその支持者によって受け入れられることはないだろう。 非オブジェクト指向言語. は言語による思考をモデル化して主語・述語といった意味での文中の述語を特に重視して記述する系である。この一点からも、対象物を中心に記述していくオブジェクト指向とは距離が大きい。述語論理以前にオブジェクトありきとする立場を一般には取らない。 いくつかの処理系では、オブジェクト指向言語としての拡張が行なわれているが、オブジェクトを中心に設計されることは、論理プログラミングを重視して記述される限りほとんどない。分類するならば、非オブジェクト指向言語に分類される。オブジェクト指向に拡張された言語としては が存在する。 オンメモリデータベース. 後に述べるが の述語はその構造が頭部と本体と分かれていて、本体はルールを意味するため、全体として、ルールを持ったデータベース、演繹データベースとして捉えることができる。これはPrologプログラム全体がデータベースであるということだから、データベースの表現としては最強のクラスに属する。一方、事実を表す本体のない(強制的に真)頭部のみの定義節による述語は関係データベースとその集合論的な性質で一致する。収集した情報を一つの述語に対して多数の頭部のみを持った節の集まりとして定義することにより、オンメモリ関係データベースを構築することが可能である。しかし、Prologをデータベース管理システムとして捉えた場合、 codice_1、codice_2、codice_3、codice_4、codice_5 という組込述語を持つこと以外には、管理機構としての特別の組込述語が用意されている訳ではなく、ディクショナリ管理などのための述語定義をユーザが追加する必要がある。 非決定性と双方向性. 関数型言語等、他のプログラミング言語と比較しての の特長は、上記、一階述語論理に基づくこと、単一化、データベース言語的性格の他に、非決定性と双方向性が挙げられる。 非決定性は、解が唯一とは限らない場合、処理系側から見てひとつの解に決定できない場合、外部からの選択の余地を与える。そういうことが当然可能なこととして述語は定義されていく。インタプリタトップではなく、導出を繰り返すプログラム内部にあっては、処理系側とした所を述語と置き換えて考えると、非決定性の述語の解を決定するのは、前方または後方に連接する質問(副目標)である。前方の副目標群から引数経由で与えられる情報によって副目標は一つの解を作り出すが、この解が真であるとするのは最終的に後方に連接する副目標である。この後方に連接した副目標が全て真となった場合に限り副目標は真となる。後方に連接する副目標のどれかが真にならなかった場合は、それが存在すればであるが別解を用意しなくてはならない。ここでも非決定性の述語、ここでは副目標から見ての解の決定権は、外部にあるということになる。 非決定性は導出の過程、取り分けバックトラックアルゴリズムと一体化しており、 プログラムの制御の根幹のひとつである。ただ、非決定性述語実行時に見られる論理変数の 束縛→解放→再束縛という遷移、すなわち一度束縛されたものが別のものに再度束縛されるということを好ましくないとする見方もある。 双方向性は、述語が実行された場合の返り値は真または偽だけであり、その代わりとして引数内の変数で値の授受を終始するのだが、このとき、入力として使われた変数が出力に、出力として使われていた変数が入力として使うことのできる述語となることがある。この性質を双方向性という。多くの場合、双方向性を持つ述語はそれ自体多義性を持つ。例えば codice_6 という3引数の述語は第一引数と第二引数に具体的なリストが来て呼ばれた時は、リストを結合する意味でよいが、第三引数がリストで第一引数と第二引数が変数の状態で呼ばれた場合その意味は、リストを分解する、がふさわしい。既に存在するリストを、それが結合されて存在したものと考え、それではどのように結合されていったか、あるいは、どのような組み合わせで結合されていったのかを、示していると解釈できる。 このような、双方向性は の述語自らがリバースエンジニアリング的開示能力を持ち、それを示していると捉えることができる。この性質は、Prologを含む論理型プログラム言語の持つ際立った特徴であり、プログラム作成時はもちろん、テスト、デバッグなどの検証の各段階でプログラムコードに対する見通しを向上させる。 プログラミングの難しさ. プログラマは引数の単一化、再帰/失敗駆動等のプログラムパターンの選択、非決定性、双方向性といった特長をできる限り生かすことなどに配慮しながら、述語の骨格を決めプログラミングを進める。しかし、これらの特長、性質は複合した場合には相当に複雑であり、制御上相反する部分も多々ある。 では、述語論理を逸脱して計算量/資源量/制御の調整に当たる述語「codice_7」(カット)を導入してこの問題に対処しているが、 プログラミングの難しさはこの調整部分に集中している。 歴史. 誕生. の性格上、その歴史には定理の自動証明の研究が大きく関係している。1930年にジャック・エルブランは自動定理証明やPrologのベースとなる数理論理学上の基本定理であるエルブランの定理を発表した。エルブランの論文には で必須の単一化アルゴリズムもすでに含まれていた。 1950年代以降、計算機上での定理証明の研究が活発になり、ギルモアのアルゴリズム(1960)やデービス・パトナムのアルゴリズム(1958,1960) 、プラウィツによる定理証明への単一化アルゴリズムの導入(1960)などを経て、1965年のロビンソンによる導出原理 や1960年代後半のラブランドによるモデル消去の証明手続きの成果からひとつの結実期を迎えた。その数年後の1971年マルセイユ大学のアラン・カルメラウアーとフィリップ・ルーセルのグループは自動定理証明システムとフランス語の自然言語解析システムとを組み合わせたコンピュータとの自然言語対話システムを作成していた。この際に自然言語解析システムも自動定理証明システムと共通の論理式という枠組みで構築できることに気が付き、論理式をそのままプログラムとして実行できる最初の を1972年に完成させた。これは数千年に及ぶ人類の叡智である論理学の成果をプログラム言語に置き換えたものと言えるが、現在の でプログラムの制御に使われるカットオペレータに相当する機能が最初から導入されるなど、現在の と同様、単なる定理証明システムではなくプログラミング言語として設計されたものだった。以下にその当時の プログラムの一部を示す。論理変数名の最初の文字が "*" で始まるなど、現在の とはシンタックスが異なる。 READ RULES +DESC(*X,*Y) -CHILD(*X,*Y);; +DESC(*X,*Z) -CHILD(*X,*Y) -DESC(*Y,*Z);; +BROTHERSISTER(*X,*Y) -CHILD(*Z,*X) -CHILD(*Z,*Y) -DIF (*X,*Y);; AMEN コワルスキと. 彼らグループに理論的な助言を与えていたエジンバラ大学のロバート・コワルスキとデービッド・H・D・ウォレンは汎用機 上にマルセイユ大学とはシンタックスが異なる処理系を作り上げた。これは後に と呼ばれることになるが、ISO 標準規格を含む今日動作する 処理系はほとんどがこの系統のシンタックスに従っている。 desc(X,Y) :- child(X,Y). desc(X,Z) :- child(X,Y),desc(Y,Z). brothersister(X,Y) :- child(Z,X),child(Z,Y),dif(X,Y). コワルスキはその後、インペリアル・カレッジ・ロンドンに移り、1979年に集大成ともいえる「」を著し、その後のこの言語と論理プログラミングの研究に決定的な影響を与えた。 コワルスキの活動と の存在によって、英国は 研究の中心地となった。エジンバラ大学のW・F・クロックシンとC・S・メリシュの著わした「」は長く のバイブル本として利用された。エジンバラ大学からSRIインターナショナルに転じたディビッド・ウォレンは1983年 の仮想マシンコードである(WAM)を発表した。この後の 処理系の実装は、一旦C言語などでこの仮想マシンコードを実装して、その上で のソースコードをこのマシンコードに変換するコンパイラを用意するという手順を踏むことによって、開発を簡素化し実装上の標準化を図ることが普通になった。日本の新世代コンピュータ技術開発機構の マシン PSI は1987〜1988年頃に開発された PSI2 からこれを採用したし、その後開発された 処理系の多くはこの方式に従った。 1976年にSRIに留学していた古川康一はカルメラウアーらの 処理系のリストを見つけ帰国時に電子技術総合研究所に持ち帰った。当時電子技術総合研究所で推論機構研究室長をしていた渕一博はこのリストを解析して 処理系を走らせ、ルービックキューブを解くプログラムを作成するなど論理プログラミングに対する理解を深めていった。 1978年MITに留学中の中島秀之が「情報処理」誌に紹介記事を寄稿して、 は日本でも広く知られるようになった。 新世代コンピュータ技術開発機構と. 1970年代終り頃、日本では通産省の電子技術総合研究所の渕一博を中心とするグループが論理プログラミングの重要性を認識して、日本のコンピュータ技術の基礎技術としてこれを取り上げることを提案する。これが最終的に1980年代の新世代コンピュータ技術開発機構の発足と活動につながった。総額約570億円の国家予算を約束されて1982年に新世代コンピュータ技術開発機構(')は活動を開始する。 を含む論理型言語はこの研究の核言語と位置づけられ世界的な注目を浴びることとなる。約10年間の研究活動中に と論理プログラミングの研究は急激に深化した。実際1980年からの20年間に をメインテーマにした日本語の書籍は約50冊発刊された。ICOT の研究員は積極的に Prolog の啓蒙に努め、講習会、チュートリアル、ワークショップを年に一度ならず開催した。 が主催したロジック・プログラミング・コンファレンスは1983〜1985年頃をピークに若い研究者達を刺激した。研究活動前半の期間では論理型言語の実用性を証明するために、マシンが設計され、三菱電機と沖電気によって製作され、 の他大学等研究機関に配布された。この個人用逐次推論マシン PSI の機械語 KL0 は単一化やバックトラックなど の基本的特徴を完全に備えていた。この KL0 によって、PSI のマイクロコードを制御した。KL0 を基礎として、オペレーティングシステム ' が設計され、これを記述するために、 にオブジェクト指向プログラミングを取り入れた ESPが近山隆により設計されて使われた。ESPは多重継承を特徴とする当時としては先鋭のオブジェクト指向言語であったが、後にカプセル化の不備などが指摘されて、今日あまり話題となることはない。しかし、OSを記述するという課題を通じて、論理型言語にオブジェクト指向言語的要素を加えることによって、可読性が高まりプログラム管理がしやすくなることが確認された。その反面、 のみでオペレーティングシステムを完全に記述してみる絶好の機会を逸したことも確かである。ESPはPSIを前提にせずに利用できるように、C言語で書き直したCESPが開発されたが、これが普及への起爆剤になることはなかった。後に述べるように、PrologのISO標準規格のモジュール仕様としてESPの採用が否決された1995-6年頃以降はほとんど利用されることはなくなった。 ここまで述べたように、Prologは によって持ち上げられた言語 との印象が強いが、 というプログラミング言語から見ての の影響は実は限定的だった。淵所長ら の主研究テーマは並列論理型言語にあり、研究後半では そのものからは離れて行くことになる。PSI に使用した電子基盤を利用して並列推論マシン PIM が製作されて、(GHC)に基づく並列演算処理を追加した KL1 が設計された。この環境に依存する形で、並列論理プログラム言語のKL1は知識プログラミング全般の研究に利用された。PSI と を使った研究も続けられはしたが、割り当てられた研究員の数は極めて少なかった。 の活動を総括して、知識プログラミング各課題において準備不足からくる未消化を指摘する向きが強いのだが、こと から見ての前半期の活動は、今日語られることも少ないが、極めて充実したものであったといえる。 の活動盛期の1984年京都大学の学生3名が研究課題として製作した がその性能の高さとアセンブラで記述されたことからくる高速性で世界を驚かせた。この処理系は 上で製品化されて の普及に大きく貢献した。 や末尾再帰の最適化など高い安定した性能で黎明期のパソコン上のビジネスソフトの基礎言語としての展開も期待されたが、16ビットの整数しか持たず、浮動小数点数も扱えない仕様であったため、この分野への展開は起こらなかった。この点はアセンブラで記述されて簡単には拡張できない点が裏目に出た。結果としてこの仕様の乏しさが、日本のビジネスソフトが知識プログラミングの水準との間に横たわる分水嶺を越えることができなかった原因の一つとなった。 1990年代とISO標準規格. 1990年代に入ると制約論理プログラミングが注目され処理系が多数誕生した。これは から見ると引数の論理変数間の関係(制約)を記述可能に拡張したものである。制約論理型言語は、変数評価に遅延実行などを持ち込むことが必要となるが、連立方程式をはじめとする多くの課題で より記述が柔軟になる。 の組込述語には引数が変数で渡るとエラーとなるものが多く、このため プログラマは変数が具体化されるように副目標の記述順序に気を配る必要がある。結果としてプログラミングに逐次性が生じる。制約論理プログラミングにおいては、後に変数が具体化されたときに検査されるための変数の間の制約を記述するだけで、この逐次性の拘束を解決して通過することができる。実はこの制約はPrologから見ても自然な拡張であり、むしろ の単一化が制約論理プログラミングの制約を「codice_8」のみに限定したものだと解釈することができる。しかし、簡素で逐次的な性格を強く持つ の処理系に慣れた利用者が、制約論理プログラミングの述語中に更に変数制約の宣言を追加しなくてはならない負担を、受け入れているとは言い難い。制約論理プログラム処理系が のそれに置き換わる気配は、2013年11月現在においてもない。 ISO の標準化作業は1987年頃から作業委員会(WG17)が作られ、日本委員も情報処理学会から15名ほどがこれに加わった。1995年 ISO標準規格がISO/IEC 13211-1 Prolog-Part 1: General Coreとして制定された。さらに、2000年にはISO/IEC 13211-2 Prolog-Part 2: Moduleとしてモジュール仕様が追加して規格化された。モジュール仕様については日本委員から、ICOTによって作成されたESP(Extended Self-contained Prolog)を以てその標準とする案が出されていたが、これは否決された。 ISO標準規格はエジンバラ仕様 を基調に既に一家をなしていた など有力ベンダと主としてヨーロッパの学者を主体にこれに日本などの委員が参加して作成された。この規格は現在 Prolog 処理系の製作者に指針を与え、大きな逸脱を心理的に妨げる役割を果たしているが、組込述語の個々の仕様ではベンダの意向が強く反映されたものの、全体としては最初に述べた論理学的立場を尊重して保守的で極めて小さな仕様となっている。そのため多くの 処理系はこの規格の述語を搭載しつつ、独自の拡張部分を修正したり削除することに消極的である。結果として個々の処理系の互換性の乏しさは残り、それは の弱点として認識されている。 JIS規格も一旦は2001年にJIS X 3013:2001が、"標題 プログラム言語Prolog―第1部:基本部"が要約JISとして発行されたが、2012年1月に何ら実効を見ること無く、「周知としての目的は終了した」として廃止された。 人工知能ブームと. 日本において、 の活動時期から1990年代前半に掛けては、いわゆる人工知能ブームの時期であり、人工知能研究への期待はこの時期再び異様に高まった。 マシンによる医療情報エキスパートシステムでの成果は、人工知能の研究の成果の一部は情報処理に於いても利用可能なのではないかとの夢を抱かせた。このような評価の中で は人工知能のアセンブリ言語的な位置づけを期待された。知識情報処理はこの水準の言語を基礎にその上側に築かれるべきだとの意味である。手っ取り早く利用可能な人工知能技術としてエキスパートシステムが選別され、これを支えるナレッジエンジニアの存在とそれを養成するための教育が必要とされた。 はその中心に存在した。日本も例外ではないが、日本以外の国では特に、 の名著は1990年代前半に刊行されている。これは、 の活動とは若干のタイムラグがあるが、この時期社会的に 人工知能向き言語としての に大きな期待が寄せられていたことの証しである。エキスパートシステムはビジネス分野において広範囲に応用可能な基礎技術であったが、このような低水準な分野への適用はあまり試みられず、この分野からの 言語への要請はほとんど見られないまま終った。 機械翻訳などの自然言語処理もまた人工知能の一翼を担う分野であるが、歴史的経緯から人工知能ブーム以前から、この言語に最も期待が掛けられた分野であった。しかし、左再帰問題の回避でトップダウン解析の明解さをいきなり殺がれた。さらに句構造文法への適用においては、 が得意とする、句構造に分解して意味に相当するグラフを形成することの他に、極めて膨大な辞書を構造体として定義する必要が展望された。この辞書作成は とは直接関係しないタスクであることから、次第に は句構造文法によるアプローチの前線から後退してしまった。統計的言語処理のアプローチでは、単一化等に多くの計算量を費やす は大量データを扱うのに不向きとされて、利用されることはほとんどない。自然言語処理のテキストの多くが を用いて解説されているにも関わらず、期待が大きかった割に実務的には、表面に現れている成果はIBM社のワトソン程度にとどまり、自然言語処理はむしろ 評価の足を引っ張る傾向にさえある。 以後の日本における衰退. 日本においては、 解散後数年を経て、論理プログラミングと は急激に下火となる。先にあげたコワルスキの成果があまりにも完成されたものでその研究成果の範囲を越えることが難しかったこと、歴史的にプログラム言語でありながら論理学からの逸脱を厳しく制限され、自由なアイデアによるプログラミング言語としての発展・展開が困難に見えたことも研究者・技術者を離れさせた。そして、人工知能ブームもまた去って行った。企業等で続けられた研究開発も発表される機会が産業応用シンポジウム(INAP)などに限定され、人々の目に の成果が触れることは極端に少なくなった。 の多大な研究成果がネット上に閲覧可能な状態で置かれたが、 言語の処理系はインターネット時代の技術・流れに乗れず、初心者・初学者が利用するためのネット上での情報も他の有力言語に比べて少なく、新しい利用者を惹きつけることができなかった。パソコンのオペレーティングシステムとして が一般に普及し始めると、初心者教育にウィンドウの部品の展開を題材とするのに適したオブジェクト指向言語に人気が集中し、 は動作の遅い外れた言語のイメージを持たれるようになる。さらに21世紀に入ると がクラス概念を持たないため、マイクロソフト社による アーキテクチュアの共通言語基盤(CLR)の対象言語から外され、この傾向に拍車をかけた。ついには枯れた言語というニュアンスを含んでではあるが、「化石言語」と揶揄されるまでに至ったのである。 今日. 盛時の勢いは失ったものの、 は各教育機関で主として論理学の教材として利用され続け、今日まで数万人の人が の講座を受講している。実務的に利用される機会が少ないにも関わらず、その素養を持つ人が大量に存在するという特異な位置にあるプログラム言語となっている。また、多くのプログラミング言語でその言語上にPrologインタプリタを制作してみることが難度の高い学習課題の一つとして採用され、その結果としてもPrologを理解しているプログラマは増加する傾向がある。 処理系. 多くの処理系は の基本機能以外に、制約プログラミングや並行プログラミングのための拡張機能や などの各種言語をライブラリとして含んでいる。
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地球外生命
とは、地球以外の惑星や宇宙空間など、地球の大気圏の外に生存している(またはそこ由来の)生命をいう。、ともいう。 知能の高低は問わず、知的生命でないものも含む。また、大気圏外にあって生存してはいても地球由来の生物(宇宙飛行士や宇宙船内の実験用生物)はこれを含まない。 英語(事実上の国際共通語)では、"extraterrestrial()" 、"extraterrestrial being" 、"extraterrestrial biological entity" 、"extraterrestrial life" 等々、様々な名称が用いられるが、日本語の「生命」「生命体」「生物」のもつ語意のようなものがそれぞれに異なるのと同様、少しずつニュアンスが異なる。ET(イーティー)という略語も頻用されるが、これは extra-terrestrial の頭字語である。EBE(イーバ)も略語で、こちらは extraterrestrial biological entity の頭字語。また、それが知能の低くない異星人(ヒトと相似する、異星の知的生命)であれば、"alien life" ともいう。 概要. 1970年代から天文学者が主に電波望遠鏡を用いて地球外の知的生命の活動の兆候を探索しているが、未だに地球外生命体の存在は確認されていない。 1787年ころ、イタリアの神父で博物学者のラザロ・スパランツァーニが、「そもそも地球の生命は地球外から来た」とする説を唱えていた。生命の起源が地球外にあるとする説は「パンスペルミア説」というが、こうした説(仮説)は、DNAの二重らせん構造を発見したフランシス・クリックも表明している。 十九世紀の観測. アメリカの天文学者パーシヴァル・ローウェル(1855-1916年)は、火星を観測した結果、その表面に「運河」などの人工的な建造物に見える巨大構造があると信じ、火星に文明が存在する証拠だと著作で述べた。サイエンス・フィクションの分野では火星に棲むタコ状(イカ状)の生命体(たこ型火星人)がさかんに描かれたが、これはイギリスの作家H・G・ウェルズが1898年に発表したSF小説『宇宙戦争』によるイメージの定着が発端であるとされる。 1959年、イタリアの物理学者とアメリカの物理学者フィリップ・モリソンが、地球外生命に言及する論文を学術誌に初めて発表し(※誌は『ネイチャー』)、「地球外に文明社会が存在すれば、我々は既にその文明と通信するだけの技術的能力を持っている」と指摘した。また、「その通信は電波で行われるだろう」と推論した。この論文は自然科学者らに衝撃を与え、一般人も知的生命体がこの宇宙に存在する可能性について大真面目に語り、様々な憶測、様々な空想が語られるようになっていた。 1960年にはフランク・ドレイクがオズマ計画に着手した。 ドレイクの方程式. 1961年にアメリカの天文学者フランク・ドレイクがドレイクの方程式を示し、画期的なことに、可能性・確率について具体的に数値で論ずることを可能にした。我々の銀河系に存在する通信可能な地球外文明の数を仮に「N」と表すとするならば、そのNは次の式で表せる、と述べたのである。 formula_1 ただし、各変数は下記の通りである。 1961年にこの式を発表した時、ドレイクは各値に関する推測値も併せて示し、 formula_2 と計算してみせた。つまりそうした文明の数を10個だと推定してみせたのである。これがまた自然科学者らに大きな衝撃を与えた。SFに登場する「タコ状の火星人」などのイメージの影響(悪影響)で、地球外生命を頭ごなしに否定していた自然科学者でも、この理詰めの式を見せられて、自分たちが思っていた以上に存在の可能性があるのかも知れない、とりあえず調べてみる価値はあるのかも知れない、論理的に考えても存在の可能性を期待してもよいのかも知れない、と考えるようになったのである。このドレイクの式の持つ説得力が、賛同者を増やし、地球外生命の探索のための政府予算を組むことにつながった。 生命の起源に関するパンスペルミア説では、そもそも宇宙には生命の種が満ちており、宇宙のあちこちで生命が誕生している、と考えている。 太陽系内. 太陽系内の知的生命への期待と観測・探査. ジョヴァンニ・スキアパレッリの火星観測に関する論文が発表された時代(1879年、1881年)から今日に到る長きに亘って、地球以外の太陽系内惑星にも生命が存在する(あるいは、存在した)のではないかとの推測が絶えたことはない。温度や大気の組成や引力の大きさなどを考慮したところ、特に生命体が棲んでいる可能性が高いと考えられていたのが火星であった。「火星に知的生命が棲んでいて地球にまでやってくる」といったストーリーのSF作品も盛んに創られた。 火星を観測した天文学者パーシヴァル・ローウェル(1855-1916年)は、スキアパレッリがイタリア語で "canali"(※『運河』の意もあるが、ここでは自然地形としての『溝』の意)と呼んだ地表面の直線的地形を英語で "canal"(運河)と解釈し、「人面岩」など人工建造物に見える巨大な構造体があるのにも気付き、これらがスキアパレッリの言うような自然地形ではなく人工物に違いないとの認識の下、文明の存在を示すものであろうとの説を、1894年にボストン科学ソサエティで行った講演で初めて唱え、次いで、1895年の自著 ""Mars" "(:火星)、1906年の自著 ""Mars and Its Canals" " 、1908年の自著 ""Mars As the Abode of Life" "(:火星 生命のすみか)にも記した。しかしながら、後世に行われたマリナー計画(1962-1973年)による探査と研究により、パーシヴァルの見ていたものが自然地形であった事実が判明し、火星人工物説を巡る論争は完全否定される形で決着した。知的生命の火星での現生は確認できず、パーシヴァルが指摘した文明の痕跡も否定されたことから、太陽系内における地球人以外の知的生命の存在可能性は限りなく低いと見做されるようになった。 地球にも熱水噴出孔付近など、摂氏400度を超え、太陽光も届かない過酷な環境でも生物が生きているという事実から、エウロパなど宇宙の星々にも、微生物などの地球外生命が存在するのではと語るNASAの研究者もいる。 太陽系内の原始的生命. 火星に知的な生命はいないにしても、原始的な生命に関しては、火星はかつて大気と液体の水を持っていたと考えられているので(という証拠とされるものが見つかっているので)、生命が発生していた可能性もある、と考えられている。 1970年代にNASAが送り込んだ火星探査機バイキング1号および2号は火星表土のサンプルを採取し、そこに生命活動の兆候が見られるか確認する試験を行ったが、結果は生命の存在を肯定するものではなかった。 1996年にギブソンらが行った報告では、火星由来の隕石に化石状の構造が認められ、生命の痕跡と考えられるとしている。ただしこの見解は統一見解には至らず、論争の的になっている(詳細はアラン・ヒルズ84001を参照)。 2003年にESAが火星に送り込んだビーグル2号はバイキング以来はじめての生命探査を目的とした着陸機だったが、大気圏突入後に交信が途絶えて失敗に終わった。 火星以外では、木星の衛星であるエウロパやガニメデ、土星の衛星であるエンケラドゥスなどが、原始的な生命がいる候補として注目されている。これらの天体は主に氷や岩石から出来ているが、地下には液体の水の層が存在しているのではないかと考えられている。水中にはバクテリアがいるかもしれない。また、土星の衛星タイタンも、厚い大気圏を持ち、表面に液体の炭化水素が存在していることなどから、生命の存在する天体の候補に挙げられている。 太陽系外. 原始的生命に関しては太陽系内での探索が続けられているが、知的生命に関しては太陽系内は望み薄と判断されるようになり、太陽系外での探索が続けられている。 NASAなどによって地球外知的生命体がいるのかどうかの探査(地球外知的生命体探査、頭字語:SETI)が行われている。現在行われている探査・研究活動はいくつかの手法がある。ひとつは、宇宙空間を通じてやってくる電波のパターンを受信し解析することで地球外の知的存在の活動を発見しようという試みである。特に近い星を絞り込んで行う手法もある。他の手法としては、地球から近い恒星の中から、生命の生まれる可能性がありそうな惑星を持つものを見つけ、その惑星に対して電波をこちらから送信してやり、反応があるかどうか調べる、という方法である。地球に最も近い恒星・惑星群の中には、地球から(わずか)数光年~数十光年程度の距離にあるものもあるので、実験として現実的な年数の間に生命からの反応・返信が得られるかも知れないという期待とともに探査が行われている。受信方式の探査を「パッシブ」、送信方式の探査を「アクティブ」と呼んでいる。
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20世紀
20世紀(にじっせいき、にじゅっせいき)とは、西暦1901年から西暦2000年までの100年間を指す世紀。2千年紀における最後の世紀である。漢字で二十世紀の他に、廿世紀と表記される場合もある。 歴史概説. 20世紀の人類の科学の発展は著しかった。飛行機、潜水艦、宇宙ロケットの開発により、人類の行動可能な範囲は、空へ深海へ宇宙へと拡大した。そして、北極点、南極点への到達などにより、地球上での人類未踏の地はほぼなくなった。科学の発展は産業の発展をもたらし、大量生産、大量消費の社会を生み出し、人々の生活を豊かにした反面、環境問題など多くの解決しなければならない、諸問題をも生み出した。さらに高度な科学技術は、極めて破壊力の大きい兵器をも作り出し、現在では人類を何度も滅亡させることの出来るほどの核兵器、化学兵器が存在する。 また、産業革命以降に増加のペースが早くなっていた世界人口は、20世紀に入り人口爆発とも呼ばれる急激な増加を見せた。20世紀初頭に約15億人だった世界人口は第二次世界大戦終結後の1950年に約25億人となり、それからわずか50年しか経ってない20世紀末には2倍以上となる約60億人にまで膨れ上がっている。 政治経済史. 帝国主義の崩壊. 20世紀は、2度の世界大戦とその後の冷戦、植民地の独立などにより、何度も政治的なパワーバランスの大きな変化が訪れた。19世紀までの西欧列強による植民地争奪競争と市民革命の流れは終了し、20世紀の初頭には列強による本国と獲得した植民地保護(帝国主義体制)を維持するために、勢力均衡による安全保障が図られるようになり、また市民革命や人権問題(白人至上主義等)などにおいては後まわしとされがちだった、社会改革・改良への要求が強まった。また日本の近代化の成功や日露戦争の勝利に刺激され、中国では辛亥革命 が起き、またイスラム圏の民族運動が盛んになった。 列強による勢力均衡が破れた時、第一次世界大戦が勃発した。この大戦は総力戦となり、ヨーロッパは疲弊し国際的な影響力が弱まった。また厭戦気分と専制政治への反感から、ロシア帝国では史上初の社会主義革命が発生し、世界最初の社会主義国家であるソビエト連邦が成立した。この大戦において敗戦国となったオーストリア=ハンガリー帝国、ドイツ帝国、オスマン帝国もまた、ロシア帝国同様に崩壊し、ローマ帝国以来およそ1900年以上の長きにわたって続いてきたヨーロッパにおける帝国支配の歴史は、名実共に崩壊の時を迎えた。その後の1930年代には世界恐慌が発生し、ここで行き詰った枢軸国と、植民地大国である連合国との間で第二次世界大戦が勃発した。 冷戦体制. 第二次世界大戦が終わると、2度の世界大戦を勝ち抜いたアメリカ合衆国は超大国となり資本主義国を勢力下においた。さらに黒人の公民権運動などによりアメリカの民主主義はより高度なものに発展した。一方、これまで数百年の間欧米諸国、それも第二次世界大戦の勝戦国の植民地となっていたインドや東南アジアでは独立運動が高まり、インドネシア独立戦争を火種に次々と独立していった。東南アジアでの独立運動は同じように、欧米の植民地だった中東やアフリカ大陸にも波及しアフリカの世紀と呼ばれる時期が訪れる。ソ連も大戦中に東欧諸国を衛星国化して超大国となった。両国は対立し冷戦と呼ばれる時代となった。 ヨーロッパ諸国は、アメリカや日本の経済力に対抗するため、EEC(欧州経済共同体)を発足し、さらにEC(欧州共同体)、EU(欧州連合)へと統合を進めた。ナショナリズムの高まりと西欧諸国の弱体化にともない、植民地の大半は独立し、第三世界と呼ばれるようになった。その後、東西の緊張緩和(デタント)の時期も存在したが、再び米ソ間は緊張状態に陥った。ソ連ではゴルバチョフがペレストロイカをすすめるとともに軍縮と緊張緩和につとめ、1989年12月、マルタ会談でジョージ・ブッシュ大統領と冷戦の終結を宣言した。しかし1991年にはソ連共産党の支配体制のゆるみが抑えきれなくなり、ソ連の崩壊を迎えた。東欧諸国ではソ連の支配が緩むと東欧革命がおきて自立し、冷戦時代は過去のものとなった。しかし、冷戦時代に表に現れなかった民族間の対立が露呈し、アフリカやバルカン半島などの各地で民族紛争が発生した。 世界経済の発展. アメリカ合衆国や、イギリスをはじめとした欧州諸国では、世界恐慌による経済危機を克服するため、公共事業による雇用確保や景気回復を図ったり、社会保障制度を構築する社会政策に力が注がれた。市場メカニズムを活用しながら、国家が経済に介入することによって、矛盾の克服が目指された(混合経済、大きな政府)。戦後、混合経済政策は社会自由主義政党や社会民主主義政党だけでなく保守政党にも採用されて各国に未曽有の経済成長をもたらし、世界的に経済規模は拡大を続けたが、オイルショック以降、国家にかかる財政的な負担が目立ち始め、多くの国では不況とインフレーションに見舞われた(スタグフレーション)。 そのため、英国や北米、日本などでは1980年代から民間の自発的な活力を期待して、各種の法的な規制を緩め(規制緩和)、公営企業の民営化による解体を行う新自由主義もしくは小さな政府と呼ばれる政策が新保守主義と結びついて推進された。一方、北欧などでは自発的な住民自治を期待して1980年代から政府機関の分権化をすすめ、環境などの新たな価値を取り込んで、福祉国家の再編成がはかられた。ソ連の崩壊で唯一の超大国となったアメリカは、世界をリードしグローバル化を進めることとなった。 重大なできごと・発明. 科学・技術. 20世紀科学の特徴としては、以下のような点があげられる。 ほか多数
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ビデオ
ビデオ(Video)""とは、狭義にはテレビジョン技術において、電気信号を用いた映像(映像信号またはビデオ信号)の処理技術と、それを利用した周辺技術全般に関わる用語である。広義では、コンピュータのディスプレイなど、テレビジョンで用いられるビデオ信号によらない画像を利用する機器全般に用いられる。基本的には、動画を扱う場合が多い。 通常、次のように修飾的に用いる。 ビデオ技術はアナログ信号を用いた技術のほか、デジタルビデオ技術を含む。また、ビデオ信号に必須の時間軸管理技術は、他のデジタル技術も応用した記録型DVDやハードディスクを用いたレコーダにあっても必須のものである。ビデオレコーダー 曖昧さ回避. 日本において一般的な文脈で単に「ビデオ」と呼んだ場合、ビデオテープ、特にVHSを指す用法も多く、VHSが普及していた時代(凡そ 1980 - 2000年代)によく見られた。
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2000年代
2000年代(にせんねんだい) 20世紀と21世紀に跨がる大きな区切りの年代であり、21世紀初頭において、00年代(ぜろぜろねんだい)や0(ゼロ)年代(ぜろねんだい)と呼称されることもある。この項目では、国際的な視点に基づいた2000年代について記載する。
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ノーベル物理学賞
は、ノーベル賞の一部門。アルフレッド・ノーベルの遺言によって創設された5部門のうちの一つ。物理学の分野において重要な発見を行った人物に授与される。 対象となる分野は大きく分けて、天文学や天体物理学、原子物理学、素粒子物理学の3分野であるが、気象学など地球科学からの受賞もある。 ノーベル物理学賞のメダルは、表面にはアルフレッド・ノーベルの横顔(各賞共通)、裏面には宝箱を持ち雲の中から現れた自然の女神のベールを科学の神(科学のゲニウス)が持ち上げる素顔を眺めている姿がデザインされている(化学賞と共通)。
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フリーウェア
フリーウェア ("freeware") または無料ソフトウェアとは、オンラインソフトの中で、無料で提供されるソフトウェアのことである。フリーソフト、フリーソフトウェアとも呼ばれる。これに対し、有料、もしくは試用期間後や追加機能に課金されるオンラインソフトはシェアウェアと呼ばれる。なお、フリーソフトウェア財団の主張する「自由なソフトウェア」を意味するフリーソフトウェア () とは意味が異なる。本項では便宜上、「フリーウェア」の語を無料のソフトウェア、「フリーソフトウェア」の語を「自由なソフトウェア」の意味で用いている。 フリーウェアは「無料で使用できる」ことに重点を置いた呼称であり、それ以外のライセンス条件、とくに変更・再配布などの条件はまちまちで、ソースコードが付属しないために変更ができなかったり、有償配布(販売)や営利利用の禁止など一定の制限が課せられているものも多い。プロプライエタリなフリーウェアは、開発力のあるユーザーにソースコードのダウンロードや所持、貢献などを許可しながらも、開発の方向性とビジネスの可能性を残すことができる。個人が開発しているフリーウェアは有料化されシェアウェアとなったり、HDDのクラッシュ、PCの盗難、ライセンス上の問題、その他の理由で管理できなくなり更新・配布が停止されることが多々ある。 用語の歴史. フリーウェア (freeware) という用語は Andrew Fluegelman による造語である。彼は自分の作ったPC-Talkという通信プログラムを配布しようとしたが、配布コストの関係上、伝統的な配布方法を使いたくはなかったので、新しい方法で配布を行い、そこでフリーウェアという言葉を使った。 ただし、実際には、現在でいう所のシェアウェア("shareware")の手法を用いてPC-Talkを配布した。ちなみに以前に彼は"freeware"という言葉の商標を持っていた(その後放棄している)。 日本における状況. 呼称、呼び替え. 日本のパソコン通信の黎明期の1980年代後半には、PC-VANやアスキーネットなどで、フリーウェアやシェアウェア、アメリカ産のパブリックドメインソフトウェア (PDS) などを集めて提供するコーナーを PDSと呼んでいた。雑誌や単行本等でのフリーウェアの紹介の際にも、便宜上、PDSと総称していた実態があった。PDSの本来の意味は、著作権が放棄されたソフトウェアであるが、著作権を放棄しているとは言い難いものも含めて PDS という風潮があり、これに対する疑問の声が1990年頃より上がるようになった。 1990年時点においても『PDS白書』『マッキントッシュPDS大図鑑part2』といった書籍が出版されている実情があったが、こういった状態を是正する動きが出て、PC-VANはPDSコーナーをOSL(オンライン・ソフトウェア・ライブラリ)と改称し、アスキーネットもpoolからPDSの名称を外した。 そして、無料で利用できるソフトウェアに対して、PDSに代わる言葉として、当初、一般的に使われるようになったのがフリーウェア、フリーソフト、フリーソフトウェアであった。 しかし、フリーウェアという名称は、その当時は商標として登録されている問題が指摘されたためあまり使われなくなり、日本ではフリーソフトやフリーソフトウェアと呼び換えられることが多かった。特に書籍やCD-ROMなどの商品に収録される場合は、商標上の問題からフリーウェアではなく、フリーソフトと呼ばれることがほとんどである。 一例として、FM TOWNSシリーズ向けに「フリーウェアコレクション」というCD-ROMを富士通が頒布していたが、Vol.4より「フリーソフトウェアコレクション」に名称が改められた。書籍でも1990年12月発行の『J-3100SS/GS定番フリーソフトウェア集』、1991年発行の『フリーソフトウェア派宣言』といったタイトルのものが出始めるようになった。 以後の日本国内のコミュニティにおいてもこれが一般に定着し、2006年現在に至っている。 なお、フリーソフトというのは説明の通り日本独自の呼び方(和製英語)で、英語圏ではこのような呼び方はしないので注意が必要である。 その一方で、フリーウェアとシェアウェアを総称する形でオンラインソフト(オンラインソフトウェア)という呼称がPC-VANや一部のメディアで使われることもあった。現在でも、窓の杜やVectorなどの著名なウェブサイトで積極的に使われているため、この呼び方はある程度普及している。 特徴. 日本におけるフリーソフト、フリーウェアには高性能なものが多くある。 その代表例がアーカイバのLHAや、CADソフトのJw_cadである。特にJw_cadは価格が数十万円する市販ソフトよりも操作性がよく、パソコン通信でサポートされる点が優秀とされ、同ソフトを収録したムックが4万部出荷される人気を集めた。そのためこれに脅威を感じたCADソフトメーカーの申し入れにより、1994年に日本パーソナル・コンピュータソフトウェア協会でフリーソフト検討小委員会が設けられ、Jw_cadについて意見が交わされる事態にまで至った。この他にもパソコン通信ターミナルソフトのWTERMなどを代表例として、パソコン雑誌の付録やムックに収録されて、市販ソフトを凌ぐものが少なからず存在した。 しかし、パソコンのOSの主流がMS-DOSだった頃には日本国内で圧倒的に多数だったフリーウェアも、Microsoft Windowsが普及する頃になると、ニフティサーブのシェアウェア送金代行サービスなど商用パソコン通信で決済が可能になったことや、開発環境を揃えるのに費用がかかるようになったため、高機能なソフトはシェアウェアの形で発表されることも多くなっていった。 セキュリティ問題. フリーウェアはフリーソフトウェアに比べ、有料化や開発停止になりやすく、セキュリティ的に安全な状態で使えなくなる場合が多い。特にlibpngやzlibなどの脆弱性が時々見つかっているが、それらを含むフリーウェアにおいてきちんと更新している例は少ない。フリーソフトウェアでは開発が停止しても、各ディストロのメンテナ等がセキュリティパッチを当てたりなどの対応をする場合が多いが、ソースコードが提供されていなかったり再配布が不可能だったりするフリーウェアにおいてそれは不可能である。 フリーウェアでは電子署名が無いのにHTTPやFTPなどの中間者攻撃が可能な方法で公開されているという場合が多く、安全にダウンロードできない場合が多い (対してミラーされることの多いフリーソフトウェアでは、HTTPSで電子署名の公開鍵を配って、ソフトウェアには電子署名して公開しているという場合が多い)。特に二次配布サイトや雑誌収録において改竄されていないかを確認するには意識してチェックサムなどを確認する必要があるが、一次配布サイトにおいてチェックサムが安全な方法で公開されていない場合も多い。 窓の杜やVectorのようなフリーウェア配布サイトでは脆弱性の検査までは行っていないが、ウイルス検査は公開前と感染の疑いがある場合のみに行われている。しかし、2006年9月27日にはVectorにおいて新型ウイルスによって大規模なサイト内ウイルス感染が起きている。また、ウイルス感染したソフトウェアを使うことで開発環境に感染し、その開発環境で開発したソフトウェアにまで感染することもあり、2009年夏にはDelphiを狙ったInducが感染を拡大し、Vectorや窓の杜の他、雑誌のDTMマガジンにまで感染したソフトウェアが収録されている。 類似の概念. フリーウェアと類似した形態をとるが、一定の対価を要求あるいは希望するものに、以下のようなものがある。 また、典型的なフリーウェアは、個人ユーザーが開発・配布するものが一般的だが、企業によって開発・配布されるものも少なくない。その多くは有用なものであるが、中には以下のようなものも存在する。